-後漢 > 『漢書』元帝紀を抄訳/優柔不断な儒家皇帝

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『漢書』元帝紀を抄訳する

宣帝は刑名を好み、元帝は儒学を好む

孝元皇帝,宣帝太子也。母曰共哀許皇后,宣帝微時生民間。年二歲,宣帝即位。八歲,立為太子。壯大,柔仁好儒。

孝元皇帝は、宣帝の太子である。

荀悦はいう。いみなは奭。あざなは盛。
応劭はいう。『諡法』によると、義をおこない、民を悦ばすを「元」という。

母は、共哀許皇后という。宣帝が微賤のとき、民間で生まれた。

張晏はいう。『礼』では、婦人は夫の諡号にしたがう。ただし、殺されたことを閔れむ場合、諡号が2つになる。 『漢辞海』はいう。【閔】心配する、うれう。かわいそうに思う、あわれむ。努力する、つとめる。病気、不幸、心配ごと。物事にくらい、のろまである。

元帝が2歳のとき、宣帝が即位した。8歳で太子となる。

師古はいう。宣帝が即位した翌年に、本始を改元した。本始は4年間で、地節と改元した。地節3年に、元帝は皇太子に立てられる。もし即位したとき2歳なら、太子になるのは9歳のはず。また宣帝は、元平元年7月に即位した。外戚伝は、許皇后が元帝を生んで数ヶ月のち、宣帝が皇帝になったという。外戚伝に基づけば、宣帝が即位したとき、元帝はまだ2歳でない。この元帝紀は、年数に誤りがあるのだ。
劉攽はいう。宣帝が、踰年改元して、即位したことを意味する。『春秋』の諸公と同じである。
朱一新はいう。元帝紀で臣瓚が「元帝は27歳で即位し、43歳で死んだ」とする。だが『漢書』外戚伝に合わせるなら、「26歳で即位して、42歳で死んだ」とすべきだ。
ぼくは思う。今日の西暦のように、通し番号で数えるという発想はない。だから、年齢を数えることは、史家の特殊技能に属したのだろう。年数を数えるから尊敬されるし、また尊敬されるほどの難行だから誤りも多い。文化の進歩により、かつての専門技能が、シロウトにもできるように工夫されて、下げ渡されることは多い。西暦もまた、この類いの文明の利器だったのか。
ぼくは補う。王莽の年号は、地節ならぬ「地皇」でした。

壮大になり(成人になると)、柔仁で儒学を好む。

『漢辞海』はいう。【壮】30歳前後の男ざかりのもの。おおきく立派。身体が丈夫。太くてごつい。【壮大】おとなになる、一人前になる。『漢書』元帝紀の用法。大きく立派なさま。『北斉書』武成帝紀の用法。がっちりしたさま。『南史』垣護之伝。
ぼくは思う。ちくま訳では「身体は壮大だったが、性質は仁柔で儒学を好んだ」という。外見と内面を、対立させた表現とする。ちがうだろう。また孔子は身体が大きかった。身体がでかいことと、儒学をやることは、対立しない。


見宣帝所用多文法吏,以刑名繩下,大臣楊惲、蓋寬饒等坐刺譏辭語為罪而誅,嘗侍燕從容言:「陛下持刑太深,宜用儒生。」宣帝作色曰:「漢家自有制度,本以霸王道雜之,奈何 純任德教,用周政乎!且俗儒不達時宜,好是古非今,使人眩於名實,不知所守,何足委任?」

宣帝は、おおく文法の吏をもちい、刑名によって繩下する。

晋灼はいう。「刑」は刑家である。「名」は名家である。太史公はいう。法家は厳しくて恩すくなし。名家は倹であり真を失うを善しとする。 師古はいう。晋灼は誤りである。劉向『別録』はいう。申子学を「刑名」という。刑名とは、名をもって実を責め、君を尊んで、臣を卑しむ。上をたっとび、下をおさえる。宣帝は『君臣篇』をみるのを好んだ。「縄」とは、弾じて治めることをいう。

大臣の楊惲、蓋寬饒は、刺譏する辭語を理由として、罪により誅された。かつて元帝は、宣帝に侍燕したとき、從容として言う。「陛下が刑を持することは、太深(はなはだしいさま)です。儒生を用いなさい」と。宣帝は顔色をかえた。「漢家には、漢家の制度がある。もとより、覇道と王道をまぜる。どうして儒家の徳教だけを用いるものか。周家の制度を用いるものか。俗儒は時宜に達しない。古例を正しいとし、現今を誤りとする。名実において人をくらませ、守るところを知らない。どうして儒家に委任できるものか」と。

