雑感他 > 『漢末二袁紀』本文テキスト案(初平期)130706版

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中平六年、霊帝が崩じ、董卓が入洛する

中平六年夏

■中平六年四月
中平六年、夏四月、孝霊皇帝(以下、霊帝という)が南宮の嘉徳殿で崩じた。三十四 歳であった。(范書)

『范書』霊帝紀はいう。霊帝は、姓名を劉宏という。粛宗(章帝)の玄孫である。曽祖父は、河間孝王の劉開である。祖父は劉淑、父は劉萇という。世よ、解瀆亭侯に封じられた。劉宏は、亭侯の爵位をついだ。劉宏の母は、董夫人である。桓帝が崩じると、子がないため、竇皇太后とその父の竇武とが、つぎの皇帝を劉宏に選んだ。建寧元年(一六八)正月、劉宏は皇帝に即位した。十二歳であった。
『范書』霊帝紀にて范曄の論はいう。『史記』秦本紀において、宦官の趙高は、二世皇帝をだまして、鹿を馬といった。霊帝期の趙忠と張譲もまた、霊帝が高臨観に登るのをさまたげ、後漢の政治をそこねた。


上軍校尉の蹇碩は、司馬の潘隠をやり、大将軍の何進をよんだ。何進は病と称して、蹇碩に応じなかった。(范書)

ぼくは補う。何進を殺して、劉協を立てるためである。蹇碩は何進を涼州にやろうとしてた。
『通鑑』はいう。四月丙辰、霊帝が崩じた。蹇碩は、何進を殺して、劉協を立てようと考えた。蹇碩の司馬をとつめる潘隠は、何進を呼び寄せた。何進は驚き、自軍のなかに籠もった。何進は病と称し、蹇碩の招きを断った。

皇子の劉弁が即位した(以下、少帝という)。十七歳である。(范書)

『考異』はいう。『范書』霊帝紀では十七歳とするが、張璠『漢紀』では十四歳とする。

何皇后を尊んで、何皇太后とする。何皇太后が臨朝した。天下を大赦した。改元して光熹とした。(范書) 皇帝の弟・劉協を勃海王とした。(范書)
後将軍の袁隗を太傅とする。袁隗は、何皇太后の弟である大将軍の何進とともに、録尚書事に参じた。(范書)
上軍校尉の蹇碩が獄に下されて死んだ。(范書)

『通鑑』はいう。蹇碩が何進を殺そうとしたから、何進は怒った。袁紹は、食客の張津ともに、宦官を誅殺しようと何進にいった。
『通鑑』はいう。何進は黄門令に、蹇碩を殺させた。蹇碩がひきいた兵を、何進はすべて手に入れた。


■五月
五月、驃騎将軍の董重が獄に下されて死んだ。(范書)

『通鑑』はいう。五月、何進は三公とともに、孝仁皇后にいった。「中常侍の夏ウンらは、州郡からワイロを得ています。傍系から入った皇后は、洛陽にいられない。董太后を、本国に返すべきです」孝仁皇后は、何進をみとめた。
『通鑑』はいう。五月辛巳、何進は兵をあげ、驃騎将軍の董重をかこんだ。董重は、自殺した。

何進は、袁紹、何顒、荀攸、鄭泰をあつめた。

『通鑑』はいう。何進と袁紹は、ひろく智謀の士を集めた。何顒や荀攸、河南の鄭泰ら20人が集まった。何顒を、北軍中候にした。荀攸を黄門侍郎にした。鄭泰を、尚書にした。彼らは、何進に味方した。荀攸は、荀爽の従孫である。


■六月
六月、霊帝の母・孝仁皇后の董氏が崩じた。霊帝を文陵に葬った。(范書)

『通鑑』はいう。何進は、蹇碩の作戦にこりて、霊帝の葬儀にいかない。大水がでた。


中平六年秋

■七月
秋七月、甘陵王の劉忠が薨じた。孝仁皇后を河間の慎陵に葬った。(范書) 勃海王の劉協を、陳留王とした。(范書)

『通鑑』はいう。秋七月、渤海王の劉協を、陳留王とした。司徒の丁宮がやめた。
『通鑑』はいう。ふたたび袁紹は、何進にいった。何進は、何太后に、中常侍たちを殺そうと言った。何太后は、何進をゆるさず。「四方から軍隊を招き、何太后をおどしましょう」陳琳と曹操は、何進をいさめた。


■八月
八月、中常侍の張譲と段珪が、大将軍の何進を殺した。(范書)

『通鑑』はいう。8月戊辰、何進は長楽宮に入った。尚方監の渠穆は、剣をぬき、何進を嘉徳殿で殺した。張讓は、もと太尉の樊陵を、司隷校尉にした。少府の許相を、河南尹にした。

ここにおいて虎賁中郎将の袁術は、東西宮を焼き、宦官を攻めた。(范書)

『通鑑』はいう。虎賁中郎将の袁術と、王匡は、宮門をやぶって入った。何太后は、劉弁と劉協をつれた。役人たちは、北宮ににげた。尚書の盧植は、武器をもって段珪を睨みつけた。段珪は懼れた。何太后は、袁術から逃げのびた。

張譲と段珪は、少帝と陳留王をおびやかし、北宮の徳陽殿にゆく。(范書)
何進の部曲将である呉匡と、車騎将軍の何苗は、朱雀の宮門のもとで闘った。何苗が敗れ、呉匡に斬られた。(范書)
司隷校尉の袁紹は、にせの司隷校尉の樊陵、にせの河南尹の許相を斬った。袁紹は、長幼の区別をつけず、宦官たちを斬った。(范書)

『通鑑』はいう。何進は、袁紹を司隷校尉にし、仮節と専断権をあたえた。従事中郎の王允は、河南尹になった。袁紹は、洛陽あたりの武官を監察した。宦官は、何太后にあやまった。
『通鑑』はいう。袁隗は、詔を偽造した。樊陵と許相を召して、殺した。庚午、張讓と段珪らは、劉弁と劉協をつれて、数十人で穀門をぬけた。夜に、小平津にきた。6つの璽はない。董卓は、洛陽の西、顕陽苑にきた。

張譲と段珪は、ふたたび少帝をおびやかし、小平津ににげた。尚書の盧植は、張譲と段珪らを追って、数人を斬った。斬られなかった者は、黄河に投身して死んだ。少帝と陳留王は、夜道を数里あるいた。(范書)
少帝と陳留王は、董卓につれられ、

『通鑑』はいう。かつて中平6年、霊帝は董卓を少府にまねいた。董卓は応じない。霊帝が死ぬとき、董卓を并州牧とした。董卓の兵を取りあげ、皇甫嵩にうつした。董卓は、兵の異動をこばんだ。皇甫嵩の従子の皇甫レキは、皇甫嵩に云った。「董卓を処刑すべきだ」
『通鑑』はいう。董卓は河東にいた。何進は、董卓を洛陽に召した。侍御史の鄭泰は、何進をいさめた。尚書の盧植も、何進に反対した。

洛陽の宮殿に帰った。

『通鑑』はいう。劉弁は宮殿にもどり、大赦した。光熹をやめて、昭寧と改元した。伝国璽を失ったが、のこり5つは戻った。丁原は執金吾になった。騎都尉の鮑信は、泰山の兵を集めて、戻った。

天下を大赦した。光熹を改元して、昭寧元年とした。(范書)

『通鑑』はいう。何進の大将軍府掾の王匡、騎都尉の鮑信は、どちらも泰山郡の人だ。何進は、王匡と鮑信に命じ、故郷で兵をあつめさせた。何進は、東郡太守の橋瑁を召し、成コウにとどめた。
『通鑑』はいう。武猛都尉の丁原は、数千人をひきいて、河内をせめた。丁原は、孟津を焼いた。董卓は、メン池にきた。何進は董卓をうたがった。何進は、諌議大夫のチュウ邵をいかせ、董卓をストップさせた。

并州牧の董卓は、執金吾の丁原を殺した。司空の劉弘を免じて、董卓が司空となった。(范書)

『通鑑』はいう。董卓は、何進と何苗の兵を吸収した。丁原の部曲をつとめる五原の呂布は、丁原を殺した。
『通鑑』はいう。司空の劉弘をやめ、董卓が司空に。蔡邕をよんだ。袁紹は、官位を捨てて、節を東門にかけて、冀州に逃げた。


■九月
九月、董卓は少帝を廃して、弘農王とした。(范書)

通鑑はいう。尚書の盧植が反対した。董卓は盧植を殺せと云ったが、蔡邕と議郎の彭伯がとめた。太傅の袁隗が、結論。

六月より九月まで、雨がふった。(范書)
陳留王の劉協が、皇帝に即位した(献帝という)。九歳である。(范書)

『范書』献帝紀はいう。劉協は、霊帝の中子である母は王美人である。王美人は、何皇后に殺害された。(范書)


