雑感他 > 『漢末二袁紀』本文テキスト案(興平期)130705版

全章
開閉

興平元年、曹操と陶謙・呂布、孫策と劉繇が戦う

興平元年春、曹操が徐州を攻める

■正月
興平元年春正月、天下を大赦した。改元して、興平元年とした。献帝に元服をくわえた。(范書)

■二月
二月、献帝の母である王氏を追尊して、霊懐皇后という諡号をおくった。王氏を文昭陵に改葬した。(范書)
献帝は籍田をたがやした。(范書)

■三月
三月、韓遂と馬騰が、長平観にて、郭汜と樊稠と戦った。韓遂と馬騰が敗れた。左中郎将の劉範と、さきの益州刺史の种邵とが戦没した。(范書)

■この春
春、曹操は徐州からもどる。曹操は、父の復讐のために徐州を攻めた。

武帝紀はいう。はじめ父の曹嵩は、董卓の乱をさけ、琅邪にいた。曹嵩は、陶謙に殺された。
武帝紀で盧弼はいう。曹嵩の死は、初平四年(193)だ。武帝紀は194年の場所に、さかのぼって曹嵩の死を書いた。『魏志』陶謙伝では、193年に曹嵩が死ぬ。『資治通鑑』も同じだ。『水経泗水注』はいう。初平四年(193)、曹操は徐州を破った。睢陵、夏丘をとった。曹嵩は、難を避けようとして、殺された。


興平元年夏、曹操が徐州を攻め、六府となる

■この夏
194年夏、荀彧と程昱に鄄城をまもらせ、曹操はふたたび陶謙を征す。5城をぬく。東海にいたり、もどって郯県をすぎる。陶謙は、部将の曹豹と劉備を、郯県の東におき、曹操を迎えうつ。曹操は、曹豹と劉備をやぶり、襄賁をぬく。(武帝紀)
張邈と陳宮が、呂布をむかえた。荀彧と程昱は、2県をたもつ。呂布は鄄城をおとせず、西へゆき濮陽にいる。呂布は、曹操が徐州から兗州に帰る道を、塞がなかった。(武帝紀)

■夏五月
5月、揚武將軍の郭汜が後將軍となり、美陽侯に更封された。安集將軍の樊稠が右將軍となり、三公のように開府した。(袁紀)

『通鑑』はいう。三公+李傕+郭汜+樊稠により、合計で6府が長安にある。太傅の馬日磾はそとにいるから、府がない。李傕たちの意にそわなければ、官吏になれなかった。


■夏六月
夏六月、涼州の河西四郡を分割して、雍州をつくる。(范書)

『通鑑』はいう。河西4郡は、涼州の治所から遠いから、黄河の賊にへだてられた。べつに州を設置することが、上書された。丙子、陳留郡の邯鄲商を、雍州刺史とした。治所は武威郡。

六月丁丑、地震あり。六月戊寅、ふたたび地震あり。六月乙巳晦みそか、日食あり。 献帝は正殿をさけ、兵をやすませ、政治を五日きかない。(范書)

興平元年秋、飢饉に献帝が対応、呂布が撤退

■七月
おおいに蝗害がある。秋七月、太尉の朱儁を免じた。太常の楊彪が太尉となり、録尚 書事する。(范書、袁紀)
7月甲子、鎮南將軍の楊定が安西將軍となり、三公のように開府。(袁紀)

三輔でおおいに日照あり。日照は、四月から七月までつづく。(范書)

『范書』献帝紀はいう。献帝は正殿をさけて、雨乞をする。使者をおくり、囚徒を調査し、軽繋の者をゆるした。このとき、食物の価格が高騰しており、長安の人々は食いあい、白骨がつまれた。献帝は、食物を再配分した。

献帝は、穀物を再分配した。

『范書』献帝紀はいう。献帝は、侍御史の侯汶に、太倉の米豆を出させ、飢えた者に給付した。だが数日しても、餓死者は減らない。献帝は、給付の方法に不正があると考え、みずから穀物を計量して、不正を明らかにした。侍中の劉艾が、有司の意見をきいた。尚書令より以下、省閣におもむいて献帝にわび、侯汶を取り調べよと上奏した。献帝は「侯汶を取り調べるのは忍びない。杖五十でよい」とした。これよりのち、飢えた者は、みな救われた。
『袁紀』はいう。4月から7月まで雨が降らない。侍御史の侯汶に、囚徒を調査させ、軽罪の者をゆるした。天子は正殿を避けた。穀物の物価が高騰して、献帝が配分する話。范書におなじ。


