-後漢 > 『史記』殷本紀より、殷湯と伊尹・伊陟の記事を抄訳

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夏代;伊尹が成湯の9タイプの君主を語る

『史記』殷本紀 第3から、伊尹に関係ありそうな時代を抄訳します。
日本語版は、明治書院を参考にします。

成湯が亳城に都し、葛伯を攻める

成湯,自契至湯八遷。〔一〕湯始居亳,〔二〕從先王居,〔三〕作帝誥。〔四〕

〔一〕集解孔安国曰:「十四世凡八徙國都。」
〔二〕集解皇甫謐曰:「梁國穀熟為南亳,即湯都也。」正義括地志云:「宋州穀熟縣西南三十五里南亳故城,即南亳,湯都也。宋州北五十里大蒙城為景亳,湯所盟地,因景山為名。河南偃師為西亳,帝嚳及湯所都,盤庚亦徙都之。」
〔三〕集解孔安國曰:「契父帝嚳都亳,湯自商丘遷焉,故曰『從先王居』。」正義按:亳,偃師城也。商丘,宋州也。湯即位,都南亳,後徙西亳也。括地志云:「亳邑故城在洛州偃師縣西十四里,本帝嚳之墟,商湯之都也。」
〔四〕索隱一作「」。上云「從先王居」,故作帝。孔安國以為作誥告先王,言己來居亳也。

成湯(天乙=殷湯)は、初代の契から、8たび、本拠をうつす。

孔安国はいう。14代で8たび、国都をうつした。

はじめて成湯のとき、亳城に都する。亳城は、祖先の帝嚳がいた場所だから、成湯はここを選んだ。

皇甫謐と孔安国は、位置を注釈する。上記の原文参照。

成湯は、テキスト『帝誥』をつくる。

吉田賢抗『新釈漢文大系』明治書院はいう。散逸したテキストのタイトル。現行の『尚書』には見えない。吉田氏は、この帝誥の内容を、これから亳城に居るべきことを、帝嚳に告知したと理解する。


湯征諸侯。〔一〕葛伯不祀,湯始伐之。〔二〕湯曰:「予有言:人視水見形,視民知治不。」伊尹曰:「明哉!言能聽,道乃進。君國子民,為善者皆在王官。勉哉,勉哉!」湯曰:「汝不能敬命,予大罰殛之,無有攸赦。」作湯征。

〔一〕集解孔安國曰:「為夏方伯,得專征伐。」
〔二〕集解孟子曰:「湯居亳,與葛伯為鄰。」地理志曰葛今梁國寧陵之葛鄉。

成湯は、諸侯を征圧した。葛伯は(諸侯の任務であるはずの)祭祀をやらないので、はじめに成湯が討伐した。

孔安国はいう。葛伯は夏家の方伯なので、征伐された。 吉田氏はいう。『孟子』滕文公下はいう。成湯は亳城にいた。葛伯と隣接した。成湯は、葛伯から討伐を開始した。はじめ成湯が、亳城の人民をつかって、葛伯の耕作を助けた。だが葛伯はその供物をうばい、亳城の人民を殺したという。
ぼくは思う。葛伯がわるいのか、成湯が悪いのか。今日の外交問題と同じように捉えるのは慎重に。ともあれ、夏家に対する成湯の「叛乱」は、隣接する葛伯を攻撃するところから始まった。
『地理志』は葛伯を、梁国の寧陵にある葛郷という。

成湯はいう。「自分の姿は、水鏡に映さねば見えない。民を見なければ(いくら自分の中身を振り返っても)私の統治の成否がわからない」と。

ぼくは思う。まんま、ラカンの鏡像段階論。古今東西、この比喩は、使い勝手が良いのでしょう。

伊尹がいう。「そのとおり。よく傾聴できる者が、政道を進められる。成湯は、民をわが子のように扱え。善政をすれば、みな成湯の官僚になってくれる。がんばれ」と。

吉田氏はいう。「言能聴」とは、「言、よく聴かれ」とよみ、成湯のよい言葉を、人民がよろこんで聞くこと。もしくは「言よく聴けば」とよみ、人民の前言を成湯がちゃんと聴けば、という解釈もある。ともに意味が通じる。
ぼくは思う。宮城谷『天空の舟』は後者の理解だった。
『孟子』万章下で、伊尹を「聖の任なる者」とする。ぼくは思う。伊尹の伝説は、おもに『孟子』によって膨らんでいる。吉田氏によると、『史記』の伊尹のイメージは、『孟子』に基づいていると。『孟子』を読まねばなるまい!

成湯はいう。「伊尹がわたしの命令を敬(つつし)まねば、私は伊尹を罰する。赦さない」と。成湯は、テキスト『湯征』をつくる。

吉田氏はいう。『湯征』は散逸したテキストのタイトル。


有莘氏の媵臣として、伊尹が成湯に仕官

伊尹名阿衡。〔一〕阿衡欲奸湯而無由,乃為有莘氏媵臣,〔二〕負鼎俎,以滋味說湯,致于王道。

〔一〕索隱孫子兵書:「伊尹名摯。」孔安國亦曰「伊摯」。然解者以阿衡為官名。按:阿,倚也,衡,平也。言依倚而取平。書曰「惟嗣王弗惠于阿衡」,亦曰保衡,皆伊尹之官號,非名也。皇甫謐曰:「伊尹,力牧之後,生於空桑。」又呂氏春秋云:「有侁氏女採桑,得嬰兒于空桑,母居伊水,命曰伊尹。」尹,正也,謂湯使之正天下。
〔二〕集解列女傳曰:「湯妃有莘氏之女。」正義括地志云:「古莘國在汴州陳留縣東五里,故莘城是也。陳留風俗傳云陳留外黃有莘昌亭,本宋地,莘氏邑也。」媵,翊剩反。爾雅云:「媵,將,送也。」