何皇太后を、永安宮にうつした。天下を大赦した。昭寧を改元して、永漢元年とした。董卓は、何皇太后を殺した。(范書)
公卿より以下、黄門侍郎を輩出した家から、一名ずつをあげて郎官とした。郎官は、宦官が担当していた部署を補い、殿上に侍った。(范書)

『范書』献帝紀はいう。はじめ、侍中、給事、黄門侍郎は、それぞれ定員が六名ずつであった。(范書) ぼくは思う。袁紹が宦官を全殺したため、実務が滞ったのだ。外戚の梁冀を廃したあと、梁冀の門生故吏がいなくなり、「」(『范書』梁冀伝)となった。政争は徹底的に行われる。

太尉の劉虞を大司馬した。董卓は太尉となり、斧鉞と虎賁を加えられた。(范書)

『通鑑』はいう。乙酉、太尉の劉虞を大司馬とし、襄賁侯とした。董卓は太尉となり、前将軍をかねた。斧節をもち、ビ侯となった。

太中大夫の楊彪を司空とした。豫州牧の黄琬を司徒とした。もと太傅の陳蕃、もと大将軍の竇武を、弔って祭った。(范書)

『通鑑』はいう。丙戌、太中太傅の楊彪を司空と。甲午、豫州牧の黄琬を司徒と。董卓は、竇武と陳蕃をはじめ、党人の爵位を戻す。党人の子孫をもちいた。


中平六年冬

■十月
冬十月、霊思皇后(何皇太后)を葬った。(范書)
白波の賊が河東を寇したので、董卓が牛輔に撃たせた。(范書)

『通鑑』はいう。於夫羅は、河東郡の平陽にいた。


■十一月
十一月、董卓は相国となった。(范書)

ぼくは思う。『范書』献帝紀では、董卓が官職を上昇させるとき「自ら」という副詞がつく。董卓が後漢を主催しており、献帝に権限がない。董卓の任命が自作自演であることを、范曄がほのめかしている。おなじく、李傕と曹操も「自ら」官職を上昇させる。


■十二月
十二月、司徒の黄琬を太尉とした。司空の楊彪を司徒とした。光禄勲の荀爽を司空とした。(范書)

『通鑑』はいう。尚書をつとめる武威の周ヒツと、城門校尉をつとめる汝南の伍瓊は、董卓に名士を招かせた。董卓は、尚書の鄭泰、長史の何顒らを招いた。荀爽、陳紀、韓融、申屠バンが召された。 『通鑑』はいう。尚書の韓馥を、冀州牧にした。侍中の劉岱を、兗州刺史にした。陳留の孔チュウを、豫州刺史にした。東平の張邈を、陳留太守にした。潁川の張咨を、南陽太守にした。 通鑑:周ヒツや伍瓊は、董卓に袁紹を弁護した。勃海太守。袁術を後将軍、曹操を驍騎校尉。
ぼくは思う。これは、翌年春の関東が起兵する前日談。任命そのものは、中平六年の後半をかけて、じわじわ行われたのだろう。

扶風都尉をはぶき、安漢都護をおいた。(范書)
光熹、昭寧、永漢という年号をすべてやめ、中平六年にもどした。(范書)

董卓に任じられた者が、起兵を計画した。130707

『通鑑』はいう。袁紹は、渤海にいる。冀州牧の韓馥は、兵を動かさない。東郡太守の橋瑁は、三公の命令だと偽り、董卓を討てと呼びかけた。使者は韓馥に「袁氏を助けるか、董氏を助けるか」二択を迫った。治中従事の劉子恵は、韓馥に云った。
『魏志』武帝紀はいう。冬12月、曹操は、己吾(陳留郡)で起兵した。『世語』はいう。陳留の孝廉・衛茲は、家財をつかって、曹操をたすけた。

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初平元年、関東が起兵し、献帝が長安に

初平元年春

初平元年春正月、山東の州郡が起兵して、董卓を討伐するという。

『通鑑』はいう。侍中の周毖、城門校尉の伍瓊は、董卓に説く。「袁紹を太守として、免罪せよ」と。(袁紀)
『通鑑』はいう。冀州刺史の韓馥、豫州刺史の孔伷、兗州刺史の劉岱、陳留太守の張邈、勃海太守の袁紹、東海太守の喬瑁、山陽太守の袁遺、河内太守の王匡、濟北相の鮑信、後將軍の袁術、議郎の曹操らは、義兵を興した。袁紹を盟主におす。袁紹は車騎將軍を、曹操は行奮武將軍を、みずから号した。
『通鑑』はいう。袁紹と、河内太守の王匡は、河内にいる。冀州牧の韓馥は、鄴にのこって兵糧を送る。豫州刺史の孔チュウは、潁川にいる。兗州刺史の劉岱と、陳留太守の張邈と、張邈の弟で広陵太守の張超と、東郡太守の橋瑁と、山陽太守の袁遺と、済北相の鮑信と、無官の曹操は、酸棗にいる。後将軍の袁術は、魯陽にいる。袁紹と鮑信だけが、曹操を信任した。
武帝紀はいう。濟北(国治は盧県)相の鮑信が、起兵した。袁紹を盟主とした。曹操は、行奮武將軍となる。

天下を大赦した。(范書、袁紀)
郎中令の李儒は、弘農王の劉弁を殺した。(范書)

長沙太守の孫堅もまた、董卓に起兵した。このころ南陽にきた。数万をひきいる。董卓は、孫堅を破虜將軍として、和親したい。長沙太守の孫堅もまた、董卓に起兵した。このころ南陽にきた。数万をひきいる。董卓は、孫堅を破虜將軍として、和親したい。(袁紀)
董卓は、関中に遷都したい。公卿を召して議した。司徒の楊彪、太尉の黄琬、司空の荀爽が反論した。(袁紀)

『通鑑』はいう。 尚書の鄭泰が云った。関東なんかすぐ負ける。朱儁と楊彪は、董卓の遷都に反対した。太尉の黄琬と、司空の荀爽がなだめた。(通鑑)

白波の賊が、東郡を寇した。(范書)

■二月
二月、太尉の黄琬、司徒の楊彪を免じた。(范書)
董卓は、城門都尉の伍瓊、督軍校尉の周毖を殺した。(范書)

『通鑑』はいう。伍瓊と周ヒツを斬れと命じた。楊彪と黄琬は、董卓に謝った。伍瓊と周ヒツは上表して、楊彪と黄琬を、光禄大夫に戻した。

朱儁は荊州に出奔した。蓋勲を越騎校尉とした。

『通鑑』はいう。董卓は、河南尹の朱儁を太僕として、じぶんの副官とした。尚書郎の華歆らは、みな朱儁を称賛した。董卓は、朱儁を副官にできず。董卓は朱儁をうらむ。朱儁は董卓をおそれ、荊州に出奔した。
『通鑑』はいう。董卓は、京兆尹の蓋勲を議郎にした。ときに左将軍の皇甫嵩は、3万をひきいて扶風郡にいる。蓋勲はひそかに皇甫嵩とはかり、董卓を殺そうとした。蓋勲は、皇甫嵩ぬきでは勝てないので、洛陽にもどった。董卓は、蓋勲を越騎校尉にした。河南尹の朱儁は、董卓の軍事にアドバイスをした。

光禄勲の張謙を太尉とした。太僕の王允を司徒とした。(范書)
長安に遷都した。董卓は洛陽の百姓をかりたて、すべて長安に徙した。董卓は畢圭苑にとどまった。(范書)

『通鑑』はいう。富豪に罪をあたえ、財産を没収した。数万口の家が移った。呂布は、後漢皇帝の陵墓をほった。洛陽を焼いた。

白い虹が、日をつらぬいた。(范書)

■三月
三月、献帝の車駕は、長安にはいり、未央宮にゆく。(范書、袁紀) 董卓は洛陽で、宮廟と人家を焼いた。(范書) 董卓は、太傅の袁隗、太僕の袁基を殺し、夷三族とした。(范書、袁紀)
袁紹は河内に屯する。臧洪が盟誓をしきった。(袁紀)

『袁紀』はいう。ときに袁紹は河内に屯する。陳留太守の張邈、兗州刺史の劉岱、東郡太守の喬瑁、山陽太守の袁遺は、酸棗に屯する。後將軍の袁術は、南陽に屯する。豫州刺史の孔伷(韓馥)は、潁川に屯する。酸棗にあつまり、盟約をする。広陵の功曹である臧洪はいう。「兗州刺史の劉岱、豫州刺史の孔伷、陳留太守の張邈、東郡太守の喬瑁、廣陵太守の張超らは、董卓を討とう」と。臧洪の気概に、卒伍までが感動した。

袁紹は、臧洪を東郡太守とした。

『袁紀』はいう。青州刺史の焦和も起兵した。焦和は戦死した。袁紹は、臧洪に青州を領させた。民衆はやすらぎ、盗賊はにげた。袁紹は臧洪の才能を歎じて、東郡太守とした。
『通鑑』はいう。青州刺史の焦和は、董卓を討つ兵をあげ、袁紹に賛同した。だが青州は、焦和を支持しない。焦和が黄河をわたると、青州黄巾が沸いた。袁紹は、広陵の臧洪に、青州刺史をまかせた。臧洪は、青州黄巾をしずめた。
臧洪に関しては、この春のどこか。『袁紀』では、盟誓の後日談として、連続して書かれてしまうが。


