表紙 > 和訳 > 『後漢紀』献帝紀を抄訳;初平年間

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初平元年、山東が挙兵、天子が遷都

1月、劉弁の毒死、孫堅の挙兵、楊彪の反遷都

春正月辛亥,大赦天下。
侍中周毖、城門校尉伍瓊說董卓曰:「夫廢立事大,非常人所及。袁紹不達大體,恐懼出奔,非有他志也。今購之急,勢必為變。袁氏樹恩四世,門生故吏遍於天下,若收豪傑以聚徒衆,英雄因之而起,山東非公之有也。不如赦之,拜一郡守,則紹喜於免罪,必無患矣。」卓以為然,乃以紹為勃海太守。
癸丑〔一〕,卓殺弘農王。
〔一〕范書獻帝紀作「癸酉」。按正月壬寅朔,無癸酉,范書誤。

初平元年の春正月辛亥, 天下を大赦した。
侍中する周毖、城門校尉する伍瓊は、董卓にいう。「廃立は重要なことだ。袁紹はビビって逃げただけで、董卓に反抗したのでない。袁氏は4世にわたり恩をたて、門生故吏は天下にいる。もし袁紹が起兵したら、山東は董卓の領地でなくなる。袁紹を1郡の太守にして、袁紹の罪をゆるすのがよい」と。董卓は袁紹を渤海太守とした。
正月癸丑、董卓は弘農王の劉弁を殺した。

『後漢書』献帝紀では「癸酉」とする。正月は壬寅がついたちなので、正月「癸酉」はない、范曄の誤りである。ぼくは思う。范曄が誤りであっても、『後漢紀』が正解という保障はない。だんだん判明するが、『後漢紀』は暦によわい。


卓使郎中令〔李〕(王)儒進酖於王〔一〕,曰:「服藥可以辟惡。」王曰:「我無疾,是欲殺我爾。」不肯,強之。於是王與唐姬及宮人飲藥,王自歌曰:「天道易兮運何艱,棄萬乘兮退守藩。逆臣見迫兮命不延,逝將去汝兮往幽玄。」唐姬起舞,歌曰:「皇天崩兮后土頹,身為帝王兮命夭摧。死生異路兮從此乖,悼我煢獨兮心中哀。」因泣下,坐者皆悲。王謂唐姬曰:「卿故王者妃,勢不為吏民妻矣。自愛,從此與卿辭。」遂飲藥而死。帝聞之,降坐盡哀。
〔一〕據袁紀下文及范書、袁山松書改。又山松書言李儒為「弘農郎中」,按袁紀下卷曰:「儒前為弘農王郎中令」,則作「郎中」非。郎中令,武帝時更名為光祿勳,而王國如故。故此郎中令乃王國之官無疑矣。

董卓は、郎中令の李儒から、弘農王に鴆毒をすすめさせた。

『後漢紀』は王儒のしわざとするが、范曄や袁山松にもとづき「李儒」とする。袁山松は李儒の官位を「弘農郎中」という。『後漢紀』で「李儒はまえに弘農王の郎中令となる」とある。だから「郎中」はおかしい。前漢の武帝のとき、中央の郎中令を光禄勲と改名したが、王国には郎中令がのこされた。ゆえに李儒は、弘農王の郎中令である。
ぼくは思う。李儒がやたらと弘農王の劉弁にからむのは、弘農王に仕える官吏だったからか。なるほど。李儒は「王を殺すため」に郎中令になったのかなあ。

李儒「この薬は効くよ」。弘農王「私は病気なんてない。私を殺すつもりか」と。李儒は弘農王に強制した。弘農王と、唐姫および宮人は、鴆毒をのんだ。みずから、弘農王はうたう。唐姫が舞って歌った。

ぼくは思う。歌詞ははぶく。抄訳しても仕方ないし、かといって、味わってからコメントするほど、理解することができない。

弘農王の服毒をきいて、献帝は座を降りて、哀を尽くした。

是時冀州刺史韓馥、豫州刺史孔伷、兗州刺史劉岱、陳留太守張邈、勃海太守袁紹、東海太守喬瑁、山陽太守袁遺、河南太守王匡、〔一〕濟北相鮑信、後將軍袁術、議郎曹操等並興義兵,將以誅卓,衆各數萬人,推紹為盟主。紹自號車騎將軍,操行奮武將軍。
〔一〕盧弼三國志集解曰:「馮本、官本『內』作『南』,各本俱作『內』。范書、通鑑作『內』,袁宏後漢紀作『南』。按郡國志首列河南尹,百官志亦曰河南尹,蓋京尹別於外郡之太守也。此稱太守,自當作『河內』為是。武紀初平元年及夏侯惇傳注引魏書俱稱『河內太守王匡』。」盧說是。

このとき、冀州刺史の韓馥、豫州刺史の孔伷、兗州刺史の劉岱、陳留太守の張邈、勃海太守の袁紹、東海太守の喬瑁、山陽太守の袁遺、河南太守の王匡、

王匡の官職を、盧弼は「河内太守」とする。范曄と司馬光も「河内太守」とする。『郡国志』『百官志』では、河南尹があるから、河南太守はおかしい。河内太守がただしい。『三国志』武帝紀や夏侯惇伝にひく『魏書』でも、河内太守である。
ぼくは思う。もう河内で分かったから、袁宏をゆるしてあげてくれ。

濟北相の鮑信、後將軍の袁術、議郎の曹操らは、義兵を興した。それぞれ数万をひきい、袁紹を盟主におす。袁紹は車騎將軍を、曹操は行奮武將軍を、みずから号した。

長沙太守孫堅亦起兵誅卓,比至南陽,衆數萬人。卓以堅為破虜將軍,冀其和弭〔一〕。堅討卓逾壯,進屯陽人。卓大怒,遣胡軫、呂布擊堅,戰於建平,堅大破之。
〔一〕三國志孫堅傳言表堅行破虜將軍者乃袁術也。卓至陽人一戰敗後,始遣李傕等來求和親,令堅列疏子弟任刺史,許表用之。與袁紀大異。

長沙太守の孫堅もまた、董卓に起兵した。このころ南陽にきた。数万をひきいる。董卓は、孫堅を破虜將軍として、和親したい。

『三国志』孫堅伝では、孫堅を「行破虜将軍」に表したのは袁術である。董卓は、陽人で一敗してから、はじめて李傕を使者に、孫堅に和親をもとめた。李傕は孫堅に「子弟を刺史にするよ」という。この『後漢紀』と『三国志』孫堅伝はおおきく異なる。
ぼくは思う。董卓と袁術のあいだで、おなじ官位を「贈与する」闘争が行われていたのならおもしろい。だが、さすがにそのようなドラマチックな理解はできなかろう。1つの事実を、記録者が2とおりに書いてしまったのだ。ともあれ、このように「誤認されること」に本質がある。とぼくなら思う。学校の先生を「お母さん」と呼び誤ったとき、ここに何の意味もない、ランダムなミスだと言えるだろうか。当時の情勢において、孫堅にとっては、董卓も袁術も「盟主」「官職の斡旋者」という役割を持っていたのだと思う。記録が混乱されるほど、対等なくらいに。

孫堅は董卓から官位を受けず、董卓を討伐する意欲をつよめ、陽人にすすむ。董卓は大怒し、胡軫と呂布に孫堅を撃たせた。建平で戦い、孫堅がおおいに破った。

ぼくは思う。孫堅だけ、ほかの「諸侯」とは別扱いなのね。そして、唯一の戦果をあげたのが孫堅。『後漢紀』では、袁術すら、袁紹や曹操に巻きこまれているが、孫堅だけはべつ。それも『三国志』と違って、董卓が戦う前から懐柔しようとするほど、強硬な勢力である。孫堅は、董卓の官位を突っぱね、さらに呂布まで破る。まあ呂布と胡軫が対立したとか、いろいろ事情があるかも知れないが、ともあれ孫堅は呂布に勝った。


卓以山東兵盛,欲徙都關中,召公卿議曰:「高祖都關中,十一世,後漢中興,東都洛陽。從光武至今復十二世〔一〕,案石苞室讖〔二〕,宜復還都長安。」百官無敢應者。司徒楊彪曰:「遷都改制,天下大事,皆當因民之心,隨時之宜。昔盤庚五遷〔三〕,殷民胥怨,故作三篇以曉諭之。往者王莽篡逆,變亂五常,更始、赤眉之變,焚燒長安,殘害百姓,民人流亡,百無一存。光武受命,更都洛陽,此其宜也。方今建立聖主,光隆漢祚,而無故捐宗廟宮殿,棄先帝園陵,百姓驚愕,不解此意,必糜沸螘聚,以致擾亂。石苞室讖,妖邪之書,豈可信用!」
〔一〕按范書楊彪傳作「於今亦十世矣」。三國志董卓傳注引續漢書作「十一世」,通鑑因之,甚是。袁、范二書均誤。〔二〕胡三省曰:「當時緯書之外,又有石苞室讖,蓋時人附益為之,如孔子閉房記之類。」 〔三〕李賢曰:「湯遷亳,仲丁遷囂,河亶甲居相,祖乙居耿,并盤庚五遷也。」

董卓は、山東の兵が盛んなので、関中に遷都したい。公卿を召して議した。「高祖から関中で11世、後漢は洛陽に遷都した。光武帝から12世たつ。石苞室讖もある。長安にもどろう」と。

『後漢書』楊彪伝では「後漢は10世」である。『三国志』董卓伝にひく『続漢書』では11世。『通鑑』も11世とする。正解は11世なので、12世とする袁宏、10世とする范曄は誤り。
ぼくは思う。どの皇帝がモレているのか、過剰なのか。袁宏と范曄の編集方針から、考えるのは楽しそう。わりに数字が大切な文脈だから、転写でもウッカリミスが少ない、と思いたい。
胡三省はいう。このとき緯書のほかに、石苞室讖があった。董卓にへつらって作成されたのだろう。孔子『閉房記』と同じようなものである。

百官は反論できない。司徒の楊彪が反論した。

ぼくは思う。楊彪の論拠もおもしろそうだが、はぶく。


卓作色曰:「楊公欲沮國家計邪?關東黄巾作亂〔四〕,所在賊起,長安崤函險固,國之重防。又隴右取材木,功夫不難,杜陵南山下有孝武帝故陶作磚處,一朝一夕可辦,宮室官府,蓋何足言〔五〕!百姓小人,何足與議。若有前卻,以我大兵驅之,豈得自在!」百寮皆失色。太尉黄琬曰:「此大事,楊公語得無可思乎?」司空荀爽曰:「相國豈樂遷都邪?今山東兵起,非可一日禁也,而關西尚靜,故當遷之,以圖秦漢之勢也。堅爭不止〔六〕,禍必有所歸,吾不為也。」卓使有司奏免二公〔七〕。
〔四〕卓所言作亂者,乃指袁紹、袁術、曹操等起兵欲誅卓者,非黄巾也。疑「黄巾」二字為衍文。又三國志董卓傳注引續漢書正作「 關東方亂」。 〔五〕「蓋」原誤作「盍」,逕改之。 〔六〕范書楊彪傳此句上有「卓意小解,爽私謂彪曰諸君」等句,疑袁紀有脫文。 〔七〕卓所使者乃司隸校尉宣播。

董卓は顔色をかえて「関東には黄巾がいるから、長安で守らねば」という。

黄巾ではなく、袁紹や袁術を心配するのが正しい。『三国志』董卓伝にひく『続漢書』では「関東まさに乱れ」とある。黄巾なんてない。

百寮は、顔色を失った。太尉の黄琬はいう。「遷都は重大なことだ。なぜ楊彪の意見を無視できるものか」と。司空の荀爽はいう。「相国の董卓は、遷都を楽しむのでない。いま関東をすぐに鎮圧できないので、まだマシな関西にゆくのだ。秦漢の地勢を活用し、関東と戦えばよい」

『後漢書』楊彪伝では、荀爽のセリフのあいだに「董卓がすこし落ちついた。荀爽は楊彪に、こっそり言った」という地の文がはさまる。『後漢紀』はこれが抜けたので、意味が通じにくい。
ぼくは思う。どちらも話者が荀爽だから、袁宏がカットしたのだろう。しかし、前半は董卓を意識した政策提言のアピールで、後半は楊彪への耳打ちだから、つながらん!

荀爽は楊彪にいう。「戦乱は必ずやむ。私は戦乱を拡げようとするのでない」と。董卓は有司をつかい、2人の三公を罷免した。

この有司とは、司隸校尉の宣播である。
ぼくは思う。荀爽は董卓に同意した。辞めたのは、楊彪と黄琬だ。次月にある。


2月、董卓が朱儁を副官にできず、天子が遷都

二月丁亥,太尉黄琬、司徒楊彪策罷。
初,卓用伍瓊、周毖之議,選天下名士馥等,既出,皆舉兵圖卓。卓以瓊、毖賣己,心怨之。及議西遷,瓊、毖固諫,卓大怒曰:「 君言當拔用善士,卓從二君計,不敢違天下心。諸君到官,舉兵相圖,卓何相負?」遂斬瓊、毖。彪、琬恐懼,詣卓謝曰:「因小人戀舊,非欲沮國事也,請以不及為受罪〔一〕。」卓不勝當時之忿,既殺瓊、毖,旋亦悔之,故表彪、琬為光祿大夫。
〔一〕陳璞曰:「受字衍。」

2月丁亥、太尉の黄琬、司徒の楊彪が策罷された。
はじめ董卓は、伍瓊と周毖を信用して、韓馥ら天下の名士を、官位に選んだ。彼らが起兵したので、董卓は伍瓊と周毖を怨んだ。伍瓊と周毖が、遷都に反対したので、董卓は大怒して、伍瓊と周毖を斬った。
楊彪と黄琬はおそれて、董卓に謝った。「バカだから前例にこだわり、国政をさまたげた。罪でした」と。董卓は怒りがおさまらず、伍瓊と周毖を殺したが、これを悔いた。ゆえに、楊彪と黄琬を光禄大夫とした。

ぼくは思う。罪を着せないどころか、官位もくれるのね。官位は「貨幣」だからねえ。董卓は「貨幣」の使い方を、よく知っている!


卓以河南尹朱雋為太僕,以為己副。雋不肯受,因進曰:「國不宜遷,必孤天下望,成山東之釁,臣不見其可也。」有司曰:「召見君受拜,而君拒之;不問徙事,而君陳之,何也?」雋曰:「副相國至重,非臣所堪。遷都非計,臣之所急也。辭所不堪,進其所急,臣之宜也。」有司曰:「遷都之事,初無此計也,就有未露,何所受聞?」雋曰:「相國董卓具為臣說。」有司不能屈。於是朝之大臣及尚書郎華歆等皆稱焉,由是止不副卓。卓愈恨之,懼必為卓所陷,乃奔荊州。
光祿勳趙謙為太僕。王允為司徒,守尚書令。
丁亥,天子遷都長安。卓留屯洛陽,盡焚宮室,徙民長安。
壬辰,白虹貫日。

董卓は、河南尹の朱儁を太僕として、じぶんの副官とした。朱儁は受けたくない。
朱儁はいう。「遷都はよくない。天下の望を失い、山東のやつらが成功する。遷都する董卓の朝廷に、参加できない」と。有司は「議題は遷都でなく、副官の任命のことだ」という。朱儁は「相国の副官になるなら、遷都の問題も関係あるでしょ」と。有司はいう。「遷都は秘密のはずだが、どこで聞いたのか」と。朱儁はいう。「相国の董卓が、わたしに詳しく教えてくれた」と。有司は朱儁を説得できない。
ここにおいて朝廷の大臣、および尚書郎の華歆らは、みな朱儁を称賛した。董卓は、朱儁を副官にできず。董卓は朱儁をうらむ。朱儁は董卓をおそれ、荊州に出奔した。

ぼくは思う。いい朱儁!董卓が口説いてたのね。

光祿勳の趙謙を太僕とする。王允を司徒とし、尚書令を守させる。
2月丁亥、天子が長安に遷都する。董卓は洛陽にとどまる。宮室を焼き尽くし、民を長安に徙す。2月壬辰、白虹が日をつらぬく。

3月、袁隗が死に、臧洪が盟して青州を領す

三月己巳〔一〕,車駕至長安。長安遭赤眉之亂,宮室焚盡,唯有高廟、京兆府舍,遂就都焉。
〔一〕范書獻帝紀作「乙巳」。通鑑從范書。惠棟曰:「獻帝宗廟祝嘏辭云:『乃以二月丁亥耒祀雒,越三月丁巳,至於長安。』案下文云:『己酉,董卓焚洛陽宮廟。』己酉在丁巳前。袁紀又作『己巳』,未知孰是。」按紀文下接,戊午則己巳恐系乙巳之誤。

3月(己巳)乙巳、車駕は長安にいたる。

『後漢書』は長安に到るのを「乙巳」とする。『通鑑』は范曄に従う。惠棟はいう。獻帝が宗廟を祝った言葉に「2月丁亥、洛陽で宗廟を祭り、月をまたいで3月丁巳に長安にくる」とある。さらに「己酉、董卓が洛陽の宮廟を焼く」とある。己酉は丁巳の前である。袁宏がおかしい。袁宏は、つづいて「己巳」とすべき袁隗の死を「戊午」とする。長安に到る日を「乙巳」と誤り、これに引きずられたのだろう。
ぼくは思う。「己巳」と「乙巳」。初平元年3月に献帝が長安に到るのだが、日付はどちらか。前者は袁宏『後漢紀』、後者は范曄『後漢書』。後者が正しいらしい。袁宏は、このミスに引きずられ、あとの記事もドミノ式に誤る。字形が似てたら、仕方ないなあ。乙巳乙巳乙巳乙巳乙巳己巳乙巳乙巳乙巳乙巳乙巳。ほらね!
ぼくは思う。『後漢紀』の日付がズレまくるのは、1回の見誤りがキッカケかも知れない。あるとき干支を設定し、そこから「等差数列」をやれば、全て誤る。作成中のメモが途切れて、作業を仕切り直すまで、誤り続ける。なるほど!

