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『晋書』宣帝紀・司馬懿と、魏帝の関係

司馬氏と、曹氏や孫氏との関係だけに着目して抜粋さらに抄訳。

司馬懿と曹操の関係

宣皇帝諱懿,字仲達,河內溫縣孝敬里人。(中略)
漢建安六年,郡舉上計掾。魏武帝為司空,聞而辟之。帝知漢運方微,不欲屈節曹氏,辭以風痹,不能起居。魏武使人夜往密刺之,帝堅臥不動。及魏武為丞相,又辟為文學掾,敕行者曰:「若複盤桓,便收之。」帝懼而就職。於是,使與太子游處,遷黃門侍郎,轉議郎、丞相東曹屬,尋轉主簿。

司馬懿は、あざなを仲達。河内の温県の人。
建安六年(201)、河内郡は司馬懿を上計掾にあげる。曹操が司空となり、司馬懿を辟した。漢室の天運が衰微しており、曹氏に屈節したくない。司馬懿は「起居できない」と辞した。曹操は司馬懿を刺した。司馬懿は動かず。
曹操が丞相となり、司馬懿を辟して、文学掾とする。司馬懿は捕らわれるのを懼れ、文学掾となる。曹丕と交際し、黄門侍郎となる。議郎、丞相左曹属に転じる。すぐに丞相主簿に転じる。

ぽんぽんと官位につくだけで、まだ特色がない。
重要なのは、曹操が2回も辟して、司馬懿が2回も断ったこと。はじめ、司空の属官になるのを断った。丞相の属官にならなってあげた。べつに魏晋革命を想起する必要はない。後漢末にありがちな闘争である。


從討張魯,言于魏武曰:「劉備以詐力虜劉璋,蜀人未附而遠爭江陵,此機不可失也。今若曜威漢中,益州震動,進兵臨之,勢必瓦解。因此之勢,易為功力。聖人不能違時,亦不失時矣。」魏武曰:「人苦無足,既得隴右,複欲得蜀!」言竟不從。既而從討孫權,破之。軍還,權遣使乞降,上表稱臣,陳說天命。魏武帝曰:「此兒欲踞吾著爐炭上邪!」答曰:「漢運垂終,殿下十分天下而有其九,以服事之。權之稱臣,天人之意也。虞、夏、殷、周不以謙讓者,畏天知命也。」

司馬懿は、張魯の討伐に従い、「劉備の益州を攻めろ」というが、曹操は「隴右を得て、さらに蜀を望むか」と用いず。司馬懿は、孫権の討伐に従う。孫権が「曹操に降ろう。曹操に称臣する。曹操に天命がある」という。曹操は「孫権は私を、炭火のうえに座らせるか」という。司馬懿はいう。「漢室の命運は終わりそうだが、曹操は天下の9割を領有しつつ、漢室に服事する。孫権の服従は天意です。虞舜、夏禹、殷湯、周文が禅譲を受けたのは、天を畏れて命を知るからだ」と。

ぼくは思う。袁術のときと同じ論法。袁術は「周文は天下の3分の2を領有するが、殷紂に服事するから、徳義があり、やがて天命を受けた。袁術は天下の3分の2も領有しないが、漢室に服事するのを辞めるのか。天命がない」と叱られた。司馬懿は「曹操は3分の2どころか、10分の9を領有するから、天命を受けられる。孫権の服従も天命の証拠だ」という論法である。
ぼくは思う。司馬懿の2つの提案は、どちらも却下された。平蜀しろ、天子即位しろ、は曹操に蹴られた。この関係性を確認したかった。くり返す。採用ゼロ。


魏國既建,遷太子中庶子。每與大謀,輒有奇策,為太子所信重,與陳群、吳質、朱樂號曰四友。遷為軍司馬,言于魏武曰:「昔箕子陳謀,以食為首。今天下不耕者蓋二十余萬,非經國遠籌也。雖戎甲未卷,自宜且耕且守。」魏武納之,於是務農積谷,國用豐贍。帝又言荊州刺史胡修粗暴,南鄉太守傅方驕奢,並不可居邊。魏武不之察。及蜀將羽圍曹仁于樊,于禁等七軍皆沒,修、方果降羽,而仁圍甚急焉。是時漢帝都許昌,魏武以為近賊,欲徙河北。帝諫曰:「禁等為水所沒,非戰守之所失,於國家大計未有所損,而便遷都,既示敵以弱,又淮沔之人大不安矣。孫權、劉備,外親內疏,羽之得意,權所不願也。可喻權所,令掎其後,則樊圍自解。」魏武從之。權果遣將呂蒙西襲公安,拔之,羽遂為蒙所獲。魏武以荊州遺黎及屯田在潁川者逼近南寇,皆欲徙之。帝曰:「荊楚輕脫,易動難安。關羽新破,諸為惡者藏竄觀望。今徙其善者,既傷其意,將令去者不敢複還。」從之。其後諸亡者悉複業。及魏武薨於洛陽,朝野危懼。帝綱紀喪事,內外肅然。乃奉梓宮還鄴。

魏国が建つと、太子中庶子にうつる。曹丕と大謀し、奇策を出すので、曹丕に信重された。陳羣、呉質、朱鑠と4友になる。

ぼくは思う。曹丕とは、提案-採用のサイクルができてる。

軍司馬にうつる。曹操に「耕作しない者が20余万いる。軍事も必要だが、耕作もさせよ」と提案し、採用された。穀物の備蓄ができた。司馬懿は「荊州刺史の胡修、南郷太守の傅方は、粗暴で驕奢だから国境におくな」という。曹操は採用せず。胡修と傅方は関羽に降伏した。

ぼくは思う。戦術や人事、天子即位の問題は、司馬懿は意見が採用されない。ただ耕作者の確保が採用された。しかし、勧農に反対する者って、いないよなあ。

曹操が関羽を恐れて「河北に遷都する」という。司馬懿が反対した。「劉備と孫権は分裂する。脅威でない」と。果たして分裂して、関羽が呂蒙に捕らわれた。曹操は「荊州の耕作者、頴川の屯田を移住させたい」という。司馬懿が反対した。曹操は従った。流亡者が耕地に復した。

ぼくは思う。司馬懿は、農耕の問題や、「下手な行動を起こすな」と言うと採用される。ぎゃくに「いまこそ行動しよう」というと、何も採用されない。まあね、司馬懿と曹操の関係を、あとからムリに創作するなら、この記述方針となる。つまり「行動せず」が結論なら、司馬懿が止めて曹操に採用されても、司馬懿が勧めて曹操に却下されても、結果と整合する。何でもありともいう。
いろいろ司馬懿が高説してるが、ぼくの結論は「司馬懿は曹操に、とくに採用されるでなく、とくに拒否されるでなく」です。特筆すべき関係が、曹操とのあいだにない。

曹操が洛陽で薨じると、司馬懿が喪事を綱紀した。

ぼくは思う。べつに司馬懿が長官ではなかろう。


曹丕と司馬懿の関係

魏文帝即位,封河津亭侯,轉丞相長史。會孫權帥兵西過,朝議以樊、襄陽無穀,不可以禦寇。時曹仁鎮襄陽,請召仁還宛。帝曰:「孫權新破關羽,此其欲自結之時也,必不敢為患。襄陽水陸之沖,禦寇要害,不可棄也。」言竟不從。仁遂焚棄二城,權果不為寇,魏文悔之。及魏受漢禪,以帝為尚書。頃之,轉督軍、禦史中丞,封安國鄉侯。
黃初二年,督軍官罷,遷侍中、尚書右僕射。
五年,天子南巡,觀兵吳疆。帝留鎮許昌,改封向鄉侯,轉撫軍、假節,領兵五千,加給事中、錄尚書事。帝固辭。天子曰:「吾於庶事,以夜繼晝,無須臾寧息。此非以為榮,乃分憂耳。」

曹丕が魏王に即位すると、河津亭侯に封じられ、丞相長史に転じる。

ぼくは思う。はじめての侯爵より上の爵位!

