読書録 > 野間文史『春秋学/公羊伝と穀梁伝』を抜粋

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1-2 春秋学の総論

野間文史『春秋学/公羊伝と穀梁伝』研文出版
を抜粋します。

はじめに

漢武帝が五経を確定する。易、書、詩、礼、春秋。
13経に増加する。三礼、春秋三伝、論語、孝経、爾雅、孟子がくわわった。
南宋のとき、四書が編成される。論語、孟子、大学、中庸。

日本で編纂された体系等には、『左氏伝』ばかりが収録されて、『公羊伝』と『穀梁伝』が収録されない。これらに触れるのは、竹内照夫『春秋』があるのみである。

1 春秋とはいかなる文献か

◆五経について
『易』とは、宇宙論、処世哲学の書。伏羲が記して、周公が手を入れた。のちに孔子が解説(十翼)をくわえた。『易経』『周易』ともいう。
『書』とは、古代の帝王の演説。堯舜から周初まで。周代中期の諸侯をふくむ。3千余編あったが、孔子が1百余編に取捨選択した。『書経』『尚書』ともいう。
『詩』とは、詩歌集。民謡の「風」、宮廷行事の「雅」、祖先を祀る「頌」という3部にわかれる。孔子によって3百余編に編集された。『詩経』『毛詩』ともいう。
『礼』とは、社会生活、家庭生活における礼儀作法。周初に周公によって定められたと、信じられてきた。『礼経』ともいう。
『春秋』とは、魯の国の年代記。孔子が手を加えることで、経書として権威をもつ。_007

知っているようで知らないので、引用してみた。


◆春秋に語らせる_007
『春秋』には「伝」とよばれる解説書、釈義書が数種類ある。独自の観点があるので、それを通じると引きずられる。『春秋』それ自体に語らせたい。

◆『春秋』は現存しない
独自の文献として現存しない。三伝に付随して伝承されてきた。そのため『春秋』本文に異同がある。
『公羊伝』と『穀梁伝』では哀公14年の獲麟で終わる。だが『左氏伝』では、さらに2年後の孔丘卒まで延長されている。
『公羊伝』と『穀梁伝』には、襄公21年の孔子生がある。だが『左氏伝』にはない。『春秋』に記載される人物は、周王と諸侯、諸国の卿大夫のみ。私人である孔子の生卒年が、『春秋』に記されるはずがない。生卒が記されるのは、魯荘公の1人のみ。『春秋』本文に改編があったと見なすべき。

諸子は王官に出づ_009
最古の文献目録は、『漢書』芸文志。そこに諸子百家がある。『漢書』は思想家群が、周王室の官職「王官」に起源をもつと考えている。孔子や孟子の儒家は「司徒の官」から出た。老子や荘子の道家は「史官」からでた。
この班固の主張は、王室が独占した諸文化が、「文化逃亡者」によって拡散したとする。古典文化の集大成とされる孔子は、周王朝の文化が、秘蔵から公開へ、集中から分散へと推移した、過渡期に位置する。

◆『春秋』の起源
ある時期に、公室から公開された資料の1つと思われる。

なるほど! そう見るべきなのね。

周公旦の子の伯禽が封建された、魯国の年次暦が、『春秋』の起源である。魯の隠公元年(-722)から、哀公14年(-481)にいたる、12公、242年のできごとが、編年体で記される。1800余条、16500余字からなる。1年の条数で最多なのは、僖公28年の28条。最少なのは桓公4年の2条。平均すれば、7-8条である。_012

◆『春秋』の形式
即位年を元年として紀年する。公が薨じた翌年が、つぎの公の元年。踰年改元という。これは年号ではない。紀年は年号のように、同一年に複数あることはない
春夏秋冬という四「時」がもれなく記される。例外もあるが。後世のある時期に、春夏秋冬が整備されたという説も無視できない。
春のつぎに「王」と記すのは、周王室の暦法に準拠することを示す。
12ヶ月すべては揃わない。記事のない月、同月に複数条ある月がある。日付は、干支によって記録される。朝聘、侵伐には日付がない。要盟、戦敗、卒、日食には日付がおおい。『春秋』が年次暦を基礎とした記録;だから、日付の有無にバラつきはない。

◆『春秋』の内容_014
諸侯のあいだの戦争の記事がおおい。つぎに、各国の友好関係がおおい。つぎに、魯公をはじめとする諸侯や貴族、周王の死亡記事、葬儀の記事などの凶事。
魯公が会盟から帰国した。諸国内で内紛があった。土木工事した。祭祀した。自然災害があった。など。当時の人々の生活を知ることはできない。

記言の書と記事の書_016
鄭玄は『六芸論』でいう。「『春秋』とは国の史官による、人君の行動の記録である。左史の職が記録したものが『春秋』である。右史の職が記録したものが『尚書』である」と。これは漢代に編纂された『礼記』玉藻編にもとづく。古代の史官は、君主の行動(記事)と、君主の言辞(記言)に分けられる。『春秋』は前者である。
記言の『尚書』は難解であるが、記事の『春秋』は平易である。平叙文のみ使われる。疑問、反語、擬定(するつもり)、推量、相談、勧誘、命令、願望、禁止、感嘆などはない。