長安は、前漢末に赤眉に乱され、宮室は燃えつき、ただ高廟、京兆の府舍がある。天子は、府舍に入った。

戊午,卓殺太傅袁隗及其三子。
是時袁紹屯河內,陳留太守張邈、兗州刺史劉岱、東郡太守喬瑁、山陽太守袁遺屯酸棗,後將軍袁術屯南陽,豫州刺史〔孔伷〕(韓馥)〔屯潁川〕〔一〕。大會酸棗,將盟諸州郡更相推讓,莫有肯先者。廣陵功曹臧洪升壇,操血曰:「漢室不幸,王綱失統。賊臣董卓,乘釁縱害,禍加至尊,虐流百姓。大懼淪喪社稷,翦覆四海。兗州刺史劉岱、豫州刺史孔、陳留太守張邈、東郡太守喬瑁、廣陵太守超等,糾合義兵,並赴國難。凡我同盟,齊心戮力,以致臣節,殞首喪元,必無二致。有渝此盟,俾墜其命,無克遺育。皇天后土,祖宗明靈,實皆監之。」洪辭氣慷慨,涕泣橫下,聞其言者,雖卒伍冢養,莫不激揚。
〔一〕按韓馥為冀州牧,時在鄴,未曾與盟,閱洪盟辭可知,范書亦然。「韓馥」明系「孔伷」之誤,盟辭可證,故改。并據范書袁紹傳補「屯潁川」三字。

(戊午)己巳、董卓は、太傅の袁隗とその3子を殺す。
ときに袁紹は河内に屯する。陳留太守の張邈、兗州刺史の劉岱、東郡太守の喬瑁、山陽太守の袁遺は、酸棗に屯する。後將軍の袁術は、南陽に屯する。豫州刺史の孔伷(韓馥)は、潁川に屯する。

ときに韓馥は冀州牧であり、鄴県にいる。盟約に加わらない。臧洪による盟約の文書を見れば明らかである。豫州刺史は韓馥でなく、孔伷とすべきだ。『後漢書』袁紹伝により、孔伷が頴川に屯したと補う。

酸棗にあつまり、盟約をする。広陵の功曹である臧洪はいう。「兗州刺史の劉岱、豫州刺史の孔伷、陳留太守の張邈、東郡太守の喬瑁、廣陵太守の張超らは、董卓を討とう」と。臧洪の気概に、卒伍までが感動した。

卓兵強,紹等莫敢先進。〔曹操〕(喟然)〔一〕曰:「舉義兵,誅暴亂,今衆已合,諸君何疑!而後使董卓聞山東兵起,倚王室之尊,據二周之險,東向以臨天下,雖以無道行之,猶足以為患。今焚燒宮室,劫遷天子,海內震動,不知所歸,此天亡之時也,一戰而天下定矣,不可失也!」其引軍西,戰於滎陽,操兵大敗〔二〕。
〔一〕據南監本、黄本改。 〔二〕蔣校以「操兵大敗」四字疑有誤,故闕之。龍溪精舍本作「 卓兵大敗。」均誤。今據南監本、黄本逕補之。

董卓の兵が強いので、袁紹らは先に進まず。曹操は袁紹らに「戦えよ」と言って、西した。曹操は、滎陽で大敗した。

董卓が大敗したという版本がある。はあー。


是時青州刺史焦和亦起兵討卓,〔務〕(和)及諸將西行〔一〕,不為民人保鄣,始濟河,黄巾已入其境。青州殷實軍強,和望寇奔北,未嘗接風塵交旗鼓也。好卜筮,信鬼神。入見其人,清談干霄,出觀其政,賞罰潰亂,州遂蕭條,悉為丘墟。頃之,和病卒,袁紹使臧洪領青州,撫和民衆,盜賊奔走。紹歎其能,徙為東郡太守。
〔一〕據四部叢刊本改。又三國志臧洪傳注引九州春秋、通鑑亦均作「務」。

このとき、青州刺史の焦和も、ともに起兵した。焦和と諸将は、西にゆく。だが焦和は人民を保障しない。

『三国志』臧洪伝にひく『九州春秋』、『通鑑』では「焦務」とする。でも文脈的に、「焦和」としないと前後とつながらない。注釈者が見た、『九州春秋』や『通鑑』がちがうのか?うーん。
ぼくは思う。「保障」がうまく訳せないが。防衛、統治、保護、救済、、

焦和が黄河を渡り始めると、黄巾が青州の境界に入る。青州はゆたかで、兵が強かった。焦和は、黄巾を見て北ににげた。風塵に接して、旗鼓に交わることなく、焦和はにげた。焦和は卜筮をこのみ、鬼神を信じる。清談をして、賞罰はでたらめ。ゆたかな青州は、衰えてしまった。このころ焦和が死んだ。

ぼくは思う。この焦和の話は「前日談」である。つぎの臧洪の話を、編年体に登場させたいから、ちょっとのあいだ、焦和の話を聞かされたのだ。

袁紹は、臧洪に青州を領させた。民衆はやすらぎ、盗賊はにげた。袁紹は臧洪の才能を歎じて、東郡太守とした。

ぼくは思う。袁紹は、臧洪を心強く思ったのか?それとも警戒したのか?刺史から太守に徙すことが、勢力の拡大なのか、縮小なのか、よく分からん。ともあれ袁紹は、刺史や太守を動かせる権限を、実質的に持っている。


夏、王允が天子に儒学させ、董卓が貨幣改鋳

夏四月,以大司馬劉虞為太傅。
尚書令王允奏曰:「太史王立說孝經六隱事〔一〕,令朝廷行之,消卻災邪,有益聖躬。」詔曰:「聞王者當脩德爾,不聞孔子制孝經,有此而卻邪者也。」允固奏請曰:「立學深厚,此聖人秘奧,行之無損。」帝乃從之。常以良日,王允與王立入,為帝誦孝經一章,以丈二竹簞畫九宮其上,隨日時而去入焉。及允被害,乃不復行也。
〔一〕按東觀記作「太史令王立」,三國志武帝紀注引張璠紀亦同。疑袁紀脫「令」字。

夏4月、大司馬の劉虞を太傅とする。
尚書令の王允が上奏した。「太史令の王立は、孝経の六隠のことを説く。学官を立てよという」と。

『東観記』は「太史令の王立」とする。『三国志』武帝紀にひく張璠もおなじ。袁宏は「令」を漏らした。ぼくの抄訳は、付けておきました。

王允が推したので、学官が立った。王允と王立は学官にゆき、天子に儒学の勉強をさせた。王允が殺害されて、この勉強は辞められた。

五月,司空荀爽薨。
爽字慈明,朗陵令淑之子也〔一〕。年十二,太尉杜喬師焉〔二〕。舉孝廉賢良,黨事禁錮,隱於海上,又南匿漢濱。黨事解,辟命交至,有道、博士徵,皆不就。獻帝初,董卓薦爽為平原相,未到官,徵為光祿勳,至府三日,遷司空。當是之時,忠正者慷慨,而懷道者深嘿。爽既解禍於董卓之朝,又旬日之間,位極人臣,君子以此譏之。初,爽兄弟八人,號曰「八龍」,爽最有儒雅稱,兄子彧名重於世。
〔一〕范書荀彧傳與袁紀同,而荀淑傳「朗陵令」作「朗陵侯相」。廿二史考異曰:「漢制,縣為侯國,則置侯相一人治之,其職與令長同,故亦通稱為令也。東萊之不其,亦侯國,而董恢傳稱除不其令。」 〔二〕范書荀爽傳作「幼而好學,年十二,能通春秋、論語。太尉杜喬見而稱之,曰可為人師」。而三國志荀彧傳注引張璠漢紀曰:「 爽字慈明,幼好學,年十二,通春秋、論語。」與袁、范書有異。按爽傳,爽死於獻帝初平元年,時年六十三。上推至十二歲,為永和四年,時太尉乃王襲。又按杜喬任太尉為桓帝建和元年,爽時年二十。則「年十二」恐系「年二十」之誤。又袁紀「師焉」恐當作「曰可為人師焉」。又汪文臺七家後漢書中所輯張璠紀,有「太尉橋玄稱其可為人師」句。尋其所注出處,均無此句。必系妄增而又抄誤也。汪輯雖精,然多有妄增誤注,用之不可不慎。

5月、司空の荀爽が薨じた。兄子は荀彧である。

ぼくは思う。割って入った「荀爽伝」をはぶく。年齢でモメてる。


六月辛未,光祿大夫种弗為司空〔一〕。
〔一〕范書作「六月辛丑,光祿大夫种拂為司空」。按是月己巳朔,無辛丑,范書誤。又「弗」乃「拂」之省文。

6月辛未、光祿大夫の种弗を司空とする。

『後漢書』では「6月辛丑、光祿大夫の种拂を司空とする」とある。この6月は、己巳がついたち。辛丑がない。范曄の誤り。「弗」は「拂」を省略した文字。


卓發洛陽諸陵及大臣冢墓。壞洛陽城中鐘虡,鑄以為錢,皆不成文;更鑄五銖錢,文章輪郭〔一〕,不可把持。於是貨輕而物貴,穀一斛至數百萬。 〔一〕「輪郭」,黄本、南監本均作「城郭」。蔣校以為當作「輪郭」,而「輪」字從闕文。按三國志董卓傳、范書董卓傳均作「輪郭」,蔣說是,據以逕補。

董卓は洛陽で、諸陵および大臣の冢墓をあばく。洛陽の城中にある鐘虡をこわし、貨幣を鋳造する。表面に文字がない。貨幣価値がさがり、物価があがる。穀1斛で、數百萬銭である。

遼東太守公孫度自號為平州牧。立漢世祖廟〔一〕。
單于羌渠既為國人所殺,其子(孫)於扶羅應立,國人立須卜為單于,於扶羅詣闕訟〔二〕。會靈帝崩,王室亂,於扶羅將數千騎與白波賊寇冀州界,百姓皆高壁清野,抄掠少有所得。欲歸國,國人不受,遂止河東。
〔一〕三國志公孫度傳作「立漢二祖廟」,通鑑從之,袁紀恐誤。 〔二〕據范書南匈奴傳刪「孫」字。又南匈奴傳曰:「單于於扶羅,中平五年立。國人殺其父者遂畔,共立須卜骨都侯為單于,而於扶羅詣闕自訟。」與袁紀異。又此事發生於靈帝末年,通鑑系于中平六年。

遼東太守の公孫度が、みずから平州牧を号する。漢の世祖廟をたてる。

『三国志』公孫度伝では「漢二祖の廟をたてる」とある。『通鑑』も『三国志』とおなじ。おそらく袁宏の誤り。
‏@yunishio さんはいう。公孫度のところは、たぶん「漢の世祖の廟」ですね。
ぼくは思う。はじめ「漢世の祖廟」と書いてましたが、「漢の世祖の廟」が正しいので、直しておきました。光武帝の廟です。

單于の羌渠は、すでに國人に殺された。子の於夫羅が単于にたつ。國人は、須卜を単于にたてる。於扶羅は、後漢に訴えにきた。

『後漢書』南匈奴伝では、於夫羅は中平5年にたつ。国人に父の羌渠を殺され、国人が須卜骨都侯を單于としたので、後漢に訴えにきたと。袁宏『後漢紀』と異なる。この事件は霊帝の末年にはじまるので、『通鑑』では中平6年につづけて記事がある。

霊帝が崩じて、洛陽が乱れたので、於夫羅は数千騎をひきい、白波賊とともに冀州の境界を寇した。百姓はみな、壁を高め、野を清め、盗られるものを減らした。於夫羅は帰国したいが、国人に受け入れてもらえず、河東にとどまる。121130

ぼくは思う。こうして出てきた於夫羅は、二袁に関与する。
ぼくは思う。190年秋冬の記事は、どこにいったんだ?公孫度と於夫羅のことは、べつにここに配置する必然性がない。「あえて置くなら、この歳かなあ」という精度である。

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初平二年、董卓は長安に、袁紹は冀州に

春、袁紹が劉虞に、皇帝か承制を勧める

春正月辛丑,大赦天下。韓馥、袁紹自稱大將軍,遣使推大司馬劉虞為帝,不聽;復勸虞承制封拜,又不聽,然猶與紹連結。
二月丁丑,相國董卓為太師。

春正月辛丑、天下を大赦した。韓馥、袁紹は、みずから大将軍を称する。使者をやり、大司馬の劉虞を皇帝におす。劉虞はゆるさず。劉虞に承制と封拜を勧めたが、これも劉虞がゆるさず。

ぼくは思う。袁紹は、劉虞を皇帝にすることに、あまりこだわりがない。承制でもよい。つまり官爵を発行できるなら、それでよい。「董卓に立てられた劉協は、正統だろうか」「劉弁までが正統な皇帝であり、後漢の血統は断絶があるのだ」などの議論はない。もちろん事後的に血統の論争も、準備するだろうが、まずは優先度がひくい。
ぼくは思う。袁紹から謀反みたいなことを勧められても、忠臣の劉虞が、袁紹との関係を維持したのはなぜか。袁紹が勧めたのは謀反ではなく、官爵の取り扱いの件だけだったのだろう。
『後漢紀』が史料を省略しまくって、かえって真実を明らかにしたのだが。袁紹と韓馥は「大将軍」の自称した官位を、劉虞に権威づけて追認してほしいのだろう。後漢で「承制」といえば、皇太后の臨朝だと思う。つまり後漢では、「つねに皇帝その人のみが、すべての官爵を司る」必要がなかった。代行者がたつことは、まだ制度の内側だった。「誰がやっても良い」とは組織の完成度や安定度の高さを意味する。後漢は、組織を洗練させることで、こういう「あそび」を産んだ。えー、さらに組織が完成して安定すると「誰がやっても同じ」となる。近年の日本政府だ。

しかし劉虞は、袁紹と連結=同盟をつづけた。
2月丁丑、相國の董卓が太師となる。

夏、皇甫嵩と蓋勲が競り負け、蔡邕が宗廟改造

夏四月,卓西入關。卓使東中郎將董越屯澠池,寧輯將軍段煨屯華陰〔一〕,中郎將牛輔屯安邑,其餘中郎〔將〕〔二〕、校尉布在諸縣,不可勝紀,以禦山東。
〔一〕范書董卓傳「寧輯將軍」作「中郎將」。又「煨」原誤作「 猥」,逕改之。 〔二〕據范書董卓傳補。