曹仁のまもる襄陽が、孫権に攻められた。司馬懿が「襄陽を棄てるな」というが、曹仁は樊城を棄て、宛城にひいた。魏晋革命にて、尚書となる。督軍、禦史中丞に転じ、安國郷侯に封じられる。

ぼくは思う。亭侯から郷侯に進みました。

黃初2年、督軍をやめた。侍中、尚書右僕射にうつる。
黄初5年、曹丕が孫呉との国境で観兵する。司馬懿は許昌に留まって鎮して、向郷侯に封ぜらる。撫軍に転じて、假節。兵5千を領して、給事中を加えられ、錄尚書事する。司馬懿は固辞した。曹丕は「栄誉でなく憂鬱を分担せよ」という。

ぼくは思う。でました!固辞。留守はおもたい職務!
やっぱり曹丕が「天子」で、司馬懿は「帝」なのね。


六年,天子複大興舟師征吳,複命帝居守,內鎮百姓,外供軍資。臨行,詔曰:「吾深以後事為念,故以委卿。曹參雖有戰功,而蕭何為重。使吾無西顧之憂,不亦可乎!」天子自廣陵還洛陽,詔帝曰:「吾東,撫軍當總西事;吾西,撫軍當總東事。」於是帝留鎮許昌。
及天子疾篤,帝與曹真、陳群等見於崇華殿之南堂,並受顧命輔政。詔太子曰:「有間此三公者,慎勿疑之。」明帝即位,改封舞陽侯。及孫權圍江夏,遣其將諸葛瑾、張霸並攻襄陽,帝督諸軍討權,走之。進擊,敗瑾,斬霸,並首級千餘。遷驃騎將軍。

黄初6年、曹丕は水軍で征呉する。司馬懿は留守する。曹丕は「戦功の曹参でなく、補給の蕭何の役割をたのむ」という。曹丕は広陵から洛陽にもどる。「私が東すれば、撫軍の司馬懿は西を。私が西すれば、撫軍の司馬懿は東を統治せよ」という。司馬懿は許昌に留鎮した。
曹丕が重篤になると、司馬懿、曹真、陳羣らに顧命した。曹叡に「この3人を頼れ」という。曹叡が即位すると、司馬懿は舞陽侯に改封された。
孫権が江夏、諸葛瑾と張覇が襄陽をかこむ。司馬懿は、孫権と諸葛瑾をやぶり、張覇を斬る。驃騎将軍にうつる。

曹叡と司馬懿の関係

太和元年六月,天子詔帝屯于宛,加督荊、豫二州諸軍事。初,蜀將孟達之降也,魏朝遇之甚厚。帝以達言行傾巧,不可任,驟諫,不見聽,乃以達領新城太守,封侯,假節。達於是連吳固蜀,潛圖中國。(中略) 斬達,傳首京師。俘獲萬餘人,振旅還于宛。乃勸農桑,禁浮費,南土悅附焉。初,申儀久在魏興,專威疆埸,輒承制刻印,多所假授。帝使人諷儀,儀至,問承制狀,執之,歸於京師。
時邊郡新附,多無戶名,魏朝欲加隱實。屬帝朝于京師,天子訪之于帝。帝對曰:「賊以密網束下,故下棄之。宜弘以大綱,則自然安樂。」又問二虜宜討,何者為先?對曰:「吳以中國不習水戰,故敢散居東關。凡攻敵,必扼其喉而摏其心。夏口、東關,賊之心喉。若為陸軍以向皖城,引權東下,為水戰軍向夏口,乘其虛而擊之,此神兵從天而墜,破之必矣。」天子並然之,複命屯于宛。

太和元年6月、曹叡は司馬懿を宛城に屯させた。督荊豫二州諸軍事をくわえた。かつて曹丕は、蜀将の孟達を、新城太守、封侯・假節とした。だが孟達が呉蜀と結んだので、司馬懿は孟達を斬った。1万余人が宛城に還った。農桑を勧め、浪費を禁じた。荊州が司馬懿に悅附した。魏興太守の申儀を、京師に送った。

ぼくは思う。司馬懿の晩年まで「孟達を斬った」ことが功績として数えられる。ただし詳細な経過は省きました。

司馬懿は「辺境の郡では戸籍にモレがある。法律をゆるめよ」という。また曹叡が「呉蜀のどちらを先に討つか」と聞くと、司馬懿は孫呉を討伐する見通しを述べた。曹叡は、つづけて司馬懿を宛城に屯させた。

四年,遷大將軍,加大都督、假黃鉞,與曹真伐蜀。帝自西城斫山開道,水陸並進,溯沔而上,至於朐,拔其新豐縣。軍次丹口,遇雨,班師。明年,諸葛亮寇天水,圍將軍賈嗣、魏平于祁山。天子曰:「西方有事,非君莫可付者。」乃使帝西屯長安,都督雍、梁二州諸軍事,統車騎將軍張郃、後將軍費曜、征蜀護軍戴淩、雍州刺史郭淮等討亮。(中略) 進次漢陽,與亮相遇,帝列陣以待之。(中略) 亮宵遁。追擊,破之,俘斬萬計。天子使使者勞軍,增封邑。(中略) 於是表徙冀州農夫佃上邽,興京兆、天水、南安監冶。
青龍元年,穿成國渠,築臨晉陂,溉田數千頃,國以充實。

太和4年、司馬懿は大将軍にうつり、大都督をくわえ、黄鉞を仮された。曹真とともに伐蜀するが、長雨で撤退した。太和5年、諸葛亮が天水を寇した。司馬懿を長安に屯させ、都督雍梁州諸軍事とする。司馬懿が、車騎將軍の張郃、後將軍の費曜、征蜀護軍の戴淩、雍州刺史の郭淮らをひきいる。
司馬懿は漢陽で、諸葛亮と遭遇した。諸葛亮がにげた。天子の使者が、司馬懿の封邑を増やした。司馬懿は「冀州の農夫を移して、上邽を耕作しろ。京兆、天水、南安で監冶しろ」という。
青龍元年、臨晋陂を築き、田地を数千頃ひらいた。

二年,亮又率眾十余萬出斜谷,壘於郿之渭水南原。天子憂之,遣征蜀護軍秦朗督步騎二萬,受帝節度。(中略) 與之對壘百餘日,會亮病卒,諸將燒營遁走,百姓奔告,帝出兵追之。(中略) 帝欲乘隙而進,有詔不許。
三年,遷太尉,累增封邑。蜀將馬岱入寇,帝遣將軍牛金擊走之,斬千餘級。武都氐王苻雙、強端帥其屬六千餘人來降。關東饑,帝運長安粟五百萬斛于京師。

青龍2年、諸葛亮が斜谷をでる。征蜀護軍の秦朗が歩騎2万をひきい、司馬懿の節度を受ける。1百余日むきあい、諸葛亮が病死した。曹叡は追撃を禁じた。
青龍3年、太尉にうつる。累ねて封邑を増やす。入寇した馬岱を破り、氐王を降す。関東が飢えたので、長安の5百万石を京師にはこぶ。

ぼくは思う。五丈原の決着まえ、司馬懿の官爵は変動していない。なんだか曹丕の時代のほうが、派手にあがってた。諸葛亮を防いだことは「太尉にうつり、封邑を増やす」と等価のようだ。諸葛亮ファンは残念かなー。


四年,獲白鹿,獻之。天子曰:「昔周公旦輔成王,有素雉之貢。今君受陝西之任,有白鹿之獻,豈非忠誠協符,千載同契,俾乂邦家,以永厥休邪!」及遼東太守公孫文懿反,征帝詣京師。(中略) 帝將即戎,乃諫曰:「昔周公營洛邑,蕭何造未央,今宮室未備,臣之責也。然自河以北,百姓困窮,外內有役,勢不並興,宜假絕內務,以救時急。」

青龍4年、曹叡に白鹿が献じられた。曹叡は「周公旦のように司馬懿が補佐するから」と解釈した。遼東太守の公孫淵がそむく。司馬懿は「1年で公孫淵を討伐する」という。出発にあたり司馬懿は「周公旦は洛邑を建設し、蕭何は未央宮を築いた。でも曹叡は建設を中断せよ」という。

景初二年,帥牛金、胡遵等步騎四萬發自京都。車駕送出西明門。詔弟孚、子師送過溫,賜以谷帛牛酒,敕郡守典農以下皆往會焉。見父老故舊,宴飲累日。帝歎息,悵然有感,為歌曰:「將掃群穢,還過故郷。肅清萬里,總齊八荒。告成歸老,待罪舞陽。」(中略)
文懿攻南圍突出,帝縱兵擊敗之,斬于梁水之上星墜之所。(中略) 天子遣使者勞軍于薊,增封食昆陽,並前二縣。(中略) 引入嘉福殿臥內,升禦床。帝流涕問疾,天子執帝手,目齊王曰:「以後事相托。死乃複可忍,吾忍死待君,得相見,無所複恨矣。」與大將軍曹爽並受遺詔輔少主。

景初2年、司馬懿は、牛金や胡遵ら歩騎4万をひきいて洛陽を発する。曹叡の車駕が西明門から見送る。曹叡は詔して、弟の司馬孚と子の司馬師に、温県まで見送らせた。穀帛牛酒を賜り、郡守や典農に迎えさせる。司馬懿は故郷で父老にいう。「公孫淵を破ったら、故郷に還ろう。老いたから引退したいと願いでて、舞陽で罪?を待とう」と。
公孫淵を斬った。曹叡の使者は、薊県で司馬懿をねぎらい、昆陽を増封して、司馬懿の封地を2県とした。異変を知り、嘉福殿に駆けつける。曹叡は司馬懿の手をとり、「曹芳を託した」という。大将軍の曹爽とともに曹芳を補佐する。