乃歎曰:「亂我家者,太子也!」由是疏太子而愛淮陽王,曰:「淮陽王明察好法,宜為吾子。」而王母張婕妤尤幸。上有意欲用淮陽王代太子,然以少依許氏,俱從微起,故終不背焉。

宣帝は歎じた。「わが漢家を乱すのは、太子(元帝)である」と。これにより宣帝は、太子を疎んじて、淮陽王の劉欽を愛した。

ちくま訳はいう。淮陽憲王の劉欽である。『漢書』宣元六王伝をみよ。

劉欽の母・張倢伃がもっとも寵愛された。宣帝は、劉欽を太子に代えたい。だが、若くて微賤のときから、許皇后とともにあったので、許皇后の子・元帝を廃することはなかった。

皇帝に即位し、上官氏と王氏を太后とする

黃龍元年十二月,宣帝崩。癸巳,太子即皇帝位,謁高廟。尊皇太后曰太皇太後,皇后曰皇太后。

黄龍元年12月、宣帝が崩じた。12月癸巳、元帝は皇帝に即位した。

王先慎はいう。『太平御覧』89にひく応邵『漢官儀』にいう。武帝のとき、天子は幘(頭巾)をつけない。元帝のひたいには、壮髪(ゆたかに茂った髪)があった。人に壮髪を見せたくないから、はじめて幘をつけた。群僚は、これに従って幘をつけた。

高廟に謁した。上官皇太后を、上官太皇太后とする。邛成王皇后を、邛成王皇太后とする。

文頴はいう。邛成王皇后は、元帝を母として養った。
ぼくは思う。元帝の実母の許氏は、生前は皇后じゃないのか。


初元元年(前48)、王氏を皇后、許嘉を平恩侯

初元元年春正月辛丑,孝宣皇帝葬杜陵。賜諸侯王、公主、列侯黃金,吏二千石以下錢、帛,各有差。大赦天下。
三月,封皇太后兄侍中中郎將王舜為安平侯。丙午,立皇后王氏。以三輔、太常、郡國公田及苑可省者振業貧民,訾不滿千錢者賦貸種、食。封外祖父平恩戴侯同產弟子中常侍許嘉為平恩侯,奉戴侯後。

初元元年春正月、宣帝を杜陵に葬る。諸侯らに金帛をあげる。
3月、皇太后の兄の侍中・中郎将する王舜を、安平侯とする。丙午、王氏を皇后に立てる。外祖父の平恩戴侯の許広漢と同産の弟の子にあたる、中常侍の許嘉を、平恩侯として、平恩戴侯をつがせる。

先謙はいう。前漢では侍中と中常侍は加官であり、士人がやる。


夏四月,詔曰:「朕承先帝之聖緒,獲奉宗宙,戰戰兢兢。間者地數動而未靜,懼於天地之戒,不知所由。方田作時,朕憂蒸庶之失業,臨遣光祿大夫褒等十二人循行天下,存問耆老、鰥、寡、孤、獨、困乏、失職之民,延登賢俊,招顯側陋,因覽風俗之化。相、守二千石誠能正躬勞力,宣明教化,以親萬姓,則六合之內和親,庶幾虖無憂矣。《書》不雲乎?『股肱良哉,庶事康哉!』佈告天下,使明知朕意。」又曰:「關東今年谷不登,民多困乏。其令郡國被災害甚者毋出租賦。江、海、陂、湖、園、池屬少府者以假貧民,勿租賦。賜宗室有屬籍者馬一匹至二駟,三老、孝者帛五匹,弟者、力田三匹、鰥、寡、孤、獨二匹,吏民五十戶牛、酒。」
六月,以民疾疫,令大官損膳,減樂府員,省苑馬,以振困乏。

夏、経済にかんする政策をする。

ぼくは思う。『漢書補注』にも、いま興味のある注釈がないので、はぶく。今回は王莽の産まれた時代の確認であり、元帝の政策の詳細を検討することが目的でない。だから、わりにひどく省略してゆきます。


秋八月,上郡屬國降胡萬餘人亡入匈奴。
九月,關東郡國十一大水,饑,或人相食,轉旁郡錢、谷以相救。詔曰:「間者,陰陽不調,黎民饑寒,無以保治,惟德淺薄,不足以充入舊貫之居。其令諸宮、館希御幸者勿繕治,太僕減谷食馬,水衡省肉食獸。」

