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第1部 中国とはそもそも何か

橋爪大三郎、大澤真幸、宮台真司
『おどろきの中国』講談社現代新書2013

直接は三国志の話をしてない本でした。
血縁に基づかない「幇」を説明するとき、劉備、関羽、張飛の結びつきについて、言及がありましたが。どうやらイメージされているのは、『三国演義』のほうみたいです。
でも、おおきな見通しを得ることができそうな本だったので、気になったところだけ、抜粋しておきます。
結論からいうと、橋爪氏いわく、中国というのは、ハイブリッドな統治機構だと。実力がなくても世襲の皇帝と、実力があって世襲でない官僚という、ふたつが組み合わさっている。たまに、官僚の実力までなくなってしまい、「皇帝もだめ、官僚もだめ」となると、革命が起きると。

以下、本文に沿って抜粋します。

まえがき

日本にとって中国は、西洋以上になぞである。
中国にとっても、中国はなぞである。ただし、自分を理解できないのは、西洋も日本も同じである。中国ばかりが、特異なのではない。

ぼくは思う。この話形は、よく出てくる。つまり、当事者にすら、自分たちがどういう構造のもと、なにを目標として、なにをやっているのか分かっていない。この視点は、なんども留意したいと思う。
分析者にとって、「どういう構造のもと、なにを目標に、なにをしているか」を指摘するのが仕事だ。すると、少なくとも分析対象さんには、これらを知っていてほしいと願ってしまう。つまり、「あなたが知っている秘密を、他人である私に教えてください。教えてくれないのなら、せめて推測しましょう」と思う。当事者ですらなにもわかっていないとなれば、分析者は絶望する。だって、とりだすべき秘密が、どこにもないことになってしまうから。
しかし、やはりこの本の視点のほうが正しいのだ。分析者は、「秘密を聞きだす」のではなく、自分で話をつくらなければならない。当事者に、自分がつくった話を見せて、「どうでしょう」と問わねばならない。ただし当事者に却下されても、その分析の有効性は損なわれない。

社会学者は、西洋を標準として社会学の理論をつくった。その理論を検討せねばならない。社会学/社会科学にとって、中国は試金石となる。

中国は「国家」なのか

国民国家(ネイション・ステイト)の背景には、ナショナリズムがある。アーネスト・ゲルナー によれば、民族(ネイション)と、国家(ステイト)を重ねようとする志向(オリエンテーション)のこと。
民族とは、ある同一性によって、べつの差異を覆いかくす作用である。
中国人は、「中国人を信用するな」という。「クレタ人はウソつき」とおなじ逆説である。彼らは、どの尺度を同一性と見なしているのか。
「中国」というアイデンティティは、どこにあるのか。
、、中国は、「中国」とよばれない。統一政権の固有名でよぶ。

2千年以上前になぜ統一できたか

西洋に由来する「国家」「主権」という概念で、中国を説明することはできない。中国の帝国の統一の核とは。紐帯とは。
西洋では、国家が成立する前、フランスの農民は、土地と同じように国王の資産だった。婚姻関係でむすばれる、王家や貴族との関係のほうが重要。婚姻のネットワークに属しているが、フランスという国家に属しているのではない。
ベネディクト・アンダーソンは、出版資本主義が、ネイションという共同意識をつくったと考えた。

中国では、2千年以上前に、EUならぬ「CU」をつくれた。なぜか。これは、「なぜEUはこんなに遅くなったか」という質問と裏腹。
欧州では、地理的に物質の移動がたいへんだった。キリスト教は「情報」なので、戦争をしないでも移動でき、統一をつくりだした。

政治的統一こそが根本

中国とフランス、中国と日本を比べるのは、ライオンと爬虫類を比べるように、カテゴリがおかしい。中国とEUならば、比べられる。EUの面積は、中国の半分以下だが。
EUは、いかに広域の社会を統一することが困難かをしめす。

EUは、ソビエトとアメリカに挟まれた。だが、挟まれたという地政学的な要因だけでは、「われわれ意識」は生まれない。安全保障のために、超越的な暴力でおさえこむとき、「われわれ意識」が発生する。夏王朝に帰依すれば、異民族から守ってやるという相互契約により、「われわれ意識」は始まった。
政治的な統一(異民族から守る)が根本にあり、政策的なオプション(法家か儒家か)は選択できる。この順番が、中国の本質である。

