雑感他 > 袁術王朝の史書『仲書』序文;袁術「本紀」作成のために

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袁術の「伝記」を書くということ

数年来のテーマである、袁術に「正史」を書こう!という遊び。
2013年のGW前後に考え、書いたこと。

ここ数週間のぼくのツイートより。
職場で「エンジンと」と言われて、「袁術と?」と空耳した。 #五月病
数年来のテーマ「袁術本紀」をまとめるには、「後漢はどんな社会であったか」という見通し(歴史観)が前提として必要。190年代だけなら史料を網羅的に切り貼りするだけで、それなりに「おもしろい」ものはできる。だが初代の袁安はともかく、祖父の袁湯あたりは見通しありきで編纂せねば、退屈になる。
ぼくはいう。楚王は早くから周王と並立した。『春秋』は黙殺するが、『公羊伝』は楚王を歴史的事実として認める。『春秋』各伝における、楚王のそしりかたが、孫呉や袁術のそしりかたに似ないか。いつも『春秋』を学んでいる漢代の儒教官僚たちが、東南で皇帝即位した者に楚王を想起しても、おかしくない。探そう。
ぼくはいう。「紀伝体マップ」という記法をあみだしたい。紀伝体は、頭から読んでも理解困難。ある人物Aを知るには、A列伝を読む。Aが客演するB列伝とC列伝を読む。Bが客演するD列伝とE列伝を読む。以下つづく。むかし流行ったマインドマップの、もっと文字数を書き込める版をつくりたい。視覚化はだいじ!
つぎに何点か、『夢断三国』から雑学的仮説です。
あだ名の由来。つねに交通法規に違反するので、百姓は風刺して、長水校尉の袁術を「路中悍鬼」とよぶ。恵棟『後漢書補注』にひく『魏志』より。ぼくは思う。交通ルールを守らないという呼称なのか。通行の優先権は、官職の上下で細かく決まっており、威信の発露である。袁術は得意気だったのかな。
袁術の国号「仲」は、第二の意味。彼が想定した第一の「伯」とは、袁紹である。袁術は袁紹をはばかって、「仲」とした。
などという関心のもと、過ごしてます。
「などと言いながら」という調子の締めくくり方は『東海道中膝栗毛』から借用しています。場面転換で、セリフを打ち切るときの常套句で、なんだかザツな感じが気に入ってます。これは、袁術と関係ないな。


「伝記」は石井先生の『曹操』の用法で

これから作りたい本は、袁術の「伝記」です。
どういう意味で「伝記」なのか。最初に、執筆の態度を明らかにします。

ぼくが使った「伝記」という言葉は、直接的には、石井仁先生の著作『魏の武帝/曹操』(以後『曹操』と略記します)の文庫版・あとがきからの引用です。つまり、石井先生の使われた「伝記」という言葉の意味をぼくなりに消化し、同じ種類の本の「袁術バージョン」をつくることが目標です。『曹操』において採用されている史料との距離感、読者への心遣いにあやかりたいという意味において、これは「伝記」なのです。
『曹操』に限らず、三国志の前後の時代の人物が主題として扱われ、ぼくの歴史に対する理解の土台となっている伝記は、他にもあります。
例えば、東晋次先生の『王莽/儒教に取り憑かれた男』、福原啓郎先生の『西晋の武帝/司馬炎』、吉川忠夫氏『劉裕/江南の英雄/宋の武帝』などです。これらの伝記の「類書」に列せられることが、この本の目標です。

問題を設定して、それを解決するタイプの伝記としては、渡邉義浩先生の『改革者の孤独/王莽』がある。13年連休明けに読んだ、檀上寛氏の『永楽帝/華夷秩序の完成』も、問題解決型としては、とても楽しく読めた。しかし、檀上氏が「列伝のように書いた」という、『朱元璋』は、知らない固有名詞がおおすぎて、楽しめなかった。
伝記といえば、後漢の光武帝の伝記がでるそうです。
13年GWに筆者の方から、光栄なことに、ツイッターで話しかけて頂いたので、記念のために引用しておきます。
『新書中心主義』の @akira090802 さんとの会話/引用を開始)
@akira090802 さんはいう。「後漢の諸制度の基礎は王莽がつくった」と言う場合、どの当たりについて述べているのでしょう?私はずっと光武帝の伝記を出版に向けて原稿を揃えているのですが、そこまでの印象は受けないんですよね……。
ぼくはいう。光武よりは、明帝や章帝のときに整備された制度で、王莽の影響が確認できるようです。手に入りやすい本では、渡邉義浩先生の『王莽―改革者の孤独』を参考にしてます。『後漢書』光武本紀には制度の話が少ないので、ご指摘のとおり王莽との関わりは見えにくいと思います。
@akira090802 さんはいう。国家全体の諸制度ではなく、儒教の諸制度のことでしたか。
ぼくはいう。akiraさまの仰る意図を推測するに、ご確認には「はい」とお答えいたします。ただしakiraさまが「儒教の諸制度」の外部に想定なさっている「国家全体の諸制度」というのが、具体的に何を指すのかイメージできていません。宜しければ教えてください。。
@akira090802 さんはいう。刑法、民法、官職、税制、軍制などをイメージしました。もしかすると王莽の影響ありますか?
ぼくはいう。影響の有無を強いて二択で判定するなら「有」だと思います。渡邉先生によると、後漢の制度は儒教をベースにして『白虎通』で確定します。『白虎通』にはakiraさまが列挙された項目が定められています。『白虎通』をまとめた班固は王莽の影響のもとにある学者です。ただし「ここは王莽が由来」とパーツで切り出すのは難しいと思います。私には確定するだけの準備がありません。伝記を「おもしろくする」意味において、あまり影響がないかも知れません。個人的には、光武帝の王莽観を豊かに描いて頂ければと思います。楽しみにしています!
@akira090802 さんはいう。私の王莽観は出てきます(王莽とヒトラーの比較を書いた)が、光武帝の王莽観は全く出てこないですね……うーむ、ちょっと考えてみます。
ぼくはいう。王莽のヒトラーの比較、おもしろそうです。ネットで検索して、ご意見を拝読しました。両者の個人的な性質だけじゃなく、前漢末と第一次大戦後のドイツの社会の共通点まで話を広げて頂けると嬉しいです(読者としての要望です)。前漢末も一次大戦も思想史上の転換点ですし。
1週間をへて、
ぼくのご紹介させていただいた渡邉義浩先生の本について、言及がありましたので、引用させていただきます。
@akira090802 さんはいう。渡邉義浩『王莽:改革者の孤独』読了。儒教の国教化の完成を後漢章帝の白虎観会議に見る。国家の思想たる国制の完成に最も寄与した人物として王莽を評価するもの。しかし王莽の政治改革は結局、後漢にはほとんど受け継がれていないのが興味深い。白虎観会議などで決まった14の国制の内で王莽が関連したものは10、王莽発案のものは4つ。当然ではあるが、これは古文学派の儒教学者として王莽が優れていたということを意味するのであって、別に王莽の考えだから採用したわけではない。班固は祖父の親友であった王莽を、政治家としては否定しても、儒学者としての評価したかったのであろう。ちなみに後漢建国の劉秀は今文学派の尚書学者なので、もともと王莽とは関連がないようだ。そもそも後漢は王莽の改革を否定して前漢の制度に戻すことを国是とし、劉秀が再編成して構成したもの。明帝はそれをそのまま受け継ぎ、さらに後漢二百年は法律制度とも大きく変わらずとされる。王莽の発案をもって国家の理念に当てはめたといっても、後漢の制度に大きく変わった部分はなく、後漢の制度が実は王莽と一緒なものが多いとしているのだから、これは班固が後漢の制度によって王莽の位置づけを変えようとしたということなのである。
『新書中心主義』の @akira090802 さんとの会話/引用は以上です)


先生方の著作に、ぼくの拙い文書を並べようというのですから、まさしく僭称と言うべきでしょう。袁術を主題とした伝記として、相応しい序文となりました。

できるだけ網羅的な袁術を

長くまとまった文書を書き慣れていない者の特徴として、「何でもかんでも詰めこみ過ぎる」ことがあります。そういう本を、著者が若くなくても「若書き」と言います。
ぼくは長文を書き慣れていないせいで、必ずや詰めこみ過ぎるでしょう。しかし、敢えて詰め込み、情報量に富んだ伝記にしたいと考えています。袁術という人物の紹介だけでなく、資料としても利用価値のある本を目指します。
資料として使えるように、かつ構成に背骨が通るようにするため、できるかぎり史料をおおく引用したいと思います。とくに、陳寿『三国志』巻六 袁術伝の原文はすべて引用し、翻訳と注釈を加えます。

列伝のすべての原文をひく手法は、袁術だからできることです。
例えば曹操の場合、『三国志』巻一 武帝紀を引用していると、原文の分量が多いため、史料の解説に、伝記の居場所を乗っ取られるでしょう。伝記は、翻訳や注釈と分離せざるを得ません。その一方で袁術伝は、悲しいかな記述の分量が(ぼくの期待に対して)圧倒的に少ないため、翻訳と注釈、さらに伝記までもが、一冊の本として共存できるはずです。

タイトルのこと

この本のタイトルは、『袁術「本紀」』としました。
本紀という語にカギカッコが付いているのは、地の文から浮き上がらせるためです。地の文に埋没させられるほど、自明のことを言っているわけではありません。それは袁術ファンであるぼくも、よく理解しています。袁術は皇帝に即位しましたが、正史類に本紀を立てられるような事績を残しませんでした。ただし、いちおうは皇帝となった袁術を主人公とした書籍なのだから、パロディーとして「本紀」を名乗っているのです。ほんものの正史類からの借り物という意味で、カギカッコ付なのです。