秋8月、上郡属国にいる降った胡人1万余が、匈奴に亡入した。
9月、関東の郡国11で、大水があり飢えた。

初元2年(前47)、弘恭と石顕が、蕭望之を殺す

二年春正月,行幸甘泉,郊泰畤。賜雲陽民爵一級,女子百戶牛、酒。 立弟竟為清河王。三月,立廣陵厲王太子霸為王。

初元2年春正月、甘泉に行幸し、泰畤を郊する。弟の劉竟を清河王とする。3月、広陵厲王の太子・劉覇を、広陵王とする。

劉竟と劉覇について、『漢書補注』とくになし。


詔罷黃門乘輿狗馬,水衡禁囿、宜春下苑、少府佽飛外池、嚴B054池田假與貧民。詔曰:「蓋聞賢聖在位,陰陽和,風雨時,日月光,星辰靜,黎庶康寧,考終厥命。今朕恭承天地,托於公侯之上,明不能燭,德不能綏,災異並臻,連年不息。乃二月戊午,地震於隴西郡,毀落太上皇廟殿壁木飾,壞敗E56C道縣城郭官寺及民室屋,壓殺人眾。山崩地裂,水泉湧出。天惟降災,震驚朕師。治有大虧,咎至於斯。夙夜兢兢,不通大變,深惟郁悼,未知其序。間者歲數不登,元元困乏,不勝饑寒,以陷刑辟,朕甚閔之。郡國被地動災甚者,無出租賦。赦天下。有可蠲除、減省以便萬姓者,條秦,毋有所諱。丞相、御史、中二千石舉茂材異等、直言極諫之士,朕將親覽焉。」

漢家の財物を、貧民に再配分する。詔する。「2月戊午、隴西郡で自身があり、太上皇の廟がこわれたね。百姓をすくい、人材をあげろ」と。

銭大昭はいう。地震はこの詔書にあるから、重複をさけ、本文にない。
銭大昭はいう。高帝紀の10年8月、諸侯王に、太上皇の廟を国都につくらせた。隴西郡は、諸侯王の都でない。なぜ廟があったのか、わからない。恵帝紀によると、諸侯王に高廟をつくらせた。いま壊れたのは、高廟だろうか。
ぼくは思う。あちこちにあるから、維持コストがかかるのだ。

夏四月丁巳,立皇太子。賜御史大夫爵關內侯,中二千石右庶長,天下當為父後者爵一級,列侯錢各二十萬,五大夫十萬。 六月,關東饑,齊地人相食。

夏4月、皇太子をたてる。6月、斉地で食いあう。

秋七月,詔曰:「歲比災害,民有菜色,慘怛於心。已詔吏虛倉廩,開府庫振救,賜寒者衣。今秋禾麥頗傷。一年中地再動。北海水溢,流殺人民。陰陽不和,其咎安在?公卿將何以憂之?其悉意陳朕過,靡有所諱。」
冬,詔曰:「國之將興,尊師而重傅。故前將軍望之傅朕八年,道以經書,厥功茂焉。其賜爵關內侯,食邑八百戶,朝朔、望。」

秋7月、詔した。「今年は、地震が2回あった」と。

蘇輿はいう。『五行志』には、2回も地震が記されない。

冬、詔した。「もと前将軍の蕭望之は、私を8年も指導してくれた。関内侯とし、月2回だけ朝見せよ」と。

先謙はいう。『通鑑考異』はいう。劉向伝によると、「さきに弘恭と石顕が、蕭望之を下獄せよという決定を上奏した。3月に地震あり」とする。つまり蕭望之が罷免されたのは、春の地震より前のはずだ。また「夏に客星が昴に見え、元帝は蕭望之を関内侯にした」とある。『漢書』蕭望之伝によると、「数ヶ月のち、蕭望之は関内侯になる」とある。いま元帝紀では、蕭望之が12月に死ぬ。元帝紀では、蕭望之の死亡記事の前に(とくに月を指定する意図はなく)関内侯の記事を置いただけでは。