夏4月、董卓は関西に入る。董卓は、東中郎將の董越を澠池に、寧輯將軍の段煨を華陰に屯させる。

『後漢書』董卓伝では、段煨は寧輯將軍でなく中郎将だ。

中郎將の牛輔を安邑に屯させる。その他の中郎将や校尉を、諸県におく。書ききれない、山東を防御した。

ぼくは思う。『後漢紀』は省略が目的の本なんだから、「書ききれない」とか要らないじゃん。それをさらに省略する、ぼくが言うのも心苦しいけど。


卓將至,公卿以下迎之,皆謁拜〔車〕下〔一〕,卓不為禮。卓謂御史中丞皇甫嵩曰:「可以服未?」嵩曰:「安知明公乃至於是。」卓曰:「鴻鵠固有遠志,但燕雀自不知爾。」嵩曰:「昔與公俱為鴻鵠,但今日復變為鳳皇爾。」卓乃大笑曰:「卿早服,可得不拜。」〔二〕
〔一〕據三國志董卓傳補。 〔二〕按此段三國志董卓傳注引山陽公載記、范書皇甫嵩傳注引獻帝春秋同,而裴注引張璠漢紀曰:「卓抵其手謂皇甫嵩曰:『義真怖未乎?』嵩對曰:『明公以德輔朝廷,大慶方至,何怖之有?若淫刑以逞,將天下皆懼,豈獨嵩乎?』卓默然,遂與嵩和解。」與袁紀大異。通鑑取張璠紀。然何焯曰:「山陽公載記之語尤近實。觀義真後此,其氣已衰,未必能為是言,僅足以避凶人之鋒耳。」何說是。

董卓が長安に到着するとき、公卿より以下が迎えた。みな董卓の車のしたで謁拜した。董卓は礼を返さず。董卓は、御史中丞の皇甫嵩に「まだ私に服さないか」という。皇甫嵩は「董卓がこう(高官に)なると思わなかった」という。董卓が「鴻鵠に遠志があるが、燕雀には分からん」という。皇甫嵩は「むかし私は、董卓とともに鴻鵠であり、遠志が私にもあった。だが今日、董卓は鳳皇に化けたのだ」という。董卓は大笑して「皇甫嵩が早く服せば、不拝を得られたよ」

『三国志』董卓伝にひく『山陽公載記』、『後漢書』皇甫嵩伝にひく『献帝春秋』もおなじ。だが裴注の張璠『漢紀』はちがう。董卓「皇甫嵩は恐れいったか」、皇甫嵩「董卓は朝廷で徳政するのに、何を恐れるか。もし董卓が悪政するなら、私だけでなく天下が恐れるよね」と。董卓は黙然とした。董卓と皇甫嵩は和解したと。張璠と袁宏はおおきく異なる。『通鑑』は張璠を採用する。だが何焯はいう。「『山陽公載記』がもっとも事実に近かろう。このあと皇甫嵩は気力が衰える。董卓に殺されなかっただけでもマシだ」と。何焯が正しい。
ぼくは思う。けっきょく皇甫嵩は、董卓と和解しなかった、という議論なのね。皇甫嵩が「私も鴻鵠だけどね、まさか董卓みたいに、鳳凰=皇帝のような、僭逆まではしないよ」と皮肉っているあたり、闘争的な関係である。最後の「不拝を得られた」は、文法的には読めてるはずだが、解釈を補わないと分かりにくい。ぼくの推測では、董卓はこう言いたいのか。「もし皇甫嵩が、私に積極的に参加してくれたら、私は皇甫嵩に特権を与えた。むしろ皇甫嵩のような重鎮が協力してくれたら、私が皇帝になり、皇甫嵩が相国や太師になれば、不拝の特権を得ることも可能だったのにね。私の皇帝即位が遅れてしまった。怨みます」かな。飛躍しすぎか。


卓既為太師,復欲稱尚父,以問左中郎將蔡邕,邕曰:「昔武王受命,太公為太師,輔佐周室,以伐無道,是以天下尊之,稱為尚父。今之功德,誠為巍巍,宜須關東悉定,車駕〔東〕(西)還〔一〕,然後議之。」卓乃止。
〔一〕據三國志董卓傳注引獻帝紀改。又范書蔡邕傳作「車駕還反舊京」。

董卓はすでに太師だが、つぎは尚父と称されたい。左中郎将の蔡邕はいう。「周武王が受命したとき、太公望は太師となった。無道な者を討伐し、尚父を尊称された。董卓は、まだ関東に無道な者を残しているから、尚父は早い。洛陽に還都してから、尚父を議せよ」と。董卓はやめた。

『後漢紀』では、西に遷都してからとあるが、『三国志』董卓伝にひく『献帝紀』により、東の洛陽への還都と改める。『後漢書』蔡邕伝でも東の洛陽への還都である。


於是卓乘金華青蓋車,時人號「竿摩車」,言逼上也。 卓弟旻為左將軍,兄子璜為中軍校尉,宗族內外,并列朝廷,呼召三臺、尚書以下,皆詣卓府啟事,然後得行。
築郿塢,城與長安城等,積穀為三十年儲,云:「事成,雄據天下;不成,守此足以畢老。」嘗行郿塢,公卿已下祖道於橫門外,誘北〔地〕降者三百餘人〔一〕,於坐中先披其舌,或斬其手,或鑿其眼,未死,偃轉杯案之間,會者戰慄失匕箸,卓飲食自若。
〔一〕據三國志、范書之卓傳補。

董卓は、金華青蓋の「竿摩車」にのる。弟の董旻が左將軍となり、兄子の董璜が中軍校尉となる。董卓の宗族が官職を占める。みな董卓に報告しないと、政策を実行できない。
郿塢を築城した。長安城とおなじ規模である。30年の穀物を蓄積する。かつて董卓が郿塢にゆくとき、公卿より以下が、橫門の外で見送る。北地で降った3百余人を連れてきて、舌を抜き、手を斬り、目をぬく。死にぞこないを、座席のあいだに転がす。董卓は自若として飲食した。

『三国志』や『後漢書』董卓伝より。「北地」郡から降った者である。


初,卓飲衛尉張溫〔一〕,乃使人誣溫與袁術通謀,笞殺之。刑罰殘酷,愛憎相害,冤死者數千人,百姓嗷嗷,道路歎息。 孫堅自陽人入洛陽,脩復諸陵,引軍還魯陽。卓謂長史劉艾曰:「關東諸將數敗矣,無能為也,唯孫堅小敢,諸將軍慎之。堅昔西征,其計策略與人同,無故從諸袁兒,終亦死爾。」艾曰:「堅用兵不如李傕、郭氾。堅前與羌戰於美陽〔二〕,殆死,無能為!」卓曰:「堅時將烏合兵,且戰有利鈍。卿今論關東大勢爾,亦終無所至,但殺二袁兒,則天下自服矣。」
〔一〕疑「飲」下脫「恨」字。 〔二〕三國志孫堅傳注引山陽公載記作「美陽亭北」。

はじめ董卓は、衛尉の張温に恨みがある。「張温は袁術と通謀した」と誣告させ、張温を笞殺した。刑罰はむごく、愛憎する者がチクりあい、冤死する者が數千人。
孫堅は、陽人から洛陽に入る。諸陵を修復し、魯陽にひく。董卓は、長史の劉艾にいう。「関東の諸将は無能だが、孫堅には少し警戒せよ。むかし孫堅が征西したとき、計略は人なみだった。孫堅には戦略がないから、袁氏に従っているが、そのうち死ぬだろう」と。
劉艾もいう。「孫堅は、李傕や郭汜より用兵が下手だ。孫堅は美陽亭北で羌族と戦ったとき、死にかけた。孫堅には何もできない」と。董卓は「孫堅は烏合の兵である。関東の二袁児だけを殺せば、天下はおのずと服するだろう」と。

ぼくは思う。孫堅は、評価がひくいなあ。孫氏には、血筋も官歴も文化資本もないので、このように見下されるのだ。子の孫権が、皇帝権力の確立に苦労する理由は、すでに董卓と劉艾の会話に予言されてる。袁紹か袁術の王朝であれば、あんな「せめぎあい」は起きにくかった。


建武初,立宗廟於洛陽。元帝之於光武,父之屬也,故光武上繼元帝。(中略) 左中郎將蔡邕議曰 (中略) 宜孝元皇帝世在第八,光武皇帝世在第九,故元帝為考廟,尊而奉之。孝明因循,亦不敢毀。元帝今於廟九世,非宗,親盡宜毀。比惠、昭、成、哀、平帝,五年而再殷祭。孝安、孝桓〔在〕(孝)昭,孝和、孝靈在穆〔七〕,四時常陳。 孝和以下,穆宗、恭宗、威宗之號〔八〕,皆宜省去,以遵先典,殊異祖宗不可參並之義。從之。
〔七〕據蔡中郎集改「孝」作「在」。又蔡中郎集「孝安」上有「 孝章」,「孝和」下有「孝順」,袁紀恐脫。 〔八〕蔡中郎集「恭宗」下有「敬宗」二字,袁紀亦恐脫。

建武の初、宗廟を洛陽に立てた。前漢の元帝が、光武帝の父世代なので、光武帝の宗廟を元帝につなぐ。左中郎将の蔡邕は議した。元帝は高祖から8代目、光武帝は9代目である。ゆえに元帝の廟をつくれ。明帝は因循だから、敢えて廟を毀すこともない。元帝は、いままで9代目にカウントされていたが、非宗の皇帝をぬいて数えなおせ、など。天子は蔡邕に従う。

ぼくは思う。長いんだけど、『後漢書』献帝紀では、結論だけ書いてある。是歲(『後漢書』初平元年),有司奏,和、安、順、桓四帝無功德,不宜稱宗,又恭懷、敬隱、恭愍三皇后並非正嫡,不合稱后,皆請除尊號。制曰:「可。」と。功徳のなかった、和帝、安帝、順帝、桓帝に「○宗」廟号をつけない。恭懷、敬隱、恭愍の3人に皇后は正嫡でないから「后」をつけない。天子はこれをOKしたと。
池田雅典先生の話にあった、蔡邕の考えた漢だなあ。
ぼくは思う。蔡邕ら儒者の思考は、景色を写真にとり、白と黒に単純化して、輪郭を切って額縁に入れ、タイトルと値段をつけて売り飛ばす感じ。ぼくは自然なままの景色も楽しいのに、と思った。これは魏代に興隆した、老荘の思想家の流れと同じだ。散歩しながら(何晏かよ)思考の同型さに気づいた。人類の思考は、つねにこの往復運動のなかにあるかも。仏教もしたい!


董卓問司徒王允曰:「欲得快司隸校尉,誰可者?」允曰:「唯有蓋京兆耳。」卓曰:「此人明智有餘,然則不可假以雄職也。」乃以勳為越騎校尉。卓又畏其司戎,復出為潁川太守。頃之,徵還京師〔一〕。公卿見卓皆拜謁,勳獨長揖,與卓爭論,旁人皆失色,而勳意氣自若。初,河南尹朱雋數為卓陳軍事,卓曰:「我為將百戰百勝,卿勿妄說,且汙我刀鋸。」勳曰:「昔武丁之明,猶求箴諫,明公猶未及武丁也。」卓謝曰:「戲之爾。」勳強直而內懼於卓,不得意,疽發背卒,時年五十一。遺令慚無以報先帝,勿受賻贈。卓心雖憾勳,然外示寬厚,表賜東園秘器,送之如禮。勳字元固,敦煌廣至人。(後略)
〔一〕按范書蓋勳傳作「未及至郡,徵還京師」。然北堂書鈔卷七十六引謝承書曰:「勳遷潁川太守,民吏嘆詠,不容於口。」則勳非未及至郡也,實居職未久,即復徵還矣。袁紀近是。

董卓は司徒の王允に問う。「司隷校尉には誰がよいか」と。王允は「京兆尹の蓋勲しかいない」という。董卓は「蓋勲は明智が余りあり、司隷校尉のような雄職には適さないのでは」という。蓋勲は越騎校尉となる。董卓は、蓋勲の司戎を畏れて、潁川太守に出した。このころ蓋勲が京師にもどる。

『後漢書』蓋勲伝では、蓋勲が頴川に着任する前に、長安に呼びもどされた。だが『北堂書鈔』76にひく謝承『後漢書』では、蓋勲が頴川太守となり、民吏が嘆詠して、口に容れず(嘆きを口に出せず?) とある。蓋勲は着任したのだから、范曄より袁宏が正しい。

公卿は董卓に会うときは拝謁するのだが、蓋勲は長揖するだけ。蓋勲は董卓と論争した。みな顔色を失うが、蓋勲は自若として論争する。
はじめ河南尹の朱雋は、しばしば董卓に軍事を述べた。董卓は「私は百戦百勝してきた。私に軍事を説けば、刀鋸のサビにする」いった。いま蓋勲は「董卓は殷代の武丁のように、箴諫を聞かない。武丁に劣るね」という。蓋勲は強気だが、じつは董卓を懼れており、背中の病気で死んだ。51歳。蓋勲は「私は霊帝に報いなかった。後漢から何も受けとるな」と遺言した。董卓は蓋勲をにくむが、寬厚のふりをして、東園秘器を賜り、礼制どおり蓋勲を葬送した。
蓋勲伝がはじまる。はぶく。

六月丙戌,京師地震。卓問蔡邕,邕對曰:「地震陰盛,大臣逾制之所致也。公乘青蓋車,遠近以為非宜。」卓從之,乘金華皁蓋車。

6月丙戌、京師で地震あり。蔡邕は答えた。「地震は陰が盛んなもの。大臣が天子を上回るとき起こる。董卓が青蓋車に乗るせいだ」と。董卓は蔡邕に従い、金華皁蓋車に乗りかえた。

秋、韓馥が袁紹に冀州を譲り、曹操が東郡太守

秋七月,司空种弗以地震策免。癸卯,光祿勳淳于嘉為司空〔一〕。
〔一〕范書獻帝紀作「光祿大夫濟南淳于嘉」。

秋7月、司空の种弗が、地震により策免された。7月癸卯、光祿勳の淳于嘉が司空となる。

『後漢書』献帝紀では、光禄大夫する済南の淳于嘉である。


董卓既入關,袁紹還軍延津,使潁川荀諶說冀州刺史韓馥曰:「 公孫瓚乘勝來南,而諸郡應之。袁車騎引軍東向,此其意不可知,竊為將軍危之。」馥曰:「為之柰何?」諶曰:「公孫瓚提燕代之卒,其鋒不可當。袁氏一時之傑,必不為將軍下。夫冀州天下之重資也,若兩雄并力,兵交於城下,危亡可立而待也。夫袁氏,將軍之舊也,且已同盟。當今為將軍計者,莫若舉州以讓袁氏。袁氏得冀州,則瓚不〔能〕與之爭〔一〕,必厚德將軍。冀州入於親友〔二〕,是將軍有讓賢之名,而身安於泰山也。願將軍勿疑。」
〔一〕據三國志、范書補。 〔二〕范書、三國志袁紹傳「友」作「交」。

董卓が関中にゆくと、袁紹は延津にもどる。

ぼくは思う。董卓の行動が、袁紹のトリガーなのね。後手!

