読書録 > 宮城谷昌光『草原の風』より、即位の正統論を抜粋

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更始帝の即位をめぐる描写

宮城谷氏の小説で、皇帝即位がどのように描かれているかを確認する。

読んでいるあいだのツイート。
宮城谷昌光氏の『草原の風』を、今さら読んでます。後漢の光武帝の話。上中下の三巻しかないのに、上巻末で起兵、中巻末で王郎の難。のこすは下巻のみ。劉備に例えるなら、上巻末で桃園結義、中巻末で虎牢関、ぐらいにスローペース。果たして天下統一できるのか。もしかして、全10巻を連載休止中?
宮城谷さんの本領は「伏線を張ること」だと思う。史料と重複する場面においては、シジ通鑑ならぬ、ホボ通鑑、ヤヤ通鑑、ママ通鑑などに陥りがち。だが、史料に登場するより以前を創作してくださる。「こういう因縁があったから、史料に登場した後、彼らはこう動いたのか」と思わせてくれる感じかなあ。
ぼくは思う。小説の途中で宮城谷さんが、『資治通鑑』というテキストがある、と新鮮みたっぷりに紹介を言い始める。そんなこと(宮城谷さんが『資治通鑑』を、べったり参照していること)くらい知ってるよ! と、こちらが恥ずかしくなった。例えるならば。ずっと手元のメモを見ながら、もじもじと喋っていた講演者が、講演の終わりにさしかかって、「じつは本日の内容は、メモして用意してきまして」と種明かしをしたとき、聴衆は身の置き場がなくなる。それと同じである。

より正しくいうと、皇帝即位について、登場人物がどのように認識していると、宮城谷氏が描いているか、を確認する。

ぼくは思う。歴史小説の書き方などのノウハウ本には、作者がしゃしゃり出るな、と必ず書いてある。「説明するな、描写せよ」という。作者が出しゃばり、史料の解説や批判や論評をするなと。出てきて良いのは、司馬遼太郎や陳舜臣氏などの大御所だけだという。吉川英治氏ですら「食人」につき、極めて申し訳なさそうに登場した。作者の登場は原則禁止なのです。例えば小前亮氏の小説は、作者の出しゃっばり禁止に忠実で、徹底して描写されている。いっぽうで宮城谷氏は、出しゃばりすぎ(大御所だから許可がおりたという認識なのか)。
でもぼくは(歴史小説のノウハウの原則に反しても)作者が出しゃっばる小説のほうがおもしろい。大御所じゃなくても、作者が前面に立つ歴史小説の市場が、もっと成熟したら楽しいのに、と思うなあ。若い小説家が、出しゃばりながら、歴史を描いてくれたらと思う。史料とひき比べながら、「この史料を、このように調理するか」という楽しみ方のほうが、生産的だと思う。
ぼくは思う。歴史小説の読者(とくにファン歴の浅い人)が問う。「この小説は、どこまでがホントウか」と。ワケ知り顔の人が「この小説には、ウソ=創作が混じる」と回答する。これで興味を失う、という残念なパターンが多そう。読者が歴史小説に求めるのは、「作者による解説がない」原則に忠実な作品ではない。多少は、話の腰が折れてもいいから、解説してほしいのだ。きっと。
ぼくは思う。歴史小説の読者は、あたかも教科書の延長のように、歴史小説を読みたがる。「なにがホントウで、なにがウソ=創作なのか」を、作者がお節介にも本文のなかで解説するほうが、読者の向学心?を満足させ、興味を持続させる。日本で初めて『三国演義』が紹介されたときも、教養のテキストという装いだった。この一事をもっても、歴史小説の受容のありかたが分かる。と思う。


華彩の道_上巻188

「あの人は、どなたでしょうか」
劉秀はまなざしを遠くにむけた。このまなざしのさきに緑におおわれた高地があり、そこに枝ぶりのよい松が樹っている。その松の根元に腰をおろしてこちらをながめている人物がいる。今日だけではない。毎日そこにきて田畑で働く人を観ている。
「あれは、おそらく、劉小張の子の玄であろう。あざなは聖公という。たいそうなあざなよ。しかしなにゆえ、あんなところにいる」
と(劉順は)いった。