ぼくは思う。司馬懿は、いちど大将軍だったのに、諸葛亮を防いだあとに、太尉になった。いま大将軍には曹爽がいる。曹爽のほうが威勢がよい。もし大将軍が上ならば、降格された司馬懿は、五丈原で「失敗」したことになるのだが。


曹芳と司馬懿の関係

及齊王即帝位,遷侍中、持節、都督中外諸軍、錄尚書事,與爽各統兵三千人,共執朝政,更直殿中,乘輿入殿。爽欲使尚書奏事先由己,乃言于天子,徙帝為大司馬。朝議以為前後大司馬累薨于位,乃以帝為太傅。入殿不趨,贊拜不名,劍履上殿,如漢蕭何故事。嫁娶喪葬取給於官,以世子師為散騎常侍,子弟三人為列侯,四人為騎都尉。帝固讓子弟官不受。

曹芳が即位した。司馬懿は、侍中にうつり、持節、都督中外諸軍、錄尚書事をする。曹爽と兵3千ずつを統べて、ともに朝政する。曹爽と交代で殿中にいる。殿中に輿を乗り入れる。曹爽は司馬懿よりも先に、尚書の奏事を見たいから、「司馬懿を大司馬にせよ」という。朝議は、大司馬の前任者がよく死んだので、司馬懿を太傅とした。
入殿不趨,贊拜不名,劍履上殿の特権を、前漢の蕭何のように与えられた。嫁娶や喪葬は、費用を官庫がだす。司馬師を散騎常侍、子弟の3人を列侯、4人を騎都尉とした。司馬懿は「子弟を騎都尉にするな」と固辞して受けず。

ぼくは思う。司馬師の散騎常侍と、3人の列侯まではもらった?


魏正始元年春正月,東倭重譯納貢,焉耆、危須諸國,弱水以南,鮮卑名王,皆遣使來獻。天子歸美宰輔,又增帝封邑。初,魏明帝好修宮室,制度靡麗,百姓苦之。帝自遼東還,役者猶萬餘人,雕玩之物動以千計。至是皆奏罷之,節用務農,天下欣賴焉。
二年夏五月,吳將全琮寇芍陂,硃然、孫倫圍樊城,諸葛瑾、步騭掠柤中,帝請自討之。議者鹹言,賊遠來圍樊,不可卒拔。挫於堅城之下,有自破之勢,宜長策以禦之。帝曰:「邊城受敵而安坐廟堂,疆場騷動,眾心疑惑,是社稷之大憂也。」六月,乃督諸軍南征,車駕送出津陽門。帝以南方暑濕,不宜持久,使輕騎挑之,然不敢動。於是休戰士,簡精銳,募先登,申號令,示必攻之勢。吳軍夜遁走,追至三州口,斬獲萬餘人,收其舟船軍資而還。天子遣侍中常侍勞軍于宛。
秋七月,增封食郾、臨潁,並前四縣,邑萬戶,子弟十一人皆為列侯。帝勳德日盛,而謙恭愈甚。乙太常常林鄉邑舊齒,見之每拜。恆戒子弟曰:「盛滿者道家之所忌,四時猶有推移,吾何德以堪之。損之又損之,庶可以免乎?」

正始元年春正月、東倭などから貢納あり。曹芳は司馬懿の功績として、封邑を増やした。司馬懿が曹叡の建設を辞めさせ、農務に従事させた。
正始2年5月、全琮が芍陂、朱然と孫倫が樊城、諸葛瑾と歩隲が柤中を攻める。司馬懿は「国境を放置するな」といい、6月に南征した。曹芳の車駕が津陽門に見送る。孫呉をやぶり、秋7月、郾県と臨潁を増邑された。食邑4県、1万戸。子弟11人が列侯となる。だが司馬懿は、同郷の年長者である常林を拝して、「おごるな」と子弟を戒めた。

三年春,天子追封,諡皇考京兆尹為舞陽成侯。三月,奏穿廣漕渠,引河入汴,溉東南諸陂,始大佃於淮北。先是,吳遣將諸葛恪屯皖,邊鄙苦之,帝欲自擊恪。(中略) 四年秋九月,帝督諸軍擊諸葛恪,車駕送出津陽門。軍次於舒,恪焚燒積聚,棄城而遁。帝以滅賊之耍,在於積穀,乃大興屯守,廣開淮陽、百尺二渠,又修諸陂於潁之南北,萬餘頃。自是淮北倉庾相望,壽陽至於京師,農官屯兵連屬焉。
五年春正月,帝至自淮南,天子使持節勞軍。尚書鄧揚、李勝等欲令曹爽建立功名,勸使伐蜀。帝止之,不可,爽果無功而還。

正始3年春、曹芳は、司馬懿の父・京兆尹の司馬防を舞陽成侯と諡した。3月廣漕渠をうがち、淮北に耕地をひらく。
諸葛恪が皖城にいて、辺境が苦しむ。正始4年9月、司馬懿は諸葛恪を撃つ。曹芳は津陽門に見送る。諸葛恪がにげた。司馬懿の整備により、寿陽から洛陽まで、農官と屯兵がつらなる。
正始5年春正月、淮南にいる司馬懿を、持節した使者がねぎらう。曹爽が伐蜀をした。司馬懿は伐蜀に反対した。曹爽は功績なし。

六年秋八月,曹爽毀中壘中堅營,以兵屬其弟中領軍羲,帝以先帝舊制禁之不可。冬十二月,天子詔帝朝會乘輿升殿。
七年春正月,吳寇柤中,夷夏萬餘家避寇北渡沔。帝以沔南近賊,若百姓奔還,必複致寇,宜權留之。曹爽曰:「今不能修守沔南而留百姓,非長策也。」帝曰:「不然。凡物致之安地則安。危地則危。故兵書曰'成敗,形也;安危,勢也'。形勢,禦眾之耍,不可以不審。設令賊以二萬人斷沔水,三萬人與沔南諸軍相持,萬人陸梁柤中,將何以救之?」爽不從,卒令還南。賊果襲破柤中,所失萬計。
八年夏四月,夫人張氏薨。曹爽用何晏、鄧揚、丁謐之謀,遷太后于永甯宮,專擅朝政,兄弟並典禁兵,多樹親黨,屢改制度。帝不能禁,於是與爽有隙。五月,帝稱疾不與政事。時人為之謠曰:「何、鄧、丁,亂京城。」
九年春三月,黃門張當私出掖庭才人石英等十一人,與曹爽為伎人。爽、晏謂帝疾篤,遂有無君之心,與當密謀,圖危社稷,期有日矣。帝亦潛為之備,爽之徒屬亦頗疑帝。會河南尹李勝將蒞荊州,來候帝。帝詐疾篤。(中略) 故爽等不復設備。

正始6年秋8月、曹爽が中壘と中堅の軍営をこわす。兵を弟の曹羲に属させる。司馬懿は「曹叡の制度を変えるな」という。冬12月、曹芳は司馬懿に、朝會に乘輿して升殿せよという。

ぼくは思う。これは敬老だろう。特権ではない。

正始7年春正月、孫呉が柤中を寇した。沔水の南から、百姓が逃げてきた。司馬懿は「沔水の北に留めよ」というが、曹爽が南に返してしまい、1万人が損害をうけた。正始8年夏4月、夫人の張氏が薨じた。曹爽が朝政をにぎる。5月、曹芳は病気で政事ができない。

ぼくは思う。「曹爽に妨げられる曹芳」というのは、『晋書』の編集方針だから、まるまる信じない。このあいだ、司馬懿は孫呉の対策をやっているが、官爵は変わらない。この「変わらない」という一事だけ確認できれば、あとは何でも良かった!

