-後漢 > 荀悦『漢紀』平帝紀・王莽を抄訳&『漢書』と比較

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維基百科(ウィキペディア)『漢紀』の項を抄訳

いちおう参考までに。
日本のウィキペディアには、『漢紀』の項目がなかったので。

《漢紀》,共30卷,約18萬餘言,為中國古代的編年體史書,是中國第一部編年斷代體史書。作者為東漢的荀悅,漢獻帝時常苦班固的《漢書》文繁難省,於建安三年(198年)命荀悅依編年體左傳體例,刪略《漢書》改編撰寫。經過三年悉心抄撰,於建安五年(200年)成書。
時人稱美此書「辭約事詳,論辨多美」,「省約易習,有便於用」(《後漢書·荀悅傳》),後人袁宏稱「才智經綸,足為佳史」(《後漢紀》序)。

『漢紀』は全部で30巻、18余万字。はじめての編年体の断代史。後漢の荀悦がつくる。献帝のとき、班固『漢書』の分量が多くて読みにくいので、建安3年(198)に、献帝から荀悦に作成が命じられた。『左伝』のような編年体を、『漢書』を削除&編集してつくる。3年かけて、建安5年(200)に完成した。

ぼくは思う。許県に落ちついた献帝が、まずほしがったのが、読みやすい史書。すごいなあ。献帝は、よく教育されている。そして、忙しくて研究の時間がとれない(いつ殺されるか分からない)のだ。
曹操が張繍と戦い、袁術を叩き、呂布を殺し、董承に曹操の暗殺を命じ、袁紹が河北から南下して、、という時期に、荀悦は『漢紀』を編纂していたのだ。
そりゃ、具体的な政策よりも、「劉氏は生き残れるのか」「漢家は維持できるのか」が重点になるなあ。べつに献帝が詳細にオーダーしていなくても。王莽の細々した経済政策なんて、省略されてしまうのだ。

『後漢書』荀悦伝によると、当時の人々に「言葉は少ないが、内容は詳しい。論弁はとても美しい」「簡潔なので習得しやすく、実用的である」とほめられた。東晋の袁閎も「よい史書だ」ほめた。

近人梁啟超謂「善鈔書者可以成創作」(《中國歷史研究法》第二章)。本書成後,推動了往後編年體史著述的發展。張璠、袁宏等人都相繼撰寫出了編年體斷代史。唐代史論家劉知幾把《漢紀》編年體裁擺到與《漢書》紀傳體裁同等地位,並說「班荀二體,角力爭先。欲廢其一,固以難矣」(《史通》二體)。

近代の梁啓超はいう。「よき編集は、創作ともいえる」と。『漢紀』の成立後、編年体は発展した。張璠や袁宏らは、あいついで編年体の断代史をつくった。唐代の劉知幾は『史通』で、『漢紀』と『漢書』を同等の地位でならべた。「班固と荀悦の史書は同等である。どちらか一方だけを選べない」と。

ぼくは思う。ほめ過ぎじゃないか。それとも、みんな『漢書』を読むのが大変だから、『漢紀』を読むことで、良しとしたのかも。
仏教の経典を印刷して貼り付け、その器具をぐるぐる回すと、写経や読経と同じ効果があるとされた。それと同じである。
もう少し比喩を近づければ。横山光輝を読んで、吉川英治『三国志』を読んだと見なす。吉川『三国志』を読むことで、『三国演義』和訳を読んだと見なす。『三国演義』和訳を読むことで、『三国演義』原文を読んだと見なす。『三国演義』原文を読むことで、陳寿『三国志』を読んだと見なす。


《漢紀》的所用的史料,絕大多數來自《漢書》,但也稍有增補刪改,自有剪裁,非一味抄襲,可補正《漢書》之誤處。史事記載方面,如諫大夫王仁、侍中王閎的諫疏,為《漢書》所沒有的;內容訂正補充方面,《漢書·高帝紀》十年「夏五月,太上皇后崩。秋七月癸亥,太上皇崩,葬萬年」,《漢紀》則作「夏五月,太上皇崩。秋七月癸亥,太上皇葬萬年」,兩者比較查考,顯然《漢書》有誤;關於壺關三老茂,《漢書》無姓,《漢紀》則云姓令狐;朱雲請尚方劍,《漢書》作「斬馬劍」,《漢紀》乃作「斷馬劍」,據唐代張謂詩「願得上方斷馬劍,斬取朱門公子頭」,証明《漢書》有誤字。

『漢紀』は、ほぼ『漢書』に依拠する。だが、増補や削改もする。『漢書』の誤記を補正することもある。
諫大夫の王仁、侍中の王閎らの諫疏は、『漢書』に載ってないが、荀悦が補足した。
『漢書』高帝紀10年「夏5月、太上皇后が崩ずる。秋7月癸亥、太上皇が崩ずる」と、2回も「崩」があるが、荀悦はこれを直す。2回も死ぬわけないから、『漢書』が誤りである。

ぼくは思う。これは手柄なのか? それよりも、月日の異同(誤りでなく、異同と言っておきます)が、わりに『漢書』と『漢紀』のあいだである。2回死ぬ話より、こっちのほうが重要では。

壺関の三老である「茂」は、『漢書』では姓がない。だが『漢紀』では「令孤茂」だとわかる。
朱雲の剣を『漢書』では「斬馬剣」というが、『漢紀』では「断馬剣」という。唐代の張謂がつくった詩と比べると、『漢紀』が正しいとわかる。

ぼくは思う。唐代の詩人が、『漢紀』か、『漢紀』を参考にした資料に基づいて、剣の名に関する知識を得たのではないか。っていうか、どちらも同じような意味なんだし、いいじゃん。


《漢紀》雖然史料價值不高,但《漢書》精華大體被吸收,且以年繫事條理清晰,頭尾連貫,重點突出,不失為一部前漢簡明大事記,可作研究前漢史的入門書來讀。此外,荀悅立意「勸善懲惡」,除有意通過後漢中興前一代的歷史的評述,探究其成敗得失之機,供漢獻帝及其後繼者們能「有監乎此」,獲得「撥亂反正」,振興漢室的啟示外,並在《漢紀》中撰寫大量論贊,約佔全書二十分之一篇幅,其中不乏佳作。
今日《漢紀》所能見到最早的版本,是明代黃姬水所刊的南宋王銍輯本。點校本方面,有北京中華書局將之與《後漢紀》合輯標點的《兩漢紀》。

『漢紀』の資料価値は高くない。だが『漢書』の要点がまとまり、時系列がわかりやすい。入門書になる。
ほかに荀悦は「勧善懲悪」を意図して編纂した。後漢の献帝や、その後継者である為政者たちの参考になった。『漢紀』のなかには、字数の20分の1にも及ぶ論賛がある。よい論賛もある。

ぼくは思う。『漢紀』は、後漢末の史料としても読める。つまり『漢紀』を読むと、3つの勉強になる。1つ、後漢の献帝期の歴史。2つ、後漢末から見た前漢史(史学史)。3つ、前漢の通史。何層もの構造だなあ。
いま『漢紀』に興味をもったのは、長谷川清貴氏の「荀悦『漢紀』における「春秋之筆法」-昌邑王廃位記事を中心に-」(『國學院雜誌』 第110巻第10号)が話題になったから。
先日のツイッターにて、
ぼくはいう。ウェブの論文の概要では、『漢書』が霍光の行動と記すことを、荀悦は、昌邑王の行動のように書き換えたそうです。つまり荀悦は、弘農王の廃位を董卓のせいにせず、「弘農王が廃位されても仕方ない行動を主体的にした」と読み換えたのでしょうか。荀悦いわく「献帝は董卓が即位させたのでない。董卓がいなくても、弘農王が主体的に暗君だったから、退位して当然だ。献帝は正統だ」でしょうか。董卓は廃位の正統化に、荀攸は献帝の正統化に、昌邑王の故事を活用したんでしょうか。論文を読まねば。
‏@AkaNisin さんはいう。たしか『漢紀』編纂は献帝の勅命ですよね(゚∀゚ )
ぼくはいう。「荀悦における「復讐の義」」「荀悦『漢紀』における「春秋之筆法」」「荀悦の災異観」が長谷川先生の三部作っぽいので、セットで読みたいです。
というわけで、今度、読書会をします。その予習でした。

今日の『漢紀』の版本は、明代に刊行された、南宋に編集された本である。中華書局から『両漢紀』として出版されている。130430

ぼくは、中華書局版を見ながら、このページをつくる。

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『漢紀』平帝紀;孫宝・呉章・叔孫通を推す

荀悦『漢紀』前漢孝平皇帝紀卷第三十
抄訳しながら、『漢書』と比較します。
長谷川清貴先生の論文を読むための準備です。

うまくいったら、平帝紀以外にもやっていきたいです。

平帝が即位する

皇帝壬寅即位。九歲。大司徒孔光為太傅。左將軍甑豐為少傅。右將軍馮宮為大司徒。太皇太后臨朝。大司馬王莽秉政。百官總己以聽之。

平皇帝は、壬寅に即位した。九歲である。

張烈はいう。『漢書』平帝紀では「辛酉」に即位する。
『漢書』平帝紀はいう。 孝平皇帝,元帝庶孫,中山孝王子也。母曰衛姬。年三歲嗣立為王。元壽二年六月,哀帝崩,太皇太后詔曰:「大司馬賢年少,不合眾心。其上印、綬,罷。」賢即日自殺。新都侯王葬為大司馬,領尚書事。秋七月,遣車騎將軍王舜、大鴻臚左鹹使持節迎中山王。辛卯,貶皇太后趙氏為孝成皇后,退居北宮,哀帝皇后傅氏退居桂宮。孔鄉侯傅晏、少府董恭等皆免官爵,徙合浦。九月辛酒,中山王即皇帝位,謁高廟,大赦天下。
ぼくは思う。『漢紀』哀帝紀にも、食いこんでるのか。
ちなみに、『漢書』はこちら。『漢書』巻10-12:成帝紀、哀帝紀、平帝紀

大司徒の孔光が太傅となる。左將軍の甄豊が少傅となる。右將軍の馮宮が大司徒となる。

張烈はいう。『漢書』馬宮伝にもとづき、馬宮とすべき。
ぼくは思う。三公級の人員構成は、『漢書』平帝紀にない。王莽伝を見ても、すっきりまとまった整理した記述はない。荀悦の優しさである。

太皇太后が臨朝した。大司馬の王莽が秉政した。百官はすべて(王莽に)決裁をあおぐ。

『漢書』平帝紀はいう。帝年九歲,太皇太后臨朝,大司馬莽秉政,百官總己以聽於莽。
ぼくは思う。平帝が幼いので、という因果関係が『漢書』のほうが明らかである。しかし9歳であることは、『漢紀』がさきに言っているから、ふたたび言う必要はない。記述の順番が違うだけか。
ぼくは思う。『漢書』は「於莽」とあり、だれに決裁をあおぐか明白である。だが荀悦は、王莽にムカついたのか、もしくは字数の節約のためか、「於莽」と書かない。そのせいで、ぼくは一瞬「これは平帝が親裁したと読むのか」と迷った。
『漢書』平帝紀では、ここで王元后が詔する。 『漢書』平帝紀はいう。詔曰:「夫赦令者,將與天下更始,誠欲令百姓改行潔己,全其性命也。往者有司多舉奏赦前事,累增罪過,誅陷亡辜,殆非重信慎刑,灑心自新之意也。及選舉者,其曆職更事有名之士,則以為難保,廢而弗舉,甚謬於赦小過舉賢材之義。諸有臧及內惡未發而薦舉者,勿案驗。令士厲精鄉進,不以小疵妨大材。自今以來,有司無得陳赦前事置奏上。有不如詔書為虧恩,以不道論。定著令,佈告天下,使明知之。」
ぼくが抄訳する。王氏は詔した。「赦令とは、天下を更始して、過去を洗い流すものだ。『論語』で孔子が政治について聞かれ、仲弓に回答した。小さな過失を赦し、賢い人材を挙げよと。選挙する者は、わずかな前科を理由にして、有能な人材を除外するな」と。
ぼくは思う。荀悦にしてみれば、王氏の所信表明なんて、「形式的だから削除可能」なのか「なにを言ってるのかボケ」なんだろう。


孝成趙皇后。孝哀傅皇后。皆以前驕恣廢。自殺。

孝成趙皇后と、孝哀傅皇后は、どちらも以前から驕恣なので、皇后の地位から廢された。自殺した。

ぼくは思う。『漢書』平帝紀に、成帝と哀帝の皇后が自殺する記事はない。『漢書』外戚伝にゆかねばならない。単純に『漢書』本紀を、削りまくっているのではない。他と照らして補っている。できるだけ、典拠を見つけてゆこう。
『漢書』王莽伝はいう。莽白趙氏前害皇子,傅氏驕僭,遂廢孝成趙皇后、孝哀傅皇后,皆令自殺,語在《外戚傳》。
王莽伝が外戚伝を見ろというから、外戚伝をみる。
『漢書』外戚伝の成趙皇后はいう。哀帝崩,王莽白太后詔有司曰:「前皇太后與昭儀俱侍帷幄,姊弟專寵錮寢,執賊亂之謀,殘滅繼嗣以危宗廟,誖天犯祖, 無為天下母之義。貶皇太后為孝成皇后, 徙居北宮。」後月餘,復下詔曰:「皇后自知罪惡深大,朝請希闊, 失婦道,無共養之禮,而有狼虎之毒, 宗室所怨,海內之讎也,而尚在小君之位,誠非皇天之心。夫小不忍亂大謀,恩之所不能已者義之所割也, 今廢皇后為庶人,就其園。」是日自殺。凡立十六年而誅。
ぼくは抄訳する。哀帝が崩じると、王莽は王皇太后に白し、有司に詔させた。「趙皇太后=趙飛燕と趙昭儀は、姉妹で成帝の子孫を絶やした。趙皇太后を孝成皇后に降格して、北宮に徙せ」と。1ヶ月余して、さらに詔して、孝成皇后を庶人とした。孝成皇后=趙飛燕は、その日に自殺した。皇后になり16年で誅された。
『漢書』外戚伝の哀傅皇后はいう。哀帝崩,王莽白太皇太后詔曰:「定陶共王太后與孔鄉侯晏同心合謀,背恩忘本,專恣不軌,與至尊同稱號,終沒,至乃配食於左坐, 誖逆無道。今令孝哀皇后退就桂宮。」後月餘,復與孝成趙皇后俱廢為庶人,就其園自殺。
ぼくは抄訳する。哀帝が崩じると、王莽が王皇太后に詔を出させ、哀帝の傅皇后と、成帝の趙皇后を庶人とした。傅皇后は自殺した。
ぼくは思う。2皇后とも、王太后と王莽に殺されている。しかし荀悦は、2皇后がどういうプロセスで、誰にやられたのか、とくに書かない。ほのめかしなのか、忌避なのか。追って判断しましょう。


莽以孔光名儒。歷相三主。太后所敬。天下所信服。於是盛尊事光。莽素所不悅者。皆傅治其罪。為請奏光。光不敢不上。莽白太后皆可其奏。皆免官徙諸遠方。

孔光は名儒であり、3代の皇帝をたすけた。王太后に敬われ、天下に信服される。王莽は孔光を盛尊して、孔光につかえた。王莽は、自分と関係が良好でない者に、罪を着せる。王莽は孔光に「罪人を上げろ」というが、孔光は上げない。

ぼくは思う。『漢書』王莽伝が元ネタである。
『漢書』王莽伝はいう。莽以大司徒孔光名儒,相三主,太后所敬,天下信之,於是盛尊事光,引光女婿甄邯為侍中奉車都尉。諸哀帝外戚及大臣居位素所不說者,莽皆傅致其罪,為請奏,令邯持與光。光素畏慎,不敢不上之,莽白太后,輒可其奏。
ぼくが抄訳する。大司徒の孔光は名儒である。3帝に仕え、王元后に敬われる。王莽は孔光を盛尊して、孔光の娘婿・甄邯侍中・奉車都尉とした。哀帝の外戚と、哀帝期の大臣のうち、王莽と関係が良好でない者に、罪を着せた。王莽は甄邯を動かし、孔光から罪人を上げさせようとした。孔光は畏慎な性質なので、あえて王元后に上奏しない。王元后は(孔光の沈黙を)許可した。

王莽と良好でない者は、みな免官され、遠方に徙された。

『漢書』王莽伝はいう。於是前將軍何武、後將軍公孫祿坐互相舉免,丁、傅及董賢親屬皆免官爵,徙遠方。
ぼくが抄訳する。前將軍の何武、後將軍の公孫祿は、相互に大司馬に推薦しあったので、免じられた。丁氏、傅氏、董賢の親属は、みな官爵を免じられた。遠方に徙された。
ぼくは思う。何武と公孫禄という固有名詞を、荀悦ははぶいた。丁氏、傅氏、董賢が飛ばされたことも、はぶいた。まあ詳細は言わなくてもわかる。もしくは、外戚のあいだの反復的な闘争にうんざりして、荀悦が細かく書かなかった。


平阿侯仁。莽之從父兄也。中正直言。紅陽侯立。莽叔父。莽恐其害己。從容言於太后。皆奏遣就國。

平阿侯の王仁は、王莽の從父兄である。王仁は、中正で直言である。紅陽侯の王立は、王莽の叔父である。王莽は、王仁と王立から害されることを恐れた。従容として王太后に言いつけ、王仁と王立を就国させた。

『漢書』王莽伝はいう。紅陽侯立,太后親弟,雖不居位,莽以諸父內敬憚之,畏立從容言太后,令已不得肆意,乃復令光奏立舊惡:「前知定陵侯淳於長犯大逆罪,多受其賂,為言誤朝;後白以官婢楊寄私子為皇子,眾言曰呂氏、少帝復出,紛紛為天下所疑,難以示來世,成襁褓之功。請遣立就國。」太后不聽。
ぼくが抄訳する。紅陽侯の王立は、王元后の親弟である。王立は官職にないが、王莽はおじを敬憚する。王莽は、政策を思いどおりにできない。王莽は孔光に、王立の旧悪を上奏させた。定陵侯の淳于長が大逆したとき、王立は賄賂を受けた。のちに王立は、官婢の楊寄が産んだ子を、成帝の子とウソついた。呂氏が少帝を、高帝の子とウソついたのと同じだ。とはいえ王立には功績があるので(死罪でなく)就国させろ」と。王元后は認めず。
『漢書』王莽伝はいう。莽曰:「今漢家衰,比世無嗣,太后獨代幼主統政,誠可畏懼,力用公正先天下,尚恐不從,今以私恩逆大臣議如此,群下傾邪,亂從此起!宜可且遣就國,安後復徵召之。」太后不得已,遣立就國。莽之所以脅持上下,皆此類也。
ぼくが抄訳する。王莽はいう。「皇帝が幼い現在、私恩によって、大臣(孔光)の議論をゆがめれば、群下がかたむき、政治が乱れるだろう。王立を就国させろ。必要なら、また長安に召せばよい」と。王元后はやむなく、王立を就国させた。
ぼくは思う。固有名詞をはぶきまくっている。また、孔光が王莽のために働かされたことを、荀悦は書かない。荀悦が、後漢末の孔融とつきあいがあったことに、関係があるのかなあ。


於是附順者皆拔擢之。忤恨者誅滅之。以王邑為腹心。甄邯。甄豐。主訣斷。平宴典機事。劉歆主文章。孫建為爪牙。豐子尋。歆子棻。涿郡崔發。南唐陳崇。皆以才能稱。得幸於莽。並在顯職。莽色厲而言方。欲有所為。微見風采。黨與承旨而顯奏之。因固謙讓。示不得已。上以惑太后。下以取信於眾庶。

ここにおいて王莽は、附順する者を拔擢し、忤恨する者を誅滅した。
王莽の人材登用は以下のとおり。王舜と王邑は腹心となる。甄豊と甄邯は決断をつかさどる。平晏は機事を典する。劉歆は文章を主する。孫建は爪牙となる。甄豊の子・甄尋と、劉歆の子・劉フン、涿郡の崔發、南陽の陳崇は、みな材能ゆえに王莽に用いられた。

ぼくは思う。『漢書』王莽伝と同じ。ちょっと動詞が違うが。
『漢書』王莽伝はいう。於是附順者拔擢,忤恨者誅滅。王舜、王邑為腹心,甄豐、甄邯主擊斷,平晏領機事,劉歆典文章,孫建為爪牙。豐子尋、歆子B14B、涿郡崔發、南陽陳崇皆以材能幸於莽。
ぼくは思う。『漢紀』平帝紀は、『漢書』平帝紀と、『漢書』王莽伝を見比べながら、再統合する仕事なのね。おそらく班固の段階で、両者はひとつだったはずなのに。班固のわがまま(王莽を重視する)により、分割されたのだ。

王莽は(見せかけでは)気色をはげまし、発言はまっすぐである。ただし希望があると、かすかに風采(そぶり)をみせた。党与は王莽の指示する内容を読解し、言語化して上奏した。

『漢書』王莽伝はいう。莽色厲而言方,欲有所為,微見風采,黨與承其指意而顯奏之,莽稽首涕泣,固推讓焉,上以惑太后,下用示信於眾庶。
このあたり、王莽伝でも、ひと続きである。


元始元年春、王莽が安漢公になる

元始元年春正月。越裳氏重譯獻白雉一。黑雉二。莽令益州諷使之也。群臣奏言莽功德比周公。宜賜號安漢公。益封三萬戶。莽因辭封。孔光等以定策安宗廟皆益封。

元始元年(後01年)正月、越の裳氏が、通訳をかさねて朝貢した。白いキジ1羽と、黒いキジ2羽を献上した。王莽は益州に、このキジ献上を諷させた。

ぼくは思う。『漢書』平帝紀には「益州に諷させた」がない。『漢書』王莽伝の、始,風益州令塞處蠻夷獻白雉,を荀悦が目ざとく見つけてきて、本紀に接続したのである。

群臣は「王莽の功徳が、周公になぞらう。安漢公にして、3万戸を増封しろ」と奏言した。

『漢書』平帝紀はいう。群臣奏言大司馬莽功德比周公,賜號安漢公。荀悦『漢紀』は、これにほぼ同じ。
『漢書』王莽伝では、もっとこまかい。
『漢書』王莽伝はいう。群臣因奏言太后:「委任大司馬莽定策定宗廟。故大司馬霍光有安宗廟之功,益封三萬戶,疇其爵邑,比蕭相國。莽宜如光故事。」太后問公卿曰:「誠以大司馬有大功當著之邪?將以骨肉故欲異之也?」於是群臣乃盛陳:「莽功德致周成白雉之瑞,千載同符。聖王之法,臣有大功則生有美號,故周公及身在而托號於周。莽有定國安漢家之大功,宜賜號曰安漢公,益戶,疇爵邑,上應古制,下准行事,以順天心。」太后詔尚書具其事。
ぼくは思う。王莽の功績とは定策にあること、3万戸の根拠は霍光にあること、蕭何になぞらえること、を書いてある。また白雉が周公を思い出させることも書いてある。荀悦『漢紀』は、きわめてドライだ。王莽がなにを正統性にして、安漢公になったのか、言い落とされている。
ぼくは思う。荀悦が省いたところで、曹操がこれを見のがすはずがない。曹操は、よく勉強して知っている。しかし、荀悦が「わざわざ私から曹操に、王莽の手順を教える必要はない」という気持ちから、王莽をあっさりさせたのかも。

王莽は固辞した。

ぼくは思う。「固辞した」と「誇示した」は、ただの変換ミスなのだが。期せずして、王莽の政策にとっては、同じ効果があるなあ。
『漢書』王莽伝では、王莽が安漢公をボイコットする。群臣が「孔光に褒賞を与えれば、王莽がもらうかも」といい、王太后が「太傅・博山侯の孔光は、益封1萬戸、太師とする」なんてやる。だが王莽は拒絶する、、という面倒くさいジョシみたいな往復がある。荀悦は、すべて省略する。曹操にマネられても、ウザいしね。結局は、曹操と曹丕によって、マネられるんだけど。

孔光らには、平帝を定策して、宗廟を安んじた功績があるから、みな増封した。

『漢書』平帝紀はいう。群臣奏言大司馬莽功德比周公,賜號安漢公,及太師孔光等皆益封。語在《莽傳》。
ぼくは思う。王莽伝にリンクが貼られているが、だいたい荀悦はそのまま引用した。班固が「王莽伝を見てね」というか、荀悦は王莽伝を(故意にか)見なかった。班固に逆らった。漢家の忠臣なら、ふつうそうだよね。


二月丙辰。太傅孔光為太師。車騎將軍王舜為太保。大司空左將軍甄豐為少傅。立故東平王雲太子開明為王孫。故桃鄉頃侯子成都為中山王。封宣帝玄孫信等三十六人為列侯。自漢初至此。王子侯者凡四百八十人。令諸侯王關內侯列侯無子有孫者。若同產子。皆得為嗣。

2月丙辰、太傅の孔光を太師とする。車騎將軍の王舜を太保とする。大司空・左將軍の甄豊を少傅とする。

ぼくは思う。これは『漢書』平帝紀に書いてない。『漢書』王莽伝で、王太后の詔として書かれている。
『漢書』王莽伝はいう。王元后は詔する。「太傅・博山侯の孔光は、益封1萬戸、太師とする。車騎將軍・安陽侯の王舜は、益封1萬戸、太保とする。左將軍・光祿勳の甄豊は、廣陽侯、食邑5千戶、少傅とする。みな四輔之職を授け、爵邑をあたえ、第1區に邸宅をたまう。侍中・奉車都尉の甄邯は、承陽侯、食邑24百戶とする」と。
張烈はいう。甄豊は大司空でない。「大司空」を削除すべきだ。
ぼくは思う。荀悦は、『漢書』王莽伝をいやいや見にいって、甄豊の役職を誤る。フロイト的な誤謬である。「ああ面倒くせえな。でも三公の人事が書いてあるから、王莽伝を無視できねえよ」という、荀悦の抑圧された本心が読み取れる。
ぼくは思う。『漢書』平帝紀から、官僚を厚遇する記事がはぶかれる。
『漢書』平帝紀はいう。天下の民に爵1級をあたえる。2百石以上の吏には、「真」の待遇である、満額の秩禄をあたえた。

もと東平王の劉雲の太子・劉開明を、東平王とした。もと桃郷頃侯の子・劉成都を、中山王とした。宣帝の耳孫である劉信ら36人を、みな列侯に封じた。
漢初からここまで、王子侯になる者は480人。諸侯王、関内侯、列侯のうち、子がないが孫がある者、同母の子がある者は、爵位を嗣がせた。