■この春(通鑑がこの夏の前に散らかす)
曹操は、滎陽で大敗した。(袁紀)

『通鑑』はいう。張邈は、部将の衛ジをつかわし、栄陽のベン水に進んだ。董卓の部将、玄トの徐栄は、曹操と戦った。曹操は、司馬の夏侯惇と、揚州で1000余人をあつめ、河内に屯した。
『通鑑』はいう。酸棗の諸侯は、食糧がつきた。劉岱が、橋瑁を殺した。劉岱は、王肱を、橋瑁の代わりに東郡太守にした。
武帝紀はいう。曹操は酸棗にきた。諸軍は10余万いるが、進まない。曹操は責めた。「袁将軍は、南陽の軍をひきい、丹析から武関にはいり、三輔を震わせろ」と。張邈は、曹操を用いない。
武帝紀はいう。曹操は、兵が少ない。夏侯惇とともに、揚州で募兵した。揚州刺史の陳温、丹楊太守の周昕は、曹操に4千余人をあたえた。曹操は、龍亢(沛国)にもどる。士卒が、曹操に反した。曹操は、銍県(沛国)、建平(沛国)にきた。ふたたび1千余人をえて、曹操は河内にすすむ。

劉岱が橋瑁を殺した。

武帝紀はいう。劉岱と橋瑁は、にくみあう。劉岱は、橋瑁を殺した。王肱が、東郡太守を領す。


袁術は上表し、孫堅を破虜将軍、豫州刺史とした。

『通鑑』はいう。荊州刺史の王叡は、長沙太守の孫堅とともに、零陵と桂陽の賊をうった。孫堅は武官だから、王叡は孫堅を軽んじた。董卓を討つ兵が、起きた。ふだん王叡は、武陵太守の曹寅と仲がわるい。孫堅は、南陽太守の張咨を斬った。孫堅は魯陽で、袁術と合流した。

北軍中候の劉表を、荊州刺史とした。

『通鑑』はいう。賊により、道がふさがった。劉表は、単騎で宜城に入った。賊55人を集めて、みな斬った。


初平元年夏

■四月
四月、大司馬の劉虞を太傅とする。(袁紀、通鑑)

『通鑑』はいう。道がふさがって、任命の使者は、劉虞に届かない。青州と徐州の人100余万口は、劉虞をたよって幽州に避難した。

尚書令の王允が上奏した。「太史令の王立は、孝経の六隠のことを説く。学官を立てよという」と。王允が推したので、学官が立った。王允と王立は学官にゆき、天子に儒学の勉強をさせた。王允が殺害されて辞めた。(袁紀)

■五月
夏五月、司空の荀爽が薨じた。(范書)

■六月
六月、光禄大夫の种弗が司空となった。(范書)

『袁紀』はいう。董卓は洛陽で、諸陵および大臣の冢墓をあばく。洛陽の城中にある鐘虡をこわし、貨幣を鋳造する。表面に文字がない。貨幣価値がさがり、物価があがる。穀1斛で、數百萬銭である。
ぼくは思う。『袁紀』は経済政策をここにおく。

董卓は関東に使者をだし、起兵した州郡を安集しようとした。使者とは、大鴻臚の韓 融、少府の陰脩、執金吾の胡母斑、将作大匠の呉脩、越騎校尉の王懐である。(范書) 『後漢書』献帝紀はいう。後将軍の袁術、河内太守の王匡は、それぞれ使者を捕らえて殺した。ただ韓融だけは、殺されずに免れた。(范書)

『通鑑』はいう。董卓は、名士を送って、袁紹たちに和解を説いた。大鴻臚の韓融と、少府の陰脩と、執金吾の胡母斑と、将作大匠の呉脩と、越騎校尉の王カイが送られた。胡母斑、呉脩、王カイは、河内についた。袁紹は、王匡に名士たちを殺させた。袁術もまた、陰脩を殺した。韓融だけは徳があり、袁術にゆるされた。

董卓は、五銖銭を壊して、小銭に改鋳した。(范書)

ぼくは思う。『袁紀』とすこし順序が違うが、月内だ。


初平元年冬

十一月、鎮星、熒惑、太白合於尾。(范書)

この歳(洛陽と荊州)

この歳、有司の上奏により、廟号が整理された。有司いわく、和帝、安帝、順帝、桓帝には、功徳がないため、「宗」の廟号をつけるべきでない。また、恭懷、敬隱、恭愍の三名の皇后は、正嫡ではないため「后」とよぶべきでない。ゆえに、「宗」「后」が除かれた。(范書)

『通鑑』でも、季節や月が特定されない。


孫堅が、荊州刺史の王叡、南陽太守の張咨を殺した。(范書)

『通鑑』はいう。孫堅は、魯陽城の東で宴会した。董卓の歩騎数万が、突っこんだ。孫堅は談笑したまま。孫堅軍は、整然としていた。「董卓軍に驚いたら、パニックになるだろう。だから、悠々と酒を飲んでいたんだ」董卓は撤退。
ぼくは思う。『通鑑』が、無造作にこの歳の末におく。


この歳(遼東と匈奴のこと)

遼東太守の公孫度が、みずから平州牧を号する。漢の世祖廟をたてる。(袁紀)

『通鑑』はいう。中郎将の徐栄は、同郡でもと冀州刺史の公孫度を、董卓に推薦した。董卓は、公孫度を遼東太守にした。平州牧を自称した。


単于の羌渠は、すでに國人に殺された。子の於夫羅が単于にたつ。國人は、須卜を単于にたてる。於扶羅は、後漢に訴えにきた。(袁紀)

『後漢書』南匈奴伝では、於夫羅は中平5年にたつ。国人に父の羌渠を殺され、国人が須卜骨都侯を單于としたので、後漢に訴えにきたと。袁宏『後漢紀』と異なる。この事件は霊帝の末年にはじまるので、『通鑑』では中平6年につづけて記事がある。

霊帝が崩じて、洛陽が乱れたので、於夫羅は数千騎をひきい、白波賊とともに冀州の境界を寇した。百姓はみな、壁を高め、野を清め、盗られるものを減らした。於夫羅は帰国したいが、国人に受け入れてもらえず、河東にとどまる。(袁紀)130706

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初平二年、董卓が長安にひき、二袁が対立

初平二年春

■春正月
春正月、天下を大赦した。(范書)
(正月)韓馥、袁紹は、みずから大将軍を称する。使者をやり、大司馬の劉虞を皇帝におす。劉虞はゆるさず。劉虞に承制と封拜を勧めたが、これも劉虞がゆるさず。しかし劉虞は、袁紹と連結=同盟をつづけた。(袁紀)

武帝紀はいう。初平二年(191)春、袁紹と韓馥は、ついに劉虞を皇帝にたてた。劉虞は、みとめず。
武帝紀はいう。袁紹と韓馥は、幽州牧の劉虞を、皇帝にたてたい。曹操は、袁紹と韓馥をこばむ。袁紹は、1つ玉印をえた。座中で玉印を、曹操にむけて挙げた。曹操は笑ったが、袁紹をにくんだ。
『通鑑』はいう。韓馥と袁紹は、袁術に書をおくった。「劉協は、霊帝の子ではない。大司馬の劉虞がふさわしい」袁術は、不臣の心があったので、袁紹と韓馥に反対した。
『通鑑』はいう。韓馥と袁紹は、楽浪太守の張岐を劉虞におくった。劉虞は、張岐を叱った。袁紹は、劉虞に録尚書事をすすめたが、袁紹は許さなかった。匈奴に逃げると劉虞が云うから、袁紹はあきらめた。


■二月
二月、董卓は太師となった(范書)。諸侯王の上。
袁術の将である孫堅は、董卓の将である胡軫と、陽人で戦った。胡軫は大敗した。董卓は、洛陽にある皇帝の陵墓を発掘した。(范書)

『通鑑』はいう。孫堅は梁東にうつり、董卓の部将・徐栄に敗れた。孫堅は、陽人にうつった。東郡太守の胡軫は、歩騎5000をひきい、呂布を騎督とした。胡軫と呂布が対立し、華雄が孫堅に斬られた。孫堅は地図を描き、袁術を責めた。李傕は、孫堅に和親を説いた。皇帝陵を復旧し、伝国璽を得た。

董卓は長安にひく。

初平二年夏

■四月
夏四月、董卓は関西に入る。(袁紀、范書)

『袁紀』はいう。董卓が御史中丞の皇甫嵩に「まだ私に服さないか」という。
『袁紀』はいう。董卓はすでに太師だが、つぎは尚父と称されたい。左中郎将の蔡邕がとめる。金華青蓋の「竿摩車」にのる。弟の董旻が左將軍となり、兄子の董璜が中軍校尉となる。郿塢を築城した。
『袁紀』はいう。衛尉の張温を、袁術との交通を理由に笞殺。