中国の生存戦略の起源

中国の運転は、日常的なチキンゲーム。接触する直前まで、進路をゆずらない。日本人には見られない。
ホッブズの初期状態では、万民が闘争する。中国の交通は、この初期状態ににている。統一に向いていないように見える。
中国の交通は、行為功利主義(結果的に事故らなければ、すべて良し) にも見える。ダメなものはダメという、規則功利主義(結果ではなく、初めからルールを守れよ)は希薄である。エゴに見える。
つよい軍閥にびびるから、一応の秩序が保たれるだけ。万人の社会契約のごとき、正統性の根拠がなさそうにみえる。

そうじゃない(と橋爪氏が反論する)。
中国は、行動の予測可能性がたかい。個人心理に還元して、自己主張が強いと考えるべきでない。文化のせいでもない。
日常的にチキンゲームをやっているが、彼らなりのルールがある。彼らが予測できないほどの、交通安全的な行動をとると、かえって事故る。ぎりぎりまで接近してから避ける、というのが、ルールである。ゲーム理論的な均衡である。この均衡状態を、再帰的に意識する。

はじめ都市国家は、高価な青銅器で武装した者だけが支配し、戦車で戦った。だが安価な鉄器がでてくると、農民が武装して、戦車に対抗した。貴族が没落し、農民の社会的な地位が上昇したのが、春秋戦国時代。孔子の父も戦死したらしい。
日本には、青銅器と鉄器がいちどに入ったので、これらの時代の変遷がない。青銅器の都市国家、という時代がない。日本史の感覚で、中国史をとらえてはいけない。

儒教はなぜ歴代、採用されたか

法家は平等で厳格な信賞必罰なので、家族を解体する。儒家は親族の秩序を重んじるので、親族を優遇する。
法家の秦のあと、漢は表向きは儒教、ウラでは法家という二重体制だった。 だが、法家と儒家は矛盾する。どのように接合が可能になったか。

接合できたのは、中国の現実にあっていたから。いまの中国は、儒家がつくりだした。儒家は、政治を安定させるノウハウ。政治的統一とは、軍事力の独占と、官僚機構の支配。官僚が支配できるのは、背後に軍隊がいるから。
ただし中国の軍隊は、武器と食糧を政府に依存する。正規軍のかたちで固定されている。正規軍を維持するには、税金がいる。法家は納税をほめないが、儒家は納税を「道徳的だ」とほめる
中国の農業は家族経営である。労働の意味づけは、農地を相続できること。子孫から、祖先として崇拝してもらえるから、がんばれる。農民は、「重税はイヤだが、侵略者を防いでくれるなら、仕方がない」と考える。
法家が脅して支配をつづけるには、コストがかかる。法家には正統性がない。だが儒家は、家族的な相互扶助をベースにした、農業的生産形態とマッチする道徳原則をもちこむ。意思貫徹原理に、正統性原理をつけくわれることで、秩序を維持することができた。

会社にもいますね。なんでもルールどおりという。ルールを恣意的に解釈して、部下が何をやっても「また、お前はルールに違反したのか」とおどす。いちおう威圧により、支配は成立する。しかし、いつも怒り続けていなければならないので、とてもコストがかかる。ぼくから見ると、どうしてそんなに怒り続けているのか(不必要に支配のコストを支払っているのか)が疑問だった。怒られて恐ろしいというより、率直に不思議だった。だが法家の論理なら、そうなるわけか。『韓非子』にあるように、職務なんて、境界線上では、分担があいまいである。良かれと思ってやったことを、あとから失点にかぞえることは簡単だ。
そして法家は、みなから恨まれて、商鞅のように悲惨な最期を。
表面上は儒家、じつはウラでは法家。この二重性は、おおきな組織を維持するためには、けっこう使えるのかも。だから、ウラのはずの法家のロジックばかり、ふりかざすような酷吏は、成果はあれども排斥されると。
法家には正統性の理論がない。というか、定義に照らして、正統性なんてものを必要としない。だって、しょっちゅうゼロベースで、ルールに基づいて説明していくだけだから。


ほかに儒家は、ローカルな血縁集団から、官僚機構によじのぼる経路をつくった。儒家は、上昇志向の強い農民層を支持することがモチーフである。科挙となる。「忠」の論理になる。

安全保障が何より大事

「幇」は血縁をこえた、メンバー相互の全身全霊的なコミットをもとめる共同体。血縁は運命的で、選択できない。官僚は誰でもなれない。血縁と官僚のどちらにも入れない人が、幇をつくる。
しかし100人規模はむずかしい。

