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伊尹ウェブ委員会、やります宣言

伊尹について興味をもつまで

宣言します。130522
伊尹ウェブ委員会、やります。伊尹を知りたくて検索しても、少ししか情報が得られない。だからぼくが、伊尹についてウェブ上の情報を充実させます。誰もが「イインとカクコーの故事」の慣用句は知っているのに、イインに詳しい人は少ない(に違いない)。めざせ「伊尹」で検索したときの、結果表示10位以内。
藤原伊尹(ふじわらのこれただ)とか、ジャマw

2009年初(4年半前)にブックオフで、
宮城谷昌光『天空の舟/小説・伊尹伝』を買ったのだが、
上下巻をビニル袋に入れたまま、放置していた。気まぐれで読んだ。

4年半前は「三国ファンでもわかる春秋戦国」をまとめたいと思っていた。宮城谷昌光『管仲』などを読んでいて、なんとなく古本を勢いで買ってしまった。伊尹は、春秋戦国じゃないから、放置してた。
『天空の舟』は、いわゆる「たんなる小説」です。しかし、伊尹に関するもっとも長いテキストだろう。また、伊尹に関する神話・説話の、1つの発展形態だと思う。そういうわけで、まだ儒家経典における伊尹が、どのように記述されているのか、なにも知らない!のだが、小説を抜粋してみる。

ツイッターで教わったこと

昨日からツイッターで、教えていただいています。
ぼくはいう。伊尹について教えてください。宮城谷昌光『天空の舟/小説・伊尹伝』を読んでます。ちらっと本文中に『竹書紀年』とか『孟子』などの出典が出てきますが、元ネタがよくわかりません。『史記』殷本紀がいちばん、まとまった伊尹の記事ですか?
@my_birthday0128 さんはいう。あと、『書経』太甲篇にも伊尹の話が載っているとか聞いたことがあります。
@t_maki99 さんはいう。伊尹なら、今売ってるかどうかは分からないけれど青土社の『中国の神話伝説』って書籍に載ってますよ、後半に出典の部分も明記されてるのでわりと便利です。とりあえず、手元にあった本で調べたらこれだけでました。「 呂氏春秋:本味,慎大」「 墨子:尚賢(下)」「荀子:非相」「晏子春秋:内篇 諌(上)」「淮南子:秦族訓」「水経注:泗水」「国語:晋語(一)」「列女伝:母儀伝」
@aokitomo_zZ さんはいう。伊尹については東洋文庫「列女伝」末喜の注釈と、袁珂『中国神話・伝説大事典』大修館書店の記事が詳しくて、出典も載ってます。あ、もう紹介されてましたね汗。青土社も大修館書店もどちらも同じ著者です。「楚辞・天問」にも伊尹は登場します。

ぼくはいう。ありがとうございました。 『中国の神話伝説』上下巻を注文しました。見てみます。『中国神話・伝説大事典』は、中古で1万円くらいするので、図書館で借りてみて、おもしろかったら買います。

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中文の維基百科、中華百科全書の抄訳

維基百科「伊尹」より

伊尹について、ほんとに名前しか知らないので、中国語のウィキペディアで予習をしておきます。日本語のウィキペディアは、情報不足でした。おかげさまで、伊尹ウェブ委員会、やりがいがでます。

◆ひととおりの説明

伊尹,名摯,出生于有莘国空桑涧(今河南省洛阳市嵩县莘乐沟),因為其母親為侁民,在伊水住居,以伊為氏。伊尹為中国商朝初年著名丞相、政治家,是中华厨祖,尹是右相之意。他本是有莘氏的陪嫁奴隶。他陪嫁到商汤那里,为商汤厨师。伊尹有远大抱负,不甘作奴隶,于是利用向商汤进食机会向商汤分析天下形势。商汤很欣赏他,便取消了伊尹奴隶身份,并提拔他为宰相。前1600年,他辅助商汤灭夏朝,商朝建立。他任丞相期间,整顿吏治,洞察民情,使商朝初年经济比较繁荣,政治比较清明。