タイトルから連想した不確かな予告ですが、この『袁術「本紀」』の巻末には、正史類の体裁を模倣した、『仲書』という歴史書が付けられる予定です。「仲」というのは、袁術が皇帝即位したときに定めた国号です。この伝記の作成を通じて、ぼくの袁術に対する議論が深まり、最後には歴史書を作りたくて仕方がなくなるだろう、という見通しがあります。
最初から、歴史書の体裁で書き始められたら効率が良いのですが、そこまで思考を整理できているわけではありません。伝記を積みあげつつ、『仲書』の構想を練っていこうと思います。この伝記は『仲書』の編纂メモにもあたるわけです。
また『仲書』を漢文で書けたら素晴らしいのですが、「正確」を期するため、日本語で書くことになると思います。中国史を「正確」に叙述するのに、日本語を使うというのは、矛盾と倒錯を抱えたことですが、ぼくの実力に照らすと、やむを得ない着地点です。実力を蓄えたのち、漢文に翻訳することが目標でもあります。

この本を通じて実現したいこと

着地点の見えない本は、読者に持久的な我慢を強います。ぼく自身に関して言いますと、忍耐力に乏しく、本文の半分を読み終える前から、あとがきに先回りしてしまうような飽きっぽい読者です。この『袁術「本紀」』は、「書きながら公開する」という方法でつくるため、あとがきをお目にかけるのは、ずっと未来のことになりそうです。読者の方々に、無用の我慢を強いるのは、本意ではありません。
そこで早速ですが、あとがきに書こうと思っている、本書の着地点を宣言します。まだ手品を始める前ですが、種明かしをさせて頂きます。

この伝記では、内容(メッセージ)において、袁術を中心とした具体的な史実等について粘っこく論じる予定です。『仲書』を充実させるために、細かな仕事をしたいと思っています。その背景には、ぼくが言いたいこと(メタ・メッセージ)が隠れています。ぼくが伝えたいのは、「史料は、好きなように読んだほうが楽しい」という開き直りです。この開き直りは、一見すると「粗雑である」という印象を与えかねませんが、ぼくなりには一応、健全で生産的な態度だと思っています。

危ういことを言いましたので、意図をご説明します。

言わずもがな、史料を正確に読む努力は、絶対に継続すべきです。この本のなかで誤読があれば、ぼくの能力不足が原因です。誤読してはなりません。その一方で、「史料が書き落としていること」が必ずあるはずです。「いちどは史料に記録されたが、伝わらなかった」こともあるはずです。このような、史料の外部への目配りを積極的におこなうことも、ひとつの読解の姿勢としては、存在し得るのではないでしょうか。

同じテーマで、3年強前、2010年3月に書いたのが、こちら。
シロウトにしか書けない『三国志』とは
同じテーマで、3年弱前、2010年10月に書いたのが、こちら。
シロウトの三国志研究と、20世紀の歴史哲学
同じテーマで、1年半前、2010年10月に書いたのが、こちら。
『ツチヤ教授の哲学講義』より、史料の読解と考察の態度について
同じようなテーマで、半年前、2012年12月に書いたのが、こちら。
ラカンによる羅貫中(三国志ブログのすすめ)
ずっと同じ問題を、断続的にぐるぐる追いかけているなあ。もっと途中で論じているのがあるかも知れないが、最新のバージョンは、とりあえずラカンのやつに含みこんでいます。

外部への目配りに熱中し過ぎた結果、第三者による再検証が不能な「妄想」が次々と生み出されていきます。この読解法は、いわゆる科学ではありません。しかし、熱中に値する知的営為の一形態(「いい趣味」とも言います)だと思います。これがぼくの読解における態度です。自らこの営為を実践し、その生産物を見て頂いた上で、あわよくば同じ営為に巻きこもう(趣味の仲間をふやそう)というのが、この伝記をつくる意図です。

三国ファンのなかには、いちどは「自分なりの曹操論」「自分なりの劉備物語」を志した方々が多いはずです。しかし、史料の不足等の事情により、たくさんのアイディアが日の目を見ずに、埋没していると思われます。
今回ぼくは、史料の外部への目配りという、非科学的な態度を果敢に採用することで、突破口を作りたいと思います。
史料の外部に目配りする場合、袁術は格好の材料となるでしょう。先ほども述べましたように、袁術伝の記述は少ないからです。あえて読者の理解を妨げるような、意図的な削除の痕跡すら、認められます。本文のなかで順に検討します。

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袁術論の可能性

陳寿と裴松之による悪評

袁術は愚者である。
この全く救いもない評価が、ぼくらに共有された一般的なものであるとするなら、その起点は『三国志』の編纂者・陳寿にあるだろう。『三国志』巻六の末尾の評にて、陳寿はこのようにコメントをしている。

袁術、奢淫放肆。榮不終己、自取之也。

この評は、袁術を厳しく否定している。奢侈多淫で、欲望のままに振る舞う。栄華を維持できなかったのは、自業自得であると。見事なまでに、良いことが一つも書かれていない。『三国演義』等の物語が流布する以前、歴史の読者が初めて袁術に出会うテキストは、陳寿の『三国志』であったと思われる。その陳寿が、袁術を全否定するのであるから、袁術に好意的な関心を持つほうがむずかしい。

陳寿にかぶせるように、裴松之の注釈がつく。

袁術無毫芒之功、纖介之善、而猖狂于時、妄自尊立、固義夫之所扼腕、人鬼之所同疾。雖復恭儉節用、而猶必覆亡不暇、而評但云「奢淫不終」、未足見其大惡。

裴松之いわく、袁術は、功績や善行がまったくないのに、皇帝に即位した。もし袁術が(陳寿の批判を免れるようなかたちで)態度を改めて、倹約に励んでも、なお袁術の敗北は必然であると。裴松之は、末尾で「陳寿は袁術をけなし足りない」と、わざわざ意見を述べている。陳寿から裴松之に時代がくだるなか、袁術への評価が厳しくなった。
陳寿の生きた蜀漢と西晋、裴松之の生きた南朝宋において、袁術に対する低い評価は、揺るぎなく確立されたと指摘できよう。

袁術論の足がかり

陳寿と裴松之をいくら精読しても、袁術に対する興味の糸口を見つけることができない。完膚なきまでに否定されており、興味の手がかりを得にくい。しかし、違う角度から問いを立てることは可能である。「ここまで袁術を嫌った人々の編んだ記述を、信用しても良いものか」と。ぼくは不安にならざるを得ない。
これは歴史の話ではない。
例えば知人が、ぼくの知らない人物Aのことを酷評したとする。ぼくは知人の説明を鵜呑みにして良いか。ぼくは翌日から、まだ会ったこともない人物Aのことを、酷評するようになるだろうか。さすがに、そんなことはやらない。
このように日常感覚に引きつけて理解することから、袁術論が起動する。

「史料に何が書いてあるのか」という問いと、「実際はどのようであったか」という問いは、分離して考える必要がある。歴史学者は、前者と後者のあいだの距離が広がることを警戒して、実証的な(史料に基づいて過不足なく説明できる範囲の)歴史を叙述する。距離を広げないことを、職業的な責務としている。しかし三国ファンは、前者と後者の距離を、自分なりに広げるところに、楽しみを見出すことができる。
陳寿や裴松之の編纂の作業には、袁術に対する負の誇張があるはずだ。袁術が不利になるような種類の、不当な省略が行われているはずだ。負の誇張を慎重な手つきで拭いさり、隠蔽された事実の回復をそっと試みる。これが歴史学者ではない、三国ファンとしての(ファンだからこそ実行できる)読解である。

ここから、袁術論の足がかりを築きたい。
すでに見たように、陳寿の袁術評は、あまりに典型的で厳しいものである。これは見方を変えれば、陳寿が「私の編纂した袁術伝には、ウソがある」と自白しているに等しい。
どういうことか。
すべての人物において、全肯定すべき賢者と、全否定すべき愚者など存在しない。陳寿もまた、これを経験的に承知していたはずだ。しかし陳寿は、袁術を全否定して見せた。これは陳寿が(陳寿の意図に関わらず)、袁術伝の信憑性に留保を付したことになる。「袁術伝は、鵜呑みにして読むようなテキストではありません」と仄めかされている。陳寿の酷評が、どこにでも使い回しのきく典型的なものになればなるほど、批判の調子が強いものになればなるほど、そこに収まりきらなかった事象が多いことを、不可避的に暴露している。史料の外部に、袁術の事績がこぼれていることを示唆する。

詭弁かも知れない。
だが、このような読解の可能性はゼロではない。

陳寿が「私の袁術伝を鵜呑みにするな」と、直接的に書いているわけではない。ただし陳寿は、上記のような解釈の余地がある書き方をしている。これはぼくにとっては、事実である。
もっとも陳寿が、ぼくのような読者が「曲解」する可能性まで勘定に入れて、袁術を評論したとまでは言えない。そこまでは分からない。ひょっとすると陳寿は、袁術をあまり重視せず、適当に愚者の枠組に押し込んで、「袁術の記述なんて、この程度で充分だ」と切り上げたのかも知れない。充分にあり得ることだと思う。「これ以上記さないのは、編者として私が怠慢だからではない。袁術が記すにあたいしないからである」と弁明しているのかも知れない。袁術は『三国志』の構成のなかでは、曹魏の成立前史における敵対者の一人に過ぎないからだ。
しかし陳寿による袁術の軽視が事実であったとしても(事実であれば尚のこと)、ぼくたちの袁術論は、拡大の余地がある。未開拓のフロンティアを見つけることができる。

こういう、剣道に例えるなら「隙だらけの上段の構え」をとることで、思考が活性化するなら、もうけものだと思う。柔らかい脇腹をさらすことになるから、まったく防御がきかなくなるのだが。有段者が教えてくれた。木刀を構えながら。「(木刀をあげて)これが左上段、(足を入れ替えて)これが右上段、(体勢をくずして)これはただの冗談」と。ぼくがやろうとしているのは、最後の「ただの冗談」なのです。


フロイトの精神分析と史料批判

フロイトは『精神分析入門』で、精神分析を裁判に例えた。ぼくが陳寿を読む方法論は、これに準じるものである。
フロイトいわく、裁判において、被告人が犯行を認めたとする。すると裁判官は、「自白があったので、刑罰を科する」と判断するだろう。被告人が犯行を認めないとする。すると裁判官は、「被告人は刑罰を免れるため、ウソをついた」と判断するだろう。被告は何を証言しようとも、疑いをもった裁判官によって刑罰を科される。不公平であるが、これがフロイトの精神分析における方法論であった。
フロイトはこの方法論を「科学」であると主張した。なぜフロイトは、わざわざ「科学」であると主張したのか。それはフロイトが、自身の方法論が「科学」的でないと薄々は認識していたからであろう。少なくとも「科学」的でないという周囲からの批判を、一定の妥当性を持つものとして認容したのであろう。「科学」であることが余りにも自明であれば、批判を無視でき、ことさらに「科学」を強調する必要がないからだ。

