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考察:劉備はなぜ夷陵に出兵したか

キンドルで、電子出版みたいなことがしたいなーと思い、
いつもより読みやすい(というか、読まれるに堪えうる)文章を書こうとした。
でも、キンドルでプレビューしたら、読みにくかったので、ここに載せます。
キンドルは、もっとライトに書かないと、媒体に合わない感じだった。

劉備はなぜ夷陵に出兵したか
-皇帝即位の精神病的な観点-

はじめに

三国志には、興味を掻きたてられる、おおくの問題がある。
その問題のひとつは、劉備がなぜ荊州に出兵し、夷陵の戦いを起こしたかである。
これに対して、いくつもの回答が用意されてきた。細かな差異を無視すると、次の二つに分類できるだろう。
関羽の報仇のため
荊州の奪還のため
二つの意見は、互いに排除しあうものではない。つまり、劉備の意図を「関羽の報仇もしたいし、荊州の奪還もせねばならない」と両論併記的に推測することも可能である。しかし、ただ二つを並べるだけでは無責任であろう。どちらかに重点を置き、その理由を肉づけして初めて、議論が始められるのだと思う。
なぜ出兵の動機が、議論のテーマになるのだろうか。
劉備の判断が、不可解だからである。「もし自分が劉備の立場だったら、荊州に出兵して当然だ」と誰もが思うのであれば、この件は問題として認識されない。「もし自分が劉備の立場であっても、荊州に出兵しないだろう」と考える人が多いから、議論のテーマになるのである。
より厳密に言おう。
「自分が劉備なら出兵しない。それだけでなく、自分以外にも、劉備の出兵を不審がる人がいるだろう。だから出兵の理由について論じねばならない」
こう考える人が一定数以上いたから、この件は問題として存在しているのである。

ぼくは、①と②のどちらにも含まれない仮説を一つ追加したい。
劉備は、皇帝に即位したから、荊州に出兵した。
これがこの本の結論である。
ぎゃくに言えば、皇帝に即位しなければ、荊州への出兵はなかった。少なくとも、夷陵の戦いのような、大量の兵数を動員し、かつ長期間にわたって滞陣し、孫呉と直接対決するような戦争は起きなかったはずである。  このように考えるに到った理由を、順を追って説明していきたい。

1.関羽報仇説

ぼくなりの意見を述べる前に、①関羽の報仇のため、②荊州の奪還のため、という説に検討を加えたい。①を関羽報仇説、②を荊州奪還説とよぶ。

①関羽報仇説を唱えるものの代表は、『三国演義』である。
具体的に『三国演義』に即して、経過を追ってみよう。テキストは、『三国演義』毛宗崗本に基づく。立間祥介氏の翻訳を参照し、必要に応じて抄訳する。(『三国志演義』徳間文庫、二〇〇六)
第八十回の最後で、諸葛亮は劉備に皇帝即位を勧める。
諸葛亮いわく、「漢中王の劉備は、四海を平定し、功徳は天下にあまねし。漢家の宗室なので、皇帝に適任である。神々の意思を辞退してはならない」と。
劉備は皇帝に即位した。
早くもその翌日、百官から祝福された席で、劉備は出兵の意思を語る。
「桃園において、関羽と張飛と生死をともにすると決義した。関羽は孫権に殺された。国を傾けるほどの兵を出してでも、孫権を捕らえねばならない」
つぎの第八十一回の冒頭から、趙雲が劉備を諫める。
「国賊は、曹操と曹丕である。関中から曹魏を攻めれば、関東から歓迎されるだろう。だが孫呉を攻めれば、事態の収拾がつかない」
だが劉備は「孫権の肉を食らい、族殺せねば恨みが晴れない」と言う。趙雲は、公私を混同せぬようにと説得を重ねるが、聞き入れられなかった。
重臣たちが丞相府に集まり、諸葛亮に「劉備が皇帝に即位してから日が浅いのに、出兵するのは適切でない。諸葛亮から諫めてほしい」と訴えた。
これを受けて諸葛亮は、劉備を説得した。
「曹魏を討伐するのであれば、皇帝たる劉備が親征してもよい。だが孫呉の討伐に、劉備が親征すべきでない。将軍を派遣すれば充分である
劉備は思い留まりかけたが、張飛に泣きつかれ、親征を決意した。
つぎに秦宓が「皇帝に即位して、国家の基礎を固めたが、劉備はそれを無にしようとしている」と諫めたため、投獄されてしまった。
諸葛亮が秦宓を救うため、劉備に文書を提出した。
「関羽が孫呉に殺されたのは、悲しむべきことである。だが漢家の滅亡は、曹魏の罪であって、孫権の罪ではない。もし曹魏を排除すれば、孫呉は自然と屈服するだろう。どうか秦宓の言うとおり、孫呉への出兵を思い留まりなさい」と。
劉備は一読し、諸葛亮の文書を地面に叩きつけ、軍事行動を開始した。
以上が夷陵の戦いに踏みきる場面である。