ぼくは思う。「自漢初至此。王子侯者凡四百八十人。令諸侯王關內侯列侯無子有孫者。若同產子。皆得為嗣。 」は、『漢書』平帝紀に、又令諸侯王、公、列侯、關內侯亡子而有孫若子同產子者,皆得以為嗣。とある。ほかにも、官僚たちへの温情的な政策をたくさん出したが、荀悦がはぶいた。
荀悦がはぶいた政策とは、『漢書』平帝紀より抄訳すると。
哀帝におもねらず、平帝をたすけた者の官爵をあげる。宗室のうち、罪により属籍を除かれた者を、属籍にもどした。その宗室の吏を廉佐史に挙げ、4百石に補した。引退した吏2千石以上に、老後の生活資金として、秩禄の3分の1をくばる。諫大夫を三輔をめぐらせ、吏民の戸籍を提出させ、哀帝が死んだ元寿2年に行った過剰な徴税分を、還付させた。義陵=哀帝陵にある民塚のうち、哀帝の殿中(哀帝の殿屋をかたどる陵墓の施設)のジャマにならないものは、あばいて移動させない。など。
ぼくは思う。荀悦のいう480人が出てこない。『漢書』諸侯王表を見たのか。荀悦は、皇族の保全について、省略せず書いてある。いっぽうで、外戚の抗争の顛末、定策の功臣(とくに王莽)については、わりに省略がはげしい。


三月。置羲和官。秩二千石。外史閭師秩六百石。班教化朔方。
廣牧女子趙春死。棺斂六日。出在棺外。自言見死夫與父。曰年二十七不當死。本志曰。死者又生。至陰為陽。下人為上。丙辰。義陵寢神衣。在匣中自出。在外床上。

後01年3月に王莽は、羲和の官をおいた。秩は二千石だ。外史、閭師をおき、秩は六百石だ。

張烈はいう。『漢書』平帝紀では、2月である。

教化を班(し)いた。

『漢書』平帝紀はいう。班教化,禁淫祀,放鄭聲。と。

朔北の廣牧で、女子の趙春が死んで、復活した。本志(『漢書』五行志)は、死者が復活することは、陰が陽にいたり、下が上になること。

ぼくは思う。死者の復活。これは前漢が滅亡する前兆であると。死者の復活を「信仰」している人たちもいるいっぽうで、儒教的には警戒される。ギャップがおもしろいなあ。
ぼくは思う。荀悦『漢紀』は、本文で「本志」にリンクを貼っているように、『漢書』のダイジェストであることを、ことわっている。完結した「作品」ではないのだ。荀悦の落ちついた態度が窺える。
また荀悦は、『漢書』平帝紀と王莽伝だけでなく、五行志からも記事をひく。

3月丙辰、義陵に神衣をしまうが、ハコから出て自立した。

張烈はいう。『漢書』平帝紀では、丙申である。
ぼくは思う。『後漢書』と『後漢紀』は、日付がズレまくっていた。だが荀悦『漢紀』も、やはり日付がズレる。
『後漢紀』献帝紀を抄訳;初平年間 など。


元始元年夏、長安で2頭児がうまれる

夏五月丁巳朔。日有食之。赦天下。尊帝母中山。孝王姬為后。帝舅衛寶。寶弟玄。爵關內侯。帝女弟四人。號皆曰君。食邑各二千戶。封周公後公孫相如為褒魯侯,孔子後孔均為褒成侯,奉其祀。追諡孔子曰褒成宣尼公。

夏5月丁巳ついたち、日食あり。天下を赦した。平帝の母系の親族に、爵邑をあげた。

『漢書』平帝紀はいう。六月,使少府左將軍豐賜帝母中山孝王姬璽書,拜為中山孝王后。賜帝舅衛寶、寶弟玄爵關內侯。賜帝女弟四人號皆曰君,食邑各二千戶。
ぼくは思う。省略がない。皇帝の親族を、荀悦はだいじにする。ただし、『漢書』平帝紀と月がちがう。『春秋』の学者である荀悦だが、月日は適当なのか。まさかね。

周公の子孫、孔子の子孫を侯爵に封じた。孔子を「褒成宣尼公」と追封した。

ぼくは思う。『漢書』平帝紀でも同じ。上表なんかは内容をはぶき、結果だけを、ポツンポツンと書いていく。荀悦の編纂の姿勢がわかってきた。
このあたりの政策は、『漢書』王莽伝にない。王莽が実行してるけど。


六月。長安女子生兒。兩頭異頸。面相向。四臂共胸俱前向。尻上有目。長二寸。本志以為凡妖之作。以譴失正。各象其類。二首。上不一也。手多。下僭濫也。足少。不勝任也。下體生於上。不敬也。上體生於下。媟瀆也。人生而大。速成也。生而能言。好虛也。群妖推此類。或人不改乃成凶。秋九月。赦天下徒。

6月、長安で女子が生まれたが、アタマが2つ。首はべつべつ。顔は向かい合う。4本の腕が、すべて胸から前向きに生える。尻のうえに目がある。

ぼくは思う。荀悦は、固有名詞をもった登場人物たちよりも、こういう「政治的かつ思想的な意味をもった事件」のために、字数をさく。ほかは大胆に省略するのに。体脂肪率が3%なのに、なぜか二の腕だけがブヨブヨ、みたいな偏り方である。

本志(『漢書』五行志)はいう。2つのアタマは、君主が1人でないことを意味する。腕がおおいのは、僭越にも政治を乱す者がいると意味する。足が少ないのは、任務に堪えないことを意味する。下半身が上にあるのは、不敬を意味する。上半身が下にあるのは、媟瀆を意味する。出生児がおおきいのは、速成を意味する。出生児が言葉をしゃべるのは、好虚を意味する。政治を改めないと、凶事がおこる。

ぼくは思う。荀悦の「現代史」の問題関心か。
ぼくは思う。荀悦は、まるで具体的な政策に興味がない。王莽の具体的な改革政策について、暴力的なまでに省略する。『漢書』平帝紀と王莽伝を、カバーしない。『漢書』平帝紀なんて、短いのに、それすら省略する。政策を決めるのが曹操だからか。献帝には、儒教の思想とか、皇室の保全とかの記事を、たくさん読ませたかったのだろう。実務の権限を奪われると、思想に傾倒する。これは、出世コースをはずれた官僚も、傀儡みたいな皇帝も、同じかも知れない。

秋9月、天下の徒をゆるした。

『漢書』平帝紀を抄訳する。天下の女の刑徒のうち、すでに罪状が定まった(=論じた)者を、家に帰した。顧山して(労務刑として、女の刑徒が山で木を伐採する代わりに、伐採する者を雇う費用として)月3百銭をおさめることが、家に帰る条件である。少府に、海丞(海の税金をみる)果丞(果実の税金をみる)を1人ずつ、おいた。大司農に、部丞13人をおいて、1人1州を担当させ、農桑を勧めさせた。太皇太后の王氏は、10県を大司農にかえした。大司農に返却された王氏の収入は、前漢の租税の収入として、貧民にわけた。秋9月、天下の刑徒を赦した。中山の苦陘県を、中山孝王后の湯沐邑とした。
王莽はいろいろ改革してるのに、ざっくりカットだ。


元始2年、皇族と功臣の子孫113人が侯爵

二年春。黃支國獻犀牛。三月癸酉。大司空王舜病免。夏四月。立代孝王玄孫之子如意為廣宗王。江都易王後盱眙侯宮為廣川王。廣川惠王曾孫倫為廣德王。封周勃霍光樊噲後皆為列侯。酈商等子孫一百三十人。爵關內侯。食邑。丁酉。少傅甄豐為大司空。

後02年、黄支國は、犀牛を献上した。

『漢書』平帝紀はいう。王氏は詔した。「平帝の名『箕子』は、器物につうじる。カンと改名する」と。ぼくは思う。この逸話はカットw

3月癸酉、大司空の王舜が病で免じられた。

ぼくは思う。王舜の記事は、『漢書』平帝紀にも『漢書』王莽伝にもない。本紀として完成度としては、荀悦のほうが上なのだろうか。

4月、代王の子孫を広宗王に、江都王の子孫を広川王に、広川王の子孫を広徳王にする。霍光、張敖、周勃、樊噲の子孫を、列侯にした。酈商の子孫を、関内侯にした。113人が関内侯となり、それぞれ食邑をもらう。

ぼくは思う。『漢書』平帝紀とまったく同じ。官職には疎いが、爵位には目ざとい。これが荀悦『漢紀』の特徴じゃないか。おお、特徴らしい特徴がいえた。官制(どんな仕事の分担のさせ方をするか)と任免(だれになにをさせるか)は、省略がおおい。そもそも関心がなさそうだ。しかし、封爵(だれにどんな名誉をあたえるか)に、荀悦はくわしい。
ぼくは思う。建安期の献帝は、官職に手出しできないが、爵位には関与できた。爵位を好きに与奪できないにせよ、まだ曹操に対して、影響力をもつことができた。そういうことか。最後に残るのは、爵位の管理者としての権限でしたと。

4月丁酉、少傅の甄豊が大司空となる。

夏大旱蝗。青州尤甚。安漢公四輔公卿大夫吏民為百姓困乏。獻田宅者二百三十人。以賦貧民。罷安定池苑。以為安民縣。六月。有石隕於鉅鹿二。秋九月戊申晦。日有蝕之。赦天下。

夏、日照とイナゴ。青州がもっともひどい。安漢公の王莽、四輔、三公、卿大夫、吏民が、百姓の困窮者をすくう。田宅を提供する者は230人。貧民にあたえる。
安定(呼)池苑をやめて、安民県とする。

『漢書』平帝紀は、もっと具体的に政策が書いてある。
『漢書』平帝紀はいう。郡國大旱,蝗,青州尤甚,民流亡。安漢公、四輔、三公、卿大夫、吏民為百姓困乏獻其田宅者二百三十人,以口賦貧民。遣使者捕蝗,民捕蝗詣吏,以石、鬥受錢。天下民貲不滿二萬及被災之郡不滿十萬,勿租稅。民疾疫者,舍空邸第,為置醫藥。賜死者一家六屍以上葬錢五千,四屍以上三千,二屍以上二千。罷安定呼池苑,以為安民縣,起官寺市里,募徙貧民,縣次給食。至徙所,賜田宅什器,假與□、牛、種、食。又起五裏于長安城中,宅二百區,以居貧民。

6月、隕石が鉅鹿に2つ。

ぼくは補う。こちらは『漢書』五行志からの追記。

秋9月戊申みそか、日食あり。天下をゆるした。

『漢書』平帝紀は、この前後に、政策と戦争の記事をのせる。
『漢書』平帝紀はいう。秋,舉勇武有節明兵法,郡一人,詣公車。九月戊申晦,日有蝕之。赦天下徒。 使謁者大司馬掾四十四人持節行邊兵。 遣執金吾侯陳茂假以鉦鼓,募汝南、南陽勇敢吏士三百人,諭說江湖賊成重等二百餘人皆自出,送家在所收事。重徙雲陽,賜公田宅。冬,中二千石舉治獄平,歲一人。
ぼくは抄訳する。秋、勇武で兵法に節明な者を、郡ごとにあげさせ、公車で迎える。(日食の記事)謁者、大司馬掾の44人が、持節して辺境の兵を見た。 執金吾の候・陳茂に、汝南と南陽で3百人を集めさせた。陳茂は、江湖の賊・成重ら2百余人を投降させた。自ら降った賊には、本籍の県邑で賦役をさせた。賊のトップである成重は、本籍から雲陽に徙され、公田と宅をもらった。冬、中2千石に、獄平を治める者を1人ずつあげさせた。
荀悦は、ほんとうに実務に関心がないなあ。『後漢書』荀悦伝で、『漢紀』はこう評価されたらしい。「辭約事詳,論辨多美」「省約易習,有便於用」と。つまり、言葉は少ないが、内容は詳しい。論弁はとても美しい。簡潔なので習得しやすく、実用的であると。ぼくは、疑わしい。たしかにカンタンだけど、少なくとも実務者が参考にできない。


なぜか『漢書』孫宝伝を挿入する

是歲光祿大夫孫寶為大司農。寶字子嚴。潁川人也。初御史大夫張忠欲令授子經。寶自劾去。忠謝之。後以為主簿。或問寶曰。高士不為主簿。而子為之。何也。寶曰。大夫薦用。一府不以為非者。人安得獨自高。前日君男欲學文。而移寶自近。禮聞來學。義無往教。道不可屈。身屈何傷。且不遇者何所不為。況主簿乎。忠聞之甚慚。薦為議郎。

この歳(元始2年)、光禄大夫の孫宝を大司農とした。

ぼくは思う。『漢書』孫宝伝は、巻七七。諸葛豊と同じ巻。
孫宝は、王莽に媚びずに免官された人。荀悦は、孫宝に自分を投影したのではないか。だって、ここにわざわざ挿入するのは、きわめて不自然だからだ。『漢書』平帝紀ですら削られ、本紀に準ずる王莽伝は、具体的な内容をほぼ削除された。まあ、政策な内容とか、上表の文例とか、生命の危機にある荀悦(と献帝)には必要ないからね。
あまたある列伝のなかで、わざわざここに挿入したのは、よほど荀悦が、献帝にこれを読ませたかったからだ。『漢書』孫宝伝は、けっこう長いけれど、ここには抜粋がある。この抜粋の部分こそを、絶対に読ませておきたかった。

孫宝は頴川の人。はじめ(孫宝の上官である)御史大夫の張忠は、わが子に経典を教えたい。だが孫宝は(教育の場所を整備してもらっても)去った。のちに孫宝は(ふたたび張忠の配下の)主簿となった。

ぼくは思う。御史大夫とは、丞相と同等の役割を果たす。つまり張忠は、うっすら曹操をイメージしているんだろう。まだ『漢紀』の編纂時(200年まで)は、曹操は司空だけど。まあ司空も御史大夫もおなじだ。

ある者が孫宝にいう。「高潔な者は、主簿に就きたがらない。(いちど張忠のもとから去ったのに)なぜ孫宝は、主簿なんて官職を(ふたたび張忠のもとで)やるのか」と。孫宝は答えた。「前回は、公職のためでなく、張忠の子の教育のために、張忠の手許に置かれた。公私混同するから、去った。礼制では、生徒が学びにくることはあっても、教師が教えにいくことはない(いくら私が部下でも、私に勉強を教えさせたいなら、私を教師として礼遇しろ)と。公職として主簿をやるのは、全然OKだ」と。
張忠は(上官の権限で、無礼にも、わが子に勉強を教えさせようとしたことを)恥じた。張忠は、孫宝を議郎に推薦した。

ぼくは思う。こういう、官職の上下には収まりきらない、文化資本というのが、生きてるなあ。現代日本でも、学歴のある部下が、上司の子に家庭教師をすることは、あるだろう。そのとき部下は、卑屈に振る舞ってしまいそうだなあ。


後為丞相司直。紅陽侯立。與南郡太守李尚。共為姦利。寶按劍劾立尚。尚下獄死。立雖不坐。後卒以是廢。
後為京兆尹。處士侯文常稱疾。剛直不肯仕。寶以禮自請文為布衣交。會立秋日。文自請受署督郵。有杜稚季者。大俠也。善定陵淳於長。長深以託寶。文欲誅之。寶問其次。文曰。豺狼當道。安問狐狸。寶默然不應。稚季聞之。杜門不出。外穿後牆為小戶。旦暮自持鉏治園。不敢犯法。越巂郡上言黃龍游江中。大臣稱莽功德比周公。寶曰。周公上聖。召公大賢。尚尤不悅。今有一事。群臣同聲。得非不美者乎。時大臣皆失色。而寶不變。坐免官。終於家。

のちに孫宝は、丞相司直となる。紅陽侯の王立(王莽のおじ)と、南郡太守の李尚は、ともに姦利をなす。孫宝は、2人を弾劾した。剣をもって李尚を弾劾し、獄死させた。王立は有罪にならないが、のちに死んでから、爵位を廃された。

ぼくは思う。孫宝は、無敵の外戚・王氏ですら、容赦なく弾劾できる人。もし曹操が、こういう「不正」をやるなら、いつでも弾劾すべきだよ、という荀悦の覚悟なんだと思う。曹氏は、あんまり隙がなかったが。

のちに孫宝は、京兆尹となる。処士の侯文は剛直で、つねに「病気だから就官しない」という。孫宝は、侯文と「布衣の交」を結びたい。孫宝と侯文が話した。

ぼくは思う。ちくま訳を読んでも、なんだかよく分からなかったので、また後日。孫宝が、侯文に圧倒されているように見えるんだが、それで読解が合っているのだろうか。孫宝は淳于長(王莽の対立者)と近いことを、咎められて、気まずくなった。という話なのか。


越巂郡上言黃龍游江中。大臣稱莽功德比周公。寶曰。周公上聖。召公大賢。尚尤不悅。今有一事。群臣同聲。得非不美者乎。時大臣皆失色。而寶不變。坐免官。終於家。

益州の越巂から「黄龍がいた」と上言がある。大臣らは「王莽の功徳は周公みたい」という。孫宝はいう。「周公は上聖、召公は大賢である(王莽は周公や召公に及ばないから、安漢公に相応しくない)」と。大臣たちは顔色を失ったが、孫宝は意見を変えない。免官され、家で死んだ。

ぼくは思う。『漢紀』は、本紀ですら省略するのに、必然性のない『漢書』孫宝伝を場違い的に挿入する。荀悦は、よほど献帝に孫宝伝を読ませたかったらしい。孫宝は、王莽の安漢公への就任に反対して「王莽は、周公の功徳に及ばない」と主張した硬骨漢。荀悦が、曹操に抱いていた感情を、前漢末の孫宝に託したか。
この余剰した部分は、荀悦から献帝へのギフトである。


元始3年、王宇が王莽に殺される

三年春。詔博采二王後。及周孔世卿列侯。在長安適子女。王氏女多在選中。莽恐與己女爭位。上書言莽女不宜與諸女並采。太后以為至誠。乃下詔曰。王氏女。朕之外家。皆勿采。於是吏民守闕上者千餘人。願得以安漢公女為天下母。太后不得已獨采莽女。群臣卿士。僉曰安漢公女宜為后。
參以蓍龜。咸曰元吉。乃考定娶禮。正十二女之宜。

元始3年春、ひろく二王の後をつのる。周室と孔子の、世卿(子孫)を列侯に封じる。子女を長安にこさせる。

ぼくは補う。このあいだに『漢書』王莽伝では、王莽が王太后から、政治の決裁権をもらってしまう。王莽と王太后のあいだで、健康を気づかうような、権限のバランスを調整するような、文通がある。時期的には、王莽の娘を皇后にするという事件にむけて、班固が任意の場所に挿入した逸話だろう。時期は決まらない。
王莽のため、匈奴の単于が1字名にした話も、『漢書』王莽伝より省略。

王氏の娘が、おおく後宮にいる。王莽は、自分の娘が(皇后の地位の)競争に巻きこまれることを恐れた。王莽は「私の娘を皇后にするな」と上言する。王太后は「王氏は私の親戚だから、皇后に選ぶな」という。吏民らは「王莽の娘を皇后に」という。王莽の娘が皇后となった。

ぼくは思う。このあたりの王莽の謙譲の戦略は、『漢書』王莽伝に基づいて、簡略だけど載っている。王莽は、劉歆に婚姻の制度を研究させて、、なんて遠回りを、王莽伝では記されているのだ。

亀が献上されて「元吉」という。婚姻の礼制をさだめ、12人の娘をおく。

夏。安漢公奏車服制度之宜。吏民養生送死嫁娶奴婢田宅器械之品。郡國學校教訓之禮。陵陽任橫等稱將軍。盜庫兵。攻宮寺。皆伏誅。

元始3年夏、安漢公の王莽は、車服の制度を上奏した。吏民に田宅や器械をくばる。郡国に学校をつくる。

ぼくは思う。少なくとも『漢書』平帝紀と同じ。しかし、王莽伝ほどは、詳しくない。荀悦は「これこれの宜」とまとめる。たしかに「よろしき」に違いない。具体的な内容に、あまり用事がないのだ。呂布や袁紹と戦っているから。

陽陵の任橫らが、将軍を称して、庫兵をぬすみ、官府をおそう。みな伏誅した。

秋八月天雨草。狀如莎。相樛結如彈丸。莽世子宇非莽隔絕衛氏。恐帝長大後怨。即私於帝舅衛寶。勸令帝母上書求入朝。莽白太后不聽。宇與其妻兄呂寬及師吳章議其故。章以莽不可諫。而好鬼神。章因推類而說莽。令歸政於衛氏。宇使寬夜持血灑莽第門。吏發覺之。執宇送獄。及妻皆死。衛氏盡誅滅。窮治其事。呂寬所連。及郡國豪傑素非己者。殺於市門。海內震焉。

秋8月、莎(はますげ)みたいな雨草がふる。弾丸みたいに結ばる。

ぼくは思う。『漢書』平帝紀になる。お得意の五行志なのか。『漢紀』平帝紀は、『漢書』平帝紀、王莽伝、五行志がもとになっている。

王莽の世子の王宇は、「王莽は平帝の母の衛氏を遠ざけるのは良くない。成長した平帝に怨まれる」という。平帝のおじの衛宝にすすめて「平帝の母を長安によびたい」と勧めさせた。王莽は王太后に白して、ゆるさず。王宇と、妻兄の呂寛と、学師の呉章が議論した。呉章は「王莽を諫めるな(平帝の母は遠ざけたままで良い)」という。王宇は呂寛に命じて、王莽の第門に血をぬらせた。王宇は送獄され、妻は死ぬ。衛氏は誅滅された。呂寛も連坐した。

『漢書』平帝紀に、王莽伝と外戚伝を見よとある。両方を見たら、情報はあつまる。
ぼくは思う。事件の内容(衛氏をどのように扱うべきか)までを、ここから読み取ることはできない。つまり荀悦は、事件の可否を再検討する「教材」としてでなく、あたかも年表のように並べただけだ。「歴史は教訓」という姿勢は放棄している。よほど献帝が急かしたのだろう。


◆『漢書』云敞伝より、呉章の弟子
吳章者。大儒。所教千有餘人。莽悉欲禁錮其門人。門人改名他師。時司徒掾平陵侯李敞。獨自劾為吳章弟子。收葬章尸。王舜聞而義之。比之欒布。表為諫議大夫。 呉章は大儒である。1千余人を教えた。王莽は、呉章の門人をすべて禁錮したい。門人は「呉章から学んでない」という。ときに司徒掾する平陵侯の李敞は「私は呉章の弟子である」といい、呉章の死体をとむらう。王舜は、李敞の行動を「欒布にならぶ義だ」という。上表して、李敞を諌議大夫とした。

ぼくは思う。これは『漢書』云伝が出典。平帝紀、王莽伝、衛皇后伝では、見つけられなかった。荀悦が、わざわざ本紀でない場所から引用するとき、特別な意図があると見なして良さそうだ。この呉章の死体の件もまた、思い入れがある。なぜか。この光景は後漢の人々には、なじみがあるから。王莽と衛氏がどのように抗争しようが、王莽と王宇がどのように対立しようが、荀悦と献帝には他人事である。しかし「禁錮」された学問の恩人の死体を収容するのは、後漢でよく見られた行動。
ツイッター用まとめ。荀悦が『漢紀』に『漢書』本紀(と王莽伝)以外から引用するとき、特別な意図があると見なせそう。王莽と世子の王宇が対立したが、事件の顛末は丸ごと省略された。だが連坐した呉章の死体を、弟子が収容する場面は『漢書』儒林伝から紹介された。党錮の禁のデジャビュか。時系列的には呉章が先だけど。
ぼくは思う。歴史叙述と読解における時間は、単線構造でない。進んでは見返し、見返しては進む。呉章の死体収容(前漢末)を、班固が『漢書』に記した(後漢初)のち、党錮の禁という事件(後漢後期)を経験した荀氏が、献帝のために掘り起こして(後漢末)新たな意味を加えて、献帝という次世代に読ませた。
『漢書』巻67・云敞伝はいう。
云敞字幼孺,平陵人也。師事同縣吳章,章治尚書經為博士。平帝以中山王即帝位,年幼,莽秉政,自號安漢公。以平帝為成帝後,不得顧私親,帝母及外家衞氏皆留中山,不得至京師。莽長子宇,非莽鬲絕衞氏, 恐帝長大後見怨。宇與吳章謀,夜以血塗莽門,若鬼神之戒,冀以懼莽。章欲因對其咎。事發覺,莽殺宇,誅滅衞氏,謀所聯及,死者百餘人。章坐要斬,磔尸東市門。初,章為當世名儒,教授尤盛,弟子千餘人,莽以為惡人黨,皆當禁錮,不得仕宦。門人盡更名他師。敞時為大司徒掾,自劾吳章弟子,收抱章尸歸,棺斂葬之, 京師稱焉。車騎將軍王舜高其志節,比之欒布,表奏以為掾,薦為中郎諫大夫。莽篡位,王舜為太師。復薦敞可輔職。 以病免。唐林言敞可典郡,擢為魯郡大尹。更始時,安車徵敞為御史大夫,復病免去,卒于家。
『漢書補注』に、呉章は儒林伝にあるというが、ないじゃないか。儒者なら儒林伝、というのは、とんだ模造記憶だw


元始4年、王莽を宰衡とする

四年春正月。郊祀高祖以配天。宗祀文帝以配上帝。改殷紹嘉公曰宋公。周承休公曰鄭公。詔婦人非自犯法。男子八十已上。十歲已下。家非坐不道。詔所召捕。皆得繫。其當驗問者則驗問。
二月丁未。立皇后王氏。赦天下。遣太僕王惲等八十人。置副假節。巡行天下。觀風俗。賜九卿已下至六百石宗室有屬籍者。爵各有差。賜民爵一級。鰥寡孤獨高年帛。時吏民上書者八千餘人。咸曰伊尹為阿衡。周公為太宰。七子皆封。有司以為宜如所言。遂假安漢公號為宰衡。位上公。賜莽太夫人號顯君。食邑二千戶。黃金印赤紱。子男皆封列侯。太后親臨前殿。莽拜於後。如周公故事。

後04年春正月、前漢の高帝を天に配し、文帝を上帝に配した。殷の子孫を、宋公とした。周の子孫を、鄭公とした。婦人、男子80歳以上、10歳以下なら、不道以外の罪では連坐させない。験問すべきは(その場で)験問する(ずるずる連坐を広げない)。

