両晋- > 『明史』劉基伝、『英烈伝』劉基の登場箇所の抄訳

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『明史』劉基伝

曽祖父の劉濠が、元朝の使者の記録を焼く

劉基,字伯溫,青田人。曾祖濠,仕宋為翰林掌書。宋亡,邑子林融倡義旅。事敗,元遣使簿錄其党,多連染。使道宿濠家,濠醉使者而焚其廬,籍悉毀。使者計無所出,乃為更其籍,連染者皆得免。

劉基は、字を伯温。青田の人。
曽祖父の劉濠は、南宋に仕えて翰林掌書となる。南宋がほろぶと、邑子(同郷の人)林融は、義旅を倡えた。事は敗れ、元朝は使者をやり、その党を記録させた。おおくが連座した。使者は、劉濠に家に泊まった。劉濠は、使者を酔わせた。使者を泊めた廬を焼いて、すべて記録を毀した。使者は、記録を作り直したが(当初の記録を復元できず)連座する者は、みな免れた。

西蜀の人士が「劉基は諸葛亮のともがら」という

基幼穎異,其師鄭複初謂其父爚曰:「君祖德厚,此子必大君之門矣。」元至順間,舉進士,除高安丞,有廉直聲。行省辟之,謝去。起為江浙儒學副提舉,論御史失職,為台臣所阻,再投劾歸。基博通經史,於書無不窺,尤精象緯之學。西蜀趙天澤論江左人物,首稱基,以為諸葛孔明儔也。

劉基は、幼くして穎異である。師である鄭複初は、

どこまでが固有名詞か分かりません。鄭複は初め、かなあ。

劉基の父・劉爚にいう。「きみの祖父(劉濠)は徳が厚く、この子は必ずや大君之門となる」と。
元朝の至順期、進士に挙がり、高安丞に除せらる。廉直だと声望があった。行省は劉基を辟したが、謝して去った。起ちて、江浙の儒學副提舉となる。御史を論じて失職する。台臣に阻まれ、再び劾歸に投ずる。

元朝の任官は、いまいち軌道にのらない。
劉基をやっているのは、言うまでもなく「諸葛亮のモデル」だからです。諸葛亮についても、このように「祖先が徳を積む」と「自身が前朝で不遇である」という個人史を想定しても良いかも。おそらく、曹操が仕切る朝廷に仕官したが、鳴かず飛ばずで、再び隠棲したという話になるんだと思う。曹操のもとで、いまいちだから、劉表のもとで挽回する気にもならず。

劉基は、ひろく經史に通じる。書において、窺わないものはない。尤も象緯之學に精しい。西蜀の趙天澤は、江左の人物を論じた。筆頭に劉基をほめた。「劉基は、諸葛孔明のともがらである」という。

海賊の方国珍を厳罰しろといい、官職を棄てる

方國珍起海上,掠郡縣,有司不能制。行省復辟基為元帥府都事。基議築慶元諸城以逼賊,國珍氣沮。及左丞帖裏帖木兒招諭國珍,基言方氏兄弟首亂,不誅無以懲後。國珍懼,厚賂基。基不受。國珍乃使人浮海至京,賄用事者。遂詔撫國珍,授以官,而責基擅威福,羈管紹興,方氏遂愈橫。

方国珍が海上に起ち、郡縣を掠める。有司は、方国珍を統制できない。行省は、ふたたび劉基を辟して、元帥府都事とする。

江東で「海賊」退治から、軍事のキャリアをスタートさせたのは、孫堅である。劉基の「軍師」としての役割が、ここから始まる。

劉基は、慶元の諸城を築して、賊に逼り、方国珍の意気を沮げという。左丞帖裏の帖木兒は、「方国珍を招諭しよう」という。
劉基「方氏の兄弟は、乱をひきいる。方国珍を誅さねば、後続を懲らせない」という。方国珍は懼れ、劉基に厚く賂った。劉基は受けず。方国珍は、使者を海路から京にやり、用事する者に賄った。

劉基の最初の軍略は「秩序を乱す者を厳罰せよ」だった。この方国珍が、どれほど当局と距離のある者なのか、どれくらい「士人層のなかでの馴れあい」が通用するのか。ぼくは元史をまったく知らないので、見当がつかないが。必ずしも「海のものとも知れない賊」ではなさそう。

ついに詔は「方国珍を撫して、官を授けろ」という。また詔は、劉基が威福を擅断することを責め、紹興に羈管した。方氏は、いよいよ専横した。

劉基が正しかったじゃん、というオチ。しかし、このとき当局の規制力がどれほどで、どこまで厳罰で臨んでも平気なのか、よくわからん。官爵を授けて、専横させておくほうが「マシ」なことってあるから。


亡何,山寇蜂起,行省復辟基剿捕,與行院判石抹宜孫守處州。經略使李國鳳上其功,執政以方氏故抑之,授總管府判,不與兵事。基遂棄官還青田,著《郁離子》以見志。時避方氏者爭依基,基稍為部署,寇不敢犯。

亡何と山寇が、蜂起した。行省は、ふたたび劉基を辟して、これを辟して、剿捕させたい。行院判石抹宜孫とともに、劉基は處州を守る。経略使の李國鳳が、劉基の功績を上した。執政者は、方氏を以て、以前にこれを抑えたから、總管府判を劉基に授けるが、兵事に劉基を参加させない。