伊尹は、名を摯という。有莘国の空桑のあいだから生まれた。母親は伊水に住んでいたので「伊」を氏とした。
伊尹は、商朝の初期、著名な丞相であり、政治家であり、中華厨の始祖である。「尹」とは、右相という意味である。
もとは伊尹は、有莘氏の陪嫁奴隷であった。商湯(殷の湯王)のもとで料理人となった。伊尹には遠大な抱負があったので、奴隷となることに甘んじない。商湯に食事をすすめる機会に、商湯にむけて天下の形勢を分析して話した。商湯は、伊尹の分析をほめて、奴隷から宰相に抜擢した。

宮城谷『天空の舟』では、いきなり商湯に就職せず、夏桀のまわりで仕官する。このあたりは、創作なのか。それとも儒家経典に元ネタがあるのか。無知ってたのしいw

紀元前1600年、伊尹は、商湯が夏桀を滅ぼすのを補助して、商朝をたてた。伊尹が丞相をした期間、政治は整頓され、民情を洞察した。商朝の初期、経済が反映し、政治は清明であった。

太甲即位時昏庸无能,伊尹软硬皆施,把太甲流放到桐地(今河北臨漳),建宮居住,達三年之久。伊尹自行攝政管治國家。直到太甲後悔了,才迎回太甲,復辟執政,使太甲变成了一位圣君。

太甲(商湯の孫)が即位したとき、バカで無能だった。伊尹は、太甲を桐地につれこみ、宮殿を建てて3年住まわせた。伊尹は、みずから摂政した。太甲は3年かけて反省し、政治にもどった。太甲は伊尹のおかげで、1人の聖君に変成した。

ぼくは思う。よくいう「伊尹と霍光の故事」は、まさにここがキモなんだろう。しかし『天空の舟』では、最後の数ページしか、太甲との関係が描かれていなかった。前半生をふくらますところに、『天空の舟』の特徴がある。


《史記.殷本紀》:“帝太甲既立三年,不明、暴虐,不遵湯法,亂德。於是伊尹放之於桐宫三年,伊尹攝行政當國,以朝諸侯。帝太甲居桐宫三年,悔過自責反善。於是伊尹迺迎帝太甲而授之政。”

『史記』殷本紀はいう。太甲が即位して3年。太甲は、不明で暴虐で、湯王の法を守らない。徳をみだす。伊尹は、太甲を桐宮に放りこんだ。伊尹が国政を摂行して、諸侯に朝見した。太甲は桐宮に3年いて、過失を後悔した。伊尹は、太甲に国政を返還した。

伊尹歴事商朝商汤、外丙、仲壬、太甲、沃丁五代五十余年,为商朝立下汗马功劳。沃丁八年(前1549年),伊尹逝世,终年100岁。沃丁以天子之礼把伊尹安葬在商汤陵寝旁,以表彰他对商朝做出的伟大贡献。

伊尹が仕えた商王は、商湯、外丙、仲壬、太甲、沃丁の5代、50余年である。商朝の建国に、功績がある。沃丁8年(前1549)、伊尹は死んだ。100歳だった。沃丁は、天子之礼をもって、伊尹を商朝のとなりに葬った。伊尹のおおきな功績を明らかにした。

《太平御覽》、《初学记》引《帝王世紀》:“帝沃丁八年,伊尹卒。年百有餘歲,大霧三日。沃丁葬以天子之禮,祀以大牢,親自臨喪三年,以報大德焉。”

『太平御覧』と『初学記』にひく『帝王世紀』はいう。帝沃丁8年、伊尹は卒した。100余歳である。3日、おおいに霧がでた。沃丁は、伊尹を天子之礼でほうむり、大牢をまつる。みずから3年喪をやる。伊尹の大徳に報じた。

◆異説

根據另一本史書《竹書紀年》,伊尹放逐太甲后,自立為王,7年後,太甲潛回殺掉篡位的伊尹,並改立伊尹的兒子伊陟和伊奮繼承伊家[4]。根據出土的甲骨文显示,直至商朝末年,商朝仍然坚持对伊尹的祭祀,且祭祀伊尹的牺牲数目及品种与商朝先王同级,因此《竹书纪年》的记载有可疑之处。