ぼくは、フロイト的な不公平な裁判官の方法を「科学」であるとは考えない。しかしフロイトのような、「ものは言いよう」で「言った者勝ち」な方法論を、生産的でおもしろいと思う。だから、「科学」としての歴史学ではなく、ファンとしての袁術論に活用しようと思う。
陳寿や裴松之を被告人と見なし、みずから裁判官となって、ぼくの欲する解釈を、なかば強引に(ただし丁寧に根拠を示しながら)引きだしてゆきたいと思う。陳寿や裴松之のテキストを、精神病患者の証言と見なし、みずから精神分析家となって、テキストの背後に抑圧されているものを言い当ててみたいと思う。

網野善彦の精神分析と史料批判

ある座談会において、本郷和人氏が西研氏に問いかけた歴史哲学の問題は、フロイト的な方法論に関わるものだった。本郷氏は次のようにいう。

実は以前、えらい先生に教えられたんです。これは面白い話になるな、と感じられる史料解釈Aと、面白くはなりそうもない、と想像される史料解釈Bがあるとする。その時、話を面白くするためにAを採ることをためらってはいかん、と。僕はその教えにすごく違和感を感じました。(『歴史と哲学の対話』講談社、二〇一三、三十一頁)

本郷氏は他の本でも同じことを語っている。この「えらい先生」の話が、よほどの気にかかっているようだ。べつの場所では、網野善彦氏の言葉だと、話者の名前を伏せずに記されていた。
網野氏がこれを言ったかどうか、ここでは問わない。事後的に記憶が模造されることは、誰にでもよく起こるからである。発言の現場に居合わせなかったぼくが、正否を判定することはできない。ただし、網野氏がよく受けたという種類の誤解に照らせば、「いかにも網野氏が言いそう」なことではある。
本郷氏が、網野氏の言葉として(網野氏に仮託して)述べていることは、じつは本郷氏が史料の解釈において、やりたいことだと推測される。しかし本郷氏は歴史学者なので、「面白い話」の採用を、自らに禁じておられるようだ。余談であるが、ぼくが本郷氏のなかに抑圧を見出すのも、フロイト的な技法である。

ぼくは歴史学者ではないので、「面白くするため」の史料解釈の選択を、積極的に行いたいと思う。どの史料に基づき、どのように思考を飛躍させたか、それだけは読者が再検証可能なかたちで提示しながら、「面白い話」を採用したいと思う。
史料解釈のなかで、「そうかも知れない」という可能性が1%でもあれば、その解釈への言及を自らに禁じない。不用意にも、憶測を書いてしまおうと思う。科学的であろうとすれば、「そうである」可能性を見つけるだけでなく、「そうでない」可能性を充分に否定した上で、発言すべきである。だがぼくは、フロイトのような、本郷氏のいう範囲での網野善彦のような態度をとりたい。「そうでない」可能性をつぶせなくても、恥ずかしがらずに「そうかも知れない」と書くであろう。

歴史学という科学から、距離をとること。
袁術論の可能性は、ここから生まれる。

このように、過剰に肩に力を入れると(自覚的にやってます)よくわからない使命感のもと、楽しくがんばれる。不思議なものです。

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『後漢書』袁湯伝と袁逢伝を復元する方法

『後漢書』袁安伝は、尻すぼみである。
袁紹と袁術に接続する、もっとも官職のたかい袁氏の系統の記述が、ザックリ省略されている。袁湯伝と袁逢伝(袁紹と袁術の、祖父と父親)は、簡潔すぎる。ほとんど、何も言っていない。

◆袁術の祖父の袁湯

彭弟湯,字仲河,少傳家學,諸儒稱其節,多歷顯位。桓帝初為司空,以豫議定策封安國亭侯,食邑五百戶。累遷司徒、太尉,以□異策免。卒,謚曰康侯。
風俗通曰:「湯時年八十六,有子十二人。」


◆伯父の袁成、父の袁逢

湯長子成,左中郎*[將]*。早卒,次子逢嗣。
逢字周陽,以累世三公子,寬厚篤信,著稱於時。靈帝立,逢以太僕豫議,增封三百戶。後為司空,卒於執金吾。朝廷以逢嘗為三老,特優禮之,賜以珠畫特詔秘器,飯含珠玉二十六品,使五官中郎將持節奉策,贈以車騎將軍印綬,加號特進,謚曰宣文侯。子基嗣,位至太僕。


◆叔父の袁隗

逢弟隗,少歷顯官,先逢為三公。時中常侍袁赦,隗之宗也,用事於中。以逢、隗世宰相家,推崇以為外援。故袁氏貴寵於世,富奢甚,不與它公族同。獻帝初,隗為太傳。
成子紹,逢子術,自有傳。董卓忿紹、術背己,遂誅隗及術兄基男女二十餘人。


袁湯伝と袁逢伝の復元方法

袁湯伝と袁逢伝は、復元されなければならない。袁術もしくは袁紹の王朝では、直系の尊属として、天子七廟のなかに入って頂く人たちであるw
復元のやりかたを考えた。
袁氏以外で、後漢後期に学問によって三公になった家柄の列伝を、いちどバラバラにします。共通の構造を見つけます。レヴィ=ストロースのやった神話素ならぬ、「列伝素」を抽出します。「同じような事績が袁氏にもあったが、范曄までに削除された」という確信のもと、袁氏に書き換えます。

なぜこんなことが「可能」なのか。
官職を昇進するルートについて、ここに記した「列伝素」と同等の手法が、歴史研究で採用されている。官職は、個人のキャラクタや、期待される職務内容の微妙な差異を捨て、役割を記号化したもの。記号とは、操作できるもの。むしろ、操作するために記号化されるのだ。ゆえに、操作を拒否する記号(操作によって正確性が失われる記号)は記号とは呼べない。つまり、官職を記号と見なして、操作してよい。だから歴史学の専門家たちは、列伝の分解と再構築を許している。学術的な成果だと見なしている。
ちょっと思考を飛躍させよう。
列伝に載る言動だって記号的だと思う。個人のキャラクタを捨象して、典型的な官僚の振るまいにしてしまっている。

@Jonathan_apple さんはいう。列伝の記述が記号的というのは、列伝内のとあるエピソードが別書別人のエピソードと類似的な要素・構造を持っていることを指しているという理解で良いですか?
ぼくはいう。そうです、そうです。

『後漢書』では特に、その傾向がつよい。史料というのは、編纂を加える回数が増えるたび、また記された年代から遠ざかるたび、どんどん抽象化=記号化される。だから『後漢書』の人々は、みんな同じような顔つきなのだ。というわけで、記号として個人の言動を記すという意味での、『後漢書』的な列伝の範囲でなら、袁湯と袁逢の言動を再構築することも可能だろう。

再説すると、『後漢書』袁湯伝と袁逢伝は、復元できる。!

制度史の方法を仕える理由

官職の昇進ルートは「制度史」に属するものとして、学術のパッケージングが完了している。制度史とは、個々の事象から演繹して、全体の構造を論じるものである。
制度史が扱うものは、必ずしも当事者たち(後漢の皇帝や官僚)が、ゲームのルールを一望俯瞰的に見渡してから、プレイしている(官僚の人事を決定する)ものとは限らない。つまり、当事者たちは、各時点で必死に合理的に振るまった結果、どうやら後世から見ると、一定のルールが認められそうだぞ、という理屈の順序で指摘されることもある。

列伝の言動だって、同じように個々の事象から演繹して、全体の構造を論じることが可能だろう。当事者たちが、後漢の高級官僚にありがちな類型的な生き方を、意図的に選んでいるのではない。だが、彼らの環境下で最大限に、自由かつ戦略的に振るまった結果、(自由に振るまったはずなのに)どうやら同時代人に似てしまうことはあるだろう。構造に絡めとられてしまうことがあるだろう。
構造主義の旗手であるレヴィ=ストロースに、インスピレーションを得た方法なのだから、方法論としては「あっている」と思う。

ただし、弱点がある。レヴィ=ストロースの神話学がそうであったように、不可避的に分析&再構築の作業が恣意的になる。恣意的であれば、ノウハウが暗黙知のなかに閉じ込められ、余人が再現できない。。というわけで、ぼくはぼくなりの方法で、袁湯伝と袁逢伝を復元する。独善を少しでも緩和するため、ピースを積み上げるたびに、その根拠を可能な限り、提示しながら作業をしたいと思う。

などと考えながら、袁術本紀を準備中です。130512

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袁術の祖先;並記されるべき2つの系統

曹操がもつ2つの出自

『三国志』武帝紀にならって、袁術の本紀の作成に取り組んでいる。
武帝紀によれば曹操の出自を「前漢の相国・曹参の後裔である」とする。曹操の祖先について説明している。
武帝紀に、裴松之が付した注釈(以後「裴注」という)で、王沈『魏書』がひかれる。王沈『魏書』とは、陳寿が『三国志』を編纂するときに参照した書物とされる。『魏書』いわく、曹氏の祖先は黄帝であり、その子孫が周武王の時代に邾に封じられたと。
二十世紀になってから『三国志』に網羅的な注釈をつけた、盧弼『三国志集解』(以後「『集解』」という。)には、『三国志』巻十四 蒋済伝より、侍中の高堂隆の意見として、曹操が虞舜の後裔であると補う。また『集解』は、十七世紀の歴史家・顧炎武の『日知録』をひく。曹氏の祖先の議論について、総括的に言及されているので、見ておきたい。

漢代に製作された碑文は、始祖について記述するが、おおくは信頼できない。曹魏の蒋済『郊議』、王沈『魏書』は、曹氏の出自は邾氏だという。曹操の『家伝』、曹植の著した誄では、曹氏の祖先は姫姓であり、国名(曹)を姓としたという。曹叡の時代、高堂隆が議論したとき、曹氏は虞舜の後裔とされた。曹魏ひとつの王朝で、祖先について三つの説が変わった。笑うべきではなかろうか。皇帝の曹氏ですら、これだけ不確かなのだから、士大夫の祖先は、より信頼できないであろう。(顧炎武『日知録』巻二十三)