潁川の荀諶は、冀州刺史の韓馥にいう。「公孫瓚が南下して、諸郡が応じる。車騎将軍の袁紹が東にむき、意図はわからない。韓馥のことが心配だ」と。荀諶はいう。「袁氏は将軍の旧で、すでに同盟もしてる。袁氏が冀州を得れば、公孫瓚は冀州をねらえない。かならず韓馥を徳が厚く、譲賢の名声がつく」と。

ぼくは思う。荀諶は韓馥に「韓馥は、公孫瓚による兵乱から、冀州を守ってくれた。袁紹を招くという方法で。韓馥は徳があるなあ」という状況をイメージさせている。べつに冀州牧の韓馥は、冀州を「領有」「支配」することが目的でない。官僚たる者、より適任者がいるとか、自分が務めると破綻する状況があるとかすれば、譲り渡すのが良い。たしかに韓馥は、群雄としては「腰抜け」かも知れない。だが官僚としては、良い判断だった。結果として、袁紹は冀州をうまく統治する。長安の天子と断絶しているのだから、これぐらいの「現場の判断」があっても良いはずだ。
ぼくは思う。韓馥は群雄として腰抜けなのでなく、群雄にならずに、官僚として踏みとどまったのだろう。「最後の官僚」の1人じゃないか。荀諶だって、群雄としての争覇を韓馥にしかけたのでなく、韓馥の官僚としての部分に訴えている。


馥素恇怯,因然其計。馥長史耿武、別駕閔純〔三〕、治中李暦、騎都尉沮授諫曰〔四〕:「冀州雖鄙,帶甲百萬,穀支十年。袁紹孤客窮軍,仰我鼻息,譬如嬰兒在股掌之上,絕其哺乳,立可餓殺。奈何欲以冀州與之?」馥曰:「吾袁氏故吏,且才不如本初,度德而讓,古人所貴,諸君獨何病焉?」乃遣子送印綬以讓紹。
〔三〕李賢引英雄記曰:「耿武字文威,閔純字伯典。後袁紹至,馥從事十人,棄馥去唯恐在後,獨武、純杖刀執兵,不能禁。紹後令田豐殺此二人。」 〔四〕按范書有沮授而無李暦,三國志有李歷而無沮授。王先謙引王補說曰:「觀授之附紹,意當日必未諫也。當以魏志為是。」通鑑從魏志。余謂先後事二主,竭誠謀畫,俱得信用,史不乏其例。袁紀李暦、沮授并存之,必有所據。

韓馥は恇怯なので、荀諶に従いそうだ。韓馥の長史の耿武、別駕の閔純、治中の李暦、騎都尉の沮授は、韓馥を諫めた。

李賢のひく『英雄記』によると、耿武はあざなを文威という。閔純はあざなを伯典という。のちに袁紹が冀州にくると、韓馥の従事10人は逃げてしまった。ただ、耿武と閔純が、にげる自軍の兵を捕らえたが、収拾できない。のちに袁紹は田豊に、耿武と閔純を殺させた。
ぼくは思う。田豊が働いている!
『後漢書』には、沮授の名があるが、李暦がない。『三国志』では李暦=李歴があるが、沮授がない。王先謙は王補をひいていう。「沮授は韓馥に、袁紹につけと勧めた。沮授は諫めない。『三国志』が正しい」と。『通鑑』は『三国志』と同じ。2人の主君につかえて、どちらからも信用された事例は史書にとぼしい。袁宏だって、沮授の不自然さに気づくはずだ。袁宏が、李暦と沮授を並記したのは、どこかに典拠があるのだろう
ぼくは思う。おもしろい発想!沮授が袁紹を拒んでたらおもしろい!

耿武らはいう。「冀州は兵数と軍備が豊富である。袁紹は孤立して餓死しそうだ。なぜ冀州を与えるか」と。韓馥は「私は袁氏の故吏だ。袁紹に才能がおとる。德を度して譲るのは、古人が貴ぶことだ」と。韓馥は、子に印綬を持たせ、袁紹に譲った。

紹既有冀州,辟授為別駕從事。紹謂授曰:「今賊臣作變,朝廷遷移,孤歷世受寵,欲竭命致死,以復漢室。然桓公非夷吾不能成霸,越王非范蠡無以存國。今欲與君戮力同心,共安社稷。」授進曰:「將軍弱冠登朝,播名海內,值廢立之際,則忠義憤發,卓雖凶暴,弗能加兵。昔相如叱秦,晏嬰哭莊〔一〕,方之將軍,曷足以喻。單騎出奔,則卓懷怖懼;濟河而北,則渤海稽首。擁一郡之卒,撮冀州之衆,威震河朔,名重天下。雖黄巾散亂,黑山跋扈〔二〕,舉兵東向,則青州可定;還討黑山,則張燕可滅〔三〕,迴師北首,則劉虞必喪〔四〕,震脅戎狄,則匈奴順從。橫大河之北,合四川之地,收英雄之用,擁百萬之衆,迎大駕於長安,復宗廟於洛邑,號令天下,以討未服,以此爭鋒,誰敢禦之?比及數年,此功不難。」紹喜曰:「此孤之本心也。」即表授為奮武將軍〔五〕,使監護諸將。
〔一〕「相如叱秦」,指相如完璧歸趙之事,見史記廉頗藺相如列傳。又襄公二十五年左傳曰:「崔杼弒莊公,晏子枕尸股而哭。興,三踴而出。人謂崔子:『必殺之!』崔子曰:『民之望也,舍之,得民。』」 〔二〕李賢曰:「常山、趙郡、中山、上黨、河內諸山谷相通,號曰黑山。」 〔三〕燕本姓褚。黄巾軍起,燕與博陵張牛角亦起事。牛角死,衆奉燕為帥,更姓張,性剽悍,捷敏過人,號曰飛燕。
〔四〕三國志袁紹傳作「公孫必喪」,范書亦然。柳從辰曰:「今按授欲使紹合四川之地,而紹奪冀州,在初平二年,其時幽州南屬劉虞,不屬公孫瓚。袁紀作劉虞,似亦可通。然虞不喜爭戰,非紹所忌。魏志原作公孫必喪。陳書出袁紀前,自可信。」 〔五〕三國志袁紹傳作「奮威將軍」。范書與袁紀同。趙一清曰:「范書袁紹傳作奮武將軍是也。時以韓馥為奮威將軍,不得回授沮生也。」周壽昌曰:「范書紹傳明云以馥為奮威將軍,而無所將御,是僅畀以虛銜,而不與軍事。至授則表為此官,即以監護諸將,安知非紹特以相形激馥使去邪?據此作奮威為是。」又盧弼曰:「按呂布為奮威將軍。宋書百官志云:奮武將軍呂布為之。蓋此類雜號將軍,本無定員,故記載亦互有岐異也。」

袁紹が冀州を領有すると、沮授を別駕従事とした。沮授は袁紹に戦略をさずけた。「北の劉虞を討て。長安の天子を迎えて、天下に号令せよ」と。

『三国志』袁紹伝では、北の劉虞でなく、北の公孫瓚を討てという。『後漢書』もおなじ。柳従辰はいう。「初平二年(いま)、幽州の南は劉虞に属し、公孫瓚に属さない。袁宏が劉虞と書いても、意味が通じる。だが劉虞は戦いを好まないから、袁紹が敵視することもない。やはり公孫瓚を敵視する『三国志』『後漢書』が良い。

袁紹は「これが私の本心だ」という。袁紹は上表して、沮授を奮武将軍として、諸將を監護させた。

『三国志』袁紹伝で、沮授は奮威将軍である。『後漢書』もおなじ。趙一清はいう。『後漢書』袁紹伝で、奮武将軍とするのが正しい。ときに韓馥は奮威将軍だから、沮授は重複できない。周寿昌はいう。『後漢書』袁紹伝では、韓馥が奮威將軍となるが、諸将を統御せず、名目だけの将軍号で、軍事をやらなかった。袁紹が沮授を韓馥と奮威将軍として、諸将を統御する権限を与えたのは、袁紹が沮授を韓馥のもとから去らせるためだ。だから奮威将軍とすべきだ
盧弼はいう。呂布は奮威将軍となる。『宋書』百官志で、奮威将軍には呂布がつき、雑語将軍であり、定員がないという。ゆえに複数の奮威将軍がでてくる。
ぼくは思う。周寿昌がおもしろい!はじめ沮授は、韓馥に「袁紹を迎えるな」と諫めるほど、韓馥に帰属する者だった。しかし袁紹は、沮授に韓馥と同じ将軍号を与えて、抱きこむ。たしかに奮威将軍に定員はないかも知れないが、「沮授が韓馥と同じ官位になる」というのは重要だ。定員が複数あるから「沮授が韓馥から奪う」わけではないけど。そして袁紹は「韓馥と同等の将軍号を、与える側の者」になる。袁紹はすごいなあ!


袁紹以曹操為東郡太守。初,潁川人荀彧,字文若,舉孝廉,為亢父令。見天下將亂,棄官歸家,謂父老曰:「潁川四戰之地,天下令有變,常為兵衝,密雖有固,適可避小寇,不足以扞大難,宜亟去。」鄉里人多懷土,不能從也。韓馥遣騎迎焉,會袁紹襲冀州,待彧以上賓之禮。彧弟諶及同郡辛評、郭圖皆為紹仕。彧知紹不能有成也,遂去紹歸曹操。操見彧悅曰:「吾子房也。」以為司馬〔一〕。時董卓兵強,山東震恐,彧說操曰:「董卓暴虐已甚,必以亂終,無能為也。」操善之。 〔一〕范書荀彧傳作「奮武司馬,三國志與袁紀同。按時操為奮武將軍,故彧稱奮武司馬。後操任鎮東將軍,彧又稱鎮東司馬。彧實任軍司馬也。

袁紹は曹操を東郡太守とした。
はじめ頴川の荀彧は、韓馥の騎兵に迎えてもらった。袁紹が冀州をうばうと、荀彧を上賓の礼で待遇した。弟の荀諶と、同郡の辛評や郭図は、袁紹に仕えた。荀彧は曹操に仕えて、司馬となる。

『後漢書』荀彧伝で、荀彧は奮武司馬となる。『三国志』は袁宏とおなじ。ときに曹操は奮武将軍だから、荀彧は奮武司馬である。のちに曹操が鎮東将軍となると、荀彧は「鎮東司馬」とよばれる。荀彧は軍の司馬なのだ。


丙寅〔一〕,太尉趙謙久病策罷。辛酉,太常馬日磾為太尉。公孫瓚以劉備為平原相。
〔一〕按七月癸已朔,無丙寅。辛酉乃第二十九日。三公替代,時必不久,丙寅或系丙辰,或係甲寅之誤,亦未可知。

7月 (丙寅)、太尉の趙謙が病気なのでやめた。7月辛酉、太常の馬日磾が太尉となる。公孫瓚が、劉備を平原相とする。

7月は癸已がついたち。同月に丙寅がない。辛酉は、7月29日である。三公が代わりまくる。趙謙が辞めたのは、「丙辰」か「甲寅」とすべきか。分からない。


冬、王允が董卓からの爵位と戸数を断る

十二月,錄從入關者功,封侯賜爵各有差。 司徒王允為溫侯,食邑五千戶,固讓不受。尚書僕射士孫瑞說允曰:「天子裂土班爵,所以庸勳也。與董太師並位俱封,而獨勵高節,愚竊不安也。」允納其言,乃受二千戶。

12月、長安への遷都に功績があった者に、侯爵を与える。
司徒の王允は温侯となり、食邑5千戸をもらう。固辞した。尚書僕射の士孫端は王允にいう。「天子が土地を割いて封建するのは、功績に報いるためだ。董卓は天子とともに、封建をやる。王允がこれを固辞したら、災難があるんじゃないか」と。王允は2千戸だけを受けた。

ぼくは思う。ここ、使える!


是歲,長沙、武陵人有死者,經月復活〔一〕。占曰:「至陰為陽,下民為上。」將有自微賤而起者也。
〔一〕續漢五行志載武陵女子李娥死而復活,系于建安四年,與袁紀異。

この歳、長沙と武陵で、数ヶ月前に死んだ者が生き返った。占者は「陰が陽になる。下の民が上になる」という。まさに微賤の者が、上昇しようとしている。121201

『続漢書』五行志では、武陵の女子である李娥が復活する。建安四年とされる。袁紀と異なる。
ぼくは思う。建安四年は、199年だから、袁術が即位した歳だなあ!でも袁術は微賤でないから、この予言はべつのことを言っている。笑

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初平三年、董卓を殺した王允を李傕が殺す

春、李傕が頴川を襲い、劉虞が袁術に兵を送る

春正月丁丑〔一〕,大赦天下。
〔一〕徐紹楨曰:「正月庚寅朔,紀有丁丑疑誤。」

春正月(丁丑)、天下を大赦した。

徐紹楨はいう。正月は庚寅がついたちだ。「丁丑」は誤りでないか。ぼくは思う。でも范曄『後漢書』献帝紀も、丁丑なんだけど。


牛輔遣李傕、郭汜、張〔濟〕(倕)〔一〕、賈詡出兵擊關東,先向孫堅〔二〕。堅移屯梁東,大為傕等所破。堅率千騎潰圍而去。復相合戰於陽人,大破傕軍〔三〕。傕遂掠至陳留、潁川,荀彧鄉人多被殺掠。
〔一〕據袁紀下文及三國志、范書改。 〔二〕范書董卓傳作「擊破河南尹朱雋於中牟」。 〔三〕按三國志及范書,堅屯梁東及合戰陽人,均系初平二年事。袁紀上卷已述孫堅自陽人進據洛陽,此又重出,恐有誤奪。且堅于梁東一役,乃敗于徐榮之手;而勝於陽人,系破胡軫、呂布之師,袁紀誤也。

牛輔は、李傕、郭汜、張済、賈詡に、関東へ出撃させた。まず孫堅に向かう。

『後漢書』董卓伝はいう。董卓軍は、河南尹の朱儁を中牟で破る。

孫堅は梁東に移り、おおいに李傕に破れる。孫堅は1千騎をひきいて、李傕の包囲をぬける。陽人で再戦して、孫堅が李傕を大破した。

『三国志』と『後漢書』では、孫堅は梁東に屯して、陽人で合戦した。どちらも初平2年(1年前)のことである。さっき袁宏も、孫堅が陽人から洛陽に入ったと記述してた。恐らく誤りである。孫堅が梁東で戦ったとき、李傕でなく徐栄に敗れた。陽人では、李傕でなく胡軫と呂布を破った。袁宏の誤りである。
ぼくは思う。いまの注釈のおかげで、全部すっきりした。いま李傕が頴川にゆくとき、孫堅との戦いはなかったのね。「先に孫堅に向かう」というのは、編者によるツジツマ合わせだ。こういう「手垢」が残った記事がおおいなあ!

