雑感他 > 『漢末二袁紀』本文テキスト案(建安期)130702版

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建安元年、曹操が献帝奉戴、呂布が徐州獲得

『魏志』武帝紀、袁宏『後漢紀』、司馬光『資治通鑑』を見比べながら、編年体のテキストを整理しようと、苦闘するページ。中間生産物です。

建安元年春

■正月
建安元年春正月、上帝を安邑に郊祀した。天下を大赦した。改元して、建安元年とした。(范書)

春正月、曹操は武平(陳国)にきた。袁術のおく陳相の袁嗣をくだした。荀彧と程昱が、献帝を迎えろとすすめた。曹操は、曹洪を西にゆかせた。衛将軍の董承は、袁術の部将・萇奴とともに、曹洪をこばむ。(武帝紀)

■二月
二月、執金吾の伏完を輔國將軍とし、開府儀同三司。(袁紀)
二月、韓暹が、衛将軍の董承を攻めた。(范書献帝紀)

『袁紀』はいう。董承と張楊は、天子を洛陽にもどしたい。楊奉と李樂はもどしたくない。尚書の上官洪が「洛陽に還る議題」を提案すると、李楽は上官洪に合意した。胡才と楊奉は塢郷にゆき、韓暹を攻めようとする。天子は停戦させた。
『袁紀』はいう。董承は、張楊のいる野王に逃げた。韓暹は聞喜にいて、胡才と楊奉はオ郷にいる。胡才は韓暹を攻めたいと上表したが、止められた。

劉表が貢献した。

『通鑑』はいう。太僕の趙岐は董承に「劉表に修繕を手伝わせよう」とという。劉表は物資をおくった。

汝南と潁川で、黄巾が曹操をこばむ。黄巾は、はじめ袁術に応じ、また孫堅についた。二月、曹操は黄巾をやぶり、劉辟を斬った。献帝は、曹操を建德將軍とした。(武帝紀)

『袁紀』はいう。汝南と潁川の黄巾である何儀らは、人をつれて袁術に帰した。曹操は、何儀らを破った。
ぼくは思う。武帝紀にある孫堅のことは、前日談である。


建安元年夏

■五月
夏五月丙寅、天子の使者が、楊奉と李樂と韓暹の軍営にゆく。「天子を洛陽に送れ」という。楊奉らは詔に従った。(袁紀)

『通鑑』はいう。夏5月丙寅、献帝は、洛陽への護衛を命じた。命じられたのは、楊奉、李楽、韓暹である。楊奉たちは、献帝に従った。


■夏六月
夏六月、献帝は聞喜にゆく。

『袁紀』はいう。楊奉と胡才は、天子を手放したことを悔いた。李楽と議して、天子を奪回したい。楊奉らは偽って「澠池の東にゆき、匈奴の攻撃を避けよ」という。天子はだまされず。
『袁紀』はいう。6月庚子、天子は北道からでて、山のそばを東した。匈奴の攻撃を受けず。李楽はウソがバレたので、懼れてにげた。このとき食糧が尽きたので、張楊が野王から天子をむかえ、百官に賑給した。


■この夏(袁術と劉備)
袁術は劉備と、徐州を争った。司馬の張飛は、下邳を守る。数ヶ月、勝負がつかない。呂布は、張飛の守る下邳を陥とした。劉備は広陵で袁術に敗れた。呂布が劉備に小沛をあたえ、徐州牧を称した。(通鑑)

ぼくは思う。『通鑑』はこの夏に、劉備と袁術に徐州を争わせる。その理由は、追って確認すべきだなあ。
『通鑑』はいう。下邳相の曹豹は、もと陶謙の部将だ。張飛は曹豹を殺した。袁術は呂布に、下邳を襲わせた。呂布は袁術に兵糧をもらって喜び、水陸をたどって東へ。劉備の中郎将の許耽は、丹楊出身だ。許耽は、門を開いて呂布をむかえた。劉備は、広陵で袁術にやぶれ、海西へ。劉備が飢えたので、東海の麋竺は、家財をつかって劉備を救った。劉備は呂布に降伏した。呂布は、袁術からの兵糧がつづかないので、劉備を受け入れた。豫州刺史にして小沛に行かせ、ともに袁術を撃つことにした。呂布はみずから徐州牧を称した。
『通鑑』はいう。河内のカク萌が呂布に謀反した。高順の部将・曹性が平定。


■ふたたび六月
六月庚子、楊奉と韓暹は、献帝を東にもどした。張楊は、食糧をもって道路で迎えた。(通鑑)

ぼくは思う。『通鑑』は、袁術と劉備の戦いを記したあと、楊奉と韓暹に話をもどす。この前後関係に、いかなる理由があるのか、検討すべきである。

六月、曹操は鎮東將軍、費亭(山陽)侯となる。(武帝紀)

ぼくは思う。建安初期において、通史を撹乱するのは、呂布と劉備である。建安に入ってからは、曹操は献帝を奉戴し、孫策は各地に侵攻し、袁術はおのずから尊び、袁紹や劉表は自領の充実をはかり、、と直線的である。だが呂布と劉備は、方向性がない。功利と生存のために陣営を移動する。ぎゃくにいえば、劉備と呂布を把握すれば、建安初期の通史を語ることができる。


建安元年秋

■秋七月
七月、献帝の車駕は洛陽にいたる。もと中常侍の趙忠の家宅に入る。(范書)
上帝を郊祀し、天下を大赦した。太廟に謁した。(范書)

この7月、孫策が会稽に入る。太守の王朗は孫策に敗れた。(袁紀)

楊奉は、わかれて梁県(河南)にいる。曹操は洛陽にきて、献帝をまもる。韓暹はにげた。曹操は、節鉞を仮され、錄尚書事する。 洛陽がボロいので、董昭は曹操に、献帝を許県(潁川)にうつさせた。(武帝紀)

■八月
八月、南宮の楊安殿にゆく。(范書)
安国将軍の張楊を大司馬とした。韓暹を大将軍、楊奉を車騎将軍とした。

『袁紀』はいう。張楊は野王にいる。楊奉が梁県に屯する。8月癸卯、張楊は大司馬となり、楊奉は車騎將軍となり、韓暹は大將軍となり司隸校尉を領する。みな節鉞を仮された。
『范書』献帝紀はいう。洛陽の宮室は焼き尽くされた。州郡から強兵がくるが、物資が輸送されず、群僚は飢えた。尚書郎が、みずから食糧を調達した。群僚は、餓死したり、兵士に殺されたりした。


鎮東将軍の曹操が、司隷校尉を領し、録尚書事する。(范書)

ぼくは思う。『通鑑』はここに袁術が、前年の秋に献帝が敗れたとき、皇帝即位を検討し、符瑞が出たという記事をおく。曹操の対比だろうか。ここにおく必然性がないため、前年におく。
『通鑑』はいう。曹操は、潁川の許にいる。韓暹と楊奉を押しのけ、献帝を手に入れようとした。揚武中郎将の曹洪に、献帝を迎えさせた。董承らが、曹洪をこばんだ。進めない。議郎の董昭は、云った。「楊奉に援軍する」と。
『通鑑』はいう。辛亥、曹操は司隷校尉をかね、録尚書事した。尚書の馮セキら3人を、曹操は斬った。

『袁紀』はいう。曹操は、天子の乗輿を迎える議論をした。

董昭は曹操に、献帝を魯陽、許に移せと云った。
8月辛卯、曹操は天子に貢献して、公卿より以下に食糧を与える。曹操は、韓暹と張楊の罪をのべる。韓暹は単騎でにげた。羽林郎の侯折,尚書の馮碩、侍中の臺崇を、罪があるため誅した。 (袁紀か)

曹操は、侍中の台崇、尚書の馮碩を殺した。衛将軍の董承を、輔国将軍とした。伏完ら十三人を列侯に封じた。沮雋に弘農太守を贈った。(范書)

『袁紀』はいう。衛將軍の董承、輔國將軍の伏完、侍中の丁沖と种輯、尚書僕射の鍾繇、尚書の郭浦、御史中丞の董芬、彭城相の劉艾、左馮翊の韓斌、東郡太守の楊衆、議郎の羅邵と伏德と趙蕤を列侯として、功があるため賞した。射聲校尉の沮雋に、弘農太守を追贈した。