伊尹は、名を阿衡という。

索隠『孫子兵書』はいう。伊尹の名は「摯」である。孔安国は「伊摯」という。阿衡は官名である。阿とは、倚(よ)ること。衡とは、平らかにすること。つまり、依拠して平衡にすること。
『書経』はいう。「ただ嗣王は、阿衡に恩恵をほどこさない」と。阿衡は「保衡」ともいう。どちらも伊尹の官号であり、名ではない。
皇甫謐はいう。伊尹は、力牧の後裔である。空桑から生まれたと。
『呂氏春秋』はいう。有侁氏の娘が桑をとりにゆき、嬰児を空桑から得た。母は伊水に居住したので、伊尹と命名されたと。
「尹」とは「正」のこと。殷湯は伊尹に、天下を正させようとした。

伊尹は成湯に仕えたいが、つてがない。有莘氏の媵臣となった。

『列女伝』はいう。成湯の妃は、有莘氏の娘である。『正義』は有莘氏のジョウユウの位置をしるす。
ぼくは思う。伊尹と有莘氏の関わりは、宮城谷『天空の舟』のとおりだった。『天空の舟』がフィクションなのは、有莘氏の娘が、夏桀の妃・末喜になるところ。
吉田氏はいう。原文「奸」は「干」であり、もとめること。身分の低い者が、身分の高い者に、官職を求めること。原文「由」は、つて、ゆかり、手だて。

伊尹は、鼎と俎(調理の器具)をせおって、成湯に仕官する。滋味(料理の腕前)によって、成湯に説教して、話題は王道のことに到る。

ぼくは思う。「男の胃袋をつかむ」故事である。ウソです。
吉田氏はいう。媵臣とは、嫁にいく女の付き人。媵は、送ること(『爾雅』)。荷物をもって、送ること。
『墨子』はいう。伊尹は、有莘氏の女の私臣である。みずから庖人となる。


或曰,伊尹處士,湯使人聘迎之,五反然後肯往從湯,言素王及九主之事。〔三〕湯舉任以國政。伊尹去湯適夏。既醜有夏,復歸于亳。入自北門,遇女鳩、女房,作女鳩女房。〔四〕

〔三〕長くなるので、下記にぬきだし。
〔四〕集解孔安國曰:「鳩房二人,湯之賢臣也。二篇言所以醜夏而還之意也。」

或る者はいう。伊尹は処士である。成湯が5たび使者をだし、伊尹を招いた。伊尹は成湯に、素王および九主の事績を話した。

この注釈は、下記にぬきだす。
吉田氏はいう。素王とは、王たる徳があっても、王位に就かない者のこと。一説に素王とは、太素上皇のことを指す。九主とは、三皇+五帝+夏禹のこと。だが吉田氏が考えるに、三皇に本紀を立てない司馬氏が、三皇を含めて「九主」をカウントするのはおかしい。九主は解らない。
ぼくは思う。素王というと孔子を思い浮かべるけど、これは孔子よりも、もっと昔の話である。ただし、舞台設定は孔子より昔だが、『史記』は前漢中期に書かれているから、孔子が念頭にあることを完全には否定できない。史料の成立年代の「常識」が、ことわりなく入りこむから、とても微妙である。常識だから、ことわらないし。
ぼくは思う。この「或る者」の解釈では、成湯が伊尹を欲した。三顧の礼より回数がおおいが、成湯その人が出向いていないので、尊重の程度はひくいのか。

成湯は、伊尹に国政をゆだねた。のちに伊尹は、成湯を去って、夏桀にゆく。夏桀の醜悪をにくみ、亳城にもどる。

ぼくは思う。袁珂『中国の神話伝説』で突っ込まれていた。国政を委ねられるほど、伊尹が官職が高ければ、わざわざ夏桀に仕官する必要がない。だから伊尹は、成湯に重用されないのだろうと。
ぼくは思う。そういう直線的な人間の記録として、理解してはいけない。伊尹は、夏桀と成湯のあいだを往復するという神話的なキャラクタである。トリックスターである。君主に完全に屈服せず、媒介項としてウロウロし、正邪や善悪をつなげる存在なんだろう。まず伊尹の、卑賤の料理人と、成湯の宰相という、2つの肩書からして、トリックスターめいている。キレイはキタナイ。キタナイはキレイ。そういう両義的な存在である。伊水の「神」みたいな性質が、付与されている。史実の伊尹がどうあれ、殷本紀という神話においては。『史記』を読む態度は、神話分析であるべきだ。

北門から入って、成湯の重臣である、女鳩と女房と会見した。伊尹は、テキスト『女鳩・女房』をつくった。

孔安国はいう。鳩房ら2人は、成湯の賢臣である。2編のテキストは、夏桀の醜悪さをいい、成湯のもとに帰ってきた意図をのべたものである。
ぼくは思う。漢帝のみを主君とする世界では、伊尹のふらふらは不忠である。しかし神話を、漢帝の世界で読んではダメだ。むしろ伊尹は、夏桀を呪詛するという、多大なる功績を成湯にたいして立てたのかも知れない。言語で説明するとは、対象を支配するということに等しい。伊尹が、夏桀を知ることで、夏桀をそしることが可能になった。広義のスパイである。いや、スパイほどセコいものじゃない。秘密の情報をもたらすのでなく、夏桀を呪詛するための創作活動に行ったのだろう、伊尹は。


〔三〕集解劉向別錄曰:「九主者,有法君、專君、授君、勞君、等君、寄君、破君、國君、三歲社君,凡九品,圖畫其形。」索隱按:素王者太素上皇,其道質素,故稱素王。九主者,三皇、五帝及夏禹也。或曰,九主謂九皇也。然按注劉向所稱九主,載之七錄,名稱甚奇,不知所憑據耳。法君,謂用法嚴急之君,若秦孝公及始皇等也。勞君,謂勤勞天下,若禹、稷等也。等君,等者平也,謂定等威,均祿賞,若高祖封功臣,侯雍齒也。授君,謂人君不能自理,而政歸其臣,若燕王噲授子之,禹授益之比也。專君,謂專己獨斷,不任賢臣,若漢宣之比也。破君,謂輕敵致寇,國滅君死,若楚戊、吳濞等是也。寄君,謂人困於下,主驕於上,離析可待,故孟軻謂之「寄君」也。國君,國當為「固」,字之訛耳。固,謂完城郭,利甲兵,而不修德,若三苗、智伯之類也。三歲社君,謂在襁褓而主社稷,若周成王、漢昭、平等是也。又注本九主,謂法君、勞君、等君、專君、授君、破君、國君,以三歲社君為二,恐非。