正始9年春正月、曹爽は曹芳の掖庭から女官を連れだす。河南尹の李勝が、司馬懿をさぐる。司馬懿は病気のふりをする。曹爽は司馬懿への警戒をとく。

嘉平元年春正月甲午,天子謁高平陵,爽兄弟皆從。帝於是奏永甯太后,廢爽兄弟。時景帝為中護軍,將兵屯司馬門。(中略) 於是假司徒高柔節,行大將軍事,領爽營,謂柔曰:「君為周勃矣。」命太僕王觀行中領軍,攝羲營。帝親帥太尉蔣濟等勒兵出迎天子,屯于洛水浮橋。(中略) 既而有司發爽與何晏等反事,乃收爽兄弟及其党與何晏、丁謐、鄧揚、畢軌、李勝、桓範等誅之。蔣濟曰:「曹真之勳,不可以不祀。」帝不聽。(中略) 二月,天子以帝為丞相,增封潁川之繁昌、鄢陵、新汲、父城,並前八縣,邑二萬戶,奏事不名。固讓丞相。冬十二月,加九錫之禮,朝會不拜。固讓九錫。

嘉平元年春正月甲午、曹芳が高平陵を謁する。曹爽の兄弟はみな従う。司馬懿が永寧太后に奏して、曹爽の兄弟を廃した。ときに司馬師が中護軍である。司馬門に屯した。司徒の高柔に仮節させ、行大將軍事させ、曹爽の軍営を領する。司馬懿は高柔に「周勃になれ」という。太僕の王觀が、行中領軍して、曹羲の軍営を摂る。司馬懿は、みずから太尉の蔣濟らをつれ、曹芳を洛水の浮橋で迎えた。有司は、曹爽、何晏らの謀反をいう。何晏らを誅した。蒋済は「曹爽を許せ」というが、司馬懿は許さず。
2月、曹芳は司馬懿を丞相にして、潁川の繁昌、鄢陵、新汲、父城を前と併せて、食邑8県、邑2萬戶とする。奏事不名を与える。司馬懿は丞相を固辞した。

8県の2万戸は受けたのかなあ。

冬12月、九錫之禮と、朝會不拜をくわえる。九錫を固辞した。

ぼくは思う。九錫は、司馬昭が蜀漢をほろぼす直前まで、受けるのを拒んだものだ。朝会不拝だけは、受けたのかなあ。


二年春正月,天子命帝立廟於洛陽,置左右長史,增掾屬、舍人滿十人,歲舉掾屬任禦史、秀才各一人,增官騎百人,鼓吹十四人,封子肜平樂亭侯,倫安樂亭侯。帝以久疾不任朝請,每有大事,天子親幸第以諮訪焉。兗州刺史令狐愚、太尉王淩貳於帝,謀立楚王彪。

嘉平2年春正月、曹芳は司馬懿に「洛陽に司馬氏の廟を立てろ」という。左右長史をおき、掾属をふやし、舎人は10人を満たす。歳ごとに掾屬をあげて、禦史に任ずる。秀才を1名ずつあげる。官騎1百人と、鼓吹14人を増やす。子の司馬肜を平樂亭侯とする。司馬倫を安楽亭侯とする。司馬懿は老病なので、みずから曹芳が、司馬懿に諮問にゆく。
兗州刺史の令狐愚と、太尉の王淩が、楚王の曹彪を立てようと謀る。

三年春正月,王淩詐言吳人塞塗水,請發兵以討之。帝潛知其計,不聽。夏四月,帝自帥中軍,泛舟沿流,九日而到甘城。淩計無所出,乃迎于武丘,面縛水次,曰:「淩若有罪,公當折簡召淩,何苦自來邪!」帝曰:「以君非折簡之客故耳。」即以淩歸於京師。道經賈逵廟,淩呼曰:「賈梁道!王淩是大魏之忠臣,惟爾有神知之。」至項,仰鴆而死。收其餘黨,皆夷三族,並殺彪。悉錄魏諸王公置於鄴,命有司監察,不得交關。天子遣侍中韋誕持節勞軍于五池。帝至自甘城,天子又使兼大鴻臚、太僕庾嶷持節,策命帝為相國,封安平郡公,孫及兄子各一人為列侯,前後食邑五萬戶,侯者十九人。固讓相國、郡公不受。六月,帝寢疾,夢賈逵、王淩為祟,甚惡之。秋八月戊寅,崩于京師,時年七十三。天子素服臨吊,喪葬威儀依漢霍光故事,追贈相國、郡公。弟孚表陳先志,辭郡公及韞輬車。九月庚申,葬于河陰,諡曰文貞,後改諡文宣。先是,預作終制,于首陽山為土藏,不墳不樹;作顧命三篇,斂以時服,不設明器,後終者不得合葬。一如遺命。晉國初建,追尊曰宣王。武帝受禪,上尊號曰宣皇帝,陵曰高原,廟稱高祖。

嘉平3年春正月、王淩が「塗水を塞いで孫呉を攻めたいから、兵をくれ」というが、司馬懿は許さず。夏4月、甘城で王淩に会い、王淩と曹彪を殺した。曹魏の皇族を、鄴県に押しこめ、有司が監察する。
曹芳は、侍中の韋誕に持節させ、五池で司馬懿をねぎらう。大鴻臚をかねる太僕の庾嶷が持節して、司馬懿を相国、安平群公にする。孫と兄子1名ずつ列侯にする。食邑は合計で5万戸。侯爵は19人。司馬懿は、相国も群公も受けない。

ぼくは思う。王淩の反乱と、曹芳の廃位を防いだことで、相国と群公をもらった。ことわったが。こういう情報を整理したくて、『晋書』を読み始めたのだ。

6月、司馬懿は寝こむ。8月戊寅、洛陽で崩じた。73歳だった。霍光の故事で葬り、相国と群公を追贈した。

ぼくは思う。司馬懿の最高の官爵は、生前にことわり、死後に贈られたのだが、相国と群公だ。太傅とか大将軍はやったけれど、丞相をことわり、相国を断った。漢魏の平常の制度内におさまった。まあ大将軍が平常かは微妙だが、大将軍は人数がおおい。相国とか丞相は、禅譲を連想させる。食邑は、県侯に留まった。

弟の司馬孚は、司馬懿の生前の意思をいい、群公の葬礼と、韞輬車をことわる。9月庚申、河陰に葬られ、「文貞」と諡され、のちに「文宣」と改められる。晋国が建つと「宣王」とされ、司馬炎が受禅すると「宣帝」という。陵を高原といい、廟号は高祖である。121212

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『晋書』景帝紀・司馬師と、魏帝の関係

『晋書』本紀より、司馬師です。いまの問題関心にあわないところは、無断でザクザク削ります。「分からないから削る」をやらないので、「分かってないくせに削ってない」ところもあります。お見苦しいまま、残しています。

曹芳との関係

景皇帝諱師,字子元,宣帝長子也。少流美譽,與夏侯玄、何晏齊名。魏景初中,拜散騎常侍,累遷中護軍。為選用之法,舉不越功,吏無私焉。宣帝之將誅曹爽,深謀秘策,獨與帝潛畫。事平,以功封長平鄉侯,食邑千戶,尋加衛將軍。及宣帝薨,議者咸雲「伊尹既卒,伊陟嗣事」,天子命帝以撫軍大將軍輔政。

司馬師は、あざなを子元という。夏侯玄や何晏と名声がひとしい。景初のとき、散騎常侍を拝して、累ねて中護軍にうつる。選用之法をなし、功績を越えた官位を与えないから、属吏は私的な任命をしない。司馬懿とともに曹爽を撃ち、その功績により、長平郷侯,食邑1千戶に封じられる。すぐに衛將軍を加えらる。司馬懿が死ぬと、議者は「伊尹が死ぬと、伊陟が嗣事した」という。

ぼくは思う。官位は世襲じゃない。世襲じゃないから、伊尹の故事に言及される必要があった。この「議者」が誰だか分からないが、わりと変則的な人事だ。

曹芳は、司馬師を撫軍大將軍として、輔政させる。

魏嘉平四年春正月,遷大將軍,加侍中,持節、都督中外諸軍、錄尚書事。諸葛誕、毌丘儉、王昶、陳泰、胡遵都督四方,王基、州泰、鄧艾、石苞典州郡,盧毓、李豐裳選舉,傅嘏、虞松參計謀,鐘會、夏侯玄、王肅、陳本、孟康、趙酆、張緝預朝議。或有請改易制度者,帝曰:「三祖典制,所宜遵奉;自非軍事,不得妄有改革。」
五年夏五月,吳太傅諸葛恪圍新城。帝於是使鎮東將軍毌丘儉、揚州刺史文欽等距之。儉、欽請戰,帝遂命諸將高壘以弊之。相持數月,恪攻城力屈,死傷太半。恪懼而遁,欽逆擊,大破之,斬首萬餘級。

嘉平4年春正月、大將軍にうつり、侍中を加えられ、持節、都督中外諸軍、錄尚書事する。諸葛誕、毌丘儉、王昶、陳泰、胡遵が四方を都督する。王基、州泰、鄧艾、石苞が州郡を典する。盧毓、李豐が選舉を裳する。傅嘏、虞松が計謀を参する。鐘會、夏侯玄、王肅、陳本、孟康、趙酆、張緝が朝議を預する。司馬昭は「非常時でない限り、曹叡までの制度を変えるな」という。

ぼくは思う。マジメな2代目という感じ。まだね。

嘉平5年夏5月、孫呉の太傅・諸葛恪が合肥新城をかこむ。司馬師は、鎮東將軍の毌丘儉、揚州刺史の文欽に距がせる。司馬師は、毋丘倹と文欽に防衛のみ命じた。数ヶ月たち、諸葛恪が力攻した。魏軍が勝った。

