-後漢 > 中華書局『申鑑注校補』に付された解説等

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孫啓治による前言(テキストの解題)

中華書局版の注釈本に、30ページもある「前言」がある。
長いからには、内容があるだろうと思い、抄訳しておく。

現実に対する批評性がない

私たちは『政論』『昌言』の2書を校注したのち、荀悦『申鑑』を整理するつもりはなかった。『申鑑』は、後漢の人が、政事と時俗を議論したテキストである。なぜ整理するつもりがなかったか。
1つ、すでに『申鑑』には、明代の黄省曽が注釈したものがある。
2つ、後漢の人が社会と時弊を批評したテキストには、王充、王符、崔寔、仲長統のものがある。それぞれ議論に偏重があり、異同があるものの、忌避するせずに時弊を厳しく論じている。荀悦は王充らと異なり、『申鑑』は正面から道理を論じ、理想の政治・倫理・社会を談じており、後漢の現実と相反する。「座して道を論じる」ような「空言」である。

ぼくは思う。荀悦は、後漢の現実に対する批判性に乏しかった。そういう否定的な読まれかたをしたのね。『後漢書』荀悦伝のせいだろう。曹操に実権を握られたので、気分を紛らわすために『申鑑』を書いたことにされている。

だが私たちは、黄省曽に基づき、『申鑑』を整理することにした。その理由について、読者に説明しておきたい。

まず『四庫全書総目提要』はいう。荀悦『申鑑』は、儒術にもとづき、正に詭(たが)わないと。

【詭】責任を持たせて任せる、要求する、せめる、せむ。『漢書』趙充国伝はいう。自ら詭めて必ず得ん。私が責任をもって必ず捕らえましょう。いつわる、あざむく。かくれる、かくす。たがう、くいちがう。

宋明より以後の士大夫のなかでは、『申鑑』は推薦して尊崇された。彼らは「怨むが怒らぬ」テキストだと考えた。
ゆえに『政論』と『昌言』は散逸してしまったが、『申鑑』は5巻セットのまま保存された。後世には一定の影響があった。私は『申鑑』を痛快でないと思うが、なぜこんな(痛快でなく、空言めいた)書き方なのか、荀悦の置かれた状況を確認する必要があろう。

曹操のもとで「空言」する

荀悦は後漢の名士「八龍」の1人・荀倹の子である。叔父の荀爽も大儒である。建安元年、曹操は鎮東将軍となり、荀悦は曹操の幕僚となった。のちに荀悦は、孔融や荀悦ととともに「禁中で侍講」した。献帝に学問を談じ、顧問に当たった。
孔融と曹操は不和となり、曹操に獄死させられた。荀彧は曹操の魏王に反対したため、服毒させられた。荀悦は、曹操に重視されなかった。秘書監となり、侍中を加官された。図書や文籍を主管して、献帝の身辺の顧問をした。
名士の家に生まれたので、『後漢書』荀悦伝では、12歳で『春秋』を説き、性格は沈静で、容姿は美しく、著述を好んだという。だが世には用いられず、不遇をなげいた。もし荀悦が、時弊を批評して、政治の改革を主張していたら、曹操と衝突したはずだ。親しかった孔融や荀彧のように、曹操から罰されただろう。閑職にいて著述を好めば、理想論ばかりになり、実際的な議論はしなくなる。荀悦はひろく議論する。治国、君臣、修身と治学、問卦、養生、貨幣、肉刑、報仇、性の善悪、官僚の俸禄と考課、経学の今古文、讖緯の真偽など。しかし時局に批判はない。
明代の注釈の序文では、『申鑑』につき「孔融と荀彧は、時局を論じて曹操に殺された。だが荀悦だけは、優遊して寿命で死ねた。濁世で処世がうまかった」という。注釈した黄省曽も「荀悦は空言をやったから、寿命で死ねた」という。

荀悦の主張;『政道』との共通内容

『後漢書』荀悦伝は、荀悦が『申鑑』を書いて、献帝に提出して読ませたという。テキストのなかで「臣たる荀悦の叔父にあたる荀爽」とある。この「臣」という表現は、荀悦伝と整合する。
書名の『申鑑』の由来について、『申鑑』のなかに記される。道の根本は仁義である。五経は仁義について論じたものである。群書も仁義をいい、歌詠や舞踏も仁義をたたえる。仁義の道について、先人が明らかにしたことを「鑑」じ、後人は「申」すべきであると。つまり、儒家の主張である「仁義」につき、先賢を「鑑」みたことを、現代の我々が「申」すのだと。
『申鑑』は、儒家が言いがちな治国や君臣について論じているが、現実とは関係がうすい。