伊尹が成湯に説いたという「素王・九主」とは何か。
劉向『別録』はいう。九主とは、法君、専君、授君、勞君、等君、寄君、破君、國君、三歲社君である。それぞれの性質をかたどる。
索隠はいう。素王とは、太素上皇である。素王の道は、質素である。九主とは、三皇と五帝と夏禹である。
或る者はいう。九主とは、九皇である。また劉向の並べる九君は『七録』に載っており、名称は奇抜である。典拠が明らかでない。

ぼくは思う。ここから9種類の君主が、実例つきで解説される。注釈者の推測である。もし劉向の意見を採用するなら、伊尹はあらゆるバリエーションの君主について、成湯に説教したことになる。
ぼくは思う。これだけの簡潔な場所に、下記ほどの複雑な内容が含まれるとは思えない。劉向なりに分類した9種の君主を論じたくて、ムリにここに結びつけている。

法君とは、法律を厳格に運用する者で、秦孝公や始皇帝のこと。勞君とは、天下のために勤労する者で、夏禹や稷のこと。等君とは、権威を定め、褒賞を平等に配分できる者で、功臣を封じた高祖や、侯雍歯のこと。授君とは、道理をおさめられず、臣下に君主の地位を授けてしまう者である。燕王噲は子之に禅譲したが、この類いである。
専君とは、独断で専権して、賢臣を任じない者である。漢宣帝のこと。破君とは、敵を軽んじて破滅する者である。楚戊や、吳王の劉濞のこと。寄君とは、人臣が下に困り、主君が上に驕り、上下をバラけさせる者である。『孟子』がこれを寄君という。国君とは「固君」の誤りであり、城郭と兵備で固めるだけで、徳を修めない者である。三苗や智伯のこと。三歲社君とは、乳児の君主であり、周成王、漢昭帝、漢平帝のことである。

ぼくは思う。劉向の意見を、伊尹に仮託したいのは分かる。しかし、膨らましすぎて、真実っぽさがない。伊尹は、いろんな人の意見を投影された、ウツワみたいなもの。ネタ元である。記号である。


成湯が祈祷し、鳥獣の逃げ道をあける

湯出,見野張網四面,祝曰:「自天下四方皆入吾網。」湯曰:「嘻,盡之矣!」乃去其三面,祝曰:「欲左,左。欲右,右。不用命,乃入吾網。」諸侯聞之,曰:「湯德至矣,及禽獸。」

成湯が城外にでた。四方にアミを張り、「天下の四方からくる鳥獣は、すべて私のアミに入って捕まれ」と祈っていた。成湯は「鳥獣が絶滅する」といい、三方のアミを除いた。成湯は祈った。「鳥獣のうち、左に行きたい者は左にゆけ。右に行きたい者は右にゆけ。命(成湯の命令、鳥獣の運命)を用いない者は、私のアミに入れ」と。諸侯は成湯を見て、「成湯の徳は、鳥獣にまでおよぶ」と言った。

ぼくは思う。ただの動物の操縦の話では、なかろう。神話において、動物と人間は通用する。鳥獣とは、まさに諸侯のこと。成湯は、殷家の家芸である呪術を、諸侯の緊縛には使わなかった。呪術によって、すべての諸侯を制御しなかった。始皇帝のような郡県制をやらないよ、と表明したのか。
(どうせこの時期に、郡県制なんてできないけど)
ぼくは思う。殷家の君主権力は、この禽獣の操縦のようなものだったのだろう。「全て殷家に従え。服従か滅亡か」ではない。行きたい方に行けばいいよ、とくに拒絶しないなら、殷家の傘下にきてね、という温度だろう。


次回、成湯が夏桀と戦います。130525

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殷代;成湯の孫・太甲を、伊尹が桐宮に放逐

成湯が『湯誓』で起兵、夏桀を撃破

當是時,夏桀為虐政淫荒,而諸侯昆吾氏為亂。〔一〕湯乃興師率諸侯,伊尹從湯,湯自把鉞以伐昆吾,遂伐桀。湯曰:「格女眾庶,來,女悉聽朕言。匪台小子〔二〕敢行舉亂,有夏多罪,予維聞女眾言,夏氏有罪。予畏上帝,不敢不正。〔三〕今夏多罪,天命殛之。今女有眾,女曰『我君不恤我眾,舍我嗇事而割政』。〔四〕女其曰『有罪,其柰何』?夏王率止眾力,率奪夏國。〔五〕

〔一〕正義帝嚳時陸終之長子,昆吾氏之後也。世本云「昆吾者,衛氏」是。
〔二〕集解馬融曰:「台,我也。」
〔三〕集解孔安國曰:「不敢不正桀之罪而誅之。」
〔四〕集解孔安國曰:「奪民農功,而為割剝之政。」
〔五〕集解孔安國曰:「桀之君臣相率遏止眾力,使不得事農,相率割剝夏之邑居。」

このとき夏桀は悪政をする。諸侯の昆吾氏が叛乱した。

『正義』はいう。帝嚳のとき、陸終の長子がいた。昆吾氏は、陸終の長子の後裔である。『世本』では、昆吾は、衛氏であるという。ただしい。

成湯は諸侯をひきいる。伊尹は成湯にしたがう。成湯は、みずからマサカリをもち、昆吾氏を征伐する。ついに成湯は、夏桀まで討伐しようとする。成湯はいう。「夏桀に罪がある。私は上帝に命じられて起兵した。