◆『春秋』の文体
1字句や2字句もある。助字がすくない。于が391、自が116、及が93など。まったく感情のない文章である。『春秋』が徹底した記事の書(記言でない)ことは了解できる。

◆『春秋』の書式
王安石が「ずたずたにちぎれた官報」とのべた。しかし、魯公の即位、薨ず、葬る、の形式は整っている。整然とした書式である。隠公と閔公には薨じた場所の記述がないが、これは桓公が斉国で薨じているというように、三君には特殊な事情があった。「葬る」の記事がない、隠公と閔公にも、背景に事情がありそうである。

◆『春秋』は魯中心
『春秋』で「我」という一人称が表記されるとき、すべて魯国を意味する。魯の属国(付庸)の記事もおおい。邾、莒、杞、滕、小邾、紀など。

付庸は、王莽が設定した爵位だった。

僖公4年の斉侯とは、斉の桓公。僖公28年の晋侯とは、晋の文公。会合を主催した主催者は、斉や晋であり、魯公は参会しただけ。だが『春秋』は、魯公が会合したという書き方をする。主格は魯国である。

◆尊王の心情_023
周王室への尊崇の念がある。「王正月」という。
覇者ですら下位におくが、周王から使者が派遣された場合、特別な書法がつかわれる。王世子、宰周公、王人、単氏などは、諸侯の上に位置づけられる。周公だけが「崩」をつかわれる。『春秋』に尊王の心情がある。

周封建制度の維持_024
秩序を重視する。周封建制のもとの身分関係である。五等爵制が守られている。宋なら公、斉なら侯、鄭なら伯、楚なら子である。楚子は楚王を自称しているが、王とは記されない。
そして魯が、つねに爵制を越えた存在として記録される。周王室の関係者が上位に置かれるなどのズレもある。だいたい会盟の主催者を上位におき、その他はおおむね爵制に拠ったのでは。
ただし君臣関係は厳格である。晋や斉の大国であっても、同国の卿大夫なら、小国の君主の上にはゆかない。将来、国君となる人物は、大夫の上におかれる。

『春秋』は用字を使い分ける。「朝」「聘」である。魯国に、外国の君主や大夫が訪問した場合、下位なら「来朝」で、上位なら「来聘」である。魯国からなら「如」=ゆくである。
貴族の死亡記事も使い分ける。周王は崩じ、魯公とその夫人は薨じ、その他は卒す。臣下が主君を弑すが、主君は臣下を殺す。
後代に道家『荘子』天下編で、「春秋は以て名分を導(い)う」という。

◆『春秋』の制作年代
天文暦法的な研究により、『春秋』の制作年代を決定する試みがある。日食を調べると、当時の中国では見えないはずの日食の記事が、樊崇異常ある。紀元前300年前後に伝来した、西方の暦法によって、遡って改装された可能性がある。整理しなおされたか。

◆『春秋』の欠字・欠文_027
日食に整理があるかも知れないが、大部分は当時の記録が、なまのまま伝えられていると考える。三伝にも共通して、不備があるからである。「夏五」とあるが「夏五月」とすべきだ。この脱文をそのまま伝承している。桓公4年と桓公7年には、秋冬の記事がない。昭公10年、定公14年に冬の記事がない。
桓公5年には、日付が2つある。三伝とも、日付が2つあることを前提に、解説をつけている。また、同日に行われるはずのない、卒すと葬るが、同日に記されている。葬る日付が脱落したのだろう。
「郭公」という文字が、荘公24年末にあるが、意味不明である。
『春秋』を整理したとするなら、不備がおおすぎる。

◆『春秋』の素朴さ_029
定期的に行われる年中行事は、記述がすくない。年ごとに追加されたはずだが、一定の形式があったはず。2百年以上にわたって蓄積された『春秋』が、なんらかの機会に、厳密な校訂者の手が加わらないうちに世に出て広まり、しかもそれが権威を持つに至ったのである。その結果、後世に三伝をはじめとする解説書が作成されたのであるが、もはやその評価の定まった時点では、作伝者が自己の思想的な立場から意図的に『春秋』に改変の手を加えようとしても、それが叶わなかったのではあるまいか。
だから、桓公14年「夏五」は「夏五月」と訂正されない。『公羊伝』も『穀梁伝』も、疑問のままとする。『左氏伝』は記述がない。『春秋』の大部分は、年次暦を基本とした年代記としての素朴な形を残している、と野間氏は考える。130509

2 春秋学の発生

◆『孟子』と『春秋』_039
『春秋』の権威とは、『春秋』に孔子の理想(義)が込められたと主張されたということ。初めて主張したのは、孟子である。『孟子』がはじめて、『春秋』と孔子を関連づけた。3箇所に言及がある。滕文公編、離婁下編、尽心下編である。

◆孔子 懼れて『春秋』をつくる
滕文公編いわく。孔子が『春秋』を著作した。著作の動機は、周室の王道が衰微したから。著作の目的は、君臣や父子など、上下の秩序を正す。孔子の著作は、禹や周公ら聖人の功績に比するべき。