こういう、『後漢書』劉玄伝の外部にあふれた記述(宮城谷氏の創作)を、選択的に抜粋します。
『後漢書』劉玄伝を抄訳、袁術が目標とした、一番のりの皇帝


地の声_上巻218

自宅にもどる途中、劉秀のうしろからきた馬車が、通過するとすぐに駐まった。車中の人はふりかえりもせず、声も発しない。まるで劉秀が歩み寄ってくるのを待っているようである。劉秀は馬車の横に立ち、目をあげた。
「聖公さま・・・」
そう呼ばれて、はじめてまざなしを動かした劉玄は、
「わたしのことを知っているようだな」
と、いった。すこしざらついた声である。面貌は血管が浮きそうな白面で、それだけに髪が濡れたような黒にみえる。
「わたしに、何か――」
「そのほうは、稼穡の達人だそうだな」
劉秀は微笑を浮かべ、
「わたしは学生にすぎません。稼穡を学びつづけているのに、達人とは――」
と、いい、一礼して歩きだそうとした。劉玄はむっと眉を寄せ、
「待て、稼穡には師がおらぬはずだ。学びつづけているなどと、いいかげんなことを申すな」
と、とがめるようにいった。劉秀は、
「農事は、日と土と水から学ぶものです。しかも農事は独力ではできません。孤高ということはありえないのです。人を相手の学問であれば、かえって人から離れることもできますが、天地水を相手では、どうしても人から離れることはできず、学びつづけなければならないのです」
と、あえてやわらかい口調でいった。劉玄は劉秀を睨むように視たが、急に顔をそむけた。苛々と、馬車は去った。
――やれ、やれ。
劉玄という少壮の人は、つねに殺気立っているわけではあるまいが、おだやかに対話できるような人ではない、と劉秀は感じた。とにかくこういう人と短時間でも話しをすると疲れる。

ぼくは思う。劉玄=更始帝と、対立するための伏線。コミュニケ-ションが成立していないことが描ければ、内容はなんだって良いのだろう。


昆陽の戦い_中巻107

賊と呼ばれていた者がちが、
「皇帝」
を立てるというのであるから、おどろいきだる。
もっともかつて中央政府に叛逆した者たちのなかで、一時期、巨大な勢力を得た者は、天子きどりで、組織に官制をもちこみ、王朝の位官をまねるということはあった。その、まねる、というところに、真の革命はないのだが、官制に奇想をもちこむほど 非凡な者はほとんどいなかったといってよい。南越王となった趙佗(尉佗)は、例外的に成功した。

朱鮪は、
「皇帝にふさわしいのは、劉聖公どのである」
と、怒鳴るようにいった。
――これは、おどろいた。
劉聖公とは、劉玄である。劉玄は、これといった武勲を樹てなかった。しかも将とはいえず、いわば文官である。そのような者を皇帝に推す朱鮪らの魂胆は、見えすいている。

皇帝というのはおもに中国の国内での呼称であり、中国の外に住む民族には、天子、という。すなわち皇帝と天子はおなじ人であり、天子であるかぎり、天意にかない、天命を承けなければならない。天命がくだったことは、祥瑞によってわかる。舂陵を発してからここ宛まで、革命軍に祥瑞はなかった。それゆえ皇帝を決めることは、天意にさからい、やがて天のとがめをうけるのではないか、と劉縯(光武の兄)は考えていた。
もしこちらが皇帝を立てれば、赤眉もかならず皇帝を立てる。するとこの二大勢力は真の皇帝をめぐって争うことになろう。
反政府勢力が争うようになれば、喜ぶのは王莽である。王莽はまだ滅んでいないということを忘れていないか。またその争いは、悪をこらしめることにならず、世間では、
――利を求めて争っている。
と、みる人が多いであろう。利を求める者が成功したためしはない。
舂陵から発した軍は、三百里すすんだだけである。これで、功がある、といえるであろうか。もしもこの軍が主を立てるとすれば、その人を皇帝とは呼ばず、王と呼んだほうがよい。それなら天下の標的になることをまぬかれることができる。
要するに、皇帝を立てるのは早すぎるので、そのような議論はむだである、と劉縯は(会議への)出席をことわった。
が、朱鮪が、
「皇帝は、決めねばならぬのだ。天下に王は百人いても、皇帝はひとりである。わが軍が唯一無二の正体(せいたい)であることを天下に知らしめねばならぬ」
というと、張卬は剣で地面をたたいた。
「疑事は功なく、疑行は名なし」
『史記』にある言葉で、大事をなすときにためらっていては成功しないし、行動においてためらっている者は名声を立てることができない、ということである。張卬がこの言葉を知っていたということは、かれがただの賊ではないあかしである。

