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『尚書』虞書・堯典 第一

筑摩書房の『世界古典文学全集』、平凡社の『中国古典文学大系』を見ながら、『尚書』を抄訳します。気づいたことを書きこみます。

前者は「筑摩」といい、後者は「平凡」という。

なお、『尚書』と『書経』は同じものです。漢代では『尚書』と呼んでいたので、ここでは『尚書』とよびます。

帝堯のすばらしき治世

昔在帝堯,聰明文思,光宅天下。將遜于位,讓于虞舜,作《堯典》。

むかし帝堯がいた。帝堯が帝位を退こうとして、帝位を虞舜にゆずった。そのとき、『堯典』をつくった。

筑摩はいう。虞とは、帝堯の出身地であり、姓でもあり、王朝名でもある。前漢の劉向『別録』では、虞書と夏書をくっつけて、「虞夏書」とよぶ。許慎『説文解字』では、この堯典を「唐書」とよぶ。唐とは、帝堯の王朝名。ぼくは思う。王朝の名は、虞なのか唐なのか。
筑摩はいう。この部分は序文であるが、漢代に付けられた。ぼくは思う。平凡にこの部分がないのは、後付だからだろう。
筑摩はいう。典とは「常」の意味である。
平凡はいう。堯典とは、帝堯が定めた、永遠に変わらない法則という意味。『尚書』では、初代の聖なる帝王を、帝堯と考えるから、堯典が第1におかれた。『論語』堯曰も同じ立場である。
『論語』堯曰・第20を、贈与論的に読んでみる
平凡はいう。思想家たちは、初代の帝王を設定した。帝堯を初代にセットするのは、戦国時代に行われた。『史記』が採用した、帝堯より以前の三皇などよりも、帝堯が設定された時期がふるい。事実でなく、設定された初代である。


曰若稽古帝堯,曰放勳,欽、明、文、思、安安,允恭克讓,光被四表,格于上下。克明俊德,以親九族。九族既睦,平章百姓。百姓昭明,協和萬邦。黎民於變時雍。

太古の神事を記憶している、神職である私が考えますに、

「曰若」は、ぼくらが覚えるべき書式。

帝堯は、放勲という名である。

平凡はいう。鄭玄によると、放勲は「勲功が大きい」という地の文である。放勲という名ではない。筑摩はいう。『史記』では、放勲が帝堯の名である。皇甫謐『帝王世紀』もおなじ。

帝堯の善政は四方におよぶ。まずは自分の九族を睦ませ、やがて天下の百姓をみちびいた。他国まで調和した。

筑摩はいう。『大学』にある、身を修め、、と同じ。徳化の範囲を拡大していくという発想。ぼくは思う。こまかく意味を引用しなかった。こういうのは、「ほめ言葉ね」と受け取って、最低限はそれと分かるように抄訳する。


乃命羲和,欽若昊天,歷象日月星辰,敬授人時。分命羲仲,宅嵎夷,曰暘谷。寅賓出日,平秩東作。日中,星鳥,以殷仲春。厥民析,鳥獸孳尾。 申命羲叔,宅南交。平秩南訛,敬致。日永,星火,以正仲夏。厥民因,鳥獸希革。分命和仲,宅西,曰昧谷。寅餞納日,平秩西成。宵中,星虛,以殷仲秋。厥民夷,鳥獸毛毨。申命和叔,宅朔方,曰幽都。平在朔易。日短,星昴,以正仲冬。厥民隩,鳥獸氄毛。帝曰:「咨!汝羲暨和。朞三百有六旬有六日,以閏月定四時,成歲。允釐百工,庶績咸熙。」

羲氏と和氏に、暦と季節を調査させた。羲仲は東で、春の発生を調べた。羲叔は南で、夏の生長を調べた。和中は西で、秋の成熟を調べた。和叔は北で、冬の蓄積を調べた。それぞれの季節で、すべきことを定めた。
帝堯はいう。「羲氏と和氏の兄弟たちよ。1年を366日として、閏月でズレを補正せよ。1年の行事を定めよ」と。暦と行事が整備された。

東西南北にいく彼らが、四岳とよばれる。


虞舜に2娘を嫁がせる

帝曰:「疇咨若時登庸?」放齊曰:「胤子朱啟明。」帝曰:「吁!嚚訟可乎?」 帝曰:「疇咨若予采?」驩兜曰:「都!共工方鳩僝功。」帝曰:「吁!靜言庸違,象恭滔天。」 帝曰:「咨!四岳,湯湯洪水方割,蕩蕩懷山襄陵,浩浩滔天。下民其咨,有能俾乂?」僉曰:「於!鯀哉。」帝曰:「吁!咈哉,方命圮族。」岳曰:「异哉!試可乃已。」 帝曰,「往,欽哉!」九載,績用弗成。

帝堯は「だれを登用しようか」と、四岳(羲氏2人と和氏2人)にきく。何人か候補をあげさせたが、すべて帝堯が却下した。帝堯はいう。「四岳よ、洪水がある。どうしようか」と。ためしに鯀が担当したが、9年たっても成功しない。

ぼくは思う。このあたりは、『史記』で類似を読みました。古いけど。
『史記』より、尭舜禹の禅譲劇
鯀さんは、帝禹の父親。これは伏線である。


帝曰:「咨!四岳。朕在位七十載,汝能庸命,巽朕位?」岳曰:「否德忝帝位。」曰:「明明揚側陋。」師錫帝曰:「有鰥在下,曰虞舜。」帝曰:「俞?予聞,如何?」岳曰:「瞽子,父頑,母嚚,象傲;克諧以孝,烝烝乂,不格姦。」帝曰:「我其試哉!女于時,觀厥刑于二女。」釐降二女于媯汭,嬪于虞。帝曰:「欽哉!」

帝堯はいう。「四岳よ。わたしは70年も帝位にある。四岳の誰かが、帝位を継承してくれ」という。四岳が断ったので、虞舜が紹介された。「虞舜は、頑固な父、虚言の母、傲慢な弟をみちびいている」と。帝堯は、2娘を虞舜にあたえて、虞舜をためした。

ぼくは思う。親族をうまく治めるのが、統治の基礎。帝堯でも九族から始めたし、虞舜への試験法も同じ。べつに、帝堯の娘が悪辣な女でなくても、この試験は成立する。「じゃじゃ馬を調教してみよ」というタイプの、帝堯による試験ではない。
筑摩はいう。姉を娥皇といい、妹を女英という。劉向『列女伝』にあり。のちに虞舜が蒼梧で死んだとき、湘水に身を投げて、神となった。『楚辞』九歌篇にでてくる。