12月、中書令の弘恭と石顕が、蕭望之をそしって自殺させた。

初元3年(前46)、甘泉宮と建章宮の護衛をやめる

三年春,令諸侯相位在郡守下。 珠崖郡山南縣反,博謀群臣。待詔賈捐之以為宜棄珠崖,救民饑饉。乃罷珠崖。

初元3年春、諸侯王の国相の地位を、郡守の下とした。
珠崖がそむき、待詔の賈捐之が「珠崖をすてろ」という。すてた。

先謙はいう。そむくのは初元元年(この記事の2年前)だが、賈捐之の文書はこの年である。『漢書』賈捐之伝にある。


夏四月乙未晦,茂陵白鶴館災。」詔曰:「乃者火災降於孝武園館,朕戰慄恐懼。不燭變異,咎在朕躬。群司又未肯極言朕過,以至於斯,將何以寤焉!百姓仍遭凶厄,無以相振,加以煩擾虖苛吏,拘牽乎微文,不得永終性命,朕甚閔焉。其赦天下。」

夏4月みそか、茂陵(武帝陵)で火災。元帝は詔した。「百姓の経済状況は苦しむ。苛吏に煩擾され(苛酷な役人にわずらわされ)、微文に拘牽される(詳細な法律にしばられる)。天下を赦せ」と。

蘇輿はいう。律文をひっぱってきて、罪と判定される。宣帝期の地節の詔で「律を析し、端を貳とす」とあるが、これを意味する。元帝は刑名を喜ばない。吏習を洞究(官吏の風習を洞察して研究すること)は、このとおりである。
ぼくは思う。つまり元帝は、宣帝期についた官吏の悪いクセが、天下の百姓を苦しめると思っている。


夏,旱。立長沙煬王弟宗為王。封故海昏侯賀子代宗為侯。
六月,詔曰:「蓋聞安民之道,本由陰陽。間者陰陽錯謬,風雨不時。朕之不德,庶幾群公有敢言朕之過者,今則不然。偷合苟從,未肯極言,朕甚閔焉。惟C02C庶之饑寒,遠離父母、妻子,勞於非業之作,衛於不居之宮,恐非所以佐陰陽之道也。其罷甘泉、建章宮衛,令就農。百官各省費。條奏毋有所諱。有司勉之,毋犯四時之禁。丞相、御史舉天下明陰陽災異者各三人。」於是言事者眾,或進擢召見,人人自以得上意。

夏、日照あり。6月、詔した。「甘泉宮と建章宮の護衛をやめ、就農させろ。陰陽と災異に明るい人材をあげろ」と。

周寿昌はいう。ときに貢禹は、諸離宮と長楽宮の護衛を、半分に減らして、傜役を軽くしろという。『百官表』によると、甘泉宮と建章宮の護衛は、常設でない。長楽宮は、太皇太后の上官氏に属するので、(貢禹の言うとおりには)減らせない。


初元4年(前45)、王莽が産まれる

四年春正月,行幸甘泉,郊泰畤。 三月,行幸河東,祠后土。赦汾陰徒。賜民爵一級,女子百戶牛、酒,鰥、寡、高年帛。行所過無出租賦。

3月、汾陰の刑徒をゆるす。

先謙はいう。『五行志』はいう。皇后の曾祖父の王伯の墓門にある梓の柱から、枝葉が生えた。建物の上にでた。この年、王莽が産まれた。


初元5年(前44)、博士の定員をやめ、減刑する

五年春正月,以周子南君為周承休侯,位次諸侯王。三月,行幸雍,祠五畤。

初元5年春正月、周子南君を周承休侯とした。地位は諸侯王につぐ。

文頴はいう。姫延年である。祖父は姫嘉である。周家の後裔は、武帝の元鼎4年に、周子南君に封じられて、周家の祭祀をやる。
師古はいう。承休国は、頴川にある。


夏四月,有星孛於參。詔曰:「朕之不逮,序位不明,眾僚久曠,未得其人。元元失望,上感皇天,陰陽為變,咎流萬民,朕甚懼之。乃者關東連遭災害。饑寒疾疫,夭不終命。《詩》不雲乎,『凡民有喪,匍匐救之。』其令太官毋日殺,所具各減半。乘輿秣馬,無乏正事而已。罷角抵、上林宮、館希御幸者、齊三服官、北假田官、鹽鐵官、常平倉。博士弟子毋置員,以廣學者。賜宗室子有屬籍者馬一匹至二駟,三老、孝者帛,人五匹,弟者、力田三匹,鰥、寡、孤、獨二匹,吏民五十戶牛、酒。」省刑罰七十餘事。除光祿大夫以下至郎中保父母同產之令。令從官給事宮司馬中者,得為大父母、父母、兄弟通籍。
冬十二月丁未,御史大夫貢禹卒。衛司馬谷吉使匈奴,不還。