『三国演義』は三国時代を知るための、歴史資料(史料)ではない。おおくの伝承をふくむ物語である。歴史的な事実を、『三国演義』から収拾することはできない。しかし、三国志がいかに読まれてきたか、という解釈の問題について考えるとき、無視のできないテキストだと考える。
よく言われるように『三国演義』は、後漢から三国時代の歴史的な事実に題材をもとめた書物である。陳寿『三国志』をはじめとした史料を土台としながら、さまざまな趣向ないしは虚構を織り交ぜて、ひとつの物語が組み上げられた。
ときに『三国演義』は、史料に出典のない(もしくは出典の怪しい)因果関係を設定する。なぜか。歴史的な事実をやみくもに羅列しても、読者(成立段階においては聴衆)がストーリーを理解できないからであろう。関羽報仇説は、『三国演義』がぼくらに提示してくれた仮説的な因果関係の好例である。
劉備は関羽の報仇のために、荊州に出兵した。このような解釈で、事件のあいだをつなぐことにより、物語は心地よく受容されてゆく。
三国ファンは(ときには本職の歴史学者であっても)、『三国演義』に親しみ、三国志に関する第一印象を形成するだろう。もしくは、『三国演義』を類型的に発展させた諸作品に触れて、第一印象を獲得する。三国志を初めて知る者は、かならず関羽報仇説に出会うに違いない。ここに描かれた劉備の心情を、「まるで真実味がなく、的外れである」と全否定する三国志の読者に、ぼくは会ったことがない。

『三国演義』という長編は、桃園決義から始まる。劉備、関羽、張飛が、兄弟の契りを結んで、同年同月同日に死のうと誓う。
商品として整えられた、近代の小説に慣れている読者は、『三国演義』は桃園決義を成就させる物語に違いないと期待する。少なくともぼくは、劉備たち三人が天下統一をする結末を期待した。劉備が好きだから期待したのではなく、物語の形式が、そのような結末を要請するに違いないと考えたのだ。
この期待に応えるように、『三国演義』の前半は、劉備たち義兄弟が中心的に描かれる。「ただ義兄弟のことだけ、書いてある」とすら言える。曹操は、義兄弟に試練を与える脇役に見える。諸葛亮ですら、当初は義兄弟のあいだに闖入したノイズである。
『三国演義』第八十回で、関羽を孫権に殺された劉備が、報仇の戦役を宣言した。物語の伏線を回収するため、きわめて自然な流れである。桃園決義によって物語の舞台に登場した劉備は、関羽の死と折りあうことはできないのだ。折りあえば、キャラクターの魅力が消滅してしまうからだ。
第八十一回では、劉備への諫言が反復される。趙雲、諸葛亮、秦宓、ふたたび諸葛亮が、出兵に異議をとなえた。桃園決義を、キャラクターとしての存立要件としてもつ劉備は、諸葛亮からも説得されてはならないのである。

ここで思考を活性化させるため、あえて詭弁を使ってみよう。
はじめ『三国演義』の編者は、劉備が夷陵に出兵した原因を、関羽の仇討のためだと考えた。この解釈を立証するために(ただ立証のためだけに)、大量の文字数を費やし、『三国演義』前半における義兄弟の物語を描いてきた。劉備が諸葛亮を退けて出兵する場面は、編者が長い伏線を書いてきた末に、やっと収穫された成果物であると。
さすがに極端な想定である。
自分で書いておきながら、ぼくは「そこまでは言えないだろう」と直感する。
ところが、『三国演義』の内容と矛盾するわけではない。ぎりぎり通り抜けられない道でもない。このような詭弁すら立てられるほど、『三国演義』には、関羽仇討説を納得させるための伏線が刻みつけてある。劉備は、関羽の仇討に向けて収束するキャラクターなのである。
以上が、関羽報仇説の中核にある『三国演義』の内容と読解である。

2.荊州奪還説

夷陵に出兵した主要な動機を、関羽の報仇でないとする意見もある。ぼくはこれを、②荊州奪還説と名づけた。
政治・経済・軍事の戦略において、荊州は蜀漢にとって重要な領土である。蜀漢は、荊州を領有しなければ、政権が立ちゆかない。夷陵への出兵は、劉備の私情とはべつの次元で理解すべきである、という考え方である。
たとえば中村圭爾氏は、「”用武之国”の戦略分析、関羽の拠る荊州は天下の趨勢にどう影響したか」(歴史群像【中国戦史】シリーズ、諸葛孔明の戦いと秋風五丈原『真三国志』三、学習研究社、一九九八)において、荊州の重要性を強調した。いわゆる専門書への寄稿ではないが、「関羽の報仇でない」解釈を、充分に代表する内容だと思われる。
中村氏の議論を確認しておく。