許県に遷都した。献帝は、曹操の軍営にゆく。

『通鑑』はいう。己巳、曹操は大将軍になった。宗廟、社稷を許においた。
『袁紀』はいう。符節令の董昭は曹操にいう。「許県に天子をうつせ」と。曹操は従った。8月庚申、天子の車駕が東する。楊奉は梁県で天子を留めたいが、失敗した。


■なぜか八月(通鑑の孫策)
孫策が会稽太守となり、虞翻がその功曹となる。(通鑑)

『通鑑』はいう。孫策は会稽を取った。孫策は、呉人の厳白虎を後回しにした。会稽の功曹の虞翻は、会稽太守の王朗に、逃げろといった。王朗は逃げず、もと丹楊太守の周昕に、孫策を迎撃させた。孫策は周昕をやぶった。王朗と虞翻は、東ヤに到った。孫策は王朗を引きずり出した。孫策は会稽太守となった。虞翻は、孫策の功曹となった。虞翻は孫策が出歩くのを、諌めた。
ぼくは思う。『袁紀』で孫策が会稽に入るのは七月である。『袁紀』は月がズレることがある。孫策の遠征は、七月に着手され、八月をかけて王朗を追いまわし、平定をしたと見れば良いであろう。


北海太守の孔融が、袁譚にやぶれた。

『通鑑』はいう。北海太守の孔融は、気位が高く、清談した。196年の春から夏、青州刺史の袁譚に攻められても、涼しい顔で本を読んだ。孔融は落城し、東山にのがれた。袁譚が青州にきたとき、領土は黄河の西で、平原郡だけ。公孫瓚がおいた田楷を追い出し、孔融を追い出した。袁譚は奢って、声望がおちた。
ぼくは思う。『通鑑』は建安元年末におく。だが春から夏と特定されているので、秋より前に置くべきであろう。
ぼくは思う。曹操が西して献帝をとるとき、袁紹は河北の支配を着々と固めている。だれも停止していない。むしろ、190年代前半は、どの群雄も州郡に本拠地を安定確保するのに時間をつかった。190年代後半から流動する。つまり、拡大に成功しはじめる。200年代に緊張がピークに達し、あとは予定調和にむかう。つぎの山場は赤壁。荊州がぽっかりあき、そこから関羽の死までが、ふたたび流動する。


■九月
袁紀:9月甲戌、鎮東将軍の曹操を大将軍として、武平侯に封じなおす。曹操は固辞した。太尉の楊彪、司空の張喜は、病気なので三公を退く。

『通鑑』はいう。九月、司徒の淳于嘉、太尉の楊彪、司空の張喜を、みなやめた。楊奉は、梁から献帝を取り戻そうとしたが、失敗した。
ぼくは思う。『通鑑』は淳于嘉がおおい。
武帝紀はいう。九月、献帝の車駕は、轘轅をでて、東へゆく。曹操を大將軍とし、武平侯に封じた。宗廟と社稷の制度を、はじめて立てた。献帝は東へゆく。楊奉は、梁県からはばめない。
ぼくは思う。ほぼおなじ。宗廟と社稷が何月かがちがう。


建安元年秋

冬十月、曹操は楊奉を征す。楊奉は、袁術ににげる。曹操は、梁をぬく。袁紹を太尉とした。袁紹は、曹操の下になることを恥じ、受けない。曹操は、袁紹を大将軍とした。曹操は司空、行車騎将軍となる。

ぼくは思う。『袁紀』は同じ。
『通鑑』はいう献帝は詔した。「袁紹は勝手に刺史を任命している」と。袁紹は謝った。戊辰、袁紹を太尉とした。袁紹は、大将軍の曹操の下位になるのが気に食わない。丙戌、曹操は司空となり、車騎将軍をかねた。荀彧を侍中、尚書令とした。
ぼくは思う。詔は『范書』袁紹伝だろう。
『通鑑』はいう。曹操は、山陽の満寵を、許令とした。満寵は、曹洪の食客が境界を侵すので、取り締まった。曹操は、満寵の仕事を喜んだ。
ぼくは思う。満寵は時期に必然性がない。許県にゆくツナガリである。


■十一月
十一月、呂布が徐州を襲い、劉備は曹操を頼ってにげる。(袁紀)

ぼくは思う。『袁紀』の十一月の記事は、曹操が司空となり、楊奉をくだすなど、『范書』では十月のもの。劉備が逃げてきたのも、十月と見なすべきだろう。確定できるのは、夏に呂布が劉備を破るが、呂布が劉備を小沛におき、冬に劉備が曹操のもとに逃げてきたことである。夏の終わりから、冬の初めまでは、つまり秋のあいだ、劉備は小沛を保っていたか。『蜀志』先主伝で確かめる。
『通鑑』はいう。袁術は、呂布と婚姻を結ぼうとした。紀霊は、歩騎3万で劉備を攻めた。劉備は呂布に助けを求めた。呂布は、袁術たちに包囲されるのを嫌い、劉備と紀霊を仲裁した。呂布は劉備を助けたくせに、劉備を攻めた。劉備は曹操を頼った。曹操は劉備を、豫州牧にした。郭嘉は劉備を殺せと云った。
ぼくは思う。紀霊のことは、季節が特定されず、『通鑑』では建安元年末に、くずかごみたいに、まとめて置かれる。だが『袁紀』により、建安元年冬に、劉備が曹操に帰したことが特定できる。紀霊との戦いは、秋から初冬であろう。曹操が献帝を護送している時期、呂布による、紀霊と劉備の「仲裁」があった。曹操が西して洛陽にいるという、勢力の空隙(圧力の低下)によって、呂布の気まぐれが生じたのかも知れない。
武帝紀はいう。196年、呂布は、劉備をおそい、下邳をとった。劉備が、曹操に逃げてきた。程昱は曹操に、劉備を殺せと言った。ぼくは思う。武帝紀ですら、年のみ特定し、月を教えてくれない。

陳郡の袁渙が、呂布につかまった。

『袁紀』はいう。陳郡の袁渙は、劉備の茂才となる。江淮之間に避難し、呂布につかまる。袁渙伝。ぼくは思う。建安元年の逸話でよかろう。『通鑑』も同じ。


季節を特定せず

この歳、棗祗と韓浩の提案で、屯田をはじめた。(武帝紀)

『通鑑』はいう。羽林監の棗祇は、曹操に屯田都尉を置くようにアドバイスした。騎都尉の任峻が、典農中郎将になった。兵糧問題を、解決した。

孔融が黄祖に殺された?

『通鑑』はいう。劉表は、学校をつくった。孔融が、曹操をののしる。禰衡が劉表に送られ、江夏太守の黄祖に殺された。
ぼくは思う。劉表はこのとき貢献し、建安五年に張羨の従子を殺す。劉表の権力が浸透する時期もまた、建安に入ってからなのであろう。

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建安二年、袁術と曹操が拮抗する

■春正月(袁紹と曹操)
春正月、曹操が淯水で張繍を討つ。(通鑑、袁紀)

『袁紀』はいう。張濟は関中から南陽ににげる。飛矢にあたって死んだ。從子の張繍が兵を領して、宛県に屯する。天子が曹陽で李傕から逃れてから、賈詡は李傕を去り、段猥のもとにいた。このころ賈詡は、張繍に帰した。
ぼくは思う。張繍が荊州でたたかう前日談である。

曹昂と典韋が死んだ。帰路、于禁が青州兵による略奪を訴えた。
袁紹は驕慢となり、悖慢な文書をおくる。僕射の鍾繇は、尚書令の荀彧にきく。荀彧は、曹操の長所をのべ、袁紹の短所をのべた。(袁紀)

『通鑑』はいう。張繍の敗戦後、荀彧は曹操に、袁紹より曹操が優れているところ、10コを教えた。だが曹操は、不安である。荀彧が提案し、鍾繇が、馬騰を手なずけることになった。
ぼくは思う。荀彧の助言は、時期に必然性がないが、『袁紀』と『通鑑』は同じ位置に、荀彧の記事をおく。袁紹から曹操への文書が、時期を特定している。


■春正月 建安二年春、袁術が仲家の天子に即位した。(范書献帝紀)