董卓は、東中郎將の董越を澠池に、寧輯將軍の段煨を華陰に屯させる。中郎將の牛輔を安邑に屯させる。その他の中郎将や校尉を、諸県におく。山東を防御した。

孫堅が洛陽の陵墓をなおし、魯陽にもどる。(通鑑)

ぼくは思う。孫堅の洛陽入りは、『通鑑』では三月に記される。だが董卓が場所を空ける必要があるので、『袁紀』にしたがって四月とする。
『袁紀』はいう。長史の劉艾が董卓に警戒を促す。「孫堅は烏合の兵である。関東の二袁児だけを殺せば、天下はおのずと服するだろう」と。
『通鑑』はいう。董卓の長史の劉艾が云った。孫堅だけが強い。「孫堅は、とくに理由なく、諸袁児(袁術と袁紹)に従っています。そのうち孫堅は死ぬでしょう。東中郎将の董越をメン池におき、中郎将の段ワイを華陰におき、中郎将の牛輔を安邑におき、山東の諸侯を防ぎましょう」


蔡邕が七廟制をいう。(袁紀)
頴川太守の蓋勲が京師にもどる。蓋勲は長揖するだけ。蓋勲は董卓と論争した。みな顔色を失うが、蓋勲は自若として論争する。蓋勛が死ぬ。(袁紀)

■六月
六月丙戌、地震あり。(范書)
蔡邕に言われ、金華皁蓋車に乗りかえた。(袁紀)

初平二年秋

■七月まで(関東)

『袁紀』では、秋七月に、趙謙をやめて馬日磾になる記事の前に、袁紹が冀州をうばう話がある。これは、初平二年夏とすべきか。


董卓が関中にゆくと、袁紹は延津にもどる(袁紀)

『通鑑』はいう。かつて何進は、雲中の張楊を并州に送り、兵を募らせた。何進が死に、張楊は数千人をひきい、上党にいた。張楊は、南単于の於夫羅とともに、河内にいる袁紹に合わさった。張楊と於夫羅は、ショウ水に屯した。
『通鑑』はいう。韓馥は、袁紹に人気があるから、袁紹の兵糧を止めた。韓馥は、袁紹の兵が、散らばるのを狙った。たまたま韓馥の部将の麹義が謀反した。韓馥は、麹義に負けた。麹義と袁紹は、結んだ。
『通鑑』はいう。逢紀「冀州の兵は強くても、韓馥はバカだ。公孫瓚と示し合わせ、冀州を攻めましょう」延津にもどった。
『通鑑』はいう。袁紹の外甥である陳留の高幹は、韓馥にかわいがられた。潁川の辛評、荀諶、郭図らは、韓馥に云った。「袁紹は、張楊と於夫羅を従えましたが、日が浅くて、役に立たない。旬日のあいだに、袁紹は崩れる。韓馥は、袁紹の自滅を待てばいい」

潁川の荀諶は、冀州刺史の韓馥に、袁紹に冀州をゆずれという。韓馥の長史の耿武、別駕の閔純、治中の李暦、騎都尉の沮授は、韓馥を諫めた。だが韓馥は、袁氏の故吏として冀州をゆずった。(袁紀)
袁紹は冀州牧となった。
袁紹が冀州を領有すると、沮授を別駕従事とした。沮授を奮武将軍として、諸將を監護させた。(袁紀)

『通鑑』はいう。袁紹は、冀州牧となった。広平の沮授を、奮武将軍に。魏郡の審配を、治中に。鉅鹿の田豊を、別駕に。南陽の許攸、逢紀、荀諶を、軍師とした。河内の朱漢は、都官従事になった。袁紹に殺された。
『袁紀』はいう。袁紹が冀州をうばうと、荀彧を上賓の礼で待遇した。弟の荀諶と、同郡の辛評や郭図は、袁紹に仕えた。荀彧は曹操に仕えて、司馬となる。(袁紀)
ぼくは思う。『袁紀』と『通鑑』とも、七月の記事の直前にある。武帝紀では、七月に袁紹が冀州をうばった。結果が出たのは七月だが、おそらく董卓が洛陽を退いた初夏から、袁紹の根拠地さがしは行われていた。


袁紹は曹操を東郡太守とした。(袁紀)

『通鑑』はいう。たまたま黒山の于毒、白ニョウ、眭固ら10余万が、東郡を襲った。東郡太守の王肱では、防げない。曹操が東郡に入り、于毒たちを濮陽城でやぶった。袁紹は上表し、曹操を東郡太守とした。曹操は、東武陽で東郡を治めた。南単于が張楊をおそい、袁紹に叛いた。南単于は、黎陽にいる。董卓は、張楊を建義将軍、河内太守とした。
ぼくは思う。武帝紀では、初平二年の秋であろうとしか推測できない。曹操が東郡太守になる前日談であろう。董卓が長安にひいた、初平二年の夏から、行動が開始されたと思ってよい。
ぼくは思う。董卓の長安ゆきで、袁紹と曹操は根拠地をとりにゆく。袁術はすでに根拠地があった。董卓の死で、袁紹と袁術の抗争が顕在化する。つぎは、献帝の東遷で、勢力がシャッフルされる。つぎは袁紹の死により、状況がかわる。


■七月(関西)
秋七月、司空の种弗を免じた。光禄大夫する済南の淳于嘉を司空とする。太尉の趙謙を罷め、太常の馬日磾を太尉とする。(范書)

『袁紀』はいう。秋7月、司空の种弗が、地震により策免された。7月癸卯、光祿勳の淳于嘉が司空となる。


■九月、 九月、蚩尤旗見於角、亢。(范書)

初平二年冬

■十月
冬十月、太尉が衛尉の張温を殺した。(范書、通鑑)

『通鑑』はいう。天文読みが、大臣が死ぬと予言した。董卓は、衛尉の張温が袁術に通じたと、デッチあげた。


■十一月
十一月、青州の黄巾が、泰山を寇した。泰山太守の応劭は、これを黄巾を撃破した。黄巾は、勃海を寇した。公孫瓚が東光で黄巾と戦い、黄巾を大破した。(范書)

『通鑑』はいう。青州の黄巾30万が、渤海をせめた。公孫瓚は、東光県の南で黄巾を破った。
ぼくは思う。『通鑑』には月はなく、十月の記事のあとにある。


■十二月
12月、長安への遷都に功績があった者に、侯爵。王允は士孫端に注意され、2千戸だけを受けた。(袁紀)

この歳

この歳、長沙の死者が、月をまたいで復活した。(范書)

『袁紀』はいう。この歳、長沙と武陵で、数ヶ月前に死んだ者が生き返った。占者は「陰が陽になる。下の民が上になる」という。まさに微賤の者が、上昇しようとしている。


この歳(次年以降の前日談、通鑑より)

ぼくは思う。次年以降の記事と比較すると、この初平二年に置かれなければならない、袁紹集団と袁術集団の記事。しかし、月を特定するに到らないので、『通鑑』が散らかしている。推測を交えながら、割り振りを考えてゆく。


◆劉和のこと
劉虞の子の劉和は、侍中となった。献帝は、洛陽に戻りたい。劉和は長安を抜け、武関を出た。劉和は、劉虞を関中に迎えようとした。劉和は南陽で、袁術にとめられた。袁術は、劉虞を助けたい。劉和は、劉虞に「数千騎を、南陽に送ってくれ」と書を送った。公孫瓚は、従弟の公孫越を袁術に送った。

ぼくは思う。初平三年の春とすべきか。『袁紀』では、これが初平三年におかれる。『通鑑』は、つぎに孫堅の死を初平二年に置くように、先走りすぎである。


◆公孫瓚と袁紹のこと(通鑑)
袁紹は孫堅が董卓をせめる間に、会稽の周昂を豫州刺史とし、孫堅の陽城を襲った。

ぼくは思う。これは、初平二年の春に置くべきか。董卓が洛陽のあたりにのこり、孫堅と戦っているから。

袁術は、公孫越に孫堅を救わせ、周昂を攻めた。公孫越は、流れ矢で死んだ。公孫瓚は怒り、袁紹を攻めるべく、磐河に出陣した。袁紹は、渤海太守の印綬を、公孫瓚の従弟の公孫範にわたした。だが公孫範は、袁紹に叛き、渤海の兵をひきいて公孫瓚をたすけた。

ぼくは思う。袁紹は七月に冀州牧になる。まだ勃海太守なのだから、初平二年の夏とすべきだ。おお、わりと時期を特定できる。

公孫瓚は、厳綱を冀州刺史に、田楷を青州刺史に、単経を兗州刺史とした。それぞれ、郡太守や県令をおいた。涿郡の劉備は、劉備は田楷にしたがい、青州で功績があった。平原相になった。