蜀漢は、諸葛亮が劉備に開陳した「草盧対」の戦略に基づいて、荊州を重視する。諸葛亮は、劉備が荊州と益州を領有し、荊州から宛洛を攻め、益州から秦川を攻めることで、曹操を打倒できると考えた。諸葛亮の認識において荊州は、北に漢水、南に南海、東に呉郡と会稽、西は巴蜀に通じるため、「用武の国」である。荊州は、劣勢の劉備が曹操に対抗するための、唯一の拠点である。
いっぽうの孫呉では、甘寧が孫権に、荊州と益州を攻めとるよう進言した。甘寧の認識において荊州は、山地の形勢、河川の流通が有利で、孫呉の領土の上流に位置するため、死命を制する地域である。
孫権は、上流に進出し、長江に拠って天下を争おうと考えている。荊州に関羽がいることは、孫呉の戦略にとって絶対に相容れないことであった。ゆえに孫権は曹魏と結び、呂蒙が関羽を敗亡させた。
関羽と荊州の喪失は、劉備にとって打撃である。「草盧対」の戦略の実現を不可能にする事態だからである。
くわえて、益州の劉備政権にとって、荊州は「絶対防衛線」であった。
劉備が益州を獲得した経緯から見れば、劉備の入蜀は、荊州人による益州の侵奪に過ぎない。荊州人士の本拠地として、また益州の支配の根源として、荊州はなくてはならない土地である。荊州の奪還は、劉備にとって当然の方策でなければならない。
夷陵の戦役は、どのような意義をもつか。
東征に反対したのは、趙雲である(裴注『趙雲別伝』)。諸葛瑾も書簡にて、東征を思い留まるように説いた。諸葛亮の立場が奇妙である。諸葛亮伝は、この時期の記事が空白である。法正伝には、諸葛亮が「法正が存命なら、劉備を東征させず、東征しても惨敗させなかっただろう」と語ったという記事がある。『資治通鑑』に胡三省が付した注釈では、諸葛亮は東征に反対だが、激怒する劉備に反対できなかったと推測されている。
曹魏の劉曄のように、劉備と関羽は君臣であるが、恩義は父子も同然だから、劉備は復讐をするだろうと考える者もあった(劉曄伝)。
劉備の怒りは、関羽との関係性によるものであるが、荊州の戦略的な重要性もまた、東征を敢行させる原因となった。東征は、荊州の奪回を目指したものであり、その意図は正当と言わざるを得ない。相当の代償を払ってでも、遂行せねばならないものだった。
荊州に対する劉備の認識は、諸葛亮の「草盧対」に基づくものである。諸葛亮が東征に賛成であった可能性もあるだろう。
以上が中村氏による、②荊州奪還説である。

3.関羽報仇説からの発展の方向性

ぼくは、①関羽報仇説にも、②荊州奪還説にも合意する。前者は心性に訴えかけ、後者は理性に訴えかけ、どちらも真実味がある。ただし、両者が言い尽くしていない、見落とされた領域が、まだ残っている。
『三国演義』は、①関羽報仇説の主要な提唱者であるが、物語のなかで、劉備が出征を決心するのが、皇帝に即位した翌日であったことに注意したい。
じつは、劉備が出征を決心するトリガーは、関羽の死ではなく、皇帝への即位なのである。関羽が死んでから劉備は、わりと長い期間、出征をせずに堪えていた。劉備の激憤を予期してた読者は、思わぬところで「待たされる」のである。

関羽の死から、劉備の出兵までの経過を追ってみよう。
関羽が死ぬのは、『三国演義』の第七十七回である。
劉備は同じ回のうちに、関羽の死を知ることになる。劉備は昏倒した。同じ第七十八回のうちに、劉備は荊州への出陣を主張するが、諸葛亮の諫めによって納得してしまい、招魂の儀式を行って、いちど落ちつく。劉備が、前後を見失って関羽の報仇をすべきキャラクターならば、この鎮静は相応しくない。
つぎに場面は曹魏に切りかわり、曹操の死にまつわるエピソードが描かれる。曹操の死は重要な事件である。劉備の出番がなくなるのは、仕方がないだろう。
つぎの第七十九回で、曹丕が魏王に即位したのち、蜀漢にカメラが戻ってくる。廖化が「関羽が死んだのは、劉封と孟達のせいである」と告発したため、劉備が二人を捕らえようとした。そこに、諸葛亮が口をはさむ。
「処置を急いでは、劉封と孟達に謀反を促してしまう。二人を太守に任命して、まずは引き離しなさい。時間をおいてから、捕らえたほうが良い」
劉備は冷静にも、諸葛亮の提案を認めてしまう。関羽が死んでから、すでに『三国演義』で二回分も経過しており、関羽を陥れた者を、太守に任命するだけの余地がある。劉備は、落ちつきを取り戻したかに見える。
諸葛亮の目論見は失敗し、孟達は曹魏に降伏してしまった。劉備は、「孟達から笑い物にされた」と怒るが、それでも諸葛亮の提案に聞く耳をもつ。
諸葛亮が言うには、
「劉封に孟達を攻撃させ、共倒れさせなさい。劉封が孟達に勝とうが負けようが、成都に帰還したのちに斬ってしまえばよい」と。
劉封は孟達を攻めあぐね、成都に撤退してくる。劉封は弁明した。
「私が関羽を裏切ったのではない。ほんとうは関羽を助けたかったが、孟達に妨げられたために、援軍を出せなかった」
これを聞いた劉備は、劉封の言い訳に怒って、彼を斬ってしまう。
のちに劉備は、劉封に関羽を救援する意図があったことを知り、処刑を後悔した。劉備は、関羽を失った哀しみと、劉封を殺した後悔のために、病気になった。出陣は、しばらく延期になった。
前述のように、第八十回の最後で、劉備は出兵を決意し、第八十一回で正式に決定される。関羽が死んでから、四回分も時間がかかってしまった。『三国演義』孟宗崗本は、全部で百二十回である。そのうちの四回も費やしていては、時間がかかり過ぎである。