『通鑑』はいう。袁術が寿春で、皇帝を名のった。仲家と称した。九江太守を、淮南尹とした。公卿百官をおいた。沛国相の陳珪は、陳球の弟の子だ。若いとき陳珪は、袁術と遊んだ。
『通鑑』はいう。通鑑:袁術はもと兗州刺史の金尚を、太尉にしようとした。金尚は逃げたから、袁術は金尚を殺した。
ぼくは思う。『通鑑』がここに記事をおくのは、『范書』献帝紀に基づくであろう。献帝紀では、三月の記事より前にある。曹操が張繍に敗れた記事と、三月に袁紹が大将軍となる記事のあいだに、袁術の皇帝即位をおくのが、『范書』献帝紀と『通鑑』に従った判断である。正月か二月かは、特定できない。
ぼくは思う。曹操が張繍に敗れたことが、袁紹に驕慢な文書をつくらせ、袁術を皇帝につかせたのである。


■三月
三月、将作大匠の孔融に節を持たせた。(通鑑) 袁紹を大将軍とし、河北の4州を都督させた。(通鑑)

『范書』献帝紀では「みずから」大将軍となる。
ぼくは思う。『范書』の記法では、献帝との物理的な遠近に関わらず、権臣と認定された者は、官職をあげるとき「みずから」と記される。董卓、李傕、曹操は、献帝と物理的に近いが「みずから」であり、献帝と物理的に遠い袁紹も「みずから」大将軍となる。この記述をもって、「董卓や曹操が正統な手続をふむが、袁紹の官職は自称に過ぎない」と言うことはできない。ちなみに袁術も、『范書』献帝紀では「みずから」天子を称する。
范曄の編纂方針から見れば、董卓、李傕、曹操、袁紹、袁術のなかに、忠臣は一人もおらず、みな同類なのだろう。
@HAMLABI3594 さんはいう。『三国志』の196年。袁紹が太尉を拒否、曹操は大將軍を袁紹に譲ったと書く。これは途中経過を省いている。袁紹が大將軍に任命されるのは197年。
同氏はいう。『後漢書』は曹操が司空に就任することで、袁紹に位を譲った。太尉は司空と同格だが位は上。196年に曹操が大將軍を辞退して司空に就任して袁紹に位を譲ったため、袁紹は太尉に就任した。『後漢書』は197年に「三月袁紹自為大將軍」と書くが、これは『三国志』196年に曹操が大將軍を譲ったと理解すると、既に大将軍なのに大将軍を自称する袁紹という意味不明の事態となる。
同氏はいう。三月に太尉の袁紹が大將軍を自称した理由は、正月の宛城の戦いだろう。結末は『後漢紀』「秋七月即拜太尉 袁紹為大將軍」。献帝(曹操)は太尉の袁紹を正式に大將軍とすることで、とりあえず事態を先延ばしする。
同氏はいう。袁宏『後漢紀』「①己巳,車駕到許幸曹營。②甲戌,鎮東將軍曹操為大將軍更封武平侯操固讓不許太尉楊彪司空張喜以疾遜位。③冬十月戊辰,右將軍袁紹為太尉紹恥班在操下不肯受操乃辭大將軍。④丙戌,以操為司空領車騎將軍」③十月に戊辰はないので十一月の誤りで戊辰の次は己巳③→①→②→④が正解。
196年12月14日に献帝(曹操)は袁紹を太尉とする→12月15日に献帝(曹操)が許に到着→12月20日に献帝(曹操)は曹操を大將軍とする→【袁紹激怒】→197年1月1日に献帝(曹操)は曹操を司空領車騎將軍とする。という流れ。
ぼくは思う。自分でも検討せねば。


建安二年夏、曹操が呂布と孫策に袁術を討たす

■五月
五月、蝗害あり。
袁術は呂布に建国を伝えたが、呂布に叛かれた。袁術は淮水を北上したが、呂布に敗れて帰還した。

ぼくは思う。以下、『通鑑』は袁術と呂布の動静を記す。建安二年の五月と特定することは、難しいであろう。蝗害は『范書』献帝紀にあるが、この蝗害との前後関係を論じることに、意味はあるまい。
春に即位したので、夏に呂布と連携し、かつ挫折した、と季節の単位で捕らえるのが、限界であろう。
『通鑑』はいう。 袁術は韓胤を遣わし、呂布に建国を伝えた。陳珪は、呂布を説得して、袁術に反対させた。呂布は、韓胤の首を、曹操に送った。陳珪の子・陳登は、曹操を訪ねた。陳珪と陳登は昇進したが、呂布は曹操から、徐州牧にしてもらえなかった。呂布は陳珪たちに怒った。陳珪は、呂布をトラやタカに例えて、言い訳した。
『通鑑』はいう。通鑑:袁術は、張勲と橋ズイらに、韓暹と楊奉に呼応させて、歩騎を数万で、下邳に向かった。7道から呂布を攻めた。陳珪は、呂布に云う。
『通鑑』はいう。呂布が勝ち、韓暹と楊奉の軍を合わせた。呂布は、寿春を水陸から攻めた。鍾離に到った。淮北で盗み、袁術を手紙で辱めた。みずから袁術は5000で淮水を北上した。呂布の騎兵は、淮水の北側にいて、袁術を笑って帰った。
『通鑑』はいう。泰山の賊のリーダー臧覇は、琅邪相のショウ建をリョで攻めた。臧覇は、ショウ建の物資を奪った。臧覇は、呂布に物資を送った。物資を送る前、呂布がみずから、もらいに行くと云い出した。高順がいさめた。呂布は高順の忠誠を、知っていた。

曹操は孫策を騎都尉とした。烏程侯に封じ、会稽太守とした。さらに明漢将軍とした。曹操は孫策とともに、呉郡太守の陳瑀をつかい、袁術を討とうとした。だが孫策が陳瑀を攻め、陳瑀は袁紹に帰した。

『通鑑』はいう。曹操は、議郎の王フをやり、孫策を騎都尉にした。烏程侯をつがせ、会稽太守とした。曹操は、呂布と呉郡太守の陳瑀に、袁術を討たせたい。孫策に重みを持たせるため、明漢将軍とした。孫策の軍装はととのい、銭唐にきた。陳瑀はひそかに、孫策を襲おうと考え、ひそかに祖郎と厳白虎らと結び、内応を約束した。孫策は、陳瑀を見抜いた。呂範と徐逸に、海西で陳瑀を攻めさせた。陳瑀は単騎で、袁紹ににげた。
ぼくは思う。曹操が、建安二年夏、呂布、孫策、陳瑀を動かして、袁術を討伐した。総括すると、この一文になると考える。
ぼくは思う。曹操が、呂布、孫策、陳瑀を使役したが、その使役は必ずしも成功していない。呂布は曹操に味方しないし、孫策と陳瑀は、曹操から見れば「いらぬ内紛」を起こした。成功しない理由を、呂布らの独立心に求めるか、曹操の求心力の弱さに求めるか、はたまた袁術の影響力に求めるか。歴史家の平衡感覚が試される問題である。


この歳、孫策が献帝に貢献した。(范書献帝紀)

ぼくは思う。孫策の貢献は、『范書』献帝紀で、月を特定せずに記される。九月に袁術が曹操に敗れたときか、もしくは夏に孫策が曹操から官爵を与えられたときか。いずれかに設定すべきであろう。


建安二年秋

■秋七月
秋七月、太尉の袁紹が大將軍となる。(袁紀)
(七月)馬日磾の遺骸が洛陽にもどった。(袁紀)

『袁紀』はいう。馬日磾の死骸が、洛陽にもどる。礼を加えたい。少府の孔融が議した。「生前の馬日磾は、三公を上まわる高官であった。だが逆臣の袁術にこびた。命を賭けて、袁術を咎めなかった。礼を加えなくてよい」と。
ぼくは思う。『通鑑』は馬日磾の遺骸がもどる記事を、九月に曹操が袁術を破ってからにおく。袁術が敗北したから、馬日磾の遺骸が寿春から出された、という因果関係を想定することが可能である。『通鑑』に従い、馬日磾の遺骸の記事は、秋もしくは冬前に置くべきであろう。
『通鑑』はいう。馬日磾の喪が、京師にきた。朝廷は礼を加えようとした。孔融が、反対した。孔融の意見が通った。金尚の喪も、京師にきた。とむらい、金尚の子の金イを郎中とした。


■九月
九月、漢水があふれた。(范書献帝紀)

九月、袁術が陳国を攻めた。(武帝紀)