◆詩 亡びて『春秋』つくる_042
離婁下編でも、滕文公編とおなじ。

◆『春秋』に義戦なし_044
正義の戦さはない。斉桓や晋文の覇業は、義戦ではないという。覇者の存在は、周室の王道が衰微して生じた。ただしくない。

◆春秋学の発生_045
『春秋』に込められた孔子の理想を読みとるという、「春秋学」が発生した。孔子をへた経書に変わる。だが春秋学は、釈義の書「伝」の成立を待たねば、まだ発生したとはいえない。

『春秋』講話説話_046 『孟子』は、孔子が『春秋』を著作したという。それに対して、渡辺卓氏は、孔子が『春秋』について弁舌をふるったという意味だとする。野間氏は渡辺氏に反対である。
ただし、孔子が『春秋』を著作したという『孟子』の記述は、事実なのか。問題があるのため、諸説がことなる。_049

日原利国、高橋君平、渡辺卓、山田琢、貝塚茂樹、竹内照夫、佐川修、浜久雄(それぞれ敬称略)による説明が列挙されている。ぼくは思う。要は「決定できない」のが正解なのだ。『孟子』の主張の内容は明白だが、その信憑性はわからないと。


◆荀子と『春秋』
孟子に50年おくれ、性悪説をとなえた『荀子』によると、『春秋』を経書として権威を認める文脈が5例ある。『礼』『楽』『詩』『書』とならぶ。_052

『荀子』いわく、『春秋』に込められた孔子の義とは、「微(妙)」である。「辞は微にして指は博し」とか、「『春秋』の称は微にして顕、志にして晦、婉にして章を成し、尽してウせず、悪を懲らしめて善を勧む」という。
『荀子』の時代は、『春秋』の釈義の書「伝」の成立と前後する時代である。_055

◆諸子と『春秋』
『墨子』にでてくる「春秋」とは、周や斉の歴史書一般である。『春秋』は簡潔だが、『墨子』が引用する「春秋」は詳細な説話である。『墨子』も歴史書一般の意味でつかう。『孟子』に先んじる『墨子』のなかには、まだ孔子と『春秋』を結びつける発言がない。
『荘子』にも「春秋」の語があるが、孔子のものでない。_056
『韓非』では、孔子と子夏が『春秋』を講説する場面がある。子夏と『春秋』を関連づけたのは、『韓非』に始まるようである。_057
『韓非』の説明と、『穀梁伝』僖公33年の注釈は、近似した部分がある。『左氏伝』昭公元年、襄公25年に近似した部分がある。『春秋』の伝義が、諸子の成立と相前後する(戦国末期)であることを予想させる。

ぼくは思う。秦家による統一がなったので、思想が分裂・生成する動きが、止まったのだろう。戦国末期に成立したというより、戦国末期の断面が保存されて、漢代に継承されたといったほうが、実態にあっているかも知れない。

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3-4 『公羊伝』の成立と思想

3 公羊伝の成立とその伝文構造

◆『春秋』の三伝_061
『漢書』芸文志では、左丘明の『左氏伝』が孔子の真意をつたえるという。『左氏伝』の成立事情を述べるために、大半をついやす。『左氏伝』の優位性をのべるのが趣旨だろう。
『春秋』には五伝があるとわかる。『左氏伝』は、秦家に圧迫されたので、世に出るのがもっとも遅れた。『公羊伝』と『穀梁伝』は、学官(国立大学の正式教科)がたった。『鄒氏伝』『夾氏伝』は、すでに班固の時代に伝わっていなかった。

◆『公羊伝』の作者とその時代_063
作者と制作年代は明記されない。『漢書』芸文志では「公羊子」とあるだけ。班固は作者を特定していない。これは『穀梁伝』も同じ。
後漢の何休『春秋公羊解詁』には、漢代に入ってから、公羊氏と弟子の胡ム生が文献化したとみなす。 後漢の戴宏『解疑論』序によって、はじめて公羊学の系譜が明らかになる。だが、4百年以上を5人の父子や子弟でむすぶ。時代があわない。『公羊伝』が、胡毋生によって最終的に整備されたことは、正しそうである。_066
『史記』儒林伝は、春秋学は斉魯で胡毋生からはじまり、趙地では董仲舒よりはじまるという。どちらも、漢景帝期に『公羊伝』を修めることで、博士になったという。胡毋生は、董仲舒とおなじ学師に学んだという。胡毋生は、董仲舒の先輩かもしれない。『公羊伝』成立の下限は、漢景帝紀である。

◆『公羊伝』の経師
『公羊伝』文中には、伝義を解説する、複数の「経師」の名がでる。子公羊子のほかに、子沈子、子司馬子などがいる。
経師の役割は3つである。
1つ、伝義を補説する。ただの言葉の意味ではない。「不通」とは、とりまくこと。子沈子がいう。「不通にするとは、属国にするという意味だろう」と。まず「とりまく」という伝文が成立し、あとで挿入や付加されたものだ。
2つ、伝文とはべつの説を提出する。伝文は「西宮があるなら、東宮もある」というが、魯子は「西宮があるなら、三宮ある」という。
3つ、経師の説を、さらに「なぜか」と掘り下げる。