『竹書紀年』によると、伊尹は太甲を放逐してから、自立して「王」となった。7年後、太甲はひそかに伊尹を殺して、伊尹から王位を奪回した。

ぼくは思う。幼い君主を補佐した人は、きなくさい。殷家の初期には、伊尹。周家の初期には、周公旦。これが、前漢の霍光と王莽につながってゆく。彼らが君主を迫害したのは、君主を真心から補佐しただけなのか。おそらく「原理的に判定不能」が正解なのだろう。もちろん、正解をだして、興味を止めてしまうつもりはない。

太甲は、伊尹の子である伊陟と伊奮に、伊家をつがせた。出土した甲骨文からわかるように、商朝は末年まで、伊尹のための祭祀を堅持した。伊尹のための犠牲の動物は、商朝の先王と同レベルであった。これにより『竹書紀年』の記述は、どうやらウソくさい。

洪頣煊注《廣弘明集》十一引《汲冢書》云:「伊尹自篡立,後太甲潛出,親殺伊尹而用其子。」《竹書紀年》:「太甲元年,伊尹放太甲於桐,乃自立。七年,王潛出自桐,殺伊尹。」

洪頣煊が注釈した『廣弘明集』巻11にひく『汲冢書』はいう。伊尹はみずから簒奪して、王として立つ。のちに太甲が、ひそかに伊尹の管理から脱出して、みずから伊尹を殺害した。太甲は伊尹の子をもちいたと。『竹書紀年』はいう。太甲元年、伊尹は太甲を桐宮に放りこみ、みずから立つ。太甲7年、王はひそかに桐宮から脱出して、伊尹を殺害した。

ぼくは思う。事実がどうかというより。伊尹という素材をつかって、なにを主張したいか、という、編者の政治的な立場の反映でしかなかろう。


◆後世における影響

雖然伊尹對商朝貢獻良多,但他流放太甲的行為,卻成為了後世權臣效尤的憑據。西漢時期,權臣霍光就以伊尹為先例,操纵皇帝的廢立。

伊尹は、商朝に対して大きく貢献した。だが太甲を放逐したので、後世の権臣から、模範とされた。前漢のとき、権臣の霍光は、伊尹の先例にもとづき、皇帝の廃立を操縦した。

ぼくは思う。この文章、デジャビュだ。ここ数ヶ月で、夢に見た気がする。でも伊尹について読むのは、いまが最初のはずなのに。どうしてだろう。へんなの。


田延年曰:“伊尹相殷,廢太甲以安宗廟,後世稱其忠。將軍若能行此,亦漢之伊尹也。”(《資治通鑑》卷二四)黄仁宇《赫逊河畔谈中国历史》:“传统历史家把霍光比作伊尹、周公”。《三国演义》描寫董卓废帝时便引用“尹伊放太甲,霍光废昌邑”的故事。

田延年はいう。「伊尹が殷家をたすけた。太甲を廃して、宗廟を安んじた。後世の人々は、伊尹の忠をたたえた。霍光が同じことをすれば、漢家の伊尹である」と。『資治通鑑』巻24より。
黄仁宇『赫遜河畔談中国歴史』はいう。伝統的な歴史家は、霍光を伊尹と周公に比した。『三国演義』では董卓が廃帝するとき、伊尹による太甲の放逐と、霍光による昌邑王の廃位の故事を引用した。

中華百科全書「伊尹」より

伊尹,名摯,生於夏桀之世。母侁民,居伊水,遂以為氏。是時夏桀虐政荒淫,商湯聞伊尹之賢,數遣使迎聘以歸。

伊尹は、名を摯という。夏桀の世に生まれた。

ぼくは補う。ここから。http://ap6.pccu.edu.tw/Encyclopedia/

母は侁民であり、伊水に住む。ゆえに「伊」を氏とした。夏桀の政治はひどい。商湯は、伊尹が賢者だと聞いて、なんども使者をだして招聘した。

ぼくは思う。『天空の舟』では、商湯がみずから訪問していた。というか、さっき維基百科では、伊尹から商湯に売りこんでいた。諸葛亮の例にも見えるとおり、君臣の出会いは諸説を生みがちである。