『通鑑』はいう。はじめ陳王の劉寵は、弩がうまく、黄巾を治めた。会稽の駱統が、国相である。劉寵は、輔漢大将軍を名のった。袁術から兵糧をくれと云われ、断ったから袁術に殺された。
ぼくは思う。劉寵の殺害は、『通鑑』では建安二年夏の末尾に置かれる。九月以前(夏の終わりか)に袁術が陳国を攻め、秋九月になって、曹操が袁術を破ったと考えるべきだろう。陳王は強力であり、一ヶ月ほどは持ちこたえたのかも知れない。

司空の曹操は、袁術を東に攻めた。(通鑑)

ぼくは思う。九月に曹操が袁術を攻めることが確定すれば、八月までに、曹操が九月に登場する前段階まで、戦況が進展せねばならない。その結果、呂布、孫策、陳瑀の動きが、建安二年夏に割り振られたのであろう。
『通鑑』はいう。袁術は、橋蕤をキン陽にとどめて、逃げた。曹操は橋ズイらを、すべて斬った。袁術は淮水を渡った。このとき日照りで、不作の歳である。袁術は食糧が手に入らず、衰えた。

(袁術との戦いで)曹操は、何夔と許褚を得た。

『通鑑』はいう。通鑑:曹操は、陳国の何夔を、司空掾とした。曹操は何夔に、袁術をどうすべきかと聞いた。沛国の許褚は、宗族を集めて、籠もっていた。淮水と汝水、陳国と梁国のあたりにいた。曹操は「わが樊カイ」と、許褚をリクルートした。


九月、太尉の楊彪、司空の張喜を罷めた。(袁紀)
曹操は、太尉の楊彪を下獄した。

『通鑑』はいう。もと太尉の楊彪は、袁術と婚姻を結んでいる。子の楊修は、袁術の甥である。曹操はこれを悪み、楊彪が皇帝を取り替えようとしたとして、大逆の罪で、獄に下した。孔融は曹操にあい、楊彪を弁護した。
『通鑑』はいう。満寵は、楊彪を捕らえた。荀彧が叱ったので、満寵はその日のうちに、楊彪を釈放した。
ぼくは思う。『袁紀』は、これを建安三年の末尾におく。しかし「この年、袁術が皇帝を自称し」と『袁紀』にあることから、曹操が楊彪を迫害したのは、『通鑑』に従って建安二年と見なすべきであろう。曹操が袁術に攻撃を加えた結果、曹操は楊彪を迫害する理由を確固たるものにした。


建安二年冬

■十月
冬十月、謁者僕射の裴茂は、三輔の諸軍を督して、李傕を討つ。(袁紀)

ぼくは思う。建安三年春に記すとおり、李傕の死の時期は、史料によって異なる。出発、戦勝、決着、と時間に幅があるのであろう。


■十一月
冬十一月、曹操は司空となり、車騎将軍事を行する。(范書献帝紀)

冬十一月、曹操は宛城にて張繍を攻めた。劉表の将である鄧済は、南陽の湖陽におり、曹操に敗れた。(武帝紀)

ぼくは思う。これには前日談がある。
『魏志』武帝紀はいう。はじめ曹操が舞陰からもどると、南陽と章陵の諸県が、張繍に味方し、曹操に反した。曹操は、曹洪をおくるが、勝てずに葉県にいる。しばしば張繍に攻められた。
ぼもさらに後日談がある。時期に必然性はない。
『通鑑』はいう。潁川の杜襲、趙𠑊、繁欽は、荊州に逃げた。劉表と気が合わず、曹操のところに移った。

韓暹と楊奉が死んだ。

『通鑑』はいう。韓暹と楊奉は、下邳にいる。揚州と徐州のあいだで、略奪した。劉備は楊奉を入城させ、食事中に楊奉をしばった。韓暹は、楊奉を失ったので、10余騎で并州にむかった。韓暹は、ジョ秋令の張宣に殺された。

胡才と李楽が死んだ。

通鑑:胡才と李楽は、河東にいた。胡才は怨みをもつ人に殺された。李楽は病死した。郭汜は、部将の伍習に殺された。
ぼくは思う。曹操に献帝を奪われた者たちが、敗残をする。李傕の死が、それをもっとも象徴する。袁術の敗北もまた同じ文脈であろう。
ぼくは思う。建安二年の段階で、曹操と袁術の勢力は、だいたい同等であろう。袁術が陳国で劉寵を殺した。九月、曹操が袁術を撃退したのは確定できる。袁術が攻め、曹操がうまく守った、というのが実際だと思われる。守るほうが、たいていは有利である。(守る張繍は、攻める曹操を何度も退けている)
建安二年夏、曹操が呂布と孫策を動員した戦いで、袁術は決定的な打撃を受けていない。もし決定的であれば、すぐに陳国に攻めることは、困難である。『三国演義』が誇大にした袁術の敗北は、小さく見積もるべきであろう。なにしろ呂布は、翌年には再び袁術に合流している。呂布が徹底的に袁術を叩きのめしたとは考えにくい。


この歳、長江と淮水のあいだで、人民が相い食む。(『范書』献帝紀)

ぼくは思う。袁術の末路である。
『范書』献帝紀は「この歳」として、江淮の飢餓と、孫策の貢献をならべる。明確な因果関係は記されないが、史家のほのめかしを感じとることはできる。すなわち孫策は、袁術を積極的に攻撃することはないが、曹操に帰順するでもなかった。しかし、建安二年の飢饉により、江東の自立は、経済的に(付随して心理的に)難しくなった。他州から物資の融通を受けることは、後漢期に行われていた。その融通が必要となったのが、奇しくも袁術が(そして孫策も)独立を試みた建安二年だったので、たまたま運悪くも挫折したと。

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建安三年、揚州が拡散、呂布が敗死

建安三年春

■春正月
春正月、裴茂が李傕を斬り、夷三族した。郭汜は、部将の伍習に殺された。李楽は病死した。胡才は怨む者に殺された。張楊は、部将の睦固に殺された。(袁紀)

『後漢書』はこの記事を建安二年冬十一月につなげる。『三国志』武帝紀では、建安四年春二月のあとに記す。みな『後漢紀』とはちがう。
いまはかりに『袁紀』にしたがう。

春正月、曹操は許都にもどり、はじめて軍師祭酒をおく。(武帝紀)

■三月
三月、曹操は張繡を穰県にかこむ。(武帝紀)

建安三年夏

■夏四月
夏4月、謁者僕射の裴茂をやり、関中の諸将・段ワイらに、李傕の三族を殺させた。段猥を、安南将軍とした。(通鑑)

ぼくは思う。『袁紀』に従い正月に李傕の夷三族を置いたため、重複する。胡三省が『考異』を引用することもない。検討の上、時期を推定する。
『范書』献帝紀はいう。夏四月、謁者の裴茂が、中郎将の段猥をひきいて、李傕を討った。李傕を夷三族とした。


袁紹は「天子を鄄城に移せ」という。田豊が「曹操が穣県で張譲を攻めるうちに、許県を襲うべきだ」というが、袁紹は聴かず。

ぼくは思う。前月三月の曹操が穣県にゆく記事に関連するが、司馬光が任意で四月に配置したのであろう。
ぼくは思う。袁紹軍は、公孫瓚が滅亡していなくても、許県に出兵する兵力があることが、田豊の意見によって窺われる。かつ袁紹にとって、曹操の献帝奉戴を防ぐことは、緊急度が高いと認識されていない。


■五月
五月、劉表は張繍を救うため、安衆にきた(通鑑、武紀)。荀彧の助言により、曹操が張繍を破った。(通鑑)

『魏志』武帝紀はいう。曹操は兵をひく。張繍が追うから、曹操は進めない。曹操は荀彧に手紙した。「安衆(南陽)で、張繍を破ろう」と。曹操は伏兵で、張繍を破る。
ぼくは思う。荀彧の助言は、武帝紀で秋七月の記事の前に置かれる。そのため『通鑑』では、五月の記事に連続して置かれたのであろう。便宜的に六月と推定することも可能であろう。

張繍は賈詡の助言を活用した(通鑑)。
ふたたび呂布が、袁術と通じた。中郎将の高順、北地太守する雁門の張遼は、劉備を攻めた。夏侯惇に劉備を救わせたが、呂布に敗れた。(通鑑)