■八月
八月、馮翊で羌族がそむき、属県を寇した。郭汜と樊稠が、羌族を撃破した。(范書、袁紀)
呂布と曹操が、双方とも撤退した。

『通鑑』はいう。呂布は濮陽の西で、曹操を夜襲した。典韋が曹操を救った。「オレは敵が見えない。敵との距離を教えろ」と。呂布はひいた。濮陽の大姓・田氏が、曹操を城に閉じ込めた。イナゴで、呂布も曹操も引いた。
『通鑑』はこれを、8月と9月のあいだにおく。飢饉つながりか。


■九月
九月、桑復生椹、人は食べることができる。(范書)
司徒の淳于嘉を罷めた。(范書)

『袁紀』はいう。興平元年12月、司徒の淳于嘉が長らく病気なので、罷めた。衛尉の趙溫を司徒として、錄尚書事させた。『范書』献帝紀で、淳于嘉は9月にやめる。趙温が司徒になる記事は10月につながる。『袁紀』と『范書』で3ヶ月異なる。


興平元年(194)秋9月、曹操は鄄城にもどる。呂布は、乘氏(済陰)にいる。呂布は、県人の李進に敗れて、東へ山陽にゆく。袁紹は曹操に「連和しよう」と持ちかけた。(武帝紀)

興平元年冬、

■十月

『通鑑』はいう。冬10月、曹操は東阿に。袁紹は「曹操は、私をたより、鄴にこい」と云った。程昱が曹操をとめた。ぼくは思う。武帝紀では、前月に連続して記される。

冬十月、長安の市門がおのずから壊れた。(范書)
衛尉の趙温が司徒となり、録尚書事する。(范書)

■十二月
安定と扶風から分割して、新平という郡をつくった。(范書)
馬騰は、劉焉の二子とむすび、李傕を攻めた。馬騰は敗れ、劉焉は成都に治所を移して没した。(通鑑)

『通鑑』はいう。馬騰は、李傕を攻めた。劉焉の2人の子、劉範と劉誕が死んだ。議郎をつとめる河南の龐羲は、劉焉と仲がいい。劉焉の孫をつれて、蜀に送り届けた。劉焉のいる綿竹が焼けたので、成都に治所をうつした。
『通鑑』はいう。益州の大吏の趙イらは、劉璋を益州刺史に立てた長安の朝廷は、潁川のコボウを益州刺史にした。劉璋は甘寧をつかって、追いかえした。コボウは荊州ににげた。劉璋は、趙イに劉表を攻めさせた。
ぼくは思う。益州の代替わり(劉焉から劉璋)の経過は、後日談というか、付随エピソードだろう。それどころか、馬騰と劉範が、いつ起兵したのかもわからない。『通鑑』も、興平元年に、とりあえず置いたような感じ。


この歳の記事

この歳、揚州刺史の劉繇は、袁術の将である孫策と、曲阿で戦った。(范書)

『通鑑』興平元年はいう。劉岱の弟は、劉繇である。劉繇は揚州刺史になった。寿春は袁術がいるので、劉繇は曲阿へ。劉繇を、呉景と孫賁がむかえた。いま袁術が陸康を討つと聞き、劉繇は(袁術がおいた)呉景と孫賁を歴陽に追い出した。
『通鑑』はいう。劉繇の部将・樊能と于麋は、横江に。張英は、当利口に。袁術は、故吏の恵クを揚州刺史にした。呉景を、督軍中郎将にした。孫賁とともに、張英らを撃つ。
ぼくは思う。『范書』献帝紀にひっぱられて、劉繇との決着まで、興平元年に『通鑑』がつめこんでしまった。
これ以前に『通鑑』は、孫策の前日談を記す。
『通鑑』はいう。曲阿で、孫堅を葬った。孫策は長江をわたり、江都にいる。豪傑とむすび、復讐の志をもった。
『通鑑』はいう。丹楊太守をつとめる会稽の周昕は、袁術と仲がわるい。袁術は上策し、呉景を丹楊太守にした。周昕を攻めた。孫賁は、丹楊都尉になった。孫策は兵を集めた。汝南の呂範と、族人の孫河が、孫策の母を曲阿からむかえた。孫策は、外戚の力をかりて、数百人を得た。だが孫策は、祖郎に襲われた。袁術は孫策に、1000余人を与え、懐義校尉にした。
『通鑑』はいう。孫策を九江太守にする約束をしたが、丹楊の陳紀を任じた。袁術が徐州を攻めようとしたが、廬江太守の陸康が、米3万を断った。袁術は、孫策に云った。「もし陸康を討てば、きみを廬江太守にしよう」 劉勲が廬江太守になった。
、、このあとに、劉繇と孫策が戦う記事がある。

劉繇が敗れ、孫策が江東によった。(范書)