中国の場合、幇は中間集団である。トクヴィルがみたアメリカの、信仰共同体が、中間集団である。中国の中間集団は、制約をうける。政府(行政官僚)の指導に従うこと。最後の最後には、血縁を上回ってはならぬこと。このように、上と下ではさまれる。
これは安全保障のため。
万里の長城は、建設コストがかかる。農民が必要性に合意しなければ、万里の長城はつくれない。安全保障が第一である。安全保障にデメリットのある「幇」は、いけない。だから制約がかかる。幇は中国にとって、二次的なものである。

儒教の戦略は、まずトップは血縁で継承される。天子である。それ以外は、能力主義と抜擢人事である。科挙である。血縁と能力の、二元的な組み合わせである。
儒家経典で理想とされるのは、堯舜禹である。原初の混乱状態では、禅譲により有力者が君主となった。禹まで禅譲されてから、世襲に切り替わった。儒家では、禅譲と理想としつつも、現実には君主が世襲されるのが良いと考える。

このあたりの「まるめかた」は、ちょっとね。詳細に検討したいと考えているだけに、これですませられない。

トップは有能でなければならない。禅譲の理想が示すとおり、第一の公理である。でも現実には世襲である。それならブレーンが有能でなければならない。これが第二の公理である。有能な行政官僚を要請するのが儒教である。

すべて、まとまってしまった。063ページ。


科挙と宦官の謎

世襲の原則と、能力主義の原則が、両方組み込まれているのはなぜか。いちばんの中核で、血縁に妥協している。
これは、ハイブリッド、異種混合である。
君主が世襲だと、政治が安定する。官僚が有能だと、政治が機能する。純粋の世襲、純粋の能力主義でもない、あらたな性質がうまれる。コンクリートと鉄筋とか。
君主も官僚も無能だと、全とっかえが起こる。易姓革命である。しかし原則は変わらないから、似たような政府ができる。革命は、『孟子』が肯定する。革命を承認する思想なので、マルクス主義ににている。だから中国で、マルクス主義が成功したのかも知れない。
チップが世襲されることの、レジティマシー(正統性)とは、継承線のただしさ。血縁の遠近を示した。能力のある弟がチャレンジできなかった。血縁のカリスマを証明するために、宦官が設置された。

ぼくはいう。十常侍の張譲には、実子がいるらしい。『北堂書鈔』148にひく曹丕『典論』は、太医令の張奉がアルコール中毒だという。張奉は、張譲の子にあたる。張譲もまた酒好きなので(好みが同じなのは親子の証明というロジックか)、孟佗からの葡萄酒をよろこんで受けとった。張譲は再び去勢して後宮に入った。 #夢断三国 ほんとかよw
@aokitomo_zZ さんはいう。宦官に実子がいるのは珍しいことではないようです。つまり去勢する前につくった子どもというだけで。(張譲に関しては、もとの漢文を読解できないので、見当はずれなことを言ってたらすみません。。。汗)
ぼくはいう。成人してから去勢すれば、実子がいてもおかしくないですよね。順帝期の尚書である栾巴(姓は「亦」の下に「木」)は、いちど宦官として後宮に入ったが、「陽気が通じた」ので、男性の官職にもどり、子供もつくったそうです。『夢断三国』という本で紹介されてました。
‏@aokitomo_zZ さんはいう。去勢が不十分だったんですかね。。。宦官の本読んでると、何年かたつとまた生えてくるとか書いてあってなんだそりゃ、となります。笑。でも古代は去勢技術が不完全だったらしいので、治癒して男性に戻ることがあったのかもしれません。
ぼくはいう。去勢手術の失敗例が多いのに、皇帝の血筋が保証されていた(他氏の混入を疑わない約束だった)のは、不思議な感じです。男系の血筋が変わることを、禅譲だ、放伐だと、大々的にモメる人たちなのに、意外にガードが甘いです。手術の技術は、王朝の正統性のアキレス腱ですね。
‏@aokitomo_zZ さんはいう。明清になると皇帝がいつ妃嬪を抱いたか記録してウラ取りしてたそうですが古代はどうだったんでしょう。。。史官というのが生活記録係なのかと思ってました(不勉強)。私自身は、後宮ゴシップ系はマユツバと思うほうです笑。怪力乱神を語らず、とか言ってみる。。。
ぼくはいう。史官は、立ったり座ったり(起居)まで記録するのですから、妃嬪との記録もあるのかも。「司馬炎の羊がどこで止まった」とかです。後宮の事件は検証不能なので、語っても仕方ないかも知れませんが、、宦官は「怪力乱神」にアクセスできる「神官」みたいなものですかねえ。