『漢書』平帝紀に詔書があり、『漢紀』がはぶく。結論は同じ。

2月、王莽の娘が皇后になった。天下に大赦した。太僕の王惲ら80人に副官をつけて、仮節させ、分担して天下の風俗をチェックさせた。

張烈はいう。『漢書』平帝紀では8人である。
ぼくは思う。『漢書』王莽伝では、大司徒司直の陳崇ら8人がまわる。

公卿から6百石までと、宗室の属籍にある者に、爵位をあたえる。天下の民に、爵1等級を与える。鰥寡、孤獨、高年には布帛をあげる。

『漢書』平帝紀から「五大夫(9等爵)より上の者にも爵位を与える」が省略されている。ちょいちょい、字数を節約するのだ。

ときに吏民8千余人が上書して、王莽を宰衡とした。位は上公。王莽の婦人を顕君とする。食邑2千戸。黄金印に赤いひも。王太后が臨朝し、

ぼくは思う。わずかな情報だが、『漢書』平帝紀だけでは、全部が載ってない。王莽伝で補っている。圧縮されてるが。王莽が辞退しまくるので、妥当性とか、権限の大きさとかが慎重に検討されているのだ。ともあれ、宰衡について圧縮すれば、「上公」という属性だけで充分なのだ。


莽奏立明堂、辟雍,尊孝宣廟爲中宗廟。莽欲悅太后意,乃以郅支功尊孝元廟爲高宗。爲學者築舍萬區,所益博士員經各五人,徵天下有才能及小學、異藝之士,前後至者數千人。群臣奏宰衡位在諸侯王上。

明堂と辟雍をたてる。宣帝を中宗廟に、王太后を悦ばすため元帝を高宗とする。学者の地区をつくり、博士を数千人あつめる。群臣は、宰衡を諸侯王の上とする。

初置西海郡。徙天下犯法者處之。時莽遣多持金帛。誘塞外羌豪等獻地請降。曰聞太后聖明。安漢公至仁。天下太平。近歲已來。羌人無疾苦。故思樂內屬。莽因奏言。謹按已有東海。未有西海。請以羌獻地為西海郡。又賂匈奴。令上書曰。聞中國譏二名。故名囊知互斯。今更名智。以順制作。
梁王有罪。徙廢漢中自殺。分京師。置前輝光。後承烈二郡。更公卿大夫八十一元士名位次。及十二州名。分界郡國所屬。
冬大風。吹長安城東門屋瓦且盡。莽所遣使者八人行風俗。還言天下郡國齊同。詐為郡國造歌謠。頌功德。凡三萬言。又奏市無二價。官無獄訟。民無盜賊。野無饑人。道不拾遺。男女異路。交致太平。

西海郡をおく。羌族がくだり、匈奴が1字名「智」に改める。
梁王に罪があり、漢中で自殺する。
京師を分割して「前輝光」「後丞烈」をおく。郡国を再編成する。
冬、大風がふき、長安の東門の屋瓦が全て飛んだ。

ここまで『漢書』平帝紀のまま。

8路の使者が帰還して、王莽に報告して「天下の郡国はひとしい」という。郡国では歌謡を偽作して、3万言で王莽をほめた。

ぼくは思う。『漢書』平帝紀と『漢書』王莽伝には、この場所に、使者の帰還が記されていない。『漢書』王莽伝の、元始5年の秋に記事がある。『漢紀』は元始5年秋の記事がないから、ここに移動させたか。編年体で、この記事の移動は「誤り」だろう。それとも、王莽伝のように、元始5年秋では遅すぎると考えたのか。誤りを正すために? 根拠がわからない。結果だけ示されても唐突である。
ぼくは思う。『漢書』平帝紀と『漢書』王莽伝を圧縮したものは、それほど注意をはらう必要がない。わかってきた。圧縮しているとき、ゲリラ的に新たな情報をはさむことはない。読み流してよい。


元始5年、渭北の高廟が燃える

五年春正月。祫祭明堂。詔太上皇已來族親。各以世氏。郡國。致宗師以糾之。致教訓焉。考察不從教令。有冤失職者。宗師因郵亭上書宗伯以聞。

後05年春正月、明堂でコウ祭した。詔して、皇族のなかから管理者「宗師」をおく。皇族のなかで、教育や官職を世話させる。

『漢書』平帝紀の圧縮である。


夏四月乙未。太師孔光薨。大司徒馮商為太師。
是時吏民上書薦莽者。前後四十八萬七千五百七十二人。及諸侯王公卿見者皆叩頭。言宜加賞於安漢公。於是詔策加莽九錫之命。羲和劉歆等四人。治明堂辟雍。王惲等八人。使行風俗。宣明德化。皆封為列侯。閏月立梁孝王九世孫音為梁王。冬十月乙亥。高原廟殿門災。

夏4月乙未、太師の孔光が薨じた。大司徒の馮商を太師とした。

ぼくは思う。『漢書』平帝紀と王莽伝にない。

吏民は、王莽に安漢公と九錫をすすめた。

これは『漢書』平帝紀になく、王莽伝にあるのみ。

羲和の劉歆ら4人に、明堂と辟雍を管理させた。太僕の王惲ら8人に、諸国をめぐらせ、風俗を均質にさせた。

ぼくは思う。『漢書』王莽伝によると、この使者のきっかけは、「元始5年秋、王莽の娘・王皇后が身ごもるという孫瑞があり、子午道が通じた」である。毒殺される平帝は、子供がつくれる年齢に達していたのね。
ぼくは思う。『漢書』王莽伝では、8人の使者は、ここで帰ってくる。

劉歆や王惲らは、みな列侯に封じられた。閏月、梁孝王の玄孫の耳孫である劉音を、梁王にした。

これは『漢書』平帝紀から。

冬10月乙亥、高原廟の殿門がもえた。

◆叔孫通が、渭北の高廟は場所が悪いという

本志以為高廟長安城中。原廟在渭北。不宜立。初。惠帝為出遊長樂宮。方築複道。在高廟道上。叔孫通曰。子孫奈何乘高廟道上行。帝懼遂急毀之。叔孫通曰。人君無過舉。願陛下因為原廟。渭上衣冠出遊之處立廟。(欠文)太后導而臨朝。任莽。非正之象也。

『漢書』では高廟は長安の城中にあるが、もとの高廟は渭北にあったが、位置が悪いといわれたと。

ぼくは思う。これは『漢書』平帝紀と王莽伝にない。平帝紀の事件から、荀悦がわざわざ話題を広げて扱うテーマ。

恵帝が長楽宮にゆくとき、複道をつくる。複道が高廟の道上を通ってしまうので、叔孫通が渭北に移築するように提案した。欠文あり。

『漢書』叔孫通伝はいう。高帝崩,孝惠即位,乃謂通曰:「先帝園陵寢廟,群臣莫習。」徙通為奉常,定宗廟儀法。乃稍定漢諸儀法,皆通所論著也。惠帝為東朝長樂宮,及間往,數蹕煩民,作複道,方築武庫南,通奏事,因請間,曰:「陛下何自築複道高帝寢,衣冠月出遊高廟?子孫奈何乘宗廟道上行哉!」惠帝懼,曰:「急壞之。」通曰:「人主無過舉。今已作,百姓皆知之矣。願陛下為原廟渭北,衣冠月出遊之,益廣宗廟,大孝之本。」上乃詔有司立原廟。
ここですね。高廟に道をつくるなんて、恵帝は、どれだけボケッとしてるんだと、あきれますが。区画ミスでなく、なんか特別な意味があるのだろうか。
ぼくは思う。『漢紀』は、平帝が死ぬちょっと前(残念ながら「直前」とまでは言えない)に、欠文がある。陰謀めいた意味不明さ! もとの高廟がやけて、漢家の命運が尽きた、という説明なんだろうか。その意味では、董卓に洛陽を焼かれ、陵墓を呂布たちに盗掘された献帝にとって、まったく残念な連想しか招かないけれど。

王太后が臨朝して王莽に執政させるのは、正しくないかたちである。

ぼくは思う。『漢書』王莽伝は、平帝が死ぬ前に、泉陵侯の劉慶が、皇族のくせに「王莽に居摂させろ」という。そういう不穏な記事を、荀悦は載せない。もしくは、後ろにズラすのだ。荀悦は、『漢書』から記事の減らす以外に、『漢書』から記事を移動させることで、いろいろ主張する。


元始5年冬、平帝が崩じる

冬十有二月。長樂少府甄邯為大司徒。丙子。帝崩于未央宮。時元帝統絕。宣帝有孫五。畏其長也。言兄弟不得相為後。乃徵元帝玄孫廣戚侯子嬰三歲。託以為卜相最吉而立之。前輝光謝囂奏。言武功亭長孟宗浚井。得白石丹書。言安漢公為皇帝。符命之興。自此始也。莽遂謀為居攝。以周公故事。皆如天子之制。

冬12月、長楽少府の甄邯が大司徒となる。丙子、平帝が未央宮で崩じた。

張烈はいう。『漢書』平帝紀では、丙午に崩じる。
『漢書』平帝紀は、平帝を元服させてから葬る。平帝の女官を帰郷させる。これらの死後の処置は、はぶかれている。
ぼくは思う。前漢の平帝は、後漢の献帝にとって「鏡像」である。しかし平帝は幼いから、まるでオモテに出てこない。まあ『漢書』平帝紀でも、言動がまったく記されないのだが。献帝が、不必要に自分を投影しないように、巧妙に存在感を消されたような印象を受ける。
ぼくは思う。荀悦『漢紀』は、王莽が平帝を毒殺したという立場を採用しない。『漢書』を踏襲した、といえばそれまでだが。あんまり平帝をいじめると、『漢紀』の読者である献帝が吐いちゃうからw

血統が絶えて、3歳の劉嬰が卜相で選ばれた。

『漢書』王莽伝では2歳。この違いは、わりに重要では?

前輝光の謝囂が上奏して「白石に赤字で、安漢公は皇帝になれと書いてあった」という。符命はここにはじまる。王莽はついに謀りて居摂となる。周公のように。みな天子の制度にもとづく。

ぼくは思う。『漢書』平帝紀は、バツン!と中断する。この王莽の居摂の記事はない。孺子が選ばれる記事もない。荀悦が、『漢書』平帝紀にこれを含めたのは、彼なりの主張があってのことだろう。
でも、まえの『漢紀』哀帝紀の最後に、平帝が登場するまでの経緯が含まれていたから。荀悦の『春秋』の学識にもとづくと、巻が切りかわるタイミングは、班固とは違うのかも。つまり、君主が死ぬところまで(班固)でなく、後嗣が確定するところまで(荀悦)で1つの巻なのか。


明年改元為居攝元年。莽奏言帝母丁姬。祖母傅太后。葬不應禮。皆發其廝。既開傅太后廝。崩。壓殺數百人。臭聞數里。發丁姬廝。有火出四五丈。群燕銜土投廝上。

翌年、居摂元年と改元した。王莽は、哀帝の母の丁姫、哀帝の祖母の傅太后の陵墓をこわさせた。傅氏の陵墓を壊すとき、数百人が圧死し、においが数里にとどく。丁氏の陵墓をあばくと、火が5丈もあがる。燕が土をくわえ、陵墓の上にのせた。

ぼくは思う。『漢書』外戚伝より。五行志にはない。外戚伝では、王莽が発掘する理由を述べたり(陵墓が宣帝と同じでデカすぎる)、王太后が反対したりする。しかし、結論だけいうなら、この『漢紀』のとおり。
ぼくは思う。本紀と王莽伝以外から記事を持ってくるとき、荀悦は特別な意図があるのだ。荀悦は、もう外戚伝を手放したかと思いきや。この記事を入れるべく、前代の哀帝の外戚伝を、手許に残していた。執念である。董卓に対する当てこすり。


讚曰。孝平之世。政自莽出。褒善顯功。以自尊盛。觀其文辭。方外百蠻。無思不服。休徵嘉應。頌聲並作。至於異見於上。民怨於下。莽亦不能文也。

班固の賛はいう。平帝の時代は、王莽が政治をした。王莽は、みずからの善行をほめ、功績をあきらかにした。王莽のだした声明を読めば、辺境の異民族まで、すべて前漢に心服したとある。 しかし、平帝が急死したとき、民は怨みをいだいた。王莽ですら、うまく記録できなかった。

ぼくは思う。『漢書』平帝紀の丸写しである。
ぼくは思う。つぎに、王莽伝を本紀のように、つなげてしまう。班固が、王莽を忌んで(本紀を立てず、列伝を末尾にした)王莽を重んじた(本紀の体裁にする)。荀悦がこの謎かけを解凍してしまった。含蓄がなくなった。死にそうな献帝にとって、謎かけに付き合う時間がない。この『漢紀』を読む献帝は、李傕と郭汜から追撃されたあとの献帝だから。
ぼくは思う。荀悦『漢紀』は、『漢書』本紀から2つの減算と2つの加算をする。ぼくは平帝紀を検討して思った。減算は、政策の内容、詔書の文面。加算は、五行志の天変地異と、キャラ立ち列伝。長谷川清貴先生も、詔書の減算と、五行志の加算を指摘されてる。自分なりに「予習」したおかげで、論文を楽しく読める。
ぼくは思う。「荀悦『漢紀』における「春秋之筆法」-王莽の漢新革命の記事を中心に-」というタイトルを考えた。ほぼ完全パクりだけど。タイトルができれば、内容はあとから付いてくる。先行研究が確立した手法をヨコに展開するだけだから。やろうかなあ。
ぼくは思う。『漢書』に「A帝がBだからCせよと詔した」とあると『漢紀』は「Cが行われた」と地の文に開く。長谷川氏は、A帝の詔があった事実を否定し、Bの評価が絶対化されるのを防止するという。ぼくは筆法的意図を感じない。宣帝紀の霍光の件で指摘されてたが、平帝紀にも例が多く、字数減の常套手段かと。
荀悦や王充が「合理的」か否か議論することに意味はあるのか。【理】秩序だって安定したさま、筋道、宇宙を形成する宋学の法則『漢辞海』。ぼくが思うに、なにが秩序で筋道なのかは、環境や個人で異なる。毎回、自分の色眼鏡の色を深刻するのは面倒で、事実上できない。言語化したら言い落ちそうだし。
春秋の収録期間が242年とか、漢代が232年しかないとか。西暦の尺度を持たない史家は、どうやって数えたんだろう。具体的な方法が知りたい。ぼくなら、改元を数え誤りそうとか、1年未満の君主交替で誤りそうとか、その種のストレスで断念する。定型句&理念化し、数字が一人歩きするのもわかる。
災異祥瑞の解釈・因果を記さないのが『漢紀』。長谷川氏のご指摘のとおり。だが、任免の理由、政策の内容や理由についても『漢紀』は沈黙。関連する詔も省略。結果だけ要約し、地の文にする。「述べずして述べた義」「荀悦の筆法」は災異祥瑞に限らない。『春秋』にならい、ブッキラボウにしただけかも。
『漢紀荀悦注』の復元。荀悦は『漢書』を圧縮して『漢紀』を作り、曹操に配慮しながら、おおくの思いを押し殺したはず。『漢紀』が『春秋』の体裁なら、『春秋』三伝に匹敵するような、『漢紀』への注釈があり得るはず。それは荀悦の頭のなかにはあったはず。ぼくらの任務は『漢紀荀悦注』の復元ではないかと思う。いや、まじで。
正史類のアレンジャーが、「能動と受動を書き換える」とか「呼称を変える」のは、『漢紀』だけでなく『資治通鑑』にもあった。巻名や年号だって恣意的についてる。編者による春秋の筆法を、想像するのは楽しい。むしろ編者すら思惑をこえて、過剰に裏読みして体系を創造するのが読者の本分&特権。

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『漢紀』王莽の居摂期;翟義・王元后を推す

居摂元年、劉崇が居摂に反対する

居攝元年春二月。立嬰為皇太子。號曰孺子。

居摂元年春2月、劉嬰を皇太子とする。孺子と号する。

『漢書』王莽伝はいう。
居攝元年正月,莽祀上帝於南郊,迎春於東郊,行大射禮於明堂,養三老五更,成禮而去。置柱下五史,秩如御史,聽政事,侍旁記疏言行。
ぼくは思う。正月の儒教儀礼はカット。
『漢書』王莽伝はいう。
三月己丑,立宣帝玄孫嬰為皇太子,號曰孺子。以王舜為太傅左輔,甄豐為太阿右拂,甄邯為太保後承。又置四少,秩皆二千石。
張烈はいう。『漢紀』では2月だが、『漢書』王莽伝では3月。
ぼくは思う。劉嬰の血筋をカット。三公級の人事をカット。


夏四月。安眾侯劉崇。與丞相張紹謀曰。安漢公必危劉氏。吾帥宗族為先。海內必和之。遂合謀萬餘人。攻宛城不能入而敗。紹者。張竦之從弟。竦與崇族父劉嘉詣闕自歸。莽赦之不罪。竦為嘉作奏曰。

夏4月、安衆侯の劉崇が、丞相の張紹とはかる。「安漢公は、必ず劉氏を危うくする。私が宗族として先鞭をつければ、海内は呼応するだろう」と。

ぼくは思う。丞相の張紹って、張飛の孫(劉禅の外戚)と同じ名。
『漢書』王莽伝はいう。
四月,安眾侯劉崇與相張紹謀曰:「安漢公莽專制朝政,必危劉氏。天下非之者,乃莫敢先舉,此宗室恥也。吾帥宗族為先,海內必和。」
ぼくは思う。王莽のことを「莽」と名指しにせずに、荀悦が称号でのみ呼ぶのは、なぜだろう。長谷川氏は劉賀について、「『漢書』が「賀」と名を記すところを、貴んで「王」と記す」ことで、劉賀への敬意を表現したという。同じロジックなら荀悦は、王莽の正邪はどうあれ、安漢公という爵位に対しては敬意をもったということか。王莽が「莽」と名指しされなくなるのは、安漢公の就任から。王莽は、居摂皇帝という地位ではなく、安漢公という爵位をもって、荀悦に尊ばれた。
ぼくは思う。荀悦が『漢紀』を書き上げるのは、曹操が魏公になるより前である。荀悦は209年に死んでしまうから、曹操が魏公になるのを知らない。惜しい。
ぼくは思う。荀悦が、いみなを記さなくなる人を探そう。

張紹らは1百人を従え、宛県に進むが、宛県に入城できずに敗れた。張紹とは、張竦の從兄である。張竦と、劉崇の族父・劉嘉は、みずから出頭した。王莽は張竦と劉嘉を無罪とした。張竦は、劉嘉のために上奏をつくる。いわく、

ぼくは思う。『漢書』で劉崇は百余人しか味方がいないが、『漢紀』では万余人になる。100倍に増えちゃった。
ぼくは思う。荀悦の「王莽に反対する者は、これくらいの人数は、いなければならない」という確信に基づくのだろうw


建初元壽之間。大統幾絕。陛下聖德拯救。國命復延。臨朝統政。動以宗室為始。登用九族為先。故亂則統其理。危則致其安。禍則引其福。絕則接其繼。幼則代其任。夙夜孜孜不已。凡以為天下。厚劉氏也。

建平から元寿までの間、皇統は断絶しそうだが、王莽が輔政したおかげで、漢家は維持された。王莽は、辟雍や明堂をつくった。王莽は幼い劉嬰の代わり、天のために為政し、劉氏を厚遇する。

ぼくは思う。張竦が、王莽に迎合している。『漢書』王莽伝から、テキストを減らしているだけ。趣旨は同じでしょう。テキストの減らし方は、こんな感じ。
『漢書』王莽伝はいう。
建平、元壽之間,大統幾絕,宗室幾棄。賴蒙陛下聖德,扶服振救,遮扞匡衛,國命復延,宗室明目。臨明統政,發號施令,動以宗室為始,登用九族為先。並錄支親,建立王侯,南面之孤,計以百數。收復絕屬,存亡續廢,得比肩首,復為人者,嬪然成行,所以籓漢國,輔漢宗也。建辟雍,立明堂,班天法,流聖化,朝群後,昭文德,宗室諸侯,鹹益土地。天下喁喁,引領而歎,頌聲洋洋,滿耳而入。國家所以服此美,膺此名,饗此福,受此榮者,豈非太皇太后日昃之思,陛下夕惕之念哉!何謂?亂則統其理,危則致其安,禍則引其福,絕則繼其統,幼則代其任,晨夜屑屑,寒暑勤勤,無時休息,孳孳不已者,凡以為天,厚劉氏也。
ぼくは思う。削りすぎである。


建辟雝。立明堂。班大法。流聖化。天下顒顒。引領而歎。頌聲洋洋滿耳。人無愚賢男女。皆喻旨意。而劉崇獨懷悖惑之心。操畔逆之慮。惡不忍聞。罪不容誅。誠子臣之仇。宗室之讎也。是故親屬震落而告其罪。民人潰叛而棄其兵。進不跬步。退不伏殃。臣聞叛逆之國。既以誅討。則瀦其宮。以為汙池。納垢濁焉。名曰凶墟。雖生菜茹而民不食。四牆其社。覆上棧下。著以為誡。臣不勝憤憤之情。願為宗室倡始。父子兄弟。持畚荷鍤。馳到南陽。瀦崇宮室。令如古制。及崇社宜如亳社。盛稱功德。

張竦が王莽の政治をほめる。はぶく。

ぼくは思う。該当する王莽伝は。
臣無愚智,民無男女,皆諭至意。而安眾侯崇乃獨懷悖惑之心,操畔逆之慮,興兵動眾,欲危宗廟,惡不忍聞,罪不容誅,誠臣子之仇,宗室之讎,國家之賊,天下之害也。是故親屬震落而告其罪,民人潰畔而棄其兵,進不跬步,退伏其殃。百歲之母,孩提之子,同時斷斬,懸頭竿杪,珠珥在耳,首飾猶存,為計若此,豈不悖哉!
臣聞古者畔逆之國,既以誅討,則豬其宮室以為污池,納垢濁焉,名曰凶虛,雖生菜茹,而人不食。四牆其社,覆上棧下,示不得通。辨社諸侯,出門見之,著以為戒。方今天下聞崇之反也,鹹欲騫衣手劍而叱之。其先至者,則拂其頸,沖其匈,刃其軀,切其肌;後至者,欲拔其門,僕其牆,夷其屋,焚其器,應聲滌地,則時成創。而宗室尤甚,言必切齒焉。何則?以其背畔恩義,而不知重德之所在也。宗室所居或遠,嘉幸得先聞,不勝憤憤之願,願為宗室倡始,父子兄弟負籠荷鍤,馳之南陽,豬崇宮室,令如古制。及崇社宜如毫社,以賜諸侯,用永監戒。願下四輔公卿大夫議,以明好惡,視四方。

ぼくは思う。荀悦が、いかに削除をがんばったかわかる。


莽大喜。封為師禮侯。七日。皆賜爵關內侯。封竦淑德侯。長安為之語。欲得封。過張伯松。力戰鬥。不如巧作奏。自後反者皆汙池云。群臣復白太后。劉崇等所以謀反者。莽權輕也。宜尊莽以鎮海內。

王莽はよろこび、張竦を師礼侯とする。7子を関内侯とする。

張烈はいう。7日とあるが、7人とすべきだ。

郡臣は王太后にいう。「劉崇が謀反したのは、王莽の権限が軽いからだ」と。

王莽伝はいう。
於是莽大說。公卿曰:「皆宜如嘉言。」莽白太后下詔曰:「惟嘉父子兄弟,雖與崇有屬,不敢阿私,或見萌牙,相率告之,及其禍成,同共讎之,應合古制,忠孝著焉。其以杜衍戶千封嘉為師禮侯,嘉子七人皆賜爵關內侯。」後又封竦為淑德侯。長安為之語曰:「欲求封,過張伯松;力戰鬥,不如巧為奏。」莽又封南陽吏民有功者百餘人,污池劉崇室宅。後謀反者,皆污池雲。
群臣復白:「劉崇等謀逆者,以莽權輕也。宜尊重以填海內。」

ぼくは思う。郡臣が「王莽の権限が軽いから、劉崇が背いた」と『漢書』でいうのだが、 荀悦は話者を消さない。つまり、王莽の権限が軽いことなんて、絶対化した事実として登録したくない。詔を地の文に開くことは多いが、上表などを地の文に開かない、という傾向がいえるかも。だって、ウエから言ったことは、ほぼ事実として実現するが、シタからの要望は実現しないことがおおい。


五月甲辰。莽稱假皇帝。
冬十月丙辰。日有食之。是歲西羌龐恬傅幡反。遣護羌校尉竇況平之。

5月甲辰、王莽は「仮皇帝」を称した。

『漢書』王莽伝はいう。五月甲辰,太後詔莽朝見太后稱「假皇帝。」と。王太后が詔して、王莽に王太后に朝見させ、「仮皇帝」を称させたと。
ぼくは思う。これが荀悦の春秋の筆法なのかな。『春秋』のなかで、僭称した人たち(楚王とか?)がどう記されているのか、どう三伝で解釈されているのか検討したい。
ぼくは思う。荀悦は、王莽の革命における、王太后の役割を消すことにより、王莽を突っ走ったバカに仕立てようとしているのか。王太后は漢家のおばさんだから、漢家の敵であってはならないのだ。『漢書』は、まだ史実に近づこうとしたから、王元后と王莽のあいだの葛藤がある。しかし『漢紀』では、すべてすっ飛ばされる。
ぼくは思う。王元后の役割の希薄さを指摘できたら、ちょっとした話になるだろう。

冬10月丙辰、日食あり。

ぼくは思う。『漢書』王莽伝で、王莽が官制改革をしたり、王莽の府や第の呼称を定めたりする。また、「王舜の子・王匡を同心侯とし、王林を說德侯とする。孔光の孫・孔壽を合意侯とする。甄豐の孫・甄匡を並力侯とする。甄邯と孫建は、3千戸ずつ増やす」という論功行賞も行われる。荀悦は、すべてはぶく。
ぼくは思う。荀悦は、政治の具体的な参考資料をつくる気がない。これは献帝の立場を反映したものなのか。それとも、『春秋』のアッサリ味にならったのか。
官制改革も論功行賞もせずに、(儒教礼制の制定すら追いかけずに)ただ天文だけを気にしていれば良い、 とするなら、献帝は「象徴」皇帝になってしまうよw
この、はぶきっぷり。『漢書』王莽伝はいう。
十二月,群臣奏請:「益安漢公宮及家吏,置率更令,廟、廄、廚長丞,中庶子,虎賁以下百餘人,又置衛士三百人。安漢公廬為攝省,府為攝殿,第為攝宮。」奏可。
莽白太后下詔曰:「故太師光雖前薨,功效已列。太保舜、大司空豐、輕車將軍邯、步兵將軍建皆為誘進單于籌策,又典靈台、明堂、辟雍、四郊,定制度,開子午道,與宰衡同心說德,合意並力,功德茂著。封舜了匡為同心侯,林為說德侯,光孫壽為合意侯,豐孫匡為並力侯。益邯、建各三千戶」