主語、述語、目的語がわかりません。すみません。

劉基は、官職を棄てて、青田に還る。『郁離子』をつくる。この著書は『明史』志にある。ときに、方氏を避けた者は、劉基をたよる。劉基が、たよってきた者に部署させるので、山寇は、あえて劉基らを犯さず。

元朝の内部に入って、秩序を保つよりも。自前で塢壁の共同体?のような者をつくって、意見を等しくする者たちと自衛する。そういう暮らしなんだろうか。


朱元璋に迎えられ、天命の所在をのべる

及太祖下金華,定括蒼,聞基及宋濂等名,以幣聘。基未應,總制孫炎再致書固邀之,基始出。既至,陳時務十八策。太祖大喜,築禮賢館以處基等,寵禮甚至。

太祖(朱元璋)が金華をくだし、括蒼をさだめる。太祖は、劉基および宋濂らの名を聞き、幣聘する。劉基が応じる前、總制の孫炎は、ふたたび致書して、つよく劉基を邀(もと)めた。劉基はやっと出た。すでに至り、時務18策をのべた。

ぼくは思う。これは維基文庫から、原文をコピっているのだが。きっと注釈をあわせて読むと、おもしろいのだろう。18策って、具体的には何だろう。先学=注釈家たちは、きっとここに、膨大な解説を付加してくれるはずだ。

太祖は大喜して、禮賢館を築いて、劉基を住ませる。寵禮は甚至である。

水魚の交わりである。


初,太祖以韓林兒稱宋後,遙奉之。歲首,中書省設御座行禮,基獨不拜,曰:「牧豎耳,奉之何為!」因見太祖,陳天命所在。

はじめ太祖は、韓林兒が宋帝の後裔を自称するから、遙かに韓林児を奉る。歲首、中書省は、御座を設けて、行禮する。劉基だけが拝さない。劉基「韓林児は、ただの牧豎である。なぜ彼を奉るのか」と。
太祖に会って、劉基は天命の所在をのべる。

陳友諒と戦う献策をして、赤壁に似る

太祖問征取計,基曰:「士誠自守虜,不足慮。友諒劫主脅下,名號不正,地據上流,其心無日忘我,宜先圖之。陳氏滅,張氏勢孤,一舉可定。然後北向中原,王業可成也。」太祖大悅曰:「先生有至計,勿惜盡言。」會陳友諒陷太平,謀東下,勢張甚,諸將或議降,或議奔據鐘山,基張目不言。太祖召入內,基奮曰:「主降及奔者,可斬也。」太祖曰:「先生計安出?」

太祖は、征取の計を問う。劉基「張士誠は、自守の虜だ。慮るに足らず。

小前亮『朱元璋 皇帝の貌』の登場人物一覧より。張士誠。塩賊出身の群雄のひとり。海岸沿いの塩の産地を押さえる。
小前亮氏の『朱元璋 皇帝の貌』を中古で購入した。表紙をめくると「謹呈 ××××様 小前亮」とサインが入っている。宛名は、同じ中国史の分野の小説家の方。その方の著作も、ぼくは5冊以上持ってる。『贈与論』的な霊(ハウ)が、いま我が家にいます。マリノフスキ的な循環に入れたようで嬉しい。
ぼくが劉基をやろうと思ったのは、直接的には、小前亮氏の小説を読んだから。小説の中盤で、「創業メンバーのキャラは充分に立ったし、もうダレてきたかも」と持ったところで、劉基が出てきて、話のトーンが変わった。
ぼくは思う。漢魏以外の時代に飛んで漢文を読んでも、「読めるように」書かれているから、漢魏の漢文を読めるのと同じ範囲で、読むことができる。文化の継承ってすごいなあ。固有名詞は、わからないけど。

陳友諒は、主を劫し、下を脅す。名號は正しくない。地は上流に據り、その心は、日に我を忘れることなし。さきに陳友諒を図れ。陳氏が滅びれば、張氏の勢は孤となり、一挙に定められる。その後に、中原に北向する。王業は成るべし」と。

これが「天下三分の計」に比せられるもの。劉備が、はるか献帝に向かって拝礼したとき、諸葛亮が(魯粛と同意見を持っており)献帝への拝礼をこばむ。劉備がその態度をとがめると、諸葛亮が「献帝なんか、奉戴するに足りない偽者ですよ。董卓がゴリ押ししただけ」と言って、魯粛との関係を前提とした、天下三分をいう。
なんていう、ウソ展開を、劉基に基づけば作ることができる。

太祖は大悅した。太祖「先生には至計がある。言を盡くすを惜むなかれ」と。たまたま陳友諒が、太平を陥として、東下を謀る。勢の張ること甚し。諸將は、或者は降を議し、或者は奔して鐘山に拠れと議す。劉基は、目を張り、言わず。

まさに赤壁だな。太平は、これまで太祖(朱元璋)の前線であった。つまり、劉備にとっての、襄陽=劉表である。それが陥落した。曹操が南下・東下しそう。みな孫権まで引っくるめて、降伏を議する。