ぼくは思う。ぼくは思う。袁紹が冀州牧になるか、ならないかのころだ。六月末あたりに置けばよいだろう。七月に冀州牧となる袁紹と、冀州刺史の厳綱がぶつかる。


◆袁術と孫堅のこと(通鑑)
袁術は、南陽100万戸を食いつぶした。袁術は公孫瓚とむすび、袁紹は劉表とむすんだ。袁術は、怒った。

ぼくは思う。董卓が長安に移動するのが、初平二年の晩春から初夏。この時期、董卓の空白を受けて、袁術と公孫瓚、袁紹と劉表という結びつきができたのだろう。

孫堅は死んだ。孫堅の孝廉で、長沙の桓階は、孫堅の喪を発した。孫賁が豫州刺史となった。袁術は、劉表に勝てなかった。

孫堅の死は、次年の初平三年夏である。この記事は、初平三年の夏とすべきだ。『通鑑』は、初平二年に孫堅の死を置いているが、後日談がつっぱしり過ぎだ。なお、袁術が南陽を食いつぶすのは、董卓との対峙の期間。孫堅の後方を支援しているあいだのことだろう。初平二年ごろ、いよいよ食いつぶしたという結果が確定しつつある。


◆朱儁と朱儁のこと(通鑑)
董卓が長安に行ったとき、朱儁を洛陽に残した。

初平二年の三月である。

朱儁は、山東の諸侯と通じた。朱儁は董卓にバレるのを懼れ、荊州に出た。董卓は、弘農の揚懿を河南尹にした。朱儁はもどり、楊懿を洛陽から出した。朱儁は、洛陽は補給できないので、中牟にいた。朱儁は、董卓を討つ人を募った。徐州刺史の陶謙は上表し、朱儁に車騎将軍をかねさせた。陶謙は、丹楊兵3000で朱儁を助けた。朝廷は、徐州の黄巾がひどいから、陶謙を徐州刺史としていたのだ。

ぼくは思う。季節を確定できない。初平二年の冬に、青州の黄巾がうごく。徐州の黄巾も同じ時期に動いたと見なせば、初平二年の冬とすべきだろう。
ぼくは思う。次年の春に、朱儁が李傕に攻められる。朱儁と陶謙の情勢は、初平二年末までに、記述の状況まで進展したと見なすべきだ。


この歳の益州(通鑑)

劉焉は、益州にいる。沛国の張魯は、祖父の張陵から、五斗米道をやる。漢中太守の蘇固を殺し、斜谷関を絶った。劉焉は、益州の豪族を倒し、天子の装飾をした。劉表は、劉焉をチクッた。(通鑑)
劉焉の子である劉範は、左中郎将だ。劉誕は、治書御史だ。劉璋は、奉射都尉だ。みな長安にいる。別部司馬の劉ボウは、幼いから益州にいる。劉璋が益州にいき、劉焉は劉璋を長安に返さなかった。(通鑑)

この歳の青州(通鑑)

『通鑑』はいう。公孫度は、避難民を吸収した。北海の管寧、邴原、王烈が遼東にいる。130706

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初平三年、董卓を王允が、王允を李傕が殺す

初平三年春、

初平三年春、天下を大赦した。(范書、袁紀)

(春)牛輔は、李傕、郭汜、張済、賈詡に、関東へ出撃させた。まず孫堅に向かう。孫堅は梁東に移り、おおいに李傕に破れる。孫堅は1千騎をひきいて、李傕の包囲をぬける。陽人で再戦して、孫堅が李傕を大破した。李傕は、陳留、潁川を寇掠した。荀彧の同郷者が殺された。(袁紀)

『通鑑』はいう。春、董卓は牛輔に陜を守らせ、校尉をつとめる北地の李傕、張エキの郭汜、武威の張済に、数万を与えた。李傕たちは、朱儁を中牟でやぶった。陳留や潁川の諸県で、殺戮した。荀彧の故郷にのこった人は、李傕と郭汜らに多く殺された。


天子は洛陽に帰りたい。侍中の劉和を函谷関からだし、父の太傅する劉虞に「兵をひきいて天子を迎えろ」と依頼にゆく。(袁紀)
劉和が南陽をとおる。袁術は劉虞を利して、劉虞を援助したい。袁術は劉和を留めて、幽州に行かせない。袁術は劉和に、兵をつれて西することを許す。劉和から劉虞に手紙を書かせた。劉虞は手紙を見て、数千騎を袁術におくる。(袁紀)
公孫瓚は、袁術の異志を知るから、劉虞の兵を南陽に行かせたくない。劉虞は公孫瓚をおしきって派兵した。公孫瓚は、袁術に派兵の反対を知られ、袁術から怨まれるのを恐れて、従弟の公孫越を袁術におくり「劉和を捕らえて、劉虞の兵を奪おう」という。これにより、劉虞と公孫瓚は仲がわるくなる。(袁紀)

ぼくは思う。劉虞と公孫瓚は、二者だけで険悪になったのでない。献帝と袁術をめぐって、仲が悪くなった。


■袁紹と曹操の快進撃
袁紹と公孫瓚が界橋で戦い、公孫瓚が大敗した。(范書)

『通鑑』はいう。袁紹は出て、公孫瓚を界橋の南20里で防いだ。公孫瓚は3万。袁紹は、麹義に800を与えた。麹義は、公孫瓚を破った。公孫瓚が任命した、冀州刺史の厳綱が斬られた。
ぼくは思う。つぎの劉岱のことは、界橋の前日談か。
『通鑑』はいう。兗州刺史の劉岱は、袁紹と公孫瓚と、連和した。袁紹は妻子を、劉岱にあずけた。公孫瓚は、従事の范方をおくり、騎兵で劉岱を助けた。公孫瓚が袁紹をやぶると、公孫瓚は劉岱に「袁紹の妻子をよこせ」と云った。公孫瓚は范方に「もし劉岱が、袁紹の妻子をよこさなければ、帰ってこい。袁紹のつぎに、劉岱を滅ぼすのだ」と命じた。東郡の程昱「公孫瓚を頼ってはいけない」(通鑑)

曹操は頓丘にいる。于毒らは、東武陽を攻めた。曹操は魏郡の西山で、于毒の本拠をうった。曹操は、眭固と匈奴の於夫羅を、魏郡の内黄で大いにやぶった。

『通鑑』ではここ。武帝紀に基づいた記述。袁紹と曹操のペアの快進撃である。


初平三年夏、

■夏四月(関西)
夏4月辛巳、天子の病気がなおり、群臣と未央殿であう。士孫瑞は、騎都尉の李粛(李順)に、呂布ら10人をひきいさせる。呂布が董卓に「詔がある」と言って斬る。(袁紀)

『通鑑』は前日談をいう。董卓は、弟の董旻を左将軍にした。兄の子の董コウを、中軍校尉にした。董卓は天子の服装をまねた。三台(尚書、御史、符節)は董卓に呼びつけらる。ビオを築く。董卓の暗殺が計画された。司徒の王允と、司隷校尉の黄琬と、僕射の士孫瑞と、尚書の楊瓚が計画した。中郎将の呂布を、王允が味方に。
『袁紀』はいう。はじめ黄門郎の荀攸は、議郎の鄭泰と何顒、侍中の种輯らと董卓を殺そうとした。発覚した。何顒は捕らわて自殺した。荀攸は捕らわれたが、笑って飲食した。董卓が死んだので、荀攸は官位を捨てて帰郷した。

司徒の王允が録尚書事して、執政する。王允は、張種を使者にして、山東を慰撫した。(范書)
呂布は奮武將軍となり、假節、三公のように開府。(袁紀)
蔡邕が董卓の死を悲しむので、王允は廷尉に付した。蔡邕を殺した。(袁紀)馬日磾による助命もだめだった。(通鑑)

征西將軍の皇甫嵩は、車騎將軍となる。牛輔は部下に殺された。賈詡がいい、李傕が10余万で長安を攻めた。樊稠も包囲にくわわる。(袁紀)

袁術の将・孫堅は、襄陽で劉表を攻め、孫堅が戦没した。(袁紀)

ぼくは思う。范書では、界橋の戦いの直前に、孫堅の死がある。つまり初平三年春である。だが、董卓の生きているうちに、袁術が孫堅を南方に使うとは思えない。夏とすべきであろう。
『袁紀』はいう。(董卓の死以降の夏)劉表と袁紹が連和した。袁術は孫堅を召して、劉表を新野で攻める。劉表は襄陽にひく。孫堅が襄陽を包囲する。黄祖が江夏から、劉表を救いに来る。孫堅が黄祖を迎撃して、黄祖を追いかける。黄祖は伏兵で孫堅を殺した。
ぼくは思う。王允が董卓を斬り、李傕が長安をうばう前に、『袁紀』は孫堅の死亡をおく。やはり、董卓なきあとの状況の変化が、孫堅を荊州にむかわせた。4月の董卓の死よりあと、長安の陥ちる6月より前。