2娘の心が和らいだので、帝堯は「虞舜は慎みぶかい」と言った。

ぼくは思う。虞舜は、2つの次元で、帝堯のために尽くしている。1つ、娘を善導するという、家族のなかでの役割。もう1つ、臣下として、帝堯にご奉仕するという役割。前者は「娘婿」としての働きで、後者は「臣下」としての働き。
厳密に分けることができないが、ともあれ虞舜は、帝堯のために働いたあとでないと、帝位を譲ってもらうことができない。
ぼくは思う。これは「試験」ではない。試験とは、それによって、とくになにも生産が起こらない。机上で試されるだけだ。しかし、いま虞舜がやったのは、机上の試験ではなくて、娘と結婚するという具体的な活動である。娘を善導するという「生産」を、帝堯に提供している。この生産なくして、虞舜のために働いたとは言えない。帝堯と虞舜とのあいだで、帝位をめぐる授受が起動しない。

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『尚書』虞書・舜典 第二

正月、虞舜が帝位につく

虞舜側微,堯聞之聰明,將使嗣位,歷試諸難,作《舜典》。

虞舜は卑賤だった。聡明さが帝堯に知られ、帝位を嗣ごうとした。さまざまな試練があった。舜典をつくる。

ぼくは思う。この試練とは、曹操が献帝のために働いたことと、同質だと思う。べつに献帝は、意図して曹操に、ムリ難題を課したのではない。董卓らの状況が手伝って、曹操は期せずして、試練に挑戦した。その結果、禅譲を受ける資格をえた。


曰若稽古帝舜,曰重華協于帝。濬哲文明,溫恭允塞,玄德升聞,乃命以位。
慎徽五典,五典克從;納于百揆,百揆時敘;賓于四門,四門穆穆;納于大麓,烈風雷雨弗迷。帝曰:「格!汝舜。詢事考言,乃言厎可績,三載。汝陟帝位。」舜讓于德,弗嗣。正月上日,受終于文祖。

虞舜は、帝堯と同じくらい優れた人である。虞舜は帝堯に知られ、官位についた。五典の指導をした。百官の長官をした。四門で諸侯を接待した。天候がととのった。

ぼくは思う。はじめに読んだとき、「虞舜が賢いと思うのなら、さっさと禅譲しちゃえよ」と思った。あまりに多くの仕事をさせて、しかしそれでも試用期間だというから、ひどい話だと思った。ハードルが高すぎると思った。帝堯が、みずからの帝位にこだわって、虞舜に譲るのを渋っているのだと思った。ちがうのだ。
虞舜が帝位を受けたときに、「あれだけ帝堯に尽くした虞舜なら、適任者だよね」と、みんなから思ってもらうために、帝堯が試練を与えている。帝堯がそれを意識化しているかは分からない。だが、人類学的な規則にもとづいて、虞舜はここまで、無理難題をこなす必要がある。
おそらく『尚書』の編者は、これを書きながら、「帝位につくには、奇跡的な有能さが必要だぞ」「奇跡的な有能さを発揮した虞舜は、やはり古代の聖王だなあ!」と思っているのだろう。知らんけど。このように、編者の目をあざむつつも、虞舜は「帝堯への圧倒的な贈与」をするよう、仕向けられている。帝堯も共犯になってくれている。

帝堯はいう。「3年、よくやった。帝位につけ」と。
正月上日、文祖の廟で、虞舜が帝位をつぐ。

在璿璣玉衡,以齊七政。肆類于上帝,禋于六宗,望于山川,徧于群神。輯五瑞。既月乃日,覲四岳群牧,班瑞于群后。

「璿璣」「玉衡」で天体を観測すると、7星は正しかった。

平凡はいう。7星とは、日月と5星である。5星とは、春を象徴する木星、夏の火星、中央の土星、秋の金星、冬の水星である。虞舜は、帝堯からもらった天文書と、実際の天体を比べて、天文書と合致することを確認したのだ。

天帝に即位を報告し、六宗や山川、群神を祭った。

平凡はいう。うしろで地方を巡察するから、いまは中央で祭祀したのだろう。中岳、河南省にある嵩高で祭祀したのではないか。
平凡はいう。六宗には諸説あるが、四方神と、東母、西母をさすか。

5段階の爵位の象徴である「瑞」を、諸侯からあつめた。

平凡はいう。『白虎通』文質はいう。王者が即位すると、諸侯が朝見する。『尚書』に五瑞を納めるとある。虞舜が即位したとき、諸侯の符信と合致することを確認したのだ。五瑞とは、珪(さきを尖らせた細い長方形の板状の玉)、璧(輪がたの玉)、琮(八角の筒がたの玉)、璜(璧を半分にした玉)、璋(珪をたて半分にした玉)である。身分により、質や形がちがう。
珪はその信を正すのにつかう。璧は聘問に、琮は土木工事をおこすとき、璜は諸侯を呼びよせるとき、璋は諸侯の軍隊をあつめるときにつかう。諸侯が朝見すると、珪と璧をもってくる(信を正して、聘問する)。天子は、天子がもつ瑁とあわせて、その諸侯が信任できるか確認する。諸侯に過ちがなければ、その珪を返す。過ちがあれば珪をあずかり、3年しても過ちを改めなければ」、爵位をくだす。
平凡はいう。『白虎通』は、『尚書』舜典と一致するが、本来の意義ではない。もとは、聖地に産出する玉は、生命の象徴であった。
平凡はいう。古代の主要な用途は、所持者の献身・誠意を象徴する。『儀礼』聘礼、『儀礼』覲礼にあるように、天子、または対等以上の相手にものを贈与するとき、玉を添える。相手は、誠意ある贈物を受納し、その玉は返したのだ。
ぼくは思う。おもしろい!『儀礼』読もう!
平凡はいう。『礼記』聘義にいう。圭璋を贈物にくっつけるのは、礼儀を重視しているのである。聘礼がおわり、圭璋を返却するのは、財を軽視して、礼儀を重視するからである。 平凡はいう。構成になると圭璋は、ほかの贈物と同じように、贈与の対象となる。しかし『礼記』のときは、圭璋はほかの贈物とはちがった。任命された者が、信任の証拠として、符あわせをするのは、盟約がおおくなった戦国以後か。
ぼくは思う。損得の勘定の対象でしかないモノの取引や、主君が臣下に約束どおり職務を遂行させる固定的な関係も、もとは『礼記』に記されたような、人類学的な意味をもつ。これがスポイルされて、財産や職務になる。おもしろいなあ!
筑摩はいう。『周礼』典瑞はいう。五等爵がそれぞれ、どのような種類の璧をさしだすか記す。玉は土地の象徴である。天子に差し出して、返してもらうのは、「諸侯による土地の所有を継続する」という確認である。