太祖は、劉基を内に召し入れる。劉基は奮っていう。「降伏や逃奔を主る者は、斬るべきだ」と。太祖「先生の計は、どんなふうか」と。

ぼくは思う。『三国演義』の諸葛亮は、明初の劉基のアレンジという説がある。そこで『三国演義』よりも忠実な「劉基をモデルにした諸葛亮」というのを描いてみたらおもしろいかも。つまり、アレンジを故意に薄めて「まんま劉基やん」という諸葛亮を描く。新しい諸葛亮のイメージや、劉備の正体が浮き上がるかも知れない。


基曰:「賊驕矣,待其深入,伏兵邀取之,易耳。天道後舉者勝,取威制敵以成王業,在此舉矣。」太祖用其策,誘友諒至,大破之,以克敵賞賞基。基辭。友諒兵複陷安慶,太祖欲自將討之,以問基。基力贊,遂出師攻安慶。自旦及暮不下,基請逕趨江州,搗友諒巢穴,遂悉軍西上。友諒出不意,帥妻子奔武昌,江州降。其龍興守將胡美遣子通款,請勿散其部曲。太祖有難色。基從後蹋胡床。太祖悟,許之。美降,江西諸郡皆下。

劉基はいう。「賊は驕る。賊が深入するのを待てば、伏兵で邀取するのは易しい。天道・後挙した者が勝つ。威を取り、敵を制して、以て王業を成す。この挙にある」と。太祖は劉基の策を用いる。陳友諒が至るのを誘い、大破した。
敵に克ったので、劉基を賞賛した。劉基は辞退した。陳友諒の兵は、また安慶を陥とした。太祖はみずから陳友諒を討ちたい。劉基に問う。劉基は力めて贊じた。遂に出師して、安慶を攻める。旦から暮まで(朝から夕まで)下せず。劉基は、江州に逕趨しろという。友諒の巢穴を搗(つ)き、ついに全軍で西上した。陳友諒は不意に出て、妻子を帥いて武昌に奔る。江州は降った。その龍興守將の胡美は、子の通款を使わし、「わが(胡美の)部曲を散じないでくれ」という。太祖は難色がある。劉基は、太祖の後ろに従って、胡床を蹋(ふ)む。

胡美の要求を聞きなさい、という意味を、劉基が「胡床をふむ」ことで、表したらしい。太祖が気づいてよかったね。

太祖は悟って、胡美を許した。胡美が降ると、江西の諸郡は、みな下った。

鄱陽湖で、漢帝の陳友諒を3日目に破ると予言

基喪母,值兵事未敢言,至是請還葬。會苗軍反,殺金、處守將胡大海、耿再成等,浙東搖動。基至衢,為守將夏毅諭安諸屬邑,複與平章邵榮等謀複處州,亂遂定。國珍素畏基,致書唁。基答書,宣示太祖威德,國珍遂入貢。太祖數以書即家訪軍國事,基條答悉中機宜。尋赴京,太祖方親援安豐。基曰:「漢、吳伺隙,未可動也。」不聽。友諒聞之,乘間圍洪都。

劉基は母が死んだ。兵事について敢えて言わない。ここに至り、還葬を請う。
たまたま苗軍が反いて、金・處の守將である、胡大海・耿再成らを殺した。浙東は動揺した。劉基は衢に至り、守將の夏毅に諭して、諸屬する邑を安じさせる。また平章の邵榮らと謀って、處州を回復する。乱はついに定まった。
方国珍は、もとより劉基を畏れる。書を致して、劉基の母の弔意をのべる。劉基が、太祖の威德を宣示した。ついに方国珍は入貢した。太祖は、しばしば文書を劉基の家によこし、軍国の事をたずねた。劉基の條答(箇条書きの回答)は、すべて機宜にあたる。
劉基が京に赴くと、太祖は安豊(寿春)に親援する。劉基「漢と呉は隙を伺う。いまだ(太祖は)動くべきでない」と。太祖は聽かず。陳友諒がこれを聞き、間に乗じて、洪都を囲む。

太祖曰:「不聽君言,幾失計。」遂自將救洪都,與友諒大戰鄱陽蝴,一日數十接。太祖坐胡床督戰,基侍側,忽躍起大呼,趣太祖更舟。太祖倉卒徙別舸,坐未定,飛礮擊舊所御舟立碎。友諒乘高見之,大喜。而太祖舟更進,漢軍皆失色。時湖中相持,三日未決,基請移軍湖口扼之,以金木相犯日決勝,友諒走死。其後太祖取士誠,北伐中原,遂成帝業,略如基謀。

太祖「劉基の発言を聴かないから、失計するところだ」と。ついに太祖は、みずから洪都を救う。陳友諒と、鄱陽蝴で大戦した。1日に數十回も接戦する。太祖は、胡床に座って督戰する。劉基はそばに侍する。忽ち躍起・大呼する。太祖に「舟を変更しろ」と促した。太祖の倉卒は、別舸に徙ったが、太祖の座席が未定である。礮が飛んで、もとの太祖の御舟を撃って立碎した。陳友諒は、高みからこれを見て(太祖の乗船を破壊したので)大喜した。だが太祖は舟を変更して進む。陳友諒の漢軍は、みな失色した。ときに湖中で相い持し、3日で決着しなければ、劉基は「軍を移して湖口を扼せ」と請う。劉基「金と木が相犯する日に勝敗が決して、陳友諒は走げて死ぬ」と。