ぼくは思う。曹操と張繍、夏侯惇と呂布は、東西で並行して戦われていると見なすべきであろう。曹操が呂布に参戦するのは、九月以降である。

五月、馬騰と韓遂は、涼州で攻めあう。 五月、韓暹と楊奉が死んだ。(馬騰も韓暹も袁紀のみ)

建安三年秋

■秋七月
秋七月、曹操が張繍をやぶる。荀彧は曹操に「韓遂と馬騰がいるため、袁紹は関中を奪うことはできない。鍾繇に関中を委任せよ」と進言した。曹操は従った。(袁紀)
秋7月、曹操は許都にもどる。曹操は荀彧にいう。「帰る兵を、死地においた。兵法的に、ぜったい勝つ」と。(武帝紀)

ぼくは思う。『魏志』武帝紀にいう撤退の作戦は、五月から七月のいずれに置くべきであろうか。


■九月
秋9月、高順は沛城を破った。劉備の妻子をつかまえた。劉備は、単騎で曹操を頼った。曹操は、呂布を撃ちたい。みな反対した。後ろに劉表、張繍がいるからだ。だが荀攸だけが、賛成した。(袁紀)

ぼくは思う。曹操が呂布を東征する決断が、九月なのである。高順が劉備の妻子をとらえ、劉備が曹操に帰するのは、それ以前である。


武紀:呂布は袁術のために、高順をつかって劉備を攻める。曹操は夏侯惇をやるが、勝てない。9月、曹操は東にゆく。(武帝紀)

ぼくは思う。『魏志』武帝紀では、九月の記事の前に、高順が劉備をやぶる。夏侯惇が敗退する。これは九月に曹操が東する記事の前日談である。九月のうちに発生したと見なすことは妥当でない。


泰山には、臧覇、孫観らがいる。みな呂布に従う。(通鑑)

ぼくは思う。これは曹操と呂布の戦いの状況説明である。臧覇らが呂布に従ったのは、それより以前である。呂布が徐州を制圧したあとであろう。

曹操と劉備は、梁で合流した。彭城に到った。陳宮は呂布に、移動したばかりの曹操を撃てという。呂布は「曹操を、泗水に引き込め」といい、陳宮を聞かない。(通鑑)

■十月
冬十月、曹操が呂布の彭城(東海)をほふる。彭城の国相の侯諧をとらえた。(武帝紀)広陵太守の陳登が、曹操の前駆となる。(通鑑)
曹操が下邳で呂布をやぶる。呂布は籠城した。(武帝紀、通鑑)
陳宮は下邳城の内外に兵を分散せよという。呂布は、許汜と王楷を袁術におくる。(通鑑)約束を果たすため、呂布は娘を背負って、包囲の突破を試みた(通鑑)。
荀攸と郭嘉は、泗水と沂水を決壊させ、下邳の城をひたした。
月余して、宋憲や魏続が、陳宮をとらえて降る。(武帝紀)

ぼくは思う。「月余」とあるので、『通鑑』は十一月に記事を配置する。


河内太守の張楊は、呂布と仲がいいが、呂布を救えない。兵を東市に出すだけである。(『通鑑』)

ぼくは思う。内容に基づき、呂布の包囲と同月に、記事が置かれたのであろう。


■十一月
十一月、張楊は、部下の楊醜に殺された。(通鑑)

『范書』献帝紀はいう。冬十一月、盗賊が大司馬の張楊を殺した。

楊醜は、曹操に応じた。別将の眭固は、楊醜を殺した。眭固は、袁紹に合流した。(通鑑)
陳登は、伏波将軍になった。(通鑑)

呂布を捕らえた。尚書令の陳紀と、その子の陳羣は、呂布の軍中にいた。曹操は、陳羣を用いた。張遼は降伏し、中郎将となった。臧覇を探し出した。(通鑑)

ぼくは思う。『後漢書』献帝紀に従えば、十二月とすべきである。『通鑑』では十一月の記事の後ろに連続して記されている。十二月と見なしても、矛盾することはない。だが「十二月」の脱落とまで断定することはできない。
『袁紀』はいう。建安4年春、曹操は呂布を捕らえて斬った。『後漢書』献帝紀では、建安3年12月癸酉である。『三国志』武帝紀では、曹操が10月に包囲をはじめ「3ヶ月、下邳城をひたす」とある。
ぼくは思う。建安三年十二月とすべきであろう。


琅邪と東海を分け、新らたに郡をつくる。臧覇たちが、太守や相となる。
『通鑑』はいう。はじめ曹操は兗州にいるとき、徐キュウと毛キは曹操に従った。兗州が謀反したとき、2人とも曹操から離れた。

荊州のこと(通鑑より)

劉表と袁紹は、仲がいい。侍中の鄧羲は、劉表をいさめ、献帝を助けろと云った。長沙太守の張羨は、つよい。長沙の桓階は、長沙、零陵、桂陽の3郡で叛乱し、曹操に応じるよう説いた。(通鑑)

ぼくは思う。年単位で任意に配置されたのであろう。


揚州のこと(通鑑より)

孫策は、正議校尉の張紘に、献帝へ貢献させた。孫策は、討逆将軍、呉侯となった。(通鑑)

ぼくは思う。『袁紀』は孫策が呉侯となるのを、建安四年六月(袁術の死)におく。『通鑑』が月を特定できず、任意に建安三年に置いた記事であろう。建安三年とする必然性がないことを証明した上で、『袁紀』に従って建安四年六月と推定したい。
ぼくは思う。孫策の呉侯を建安四年まで遅らせれば、以下の『通鑑』の記述も、建安四年に遅れるのであろうか。これら『通鑑』建安三年の揚州の記事は、袁術の統治が崩壊する過程を記している。袁術が建安四年の前半に北上することから、これらの崩壊は、北上の直前(建安三年の冬まで)とすべきであろうか。

曹操の弟の娘を、孫匡に嫁がせた。曹彰は、孫賁の娘をめとった。孫堅と孫翊を辟召した。張紘は侍御史となった。

袁術は、周瑜を居巣長にした。臨淮の魯粛を、東城長にした。周瑜は、袁術に先がないことを知り、長江を渡った。孫策は、周瑜を建威中郎将にした。魯粛は、曲阿の家にかえった。(通鑑)
曹操は、王朗を召還した。孫策は、王朗を行かせた。王朗は、諌議大夫となり、司空の軍事に参与した。(通鑑)

ぼくは思う。揚州の動向であり、月を特定できない。建安三年の段階において、袁紹と曹操と、袁術と孫策のあいだで、戦局に影響する水準での交渉が、まだ乏しかったことが窺える。


袁術は、丹楊の宗帥・祖郎に印綬を与えた。祖郎に山越を動員させ、孫策、劉繇がにげた豫章を討たせた。(通鑑)
太史慈は、丹楊太守を自称した。孫策は祖郎をつかまえた。孫策は、かつて祖郎に襲われたことを許した。孫策は、太史慈をつかまえた。孫策は、祖郎と太史慈を前に置いて、道案内させた。 (通鑑)

孫策は、豫章を攻撃した。劉繇は病死した。劉繇の兵は、豫章太守の華歆を、つぎのリーダーにした。孫策は太史慈に、華歆を説得にいかせた。孫策は、太史慈に云った。「私は袁術の命令で、廬江を責めた。劉繇は、私のその行動を責めた。だがこれには事情があって、、」(通鑑)

月の特定されない記事

袁紹は連年、公孫瓚を攻める。決着がつかない。公孫瓚は味方を救わないから、長史をつとめる太原の関靖が諌めた。公孫瓚は聞かない。公孫瓚は弱体化する。(通鑑)

ぼくは思う。これは翌年に公孫瓚が滅びることから、その前年に置いてあるのみである。月を特定できない。


曹操は楊彪を忌み、獄死させようとした。孔融の弁護により投獄をまぬがれ、免官されるに留まった。

『袁紀』はいう。この年(建安三年)袁術は皇帝に即位した。曹操は、忠正な楊彪を忌み、獄死させようとした。孔融は曹操に会って、楊彪を弁護した。「周書は、父子兄弟の罪が及ばないという。まして袁術の罪は、楊彪に及ばない」と。曹操は「国家の意思だ」という。孔融は楊彪を弁護した。「曹操は漢室を輔政するくせに、無罪の者を殺す。もし楊彪を殺せば、私は二度と漢室に仕えない」と。曹操は楊彪を免じた。
ぼくは思う。袁術の即位は『後漢書』献帝紀に従い、建安二年とすべきであろう。曹操が楊彪を免じる記事を(月が特定できないなりにも、建安三年に)置くべく、その前日談として袁術がひかれたに過ぎない。
ぼくは思う。袁術即位の後日談として、任意に配置されている可能性もある。