曹操の祖先について、事実が確定されない。いや、事実が確定されないことが、確定されている。もし歴史叙述というのが、たった一つの事実だけを、虚心坦懐に粛々と書いていくものであれば、曹操の祖先に記述において、差異が生まれるはずがない。どうして祖先の記述が、こうも食い違うのか。一つだけが正解で、その他が誤りなのであれば、歴代の考証学者によって、何らかのジャッジが下されていそうなものである。
曹氏に見られた「事実が確定されないことが、確定されている」という事情は、袁術についても同様である。問題は曹氏だけでなく、この本の主題である袁氏にも及ぶのだ。史料に表れる祖先の記述の差異について、考えてみたいと思う。

袁術の1つめの祖先・袁良

袁術についての祖先の記述は、やはり同巻の袁紹伝にある。袁紹の高祖(祖父の祖父)は、袁安である。袁安は後漢の章帝の時代、司徒であった。同注引(同じく袁紹伝に注釈されている)華嶠『漢書』は、袁安についてより詳しい。袁安がどのような人物であったかは、袁術の政治戦略を規定すると考えられるので、節を改めて検討する。
編纂時期は『三国志』より遅れるが、范曄『後漢書』には、袁安伝が立てられる。これによると、袁安の祖父・袁良まで遡ることができる。袁良は『孟子易』を学び、前漢の平帝(西暦一~五年)の時代に、明経という科目に合格して官僚となった。太子舎人(秩は比二百石、定員なし)となった。後漢となり、建武の初め(西暦二十五年ごろ)成武県の県令になった。袁良は、袁術の祖父の祖父の祖父にあたる。
袁良、袁安については、歴史学者も「史実」と見なしてくれるだろう。ぎゃくにこれを「史実」と認めねば、無用なニヒリズムに陥り、漢代の研究が滞ってしまう。
袁術の祖先に関する記述が、これで尽くされていれば、なにも悩む必要はない。ぼくは袁術「本紀」を、袁良から書き始めることができる。

袁術の2つめの祖先・虞舜

しかし、袁術の祖先に関する記述は、もう一つある。『三国志』袁術伝にひく、魚豢『典略』である。
袁氏という姓は、陳氏に由来する。陳氏は、虞舜の子孫であるという。
魚豢は、この出自が袁術の自称であるという間接話法を採りながらも、しかしこの説を無視することなく、書き残している。
曹叡の時代、高堂隆は曹氏の祖先が虞舜であると主張した(前述)。ということは、魚豢『典略』と高堂隆の意見を支持するのなら、曹操と袁術は、広義の「同族」と考えるべきか。曹操と袁術は、きびしく対立したが、なんと親戚同士だったのである。曹操と袁紹も親戚なのだから、彼らの密着の具合に説明がつく、という話が出てきてしまう。

純朴な史料の読者は、信頼性のある史料の記述をつないでゆけば、それなりに精度の保証された過去の事実を、再現できると考えるだろう。『三国志』も『典略』も、歴史学者が論拠として扱う史料である。ゆえに、もし純朴な読者に「袁氏の系図を書いてほしい」と依頼すれば、まず起点に虞舜をかき、途中の不明部分を点線にして、前漢末の袁良につなぐだろう。あいだの世代は名が不詳なので、適当に丸印で代用するかも知れない。日本史で頻繁に見かける体裁なので、違和感なく受け入れてしまいそうである。
だがぼくは、この純朴な読者による系図が、誤りであると断言できる。曹操と袁術が「同族」などというのは、思い過ごしである。

2つの系統を並記すべきである

袁術の二つの出自をどう捉えるべきか。
まずぼくは、虞舜が伝説上の人物だから、この系図が信じるに足らないと言うのではない。黄帝や虞舜の名が出てきた途端に、「前近代的の人々が、非現実的な伝説に弄ばれているだけ」と切り捨てるのは、ひとつの近代的な態度には違いないが、妥当でない。かりにも前近代の史料を興味ぶかく読む者としては、失格だと思う。
ぼくが「正解」の系図を書くのであれば、ふたつの系図を並記するであろう。
ひとつは、袁良を起点として、袁安を経由して袁術につなぐ。袁良より上は、不詳とするしかない。もうひとつは、虞舜と陳氏からダイレクトに袁術につなぐ。このふたつの系図は、原理的につなぐことができない。つなぎたくなる誘惑が強烈に訪れるが、決してつないではならない。

なぜ系図をつなげないか。
これを説明するために、少し寄り道が必要である。 野家啓一氏は、『物語の哲学』(岩波現代文庫、二〇〇五)と、それを易しく解説した『歴史を哲学する・哲学塾』(岩波書店、二〇〇七)において、ダントーの「理想的年代記」という概念を紹介して、歴史哲学を展開する。理想的年代記とは、「こんなものは歴史の叙述ではない」と棄却するために、敢えて無理に設定された概念である。

ダントーのいう「理想的年代記」とは、時間的に継起する出来事を、すべてそれが起こった瞬間に書き記しておく膨大な歴史年表のようなものである。それゆえ、理想的な年代記作者は、他人の心の中までも含めてあらゆる出来事を瞬時に把握し、それを筆写する超人的能力を備えているものと仮定されている。(中略)しかし、この作者が書き留めることができるのは、歴史の材料であって、歴史ではない。というのも、彼は単独の出来事を記述できるだけであり、複数の出来事を関連づける「物語文」を書くことができないからである。(『物語の哲学』十一頁)

ダントーは何を言いたいか。要するに、天才的な記録魔がいても、西暦一五五年時点で「魏王の曹操が生まれた」と記述することは不可能であると。ダントーは、ただこれだけを言っている。曹嵩に男子が生まれたことまでは、一五五年の時点で記録できる。しかし、その男子が魏王になることは、二〇〇年以降になって初めて判明する。一五五年の曹操誕生と、二一六年の魏王就任とを結びつける(野家氏のいう「物語る」という)行為を通じて初めて、歴史というものが発生する。
いっぽうで、同じく一五五年に生まれた曹操と同年の無数の男子たちは、魏王になる等の栄達した人生を歩まなかったので、わざわざ彼の誕生について歴史家が言及することはなかった。

野家氏に沿えば、歴史とは、事後的に、言語を通じて(年代の異なる)複数の事実をつなげることによってしか発生しない。言語がひろわなかった無数の事実は、歴史として認識されない。
歴史として登録されるか否かは、事実の有無よりも、言語化の有無にかかっていると。言い換えると、事実があっても言語化されねば「なかったこと」になる。事実がなくても言語化されれば「あったこと」になる。そういう話である。

袁術の系図のかきかた

寄り道から戻ろう。
袁術が虞舜の子孫であるという話は、袁術が皇帝即位を検討した、建安初期(一九六年ごろ)になって、言われ始めたことであろう。はじめに虞舜がいて、脈々と血筋が継承されてきたという事実があるのではない。「理想的年代記」には、記されていないことである。建安初期になって、言語が選択的にひろいあげる(もしくは新たに創出する)ことで、新たに歴史として立ち現れてきたのである。これは、袁安から継承されてきた血筋とは次元の異なる、袁術の「第二の出自」である。

次元が異なる血筋の歴史を、ひとつの系図につないではならない。

ぼくは思う。いわゆる「神話から歴史へ」という言い方がある。たとえば講談社の中国史のシリーズでは、1巻のタイトルが「神話から歴史へ」である。まるで、神話の時代(テキスト史料がない=先史時代)が前にあり、歴史の時代(テキスト史料がある=有史時代)が後にあるという発想である。
ぼくは誤りだと思う。どちらもテキストによって「物語られる」という意味で、同じである。ただし、リアルタイムの記録者がいないと、テキストによる物語りの効用(もしくは歪曲)が強く表れる(という印象を読者に抱かせるから)から、近代人にとって「信頼できない」という印象が強まるだけである。
たとえば20世紀は、おおくの人がリアルタイムの記録者になれた時代であった。しかし20世紀の歴史もまた、「物語り」すなわち「神話化」に類似したプロセスによってしか、把握されていない。
つまりだ。中国の戦国時代以前は、もっぱら「物語り」に頼らざるを得ない。それぞれに系統や脈絡のわからない、結果としての成果物(神話)しか与えられないから、歴史っぽくない。いっぽうで戦国時代以後は、同じく「物語り」によってしか、実情が後世に伝えられない。しかし、系統や脈絡がわかり、「いかにして物語られたか」を検討できるため、歴史っぽい。神話時代から歴史時代に移行するのではない。いかに神話が物語られるかを、多角的に比較検討できる時期のことを、歴史時代というに過ぎない。どちらも神話時代(物語られる時代)なのだ。
袁術の2つの祖先の話は、この似て非なる、非にて似る、物語りに関する問題をはらんでいる。という話をしたいのです。


ぼくは「袁術は虞舜の子孫ではない」と言いたいのではない。恐らく後漢末において、すでに血統は検証不能であっただろうし、今日のぼくにとっては、ますます検証不能である。肯定はしないが、否定もできない、というのが誠実な結論だと思う。ただし袁術が、自分と虞舜の血統を事後的にでも結合させた(「物語った」)のであれば、ぼくはそれを書きとめたい。それだけである。
袁術が虞舜の子孫であるという歴史叙述は、野家氏のいう「物語り」の好例である。袁術が虞舜の子孫であるという命題は、事実としての信憑性が乏しい。しかし袁術が強弁して「物語る」ことで、歴史として出現した。信憑性とは別の評価軸において、典型的な歴史と言うべきであろう。

なぜ袁術は虞舜の子孫か

歴史は、事実の有無によってでなく、言語化の有無によって規定される。言語化する(「物語る」)のは、人間である。人間の行動の背景に何らかの意図が働いたと見なし、その意図を探ってみるのは楽しい作業だ。言語化された内容(史料の内部)だけでなく、わざわざ言語化された意図(史料の外部)に目を配ることで、新しく歴史の意義が浮かび上がってくるかも知れない。
袁術が、虞舜の子孫であると「物語った」のはなぜか。
その答えは王莽にある。