吉田氏はいう。成湯は、この起兵が悪事だと誤解されることを恐れて、この声明をだした。『尚書』湯誓編にある。
ここにある。『尚書』『書経』商書の今文を抄訳する

君たち(殷家の人民)はいう。『わが君主=成湯は、なぜ私たちをあわれまず、農耕のジャマをして、起兵をするのか』と。また君たち(殷家の人民)はいう。『夏家に罪悪があっても、私たち殷家の人民には、なんの関係があろうか』と。

ぼくは思う。ゼロ年代に世界の警察を自認した、太平洋の向こうの国ならば、こんな悩みを持つ必要はなかった。だが「なみの」感覚なら、殷家の人民の疑問は、まっとうだと思う。成湯は、わざわざこれに回答せねば、人民を動員する権利がない。
ぼくは思う。健全な統一王朝が前提とされているなら、殷家の人民のような疑問は、わいてこない。だが、夏家は他人ゴトという認識があるから、成湯の征服戦争=お節介は、支持が得られない。そういう意味で「信頼できる」史料だと思う。漢家の常識に染まっていない。
後漢末に、これを口にする人は少なかった。孫呉ですら、中原を是正することを、国是にしていた。せざるを得なかった。


眾有率怠不和,〔六〕曰『是日何時喪?予與女皆亡』!〔七〕夏德若茲,今朕必往。爾尚及予一人致天之罰,予其大理女。〔八〕女毋不信,朕不食言。〔九〕女不從誓言,予則帑僇女,無有攸赦。」以告令師,作湯誓。於是湯曰「吾甚武」,號曰武王。〔一0〕

〔六〕集解馬融曰:「眾民相率怠惰,不和同。」
〔七〕集解尚書大傳曰:「桀云『天之有日,猶吾之有民,日有亡哉,日亡吾亦亡矣』。」
〔八〕集解尚書「理」字作「賚」。鄭玄曰:「賚,賜也。」
〔九〕索隱左傳云:「食言多矣,能無肥乎?」是謂妄言為食言。
〔一0〕集解詩云:「武王載旆,有虔秉鉞。」毛傳曰:「武王,湯也。」

成湯はいう。「夏桀は、夏家の人民をひきいて、夏家の領域を収奪している。夏桀は人民の意志にそむき、農事を妨害する。夏桀はいう。『私=夏桀は太陽である。太陽がいつ喪失するものか。もし太陽が喪失すれば、私は滅亡するが、夏家の人民も滅亡する』と。

『尚書』大伝で、夏桀がみずからを太陽になぞらえる。太陽の話は、『尚書』湯誓、『孟子』梁恵王上にも見える。

われら殷家は、そんな夏桀を討伐すべきだ」と。

ぼくは思う。ちょっと省略ぎみですが、要旨はこんなところ。果たして成湯は、殷家の人民の疑問に、答えているのだろうか。つまり、征服戦争=お節介を、正統化できているのだろうか。どうやら困難なのは、被征服民の夏家の人民を抑えることではない。そんなの、武力で何とかなる。それ以前に、自国の人民を、兵役に駆りだすことが困難である。殷家の都城で完結していれば、彼らは幸せなのだから。
ぼくは思う。夏桀が自滅して、成湯がお節介で討伐した、という構図になっている。しかし実際には、成湯が夏桀に滅ぼされそう!という、切迫した状況があったのだろう。史料に反映されておらず、きれいに神話・説話のお化粧が完了しているので、わからなくなっているが。
ぼくは思う。『湯誓』は、空論である。ぼくが殷家の民なら、収穫できる作物を放置して、他の城邑にいかない。この『湯誓』ごときで、殷家の人民が兵役に納得した、ということが最大のフィクションなのかも。夏桀の暴虐とか、そんなのどうでもいいw

湯王は軍隊につげて、『湯誓』をつくる。ここにおいて成湯は「私は、はなはだ武がある」といい、武王を自称した。

『毛伝』はいう。武王とは、成湯のこと。


桀敗於有娀之虛,桀奔於鳴條,〔一〕夏師敗績。湯遂伐三,俘厥寶玉,〔二〕義伯、仲伯作典寶。〔三〕湯既勝夏,欲遷其社,不可,〔四〕作夏社。〔五〕伊尹報。〔六〕於是諸侯畢服,湯乃踐天子位,平定海內。

〔一〕正義括地志云:「高涯原在蒲州安邑縣北三十里南阪口,即古鳴條陌也。鳴條戰地,在安邑西。」
〔二〕集解孔安國曰:「三,國名,桀走保之,今定陶也。俘,取也。」正義括地志云:「曹州濟陰縣即古定陶也,東有三鬷亭是也。」
〔三〕集解孔安國曰:「二臣作典寶一篇,言國之常寶也。」
〔四〕集解孔安國曰:「欲變置社稷,而後世無及句龍者,故不可而止。」
〔五〕集解孔安國曰:「言夏社不可遷之義。」
〔六〕集解徐廣曰:「一云『伊尹報政』。」

夏桀は有娀氏の城でやぶれ、鳴條ににげた。

『正義』括地志は、鳴條の位置をいう。

夏桀の軍隊はやぶれた。殷湯は、ついに三ソウ(定陶)を討伐し、三ソウの宝玉をうばう。殷臣の義伯と仲伯が、テキスト『典宝』をつくる。

孔安国はいう。国が宝を常備する意味を述べたテキストである。散逸した。

成湯は夏桀をやぶる。殷臣は、夏家の社(土地の神を祭るもの)を、殷家に移動させたい。だが成湯は移動を許さない。

孔安国はいう。社稷を移動させたかった。だが、後世に句龍に及ぶ者がないから、移動をみとめずに中止した。ぼくは思う。「句龍」がわかりません。

成湯は、社を移動させないことを、テキスト『夏社』で説明した。
伊尹が(夏桀に対する勝利を、天下に)報せた。

徐広はいう。伊尹に政事を報じさせた、委任したともいう。

ここにおいて諸侯は、すべて成湯に帰服した。成湯は天子の位をふみ、海内を平定した。

ぼくは思う。ここの「天子の位をふむ」とは、具体的にどういう意味なんだろう。漢代の理念が、投影されまくっていそうで、意味がわからない。ともあれ、統一戦争に勝利してから、即位するという順序は(漢代の理念として)明らかである。成湯のときの実際については、わからない。問題にしても仕方がない。