夏4月、星孛が参の分野にある。博士の定員をなくす。減刑する。

周寿昌はいう。『刑法志』には、元帝の初年に「減刑について上奏せよ」とある。『後漢書』梁統伝に、元帝と哀帝が減刑したとある。『東観記』によると、元帝の初元5年と、哀帝の建平元年に減刑したという。だが、元帝紀と内容が一致しない。また、哀帝紀には、建平元年でなく、建平2年に減刑の記事がある。あわない。
ぼくは思う。『後漢書』梁統伝とは、意表をつかれた。

冬12月、御史大夫の貢禹が卒した。

銭大昭はいう。この年、御史大夫の陳万年が死んだが、本紀に書いてない。

衛司馬の谷吉が匈奴から還らず。

先謙はいう。谷吉は、郅支単于に殺されたのだ。


永光元年(前43)、質朴・敦厚・遜譲・有行を採用

永光元年春正月,行幸甘泉,效泰畤。赦雲陽徒。賜民爵一級,女子百戶牛、酒,高年帛。行所過毋出租賦。二月,詔丞相、御史舉質樸敦厚遜讓有行者,光祿歲以此科第郎、從宮。

永光元年正月、甘泉に行幸し、泰畤を郊する。

先謙はいう。祭礼がおわり、狩猟した。薛広徳がいさめた。薛広徳伝にある。

2月、丞相と御史に、質朴・敦厚・遜譲・有行な者をあげさせる。光禄勲が年ごとに査定して、郎・従官とした

師古はいう。はじめて、丞相と御史に「四科」をあげさせて、擢用した。
斉召南はいう。光禄が四行をあげるのは、ここから始まった。『後漢書』で呉祐が「光禄四行をもって、膠東侯相にうつる」とあり、『漢官儀』を注釈して、「淳厚、質朴、遜譲、節倹」が四行だとする。けだし漢制において、朝廷の従官は、光禄勲に属する。太中太夫、中大夫、諫大夫から、議郎、中郎、侍郎、郎中まで、定員は多くて1千人いる。ゆえに、光禄勲が賢者か否かを判断した。
何焯はいう。光禄勲は、この四科をもって、郎と従官を第した。『周官』宰夫、小宰、大宰の各篇に、査定をやることの典拠がある。


三月,詔曰:「五帝、三王任賢使能,以登至平,而今不治者,豈斯民異哉?咎在朕之不明,亡以知賢也。是故壬人在位,而吉士雍蔽。重以周、秦之弊,民漸薄俗,去禮義,觸刑法,豈不哀哉!由此觀之,元元何辜?其赦天下,令厲精自新,各務農畝。無田者皆假之,貸種、食如貧民。賜吏六百石以上爵五大夫,勤事吏二級,民一級,女子百戶牛、酒,鰥、寡、孤、獨、高年帛。」是月雨雪,隕霜傷麥稼,秋罷。

3月、詔した。「百姓が苦しむのは、礼義を去らせ、刑法に触れるからだ。哀しいことだ。貧民に援助せよ」と。この月、雪がふって、麦をいためた。

永光2年(前42)、馮奉世と任千秋が羌族を討つ

二年春二月,詔曰:「蓋聞唐、虞象刑而民不犯,殷周法行而奸軌服。今朕獲承高祖之洪業,托位公侯之上,夙夜戰慄,永惟百姓之急,未嘗有忘焉。然而陰陽未調,三光晻昧。元元大困,流散道路,盜賊並興。有司又長殘賊,失牧民之術。是皆朕之不明,政有所虧。咎至於此,朕甚自恥。為民父母,若是之薄,謂百姓何?其大赦天下,賜民爵一級,女子百戶牛、酒,鰥、寡、孤、獨、高年、三老、孝弟、力田帛。」又賜諸侯王、公主、列侯黃金,中二千石以下至中都官長吏各有差,吏六百石以上爵五大夫,勤事吏各二級。

永光2年春2月、詔した。「唐堯と虞舜は象刑(衣服を区別する刑)により、民は犯罪をしない。殷周は法律により、民は犯罪をしない。いま盗賊がいるのは、私のせいだ。爵位と布帛をあたえよ」 と。