もっと、こまかく書いてあるのかと思ったら。正史は、演義などに比べて、言っていることが同じでも、記述の分量が少ないだけで、「信憑がある」「客観である」なんて思われるのかも。陳寿が意図せずして(いや陳寿の場合は、なかば意図して)採用した、記述の方針である。

その後に太祖が張士誠を取り、中原を北伐して、ついに帝業を成したのは、ほぼ劉基の謀略のとおりであった。

朱元璋が呉王となり、夢を解く

吳元年以基為太史令,上《戊申大統曆》。熒惑守心,請下詔罪己。大旱,請決滯獄。即命基平反,雨隨注。因請立法定制,以止濫殺。太祖方欲刑人,基請其故,太祖語之以夢。基曰:「此得土得眾之象,宜停刑以待。」後三日,海寧降。太祖喜,悉以囚付基縱之。尋拜御史中丞兼太史令。

吳元年、劉基を太史令とする。『戊申大統曆』を上程する。

「軍師」という官職はないが、劉基は太史令だったのだ。歴史や暦法を管理するのが役目だった。神仙の雰囲気をまとっていくのも、この官職や役割にちなむものか。

熒惑が守心すれば、劉基は「私を罪とする詔を下せ」という。大旱があれば、劉基は「私を獄に決滯しろ」という。すぐに太祖が劉基に「反を平げろ」と命じると、雨が隨注した。
劉基は、立法・定制を請い、濫殺を止めたい。太祖は人を刑したいとき、劉基がその理由を聞いた。太祖は夢について語った。劉基「太祖の夢は、土を得て、衆を得るとい暗示である(刑罰をやれという暗示でない)刑を停めて待て」と。のち3日で、海寧が降った。太祖は喜び、囚人の処置をすべて劉基にゆだねた。御史中丞・兼太史令となる。

朱元璋が皇帝となり、

太祖即皇帝位,基奏立軍衛法,初定處州稅糧,視宋制畝加五合,惟青田命毋加,曰:「令伯溫鄉里世世為美談也。」帝幸汴梁,基與左丞相善長居守。基謂宋、元寬縱失天下,今宜肅紀綱。令禦史糾劾無所避,宿衛宦侍有過者,皆啟皇太子置之法,人憚其嚴。中書省都事李彬坐貪縱抵罪,善長素匿之,請緩其獄。基不聽,馳奏。報可。方祈雨,即斬之。由是與善長忤。

太祖が皇帝の位に即く。劉基は「軍衛の法を立てろ」と請う。はじめて處州を定め、糧を税する。宋制の畝加五合を視て、ただ青田命には加えない。

切り方が分かりません。

皇帝「伯温(劉基)をして、郷里に世々、美談をなさせたのだ」と。皇帝は汴梁にゆき、劉基と、左丞相の善長とともに居守する。劉基「宋代と元代は、寬縱して天下を失った。いまは紀綱を肅するべきだ。禦史に避けられないものを糾劾させ、宿衛・宦侍のうち過失のある者は、みな皇太子置之法を啓け。人はその厳しさを憚る」と。
中書省都事の李彬は、貪縱に坐して、抵罪する。善長はもとより、李彬を匿って、李彬の獄を緩めろと請う。劉基は聽さず、馳奏した。皇帝は、劉基をみとめた。祈雨して、すぐに李彬を斬った。これにより、善長と劉基は、対立した。

帝歸,愬基僇人壇壝下,不敬。諸怨基者亦交譖之。會以旱求言,基奏:「士卒物故者,其妻悉處別營,凡數萬人,陰氣鬱結。工匠死,胔骸暴露,吳將吏降者皆編軍戶,足幹和氣。」帝納其言,旬日仍不雨,帝怒。會基有妻喪,遂請告歸。時帝方營中都,又銳意滅擴廓。基瀕行,奏曰:「鳳陽雖帝鄉,非建都地。王保保未可輕也。」已而定西失利,擴廓竟走沙漠,迄為邊患。其冬,帝手詔敘基勳伐,召赴京,賜賚甚厚,追贈基祖、父皆永嘉郡公。累欲進基爵,基固辭不受。

皇帝は帰すると、基を愬(うった)え、人を僇(はずかし)めて壇壝下し、敬わず。劉基を怨む者たちは、こもごも劉基をそしる。たまたま日照のとき、皇帝が発言を求めたら、劉基がいう。「士卒のうち物故した者は、その妻をすべて別営に住まわせろ。妻(未亡人)が全部で数万人いて、陰氣が鬱結している。工匠が死ねば、胔骸を暴露せよ。吳の將吏のうち降った者は、みな軍戸に編入せよ。和氣を幹するに足るだろう」と。
皇帝はその発言を納れた。旬日、雨ふらず。皇帝は怒った。たまたま劉基の妻が死んで、劉基は告歸を請う。ときに皇帝は中都に営して、また銳意滅擴廓。 劉基は瀕行し、上奏した。「鳳陽は帝郷であるが、建都すべき土地でない。王保は軽んじるべきでない」と。すでに西の失利を定め、擴廓して沙漠に竟走する。ついに辺患となる。
その冬、皇帝は手ずから詔して、劉基の勳伐を叙して、召して赴京させる。賜賚は甚だ厚く、劉基の祖父と父親に爵位を追贈する。劉基は受けず。