ぼくは思う。『申鑑』が抽象的でつまらないというのは、評価が固まっているのだろうか。儒家の典型を反復するだけだと。そんなモチベーションで、よく中華書局版の人は仕事ができたなあ。


荀悦は『易経』説卦にもとづき、「天の道を立てるのは、陰と陽である。地の道を立てるのは、剛と柔である。人の道を立てるのは、仁と義である」という。荀悦は『政体』のなかでも、陰陽は天の精気を統領し、剛柔は地の群物を分別し、仁義は人の事業を経営するという。同じことを言っている。
また荀悦は、「政事の大経は、法と教のみ」という。教とは、陽の化けたもの。法とは陰を符したものであると。

堀池先生は「教」よりも「法」が先に出ていることから、荀悦は法家の性質が、やや強めだと書いていた。

あとで荀悦は、法と教を、仁義礼信智らの概念につなげる。仁とは、これ法と教を慈しむこと。義とは、法と教を宜しとすること。礼とは、法と教を履み行うこと。信とは、法と教を守ること。智とは、法と教を知ること。
これらの儒家の主張を、荀悦は献帝に読ませた。献帝は「法と教」を具体的にどのように実行すべきか。荀悦いわく、善悪をみわけ、善き者には教を、善からぬ者には法を適用せよと。だが好悪の感情に流されると、善悪を判断しそこなうので、仁義によって「法と教」の使いどきを判断せよと。

ほかに荀悦は、古代の哲王の政事を参考にしろという。具体的には、天命をうけ、自ら規則をまもり、賢者をもちい、百姓をあわれみ、制度を透明にして、功業をたてろと。これによって、4つの患いを除ける。4つの患いとは、虚偽、私利、放縦、奢侈である。
また哲王を参考にすることで、5政ができる。5政とは、農桑で百姓をやしない、国家の風俗をただし、教化をおよぼし、軍備をととのえ、賞罰をあきらかにすること。

以上が荀悦『政論』で提出した、治国のポイントである。ちっとも具体的ではない。農桑に関して、荀悦はいう。皇帝は籍田を耕し、皇后は蚕を育てると。どちらも儀式について述べており、具体的な農法をいうのではない。ほかにも、儒家の理想ばかりで、ちっとも現実と結びつかない。9種類の国家について述べる話もあるが、国政を定める手段については、書いていない。

ぼくは思う。この「前言」は、とことん荀悦の抽象性をいうのね。具体的な方法以前に、荀悦がこんなわかりきったことを、わざわざ言わないと、献帝が維持できなかった、という状況の想定はできないのだろうか。


1編・政体;君主と臣下に課される理想

『申鑑』雑言上にいう。君主の患いは、つねに2つの困難の間にある。上にいて国家が治まらないという困難。国家は治まるが、感情を押し殺して、自らが疲弊するという困難。この2つの困難であると。
荀悦は献帝に、自己を抑制して、政事をして欲しいと思っている。
荀悦は『申鑑』政体でいう。聖王は己を屈して、天下を楽しませる。凡庸な君主は、己を楽しませて、天下を屈させると。君主はすべてが公であり、私的な「求・費・使・恵・怨」を持ってはならない。民を自分のように愛さねばならない。
『申鑑』雑言上でいう。殷湯は、日照のとき自己を犠牲にした。

ぼくは思う。いま伊尹を調べているので、旬な話題だなあ。

春秋の邾国の文公は、遷都するときに占って「遷都は、百姓には有利だが、文公は早死する」と出ても遷都した。斉国が日照のとき、斉景公は晏嬰にいわれて、屋外に宿泊した。荀悦のいう「民を自分のように愛する」とは、ここまで要請される。

『申鑑』政体中はいう。天下国家は、1つの身体である。君主は頭部で、臣下は股肱であり、人民は手足であると。君主と人民のあいだに、臣下がいる。
荀悦はいう。大臣も2つの困難の間にいる。在職して、忠直の道を尽くさねば罪である。忠直を尽くせば、君主とぶつかるが、それも罪である。正しいことを主張し続け、かつ主君との関係を良好にたもたねば罪である。矛盾することもあるが、どちらも達成せねばならない。
もし後漢末期に、荀悦の理想を実現しようとしても、実現できないだろう。