『三国演義』が悠長に出兵を先送りするには、二つの理由があるだろう。
一つは、関羽の死から劉備の出兵までのあいだに、曹操の死とその後継争い、曹丕の皇帝即位(漢魏革命)という、特大のイベントがあるからだろう。蜀漢の話は、一時停止をせざるを得ない。
二つは、史実および正史『三国志』による制約である。
関羽が死んだのは、建安二十四年(二一九)であるが、劉備が出兵したのは、蜀漢の章武元年(二一一)秋七月である。つまり、二年の隔たりがある。いくら『三国演義』が虚構を織り交ぜた物語であっても、史実および正史への依拠が原則である。二年もブランクがあっては、物語のタイムテーブルも、間延びしたものにならざるを得ない。
虚心坦懐に『三国演義』を読んだ場合、劉備が出兵するトリガーは、関羽の死そのものではなく、劉備の皇帝即位であるという印象が深まる。なぜなら、関羽の死を知ったあとの劉備は、招魂の儀式によって精神をしずめ、諸葛亮の諫言に聞く耳をもち、孟達を放任するような持久戦を認め、劉封の死を後悔するほどの余裕があった。しかし、皇帝に即位した途端、諸葛亮の制御をはなれて、暴走を開始した。諸葛亮が、何度も明確に反対しているにも関わらず、劉備は出兵に踏みきる。
中村氏が述べるとおり、史実の諸葛亮は、劉備に反対を唱えたという記事がない。しかし、いまは『三国演義』の話である。神算鬼謀の天才軍師であるはずの諸葛亮が、突如として劉備を制御できなくなる。それが、皇帝即位のタイミングなのだ。
『三国演義』では、劉備の皇帝即位と出兵の決意が時間的に過度に密着していた。おそらく編者は意図しなかったであろうが、即位と出兵のあいだに、つよい因果関係を想定させる物語の運びであった。物語の虚構のなかに(物語の虚構だからこそ)、かえって真理が浮かびあがる。そんなこともあると、ぼくは思う。

史実はどうであったか。
『三国志』先主伝において劉備が皇帝に即位し、年号を章武と改めたのは、夏四月である。五月に皇后と太子を立て、六月に子を王に封じた。秋七月に出兵するから、三ヶ月があいている。準備期間を考慮すべきだろうが、『三国演義』ほど、皇帝即位と出兵の決意が密着しているわけではない。
皇帝即位と出兵の決意を結びつけるという着想は、関羽報仇説の源泉であるはずの『三国演義』から、偶然かつ間接的に獲得されるものである。

4.荊州奪還説からの発展の方向性

蜀漢にとって荊州の重要性は、強調しても強調しすぎることはない。②荊州奪還説を退けることは、とても難しいだろう。
すると新たに疑問になるのは、関羽の死から出兵まで、なぜ二年間のあいだ、荊州の喪失を放置しておいたかである。当然ながら準備が必要なので、関羽が死んだ瞬間に出兵するのは無理であろう。しかし劉備の戦歴と比べたとき、二年ものブランクは相対的に長いのである。
正史『三国志』に基づいて、劉備の戦歴の間隔を確認する。

 建安十三年、八月に劉表が没して荊州を脱出、十一月に赤壁の戦い。
 建安十四年にかけ、荊州南部の四郡を征圧。
 建安十五年、周瑜の益州攻めへの参軍を断る。
 建安十六年、劉璋に依頼され、軍を率いて益州に入る。
 建安十七年、劉璋と戦闘開始、葭萌から涪県に進む。
 建安十八年、劉璋軍をやぶり、綿竹に迫る。
 建安十九年、諸葛亮と張飛らが益州に入り、五月に成都を征圧。
 建安二十年、荊州をめぐり孫権と衝突、張飛が巴中で張郃に勝利。
 建安二十二年、張飛と馬超が、漢中で曹洪と戦闘。
 建安二十三年、曹操が長安に移動、陽平関で夏侯淵と対峙。
 建安二十四年、正月に夏侯淵を斬る。八月に関羽が樊城を囲むが、十二月に敗死。

ここに見たように、劉備は何らかの戦闘を起こしている。建安二十一年に大きな戦いはなかったかも知れないが、漢中にとどまった曹操軍との対峙が続いている。交戦中と見なしても良いだろう。
ぼくは、「劉備の勢力が、連年の戦闘ができるだけの充分な経済力を持っていた」と言いたいのではない。戦闘ごとに、消耗したはずである。戦闘をやめないのは、状況に強制されたからであり、積極的に戦争を好んだとは言えまい。
ともあれ劉備にとって、連年の戦闘が少なくとも不可能ではなかったようである。これが確認できれば充分である。
のちの諸葛亮の北伐においても、緊密なスケジュールで行われる。

 建興五年、諸葛亮が漢中に進出。
 建興六年、祁山を攻撃するが、馬謖が街亭で敗走。十二月、陳倉で郝昭を包囲。
 建興七年、陳式が、武都と陰平を獲得。
 建興八年、曹真と司馬懿らに攻められるが、防衛。
 建興九年、祁山を包囲するが、李厳の補給が足りずに撤退。
 建興十一年、冬、斜谷に軍糧を集積。
 建興十二年、五丈原の戦い。