師古はいう。「象刑」は、『漢書』武帝紀に注釈した。
ぼくは補う。「衣服を区別する」は、ちくま訳より。武帝紀を見ねばな。


三月壬戌朔,日有蝕之。詔曰:「朕戰戰慄栗,夙夜思過失,不敢荒寧。惟陰陽不調,未燭其咎,婁敕公卿,日望有效。至今有司執政,未得其中,施與禁切,未合民心,暴猛之俗彌長,和睦之道日衰,百姓愁苦,靡所錯躬。是以氛邪歲增,侵犯太陽,正氣湛掩,日久奪光。乃壬戌,日有蝕之,天見大異,以戒朕躬,朕甚悼焉。其令內郡國舉茂材異等、賢良、直言之士各一人。」

3月、日食あり。賢良と直言をあげさせる。

夏六月,詔曰:「間者連年不收,四方鹹困。元元之民,勞於耕耘,又亡成功,困於饑饉,亡以相救。朕為民父母,德不能覆,而有其刑,甚自傷焉。其赦天下。」
秋七月,西羌反,遣右將軍馮奉世擊之。八月,以太常任千秋為奮威將軍,別將五校並進。

秋7月、西羌がそむく。右将軍の馮奉世がうつ。8月、太常の任千秋を、奮威将軍とする。わかれて5将をひきい、馮奉世とともに進む。

先謙はいう。馮奉世伝では、奮武将軍である。『資治通鑑』は馮奉世伝にしたがう。荀悦『漢紀』は、元帝紀に従って、奮威将軍とする。
ぼくは思う。本紀と列伝のあいだで食い違うことは、『漢書』サマでもあるのだ。


永光3年(前41)、大司馬の王接が薨じる

三年春,西羌平,軍罷。三月,立皇子康為濟陽王。
夏四月癸未,大司馬車騎將軍接薨。

3月、劉康を済陽王とする。夏4月、大司馬・車騎将軍の王接が死ぬ。

ぼくは思う。王接は、外戚として、この官職にいたのだろうが。存在感がないよ。ちゃんと列伝では活躍するのだろうか。


冬十一月,詔曰:「乃者已丑地動,中冬雨水、大霧,盜賊並起。吏何不以時禁?各悉意對。」 冬,復鹽鐵官、博士弟子員。以用度不足,民多復除,無以給中外徭役。

冬、塩鉄官と博士弟子の定員をもどす。

永光3年(前40)、

四年春二月,詔曰:「朕承至尊之重,不能燭理百姓,婁遭凶咎。加以邊境不安,師旅在外,賦斂、轉輸,元元騷動,窮困亡聊,犯法抵罪。夫上失其道而繩下以深刑,朕甚痛之。其赦天下,所貸貧民勿收責。」三月,行幸雍,祠五畤。 夏六月甲戌,孝宣園東闕災。
戊寅晦,日有蝕之。詔曰:「蓋聞明王在上,忠賢布職,則群生和樂,方外蒙澤。今朕晻於王道,夙夜憂勞,不通其理,靡瞻不眩,靡聽不惑,是以政令多還,民心未得,邪說空進,事亡成功。此天下所著聞也。公卿大夫好惡不同,或緣奸作邪,侵削細民,元元安所歸命哉!乃六月晦,日有蝕之。《詩》不雲乎?『今此下民,亦孔之哀!』自今以來,公卿大夫其勉思天戒,慎身修永,以輔朕之不逮。直言盡意,無有所諱。」

夏6月、宣帝の園の東門が火災。

ぼくは思う。『資治通鑑』と重複しないところの、元帝その人のキャラクターを知りたくて、いま元帝紀をやってる。あんまり顔が見えてこなくて、省略しまくってる。まあ、バラマキ系の政策がおおいのと、やたら自罰的なのはわかったけど。どちらも定型句の範囲なのかな。


・・・以下、はぶきます。時間を見つけてやります。元帝のキャラが明らかになる、最後の年にとびます。陵墓を、つくったり、こわしたり、まとめたり、わけたり。試行錯誤していることは、よくわかる。七廟制が早く決まるといいですね。