■夏四月(関東)
四月、青州の黄巾が、東平にて、兗州刺史の劉岱を殺した。東郡太守の曹操は、寿張にて、黄巾を大破して降伏させた。(范書)

『通鑑』はいう。青州の黄巾が、兗州を攻めた。兗州牧の劉岱を、済南相の鮑信がとめた。劉岱は、黄巾に殺された。 『通鑑』はいう。東郡の陳宮は、曹操に兗州をすすめた。鮑信は、州吏の萬潜らと東郡にきた。曹操を兗州刺史にむかえた。曹操は、寿張の東で黄巾と戦った。鮑信が戦死したので、そっくりに木像をつくった。京兆の金尚が、長安の朝廷から、兗州刺史に赴任した。曹操は、金尚を追い返した。金尚は、袁術ににげた。
『魏志』武帝紀はいう。青州黄巾100万が、兗州に入る。任城相の鄭遂を殺した。東平に入る。劉岱は、黄巾を撃ちたい。鮑信がいさめた。「いま黄巾は強い。黄巾が散ってから、撃てばいい」と。劉岱は鮑信にしたがわず、戦死した。鮑信は、州吏の萬潛らとともに、東郡へ曹操を迎えにゆく。曹操を兗州牧とした。曹操は、黄巾を壽張(東平)の東で撃った。鮑信は戦死した。


■五月
五月、天下を大赦した。(范書)
征西将軍の皇甫嵩を、車騎将軍とした。(范書)

『袁紀』はいう。皇甫嵩は皇甫規の兄子。董卓が入洛すると、城門校尉となる。皇甫嵩の長史する梁衍はいう。「董卓は廃立をした。董卓は洛陽にいる。天子は長安にゆく。天子を奉戴して、関東の袁氏と通じ、西から董卓を攻めよ」と。皇甫嵩は従わず、洛陽に徴された。有司が計画を知り、皇甫嵩を吏にくだして殺そうとした。皇甫嵩の子・皇甫堅寿は、董卓と仲がよいので、皇甫嵩は死を免れた。
『通鑑』はいう。士孫瑞は「皇甫嵩に、涼州兵を任せましょう」と云った。王允は、涼州兵を殺せという。呂布は李粛をやり、牛輔と戦わせた。李粛は負けて、弘農に逃げた。呂布は、李粛を殺した。牛輔は、部下に殺された。李傕は、王允にゆるしを請うた。王允は、ゆるさず。討虜校尉をつとめる武威郡の賈詡は、李傕に長安を攻めろとアドバイスした。長安をまもる呂布は、蜀兵にそむかれた。


■六月、
六月、董卓の部曲将が、長安を陥落させた。李傕、郭汜、樊稠、張済らである。九卿より以下が戦没した。戦没したのは、太常の种弗、太僕の魯旭、大鴻臚の周奐、城門校尉の崔烈、越騎校尉の王頎である。吏民の死者は、万余人である。李傕らは将軍を自称した。(范書)

『袁紀』はいう。李傕は入城し、太常の种弗、太僕の魯猷、大鴻臚の周奐、城門校尉の崔烈、越騎校尉の王順を殺した。6月己未、天下を大赦した。李傕は揚武將軍、郭汜は揚烈將軍、樊稠らは中郎將となる。


太常の种弗が戦死した。

『袁紀』はいう。李傕が長安に入ると、太常の种弗は「大臣となり、宮殿の暴力を防げないとは。白刃をもち、宮殿に駆けつけよう」といい、戦死した。种弗は、司徒の种暠の子である。种弗の子・种邵は、かつて董卓に逆らって涼州刺史にされた。京師にもどり九卿となる。种邵は「父の种弗は、国のために戦死した。父子ともに逆賊を除けなければ、なんの面目で君主に会えるか」と言った。三輔の臣たちは、みな感動した。


李傕は、天下を大赦した。李傕は、司隷校尉の黄琬を殺した。司徒の王允を殺して、 王允の一族すべてを滅した。(范書)

『通鑑』はいう。はじめ王允は、同郡出身だから、宋翼を左ヒョウヨクにした。王宏を右扶風にした。2人は逃げ出す相談をしたが、李傕の徴発に応じた。甲子、李傕は、王允、宋翼、王宏を殺した。李傕は、王允の死体を市にさらした。王允の故吏で、平陵令をつとめる、京兆の張シンは、官位をすてて王允を葬った。士孫瑞は、李傕に殺されなかった。
『通鑑』はいう。李傕は、賈詡を左ヒョウヨクにしたい。賈詡はことわった。賈詡は、尚書についた。

前将軍の趙謙が、司徒となった。(范書)

■長安から出奔する人々
呂布は武関からにげ、南陽の袁術をたよった。袁術は、呂布をとても厚く待遇した。 だが呂布がおごったので、袁術はジャマに思った。呂布は、河内の張楊を頼った。李傕は、呂布に懸賞金をかけた。呂布は、袁紹をたよった。(通鑑)
尚書令の朱儁は出奔したが、長安にもどった。(袁紀)

『袁紀』は(趙謙の記事のあとに)いう。尚書令の朱雋は出奔した。はじめ朱儁は、孫堅とともに洛陽に入った。洛陽に入ったのち、中牟に屯する。李傕らが長安をやぶると、李傕は山東に敗れることを懼れ、朱儁の名声を警戒した。李傕は賈詡の計略をもちい、朱儁を徴した。軍吏が「行くな」というが、朱儁は長安にゆき、太僕になった。朱儁は「天子に徴されたら行くべきだ。李傕、郭汜、樊稠はガキで、内紛するから、私がそのスキを突く」という。

はじめ南陽の何顒と、河内の鄭泰は、奇策をこのむ。長安に遷都があり、鄭泰は尚書郎として関中に入る。長安が乱れると、鄭泰は南して袁術をたよる。袁術は鄭泰を揚州刺史とするが、着任する前に死んだ。(袁紀)

ぼくは思う。揚州刺史は、初平三年内(月は特定できず)に空席になる。鄭泰が南陽にいる時期に、揚州刺史が空席になるのだから、少なくとも空席になるのは、秋以降であるとわかる。


初平三年秋、

■秋七月
秋7月、李傕は樊稠に、郿県で董卓を葬らせた。大風と暴雨で、雨水が墓に流れこみ、董卓の棺槨をただよわす。(袁紀)
秋七月、太尉の馬日磾を太傅とし、録尚書事させる。(范書、通鑑)

■八月
八月、太傅の馬日磾と、太僕の趙岐とが、持節して天下を慰撫する。(范書)
車騎将軍の皇甫嵩が太尉となる。司徒の趙謙を罷めた。(范書)

ぼくは思う。『袁紀』は、ここで袁術が北上する。諸書のいうとおり、これは翌年に置くべきである。後日談が先走りすぎたか。


■九月、
九月、李傕が車騎将軍となり、郭汜が後将軍となり、樊稠が右将軍となり、張済が鎮東将軍となる。張済は、弘農に出屯する。(范書)

『袁紀』はいう。袁紀:9月、揚武將軍の李傕は、車騎將軍、池陽侯となり、司隸校尉を領し、假節。郭汜は後將軍、郿陽侯。樊稠為は、右將軍、萬年侯。李傕と郭汜と樊稠が、朝政をほしいままにする。張濟は驃騎將軍、平陽侯となり、弘農に屯する。

九月、韓遂と馬騰は、鄠県に屯する。

『袁紀』はいう。(前日談)はじめ董卓が関中に入ると、韓遂と馬騰に説き、ともに山東と戦おうとする。韓遂と馬騰は、天下が乱れるのを見て、董卓に起兵しようと考える。董卓が死に、李傕らが長安を攻めると、韓遂と馬騰は天子を救いたい。この9月、韓遂は郿県、馬騰は鄠県に屯する。
『通鑑』はいう。『通鑑』はいう。董卓が死んだので、李傕は馬騰を、鎮西将軍にした。馬騰を金城にかえらせた。馬騰は、征西将軍となり、ビにとどまる。


司空の淳于嘉を司徒とする。光禄大夫の楊彪を司空とする。淳于嘉と楊彪とが、録尚書事する。(范書)

『袁紀』はいう。司徒の趙謙が、ひさしく病気なので辞めた。(甲申)、司空の淳于嘉を司徒とする。光祿大夫の楊彪を司空とし、楊彪が錄尚書事する。
『袁紀』注はいう。趙謙の退職を、『後漢書』献帝紀では8月とするが、『通鑑』は9月とする。淳于嘉が司徒となるのは、『後漢書』も同じである。だが9月は丁亥がついたちなので、甲申がない。袁宏と范曄、どちらも誤りか。


■十月
冬10月、荊州刺史の劉表が、使者をやり貢献した。荊州牧とする。(袁紀) 『通鑑』はいう。冬10月、荊州刺史の劉表が、使者をおくり、献帝に貢献した。劉表を、鎮南将軍、荊州牧として、成武侯にふうじた。

ぼくは思う。関東を安集するとき、もっとも近い荊州から、李傕政権との関係づくりが始まった。

李傕は、弘農王の唐姫をめとれず。

袁紀:はじめ弘農王の唐姫は、もと會稽太守の唐瑁の娘だ。弘農王が死ぬと、唐瑁は娘をべつに嫁がせない。唐姫は従わず。関中を李傕が劫略し、李傕は唐姫を妻にしたい。唐姫はゆるさず。李傕は、博士の李儒を侍中にあげた。天子は詔した。「李儒はさきに弘農王の郎中令となり、兄の劉弁を殺した。李儒に罪を加えよ」と。李傕は「董卓がやった。李儒の本意でない。李儒は罪がない」という。(袁紀)
ぼくは思う。なぜここにある?