血縁のカリスマを、だれも信じていなければ、宦官がおかれない。
日本では、180度ちがう。日本は、天皇の妻のところに夜這いできる。官僚は世襲である。

宦官は中和剤である。行政官僚が力をもちすぎないように、裏口入学をつくった。科挙を受けないが、手術をうけた。皇帝からみると、宦官は子供をのこせないので、危険がない。行政官僚は、自分の家族がいるから、潜在的な敵である。

桓帝が、建国の功臣の子孫や、累代の公卿をしりぞけたのは、このライバル意識からか。袁氏だって、後漢から見れば、敵でなくはない。


ランキングへのこだわり

中国では官僚が尊敬されている。文民統制ができている。官僚が、武器や食料の供給ルートをもっていたから。
軍事力によって政権についた皇帝も、政権をとると、軍事力は二の次のような顔をする。前漢の劉邦である。戦争に勝ったくせに、「徳によって君臨する」と売りこむ。過去=儒家経典に、根拠をもとめる。
これを一神教と対比する。
一神教は過去を重視する。神との契約は、時間を越えて不変である。人間は世代交代するが、神は永遠に生きているから、契約は不変でらう。
中国には、godがいない。かわりに「天」がある。天は、政府に統治権を授与する。だが授与の手続が決まっていない。戦争に勝ち残ったというのは結果論であり、正統性には疑問の余地がある。西洋のような、王権神授説では、納得されない。
『孟子』によると、天とは、農民の総意である。農民に不満をつのらせたら、革命がおこる。その反復。
すると政権は、過去の正統な政権と類似していなければならない。それが天命を受けている根拠である。過去の政権が祀天したのと同じく、いまの政権も祀天しなければ。こういう論理である。

こうやって、自由に思考実験するのは、楽しそうだ。


「天」というのは、儒教よりも古いアイディアである。儒教には、はじめから「天」の概念があったのか、微妙である。客観的に見れば、「天」とは、統一政権が現実にできたという事実によって、それを一種、物象化してつくられた概念だろう。本人たちは、「天があって、統一政権が委託を受けている」と転倒してうけとった。_077

日本では、強いものが政権をとる。徳川幕府は、強いから政権をとった。260年間、最強で(戦わないから負けないで)幕末に弱さがバレて滅びた。
だが中国は、強いだけではない。中国が強さの証明をやろうとすると、へとへとになる。統一した途端に、序列を決めて、あらそいをやめる。儒家にもとづく科挙は、試験によって序列をつくり、あらそいを止めさせる。ただし抜擢人事はあるが。

漢字の秘密

漢字の数は、概念の数である。ひと握りの官僚だけが漢字を理解でき、大多数の農民は理解できない。構造が固定化する。科挙は、文字の能力を試しているのでは。農民は、文字を剥奪された状態におかれる。

第2部では、毛沢東だけが、政策の失敗をまぬがれる話。毛沢東のまわりで、特殊な磁場や重力がはたらく。これは皇帝制のなごりだろう、という話。以下、はぶきます。

ぼくの感想、メモ

橋爪氏がおもに解説をされるのだが。
世襲の天子と、有能な官僚というハイブリッド。おおむね、これで説明できるのだが。ぼくらが興味を持っているのは、後漢末から三国。このハイブリッドが、うまく機能しなくなった時代を、おもに読解しようとしている。天子の世襲がうたがわれる。というか、世襲されない。天子は、批判をまぬがれていない。
袁氏なんて、「有能な官僚は、なぜ天子になってはいけないのか」という問題のカタマリである。なぜ袁術は失敗して、なぜ曹丕は成功したのか。これを説明にするには、橋爪氏の見通しだけでは足りないのだ。
もちろん、「例外があるから、橋爪氏は無効である」なんていう気は、まったくない。むしろ、機能不全の局面にこそ、ことの本質が見えたりするのだ。「漢帝を批判する者は、支持されない」という、よくわからん状況もありますし。みんな、後漢が滅びると思っているのに、後漢への批判は聞きたくないのだ。
堯舜禹の話も、これじゃあ、納得できない。

ハイブリッドの、ガソリンと電気が切り替わるタイミングについて、ぼくらは見ている。その切り替えの機構を解明できてこそ、ハイブリッドへを理解したと言えるのだろうなあ。20130428

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