諸葛亮は、劉備に負けず劣らず、連年の戦闘をやっている。諸葛亮の行政手腕や、南中の平定などの条件をカウントすべきであるが、ともあれ蜀漢にとって、連年の戦闘は必ずしも不可能でないことが判明する。
このように、連年の戦闘をやり得る蜀漢が、関羽の死後、なぜ荊州を放置していたのであろうか。軍隊の編成や供給の観点だけからは、明確な理由を見つけがたい。
関羽の死後、いくら曹操が孫権を「領荊州牧」としたところで、名目上の話である。孫権による支配が定着する前に、迅速に攻撃したほうが、荊州を奪還をしやすかろう。呂蒙も同時期に死ぬのだから、防衛がゆらぐ可能性がある。曹操の死によって中原の政局が混乱したかも知れないが、劉備には好機である。

劉備が、中村氏の言うように「絶対防衛線」として荊州を重視するなら、一刻も早く、出兵すべきであった。従前と同じ間隔を刻むなら、すぐに荊州に攻めこむことも、充分に想定できる。劉備なら、やりそうな差配である。

関羽が死んでも、益州の劉備軍は傷ついていない。また二年間のうちに、劉備の軍隊が格別に補強されたという事実を、史料から見つけることができない。また二年間のうちに、荊州の孫権の軍隊が損傷したという事実を、史料から見つけることができない。以上のことから、「関羽が死んだ直後には静観せざるを得なかったが、二年のブランクを置いて動き出す理由」を、見つけることは難しい。
この点については、網羅的に史実を集めて検討する必要があるだろう。
ただし当面のところ、ぼくは、二年のブランクを説明できるような、軍事的・経済的な理由を言い当てることができない。荊州の奪還は重要には違いないが、それ以外の理由を追加すべきではないかと考える。
ぼくがタイムテーブルから発見するのは、劉備の皇帝即位という画期である。

 

5.皇帝即位説の提示

これまで、①関羽報仇説、②荊州奪還説について、それぞれ内容を確認した。両者に特段のおおきな問題点は認められない。しかし、さらに別の観点から出兵の原因を説明できないかと、拡大の可能性を検討してきた。
劉備が皇帝に即位したからこそ、荊州への出兵が行われた。ぼくはこれを仮説として唱えたいと思う。③皇帝即位説と呼ぶことにしよう。

中国史に限ったことではないが、「君主の地位を獲得すると、どんな人物であっても、パターン化された愚かな行動を取ってしまう」という特徴が見られる。その信憑性を論証するため、帰納的に事例をあげる。
前漢の劉邦は、天下統一後に功臣の粛正をはじめた。王莽は、天下に祝福されて禅譲を受けたはずなのに、即位後は政策が当たらなくなる。後漢の劉秀は、即位後に失敗をしなかったことで(失敗しないだけで)、稀有の名君として称えられるほどである。
曹操は皇帝に即位しないため、晩年を穢さなかった。だが曹丕は、孫呉との外交と戦争に失敗した。曹叡は奢侈を戒められる君主となった。
孫権は、現実路線の外交政策により生き残ったが、皇帝に即位したのち、海外に派兵して人民をあつめ、公孫淵に使者をだして出しぬかれ、後継問題を起こした。孫晧は、末期の孫呉の危機を救うために選ばれたが、目玉をえぐる暴君と化した。
司馬炎は、孫呉を平定したのち、弟の司馬攸と対立して官僚の支持を失い、凡庸な司馬衷を後継者とし、後宮の人数を異常に増やした。外戚の楊氏や賈氏など、政乱の原因を残して崩じた。やっと三国が統一されたのに、残念な結末である。

人格に魅力があり、政治の手腕がすぐれ、機智を輝かせた人物が、創業者もしくは継承者として、君主に即位する。即位した途端、悪い方向に豹変して、愚かしい行動を始める。もちろん例外もあるが、豹変の事例はいくらでも発見できそうである。
調子や様子の狂いかたは、個別の君主ごとに違うが、どこか似ている。「暗君」や「暴君」のやることは、バリエーションに乏しい。独善的で近視眼的である。
この本の主題である劉備も、同じ傾向をもっている。
長年にわたり連敗しながら、劉備は、しぶとくも後漢末を生き抜いた。ほとんど原資をもたずに挙兵して、益州と荊州を領有し、皇帝に推戴された。だが、皇帝に即位した直後から、(軍事や経済の情勢は好転が見られないのに)いきなり荊州に出兵し、だらだら滞陣し、放火されて陸遜に大敗し、失意のうちに死んだ。典型的な、皇帝即位による「劣化」の事例として数えられよう。
これが、③皇帝即位説の概要である。

では、なぜ皇帝に即位すると、長所が損なわれるのだろうか。この問いかけに対する回答が、この本の要点である。
「どの皇帝も、独善的で近視眼的である」という主張は、おおむね当たっていようが、その特徴を指摘するだけでは、新規性がない。すべての歴史の読者は、漠然と「どの皇帝も、愚者に転落しがちだ」と気づいているだろうから。
ぼくの皇帝即位説を支えるのは、二十世紀のフランスの精神分析家、ジャック=ラカンの知見である。より具体的には、ラカンの『エクリ』Ⅰの冒頭に収録された、「『盗まれた手紙』についてのゼミナール」 を基礎にしている。
ラカンは、エドガー・アラン・ポウの小説『盗まれた手紙』を題材として、精神分析の理論を説明した。 次節では、ポウの小説を参照する。小説の引用は退屈になりがちなので、最小限の紹介に留めるよう努力する。つぎに、ラカンの言説のなかから、本論に関係のある部分を抜粋する。議論が抽象的にならぬよう、三国志に引きつけて論じる予定である。