この歳、西羌の龐恬、傅幡がそむく。護羌校尉の竇況がたいらぐ。

『漢書』王莽伝はいう。
是歲,西羌龐恬、傅幡等怨莽奪其地作西海郡,反攻西海太守程永,永奔走。莽誅永,遣護羌校尉竇況擊之。
ぼくは思う。ちょっとずつ、経緯や固有名詞が省かれている。


居摂2年、翟義が劉信を天子に立てる

其二年春。竇況破西羌。夏四月。更造貨。錯刀一。直三十。契刀一。直五百。大錢一。直五十。與五銖並行。

居摂2年(後07)、竇況が西羌を撃破した。
夏4月、王莽は貨幣を鋳造し、五銖銭と併用された。

ぼくは思う。『漢書』王莽伝の、民多盜鑄者。禁列侯以下不得挾黃金,輸御府受直,然卒不與直。は省略されている。実務に役立ちそうな知恵なんだが。


九月。東郡太守翟義。立嚴鄉劉信為天子。東平王雲子也。翟義。方進小子也。義將起兵。謂其姊子上蔡陳豐曰。莽必代漢。吾父子受國厚恩。當為國討賊。假令時不成。死國埋名。猶可以不慚先帝。汝其從我乎。豐年十八。壯勇許諾。遂與東郡劉宇嚴鄉侯劉信信弟璜結謀。初信兄開明立為王。無子。而信子匡嗣立為東平王。故義并東平王而立信。義自為大司馬柱天大將軍。以東平王傅蘇隆為丞相。丹為御史大夫。東平王孫卿素有智略。以明兵法。在京師。義乃詐移書。以重罪傳逮慶。移書郡國。言莽毒殺平帝。攝天子位。欲以絕漢。今天子已立。恭行天罰。

9月、東郡太守の翟義が、劉信を天子に立てる。

ぼくは思う。下線部は、王莽伝では足りない記述です。翟義伝からもってきた。『漢書』翟方進伝はいう。
數歲,平帝崩,王莽居攝,義心惡之,乃謂姊子上蔡陳豐曰:「新都侯攝天子位,號令天下,故擇宗室幼稚者以為孺子,依托周公輔成王之義,且以觀望,必代漢家,其漸可見。方今宗室衰弱,外無強蕃,天下傾首服從,莫能亢扞國難。吾幸得備宰相子,身守大郡,父子受漢厚恩,義當為國討賊,以安社稷。欲舉兵西誅不當攝者,選宗室子孫輔而立之。設令時命不成,死國埋名,猶可以不漸於先帝。今欲發之,乃肯從我乎?」豐年十八,勇壯,許諾。
義遂與東郡都尉劉宇、嚴鄉侯劉信、信弟武平侯劉璜結謀。及車郡王孫慶素有勇略,以明兵法,征在京師,義乃詐移書以重罪傳逮慶。於是以九月都試日斬觀令,因勒其車騎材官士,募郡中勇敢,部署將帥。嚴鄉侯信者,東平王雲子也。雲誅死,信兄開明嗣為王,薨,無子,而信子匡復立為王,故義舉兵並東平,立信為天子。義自號大司馬柱天大將軍,以東平王傅蘇隆為丞相,中尉皋丹為御史大夫,移檄郡國,言莽鴆殺孝平皇帝,矯攝尊號,今天子已立,共行天罰。郡國皆震,比至山陽,眾十餘萬。郡國振動。比到山陽。眾十餘萬。

『漢書』王莽伝はいう。
九月,東郡太守翟義都試,勒車騎,因發奔命,立嚴鄉侯劉信為天子,移檄郡國,言「莽毒殺平帝,攝天子位,欲絕漢室,今共行天罰誅莽」。
ぼくは思う。ほおら、やっぱり王莽伝では、全然たりない。


莽惶恐。抱孺子禱郊廟。作筴告。遣諫議大夫桓譚等告諭天下。當反政之意。乃收族義家。後母及兄宣皆死。

王莽は惶懼して、食えない。 昼夜、王莽は孺子の劉嬰をだいて、郊廟に告禱する。『周書』大誥にある周公がつくった策文にもとづき、諫大夫の桓譚を使者にして、天下に政治を返却する意思(反政之意)をしめした。

『漢書』王莽伝はいう。
莽惶懼不能食,晝夜抱孺子告禱郊廟,放《大誥》作策,遣諫大夫桓譚等班於天下,諭以攝位當反政孺子之意。 ぼくは思う。「孺子」に反政するとあるが、単純な言葉の省略だろう。意味は同じ。荀悦の筆法は見られない。

翟義の家属を収容し、母と兄の翟宣を殺した。

ぼくは思う。この1文だけ、王莽伝にない。交互に文書を噛ませるほど、王莽伝と翟義伝をこまめに参照している。荀悦は、この事件に興味があるのだ。


遣王邑孫建等十八人將兵擊義。又置腹心七將軍。屯關中以自備。

王莽は、王邑や孫建ら18将軍に翟義を撃たせる。王莽は腹心の7将軍に、関中を守らせる。

張烈はいう。『漢書』翟義伝では、7将軍である。ぼくは思う。王莽伝では、8将軍である。
ぼくが思うに荀悦は、王莽とその反対者との戦いを、人数を大げさにする。春秋の筆法で、人数を水増することに関する注釈はないかな。王莽の革命に対して、天下が苛烈に反対した(そのため王莽も大量の兵力を費やさざるを得なかった)という話をつくれるだろう。
『漢書』王莽伝はいう。
槐裡男子趙明、霍鴻等起兵,以和翟義,相與謀曰:「諸將精兵悉東,京師空,可攻長安。」眾稍多,至且十萬人,莽恐,遣將軍王奇、王級將兵拒之。以太保甄邯為大將軍,受鉞高廟,領天下兵,左杖節,右把鉞,屯城外。王舜、甄豐晝夜循行殿中。
ぼくは思う。こういう細かい戦闘の経過は削除される。



冬十有二月。王邑等破翟義。斬劉璜。義與信棄軍亡。義捕得。傳尸長安。磔陳都市。信卒不得。初聞兵。茂陵以西二十三縣賊盡發。趙明霍鴻等自稱將軍。劫掠吏民。眾十餘萬。火見未央宮殿前。

冬12月、王邑らが翟義をやぶり、劉璜を斬る。翟義と劉信は軍をすてて逃げる。翟義はつかまり、長安で死体をさらされる。劉信はつかまらず。

ぼくは思う。天子になった劉信について、翟義伝は「卒不得信」とあり、『漢紀』は「信卒不得」である。まあ、語順は違うが、一緒かな。王莽伝には、この結末が書いてない。班固は翟義伝にリンクをはった。

はじめ翟義の起兵をきくと、茂陵より西の23県で、すべて賊がおきた。趙明と霍鴻は、将軍を自称して、吏民を劫掠した。10余万になる。戦火は未央宮の殿前から見えた。

ぼくは思う。これは王莽伝にない。『漢書』翟義伝はいう。
初,三輔聞翟義起,自茂陵以西至B651二十三縣盜賊並發,趙明、霍鴻等自稱將軍,攻燒官寺,殺右輔都尉及EA69令,劫略吏民,眾十餘萬,火見未央宮前殿。
やはり固有名詞や戦況は省かれている。それにしても、王莽が肉眼で叛乱軍を見たんだなあ。
ぼくは思う。王莽伝で、司威の陳崇が「王莽に天命があるから、翟義なんて自滅ですよ」というが、それを荀悦は採用しない。
『漢書』王莽伝はいう。
十二月,王邑等破翟義於圉。司威陳崇使監軍上書言:「陛下奉天洪範,心合寶龜,膺受元命,豫知成敗,鹹應兆占,是謂配天。配天之主,慮則移氣,言則動物,施則成化。臣崇伏讀詔書下日,竊計其時,聖思始發,而反虜仍破;詔文始書,反虜大敗;制書始下,反虜畢斬,眾將未及齊其鋒芒,臣崇未及盡共愚慮,而事已決矣。」莽大說。
ぼくは思う。王莽にとって、アンフェアであるw


居摂3年、王莽が真皇帝になる

其三年春。地震。大赦天下。明鴻等皆破。莽自以威德遂盛。獲天人助。乃謀即真之事。

居摂3年春、地震あり。天下を大赦した。趙明と霍鴻をやぶったので、王莽は強まる。「即真之事」をはかる。

ぼくは思う。ところで居摂の年号を「其」と書いているが、これは春秋の筆法なのか。ほかでは、ただ年数のみ書く。年号を何度も書いたり、不自然な「其」を付けたりしない。『春秋』では「王正月」という表現があり、いろんな注釈がついていたが。なにか荀悦も意味を込めたのかな。
『漢書』では、ふつうに「三年」としか書いてない。
ぼくは思う。後漢の献帝の時期は、平帝死後の前漢にも似て、「いまがほんとうに王朝の年数のうちなのか」が怪しい。
ぼくは思う。後漢の光武帝が起兵した西暦025年に、『春秋』が収録する期間242年を足したら、西暦267年になった。蜀漢も曹魏も滅びた時期に近い。光武帝の起兵(22年)を起点にすれば、蜀漢の滅亡までちょうど242年。偶然だろうけど、電卓をたたいて、ゾッとしたw さすが儒教国家なだけあります。というか、ゾッとできるほど、ぼくも思考が近代からズレてきた。
ぼくは思う。荀悦がどんな「春秋の筆法」で、前漢の歴史を解釈&叙述し、曹操にあてつけ、献帝を励ましたか。これを指摘するために『春秋』を学ばねばならない、、という機運が高まってきた(自分史上最高)。数年来、気にしているが、まさに「今でしょ」。『漢書』との差異を見つけても、そこから議論を運べない。
ぼくは思う。王莽が苦労して、真皇帝になるための検討をするが、荀悦は削除。ぼくの王莽伝の抄訳を載せます。
『漢書』王莽伝はいう。王莽は未央宮の白虎殿で、おおいに置酒した。将帥をねぎらい、陳崇に軍功を評価させた。王莽は上奏した。「唐虞のとき、封侯がたくさんいた。周武王が孟津で勝つと、8百諸侯を封じた。周公旦が居摂すると、18百諸侯を封じた。『礼記』王制では、17百余国ある。孔子『孝経』では「小国もモレなく封じ、まして公侯伯子男はキッチリ封じた。ゆえに万国は悦んで先王に仕えた」とある。秦制では諸侯を郡県にして、皇帝が天下の利を集中したので、2世で滅びた。 王元后は、中断した諸侯を再設置した。西海郡が羌族に、東郡が翟義に惑わされたが、忠臣や孝子が平定した。周制にもとづき、爵位を5等、地を4等とする。上から順に、侯伯子男の4つをおき、5番目の関内侯を「付城」と改名する。数百人に5等爵を与える。功績を立てたとき戦った場所や相手により、爵位の称号を決める。など。
ぼくは思う。荀悦は、王莽による五等爵の設置を、がん無視したのか。重要そうな事件なのに。いままで長々とした上表や詔書を省略しても、結果だけは数文字で要約して載せたのに。「曹操が爵位の再編成とか始めたら、漢家がやばい」という認識を、持っていたのだろう。しかし「爵位の再編成とか、やめてね」というだけで、曹操に気づかせてしまう。「忘れてください」は言えないのだ。


秋七月。莽母功顯君死。意不在喪。為緦衰服而加麻環絰。如天子弔諸侯之禮。自以為攝天子位。不敢服其私親也。凡一弔會葬皆如初。令新都侯崇為主。服喪三年。

秋7月、王莽の母が死んだ。王莽の意は「哀」にない。天子が諸侯を弔問する礼で、王莽は母を弔った。

『漢書』王莽伝はいう。9月、王莽の母・功顕君が死んだ。王元后は、いかに王莽が服喪すべきか、議論させた。少阿・羲和の劉歆は、博士や諸儒78人とともにいう。「殷湯王の死後、伊尹が居摂した。周武王の死後、周成王が居摂した。君主が死んでも、居摂する者が、政事をうまくやるのだ。摂皇帝の王莽は、実母が死んだのだが、天子が諸侯を弔問するように対応せよ(政事を優先にして、服喪するな)」という。王莽は1度だけ弔問した。王莽の孫・新都侯の王宗が、3年の服喪をした。
ぼくは思う。だいたい同じ内容である。
ぼくは思う。荀悦は「儒教史」に興味はなさそう。王莽は、儒教研究者である荀悦にとって、先行研究の泰斗である。しかし、王莽がいかに思考し、いかに儀礼を遂行したかについては、書いてない。献帝に概説するのが優先である。

王莽は、天子の位に摂くので、私親のために服喪しない。新都侯の王崇が喪主となり、3年喪した。

『漢書』王莽伝だと、このあと、衍功侯の王光(王莽の兄子)をとがめる事件がある。儒教の音楽に関する命令がある。はぶく。


廣饒侯劉京上書。言齊郡臨淄縣亭長卒。嘗夢見人曰。天公使我告亭長。居攝皇帝當為真。不信我。亭中當有新井。亭長起視。亭中有新井百尺。又太保藏洪奏新井亭長符命。言雍巴郡得銅符帛圖。文曰。天告帝符。獻者封侯。

廣饒侯の劉京が上書する。「斉郡の臨菑県で、亭長が卒した。かつて亭長は、夢で天公から、居摂皇帝が真皇帝になると告げられたと。私は信じないが、夢で告げられた井戸が、ほんとうに見つかった。巴郡から銅符と帛圖が献上された」と。

ぼくは思う。このあたり、要約されてるが『漢書』王莽伝に忠実です。荀悦は、夢をみた亭長の固有名詞をはぶくくせに、どのような神秘が起きたのか、しっかり書きとめる。近代人なら、うっかり全削除してしまい、「ウソくさい報告に、誑かされ(たふりをして)」と要約してしまいそうなものだが。荀悦の暴力的な要約の仕方に照らせば、そういう要約だって、充分にありえた。
ぼくは思う。長谷川先生の論文にあった昌邑王の劉賀は、もっぱら人間=霍光によって廃位された。神秘が介在していなかった。だから、記述がザックリなんじゃないかな。
ぼくは思う。荀悦から献帝への心配として、瑞祥の報告がない限り、漢家は安泰だと考えていたのでは。賢しらな賢臣が、どれだけ政治改革をやっても(荀悦が省略してしまえるほどの)些末な事件だった。しかし瑞祥に関しては、直接のトリガーになるため、漢家をおびやかす。人間を軽視する、荀悦の歴史観がみえる。

符命を献上した者は、侯爵に封じられた。

ぼくは思う。このあと王莽は、11月に王太后に向けて、長文の上奏をやる。符命の由来と意味を説明している。荀悦は、そこはカットするw
ぼくは思う。王莽は「王元后と王平后に奏するとき、私は「仮」皇帝と自称する」と宣言している。禅譲史では重要な意味を持ちそうだが、これもカット。
ぼくが考える荀悦のあたまのなかは。祥瑞は(長谷川先生が重視する日食と同じく)確固たるものであり、重視すべきだ。しかし符命に対する王莽の解釈は、掲載するに値しない。つまり、王莽は祥瑞の誤読者である。王莽が、こざかしく解釈を並べ立てるが、まったく献帝に読ませるにあたいしない。という感じか。
ぼくは思う。荀悦は平帝の最期を病死とした。「王莽が平帝を毒殺した」は、翟義の自己主張に過ぎないとして、カッコのなかに入れた。長谷川先生に基づけば、地の文もしくは皇帝の発言として載せると、絶対化されてしまう。王莽の平帝毒殺は、地の文に登録されなかった。
つまり王莽は、天命のもとの無力な人間である。荀悦の段階で、後漢が滅びるという符命がないから、荀悦は安穏として、「王莽のときは(荀悦が無視できないレベルで)漢家の終わりを予言する符瑞があった」が「王莽は符瑞を活かしきれなかった」と言うことができる。前漢末のように符瑞が出ていない今日(建安初期)は、いかに董卓や曹操が暴れても、後漢は安泰だと。
再説すると、符瑞がない以上、いかに(王莽より御しがたい)董卓や曹操が暴れても、後漢は安泰である。人為的な政策なんて、誤差だよと。
ツイッター用まとめ。荀悦は人間=人為に関心がうすいかも。『漢紀』は政策を省略するが、日食を網羅。だが日食への解釈は省略。符瑞を詳述するが、符瑞を持参した人名は省略「人間が歴史を動かす」と思わないから、霍光や王莽に対してもドライ。これはぼくらが思ってる「歴史」とはだいぶ違う。編年体という形式は淡々と進むため、荀悦はドライを装ったかも知れないが。形式が内容を規定するものだから。


莽於是改居攝三年為初始元年。期門郎張充等交謀共劫莽。立楚王。發覺誅死。

王莽は、居摂3年を初始元年とした。

ぼくは思う。これは、王莽から王太后への、長い長い上奏の一部を、結論だけ抜き出したものだ。周公旦との比喩は、みごとに省かれている。王莽が用意した正当性なんて、チャチで下らないのかw わりに肝心なところなのに。

期門郎の張充ら6人が、王莽を排除して、楚王を天子に立てようとする。発覚して、誅死した。

ぼくは思う。分量が少なくても、こういう反対運動はきちんと載せる。しかし、楚王の名がない。『漢書』王莽伝によると、劉紆というのだ。


梓潼人哀章作銅匱為兩。 檢其一曰。天帝行璽金匱圖。其二曰。赤帝璽某。傳與黃帝莽金策。書某者。高皇帝名也。言莽為真天子圖。書莽大臣八人。有王盛王興。哀章因自竄其名。凡十一人。皆署官爵。為輔佐。以付高廟僕射以聞。戊辰。莽到高廟。拜受金匱。遂即天子位。改正朔。易服色。以十二月為正。以雞鳴時為朔。色尚黃。

梓潼の哀章が、銅匱を2つ作る。

ぼくは思う。『漢書』王莽伝からの省略はあるが、おなじ内容。符命の文面も同じ(当然だけど)。「哀章因自竄其名」という、きな臭い陰謀も、『漢書』王莽伝と同じ。
ぼくは思う。ここから言えるのは。哀章は、班固『漢書』から、特別に変更を加えなくても、漢新革命を表現できると考えた。もしくは、それ以外に、やりようがなかった。

戊辰、王莽は高廟に報告した。金匱を受けとり、天子の位に即いた。正朔を改め、服色を易える。12月を正月とする。鶏鳴のときを朔とする。色は黄をとうとぶ。

『漢書』王莽伝はいう。
御王冠,謁太后,還坐未央宮前殿,下書曰:「予以不德,托於皇初祖考黃帝之後,皇始祖考虞帝之苗裔,而太皇太后之末屬。皇天上帝隆顯大佑,成命統序,符契圖文,金匱策書,神明詔告,屬予以天下兆民。赤帝漢氏高皇帝之靈,承天命,傳國金策之書,予甚祇畏,敢不欽受!以戊辰直定,御王冠,即真天子位,定有天下之號曰『新』。其改正朔,易服色,變犧牲,殊徽幟,異器制。以十二月朔癸酉為建國元年正月之朔,以雞鳴為時。服色配德上黃,犧牲應正用白,使節之旄幡皆純黃,其署曰『新使王威節』,以承皇天上帝威命也。 ぼくは思う。「新」という国号を、荀悦は省いた。むしろ『漢書』に「新」と書いてあるほうが、恐ろしいことなのかも知れないけど。
ぼくは思う。王莽から王太后に下書するという、コミュニケーションが成り立って、建国が行われる。しかし『漢紀』では、王莽が単独でぐいぐい進めるだけである。


◆『漢書』王元后伝による補足

初高帝時得秦玉璽。因服命之。名傳國璽。莽令王舜從太后求之。太后怒罵舜。汝不顧義。我漢家寡老婦。旦暮且死。用此璽俱葬。終不可得。太后因號泣而言。左右莫不垂涕。舜悲不自勝。良久。乃白太后曰。臣等已無可言。莽必欲得之。太后寧能終不與邪。太后恐欲劫之。乃出投之於地。曰我老已死矣。知汝兄弟。不久滅族矣。乃尊太后為新室文母。

王元后は、王莽が使わした王舜に、伝国璽をとられた。新室文母となった。

『漢書』王元后伝はいう。
初,漢高祖入咸陽至霸上,秦王子嬰降於軹道,奉上始皇璽。及高祖誅項籍,即天子位,因御服其璽,世世傳受,號曰漢傳國璽。以孺子未立,璽臧長樂宮。及莽即位,請璽,太后不肯授莽。莽使安陽侯舜諭指。舜素謹敕,太后雅愛信之。舜既見,太后知其為莽求璽,怒罵之曰:「而屬父子宗族蒙漢家力,富貴累世, 既無以報,受人孤寄,乘便利時,奪取其國, 不復顧恩義。人如此者,狗豬不食其餘, 天子豈有而兄弟邪!且若自以金匱符命為新皇帝, 變更正朔服制,亦當自更作璽,傳之萬世,何用此亡國不祥璽為,而欲求之?我漢家老寡婦,旦暮且死,欲與此璽俱葬,終不可得!」太后因涕泣而言,旁側長御以下皆垂涕。舜亦悲不能自止,良久乃仰謂太后:「臣等已無可言者。 莽必欲得傳國璽,太后寧能終不與邪!」太后聞舜語切,恐莽欲脅之,乃出漢傳國璽,投之地以授舜,曰:「我老已死,(知)〔如〕而兄弟,今族滅也!」
ぼくは思う。ちょいちょい短縮されているが、『漢書』と同じ意味だ。まとめて打消線を引けないほど、わりと丁寧に(内容が減らないように、しかし字数は減らして)荀悦が引用している。本紀と王莽伝をのぞき、列伝から引用するとき、それは荀悦が着目した記事。翟義伝、王元后伝が、王莽の居摂期では該当している。ぎゃくに、この2人しか該当していない。
ぼくは思う。『漢紀』を読む限りでは、王元后は一方的な被害者である。「意図していないが、王莽に協力してしまった、王莽を頼ってしまった、漢新革命を助けてしまった」というニュアンスは読み取れない。
ぼくは思う。「新」という国号は、禅譲後、ここに初めて登場する。しかし、なんの感慨も込められない。むしろ『漢書』が、リベラルに「新」を描きすぎたのかも知れない。『漢紀』くらいの抑圧があるほうが、自然なのかも知れない。まあ班固が「新」を書きまくったおかげで、禅譲の作法が後世にブラッシュアップしたんだけど。

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『漢紀』王莽の始建国;両龔伝・溝洫志を推す

始建国元年春、劉嬰が定安公

莽以十月癸酉朔。為建國元年春。大赦天下。乃策命孺子曰。咨爾嬰。昔皇天佑乃太祖。歷代十二。享國二百一十載。天之厤數。在于予躬。詩不云乎。侯服于周。天命靡常。封爾為定安公。永為新室賓。於戲。敬天之休。往踐乃位。無廢朕命。以平原安德漯陰鬲重丘合凡萬戶。為安定公國。立漢祖宗之廟於其國。與周後並行其正朔服色。

王莽は、12月癸酉ついたちを、建国元年春とした。

張烈はいう。原文は10月とあるが、12月が正しい。
ぼくは思う。年の切れ目が、なぜだか曖昧である。ちゃんと「始建国元年、正月」とやってほしかった。中華書局版でも、改行のタイミングが見失われている。春秋の筆法に、年の切れ目をボカす方法があるのだろうか。
自明のように暦が記されるのではなく、「ほんとうは違うのだが、王莽が強引に正月だと言い張るから、仕方なくそのように記述してやるけれども」というニュアンスだろうか。
ぼくは思う。『漢書』王莽伝では、ここで巻が変わる(王莽伝中が始まる)ほどの、エポックメイクを強調する方法だった。
ぼくは思う。年号は「始建国」のはずが、「建国元年」になってる。正確に記す気すらないw

王莽は孺子に策命した。「歴代12、国を享けて210載。孺子は定安公となれ。漢祖の宗廟をつくり、周家の後裔と同じく、正朔と服色を使いつづけろ」

『漢書』王莽伝はいう。
莽乃策命孺子曰:「咨爾嬰,昔皇天右乃太祖, 歷世十二,享國二百一十載,曆數在于予躬。詩不云乎?『侯服于周,天命靡常。』 封爾為定安公,永為新室賓。於戲!敬天之休, 往踐乃位,毋廢予命。」又曰:「其以平原、安德、漯陰、鬲、重丘,凡戶萬, 地方百里,為定安公國。立漢祖宗之廟於其國,與周後並,行其正朔、服色。世世以事其祖宗,永以命德茂功,享歷代之祀焉。以孝平皇后為定安太后。」
ぼくは思う。王莽の動作について、『漢書』と『漢紀』で同じだ。王莽の策命も同じだ。こういう政策は、地の文に開かれてしまうことが多いが、ここではカギカッコのなかに入っている。「地の文にすることで、絶対化される」という長谷川先生の考え方なら、王莽が孺子を貶めたのは「王莽が勝手に言っているに過ぎない」となる。
ぼくは思う。『漢書』から『漢紀』にするときに、引用から地の文、地の文から引用、という記法の変更があるところに注目すると、なにかが言えるかも知れない。
ツイッター用まとめ。『漢紀』は、国号から漢から新に変わると書かない。また劉嬰は定安公に降格されるが、王莽が勝手に主張したという扱い。なぜなら『漢紀』で政策を記すとき、詔書や策書の引用でなく、地の文にひらいて載せるのが原則(これは帰納的にぼくが見つけた)。字数を減らすという効果もある。だが定安公の件は、例外的に策書の引用という体裁。編者である荀悦が、既成事実と認めていないか。
ぼくは思う。荀悦の認識では、漢代は242年続いた。これは『春秋』に基づいた理念的な数字。しかし王莽は、210年という。まあ引用箇所だから、変えられない。もしくは「王莽は数え間違えてる。ダサいなあ」というメッセージも出せるか。
ぼくは思う。荀悦が、詔書等からの引用という形式を採用しない理由が、わかった。かってに変えられない。文字数を減らすとき、これは痛手である。


讀策畢。莽親執孺子手。流泣歔欷曰。昔周公攝位。終得復子明辟。今予獨迫皇天威命。不得如意。哀歎良久。中傅將太子下殿。北面稱臣。百僚陪位。莫不感動。

王莽はみずから孺子の手をとる。中傅は太子をひきいて、下殿させる。北面して、称臣させる。

『漢書』王莽伝はいう。
讀策畢,莽親執孺子手,流涕歔欷, 曰:「昔周公攝位,終得復子明辟,今予獨迫皇天威命,不得如意!」哀歎良久。中傅將孺子下殿,北面而稱臣。百僚陪位,莫不感動。
ぼくは思う。孺子の行動は、受け身である。王莽に手をとられる。中傅にひっぱられる。昌邑王の劉賀は、皇帝として主体的に記されていた。孺子は、皇太子に過ぎないから、荀悦の配慮がいきとどかないのか。
ぼくは思う。張烈は「太子をひきい」を「孺子をひきい」に直せという。たしかに、ずっと孺子と記されているから、突然変異して「太子」になるのはおかしい。しかし、せっかく「荀悦の筆法」にお目にかかれるなら、ここが美味の材料である。定安公に降格されることで、「孺子」なんて呼ばれる筋合がなくなったのだ。