以上から『公羊伝』は、1人が著作したのでなく、ながい時間をかけて、累層的に形成された。それぞれの経師が、いかなる人物かは分からない。

◆『公羊伝』の問答体_070
すべてが問答体である。隠公元年の紹介。
一字一句について解説する。『春秋』が文王以来の王道で統一されるべきこと(大一統)をのべ、隠公の即位の記事がないのは、桓公に譲位する意志を成就させるためという。隠公が殺されたので実現しなかったが。
修辞がすくなく、簡潔でたたみかけるリズム。

◆問答体と口伝説_072
『公羊伝』が口授で伝えられた名残が、問答体をとらせるという。何休も口授という。
しかし、漢代までに成立した古典は、おおくが口授で伝えられた時期がある。『公羊伝』だけが、口授を特徴とするのでない。また師匠から弟子への教授でなく、一方が他方を論破する議論でもない。『公羊伝』が創作した文体のひとつだろう。

◆『公羊伝』の『春秋』観
『公羊伝』自身に、『春秋』について述べた部分がある。

つぎにやる『穀梁伝』にはない。

末尾の哀公14年の獲麟のところで、『公羊伝』の総論あるいは自叙がある。_074
真の王者が治める太平の世に出現すべき仁獣が、乱世に出現して捕らえられた。孔子は「道の窮まり」を読み取った。孔子は『春秋』を制作することで、撥乱反正して、堯舜の道を祖述しようと考えた。後世の聖天子に期待した。

◆堯舜の道_076
『公羊伝』が最重視するのは、周文王。隠公元年に「王とは文王のこと」という。僖公22年の荘襄の仁では「文王の戦さ」という。
周公も『公羊伝』が重視する。『公羊伝』は斉桓公をほめるが、僖公4年に「桓公でさえ、周公に及ばない」という。
孔子は、文王と周公を介して、堯舜に関係づける。堯舜の道を後世に伝えるのが、文王と周公である。聖人の系譜とする。

何休は、『公羊伝』が想定する「後聖」を劉漢帝国の君主とする。あとで検討すべき問題である。

◆王道 備わり、人事 あまねし_078
隠公元年から、哀公14年の242年間で、『春秋』が首尾完結したものというのが、『公羊伝』の『春秋』観である。『史記』の12諸侯年表序にもある。
『左氏伝』は、隠公元年より以前からはじめ、獲麟より10年余も伝文を書き続ける。だが『公羊伝』は242年きりである。

◆『公羊伝』と『孟子』
『孟子』の春秋観に通じる。『孟子』は、孔子が衰えを懼れて『春秋』をつくるとする。孔子が、周道の終焉を、獲麟によって知る。あるべき道を『春秋』に記述した。この主張は、『公羊伝』と『孟子』で同じである。
昭公12年の、斉桓と晋文への評価は、『孟子』を踏まえる。
『孟子』もまた、文王を追うじゃの典型とした。「堯舜の道を楽しむ」という『公羊伝』は、『孟子』が典拠である。
『孟子』によって芽生えた春秋学が、『公羊伝』に継承発展されている。

◆属辞比事は『春秋』の教なり
漢宣帝の礼学者である載聖が、『礼記』の経解にていう。『春秋』の教えとは、属辞比事であると。 _082
「属」とはあわせること。「事」とは記録された事件。「辞」とは記録法。属辞比事とは、『春秋』に記録された事柄と記録法とを集めて比較することによって、込められた「春秋の義」を明らかにすること

即位の記事をならべると、「春王正月公即位」というのが正式の記録法である。しかし、隠公、荘公、閔公、僖公には即位の記事がない。比較することで、弑君を継いだ新君には即位の記事を書かない、という規則を導出する。子として即位をいうのは、しのびないという心情の表れと見なす。

ぼくは思う。あらたに即位があったとき、記録官は、過去の事例をめくって、記録法をまねたのだろう。なかなかノウハウは蓄積されない。マニュアルも作成しにくい。年に数行しか書かないから、ノウハウもたまらない。彼らのおっかなびっくりの作業が、後世からまとめてみると、何らかの規則性を持つように見えるのだろう。

「薨」に場所を書くか、「葬」と書くかにも意図が読まれる。_086
君が弑されて、仇を討っていない場合、埋葬を記さない(復讐の是認)。弑君には、薨じた場所を記さない(あってはならぬ事件をはばかる)。
経文の同一の記事を集め(属辞)一定の書式を見いだす。これが「義例」になる場合がある。つぎにその書式から外れたものを、歴史的事実を比較することにより(比事)一定の原則を見いだす。これを「義例」とする。さらにこの「義例」からはずれるものは、『春秋』の著者たる孔子の意図がつよく働くとして、個別具体的に歴史的事実を検討して、意図を探る。
『公羊伝』の釈義は、原則(義例)と例外という2本立である。_088

ぼくは思う。すべて要点が言い尽くされた!