宰相を辞退して、政争を回避する

初,太祖以事責丞相李善長,基言:「善長勳舊,能調和諸將。」太祖曰:「是數欲害君,君乃為之地耶?吾行相君矣。」基頓首曰:「是如易柱,須得大木。若束小木為之,且立覆。」及善長罷,帝欲相楊憲。憲素善基,基力言不可,曰:「憲有相才無相器。夫宰相者,持心如水,以義理為權衡,而己無與者也,憲則不然。」帝問汪廣洋,曰:「此褊淺殆甚於憲。」

はじめ太祖は、事を以て、丞相の李善長を責めた。劉基「善長は勳旧である。能く諸將と調和する」と。太祖「李善長は、しばしば劉基を害そうとする。だが劉基は善長を弁護するのか。私は(善長でなく)劉基を宰相にしようと思う」と。
劉基は頓首した。劉基「これは易柱のようなもの。大木を得るべきだ。もし小木を束ねて易柱にしたら、ひっくり返る」と。

劉基は、「私のような小者を宰相にしたら、明国が覆る」と言っている。劉基のほうが、知識人の名声においては、李善長よりもはるかに上である。これは遁辞である。まあ明国におけるキャリアとしては、李善長は長いのだが。

善長が罷ると、皇帝は楊憲を宰相にしたい。楊憲は劉基と仲がよいのだが、劉基は「楊憲ではダメ」と力説した。劉基「楊憲は、相才があるが相器がない。

宰相になるべき才覚はあるが、器量がないのだと。

そもそも宰相とは、心を持すること水のごとし。義理を以て權衡をなす(バランスをとる)。だが宰相は(調整するだけで)自らには(分け前を)与えない者だ。楊憲は、この宰相の要件にあてはまらない」と。皇帝が汪廣洋に問う。「劉基の褊淺は、楊憲よりも殆甚である」と。

又問胡惟庸,曰:「譬之駕,懼其僨轅也。」帝曰:「吾之相,誠無逾先生。」基曰:「臣疾惡太甚,又不耐繁劇,為之且孤上恩。天下何患無才,惟明主悉心求之,目前諸人誠未見其可也。」後憲、廣洋、惟庸皆敗。三年授弘文館學士。十一月大封功臣,授基開國翊運守正文臣、資善大夫、上護軍,封誠意伯,祿二百四十石。明年賜歸老於鄉。

また皇帝は、宰相の人選について胡惟庸に問う。胡惟庸「駕(馬車)に例えるなら、その轅の僨ちるを懼れる」

ナガエがおちる。つまり、バランスを崩すという比喩だろう。

皇帝「私の宰相は、まことに劉基をこえる人材がいない」と。劉基「私の疾惡は太甚である。繁劇に耐えられない。

病気だから、宰相の激務はできないと。遁辞である。諸葛亮は、もっと宰相になることに、意欲が満ちていた。劉基のほうが、初期条件として、名声と文化資本があるのだろう。諸葛亮は、あのガツガツゆえに、かえって文化資本の少なさを暴露する。まあその諸葛亮の一生懸命さが、ファンの心を打つのだが。諸葛亮ファンは、わりに初期条件に恵まれない人が多いのかも。もし共感をもって諸葛亮をながめているなら。

このために、私は恩を返上する。天下はどうして才能なきを患うか。ただい明主が心を悉くして才能を求めたら、目前の諸人がまだ適任に見えていないだけだ」と。のちに、楊憲、廣洋、惟庸がみな敗れた。

政争に巻きこまれるのを回避した、という理解なのでしょう。そして、劉基の政敵がかってに敗退してゆき、劉基の正しさが確認されたと。

呉王の三年、弘文館學士を劉基に授ける。11月、功臣を大封した。劉基には、開國翊運守正文臣・資善大夫・上護軍を授けて、誠意伯に封じる。俸禄は240石。明年、老齢だから帰郷させてもらった。

対立者を増やして、隠棲する

帝嘗手書問天象。基條答甚悉而焚其草。大要言霜雪之後,必有陽春,今國威已立,宜少濟以寬大。基佐定天下,料事如神。性剛嫉惡,與物多忤。至是還隱山中,惟飲酒弈棋,口不言功。邑令求見不得,微服為野人謁基。基方濯足,令從子引入茆舍,炊黍飯令。令告曰:「某青田知縣也。」基驚起稱民,謝去,終不復見。其韜跡如此,然究為惟庸所中。

かつて皇帝は、手ずから書いて天象を問う。劉基の回答は、すべて草稿を焼いた。概略は「霜雪の後、必ず陽春がある。いま國威はすでに立つ。寬大をもって少濟すべきだ」と。劉基が佐けて天下を定めるとき、事を料るのは神のごとし。
劉基の性は剛で、惡を嫉み、対立することも多かった。これにより、還って山中に隠れ、ただ飲酒・弈棋した。口は功を言わず。邑令は会いたいが会えない。邑令は微服して、野人となり、劉基に会いにゆく。劉基は足を濯っており、從子に邑令を茆舍に引入させ、黍を炊き、邑令に飯わせる。邑令は告げていう。「私は、青田の知縣なり(邑令だ)」と。劉基は驚いて起ち、民を稱する。謝して去り、終いに復た見えず。劉基の韜跡は、このようだ。だが胡惟庸の追究に当たってしまった。