以孝平皇帝后為安定太后。復更號曰黃皇室主。欲嫁之。主不聽。

平帝の王皇后は、黄皇室主となり、再婚をこばむ。

『漢書』王皇后伝はいう。
三年,莽即真,以嬰為定安公,改皇太后號為定安公太后。太后時年十八矣,為人婉瘱有節操。自劉氏廢,常稱疾不朝會。莽敬憚傷哀,欲嫁之,乃更號為黃皇室主, 令立國將軍成新公孫建世子襐飾將毉往問疾。 后大怒,笞鞭其旁侍御。
ぼくは思う。『漢書』では「太后」「后」と呼ばれている。だが荀悦は、黄皇室主になってから、「主」とよぶ。実態を反映している。
ぼくは思う。地味だけど、本紀と王莽伝以外から持ってきた話である。荀悦が注目しているのだ。この『漢紀』の後ろで、孝平后曰。何面目復見漢家。遂投火而死。后婉嫕有志操。自劉氏廢稱疾不朝會。莽欲改嫁之。令立國將軍孫建子將醫問疾。后大怒。鞭其旁侍者。發怒不起。莽遂不敢逼之。とある。これも『漢書』王皇后伝に基づいている。こっちでは「王平后」に戻っている。一貫しない。


莽按金匱輔臣皆封。拜王舜為太師。平晏為太傅。劉歆為太師。哀章為國將。是為四輔。甄邯為大司馬。王尋為大司徒。王邑為大司空。是為三公。甄豐為更始將軍。王興為衛將軍。孫建為立國將軍。王盛為前將軍。是為四輔將軍。凡十一人。

建国の功臣を賞して、11公ができた。

『漢書』王莽伝はいう。
又按金匱,輔臣皆封拜。以太傅、左輔、驃騎將軍安陽侯王舜為太師,封安新公;大司徒就德侯平晏為太傅,就新公;少阿、羲和、京兆尹紅休侯劉歆為國師,嘉新公;廣漢梓潼哀章為國將,美新公:是為四輔,位上公。太保、後承承陽侯甄邯 為大司馬,承新公;丕進侯王尋為大司徒,章新公;步兵將軍成都侯王邑為大司空,隆新公:是為三公。大阿、右拂、大司空、衞將軍廣陽侯甄豐 為更始將軍,廣新公;京兆王興為衞將軍,奉新公;輕車將軍成武侯孫建為立國將軍,成新公;京兆王盛為前將軍,崇新公:是為四將。凡十一公。 以應符命之名。
ぼくは思う。『漢書』では11「公」であり、『漢紀』では11「人」である。微妙に貶められているが、誤差か。莽新の三公なんて「公」と呼ぶに値しないよと。このあたり、春秋の筆法がノウハウの蓄積が豊富だろう。
先謙はいう。先謙はいう。四輔、三公、四将で、合計11公である。

符命に応じて任命した。

『漢書』王莽伝はいう。
王興者,故城門令史。王盛者,賣餅。莽按符命求得此姓名十餘人,兩人容貌應卜相,徑從布衣登用,以視神焉。 餘皆拜為郎。是日,封拜卿大夫、侍中、尚書官凡數百人。
ぼくは思う。固有名詞を、まるごと飛ばした。まあ、モチ売りなんて、どうでも良いのだ。のちの政治にも、聞いてこない。まあ社会の下位集団として、ほかの官僚になじめないぐらいで。
ぼくは思う。つぎに『漢書』で、諸劉為郡守,皆徙為諫大夫。とある。劉氏の有力者の権限を削いだものだが、荀悦ははぶく。


孺子居其邸。使者監護。敕阿保乳母不得與語。至壯大不能名六畜。

孺子は邸に居住し、監護させる。

『漢書』王莽伝はいう。
改明光宮為定安館,定安太后居之。以故大鴻臚府為定安公第,皆置門衞使者監領。敕阿乳母不得與語,常在四壁中,至於長大,不能名六畜。後莽以女孫宇子妻之。
ぼくは思う。荀悦が省きすぎたが、劉嬰が住んだのは、もと大鴻臚府である。ここでは劉嬰が能動者になっている。長谷川氏の指摘した、劉賀と同じである。
ぼくは思う。王莽が孫をめとらせたことは、荀悦が省略した。

乳母にしゃべらせない。成長しても六畜の名をいえない。

ぼくは思う。能動と受動の書き換えはなかった。献帝は、もしかしたら劉嬰のようになっていた。献帝を寒からしめる鏡像のすがた。


莽定諸侯王皆稱公。及四夷皆更為侯。更作小錢徑六分。文曰小錢。與大錢一直五十者。為二品並行。

王莽は、劉氏の諸侯王を公爵とした。四夷を侯爵とした。

ぼくは思う。長いので引用しませんが、ここで王莽は、『尚書』典誥に基づき、職務を規定する。荀悦は官職に興味がないので、ここでも大胆にカットされている。打ち消し線を引いたら、画面いっぱいにテキストがつぶされる。
ぼくは思う。王莽伝では、又曰:「天無二日,土無二王,百王不易之道也。漢氏諸侯或稱王,至于四夷亦如之,違於古典,繆於一統。其定諸侯王之號皆稱公,及四夷僭號稱王者皆更為侯。」と、きちんと(まがりなりにも儒教に基づき)正朔の理由が説明される。荀悦は、こういうのを省略するのが得意であるw
ぼくは思う。つぎに王莽は、歴代の帝王の子孫を封じる。帝嚳の子孫として、劉歆を祁烈伯に封じる。顓頊の子孫として、国師の劉歆の子を伊休侯とするなど。荀悦は無視る!姚氏、媯氏、陳氏、田氏、王氏の5姓は、虞舜の子孫なので、王莽の同族として尊ばれた。荀悦は無視る!
王莽は、劉氏が滅びた年数や根拠について、解釈をたくさんする。荀悦は無視る!孔子『春秋』が、哀公の即位14年目(に獲麟の記事)で終了するように。漢家の哀帝が即位して14年目に、漢家の赤徳が終了したとか。

小銭を鋳造して、大銭と併用させた。

ぼくは思う。『漢書』王莽伝では、貨幣政策の真意が述べられている。「劉」の文字は、卯、金、刀に分解できる。正月の剛卯(装飾品)と、金刀之利(銅銭)を使ってはならないとか。荀悦は、王莽の解釈につきあう気持ちが、まったくない。


始建国夏~、雷と花の怪異

夏四月。徐鄉侯劉快結黨千數。起兵於其國。快兄殷。故漢膠東王時改為扶公。國在即墨。快攻殷。殷閉城拒。快敗走死。莽增殷國為萬戶。

4月、徐郷侯の劉快が、自国で数千人と結んで起兵した。

ぼくは思う。同一の事件が、王莽伝にある。圧縮されているが、内容は同じ。


復井田制。

井田制に復した。

ぼくは思う。『漢書』王莽伝は詳しい。450文字を費やす。荀悦は、まったく付き合うそぶりすら見せない。貨幣政策についても、経過の記述があるが、荀悦は無視。荀悦は、天から降ってくるサインには敏感だが、地の上で踊る人間の叡智には、まったく冷たい。
ぼくは思う。荀悦が王莽に厳しいのでなく、班固が王莽に優しすぎたのだろう。だって「漢」の歴史だからね。班固がいかに異常か。ぼくらが知ることができる王莽の情報量は、異常値なのだ。奇跡的に古代中国の姿が明らかになっている。


遣五威將軍王奇等。班符命四十二篇於天下。以著代漢之符。赦天下。五威將軍。皆乘乾文車。駕坤六馬。背負鷩鳥之毛。服飾甚偉。各置左右前後中帥。凡五帥。衣冠各如其方色。將軍持節。稱太一之使。帥持幢。稱五帝之使。

五威将軍の王奇らが、符命42編を天下にまく。「代漢之符」をあらわす。5方向に将軍をつかわし「五帝之使」という。

ぼくは思う。王莽伝では、ここから秋。「代漢之符」の内容を、しっかり書いてあるのが『漢書』王莽伝です。ほんとうに長い!
ぼくは思う。匈奴の単于の印章をランクダウンして、もめた話が、王莽伝のここにある。荀悦は、対外問題についても、かるくスルーする。献帝期は「匈奴どころじゃない」んだろう。国内の軍事との関わりにおいてのみ、異民族を意識するぐらいで。


冬雷桐華。真定劉都等謀起兵。發覺誅。真定常山大雨雹。

始建国元年の冬、雷がなり、桐の花がさく。

ぼくは思う。王莽伝は、このあいだに、五威の司命と中城将軍、四関将軍をおく。諫大夫50人を郡国にまわす。こういう政策を、荀悦は載せない。
ぼくは思う。王莽伝は、このあいだに、長安の狂女が「高祖が怒った」という記事がある。人為的な怪異は、荀悦の興味ではないらしい。劉氏をほめる記事なのに。

真定の劉都らが挙兵を謀った。発覚して、みな誅した。真定と常山で、雹がたくさん降った。

ぼくは思う。雷とか花とか、雹とか。どれだけ王莽の政策を無視する荀悦であっても、ここはモレなく掲載する。字数の比率からしたら、まったく無視できるレベルなのに。あたかも「漢帝が不在のあいだ、(人為のことは無視して良いが)天地のことだけは記録をつないでおかねば」という、荀悦の問題意識が映し出されているようだ。
ぼくは思う。ぼくが荀悦なら、こう言いたい。「班固は、莽新期の天変地異について、わかりにくくした。『漢書』五行志は途中で終わって、日食の記事ですら、まとまってない。王莽伝は、くだらない理屈ばかりで、天変地異の記述が埋没する。いい加減にしろよ。私が再編集してあげましょう」という感じ。
あー、つかれた。今日からウインドウズ8のパソコン。ここで終了。130502


始建国2年、王莽が腹心と決裂、揚雄伝

其二年。莽之九月。戊己校尉史陳良終帶共殺校尉刁護。劫掠吏士。自稱漢大將。亡入匈奴。
十有二月雷。更名單于號曰降奴服于知。

その2年、莽の9月。

ぼくは思う。年号の書き方に悪意がある! ぼくは思う。いきなり9月にとぶが。『漢書』王莽伝では、五威將帥の72人が、長安に還って奏事した。漢家の諸侯で公爵だった者を、民とした。六筦之令を設置した。匈奴の単于と決裂して、国境を攻撃された。などの事件がある。
ぼくは思う。劉氏の公爵を民にしたなんて、省いちゃいかんだろ。

戊己校尉史の陳良と終帯は、上官である戊己校尉の刁護を殺して、漢の大将軍を自称し、匈奴に亡命した。

ぼくは思う。これは王莽伝の11月に、孫建の上奏のなかで出てくる。それを荀悦が、地の文に開いたのだ。こういう漢家に有利な記事は、ちゃんと地の文に開いて、載せてくれる。
孫建が「劉氏を甘やかし過ぎた」といい、王莽は劉氏の爵位を、ここでさらに降格するのだが、それは載せない。王莽の娘を「黄皇室主」と改称するのは、王莽伝ではこのタイミングなのだが。さっき王皇后伝とついでに、荀悦は書いてしまった。
まとめると、王莽は劉氏の待遇を落としてゆくが、それを荀悦は書かない。黙殺することで、「王莽の政策は正しくない」と主張できる。

12月、雷あり。

ぼくは思う。天候は絶対に逃さない!

単于の称号と名を「降奴服の知」とする。

ぼくは思う。王莽伝では、180人の将軍が出てゆくのに、さっぱり『漢紀』では触れない。軍事行動は、わりにどうでも良い。というか、匈奴に興味がないのだ。
つぎに王莽伝は、貨幣の流通政策をやる。荀悦がはぶく。王莽伝は、『食貨志』にリンクをはるが、荀悦は無視る。五行志にしか、興味がないのだ。
ぼくは思う。荀悦は後漢の現状において、「人間がとやかく奔走しても意味がない。曹操の軍事制度、曹操の経済政策、曹操の官制改革など、すべてどうでも良い。天体の運行や、気象の変化によってしか、後漢の未来を占うことはできない」と考えていたようだ。『漢書』の省略が、容赦なさすぎる。
もしくは、軍事、政治、経済について口をはさむと、曹操と衝突することを恐れたのか。このあたり、ただ『春秋』の体裁をまねたから簡潔になったのか、『春秋』にも軍事、政治、経済が載っているのに、荀悦が記述を回避したのか。具体例をもとに確定せねばならない。
ぼくは思う。匈奴との外交なんて、儒教思想による秩序を表現するには、もってこいの題材である。荀悦が評論をつけても良いほどのテーマだ。しかし全く食いつかない。少なくとも王莽を、儒教の教材として見ていない。


時多作符命。以得封侯。其不為者。戲曰獨天帝無除書。自是莽乃禁之。

みなが符命を多作して、封侯にしてもらう。王莽は(この風潮が過剰なので)符命の制作を禁じた。

『漢書』王莽伝はいう。
是時爭為符命封侯,其不為者相戲曰:「獨無天帝除書乎?」司命陳崇白莽曰:「此開姦臣作福之路而亂天命,宜絕其原。」莽亦厭之,遂使尚書大夫趙並驗治,非五威將率所班,皆下獄。


初甄豐劉歆王舜等建安漢宰衡之號。非復令莽居攝也。及即真。歆舜內懼。而豐性剛。形於顏色。豐子尋復作符命。故漢氏平帝后黃皇室主為尋妻。莽發怒收尋。皆死。連者數百人。

はじめ、甄豊、劉歆、王舜は、王莽の腹心である。王莽に「安漢」「宰衡」の号をあたえたが、居摂させたくなかった。

『漢書』王莽伝と、記述の順序はおなじ。ただし、内容をけずっている。王莽の腹心が、王莽から離反する記事は、省略しない。王莽が積極的にはたらきかけて、いろいろ「改革」する部分は、無視するのに。
渡邉義浩先生が、王莽も曹操も「改革者」だと位置づける。荀悦は、王莽の改革者としての政策を、『漢紀』で見事に黙殺する。曹操の改革者としての政策も、見る気がない、もしくは触れる気がない。荀悦の死は209年である。袁氏を滅ぼしたあとの曹操が、どんな政策を実行するか。漢家の官僚は、沈黙をまもって、じっと見守っていたに違いない。曹操も、みなが手を引っこめるなか、どうしても先に行かねばならなかった。そして赤壁で敗北して帰ってきたw

王莽と腹心たちは、決裂した。

このへんは、『漢書』王莽伝のサマリだ。
『漢書』王莽伝はいう。
初,甄豐、劉歆、王舜為莽腹心,倡導在位, 襃揚功德;「安漢」、「宰衡」之號及封莽母、兩子、兄子,皆豐等所共謀,而豐、舜、歆亦受其賜,並富貴矣,非復欲令莽居攝也。居攝之萌,出於泉陵侯劉慶、前煇光謝囂、長安令田終術。莽羽翼已成,意欲稱攝。豐等承順其意,莽輒復封舜、歆兩子及豐孫。豐等爵位已盛,心意既滿,又實畏漢宗室、天下豪桀。而疏遠欲進者,並作符命,莽遂據以即真,舜、歆內懼而已。
豐素剛強,莽覺其不說, 故徙大阿、右拂、大司空豐,託符命文,為更始將軍,與賣餅兒王盛同列。豐父子默默。時子尋為侍中京兆大尹茂德侯,即作符命,言新室當分陝,立二伯, 以豐為右伯,太傅平晏為左伯,如周召故事。莽即從之,拜豐為右伯。當述職西出,未行,尋復作符命,言故漢氏平帝后黃皇室主為尋之妻。莽以詐立,心疑大臣怨謗,欲震威以懼下,因是發怒曰:「黃皇室主天下母,此何謂也!」收捕尋。尋亡,豐自殺。
尋隨方士入華山,歲餘捕得,辭連國師公歆子侍中東通靈將、五司大夫隆威侯棻,棻弟右曹長水校尉伐虜侯泳,大司空邑弟左(闕)〔關〕將軍(堂)〔掌〕威侯奇, 及歆門人侍中騎都尉丁隆等,牽引公卿黨親列侯以下,死者數百人。尋手理有「天子」字,莽解其臂入視之,曰:「此一大子也,或曰一六子也。六者,戮也。明尋父子當戮死也。」乃流棻于幽州,放尋于三危,殛隆于羽山, 皆驛車載其屍傳致云。

ぼくは思う。どれだけ省略するねんw


◆ちょっとだけ揚雄伝

詞及揚雄。時校書在天祿閣。使者欲收之。雄恐懼。自投閣下幾死。莽聞之曰。雄素不豫事。何故在此。間請問其故。乃歆子棻從雄問奇字。有詔勿問。

天祿閣で校書する揚雄は、王莽に捕らわれそうになり、自死した。劉歆の子・劉棻が、揚雄から学んだからである。王莽は劉棻を無罪とした。

『漢書』揚雄伝はいう。
王莽時,劉歆、甄豐皆為上公,莽既以符命自立,即位之後,欲絕其原以神前事,而豐子尋、歆子B14B復獻之。莽誅豐父子,投B14B四裔,辭所連及,便收不請。時,雄校書天祿閣上,治獄使者來,欲收雄,雄恐不能自免,乃從閣上自投下,幾死。莽聞之曰:「雄素不與事,何故在此?」間請問其故,乃劉B14B嘗從雄學作奇字,雄不知情。有詔勿問。然京師為之語曰:「惟寂寞,自投閣;EBBC清靜,作符命。」
京師の人々は、揚雄の自死をいたんだと。
ぼくは思う。王莽伝だけでも、話が完結しそうなのに、わざわざ揚雄伝から、一瞬だけ引用してきた。思い入れがあるんだなあ。符命に振り回される人々に、批判的。荀悦は、天候などの人為が介在しない祥瑞には肯定的だが、文字が浮き出る系の、人為が介在する祥瑞には否定的である。巻き込まれた人々のドラマを、ちょっとだけ載せる。人間ぎらいなのにw


莽之為人。大口蹶顄。露眼赤睛。大聲如嘶。長七尺五寸。好厚履高冠。反膺仰視。或云所謂鴟目虎喙豺聲也。故能噉人。亦為人所噉。莽聞而誅之。王舜自莽即位。病悸而死。

王莽の人となりと外見は、口がおおきく丸顔である。

『漢書』王莽伝はいう。
莽為人侈口蹷顄, 露眼赤精,大聲而嘶。 長七尺五寸,好厚履高冠,以氂裝衣, 反膺高視,瞰臨左右。是時有用方技待詔黃門者,或問以莽形貌,待詔曰:「莽所謂鴟目虎吻豺狼之聲者也,故能食人,亦當為人所食。」問者告之,莽誅滅待詔,而封告者。後常翳雲母屏面, 非親近莫得見也。
ぼくは思う。王莽については、外見的特徴を記す。長谷川氏のいう霍光とは異なる。ただし霍光の場合は、ほめ言葉が省かれた。王莽の場合、けなす言葉が残された。同じ意味ではあるまい。少なくともこの瞬間において、班固と荀悦の意図が合致した、というだけである。
ぼくは思う。荀悦『漢紀』の王莽(本紀でも列伝でもない、無題の一万字)を、班固『漢書』と比較してます。荀悦がほんとうに奔放=恣意的に『漢書』を切り貼りしていることに気づく。ぼくも王莽の歴史を編纂したくなる。史料を編年体に切り貼りして、編者の意図も注釈として残す。それを新書の体裁で製本したいw タイトルは「新書『新書』」だな。

王舜は王莽が即位すると、病死した。

ぼくは思う。王舜の死は、『漢書』王莽伝では、つぎの始建国3年にある。
王莽伝はいう。
太師王舜自莽篡位後病悸,劇,死。 莽曰:「昔齊太公以淑德累世,為周氏太師,蓋予之所監也。 其以舜子延襲父爵,為安新公,延弟襃新侯匡為太師將軍,永為新室輔。」


始建国3年、両龔伝と溝洫志より

其三年。遣謁者持節。安車印綬。拜楚國龔勝為太子師友祭酒。秩上卿。

始建国3年、王莽は楚国の龔勝を、太子師友祭酒にしたい。

ぼくは思う。いきなり龔勝の特集が始まったが。
王莽伝では、「有德行・通政事・能言語・明文學の人材を1人あげろ」という。匈奴での戦線は、補給のために内郡が荒れて、平州と并州には盗賊がいる。 王莽は、政治改革をして、太子に師友をおく。これが龔勝がまねかれる直接の原因である。
ぼくは思う。王莽の政治改革をまるごと無視して、王莽への抵抗だけを載せる。こうすれば『漢紀』を読んだ読者は、『漢書』を概観したと錯覚して、王莽は横車を押し、なんの改革もすることもなく、必然的に劉氏に破れた、という歴史観を抱くことができる。後漢において、いかに王莽が抑圧されていたかがわかる。
ぼくは思う。『漢書』よりも『漢紀』が優れているという、倒錯的な評価がある。『漢書』のどこをはぶくことで、『漢紀』は『漢書』を上回ったのか。ひとつは王莽に対する、宙づりの評価を『漢紀』が解消したことだろう。ほんとうは後漢は王莽の改革の上にたつのに、それを黙殺することで、わかりやすくなる。
日本の太平洋戦争に関する態度からも、なにか言えるかも。戦後日本は、じつは戦前から連続しているのに、その側面を無視することで、「より優れた歴史」になると。そういう言説は、あっても不思議ではない。ちゃんと探せば、いくらでもあるだろう。
歴史を「教科書的に完結したもの」「暗記すべきもの」と考える人にとっては、リアルでほころびのある『漢書』よりも、クリアカットな『漢紀』のほうが美しい。王莽が「流産」させた政策が省かれているから、暗記のコストが軽減されるし。漢代の人にとって、王莽が噴出させる固有名詞は、漢代の人にとってノイズだ。


◆『漢書』両龔(龔勝と龔舍)列伝

使者之郡。太守縣邑長吏三老官屬行義諸生千人入勝舍。致詔書。勝因稱病篤。使者以印綬加勝。輒推去。使者自言請留守勝。以秋涼發。勝知不免。謂門人高暉等曰。吾蒙漢之厚恩。豈以一身事二姓。遂不食十四日而死。有父老弔哭甚哀。曰嗟乎。薰以香自燒。膏以明自消。龔生竟夭天年。非吾徒也。遂出。莫知其誰。

王莽の使者が楚郡にきた。だが龔勝は受けずに「漢家に厚恩を受けたのに、1身で2姓に仕えられない」といい、14日食わずに死んだ。

勝字君賓。與同郡龔舍字長倩友善。故世稱兩龔。並著名節。勝哀帝時為諫議大夫。薦龔舍甯壽皆徵。勝曰。竊見國御巫醫。尚為駕御。賢士宜有駕。於是詔從之。壽稱疾不至。舍至。拜諫議大夫。以疾免。即就家拜太山太守。使者到縣。請舍到庭受拜。舍曰。王者以天下為家。何必於宮。遂就家拜之。至官數月。以疾乞骸歸。兄子曼容亦養志自脩。為官不肯過六百石。輒自免去。

龔勝は、あざなを君賓という。同郡の龔舍は、あざなを長倩という。龔勝と龔舍は友善した。世から「両龔」とよばれる。龔勝は哀帝のとき、諫議大夫となる。龔勝は、龔舍と甯壽を、どちらも推薦して徵した。彼らは王莽に仕えない。

莽以安車迎齊薛方。曰。堯舜在上。下有巢許。今則主上方隆唐虞之德。亦猶小臣欲守箕山之節。莽悅而聽之。隃糜郭欽。杜陵蔣詡字元卿。皆以郡守刺史。以廉恥著名。齊國栗融字客卿。北海禽慶字子夏。蘇章字文則。山陽曹竟字子期。皆大儒。俱不仕莽。

莽新に仕官しなかったのは、以下の大儒である。斉国の薛方、隃糜の郭欽。杜陵の蔣詡、齊國の栗融、北海の禽慶と蘇章、山陽の曹竟らである。

『漢書』両龔伝はいう。
薛方嘗為郡掾祭酒,嘗征不至,及莽以安車迎方,方因使者辭謝曰:「堯、舜在上,下有巢由,今明主方隆唐、虞之德,小臣欲守箕山之節也。」使者以聞,莽說其言,不強致。方居家以經教授,喜屬文,著詩賦數十篇。
始隃麋郭欽,哀帝時為丞相司直,奏免豫州牧鮑宣、京兆尹薛修等,又奏董賢,左遷盧奴令,平帝時遷南郡太守。而杜陵蔣詡元卿為兗州刺史,亦以廉直為名。王莽居攝,欽、詡皆以病免官,歸鄉里,臥不出戶,卒於家。
齊栗融客卿、北海禽慶子夏、蘇章游卿、山陽曹竟子期皆儒生,去官不仕於莽。莽死,漢更始征竟以為丞相,封侯,欲視致賢人,銷寇賊。竟不受侯爵。會赤眉人長安,欲降竟,竟手劍格死。

ぼくは思う。いずれも王莽に仕えない人々の話。これを荀悦は、わざわざ王莽伝に追記して、掲載している。栗融、禽慶、蘇章、曹竟は、『漢書』両龔伝からは拾えなかったが、まあ探せば、どっかにあるでしょ。


◆王莽伝にもどる

池陽有小人。影長尺餘。或乘車馬。或步行。操持萬物。小大皆自稱。三日乃止。海濱蝗。河水汎清河以東數郡。

この歳、池陽県に小人の景がいる。身長は1尺余。車馬に乗ったり、歩行したりした。小人の景は、万物を操った(ひとりでに動かせた)。3日でいなくなった。
黄河ぞいの(南北の両側の)郡でイナゴ。黄河が魏郡で決壊し、清河より東の郡に氾濫した。