伊尹既出,為湯喻述素王九主之事,冀其能成有為之主,以利天下。於是,湯委以國政。既平昆吾氏之亂,進而欲革夏桀之命。嘗五入夏國,詗察夏桀之惡,乃歸誓眾曰:有夏多罪,天命殛之。遂揮師大進,敗桀於有娀之墟。桀奔於鳴條,湯伐其國,俘其寶玉,諸侯悉服。

出仕した伊尹は、商湯のために「素王・九主之事」を教えた。商湯を天下の君主にしたい。商湯は伊尹に国政をゆだねた。昆吾氏の乱を平定した。夏桀の天命をあらためたい。伊尹は夏国に5たび入り、夏桀の悪政を見た。商国にかえって、商軍に誓約した。「夏家には罪がおおく、天命がおわる」と。商軍がすすみ、夏桀を有娀之墟でやぶる。夏桀は鳴條ににげる。商湯は、そこで夏桀をやぶり、宝玉をえて、諸侯に服された。

ぼくは思う。夏桀の最後の戦いは、史書に見えるのだろうか。『天空の舟』がどこまで膨らましていたのか、まだぼくは分かっていない。昆吾氏は、出てくるのか。


湯乃踐天子位,伊尹佐之,敬慎為政,日臻太平。既而湯崩,太子太丁未立而卒,乃立其弟外丙為王。立二年,外丙崩;又立其弟中壬。中壬立四年,崩;伊尹復立大丁之子大甲。然大甲不明而暴虐,不循乃祖法度。伊尹屢訓不改,乃放大甲於桐宮,俾其悔過自新。是時,伊尹居阿衡之位,代攝商政當國以朝諸侯。如是三年,大甲悛改前非,伊尹復迎立之。於是諸侯嚮德,百姓以寧;稱阿衡為尹而不名。

商湯が天子の位をふむと、伊尹が補佐した。商湯が崩じると、太子の太丁が、王位に立つ前に卒した。太丁の弟・外丙が商王となる。立って2年目、外丙が崩じた。外丙の弟・中壬がたつ。中壬は4年目に崩じた。
伊尹は、太丁の子・太甲をたてた。だが太甲は、不明かつ暴虐であり、祖法を守らない。伊尹はしばしば訓戒したが、太甲は改めない。伊尹は太甲を、桐宮に放りこむ。伊尹は「阿衡」の位にいて、国政を代行して、諸侯を朝見した。3年後、反省した太甲をふたたび迎えた。諸侯に徳がひびき、百姓は寧いだ。
伊尹のことを「阿衡」とよび、伊尹の名をよばない。

大甲崩,其子沃丁立。伊尹蓋卒於沃丁之世,享壽將及百年,沃丁以天子禮葬之於亳。綜其一生,佐湯弔民伐罪,歷事四君而無改其忠忱。故其放大甲而自當國之事,孟子獨許之曰:有伊尹之志則可。生平著有伊訓、大甲、咸有一德等文,見存尚書中。(陳槃)

太甲が崩じると、太甲の子・沃丁が商王にたつ。けだし伊尹は、沃丁の時期に死んだ。100歳にちかい。沃丁は、天子之礼でに葬る。伊尹は一生をつうじて、殷湯をたすけ、民衆をとむらい、罪をうった。4君につかえて、その忠忱は変わりが無かった。ゆえに太甲を放逐して国政を担当しても、『孟子』に「伊尹の志はよい」と言われた。伊尹は『伊訓』『大甲』を著した。『尚書』にみえる。130522