ぼくは思う。孫策は、193年に袁術が寿春にきてから、配下に入った。193年、孫策は戦闘をはじめ、太守の任免をめぐって、ゴタゴタした。だから孫策は、194年に劉繇をやぶった。すぐに結果が出ている!
ぼくは思う。『袁紀』で孫策が会稽によるのが、2年後の建安元年7月。つまりこの『范書』の記述は、興平元年から、孫策が征伐をはじめた、まずは劉繇を破るだけ破った、と理解すべきであろうか。孫策の割拠は、その後日談であろう。

この歳、太傅の馬日磾が、寿春で薨じた。(范書)

『通鑑』はいう。はじめ太傅の馬日磾は、趙岐とともに、寿春にきた。趙岐は志をまもり、袁術に屈さない。袁術は、趙岐にはばかった。


徐州の陶謙は、病があつい。別駕をつとめる東海の麋竺が、劉備をすすめた。劉備は、徐州を領した。(通鑑)130705

ぼくは思う。興平2年夏に陶謙が死ぬ。陶謙が興平元年のうちに寝こみ、興平2年の前半をつかって、劉備への政権の移行が検討されていたのか。

閉じる

興平2年、献帝が東遷し、徐・揚州が混乱

興平2年春

■春正月
興平二年春正月、天下を大赦した。(范書、袁紀)
袁紹が後将軍を拝した。使持節、冀州牧、邧郷侯。沮授が天子の奉戴をいい、郭図と淳于瓊がさまたげた。(袁紀)

『袁紀』はいう。沮授は袁紹にいう。「鄴県に天子を迎えよ」と。袁紹は沮授に従おうとした。郭図と淳于瓊が「漢室は滅びるから、中原に鹿を終え。天子が近ければ、袁紹の権威が軽くなる」と。袁紹は郭図と淳于瓊に従った。
ぼくは補う。『後漢紀』の段取は、『三国志』袁紹伝にひく『献帝紀』と同じ。だが袁紹伝の本文は「はじめ袁紹は天子を立てたくない。河東にあり、袁紹は頴川の郭図を天子への使者にした。郭図は天子を鄴県に迎えよという。袁紹は従わず」と。李傕だけでなく天子にとっても、戦乱が終息する見通しであったか。

李傕、郭汜、樊稠が功績を争い、賈詡がそれを咎めた。(袁紀)

『袁紀』はいう。董卓が死んだとき、三輔には数十万戸あった。李傕たちが争い、人口が減った。馬騰と韓遂が、長安を攻めた。韓遂は、樊稠と交馬語した。李傕と樊稠が、対立した。


曹操は呂布を、定陶でやぶった。袁紹を右将軍にした?(袁紀)

ぼくは思う。この歳の夏まで、呂布と曹操は戦う。戦いの記述を、適度に拡散させれば、春に曹操が定陶で勝ったと見なされるのだろう。


■二月
二月、李傕が樊稠を殺した。李傕と郭汜が攻めあった。(范書)

『袁紀』はいう。二月、李傕は右將軍の樊稠、撫軍中郎將の李蒙を殺した。これにより諸将は、李傕に疑心をもつ。李傕は、郭汜を泊める。郭汜の妻は、李傕と郭汜を離間させたい。糞汁を飲んで吐き出した。李傕と郭汜は、治兵して攻めあう。天子は侍中と尚書をつかわし、李傕と郭汜を和解させたいが、和解せず。
ぼくは補う。『資治通鑑』もおなじ。


■三月
三月、李傕が献帝をおどして、みずからの軍営においた。長安での宮室を焼いた。(范書)

『袁紀』はいう。3月(丙寅)、李傕は、兄子の李暹に数千をひきいさせ、天子の宮をかこむ。太尉の楊彪はいう。「天子は臣下の家にはいかない。天子を李傕の陣に連れだすな」と。李暹は「李傕の指示だから」といい、天子を1車、伏貴人を1車、黄門次郎の賈詡と左霊を1車にのせた。この3車のほか、諸臣は歩いて従う。
『袁紀』はいう。司徒の趙温、司空の張喜は、これを知って、あわてて自府から出て、天子に随行する。天子が乘輿して出ると、兵が殿中で宮人や御物をかすめた。この日、天子は李傕の軍営にゆく。御府の金帛、乘輿、器服が、李傕の軍営に置かれる。宮殿は放火して焼かれ、官府や民居がなくなった。
『袁紀』はいう。天子は公卿を使者にして、李傕と郭汜を和解させたい。郭汜は、以下の公卿を自陣にとどめた。太尉の楊彪、司空の張喜、尚書の王隆、光祿勳の劉淵、衛尉の士孫瑞、太僕の韓融、廷尉の宣璠、大鴻臚の榮郃、大司農の朱雋、將作大匠の梁邵、屯騎校尉の姜宣らである。
『通鑑』はいう。朱儁が憤死した。