――主導権争いだな。
劉秀はそれを平林や新市の焦りとみた。官軍との戦いは、東では赤眉、荊州では緑林がはじめたのであり、劉氏はそれに便乗したにすぎない。それを諸豪族にわからせるために、かれらがかついだ劉玄を最高の位に登らせる必要があった。

即位式を遠望していた数千の兵は、劉玄が壇上で手を挙げたとき、どよめいた。
――これでこの軍は、叛乱軍でも賊軍でもなくなった。
すべての兵がそういう誇りをもった瞬間であった。
おどろくべきことに、劉玄の即位はのちの歴史書にかならず記載され、かれは、
「更始帝」
と、よばれる。みかたによっては新市と平林の将がかってにおこなった不遜な儀式にすぎなかったであろう。

劉秀は笑貌をむけて、
「今日は、兄上に賀辞を献じにきました」
と、いい、人払いをしてもらった。
「どこに慶事がある」
座に坐った劉縯はいらいらと膝をゆすった。
「劉聖公どのは天意にそって即位したのでしょうか
「天意にそむいて即位したのだ」
「それではかならず天譴をうけます。すなわち兄上のために犠牲になってくれるのです。そういう人に、なにゆえ兄上は礼意を示さないのですか。天意を知り、人をいたわるとは、そういうことではありませんか」
劉秀のことばには説得力がある。

マジか!?

一考した劉縯は表情をあらためた。

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光武帝の即位をめぐる描写

王者への道_下巻223

議論が活発におこなわれた。正義とはどのようなもので、どこにあるのか。それについて討議するうちに、諸将はひとつの結論に達した。
「蕭王(劉秀)に皇帝号を奉ろうではないか」
もっともわかりやすい正義の立てかたがそれである。
馬武は、言を揚げた。
「尊位におつきになって、今後の征伐について議論すべきです。天下に主がいなければ、賊もいないことになり、われらが走りまわって攻撃しているのは、どのような意義があるのでしょうか」
劉秀はおどろいた。内心、うろたえたといってもよい。
この乱れた世をどのように鎮め、治めるか、と考えはじめたのは最近のことではないが、
――天子の位に即く。
ということを、渇望したことはない。殷の湯王、周の武王、漢の高祖は、郡臣に奉戴されただけで最高の成功者になったわけではない。
「なんじが天子になれ」
と、天に命じられた時があった。あえていえば天子の位は天がつくったものであり、人が作った皇帝の位とはちがう。秦の始皇帝は、皇帝であったが、天子ではなかったがゆえに、その王朝は永続しなかった。

ぼくは思う。正統性のロジックに、天という権威を背後に設定することを重視するか、しないか(人間による権威のみを基礎とするか)という違いである。どちらが正しいとは言えない。それこそ「議論してもムダ」なイデオロギーの対立である。劉秀は、前者に近かったと。古いもの、尊いもの、に根拠を求めるのは、ひとつの態度であり、儒家はこれをよくする。劉秀も「歴史に学ぶ者」として描かれているから、前者になじむ。
ぼくは思う。たとえば民主主義は「臣下の奉戴をもって、正義とする」という発想に近いだろう。なんでも人間が決められる、という(根拠のない)確信にもとづいている。良悪や正誤ではなく、根拠ぬきの決め撃ちである。

天の咎めをうけて滅亡したようにおもわれる。それゆえ劉秀は、天の声を聴かないかぎり、天子の位に登ってはならぬ、と自分にいいきかせていた。漢の高祖は酒食を好んだが、じつは神を畏敬する心を失わなかった。

ぼくは思う。「神」は多義すぎて、もはや使うべきでないな。

それゆえ天命をよく知っていた。

劉秀の従者は、敵兵の屍体も埋葬した。それをみていた劉秀は近寄り、
「よいことをしてくれた。人を恤れむとは、そういうことだ。おかげで、わたしは周の文王にすこし近づけた
と、満足げにいった。
「周の文王は偉かった、偉かった。周の王朝は八百年続いたのだぞ。これほど長く続く王朝は、おそらくもうでないだろう。

ぼくは思う。始皇帝のせいで、王朝が継続する要件が厳しくなったからだろう。王朝は強く、かつもろくなった。周家のようにやんわりでも、年数をカウントされるなら、ほかにも八百年の王朝が出たに違いない。