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平勢隆郎『都市国家から中華へ』の伊尹

平勢隆郎『都市国家から中華へ』の197頁。

甲骨文から、殷王の祖先祭祀がわかる。
祖先祭祀を復元すると、『史記』の殷本紀の系図と一致する。世の学者が驚愕した。

祖先祭祀にまじって、伊尹の名が見える。『史記』では殷初の宰相である。宰相とは、戦国以後の認識であり、官僚による地方統治ができて以後の認識である。都市国家の連合体であった殷王朝では、戦国の意味での「宰相」ではない。殷王を補佐するのは同じだが、副都にあたる最重要な都市をまかされた者をいう。伊尹とは「伊」という都市を任された人物だと考えられる。

ぼくは思う。殷王なみに、祭祀される伊尹。これは、戦国以後というか、漢代を「いま風」と感じる者にとって、不思議である。果たして、漢帝と同等の祭祀を受けるような、建国の功臣がいただろうか。いないよなあ。中期以降、王にすら封じられない。
つぎの周室ですら、鎬京と洛陽に分裂した。官僚機構に頼らずに、支配を維持するなら、重要な拠点に「副都」をちりばめるしかない。副都もまた、求心力を発揮するという点で、首都と同等の重要さをもつ。というわけで、伊尹は殷王と同等だったのだろう。統治機構が弱いから(地勢、当時の移動技術に縛られた統治しかできないから)殷王は伊尹をとうとぶ。


洛湯の東で、洛水に合流する支流に、伊水がある。ここれが「伊」であろう。河南の文化地域である。周は、殷を直接支配する都城として、洛邑をつくった。殷よりの軍事拠点を継承した。
『史記』殷本紀によれば、太戊のとき、伊陟が取り立てられ、伊氏が勢力を盛り返した。伊氏は、殷家のなかで特別な位置づけを持っていた。

魏家の年代記『竹書紀年』には、殷本紀がある。伊尹の記事もある。伊尹は、仲壬の卿士である。卿士とは、周家の語彙。卿士たる伊尹は、太甲を桐地に放逐して、自立したという。太甲は、放逐されて7年後にかえり、伊尹を殺した。伊陟と伊奮に領地を分け与えた。
伊陟の時期が、『史記』とズレる。伊尹の一族と、殷王の一族の葛藤が見られるのが、『史記』とちがう。伊尹の一族の、歴史的位置が、『竹書紀年』と『史記』では異なる。

という「副都の統治者」としての伊尹でした。130524

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袁珂・鈴木博『中国の神話伝説』の伊尹

袁珂・鈴木博『中国の神話伝説』下・青土社1993より。

夏殷編・第3章

◆夏桀に諫言する伊尹
伊尹は殷湯の臣下であったが、重用されないので、夏桀の御膳官となった。
『史記』殷本紀はいう。「殷湯は伊尹を挙げ、任すに国政を以てするも、伊尹、殷湯を去りて夏桀にゆく」と。袁珂はいう。『史記』は誤りだろう。重用されて国政を委任されても、夏桀のもとにゆくはずがない。
『韓非子』難言はいう。伊尹が殷湯に「70たび説くも(殷湯は)受けず」と。殷湯が伊尹を用いないのは、『韓非子』には見ることができる。

伊尹は夏桀に「私の言うことを聞かねば、この国は滅びる」という。夏桀は作り笑いをして、酔った口調で叱責した。
夏桀はいう。「私が天下を擁しているのは、天上に天道(太陽)があるようなもの。太陽が消えるのを見た者はいない。もし太陽がなくなれば、私は滅びるだろうが。伊尹は世迷いごとを言うな」と。
袁珂はいう。この伊尹と夏桀との会話は『新序』刺奢にもとづく。

夏桀は尊大になり、自分のことを「天父」という。『新書』大政上はいう。夏桀はみずから「天子」というと。これを『繹史』は「天父」とする。

夏桀は、自分を太陽になぞらえた。
このころ夏桀に迫害された人々は、毎日、太陽を指さして、「太陽め、さっさとくたばれ。太陽がくたばるなら、私たちが一緒に死んでも構わない」と呪っていた。だが夏桀は、これを知らない。
この呪いは、『書経』湯誓に見える。