◆『春秋』の失は乱なり
読み取られる「春秋の義」や「義例」は、主観的にならざるを得ない。書式から外れた場合の理由づけは、作伝者の判断に任せられる。

会社の仕事でも、マニュアルが存在するようで存在せず、存在しないようで存在する。「マニュアル化」というのが、そもそも恣意的なまとめなのだ。それを、当事者の史官がやるのか、後世の作伝者がやるのかが違うだけだ。

春秋の失は乱なり(載聖)とは、春秋学が陥りやすい弊害が、解釈の混乱であったことを意味する。

◆一字褒貶の説_089
漢字の使い分け。「会」「及」「キ」でもちがう。

◆日月褒貶の例_090
「日」や「月」の記載の有無によって、褒貶をみいだす。日食と暦のズレ、諸侯の葬儀の早晩(礼制に合致するかどうか)は、すべて説明がつく。

斉桓公と盟約した日を記さない。桓公との盟約から、魯公が帰国した日も記さない。後顧の憂いがないからである。しかし、憂いのある盟約のときは、例外的に日付を記す。_092

日付のない盟約は『春秋』におおい。例外がおおい原則は、原則ではなかろう。『公羊伝』が桓公の盟約についてだけ言及するのは、桓公を称揚したいから。結論ありきで、伝文者が書いちゃった。

◆『公羊伝』の説話
斉桓公との盟約に日付を書かないことが、なぜ荘公13年から始まるのか。それを説明する話が、伝文にながく書かれている。魯の大夫である曹子が、斉桓公を人質にとって、汶陽の返還を認めさせる話。斉桓公は約束を破棄しても良かったが、約束を守った。

ぼくは思う。『三国志』の本文に、『春秋公羊伝』のような問答体で伝文をつけたらおもしろそう。「春秋の失は乱なり」と言われるように、春秋学における伝文は、恣意的に流れて、解釈が混乱するという弊害がある。しかし、恣意的で混乱するからこそ、創意が発揮されておもしろいんだと思うw

『公羊伝』には、40数例の説話がある。経文とは直接には関係ない、伝義の発展の結果で挿入されたものである。『公羊伝』の最終的な整理段階で、他の文献から採取したものだろう。挿入された時期は、かなり遅れるはずだ。
桓公2年、荘公12年、僖公10年に、三君の弑逆の説話がある。3つの事件に対する伝文が同じである。最終的な整理のときに、手を加えられた可能性がたかい。
あとから挿入されただけに、『公羊伝』の主張を印象づける。たとえば弑逆の3つの記事は、『公羊伝』が任侠の精神を礼賛するものとして、よく引き合いに出される。

◆『韓詩外伝』と『公羊伝』
『公羊伝』に挿入される説話は、『韓詩外伝』との共通が見られる。前漢後期に作成された『新序』『説苑』をのぞけば、『韓詩外伝』との共通がもっともおおい。
成立年代が近いと思われる2つの、先後関係を決めるのは難しい。考証ははぶくが、『公羊伝』から『韓詩外伝』に展開した可能性のほうがたかい。近接した時代であるが。

『韓詩外伝』の著者である韓嬰は、文帝のとき博士となる。景帝のとき、常山太傅となる。武帝のとき、董仲舒と論争した。韓嬰の孫の韓商が、武帝の博士となった。胡毋生や董仲舒より、少し前の人。

4-1 『公羊伝』の思想_104

『春秋』には3つの特色があった。魯国が主体。周室を尊崇。封建秩序の重視。『公羊伝』では、3つの特色をどのように捉えるか。

◆魯国主体について_105
『公羊伝』は踏襲する。『春秋』の「我」にくわえて、「吾」もつかう。また外国の事件については、基準を設けて記さなくなる。ともあれ、魯国が主体である。

『公羊伝』になると、1人称で、編者が出てくる。混乱する。『公羊伝』をアレンジしたのが『穀梁伝』である、というのが野間氏の立場。


◆「内」辞について_107
魯をしめす「内」を、『公羊伝』は特別に配慮する。
内は、大悪を諱み、小悪を書く。
外は、大悪を書き、小悪を書かず。

つまり、身内の大悪は、避けられる。外の小悪は、わりとどうでも良いから、書かれない。というわけで、距離が適度で「イタ気持ちいい」範囲でしか記されない。


◆内魯説について_109
魯を「内」として、他国を「外」とする区別は、さらに広がる。中国/夷狄という区別になる。「魯-諸夏-夷狄」という三段論法があると、『公羊伝』は主張する。中国の内側の大悪が諱まれることもある。
1人称の用い方は『春秋』を踏襲しつつ、内という概念を導入したのが『公羊伝』の新しいところ。

ぼくは思う。統一した漢が「内」なのかな。


◆王室尊崇の念について_111
『公羊伝』は、『春秋』を継承する。
身分の低い者であっても、周王の命令を受けた者が諸侯の上に位置づけられる。斉桓公よりも上位である。僖公8年、僖公5年にある。
桓公9年で、天子のいる「京師」をとうとぶ。