■この歳の春
興平二年(195)曹操は、定陶(済陰)を襲った。済陰太守の呉資が、南城(定陶)をたもつ。曹操は、定陶をぬけない。呂布がきた。曹操は定陶を攻めるのをやめ、呂布をやぶった。(武帝紀)

ぼくは思う。武帝紀は、この記事を春におく。一連の戦闘の経過であるから、こまかく分けることが難しい。年月のあいまいな江南の記事を、同じように拡散させることも、「推定である」と断った上であれば、許されるであろう。


興平2年夏

■四月
朱儁が病死した。(袁紀)

『袁紀』はいう。夏4月、郭汜は公卿を饗して、李傕への攻撃を議した。楊彪はいう。「李傕と郭汜が戦い、1人は天子を、1人は公卿を人質にする。やって良いわけがない」と。郭汜は怒り、楊彪に刃をむける。中郎將の楊密が郭汜を説得したので、郭汜は楊彪に、刃をむけるのを止めた。朱雋は剛直なので、郭汜に脅されると、発病して死んだ。
ぼくは思う。上記のとおり『通鑑』で、朱儁は春の終わりに死ぬ。李傕と郭汜の一連の衝突のなかで、朱儁が死んだことは確実。『袁紀』は、よく月が1つ遅れる。春とすべきか。

夏四月、貴人の伏氏を皇后とした。(范書)

『袁紀』はいう。4月甲午、伏貴人を皇后にした。皇后は、琅邪の東武の人。つづいて伏完伝。
『袁紀』はいう。郭汜と、李傕の中郎將である張苞、張寵らは、李傕の命をねらう。4月丙申、天子の殿前で、李傕の左耳をつらぬいた。楊奉がそとで郭汜を防ぐので、郭汜は撤退した。張苞、張寵は、李傕を去って郭汜をたよる。
『通鑑』はいう。夏4月甲午、琅邪の伏氏を皇后とした。皇后の父・侍中の伏完を、執金吾にした。

郭汜が李傕を攻め、献帝の御前に矢がおよんだ。この日、李傕は献帝を北塢にうつした。(范書)
李傕は献帝を迫害した。

『袁紀』はいう。李傕は「贅沢だ」と言い、腐った牛骨を与えたが、臭くて食べられない。天子は怒り、李傕を詰問したい。侍中の楊琦が上封する。
『袁紀』はいう。李傕は怒り、趙温を殺したい。李傕の弟・李応は、趙温の故吏である。李応が「趙温を殺すな」と諫めた。李傕は殺害をやめた。天子は趙温の文書を知り、侍中の當洽(常洽)にいう。「李傕は趙温を殺すんじゃないか」と。常洽は「李応が李傕の怒りを解く」という。天子は悦んだ。

おおいに日照あり。(范書)

■閏月(4月と5月のあいだ)
謁者僕射の皇甫麗が、李傕と郭汜に、和解を説得する。車騎将軍の李傕が、大司馬となる。(袁紀)

『袁紀』はいう。袁紀:閏月己卯、謁者僕射の皇甫麗をつかわし、李傕と郭汜を和解させる。李傕は虎賁の王昌を使い、皇甫酈を呼んで殺そうとした。だが王昌は「皇甫酈はもう去った」とウソをつき、皇甫酈を逃がした。
『袁紀』はいう。閏月辛巳、車騎將軍の李傕が大司馬となる。
『通鑑』はいう。閏月、謁者僕射の皇甫レキが、李傕と郭汜を仲裁。ぼくは思う。『通鑑』は『袁紀』に基づいたのだろう。


■この夏(なぜか6月の前)の徐州

ぼくは思う。『袁紀』の順序にしたがうと、ここで「この夏」に陶謙が死ぬ。呂布と曹操は、ずっと抗争している。確実なところをねらえば、『袁紀』と順序を入れ替えてでも、6月の長安の記事のあと、徐州の「この夏」の記事を置くべきであろう。接点がないため、確定できないと同時に、先後をどちらにしても影響がない。

この夏、陶謙が病死し、徐州を劉備が継承した。(袁紀)

『袁紀』はいう。劉備は徐州にいる。曹操は徐州を襲いたい。荀彧に「高祖の関中、光武の河内のように、根拠地を定めるのが優先だ」と言われた。曹操は兗州の平定にもどった。

この夏、曹操は鉅野で、薛蘭と李封をやぶる。(武帝紀)