李傕は、陳留、潁川を寇掠した。荀彧の同郷者が殺された。

帝思東歸,使侍中劉和出關詣其父太傅劉虞,令將兵來迎。道經南陽,袁術利虞為援,質劉和不遣,許以兵至俱西,命劉和為書與虞。虞得書,遣數千騎詣術。公孫瓚知術有異志,不欲遣,乃止虞,虞不從。瓚懼術聞而怨之,亦遣其從弟越將千騎詣術以自結,陰教術執和,奪其兵。由是虞、瓚有隙。
初,五原人呂布便弓馬,膂力過人。既殺丁原,董卓信愛之,誓為父子。(中略) 允曰:「君自姓呂,本非骨肉。今憂死不暇,何謂父子?」遂許之。

天子は洛陽に帰りたい。侍中の劉和を函谷関からだし、父の太傅する劉虞に「兵をひきいて天子を迎えろ」と依頼にゆく。
劉和が南陽をとおる。袁術は劉虞を利して、劉虞を援助したい。袁術は劉和を留めて、幽州に行かせない。袁術は劉和に、兵をつれて西することを許す。劉和から劉虞に手紙を書かせた。劉虞は手紙を見て、数千騎を袁術におくる。

ぼくは思う。現象だけから解釈すると。袁術は天子の東帰をたすけたい。劉和は、これを成功させる目処がないので、仕方なく幽州の劉虞にゆくという。長安のそばに拠点がないから、幽州からゴッソリ大兵とともに南下するしかないかなあーという、成算がない状態。だが、ここで袁術が形勢を変えた。袁術は「私が協力する。危険だから、劉和は南陽で保護する。南陽の兵と、劉虞の兵をあわせれば、天子を東帰させられる。劉虞は、南陽に拠点を得られるから、成功しやすくなる。劉和が幽州に行かなくてもよい」と提案したのだろう。

公孫瓚は、袁術の異志を知るから、劉虞の兵を南陽に行かせたくない。

ぼくは思う。公孫瓚は劉虞の部下として、劉虞の戦力が、袁術の戦力に付けかえられることを警戒したのかな。劉虞と袁術は、天子の東帰という目的で一致しているが、公孫瓚は「群雄の兵力の足し引き」をやっている。公孫瓚だけが、いちはやく頭を乱世の仕様にバージョンダウンした。
ぼくは思う。ところで公孫瓚は、どうやって袁術の異志を知ったのか。接点がないよなあ。史家が「公孫瓚が劉虞の派兵に反対したのはなぜか。わからないけど、袁術がらみだから、袁術の異志のせいにしよう」という、概算をやっちゃったのでは。

劉虞は公孫瓚をおしきって派兵した。公孫瓚は、袁術に派兵の反対を知られ、袁術から怨まれるのを恐れて、従弟の公孫越を袁術におくり「劉和を捕らえて、劉虞の兵を奪おう」という。これにより、劉虞と公孫瓚は仲がわるくなる。

ぼくは思う。記述を額面どおり読むと、「公孫瓚は袁術が、天子をないがしろにするのを見ぬいていた。だがお人好しの劉虞が、袁術なんかに派兵してしまった。平和ボケの時代錯誤である。だから公孫瓚は、少なくとも袁術だけでも、群雄の思考回路にバージョンダウンさせようとした。公孫瓚と袁術という群雄同士の同盟をつくって、漢室のつぎの時代を築こうとした。漢室をたすけたい劉虞とは、衝突が必至である。袁術もまた、じつは劉虞や天子を嫌っていたので、公孫瓚に新しい群雄ゲームに勧誘してもらって、内心嬉しかった」となるのか。やっぱりムリがある。下線部がねえ、正しくないのよ。
ぼくが思うに「公孫瓚が袁術の異志を知っており」とするから、この前提の誤りにより、意味不明になる。


4月、呂布が董卓を殺し、孫堅が戦死

初,五原人呂布便弓馬,膂力過人。既殺丁原,董卓信愛之,誓為父子。(中略) 允曰:「君自姓呂,本非骨肉。今憂死不暇,何謂父子?」遂許之。
夏四月辛巳,帝有疾,既瘳,大會群臣於未央殿。卓置衛,自其營至於掖門。士孫瑞使騎都尉李順將呂布親兵十人〔一〕,偽著衛士服於掖門。卓將出,馬敗不進,卓怪之,欲還。布勸之,遂行。入門,衛士以戟刺之。卓衣內有鎧,不入,傷臂墜車,大呼曰:「呂布何在!」對曰:「在此。」布曰:「有詔。」趣兵斬之。卓罵曰:「庸狗,敢如是邪!」遂斬之。卓母子皆誅之,尸於市。司徒王允使人然火卓腹上,臭乃埋之〔二〕。卓字仲潁,隴西臨洮人。少好任俠,嘗遊羌中,盡與諸帥相結。後歸耕於野,而豪帥有來從之者,卓與俱還,殺耕牛相與宴樂。諸豪帥感其意,歸相歛,得雜畜千餘頭以贈之。卓桓帝末以六郡良家子為羽林郎,有才武膂力,雙帶兩,左右馳射。稍以軍功,遂至大將軍。
〔一〕按三國志、范書「李順」均作「李肅」。李賢曰:「肅,呂布同郡人。」 〔二〕三國志、范書均作「守尸吏自然火置卓臍中」,非王允所使。袁紀所述,與情理不合。

はじめ呂布は、丁原を殺して、董卓と父子を誓う。王允は「姓が違うじゃん」と言い、呂布に董卓殺害を同意させた。
夏4月辛巳、天子の病気がなおり、群臣と未央殿であう。士孫瑞は、騎都尉の李粛(李順)に、呂布ら10人をひきいさせる。呂布が董卓に「詔があるよ」と言って斬る。董卓の母子も、死体を市にさらす。司徒の王允が、董卓の腹に火をつける。臭ったので、董卓の死体を埋めた。

『三国志』と『後漢書』では、死体を守る下級役人が、ヘソに火をさす。王允の指示ではない。事情がちがう。ぼくは思う。でも、王允がわざわざ使役するとか、臭いから埋めるとか、リアリティがあるなあ!
ぼくはいう。董卓の死体の遊びかた。『三国志』では死体の管理者が死体にロウソクを刺して、長らく火が消えないという。『後漢紀』では、司徒の王允サマが火を点けろと指示するが、死体が臭いので埋めた。後者『後漢紀』のほうがリアルか。王允は敵意を剥きだす。そして死体は「権力の象徴」ではなく、ナマモノね。史書では、あたかも象徴物のように扱いたがるが、やっぱり臭いのだ。

董卓は隴西の人で、、董卓伝をはぶく。

卓之死,蔡邕在允坐,聞卓死,有歎惜之音。允責邕曰:「國之大賊,弒主殘臣,天地所不覆,人神所同疾。君為王臣,世受國恩,國主危難,曾不倒戈,卓受大誅,而更嗟歎。禮之所去,邢之所取。」使吏收付廷尉治罪。邕謝允曰:「雖不忠,猶識大義。古今安危,耳所厭聞,口所常說,豈當以背國而向卓也。狂瞽之言,謬出患入,正謂邕也。願黔首為刑,以繼漢史。」公卿惜邕才,咸共諫允,允曰:「昔武帝不殺司馬遷,使作謗書,流於後世。方今國祚中微,戎馬在郊,不可令佞臣執筆在幼主左右,後令吾徒受謗議。」遂殺邕〔一〕。
邕字伯喈,陳留圍人也。博學有雋才,善屬文、、
〔一〕裴松之曰:「蔡邕雖為卓所親任,情必不黨。寧不知卓之姦凶,為天下所毒,聞其死亡,理無歎惜,縱復令然,不應反言于王允之坐。斯殆謝承之妄記也。史遷紀傳,博有奇功于世,而云王允謂孝武應早殺遷,此非識者之言。但遷為不隱孝武之失,直書其事耳,何謗之有乎?王允之忠正,可謂內省不疚者矣,既無懼于謗,且欲殺邕,當論邕應死與不,豈可慮其謗己而枉戮善人哉?此皆誣罔不通之甚者。」按司馬遷直書漢事,不避忌諱,故漢代秘其書,流布不及漢書之廣。類聚卷十引班固典引敘云:「永平十七年,詔因曰:『司馬遷著書成一家之言,揚名後世,至以身陷刑之故,反微文譏刺,貶損當世,非誼士也。』」此言代表漢代官方對史遷的正式評價,故王允因之,言史記為「謗書」,非其個人獨特之見也。

蔡邕が董卓の死を悲しむので、王允は廷尉に付した。蔡邕はいう。「黔首の刑にしてくれ。漢代の歴史を書き継ぎたい」と。公卿は蔡邕をおしんだが、王允は「武帝は司馬遷を殺さなかったから、そしる文書を遺された」といい、蔡邕を殺した。

司馬遷は漢代のことを、直接的に書いた。忌諱を避けなかった。ゆえに漢代に『史記』は秘され、『漢書』ほど普及しない。『類聚』10にひく班固の序文はいう。「永平17年、詔された。司馬遷は文書を作成して、後世に名声をあげた。だが刑罰を受け、文書のあげあしをとられた。士人は司馬遷(のような運命) を好まない」と。これは、漢代の官僚から司馬遷への評価である。ゆえに王允は、蔡邕が歴史を記すことを「謗書」とした。王允その人が、特別に『史記』や蔡邕の文書を見たのでない。
ぼくは思う。「蔡邕が王允の悪口を書く」なんて矮小化してはいけない。王允は、事実をそのまま書くことの怖さ全体を恐れた。誤解を招くし、褒貶されるし。蔡邕の評価が後世にゆらぎ、王允の評価が後世にゆらぎ。この膨大な、記述-解釈-記述-解釈というサイクルに、がっつり巻きこまれることを恐れたんじゃないかな。まあ董卓を殺したんだから、このサイクルに巻きこまれるだけの影響力は、充分にあったよ。王允さん、べつに董卓を殺したことを後悔しているわけじゃないでしょ?せいぜい袁宏の「脳内補正」により、董卓の腹に火を灯すように、指示したという役割を振られたぐらいだよ。

蔡邕は陳留の人で、、蔡邕伝ははぶく。

ぼくは思う。いろいろ記述に検討が加えられている。『後漢書』蔡邕伝を読むなら、この『後漢紀』の注釈もきちんと踏まえましょうね、というメモ。蔡邕伝、蔡邕伝、蔡邕伝と、3回くらい書いておけば、いつかググッたとき、このメモに突き当たるだろうか。


於是以呂布為奮武將軍,假節、開府,如三公。
初,黄門郎荀攸與議郎鄭泰、何顒、侍中种輯謀曰:「董卓無道,甚於桀紂,天下怨之,雖資強兵,實一匹夫耳。今直刺殺之,以謝百姓。然後據殽函,挾王命號令天下,桓文之舉也。」事垂就而發覺,收顒、攸繫獄〔一〕。顒憂懼自殺,攸言笑飲食自若。會卓死得免,棄官歸鄉里。 〔一〕通鑑考異曰:「魏志云:攸與何顒、伍瓊同謀。按顒、瓊死已久,恐誤。」故通鑑略顒之名。考異之說是。

ここにおいて、呂布は奮武將軍となり、假節、三公のように開府。
はじめ黄門郎の荀攸は、議郎の鄭泰と何顒、侍中の种輯らと董卓を殺そうとした。発覚した。何顒は捕らわて自殺した。荀攸は捕らわれたが、笑って飲食した。董卓が死んだので、荀攸は官位を捨てて帰郷した。

ぼくは思う。荀攸は『蒼天航路』の可愛さはないなあ。


兗州刺史劉岱為黄巾所殺,東郡〔太守〕(刺史)曹操為兗州牧〔一〕,擊黄巾破之,降者三十餘萬人。 五月丁未,大赦天下〔二〕。
〔一〕據上卷之文改。 〔二〕范書作「丁酉」。通鑑考異曰:「按是年正月丁丑,大赦。及李傕求赦,王允曰:『一歲不再赦。』然則五月必無赦也。」

兗州刺史の劉岱が、黄巾に殺された。東郡太守の曹操が兗州牧となり、黄巾30余万をくだす。
5月丁酉(丁未)、天下に大赦した。

『通鑑考異』はいう。この歳の正月丁丑、大赦した。李傕が大赦をもとめたとき、王允は「1年に2回の大赦はやらない」という。おそらく5月に大赦はなかった。


征西將軍皇甫嵩為車騎將軍。
董卓既死,牛輔為其麾下所殺。李傕等還,以輔死,衆無所依杖,欲各散歸。既無赦書,而聞長安中欲盡誅敘州人,憂恐不知所為。賈詡曰:「聞長安中議欲盡殺敘州人,而諸君棄衆單行,即一亭長能束君矣。不如率衆而西,所在收兵,以攻長安,為董公報仇。幸而事濟,奉國家以正天下;若不濟,走未晚也。」衆以為然。遂將其衆而西,所在收兵,攻至長安,衆十餘萬。卓故部將樊稠等合兵圍長安。
劉表與袁紹連和,袁術怒召孫堅攻表,戰於新野。表退屯襄陽,堅悉衆圍之。表將黄祖自江夏來救表,堅逆擊破祖,乘勝將輕騎追之,為祖伏兵所殺。堅子策、權皆隨袁術。

征西將軍の皇甫嵩は、車騎將軍となる。
董卓が死に、牛輔は部下に殺された。賈詡が李傕に「長安を攻めてから逃げても遅くない」という。李傕は西して、長安を10余万で攻めた。樊稠も包囲にくわわる。
劉表と袁紹が連和した。袁術は孫堅を召して、劉表を新野で攻める。劉表は襄陽にひく。孫堅が襄陽を包囲する。黄祖が江夏から、劉表を救いに来る。孫堅が黄祖を迎撃して、黄祖を追いかける。黄祖は伏兵で孫堅を殺した。

ぼくは思う。[襄陽で籠もる劉表]包囲する孫堅 ← 江夏から黄祖
この構図を、ちゃんと理解していたか。してなかった。がーん。

孫策と孫権は、袁術にしたがう。

6月、李傕が王允と黄琬を殺し、朱儁を徴す

六月戊午,長安城陷,呂布與戰不勝,將數百騎奔冀州。傕等入城內,殺太常种弗、太僕魯猷、大鴻臚周奐、城門校尉崔烈、越騎校尉王順〔一〕,死者數十人。司徒王允挾乘輿上宣平城門,允謂傕等曰:「臣無作威作福,而乃放兵縱橫,欲何為乎?」傕曰:「董卓忠於陛下,而無辜為呂布所殺,欲為卓報布,不敢為逆爾。請事竟,詣廷尉受罪。」〔二〕。
〔一〕三國志董卓傳注引張璠漢紀,「魯猷」作「魯馗」,「王順」作「王頎」。范書董卓傳种弗為「衛尉」,獻帝紀作「太常」,與袁紀同。又「順」亦作「頎」,而「猷」作「旭」。趙一清曰:「旭即馗也,字異耳。」旭乃魯恭之孫。 〔二〕三國志董卓傳注引張璠紀「允」作「帝」,「臣」作「卿」。袁山松書與袁紀同。然據文意,似璠紀是。

6月戊午、長安が陥落した。呂布は冀州ににげる。李傕は入城し、太常の种弗、太僕の魯猷、大鴻臚の周奐、城門校尉の崔烈、越騎校尉の王順を殺した。

『三国志』董卓伝と、注引の張璠『漢紀』では、「魯猷」を「魯馗」とし、「王順」を「王頎」とする。『後漢書』董卓伝では、种弗の官職は太常でなく「衛尉」だが、獻帝紀では「太常」である。魯旭は、魯恭の孫である。

司徒の王允は、李傕に「兵を放って、どうするつもりか」ときく。李傕は「無罪の董卓が呂布に殺された。董卓の報復にきた。王允は、廷尉にゆき罪を受けよ」という。

袁宏は、王允が李傕を詰問するが、『三国志』董卓伝にひく張璠『漢紀』では、天子が李傕を詰問する。袁山松は袁宏とおなじ。文意から判断すると、張璠『漢紀』が正しいか。つまり天子が李傕を詰問するほうが良いか。


己未,大赦天下。拜李傕為揚武將軍,郭汜為揚烈將軍,樊稠等皆為中郎將。 甲子,李傕殺故太尉黄琬、司徒王允及其妻子。衆庶為之流涕,莫敢收允,故吏京兆趙戩葬允。上以允為忠,封其孫異為安樂侯〔一〕。 〔一〕范書王允傳作「封其孫黑為安樂亭侯」。

6月己未、天下を大赦した。李傕は揚武將軍、郭汜は揚烈將軍、樊稠らは中郎將となる。6月甲子、李傕は、もと太尉の黄琬、司徒の王允とその妻子を殺した。王允の故吏・京兆の趙戩が、王允を葬った。天子は王允が忠だったので、孫の王異を安樂侯とした。