『公羊伝』はさらに王者を絶対化する。隠公元年「王者には外がない」という。成公元年「王は無敵である」という。桓公15年、王者はものを要求しない。隠公3年、王の埋葬は妨げられないから記録の必要がない。
隠公元年「一統を大なり」、成公15年「王者は天下を一にせんと欲す」という。宣公元年、晋に柳邑(周のもの)を侵犯されたが、天子が侵犯されるはずがないので、周のものとは明記しない。
周王の権威と対面をたもつ。「尊者のために諱む」

◆理念としての王_115
周王に無批判でもない。桓公15年は、求めるべきでない周王のくせに、車をほしがったので、周桓王は批難されてる。文公9年、魯に金を要求した、周頃王が批判されている。
『公羊伝』の「王者」「天子」は、現実の周王を指すほかに、理念としてのあるべき王者を意味する。周室の再興の望みがない。期待されていない。

楚の王号について。春秋時代に入る前から、王号を称していた。そのため『公羊伝』は、『春秋』に楚の国君の埋葬を記さないという。なぜなら「楚王を葬る」と書くと、王が2人になる。『春秋』は、周王と楚王の並立をさける。
『公羊伝』は、宣公18年に「呉楚の君に埋葬を記録しないのは、号を避けるから」という。そのくせ『公羊伝』は、楚荘王(宣公12年、15年)、楚霊王(昭公13年)とよぶ。伝文の説話のなかに出てくるだけだが、釈義でも「楚王」の表記がでてくる。桓公2年、定公4年である。『公羊伝』は、周王と楚王の並立という歴史的事実を認めている。

ぼくは思う。楚王は、はやくから周王と並立した。『春秋』は黙殺するが、『公羊伝』は歴史的事実として認めている。『春秋』各伝における、楚王の僭越に対するそしりかたが、孫呉や袁術のそしりかたに似ないか。いつも『春秋』を学んでいる漢代の儒教官僚たちが、東南で皇帝即位したとき、周王に並立した楚王を想起しても、おかしくない。文言に共通性をさがそう。
ぼくは思う。檀上寛『永楽帝』を読んだ。『朱元璋』も読みつつある。こちらは入手できないので、図書館で。コウ巾の乱のなかで起兵して、低い身分から「呉」をおこす。北方の勢力を駆逐して、天下統一する。これって、孫呉のやれなかったことw


『春秋』が尊周なら、『公羊伝』は尊王である。

襄公9年、殷の後裔である宋を「王者の後」とする。殷-周-後聖という、王者の系譜を強調するか。

◆天子、諸侯、大夫、士_117
王を趙典とした身分秩序。諸侯のなかでも、王者の後裔たる宋を「公」とする。その他の大国を「侯」とする。小国を伯子男と称する、五等の爵制に分けられる。隠公5年にある。天子の三公も「公」であり、「大夫」の上位にあるものを「卿」という。

ぼくは思う。王莽のとき、定義の異なる「公」が並立した。漢家の親戚、王莽の親戚、三公など。この混乱は、ちっともおかしくない。
ぼくは思う。隠公、桓公、荘公、閔公、僖公、文公、宣公、成公、襄公、昭公、定公、哀公。『春秋』に記載される魯公12世は、日本語の読みが重複しない。イン、カン、ソウ、ビン、キ、ブン、セン、セイ、ジョウ、ショウ、テイ、アイ。奇跡的に親切な設計!西晋も見習うべきであるw


◆諸侯の専封を与(ゆる)さず_118
王は、対立するものがない絶対者。諸侯とは区別される。天子だけが「封」をできる。襄公元年、昭公4年、昭公13年にある。
僖公31年、魯の郊祭について。諸侯が実施することは許されない。魯公が郊祭するのは、僭礼である。『春秋』の経文には、11例の郊祭の記事がある。

郊祭が天子の特権となったのは、秦漢のときだろう。漢代末期に成立した『礼記』明堂位には、周成王が周公に祭祀を許したという記述がある。『春秋』に見える諸侯の郊祀の記事と、秦漢における天子の特権、という2つの矛盾を解決するため、「特別に許された」という説明がついた。
魯公を僭礼というのは、『公羊伝』の位置を暗示する。魯公よりも、天子と諸侯の君臣関係を重んじる。

ぼくは思う。魯公バンザイではないのね。とくに『公羊伝』まで時代がくだれば、魯公を弁護するよりも、漢帝の顔色をうかがったほうが良いのだ。


◆世卿は非礼なり_120
『公羊伝』は、卿大夫の権限を抑制する。
宣公10年、隠公3年で、卿大夫といった、上位の官職身分の世襲を否認する。諸侯と大夫との君臣関係を明確にする。諸侯については、世襲をみとめており(荘公4年)卿大夫とはちがう。

ぼくは思う。だれをどういう待遇にするか。社会の流動性を、どこまで確保するか。境界線をどこにひくか。その与えられた環境のなかで、人々がいかに卓越化の闘争をするか。その闘争によって、制度そのものがどう変わるのか。このあたりは、現代の経済政策に通じる。諸説あり、それぞれ正しくて、いつまでも議論することなんだろう。 『公羊伝』では、天子が封建でき、諸侯は封建すべきでない。天子が郊祭でき、諸侯は郊祭すべきでない。諸侯は世襲できるが、卿大夫(上位の官職身分)は世襲すべきでない。だが春秋時代は「世族」の時代で、卿大夫が世襲して実権をもつ。『公羊伝』の主張は春秋時代の実態と乖離。
ぼくは思う。前漢の方針の投影か。前漢であれば、高級官職の世襲は行われていない。