徵鄭玄為大司農,不至。鄭玄伝。(袁紀)

ぼくは思う。曹操が鄭玄をめした時期はわからず、『袁紀』が任意に配置した可能性があるが、『袁紀』に従い、鄭玄の事績をここにおく。

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建安4年、袁術の北進と崩御、袁紹の南進

建安4年春

■二月
二月、曹操は昌邑にもどる(武帝紀)。司空の曹操は、太僕の趙岐に司空をゆずるが、許されず(袁紀)。

■三月(曹操)
三月、衛将軍の董承を車騎将軍とした。(献帝紀、袁紀)
呂布を討った功績で、曹操に3千戸を封じるが、曹操は固辞した。(袁紀)

ぼくは思う。日は特定されないが、『袁紀』において、董承を車騎将軍とする記事のあとに、袁紹が公孫瓚を撃破する記事がある。ゆえに、その順序に従う。


■三月(袁紹)
建安四年の春三月、黒山の張燕は、十万で三道から公孫瓚を救援した。袁紹は、烏丸の蹋頓の兵力を行使する。

『通鑑』はいう。烏丸王の丘力居が死ぬと、ロウハンが若いから、蹋頓が立った。蹋頓は、袁紹に協力して公孫瓚を攻めた。 ぼくは思う。蹋頓のことを、『通鑑』がここに配置する。建安四年三月に、公孫瓚が敗北したことに付随する記事であろう。発生が三月とは限らない。

袁紹は、張燕と公孫瓚が合流するための合図を利用し、公孫瓚を敗北させた。公孫瓚は焼身し、田楷は戦死した。

ぼくは思う。公孫瓚の敗北を三月とするのは、『通鑑』に基づく。


漁陽の田豫は、漁陽太守の鮮于輔に、曹操に従えと説いた。鮮于輔は曹操から、建忠将軍に任じられ、幽州の六郡を都督した。

ぼくは思う。田豫と鮮于輔のこと、『通鑑』がここに配置する。建安四年三月に、公孫瓚が敗北したことに付随する記事であろう。発生が三月とは限らない。


建安四年夏

■夏四月
夏4月、曹操は、史渙と曹仁に黄河をわたり、眭固を撃たせた。

『魏志』武帝紀はいう。張楊は、楊醜に殺された。楊醜は、眭固に殺された。眭固は、袁紹に属し、射犬にいる。ぼくは思う。これが前日談である。

眭固は、もと張楊の長史である薛洪と、河内太守の繆尚を射犬にとどめた。みずから眭固は、袁紹に救いをもとめた。史渙と曹仁は、眭固を斬って射犬をくだし、敖倉にもどる。
曹操は、魏种を河内太守とし、河北を任せた。

ぼくは思う。四月という認識は、武帝紀と袁紀で一致している。


建安4年夏

この夏、劉備が許県を出発し、袁術の討伐に向かった。

ぼくは思う。夏と特定する記事はないが、劉備は袁術の討伐にゆき、袁術の病死により、役割を喪失した。劉備の出発を、建安四年の春か初夏とすべきだろう。

夏六月、仲家の皇帝である袁術が崩じた。(献帝紀)

袁紀はいう。張昭は孫策のために、袁術を諫める文書をつくる。袁術は、淮南の衆や孫策が、天子即位に同意してくれると思っていた。孫策の文書を受けとると、発病した。ぼくは思う。これは年月の特定できない記事である。袁術の死の伏線である。前日談である。時期の推定が必要である。
また、
『通鑑』はいう。袁術は困窮し、宮殿を焼き払った。廬江郡の潜山にいる、部曲の陳簡と雷薄のもとに、逃げこんだ。陳簡らは、袁術をこばんだ。帝号を袁紹に譲ることにした。袁紹は、青州の袁譚に、袁術を迎えさせる。袁術は下邳をとおって、北に行こうとした。曹操は、劉備と清河の朱霊に、道を防がせた。袁術は、寿春に帰った。
『通鑑』はいう。江亭で袁術は「この袁術が、こうなるとはなあ」といって、血を吐いて死んだ。袁術の従弟の袁胤は、曹操を恐れて、あえて寿春にはゆかず、廬江太守の劉勲のいるカン城を頼った。もと広陵太守の徐璆は、伝国璽を献帝に届けた。
ぼくは思う。以上の袁術の末路は、袁術の死の前日談である。年月を特定できない。袁術が宮殿を焼き払う時期(死路の開始時期)を推定する作業が必要となる。

六月、孫策は会稽太守、討逆将軍となり、呉侯に封じられる。(袁紀)

ぼくは思う。献帝紀で、袁術は建安四年六月に死ぬ。『袁紀』で、孫策が会稽太守、討逆将軍、呉侯になるのは、同じ六月である。袁術の死と、献帝による孫策への官爵の賜与が、無関係であると考えるほうが難しい。


■六月もしくは袁術の北進の前後
袁紹が公孫瓚を破ってから、袁紹から天子への貢献がすくない。主簿の耿苞に、革命を言わせる。耿苞が支持されないので、袁紹は耿苞を殺した。

ぼくは思う。袁紹が皇帝即位を検討する記事は、建安四年六月の袁術の死後に、『袁紀』と『通鑑』とも置かれている。おそらく『通鑑』は、『袁紀』に従ったのであろう。
袁術は死に際して、袁紹に皇帝を譲ることを考え、袁紹は合意していた。袁紹が皇帝に関心を示す記事は、この六月に続けておくのが適切である。『袁紀』に従う。

袁紹は、十万で許県を襲撃する計画をたてた。沮授がこれに反対した。審配と郭図らは沮授をそしる。袁紹は、沮授の監軍の権限を、3つの都督に分割した。沮授、郭図、淳于瓊で1軍ずつを典して、ついに南進した。

ぼくは思う。記事の位置は『袁紀』に従う。
袁紹による皇帝即位の検討と、南進の決断は、いずれも袁術の北進と呼応するものである。沮授の権限を調整したのは、袁紹の君主権力の強化と、南進の円滑という二つの要請を、同時に満たすものであろう。
この呼応は、袁術の急死によって実現しなかった。ただし、このたびの袁紹の南進は、翌年に行われる官渡の戦いとは区別すべきである。官渡のとき、渡河の是非が議論されるが、これは建安四年の南進とは別の作戦行動である。
袁術の死後、袁紹の南進は、戦略の目標を失い、ふたたび属官たちの議論が喚起される程度には、不確定なものとなった。
ぼくは思う。袁紹の南進の契機として、公孫瓚の敗死も挙げられよう。袁術との呼応、公孫瓚の敗死、という二者は、ほぼ同時であるため、袁紹の契機をどちらか一方に特定することはできない。ただし、公孫瓚との戦いで疲弊しているにも関わらず、南進を強硬した理由としては、やはり袁術だと思われる。
ぼくは思う。袁紹が数年後を待っても、「曹操による献帝奉戴」の体制の危うさは変わらない。袁紹が急ぐべき要因にならない。もしも献帝が袁紹にとって重要であれば、連年の包囲で弱体化した公孫瓚よりも、曹操の攻撃を優先したはずである。

孔融は袁紹の優位を説き、荀彧は曹操の優位を説いた。

ぼくは思う。『通鑑』では、沮授の軍権が分割された記事の直後、孔融が荀彧に、袁紹に勝てないことを説明する。荀彧は孔融に反論する。司馬光の判断では、孔融と荀彧の議論は、袁術と袁紹の呼応のときに、交わされたものである。いまは従う。


建安四年秋

■八月
秋八月、曹操は黎陽に進んだ(武帝紀、通鑑)。 臧霸らを青州に行かせ、齊国、北海、東安をやぶる(武帝紀)。臧覇らは、青州をおさえた。于禁を河上においた(通鑑)。

■九月
九月、曹操は許都にもどり、兵を分けて官渡を守らせた。(武帝紀、通鑑)
袁紹は張繍をさそった。だが賈詡は、曹操に帰順させた。(通鑑)
涼州牧の韋端は、従事する天水の楊阜とともに、曹操に詣でた。荀彧は、関中を抑える作戦を練った。
袁紹は、劉表に使者をおくる。南陽の韓嵩が、曹操への使者にたつ。(通鑑)