王莽とは、前漢末に漢家から禅譲を受けた者である。漢家を終わらせ、新しい王朝を始めるとき、袁術が参考にできる前例であった。王莽は、みずからを虞舜の子孫だと位置づけ、禅譲を正統化した。袁術もまた、みずからの皇帝即位を正統化するという意図をもって、虞舜の子孫という歴史を創出した。
『尚書』堯典には、唐堯が虞舜に禅譲をしたという歴史が記されている。唐堯といえば虞舜に禅譲する者、虞舜といえば唐堯から禅譲される者。この図式は、漢代の官僚層にとっては、基本的な知識であった。
渡邉義浩『改革者の孤独/王莽』(大修館書店、二〇一二)によると、前漢末期に、漢家の劉氏が唐堯の子孫だという学説が、劉歆によって定められた。「漢堯後説」という。

漢の祖先を堯の末裔とする最大の論拠は、『春秋左氏伝』文公 伝十三年に、「其の処る者、劉氏と為る(秦に留まった者が、劉氏となった〈其処者、為劉氏〉)」とある、士会(晋の范武子)の子孫が劉氏になったとする六文字である。これに、襄公 伝二十四年・昭公 伝二十九年に見える堯の子孫が劉累であり、劉累の子孫が晋の范氏である史伝説話をあわせ、さらに『漢書』高祖本紀の賛に引く、秦に留まった劉氏が漢室の祖先となった、という劉向の説を加えると、漢堯後説が完成する。(『改革者の孤独/王莽』、九九頁)

かように多くの参照を経なければ、劉氏の祖先が唐堯であることが確定されない。つまりそれほど、劉氏の祖先については、「よく分からない」状態だったのだ。劉歆の論法は、近代的な科学としての歴史学とは、明らかに異なる。言葉を連想によって結びつけてゆく論法は、人類学における神話の研究に似ている。
王莽は「漢堯後説」を踏まえ、居摂三年(西暦八年)、自分が虞舜の後裔であることを宣言した(『漢書』王莽伝中)。『尚書』堯典において、唐堯が虞舜に禅譲するくらいだから、唐堯の子孫(劉氏)が、虞舜の子孫(王莽)に禅譲することは正しい。これが王莽の主張であった。「祖先がやったことなら、自分もやれる」というのは、飛躍のあるロジックであるが、ともあれ王莽はこれを革命の根拠とした。
袁術も曹魏も、王莽と同じロジックを意識して、虞舜の子孫を名乗った。

副作用を秘めた、劉歆の漢堯後説

劉歆が、劉氏の祖先を研究し、「漢堯後説」を唱えた意図は何だろうか。
思うに、祖先を古く遡らせることで、劉氏の権威を増そうと考えたのであろう。前漢後期には「劉氏の王朝が終焉するかも知れない」という不安が蔓延しており、劉氏の権威を再確定させる必要があった。
起源の古さと、権威の高さは、正の相関がある。

日本史の学習者には、心当たりがあるだろう。かつて考古学の成果を偽造し、列島に早くから高度な文明が存在したと主張した学者がいた。あの事件の原因を、すべて偽造者の個人的な資質に帰することはできない。起源の古さをもてはやす風潮が、偽造を誘発したのかも知れない(それでもなお、偽造は許されるべきでないが)。
また考古学に限らず、ある時期に行われた『日本書紀』の研究においては、日本の歴史の起源の古さを証明し、日本の権威を高めることが、おもな動機であったように思われる。

日本史に限らず、起源の古さと、権威の高さを結びつける発想は、中国史にも共通する。曹氏から禅譲された司馬氏の『晋書』、司馬氏から禅譲された劉氏の『宋書』もまた、本紀の冒頭において、始祖を遠い時代に求める。
南朝宋を建国した劉裕は、「微賤の生まれの武人」(吉川忠夫『劉裕/江南の英雄/宋の武帝』中公文庫、一九八九)であるにも関わらず、みずからの系図を前漢の劉邦に接続した。後世の読者から見れば、虚偽は明白であるが(恐らく劉裕の同時代においても、疑われていたであろうが)、それでも劉裕の系図は、可能な限り遡って作成された。
正史類の本紀とは、王朝の正統性を言い立てるものである。本紀の冒頭で、血統の起源を長々と語ることで、王朝の正統性が明らかとなる。むしろ、血統の起源をていねいに語ることによって初めて、ただの臣下の記録(列伝)に過ぎないものが、皇帝の記録(本紀)へと変貌するとも言える。

網羅的に調べられていないが、ひとつの歴史書において、皇帝以上に情熱的に祖先の説明がなされる臣下はいないはずである。理論上、いてはならない。事実はどうであれ(皇帝よりも、官爵の高い祖先をもつ臣下は多くいるであろう)、書物の形式として、皇帝よりも臣下について、ていねいに記述することは許されない。
もし臣下の祖先について、皇帝よりも詳細に説明されていれば、編纂者による何らかの意図が働いたと推測しても良いだろう。

たとえば『漢書』では、皇帝の劉氏の本紀よりも、「簒奪者」である王莽のほうが、祖先に言及する字数がおおい。王莽の祖先は、『漢書』巻○ 王元后伝に採録される。劉氏への配慮からか、王莽の祖先は地の文ではなく、王莽の著作『自本』からの引用として掲載される。
しかし班固は、王莽の祖先について省略しようと思えば省略できたはずなのに、確かに『漢書』に記述を挿入した。『漢書』において、王莽の列伝は上中下にわたり、巻一 高帝本紀よりも字数がおおい。王莽の扱いは、異常なのである。王莽に対する班固の思い入れを勘ぐっても良いであろう。

劉歆の「漢堯後説」により、劉氏の権威は高まったはずである。だが劉歆は、その副作用にまで、思い到らなかったようだ。

1人目の「画商」は王莽、2人目は袁術

例え話をしたい。
ある一枚のすぐれた絵画があったとする。その絵画を欲する者が現れても、どのような条件で譲り渡したらよいか、見当がつかない。世界で唯一の絵画の価値は、計り知れず、どのように取り扱うべきか、誰にも分からないのだ。そこに目利きの画商が現れて、天文学的な価格をつけたとする(仮に一千兆円としよう)。
誰にも買えないような価格がついたことで、絵画の権威が高まったと言えるだろうか。答えは否である。どれだけ高額であっても、金額がついた時点で、絵画の権威は失墜する。なぜなら、一千兆円すら払えば、どこの誰であろうが、後腐れなく絵画を獲得できるからだ。
絵画とは劉氏であり、画商とは劉歆であり、一千兆円という価格の設定は「漢堯後説」である。一千兆円とは、王莽の「私は虞舜の子孫である」と証明である。

はじめ劉氏の血統は、だれにも分からなかった。劉氏の正統性は取り扱いが不可能であった。「どのような理論を準備すれば、劉氏の正統性に取って代われるか」を誰も知らなかった。そこに劉歆が現れ、劉氏が唐堯の子孫だと確定させた。劉氏の血統がどのような理由によって尊貴なのかが、設定された。
その結果、もしも「私は虞舜の子孫である」と証明した者が現れた場合、劉氏は禅譲を行わねばならなくなった。ただし、「私は虞舜の子孫である」と証明することなど、誰にとっても不可能に思われた。
ところが、卓越した学者である王莽は、自分が虞舜の子孫であることを(少なくとも同時代の政敵が反論できない水準で)証明してしまった。だれも支払えないだろうと思っていた一千兆円を、王莽がぽんと支払ってしまったのである。王莽は、血統の問題に関しては後腐れなく、劉氏から禅譲を受けることに成功した。
劉歆が劉氏の起源が判明してしまったがゆえに、かえって皇帝の地位の譲渡が、可能になってしまった。劉氏にとっては皮肉なことである。

王莽が滅びたのち、後漢代を通じて儒学は整備され、「漢堯後説」は確定された。袁術はこの学説を踏まえて、「私は虞舜の子孫である」と言えば、それだけで皇帝即位の正統性を主張することができた。もはや袁術に、王莽のような学識は必要ない。はじめて値付けする画商は、よほどの目利きであることが求められたが、二回目以降に取引する画商は、前例を参考にすれば良いからだ。劉氏の血統の高貴さが確立されたからこそ、袁術は「私は虞舜の子孫である」と発言するだけで、自動的に自分の皇帝即位を正統化できた。
曹魏による漢魏革命のときも、血統に関しては、王莽、袁術の前例を越えるものではない。曹氏は虞舜の子孫だと設定された。「曹魏が袁術を参考にした」とまでは言えないが、少なくとも袁術と同じことを主張した。袁術がつくった血統の論理は、次の時代にも堪えうるものだったのである。

というのを、5月中旬に書いて、いま載せてみた。130615

ぼくは思う。ブリコラージュの好例。ブリコラージュとは、既にある物を寄せ集めて物を作ること。創造性と機智が必要とされる。雑多な物や情報などを集めて組み合わせ、その本来の用途とは違う用途のために使う物や情報を生み出すこと。端布や夕食の残り物、木の枝の流用など。
まさに正史類で近代歴史学をやることこそ、ブリコラージュである!