『後漢書』王允伝では、孫の王黒が安樂亭侯となる。


◆王允伝

允字子師,太原祁人。容儀雅重,非禮不動。郭林宗稱允曰:「 宰相才也。」與之友善。 仕為郡主薄。太守劉偉受宦者趙津請託,召中都路拂為五官掾。允以拂狡猾不良,封還偉教,至於四五,坐鞭杖數十,終不屈撓。拂由是廢棄,而允名震遠近〔一〕。拂富於財,賓客數百,深怨允,常欲害之。允從者不過數人,每與拂遇,允常坐車中,按劍叱之,拂輒不敢當。辟司徒府,稍遷豫州刺史。
黄巾賊別黨起於豫州,允擊,大破之。於是賊中得中常侍張讓書,允具以聞靈帝。帝深切責讓,讓辭謝,僅而得免。讓由是怨允,譖之於靈帝,詔徵允治罪。道遇赦,還官。後百餘日,復見徵。太尉楊賜與允書曰:「若以張讓事,百日再徵,宜深思之。」允故吏流涕進藥,允棄而不飲。會大將軍何進請允,得減死一等〔二〕。遂變名姓,隱遁山藪。後何進表允為從事中郎,遷河南尹、太僕。及在公輔,值國家禍亂,允外相彌縫,內謀王室,甚有大臣之度。自天子及國中皆倚允,卓亦雅信焉。
卓既死,與士孫瑞議赦卓部曲,既而疑曰:「部曲從其主耳,今若名之惡逆而赦之,恐適使深自疑,非所以安之也。」乃止。或說允曰:「卓部曲素憚袁氏,而畏關東,若一旦解兵開關,必人人自危。不若使皇甫嵩領其衆,因使屯陝以安之,徐與關東通謀,以觀其變。」允曰:「不然。關東舉義兵者,皆吾徒也。今若拒險屯守陝,雖安敘州人,而疑關東之心也。」呂布將奔,謂允曰:「公可去矣!」允曰:「安國家,吾之上願也。若其不獲,則殺身以奉朝廷。幼主恃我而已,臨險難苟免,吾不為也。努力謝關東諸公,當以國家為念。」
〔一〕范書王允傳曰:「年十九,為郡吏。時小黄門晉陽趙津貪橫放恣,為一縣巨患,允討捕殺之。而津兄弟諂事宦官,因緣譖訴,桓帝震怒,徵太守劉,遂下獄死。允送喪還平原,終畢三年,然後歸家。復選仕,郡人有路拂者,少無名行,而太守王球召以補吏,允犯顏固爭,球怒,收允欲殺之。刺史鄧盛聞而馳傳辟為別駕從事。允由是知名,而路拂以之廢棄。」與袁紀大異。 〔二〕范書本傳言為允請者尚有太尉袁隗、司徒楊賜。按中平元年,賜任太尉,隗乃司徒,范書誤置耳。

王允伝がある。はぶく。いろいろ『後漢書』と違うみたい。

◆黄琬伝

黄琬字子琰,太尉瓊之孫也。為五官中郎將,所選舉皆貧約守志者。諸權富郎共疾之,搆琬以為黨,遂免官禁錮,幾將二十年。司空楊賜深敬重之〔一〕,上書薦琬有撥亂之才。由是徵拜議郎,〔擢〕(權)為青州刺史〔二〕,遷侍中、尚書。
中平末,敘州叛,大將軍出征,軍調不足,富殖之徒多以財為官者,或起家為州郡。琬由是奏太尉樊稜、司徒許相,「皆竊位懷祿,苟進無恥,終無匡救之益,必有覆公折足之患〔三〕。宜皆罷遣,以清治路。軍費雖急,禮義廉恥,國之大本也,苟非其選,飛隼在墉,〔四〕為國生事,此猶負石救溺,不可不察」。頃之,遷右扶風,歷九卿,徵為豫州牧。值黄巾陸梁,民物凋敝,延納豪俊,整勒戎馬,征伐群賊,威聲甚震。是時上遣下軍校尉鮑鴻征葛陂賊,鴻因軍徵發,侵盜官物,贓過千萬。琬乃糾奏其姦,論鴻如法。琬既名臣,又與王允同謀,故及於難。
〔一〕范書黄琬傳作「太尉楊賜」。按賜中平二年九月始拜司空,十月遂卒。賜薦琬有撥亂之才,乃光和元年之事,時賜任太尉,袁紀誤。 〔二〕據范書黄琬傳改。 〔三〕疑「公」系「餗」之訛。 〔四〕易解卦曰:「上六,公用射隼于高墉之上。」隼,鷹鷂也。墉,牆也。此喻貪殘之人居高位,必致禍亂,而被人所誅討。

黄琬伝がある。はぶく。編年体じゃないね。三公の異同が激しい。

傕兵之入長安,太常种弗曰:「為國大臣,不能禁暴禦侮,使白刃向宮,去將安之!」遂戰而死。弗字潁伯,司徒暠之子也。弗子邵為使者,嘗忤於卓,左遷敘州刺史。徵為九卿,辭曰:「我昔盡忠於國,為邪臣所妒。父以身徇國,為賊所害。夫為臣子不能除殘去逆,何面目復見明主哉!」三輔之臣聞之,莫不感慟焉。

李傕が長安に入ると、太常の种弗は「大臣となり、宮殿の暴力を防げないとは。白刃をもち、宮殿に駆けつけよう」といい、戦死した。种弗は、司徒の种暠の子である。种弗の子・种邵は、かつて董卓に逆らって涼州刺史にされた。京師にもどり九卿となる。种邵は「父の种弗は、国のために戦死した。父子ともに逆賊を除けなければ、なんの面目で君主に会えるか」と言った。三輔の臣たちは、みな感動した。

初,南陽何顒、河內鄭泰好為奇畫。顒逮郭林宗,與之遊學。及黨事起,顒以被禁錮。乃變姓名,亡匿汝南,所至皆結豪傑,名顯荊豫之間。靈帝末,君子多遇禍難。顒歲中率常再三私入洛陽,為人解釋患難。泰知天下將亂,陰交結豪傑,家富於財,有田四百頃,而食常不足,名聞山東。王室西遷,泰以尚書郎從入關〔一〕。是時京師饑乏,士人各各不得保其命,而泰日與賓客高會,作倡樂,仰泰全濟者甚衆。長安既亂,南奔袁術〔二〕。術以泰為揚州刺史,未至而卒。
〔一〕三國志鄭渾傳注引張璠紀作「留拜議郎」,范書亦然。 〔二〕三國志鄭渾傳注引張璠紀及范書均作「東歸」。

はじめ南陽の何顒と、河内の鄭泰は、奇策をこのむ。長安に遷都があり、鄭泰は尚書郎として関中に入る。

『三国志』鄭渾伝にひく張璠『漢紀』では、鄭泰は留まって議郎を拝する。『後漢書』もおなじ。

長安が乱れると、鄭泰は南して袁術をたよる。袁術は鄭泰を揚州刺史とするが、着任する前に死んだ。

『三国志』鄭渾伝にひく張璠『漢紀』では、鄭泰が袁術にいくとき「東帰」とする。『後漢書』もおなじ。ぼくは思う。長安から南陽は、東南の方角なのかな。


丙子,前將軍趙謙為司徒。
尚書令朱雋之出奔也,與孫堅俱入洛陽,既而屯於中牟。李傕等既破長安,懼山東之圖己,而畏雋之名。傕用賈詡計,使人徵雋。軍吏皆不欲應,雋曰:「以君召臣,義不俟駕,況天子詔乎!且傕、汜小豎,樊稠庸兒,無他遠略,又勢均力敵,內難必作。吾乘其弊,事可圖也。」遂就徵為太僕。

6月丙子、前將軍の趙謙が司徒となる。
尚書令の朱雋は出奔した。朱儁は、孫堅とともに洛陽に入った。洛陽に入ったのち、中牟に屯する。李傕らが長安をやぶると、李傕は山東に敗れることを懼れ、朱儁の名声を警戒した。李傕は賈詡の計略をもちい、朱儁を徴した。軍吏が「行くな」というが、朱儁は長安にゆき、太僕になった。朱儁は「天子に徴されたら行くべきだ。李傕、郭汜、樊稠はガキで、内紛するから、私がそのスキを突く」という。

秋、馬日磾が袁術に敗れ、李傕と楊彪が執政

秋七月,李傕使樊稠至郿葬董卓,大風暴雨,流水入墓,漂其棺槨。
庚子,太尉馬日磾為太傅,錄尚書事。

秋7月、李傕は樊稠に、郿県で董卓を葬らせた。大風と暴雨で、雨水が墓に流れこみ、董卓の棺槨をただよわす。
7月庚子、太尉の馬日磾が太傅となり、錄尚書事する。

八月辛未,車騎將軍皇甫嵩為太尉。使太傅馬日磾、太僕趙岐持節鎮關東。
初,孫堅殺南陽太守張咨,袁術得據其郡。南陽戶口數百萬,而術奢淫肆欲,徵發無度,百姓苦之。既而與紹有隙,又與劉表不平,引軍入陳留。曹操、袁紹會擊術,大破之〔一〕。術將餘衆奔九江,殺揚州刺史陳溫,領其州〔二〕。
〔一〕三國志袁術傳與袁紀同。然三國志武帝紀、范書袁術傳所載,操、紹會擊術,系於初平三年;而引軍入陳留,系於四年,與袁紀異。 〔二〕三國志、范書均曰術殺陳溫,獨通鑑作「卒」。考異曰:「 裴松之按:英雄記,溫自病死,不為術所殺。九州春秋曰:『初平三年,揚州刺史陳禕死,術以瑀領揚州。』蓋陳禕當為陳溫,實以三年卒,今從之。」盧弼曰:「周壽昌曰:術更用陳瑀為揚州,則亦非遽自領矣。弼按:范書鄭太傳,太與何顒、荀攸謀殺董卓,事洩脫身,自武關走,東歸袁術。術上以為揚州刺史,未至官,道卒。袁宏紀此事在初平三年,當在陳瑀為揚州之先也。」通鑑及弼說是。

8月辛未、車騎將軍の皇甫嵩を太尉とする。太傅の馬日磾、太僕の趙岐に、持節して関東を鎮圧にゆかせる。
はじめ孫堅は、南陽太守の張咨を殺し、袁術が南陽に拠った。南陽の戶口は數百萬だが、袁術が奢淫をほしいままにした。徵發は限度がなく、百姓は苦しむ。袁術は、袁紹と劉表と対立して、陳留に進軍する。曹操と袁紹は、袁術を大破した。

『三国志』袁術伝もおなじ。だが『三国志』武帝紀、『後漢書』袁術伝は、曹操と袁紹の勝利を、初平3年とする。だが袁術が陳留に入るのを、初平4年につなげる。袁宏と異なる。

袁術は九江ににげ、揚州刺史の陳温を殺して、揚州を領する。

『三国志』と『後漢書』は、袁術が陳温を殺したというが、『通鑑』は陳温が「卒した」とする。
『通鑑考異』裴松之をひく。『英雄記』で張温は病死である。『九州春秋』では、初平3年、揚州刺史の陳禕が死に、袁術は陳瑀に揚州を領させたとある。けだし『九州春秋』の陳禕を陳温とすべきで、初平3年に死んだのだ。だから司馬光は『通鑑』を「卒した」とすると。
盧弼はいう。周寿昌ははいう。袁術は陳瑀を揚州刺史とした。盧弼が『後漢書』鄭泰伝をみるに、鄭泰は、何顒や荀攸と董卓の暗殺をこころみ、武関からにげ、袁術に帰した、袁術は鄭泰を揚州刺史に上表したが、鄭泰が揚州に着任する前に死んだと。袁宏はこれを初平3年とする。陳瑀が揚州刺史になるより先である」と。
『通鑑』と盧弼は一致する。


李傕等欲術為援,因令日磾即拜術為左將軍,封陽翟侯,假節。日磾、趙岐俱在壽春。岐守志不撓,術憚之。日磾頗有求於術,術侵侮之。從日磾借節視之〔三〕,因奪不還。日磾欲去,術又不遣,病其所守不及趙岐,嘔血而死〔四〕。
〔三〕李賢曰:「節所以為信,以竹為之,長八尺,以旄牛尾為眊三重。」 〔四〕盧弼曰:「按當時割據自雄者,皆欲屈服前朝顯宦以自重,如曹丕之以鍾繇、華歆、王朗為三公;劉備云以許靖為太傅,與袁術之欲屈日磾,事正相同。又按術又欲以故兗州刺史金尚為太尉,尚不屈逃去,為術所害。」

李傕らは、袁術の援助がほしい。馬日磾を袁術にゆかせ、袁術を左將軍、陽翟侯、假節とする。馬日磾と趙岐は、どちらも寿春にいる。趙岐は袁術に屈さないので、袁術は趙岐をはばかる。馬日磾は袁術にすりよるので、袁術に侮られた。袁術が馬日磾の節を借りパクした。馬日磾は寿春を去りたいが、袁術は去らせない。馬日磾は発病して死んだ。

李賢によると、馬日磾が借りパクされた節とは、竹製で長さ8尺、旄牛の尾を、三重に眊する。ぼくは思う。趙岐も寿春にいたのか。そして馬日磾は、袁術を「求」めて、袁術に漬けこみのスキを見せたのね。袁術は節をパクったが、袁術も「仮節」だから、天子からならもらう権利があった。
盧弼はいう。このとき割拠した群雄は、みな前朝の高官を屈服させ、自分に重みを持たせたい。曹丕が、鍾繇、華歆、王朗を三公にしたように。劉備は許靖を太傅にした。袁術が馬日磾を屈させたいのも同じである。袁術は、もと兗州刺史の金尚を太尉にしたいが、金尚は屈さずに逃げ、袁術に殺された。ぼくは思う。そうだった。つかえる!


九月,揚武將軍李傕為車騎將軍,封池陽侯,領司隸校尉,假節。郭汜為後將軍,封郿陽侯,〔一〕。樊稠為右將軍,封萬年侯。傕、汜、稠擅朝政。張濟為驃騎將軍〔二〕、平陽侯,屯弘農。
〔一〕三國志董卓傳作「美陽侯」。 〔二〕范書獻帝紀作「鎮東將軍,三國志董卓傳與袁紀同。

9月、揚武將軍の李傕は、車騎將軍、池陽侯となり、司隸校尉を領し、假節。郭汜は後將軍、郿陽侯。

『三国志』董卓伝では、郭汜は美陽侯。

樊稠為は、右將軍、萬年侯。李傕と郭汜と樊稠が、朝政をほしいままにする。張濟は驃騎將軍、平陽侯となり、弘農に屯する。

『後漢書』献帝紀は、朝政を鎮東将軍とする。『三国志』董卓伝は、袁宏と同じく驃騎将軍である。


初,董卓入關,說韓遂、馬騰共圖山東。遂、騰見天下方亂,亦欲起兵倚卓。卓死,傕、汜攻破京師,遂、騰將兵救天子。是月遂屯郿,騰屯鄠〔一〕。 司徒趙謙以久病罷〔二〕。甲申〔三〕,司空淳于嘉為司徒,光祿大夫楊彪為司空,錄尚書事。
〔一〕三國志董卓傳曰:「以遂為鎮西將軍,遣還敘州,騰征西將軍,屯郿。」 〔二〕范書獻帝紀作「八月」事,通鑑從袁紀。 〔三〕范書同。按九月丁亥朔,無甲申,疑有訛。

はじめ董卓が関中に入ると、韓遂と馬騰に説き、ともに山東と戦おうとする。韓遂と馬騰は、天下が乱れるのを見て、董卓に起兵しようと考える。董卓が死に、李傕らが長安を攻めると、韓遂と馬騰は天子を救いたい。この9月、韓遂は郿県、馬騰は鄠県に屯する。

『三国志』董卓伝では、韓遂は鎮西将軍として、涼州にかえる。馬騰は征西将軍として、郿県に屯する。ぼくは補う。韓遂がそばにいるか、涼州に還ったかが異なる。

司徒の趙謙が、ひさしく病気なので辞めた。(甲申)、司空の淳于嘉を司徒とする。光祿大夫の楊彪を司空とし、楊彪が錄尚書事する。

趙謙の退職を、『後漢書』献帝紀では8月とするが、『通鑑』は9月とする。淳于嘉が司徒となるのは、『後漢書』も同じである。だが9月は丁亥がついたちなので、甲申がない。袁宏と范曄、どちらも誤りか。


冬、劉表が荊州牧、李傕が唐姫を欲する

冬十月,荊州刺史劉表遣使貢獻,以表為荊州牧。
初,弘農王唐姬者,故會稽太守唐瑁女也。王薨,〔父〕(人)欲嫁之〔一〕,不從。及關中破,為李傕所略,不敢自說也。傕欲妻之,唐姬不聽。尚書賈詡聞之,以為宜加爵號。於是迎置於園,拜為弘農王妃。
〔一〕據御覽卷四三九引袁紀改。

冬10月、荊州刺史の劉表が、使者をやり貢献した。荊州牧とする。
はじめ弘農王の唐姫は、もと會稽太守の唐瑁の娘だ。弘農王が死ぬと、唐瑁は娘をべつに嫁がせない。唐姫は従わず。関中を李傕が劫略し、李傕は唐姫を妻にしたい。唐姫はゆるさず。

ぼくは思う。李傕が劉弁の妻をめとれば、皇帝と同格!