正月のうち、四岳や牧たち(地方長官)と会見した。「瑞」を諸侯にかえした。

平凡はいう。『礼記』曲礼上はいう。九州の長は、天子の国に入ってからは牧という。殷代には、遠方の君主を誘導する者がいて、方伯といった。方伯が、牧となった。
ぼくは思う。漢代の州牧。彼らが、この肩書や権限を、どういう古典に基づいて理解していたか、うかがうことができる。


2月、泰山で天を祭る

歲二月,東巡守,至于岱宗,柴。望秩于山川,肆覲東后。協時月正日,同律度量衡。修五禮、五玉、三帛、二生、一死贄。如五器,卒乃復。

2月、帝舜は東方に巡狩して、泰山にくる。

平凡はいう。春に東にゆくのは、五行説の配分にしたがう。だが、ただの架空の記述とはいえない。古代の天子が、五行説どおりに行動していたかも知れない。『呂氏春秋』でも、五行説どおりに行動せよという。『尚書』では、五行説でぴったり説明するほど、整備されていない。
平凡はいう。『孟子』梁恵王上は、晏子の言葉として、「天子が諸侯のところにゆくのを、巡狩という。春には労働力の足りないところを補い、秋には収穫の足りないところを補ってやる」という。

柴を焼いて、泰山で天を祭る。

平凡はいう。泰山を祭るのではない。『礼記』礼器にいう。名山で、天を祭ると。泰山にいて、上帝の霊をおろし、その意志を体現して、あつまった諸侯たちを教示するためである。『史記』封禅書にもあるが、天子の功績をほこるために、祭るのではない。

東方の諸侯にあう。暦法と度量衡をととのえる。

平凡はいう。殷代には2つの暦があった。閏月を年末におくものと、年内におくもの。太古から、暦法が整わないことに、悩んでいたのか。
ぼくは思う。暦法は「仮説」である。これで天体をうまく説明できる!と思って、理論を立てたところ、その理論に該当しない現象がでてくる。だから修正する。しかし修正案の妥当性は、その場で確認できない。時間をかけて、継続的に観測するなかで、理論の正しさを確認するしかない。虞舜は即位したとき、天体観測して「いまの暦法は齟齬がない」と確認した。がんばってね。
『荀子』儒郊で、度量衡を定めれば、うまくいくとある。戦国の思想家にとって、度量衡を整備することは、秩序を整えるために重要なことだった。
ぼくは思う。度量衡を定めることは、価値尺度の安定である。つまり、もやもやとした霊のうずまく世界から、財物を切り出して、世俗権力のもとで、「誰がやっても同じように」取引するために必要なものである。中沢氏が言うところの「首長」の対義語である「王」がやるべきことだ。

5つ礼制や、にえの制度をととのえる。

平凡はいう。社会生活の倫理的規範を定めた。平凡034頁。
平凡はいう。にえは、神への献納である。服従や盟約のしるしとなり、上位者や対等者に訪問するときの贈物となった。本来は一族によって差異があったはず。『礼記』曲礼下で、身分ごとに差し出すものを定める。『白虎通』はいう。にえは、誠意のあかしである。ギョクは徳の完全さをしめす。コヒツジは、党派をくまないこと、ガンは職分を守ることを、キジは節度を守って、義のために死ぬことをしめす。ここ『尚書』舜典では、身分制や道徳よりも、社会的や倫理的な協同関係を正したことを記す。

祭祀がおわると、五種の瑞玉を諸侯にかえした。

平凡はいう。『礼記』王制には、この2月における理想的な政治の手続がある。
天子五年一巡守:歲二月,東巡守至于岱宗,柴而望祀山川;覲諸侯;問百年者就見之。命大師陳詩以觀民風,命市納賈以觀民之所好惡,志淫好辟。命典禮考時月,定日,同律,禮樂制度衣服正之。


冬までに四方を巡狩し、制度を整える

五月南巡守,至于南岳,如岱禮。八月西巡守,至于西岳,如初。十有一月朔巡守,至于北岳,如西禮。歸,格于藝祖,用特。五載一巡守,群后四朝。敷奏以言,明試以功,車服以庸。

5月、南岳(衡山)で、泰山のときと同じ祭礼をやる。
秋8月、西にゆき、西岳(太華山)で祭礼する。11月ついたち、北岳(恒山)で祭礼する。四方を巡狩してから、近祖の廟にウシをそなえ、報告した。

『礼記』曽子問はいう。天子や諸侯は、郊外にいくとき、祖先に報告する。帰ったら報告する。祖先を重んじるからである。
平凡はいう。虞舜の祖先は、『史記』などに伝説があるが、よくわからない。殷代の礼から推測するに、出発するときは、近祖と太祖(初代)に報告するが、帰ってきたら近祖への報告だけでよかったか。天子は、近祖を媒介にして、初めて天命をうけた太祖とつながっていた。

天子は、5年に1回の巡狩をすることにした。諸侯は、4年に1回の朝覲をすることにした。諸侯の意見をきいて、実績をしらべ、車馬や衣服で賞した。

『礼記』王制によると、諸侯は毎年、大夫を使者にして朝覲した。小聘という。3年ごとに、卿を使者にして朝覲した。大聘という。5年ごとに、諸侯がみずから朝覲した。ここ『尚書』と一致しない。


肇十有二州,封十有二山,濬川。
象以典刑,流宥五刑,鞭作官刑,扑作教刑,金作贖刑。眚災肆赦,怙終賊刑。欽哉,欽哉,惟刑之恤哉!流共工于幽洲,放驩兜于崇山,竄三苗于三危,殛鯀于羽山,四罪而天下咸服。

12州をつくり、州ごとに山と川を封じた。

『漢書』地理志では、帝舜が12州をつくり、帝禹が9州にしたという。馬融の解釈では、禹貢篇の9州(冀州、兗州、青州、徐州、揚州、荊州、豫州、梁州、雍州)と定めたものを、帝舜が冀州を分けて、幽州と并州をつくった。青州をわけて、青州と営州とした。これで、9+2+1=12州である。平凡はいう。だが『尚書』では、禹の9州がなく、四岳があるのみ。四岳を3分割して、4岳*3=12州 であろう。統治しやすくするため、細分化したのである。どの山と川が、12にあたるのかは不明。