『通鑑』はいう。呂布の部将・薛蘭と李封が、山陽郡の鉅野に。曹操はセツ蘭を斬り、乗氏へ。荀彧は曹操に「陶謙が死んだ徐州より、呂布を先に倒しなさい」と進言。呂布は曹操にやぶれ、劉備に逃げた。張邈は呂布に従う。張超は、雍丘をたもった。劉備は呂布と親しく酒を飲んだ。
ぼくは思う。興平2年夏に、つめこむべきこと。陶謙の死、劉備の継承、曹操が徐州に色気を見せる、荀彧が曹操を兗州に留める、曹操が呂布を兗州から駆逐、呂布が徐州で劉備を頼る。この流れである。
ぼくは思う。兗州と徐州は、長安とは独立に動いている。
武帝紀で、陶謙は興平元年の末尾に死亡記事がある。採らず。


■五月
五月、李傕は大司馬となった。(范書)

ぼくは思う。『袁紀』では1つ前の閏月だった。


■六月
六月、丁沖、鍾繇、楊奉らが李傕の殺害をはかった。楊奉は李傕に帰した。(袁紀)

『袁紀』はいう。6月、侍中の楊琦、黄門侍郎の丁沖と鍾繇、尚書左丞の魯充、尚書郎の韓斌と、李傕の部将の楊奉、軍吏の楊帛らは、李傕の殺害をはかった。
『袁紀』はいう。李傕は、他事を以て、楊帛を誅した。楊奉は (李傕を殺害する計画がモレて、楊帛が殺されたと誤認し)、軍勢をひきいて郭汜に帰した。

六月、張済は陜県からきて、李傕と郭汜と和した。(范書)

『通鑑』はいう。6月、楊奉が李傕を殺そうとした。庚午、鎮東将軍の張済が、陜からきて、李傕と郭汜を和解させた。
『袁紀』はいう。6月庚午、鎮東將軍の張濟が陝県からきて、李傕と郭汜を和解させ、天子の乘輿を他県に移そうとする。太官令の孫篤、綏民校尉の張裁は、10回にわたり説得した。李傕と郭汜は和解して、愛する子を人質として交換した。

献帝は、羌胡の無礼をわずらった。

袁紀:天子は羌胡を患い、侍中の劉艾は、宣義將軍の賈詡にいう。「なんか方策はないか」と。賈詡は、羌胡の大帥を飲食させ、封賞を与えた。羌胡は去った。
ぼくは思う。これは『袁紀』で6月(7月の直前)に置かれる。つぎの月には、洛陽にむけて出発するから、ここに献帝の日常の描写が、便宜的に置かれたのであろう。


■七月
秋七月、献帝の車駕が東にむけて発った。(范書)

『袁紀』はいう。袁紀:秋7月(甲子)、天子の車駕は宣平門を出る。侍中の劉艾が前にでて「いかにも天子だ」という。郭汜の兵がひいた。士衆は万歳をとなえる。夜に霸陵につく。従者が飢えたので、張濟が配給した。 李傕は天子から離れ、池陽(河陽)に屯する。(『通鑑』のように池陽が正しい。)

郭汜は車騎将軍となり、楊定は後将軍となり、楊奉は興義将軍となり、董承は安集将軍となり、献帝の乗輿に同行した。張済は驃騎将軍となり、陜県にもどって屯する。(范書)

『袁紀』はいう。7月丙寅、張濟を驃騎將軍、平陽侯、假節とし、三公のように開府させる。郭汜を騎車將軍、假節とする。楊定を後將軍、列侯とする。董承を安集將軍とする。天子の乳母の呂貴に、平氏君と追号する。郭汜は、車駕を高陵にゆかせたい。公卿および張済は、車駕を弘農にゆかせたい。大會して議したが、車駕の場所が決まらない。尚書の郭浦に詔を持たせて、郭汜を説得した。


■八月
八月、献帝は新豊につく。(范書、袁紀)

『袁紀』はいう。張濟は、尚書の命令をいつわり、河西太守の劉玄を徴した。張済は、自分に親しい者を、河西太守に交代させたい。天子はいう。「劉玄の統治はうまい。なぜ理由なく、劉玄を徴したか」と。みな尚書は謝罪した。天子は張済をとがめた。「張済は、私を新豊に連れだす功績があるのに、なぜ河西太守をかってに代えるのか。今回は見のがす」と。張済は冠と沓をぬいで謝った。後將軍の楊定は、侍中の尹忠をじぶんの長史にした。詔した。「侍中は天子に近侍する。適切な人材をおかねば、関東から笑われる。さきに長安で、李傕が専政した。いま私が親政する。なぜ楊定は、ふたたび官爵の任免を乱すのか」と。
『通鑑』はいう。8月甲辰、献帝の車駕は、新豊に。丙子、郭汜はまた献帝をうばい、ビに連れ戻そうとした。侍中のチュウショウは察知した。楊定、董承、楊奉は、郭汜をブロックした。郭汜は南山に入った。