付:袁安伝を読解する視覚

袁術が虞舜の子孫だというのは、第二の出自である。「実際はどうであったか」ではなく、「どのように記録されたか」に重心のある歴史であった。
袁術の第一の出自は、後漢の司徒である袁安から始まる。順序が前後したが、こちらの出自のほうが、いわゆる歴史らしい歴史である。
袁術は皇帝に即位するとき、周囲の属官に、つぎのように諮っている。

興平二年(西暦一九五年)冬、天子(後漢の献帝)は曹陽で(李傕に)敗れた。袁術は群下に会して言った。「いま劉氏は微弱である。海内は鼎沸している。わたしの家は、四世にわたって、三公として皇帝を補佐した。百姓は、わたしの家に帰している。天に応じ、民に順おうと思う(わたしは、皇帝に即位したいと思う)。諸君の意見はいかに。(『三国志』袁術伝)

袁術が皇帝への即位を口にする理由は、二つである。劉氏が微弱であることと、袁氏が四世三公であり、百姓から支持されていることである。袁術の政権の性格が、これ以上ないほど、単純かつ露骨に表現されている。ぼくの袁術論は、どれだけ長くなろうとも、袁術のこのセリフに対する注釈に過ぎない、という気さえしてくる。
袁術の第一の出自を記述するなら、ここに引用した袁術のセリフの説明になっていなければならない。つまり、「袁氏はこのような家柄なので、袁術は皇帝の地位をねらった」という筋道が見えねばならない。
『後漢書』袁安伝にもとづいて、袁術の第一の出自を見てゆきたい。
袁術のセリフにも現れているとおり、彼らは官職にこだわっている。四世三公であることが、袁術のアイデンティティであり、かつ政権の正統性を支えている。言うまでもなく、現代日本には、後漢の官職が流通していないので、ぼくたちは実感をもって官職を語ることが難しい。「漢代の官僚にとって官職とは、どのようなものであったか」という問いにつねに留意しておく必要がある。
人類学者のマリノフスキは『西太平洋の遠洋航海者』(○○)にて、次のようにのべた。

AまたはB(引用者注:「A」「B」はいずれも個人名)の個人としての感情や、彼ら自身の個人的経験の偶然の経路などには関心がない。ただ一つの関心事は、彼らが任意の社会の成員として、どのように感じ、考えるかということである。この点では、彼らの心理状態は、ある刻印を押されており、生活を規制する諸制度、伝統や伝承、思想の媒体である言語などによって、紋切り型になるのである。彼らがそのなかを動いている社会的、文化的環境が、彼らに一定の様式で感じ、考えることを強いるのである。

マリノフスキは、結婚制度を例にとり、「一妻多夫の社会に生きる男は、たとえ嫉妬の種をもっているとしても、厳密な一夫一婦制の社会と同様の嫉妬の感情をもつわけがない」と述べる。同じことは、後漢~三国時代についても言えるであろう。官職が主要な争点となった環境下において、ある種の「紋切り型」の人間関係や心理が現れていたはずである。この本は、この「紋切り型」を言語化して説明を加えることを目標とする。。なんて思ってます。130713

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袁氏の出身地「汝南」のこと 【新】

後漢を通じて本籍を移動しない

『後漢書』列伝三十五 袁安伝から、有史時代における袁術の始祖を、判明する限り、遡ってゆこう。

袁安は、あざなを邵公という。汝南郡の汝陽県の人である。(袁安伝)

『三国志』巻六 袁紹伝にて、袁紹の本籍は汝南郡の汝陽県であった。『後漢書』袁安伝も同じである。つまり後漢代を通じ、袁氏は本籍を移動していないことに気づく。汝南郡の地勢を知ることは、袁氏の理解に役立つであろう。

ぼくは思う。洛陽にひっこしたりはしない。

汝南郡とは、どのような土地であったか。袁氏の性格にどのような影響を与えたか。ここでは、山崎光洋氏の「後漢時代の汝南の袁氏について」(『立正史学』五三、一九八三)を軸にして、汝南郡について情報を集める。山崎氏の論文は、専門の雑誌に三十年前に掲載されたきりで、書籍等に収録されていない。大学に所属しない者にとって、アクセスが難しいと思われる。詳細に引用しておきたい。

汝南は人口がおおい

汝南は、現在の河南省の南部に位置する(安徽省の一部を含む)地域である。楊守敬『歴代輿地沿革図』によると、汝南の周囲は、北に頴川と陳国、東に沛郡と九江、南に廬江と江夏、西に南陽がある。淮水、汝水、頴水など、おおくの河川によって平野部が形成される。
人口は二百万人を越える大郡であった。『漢書』巻二十八上 地理志上によれば、人口は二百五十九万六千百四十八人である。郡国のなかで、もっとも多くの人口を擁している。『後漢書』郡国志においても、人口は二百十万七百八十八人である。

汝南も寿春も「楚」の文化圏

『史記』巻百二十九 貨殖列伝は、汝南郡について記述がある。山崎氏は『史記』の原文を抜粋するが、ここでは、小竹文夫・小竹武夫『史記8、列伝四』を参考にして、言葉を補いながら和訳をする。

淮水より北に位置する、沛国、陳国、汝南、南郡は「西楚」である。西楚の習俗は、剽悍で軽率であり、怒りっぽい。土地はやせて、蓄積に乏しい。
彭城より東に位置する、東海、呉郡、広陵は「東楚」である。
衡山、九江、江南、豫章、長沙は「南楚」である。南楚の習俗は、西楚によく似ている。楚国は、郢から寿春に遷都したが、寿春は都市である。(緑字の部分が『史記』貨殖列伝)


最初にぼくの目についたのは、故郷の汝南と、皇帝に即位した寿春とが、同一の「楚」の文化圏に属することである。すなわち袁術は、故郷と同じものが食される地域の内側で、天下を窺ったのである。地縁の活用という点で、袁術は初期条件が有利であった。
初平三年(一九二)、袁術は南陽から陳留に進出したが、曹操に敗北した。長距離の敗走を強いられたが、不思議なほどすぐに、寿春で盛り返すことができた。地縁をカウントに入れなければ、袁術の復活を説明できない。
対する袁紹は、習俗の異なる河北に出奔し、そこから天下を窺った。食べものが異なり、人々の気性も異なるなかで、勢力を築かねばならなかった。初期の袁紹は、董卓と衝突して渤海に逃げこみ、韓馥の軍糧に依拠せねば、兵数を維持できなかった。公孫瓚に敗れると、渤海太守の印綬を投げ出して、和戦せねばならなかった。故郷から連れてきた盟友と、河北で参入した士人が対立し、袁紹の戦略は揺れ動いた。相対的に苦労がおおい。

楚の地域は、土地は広いが、人口は少ない。米を飯とし、魚を羹とする。火で耕し、水で草をのぞく。木草の果実や貝類は、商人から買わなくても自給できる。地勢は食糧に富んで、飢饉の心配がない。ゆえに、安逸をむさぼり、貯蓄がない少ない。長江や淮水の南において、凍死や飢死する者はいない。その一方で、千金を蓄財する家もない。(『史記』貨殖列伝)

山崎氏によると、汝南一帯の自然環境は、年間を通じて雨量がおおく、とくに夏期に多雨である。稲作に適していた。
袁術ら汝南の人々は、おもに米を食べた。米食になじみのある、ぼくら現代日本人は、袁術に親近感をいだくことができる。
「火で耕し、水で草をのぞく」の部分は、意味が取りにくい。原文では「火耕水耨」となっており、稲作の農法である。他に『史記』平準書、『漢書』武帝紀、地理志にも見える。永田英正、梅原郁訳注『漢書食貨・地理・溝洫志』(東洋文庫、一九八八)によると諸説があり、農法の実態は分からないそうだ。

植民者の秦漢帝国、被植民者の汝南

楚の人々は、採取できる食糧が豊富なので、せっせと蓄財をしない。
経済に対する大らかな態度は、ダグラス=ラミス『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』(平凡社、二〇〇四)が紹介した、ヨーロッパ人と出会った直後の植民地の人々に似ている。

植民地の人々は、森林のなかで生きれば自給自足ができ、わざわざ長時間の賃金労働をしなかった。「賃金を支払うから働け」と命じても、貨幣で買いたいものがない。働いた者は、ヨーロッパ人が開設した店で、買い物をするだろう。ほかに貨幣の使い道がないからだ。だが買いたいものを買えば、翌日から働きにこない。
ヨーロッパ人は、森林を破壊し、貨幣による納税を義務づけ、首枷をつけて強制労働をさせたという。強制労働の結果、道路や鉄道や港湾などのインフラが、植民地で整備されることになった。インフラは、ヨーロッパ人が使うものであり、植民地に必要のないものだった。どこまでもお節介であった。
ラミスの説明は、決して「実証的」ではない。つまり、何年何月に、どこの国で植民地の人々が労働に駆りだされた、という記録簿が提示されているわけではない。理論上、そのような「お話」を想定すると、歴史の展開を感得しやすい、という説明である。ぼくは、とても納得できる説明だと思う。 汝南をはじめとする楚の文化圏は、いわゆる後進地域であり、ラミスが紹介した植民地のイメージと結びつく。彼らは元来、飢えないから、せかせかと働く必要がないのである。怠惰を咎められる筋合いがない。
楚の文化圏は、土地は豊饒だが、生産者が怠惰である。統一王朝から見れば、経済成長の可能性にあふれたフロンティアであった。だが楚の側から見れば、統一王朝による介入は、余計なお世話であろう。

汝南太守たちが潅漑設備をつくる

山崎氏によると、汝南には、「陂池」という潅漑の施設がおおい。
陂池とは、(加藤氏を参照して追記予定)という構造をしている。
たとえば『後漢書』列伝十九 鮑昱伝には、永平期(西暦五八~七五年)に汝南太守となった鮑昱の事績として、次のような記事がある。

汝南の郡内には、陂池がおおい。だが毎年のように決壊した。決壊による損害は、一年あたり三千余万銭におよんだ。鮑昱は、「土製ではなく石製の、水門を築くべきだ」と提案した。鮑昱の提案により、農業用水はつねに充足し、潅漑による水田は倍増した。汝南の人々は、豊饒となった。(『後漢書』鮑昱伝)

和帝期(西暦○~○年)に汝南太守となった何敞も、潅漑事業をおこなった。
何敞は、袁氏との関係が密接な人物である。何敞の本籍は、もとは汝南郡の汝陰県で、袁氏と同郷であった。何氏は前漢の武帝期に、扶風郡の平陵県に本籍を移動した。『後漢書』何敞伝には、「司徒の袁安は、ふかく何敞を敬重した」という記述があるように、袁安と交友関係があった。

何敞は、汝南のドウ陽にある旧来の堤防を修復した。百姓は、修復による利益を頼りにした。墾田は、三万余頃が増えた。吏人は、何敞の功績を石碑に刻み、功徳をたたえた。(『後漢書』何敞伝)

汝南太守となった者は、積極的に施設を整備して、農業の振興につとめた。あたかも、植民地の地域にお節介をやき、強制的に単一の経済に巻きこんでゆく、ヨーロッパ人のような振る舞いである。汝南太守がつくらせた潅漑は、ヨーロッパ人がつくらせた鉄道や道路に類するインフラだと把握できよう。
すると、次のような「お話」を思い描くことができる。