刑罰を定めて「慎重に執行せよ」と命じた。共工を幽洲に、驩兜を崇山に、三苗を三危に、鯀を羽山に追放した。

平凡はいう。四荒説と、四罪人説をむすんだもの。『楚辞』招魂には、四方に凶悪な霊がいるという。『左伝』にある不才子もおなじ。『尚書』では、不才子のかわりに、功績のない臣下をあてた。
ぼくは思う。彼らは、帝堯に却下された、天子の後継者の候補。まして鯀なんて、ながいこと治水をがんばった。成果は出なかったけど。ぼくが下世話に読めば、帝舜がライバルを葬り去ったように見えるけど。ちがうのね。そういう読み方をしてはいかん。帝舜が、刑罰をととのえた話としてしか、読んじゃいかん。

4人を罰したので、天下は服した。

『韓非子』外儲説右上で、太公望が斉に封じられると、国家秩序に従わない賢人を罰した。『荀子』宥坐で、孔子が魯の宰相となると、有名な者を殺した。平凡はいう。知恵がありながら陰険な人物など、賢者とは似て非なる人物を罰するのが、刑罰の第一手という類型的な考え方があったようだ。


二十有八載,帝乃殂落。百姓如喪考妣,三載,四海遏密八音。

帝舜が即位して28年たって、帝堯が死んだ。3年のあいだ、8音をやめた。

平凡はいう。やめたという「8音」とは、カネのような金属の楽器をはじめ、石製、土製、皮製、弦楽器、木製、竹製など、ようするに全ての楽器。


禹などに職務を命じる

月正元日,舜格于文祖,詢于四岳,闢四門,明四目,達四聰。「咨,十有二牧!」曰,「食哉惟時!柔遠能邇,惇德允元,而難任人,蠻夷率服。」

喪が明けた年の元日、

『孟子』万章上はいう。帝堯が死んで3年の喪があけた。帝舜は、帝堯の子の居住地から離れて、南河の南にうつった。諸侯は、朝覲・訴訟のとき、帝堯の子のところに行かなくなった。帝舜は天子になった。
平凡はいう。『史記』は、『孟子』の逸話を採用する。

帝舜は文祖の廟にもうでて、四岳に賢者をあげさせた。

平凡はいう。諸官の任命をするため、文祖の廟にきた。「帝堯の喪が明けたから、帝舜が天子になるために」廟にきたのでない。金文史料によると、任命は廟で行うものである。先王の神意によって、任命していた。

12州の牧に、「遠近を懐かせよ。口先だけの人材はダメだ」という。

舜曰:「咨,四岳!有能奮庸熙帝之載,使宅百揆亮采,惠疇?」僉曰:「伯禹作司空。」帝曰:「俞,咨!禹,汝平水土,惟時懋哉!」禹拜稽首,讓于稷、契暨皋陶。帝曰:「俞,汝往哉!」

帝舜はいう。「四岳よ、事業を補佐してくれるのはだれか」と。四岳が「伯禹を司空にしなさい」とこたえた。帝舜は「禹よ、治水して、土地を平定せよ」と。

平凡はいう。禹は鯀の子である。戦国時代の通説で、鯀の失敗をついで、治水したという。「伯禹」とは、長男という意味でなく、禹が水神だったことの名残。「河伯」とおなじ用法。
禹は、鯀や共工とおなじように、水神だった。禹の神話は、河南に広まっていたが、『尚書』の編者らによって整理されて、史書に合流した。
平凡はいう。司空とは、『尚書』周官や、『礼記』王制にある。土地の区画を正して、人民の居住を定める。水利して、地利をおこす。周代の金文では「司工」といい、宗廟、宮殿、車馬、貴郡などの工作を監督した。『周礼』官制では、司空は冬官である。車、武器、玉器、宮室などの工作を監督する。


帝曰:「棄,黎民阻飢,汝后稷,播時百穀。」 帝曰:「契,百姓不親,五品不遜。汝作司徒,敬敷五教,在寬。」 帝曰:「皋陶,蠻夷猾夏,寇賊姦宄。汝作士,五刑有服,五服三就。五流有宅,五宅三居。惟明克允!」

帝舜は、稷に農業をやらせた。契に五品の教育をやらせ、司徒とする。「五教をひろめ、寛容にやるように(五教在寛!!)」

平凡はいう。五品=五典であれば、家族道徳である。
平凡はいう。司徒は、『礼記』王制で、地方の民を教化する職務である。西周の金文では「司土」とあり、山林、川沢、原野などの土地の管理をやり、それを通じて地方の人民をつかむ。
『孟子』滕文公上はいう。帝舜は「帝堯は人民をいたわり、よく助けてやれと言った。人民に自分で気づかせ、その上で導いてやるのだ」と。平凡はいう。主語が、帝舜から帝堯になっているが、ちがう『尚書』を見て書いたのか。
平凡はいう。『荀子』は厳しい指導をいう。だが『礼記』学記、『呂氏春秋』フ徒にも、教化を寛容にやれという。『論語』陽貨では、寛容であれば衆心をとらえるという。この『尚書』も、伝統的な教化の方針をふまえる。

皋陶に法刑をやらせ、士(司法長官)とする。

平凡はいう。『詩経』魯頌に、皋陶が明察な裁判官として出てくる。裁判官キャラは、春秋時代に定着していた。加藤博士『少皋・皋陶エイ姓考』によると、この舜典にあとで出てくる、益、伯夷、五帝の1つである少皋、秦の祖先などは、同一の水神であり、エイ氏が信仰していたものである。
ぼくは思う。『史記』は、こうした神話の、時系列が混乱していたり、縦一列の血筋にならなかったり、同一のものが複数名で出てきたりするものを、単線に書き換える。しかし、本来における人間の伝承というのは、並行して混乱するのが正しい。『史記』のように、むりに整えると、なんだかツマラナくなる。無数の事実や解釈を、歴史として整備することのデメリットに、早くぼくらは気づいたほうがいいなあ!
平凡はいう。士とは、司法長官である。『周礼』では、秋官の大司寇があたる。周代以後は、司徒(司土)、司馬、司工が、3要職である。いま舜典では、軍事長官の司馬がいない。いま舜典では、民の恒産を保証してから、民を教育せよという。道義の国家をあらわす。


帝曰:「疇若予工?」僉曰:「垂哉!」帝曰:「俞,咨!垂,汝共工。」垂拜稽首,讓于殳斨暨伯與。」帝曰:「俞,往哉!汝諧。」 帝曰:「疇若予上下草木鳥獸?」僉曰:「益哉!」帝曰:「俞,咨!益,汝作朕虞。」益拜稽首,讓于朱虎、熊羆。帝曰:「俞,往哉!汝諧。」