◆夏桀から殷湯に転職する伊尹
夏桀がおろかなので、伊尹は帰宅するしかなかった。月光のもと、酔った市民が歌っていた。「なんぞ亳に帰らざる、なんぞ亳に帰らざる。亳もまた大なるかな」と。
あちこちの軒下から聞こえた。伊尹は不思議に思った。亳(河南省の商丘県の南西)は、殷湯の都城である。なぜ市民たちは、「亳に帰れ」と歌うのか。殷湯こそ、人心をとらえた賢王であり、夏族の庶民が憧れているのかと気づいた。
伊尹は帰宅して、読書のために小楼に登った。ちかくの大通から、悲憤慷慨した歌が聞こえてきた。「覚せよ、較せよ。わが大命、いたれり。不善を去りて、善につく。なんぞ楽しまざる」と。
伊尹は、この歌が自分のことを歌っていることに気づいた。殷湯を去って、夏桀に臣従したのは、誤りであった。殷湯は伊尹を重用しないが、殷湯こそが賢王である。これから伊尹を重用してくれるかも知れない。伊尹は翌朝、夏家の都城・鄒城(河南省の鞏義市の南西)をはなれて、殷湯のいる亳城にいく。
袁珂はいう。鄒城については、『史記』正義の注釈による。伊尹が歌をきく逸話は、『尚書大伝』第2が収録する。

◆伊尹の出生エピソード
かつて東方(山東省の曹県の北部)に有莘国という小国があった。娘が桑林にゆくと、空洞の幹から、赤子を見つけた。娘は有莘の国王に、赤子を献上した。国王は、御膳房の料理人に養育させ、赤子の来歴を調査した。
赤子は、もとは伊水のほとりに住んだ。妊娠したある日、神人が夢に出現して「ウスから水が出たら、東方に向かえ。振り向くな」という。翌日、ウスから水が出た。東方に逃げたが、振り向いてしまった。妊娠した者は、桑の老木に化けてしまった。

ぼくは思う。赤子は生まれる前に、流されたのね。桑の空洞とは、そのまま母胎をあらわす。いかにも神話である。

東方に逃げた者に確認すると、たしかに妊娠した者が、桑の老木に化けたという。母親が伊水のほとりに住み、のちに「尹」という官職についたので、伊尹と呼ばれた。
この出生の話は、『呂氏春秋』本味にある。

伊尹は有莘国で、料理の名人になった。勉学もやり、宮廷の教師となった。有莘の国王の娘を教育した。『墨子』尚賢下にある。
のちに殷湯が東方を巡遊した。殷湯は、有莘の娘を妻にした。伊尹は、嫁入りに随行して、殷湯の臣になった。だが殷湯は、伊尹を重んじなかった。伊尹は、眉毛も髭も生えないからである。容姿によるビハインドは、『荀子』非相編にある。

ぼくは思う。宮城谷『天空の舟』では、有莘には2人の娘がいる。1人は夏桀にとつぎ、末喜となる。もう1人は殷湯にとつぐ。だが前者は神話にはなく、後者は神話にあるみたいだ。末喜は、有莘氏の娘ではなさそう。創作の範囲がわかってきた。


『史記』殷本紀はいう。伊尹は、名を阿衡という。阿衡は、殷湯に仕えたいが、人脈がない。有莘氏の媵臣となり、鼎俎(料理の器具)をせおい、滋味(料理の腕前)をもって殷湯に説き(自分を売りこみ)王道に到ると。
袁珂はいう。伊尹が、媵臣(貴女の嫁入につきそう卑賤な男)であったことは、『史記』が正しかろう。つまり自分の意志で、伊尹は殷湯に仕えた。『楚辞』天問、『呂氏春秋』本味にあるように、殷湯が伊尹を欲したのではない。 殷湯が欲するエピソードでは、殷湯が有莘氏に「賢者の伊尹がほしい。伊尹をくれるなら、有莘氏の娘をめとるよ」と頼みこむが、これはウソだろう。のちに伊尹が、殷湯をあきらめて夏桀にゆくことと整合しない。また伊尹が「5たび殷湯につき、5たび夏桀につく」という伝説の説明がつかない。

ぼくは思う。伊尹は、そんなに浮気してたのか!