■十二月
冬十二月、太尉の皇甫嵩を免じた。光禄大夫の周忠が太尉となる。周忠が、録尚書事に参じる。(范書)

この歳のこと(通鑑)

曹操は黄巾を、済北でくだした。兵30万をえた。人口100余万をえた。

ぼくは思う。これが同年春から冬のこと。董卓が殺され、長安が混乱しているとき、曹操はずっと黄巾と付き合っていた。

青州兵とよぶ。曹操は、陳留の毛カイを、治中従事にした。毛カイは曹操に、天子奉戴と、屯田を提案した。曹操は、その提案をみとめた。
曹操は、河内の張楊に使者をやり「西の長安への道をあけてくれ」と頼んだ。張楊は、曹操をことわった。定陶の董昭は、張楊に説いた。黄門侍郎の鍾繇は、李傕と郭汜に、曹操が献帝を支持しているよと説いた。

ぼくは思う。曹操の天子奉戴は、もっとあとにならないと決まらない。董卓が死に、天子が李傕に移ったので、とりあえずここに記事を置いてみました、という程度の精度だろう。


徐州刺史の陶謙は、朱儁を太師にした。李傕は、太尉の周忠と、尚書の賈詡の作戦をつかった。李傕は、朱儁を長安に召した。朱儁は受けない。つぎは朱儁を、太僕とした。

ぼくは思う。陶謙が動き出したトリガーも、董卓の死か。陶謙は、翌年春に長安に使者を出して、徐州牧にしてもらう。


公孫瓚は、袁紹を龍ソウに攻めた。平原郡の境界である。袁紹は公孫瓚をやぶった。公孫瓚は幽州にひっこみ、二度と幽州から出てこない。(通鑑)

ぼくは思う。袁紹が公孫瓚を叩くのは、この歳の後半(おそらく冬ごろ)からである。なぜなら、同年春に界橋の戦いがあった。下にある武帝紀「 曹操と袁紹は、公孫瓚がおくった者をすべて破る。」とも呼応する。
武帝紀はいう。袁術と袁紹は、仲がわるい。袁術は、公孫瓚に救いをもとめた。公孫瓚は、劉備を高唐におき、單經を平原におき、陶謙を發幹におく。公孫瓚は、袁術にせまった。 曹操と袁紹は、公孫瓚がおくった者をすべて破る。
ぼくは思う。この記事は武帝紀で、初平三年末に捨て置かれている。袁紹と公孫瓚が徹底的に戦うトリガーは、董卓の死のようだ。そして公孫瓚は衰退する。
つぎの歳に、陶謙は長安に使者をだし、天子を自称する闕宣とむすぶ。袁術は北上する。これらのトリガーも董卓の死のようだ。


この歳(通鑑・翌年の伏線)

揚州刺史する汝南の陳温が死んだ。袁紹は袁遺をおくる。袁術は、下邳の陳瑀を揚州刺史とした。(通鑑)130706

ぼくは思う。董卓の死後、そして李傕の確立前だろう。揚州刺史が空席になったのは、初平三年(192)の冬だろうか。袁術が翌年春に行動を起こすことから考えると。
『考異』は献帝紀をひく。193年3月、袁術は陳温を殺して、淮南によった。『魏志』袁術伝は、袁術が陳温を殺したという。裴松之は『英雄記』をひく。陳温は病死した。袁術が殺したのではない。『九州春秋』がいう。192年に揚州刺史の陳禕が死んだ。袁術は、陳瑀を揚州刺史にした。陳禕と陳温は、どちらも192年に死んだと。
ぼくは思う。初平三年の末尾にこの記事をおき、さながら初平四年の前日談のようにして、つなげてしまうのが、史料編纂のもっともスマートな逃げ方だ。武帝紀のように。

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初平四年、袁術が淮南に、闕宣が天子に

初平四年、曹操が陳留で袁術をやぶる

■春正月
初平四年春正月甲寅ついたち、日食あり。天下を大赦した。(范書)

『袁紀』はいう。春正月の甲寅ついたち、日食あり。サルの八刻になる前に、太史令の王立が奏した。「始まるはずの時間を過ぎたが、日食しない」と。ゆえに朝臣は祝った。帝ひそかに天子は、尚書に観測させた。サルから1刻もたたないうちに、日食が始まった。尚書の賈詡はいう。「日食の予測を誤った。管理者である、太尉の周忠の責任である」と。天子は「天道の予測はむずかしい。周忠に責任を問わない。私のせいだ」という。正殿を避けて、天子は5日出てこない。
『袁紀』はいう。正月丁卯(14日)、天下を大赦した。

(正月)徐州刺史の陶謙が使者をだし、徐州牧にしてもらう。(袁紀)

ぼくは思う。袁術が兗州に入る時期と、陶謙が徐州牧を申請し、同年内に曹操と戦闘を開始する時期がおなじ。


■この春
春、曹操は鄄城にゆく。荊州牧の劉表が、袁術の糧道を断った。袁術は、陳留に入り、封丘に屯する。黒山の余賊と、於夫羅は、袁術をたすけた。袁術は、部将の劉詳を、匡亭におく。曹操は、劉詳を撃つ。袁術は劉詳をすくうため、曹操と戦う。曹操は、袁術を大破した。 (武帝紀)
袁術は、襄邑ににげた。曹操は袁術を追って、大寿にきた。曹操は、灌城で渠水を決壊させた。袁術は、寧陵、九江ににげた。(武帝紀)

■三月
三月、袁術が揚州刺史の陳温を殺して、淮南に拠った。(范書)

ぼくは思う。『魏志』武帝紀と、『范書』献帝紀が、ぴったり一致する。范曄が『魏志』を参考にこれを書いたのなら、出来レースだけど。
『通鑑』はいう。揚州刺史の陳瑀は、袁術をこばんだ。袁術は陰陵で、淮北の兵をあつめた。 袁術は、寿春をとった。陳瑀は下邳ににげた。袁術は揚州をえた。袁術は「徐州伯」をかねた。李傕は、袁術と結びたいと思った。李傕は袁術を、左将軍とし、陽テキ侯に封じた。節を仮した。
ぼくは思う。陶謙の徐州牧とおなじ季節内のできごと。ただし陳瑀が徐州の下邳に逃げたことから、袁術と陶謙は同調しないことが窺われる。


長安にて、宣平の城門の外にある建物が、おのずから壊れた。(范書)

『范書』献帝紀で、袁術のつぎにこの記事あり。


袁紹と、公孫瓚がおいた青州刺史の田楷は、2年間戦っている。 兵は疲れ、食は尽きた。袁紹は、袁譚を青州刺史にした。袁譚は、田楷に勝てない。長安から、趙岐がきた。袁紹と公孫瓚は、和解した。(通鑑)

ぼくは思う。『通鑑』でこの記事を、つぎの三月の袁紹の戦いの前におく。趙岐の到達は、3月と特定することはできない。3月の前日談であろう。正月に陶謙を徐州牧にする。3月に淮南に落ち着いた袁術に官爵をあたえる。関東の鎮定は初平四年春に置いたら、だいたい正しいだろう。

三月、袁紹は、安平国の簿落津にいる。魏郡の兵が、袁紹にそむいた。黒山の于毒ら数万とともに、鄴城を攻めた。袁紹がおいた鄴の太守が殺された。袁紹は鉅鹿郡の斥丘にもどった。(通鑑)

初平四年夏

■この夏
初平四年(193)夏、曹操は定陶(済陰)にもどる。(武帝紀)

徐州治中をつとめる東海の王朗と、別駕をつとめる琅邪の趙昱は、徐州刺史の陶謙に「長安の献帝に、貢献しましょう」と説いた。陶謙は、安東将軍・徐州牧をえた。趙昱を広陵太守に、王朗を会稽太守にした。徐州の万民は富んだ。(通鑑)

ぼくは思う。陶謙と長安の交信は、初平四年に開通したようだ。春に陶謙が使者を出し、おそらく春か夏に受理を知り、夏にふたたび使者をだした。自派の趙昱と王朗を、揚州方面に配置した。
ぼくは思う。揚州の争奪は、陶謙と袁術は、ほぼ同時に着手している。初平四年の3月から夏にかけて、開始された。


■五月
夏五月癸酉、雲がないのに雷がなった。(范書)