ぼくは思う。荀悦の理想論。「君主は百姓のため犠牲になれ。臣下は正論を述べ、かつ君主と衝突するな」と。『申鑑』中華書局版の解説は、実現性に乏しい理想論に批判的。だが「空論でしょ」という誹謗を予期しつつも、あえて自明で抽象的な理想を述べねばならない状況もあるはず。そういう時代として建安初期を眺めたい。
建安初期は、わざわざ、こんなことを言わねばならぬほど、後漢にとって事態が絶望的だった。荀悦だって、バカじゃないんだから(むしろ立派な儒者なんだから)空論が現実世界に対して、あまり効力を持たないことを知っていたはず。それでもなお、空論を述べねばならなかった。建安初期は、そんな状況なのだ。『三国志』で戦況や官制を追っていくだけじゃ、この空気までは感じ取れない。


2編・時事;土地と経済政策、州牧

『申鑑』時事は、当時の時務をのべる。21条ある。はじめ2条は総論で、のこり19条は個別の問題をいう。
荀悦は、商王の盤庚が遷都をした故事から説き起こす。盤庚は、旧都が奢靡なので、遷都をきめた。荀悦はこれを、古今に通用する「知を尚(たっと)び、敦を貴ぶ」方法とする。
19条にわたって、時務をのべるのだが、これは儒家がいつも言っていることに過ぎない。荀悦は時務というが、ちっとも緊急でない。

19条のうち、まだ具体的なのは、以下の条文である。
9条で、豪族が土地を兼併する問題について。「地を専らにするを議する」こと。富豪が土地を私有して、王公や諸侯よりも富み、みずから王侯に封じたにも等しい件。人々は土地の売買を自由になり、土地の権利を専らにする。古代の諸侯や卿大夫には、できなかったことである。
荀悦は「周代の井田制は、現代において回復できない」という。前漢末に王莽は、井田制にちかい王田制をやったが、失敗した。かわりに荀悦は「先に耕作した者に、土地の所有権を与えない。土地の売買を禁じろ」という。これは仲長統が『昌言』損益編で、井田制の復活をのべたのと同じである。荀悦は、井田制は現実的でないと言いながら、提案内容は井田制と同じである。ちっとも実現の可能性がない。

ぼくは思う。荀悦にきびしい!

荀悦は『漢紀』で、井田制について批評をくわえる。だが荀悦の解説する井田制は、古今の制度と違う。荀悦の井田制に対する理解は、不充分である。

官吏の人事考課と、昇格と降格について。
1条「考試を明らかにする」、2条「公卿は郡(太守)となるに拘さず、2千石は県(令長)となるに拘さず」と。

【拘】とらえる、とどめる。かかわる、固執する、制限する。束縛される。かたくるしい。
ぼくは思う。「拘」はとどめるの意味で読めばよいか。つまり、公卿であっても、太守となって(降格して)もよい。2千石であっても、令長となって(降格して)もよい。

査定にもとづき推薦し、業績にもとづき昇格させろという。もし公卿が太守にならず(降格されず)、2千石が県令にならない(降格されない)なら、いちど高官にのぼれば、職務ばザツになる。高官をきちんと働かせるためには、降格のルートが必要である。

官吏の俸禄について。漢代の俸禄簿は、同時代の仲長統や崔寔が論じている。俸禄の高い者が、汚職するのを防止せよという。
8条「禄を議する」にいう。俸禄は、官職と対応していなければならない。もし官職が高いが俸禄が低ければ、私利を稼ごうとする。ただし俸禄を高くする前提には、人民に衣食が行き渡っている必要がある。人民が貧しければ、俸禄を高めてはならない。汚職や俸禄ドロボウをなくせば、百姓は自然と富むだろうから、俸禄は自然と高まるだろうという。まず官吏の制度をととのえ、百姓をあわれめば、百姓が富むので、俸禄も自然とあがる。

ぼくは思う。会社に「給料をあげてくれ!さもなくば我々は汚職したくなる!」と要求したら、「キミたちの働きぶりが素晴らしければ、自然と利益があがり、自然と給料が上がるだろう。まずはがんばって働け」とかわされる。これが荀悦『申鑑』議禄編。