ぼくは思う。司馬師の官位は、変化なし。


曹髦との関係

正元元年春正月,天子與中書令李豐、後父光祿大夫張緝等謀乙太常夏侯玄代帝輔政。 逮捕玄、緝等,皆夷三族。三月,乃諷天子廢 皇后張氏,因下詔曰:「曷以過之。其增邑九千戶,並前四萬。」帝讓不受。

正元元年の春正月、曹芳は司馬師を廃したい。曹芳と、中書令の李豐、光祿大夫の張緝らは、太常の夏侯玄に輔政させたい。司馬師は、夏侯玄と張緝らを夷三族した。3月、司馬師は「曹芳が皇后を廃する」とウソを諷した。曹芳は「司馬師のおかげで悪い皇后を廃せた。邑9千戸を増やし、合計で4万戸にする」と。司馬師は固辞した。

帝亦慮難作,潛謀廢立,乃密諷魏永甯太后。秋九月甲戌,太后下令曰:「皇帝春秋已長,不親萬機。將危社稷,不可承奉宗廟。」與群臣議所立。帝曰:「彭城王據,太祖之子,以賢,則仁聖明允。」太后欲立高貴鄉公髦。帝固爭不獲,乃從太后令,遣使迎高貴鄉公於元城而立之,改元曰正元。癸巳,天子詔曰:「大將軍世載明德,應期作輔。其登位相國,增邑九千,並前四萬戶;進號大都督、假黃鉞,入朝不趨,奏事不名,劍履上殿;賜錢五百萬,帛五千匹,以彰元勳。」帝固辭相國。
又上書訓于天子曰:「宜遵先王下問之義,使講誦之業屢聞於聽,典謨之言日陳於側也。」時天子頗修華飾,帝又諫曰:「履端初政,宜崇玄樸。」並敬納焉。

司馬師は魏帝を廃立したい。永寧太后に諷した。秋9月、太后は「曹芳は天子に適任でない」という。司馬師は「曹拠がいい」というが、太后が「曹髦がいい」という。曹髦を迎えた。正元と改元した。曹髦は詔した。「世よ司馬師は、曹魏を輔政する。相國に登らせ、邑9千戸を増やし、前と併せて4万戸とする。号を大都督に進め、假黃鉞とする。入朝不趨,奏事不名,劍履上殿を与える。錢5百萬、帛5千匹を与えて、元勳を彰らかにする」と。司馬昭は相国を固辞した。

ぼくは思う。曹髦が、曹髦を即位させてくれた司馬師の功績?に報いて贈与する。『晋書』景帝紀「其登位相國,增邑九千,並前四萬戶;進號大都督、假黃鉞,入朝不趨,奏事不名,劍履上殿;賜錢五百萬,帛五千匹」と。ぼくらが普遍的な価値だと思いがちな概念「貨幣」に該当しそうな銭と帛が末尾で、辞退の対象にならない。銭と帛くらいなら、受納してしまっても、負い目を感じることは少ない。いかにぼくらが「いびつな」「民俗学的奇習に満ちた」社会に生きているかが分かる。

司馬師は上書した。「儒教の勉強をしろ。華美な服装をするな」と。

ぼくは思う。司馬師のくせに、なに言ってるの? 司馬師はキャラが立たないが、『晋書』本紀を読む範囲では、まったく儒教を踏み外さない。というか、司馬師が政変を起こすとき、すべて儒教によって正統化する。だから司馬師を「儒教においてパーフェクト」にしないと、ツジツマが合わなくなる。
「西晋は儒教を重んじた国家だ」という学説は、確信犯的に『晋書』の編集方針に、だまされているのではないか?
同じような話を『後漢書』で感じたことがある。『後漢書』は南朝宋の人々の「こんな王朝だから、魏晋南北朝の端緒になった」というルサンチマンが生み出した。だから腐りまくって見える。もしくは『後漢書』は、「私たちの祖先は、こんなにも道義がすばらしい」という自己認識の上で書かれた。だから体制に玉砕する儒者が美しい。


二年春正月,鎮東大將軍毌丘儉、揚州刺史文欽舉兵作亂。二月,帝會公卿謀征討計,朝議多謂可遣諸將擊之,王肅及尚書傅嘏、中書侍郎鐘會勸帝自行。帝統中軍步騎十余萬以征之。(中略)
安風津都尉追毋丘儉,斬之,傳首京都。文欽遂奔吳,淮南平。

正元2年の春正月、鎮東大將軍の毌丘儉、揚州刺史の文欽が挙兵した。2月、曹髦は公卿に討伐を議した。王粛と尚書の傅嘏、中書侍郎の鍾会だけが「司馬師が自ら行け」という。司馬師は中軍の歩騎10余万をひきいて寿春にゆく。毋丘倹が斬られ、首級が洛陽に伝わる。文欽は孫呉ににげた。淮南が平らいだ。

ぼくは思う。なんで自ら行けと言ったのか。もちろん司馬師がいたほうが強いのだが、「司馬師に功績を積ませたい」という意図があったのでは。王粛、傅嘏、鍾会の列伝を見るべきだ。やることが増える!


閏月疾篤,使文帝總統諸軍。辛亥,崩于許昌,時年四十八。二月,帝之喪至自許昌,天子素服臨吊,詔曰:「公有濟世甯國之勳,克定禍亂之功,重之以死王事,宜加殊禮。其令公卿議制。」有司議以為忠安社稷,功濟宇內,宜依霍光故事,追加大司馬之號以冠大將軍,增邑五萬戶,諡曰武公。
文帝表讓曰:「臣亡父不敢受丞相相國九命之禮,亡兄不敢受相國之位,誠以太祖常所階曆也。今諡與二祖同,必所祗懼。昔蕭何、張良、霍光咸有匡佐之功,何諡文終,良諡文成,光諡宣成。必以文武為諡,請依何等就加。」詔許之,諡曰忠武。晉國既建,追尊曰景王。武帝受禪,上尊號曰景皇帝,陵曰峻平,廟稱世宗。

閏月、司馬師は疾篤である。司馬昭に諸軍を総統させた。許昌で崩じた。48歳。2月、死骸が許昌から洛陽にくる。曹髦は「司馬師の葬儀には、殊禮を加えたい」という。有司はいう。「霍光の故事に基づけ。大司馬の號を加え、大將軍を冠せ。5萬戶を(に?)増邑せよ。武公と諡せよ」と。
司馬昭が上表して辞した。「司馬懿ですら、丞相、相國、九命之禮を受けなかった。司馬師も相国を受けなかった。相国は、曹操の官位だからだ。いま、司馬懿が曹丕と同じく”文”がつく諡号をもらったのに、司馬師が曹操と同じく”武”がつく諡をもらっては、懼れおおい。蕭何は文終、張良は文成、霍光は宣成と諡された。もしも、”文”か”武”をくださるならば、ほかの文字を付けてくれ」と。曹髦は司馬師を「忠武」と諡した。晋室が建国されると、「景王」と諡され、司馬炎が受禅すると「景皇帝」とされた。陵を峻平といい、廟を世宗という。121212

ぼくは思う。1字の諡号のほうが、2字より尊い!
ぼくは思う。司馬氏の晋室は「儒教を尊ぶ王朝」でない。…とまで断言できないが疑問がある。司馬氏は「魏帝は不孝者」という公式見解で廃立しまくる。司馬氏が儒教の実践者でないと、公式見解が成立しない(お前に言われたくないヨと)。だから実態とは無関係に、『晋書』は司馬氏に(少なくとも本紀を立てられた者に)儒教者としての記述を要請する。史書を矛盾なき作品に仕立てるために、編者の都合で、司馬師や司馬昭ですら、麗しい儒教者になるのだ。

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『晋書』文帝紀・司馬昭と、魏帝の関係

曹芳との関係

文皇帝諱昭,字子上。魏景初二年,封新城鄉侯。正始初,為洛陽典農中郎將。轉散騎常侍。大將軍曹爽之伐蜀也,以帝為征蜀將軍,副夏侯玄出駱穀,次於興勢。帝謂玄曰:「費禕以據險距守,進不獲戰,攻之不可,宜亟旋軍,以為後圖。」爽等引旋,禕果馳兵趣三嶺,爭險乃得過。遂還,拜議郎。及誅曹爽,帥眾衛二宮,以功增邑千戶。

司馬昭は、あざなを子上。景初2年、新城郷侯に封じられる。正始初、洛陽典農中郎將となる。散騎常侍に転じる。大將軍の曹爽が伐蜀すると、征蜀將軍となる。夏侯玄の副官となる。夏侯玄に「費禕に勝てんよ」という。洛陽にもどり、議郎となる。曹操が誅され、功績により1千戸を増邑される。