ここから、『漢書』溝洫志がはじまる。
【洫】キョク。耕作地の用水路。城市を守る水堀。カラにする。破れる。


◆『漢書』溝洫志をたっぷり引用

莽徵能治河者。至以百數。大略者長水校尉平陵關並言河決。率嘗於平原東郡左右。其地形下而土疏惡也。聞禹治河。本空此地。以為南北不過百八十里。河空此地。不為官亭民室而已。大司馬掾張式言。水性就下。行疾則自刮成空而稍深。河水重濁。號一石水六斗泥。今西方諸郡。及京師民。引河渭水以溉田。春夏少水時。故河流遲。貯淤而稍淺。雨多水暴至則溢決。而國家數隄塞之。稍益高於平地。猶築垣牆而貯水也。可順從其性。無復以灌溉。則水道通利。無溢決之害矣。臨淮韓牧以為可略於禹貢九河處穿之。縱不能為九。但為四五。宜有益。大司空掾王璜言。河入渤海。地高於韓牧所欲穿處。往者天嘗連雨。東北風。海水溢西南。出浸數百里。九河地悉為海水漸矣。禹之行河水。本從西山下。東北去。周書曰。定王五年河徙。則今所行非禹之所穿也。又秦攻魏。決河灌其都。決處遂大。不可復補。宜卻徙完平處。更開空。使緣西山足。乘高地東北入海。乃無水災。事亦無施行者。

王莽は、黄河を治水できる者をつのった。数百があつまる。長水校尉する平陵の關並が言うには、 (『漢書』溝洫志を、ほぼ採録して治水をのべる)

『漢書』溝洫志はいう。
王莽時,征能治河者以百數,其大略異者,長水校尉平陵關並言:「河決率常於平原、東郡左右,其地形下而土疏惡。聞禹治河時,本空此地,以為水猥,盛則放溢,少稍自索,雖時易處,猶不能離此。上古難識,近察秦、漢以來,河決曹、衛之域,其南北不過百八十里者,可空此地,勿以為官亭民室而已。」大司馬史長安張戎言:「水性就下,行疾則自刮除成空而稍深。河水重濁,號為一石水而六斗泥。今西方諸郡,以至京師東行,民皆引河、渭山川水溉田。春夏乾燥。少水時也,故使河流遲,貯淤而稍淺;雨多水暴至,則溢決。而國家數堤塞之,稍益高於平地,猶築垣而居水也。可各順從其性,毋復灌溉,則百川流行,水道自利,無溢決之害矣。」御史臨淮韓牧以為「可略於《禹貢》九河處穿之,縱不能為九,但為四五,宜有益。」大司空掾王橫言:「河入勃海,勃海地高於韓牧所欲穿處。往者天嘗連雨,東北風,海水溢,西南出,浸數百里,九河之地已為海所漸矣。禹之行河水,本隨西山下東北去。《周譜》雲定王五,年河徙,則今所行非禹之所穿也。又秦攻魏,決河灌其都,決處遂大,不可復補。宜卻徙完平處,更開空,使緣西山足乘高地而東北入海,乃無水災。」沛郡桓譚為司空掾,典其議,為甄豐言:「凡此數者,必有一是。宜詳考驗,皆可豫見,計定然後舉事,費不過數億萬,亦可以事諸浮食無產業民。空居與行役,同當衣食;衣食縣官,而為之作,乃兩便,可以上繼禹功,下除民疾。」王莽時,但崇空語,無施行者。
ぼくは思う。ほぼ字数が同じじゃないか。荀悦はほんとうに人為の外部が好きだ。王莽の政策は見るべきところがなくても、治水のことは参考にすべきだと。ぼくは治水の技術者ではないから、内容について吟味できない。しかし荀悦の、かなり偏重的な態度については、よくわかった。
『漢紀』の読者は、もうすぐ終わりだと思いながら、ここで膨大な治水の記述にぶちあたる。王莽の失敗は、政策の巧拙ではなくて、天変地異によるものであると。王莽伝だけを読み、溝洫志を見落とすような者(たとえばぼく)にとっては、荀悦の歴史観は、洞察を深めてくれる。
ぼくは思う。王莽の政治と儒学において、仕官をこばむ者を、両龔伝をもとに載せる。王莽の政治と儒学には、こばむのが荀悦にとっては正解である。つぎに、王莽の治水において、仕官に応じる者を、溝洫志をもとに載せる。いかに治水したかを載せてしまう。アンバランスなほど、大量の文字数で。すなわち『漢書』溝洫志を、あなり省略せずに。王莽の治水事業には、おうじるのが荀悦にとっては正解である。
これはもう、「曹操に配慮した」云々よりも、荀悦の歴史観(というより価値観)が反映されているとしか思えない。漢代の歴史というのは、人為がなすものではないと。「歴史は人間がつくる」は、べつに自明じゃない。ブローデル風でもある。


始建国4年、赤気がおおう

其四年夏。赤氣出東方竟天。東北西南皆反亂侵邊。

始建国4年2月、天下を赦した。夏、赤氣が東南に出て、天をおおう。

王莽伝では赤気は2月である。
『漢書』王莽伝は、匈奴との戦争を描きつづけるが、荀悦は無視する。「匈奴の話か、よし削除だ」という、自動的な思考の動きがあるかと思われるほどだ。『漢紀』武帝紀と比べねばなるまい。武帝のとき、匈奴を無視ってたら、よほどである。
、、と思って、『漢紀』武帝紀を見てみたら、匈奴の話題であふれていた。「王莽に関してのみ、匈奴は無視する」という方針なんだろう。王莽については、「いかなる王朝であったか」ではなく、「いかに不当か」「いかに滅びるべきか」ばかりに、注意が払われる。だから、王莽がやったことは、それ自体がいかに重要でも、荀悦に採用されない。

東北と西南で、辺境が侵犯された。

うわあ!どれだけザツやねん。
『漢書』王莽伝では、この歳にも記述がおおい。
王莽は、王莽は明堂にきて、諸侯に茅土を授けた。地方行政の区画を検討した。洛陽への遷都を検討した。封地の体系を決める。井田制を緩和して、田地の売買をちょっと許した。高句麗が反乱した。


始建国5年、王太后が崩じる

其五年二月。文母皇后崩。葬渭陵。與元帝合而溝水絕之。立廟於長安新室。世世獻祭。元帝配食。坐於床下莽為后服喪三年。西域焉耆國叛殺都尉。冬十有一月。孛星出。

その5年2月、文母皇后が崩じた。

『漢書』王莽伝では、文母皇太后である。微妙に荀悦のほうが、貶められている。皇太后より、皇后が下位である。
『漢書』王莽伝は、ほぼ同じ。
五年二月,文母皇太后崩,葬渭陵,與元帝合而溝絕之。 立廟於長安,新室世世獻祭。元帝配食,坐於牀下。莽為太后服喪三年。 ほら。
『漢書』王莽伝では、孔永が骸骨をこう。長安の民は、洛陽の遷都をまち、邸宅をこわす。王莽は、王元后の喪中なので、遷都を延期する。烏孫の大昆弥と小昆弥から使者をもらう。荀悦がはぶく。

西域の焉耆國がそむき、都尉を殺す。
冬11月、孛星がでる。

『漢書』王莽伝では、この歳の末尾に、「明年改元曰天鳳」とある。
ぼくは思う。王莽は真皇帝になってから、「始建国」と「天鳳」という2つの年号を使う。しかし荀悦は、「王莽の何年目」とカウントするだけで、始建国と天鳳のあいだを区別しない。年号を採用するか否かが、政治的な立場を表明する、という分かりやすい例。しかしこのサイトでは、荀悦の意に反して(閲覧の便宜のために)年号で分けたいと思います。

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『漢紀』王莽の天鳳;匈奴伝の厳尤を推す

莽6年、地方の制度をいじる

其六年三月壬申晦。日有蝕之。四月。隕霜殺草木。六月黃霧四塞。

王莽の6年(天鳳元年)3月みそか、日食あり。

ぼくは思う。『漢書』王莽伝では、「2月から巡狩する。東南西北を1年でまわり、帰ってきて、土中の洛陽に都する 」と、王莽が天下の巡狩の計画を語る。
ぼくは思う。『漢書』王莽伝で、3月の日食の解釈を語る。
『漢書』王莽伝はいう。
三月壬申晦,日有食之。大赦天下。策大司馬逯並曰:「日食無光,干戈不戢,其上大司馬印韍,就侯氏朝位。太傅平晏勿領尚書事,省侍中諸曹兼官者。以利苗男訢為大司馬。」
抄訳する。日食により光らず、干戈は戦わず。(日食は大司馬にとって不吉なので)逯並は、大司馬の印韍を返上して(官職でなく爵位の資格にて)侯爵として朝廷に出席せよ。太傅の平晏は、領尚書事するな。侍中・諸曹のうち、兼官する者をはぶけ。利苗男の苗訢を(逯並の後任の)大司馬とせよ」と。
長谷川氏の指摘するとおり、日食の事実だけ記すが、それに対する解釈や政策について記さない。
『漢書』王莽伝では、つぎに大臣の過失をチクったものを賞賛するので、官僚が分裂する様子が書かれる。王邑や哀章がひっかかる。荀悦ははぶく。

4月、霜がふる。6月、霧がでる。

ぼくは思う。王莽伝にある、四月,隕霜,殺木, 海瀕尤甚。 六月,黃霧四塞。が抜けている。これは荀悦のミスだな。(と1回書いてしまった)
ぼくは思う。荀悦サマが、天変地異を見逃すはずがなかった。


秋七月。大風拔樹木。北闕城門瓦飛。雨雹。殺牛羊。
莽以周官王制之文。置卒正連率。大尹職如太守。屬長職如都尉。置州牧。其禮如三公。郡監二十五人。位上大夫。各主五郡。皆世其官。
分長安六卿。置六師。各一人。分三輔為六尉郡河東河南河內弘農潁川南陽為六隧。郡置大夫。職如太守。屬正職如都尉。及他官名悉改。大都至分為六郡。縣以亭長為名者三百六十。
其後數變更。一郡至五易名。而旋復其故。吏民不能記。每下詔書。輒繫其本名而兼言之。

秋7月、風と雹。王莽は地方行政の制度をいじった。混乱した。

『漢書』王莽伝はいう。
莽以周官、王制之文,置卒正、連率、大尹,職如太守;屬令、屬長,職如都尉。置州牧、部監二十五人。見禮如三公。監位上大夫,各主五郡。公氏作牧,侯氏卒正,伯氏連率,子氏屬令,男氏屬長,皆世其官,其無爵者為尹。
分長安城旁六郷,置帥各一人。分三輔為六尉郡, 河東、河內、弘農、河南、潁川、南陽為六隊郡, 置大夫,職如太守;屬正,職如都尉。更名河南大尹曰保忠信卿。益河南屬縣滿三十。置六郊州長各一人,人主五縣。及它官名悉改。大郡至分為五。郡縣以亭為名者三百六十,以應符命文也。緣邊又置竟尉,以男為之。 諸侯國閒田,為黜陟增減云。
莽下書曰:「常安西都曰六鄉,衆縣曰六尉。義陽東都曰六州,衆縣曰六隊。粟米之內曰內郡, 其外曰近郡。有鄣徼者曰邊郡。合百二十有五郡。九州之內,縣二千二百有三。公作甸服,是為惟城;諸在侯服,是為惟寧;在采、任諸侯,是為惟翰; 在賓服,是為惟屏; 在揆文教,奮武衞,是為惟垣;在九州之外,是為惟藩: 各以其方為稱,總為萬國焉。」
其後,歲復變更,一郡至五易名,而還復其故。吏民不能紀,每下詔書,輒繫其故名,曰:「制詔陳留大尹、太尉:其以益歲以南付新平。 新平,故淮陽。以雍丘以東付陳定。陳定,故梁郡。以封丘以東付治亭。治亭,故東郡。以陳留以西付祈隧。祈隧,故滎陽。陳留已無復有郡矣。大尹、太尉,皆詣行在所。」其號令變易,皆此類也。
ぼくは思う。荀悦はハデに要約したのである。しかし、地方制度なんて、興味がなさそうな分野なのに。あまりに名称の変更がはげしく、行政が滞ったという笑い話を強調するために、これを書いたのだろう。王莽がどのような区画をつくったかを、『漢紀』から読み取ることはできない。読み取るためには、省きすぎである。


令天下小學。以戊子代甲子為六旬首。

天下の小学に、甲子でなく戊子から、六旬(60日)を数えろという。

『漢書補注』で周寿昌はいう。王莽がつくった『王光暦』を適用させようとした。
『漢書補注』で銭大昭はいう。戊寅の10日間には、「子=ネ」がない。子孫が増えなくて不吉だから、(結婚すべきでない)忌日としたのだ。何焯はいう。王莽は土徳なので、戊子(戊=土)から60日を起算させようとした。戊寅は、枝が幹に勝つから、忌日とした。 ぼくは思う。荀悦は、コヨミには関心があった。
ぼくは思う。王莽伝ではつぎに、単于が代替わりし、益州の蛮夷が叛く。しかし荀悦は、興味がない!ほんとうに(莽新期の)異民族との戦闘に興味がない。王莽がいかなる理念を掲げたかにも、興味がない。


莽7年、行政が停滞する

其七年春。日中星見。民訛言黃龍墜地。死黃山。宮中百姓奔走。觀者萬數。

王莽の7年(天鳳2年)春、日中に星が見える。黄竜が地に墜ちて死んだという。宮中も百性も、見物する者が1万をかぞえる。

ぼくは思う。三公レベルの人事が動くが、無視。
寧始將軍侯輔免,講易祭酒戴參為寧始將軍。 二年二月,置酒王路堂,公卿大夫皆佐酒。 大赦天下。 是時,日中見星。 大司馬苗訢左遷司命,以延德侯陳茂為大司馬。おいおいw
王莽は、「黄竜の死骸を見物した者がいたら、捕縛せよ」と命令する。見物した者を特定できなかったのだが。荀悦は、黄竜の死に対する、王莽の対処を載せない。
つづいて匈奴の単于と交渉するが、カット。荀悦を読む限り、匈奴との外交の失敗、補給が苦しい大規模な戦争には気づかない。王莽が滅亡した原因として、匈奴はカウントされていない。後漢の人々の共通認識で良いのではないかな。へんに経済史をかじると、「匈奴との戦争により、王莽政権は打撃を受けて」なんて思うが、ちっとも儒家に寄り添っていないw


莽制禮作樂。說六經。公卿旦入暮出。連年不決。

王莽は制礼作楽して、六経をとく。公卿は入れ替わるが、連年しても結論がでない。

『漢書』王莽伝はいう。
莽意以為制定則天下自平,故銳思於地里,制禮作樂,講合六經之說。公卿旦入暮出,議論連年不決,不暇省獄訟冤結民之急務。縣宰缺者,數年守兼, 一切貪殘日甚。
ぼくは思う。「制度さえ作れば、天下はおのずと平らぐと思った」という、班固が推測した王莽の胸中を、荀悦は削ってしまう。また、王莽が制度を確定できないことによる弊害の具体例を、荀悦ははぶく。ほんとうに実務に(というか人間に)興味がない。


十一公分布勸農桑。班令於天下。中郎繡衣執法在郡國。乘權勢。更相奏舉。案章交錯道中。召會吏民。逮捕證左。白黑紛亂。貨賂相冒。守宮闕告訴者甚眾。

11公が農桑をすすめる。

張烈はいう。11公「士」が正しい。
『漢書』王莽伝はいう。 中郎將、繡衣執法在郡國者,並乘權勢,傳相舉奏。又十一公士分布勸農桑,班時令,案諸章,冠蓋相望,交錯道路,召會吏民,逮捕證左,郡縣賦斂,遞相賕賂,白黑紛然,守闕告訴者多。
ぼくは思う。荀悦は「貨賂相冒」などと要約しながら、ただし内容の傾向はおなじ。王莽の政治が、いかに停滞しているかを表現している。光武帝のお膳立て。


莽自以專權得漢政。故咸自攬眾務。常御燈火。至明不能治。有司受成苟免。因緣為姦而已。上書者連年不決。縣宰郵者至數年。兼領一切。競為貪苛。拘繫縣獄者。至連年逢赦乃得出。衛士不交代者數年。

王莽がなんでも1人で決めるから、行政が停滞する。

『漢書』王莽伝はいう。 莽自見前顓權以得漢政,故務自衆事,有司受成苟免。 諸寶物名、帑藏、錢穀官,皆宦者領之; 吏民上封事書,宦官左右開發,尚書不得知。其畏備臣下如此。又好變改制度,政令煩多,當(奏)〔奉〕行者, 輒質問乃以從事, 前後相乘,憒眊不渫。 莽常御燈火至明,猶不能勝。尚書因是為姦寢事,上書待報者連年不得去,拘繫郡縣者逢赦而後出,衞卒不交代三歲矣。穀常貴,邊兵二十餘萬人仰衣食,縣官愁苦。 五原、代郡尤被其毒,起為盜賊,數千人為輩,轉入旁郡。莽遣捕盜將軍孔仁將兵與郡縣合擊,歲餘乃定,邊郡亦略將盡。
ぼくは思う。やはり同じような内容。ただし、経済や軍事については、なんの遠慮もなく切り捨てる。


冬。以郡縣災害。率減吏祿。終不得祿者。各因職為姦利以自給。穀糴常貴。百姓窮困。起為盜賊。邯鄲以北大雨。水出流殺人。

冬、軍県で災害。吏禄が減り、払われない。穀物の価格はあがり、百性は困窮する。盗賊がおこる。

ぼくは思う。どんだけザツやねんw 『漢書』王莽伝に個別に対応するわけじゃなく、全体の印象でまとめてしまったような記述。吏禄の制度改革は、つぎの天鳳3年に記事があった。

邯鄲より北で大雨。洪水で人が死ぬ。

『漢書』王莽伝はいう。 邯鄲以北大雨霧,水出,深者數丈,流殺數千人。 立國將軍孫建死,司命趙閎為立國將軍。寧始將軍戴參歸故官,南城將軍廉丹為寧始將軍。 ぼくは思う。大雨はちゃんと記すが、重要な人事は無視。


莽8年、王莽の『春秋』解釈にキレる

其八年春二月。大雨雪。深者二丈。柏竹咸枯死。地震。
莽詔曰。地者有動有震。震者為害。動者不害。故易稱曰坤動而靜。辟脅萬物。萬物生焉。其好自誣飾。皆此類也。

王莽の8年目(天鳳3年)春2月、大雪が2丈つもる。柏竹が枯れた。地震あり。

ぼくは思う。さすがの荀悦。王莽伝から省略なし。

王莽は詔した。「地が動き震えるもの。震えるのは害である。動くのは害でない。ゆえに『易経』では、坤動而靜という。動くところから万物が生育する」と。王莽が理論をもて遊ぶのは、このようであった。

ぼくは補う。王莽伝では、大司空の王邑が「私は8年も大司空をしたが、地震が起きた。辞職したい」と上言する。それに対する王莽の回答がこれ。
ぼくは思う。「其好自誣飾」は、王莽伝にない。荀悦の基本方針は、日食や地震への解釈を記さないこと。しかし、荀悦から見て、あまりにバカな解釈が書いてあるから、ついつい引用した上で、批判してしまった。原則をやぶってしまった。
ぼくは思う。じつは王莽伝には「春秋記地震」と書いてある。『春秋』の学徒である荀悦は、自分の専門分野が「侮辱」されるのに、納得できなかったのだろう。かといって、王莽による『春秋』の解釈を載せてしまえば、その部分が自分の著作に含まれ、拡散してしまう恐れがある。それはイヤだ。だから、『易経』の部分だけ引用して、「王莽のバカヤロウ」という。苦労してるな、荀悦さんw


長平觀西岸崩壅涇水。涇水不流。郡臣上壽。以為土填水。匈奴滅亡之兆也。臣下從諛亦如之。

長平館(長平観)の西岸が崩れた。涇水が流れない。群臣は「土が水を填めろ。匈奴が滅亡する前兆である」という。臣下のへつらいは、このようである。

ぼくは思う。王莽では、この記事の前に、5月、吏禄の制度(給与支払の制度)を決める。しかし荀悦は無視する。経済問題については、他人ゴトである。いわば、赤字体質のライバル企業の仕事の内容に、あまり興味が持てないようなものだ。
長平観で崩れるのは、王莽伝に「この月」とあるから、5月である。
ぼくは思う。『漢紀』の「臣下從諛亦如之」は、『漢書』にない。つまり荀悦が、王莽政権の性質について、まとめにかかっている。王莽伝では、「以土填水」と記した河図が出てくる。荀悦は、これを偽作だと判断したのか、記述しない。


秋七月丁酉。霸陵城災。戊子晦。日有蝕之。翟義黨王孫慶捕得。莽使大醫尚方巧屠。共刳剝之。量度五藏。以竹挺尋脈。知所終始。云可以治病。

秋7月辛酉、霸城門がもえた。7月戊子みそか、日食あり。

いつも思う。災異の網羅性はさすがである。
ぼくは思う。王莽伝から、益州の異民族(句町)との戦いをはぶく。反乱が報告され、将軍を任命して、戦闘を工夫して、、というプロセスに、荀悦は興味がないらしい。

翟義の残党・王孫慶を捕らえて、医者に解剖させ、治療の研究をさせた。

ぼくは思う。ここは『漢書』王莽伝からの省略がない。
翟義黨王孫慶捕得,莽使太醫、尚方與巧屠共刳剝之, 量度五藏,以竹筳導其脈,知所終始, 云可以治病。
「云可以治病」という、あまり信用してなさそうな態度も、班固を継承している。班固が王莽に批判的であってくれれば、荀悦は、そのまま引用する用意が万全なのだ。


莽9年、呂母が赤眉を始める

其九年。琅邪女子呂母為子報仇。黨眾寖多。至數萬人。號曰赤眉。

王莽の9年。

『漢書』王莽伝では、保成師友祭酒の唐林という、人徳のある老人を王莽がほめている。荀悦がカット!
王莽伝では、6月に王莽が、明堂で諸侯に茅土を授ける。カット!
ぼくは思う。班固が王莽伝の本文に、「王莽は、空言をこのみ、古法をしたう。おおく人に爵位をくばった。だが、じつは王莽の性格はケチだ。地理が古典どおりに定まらないことを理由に、金銭をくばらず、茅土だけをくばり、封者を慰めて喜ばせた」とある。
王莽をけなす良いネタかと思いきや、荀悦はカット。茅土の件を(批判的にでも)書くだけで、王莽への愛を提示したことになる。という荀悦の判断であろう。班固の王莽に対する愛情は、それほどまでに細やかなのだ。
ぼくは思う。王莽伝では、ふたたび「六管之令」を明らかにする。荀悦は、これもカット。経済政策には、興味がないわ。わりと充実した政策論争が、王莽伝に書かれているんだが。

瑯邪の呂母が、報仇する。数万が赤眉となる。

赤眉の経緯を減らしてある。ぼくは思う。赤眉は、王莽を倒すが、後漢に直結しない。というか、後漢のライバルである。だから、史料の分量のうえで、冷遇してあるのだ。


莽親至南郊作威斗。威斗者。以五石銅為之。形若北斗。長二尺五寸。欲以厭兵。令有司命人負之。

王莽は南郊にゆき、威斗を鋳作した。 5石の銅でつくる。形は北斗。長さは2尺5寸。厭兵したい。有司は人にこれを背負わせた。

ぼくは思う。王莽伝と同じ。
是歲八月,莽親之南郊,鑄作威鬥。威鬥者,以五石銅為之,若北斗,長二尺五寸,欲以厭勝眾兵。既成,令司命負之,莽出在前,入在禦旁。鑄鬥日,大寒,百官人馬有凍死者。


莽10年、長吏の財産8割を没収

其十年正月朔。北軍南門災。莽一切收長吏家財五分之四以助邊。令吏得告將。許奴告主。欲禁姦。姦愈甚。

王莽の10年目(天鳳5年)正月ついたち、北軍の南門が燃えた。

『漢書』王莽伝で、大司馬司允の費興を、荊州牧にすると、費興が経済政策を批判する。王莽は怒って費興を免じる。荀悦ははぶく!
王莽の嫡孫の王宗が、皇帝を気どって誅される。しかし荀悦は自信をもって省略。莽新の内紛なんて、漢家の歴史にには関係ないから。

王莽は、長吏の家財の5分の4を没取し、辺境(匈奴との戦費)にまわす。吏には(上官の)将を、奴には(所有者の)主を告発する権利をあたえる。姦悪を禁じようと思ったが、姦悪はひどくなる。

ぼくは思う。めずらしく政策について触れた。
『漢書』王莽伝はいう。
天下吏以不得奉祿,並為奸利,郡尹縣宰家累千金。莽下詔曰:「詳考始建國二年胡虜猾夏以來,諸軍吏及緣邊吏大夫以上為奸利增產致富者,收其家所有財產五分之四,以助邊急。」公府士馳傳天下,考覆貪饕,開吏告其將,奴婢告其主,幾以禁奸,奸愈甚。
ぼくは思う。政策の意図ははぶき、結論と結果だけ記す。「とにかく王莽の政策は、すべてが理屈が通らず、失敗しました」と伝われば、何でも良いのだ。匈奴との戦況が書かれていないので王莽の政策は、まったく唐突に見える。


樊崇刁子都等。以饑餓相聚於琅邪。眾皆數萬。

樊崇と刁子都は、飢えて瑯邪にあつまる。集団はそれぞれ数万となる。

ぼくは思う。王莽は、王莽は、真道侯の王渉を、衛將軍とした。王莽の側の鎮圧の陣容について、全く触れない。まるで、王莽に打つ手がなく、赤眉の野放しのようだ。


莽11年、厳尤が匈奴政策を諫める

其十一年。令太史更推三萬六千歲歷紀。六歲一改元。布告天下。

王莽の11年目(天鳳6年)太史に36千年の暦記を研究させ、6年ごとの改元を定めた。天下に布告した。

ぼくは思う。荀悦は、王莽の年号(天鳳)を黙殺している。そのくせ、王莽が暦を制定したと書くなんて、イジメである。なにか定めたらしいが、『漢紀』には出てこないため、意味がわからない。
たとえば公文書を書いていて、「公用語が英語と決まったので、以後はすべて英語で記されました」と日本語で書いてあるように、パラドキシカルである。ここから読み取れるのは、「公用語を英語とする」という決定が、さっぱり通用しなかったことである。メタメッセージ的な記法である。
王莽伝はいう。 六年春,莽見盜賊多,乃令太史推三萬六千歲曆紀,六歲一改元,布天下。下書曰:「《紫閣圖》曰『太一、黃帝皆仙上天,張樂昆侖虔山之上。後世聖主得瑞者,當張樂秦終南山之上。』予之不敏,奉行未明,乃今諭矣。複以甯始將軍為更始將軍,以順符命。《易》不雲乎?『日新之謂盛德,生生之謂易。』予其饗哉!」欲以誑耀百姓,銷解益賊。眾皆笑之。
班固は「盗賊を取り締まるために暦法を改めたが、盗賊は減らなかった。おかしいな、王莽」と笑いながら、その暦法を定める思考の経路は書きとめる。班固から王莽への愛である。
ぼくは思う。王莽伝では、「新楽」を明堂と太廟で演奏するが、荀悦はカット。
王莽伝では、各地の戦況が描かれる。しかし後漢の成立に直結しないので、むしろ軽視されねばならない。「王莽に天命がなく、光武帝に天命があった。人為ではなく、天変地異のレベルで必然だった」という歴史観を提示したい。だから、王莽の人為による政策ミスとか、光武帝以外の人為的な反乱とかは、黙殺されねばならない。光武帝は、太陽が東の空から昇るように、なんの感慨もなく必然的に、天下をとらねばならない。匈奴との戦争が省かれるのも、これが理由か。
はぶかれたのは。
赤眉の力子都がふくらむ。更始將軍の廉丹は、益州で勝つことができず、長安に帰還した。益州、江湖の戦いがつづく。王莽は軍備を強化した。とか。