(8月の前日談として)呂布は、劉備ににげた。張邈は、呂布にしたがう。張邈の弟・張超は、家属をひきいて、雍丘(陳留)にいる。秋8月、曹操は雍丘をかこむ。(武帝紀)

『通鑑』はいう。8月、曹操は雍丘を囲んだ。張邈は袁術に、救いを求めた。袁術につく前に、張邈は殺された。


■九月
九月、郭汜は献帝を郿県におきたいが、失敗した。(袁紀)

『袁紀』はいう。九月丙子、郭汜らは車駕を郿県にうつしたい。侍中の种輯、城門校尉の衆は、郭汜の軍営にいる。ひそかに後將軍の楊定、安集將軍の董承、興義將軍の楊奉に、郭汜の意図をつげた。新豊にいる楊定らは、天子を郿県にもどすのでなく、洛陽に移したい。郭汜は「天子を郿県に」という計画がバレたので、計画を棄てて南山に進軍する。

九月、曹操が雍丘で張超をかこむ。臧洪が袁紹に、張超の救援をたのむ。袁紹は救援せず。張超は族滅された。 (袁紀)

『袁紀』はいう。袁紀:この9月、曹操は雍丘で張超をかこむ。張超はいう。「臧洪は天下の義士である。ただし、曹操による包囲の情報が、臧洪に届かないことを恐れる」と。臧洪は、張超の危機を知った。臧洪から袁紹に「張超を助けるから、兵を貸せ」というが、袁紹が許さず。ついに張超は、曹操に族滅された。臧洪は袁紹に怒り、交通を絶やした。袁紹は臧洪を囲んだが、臧洪をくだせず。袁紹は、臧洪の同邑である陳琳に、説得の文書を書かせた。臧洪が陳琳に返書した。はぶく。

袁紹は臧洪を殺した。(袁紀)

『袁紀』はいう。袁紀:袁紹は臧洪の返書を見て、降伏の意志がないと知った。「袁氏の無道は、道を踏みはずす」城内の男女7,8千人が臧洪のために死んだ。1人も臧洪を裏切らない。袁紹は臧洪を生け捕った。袁紹は「臧洪は私に服したか」という。袁紹は臧洪を殺した。


興平2年冬

■冬十月
冬十月、郭汜の将である伍習が、献帝のいる学舎を焼いて、献帝をおびやかした。楊定と楊奉は、郭汜をやぶった。(范書)

『袁紀』はいう。冬10月戊戌、郭汜の党与である、夏育と高碩らが乱を起こして、天子を西に奪回にきた。侍中の劉艾は、火を見て「にげよう」と判断した。楊定、董承は、天子を楊奉の軍営につれてゆく。郭汜の党与である夏育らに見つかった。楊定と楊奉が力戦して、郭汜軍の5千級を斬首した。

十月壬寅、献帝は華陰にゆき、野外で宿泊する。(范書、袁紀)
この日の夜、赤気が紫宮をつらぬいた。(范書)

チュウショウの部将・段猥は、楊定と仲が悪い。段煨が、そむこうとした。太尉の楊彪、司徒の趙温、侍中の劉ガイ、尚書の梁紹は、段猥を責めた。(通鑑)

『袁紀』はいう。袁紀:寧輯將軍の段猥は、天子の服御を準備して、天子を自営に置きたい。段猥は楊定と仲が悪くなった。段猥は天子の乗輿を迎えたが、下馬しない。侍中の种輯は、楊定と親しいので「段猥が謀反する」という。天子は「段猥は私を迎えてくれたのに、なぜ謀反というか」ときく。种輯は「段猥は下馬しない。天子に対して異心がある」という。
『袁紀』はいう。太尉の楊彪、司徒の趙溫、侍中の劉艾、尚書の梁紹らがいう。「段猥は謀反しない。もし段猥が謀反しても、私たちが死んでも守る。段猥を頼れ」と。以下、はぶく。『後漢紀』を抄訳したページにある。
『袁紀』はいう。10月丁未、楊奉、董承、楊定は段猥を攻めた。


冬十月、曹操が兗州牧になった。(武帝紀、通鑑)
張済がふたたび献帝にそむき、李傕と郭汜とあわさる。(范書)

■冬十一月;献帝が曹陽で敗れる
十一月、李傕と郭汜は、献帝に追いつき、東澗で戦った。献帝は敗れた。九卿より以下が殺された。殺されたのは、光禄勲の鄧泉、衛尉の士孫瑞、廷尉の宣播、大長秋の苗祀、步兵校尉の魏桀、侍中の朱展、射声校尉の沮儁らである。(范書)