『湯誥』で諸侯に百姓への功績を命ず

湯歸至于泰卷陶,〔一〕中作誥。〔二〕既絀夏命,〔三〕還亳,作湯誥:

〔一〕集解徐廣曰:「一無此『陶』字。」孔安國曰:「地名。湯自三而還。」索隱鄒誕生「卷」作「坰」,又作「泂」,則卷當為「坰」,與尚書同,非衍字也。其下「陶」字是衍耳。何以知然?解尚書者以大坰今定陶是也,舊本或傍記其地名,後人轉寫遂衍斯字也。正義坰,古銘反。
〔二〕集解孔安國曰:「仲虺,湯左相奚仲之後。」索隱仲虺二音。作「壘」,音如字,尚書又作「虺」也。
〔三〕集解孔安國曰:「絀其王命。」

成湯は帰還して、泰卷陶にくる。

ぼくは思う。「泰卷陶」という地名について、注釈が疑義をならべる。はぶく。

仲虺が『誥』をつくり、夏家の天命を退けたと宣言した。

孔安国はいう。仲虺は、成湯の左丞相である。奚仲の後裔である。索隠はいう。仲虺=チュウキの「キ」は「壘」ともかく。
ぼくは思う。明治書院版では、十字架に、田を縦横2×2にならべてる。
【絀】しりぞける。

亳城にもどり、成湯は『湯誥』をつくった。

「維三月,王自至於東郊。告諸侯群后:『毋不有功於民,勤力迺事。予乃大罰殛女,毋予怨。』曰:『古禹、皋陶久勞于外,其有功乎民,民乃有安。東為江,北為濟,西為河,南為淮,四瀆已修,萬民乃有居。后稷降播,農殖百穀。三公咸有功于民,故后有立。〔四〕昔蚩尤與其大夫作亂百姓,帝乃弗予,〔五〕有狀〔六〕。先王言不可不勉。』〔七〕

〔四〕集解徐廣曰:「一作『土』。」索隱謂禹、皋陶有功於人,建立其後,故云有立。
〔五〕集解音與。
〔六〕索隱帝,天也。謂蚩尤作亂,上天乃不佑之,是為弗與。有狀,言其罪大而有形狀,故黃帝滅之。
〔七〕索隱先王指黃帝、帝堯、帝舜等言。禹、咎繇以久勞于外,故後有立。及蚩尤作亂,天不佑之,乃致黃帝滅之。皆是先王賞有功,誅有罪,言今汝不可不勉。此湯誡其臣。

『湯誥』前文はいう。3月、殷王はみずから(亳城の)東郊にゆく。諸侯・群后につげた。以下が『湯誥』本文である。
本文1。諸侯は民にむけ功績をたてろ。さもなくば殷王が諸侯を罰するが、殷王を怨むな。
本文2。夏禹や皋陶は、四方を治水して、民のために勤労した。后稷は農業を指導した。夏禹、皋陶、后稷を補佐した三公も、民にむけ功績があったから、封建された。いっぽうで蚩尤とその大夫は、百姓をみだしたので、黄帝に滅ぼされた。先王の発言どおり、努力すべきだ。

索隠はいう。模範とする先王とは、黄帝、帝堯、帝舜らの発言である。夏禹や咎繇は、城外で功績を立てたので、諸侯に封建された。蚩尤は百姓を乱したので、黄帝に滅ぼされた。先王は、功績を褒賞し、罪悪を誅殺する。成湯から諸侯に、戒めているのである。
ぼくは思う。索隠がすべて意図を解説してくれた。べつに思想や宗教としての「儒教」とラベリングしなくても、こういう実利的な政治声明が、ふつうに出ている世界を想像することは、不自然ではない。まあ『湯誥』は文飾の結果なんだろうけど。


曰:『不道,毋之在國,〔八〕女毋我怨。』」以令諸侯。伊尹作咸有一德,〔九〕咎單作明居。〔一0〕湯乃改正朔,易服色,上白,朝會以晝。

〔八〕集解徐廣曰:「之,一作『政』。」索隱不道猶無道也。又誡諸侯云,汝為不道,我則無令汝之在國。
〔九〕集解王肅曰:「言君臣皆有一德。」索隱按:尚書伊尹作咸有一德在太甲時,太史公記之於斯,謂成湯之日,其言又失次序。
〔一0〕集解馬融曰:「咎單,湯司空也。明居民之法也。」

『湯誥』本文3はいう。無道の者は、国を立てないと。(もし諸侯が百姓を妨害したことにより、わたし殷王から処罰されても)わたし殷王を怨むなよと。以上『湯誥』により、諸侯に命令した。
伊尹は『咸有一德』をつくる。

吉田氏はいう。みな各自が1徳があるという意味を明らかにした。ぼくは思う。「みな各自」とは、諸侯1人ずつのことか。
王粛はいう。君主にも臣下にも、1徳があることを言ったのだ。
索隠はいう。『尚書』にて伊尹は、『咸有一徳』をつくるのは、成湯の孫・太甲の時期である。司馬遷は、伊尹の『咸有一徳』をここに置いて、このタイミングで諸侯を戒めたことにした。掲載すべき場所がおかしい。
吉田氏はいう。考証によると司馬遷は、壁中から発見された、真古文を受け取った。真古文『尚書』では、伊尹はこのタイミングで『咸有一徳』を作ったという設定が記されていたのだろう。

咎単は『明居』をつくった。

馬融はいう。咎単は、成湯の司空である。『明居』とは民の法である。

こうして成湯は、正朔を改め、服色をかえ、白色をとうとぶ。

ぼくは思う。正朔で正統性を主張するのは、戦国時代に確立したこと。その政策が夏殷周に投影された、ということはないのか。つまり、成湯はこのタイミングで正朔を改めていない(そんな習慣がない)とか。いや、そこまでは疑う必要はないのか。