ぼくは思う。胡三省は、、君臣の乱れで。


■六月
六月、扶風で大風がふき、雹がふった。華山が崩裂した。(范書)

東海王の子・劉琬と、琅邪王の弟・劉邈が、長安に貢献した。劉琬は平原相となり、劉邈は九江太守となり、どちらも列侯に封じられる。 (袁紀)

ぼくは思う。『袁紀』は、崋山がくずれ、周忠が免じられるあいだに、劉琬と劉邈の記事をおく。関東を安集する政策の一環なのだろう。


太尉の周忠を免じて、太僕の朱儁を太尉とした。朱儁が録尚書事する。(范書)

『袁紀』はいう。初平四年6月己酉、平原相の劉備を豫州牧とした。
『三国志』陶謙伝、先主伝、『後漢書』陶謙伝、『資治通鑑』では、すべて劉備の豫州牧を、翌年の興平元年におく。ぼくは思う。劉備のことは、前後とまったくつながらない。興平元年でよいだろう。


六月、下邳の闕宣が、天子を自称した。大雨がふった。(范書)

つぎに武帝紀をつなぐ。

(この夏)下邳の闕宣が、数千人をあつめ、みずから天子を称した。徐州牧の陶謙は、闕宣とともに挙兵した。闕宣と陶謙は、泰山の華県、費県をとり、任城を攻略した。(武帝紀)

ぼくは思う。武帝紀では、闕宣が天子を自称するタイミングは、この夏としか分からない。『後漢書』献帝紀にもとづき、6月と特定する。武帝紀の記事をここに配置する。
陶謙も、闕宣とあわさり、兗州を奪いにきたのだ。曹操が袁術を追撃する空隙を、ねらったものだろうか。
『通鑑考異』はいう。『魏志』武帝紀は、陶謙と闕宣は、ともに兵をあげて、泰山をとった。華県と費県をとり、任城をかすめた。『魏志』陶謙伝はいう。陶謙は、はじめ闕宣とむすび、のちに闕宣を殺したと。
盧弼が陶謙について考えるに。陶謙は、献帝を重んじた。どうして陶謙が、闕宣とむすぶか。おそらく陶謙の別将と闕宣が、ともに曹嵩を襲った。だから曹操は、これを陶謙の罪として、徐州を攻めた。牛運震『読史糾謬』巻4はいう。陶謙は徐州牧である。どうして、賊の闕宣とむすび、兗州に攻め込むものか。『後漢書』の陶謙伝を見るとわかる。陶謙は、はじめ賊が強いから、合わさった。のちに賊を殺して、兵をうばったと。


侍御史の裴茂が詔獄にゆき、軽繋をゆるした。(范書)

ぼくは思う。『袁紀』では7月にある。

六月辛丑、天狗が西北にゆく。(范書)

■この夏ごろ(通鑑)
袁紹が呂布をつかい、河内の于毒をかこむ。袁紹は呂布の暗殺をこころみ、呂布は張楊をたよった。

『通鑑』はいう。袁紹は、河内郡の朝歌の鹿腸山に出陣。于毒を5日かこみ、破った。「袁紹は、于毒と万余人を斬った。袁紹は、左髭丈八らを斬った。黒山の張燕をたたかい、烏丸を常山でやぶった。袁紹と呂布は、張燕と10余日たたかう。死者が多いので、どちらも引いた。呂布は横暴になり、洛陽に帰りたいと云った。袁紹は呂布を、司隷校尉にした。袁紹は呂布を暗殺しようとした。呂布は、張楊に逃げた。


初平四年秋、

■この秋
初平四年(193)秋、曹操は陶謙を征つ。10余城をくだす。陶謙は、城を守って出ない。 (武帝紀)

『通鑑』はいう。さきの太尉の曹嵩は、琅邪にいる。泰山太守の応邵は、曹嵩をむかえた。応邵の部下が、財宝に目がくらみ、曹嵩を華県と費県のあいだで殺した。曹操は10余城をぬき、彭城で陶謙と大戦した。董卓から避難した人が多かったが、数十万口が殺された。泗水は流れず。曹操はタン城をぬけず、スイ陵と夏丘をとった。


■秋7月
このとき長安に遷都したばかりで、宮人はあまり衣服がない。秋7月、天子は太府に繒(絹織物)をつくらせたい。李傕は「衣服なんて、もうあるじゃん」という。尚書郎の吳碩は、李傕に同調した。「まだ関東が平定されてないでしょ」と。尚書の梁紹が劾奏して、李傕にへつらう呉碩を批判した。天子は、李傕が呉碩を愛するので、呉碩を弾劾しない。(袁紀)

ぼくは思う。関東を安集することに、李傕が過剰にこだわっていたことが窺われる。初平4年は、董卓の乱が収束すべき歳だと(李傕は)位置づけていた。


■九月
九月、儒生の四十余人を試験して、成績のよいものを郎中とし、それに次ぐ者を太子舎人とし、それより劣る者を罷めた。(范書)

『范書』献帝紀はいう。献帝は詔した。「孔子は歎じた。「學之不講」,不講則所識日忘。今耆儒年踰六十,去離本土,營求糧資,不得專業。結童入學,白首空歸,長委農野,永絕榮望,朕甚愍焉。其依科罷者,聽為太子舍人。」
『袁紀』では、七月甲午である。儒者のうち、上第を郎中に、次第を太子舍人に、下第を罷免にした。


初平四年冬、

■十月
冬十月、太学で儀礼をおこなう。献帝の車駕は、永福の城門にゆき、太学の儀礼をみた。博士より以下に、それぞれ賞賜した。(范書、袁紀)
10月辛丑、京師で地震あり。星孛が天市にある。占者は「民が移り、天子が都を移す」という。のちに占者の結果をふまえて、洛陽への東遷が提案された。(袁紀)

同日、司空の楊彪を免じた。太常の趙温が司空となる。(范書、袁紀)
(十月)公孫瓚が、大司馬の劉虞を殺した。(范書)

『通鑑』はいう。劉虞と公孫瓚は、折り合わない。公孫瓚は、しばしば袁紹とたたかった。劉虞は、公孫瓚と袁紹の戦いを、止められない。
『袁紀』はいう。はじめ公孫瓚と劉虞は仲が悪くなる。劉虞が公孫瓚を襲ったが「公孫瓚でない者を傷つけるな」という。劉虞は放火され、居庸ににげた。劉虞は、烏桓や鮮卑に救ってもらいたい。公孫瓚は劉虞を生け捕った。ときに朝廷から使者の段訓がきて、劉虞の封邑を増やし、督六州事する。段訓は、公孫瓚を前將軍、易侯とする。公孫瓚は「劉虞は尊号を称そうとした」と誣告した。公孫瓚は、段訓を殺した。
『袁紀』はいう。劉虞の故吏である漁陽の鮮于輔は、幽州人と3郡の烏桓、鮮卑をひきいて、公孫瓚がおいた漁陽太守の鄒丹と潞北で戦った。鮮于輔は鄒丹を斬った。天子は鮮于輔をよみした。
ぼくは思う。『袁紀』では、時期がよくわからなかったが、范書献帝紀が特定してくれた。

袁紹は、部将の麴義と、劉虞の子・劉和をあわせ、公孫瓚をうつ。公孫瓚は易県ににげて籠もった。「食糧を生産・蓄積していれば、天下が定まる」と。(袁紀)

『通鑑』はいう。田畴は公孫瓚を嫌って、鮮卑にゆく。


■十二月
十二月辛丑、地震あり。司空の趙温を免じた。衛尉に張喜が司空となる。(范書)
漢陽郡を分けて、永陽郡をつくる。(袁紀)

この歳の記事

この歳、瑯邪王の劉容が薨じた。(范書)
この歳(193)、孫策は袁術に渡河を命じられた。数年間で、江東をえた。(武帝紀、袁紀)130706

『通鑑考異』はいう。『三国志』魏志も『後漢紀』も、初平四年(193)、孫策が袁術の指示を受けて、長江をわたるとする。だが『後漢書』献帝紀と『三国志』呉志は、興平元年(194)とする。虞溥『江表伝』は、興平三年(196?) という。袁術は初平四年に、はじめて寿春を獲得した。孫策は袁術に「徐州を攻めたい。陸康に兵糧を出させよう」という。これは必ず、劉備が徐州を得たあとである。『三国志』劉繇伝では、呉景が劉繇を攻めるが、1年余も勝てない。孫策が長江を渡ったのは、興平元年より以前にならない。『江表伝』が正しいだろう。
『袁紀』はいう。揚州刺史の劉繇は、孫策に敗績して、会稽ににげようとする。許劭が豫章をすすめた。つづいて許劭伝。許劭は、司空の楊彪に辟されたが、受けない。広陵にゆき、陶謙に礼遇された。
ぼくは思う。武帝紀にひっぱられて、『袁紀』は初平四年に孫策の起点をおくのだろう。だが、忙しすぎる。『呉志』に従えば良いだろう。

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