6.ポウ『盗まれた手紙』

と、紹介すべきところで、飽きたのでした。130425

関連するページはこちら。
ポー『盗まれた手紙』を曹魏に換骨奪胎する
『現代思想のパフォーマンス』ラカンと漢魏革命
既存のページでは、意味不明だと思ったので、この原稿を作ったのだが、飽きてしまうとは。キンドルという媒体が、イメージするほど「わくわく」しなかったので、この結末です。

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ぼくらの世代の後漢論;官爵の経済

13年のGWに考えたこと。

「袁術はなぜ失敗したか」とは、
「曹丕はなぜ成功したか」と同一の問題です。
同じ問題の言い換え、表裏に過ぎません。
つまり、片方の答えがでれば、自動的に、もう片方の説明にもなっている。むしろ、もう片方の説明にならないような仮説なら、それは「不充分な仮説」に過ぎません。ぼくにとっては、「誤った仮説」ですらあります。

数年来のテーマ「袁術本紀」をまとめるには、「後漢はどんな社会であったか」という見通し(歴史観)が前提として必要です。西暦190年代だけなら史料を網羅的に切り貼りするだけで、それなりに「おもしろい」ものはできる。史料が散らかっているから、それを袁術を主軸にして、まとめ直すだけで、「何か新しいことが見えてくる」ような気がする。
だが初代の袁安はともかく、祖父の袁湯あたりは見通しありきで編纂せねば、退屈になる。袁湯のために、歴史観がいる。

袁安は、記述がわりに詳細であり、単線のストーリーを描ける。出世物語となる。すぐれて道徳的な行動と、ただしい政治的な判断を反復することで、階層をのぼってゆく。わかりやすい。
しかし袁湯が、正体不明である。
おそらく、范曄による(意識的か無意識かは判断が難しいが)隠蔽がある。べつに後世の読者をいじめるために、墨を塗りつぶしたんじゃなかろうが、わからない。


矢野主税氏の論文を読んでいると、「知りたいのはそこじゃない」けど「じゃあどこをどう知りたいのか、には答えられない」という、もどかしい気持ちになる。
矢野氏が挑戦されているあたりが、自分にとっても、問題意識の中心だろうという予感は鮮明。自分なりに、後漢から魏晋へのビッグピクチャーを獲得せねば、史料を帰納的に読んでも苦いだけになってきた。
ぼくの世代(物心ついたときから不景気)による「後漢魏晋論」はどんなか。と考えると、資本主義へのガッカリ感が根底にくる。この世代感覚をもとに、「後漢魏晋論」をやれば、先行する世代とは、違うものがつくれる気がする。

べつに「つねに歴史観を更新すべきだ」とか、「各世代は、各世代なりの歴史観を獲得しなければならない」とか、そういう焦りは必要ないと思うのです。「更新すべきだ、洗練させるべきだ」という焦りこそが、ぼくらが「前の世代の遺物」としてカウントするものだし。というか、第一次世界大戦のヨーロッパまでのものかw
「歴史観を更新すべきだ」と思っている人は、暗黙のうちに「先行する世代より、自分たちのほうが賢い」と思っているだろう。もしくは、業務上の要請から、そう思わざるを得なくなっているだろう。だがぼくは、べつに先行研究を「批判すべき」なんて思わない。ぼくなんかより、はるかに立派な方々の仕事なんだから、ありがたく拝読して、自分なりに史料を読む参考にさせていただこうと思う。
しかし、自分なりにつくってみたいという気持ちは、三国ファンとして、なくはない。ものづくりは、楽しいから。


後漢の官爵は、ぼくには貨幣に見える。はじめ市場取引は、経済活動の数ある1つに過ぎなかった。だがある瞬間から暴力的に世界を画一化した。カール・ポランニーが活写するとおり。
すなわち、多彩な経済活動が、貨幣の交換に収斂する。経済的な威信は、貨幣に換算した多寡で計測される。この過程は、後漢で完成する秦漢帝国の官僚制度に似ている。つまり、多彩だったはずの人間関係が、官爵の付与と高低に収斂された。官僚を輩出する地域が拡大(益州とか)するのは、資本主義の範囲拡大に似てる。東晋次の論文にあるように。
これは、後漢の支配の浸透とか、益州の人士の成熟とか、プラスの側面で捕らえることができる。しかし、「みんな後漢のために働きたい」「後漢のなかで高い地位を得たい」と思っていたのか。そうなることが、良いことなのか。
そういう、なかばドロップアウトした者が立てそうな問いを、ぼくらは立てたくなってしまう。そういう世代の気分なんじゃないかなあ。

渡邉義浩先生は、官爵の外部に「文化資本」を基盤とした「名士」が登場するとされるが、因果が逆かも。元来は、政治・文化・経済などの多様な尺度で人間関係を構築した人々がいた。いちど官爵に収斂した(かに見えた)。だが全てを単一の尺度のもと、単種のリソースを奪いあうなんて人類史的には異常である。異常は、ほっといても是正される。
もともと「文化資本」も含めて競い合われていた、諸社会階層の動きが、いちど官爵の経済に収斂した。しかし、『鋼の錬金術師』でホムンクルスが太陽だかをはき出したように、無理な同一化は、あまり長いこと維持できない。もとの状態に戻ろうとする圧力がつよく、やがて勝る。