統一王朝である後漢は、汝南の人々を強制労働させ、堤防というインフラを整備した。この堤防は、汝南の人々が求めたものではない。汝南では堤防などなくても、自足できる農業生産ができたからだ。堤防は、後漢が外圧によって作らせたものだ。堤防の整備により、耕地が拡大し、行うべき労働(農作業)の総量が増えてしまった。安穏としていた汝南の人々も、労働に従事せざるを得なくなり、拡大再生産の循環に巻きこまれる。
マクロで見れば、後漢の生産は向上するだろう。だがミクロで見れば、汝南の人々の生きやすさが向上したのか、判断が難しいところだ。

開拓により、黄河の流域とは異なる農業生産(潅漑による稲作)が行われるようになった。国家の経済的基盤の比重が、汝南をふくむ、長江や淮水の流域に移行した。新たに発達した汝南の一帯は、隣接する頴川、南陽とともに、後漢の官僚をおおく輩出した。袁氏は、その官僚の代表である。

外圧に負けず、成功した先住民

地勢に着目すると、袁術「本紀」は新しい物語の様相をおびる。
袁氏は、植民地に出自をもつが、すぐれた才覚をもって、ヨーロッパ人を相手に商売を成功させた先住民の事業家のようなものである。被開拓者として微賤からスタートし、七世代を経て、ついにヨーロッパ人の本国を脅かすに到った。こういう「辺境からの逆転」というストーリーを投影することもできる。
袁氏の場合、後漢を凌駕するには到らなかった。しかし、辺境で力量を蓄えて、中原にいる王朝を打ち負かすという話形は、孫呉に継承された。孫呉もまた、曹魏を凌駕するには到らなかった。西晋末、このストーリーは、匈奴を筆頭とする胡族によって、規模をひろげて、いっそう破壊的に演じられた。のちの中国史で、「征服王朝」を立てた異民族は、このパターンである。汝南の袁氏は、その萌芽だとも見なせよう。

出身地ひとつで、論文からの引用、史料への参照が長くなってしまった。だが、史料を読解する醍醐味は、わずか数文字の原文に、数千字の注釈をつけることにある。「研究することと、注釈を付すことは、同義である」とも言われる。以後も、袁術を理解するための情報がある場合、煩雑をいとわずに補足してゆきたい。

これも5月くらいに書いて、パソコンに眠らせていた。眠らせていたら(自分が)探せなくなり、使えなくなる。だから、ここに掲載した。130713

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袁氏の家学「孟子易」と名声のこと 【新】

『孟子易』を家学に選んだ

『後漢書』袁安伝は出身地のつぎに、袁安の祖父について記す。
これより読解に際して、吉川忠夫『後漢書』(岩波書店、二〇〇一)、『全訳後漢書』(汲古書院、二〇〇×)を参照する。前者のほうが収蔵している図書館がおおくて利用しやすいが、後者のほうが注釈が詳細である。
ちなみに袁安伝は、『全訳後漢書』では巻○、吉川『後漢書』では巻○に収録されている。
列伝の和訳は、両書を参考としながら、独自に作成する。『全訳後漢書』には全文の口語訳が掲載されているが、そのまま引用することはしない。

袁安の祖父は、袁良である。袁良は『孟子易』を習得した。(袁安伝)

袁良が習得した『孟子易』とは、何であろうか。 『全訳後漢書』によると『孟子易』は、前漢の中期、孟喜が『易経』に注釈をくわえた書物である。「象数易」という研究分野を形成した。象数易とは、陰陽が消長する原理を、卦画のうえに具現するものである。天然自然の理法は、日月の進退、四季の推移となってあらわれる。象数易はこれを、九六(九は陽、六は陰を象徴する)の変化(昇降と往来)によって説明する小沢文四郎『漢代易学の研究』(明徳印刷出版社、一九七〇)を参照せよとのことである。
『孟子易』の内容を検討すると、それだけで一冊になる。一冊のみならず、それだけで一生が終わってしまうだろう。さらに言えば、袁氏は代々『孟子易』を研究することで、家系のアイデンティティを形づくった。一生どころか、数世代かかっても終わらない学問である。畏ろしいので、内容に踏みこむことはしない。
われらが袁氏は、前漢と後漢の交替期、『易経』に関連する学問の家系として始まった。この特徴を指摘するに留めたい。

『孟子易』の孟喜のこと

『孟子易』を創設した孟喜は、『漢書』巻八八 儒林に列伝をもっている。間接的な情報ではあるが、袁氏の理解に役立ちそうなので読んでおきたい。

孟喜は、あざなを長卿という。東海郡の蘭陵県の人である。父は孟卿という。父の孟卿は、『礼経』と『春秋』の権威ある研究者であった。父は、自分が専門とした『礼経』と『春秋』は習得が大変だったので、子の孟喜には習得しやすい『易経』を学ばせた。のちに孟喜は、「私はある学者の死に立ち会い、秘伝の書物を与えられた」と喧伝したが、ライバルによってウソを暴かれた。また孟喜は、蜀郡の趙賓から(今度は本当に)学問を授けられた。だがライバルによって、「それもウソに違いない」と否認された。(『漢書』儒林 孟喜伝)

歴史を読むとき、「彼らがどういうルールのもと、ゲームを競っているか」を念頭におくべきである。マリノフスキの教訓である。
孟喜の父は、学者としての成功が、社会的な地位を上昇させることを認識していたようだ。最少の努力で最大の利益を得られるように、わが子のために、勉強の対象を戦略的に選んだ。今日の日本で、大学受験の配点が高い科目だけ勉強する受験生に似ている。
孟喜は、「秘伝を授かった」と言ってライバルを圧倒し、ライバルはそれに張りあった。学問の優劣は、威信をかけた競争のテーマだったのである。それでは、孟喜たちは、なんのために学問を競ったのであろうか。

博士の官職に欠員ができた。人々は孟喜を博士に推薦した。皇帝は、「孟喜が学説をねじ曲げている」という批判を聞いていたので、孟喜を採用しなかった。(『漢書』儒林 孟喜伝)

皇帝が聞いたという孟達への批判は、ライバルによるものであろう。
彼らが「いかに効率よく、いかに独自の知識を身につけるか」を競った目的のひとつは、官職の獲得であったことが窺われる。ライバルが低く評価され、就官に失敗すれば、自分が就官するチャンスが増える。高尚そうな儒学が題材となっているが、きわめてドライな闘争に過ぎない。

『孟子易』の始祖である孟喜からして、「ライバルを負かす学問」に血眼になった官僚であった。前漢における儒学は、官職をあがなえる「貨幣」のような側面をもつ。孟喜が著した『孟子易』もまた、官職の獲得に役立つ学問であったと仮定しても、不自然ではあるまい。このような背景のもと、袁氏の初代・袁良は、『孟子易』を習得することによって、初めて官界に登場したのである。

平帝のとき、袁良は明経の科目に挙げられて、太子舎人となった。建武初(西暦二五年ごろ)成武の県令になった。(袁安伝)

袁良は、経書に明るいので、その学識を評価され、官職を得た。
太子舎人とは、『続漢書』志二七 百官四によると、秩二百石。定員なし。
県令とは、戸数のおおい県の長官である。戸数がすくない県の長官は、県長という。地方長官は、皇帝から直接任命されるものである。

先天的な文化資本

  袁良の子(袁安の父)は、名が記されていないので、分からない。史料がないので憶測は慎むべきだが、袁安の父は、莽新(王莽の新王朝)と後漢の交替期に生きている。混乱期のなかで、寿命を縮めたのであろうか。

袁安は若くして、祖父の袁良の学問を伝承された。(袁安伝)

袁良がはじめた学問を、袁安も習得した。袁良の『孟子易』のように、ライバルに対抗するため、学問を一族で囲いこむことが行われた。
「家学」という。
袁氏とおなじく四世三公を輩出したのは、弘農の楊氏である。楊氏は『歐陽尚書』を家学とした官僚であった。(『後漢書』列伝○ 楊震伝)

家学には、二つの性質が要請されるはずである。一つ、同族の子弟にとって、習得が容易であること。二つ、同族でない者にとって、習得が困難であること。この二つの要請は、先ほどの『漢書』孟喜伝から読みとれる内容であった。
この二つの性質は、矛盾するように見える。同族の者が学びやすければ、他族の者にも学びやすかろう。学問によって一族を差別化できず、学問をやる意味がない。かと言って、「知的財産」を囲いこむため、きわめて難解にしてしまえば、同族のなかですら継承してゆけない。官職を優先的に確保することができない。
この矛盾を解消するべく、家学の性質を推測すると次のようになる。

家学とは、先天的には容易に習得することができるが、後天的に習得することは困難なものであるべきだ。つまり、幼少期から教養として触れれば(先天的に学べば)おのずと習得できる。しかし物心がついた後に、どれだけ努力しても身につかない(後天的に学べない)。出世の野心を抱くような年頃になった時点で、すでに決着がついている。
かような性質を持つなら、家学は二つの矛盾した要請を満たせる。

ぼくが推測した家学の性質は、ピエール=ブルデューが『ディスタンクシオン』(石井洋二郎訳、藤原書店、一九九〇)で規定した、「文化資本」という概念に似ている。
芸術鑑賞の好み、ちょっとした仕草や言葉づかいは、家庭環境によって先天的に決まってしまう。物心がついてから、後天的にどれだけ勉強しても、挽回できない断絶があるという。庶民の出身者が、貴族らしく振る舞っても、ついつい「お里が知れる」のである。

秘術めいた家学を持つことで、官職の獲得が有利になる。だから後漢では、汝南の袁氏、弘農の楊氏のような、四世三公の一族が登場することができた。当時の社会は、教育のチャンスが均等であったはずがない。むしろ諸族は、教育のチャンスを不均等にすべく、しのぎを削ったはずである。
後漢のあと、魏晋南北朝を通じて、階層は固定化が進展する傾向にある。いわゆる「貴族制」が成立する前史なのだ。長期的な視点にたてば、後漢において、文化資本の独占が進むことはあっても、和らぐことはあるまい。