ぼくは思う。だれも曹操を誅したとき、辞退しないのね。


蜀將姜維之寇隴右也,征西將軍郭淮自長安距之。進帝位安西將軍、持節,屯關中,為諸軍節度。淮攻維別將句安於麹,久而不決。帝乃進據長城,南趣駱穀以疑之。維懼,退保南鄭,安軍絕援,帥眾來降。
轉安東將軍、持節,鎮許昌。及大軍討王淩,帝督淮北諸軍事,帥師會于項。增邑三百戶,假金印紫綬。尋進號都督,統征東將軍胡遵、鎮東將軍諸葛誕伐吳,戰于東關。二軍敗績,坐失侯。
蜀將薑維又寇隴右,揚聲欲攻狄道。以帝行征西將軍,次長安。維燒營而去。會新平羌胡叛,帝擊破之。以功複封新城鄉侯。

姜維が隴右を寇した。司馬昭は、安西将軍、持節として、関中に屯する。
安東將軍に転じる。持節して、許昌に鎮する。司馬懿が王淩を討つと、司馬昭は督淮北諸軍事して、項県にいる。増邑3百戶,假金印紫綬。進んで都督を号する。征東將軍の胡遵、鎮東將軍の諸葛誕を統べて、伐呉する。東関で敗れて、新城郷侯を失う。
ふたたび姜維が隴右を寇する。司馬昭は、行征西将軍となり、長安にゆく。姜維と羌胡を破ったので、新城郷侯にもどる。

ぼくは思う。任地が東西で往復するが、爵位も往復するなあ!ここまで、司馬懿から司馬師に伝わった爵位は、きちんと熟成されている。だから、司馬昭のような枝葉の爵位が増減しても、あまり関係ないのだ。だから司馬師は、敗戦の責任を、すべて司馬昭に押しつけたのだろう。まだ試用期間みたいなもの。


曹髦との関係

高貴鄉公之立也,以參定策,進封高都侯,增封二千戶。毌丘儉、文欽之亂,大軍東征,帝兼中領軍,留鎮洛陽。及景帝疾篤,帝自京都省疾,拜衛將軍。景帝崩,天子命帝鎮許昌,尚書傅嘏帥六軍還京師。帝用嘏及鐘會策,自帥軍而還。至洛陽,進位大將軍加侍中,都督中外諸軍、錄尚書事,輔政,劍履上殿。帝固辭不受。

曹髦がたつと、定策に参じたので、高都侯に進み、2千戸を増封される。毌丘儉と文欽の乱では、中領軍をかねて、洛陽に留鎮する。司馬師が重篤になると、洛陽から司馬師を見まい、衛將軍を拝する。
司馬師が死ぬと、曹髦は「司馬昭は許昌に鎮せ。尚書の傅嘏が、6軍をひきいて洛陽にもどれ」という。司馬昭は、傅嘏と鍾会の策謀をつかい、みずから洛陽にもどる。大將軍に進み、侍中を加えらる。都督中外諸軍、錄尚書事する。輔政する。劍履上殿を与えられたが、司馬昭は固辞する。

ぼくは思う。官位はホイホイ受ける。というか、軍団で曹髦を脅してでも、官位を奪いとる。だが、儀礼の特権はこばむ!爵位にも慎重である。よほど爵位という「固定資産」は重たいのだろう。


甘露元年春正月,加大都督,奏事不名。夏六月,進封高都公,地方七百里,加之九錫,假斧鉞,進號大都督,劍履上殿。又固辭不受。秋八月庚申,加假黃鉞,增封三縣。

甘露元年の春正月、大都督を加え、奏事不名とする。
夏6月、司馬昭を高都公に進める。地方7百里、九錫を加える。斧鉞を假す。号を大都督に進める。劍履上殿を与える。すべて司馬昭は固辞して受けない。
秋8月庚申、司馬昭に假黃鉞を加える。3県を増封する。

二年夏五月辛未,鎮東大將軍諸葛誕殺揚州刺史樂綝,以淮南作亂。秋七月,奉天子及皇太后東征。
三年春二月乙酉,攻而拔之,斬誕,夷三族。吳將唐咨、孫彌、徐韶等帥其屬皆降,表加爵位,稟其餒疾。或言吳兵必不為用,請坑之。帝曰:「就令亡還,適見中國之弘耳。」於是徙之三河。
夏四月,歸於京師。五月,天子以並州之太原上党西河樂平新興雁門、司州之河東平陽八郡,地方七百里,封帝為晉公,加九錫,進位相國,晉國置官司焉。九讓,乃止。於是增邑萬戶,食三縣,諸子之無爵者皆封列侯。

甘露2年の夏5月辛未、鎮東大將軍の諸葛誕が、揚州刺史の樂綝を殺した。秋7月、司馬昭は、曹髦と皇太后を奉じて東征する。
甘露3年の春2月乙酉、諸葛誕を斬って夷三族する。吳將の唐咨、孫彌、徐韶らが降った。司馬昭は上表して「呉将に爵位を加え、食糧を与えろ」という。司馬昭は反論者に「曹魏の寛弘さを見せるのだ」と説得する。呉将を三河に移住させる。

ぼくは思う。この記事、いいねえ!

夏4月、京師に帰る。5月、曹髦は、并州の太原、上党、西河、樂平、新興、雁門と、司州の河東、平陽の8郡、すなわち地方7百里を切りとって、司馬昭を晉公にする。九錫を加え、位を相國に進める。晋国に官司を置かせる。司馬昭は九讓した。1万戸を増邑し、3県を食ませる。
司馬昭の諸子のうち、無爵の者を列侯に封じる。

ぼくは思う。目まぐるしい!そして、いま司馬昭が、どれだけのものを受けたのか、分からなくなってきた。分からなくなるほど、曹髦が封建ポトラッチの攻撃を仕掛けていることは分かった。


曹奐との関係

景元元年夏四月,天子複命帝爵秩如前,又讓不受。五月戊子夜,天子崩于車中。與公卿議,立燕王宇之子常道鄉公璜為帝。六月丙辰,天子進帝為相國,封晉公,增十郡,加九錫如初,群從子弟未侯者封亭侯,賜錢千萬,帛萬匹。固讓,乃止。
二年秋八月甲寅,天子使太尉高柔授帝相國印綬,司空鄭沖致晉公茅土九錫,固辭。

景元元年の夏4月、曹髦はまた爵秩を勧めた。司馬昭は受けない。5月戊子、曹髦が車中で崩じた。

ぼくは『三国志』高貴郷公の本紀で、陳寿が曹髦の死に関して「記述のルールを守らないというルールを守った」と指摘しました。『晋書』文帝紀は「天子崩于車中」と。曹髦を天子とよび、崩と書き、ムリにでも(ほんとにムリに)死に場所を書いてます。『晋書』は君主の変死に対し「ルールを守らないというルールを守らない」わけです。つまり曹髦は、変死でないという扱いです。

司馬昭は、曹璜を魏帝に立てる。6月丙辰、曹奐は司馬昭を相國に進め、晉公に封じる。10郡に増やす。初めのとおり九錫を加える。

ぼくは思う。例えば「5郡を増やした」つまりプラス5なのか、「5郡に増やした」つまり足し算の結果が5なのか。なんだかこの頁内で、判定できてないぞ。福原先生とかが整理なさってないかなあ。

從子弟で、まだ侯爵がない者を、亭侯にする。銭1千万、帛1万匹を賜う。司馬昭は固辞した。
2年秋8月甲寅、曹奐は太尉の高柔に、相国の印綬を持たせて、司馬昭に与える。司空の鄭沖に、晉公の茅土と九錫を持たせて、司馬昭に与える。司馬昭は受けない。

四年春二月丁醜,天子複命帝如前,又固讓。三月,詔大將軍府增置司馬一人,從事中郎二人,舍人十人。 夏,帝將伐蜀,乃謀眾。征西將軍鄧艾以為未有釁,屢陳異議。帝患之,使主簿師纂為艾司馬以喻之,艾乃奉命。使鄧艾自狄道攻姜維於遝中。鎮西將軍鐘會自駱穀襲漢中。秋八月,軍發洛陽,大賚將士,陳師誓眾。將軍鄧敦謂蜀未可討,帝斬以徇。冬十月,天子以諸侯獻捷交至,乃申前命曰:

景元4年春2月丁丑、曹髦は九錫を受けろという。司馬昭は固辞した。3月、曹髦が詔して、司馬昭のために、大将軍府の属吏を増員する。夏、司馬昭が「伐蜀したい」という。征西將軍の鄧艾は「まだ伐蜀するな」という。司馬昭は鄧艾をわずらい、主簿の師纂を鄧艾の司馬にして、鄧艾を説得した。鄧艾は狄道から姜維を攻める。鎮西将軍の鍾会は、駱谷から漢中をおそう。秋8月、伐蜀の軍が洛陽を発する。將軍の鄧敦が「まだ伐蜀するな」というから、司馬昭は鄧敦を斬った。冬10月、また司馬昭は九錫を勧めて命する。