時匈奴寇邊。莽乃大募發丁男死罪囚吏民奴。一切稅吏民皆三十取一。傳募有伎術者。待以不次之位。上言便宜者以萬數矣。或言能渡水不用舟楫。連馬接車濟百萬之師。或言不持斗儲。食藥物。馬不饑。或言能飛。一日千里。莽輒試之。取大鳥翮作翼。頭與身皆著毛。通引鐶鈕。飛數百步輒墮。莽知其不可用。苟欲獲其名。皆拜大將軍。賜以車馬待詔。

匈奴と戦うため、兵士を増やす。吏民から30分の1税をとる。特殊な技術者をつのり、1万があつまる。船なしで水をわたれる。食べなくても飢えない。そらを飛べるなど。功名がほしくて集まった連中だ。みな大将軍となり、出陣をまつ。

ぼくは思う。王莽伝では、大将軍にならない。「皆拜為理軍」である。荀悦の単なるミスか。それとも、王莽が奇妙な人々を大将軍にするほど、任免がザツだったのか。
ぼくは思う。こういうビックリ人間を、なぜ荀悦は載せるか。王莽の政策や思想を載せずに、王莽の失敗ばかりを、おもしろい話として長々と載せる。やはり、班固が王莽をけなした部分だけ、重点的にひいているのだろう。なんて、アンフェアで恣意的な編纂だろう。絶対に確信犯である(でなければ荀悦はバカだ)。


發遣大司馬武建伯嚴尤。與將軍廉丹擊匈奴。皆賜姓王。大凡十三部。將四十萬眾。齎三百日糧。欲同時並出塞。追匈奴內之丁零。因分其地。立呼韓邪十五子。

大司馬する武建伯の厳尤、將軍する廉丹に匈奴を撃たせる。2人に「王」姓をたまう。13部で40万。300日の軍糧。匈奴を丁零におう。

『漢書』王莽伝では、厳尤と廉丹に「徴氏」の姓をたまい、「二徴將軍」とした。
王莽伝では、厳尤と廉丹の肩書が、ここに書かれていない。いままで省略してきたから、ここに補ったのだろう。厳尤は初登場だから。厳尤が「大司馬」になるのは、王莽伝の天鳳3年7月「大司馬陳茂以日食免,武建伯嚴尤為大司馬」である。ここに武建伯と書いてある。

呼韓邪の15子を立てた。

ぼくは補う。 王莽伝の始建国2年12月、「惟知先祖故呼韓邪單于稽侯狦 累世忠孝,保塞守徼,不忍以一知之罪,滅稽侯狦之世。今分匈奴國土人民以為十五,立稽侯狦子孫十五人為單于」とある。呼韓邪のことは、ずっと前なのだ。
ぼくは思う。あまりに匈奴を無視してきたので、荀悦はあわてて経緯を書き足している。これまで荀悦が、匈奴を無視してきた理由は何か。ここでまとめて掲載すれば、充分だと考えたからか。もしくは、ここに掲載せねば、残りの年数がないので、匈奴を記す場所がないと、焦ったのか。いずれにせよ、匈奴の扱いが軽いのは事実である。だって、年代を正しい場所に書かないなんて、編年体としては、自殺に等しい。


◆匈奴伝より、厳尤が王莽を諫める

嚴尤諫曰。匈奴為害久矣。周秦漢皆征之。然皆未得上策者。周得中策。漢得下策。秦無策焉。當周宣王之時。玁狁內侵。命將驅之。盡境而反。

厳尤はいう。匈奴は、周秦漢のときから難敵だ。周宣王のとき、国境で叛かれた。

『漢書』匈奴伝はいう。
莽將嚴尤諫曰:臣聞匈奴為害,所從來久矣,未聞上世有必征之者也。後世三家周、秦、漢征之,然皆未有得上策者也。周得中策,漢得下策,秦無策焉。當周宣王時,獫允內侵,至於涇陽,命將征之,盡境而還。


其視夷狄之侵。譬猶蚊蚋之害。驅之而已。故天下稱明。是為中策。漢武帝選將練兵。齎糧深入。雖有克獲之功。胡輒報之。兵連禍結。四十餘年。中國罷耗。匈奴亦創艾。而天下稱武。是為下策。始皇不忍小忿。而輕民力。恢長城之固。延袤萬里。轉輸之行。起於負海。疆場未定。中國內竭。以喪社稷。是為無策。

漢武帝は40余年も匈奴と戦い、消耗した。

『漢書』匈奴伝はいう。ほぼ『漢紀』に転載されてる。
其視戎狄之侵,譬猶蚊虻之螫,驅之而已。故天下稱明,是為中策。漢武帝選將練兵,約賁輕糧,深入遠戍,雖有克獲之功,胡輒報之,兵連禍結三十餘年,中國罷耗,匈奴亦創艾,而天下稱武,是為下策。秦始皇不忍小恥而輕民力,築長城之固,延袤萬里,轉輸之行,起於負海,疆境既完,中國內竭,以喪社稷,是為無策。
ぼくは思う。『漢書』では30余年なのに、『漢紀』では40余年である。荀悦は、漢武帝の事業もしくは失策を強調したのか。
ぼくは思う。厳尤は、匈奴への接し方として、周宣王、漢武帝、秦始皇の順番で劣ると言っている。戦費をかけるほど、良くない。
ぼくは思う。漢代の中華思想にとって、匈奴への認識は試金石である。それを、『漢書』匈奴伝の厳尤が、いちばんよくまとめている。莽新の『新書』をまとめるなら、厳尤の意見を載せなければならない。


今天下遭陽九之厄,比年饑饉,西北邊猶甚。發三十萬眾,具三百日糧,東援海代,南取江淮,然後乃備。計其道裡,一年尚未集合,兵先至者聚居暴露,師老械弊,勢不可用,此一難也。邊既空虛,不能奉軍糧,內調郡國,不相及屬,此二難也。計一人三百日食,用糒十八斛,非牛力不能勝;牛又當自繼食,加二十斛,重矣。胡地沙鹵,多乏水草,以往事揆之,軍出未滿百日,牛必物故且盡,餘糧尚多,人不能負,此三難也。

厳尤はいう。匈奴の討伐は高コストだからやめろ。北は飢饉と、東と南で反乱をかかえているから。

『漢書』匈奴伝はいう。
今天下遭陽九之厄。比年饑饉。而北邊尤甚。今發四十萬眾。齎三百日之糧。東據海岱。南取江淮。然後能備。計其道里。一年尚未集合。兵先至者。聚居暴露。師老械朽。勢不可用。此一難也。邊城空虛。不能奉軍糧。內調郡國。不相及屬。此二難也。計一人三百日食。用米十八斛。非牛力不能勝。牛又當自齎食。加二十四斛。重矣。胡地沙鹵。多乏水草。以往事揆之。軍出不滿百日。牛必死盡。且餘糧尚多。人不能勝。此三難也。
ぼくは思う。荀悦は、『漢書』匈奴伝の厳尤の意見に、すべてを代表させてしまえると考えて、王莽伝の匈奴に関する記事を省いてきたのだ。事実を年代ごとに記すのではなく、厳尤による言説として、匈奴をとらえてしまった。つまり荀悦は、自分の史書で、自前の「匈奴」論をやらない。『漢書』匈奴伝から厳尤を借りてきて、自分の史書のなかで、「匈奴論」論をやったのだ。だいぶ省エネであるw


秋冬甚寒。春夏則多風。齎釜鑊薪炭。重不可勝。食糒飲水。以歷四時。師有疾疫之憂。勢不能久。此四難也。
輜重自隨。則輕銳者少。不得疾行。虜徑遁逃。勢不相及。幸而逢虜。則累輜重。如遇險阻。銜尾相隨。虜邀遮前後。危殆不測。此五難也。大用民力。功不可必立。臣伏憂之。莽不聴。

供給はしんどいよと。王莽は厳尤を認めない。

『漢書』匈奴伝はいう。字数が違うが、同内容。
胡地秋冬甚寒,春夏甚風,多繼釜鍑薪炭,重不可勝,食糒飲水,以歷四時,師有疾疫之憂,是故前世伐胡,不過百日,非不欲久,勢力不能,此四難也。
輜重自隨,則輕銳者少,不得疾行,虜徐遁逃,勢不能及,幸而逢虜,又累輜重,如遇險阻,銜尾相隨,虜要遮前後,危殆不測,此五難也。大用民力,功不可必立,臣伏憂之。今既發兵,宜縱先至者,令臣尤等深入霆擊,且以創艾胡虜。莽不聽尤言,轉兵谷如故,天下騷動。

ツイッター用まとめ。荀悦は『漢紀』王莽の部分で、年代ごとに匈奴に関する事件を記載しない。つまり荀悦は「荀悦の匈奴」論をやらない。しかし荀悦は『漢書』匈奴伝から厳尤の匈奴に関する言説を借りてきて、ほぼ引用した。つまり荀悦は「厳尤の匈奴論」論をやったのだ。だいぶ省エネであるw


◆王莽伝にもどる

又復引古者名將樂毅白起不用之意。及諭邊事凡三篇。及當出師庭議。尤固爭之。宜先憂山東。莽怒。策尤為庶人。以董忠代之。

また厳尤は、古代の名将・楽毅をひきあいにして、王莽の匈奴攻撃に反対した。議論は3編になった。厳尤は庶人にされ、董忠がかわる。

ここは『漢書』王莽伝にもどってる。
尤素有智略,非莽攻伐四夷,數諫不從,著古名將樂毅、白起不用之意及言邊事凡三篇,奏以風諫莽。及當出廷議,尤固言匈奴可且以為後,先憂山東盜賊。莽大怒,乃策尤曰:「視事四年,蠻夷猾夏不能遏絕,寇賊奸宄不能殄滅,不畏天威,不用詔命,貌很自臧,持必不移,懷執異心,非沮軍議。未忍致於理,其上大司馬武建伯印韍,歸故郡。」以降符伯董忠為大司馬。
ぼくは思う。王莽のセリフは削られるのだw


師久屯不行。運轉不已。天下騷動。翼平連率田況奏。言民資不實。莽復三十稅一。以況忠言憂國。進爵為伯。眾皆罵之。

進軍がうまくいかない。

ぼくは思う。いま『漢紀』の「師久屯不行」はオリジナルである。王莽伝を省略しすぎて、文脈を見失ったので、荀悦が追記したのである。

翼平連率の田況は、ふたたび30分の1税を定安した。田況は伯爵にすすんだが、みな田況をののしった。

『漢書』王莽伝はいう。
翼平連率田況奏郡縣訾民不實,莽複三十稅一。以況忠言憂國,進爵為伯,賜錢二百萬。眾庶皆詈之。青、徐民多棄鄉里流亡,老弱死道路,壯者入賊中。
ぼくは思う。田況を罵るのは、よいのだが。それよりも、青州と徐州で流亡が起きたことのほうが、重要じゃないかしら。荀悦は、青州と徐州の百性よりも、士大夫の田況の処世のほうを記したかった。


夙夜連率韓博上言。有奇士巨毋霸。長一丈六尺。大九圍。來至臣府。曰欲奮擊匈奴。出於蓬萊東南五城西北。軺車不能勝。即以大車駟馬。載霸詣闕。願陛下作大甲高車。賁育之衣。遣大將軍一人。虎賁百夫迎之。於道。京師門不容者。開大高之。欲以示百蠻。
意欲以諷莽。莽聞而惡之。留霸新豐。更其姓曰巨母霸。謂因文太后霸王符也。博以非所宜言。棄市。

夙夜連率の韓博が上言した。「2メートルを越える巨人が、王莽のために働きたい。百蛮をおどかそう」と。韓博は、王莽を風刺する意図があった。王莽は韓博をにくみ、棄市した。

『漢書』王莽伝はいう。内容はおなじ。 博意欲以風莽。莽聞惡之,留霸在所新豐,更其姓曰巨母氏,謂因文母太后而霸王符也。征博下獄,以非所宜言,棄市。
ぼくは思う。荀悦は、王莽の最末期については、省略せずに書く。ぼくは、班固がこんなに下らないことを書き残したことに愛を感じるが、荀悦はその愛を踏みにじったw
ぼくは思う。ここまで読んだのに、ちっとも光武帝が出てこない。もっと光武帝のために、字数を割かれると思ったのだが。もうすぐ終わりだよ。

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『漢紀』王莽の地皇;光武への言及を忌避

莽12年、9廟を建て、緑林が起兵

其十二年。大順時之令。春夏斬人都市。二月壬申。日正黑。

王莽の12年目(地皇元年)時之令に順わず。

張烈はいう。『漢紀』では「大」だが「不」が正しい。
ぼくは思う。これは王莽伝には載ってないい、と思ったら、同年の下の記事に「自莽為不順時令,百姓怨恨,莽猶安之」とある。刑罰する季節を守らないという意味

春夏に人を斬る。

『漢書』王莽伝はいう。
下書曰:「方出軍行師,敢有趨訁襄犯法者,輒論斬,毋須時,盡歲止。」於是春夏斬人都市,百姓震懼,道路以目。
ぼくは思う。いつもの王莽の言葉の省略であり、政策の効果の省略である。

2月壬申、太陽が黒くなった。

『漢書』王莽伝はいう。王莽はこれを悪み、書を下した。 「暗くなったのは、私の政治をジャマするやつがいるからだ。兆域大将軍の王匡が、返事を報告したものを調査したら、ジャマ者がいるとわかった」と。
ぼくは思う。このような人為を、荀悦は載せない。つぎに王莽は、黄帝に擬した軍事組織をつくる。外に大司馬を5人おいた。大将軍を25人、偏将軍を125人、裨将軍を1250人、校尉を12500人、司馬を37500人など。ここにおいて、前後左右中の5人の大司馬をおいた。州牧の号を大将軍とした。卒正、連帥、大尹(太守)を偏将軍とした。属令長を裨将軍、県宰を校尉とした、など。荀悦によって、暴力的にはぶかれるw 行政官に将軍号をつけるなんて、すごい改革なのに!


七月大風。毀玉露臺。杜陵便殿乘虎文衣載在室匣中。自出立於外堂上。良久乃委地。

7月、大風がふく。玉露台をこわす。

『漢書』王莽伝でこわれたのは、王路堂(未央宮前殿)である。
ぼくは思う。ここから王莽は、3男の王安を新遷王、4弟の王臨を統義陽王とする、という処置をする。荀悦には他人事なので、はぶかれる。王莽の後継者の問題は、荀悦『漢紀』にはまったく関係がない。まあ、詳述する班固が異常なのだね。

宣帝の杜陵の便殿にあった、乗輿と虎ガラの衣が、ひとりでに外堂の上にたち、地に落ちて倒れた。

莽欲示萬世之基。乃營長安城南隄封百頃。以起九廟。黃帝虞舜陳胡王齊敬王濟百閔王。凡五廟不毀云。濟南伯王元城孺王陽頃王新都顯王黃帝廟。東西南北各四十丈。高十七丈。餘各半之。金銀雕飾。窮極工巧。費用巨百萬。卒徒死者以萬數。

王莽は万世の基を示したいので、9廟をたてる。黄帝、虞帝、陳胡王、斉敬王、済北愍王までの5廟が不毀。済南伯王、元城孺王、陽平頃王、新都顕王までで9廟。建築には費用がかかり、むだに1万が死ぬ。

ぼくは思う。王莽の政策を載せるのは、荀悦にしては珍しい。しかし、王莽がどういう礼制の考え方に基づき、九廟を設定したのか、書いてない。まあ王莽伝にも、ここは事実しか書かれていないのだ。『漢書』王元后伝を読めば、王莽の祖先についてわかる。『漢紀』の読者は、『漢書』王元后伝に誘導されないから、意味不明に読み流す。荀悦が「華美にゴテゴテ、漢字がいっぱい」である。
しかし、荀悦のわりには、詳しく書いてあるほうだ。珍しいことだから、2回も言いました。くどいけど。『漢書』王莽伝と比べてみましょう。
『漢書』王莽伝はいう。
望氣為數者多言有士功象,莽又見四方盜賊多,欲視為自安能建萬世之基者,乃下書曰:「予受命遭陽九之厄,百六之會,府帑空虛,百姓匱乏,宗廟未修,且袷祭於明堂太廟,夙夜永念,非敢寧息。深惟吉昌莫良於今年,予乃卜波水之北,郎池之南,惟玉食。予又卜金水之南,明堂之西,亦惟玉食。予將新築焉。」於是遂營長安城南,提封百頃。
九月甲申,莽立載行視,親舉築三下。司徒王尋、大司空王邑持節,及侍中常侍執法杜林等數十人將作。崔發、張邯說莽曰:「德盛者文縟,宜崇其制度,宣視海內,且令萬世之後無以復加也。」莽乃博征天下工匠諸圖畫,以望法度算,乃吏民以義入錢、谷助作者,駱驛道路。壞徹城西苑中建章、承光、包陽、犬台、儲元宮及平樂、當路、陽祿館,凡十餘所,取其材瓦,以起九廟。是月,大雨六十餘日。令民入米六百斛為郎,其郎吏增秩賜爵至附城。
九廟:一曰黃帝太初祖廟,二曰帝虞始祖昭廟,三曰陳胡王統祖穆廟,四曰齊敬王世祖昭廟,五曰濟北湣王王祖穆廟,凡五廟不墮雲;六曰濟南伯王尊禰昭廟,七曰元城孺王尊稱穆廟,八曰陽平頃王戚禰昭廟,九曰新都顯王戚禰穆廟。殿皆重屋。太初祖廟東西南北各四十丈,高十七丈,餘廟半之。為銅薄櫨,飾以金銀雕文,窮極百工之巧。帶高增下,功費数百巨萬,卒徒死者萬數。

わりに省略が多かったかも知れない。前言を撤回するか。


鉅鹿馬適求。舉燕兵以誅莽。發覺誅死。南郡張霸江夏羊收王匡等起兵於綠林下江。共皆萬餘人。武功中水鄉民舍墊為池。

鉅鹿の馬適求が挙兵したが、やぶれた。

『漢書』王莽伝はいう。
巨鹿男子馬適求等謀舉燕、趙兵以誅莽,大司空士王丹發覺以聞。莽遣三公大夫逮治党與,連及郡國豪傑數千人,皆誅死。封丹為輔國侯。
王莽の側の対応と論功行賞は、すべてカット。
ぼくは思う。『漢書』王莽伝では、春夏の刑罰の延長とか、大小銭に使用中止などがある。はぶかれる。
太傅の平晏が死んだ。予虞の唐尊を太傅とした。唐尊が倹約を進めたので、王莽が採用した。これもはぶかれる。

南郡の張覇、江夏の羊牧と王匡らが、緑林と下江で起兵する。

ぼくは思う。更始帝の母体、すなわち光武帝の母体なのに、なんの感動も語られない。『後漢書』から追記されることもない。王莽伝を要約するだけである。
『漢書』王莽伝はいう。是時,南郡張霸、江夏羊牧、王匡等起雲杜綠林,號曰:下江兵」,眾皆萬餘人。

武功県の中水郷(右扶風の美陽)で、民の3舍が池になった。

莽13年、公孫禄と田況の状況分析

其十三年。更州牧為監。如刺史。莽子臨與莽侍婢通。恐漏洩。乃謀殺莽。發覺自殺。

王莽の13年目(地皇2年)、州牧を、刺史と同じく「監」する。

『漢書』王莽伝はいう。
以州牧位三公,刺舉怠解,更置牧監副,秩元士,冠法冠,行事如漢刺史。
ぼくは思う。荀悦は、だいぶまとめてしまった。「牧監副、秩元士、冠法冠」の3つが設置されたが、これは省略された。

王莽の子の王臨が、王莽の侍婢と密通して自殺した。

ぼくは思う。王莽の妻が死ぬ。王臨の件でも、『漢書』王莽伝では記述がながい。これは王莽「本紀」の内容ではなく、王莽「列伝」の内容である。荀悦が省略したことは、まあ納得ができる。
つぎに王莽伝では、魏成大尹の李焉に、卜者の王況がいう。 「きみの姓の「李」は「火」の音に通じる。李氏が火徳の劉氏を補佐する」と。ぼくは思う。これは光武帝の神話にも通じるのだが、荀悦はスルーする。後漢について黙秘する、というのも荀悦の政治的な態度らしい。きっと、献帝の期待を裏切っている。
ぼくは思う。ここから、王莽に関する吉凶の占いが、『漢書』王莽伝で展開される。荀悦は無視する。どうやら、人為による占いには興味がないらしい。 後漢も、この種類の占いによって支えられているのに。荀悦は大逆であるw
ぼくは思う。こういう人為的な解釈を認めてしまうと、献帝を廃位する根拠になる。だから、可能な限り、人の手を介在させた天命の判定を、忌避したんじゃないかなあ。
ぼくは思う。『漢書』王莽伝では、捕盜都尉を設置する。こういう官制改革には、荀悦は興味がない。まあ後漢になって、すたれた制度だから。


秋。隕霜殺菽。關東大饑。
莽問群臣擒賊方略。故左將軍公孫祿徵來與議。祿曰。太史令宗宣誣天文。以凶為吉。太傅唐遵飾虛偽以取名。國師劉歆顛倒五經。毀壞師法。明學男張邯。地理侯孫陽。造井田。使民棄業。羲和唐匡設六管以勞工商。說符侯崔發阿諛以取容。令下情不得上通。宜誅此數子以慰天下。莽怒。令虎賁扶祿出。

秋、しもがふる。関東でおおいに飢える。
王莽は郡臣に、賊を捕らえる方略をきく。もと左将軍の公孫禄がこたえた。「太史令の宗宣が、天文を誤読して朝廷を誤らせた。太傅の唐遵は、官名を虚飾する。國師の劉歆は、『五経』に傾倒して、師法をこわした。明學男の張邯と、地理侯の孫陽は、井田をつくり、民は土業を棄てた。犧和の魯匡は六管をもうけ、工商が窮した。説符侯の崔發は、阿諛・取容する」と。

ぼくは思う。公孫禄は、『漢書』王莽伝にある。同じ内容。むしろ、王莽伝は官爵のみだが、荀悦が姓名を補ってくれるので、読みやすくなっている。
ぼくは思う。王莽への批判だから、荀悦は字数をいとわずに引用している。『漢紀』において王莽の政策は、反対者の弁論を通じて、婉曲的かつ間接的に、ほのめかされている。まあ少なくとも、荀悦が王莽の政権の実態について、描く意図がないことは明白であるw
故左將軍公孫祿征來與議,祿曰:「太史令宗宣典星曆,候氣變。以凶為吉,亂天文,誤朝廷。太傅平化侯飾虛偽以偷名位,『賊夫人之子』。國師嘉信公顛倒《五經》,毀師法,令學士疑惑。明學男張邯、地理侯孫陽造井田,使民棄土業。犧和魯匡設六管,以窮工商。說符侯崔發阿諛取容,令下情不上通。宜誅此數子以慰天下!」又言:「匈奴不可攻,當與和親。臣恐新室憂不在匈奴,而在封域之中也。」莽怒,使虎賁扶祿出。然頗采其言,左遷魯匡為五原卒正,以百姓怨非故。六管非匡所獨造,莽厭眾意而出之。
あまり打ち消し線を引くべき場所がない。

王莽は怒って、公孫禄を退出させた。

ぼくは思う。能動と受動、使われている漢字などについて、『漢紀』と『漢書』で差異はなかった。「使虎賁扶祿出」は共通。


時民皆饑愁。州縣不能慰安。又不得擅發兵。故盜賊寖多。

民は飢えて、州県は慰安できない。兵をだせず、盗賊はおおい。

ぼくは思う。荀悦による、ザツな時代状況の要約。
『漢書』王莽伝の、このあたりをまとめているらしい。
初,四方皆以饑寒窮愁起為盜賊,稍稍群聚,常思歲熟得歸鄉里。眾雖萬數,亶稱臣人、從事、三老、祭酒,不敢略有城邑,轉掠求食,日闋而已。諸長吏牧守皆自亂鬥中兵而死,賊非敢欲殺之也,而莽終不諭其故。


唯翼平連率田況發四萬人。授以兵車。與刻石為約。赤眉聞之。不敢入界。況自劾奏。莽切責況擅發兵。赦罪。諭以擒賊。況自請出擊賊。所向皆破。莽使況領青徐二州牧。況請無出大將。選牧尹以下。明其賞罰。收合離散。小國徙其老弱置大城中。積穀。并力固守。賊攻城不得。勢必不能聚。所過乏食。以此招之則降。擊之則滅。今出大將軍。郡縣苦之。乃甚於賊。宜盡徵還乘傳使者。以休息郡縣。委任臣二州。盜賊必平。莽畏惡況。陰為發代。賜況書。將代監其兵。況隨使者還。齊地遂敗。

翼平連率の田況だけは、4万を発して赤眉とたたかう。王莽が田況を免職してしまい、斉地はついに破れた。

ぼくは思う。『漢書』王莽伝では、田況による戦況の分析がある。荀悦はこれをはぶく。荀悦は、こういう引用に対して冷酷である。


莽14年、光武が起兵する

其十四年閏月。霸橋災。數千人沃之不滅。

王莽の14年目(地皇3年)覇橋が燃えた。数千人で水をかけたが、火がきえない。

ぼくは思う。『漢書』王莽伝では、九廟が官制する。荀悦ははぶいている。九廟がいかに華美で、国力を損耗したかを言えば、もう充分なのである。
『漢書』王莽伝は、覇橋が燃えた解釈についていう。
「三皇五帝は、天地の地理を結びつけて解釈した。いま覇橋は東から西に燃えた。東へゆく橋がなくなったのは、長安から青州への道が絶えたことを連想させて不吉である。長存橋と改名して、架けなおせ」と。
『漢書』王莽伝はいう。東嶽太師に命じて、東方の倉庫を開かせ、窮乏者に賑貸させた。 この月、赤眉は、太師犧の仲景尚を殺した。関東では人が相食む。4月、太師の王匡と、更始將軍の廉丹は、東へ出征した。出発するとき、雨が降った。軍装がぬれた。長老は「泣き軍だ」と嘆いた。
『漢書』王莽伝はいう。太師と更始将軍は、10余万をひきいる。通過した地で、放縱である。東方ではいう。「赤眉のほうが太師よりマシ。太師のほうが更始将軍よりマシ。更始将軍に殺される」と。田況の言うとおりになった。
ぼくは思う。赤眉の追討について、『漢書』王莽伝をまるまる削除。荀悦は、王莽の軍事行動をすべて黙殺するのだ。
王莽伝はいう。王莽は、多くの大夫と謁者を派遣し、草木を食品に加工する技術を教えたが、食べられたものではない。かえって、指導のコストがかさんだ。