官爵が満足ゆくまで配分されない党錮期は、官爵の経済の「不景気」を食らった。外戚(大企業)が資源を独占するなら、競って勝てば良い。だが政府(皇帝と宦官)が資源を独占する制度を作れば、官爵経済への参加がバカらしくなる。外部に目が向く。「官爵で買えない価値」を目指す。「正気に戻る」のでした。

資本主義では「商品と等価の貨幣を供出する」が建前(この建前の外部をマルクスが怒る)。官爵経済では「官爵と等価の功績を立てる」が建前(この建前の外部を数え上げるのは楽しかろう)。この建前は、象徴界が現実界を抑圧する(ラカン)のと同じ種類の無理を抱える。後漢後期の闘争はこれの具現化。
この建前が守られなかったり、建前が建前に過ぎないことが暴露されたり。それが後漢の後期だ。官爵の内部と外部が、どのように認識されているか。官爵をめぐる闘争が、どのような仕方で行われているか。というところに注意したいと思う。

予想される、べつの視点。
「官僚制度を分析すれば、後漢がわかる」というのも、ひとつの視覚だと思う。「辞書的に官職の名称や変遷を追うのではなく、官僚制度の性質にまで踏みこめば、後漢がもっとわかる」ことは、あると思う。しかしこれは、官爵経済の内部の分析である。ぼくのやりたいことでない。
つまり、資本主義でみんなが幸せじゃないのに、時代錯誤的に経営学のノウハウ本を読むようなものだ。余談だが、経済学は(経済の外部について視覚をもつので)おもしろいが、経営学は(経済の内部で完結するので)超つまらん。ホーソンの実験とか、がっかりするけど、ものの見方の枠組は、そこから変わってない(と思う)。けっきょく、いかに利益を生むかって、それだけの話。
ぼくが会社員として、資本主義の代表例を見ているので、「そっちの話は、もう掘り下げても、おもしろくなさそうだよ」と、うんざりしているから、こんな方向に傾くのかも。

袁氏は、袁安のときは手探りだったが、袁湯のとき、官爵経済でのトップを極めた。そんな祖父と父をみた、袁紹と袁術が、いかに振るまったか。その試行錯誤が、ぼくたちの世代と似てくると思うのです。
同じ価値観のもと、乗っ取るのもよし。べつの価値観を提出するのもよし。いかにして、「なんでも収斂してしまう経済」に立ち向かったのか。いかに距離をとりつつ、いかに自分を卓越化させたのか。
べつの価値観は、既存の価値観の外延部から生じてくるのか。まさに中心から生じてくるのか。袁紹は「周縁にして中心」という矛盾が同居した存在だった。イノベーションが生まれてくるとしたら、ここからか。とか。

董卓、袁紹、袁術の各政権の特徴は、以上のツイートから説明できるはず(この三者を説明できないような仮説なら、論じるに値しない)。たとえば初期の袁紹は「0円生活」の提唱者、のちに0円ネタで印税生活w。曹操は三者の折衷。孫権と劉備は部分的な複製。西晋は曹魏からのさらなる折衷につぐ折衷。

などということを考えました。130505

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『白虎通』が抑圧する皇帝の定義

知人へのメールを書きかけたもの。
理由はわすれたが、送信をやめたので、アップ。
(途中で書くのをやめてるので、ザツです)

「後漢はどんな国家だったか」については、
渡邉先生の「儒教国家」に賛同しています。
まず「どんな理念があったか」とゴールに着目し、そこから思考を始めるのは、
T社の仕事の仕方にも似ていて、やりやすいからです。
(現実は「理念とのギャップをもつもの」として、理念との関係から認識される)

渡邉先生がおっしゃるとおり、後漢を儒教国家だとすると、
この儒教国家には、精神分析のいう「抑圧」が働いていると思います。
つまり、みんな知っているけど、だれも口に出さないし、
もし口に出そうものなら、袋だたきにあうような、タブーがあると思います。
それが王莽です。(渡邉先生も王莽を重視されますよね)

王莽は「儒教による国家制度」を、ほぼ確定させると同時に、
「儒教国家を奪う方法」まで発明して、実践しました。
国家制度が確定したからこそ、奪えたのでしょう。
確定していないものは、奪う対象にならない(対象にできない)ですから。
「国家制度」と「奪う方法」は、原理的にセットなんです。

ものに値段を付けることと、売買を可能ならしめることがセットのように。
「売買は禁止だけど、値段はつけましょう」とか、
「ものに値段はつけないが、売買しましょう」は、どちらもあり得ません。

光武帝は、武力で勝っただけです。
彼の統一に、思想的な裏づけはありません。
光武帝が皇帝即位したのは、ただ政治・軍事上の便宜でした。
(符命などは、競合他者も同じことをやり、優越の根拠にならない)
だが後漢は(光武帝の建国の過程に反して)
自国を儒教国家として、明帝や章帝のときに正統性を理論化しました。