△a朕以寡德,獲承天序,嗣我祖宗之洪烈。△a 遭家多難,不明於訓。曩者奸逆屢興,方寇內侮,大懼淪喪四海,以墮三祖之弘業。●b 惟公經德履哲,明允廣深,迪宣武文,世作保傅,以輔乂皇家。櫛風沐雨,周旋征伐,劬勞王室,二十有餘載。毗翼前人,乃斷大政,克厭不端,維安社稷。●b 暨儉、欽之亂,公綏援有眾,分命興師,統紀有方,用緝寧淮浦。●b 其後巴蜀屢侵,西土不靖,公奇畫指授,制勝千里。是以段谷之戰,乘釁大捷,斬將搴旗,效首萬計。孫峻猾夏,致寇徐方,戎車首路,威靈先邁,黃鉞未啟,鯨鯢竄跡。孫壹構隙,自相疑阻,幽鑒遠照,奇策洞微,遠人歸命,作籓南夏,爰授銳卒,畢力戎行。●b 暨諸葛誕,滔天作逆,稱兵揚楚,欽、咨逋罪,同惡相濟,帥其蝥賊,以入壽春,憑阻淮山,敢距王命。公躬擐甲胄,龔行在罰,玄謀廟算,遵養時晦。奇兵震擊,而硃異摧破 (中略)
是用疇咨古訓,稽諸典籍,●a 命公崇位相國,加於群後,啟土參墟,封以晉域。所以方軌齊魯,翰屏帝室。而公遠蹈謙損,深履沖讓,固辭策命,至於八九。朕重違讓德,抑禮虧制,以彰公志,於今四載。△b 上闕在昔建侯之典,下違兆庶具瞻之望
今 ●a 進公位為相國,加綠綟綬。又加公九錫,其敬聽後命。後略。

「礼を抑え、制を欠く」のは、いかんなあ!


公卿將校皆詣府喻旨,帝以禮辭讓。司空鄭沖率群官勸進曰:「伏見嘉命顯至,竊聞明公固讓,沖等眷眷,實有愚心。以為聖王作制,百代同風,褒德賞功,有自來矣。昔伊尹,有莘氏之媵臣耳,一佐成湯,遂荷阿衡之號。周公藉已成之勢,據既安之業,光宅曲阜,奄有龜蒙。呂尚,磻溪之漁者也,一朝指麾,乃封營丘。自是以來,功薄而賞厚者,不可勝數,然賢哲之士,猶以為美談。況 ●b 自先相國以來,世有明德,翼輔魏室,以綏天下,朝無秕政,人無謗言。前者 ●b 明公西征靈州,北臨沙漠,榆中以西,望風震服,羌戎來馳,回首內向,東誅叛逆,全軍獨克。禽闔閭之將,虜輕銳之卒以萬萬計,威加南海,名懾三越,宇內康寧,苛慝不作。是以時俗畏懷,東夷獻舞。故聖上覽乃昔以來禮典舊章,開國光宅,顯茲太原。明公宜承奉聖旨,受茲介福,允當天人。元功盛勳,光光如彼;國土嘉祚,巍巍如此。內外協同,靡愆靡違。由斯征伐,則可朝服濟江,掃除吳會,西塞江源,望祀岷山。回戈弭節,以麾天下,遠無不服,邇無不肅。○a 令大魏之德,光于唐虞;●b 明公盛勳,超于桓文。然後臨滄海而謝支伯,登箕山而揖許由,豈不盛乎!至公至平,誰與為鄰,何必勤勤小讓也哉。」帝乃受命。

これは何か。やがて明らかにします。
ぼくは思う。伐蜀は、数に入っていない。何回も断ったことを言われている。

司馬昭は、曹髦の命を受けた。

十一月,鄧艾帥萬余人,進軍雒縣,劉禪降。天子命晉公以相國總百揆,於是上節傳,去侍中、大都督、錄尚書之號焉。表鄧艾為太尉,鐘會為司徒。會潛謀叛逆,因密使譖艾。

11月、鄧艾が劉禅をくだす。曹髦は司馬昭に、百揆を総べさせる。ここにおいて、司馬昭から節傳を返上させ、去侍中、大都督、錄尚書の号を去る。表して、鄧艾を太尉とする。鍾会を司徒とする。鍾会が鄧艾をそしる。

咸熙元年春正月乙丑,帝奉天子西征,次於長安。鐘會遂反於蜀,監軍衛瓘、右將軍胡烈攻會,斬之。丙辰,帝至自長安。三月己卯,進帝爵為王,增封並前二十郡。夏五月癸未,天子追加舞陽宣文侯為晉宣王,舞陽忠武侯為晉景王。
秋七月,始建五等爵。冬十月丁亥,奏遣吳人相國參軍徐劭、散騎常侍水曹屬孫彧使吳,喻孫皓以平蜀之事,致馬錦等物,以示威懷。丙午,天子命中撫軍新昌鄉侯炎為晉世子。

咸煕元年春正月乙丑、司馬昭は西して長安にゆく。鍾会が殺された。正月丙辰、司馬昭は長安から洛陽に到る。3月己卯、晋王に爵位が進む。增封して、前とあわせて20郡とする。夏5月癸未、曹髦は、舞陽宣文侯の司馬懿を晉宣王とする。舞陽忠武侯の司馬師を晉景王とする。
秋7月、はじめて五等爵を建てる。
冬10月丁亥、相國參軍の徐劭、散騎常侍水曹屬の孫彧(孫呉から曹魏にきた2人)を、孫皓に送り、平蜀のことを報告した。曹魏の威信を示し、孫呉に懐かされる。7月丙午、曹髦は命して、中撫軍・新昌郷侯の司馬炎を世子とした。

二年夏四月,孫皓使紀陟來聘,且獻方物。五月,天子命帝冕十有二旒,建天子旌旗,出警入蹕,乘金根車,駕六馬,備五時副車,置旄頭雲罕,樂舞八佾,設鐘虡宮懸,位在燕王上。進王妃為王后,世子為太子,王女王孫爵命之號皆如帝者之儀。晉國置御史大夫、侍中、常侍、尚書、中領軍、衛將軍官。
秋八月辛卯,帝崩於露寢,時年五十五。九月癸酉,葬崇陽陵,諡曰文王。武帝受禪,追尊號曰文皇帝,廟稱太祖。

咸煕2年夏4月、孫皓は紀陟を來聘させ、方物を献じた。5月、曹髦は命して、冕十有二旒,建天子旌旗,出警入蹕,乘金根車,駕六馬,備五時副車,置旄頭雲罕,樂舞八佾,設鐘虡宮懸をゆるす。儀礼の順位は、燕王(曹奐の父)より上とする。王妃を王后に、世子を太子とする。王女や王孫とする。爵命之號を、みな皇帝と同じとした。晋国に、御史大夫、侍中、常侍、尚書、中領軍、衛將軍の官をおく。
秋8月辛卯、司馬師は露寢で崩じた。55歳。9月癸酉、崇陽陵に葬り、文王と諡する。武帝が受禪すると、文皇帝とした。廟を太祖とする。121213

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『晋書』武帝紀・司馬炎と、魏帝の関係

最後に、魏晋革命だけ見ます。

曹奐との関係

武皇帝諱炎,字安世。魏嘉平中,封北平亭侯,曆給事中、奉車都尉、中壘將軍,加散騎常侍,累遷中護軍、假節。迎常道郷公于東武陽,遷中撫軍,進封新昌鄉侯。及晉國建,立為世子,拜撫軍大將軍,開府、副貳相國。
咸熙二年五月,立為晉王太子。八月辛卯,文帝崩,太子嗣相國、晉王位。

司馬炎は、あざなを安世。嘉平のとき、北平亭侯に封じられる。給事中、奉車都尉、中壘將軍を歴任する。散騎常侍が加えられ、累ねて中護軍にうつり、假節。曹奐を東武陽に迎えたので、中撫軍にうつり、進んで新昌郷侯に封じられる。晋国が建つと、世子となる。撫軍大將軍を拝し、開府する。相國の司馬昭を副貳する。
咸熙2年5月、晋王の太子となる。8月辛卯、司馬昭が崩じた。司馬炎が相國と晉王の位をつぐ。

於是天子知歷數有在,乃使太保鄭沖奉策曰:「咨爾晉王:我皇祖有虞氏誕膺靈運,受終於陶唐,亦以命于有夏。惟三後陟配於天,而咸用光敷聖德。自茲厥後,天又輯大命於漢。火德既衰,○a 乃眷命我高祖(曹操)。方軌虞夏四代之明顯,我不敢知。惟王乃祖乃父,服膺明哲,●b 輔亮我皇家,勳德光于四海。格爾上下神祗,罔不克順,地平天成,萬邦以乂。應受上帝之命,協皇極之中。肆予一人,祗承天序,以敬授爾位,歷數實在爾躬。允執其中,△a 天祿永終。於戲!王其欽順天命。率循訓典,底綏四國,用保天休,無替我二皇之弘烈。」帝初以禮讓,魏朝公卿何曾、王沈等固請,乃從之。