朝会を昼間にひらくことにした。

吉田氏はいう。臣下が君主にまみえるのを「朝」といい、諸侯どうしが会見するのを「会」といった。
ぼくは思う。成湯に会うときだけでなく、諸侯どうしで話すときも、時間を規制された。『天空の舟』では、殷家が白色をとうとぶので、太陽が白色になる昼間に、政治をすることに決めたという。これは想像かw


成湯が崩じ、伊尹が太甲を桐宮に放逐

湯崩,〔一〕

〔一〕集解皇覽曰:「湯冢在濟陰亳縣北東郭,去縣三里。冢四方,方各十步,高七尺,上平,處平地。漢哀帝建平元年,大司空(御)史〔御〕長卿案行水災,因行湯冢。劉向曰:『殷湯無葬處。』」皇甫謐曰:「即位十七年而踐天子位,為天子十三年,年百歲而崩。」索隱長卿,諸本多作劫姓。按:風俗通有御氏,為漢司空(御)史,其名長卿,明劫非也。亦有劫彌,不得為御史。正義括地志云:「薄城北郭東三里平地有湯冢。按:在蒙,即北薄也。又云洛州偃師縣東六里有湯冢,近桐宮,蓋此是也。」

成湯が崩じた。

『皇覧』が成湯の墓所をいう。済陰郡の亳県の北東である。漢哀帝の建平元年、大司空御史の長卿が、水災が起きるので、成湯の陵墓にゆく。劉向はいう。「殷湯には葬処なんてない」と。
ぼくは思う。劉向が、どういう意図で言ったのか分からない。漢家は、周家の正統を継承する王朝であると、前漢の中興期には定まった。それほど殷家に優しくないのかも。王莽が「二王の後」として、殷家の後裔=宋家の後裔を封建するけれど、哀帝のときは、まだだっけ。
皇甫謐はいう。成湯は(殷王に)即位して17年で、天子の位をふむ。天子を13年やり、100歳で崩じた。
索隠はいう。漢哀帝のとき成湯の陵墓にいった「長卿」は、姓名を「劫卿」と記されることがおおい。『風俗通』に「御」氏がいる。漢代に司空御史になった長卿は「劫卿」ではなく「長卿」でよい。
『正義』括地志はいう。薄城の北郭から東に3里ゆくと、平地に湯冢(成湯の陵墓)がある。(伊尹が、成湯の孫の太甲を幽閉する)桐宮に近い。
ぼくは思う。夏桀は、祖先を祭った場所に成湯を閉じ込めた。祖先を祭る場所は、幽閉に使うものなのか。太甲が、祖父・成湯の墓所で反省を促される、という設定は理解できなくもない。だが夏桀が、夏家の祖先のもとに成湯を幽閉したのはなぜか。「だれも近づけないから、極秘に封印するにはちょうどよい」なんて理由で、祖先を利用してよいものか。


太子太丁未立而卒,於是迺立太丁之弟外丙,是為帝外丙。帝外丙即位三年,崩,立外丙之弟中壬,〔二〕是為帝中壬。帝中壬即位四年,崩,伊尹迺立太丁之子太甲。〔三〕太甲,成湯適長孫也,是為帝太甲。帝太甲元年,伊尹作伊訓,作肆命,作徂后。〔四〕

〔二〕正義仲任二音。
〔三〕正義尚書孔子序云「成湯既沒,太甲元年」,不言有外丙、仲壬,而太史公採世本,有外丙、仲壬,二書不同,當是信則傳信,疑則傳疑。
〔四〕集解鄭玄曰:「肆命者,陳政教所當為也。徂后者,言湯之法度也。」

太子の太丁は、天子になる前に卒した。

ぼくは思う。天子になる前だから「卒」なのね。

太丁の弟・外丙を「帝」とした。即位3年で崩じた。

ぼくは思う。つっかかる場所ではないと思うが「帝」と書いてある。成湯は夏桀を倒してから「天子」になっていた。皇帝と天子の区別は、秦漢期の問題である。司馬遷は、まあ、君主という意味で、「天子」「帝」をてきとうに使っているのだろう。
ぼくは思う。ここで「天子」「帝」の用法が混乱していることから、何を読み取れるか。「天子」「帝」の区別が、司馬遷の時代までには、あまり意味がなかったのだろう。もっと漢制が煮詰まってこないと、区別がつかない。

外丙の弟・中壬がたつ。中壬は、即位4年で崩じた。

ぼくは思う。これだけ君主が短命なのに、滅びない殷家って、安定感がすごい。もしくは、この兄弟相続は、両漢期の皇帝の代替わりとは、質的に何かが違うのかも。君主が変わっても、それほど政権が混乱しないような、何らかのルールの違いがあるのかも。すみません、アイディアなしで推測してます。