春秋時代は「世族」の時代である。諸侯の国々で、有力氏族が卿大夫の地位を世襲して、国権を掌握した。魯の三桓氏など。『公羊伝』の主張は、春秋時代の実態からかけはなれたもの。
◆大夫に遂事なし_121
「大夫に遂事なし」とは、『公羊伝』に頻出する。君命をおびて外国に使いした大夫には、君命以外の独断専行が許されない。
大夫の越権を抑制する記事がおおい。諸侯や君主に働きかけること、対等にならぶことを禁じる。君臣関係を明らかにする。
「春秋が名分の書」であり、「正名の書」であることは、『公羊伝』においても確認できる。
「遂」とは、『公羊伝』いわく、事を生じるなり(桓公8年)である。

『漢辞海』をひく。【遂】スイ。すすむ。とげる。推薦する。完成する。順調にそだつ。うまくゆく。おおめにみる、ゆるめる。いい加減にあつかう。周代、王城の郊外に設置した行政区間。5県を統括した。

途中でほんらいの目的以外のことをすることを「遂」という。『春秋』経文には、遂の用例が15例ある。おそらくこの事実に、『公羊伝』は意義をみいだした。僖公30年、襄公12年には、魯公が実権を喪失して、有力な大夫が独断専行することを『公羊伝』が否定する。

ぼくは思う。袁「術」をどう読むか。「遂」と同音である。「遂」とは何か。事を生じることである(『公羊伝』桓公8年)。事を生じるとは何か。本来の目的以外のことを独断専行することである。独断専行とは何か。魯僖公20年に公子遂が晋にゆき、魯襄公12年に季孫宿が運に入り、魯荘公19年に公子結が斉侯と宋公と盟約を結び、魯襄公19年に士ガイが喪中の敵を攻撃せずに帰還するなどの行動である。なぜ専行するか。魯公の規制力が衰えていたからである。君主権力が衰退すると「遂」が盛んに行われ、「術」が盛んになるのである。
なんだか『公羊伝』っぽく、こじつけてみた。

宣公8年にあるように、親の死を聴いても、自分が病気になっても、大夫は君命をやりとげねばならない。
ただし、魯襄公19年に士ガイが喪中の敵を攻撃せずに帰還することを、『公羊伝』はとがめるだけでない。「大なり」とほめている。君命にしたがうのが原則だが、例外もあるという2本だてである。
どちらが一方が、『公羊伝』の主張と見なしてはならない。

◆権の容認_126
対立する主張が、緊張感をもったまま均衡をたもって記載される。これが少なくない。経と権、文と実、王と覇、君臣の義と親親の道、中国と夷狄など。

蔡中の臨機応変の行動をみとめる。宋にムリな要求をされたとき、賢者として対処した。例外として、独断専行することが肯定される。「権」はかりである。_128

◆文実の論_129
僖公元年。ほんとうは諸侯が専封はできないが、桓公による専封をみとめる。専封とは、天子に無断で封建すること。「実はゆるして、文はゆるさず」である。
専封は、斉桓公におおい。

◆君臣の義、親親の義_131
『公羊伝』は君臣の義を重視する。それに加えて、親親の義を強調する。肉親に対する特別な配慮である。
荘公32年「公子の牙が卒」にかんする伝文。季子は、君臣の義に従って、弑君をくわだてた弟の公子牙を毒殺した。そのとき、公子牙が病死したかのように魯国内に思われた。それが肉親としての特別な配慮である。君臣の義と、親親の義の両立である。

◆君親無将、将而誅焉_134
君・親には、まさにせんとするなし。まさにせんとすれば、すなわち(而)焉(これ)を誅す。という。『史記』と『漢書』の叔孫通伝にある、秦家の博士の言葉がもと。

ぼくは思う。『漢辞海』をひいた。「通」は、漢音が「トウ」だから、叔孫通も蒯通も、名を「トウ」という。「ツウ」は呉音。しかし漢音「トウ」の熟語はなさそう。だから違和感がある。「とおる」の「とお」ではない。当然か。


「親親の道」は、荘公32年以降の内紛にある。_135
二者択一を迫られたら、君臣の道を優先する。

◆中国と夷狄_138
『公羊伝』は、攘夷の意識がきわめて強い。
ただし夷狄を排除しつつ、受容する態度も見られる。
僖公4年、夷狄をはらった斉桓公を「王者」とほめる。それと同時に、桓公と対当した夷狄である、楚の屈完をとうとぶ。
荘公10年、楚が蔡の君主をいけどる。『公羊伝』は、『春秋』がここで楚の国を「荊」と記載することに意義をみいだす。『春秋』の義例には、
子(楚の爵位)-字-名-人-氏-国-州
という序列がある。荊州から荊人へ、荊人から楚人へ、と書き方が変化する。屈完という人名まで書いてもらえた。『公羊伝』荘公32年はいう。はじめて中国の聘礼をおこなうことができたから、「荊人」と記すのだ。