帝舜は、垂を共工(諸工の長官)とした。益を虞(山沢の管理者)とした。

平凡はいう。『荀子』成相、『呂氏春秋』求人によれば、益とは、皋陶らとともに、禹の治水をたすけた。『孟子』滕文公上によると、舜の命令で、山沢に火をつけて、鳥獣を追い払い、人間の居住地をつくった。『孟子』万章上では、禹に帝位を譲ろうといわれた。水神としての伝承があり、東方のツバメの神話ともつながる。
ぼくは思う。ぼくは省略しているけど、長官に任じられた人物は、「いえいえ、私より相応しいのは、だれだれで」と他者を推薦する。すると帝舜は、推薦された者も、いっしょに任命してしまう。これは、他の地域の神話をあわせながら、神サマたちの位置を定めているのだろう。たとえば、どの地域でも、農耕の神サマがいるだろう。しかし『尚書』では、1つに統合しなければならない。だから、誰かを長官にし、その他を「長官に推薦され、帝舜がまとめて任じた副官」という、わりに名誉ある地位を与えていった。
ぼくは思う。『史記』は伝説を採録するから”信頼”できないという。だが『尚書』を読むと、『史記』を"信頼"すべきだと分かる。経書における歴史は、各地の神話を統合したもの。時系列が並行して、しばしば逆転する。同一のものが、ちがう名で出てくる。ちがうものが、同一の名で出てくる。このように、『尚書』を初めとする経書に見えるホコロビが、神話や伝承の本来のすがた。『史記』は、これらを単線の時系列に整備して、同一のものを同一の名でよび、別のものを別の名で呼ぶという、合理化の処理を施してしまった。もとの伝承を復元できないほど、つまらなくしてしまったという意味で、司馬遷はすぐれた編者であり、”信頼”できる歴史家である。皮肉を言ってるんだけど。歴史は、時系列と同一性を固定されて明解になることで、「教科書」になる。考察や鑑賞の対象から、暗記の対象へと変じる。『史記』は教科書化のステップである。
ツイッター用に整理した。
『史記』が伝説を採録するから”信頼”できないと言うなら、真逆の批判だ。『尚書』は伝承が並存してるが、『史記』は整理が済んでる。歴史は、時系列と同一性が固定されることで”信頼”すべき「教科書」になる。考察や鑑賞の対象から、暗記の対象に転じる。ぼくは、”信頼”できなくても、ほころんだ『尚書』のほうが好き。


帝曰:「咨!四岳,有能典朕三禮?」僉曰:「伯夷!」帝曰:「俞,咨!伯,汝作秩宗。夙夜惟寅,直哉惟清。」伯拜稽首,讓于夔、龍。帝曰:「俞,往,欽哉!」
帝曰:「夔!命汝典樂,教冑子,直而溫,寬而栗,剛而無虐,簡而無傲。詩言志,歌永言,聲依永,律和聲。八音克諧,無相奪倫,神人以和。」夔曰:「於!予擊石拊石,百獸率舞。」
帝曰:「龍,朕堲讒說殄行,震驚朕師。命汝作納言,夙夜出納朕命,惟允!」

帝舜は、伯夷に三礼をつかさどらせ、秩宗とした。

『白虎通』王者不臣で、王者は先王をたすけた老臣を、名でなくあざなで敬称するという。平凡はいう。伯夷は、帝堯をたすけていない。この「伯」という呼びかけは、夷族の伯(族長)のなごりか。
平凡はいう。秩は、順序を正すこと。宗は、神霊をまつる宮室。諸神の祭祀を統括する官。『周礼』では、祭祀の官は春官であり、その長官を宗伯という。

帝舜は、夔に音楽の教育をさせ、典楽とした。

平凡はいう。夔は、異なる系統の伝承から合流した神サマ。
平凡はいう。国民を教化する司徒と、青年に音楽を教える典楽の2つが、舜典にでてくる。『周礼』もおなじ。古代において、礼や楽のような社会教養は、実用科目とは区別して、教えるものだった。

帝舜は、竜に言論をつかさどらせ、納言とした。

平凡はいう。納言とは、天子の命令を代わりに宣言する。臣下の進言を、天子に取り次ぐ。古代、天子は上帝の意志を震えて感じる神官だった。だから、直接に命令をくださず、納言が代弁した。『詩経』大雅に「王の喉舌」とでてくる。


帝曰:「咨!汝二十有二人,欽哉!惟時亮天功。」 三載考績,三考,黜陟幽明,庶績咸熙。分北三苗。

帝堯はいう。「いま任命した22名よ。がんばれ」と。

平凡はいう。22名が、だれを指すのか、数あわせに諸説ある。32名の誤りだとか、21名だとか。四岳と12牧のカウントが難しい。

3年ごとに諸官の実績をしらべ、功績があれば昇進させた。帝舜の事業は、盛大になった。北の3苗の地を、3つに分けた。

ぼくは思う。3苗について、平凡に注釈なし。


帝舜の死

舜生三十徵庸三十,在位五十載,陟方乃死。

舜は30歳のとき登用された。官職を30年つとめ、帝位になった。帝位に50年あり、巡狩のときの死んだ。

平凡はいう。帝舜の各フェーズにおける年数は、句の切り方によって、異なって解釈できる。ぼくは思う。どんなことでも、異説せずにはいられないほど、活発な研究分野なのだ。年数の解釈を変えることで、なにかが言えるわけでなく、他の史料との整合が変わるでもない。ただ「歴史を正しく読もう」「誤りなく事実を知ろう」という、純粋な探求心が現れているような感じかな。もしくは、テキストレベルでのみ、血眼で検討していたのだろうか。うっかり本質的な問題に飛び火した。笑
平凡はいう。巡狩のときに死んだのは、『墨子』節葬、『孟子』離婁、『史記』にある。帝舜がソトで死んだのは、広く行われた伝説であった。
ぼくは思う。没した土地、葬られた土地は、諸説ある。ソトで死んだところまでは諒解されている。ソトゆえに、「じつはここで死んだ」という異説を生み出しやすくなり、盛んに論じられるようになったのかな。
ぼくは思う。巡狩のとき死んだのは、始皇帝。まさか始皇帝がソトで死んだ話が、ただの古典の引用ってことないよね。ウチで死んだのに、側近に牛耳られたから、あまりにもダサいので、帝舜に託したとか。そりゃないな。あと、「環境のちがうところに外出すると、死ぬリスクが高まる」なんて法則?を導き出しても、むなしい。