關東民相食。蝗蟲蔽天。自東來至長安。入未央宮。發吏民。設購賞以捕之。

関東では、民が食いあう。イナゴが天をおおい、東方から長安にくる。未央宮に入る。吏民を発して、イナゴを捕らせた。

『漢書』王莽伝のほうが、惨状がくわしい。ただし、つぎの下江兵のあとに記述があるけれど。まあ誤差の範囲の、前後関係の異同である。
夏,蝗從東方來,蜚蔽天,至長安,入未央宮,緣殿閣。莽發吏民設購賞捕擊。莽以天下穀貴,欲厭之,為大倉,置衛交戟,名曰「政始掖門」。
流民入關者數十萬人,乃置養贍官稟食之。使者監領,與小吏共盜其稟,饑死者十七八。先是,莽使中黃門王業領長安市買,賤取於民,民甚患之。業以省費為功,賜爵附城。莽聞城中饑饉,以問業,業曰:「皆流民也。」乃市所賣梁飰肉羹,持入視莽,曰:「居民食咸如此。」莽信之。


時下江兵盛。新市朱鮪。平林陳收。皆復聚眾。莽遣大將軍孔仁嚴尤陳茂擊之。前所遣太師王匡更始將軍廉丹擊赤眉。

下江兵は盛んである。

『漢書』王莽伝はいう。
是時,下江兵盛,新市硃鮪、平林陳牧等皆複聚眾,攻擊郷聚。莽遣司命大將軍孔仁部豫州,納言大將軍嚴尤、秩宗大將軍陳茂擊荊州,各從吏士百餘人,乘船從渭入河,至華陰乃出乘傳,到部募士。尤謂茂曰:「遣將不與兵符,必先請而後動,是猶絏韓盧而責之獲也。」
ここまで王莽伝が進んだあと、各地の戦況をいう。
地皇3年冬、索盧恢が無塩城に拠って叛いた。赤眉の別校・董憲らは、梁郡に数万人をあつめた。國將の哀章は、山東平定を志願した。など。
ぼくは思う。高帝の天下平定につき、荀悦がどれだけ冷淡な態度をとっているか、見なければならない。もし高帝ですら、戦況が省かれているのであれば、それは王莽の取り扱いの特徴とは言えない。


匡丹皆敗。莽知天下潰叛。乃分遣使除六管諸禁。詔令民不便者。皆收還之。

王匡らが赤眉にやぶれ、王莽は六管の政策を撤回した。

『漢書』王莽伝はいう。
四方盜賊往往數萬人攻城邑,殺二千石以下。太師王匡等戰數不利。莽知天下潰畔,事窮計迫,乃議遣風俗大夫司國憲等分行天下,除井田奴婢山澤六管之禁,即位以來詔令不便於民者皆收還之。待見未發,會世祖與兄齊武王伯升、宛人李通等帥舂陵子弟數千人,招致新市平林硃鮪、陳牧等合攻拔棘陽。是時,嚴尤、陳茂破下江兵,成丹、王常等數千人別走,入南陽界。


時世祖與伯升起兵。與平林合攻棘陽。
十有二月。有星孛于張箕。

ときに世祖と伯升(劉秀と劉縯)は起兵して、平林とともに曲陽であわさる。

『漢書』王莽伝はいう。
待見未發,會世祖與兄齊武王伯升、宛人李通等帥舂陵子弟數千人,招致新市平林硃鮪、陳牧等合攻拔棘陽。
なんだか抑制がきいて、光武帝がそっけない。 ぼくは思う。光武帝の登場。荀悦『漢紀』は、王莽の末期、ついに登場した光武帝を「時世祖與伯升起兵。與平林合攻棘陽」とだけ記す。『漢書』王莽伝の圧縮である。とくに特別扱いせず、ほかと同程度にギュッと圧縮する。ヘタに光武帝について言及するほうが、荀悦の政治的立場を危うくしたのかも。ほめるのも危険?

12月、星孛が張箕にある。

『漢書』王莽伝はいう。太史令の宗宣は、新室にとって、善い天文だと報告した。群賊が滅びると。王莽は安心した。
ぼくは思う。こういう人為的な解釈はカット!王莽に、有利でも不利でも、アタリでもハズレでも、ハズレで滑稽でおもしろくても、カットする。


莽15年、王莽が斬られる

其十五年二月辛巳。劉聖公立為更始皇帝。即世祖之族兄也。莽遣大司徒王尋。大司空王邑。將兵號百萬擊更始。二公兵敗於昆陽。關東震恐。 王莽の15年(地皇4年)

『漢書』王莽伝では、「青徐州の賊は数十万だが、文號・旌旗・表識がない」という厳尤の名言がある。荀悦がはぶく。
『漢書』王莽伝はいう。
後漢兵劉伯升起,皆稱將軍,攻城掠地,既殺甄阜,移書稱說。莽聞之憂懼。漢兵乘勝遂圍宛城。初,世祖族兄聖公先在平林兵中。
こういう光武帝の周囲の記述も、ザックリ要約されてる。
ぼくは思う。王莽伝では、王莽が白髪を染めて、史皇后をたてる。また更始帝を討伐するために、将軍を任命するとき、複雑なことを述べる。いずれも削除されている。

2月、劉聖公は更始高帝となる。大司徒の王尋、王邑が百万で更始帝を攻める。二公は昆陽で破れる。

ぼくは思う。あっさりしすぎ。『漢書』王莽伝では、王莽の側の将軍と、光武帝の戦歴が、くわしく書かれている。荀悦には「光武帝について省略せよ」という抑圧が働いたとしか思えない。だって、光武帝が王尋らを破ったことすら、明記されていない。
ぼくは思う。主語をはぶいたのは、なぜか。光武帝が恐れ多いから、言及を避けたのか。あまりに当然だから省いたのか。王尋らが破れることが、当然の運命のように、自然の摂理のように描かれたのか。いずれにせよ、光武帝を主語としないのは、春秋の筆法に照らして理解すべきである。
ぼくは思う。王莽は王莽伝で、明學男の張邯に「『易経』同人卦に「莽」の字(平たい草むら)がある。いわく、草「莽」に伏兵をおき、高陵に升って展望しても、あえて前進するな。3年、兵を起こすなと。これは王「莽」の時代に、劉伯「升」と「高陵」侯の子である翟義がいるが、彼らの兵は興らないと解釈できる」と解釈させる。はぶかれてる。


道士西門君惠。謂莽從兄王涉曰。讖云漢復興。劉秀為天子。天子國師劉歆是也。 先是歆依讖改名秀。涉以語大司馬董忠。共語歆。歆謂天文人事。東方必成。歆亦怨殺其二子。又畏大禍將至。遂謀與忠劫莽東降。忠等誅死。歆涉以親近。莽惡其人聞。遂隱誅。歆涉自殺。

董忠は誅された。劉歆、王渉は自殺した。

『漢書』王莽伝を圧縮しているが、内容は同じである。


莽師徒外破。大臣內叛。無所復信。憂懣不能食。性好小數。但為厭勝之事。遣人壞漢園陵罘罳。云無使民復思漢。皆此類也。

王莽は外で破れ、内で叛かれ、信じられない。

『漢書』王莽伝はいう。莽軍師外破,大臣內畔,左右亡所信,不能複遠念郡國,欲呼邑與計議。
ぼくは思う。荀悦は、班固による要約を借りている。

王莽は、心がふさいで食欲がない。小数(占い)を好む。事態は迫急するが、何もしない。漢代の園陵を壊させて、漢家の復興をねがう思いを出てこないようにする。みなこの類いである。

このへんも、王莽伝の圧縮である。
莽憂懣不能食,亶飲酒,啖鰒魚。讀軍書倦,因憑幾寐,不復就枕矣。性好時日小數,及事迫急,亶為厭勝。遣使壞渭陵、延陵園門罘罳,曰:「毋使民複思也。」又以墨洿色其周垣。號將至曰「歲宿」,申水為「助將軍」,右庚「刻木校尉」,前丙「耀金都尉鸀,又曰「執大斧,伐枯木;流大水,滅發火。」如此屬不可勝記。
ぼくは思う。荀悦の「みなこの類いである」がザツなまとめw


崔發言國有大災。則哭以厭之。莽乃率群臣至南郊大哭。告天下諸生小民旦夕會哭。甚者除為吁嗟郎。

崔発が「哭けば国難が解決する」という。哭けば郎になれた。

ぼくは思う。これは『周礼』『左伝』『易経』に典拠があることになっている。しかし荀悦は、儒者のプライドをもって、出典の情報を消す。そんなデタラメな読解をするなよ、という主張だろう。
『漢書』王莽伝はいう。
莽愈憂,不知所出。崔發言:「《周禮》及《春秋左氏》,國有大災,則哭以厭之。故《易》稱『先號啕而後笑』。宜呼嗟告天以求救。」莽自知敗,乃率群臣至南郊,陳其符命本末,仰天曰:「皇天既命授臣莽,何不殄滅眾賊?即令臣莽非是,願下雷霆誅臣莽!」因搏心大哭,氣盡,伏而叩頭。又作告天策,自陳功勞,千餘言。諸生小民會旦夕哭,為設飧粥,甚悲哀及能誦策文者除以為郎,至五千餘人。{帶足}惲將領之。


漢兵至。遂發莽先人墳墓。燒其棺槨。焚其九廟。火照城中。

漢兵が、王莽の先祖の墳墓をあばく。九廟を焼く。

ぼくは思う。『漢書』王莽伝では、九虎将軍を任命して、、という戦況が記される。カットである。隗囂も出てくるはずが、カットである。


十一月戊申朔。漢兵入城。城中人皆降。避火前殿。莽猶按式迴席。隨斗柄而坐。曰天生德於予。漢兵其如予何。庚戌。乃升漸臺。執威斗。抱符命。群臣從者尚千餘人。王邑兵盡乃還。父子守莽。下晡時。兵眾上臺。邑等戰死。邑者。成都王商之子也。

11月、漢兵が入城した。

『漢書』王莽伝では10月。戦況が圧縮されてる。
『漢紀』では「天生德於予。漢兵其如予何」といい、
『漢書』では「天生德於予,漢兵其如予何」という。同じだ。

王邑の父子が王莽をまもる。

莽藏室中地隅間。校尉公孫賓就斬莽頭。軍人爭莽身。支紛節解。肌肉臠切。遂傳首謁更始於宛。

王莽は

『漢書』王莽伝はいう。 軍人入殿中,呼曰:「反虜王莽安在?」有美人出房曰「在漸台。」眾兵追之,圍數百重。臺上亦弓弩與相射,稍稍落去。矢盡,無以複射,短兵接。王邑父子、{帶足}惲、王巡戰死,莽入室。下□時,眾兵上臺,王揖、趙博、苗、唐尊、王盛、中常侍王參等皆死臺上。
商人杜吳殺莽,取其綬。校尉東海公賓就,故大行治禮,見吳問:「綬主所在?」曰:「室中西北陬間。」就識,斬莽首。軍人分裂莽身,支節肌骨臠分,爭相殺者數十人。

ぼくは思う。荀悦の「莽藏室中地隅間」は、彼なりのアレンジ。『漢紀』で「斬莽頭」、『漢書』で「斬莽首」だから、おなじ。
『漢書』が王莽をけなすとき、『漢紀』は便乗する。ほかに、こまかい経過は、いくらでもはぶかれているが、基本ストーリーは同じ。王莽のベロが食べられる話は、『漢紀』から削除されている。


孝平后曰。何面目復見漢家。遂投火而死。后婉嫕有志操。自劉氏廢稱疾不朝會。莽欲改嫁之。令立國將軍孫建子將醫問疾。后大怒。鞭其旁侍者。發怒不起。莽遂不敢逼之。

平帝の王皇后は、再婚を拒んで焼け死んだ。

『漢書』王皇后伝より。すでに確認ずみ。

鍾武劉望聚眾汝南。稱尊號。嚴尤陳茂投之。尤為大司馬。茂為丞相。十餘日望兵敗。尤茂并死。司命孔仁以兵降漢。乃歎曰。吾聞食人食者死其事。乃自刎死。

鍾武の劉望は、汝南で尊号を称する。厳尤と陳茂は、劉望に投ずる。10余日で劉望は破れて、厳尤も陳茂も死ぬ。

ぼくは思う。これも『漢書』王莽伝の範囲におさまる。
嚴尤、陳茂敗昆陽下,走至沛郡譙,自稱漢將,召會吏邱。尤為稱說王莽篡位天時所亡、聖漢復興狀,茂伏而涕泣。聞故漢鐘武侯劉聖聚眾汝南稱尊號,尤、茂降之。以尤為大司馬,茂為丞相。十余日敗,尤、茂並死。郡縣皆舉城降,天下悉歸漢。
ぼくは思う。後漢初の情報を、『漢書』以外から取材しない。これは立派な態度である。荀悦の防御力はたかい。
ぼくは思う。荀悦『漢紀』は王莽末=後漢初の記事で、『漢書』以外から情報を得ない。光武帝について不自然に思われるほど寡黙である。『漢紀』における光武帝は、ほぼ存在感のない、脇役のような扱い。後漢の荀悦は、『漢書』のみに依拠せず、後漢の正統性を高める字句を増補しても良さそうだが、完全に抑制されている。これは荀悦なりのオトナの保身術なのか。下手に光武帝をほめて、官僚の仲間たちや、曹操と対立をおこしても面倒くさい。もしくは、それほどの意味もなく、「春秋の体裁で漢書を再編集する」という作業方針の貫徹なのか。

司命の孔仁は自刎した。130505

『漢書』王莽伝はいう。
莽揚州牧李聖、司命孔仁兵敗山東,聖格死,仁將其眾降,已而歎曰:「吾聞食人食者死其事。」拔劍自刺死。及曹部監杜普、陳定大尹沈意、九江連率賈萌皆守郡不降,為漢兵所誅。

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『漢紀』の末尾;王莽伝の賛と叙伝より

『漢書』王莽伝の賛

本傳曰。王莽始起外戚。折節力行。以要名譽。宗族稱孝。朋友歸仁。及其居位輔政。成哀之際。勤勞國家。直道而行。動見稱述。豈所謂在家必聞。在國必聞。色取仁而行違者。莽既不仁。而有邪佞之才。又乘四父歷世之權。遭漢中微。國統三絕。而太后壽考。為之宗主。故得肆其姦慝。而成篡奪之禍。推此言之。亦有天時。非人力也。

『漢書』王莽伝の末尾からきてる。

『漢書』王莽伝はいう。
贊曰:「王莽始起外戚,折節力行,以要名譽,宗族稱孝,師友歸仁。及其居位輔政,成、哀之際,勤勞國家,直道而行,動見稱述。豈所謂「在家必聞,在國必聞」,「色取仁而行違」者邪?莽既不仁而有佞邪之材, 又乘四父歷世之權,遭漢中微,國統三絕,而太后壽考為之宗主,故得肆其奸惹,以成篡盜之禍。推是言之,亦天時,非人力之致矣。
ぼくは思う。 班固は本文で王莽を愛して(過剰に詳述して)、賛でけなす。史家としての本音と処世術の折衷が、この筆法を生んだのだろう。
怠惰な読者は、どうせ賛しか読まない。「班固は、きちんと王莽をけなしたな。よし、よし」と納得させるための装置だ。ただし怠惰な読者は、「読めない箇所が、たくさんあったな」と、後味がわるい。
『漢書』は難解である。難解でなければならない。『漢書』の難解さは、『漢書』の欠点ではなくて、本質である。なぜか。
班固は『漢書』を、「後漢の基礎は、王莽がつくった」という、政治的に正しくない話に、おちついて対処できるだけの知性がある者にしか、読んでほしくなかったから。 「王莽を賛美するのか、この逆賊め」という、瞬間湯沸かし器みたいなバカには、読ませたくなった。読んでも理解できないように書いた。『漢書』の量と質についてこれるだけ勉強をした者なら、「王莽は漢家にとって仇敵だが、漢家を立て直した改革者でもあるよね」という、屈節した複雑な思考ができるだろう。
班固を即座に、投獄しないだろう。
ツイッター用まとめ。『漢書』は難解でなければならない。班固は「後漢の諸制度の基礎は王莽がつくった」という危険な話題について、冷静に対処できる知性の持ち主だけに『漢書』を読んでほしかった。「王莽を賛美するのか、この逆賊め。投獄してやる」というバカには、理解できない質と量になるように『漢書』をつくった。
さて、荀悦は、
班固の王莽伝の本文を大幅に省略し、王莽伝の賛をまったく引用することで、一貫して『漢紀』で王莽をけなした。『漢書』より優れた史書として高評価を得た。たしかに、わかりやすいのだが、筆法の研究という点では、おもしろみに欠けるかも。
班固が、アクロバティックな知的遊戯により、大半の読者を置き去りにした。そのおかげで荀悦は、王莽伝の本文は大幅に省略し、王莽伝の賛をまったく引用することで、王莽をけなすことを達成した。「わかりやすい史書」として高評価を得られた。つまんね。
ぼくは思う。末尾で、『漢書』が「亦天時,非人力之致矣。」とするのを、『漢紀』は「亦有天時。非人力也。」とするが、こんなのはアレンジとは言えない。字数の節約である。


及其竊位南面。處非所據。顛覆之勢。險於桀紂。而莽晏然。自謂唐虞復出。乃始恣睢。奮其威燄。滔天虐民。窮凶極惡。毒被諸夏。亂起蠻貊。未足逞其欲焉。故海內囂然喪其樂生之心。內外怨恨。遠近俱發。城池不守。支體分裂。遂令天下城邑為墟。丘壟發掘。害遍生靈。延及朽骨。書傳所載亂臣賊子無道之人。考其禍敗。未有如莽之甚也。昔秦燔詩書以立私議。莽誦六經以文姦言。同歸殊塗。俱用亡滅。此皆亢龍之絕氣。非命之運會。紫色蠅聲。餘分閏位為聖王之驅除云爾。

『漢書』王莽伝の末尾からきてる。

『漢書』王莽伝はいう。 及其竊位南面,處非所據,顛覆之勢險於桀、紂,而莽晏然自以黃、虞復出也。乃始恣睢,奮其威詐,滔天虐民,窮凶極惡,流毒諸夏,亂延蠻貉,猶未足逞其欲焉。是以四海之內,囂然喪其樂生之心,中外憤怨,遠近俱發,城池不守,支體分裂,遂令天下城邑為虛,丘□發掘,害遍生民,辜及朽骨, 自書傳所載亂臣賊子無道之人,考其禍敗,未有如莽之甚者也。昔秦燔《詩》、《書》以立私議,莽誦《六藝》以文奸言,同歸殊途,俱用滅亡,皆炕龍絕氣,非命之運,紫色蛙聲,余分閏位,聖王之驅除云爾!
このページの価値は、『漢紀』の抄訳ではなく、『漢書』と『漢紀』の比較である。いま、『漢書』王莽伝の賛と比較したところ、ほんとうに変わっていない。「変えない」ことにも、メタなレベルで荀悦の主張を読みとるべきだろう。変更しないから、主張がない、という解釈をしてはならない。


『漢書』叙伝からの引用

王莽既敗。天下雲擾。大者建州郡。小者據縣邑。公孫述稱帝於蜀。隗囂據隴擁眾。收集英雄。班彪在焉。彪即成帝婕妤之弟之稚子也。囂問彪曰。往者周亡。戰國並爭。天下分裂。數代然後始定。意者縱橫之事。復起於今日乎。將乘運迭興。在一人也。願先生論之。論曰。周廢興與漢稍異。昔周立爵五等。諸侯從政。根本既微。枝葉強大。故其末流有縱橫之事。其勢然也。漢家承秦之制。郡縣治民。臣無百年之柄。至於成帝。假借外家。哀平祚短。國嗣三絕。危自上起。傷不及下。故王氏之貴。傾擅朝廷。能竊其位。不卹於人心。是以即位之後。天下莫不引領而歎。十餘年間。中外騷動。遠近俱發。假號雲合。咸稱劉氏。不謀同辭。方今豪傑帶州域者。皆無七國世業之資。詩云。皇矣上帝。臨下有赫。監觀四方。求民之瘼。今民皆謳吟思漢。鄉仰劉氏。已可知矣。囂曰。先生之言周漢之勢可。至於見愚人習識劉氏。而謂漢家重興。疏矣。昔秦失其鹿。劉氏逐而得之。時民復知漢乎。彪感其言。又閔禍患之不息。乃著王命論以救時難。其辭曰。昔在帝堯之禪。曰咨爾舜。天之歷數在爾躬。舜亦以命禹。暨於稷契。咸佐唐虞。光濟四海。奕世載德。至於湯武而有天下。雖遭遇異時。而禪代不同。至於應天順民。其揆一也。是故劉氏承堯之後。氏族之世。著於春秋。唐據火德而漢運紹之。始起豐沛。神母夜號。以彰赤帝之符。由是言之。帝王福祚。必有明聖顯懿之德。豐功厚利積累之業。然後精誠通於神明。流澤加於生民。故為神明所福饗。天下所歸往。未見亡命。功德不紀。而能崛起於此者也。世俗見高祖起於布衣。不達其故。以為適遭暴亂。得奮其劍。遊說之士。比於逐鹿。捷者幸而得之。不知神器有命。不可以智力求之。悲夫。此世俗所以多亂臣賊子也。若然。豈徒晻於天道。又不睹於人事也。夫饑饉流離。單寒道路。思短褐之襲。儋石之畜。所願不過一金。終於轉死溝壑。何也。則貧窮亦有命也。況乎天子之位。四海之富。神明之祚。可得而妄處哉。故雖遭罹阨會。竊其權柄。勇如信布。強如梁籍。成如王莽。然卒就鼎鑊。伏斧鑕。烹煮分裂。又況麼不及數子哉。而欲晻干天位者乎。是駑蹇之乘。不騁千里之塗。燕雀之儔。不奮六翮之用。楶稅之材。不荷棟梁之任。斗筲之子。不秉帝王之量。易曰。鼎折足。覆公餗。言不勝任也。當秦之末。豪傑並起。共推陳嬰而欲王之。嬰母止之曰。自吾為汝家婦。汝世貧賤。卒得富貴不祥。不如以兵屬人。事成少受其利。不成禍有所歸。嬰從其言。而陳氏以寧。王陵之母。亦見項羽必亡。知劉氏將興。是歲陵為漢將。母獲於楚。有漢使來。陵母見之。曰告吾子。漢王長者。必得天下。爾謹順事之。無有二心。遂對漢使。伏劍而死。以固陵心。其後果定漢。陵為相封侯。夫以匹婦之明。猶能推事理之致。探禍敗之機。傳宗祀於無窮。垂策書於春秋。而況丈夫乎。是故窮達有命。吉凶由人。嬰母知廢。陵母知興。審此四者。帝王之分決矣。蓋在高祖。其興也有五。一曰是帝堯之苗裔。二曰體貌多奇異。三曰神武有徵應。四曰寬明而仁信。五曰知人善任使。加之以誠信好謀。達於聽受。見善如不及。用人如由己。從諫如順流。趣時如嚮赴。當食吐哺。納子房之策。收足揮洗。揖酈生之說。悟戍卒之言。斷懷上之情。高四皓之名。割肌膚之愛。舉韓信於行陳。收陳平於亡命。英雄陳力。群策畢舉。此高祖之大略也。所以成帝業焉。若乃靈瑞符應。又可略聞矣。初劉媼妊高祖。夢與神遇。雷電晦冥。有龍蛇之怪。及長而多靈。有異於眾。是以王媼武負。感物而折券。呂公睹形而進女。秦皇東遊以厭其氣。呂后望雲而知其處。始受命則白蛇分。西入關則五星聚。故淮陰留侯。謂之天授。非人力也。歷古今之得失。驗行事之成敗。稽帝王之世運。考五者之所謂。趣舍不厭斯位。符應不同斯慶。而苟昧權利。越次妄據。外不量力。內不知命。則必喪保家之主。失天年之壽。遇折足之凶。伏斧鑕之誅。英雄誠知覺悟。畏若禍戒。超然遠覽。淵然深識。收嬰陵之明分。絕信布之覬覦。距逐鹿之瞽說。審神器之授受。無貪不可幾者。為二母之所笑。則福祚流於子孫。天祿永終矣。彪知囂不寤。乃避難於河西。河西大將軍竇融訪問焉。舉茂才為徐令。
彪子固。字孟堅。明帝時為郎。據太史公司馬遷史記。自高祖至於孝武大功臣。紹其後事。迄於孝平王莽之際。著帝紀表志傳。為漢書凡百篇。述其帝紀。

『漢書』叙伝から、班固が『漢書』をまとめるまで。

其辭曰。皇矣漢祖。纂堯之緒。(中略)赫赫明明。述高紀。(中略)
孝平不造。新都作宰。不周不伊。喪我四海。述平紀。

班固の辞(『漢書』叙伝)いわく、皇矣漢祖。纂堯之緒。赫赫明明。高紀の述す。孝平皇帝は、事業がならず、新都侯の王莽が宰衡となった。王莽は、周公や伊尹でなかったので、われら漢家の四海を喪失した。孝平帝紀を術した。

このあたり、『漢書』叙伝そのまま。
ぼくは思う。荀悦は、班固自身による要約と評論が、献帝が前漢を理解するに資すると考えたのだろう。だから惜しまずに載せた。班固は、つるつるに丸めた「公式見解」を述べている。図式化して、理解した気になるには、これで充分である。


漢紀本凡七萬二千四百三十二字。王莽一萬字。莽攝位三年。即真十五年。合十八年。

『漢紀』は本紀が72,432字。王莽は1万字。王莽は摂位3年、即真15年。あわせて18年であった。130503

ぼくは思う。王莽は12%。荀悦『漢紀』の末尾は「漢紀本凡七萬二千四百三十二字。王莽一萬字。莽攝位三年。即真十五年。合十八年」という。王莽の時期に入ってから、字数の12%も費やしたことに。と思ったら張烈いわく「十」の字が脱落しており「十七萬…」とすべきだと。それなら王莽は5.5%。なお多いな。だって荀悦は、カタキのように(本当に漢家のカタキなんだが)王莽の事績を削ったから。これだけ削って20分の1は、なお王莽に奪われるという。

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