李傕舉博士李儒為侍中,詔曰:「儒前為弘農王郎中令,迫殺我兄,誠宜加罪。」辭曰:「董卓所為,非儒本意,不可罰無辜也。」 丁卯,日有重暈〔一〕。 太尉皇甫嵩以災異策免。光祿大夫周忠為太尉,錄尚書事〔二〕。 〔一〕范書及續漢志無此事。又十月丙戌朔,無丁卯,疑袁紀誤。 〔二〕范書作十二月事。

李傕は、博士の李儒を侍中にあげた。天子は詔した。「李儒はさきに弘農王の郎中令となり、兄の劉弁を殺した。李儒に罪を加えよ」と。李傕は「董卓がやった。李儒の本意でない。李儒は罪がない」という。

ぼくは思う。じつは李傕はまだしも、李儒と李粛あたりとの違いが、よく分からない。李傕も、董卓と同時に死んでたら、李傕、李儒、李粛の区別がつかなかっただろう。

(丁卯)、日が重暈した。

『後漢書』と『続漢書』では、重暈がない。また10月は丙戌がついたちなので、丁卯がない。袁宏の誤りだろう。


嵩字義真,規之兄子也。董卓之入,徵嵩為城門校尉。嵩長史梁衍說嵩曰:「漢室微弱,宦豎亂朝。卓既誅之,不能盡忠奉主,而廢立縱意。今徵將軍,禍大則憂危,禍小則困辱。卓在洛陽,天子來西,以將軍之衆,奉迎天子,發命海內。袁氏通其東,將軍逼其西,則成禽矣。」嵩不從,遂就徵。有司承旨,奏嵩下吏,將殺之。嵩子堅壽與卓素善,詣卓請嵩,卓免之。

皇甫嵩は皇甫規の兄子。董卓が入洛すると、城門校尉となる。皇甫嵩の長史する梁衍はいう。「董卓は廃立をした。董卓は洛陽にいる。天子は長安にゆく。天子を奉戴して、関東の袁氏と通じ、西から董卓を攻めよ」と。皇甫嵩は従わず、洛陽に徴された。有司が計画を知り、皇甫嵩を吏にくだして殺そうとした。皇甫嵩の子・皇甫堅寿は、董卓と仲がよいので、皇甫嵩は死を免れた。121201

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初平四年、李傕と天子が体制を整える

春、日食の予測を誤り、陶謙が徐州牧

春正月甲寅朔,日有蝕之。未晡八刻,太史令王立奏曰:「日晷過度,無有變〔也〕(色)〔一〕。」於是朝臣皆賀。帝密令尚書候焉,未晡一刻而蝕。尚書賈詡奏〔曰〕〔二〕:「立司候不明,疑誤上下;太尉周忠,職所典掌。請皆治罪。」詔曰:「天道幽遠,事驗難明。且災異應政而至,雖探道知微,焉能不失?而欲歸咎史官,益重朕之不德。」不從。於是避正殿,寢兵,不聽事五〔日〕(月)。〔三〕
〔一〕據范書、續漢志注引袁紀改。 〔二〕據范書、續漢志注引袁紀補。 〔三〕據續漢志注引袁紀改。下文丁卯,是正月第十四日,此不當作「五月」。

春正月の甲寅ついたち、日食あり。サルの八刻になる前に、太史令の王立が奏した。「始まるはずの時間を過ぎたが、日食しない」と。ゆえに朝臣は祝った。帝ひそかに天子は、尚書に観測させた。サルから1刻もたたないうちに、日食が始まった。尚書の賈詡はいう。「日食の予測を誤った。管理者である、太尉の周忠の責任である」と。天子は「天道の予測はむずかしい。周忠に責任を問わない。私のせいだ」という。正殿を避けて、天子は5日出てこない。

袁宏は5ヶ月とするが、下に正月14日の記事があるので、5ヶ月も出てこないのはおかしい。5日である。


丁卯,大赦天下。 徐州刺史陶謙遣使奉貢,以謙為徐州牧。

正月丁卯(14日)、天下を大赦した。
徐州刺史の陶謙が使者をだし、徐州牧にしてもらう。

ぼくは思う。『三国志』武帝紀と照合すると分かるのだが。いま、曹操の徐州侵攻と時期がかさなっている。つまり陶謙は、袁紹-曹操と対抗するために、李傕に使者を出している。
この時期は、天子-李傕-劉表-袁術-陶謙-張邈の漢室擁護者と、袁紹-曹操の革命論者との戦いである。もちろんこれは大局だから、同盟者のなかが密着しているとは言わない。劉表と袁術は、前年までは対立者だった (孫堅の死後に、対立は潜在化する)。李傕政権が成立したあとに限定すれば、根本的な組み合わせはこれだ。李傕に使者する者と、そうでない者。前者と後者の戦いはあるけど、同盟者のなかの戦いは起きてないよね。
ツイッター用まとめ。李傕が政権を握る、初平三年秋から数年間に限定して観察する。献帝との関係から見ると、「関東と関西の対立が解消され、袁紹と曹操だけが反発する」状態だ。武帝紀を「主語」にすると「天下に倒すべき敵がおおい」と感じるが、実は曹操が「討伐されるべき最後の反乱分子」だ。劉表、袁術、陶謙、張邈、劉虞は広義の同調者。
曹操は、後者のなかから前者に、突発的に鞍替えして、権力をにぎった。文字どおりのトリックスターなんだ。史実においても。これを関数にするとこうなる。
f輔漢(袁術):f革命(曹操)~f輔漢(曹操):f-袁術(革命) だな!
ツイッター用まとめ。190年代を「群雄割拠」と捉え、起きた戦闘をフラットに並べると本質を見失う。「後漢を支持/不支持」の大きな戦いと、後漢の内部での小さな戦いがある。大きな戦いは、専ら袁紹と曹操が仕掛ける(辺境の群盗も仕掛けるが)。残りは全て小さな戦い。平時の権力闘争と同じ。後漢末がおもしろいのは、曹操が大きな/小さな戦いという構図を破壊したこと。つまり「f輔漢(袁術):f革命(曹操)~f輔漢(曹操):f-袁術(革命)」という神話的な関数の変換が起きた。曹操は『三国演義』だけでなく、史実でも、媒介者=トリックスターだ。関数はCLストロースより。
いまの関数は、袁術のところに、李傕を入れても良いし、劉表を入れても良い。
ぼくは思う。「曹操は曹操でしかない」と、『蒼天航路』で曹操が言ってた気がするが、これは構造主義的には異論あり。袁術は「漢室を助ける」と一貫し、袁紹は「漢室をつぶす」と一貫する。二袁という2つの定点があるから、曹操の動きがトリッキーになれる。地面と重力のないところで「宙返り」できないのと同じ。曹操め!
@Golden_hamster さんはいう。後漢を不支持というよりは、献帝の不支持と言う方がいいような。漢王朝の別の天子を立てようとするのと漢王朝打倒は別モノでは。
ぼくはいう。このとき、劉虞は現実的な選択肢として残りません。袁紹は天子と承制を依頼し、どちらもコケました。劉虞の他の劉氏は、不遜な祭祀をやる者はいますがw、劉虞ほど明確な天子候補が史料にいません。単純のため、献帝支持と後漢支持は、近似して議論できると思います。


夏、東海王と瑯邪王の子弟を太守にする

癸酉,無雲而雷〔一〕。六月,華山崩。 東海王子琬、琅邪王弟邈詣闕貢獻。以琬為平原相,邈為九江太守,皆封列侯〔二〕。 〔一〕「癸酉」上當脫「夏五月」三字。 〔二〕按范書光武十王傳,琬乃東海懿王祗之子,封汶陽侯,拜為平原相。而琅邪順王容之弟邈拜陽都侯,為九江太守,且系於初平元年,與袁紀異。

夏5月癸酉、雲がないのに雷がなる。6月、華山が崩れた。

「夏五月」は脱字か。

東海王の子・劉琬と、琅邪王の弟・劉邈が、長安に貢献した。劉琬は平原相となり、劉邈は九江太守となり、どちらも列侯に封じられる。

ぼくは思う。後漢が皇族を官位につかってる!しかし、東海王の子が、平原相になるのって、同族で見張りあうことになる。なんか気まずいなあ。ぼくの感覚だと、なんか「照れくさい」なあ。後漢の平時の人材活用や、魏晋の制度とくらべて、どうなんだろう。平原国で、じっさいに何が起きたのか確かめねば。
『後漢書』光武帝十王伝はいう。劉琬は、東海懿王の劉祗の子であり、汶陽侯に封じられる。平原相を拝する。琅邪順王の劉容の弟・劉邈は、陽都侯を拝して、九江太守となる。これは劉邈の記事は、初平元年につづけて書かれるから、袁宏と異なる。ぼくは思う。劉邈は年代を特定してないだけで、「初平元年よりあと」だから、袁宏の誤りとも言えない。
@AkaNisin さんはいう。いろいろ気になります。王庶子がその様な具体的な官職に就く例は、後漢~魏で他に1、2例あったかどうかだと思います。また平原国は、たしか王のいない国だったような気がします。
ぼくはいう。王のいない国の相は、まんま太守と同じ職務になりますかね。当時の平原のことも含め、調べねば。ご指摘のとおり、平原相は、公孫瓚の置いた劉備と重複します。長安の当局から、劉備が逆賊と認定されていたことが分かります。
ぼくは思う。劉虞は子の劉虞をやり、東海王と瑯邪王も子弟を使者にした。公孫瓚は従弟を使者にした。こういう事例って、多いんですね。本人は任地を離れられないので、「信頼もできて、人質にもなれる」人材が使者になる。


太尉周忠以災異罷。太僕朱雋為太尉,錄尚書事。 己酉,以平原相劉備為豫州牧〔一〕。 〔一〕三國志之陶謙傳、先主傳,范書之陶謙傳及通鑑,均系此事於興平元年。袁紀誤。

太尉の周忠を、災異により罷めた。太僕の朱雋を太尉として、錄尚書事させた。
6月己酉、平原相の劉備を豫州牧とした。

『三国志』陶謙伝、先主伝、『後漢書』陶謙伝、『資治通鑑』では、すべて劉備の豫州牧を、翌年の興平元年におく。袁宏の誤りである。ぼくは思う。あんまり袁宏を、タコ殴りにするのは可哀想だが。なぜここまで明々白々なのに、袁宏が誤ったのだろうか。もしくは筆写者のミスなのか。
ぼくは思う。献帝から平原相に任命された、東海王の劉祗の子・劉琬は、劉備とポジションがかぶるね!ときに劉備は、公孫瓚から平原相を与えられた。つまり劉備が公孫瓚から陶謙に乗り換えるのは、反後漢から親後漢への転換。劉備は、献帝に平原から退けと言われ、献帝から徐州牧のお墨つきがある陶謙の傘下に入ったと。
ぼくは思う。『後漢紀』で、劉備が平原相から豫州牧にうつる記事を、1年前にズラした理由が分かった。劉備が、劉琬と平原相としてバッティングするのを防いだのだ。劉備は献帝を継承する。『後漢紀』は、劉備の天子即位で終了するのだから、劉備が献帝に逆らってはいけない。おもろい!


秋、天子が冤罪を救い、儒者を整理する

是時新遷都,宮人多無衣服。秋七月,帝欲發太府繒以作之。李傕不欲,曰:「宮中有衣,胡為復作邪?」尚書郎吳碩素諂於傕,乃言曰:「關東未平,用度不足,近幸衣服,乃陵轢同寮。」尚書梁紹劾奏:「碩以瓦器奉職天臺,不思先公而務私家,背奧媚灶〔一〕,苟諂大臣。昔孔子誅少正卯,以顯刑戮。碩宜放肆,以懲姦偽。若久舍不黜,必縱其邪惑,傷害忠正,為患不細。」帝以碩傕所愛,寢其奏。 〔一〕論語八佾:「王孫賈問:『與其媚於奧,寧媚於灶,何謂也?』子曰:『不然。獲罪於天,無所禱也。』」注曰:「奧,內也,以喻近臣。灶,以喻執政。」於此奧以喻帝室也。

このとき長安に遷都したばかりで、宮人はあまり衣服がない。秋7月、天子は太府に繒(絹織物)をつくらせたい。李傕は「衣服なんて、もうあるじゃん」という。尚書郎の吳碩は、李傕に同調した。「まだ関東が平定されてないでしょ」と。

ぼくは思う。長安から関東はどのように見えていたのだろう。袁術や陶謙とは、関係が修復している。袁紹と曹操が、反乱するだけ。「関東」とくくられると、分からなくなるなあ!

尚書の梁紹が劾奏して、李傕にへつらう呉碩を批判した。天子は、李傕が呉碩を愛するので、呉碩を弾劾しない。

是時帝使侍御史裴茂之詔獄,原輕繫者二百餘人,其中有善士為傕所枉者。傕表之曰:「茂之擅出囚徒,疑有姦故,宜置於理。」詔曰:「災異數降,陰雨為害,使者銜命,宣布恩澤,原解輕微,庶合天心,欲解冤結而復罪之乎?一切勿問。」

このとき天子は、侍御史の裴茂を詔獄にゆかせた。軽罪でつながれた者を2百人ゆるした。そのなかに、李傕に冤罪を着せられた善士がいる。李傕は「裴茂は罪人をかってに釈放している」と表した。天子は詔して、李傕をつっぱねた。「軽罪の者をゆるして、天下の心を合わせたい。せっかく釈放した者を、また冤罪にするのか。釈放して良いのだ」と。

ぼくは思う。献帝は言うなあ!さすが董卓が、賢いと見込んだだけのことがある。そして董卓の部将だった李傕は、献帝の賢さにやりこめられるという。


七月甲午,試耆儒三十餘人〔一〕。上第賜郎中,次太子舍人,下第者罷。詔曰:「孔子歎『學之不講』〔二〕,不講則所識日忘矣。今耆儒年餘六十〔三〕,離本土,家餉不到,當展四體,以餬口腹。幼童始學,〔老〕(者)委農野〔四〕。朕甚愍焉。其不在第者,為太子舍人。」
〔一〕范書獻帝紀作「九月」。按七月、九月均辛亥朔,無甲午日,或「甲午」系「甲子」之誤。又范書言所試儒生為「四十餘人」。 〔二〕孔子之言見論語述而。講,習也。 〔三〕「餘」,范書作「踰」,是。 〔四〕據黄本改。

(7月) 甲午、耆儒30餘人を試問した。

『後漢書』献帝紀は、これを9月とする。だが、7月も9月も辛亥をついたちとする。甲午がない。「甲子」の誤りか。また

儒者のうち、上第を郎中に、次第を太子舍人に、下第を罷免にした。
詔した。「孔子は、学びて講じないことを嘆いた。講じないと知識を忘れる。60歳以上の儒者を試問したが、儒者が郷里を離れて、糊口をしのぐ。幼童が学び始めるとき、同郷の老いた儒者が郷里にいて、教授しないのは良くない。及第しなかった者は、太子舎人とする」と。

ぼくは思う。やや憶測で訳してますが。長安にきた儒者は「都市生活者」である。郷里の生産から離れて、都市で消費するだけ。しかし長安には、都市生活者を養うキャパがない。だから郷里に帰れと言っているのか。まして老人の儒者だと、実務で使えない者も多かろう。狭義には官僚のリストラ、広義には長安の生活者のリストラだ。三国時代、呉蜀に人材が飛びちるのは、献帝がこんな命令を出すからだよ。


冬、公孫瓚が劉虞を殺し、鮮于輔が報復する

冬十月,太學行禮。車駕幸宣平城門〔一〕,臨觀之。賜博士以下各有差。 辛丑,京師地震。有星孛于天〔市〕(井)〔二〕。占曰:「民將徙,天子移都。」其後上東遷之應也。 司空楊彪以地震賜罷。丙午,太常趙溫為司空,錄尚書事。
〔一〕范書獻帝紀作「永福城門」。 〔二〕據黄本改。范書獻帝紀及注引袁紀、續漢志均作「天市」。

冬10月、太学で礼をおこなう。車駕は宣平城門にゆく。

『後漢書』献帝紀では、天子は永福城門にゆく。

天子はみずから太学をみる。博士より以下に賜与する。
10月辛丑、京師で地震あり。星孛が天市にある。占者は「民が移り、天子が都を移す」という。のちに占者の結果をふまえて、洛陽への東遷が提案された。
司空の楊彪を、地震により罷めた。10月丙午、太常の趙溫を司空として、錄尚書事させる。

ぼくは思う。この時期、司空と録尚書事がセットなのか。


初,公瓚孫與劉虞有隙,虞懼其變,遣兵襲之,戒行人曰:「無傷餘人,殺一伯珪而已。」瓚放火燒虞營,虞兵悉還救火,虞懼,奔居庸,欲召烏桓、鮮卑以自救。瓚引兵圍之,生執虞而歸。是時朝廷遣使者殷訓增虞封邑〔一〕,督六州事,以瓚為前將軍,封易侯。瓚誣虞欲稱尊號,脅訓誅之。
於是虞故吏漁陽鮮于輔率其州人及三郡烏桓、鮮卑,與瓚所置漁陽太守鄒丹戰於〔潞〕(蒯)北〔二〕,大破之,斬丹。既而持其衆,奉王命,帝嘉焉。 〔一〕三國志公孫瓚傳、范書劉虞傳均作「段訓」。〔二〕據三國志、范書改。

はじめ公孫瓚と劉虞は仲が悪くなる。劉虞が公孫瓚を襲ったが「公孫瓚でない者を傷つけるな」という。劉虞は放火され、居庸ににげた。

ぼくは思う。劉虞はバカな命令を出したというのは、乱世の発想だ。治世であれば上官が、秩序を乱す下官1人を罰することができる。職場の全体まで、騒がせてはならない。という話?でもないか。

劉虞は、烏桓や鮮卑に救ってもらいたい。公孫瓚は劉虞を生け捕った。ときに朝廷から使者の段訓がきて、劉虞の封邑を増やし、督六州事する。段訓は、公孫瓚を前將軍、易侯とする。公孫瓚は「劉虞は尊号を称そうとした」と誣告した。公孫瓚は、段訓を殺した。

ぼくは思う。劉虞の死が、ここなのかあ!