◆夷狄にゆるすは一にして足らず_141
夷狄でも、中国の礼制・文化を習得することで、上昇できた。
楚は、最終的に「楚子」と書いてもらえたが、中国への進化は拒否された。「一にして足らず」と、歯止めがかかってしまう。『公羊伝』は、理論的には中国化をゆるすが、心情的には認めない。文公10年、宣公15年。
矛盾した価値観のバランスをとるのが『公羊伝』である。

◆中国もまた新夷狄なり_143
昭公23年、非礼な呉は、日付を宣言して戦ったのに、せこい奇襲のように記された。無義、礼制を知らない、嫡庶の区別がない、乱淫である、などの理由で夷狄に押し戻される。

荘公18年、魯が戎に先制攻撃をする。この魯による攘夷を、たかく評価する。_147

4-2 『公羊伝』の思想_148

◆意志の尊重_148
『公羊伝』は、結果よりも意志を重視する。
趙盾の弑君。趙盾は君主を殺していないが、君主の仇討をしないから、弑君した者と記された。執政者として、道義的な責任を問われたのである。
許の世子止の弑殺。世子止に弑逆の意志がなかったから、殺された君主は埋葬の記事がある(弑殺されたら埋葬の記事を書かないのが原則)。
意志を重視する『公羊伝』が、刑罰の根拠となった。

隠公が譲位するつもりだったから、隠公の即位の記事がない。これも意志の尊重である。

◆未然の前に貶す_152
あとで悪いことをする人物は、登場のときから呼称が貶められる。隠公を殺した者は、公子でも「公子」と書いてもらえない。7年前、1年前に、すでに呼び捨てである。

◆伯姫を録す
「婦人が夜に外出するなら、傅母と一緒でなければダメ」というルールを守り、宋の伯姫は、火災の家から出なかった。これを賢者として、くり返し記録する。『公羊伝』は賢者をとうとぶ。
なお『左氏伝』では、上記のルールは未婚の場合だけに適用されるため、伯姫はムダ死にだという。

◆賢者のために諱む
◆譲国の賢者
魯隠公、衛の叔武、呉の季子、曹の公子喜時など。_156

◆復讐の是認_161

はぶきます。長谷川先生の論文も、復讐の話だった。


◆災異の見方_167
『公羊伝』は「災を記すなり」「異を記すなり」という表現で、こまめに伝文をつける。「記異」12例、「記災」34例がある。

『春秋』経文には、「異」という表現はない。『公羊伝』伝承の経文によると、「災」が11例、「火」が2例。大小によって「災」と「異」を使い分ける。
定公元年「異は災より大きなもの」というが、全体には適用できない。

◆災異自戒と災異応験_168
災異46例に伝文をほどこすが、災異の意味について解説した伝文は少ない。

荀悦『漢紀』と同じである。

中江氏によると、災異自戒、災異応験、災異予占の三段階で発展する。2段階以降が、漢代思想の特徴となる。2段階以降は、『公羊伝』に見られない。

僖公15年『公羊伝』は、雷電を天戒と見なす。中江氏によると、これは災異自戒である。宣公15年、税制を改悪して、10分の1税をやめたので、イナゴがでた。イナゴは改悪を責めるのだから、イナゴは吉事である。これは災異応験である。
これ以外に、災異を解釈する伝文がない。

◆天の啓示_172
『公羊伝』にて、特定の人事に応じて、天が災異をくだす少ない例を上に記した。『公羊伝』の基調から外れたと見なすのが従来の通説である。しかし、『公羊伝』が天の意志を読みとるのは、ほかにもある。

ぼくは思う。災異をどう認識するか。人間の営為を、どのように反省するか。国家の制度(専権の郡県制、分権の封建制)がよいか。世襲はどのくらい必要か。これらは「いま・ここ」のぼくらの問題でもある。だって、明確な正解がわからない。こうして自分の問題として意識することで、じっくり歴史を読める。ただし、歴史から教訓を引き出すという種類の読み方は、おもしろくない。あくまで、歴史の読解が先で、その手段として自分に当てはめるのである。ゴールは、「いま・ここ」の問題の解決ではなく、読解の充実である。

宣公16年、周宣王がつくらせた楽器(文化の象徴)が収蔵されている宮廟が焼けた。「周を新たにする」という天の意志を読み取った。獲麟の解釈もふくめて、天意を読み取っている。
たしかに解釈は少ないが、いちいち「記災」「記異」と『公羊伝』が断ることからも、『公羊伝』が災異を重視しているのはわかる。ただし、中江氏がいうように、3段階で発展したのではない。漢代の精密な災異の説が成立する前夜の状況を示すのだろう。

ぼくは思う。ここだけでは、よく分からなかった。

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5-6 『穀梁伝』の成立と思想

『公羊伝』をもとに発展させたものだと。
漢宣帝のころにできたのかと。
あんまり興味がないので、はぶきます。
重要度がひくそうだし。130511

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