ほんとうの王者とは、周の文王のことをいうのだろうな。それから英雄は幾人もあらわれたが、みな覇者であり、王者ではなかった」

孔恂がすすみでて、献言をおこなった。_230
「大王(劉秀)は河北を安定させました。いまや大王は天下の三分の二を保有なさる。武力と文徳において、大王がはばからねばならぬ相手は、どこにもいません。帝位は、いつまでも空けておいてはならず、天命は、謙虚であってもこばんでなならぬ、と聴いています」
劉秀は、またそれか、とわずかに不快をあらわして、
「申すな」
と、みじかくいい、聞き捨てにした。
「よいか、寇賊はいまだに平定されておらず、四面は敵ばかりではないか。こういうときに、にわかに天子と称し、帝位に即いてもよいものであろうか」

ぼくは思う。この小説は、劉秀の即位までで、ほぼ枚数をついやす。つまり、初戦をいくつか勝ち抜き、とりあえずの根拠地を得たとき、劉秀は即位する。まだ隗囂や公孫述のような協力なライバルは、のこっている。更始帝や赤眉だって、まだ残っているのだ。光武帝の現状認識はまさに正しく、更始帝ほどではないにしろ、先走りすぎだ。
もし袁術が主人公の『淮南の風』を描いたとしても、袁術の皇帝即位までで、枚数の大半をついやせば、同じような体裁の小説ができる。皇帝即位までは、両者に違いがないのだ。
上巻で、四世三公の富強の環境でまなび、友人と交際して人脈をつくる。上巻末に、やっと霊帝が死ぬ。中巻で、董卓と戦い、南陽に落ち着き、淮南に移動する。下巻の中盤で、皇帝に即位する。最後の最後(ラスト7分の1)で、ちょっと残念な結末になると。
いかにも偏っているが、『草原の風』の構成は、こんな感じなのだ。最後の最後は、キャラが登場したとたんに、後漢における最終的な官職をいい、没年が書かれる。ちゃんと描く気がない。『後漢書』光武紀の比率からすれば、後半が無視されすぎなのだが、これがこの小説なのだ。

耿純は名門の出身であるが、理想主義者ではなく、人は正義になつき従うものであるとはいえ、利害によって集散するものであるという現実的な認識をもっていた。

ぼくは思う。今日のぼくたちは、資本主義の市場が価値観を規定して、貨幣価値に換算する病気にかかっている。かといって、資本主義以前だって、べつに「利益を悪む」ほどではなかった。資本主義の弊害をのぞくため、利益の偏重を自分のメガネから取り除くとしても。あまりに矯制をしすぎりと、史料を正しく読解できなくなる。利益は(今日ほど支配的でないにしろ)価値観を規定する、おおくの尺度の1つだった。
耿純は、利害の話をしている。

「天下の士大夫は、親戚をすて、故郷をすてました。大王の功業は定まり、天も人もそれに応じているというのに、大王は帝位に登ることをなさいません。わたしは恐れております。大衆がひとたび散れば、ふたたび集合させることはきわめてむずかしいのです。時をとどめてはなりません。大衆にさからってはなりません」
利を軽蔑してはなるまい。
かつて儒教信奉者の王莽は、正義を高く掲げすぎたがゆえに、利を忘れ、大衆の支持を失った。儒教的理想を実現しようとした王莽の政治は、教育面において評価されてもよいはずなのに、いまではすべてが悪業とみなされている。
――それは、わかるのだが・・・。
と、おもった劉秀は、切言を放った耿純に、
「それについて、よく考えてみることにする」
といって、はじめて帝位への関心を示した。_233

河内における大勝を知った諸将は、同然のことながら、_237 「蕭王を天子に――」
という郡臣の声がいっそう強くなった。
――沸騰した湯も、放っておけば冷めてしまう。
充分にそのことがわかっている劉秀は、急使をもって、馮異を招いた。四方の動静をきくためである。
馮異は河内郡から急行してきた。馮異は、
――更始帝の王朝は、風前の灯である。
とみた。馮異は即位するよう説述した。
劉秀は、ふと表情をやわらげて、
「わたしは昨夜、夢をみた。赤い龍に乗って天に昇った。目が醒めたあと、動悸がしずまらなかった」
とい、いった。馮異は、再拝した。
「それは、天命が大王の精神にあらわれたのです。心の動悸は、大王の性質が慎重であるからです」
赤い龍に乗って天に昇ったという夢は、つくり話ではない。劉秀はたしかにそういう夢をみた。だが、
――夢は欲望のあらわれではないのか。
と考えてしまう。その夢をみたのは、劉秀ただひとりである。
――天命が降りるとは、そういうものではあるまい。