荀悦の認識は、仲長統や崔寔よりも、清醒である。

五銖銭の再開について。
献帝のとき董卓が錯乱して、五銖銭の通用をやめた。「銖」とは重量の単位で、24銖で1両である。劣悪で小さな銭を濫造して、物価があがった。荀悦は10条「銭貨を論じる」にて、五銖銭の利用再開をもとめた。のちに曹操が五銖銭を再開させた。荀悦の主張は、正しかった。

ぼくは思う。土地制度に関して、荀悦の主張は、理解があまくて、ボケボケという評価だった。だが、俸禄と貨幣について、荀悦は的確だったという評価である。荀悦は経済につよいのか。キャラのイメージと違う。というか、あんまりイメージもないけど。
わざわざ(得意でもないのに)土地制度に言及して、自爆するあたりが、荀悦の問題意識の高さが窺える。というか、荀悦は「異姓諸侯の封建に反対する」という立場である。土地を専権する富豪とは、異姓諸侯も同等であるというのが、荀悦の認識だった。
土地の問題は、経済政策という認識はなく、そもそも国家をどうするかという、根本の思想的なテーマだったのかも知れない。それなら、経済政策への鋭さと、井田制のボケボケの議論は、荀悦という1つの人間のなかで、矛盾なく同居できる。


州牧の割拠について。
4条「州牧を議する」にある。荀悦はいう。いま郡県の職は無常である(世襲ではなく、罷免がある)。権限は軽くて固まらない。だが州牧は、権限が重い。古代と異なる。つまり州牧は、各郡を統治する実権がある。古代の諸侯ですら、州牧ほどの権限がなかった。幹を弱く、枝が強い。つまり、地方行政が弱まり、治民に弊害がでていると。
漢制において、地方の行政機構の基本は、郡と県だった。州とは督察の単位である。もとは民政を治理する単位ではない。州牧は、もとは監御史だった。漢武帝が刺史をおき、治所をもうけたが、俸禄は太守よりも少なかった。漢成帝のとき州牧と改め、6百石から2千石に増やした。
霊帝から献帝のとき、州牧は郡政と民事をすべて、割拠するようになった。郡県の権限が軽くなった。

ぼくは思う。「州牧が強い」ことが問題ではなく、「太守や令長が軽い」ことが問題である。結果的に同じことを言っているのかも知れないが、漢制の基本単位が郡県だという点に着目すれば、「太守や令長が軽い」という問題設定のほうが、的を射ているのかも知れない。すなわち、有効な対策を打ちやすい、ものの見方なのかも知れない。

荀悦は、州牧をやめて、監察御史にもどしたほうが良いという。だが献帝の朝廷に、州牧を廃止して、監察御史にもどすだけの力能がない。

ぼくは思う。このあたり、献帝=曹操政権の性格とあわせて論じるべきだ。曹操は、州牧の権限をつかって、自分を強めたいと思っている。というか、周囲が州牧の権限で「割拠」しているので、同じように対抗せざるを得ない。
州牧による割拠と、たとえば戦国時代の諸国と比べたとき、なにが同じで何が違うんだろう。州牧は、漢代の制度に基づくものだが、漢代の制度とは、戦国の諸国の再発を防ぐものだったはず。後漢末の人々の、州牧に対する認識をさぐらねば。どこまでが戦国と同じで、どこが戦国と違うのだろうかとか。


3編・俗嫌;道家の養生と錬丹を否定

当時の嫌忌と、神を求め、福を祈ることについて。道教の迷信など。おおきく2つに分類できる。

1つ、神を求め、卦に問う。
荀悦の認識では、占卜の吉凶は「徳」の有無を判定する。徳がある者が占卜すれば利益があり、徳のない者が占卜すれば損失がある。徳があれば、占卜の結果が良くても悪くてもがんばれる。徳がないと、良い結果にあまえ、悪い結果をみとめない。占卜の吉凶は、けっきょく人間がきめる。努力しなければ、悪い結果になる。
また時辰や方向は、天地の数(天地の運行にかんする自然の理)であり、吉凶が生み出すものではない。たとえば、咸陽の地では、殷が滅びて周が興り、秦が滅びて漢が興った。どちらもおなじ甲子の日である。咸陽の地、甲子の日が、吉凶を決めるのではない。そこで、そのとき、人間が何をするかによって決まる。
荀悦はいう。人は天地の気を受けて生まれた。行動は天地の理にしたがう。季節や天体の運行は決まっている。内心も行動も、天地に従うべきである。もし天地の理に従わずに福を求めたら、悪運がおとずれる。
荀悦は「天人相応」をいう。ただし占卜と上天の報応を否定しないが、人事を尽くせと強調する。