九月戊子,罷衛思後園及戾園。
冬十月乙丑,罷祖宗宙在郡國者。諸陵分屬三輔。以渭城壽陵亭部原上為初陵。
詔曰:「安土重遷,黎民之性;骨肉相附,人情所願也。頃者有司緣臣子之義,奏徙郡國民以奉園陵,令百姓遠棄先祖墳墓,破業失產,親戚別離,人懷思慕之心,家有不安之意。是以東垂被虛耗之害,關中有無聊之民,非久長之策也。《詩》不雲乎?『民亦勞止,迄可小康,惠此中國,以綏四方。』今所為初陵者,勿置縣邑,使天下鹹安土樂業,亡有動搖之心。佈告天下,令明知之。」又罷先後父母奉邑。

永光5年(前39)

五年春正月,行幸甘泉,效泰畤。三月,上幸河東,祠后土。
秋,穎川水出,流殺人民。吏、從官縣被害者與告,士卒遣歸。
冬,上幸長楊射熊館,布車騎,大獵。
十二月乙酉,毀太上皇、孝惠皇帝寢廟園。

12月、太上皇と恵帝の寝廟園をこわす。

建昭元年(前38)

建昭元年春三月,上幸雍,祠五畤。
秋八月,有白蛾群飛蔽日,從東都門至枳道。
冬,河間王元有罪,廢遷房陵。罷孝文太后、孝昭太后寢園。

建昭2年(前37)

二年春正月,行幸甘泉,郊泰畤。 三月,行幸河東,祠后土。益三河大郡太守秩。戶十二萬為大郡。
夏四月,赦天下。 六月,立皇子輿為信都王,閏月丁酉,太皇太后上官氏崩。
冬十一月,齊、楚地震,大雨雪,樹折屋壞。 淮陽王舅張博、魏君太守京房坐窺道諸侯王以邪意,漏洩省中語,博要斬,房棄市。

建昭3年(前36)

三年夏,令三輔都尉、大郡都尉秩皆二千石。
六月甲辰,丞相玄成薨。
秋,使護西域騎都尉甘延壽、副校尉陳湯撟發戊已校尉屯田吏、士及西域胡兵攻郅支單于。冬,斬其首,傳詣京師,縣蠻夷邸門。

建昭4年(前35)

四年春正月,以誅郅支單于告祠郊廟。赦天下。群臣上壽。置酒,以其圖書示後宮貴人。
夏四月,詔曰:「朕承先帝之休烈,夙夜慄慄,懼不克任。間者陰陽不調,五行失序,百姓饑饉。惟C02C庶之失業,臨遣諫大夫博士賞等二十一人循行天下,存問耆老、鰥、寡、孤、獨、乏困、失職之人,舉茂材特立之士。相、將、九卿,其帥意毋怠,使朕獲觀教化之流焉。」 六月甲申,中山王竟薨。 藍田地沙石雍霸水,安陵岸崩雍涇水,水逆流。

建昭5年(前34)

五年春三月,詔曰:「蓋聞明王之治國也,明好惡而定去就,崇敬讓而民興行,故法設而民不犯,令施而民從。今朕獲保宗廟,兢兢業業,匪敢解怠,德薄明晻,教化淺微。傳不雲乎?『百姓有過,在予一人。』其赦天下,賜民爵一級,女子百戶牛、酒,三老、孝弟、力田帛。」又曰:「方春,農桑興,百姓戮力自盡之時也,故是月勞農勸民,無使後時。今不良之吏,覆案小罪,徵召證案,興不急之事,以妨百姓,使失一時之作,亡終歲之功,公卿其明察申敕之。」

夏六月庚申,復戾園。壬申晦,日有蝕之。 秋七月庚子,復太上皇寢廟園、原廟,昭靈後、武哀王、昭哀後、衛思後園。


竟寧元年、元帝が崩じて、班彪が賛する

竟寧元年春正月,匈奴乎韓邪單于來朝。詔曰:「匈奴郅支單于背叛禮義,既伏其辜,乎韓邪單于不忘恩德,鄉慕禮義,復修朝賀之禮,願保塞傳之無窮,邊垂長無兵革之事。其改元為竟寧,賜單于待詔掖庭王檣為閼氏。」
皇太子冠。賜列侯嗣子爵五大夫,天下為父後者爵一級。
二月,御史大夫延壽卒。三月癸未,復孝惠皇帝寢廟園、教文太后、孝昭太后寢園。