ぼくはこのあたりの悩み方がおもしろくて、この引用のページをつくろうと決めた。

周の文王の都には、鳳凰が舞い降りてきた。周の武王の船に白魚が飛び込んできた。漢の高祖の上にはつねに龍がわだかまっていた。それらの瑞物は、本人以外の人の目に映ったのである。
――だが、わたしの周辺には、瑞物はひとつもない。
天命の形をみるか、天命の声をききたい。劉秀は胸苦しさをおぼえた。こういうとき、門衛からの報告がとどいた。

「やはり、彊華どのか。なつかしい」
劉秀が(長安)留学中に会った学生のなかで、彊華ほど強烈な人物はいない。同舎生でありながら、神秘的な貴人であったのが、彊華である。

ぼくは思う。このシーンは、会社の食堂で読んでいて、ちょっと泣きそうになった。上巻は、長安に留学し、故郷と往復し、、とダラダラするだけ。上巻末に、やっと起兵するのだから。あのダラダラは、このシーンのための伏線だったのだ。
上巻のじれったさ、これに付き合ったコストが、そのまま、彊華のもたらす情報の信憑性をたかめる。「あれだけ留学の話に付き合ったのだから、留学のとき知り合った彊華が、なにかをしてくれないと、割に合わない」と、読者は考えるだろう。この損得勘定をひきだしたら、宮城谷氏はシメたもので、彊華は安心して、重要なこと(ただし詭弁)をやれる。
彊華は、だれとも喋ってくれない人物だった。劉秀が、一方的に話しかけ続けたら、陰陽の話をするようになった。彊華と話ができたのは、劉秀だけだった。

宮室に入ると、彊華は背から重そうな葛籠をおろした。それから汗をふき、
「みせたいものがある」
と、いい、葛籠のなかから、古びた書物をとりだした。

ちゃんと古いのかよ。劉秀にへつらって、彊華が自作したんじゃないのかよ。この疑いを、おそらく宮城谷氏ももった。だから彊華を、不偏不党の硬骨なおとこに描いた。

『赤伏符』
と、ある。河図の研究者である彊華がもっている書物には、稀覯のものがすくなくない。なかをみせた彊華は、ここを読んでみよ、といい、その書物を渡した。彊華はおごそかな口調でいった。
「天命、そこにあり」
天から降り、地から湧いたような声であった。

建武元年_247

この『赤伏符』という古い書物の文字は、黒いはずなのに、なぜか光彩を放っているように劉秀には感じられた。
「劉秀は、四七の際にに、火は主と為らん」
この文はあらたに書かれたものではない。すなわち彊華あるいはほかの者が捏造した予言の文ではないということである。

という立場を、宮城谷氏はとるということであるw
光武帝の天命を言うために、宮城谷氏は、くどいくらいの伏線と弁明をひろげる。『草原の風』もまた、『後漢書』と基本的な立場を同じくする。劉秀はすばらしい! 正統だよ! と言っているのだ。
ぼくは思う。いまどき珍しいのでは。おなじく先週読んだ、塚本青史『王莽』は、サイエンスの観点から、王莽が起こした数々の奇跡を、人間のしわざに帰そうと、余分な説明をいっぱいつけた。だが『草原の風』は、いっさいの人為を排して、劉秀が正統だという。
サイエンスが隆盛の近代以降に珍しく、合理的な説明を拒絶する。サイエンスで再解釈(もしくはスポイル)する歴史小説はおおいが、宮城谷氏は、それをしなかった。態度としては、後漢の史官に近いw

だいいち彊華は妄(うそ)をつかない。

というために、上巻の長いストーリーがあった。

書物を膝の上においた劉秀は嘆息した。
「なんじが天子となることは、疑う余地もない」
「わざわざこの書物をとどけてくださったのか」
「たまたま、これをみつけたのでな・・・」
彊華の語気がすこし弱くなった。
どれほど感謝しても足りない、というのが、いまのわたしの心です

「その書物は、なんじのものだ」
彊華の背から発せられた声をきいた劉秀は、『赤伏符』をおしいただき、寝所にもどった。
もはや劉秀は迷わなかった。
六月己未の日、劉秀は帝位に登った。

以上、あとから読み返したい『草原の風』の箇所を、だいたい引用しました。130629

ぼくは思う。編年体の『資治通鑑』や『後漢紀』だけを見ながら、積極的に主観を働かせ、台詞やキーワードのたびに改行して、我流の抄訳をすることで、歴史小説の手習いができそう。偉大なる先人を「ホボ通鑑」とけなす前に、自分でも好きにやってみよう。元ネタの『資治通鑑』がおもしろいので、おもしろくなるはず。
ただし公平を期して、出典は明らかにするけど。

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