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『尚書』虞書・大禹謨 第三

平凡はいう。この巻は偽書である。魏の王粛か、晋の皇甫謐か、ほかの誰かが作成した。平凡は、偽書の元ネタを推測してゆくが、ぼくはやりません。偽書とのことなので、さらにザックリやります。
ぼくは思う。よく分からないので、抄訳からはぶいた。

禹が帝舜に、政治について進言する

曰若稽古大禹,曰文命,敷於四海,祗承于帝。曰:「后克艱厥后,臣克艱厥臣,政乃乂,黎民敏德。」 帝曰:「俞!允若茲,嘉言罔攸伏,野無遺賢,萬邦咸寧。稽于眾,舍己從人,不虐無告,不廢困窮,惟帝時克。」 益曰:「都,帝德廣運,乃聖乃神,乃武乃文。皇天眷命,奄有四海為天下君。」 禹曰:「惠迪吉,從逆凶,惟影響。」 益曰:「吁!戒哉!儆戒無虞,罔失法度。罔遊于逸,罔淫于樂。任賢勿貳,去邪勿疑。疑謀勿成,百志惟熙。罔違道以干百姓之譽,罔咈百姓以從己之欲。無怠無荒,四夷來王。」

大禹の、はかりごとを考えますに。

平凡はいう。文中の「文命」を、禹の名とするのは、『大載礼』と『史記』である。だが伝説で、神亀がコウラに文字を背負ってあらわれることを、文命ともいう。ここでは、文化が明らかになった、くらいの意味か。

禹はいう。「君主が努めれば、臣下もがんばる」
帝舜はいう。「そうだ。帝堯は人材をもれなく用いた」
益が賛同していう。「帝堯は名君でした。君主は、いちど賢者を採用したら、疑惑を持ってはいけない。なまけずに職務をすれば、四海の夷族もしたがう」

禹曰:「於!帝念哉!德惟善政,政在養民。水、火、金、木、土、穀,惟修;正德、利用、厚生、惟和。九功惟敘,九敘惟歌。戒之用休,董之用威,勸之以九歌俾勿壞。」 帝曰:「俞!地平天成,六府三事允治,萬世永賴,時乃功。」

禹はいう。「人民を養うのは、徳による善政です。物資のもとである、水、火、金、木、土、穀を貯蔵しなさい」と。
帝舜はいう。「統治がうまくいくのは、禹のおかげだ」と。

ぼくは思う。いちいち平凡を引きませんが。
『論語』子路、『荀子』正論、『孟子』公孫丑上、『荘子』天道、『呂氏春秋』諭大、『尸子』、『戦国策』趙策、『礼記』曲礼上、『左伝』僖公20年、同24年、『左伝』文公7年などからのコピペである。


帝舜が禹に帝位をゆずる

帝曰:「格,汝禹!朕宅帝位三十有三載,耄期倦于勤。汝惟不怠,總朕師。」 禹曰:「朕德罔克,民不依。皋陶邁種德,德乃降,黎民懷之。帝念哉!念茲在茲,釋茲在茲,名言茲在茲,允出茲在茲,惟帝念功。」 帝曰:「皋陶,惟茲臣庶,罔或干予正。汝作士,明于五刑,以弼五教。期于予治,刑期于無刑,民協于中,時乃功,懋哉。」 皋陶曰:「帝德罔愆,臨下以簡,御眾以寬;罰弗及嗣,賞延于世。宥過無大,刑故無小;罪疑惟輕,功疑惟重;與其殺不辜,寧失不經;好生之德,洽于民心,茲用不犯于有司。」 帝曰:「俾予從欲以治,四方風動,惟乃之休。」

帝舜はいう。「わたしは帝位に33年いて、老いた。禹が代われ」と。
禹はいう。「皋陶のほうがよい」と。
帝舜はいう。「皋陶は士(司法長官)として、五刑をととのえ、五教をひろめた」
皋陶はいう。「私の功績でなく、帝舜の寛大のおかげです。刑罰は連坐させないが、褒賞は身内にひろめた。犯罪に疑問があれば罰せず、功績に疑問があっても賞賛した」と。

禹に譲る記述は、『論語』堯曰にもとづく。
『論語』堯曰・第20を、贈与論的に読んでみる
平凡はいう。『孟子』万章上に、禹舜は17年のあいだ、禹に帝位を勧めたとある。これとも符合する。ただし『尚書』では、天意よりも、禹の功績の大きさと、帝舜の意志によって、禹に帝位が譲られる。

帝舜はいう。「いいえ、皋陶の功績だよ」

ぼくは思う。禹が皋陶を勧めたので、帝舜は皋陶の功績を確認した。しかし、帝舜は禹に譲るという結論を変えていない。これは、ただの脱線である。言論の消化試合である。『荀子』大略より。
平凡によると、諸書から、帝舜の朝廷では、禹と皋陶が2人の有力者だったと考えられるそうだ。ぼくは思う。きわめて穏やかな雰囲気だけど、もし「人間」時代に再現するなら、司馬懿と曹爽みたいなものかな。2人の有力者が、つぎの君主の地位を譲り合っているなんて、とてもキナくさい。


帝曰:「來,禹!降水儆予,成允成功,惟汝賢。克勤于邦,克儉于家,不自滿假,惟汝賢。汝惟不矜,天下莫與汝爭能。汝惟不伐,天下莫與汝爭功。予懋乃德,嘉乃丕績,天之歷數在汝躬,汝終陟元后。人心惟危,道心惟微,惟精惟一,允執厥中。無稽之言勿聽,弗詢之謀勿庸。可愛非君?可畏非民?眾非元后,何戴?后非眾,罔與守邦?欽哉!慎乃有位,敬修其可願,四海困窮,天祿永終。惟口出好興戎,朕言不再。」

帝舜はいう。「禹は治水の功績がおおきい。禹は自慢しないが、禹ほど功績の大きな者は、天下にいない天の暦数は、禹の身にある。

ぼくは思う。このあたりは『論語』堯曰からのコピペが、ぼくにも分かる。しかし『論語』では、堯から舜への言葉だった。ここでは、舜から禹への言葉である。引用、ちょっとちがう。編者の不備を指摘しても、おもしろくない。堯舜の革命も、舜禹の革命も、同じセリフと儀礼によって執行されたと考えたほうが、おもしろい。実際はどうであれ、少なくとも偽書の編者からは、「同じセリフと同じ儀礼だろ」と思われていたというのが、興味ぶかい。そうそう、くり返さなきゃダメなのですよ。