胡惟庸が劉基を追究して毒殺する

初,基言甌、括間有隙地曰談洋,南抵閩界,為鹽盜藪,方氏所由乳,請設巡檢司守之。奸民弗便也。會茗洋逃軍反,吏匿不以聞。基令長子璉奏其事,不先白中書省。胡惟庸方以左丞掌省事,挾前憾,使吏訐基,謂談洋地有王氣,基圖為墓,民弗與,則請立巡檢逐民。帝雖不罪基,然頗為所動,遂奪基祿。基懼入謝,乃留京,不敢歸。未幾,惟庸相,基大慼曰:「使吾言不驗,蒼生福也。」憂憤疾作。

はじめ劉基は、「甌と括の間には、隙地があり、談洋という。南は閩界に抵たり、塩盜の藪となる。方国珍が拠点とした。巡檢司を設けて、この地を守れ。奸民に便宜をはかるな」という。
たまたま茗洋は軍を逃げて反する。吏は匿って、茗洋のことを報告しない。劉基は、長男の劉璉に調査させた。先に中書省に報告しない。胡惟庸は、このとき左丞掌省事である。

胡惟庸は、中書省の系統の官僚だから、劉基に情報のルートから外されたので、ムカついたのか。荀彧の死と同じで、賢者たる功臣の死は、秘密や伝説がおおい。「よく分からない」というのが、正しい態度なのだろう。

前に憾みがあるので、吏に劉基を訐させた。胡惟庸「談洋の地には、王氣がある。劉基は、ここを墓を作ろうとした。民が協力しないので、劉基は巡檢官を設けて、この地の民を逐おうとした」と。
皇帝は、劉基に罪がないが、胡惟庸に動かされ、ついに劉基の俸禄をうばう。劉基は懼れて、入謝する。京に留まり、敢えて帰らず。すぐに、胡惟庸が宰相となる。劉基はおおいに慼した。劉基「私の発言を験でなくして、蒼生は福である」と。憂憤して疾作する。

八年三月,帝親制文賜之,遣使護歸。抵家,疾篤,以《天文書》授子璉曰:「亟上之,毋令後人習也。」又謂次子璟曰:「夫為政,寬猛如迴圈。當今之務在修德省刑,祈天永命。諸形勝要害之地,宜與京師聲勢連絡。我欲為遺表,惟庸在,無益也。惟庸敗後,上必思我,有所問,以是密奏之。」居一月而卒,年六十五。基在京病時,惟庸以醫來,飲其藥,有物積腹中如拳石。其後中丞塗節首惟庸逆謀,並謂其毒基致死雲。

8年3月、皇帝は親ずから文を制して、劉基に賜う。使者に劉基を護らせ、帰した。家に抵き、疾篤である。
『天文書』を長子の劉璉に授けていう。「すみやかにこれを上せ。後人に習わせるな」と。次子の劉璟はいう。「そもそも為政とは、寬猛が迴圈するがごとし。當今之務は、德を修め、刑を省き、天を祈って命を永らうこと。形勝・要害之地に諸き、宜しく京師と聲勢・連絡しろ。我は上表を遺して、惟庸か官職にあれば、益がないとだけ皇帝にいいたい。胡惟庸が敗れた後、皇帝は必ず私を思慕して、私の遺思を問うだろう。そしたら、これを密かに奏しろ」と。
1ヶ月で卒した。65歳。劉基が京で病になったとき、胡惟庸は医者なので、彼の薬を劉基に飲ませた。物が積もり、腹中で拳石となる。その後、中丞塗節首が、「惟庸が逆謀して、劉基に毒を飲ませて死なせた」といった。

朱元璋「わが子房」、孔子の予言と神奇性

基虯髯,貌修偉,慷慨有大節,論天下安危,義形於色。帝察其至誠,任以心膂。每召基,輒屏人密語移時。基亦自謂不世遇,知無不言。遇急難,勇氣奮發,計畫立定,人莫能測。暇則敷陳王道。帝每恭己以聽,常呼為老先生而不名,曰:「吾子房也。」

劉基は、虯髯であり、貌は修偉である。慷慨して大節あり、天下の安危を論じる。義は色に(内面は外面に)あらわれる。皇帝は、劉基の至誠を察して、心膂をもって任ず。劉基を召すごとに、人をさえぎり、密語して時を移す。
劉基は、みずから世に遇されないといい、知って言わないことはない。急難に遇い、勇氣・奮發する。計画は立定し、人には測れない。暇があれば、いつも王道を敷陳する。皇帝は、己を恭して劉基を聽く。つねに「老先生」とよび、劉基の名を呼ばない。「吾が子房なり」という。

「荀彧の死 訓読会」を来月にある。「わが子房」の事例を集めておくと、おもしろいかも。大陸をあげて、慣用的に、みんなが「わが子房、わが子房」と言っている光景が思い浮かぶ。