『袁紀』はいう。袁紀:11月(12月)、天子は弘農にゆく。
『袁紀』はいう。張済、郭汜、李傕は、天子を追った。衛將軍の楊奉、射聲校尉の沮雋が力戰したので、ぎりぎりで天子は逃げられた。沮雋は傷ついて落馬した。李傕は左右に「沮雋を生かすべきか」ときく。沮雋は李傕を罵った。「天子や公卿を傷つけた李傕め。お前のような亂臣賊子は、前例がない」という。李傕は沮雋を殺した。


献帝は曹陽にゆき、田のなかで露営した。

『通鑑』はいう。袁術は、図讖で「漢に代わるのは当塗高」ときいた。袁術は、自分の名が予言にピッタリだと考えた。また袁氏は、陳氏から出ており、陳氏は舜の子孫である。赤徳に代わるのは、黄徳である。また孫堅が伝国璽を得たと知り、妻を捕らえて奪った。献帝が曹陽で(興平2年に)敗れたと聞き、帝位を検討した。
『袁紀』はいう。袁術は、沛相の陳珪にふられた。天子が曹陽で敗れると、袁術は天子即位を検討したが、主簿の閻象に反対された。袁術は黙然として、悦ばず。符命をつくり、百官をおく。

楊奉と董承は、白波の帥である胡才、李楽、韓暹と、匈奴の左賢王である去卑をひきいれた。李傕らを破った。(范書)

『袁紀』はいう。11月壬申、天子は曹陽にゆく。李傕、郭汜、張済が、力をあわせて追う。董承と楊奉は、河東に使者をだし、もと白波帥の李樂と韓暹と胡才、匈奴右賢王の去卑をよんだ。李傕を大破し、数千級を斬首した。
『袁紀』はいう。侍中の史恃、太僕の韓融を使者にして、張済に詔した。「私は宗廟と社稷を祭るため、洛陽にゆきたい。洛陽は廃墟なので、まず弘農にいて、ゆっくり洛陽にかえる。李傕、郭汜、張済は、争わずに私を助けろ」と。
『袁紀』はいう。新たに李傕を破った董承らは、また東に出発しようと言う。天子は詔した。「韓融が張済のもとから帰るのを待ち、東に行くかを決めろ」と。だが董承らは、少しでも東に行こうとこだわった。


■十二月
十二月、献帝の車駕は、ふたたび出発した。李傕らに追撃され、少府の田芬、大司農の張義らが戦没した。陜県にゆき、夜に黄河をわたる。(范書)
安邑にゆく。(范書)

ぼくは思う。『袁紀』興平2年冬12月は、記述が膨大である。引用して整理すべし。すでに抄訳はしてある。
『通鑑』はいう。12月、白波の李楽と韓暹、南匈奴の右賢王らが、数千騎で李傕を討った。董承らは献帝を取り戻し、東へ。乙亥、献帝は、安邑へ。河東太守の王邑は、献帝に物資を供給した。乙卯、張楊は、野王から献帝に詣でた。張楊は、献帝を洛陽にもどそうとした。みな反対した。このとき長安は40余日も空白で、強者たちは長安から四散した。2、3年、関中には人が戻らなかった。


『通鑑』はいう。沮授は、袁紹に「献帝をむかえて、諸侯に号令せよ」と云った。潁川の郭図と淳于瓊は、反対した。袁紹は、沮授を用いず。

ぼくは思う。献帝が安邑にいくのをトリガーに、司馬光が記事を置いたか。


12月、雍丘がつぶれ、張超の三族を殺す。

『通鑑』はいう。張超は雍丘で、曹操に包囲されている。張超は「臧洪だけが、私を救ってくれる」と云った。「袁紹と曹操は、仲がいい。臧洪は、袁紹に東郡太守にしてもらった。臧洪は、袁紹-曹操と対立するのをイヤがり、張超さまを助けないでしょう」袁紹は臧洪を、曹操は張超を滅ぼした。
ぼくは思う。『通鑑』はこれを、興平元年の末尾におく。12月に雍丘が陥落するので、ここに置くのであろう。妥当である。

張邈は、袁術に救いをもとめる。張邈は、兵に殺された。兗州が平定された。曹操は東へゆき、陳国をせめた。(武帝紀)

この歳(鮮于輔が公孫瓚を破る)

この歳、袁紹が麹義をつかわし、鮑丘にて公孫瓚と戦う。公孫瓚は大敗した。(范書)