君主として人民に親愛され、君主として人民を畏敬せよ。帝位を慎重にあつかい、困窮する者を救えば、天禄はながく継続するだろう」と。

平凡はいう。洪水のことは、『孟子』滕文公下。『左伝』襄公5年の君主の言葉をひく。『論語』泰伯、『老子』22章、『論語』堯曰、『荀子』解蔽、『荀子』正名、『国語』周語上などからのコピペ。
平凡はいう。『論語』堯曰に「四海困窮、天禄永終」とある。『論語集解』は、四海をきわめて、天禄が永遠につづく、と理解する。『論語集注』は、四海の人が困窮すれば、天禄が永久に断絶する、と理解する。ここの『尚書』偽書では、前者の解釈をとって、コピペしたようだ。

帝舜はいう。「いい加減、もう同じことを言わすな」と。

禹曰:「枚卜功臣,惟吉之從。」 帝曰:「禹!官占惟先蔽志,昆命于元龜。朕志先定,詢謀僉同,鬼神其依,龜筮協從,卜不習吉。」禹拜稽首,固辭。 帝曰:「毋!惟汝諧。」
正月朔旦,受命于神宗,率百官若帝之初。

禹はいう。「功臣のなかから、占いで後継者を決めなさい」
帝舜はいう。「朝廷における占いとは、さきに計画を決めて、その計画の良し悪しをあとから判定するのだ。すでに、みなの意見も、私の意見も、占いの結果も、すべて禹がよい!と決まっている。これ以上、さらに占っても意味がない」と。

ぼくは思う。なんじゃそら!

正月ついたち朝、禹は神宗で受命した。禹が百官を統率するのは、帝舜の初めのときと同じだった。

禹が苗民を服従させる

帝曰:「咨,禹!惟時有苗弗率,汝徂征。」 禹乃會群后,誓于師曰;「濟濟有眾,咸聽朕命。蠢茲有苗,昏迷不恭,侮慢自賢,反道敗德,君子在野,小人在位,民棄不保,天降之咎,肆予以爾眾士,奉辭伐罪。爾尚一乃心力,其克有勳。」

帝舜はいう。「禹は、苗民を征伐せよ」と。
禹は諸侯の前で、出陣をちかった。「苗民を討とう」

平凡はいう。『墨子』非攻下は、禹による苗民の討伐を、治水の前とする。『淮南子』修務では、禹が三苗を南征し、蒼梧で死んだという。古代において苗民は、不服従の代表とされる。『尚書』のこの部分の作者は、禹が、帝舜のもとで摂位したと考え、苗族の討伐を摂位のときのことだとする。
『墨子』兼愛下に、このときの禹の誓文をのせる。


三旬,苗民逆命。益贊于禹曰:「惟德動天,無遠弗屆。滿招損,謙受益,時乃天道。帝初于歷山,往于田,日號泣于旻天,于父母,負罪引慝。祗載見瞽瞍,夔夔齋慄,瞽亦允若。至諴感神,矧茲有苗。」 禹拜昌言曰:「俞!」班師振旅。帝乃誕敷文德,舞干羽于兩階,七旬有苗格。

30日しても、苗民はしたがわず。
益が禹に提案した。「戦わずに、感化させましょう」と。
禹は同意して、戦争をやめた。音楽により、70日で苗民がなついた。

戦況や作戦は、老子77章、『周易』謙、『孟子』万章上、『孟子』公孫丑上、『論語』季子など。
平凡はいう。禹が苗民を征服しなかった話もある。『韓非子』五_では、帝舜が討伐を中止する。いっぽう、『淮南子』繆称では、音楽によって苗民を服従させる。秦漢のころ、礼楽で服従させたという伝説が増えたのだろう。偽書であるこの部分は、秦漢の伝説を採用している。

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『尚書』虞書・皋陶謨 第四

皋陶が政治の根本をとく

曰若稽古。皋陶曰:「允迪厥德,謨明弼諧。」 禹曰:「俞!如何?」 皋陶曰:「都!慎厥身,修思永。惇敘九族,庶明勵翼,邇可遠,在茲。」 禹拜昌言曰:「俞!」

記録者たる神職が、帝舜の朝廷のようすを記しますに。
皋陶が帝舜にいう。「君主は慎重にして、九族の関係を正せば、国内外が治まるでしょう」と。禹が、「私もそう思います」という。

平凡はいう。『孟子』滕文公上より、帝舜の朝廷では、禹と皋陶が、もっとも有力な人物だという伝説があったと窺われる。禹の発言は、『詩経』大雅ににている。『論語』子路、『孟子』公孫丑とも関連する。


皋陶曰:「都!在知人,在安民。」 禹曰:「吁!咸若時,惟帝其難之。知人則哲,能官人安民則惠。黎民懷之,能哲而惠,何憂乎驩兜?何遷乎有苗?何畏乎巧言令色孔壬?」皋陶曰:「都!亦行有九德,亦言其人有德,乃言曰,載采采。」禹曰:「何?」

皋陶はいう。「天子が人を知れば、民や安らぐ」と。
禹はいう。「賢者を知るのは、帝堯でも難しかった」と。
皋陶はいう。「九つの徳によって、人を判定すればよい」と。
禹はいう。「どうやるのか」

皋陶曰:「寬而栗。柔而立,愿而恭,亂而敬,擾而毅,直而溫,簡而廉,剛而塞,彊而義,彰厥有常。吉哉!日宣三德,夙夜浚明有家。日嚴祗敬六德,亮采有邦,翕受敷施。九德咸事,俊乂在官。百僚師師,百工惟時。撫于五辰,庶績其凝。無教逸欲。有邦兢兢業業,一日二日萬幾。無曠庶官,天工人其代之。天敘有典,勑我五典五惇哉!天秩有禮,自我五禮有庸哉!同寅協恭和衷哉!天命有德,五服五章哉!天討有罪,五刑五用哉!政事懋哉懋哉!天聰明,自我民聰明,天明畏自我民明威。達于上下,敬哉有土。」 皋陶曰:「朕言惠,可厎行。」 禹曰:「俞!乃言厎可績。」 皋陶曰:「予未有知,思曰贊贊襄哉!」

皋陶はいう。「寛大だが厳しい。おだやかだが、締まりがある、、」

ぼくは思う。具体的な判定について、はぶく。平凡版056頁。 平凡はいう。この九徳には、『論語』『中庸』がいう、三徳(知仁勇)や、五常(仁義礼知信)がふくまれない。儒家より以前の観念を表すのだろう。概念の検討について、平凡058頁。