又曰:「數以孔子之言導予。」顧帷幄語秘莫能詳,而世所傳為神奇,多陰陽風角之說,非其至也。所為文章,氣昌而奇,與宋濂並為一代之宗。所著有《覆瓿集》,《犁眉公集》傳於世。子璉、璟。

また皇帝は劉基に、「数(運命)は孔子之言をもって、私を導く」という。帷幄を顧りみて、劉基の語は秘され、詳細はわからない。だが世に伝えられて劉基は神奇とされる。おおく陰陽・風角之説がある。つくった文章は、氣は昌んで奇である。宋濂とあわせて、一代之宗とされる。『覆瓿集』『犁眉公集』が世に伝わる。子は、劉璉と劉璟である。131006

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『英烈伝』劉基の登場箇所

以下、作成中

第十七回古佛寺周顛指示 伯溫曰猿獻天書

祇因這山岩穴多端,內藏妖精不一。聞說那箇山中常有毒氣千萬條出來,或裝做婦人去騙男子,或裝做男子去騙婦人。人人都說道有箇白猿作怪,甚是沒奈何他。恰有元朝的太保劉秉忠,他的孫兒名基,表字伯溫,中了元朝進士,做高郵縣丞。將及半年,猛思如今英雄四起,這箇官那裏是結果的事業,便棄了官職回鄉。每日手把春秋到這山下揀箇幽僻去處,舖花茵,掃竹徑,對山而坐,觀書不輟。將近年餘了。忽一日,崖邊豁地響了一聲,祇見石門洞開,稍好一人側身而進。那伯溫看了半晌,便將書丟下,大步跨入空谷中。卻有人大喝道:「裏面毒氣難擋,你們不可亂進。」伯溫乘著高興祇顧走進洞中,黑暗暗的,有幾處竟是一坑水,也有幾處竟如螺螄。伯溫走了一會,正在心下狐疑。轉彎抹角,卻見透出一點天光來。伯溫大喜,暗想:「此處必有下落了。」又走了數百步,忽見日色當空,天光清朗,有石室如方丈大一箇所在。石室上看有七箇大字道:「此石為劉基所破。」伯溫心知此是天意,令我收此寶藏。遂抬箇石子,向那石上猛擊一下,祇見毫光萬道,即時裂開,內中有抄寫的兵書四卷。伯溫便對仰叩謝,將書懷在袖中。正欲走出,忽聽得壁廂豁喇一聲,枯藤上跳出一隻白猿來,望著伯溫張開了口,竟扑將上來。伯溫大喝道:「畜生,天賜寶貝,原說與我劉基的,你待怎樣?」那猿便斂形拜伏在地,忽作人言曰:「自漢張子房得黃石公秘傳之後,來闢谷嵩山,半路之中,將書收藏在內。便命其六丁、六甲,拘本山通靈神物管守之。丁甲大神在雲頭上一望,看見小猿頗有些靈氣,便拘我到留侯面前。留侯者乃張子房封爵名號。那留侯卻把手來打一箇圓圈,許我在此,祇好到山上山下走動走動,再不得出外一耍。今日,天意將此書付與先生,輔主救民,要我在此無用。望先生方便破開圓圈,把小猿寬鬆些也好!」伯溫便對他曰:「天書我雖取得,其中方法竟未曾看著,待我回家細看,倘其中有破開圓圈方法,我方好放你。目下,我如何會得?」白猿祇是苦苦哀求說:「先生此時不放我去,何時再得進來?我從前被留侯拘束時,曾問他何年放我,他便曰:『留著,留著,遇劉方放著。』今日遇著『劉』,便須遇著『放』。先生祇是可憐見寬,小猿則感恩不淺!」伯溫看他哀求不過,便從袖中扯出天書來看,誰知袖太小書本過大,祇扯出一本來,將手翻開,恰是落末一本,湊巧簿面上寫著:拘收自猿管守天書事情,看到後面,果有打破圈箍放白猿的神法。伯溫心中原要試驗一番,卻又不解此中原是咒語,祇好將他當書誦讀。誰想把寬放他的法兒讀完,祇見那白猿朝著伯溫拜了幾拜,竟從山後跳出去了。伯溫也不顧他,遂放開大步,復從原路而回。回頭一看,那石壁依然合了。伯溫一路且驚且疑,方到家中,祇聽得人曰:「山上有白光一條,光中燦燦的恰如白猿一箇,奔到淮西那路去了。」不題。
伯溫雖得此書,其中旨趣尚未深曉。因歷遊名山佛寺,訪求異人提醒於他。聞說建昌有箇周顛,年十四歲得了顛疾,便乞食於南昌。及到長成舉措詭怪,人莫能識。每常見人便大叫:「告天平!告天平!」人也解不出。今在淮西濠州山寺。伯溫心下轉念道:「一向觀望天象,帝星恰照彼處,今日此行正好探聽。」遂收拾了琴劍書箱,安頓了家中老少,次日起身。不一日,來到濠州,打聽周顛下落人都說在西山古佛寺藏身。伯溫便往寺中,見那周顛身倚胡床,口中念念的看著一本齷齷齪齪、沒頭沒腦的書。伯溫近前便拜,曰:「請教請教!」那周顛那裏睬他,伯溫隨即訴道:「小可不辭跋涉而來,全望先生指教!」周顛見他至誠,便把那看的書遞與伯溫,曰:「你拿去讀,十日內背得出便可教你﹔不然且去,不必復來。」伯溫遂接過書來一看,見與前石匣中所得的大同小異。是日,就在寺中讀了一夜,明早俱覺溜口兒背得,於是攜書入見周顛。周顛曰:「爾果天才也。」因一一講論,未及半日,完全通徹。伯溫欲辭而行,周顛曰:「此術是帝王之佐,值今亂離,勿可磋過。且回西湖,自有分曉。」
伯溫別了周顛,來到濠州城,束裝起程,便與店家告別。祇見店小二混濁濁的自言自語,一些也不對答。伯溫焦燥,說道:「你這位小官人沒分曉,我在此打攪了一番,自然算房錢、飯錢、酒錢還你﹔你何須唧唧噥噥,不瞅不睬於我。」那小二道:「客官,不是小人不來支值,但祇為我主人孔文秀有箇女兒,年方一十五歲,近來為箇妖怪所迷,每夜狂言亂語。今日接箇醫人來,他說犯了危疾命在早晚,因此懷慮,沖撞了相公。」伯溫問曰:「甚麼妖精如此作怪?我也略曉得些法術,快對你主人說,我當為你除滅。」店小二不勝之喜,連忙進去與主人報知。頃間,孔文秀出來見了伯溫備訴了怪精事情,因曰:「相公果若救得小女,便當以小女為贈。」伯溫曰:「除災祛患,君子本心,何以言謝。」便叫文秀領了他到女兒房中看他光景何如,以便攻救。文秀於是攜了伯溫徑到女兒床前,揭起了帳子。伯溫輕輕叫道:「可取箇燈來待我仔細觀看,便知下落。」正是:伊誰錯認梨花夢,喚起閑愁斷送春。未知如何捉妖,且看下回分解。