ぼくは思う。天地が運命をすべて決めるとも言わない。人間が運命をひらくのだが、運命の開く方法は「天地に従うこと」である。これはチェスに似ている。チェスにはルールがある。だが、勝敗はプレイヤーの裁量に委ねられる。プレイヤーが勝つ方法は、ただチェスのルールに平身低頭して従うことである。これは自由意志の否定じゃないし、屈辱や挫折ではない。しかし、ルールのなかでしか、勝つことはできない。自由であり自由でない。これは矛盾じゃない。


2つ、道術を修錬する。
道教は、後漢で発生した信仰団体である。道教の教義は、科儀と方術である。荀悦は儒家の観点から、道教のいう養生術や錬丹術を批評する。養生術と錬丹術は、後漢で流行した。
荀悦はいう。「養生するには、中和の道を守ることだ」と。これは儒家の中庸のことである。7情と6欲をほどよく保つ。喜怒哀楽も衣食住も、ほどほどに。また道家のやる体操は不自然な動きだから、良くないという。道家が健康なときに飲むクスリは、余分だという。米や肉を食べずに、クスリを飲むのは身体に悪いという。
道家は「黄白」術といい、薬物をつかって錬丹して、ナマリを金銀にかえる。荀悦はこれを不可能だという。土の瓦から、金属の銅をつくるのもムリである。

ぼくは思う。『申鑑』は、政体、時事、俗嫌の3つが、テーマをしぼった議論。4編と5編は、雑言の上下である。つまり、おもな議論は、いちおう要約されたことになる。それなりに詳しく抄訳したので、大意はつかんだはず。


4-5・雑言;性質が感情として表出する

孔子は『論語』陽貨で「性質は近いが、習慣は遠い」という。先天的な人間の性質は、だいたい同じである。だが習慣に染められて、差異が生まれると。
『孟子』は性善といい、『荀子』は性悪をいう。戦国期から漢代をへて、唐宋まで、この議論は続けられた。
荀悦は『申鑑』雑言下でいう。性善説には、4凶がたりない。性悪説には3仁がたりないと。性善説をとるなら、堯舜期にいた、共工ら 4人の悪者の説明がつかない。性悪説をとるなら、殷紂期にいた微子ら 3人の仁者の説明がつかない。
人の性質に善悪はない。堯舜や周文がすぐれた教化者なら、この時代に悪者がでるはずがない。人の善悪を論じることに、意味はない。

それを言っちゃあ、おしまいだと思うけど。


前漢の劉向は「性は善だが、情は悪である」論を批判した。性質と感情は、相応する。性だけが善くなることはないし、情だけが悪くなることもない。荀悦は、この劉向に賛同する。人の愛好と憎悪は、性質によって決まる。その性質は感情として表出する。

ぼくは思う。「性」を性質、「情」を感情と、イメージしやすくするため、2字熟語にした。ぎゃくに、意味が分かりにくくなったかも知れない。


「すべての人間は利益を好み、仁義によって節制する」という意見がある。「もし性質を抑制できず、感情にまかせて行動すれば、人間は不善をやる」という意見がある。
荀悦はこれに対して、荀悦は批評をくわえる。人間のなかには、善悪がどちらもある。善悪のどちらが多いかにより、表出する行動がきまる。義を好む性質と、利を好む性質が共存しており、より強いほうが表出する。
いっぽうで荀悦は、善しかない「智をとうとぶ」者と、悪しかない「悪をいだく」者という極端な人間を設定する。一見すると、善悪が共存するという荀悦の意見と矛盾する。極端な人間とは、『漢書』古今人表の「上上」と「下下」に該当する。つまり、最高と最低、1品と9品である。
だが荀悦の議論は、矛盾しないのだ。大多数の人間は、この2つの極端のあいだにいる。2品から8品の人間が、荀悦の議論の対象である。2つの極端のあいだにいる者は、教育と法律によって、善導できる。『申鑑』政体で荀悦がいった「政事の大経は、法と教である」と一致する。

おあとが宜しいです。


以上。いよいよ本文を読みましょう。130525

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付録:序跋提要、評論三則(作成中)

『申鑑』注序(四部叢刊)

また後日やります。130525

胡三省の評論は、
荀悦は能力があったが、それを活かすチャンスがなかった。荀悦は正しいことを書いて、後世の参考になった。荀悦は漢家の忠臣だなあ!という話だった。

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