■この秋
揚州の鄭宝は、淮南の劉曄をまねいた。劉曄は曹操に味方し、鄭宝を殺した。廬江太守の劉勲は、劉曄をブレーンとした。劉勲は、劉曄の意見を聞かず、孫策に敗れた。江夏太守の周瑜は、孫策に協力し、袁術と劉勲の妻子を捕まえた。

ぼくは思う。通鑑は、袁術の死後の揚州について、建安四年秋にまとめて設置する。月を特定することはできないが、袁術の死が夏六月であるから、秋と考えるべきであろう。通鑑に従う。


建安四年冬

■十一月
冬十一月、張繡と賈詡が曹操にくだる。列侯とする。(袁紀、武帝紀)

■十二月
十二月、司隸校尉の鍾繇が、持節して關中を鎮撫する。(通鑑)
十二月、曹操は官渡にゆき、袁紹をふせぐ(袁紀、武帝紀)。曹操は官渡で暗殺されかけたが、許褚が阻止した(武帝紀)。

十二月辛亥、孫策は黄祖を沙羨で破った。

ぼくは思う。『通鑑』は十二月辛亥と特定する。

孫策は華歆を口説いた。孫策は、豫章郡を分けて、廬陵郡をつくった。孫賁を豫章太守、孫輔を廬陵太守にした。周瑜を巴丘においた。孫策は袁術の妻子を得た。劉繇の死体を手にいれ、劉繇の家族を厚遇した。(通鑑)
会稽の功曹である魏騰は、孫策と気が合わない。高岱をうとんだ。(通鑑)
廬江太守の劉勲が、曹操にくだる。列侯となる。

この冬(十二月)劉備は下邳にて、徐州刺史の車冑を殺害した。劉備は沛県におり、関羽が下邳にいた。劉岱と王忠は、劉備に敗れた。

『魏志』武帝紀はいう。袁術は、陳国でやぶれてから、困窮して、袁譚をたよって青州にゆく。袁譚は、袁術をむかえる。袁術は、下邳から北にゆきたい。曹操は、劉備と朱霊に、袁術を討たせる。たまたま袁術が病死した。程昱と郭嘉は、「劉備をゆかすな」と言った。曹操は悔いたが、つかまらない。さきに劉備は、董承らと謀反をたくらむ。劉備は下邳で、徐州刺史の車胄を殺した。劉備は、沛にいる。曹操は、劉岱と王忠をやるが、勝てない。
ぼくは思う。袁術が死ぬ前、つまり建安四年の夏ごろに、劉備が許県を出発する記事を置かねばなるまい。
ぼくは思う。曹操が劉備の討伐に向かうのは、さっそく建安五年の正月である。曹操が劉備を放置するとは思えないため、劉備の徐州強奪はその直前(建安四年の冬)とすべきであろう。
『袁紀』で劉備の自立は、十二月とされる。劉備が徐州を領有した期間を、もっとも短く見積もっている。従っても良いであろう。

東海の昌豨も、劉備に従った。(通鑑)

この年(建安4年)

この歳、はじめて尚書に左右僕射をおいた。武陵にて、女子が死に、十四日後に復活した。(献帝紀)

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建安5年、官渡の戦い、孫策の死

建安元年春

建安五年の春正月、献帝の密詔をうけ、曹操の誅殺を計画した者が、曹操に計画を知られ、夷三族とされた。計画者とは、車騎将軍の董承、偏将軍の王服、越騎校尉の种輯である。 (献帝紀)
『袁紀』はいう。劉備も同謀したが、すでに徐州に出た。董承と王服の会話を載せ、曹操の兵を奪う計画を記す。呉碩も曹操に殺された。

曹操はみずから東征し、劉備を討伐した。田豊は袁紹に、曹操の背後をつけと進言したが、袁紹は納れなかった。
曹操は、劉備の妻子と関羽を捕らえた。劉備は袁譚をたより、袁紹に帰した。袁紹は、鄴県から二百里でてきて、劉備を出迎えた。その場に月余とどまり、劉備の士卒を回収した。

ぼくは思う。『袁紀』では、曹操が劉備を攻め、劉備が袁紹に帰したのを二月とする。劉備は「月余」とどまって敗兵を回収している。

昌豨をやぶる。

昌豨について、まとめて整理すべし。
夏侯淵と張遼は、東海で昌豨を包囲した。張遼はひとりで昌豨を訪問して、昌豨を降した。曹操は昌豨を東海に帰した、、ってどこから出てきたっけ。


■二月
二月、郭図、淳于瓊、顔良が、白馬にて、東郡太守の劉延を攻めた。
『通鑑』はいう。振威将軍の程昱は、700で鄄城を守る。兵を増やさない。

建安元年夏

■四月(官渡の戦い)
夏四月、曹操は荀攸の立案にもとづき、張遼と関羽に白馬を救わせる。顔良を斬り、劉延を救った。関羽は、袁紹のもとにいる劉備に帰した。さらに荀攸の立案により、輜重をおとりにして、延津で文醜を斬った。(武帝紀)

曹操は官渡にて、閻柔を烏桓校尉、鮮于輔を右度遼将軍として、幽州の鎮圧を期待した。(月は『通鑑』)
『通鑑』はいう。閻柔が曹操に使者をよこし、閻柔は烏桓校尉となる。鮮于輔は曹操と官渡で会見する。鮮于輔は、右度遼将軍となり、幽州にかえって鎮する。

汝南の劉辟らが、袁紹に応じて、許都の周辺をみだす。袁紹は劉備をおくるが、曹仁が劉備をやぶる。(場所は武帝紀)

ぼくは思う。官渡の周辺にて、北の幽州には閻柔と鮮于輔、南の豫州には曹仁をおくり、曹操は袁紹に対抗した。建安元年夏は、五月と六月という月を特定した記事がないが、この期間ずっと、官渡とその周辺で、抗争が展開されたと見なすべきだろう。


■四月(孫策の死)
もと呉郡太守の許貢の食客が、孫策を射殺した。
『通鑑』はいう。廣陵太守の陳登は、射陽を治所とする。孫策が西して黄祖を撃つ。陳登は厳白虎の余党を誘い、孫策の後ろを害そうとする。孫策はもどり、陳登を撃つ。孫策は丹徒にもどり、糧秣の運送をまつ。許貢の食客が、孫策の中頬を射た。四月丙午、孫策は死んだ。
『通鑑』はいう。孫権が泣いたが、周瑜と張昭が補佐する。会稽、呉郡、丹陽、豫章、廬江を領有するが、君臣はゆるい。

建安元年秋

秋七月、皇子の劉馮を南陽王に封じた。同月、劉馮は薨じた。

袁紹は、陽安都尉の李通を征南將軍とした。劉表もひそかに李通を招く。李通は、袁紹も劉表もこばむ。荀彧は曹操にいい、綿絹を陽安の百姓に返還させた。陽安の郡内は、ついに安寧となる。李通は、群賊の瞿恭らを破る。ついに、淮汝之地を平定した。(『通鑑』)
長廣太守の何夔は曹操に、長広の法律をゆるめてもらう。(『通鑑』)
曹操は、蔡楊をおくるが、蔡楊は劉備に殺された。(『通鑑』)

ぼくは思う。いずれも『通鑑』が建安元年秋におく記事である。官渡の周辺で行われている抗争のうち、同年夏よりも進展があったと思われる記事を、司馬光が秋に配置したと思われる。月を特定できないが、同年秋と見なすことは妥当であろう。


■八月
八月、袁紹は黎陽に兵を進め、黄河を渡ろうとした。田豊は渡河に反対し、沮授は資財を宗族に分配した。沮授の部曲を郭図に移した。

ぼくは思う。沮授が渡河に反対する記事は、『通鑑』では二月の記事に連続して置かれ、『袁紀』で八月に置かれる。
『魏志』武帝紀で袁紹は、以下のとおり動く。二月、袁紹は黎陽にいる。顔良を斬られると、渡河して延津にいたり、南する。文醜を斬られると、陽武に保する。八月に前進し、沙ツイを経由して、官渡に着陣する。
ぼくは思う。田豊と沮授との決裂は、二月の顔良の敗死から、八月の官渡の着陣までの期間に発生した。いま『袁紀』に従い、八月とする。