伊尹は、太丁の子・太甲を立てた。

『正義』尚書孔子序はいう。成湯が没して、太甲元年となると。これでは、外丙と仲壬の時期が抜けている。だから司馬遷は、この年数の数え方を採用しなかった。

太甲は、成湯の適長孫(正夫人が生んだ第一の孫)である。太甲が殷「帝」となった。太甲元年、伊尹は『伊訓』『肆命』『徂后』をつくった。

鄭玄はいう。『肆命』とは、政教のあるべき姿を説いたもの。『徂后』は、成湯の法度を説いたものである。


帝太甲既立三年,不明,暴虐,不遵湯法,亂德,於是伊尹放之於桐宮。〔一〕三年,伊尹攝行政當國,以朝諸侯。

〔一〕集解孔安國曰:「湯葬地。」鄭玄曰:「地名也,有王離宮焉。」正義晉太康地記云:「尸鄉南有亳阪,東有城,太甲所放處也。」按:尸鄉在洛州偃師縣西南五里也。

太甲は即位して3年、不明で暴虐であり、成湯の法を遵守しない。徳を乱す。

ぼくは思う。抽象的で、もはや悪口の領域である。

伊尹は桐宮に、太甲を放逐した。

孔安国はいう。桐宮は、成湯の葬地である。
鄭玄はいう。桐宮とは地名であり、殷王の離宮がある。

3年間、伊尹が政事を摂行して、国にあたる。諸侯を朝見する。

ぼくは思う。でました!伊尹の故事!
しかし、2つの点で不審なのです。まず成湯の死後、3人も殷王が死んでいる。1人は即位前である。これだけ殷王が短期間に死に、そのあいだ伊尹は、おそらく宰相だった。そして最後の一撃が、殷王の放逐だった。
後漢の梁冀みたいなものだ。梁冀のほうが、むしろ穏便である。梁冀は、順帝、沖帝、質帝、桓帝に仕えた。代数は伊尹に近い。これだけ皇帝が交替しても、後漢が維持されたのは、梁冀の人脈が官僚層を固めているから。伊尹もまた、同じだったのだろう。
ぼくは思う。太甲の幽閉の件を、梁冀に例えるなら。桓帝のクーデターを梁冀が押さえ込み、桓帝を幽閉するのも同じ。桓帝を3年幽閉して、桓帝が「反省したので許してやり」梁冀が桓帝に政事を返したのだと。へんなの!
ぼくは思う。殷家の異説において、太甲が伊尹を殺す。そりゃ殺すよな。伊尹が殺されるほうが、後漢のバランス感覚に照らせば、しっくりくる。殷代は遠い過去だから、「人間模様や権力闘争の形態がちがう」なんて思ったら、それは忌むべき思考停止だろう。儒家じゃないんだから、伝説化してどうする。儒家じゃないんだから、「思索の題材とする前例」「史実を記録する文体の手本」にしてどうするの。ぼくらは、蟷螂の鎌で「実際はどうであったか」を問うところから始めねばならない。どうせ挫折するけど、限界を知りながらも、まずは「実際は、」でしょ。


太甲が更正し、伊尹が『太甲訓』をつくる

帝太甲居桐宮三年,悔過自責,反善,於是伊尹迺迎帝太甲而授之政。帝太甲修德,諸侯咸歸殷,百姓以寧。伊尹嘉之,迺作太甲訓三篇,褒帝太甲,稱太宗。

太甲は桐宮に3年いて、過失を後悔して、自責した。善君にばけた。伊尹は、太甲を迎えて、政権を奉還した。太甲は徳をおさめ、諸侯はみな殷家に服した。

ぼくは思う。周公旦にも、簒奪のウワサがある。周公旦の場合、周家と同族でもあるから、君主の地位にいた。居摂した。
ぼくは思う。圧倒的な異姓の功臣(建国の功臣たる伊尹、廃立をやる前漢の霍光、後漢の董卓、累代の功臣たる後漢の袁氏)、君主の近しい親戚(周公旦、後漢の外戚)が、君主の地位を代行することについては、実際の政治の現場においても、それを記録する文体においても、平勢氏のいう「形」がある。その「形」がどんなふうなのか、あたかも自分が後漢の権臣になったつもりで、伊尹の故事を読まねばならない。マジに実務的なマニュアルなんだ、殷本紀は。これをどう読むかにより、リヤルな自分の政治の成否が決まる。
ぼくは思う。果たして「成年男子がつねに親政する」は理想と認識されていたのだろうか。確かにいちばん理解しやすい。だが血縁で相続するのだから、なかなか難しい。そんなこと、誰でも分かっている。それなら、成年男子の親政だけでなく、べつの形態も「現実的な理想」として認識されていたはず。「現実的な理想」って形容矛盾w
その「現実的な理想」の最有力が、伊尹と霍光の故事として、ノウハウが蓄積される。

百姓は安寧になった。伊尹は嘉して『太甲訓』3編をつくり、太甲をほめた。

吉田氏はいう。現行『尚書』の『太甲訓』は古文であり、偽作。
ぼくは思う。散逸した文書の復元。『史記』殷本紀を読んでると、政治の転機に文書が作成される。例えば「伊尹は、殷帝の太甲が更正したので『太甲訓』3編をつくる」とか。『太甲訓』は散逸したらしいが、この経緯とタイトルに基づき、テキストが偽作される。この儒者の心意気(創作意欲)が立派です。敬ってます。
@t_maki99 さんはいう。山海経なんか、もともとは絵の解説文なのに絵は散逸して文字だけ残り、改めて文章から絵が描かれるという事になってますよね。

伊尹は、太甲を「太宗」と称した。

吉田氏はいう。伊尹に関する叙述は『孟子』に依拠する。成湯の死後、3代の天子が即位するのは、どうやら伊尹らが行った。伊尹の強さがわかる。臣下が天子の位を自由にする弊害が生まれる。ゆえに『孟子』で、弟子の公孫丑は「君主が賢明でないとき、臣下は君主を追放できるのか」と質問する。孟子は『孟子』万章上で答える。「伊尹と同等の志があれば良い。伊尹の志がないと、簒奪になる」と。
『孟子』告子下はいう。「5たび成湯につき、5たび夏桀につくのは、伊尹である」と。伊尹の去就は、節操に欠けている。だが、納得できる君主を探し求める伊尹の情熱が、孟子に賞賛される。『孟子』万章下では「伊尹は聖なる任の者なり」という。戦国期『孟子』の伊尹に対するイメージが、司馬遷に継承されている。
ぼくは思う。納得できる君主を探すのに、夏桀と成湯しか、候補にあがらなかったというのは、かなり恣意的な選択。夏桀はいちおう盟主であり、成湯はその他大勢の諸侯の1人。夏殷革命が前提となった上で、つくられたイメージだろう。