『通鑑』はいう。公孫瓚は、すでに劉虞を殺し、幽州をもつ。万民に怨まれた。劉虞の従事をつとめた、漁陽の鮮于輔らは、州兵をあつめて劉虞のカタキをとりたい。燕国の閻柔は、ふだんから恩信がある。烏丸司馬となった。閻柔は、胡族と漢族を数万あつめた。公孫瓚がおいた漁陽太守の雛丹と、ロ北で戦った。雛丹らを斬った。
『通鑑』はいう。鮮于輔は、劉虞の子の劉和をむかえ、袁紹の10万と合わさった。公孫瓚を攻めた。
『通鑑』はいう。南単于の於夫羅が死に、呼廚泉が平陽でたつ。
ぼくは思う。『後漢書』献帝紀は、興平元年までを明らかにして、月を特定しない。『通鑑』も同じ。袁紹伝や公孫瓚伝で確認すべきだが、おそらく月が特定できない。接点がないため、先後関係が影響しない、という立場で良いだろう。
ぼくは思う。袁紹は、臧洪を殺すというかたちで、本紀に登場する。先後関係を気にすべきは、この一点であろう。


『通鑑』がこの歳に放りこむ揚州の記事

袁術が孫策を折衝校尉とし、劉繇と王朗を討伐する。

『通鑑』はいう。はじめ丹楊の朱治は、孫堅の校尉になった。 朱治は、袁術の政治が成立しないのを見て、孫策に従った。呉景が、樊能と張英らを攻めているが、勝てない。孫策は袁術に云った。劉繇が曲阿に、王朗が会稽にいる。孫策を折衝校尉にした。
『通鑑』はいう。ときに周瑜の従父・周尚は、丹楊太守となった。周瑜は孫策を迎え、資糧をたすけた。横江と当利で、孫策は勝った。
ぼくは思う。劉繇が刺史と州牧になる時期を、長安の動向と同期化することで、この記事の季節くらいは特定できるであろう。

孫策は劉繇を駆逐し、太史慈を撃破し、殄寇将軍となる。

『通鑑』はいう。孫策は、劉繇を牛渚でせめた。彭城相の薛禮と、下邳相をつとめる丹楊の笮融は、劉繇を盟主にした。薛禮は、秣陵城にいる。笮融は、県南にいる。孫策は、どちらも破った。劉繇の別将を、梅陵で破った。湖ジュクと江乗をくだす。劉繇を曲阿に討った。同郡の太史慈は、東莱からきて劉繇を助けた。
『通鑑』はいう。劉繇は、丹徒に逃げた。孫策は曲阿に入った。劉繇や笮融らの部曲を説得し、降伏したら、前歴は不問とした。旬日の間、2万余人が、孫策に集まった。袁術は表して、孫策をテンコウ将軍とした。


孫策は、張紘と張昭を従える。丹陽太守は、周尚から袁胤に。

『通鑑』はいう。孫策は、張紘を正議校尉に、彭城の張昭を長史にした。どちらかに留守を任せた。広陵の秦松、陳端らも、孫策に従った。
通鑑:袁術は、従弟の袁胤を、丹楊太守にした。周瑜と周尚は寿春にかえった。劉繇は、丹徒から会稽ににげた。


『通鑑』がこの歳に放りこむ徐州の記事

下邳相の笮融が曹操にやぶれ、広陵太守の趙昱をたよる。笮融は趙昱を殺した。

『通鑑』はいう。陶謙は、笮融を下邳相にした。広陵、下邳、彭城の糧運を任せた。笮融は、3郡の輸送を好きにやった。笮融は仏教をやった。曹操が徐州を討つと、笮融は男女万口をつれて、広陵に逃げた。広陵太守の趙昱は、賓客として、笮融をむかえた。
『通鑑』はいう。これより先、彭城相の薛禮は、陶謙にせめられ、秣陵にいた。笮融は広陵の豊かさに目がくらみ、趙昱を殺した。広陵郡でぬすみ、長江をわたった。笮融は、薛禮をたより、薛禮を殺した。
ぼくは思う。曹操が笮融を破る時期を特定することで、この記事


『通鑑』はいう。劉繇は、豫章太守の朱晧に、袁術が任じた諸葛玄を討たせた。諸葛玄は、西城をたもった。劉繇は長江を西にさかのぼり、彭澤にいる。劉繇は笮融に、朱晧を助けさせた。許劭が、劉繇に云った。劉繇は、笮融を攻撃した。笮融は山に入り、民に殺された。詔し、さきの太傅掾の華歆を、豫章太守にした。
『通鑑』丹楊都尉の朱治は、呉郡太守の許貢を追いはらった。許貢は、山賊の厳白虎を頼った。

ぼくは思う。さっぱりつながらない。『通鑑』を読んでも、解決しない。これこそ、腕の見せどころ。献帝や曹操の周辺の史料を背骨にしているので、このあたりをさばけない。
まあ司馬光もギブアップしたから、『通鑑』がぐちゃぐちゃなんだろうけど。後日やります。

明日は始発で会社に行かねば。130703

閉じる

inserted by FC2 system