皋陶はいった。「結果までは保証できませんが、わたしは帝舜をお助けするために、人材の判定について述べました」と。

平凡によると、この第四と第五は、つながった内容。帝舜の朝廷で、みんなが発言しているシーン。第五につづく。

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『尚書』虞書・益稷 第五

禹が帝舜をいましめる

帝曰:「來,禹!汝亦昌言。」禹拜曰:「都!帝,予何言?予思日孜孜。」皋陶曰:「吁!如何?」禹曰:「洪水滔天,浩浩懷山襄陵,下民昏墊。予乘四載,隨山刊木,暨益奏庶鮮食。予決九川,距四海,濬畎澮距川;暨稷播,奏庶艱食鮮食。懋遷有無,化居。烝民乃粒,萬邦作乂。」皋陶曰:「俞!師汝昌言。」 禹曰:「都!帝,慎乃在位。」帝曰:「俞!禹曰:「安汝止,惟幾惟康。其弼直,惟動丕應。徯志以昭受上帝,天其申命用休。」

帝舜はいう。「皋陶だけでなく、禹も何かしゃべれ」
禹はいう。「私は治水をして、せっせと民の食糧を確保しているだけです。とくに言うべきことはありません」
皋陶はいう。「その功績のある禹の話が聞きたい」
禹はいう。「帝舜は心を清らかにして、上帝の意志を受信しなさい」と。

平凡はいう。天子とは、上帝の意志をきく呪術者である。呪術者じしんの精神をしずかにして、上帝の意志を聞かねばならない。『管子』心術、『荘子』天道、『呂氏春秋』任数にも共通する。ここの記述は、原初の『管子』の段階ほど素朴である。


帝曰:「吁!臣哉鄰哉!鄰哉臣哉!」禹曰:「俞!」 帝曰:「臣作朕股肱耳目。予欲左右有民,汝翼。予欲宣力四方,汝為。予欲觀古人之象,日、月、星辰、山、龍、華蟲作會;宗彝、藻、火、粉米、黼、黻,絺繡,以五采彰施于五色,作服,汝明。予欲聞六律五聲八音,在治忽,以出納五言,汝聽。予違,汝弼,汝無面從,退有後言。欽四鄰!庶頑讒說,若不在時,侯以明之,撻以記之,書用識哉,欲並生哉!工以納言,時而颺之,格則承之庸之,否則威之。」
禹曰:「俞哉!帝光天之下,至于海隅蒼生,萬邦黎獻,共惟帝臣,惟帝時舉。敷納以言,明庶以功,車服以庸。誰敢不讓,敢不敬應?帝不時敷,同,日奏,罔功。」

帝舜はいう。「持つべきものは、良き輔政者だな!わたしの股肱たちよ、よくよく補佐してくれ。正しい意見は用いる」
禹はいう。「帝舜が有徳者を側近におくなら、うまくいくでしょう」。

帝曰:「無若丹朱傲,惟慢遊是好,傲虐是作。罔晝夜頟頟,罔水行舟。朋淫于家,用殄厥世。予創若時,娶于塗山,辛壬癸甲。啟呱呱而泣,予弗子,惟荒度土功。弼成五服,至于五千。州十有二師,外薄四海,咸建五長,各迪有功,苗頑弗即工,帝其念哉!」帝曰:「迪朕德,時乃功,惟敘。」皋陶方祗厥敘,方施象刑,惟明。

帝舜はいう。「遊びまわって、血筋が絶えないように気をつける」と。禹はいう。「私は妻をめとっても、4日だけ同居して、各地の土木事業や、苗民の平定をやった。家では、子の啓が、淋しくないていた」と。

ぼくは補う。帝舜が、血筋を絶やしたと言っている、丹朱たちは、帝堯の子である。帝舜は、自分で帝堯から帝位をもらっておきながら、その子供たちを悪く言うのだ。
ぼくは思う。禹が、上司に恨み言をいってる!単身赴任ばかりさせやがって、激務だから、家庭生活が壊れてしまったよと。

帝舜はいう。「禹の治水と、皋陶の刑罰はすばらしい功績がある」と。

君臣がすばらしき治世を唱和

夔曰:「戛擊鳴球、搏拊、琴、瑟、以詠。」祖考來格,虞賓在位,群后德讓。下管鼗鼓,合止柷敔,笙鏞以閒。鳥獸蹌蹌;《簫韶》九成,鳳皇來儀。夔曰:「於!予擊石拊石,百獸率舞,庶尹允諧。」
帝庸作歌,曰:「勑天之命,惟時惟幾。」乃歌曰:「股肱喜哉!元首起哉!百工熙哉!」皋陶拜手稽首颺言曰:「念哉!率作興事,慎乃憲,欽哉!屢省乃成,欽哉!」乃賡載歌曰:「元首明哉,股肱良哉,庶事康哉!」又歌曰:「元首叢脞哉,股肱惰哉,萬事墮哉!」帝拜曰:「俞,往欽哉!」

夔が楽器の演奏をすると、虞賓がやってきた。君臣たちは定席についた。音楽が9たび変化すると、鳳凰が舞って並んだ。夔が「私が石の打楽器を鳴らすと、百獣があつまり、人間たちも睦みあう」という。

平凡はいう。舜典にあるように、夔は音楽を命じられ、「九功がうまく行われたら、謳歌がおこる」と実現したもの。ぼくは思う。舜典の末尾を、ミュージカルで締めくくったのだ。音楽が整うことは、秩序が整うことだ。ただの賑やかしではない。
平凡はいう。虞賓とはなにか。漢代には、前2つの王朝の子孫を「賓」といった。だが、帝堯の子は血筋が絶えたと、さっき帝舜が言った。これは、帝舜の祖先の霊がきたのである。尸(カタシロ)である。虞主(祭祀用の木片の位牌)である。この祭祀には、旧王朝の子孫がくわしいので、漢代には「賓」が制定されたのではないか。音楽をすると、祖先の礼がやってくる。
平凡はいう。鳳凰とは、オスを鳳といい、メスを凰という。


最初に帝舜がうたった。「天命を奉じて、つつしもう」と。皋陶がうたった。「帝舜の周囲には賢者がいる。もし主君が怠けたら、賢者たちはサボるけれど」と。帝舜がうたう。「皋陶のいうとおりだ。慎重にやろう」と。

平凡はいう。宋の朱熹がいう。王が『詩経』小雅の桑扈をうたえば、諸侯が鴛鴦をうたう。君臣の唱和は、周代の饗宴の礼だった。
ぼくは思う。えらい人から歌うのね。シタッパからではない。

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