太宗崩,子沃丁立。帝沃丁之時,伊尹卒。既葬伊尹於亳,〔一〕咎單遂訓伊尹事,作沃丁。

〔一〕集解皇覽曰:「伊尹冢在濟陰己氏平利鄉,亳近己氏。」正義括地志云:「伊尹墓在洛州偃師縣西北八里。又云宋州楚丘縣西北十五里有伊尹墓,恐非也。」帝王世紀:「伊尹名摯,為湯相,號阿衡,年百歲卒,大霧三日,沃丁以天子禮葬之。」

太宗が崩じた。子の沃丁がたつ。沃丁のとき、伊尹が卒した。伊尹を亳城に葬った。

『皇覧』はいう。伊尹の冢(墓)は、済陰の己氏県の平利郷にある。亳県は、己氏県にちかいと。
『帝王世紀』はいう。伊尹の名は「摯」である。成湯の宰相となり、阿衡と号する。100歳で卒した。おおいに霧が3日でた。殷王の沃丁は、天子の葬礼をおこなう。
ぼくは思う。成湯も伊尹も100歳で死ぬ。「形」である。

咎単は、伊尹の事績を『沃丁』につくる。

沃丁崩,弟太庚立,是為帝太庚。帝太庚崩,子帝小甲立。〔一〕帝小甲崩,弟雍己立,是為帝雍己。殷道衰,諸侯或不至。

〔一〕集解徐廣曰:「世表云帝小甲,太庚弟也。」

殷王が交替してゆき、諸侯がこなくなる。

ぼくは思う。司馬遷は「帝だれだれ」と書いている。なんか抵抗があって「殷王」と書いているが、ぼくの書き方も変だよなあ。漢代が投影されてしまうw

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殷代;伊尹の子孫・伊陟が宰相となる

伊陟が、桑の木の怪異で殷王を諫める

帝雍己崩,弟太戊立,是為帝太戊。帝太戊立伊陟為相。〔一〕亳有祥桑穀共生於朝,一暮大拱。〔二〕帝太戊懼,問伊陟。

〔一〕集解孔安國曰:「伊陟,伊尹之子。」
〔二〕集解孔安國曰:「祥,妖怪也。二木合生,不恭之罰。」鄭玄曰:「兩手搤之曰拱。」索隱此云「一暮大拱」,尚書大傳作「七日大拱」,與此不同。

太戊のとき、伊陟が宰相となる。

胡三省はいう。伊陟は伊尹の子である。
ぼくは思う。伊尹が君主権力と衝突したとしても、伊陟が宰相になることがあるだろう。後漢の外戚は、むざんな最期にあっても、数代のちには復活した。伊尹と伊陟は父子とのことで、世代の経過が足りないように見える。だがそのあいだに、殷家の国勢が下がってくるほどには、時間が経過している。『史記』の時間感覚は、よく分からないから、真剣に悩まなくていいだろう。神話を年表で整理するなんて、愚かなことである。何が起こったかという、カードを並べて、カードの類似や差異を分析すれば良いのだ。
吉田氏はいう。考証にいう。伊尹は成湯につかえ、いま太戊は、成湯から7代のちである。伊陟は、伊尹の孫もしくは曾孫であろう。子ではない。
ぼくは思う。吉田氏のひくとおり。父子関係を拡張すれば、曾祖父-曾孫の関係になる。世代の数は違うが、関係性は同じである。べつに支障はない。

殷都の亳城で、祥瑞があった。桑の木と穀物が、根元は違うが、幹が合わさった。両手で抱えるほどの果実をつけた。殷王の太戊は怪しんで、伊陟に理由をたずねた。伊陟は答えた。

伊陟曰:「臣聞妖不勝德,帝之政其有闕與?帝其修德。」太戊從之,而祥桑枯死而去。〔三〕伊陟贊言于巫咸。〔四〕巫咸治王家有成,作咸艾,〔五〕作太戊。帝太戊贊伊陟于廟,言弗臣,伊陟讓,作原命。〔六〕殷復興,諸侯歸之,故稱中宗。

〔三〕索隱劉伯莊言枯死而消去不見,今以為由帝修德而妖祥遂去。
〔四〕集解孔安國曰:「贊,告也。巫咸,臣名也。」正義按:巫咸及子賢冢皆在蘇州常熟縣西海虞山上,蓋二子本吳人也。
〔五〕集解馬融曰:「艾,治也。」
〔六〕集解馬融曰:「原,臣名也。命原以禹、湯之道我所修也。」

伊尹はいう。「妖しいものは、徳に勝てない。殷王の政治に徳がないから、妖しいものが出現した。殷王は徳を修めろ」と。殷王が政治を改めると、妖しい桑は枯れた。
伊陟は、殷臣の巫咸をほめて、『咸艾』『太戊』をつくった。
殷王は、伊陟の功績を廟にむけてほめ、「伊陟を臣下と言わない」とした。

ぼくは思う。彼らは文書によって、功績をフィードバックしあいながら、政治をしていたらしい。営業日報みたいなものである。
ぼくは思う。いま殷王は、伊陟を「臣下と言わない」とした。殷家の君主権力は、それほど強そうな印象は受けない。それこそ、生産活動を淡々とやる人々の上で、ただ血筋と祭祀を継承するだけの存在として、しずかに殷王がいた、という程度の記述である。漢代の皇帝をイメージしてはならない。それどころか、戦国期の諸侯の支配力、戦闘への動員力などをイメージしてもならない。
ぼくは思う。緩やかな殷王の支配で、とくに各代において、書くべきことがない。それがノーマル。しかし、ときに組織がゆるむ。だから伊陟のような人が、応急処置として登場する。史書に時期が残る時期とは、むしろ不名誉だなあ。

伊陟は辞退して『原命』をつくる。

吉田氏はいう「原命」とは、再び告げる、という意味。
馬融はいう。「原」とは殷臣の名である。原さんに命じて、夏禹と成湯の政道を記述させ、伊陟が修得すべき手法だとした。

殷家は復興して、諸侯がきた。太戊を「中宗」とした。

まだ殷本紀は終わるけど、伊氏は出てこない。おわり。130526

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