今日の日本で、「世帯の年収が、子供の学歴に相関する」とか、「母親の学歴が、子供の学歴に相関する」などの事実が指摘されているが、後漢はその傾向がすこぶる強い社会である。
「教育の機会は均等であるべきだ」という、とある近代人の立場から見れば、漢代は「政治的に正しくない」社会であると言えよう。もちろん、後漢は近代ではないので、袁氏による文化資本の囲いこみについて、良し悪しを語ることに意味はない。

階級の閉鎖性もしくは硬直性が、袁氏をして、四世三公という高級官僚の家柄に固定した。世代を重ねた先天的な教育の賜物が、醸造につぐ醸造をくり返した結果、最終的に「四世三公だから、皇帝に即位しても構わないでしょう」と発想する、大逆の愚か者を登場させた。言わずもがな、袁術のことである。
袁紹も、みずからの皇帝即位を周囲に打診し、猛烈な反対に遭っている。『三国志』袁紹伝にひく『典略』によると、袁紹は主簿の耿苞に、袁紹が皇帝になるべきだと主張させた。耿苞の口を借りて、本心を明かしたのである。論者は一斉に、耿苞に反発した。袁紹は、耿苞に失言の罪をなすりつけて殺した。

袁術と袁紹の感覚が、周囲とズレていれば、ズレているほど、階層を固定化する先天的な教育が、充分に行き届いている証拠となろう。もちろん、教育の成果があがっていることと、政治的に成功することは、イコールではない。袁術と袁紹が抱えている感覚のズレは、彼らの強みであり、かつ弱みでもある。ぼくにとって、袁術と袁紹の浮きぐあいは、興味をそそられる強烈な個性である。

人となりと社会関係資本

袁安は、ただ『孟子易』という文化資本によってのみ、官職をあげたのではない。名声もまた、袁安の地位を押し上げた。

ここから話題が変わります。


袁安の人となりは慎重で、威厳があった。州里の人々から敬われた。
はじめ袁安は、県の功曹となった。袁安は公文書をもち、従事を訪問した。従事は袁安に「私の文書を県令に届けてほしい」と依頼した。袁安は断った。「私は公文書を届けにきたのである。私的な依頼は受け付けられない」と。従事は袁安を懼れ、依頼をあきらめた。(袁安伝)


袁安が就任した功曹とは、功曹史である。功労の選署(人事考課)を主管する。
袁安が訪問した従事とは、従事史である。州の刺史の属吏である。『後漢書』志 百官五によると、刺史のもとには、従事史と仮佐がいた。
この逸話は、県の属吏に過ぎない袁安が、行政のランクがずっと上の州の属吏に対して、筋道を押しつけたものである。言外に、当時の風潮が窺えよう。私的な便宜のため、公的な制度を利用する者がおおく、それが当然とされたのであろうか。袁安は、この風潮にわざわざ抵抗したため、威信を高めることができた。

袁安伝にひく『汝南先賢伝』は、人となりを凝縮したエピソードを提示して、袁安が官職を上昇させるきっかけを教えてくれる。

一丈あまりも積雪した。人々は外出して、食糧をもとめた。汝陽の県令は、袁安の家を視察したが、門前が除雪されていない。県令は袁安が死んだと考えた。だが除雪してみると、袁安が家のなかで寝転んでいた。理由を聞くと、「大雪でみな飢えている。私は外出してまで、ひとの食糧を奪いたくなかった」と。県令は、袁安が賢者であると認めて、彼を孝廉に推挙した。(『汝南先賢伝』)

孝廉によって、袁安は(奇跡的と言って良いほどの)チャンスを得た。

雪の埋まって挙がった孝廉について

孝廉とは、漢代の官僚の人事制度である。
福井重雅氏の「漢代官吏登用制度の概観」(『』、一四頁)によれば、漢代の選挙制度は、常科と制科に分類できる。

常科とは、年ごとに定期的に察挙(採用)される。「茂才」の科目にて、刺史は下級官吏から一名を選び、選ばれた者は県令となれる。「孝廉」の科目にて、国相や郡守は一般庶民から一名もしくは二名を選び、選ばれた者は郎中となれる。後者は後漢において、定員が二十万人の人口につき、一名と定められた。後漢にて「孝廉」に挙げられた者には、経学や章奏の試験が課せられた。
制科とは、天変地異など臨時のとき、察挙(採用)される。科目には、「賢良」「方正」「直言」「敦朴」があり、後漢には「有道」「至孝」が加わった。制科にて人材を察挙する資格をもつ者は、諸侯王、列侯、参考、九卿、将軍、国相、郡守におよぶ。後漢には、刺史と校尉も察挙の資格をもった。中級官吏、下級官吏のなかから選ばれた。皇帝策試、対策などの試験が課せられた。選ばれた者がつける官職は特定されない。

ここまでが選挙制度の概要である。
袁安は、前者の常科(定期採用)のルートに乗った。
彼は積雪のなか、空腹を我慢して、除雪もせずに引きこもっていた。除雪をすれば、余計に空腹となるだろうから、現実的な判断である。袁安は、僭越にも上官にあたる県令らに雪かきをさせ、機転の利いた問答をやり、二十万人に一人の賢者に認定された。

袁安は、隠平の県長、任城の県令に任命された。任地にいる属吏たちは、袁安を畏怖し、敬愛した。(袁安伝)

袁安は職務の成果のみならず、人となりを強みにして、官職を高めた。
いま読んでいる『後漢書』袁安伝は、のちに三公となり、皇帝を善導した者の列伝である。編者である范曄が、そうコメントをしているのだから、間違いない。この結末と関係のない挿話が、だらだらと紹介されるはずがない。
袁安の学問も、勤務態度も、人となりも、すべての記述は、彼が三公に昇進するための伏線である。編者の意図を汲むなら、こう理解すべきだろう。

人となりと名声による出世

学問(文化資本)が官職につながることは、すでに確認した。職務に忠実なのは、出世の要件として、理解できなくもない。だが人となりや名声もまた、官職を得るための要因なのである。「人気者は出世しやすいだろう」と悟った気分になり、関心を失ってしまうには、惜しい問題である。
なお、「人となりを記すのは、列伝の定型に過ぎない。重要ではない」と考えるなら、それこそが誤読である。列伝とは、皇帝を支えた人々の記録である。その記録のなかで定型と化すほどに、人となりは官僚の要件として重要なのだ。

人となりと名声が、政治的な立場を強化するらしい。
この命題が胸につっかえた瞬間、ぼくたち三国ファンの前に、渡邉義浩氏の「名士」論が出現する。肯定するにせよ、否定するにせよ、いちどは「名士」論を読みこんだ上でなければ、三国志を理解することは難しいだろう。

渡邉氏は、魏晋南北朝の貴族の存立基盤を「文化」とするという仮説を提唱した。皇帝権力からの自律性をもち、やがて貴族への変貌を遂げる三国時代の知識人層を「名士」と呼称した。「名士」は、文化的諸価値に基づく名声を存立基盤としたという(渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』汲古書院、二〇〇四、二七頁)。
ブルデューは、名声による強みを、社会関係資本と規定した。渡邉氏は、社会関係資本という言葉を積極的に使っていないが、指し示すところは同じである。

文化資本(教養や学問)、社会関係資本(人脈や名声)。これら資本の総量を増やして、ライバルを打ち負かす。自分を際立たせ、卓越化させる。この卓越化を、フランス語でディスタンクシオンという。英語で「区別すること」を、ディスティングウィッシュというが、同じ起源をもつ単語であろうか。
ブルデューが数え上げた二つの資本は、『後漢書』袁安伝のはじめに、全て登場してしまった。袁安がブルデューを参考にしたという意味ではない。ブルデューは二十世紀の社会学者であるから、袁安がブルデューの著作を読めるはずがない。ぼくが袁安を分析するとき、ブルデューらの社会学が有用であると言いたいのである。文化資本、社会関係資本、という術語をうまく取り扱えば、「汝南の袁氏とは、何者であったか」をきっちり説明ができるはずだ、という見通しを宣言しようと思う。

袁術の世代に表出した、袁安のなかの狂気

小説家の宮城谷昌光氏は、『三国志』巻一(文藝春秋、二〇〇四)にて、印象的なことを書いている。小説家の観察眼で、演繹的に真理を突いている。
引用する前に補足しておくと、文中に出てくる楊震とは、四世三公を輩出する弘農の楊氏の、初代三公である。宮城谷『三国志』の特徴は、後漢の中期から語り起こすことである。章帝のとき、楊震はつぎのように述懐させられる。

楊震の正常な感覚からすると、この王朝は、どこかが狂っている。組織は創立者の全人格が投影されるものであるとすれば、前漢の高祖より人格的にはるかに高いとおもわれる後漢の光武帝に、高祖にはない異常さがあったというべきで、それが王朝の狂いとなって今日にいたっているというべきか。(『三国志』巻一、四九頁)

宮城谷氏は、組織ないしは集団の性格を、すべて創立者の性格に帰せしめる。破壊力たっぷりの(反論しがたい)アイディアである。これに従えば、初代の袁安のなかに、袁術や袁紹の性格のすべてを見出してしまう、という議論の組み立ても可能である。
例えば、こんなパロディがつくれる。

後漢末の士人の正常な感覚からすると、汝南の袁氏は、どこかが狂っている。一族の政治的戦略に、初代の全人格が投影されるものであるとすれば、「腐敗」した外戚や宦官よりも人格的にはるかに高いと思われる袁安に、外戚や宦官にはない異常さがあったというべきで、それが袁術や袁紹の狂いとなって表出したというべきか。

という具合になる。
パロディに過ぎない言説だが、なかなか示唆に富む。つまり袁安は、人格の優れた名臣として賞賛されている。だが彼のどこかに、袁術や袁紹に連なる狂気の伏線が潜んでいるはずである。袁安のどこが、狂っているのだろうか。
興味を掻きたてられる問題である。
初代の袁安と、末代の袁術を比較するとき、文化資本、社会関係資本という概念が、役に立つはずである。彼らの処世のありかたを、共通の言葉でくくることにより、時代を隔てた者同士が比較できるようになるのだから。

県令を経験した袁安は、その政治手腕を買われて、楚郡太守になり、大逆事件を処置する。皇帝からの信頼を勝ちとり、三公への道程を加速させる。
ストックしてあった文章は以上です。130713

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