袁紹は黄河の南岸で、東西の数十里に布陣した。曹操の兵は一万に満たず、その二割から三割が負傷している。(武帝紀)

曹操は許県への撤退を検討したが、荀彧に激励されて、滞陣を継続した。

ぼくは思う。荀彧の激励は、月を特定することが難しい。荀彧の文書のなかに、〇〇とあることから、『通鑑』が八月のこの記事を置いたことは、妥当だと考えられる。

劉備は袁紹を去り、南して汝南にゆく。

ぼくは思う。劉備の汝南ゆきも、月の特定が難しい。劉備は、文醜とともに四月に曹操に破れたことから、、のちほど。

荀攸は、偏将軍の徐晃と史渙に、袁紹軍の物資を焼かせた。

ぼくは思う。荀攸の作戦も、月を特定できない。『魏志』武帝紀では、劉備が汝南で曹仁に敗れた直後に、この記事がある。『袁紀』、『通鑑』とも、建安元年秋とする。ゆえに元年秋とする。


■九月
九月庚午ついたち、日食あり。(『范書』献帝紀)
献帝は詔して、三公に、至孝の者を二名ずつ挙げさせた。九卿と校尉と太守・国相に、至孝の者を一名ずつ挙げさせた。公卿に封事させたが、みな返答を避けた。(『范書』献帝紀、『袁紀』)

建安元年冬

■十月
冬十月辛亥、星孛が大梁にある。東海王の劉祗が薨じた。(献帝紀)

十月、袁紹がふたたび淳于瓊に兵糧を運送させた。〇の許攸が、袁紹から曹操に投降した。許攸は、烏巣に蓄積されていることを教えた。曹操は、官渡の本陣を〇に委任し、烏巣を襲撃した。袁紹は、軽騎に烏巣を救わせ、重騎に官渡を攻めさせた。郭図の讒言により、張郃と高覧は、攻具を焼いて曹操に降伏した。

袁紹は、長子の袁譚とともに、八百騎のみで黄河を渡った。蒋義渠が袁紹を迎えた。曹操軍は袁紹を捕らえられない。

『袁紀』は袁紹の潰走を、同年十一月とする。『魏志』武帝紀に従う。

曹操は袁紹軍より、輜重、図書、珍宝を獲得して、七万余人を殺した。曹操は、獲得した文書を焼却した。
沮授は曹操を屈服させることができず、沮授は袁紹への帰還をはかり、曹操に殺された。
袁紹が田豊を殺害した。袁紹は、審配に代えて、孟岱に鄴県を守らせた。逢紀の弁明により、袁紹は審配を許した。

揚州のこと

ぼくは思う。孫策の死後の揚州を、『通鑑』は冬十月の星孛の記事のあとに記す。ここに記されるのは、冬の事件だけではない。元年四月の孫策の死から、元年末までの情勢の変化と理解すべきであろう。

廬江太守の李術は、揚州刺史の厳象を殺す。廬江の梅乾、雷緒、陳蘭等は、それぞれ数万で長江と淮水の地域にいる。曹操は、沛国の劉馥を揚州刺史とした。ときに揚州には、九江だけがある。 劉馥は単馬で合肥の空城に入り、州治とする。梅乾ら雷緒らをまねく。

『通鑑』はいう。みな貢献しにくる。数年で恩徳がいきわたる。流民の1万がくる。屯田して、堤防つくる。家畜がいる。諸生があつまり、学校をたてる。城壁を高くして、守備する。
ぼくは思う。劉馥伝で補うべきである。


曹操が孫権の討伐を検討すると、侍御史の張紘がいさめた。張紘は会稽東部都尉となり、孫権のもとに赴任した。

『通鑑』はいう。董襲はいう。「私が爪牙になる。保てる」と。 『通鑑』はいう。通鑑:魯粛が孫権に仕える。「漢室は復興できない」という。呂蒙は孫権に悦ばれた。駱統も用いられた。
ぼくは思う。孫権の発足について、適切な場所に、記事を配置しなければならない。


孫輔が曹操に使者をおくる。孫権は孫輔を、呉郡の東にうつした。
曹操は華歆をめして、議郎とした。司空の軍事に参じる。
孫権が、廬江太守の李術を殺し、孫権はその部曲の二万余人をうつした。

『通鑑』はいう。孫権は曹操にいう。「揚州刺史の厳象は、曹操が用いたが、李術に殺された。はやく李術を誅滅すべきだ。曹操は阿衡の任にあり、海内に注目されている。宜しくたのむ」と。孫権が李術を皖城にかこむ。李術は曹操に救援をもとめるが、曹操は李術を救援しない。李術の首はさらされ、部曲2万余人が(孫権の配下に)徙された。


荊州と益州のこと

ぼくは思う。『通鑑』では、建安元年の末尾に、荊州と益州の情勢を記載する。荊州と益州は、献帝もしくは曹操とのあいだに、月を特定すべき接点がない。月どころか、季節すら明らかでないため、建安元年までの状況をまとめて記す。

建安元年、長沙にて張羨が病死し、子の張懌がたつ。劉表は、零陵と桂陽を平定した。劉表は、領地が方数千里、帯甲は10余万となる。献帝への職貢をやめた。

趙韙が劉璋を攻めた。

『蜀志』劉璋伝にひく『華陽国志』はいう。趙韙は、数万の兵で、劉璋を攻めようとした。劉璋は、ぎゃくに趙韙を討った。
ぼくは思う。『蜀志』劉璋伝と『華陽国志』に基づき、記事を増補せよ。
『通鑑』はいう。張魯は、劉璋が暗懦なので、劉璋の別部司馬の張修を殺した。劉璋は怒り、張魯の母と弟を殺した。張魯は漢中によって、劉璋と敵対した。
『通鑑』はいう。劉璋は、中郎將の龐羲をやるが、張魯に勝てず。龐羲を巴郡太守として、閬中で張魯を防がせる。龐羲は、漢昌の賨民を召して兵とする。或者が、龐羲と劉璋の関係をくずす。趙韙が諫めたが、対立はふかまる。益州の士民が劉璋を怨むので、趙韙は劉璋を攻めた。趙韙は、荊州に賄賂して連和する。蜀郡、広漢、犍為も、趙韙に応じた。

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建安6-7年、倉亭にて敗れ、袁紹が薨ずる

建安六年

建安六年の春二月丁卯ついたち、日食あり。(献帝紀)

ぼくは思う。『通鑑』で日食は、三月丁卯ついたちである。


■三月
春三月、曹操は劉表の攻撃を検討したが、荀彧が制止した。(月は『袁紀』)
『通鑑』はいう。荀彧いわく「とおく長江や漢水に行っているあいだ、袁紹が復活したら危ない」と。

■夏四月
夏四月、曹操は黄河をさかのぼった。倉亭にて、曹操が袁紹を破った。(『袁紀』、武帝紀、『通鑑』)曹操は、冀州の郡県を平定した。

ぼくは思う。『三国演義』では、程昱が十面埋伏をおこなう。


■秋八月
秋八月辛卯、侍中の郗慮、尚書令の荀彧、司隷校尉の鍾繇が、宮内で侍講した。(月は『袁紀』)

■九月
九月、曹操は許都にかえる。(月は『魏志』武帝紀)

■十一月
十一月、曹操が汝南にて、劉備と龔都をやぶった。劉備は劉表をたよった。劉表は劉備を賓客とし、劉備は新野に屯した。

ぼくは思う。十一月という月は『袁紀』により特定した。『魏志』武帝紀では、九月に曹操が劉備を攻撃したとあり、続けて劉備の敗走が記される。征伐の開始、戦闘の決着、劉備の荊州到着などが、この期間に発生したのであろう。


■この歳
この歳、劉璋が趙韙をやぶった。曹操は、五官中郎将の牛亶を益州刺史としたが、劉璋が牛亶の着任を妨げた。(『通鑑』、『華陽国志』)

建安七年

建安七年の春正月、曹操は譙県にもどった。(武帝紀)
夏五月、袁紹が薨じた。(献帝紀、武帝紀)
ここにおいて、劉氏から袁氏に天命が移行することはなくなった。二袁の挫折により、漢家の終焉は、単純な新旧の勢力交替によって、実現されることは困難となった。政治史と思想史において、前例のない「特殊な仮説」が応酬されざるを得ず、三国鼎立という奇異な事態を招来するのである。130630

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