第十八回劉伯溫法遣猿還 孫炎領命訪宋濂

話說孔文秀的女兒被妖怪迷住,日夜昏沉。恰聽得伯溫說有除妖之術,不勝之喜,便領了伯溫到女兒房中,觀其看怎麼模樣。孔文秀曰:「我女兒日間亦是清醒,但到得晚間,便見十分迷悶。但恐日間看視,尚未分明,晚間方見明白。」伯溫曰:「不妨不妨。」揭起帳來看,但見:
春山雲半蹙,秋月雨偏催。悶到無言苦厭厭。恍似經霜敗葉﹔愁來吐氣,昏迷迷,渾如煙鎖垂條。若明若暗的柔腸,對人難吐﹔如醉如痴的弱態,祇自尋思。花鎖千點淚,迴雲斷雨總成愁﹔香散一天春,怕夜羞明都幻夢。扶不起海棠嬌睡,襯不上芍藥紅殘。
伯溫看了一會竟出房來,對文秀曰:「今夜,可將你女兒另移在別處去睡,至夜來我往令愛房中,自有區處。」文秀得了言語,急急安排靜室,移女兒別處去睡。將及一更左右,伯溫恰到房裏睡在床中,把劍一口緊緊放在身邊。房門上早已貼了靈符念了法咒。吩咐眾人,都各安心去睡,不必在此驚動攪擾。房間中止點一盞璃璃燈,也不大明。約莫二更,祇聽簾攏響處,妖怪方纔入門,那符上豁喇喇一聲,真似:「霹靂空中傳號令,太華頂上折剛峰。」這妖恰已倒在地上。伯溫近前一看,就是前者紅羅山上用法解放的白猿。伯溫便問:「你如何直來到此?」那白猿叩頭謝了前日釋放之恩,又說道:「近因城外鐘離東鄉皇覺寺內有箇真命天子,因此各處神祗都去護祐。我那日便斗膽在雲中翻筋斗過來,不意今日撞著恩主,望恩主寬恕!」伯溫便吩咐道:「我前日為好把你寬鬆些,誰知你倒在此昏迷婦女,本該將你斬首,姑念你保守天書分上,放汝轉去。以後祇許你在山林泉石之間,採取些松榛果實,決不許擾害人家!」白猿拜領而去。
伯溫次早將此事說與文秀,文秀便將女兒為贈,伯溫固辭而去。徑到皇覺寺來尋訪真主﹔恰又想天時未至,因此取路向青田而行。道過西湖,湊與原相契結的字文諒、魯道源、宋濂、趙天澤遇著,便載酒同遊西湖。舉頭忽見西北角上雲色異常,映耀山水。道源等分韻題詩為慶,獨伯溫縱飲不顧,指了雲氣對著眾人曰:「此真天子出世,王氣應在金陵。不出十年我當為輔,兄輩宜識之。」眾人唯唯。到晚分袂而別。
自此,暑往寒來,春消秋息,伯溫在家中祇是耕田、鑿井,與老母妻兒,隱居在丘壑之內,不覺光陰已是十年之期。那些張士誠、方國珍、徐壽輝、劉福通時常用金帛來聘他,伯溫想此輩俱非帝王之器,皆力辭不赴。

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