殷湯につかえた伊尹は、教師ではなく、料理人として活動した。肌の黒い小柄な伊尹(外見は『博物志』異聞より)は、鼎をせおい、俎をかかえ、厨房を取り仕切った。伊尹の料理は、殷湯や賓客にほめられた。
伊尹は殷湯に、珍味の話から、治国と平天下の話まで、よどみなく語った。『呂氏春秋』本味にある。だが伊尹は、料理人としてのみ活用され、重要な官職は与えられなくなった。くやしい伊尹は夏桀に転職したが、ここでも料理人の仕事しか与えられない。
伊尹は夏桀の愚かさをみて、殷湯のもとに出戻った。

夏殷編・第5章

夏桀は殷湯を夏台に封じこめた。だが殷湯の身柄よりも、財宝のほうがほしくなり、殷湯を解放した。
このころ夏桀は、容姿の衰えた末喜を愛さなくなった。末喜は、洛水のほとりに遠ざけられた。末喜は、かつて御膳官だった伊尹と私通したことがあった。末喜は、いまでは殷湯の宰相となった伊尹に、夏家の秘密をリークした。伊尹は、夏家の秘密を得たことを喜んだ。伊尹は、末喜に贈物をして、連絡をとりあった。
袁珂はいう。『繹史』巻14にひく『竹書紀年』に、末喜と伊尹の連絡が記される。だが現在の『竹書紀年』には、伊尹と末喜が私通したという記述はない。

ぼくは思う。伊尹は、殷湯の宰相=純粋な忠臣というより、「殷湯と夏桀を往復する者」というのが、神話における役回りらしい。その意味で『天空の舟』は、わりに神話に忠実だったのか。のちに太甲を放逐するという「謀反」も、伊尹の神話における独立性と関係がありそう?


夏殷編・第6章

殷紂王は、夏桀王の反復である。

ぼくは思う。これは神話の典型である。いくら殷家が考古学的に実在を証明されているからといって、殷家にまつわる説話まで、史実として理解する必要はないだろう。人類が神話を伝承するとき、定型に落とし込まれる。これが、夏殷のあいだで証明されているのだ。人類の考えることは、古今東西、だいたい同じ。というのが、神話を分析することができる、文化人類学の基本的な態度なのだ。

夏桀には末喜がおり、殷紂には妲己がいる。夏桀は殷湯と戦い、殷紂は周文と戦った。殷湯は伊尹に補佐され、周文は呂望に補佐された。夏桀は湯王を夏台に投獄して、釈放した。殷紂は周文をユウ里に投獄して、釈放した。
袁珂はいう。同一の伝説が分化したようだ。歴史的な事実にちかい殷紂の話が、はるか昔の夏桀にこじつけられた可能性が大きい。130525

ぼくは思う。伊尹を知るためには、太公望を「家族的類似」の兄弟として着目し、分析せねばならない。という見通しがたった。仕事が増えたよ。オメデトウw
ぼくは思う。伊尹への認識が変わった。伊尹は、歴史学の史料批判の対象としては、信憑性に欠ける素材。正直、やりようがない。つまらない。だが人類学の神話分析の対象としては、格好の素材。夏桀・殷湯・伊尹は、殷紂・周文・呂望と「家族的類似」をした神話だ。人類学の頭の使い方で考察していけそう。そういう視点を獲得できただけでも、この抜粋の作業には意味があった。
ぼくは補う。伊尹ウェブ委員会の活動状況。130601時点「伊尹」でググったら、ぼくのサイトは43位。ダメじゃん。「伊尹 史記」なら1位。「伊尹 湯」なら9位。「伊摯」でも9位。「伊尹 殷」なら11位。「伊尹伝」で12位。がんばろう。

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