『白虎通』には、天子を「爵」とします。
皇帝が「唯一絶対の超絶に万能な君主」ならば、この規定は不敬罪のはず。
しかし儒教国家においては、天子の関係は、天の下位者として相対化されます。
親-子、君-臣という既知の関係から類推して、
(なかば比喩的に)天-天子の関係が設定されたと考えます。
君主の地位に、天子という「爵位」の値段をつけたのが、儒教国家です。
君主の地位に、皇帝という「官職」の値段をつけたのが、儒教国家です。

官爵にすぎない天子=皇帝は、天に対して行うべき義務を果たさなければ、
その地位を失わなければならないはずです。
値段がついているので、流通する(易姓革命)の可能性がセットされています。
『白虎通』には書いていませんが、理論的な帰結として、そうなります。

同じように、臣下の官爵も『白虎通』で定められます。
臣下は、民政を成功させることによって、皇帝をたすけます。
成功した者は、さらに高い官爵をもらいます。
(『白虎通』は、官職と爵位について、明確に区別してませんが)
臣下たちの社会的な威信(卓越性)は、
後漢のもとでは、「官爵」によって値段をつけられ、競われます。

天子=皇帝よりも、天に対する義務を果たす者があれば、
臣下であっても、革命を受けることができます。少なくとも理論上は。

ぼくは、これを初め『贈与論』で理解しました。
『贈与論』は、何にでも当てはまるので、おもしろくないかも知れません。
しかし、天子=皇帝の地位まで含めた、官爵という「貨幣」が、
『贈与論』的に流通する社会というのは、じつは王莽の創意だったのです。

たとえば、王莽以前は武力討伐しかない。
王莽が理論化するまで、堯舜禹はただの伝説でした。
(春秋戦国期の数人の君主は、堯舜禹の実践を試みて失敗しました)

つまり王莽は、それ以前はプライスレスだった天子の地位に、
例えば「1兆円」という高額の値付けをした。
値付けをするためには、「なぜこれが1兆円なのか」を説明する必要があったが、
王莽はそれをやってのけた。
このように値付けをしたこと自体が、王莽の独創的な改革です。

王莽は、外戚の輔政者として、官爵という「貨幣」を蓄積して、
なんと自ら、1兆円をぽーんと出して、購入してしまった。
しかし、返済に失敗して、破産した。

光武帝は、破産した王莽が競売に出した天子の地位を、
ろくにお金も払わずに、手に入れた。
白虎観会議で「王莽の言うとおり、天子の地位は1兆円ね」と定め直した。
値付けをするという発想は、王莽を踏襲しましたが、
「誰も1兆円を払えない」という現実的な状況をもって、
天子が劉氏以外のところに移動し得ないので、これで良しとした。

「天子の地位は売買の対象でない」と「売買の対象だが買い手がない」とは、
原理的にまったく異なる状態だが、見え方は似ている。
つまり、天子の地位が、いまの持主から移動しない。

以上のように、儒教国家である後漢は、社会的な威信が、
(天子=皇帝という最高位まで含めて)官爵という尺度で根づけされました。
値段がつけば、流通するのが必然です。

「天子はなぜ天子か」「臣下はどうあるべきか」
という規定がありまして、これは王莽の流れを組むものです。
しかし後漢の光武帝は、その規定に基づいて建国してない。(武力討伐のみ)
後漢の臣下は、前漢よりも、儒教を遵守した勤務態度を取るべきです。
しかし、後漢の臣下は、規定どおりに行動しない。
ライバルとの卓越化の論争に血眼になるだけ→論証します)

まとめます。
後漢の理念の背後には、王莽の改革があるが、口に出すのは禁止です。
王莽の成果に依拠して、儒教国家をつくったのですから、
禅譲を根本的に否定できません。
王莽の成果は(王莽その人すら押しながされたように)禅譲に帰結します。
儒教の理想型の1つが、有徳の賢者による政治=禅譲なんですから。
『白虎通』は禅譲を肯定するわけがないですが、
暗黙の前提として、禅譲を否定できない、という公然の秘密を持ちます。

後漢では天子も臣下も、実態は、儒教の理想とはギャップがありますが、
こちらも口に出すのは禁止です。
もしも儒教が正しい内容で、みな儒教を守っていれば、
外戚や宦官や党錮の政争が、あそこまで反復されるはずがない。
党錮の上表あたりを見て、理想と実態のギャップが、どう認識されていたか、
確認してみます。
(べつに党人に肩入れし、宦官を攻撃する意図はないです)
政争をくり返しながら、「俺たちは儒教を守ってる」というポーズは崩さない。
ここにも、公然の秘密を持ちます。

汝南袁氏が発展してきたのは、2つの公然の秘密のなかで、
秘密を守りながら(ゲームのルールどおり)動いたからですよね。

袁術がやったのは、上記2つのタブー(公然の秘密)を暴露したことです。
袁術は、儒教国家に違反したのではなく、
そのルールのなかで合理的な行動をとることで、そのルールのおかしさを、
おかしさというか、士大夫の意識階層とのズレを暴露したのです。
士大夫は、「ものに値段を付けることは間違っている。売買は悪徳である」
なんて態度をとって袁術を攻撃しましたが、
これは『白虎通』的でない態度です。抑圧の病巣は深い。

などと考えていました。130425

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