ここにおいて、劉虞の故吏である漁陽の鮮于輔は、幽州人と3郡の烏桓、鮮卑をひきいて、公孫瓚がおいた漁陽太守の鄒丹と潞北で戦った。鮮于輔は鄒丹を斬った。天子は鮮于輔をよみした。

ぼくは思う。公孫瓚は、あまりに明白に朝敵である。袁紹や曹操ともつながらないで、単独で劉虞にさからい、ひいては天子に逆らった。天下国家のビジョンのない、ただの地方軍閥なんだろうなあ。
ぼくは思う。ところで、『三国志』袁紹伝だかに「袁術と公孫瓚がむすび、袁紹と劉表がむすぶ」とある。これは帰納的な説明ではなくて、史家がエイッ!と説明を加えたものである。つまり、史家による記事を帰納的に積みかさねれば、この説明を打破することができるのだ。さっき、公孫越と劉和のあたりで、袁術と公孫瓚の同盟が、あまり機能しているように見えなかった。公孫瓚が、むりに袁術に入りこんで、袁術を撹乱しているように見えた。
うーん。袁紹と袁術は感情的な対立はある。袁術と劉表は、孫堅を通じて戦った。袁紹と公孫瓚は戦った。これらは事実だが、「袁術と公孫瓚がむすび、袁紹と劉表がむすぶ」という単純な図式は成り立たないよなあ。っていうか、袁術と公孫瓚の共同作戦って、一度もない。袁紹と劉表の共同作戦って、一度もない。史家の印象的なまとめと、遠交近攻という図式に、ぼくらは視界を遮られていないか?
ツイッター用まとめ。「袁術と公孫瓚、袁紹と劉表がむすぶ」と『三国志』袁術伝にある。これは遠交近攻という図式に、史家が解釈しただけ。確かに袁術と袁紹はライバルで、袁術と劉表は戦い、袁紹と公孫瓚は戦う。しかし図式どおりの共同作戦はない。ぼくらは事実の有無や内容は史家に従うしかないが、解釈まで従わなくてよい。つまり、袁術と公孫瓚の同盟、袁紹と劉表の同盟なんて、なかったか、あっても無視できるほど機能していなかったと見なして良いのでは。
ぼくが思うに、むしろ、献帝を認めている点で、劉表と袁術は近い。献帝を軽んじる点で、袁紹と公孫瓚は近い。「もっとも切れ味のよい分類の概念」を設定したい。すると、劉表と袁術、公孫瓚と袁紹、というペアになるのでは。
つまり、袁術と劉表は「いかに天子の洛陽がえりを助けるか」というライバルである。袁紹と公孫瓚は「いかに天子を無視して、河北に新しい政権をつくるか」というライバルである。曹操は、後者の袁紹派から、建安以降は、前者の第三勢力かつ勝者になった。さすが、トリッキーな動きだなあ。


袁紹又遣其將麴義及虞子合擊瓚〔一〕,瓚敗,遂走還易。先有童謠曰:「燕南垂,趙北際,中央不合大如礪,唯有此中可避世。」瓚以為易當之,乃築京固守,積粟三百萬斛。瓚曰:「昔謂天下事可指麾而定。今日視之,非我所決,不如伏兵力田〔二〕,食盡此穀,足知天下事矣。」
〔一〕按三國志公孫瓚傳,虞子乃和也,即昔曾被袁術所扣留者。 〔二〕疑「伏」系「休」之誤。三國志、范書均作「休兵」。

袁紹は、部将の麴義と、劉虞の子・劉和をあわせ、公孫瓚をうつ。公孫瓚は易県ににげて籠もった。「食糧を生産・蓄積していれば、天下が定まるだろう」と。

ぼくは思う。公孫瓚は、かってに「いまは乱世だから、オレは群雄になる」と自己規定した。袁紹に敗れたから、「乱世が鎮まるまで籠もろう」と言った。誤った前提から出発し、正しい道程で推論したので、誤った結論が出たのだ。幽州に乱世をつくっているのは、公孫瓚である。劉虞を殺したりね。公孫瓚が働きかけを辞めたら、その瞬間に乱世が終わる。公孫瓚は、いったい何を待っていたのだろう。
まるで、いじめっ子が「もしもクラスに、いじめが起きたら、オレが懲らしめるから、いつでもオレを呼べ」と言うようなものだ。周囲は「お前がいなけりゃ、いじめなんて起こらないよ」と白けるだろう。
公孫瓚と同じく乱世をつくるのは、袁紹である。もし袁紹が勝てば、乱世は終わるかも知れないが、公孫瓚は袁紹に滅ぼされる。もし袁紹が敗れたら、乱世が終わるが、公孫瓚は漢室への逆賊である。決して「フラットな立場の群雄が叩きあいに疲れ、公孫瓚が出て行けば勝てる」状態はこない。
「だから公孫瓚は敗れたんだよ」と、結果から逆算しても仕方ない。なぜ公孫瓚は、先走りたっぷりに、後漢末を「乱世だ!」と誤認して、暴れ回ったのか。それを問わないと。異民族との戦いが激しかったから?


◆田畴伝

初,劉虞歎曰:「賊臣作亂,朝廷播蕩,四方俄然,莫有固志。吾為宗室遺老,不得自同於衆。今欲奉使展效臣節,安得不辱之士乎?」衆咸曰:「田疇其人也。」疇字子泰〔一〕,右北平無終人也。好讀書,善擊劍,時年二十二。虞乃備禮請與相見,大悅之,遂署為從事,與車騎。將行,疇曰:「今道路險遠,寇虜縱橫,稱官奉使,為衆所指。今願以私行,期於得通而已。」虞從之。疇乃選年少勇壯,募從二十騎。虞自出祖而遣之。疇出塞外,傍北山直馳,趣朔方,循間徑去,遂至長安致命。詔拜騎都尉。疇以天子方蒙塵,不可荷佩榮寵,固辭不受。朝廷甚義之,三府並辟,皆不就。得報,馳還,未至,虞已為公孫瓚所殺。
疇至,謁祭虞墓,陳發章表,哭泣而去。瓚聞之大怒,購求獲疇。謂曰:「汝何故自哭劉虞墓,而不送章報我乎?」疇曰:「章報所言,於將軍未美,恐非所樂聞,故不進也。且將軍方舉大事,以求所欲,既滅無罪之君,又讎守義之臣。誠行此事,則燕趙之士將蹈東海而死〔二〕,豈有思從將軍者乎?」瓚壯其對,釋而不誅,拘之軍下,禁其故人莫得與之通。或說瓚曰:「田疇義士,君不能禮而拘囚之,恐失衆心。」瓚乃遣疇。
疇北歸,率舉宗族,他附從者亦數百人〔三〕,掃地而盟曰:「 君仇不報,吾不可以立世。」遂入徐無山,營深險平曠地而居,躬耕以養父母。百姓歸之,數年間至五千餘家。疇謂其父老曰:「諸君不以疇不肖,遠來相就。衆成都邑,而莫相統一,恐非久安之道。願擇賢良長者,以為之主。」皆曰:「善。」僉共推疇。疇曰:「今來在此,〔非〕苟存而已〔四〕,將圖大事,復讎雪恥。竊恐未得其志,而輕薄之徒自相侵侮,愉快一時,無深計遠慮。疇有愚計,若君行之可乎?」皆曰:「可。」乃為約東相殺傷〔犯〕(把)盜爭訟之法,〔五〕法重至死,其次抵罪,二十餘條〔六〕。又制為婚姻嫁娶之禮,興學校講授之業。班行其衆,衆皆便之,道不拾遺,北邊翕然服其威信,烏桓、鮮卑並各遣屬通好,疇悉撫納,令不得為寇。袁紹數遣使命,又即授將軍印綬,皆距而不當之〔七〕。
〔一〕三國志田疇傳同袁紀,而范書劉虞傳注引魏志作「字子春」。 〔二〕史記魯仲連傳曰:「魯仲連曰:『彼秦者,棄禮義而上首功之國也,權使其士,虜使其民。彼即肆然而為帝,過而為政于天下,則連有蹈東海而死耳。』」〔三〕三國志田疇傳言宗族及附從者共數百人,與袁紀稍異。 〔四〕據三國志田疇傳補。 〔五〕據三國志田疇傳改。 〔六〕三國志田疇傳亦作「二十餘條」,而通鑑作「凡一十餘條」,誤也。 〔七〕三國志田疇傳本作「當」,盧弼曰:「監本『當』作『留』。官本攷證云元本『當』作『受』。」標點本從何焯說改「當」作「 受」。按袁紀獻帝紀多本三國志,可證原即作「當」。

田畴伝がある。はぶく。


十二月辛丑,司空趙溫以地震罷。乙巳,衛尉張喜為司空,錄尚書事。 分漢陽郡為永陽郡。

12月辛丑、司空の趙溫を地震によって罷めた。12月乙巳、衛尉の張喜を司空とし、錄尚書事させる。 漢陽郡を分けて、永陽郡をつくる。

袁術が孫策を使役して、劉繇を攻める

是歲袁術使孫策略地江東〔一〕,軍及曲阿。
〔一〕通鑑考異曰:「魏志、袁紀皆云,『初平四年,策受袁術使渡江』。漢獻帝紀、吳志孫策傳皆云『興平元年』,虞溥江表傳云『 策興平三年渡江』。按袁術初平四年,始得壽春。策傳云術欲攻徐州,從陸康求米,事必在劉備得徐州後也。劉繇傳稱吳景攻繇,歲餘不克,則策渡江不應在興平元年已前。今依江表傳為定。」

この歳(初平四年)、袁術は孫策に、江東を攻略させた。

『通鑑考異』はいう。『三国志』魏志も『後漢紀』も、初平四年(193)、孫策が袁術の指示を受けて、長江をわたるとする。だが『後漢書』献帝紀と『三国志』呉志は、興平元年(194)とする。虞溥『江表伝』は、興平三年(196?) という。袁術は初平四年に、はじめて寿春を獲得した。孫策は袁術に「徐州を攻めたい。陸康に兵糧を出させよう」という。これは必ず、劉備が徐州を得たあとである。『三国志』劉繇伝では、呉景が劉繇を攻めるが、1年余も勝てない。孫策が長江を渡ったのは、興平元年より以前にならない。『江表伝』が正しいだろう。
ぼくは思う。興平は二年までしかないじゃん。改元前?それとも、興平二年の誤りだろうか。それなら195年となり、まだイメージしやすい。
ぼくは思う。『資治通鑑』でも孫策の記事は浮いていたが、『後漢紀』でも浮いているのね。孫策の年代の確定は、つねに課題。どうやら、193年に袁術が寿春をえて、194年に外征を開始して、195年に呉景が攻めあぐねるから、孫策が出発すると。


揚州刺史劉繇敗績,將奔會稽,許邵曰〔二〕:「會稽富〔實〕,策之所貪,且窮在海〔隅〕(陽),不可往也〔三〕。不如豫章,西接荊州,北連豫〔壤〕(章)〔四〕。若收合吏民,遺貢獻焉〔五〕。與曹兗州相聞,雖有袁公路隔在其間,其人豺狼,不能久也。足下受王命,孟德、景升必相救濟。」繇從之。
〔二〕范書作「許劭」。 〔三〕據三國志劉繇傳注引袁紀改補。 〔四〕據三國志劉繇傳注引袁紀改。 〔五〕三國志劉繇傳注引袁紀作「遣使貢獻」。

揚州刺史の劉繇は、孫策に敗績して、会稽ににげようとする。許劭は「会稽は孫策にねらわれる。海に追いつめられる。豫章がいい。荊州と豫州にゆける。天子に使者をだせる。曹操と通じられる。劉繇は天子の任命を受けたから、曹操と劉表がたすけてくれる」と。劉繇は許劭に従い、会稽でなく豫章にゆく。

◆許劭伝

邵字子將,汝南平輿人也。少讀書,雅好三史〔一〕,善與人論臧否之談,所題目,皆如其言,世稱『郭〔許〕(詩)之鑒』焉〔二〕。廣陵徐球為汝南太守〔三〕,請邵為功曹。球亦名士,解褐事之。同郡陳仲舉,名重當時,鄉里後進,莫不造謁,邵獨不詣。蕃謂人曰〔四〕:「長幼之序,不可廢也。許君欲廢之乎?」邵曰:「陳侯崖岸高峻,百谷不得而往,遂不造焉。」嘗至潁川,不詣陳仲弓。或問其故,邵曰:「此君之道廣,廣則不周,故不行也。」同郡袁〔本〕(季)初〔五〕,公族豪俠,賓客輻輳。去濮陽令歸,從車甚盛。將入郡界,歎曰:「吾輿服豈可令許子將見之乎?」謝遣賓客,以單車歸家。邵之見憚,皆此類也。
〔一〕三史,史記、漢書、東觀記也。 〔二〕許詩形近而訛。范書許劭傳曰:「天下言拔士者,咸稱許、郭。」故正。郭者,郭泰也。 〔三〕范書「徐球」作「徐璆」。璆乃球之或字,說見說文。汝南先賢傳曰球字孟本。 〔四〕范書本傳作「或問其故」,袁紀作蕃自謂人,恐誤。 〔五〕袁紹字本初,袁紀下文即作「本初」,此作「季初」,誤。故正之。 司空楊彪辟,不就;舉方正,公車徵,不行。或勸邵,邵曰:「 方今小人道長,王室將亂,吾欲避地淮海,以全老幼。」及天下亂,邵至廣陵,徐州刺史陶謙禮之甚厚。邵曰:「陶恭祖外好聲名,內非其真。今徐州穀貴,小人在側,方厭賓客,待吾雖厚,其勢必薄。」乃渡江投劉繇。其後謙捕諸寓士,陳留史堅元,陳郡相仲華逃竄江湖,皆名士也。邵與劉繇俱行,終於豫章焉。

許劭伝がある。はぶく。司空の楊彪に辟されたが、受けない。広陵にゆき、陶謙に礼遇され、劉繇をたより、豫章にゆくのね。121202

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