竟寧元年正月、呼韓邪単于が来朝し、竟寧と改元した。王昭君をとつがせた。皇太子(成帝)が冠した。
2月、御史大夫の繁延寿が卒した。

夏,封騎都尉甘延壽為列侯。賜副校尉陳湯爵關內侯、黃金百斤。
五月壬辰,帝崩於未央宮。毀太上皇、孝惠、孝景皇帝廟。罷孝文、孝昭太后、昭靈後、武哀王、昭哀後寢園。
秋七月丙戌,葬渭陵。

夏、騎都尉の甘延寿を列侯とする。副校尉の陳湯を関内侯とする。 5月壬申、元帝が未央宮で崩じた。

臣瓚はいう。元帝は27歳で即位して、在位16年。43歳で死んだ。
銭大昭はいう。荀悦『漢紀』では、26歳で即位したという。本紀では、2歳のとき宣帝が即位したという。荀悦が正しい。

秋7月丙戌、元帝を渭陵に葬る。

贊曰:臣外祖兄弟為元帝侍中,語臣曰:元帝多材藝,善史書。 鼓琴瑟,吹洞簫,自度曲,被歌聲,分B430節度,窮極幼眇。

班彪の賛にいう。私の外祖兄弟は、元帝の侍中となる。

応邵はいう。元帝紀と成帝紀は、班固の父・班彪がつくった。だから「私」とは班彪のことである。外祖父とは金敞である。如淳は班固の外祖父の樊叔皮のことだというが、師古は応邵が正しいと考える。

私に元帝の話をした。元帝は、才芸があり、史書(隷書)を善くする。

応劭はいう。周宣王の太子である史[竹榴]は、大篆をつくった。
銭大昕はいう。応邵は誤りである。官律において、太子は学童を試す。9千字以上を読み書きできる者が、史官となれる。『芸文志』にみえる。
『漢書』貢禹伝はいう。武帝のとき、史書がつくれる者をあつめた。『漢書』酷吏伝はいう。厳延年は、史書を善くした。以上から、けだし「史書」とは、史官の習う書物のことで、隷書のこともいう。文字の知識があり、隷書をつくれる者のことをいうのであり、史[竹榴]を指すのではない。
ぼくは思う。応邵が誤解したせいで、『漢書補注』が字数を費やすのだ。
ほかの列伝でも、隷書に通じたことを言うのであり、史[竹榴]を指すのではない。

琴瑟を鼓し、洞簫を吹き、作曲も歌唱もやる。分節がうまく、きわめて要妙である。

少而好儒,及即位,徵用儒生,委之以政,貢、薛、韋、匡迭為宰相。而上牽制文義,優遊不斷,孝宣之業衰焉。然寬弘盡下,出於恭儉,號令溫雅,有古之風烈。

若くから儒学を好み、即位しては、儒生を登用した。貢禹、薛広徳、韋賢、匡衡をもちいて、宰相とした。

斉召南はいう。貢禹と薛広徳は、御史大夫にとどまった。班彪の賛では、韋賢と匡衡を同列にならべるが、漢代の御史大夫は、丞相の副官である。ゆえに御史大夫は、丞相とならんで、2つめの府をもった。のちに丞相が司徒に改められ、御史大夫は司空に改められ、三公となった。蕭望之は、かつて御史大夫となり、のちに前将軍となる。「私は、位は将相を備える」とは、この意味である。
何焯はいう。韋賢が宰相となったのは(元帝でなく)昭帝と宣帝のときである。子の韋玄成も宰相となったから、ここに「韋」と記された。
ウィキペディアはいう。漢代に親子2代で丞相となったのは、韋賢・韋玄成、周勃・周亜夫、曹操・曹丕の3組だけ。へー。
沈欽韓はいう。御史大夫もまた、三公の列にならぶ。ゆえに宰相といってよい。師古が丞相の副官だというが、誤りである。

元帝は、文義を牽制して、優遊にして不斷である。宣帝の事業は衰えた。だが寬弘であり、臣下の意図を汲み尽くした。出でては恭儉、号令は恩雅。古代の風烈があった。130622

ぼくは思う。儒者にありがちな、尚古の趣味なんだろう。誰も知らない古代を「正しい」とするから、どうしても検証不能な仮説の領域にとどまり、生成的な議論を、終わりなく楽しむことになる。それは、学問としては楽しいが、政事としては優柔不断である。宣帝のやりかたは廃れても当然だなあ。
ぼくは思う。冒頭の即位前、宣帝と対立した話。末尾の班彪による賛。この2つを読めば、だいたいこのページを作ろうとした目的は果たされてしまった。本紀は、いたって平凡な年代記だったから。

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