泰始元年冬十二月丙寅,設壇於南郊,百僚在位及匈奴南單于四夷會者數萬人,柴燎告類於上帝曰:「皇帝臣炎、敢用玄牡明告於皇皇後帝:魏帝稽協皇運,紹天明命以命炎。昔者唐堯,熙隆大道,禪位虞舜,舜又以禪禹,邁德垂訓,多歷年載。暨漢德既衰,太祖武皇帝撥亂濟時,扶翼劉氏,又用受命於漢。粵在魏室,△a 仍世多故,幾於顛墜,實賴有晉匡拯之德,●b 用獲保厥肆祀,弘濟於艱難,此則晉之有大造于魏也。誕惟四方,罔不祗順,郭清梁岷,包懷揚越,八紘同軌,祥瑞屢臻,天人協應,無思不服。肆予憲章三後,用集大命於茲。炎維德不嗣,辭不獲命。於是群公卿士,百辟庶僚,黎獻陪隸,暨於百蠻君長,炎虔奉皇運。寅畏天威,敬簡元辰,升壇受禪,告類上帝,永答眾望。」

禮畢,即洛陽宮幸太極前殿,詔曰:「昔朕皇祖宣王,聖哲欽明,誕應期運,熙帝之載,肇啟洪基。伯考景王,履道宣猷,緝熙諸夏。至於皇考文王,睿哲光遠,允協靈祗,應天順時,受茲明命。仁濟於宇宙,功格於上下。肆魏氏弘鑒於古訓,儀刑于唐虞,疇咨群後,爰輯大命於朕身。予一人畏天之命,用不敢違。惟朕寡德,負荷洪烈,托于王公之上,以君臨四海,惴惴惟懼,罔知所濟。惟爾股肱爪牙之佐,文武不貳之臣,乃祖乃父,實左右我先王,光隆我大業。思與萬國,共用休祚。」於是大赦,改元。(中略)
賜天下爵,人五級;鰥寡孤獨不能自存者穀,人五斛。複天下租賦及關市之稅一年,逋債宿負皆勿收。除舊嫌,解禁錮,亡官失爵者悉複之。丁卯,遣太僕劉原告于太廟。●b 封魏帝為陳留王,邑萬戶,居於鄴宮;魏氏諸王皆為縣侯。


孫皓との関係

四年冬十月,吳將施績入江夏,萬鬱寇襄陽。遣太尉義陽王望屯龍陂。荊州刺史胡烈擊敗鬱。吳將顧容寇郁林,太守毛炅大破之,斬其交州刺史劉俊、將軍修則。十一月,吳將丁奉等出芍陂,安東將軍汝陰王駿與義陽王望擊走之。
五年春二月壬寅,以尚書左僕射羊祜都督荊州諸軍事,征東大將軍衛瓘都督青州諸軍事,東莞王伷為鎮東大將軍都督徐州諸軍事。己未,詔蜀相諸葛亮孫京隨才署吏。
六年春正月,吳將丁奉入渦口,揚州刺史牽弘擊走之。冬十二月,吳夏口督、前將軍孫秀帥眾來奔,拜驃騎將軍、開府儀同三司,封會稽公。

泰始4年冬、施績が江夏に入り、万鬱が襄陽を寇す。太尉の司馬望を遣わす。荊州刺史の胡烈が万鬱をやぶる。呉将の顧容が鬱林を寇する。11月、丁奉が芍陂にでて、司馬駿と司馬望が撃つ。
泰始5年春、羊祜を都督荊州諸軍事とする。諸葛亮の孫・諸葛京を登用する。
泰始6年正月、丁奉が渦口にくる。揚州刺史の牽弘がやぶる。冬12月、夏口督・前将軍の孫秀が、孫呉から西晋にくだる。西晋の驃騎将軍を拝し、開府儀同三司、会稽公とする。

七年春二月,孫皓帥眾趨壽陽,遣大司馬望屯淮北以距之。三月,孫秀部將何崇帥眾五千人來降。夏四月,九真太守董元為吳將虞氾所攻,軍敗,死之。秋七月癸酉,吳將陶璜等圍交趾,太守楊稷與郁林太守毛炅及日南等三郡降于吳。
八年秋九月,吳西陵督步闡來降,拜衛將軍、開府儀同三司,封宜都公。吳將陸抗攻闡,遣車騎將軍羊祜帥眾出江陵,荊州刺史楊肇迎闡於西陵,巴東監軍徐胤擊建平以救闡。冬十二月,肇攻抗,不克而還。闡城陷,為抗所禽。

泰始7年春、孫皓が寿陽にいく。司馬望が距ぐ。3月、孫秀の部将・何崇が来降する。夏、九真太守の董元が、孫呉に攻められて死ぬ。秋、孫呉の陶璜が交趾をかこむ。交趾太守と鬱林太守と、日南3郡が孫呉に降る。 泰始8年、西陵督の歩闡が来降する。西晋の衛将軍、開府儀同三司、宜都公。同年冬、孫呉の陸抗が歩闡を殺した。車騎将軍の羊祜は、歩闡を救えない。

九年秋七月,吳將魯淑圍弋陽,征虜將軍王渾擊敗之。
十年秋七月壬午,吳平虜將軍孟泰、偏將軍王嗣等帥眾降。九月,攻拔吳枳裏城,獲吳立信校尉莊祜。吳將孫遵、李承帥眾寇江夏,太守嵇喜擊破之。立河橋于富平津。十二月,吳威北將軍嚴聰、揚威將軍嚴整、偏將軍硃買來降。

泰始9年、呉将の魯淑が弋陽をかこむ。征虜将軍の王渾がやぶる。
泰始10年、孫呉の平虜将軍の孟泰、偏将軍の王嗣らが降る。9月、孫呉の枳裏城を攻め、孫呉の立信校尉の荘祜を捕らえる。吳將の孫遵と李承が、江夏を寇する。西晋の江夏太守の嵇喜がやぶる。12月、孫呉の威北將軍の嚴聰、揚威將軍の嚴整、偏將軍の硃買が來降する。

ぼくは思う。『通鑑』よりもたくさん来降する!


咸甯元年夏六月,吳人寇江夏。
二年夏六月,吳京下督孫楷帥眾來降,以為車騎將軍,封丹陽侯。冬十月,以平南將軍羊祜為征南大將軍。
三年夏五月戊子,吳將邵凱、夏祥帥眾七千餘人來降。秋七月,以都督豫州諸軍事王渾為都督揚州諸軍事。九月戊子,以左將軍胡奮為都督江北諸軍事。冬十二月,吳將孫慎入江夏、汝南,略千餘家而去。
四年冬十月,揚州刺史應綽伐吳皖城,斬首五千級,焚谷米百八十萬斛。十一月,吳昭武將軍劉翻、厲武將軍祖始來降。辛卯,以尚書杜預都督荊州諸軍事。征南大將軍羊祜卒。

咸甯元年夏、孫呉が江夏を寇する。
咸寧2年夏、京下督の孫楷が来降する。車騎將軍、丹陽侯とする。冬10月、平南將軍の羊祜を征南大將軍とする。
咸寧3年夏,吳將の邵凱と夏祥が、来降する。秋7月、都督豫州諸軍事の王渾を、都督揚州諸軍事とする。9月戊子、左將軍の胡奮を、都督江北諸軍事とする。冬12月、孫呉の孫慎が、江夏と汝南に入る。
咸寧4年冬、揚州刺史の應綽が、孫呉の皖城をぬく。11月、孫呉の昭武將軍の劉翻、厲武將軍の祖始ら来降する。11月辛卯、尚書の杜預を、都督荊州諸軍事とする。羊祜が卒する。

五年冬十一月,大舉伐吳。以太尉賈充為大都督,總統眾軍。
太康元年春三月壬申,王浚以舟師至於建鄴之石頭,孫皓大懼,面縛輿櫬,降於軍門。浚杖節解縛焚櫬,送於京都。
夏五月辛亥,封孫皓為歸命侯,拜其太子為中郎,諸子為郎中。吳之舊望,隨才擢敘。丙寅,帝臨軒大會,引皓升殿,群臣鹹稱萬歲。

咸寧5年冬11月、伐呉する。太尉の賈充が大都督である。
太康元年春3月、王濬の軍門に孫皓がくだる。夏5月、孫皓を帰命侯とする。

目的をしぼったので、ザツだけど、おしまい。121213

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