読書録 > 岡崎文夫『魏晋南北朝通史』から気になる点を抜粋

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内篇(東洋文庫)より三国期に記述

「その時突然、高貴郷公の浪漫的な反抗事件が持ち上った」_071

坂口和澄氏の本で、曹髦を紹介するときに、「浪漫的な反抗事件」と書いてあり、その出典を読まねばと思いつつ、かるく10年が経過してしまった。いま、岡崎文夫『魏晋南北朝通史_内篇』を読みます。
正史を読めば分かること、ぼくがすでに知っていることは、引用しません。岡崎氏による解釈や評論のようなところで、気になったことを抜粋します。

曹髦にかんする記述

賈充は禅譲説で、諸葛誕の気をひいた。洛陽名流の間には禅譲の議がもっぱら話題となっていたのだろう。天下もはや司馬氏に反抗するものがない。その時突然、高貴郷公の浪漫的な反抗事件が持ち上った。_071
司馬師が曹髦を迎えたのは、太后の懇請によるもので、司馬師の本心でない。曹髦は才藻横溢で、儒学に見識をもつ。著書の自序を見れば、天の恩寵に浴するの深きを自認している。裴秀・王沈・司馬望らと文籍を議論した。王経・王沈に「司馬昭の心、路人 知る所なり」と決意をつげた。王経・王沈は司馬昭の党なので、思いとどまらせた。…曹髦の屍は庶民の礼をもって葬られた。天子が殺されたという事実は、名義上から消えることになる。

もっと「浪漫」ぶりが詳述されているかと思った。すなわち、なぜ曹髦の決起が「浪漫的」なのかが、説明されているのかと思った。しかし、書名が「通史」とあるとおり、禁欲的に事実が並べられているという印象がつよく、10年越しに読んだぼくとしては、ちょっと物足りなかった。


以降、三国期の話を抜粋します。

袁術にかんする記述

呂布が長安を逃れて兗州に入り、袁術の声援を得て、曹操の根拠地を犯した。袁術は、つねに袁紹に人望があるので不満をいだき、呂布や公孫瓚と通じて袁紹に当たらんとした。自然と、袁紹は曹操と結んでこれに対抗した。_023
戦争の結果、呂布が敗れ、兗州はひとまず曹操の手に帰した。袁術は、なお兗州に勢力をはる野心を捨てず、みずから南陽の根拠地から東して陳留に入った。

ぼくは思う。時系列が逆転してる。袁術が陳留に入るが、曹操に敗れて寿春にゆく。そのあと、呂布が陳宮と謀って、兗州を奪おうとする。

曹操は袁紹と連合して、袁術を撃破したので、袁術は九江に退いた。
袁術の友人に陳珪がおり、このとき下邳相である。袁術は、陳珪と結んで曹操を破ろうとした。 だが陳珪は拒絶した。曹操の威望は、黄河・淮水のあいだに高まりつつあったことが明らか。ちょうど天子が長安を脱出して洛陽にいたので、曹操は天子を擁立した。

袁術伝にある陳珪の拒絶は、曹操が天子を擁立したあとの話だと思っていたが。岡崎氏の本では、曹操が天子を迎える前から、曹操の「天子を擁立しよう」という方針が、黄河・淮水のあいだで、広く認識されていたという話になってる。

天子が曹陽で李傕に敗れると、袁術は帝位を議したが、孫策に「兵をもって天子を迎え、漢室の復興に努力すべき」と言われた。
当時の曹操は、必ずしも安全でない。徐州には呂布、淮南に袁術があり、2人は兗州を取ろうと図っている。しかし袁術は曹操に大敗をこうむり、嘔血して死ぬという運命に立ち至った。

天下が分裂して、曹操が魏王となる

河淮を江漢と接合するのは、西では南陽、東では寿春。

黄河・淮水の地域と、長江・漢水の地域をむすぶ境界線上を、袁術はスライドしたことになる。岡崎氏のような地勢の整理により、袁術の戦略が見えてくるかも。兵站の発想がないから、軍事・経済にかんする見識がない、なんて言われるけどw

南陽から南すれば、江陵にゆける。寿春から合肥に出れば、長江を下れる。
南陽は袁術に荒らされたので、この地の名族は襄陽に移住した。
…魯粛は、孫権と劉備を調和させ、連合して曹操を倒そうとした。孫権は、自己の偏安を主眼とした。呂蒙が関羽を殺して、その目的を達し得る。これとともに三国の対立が確立した。中国の史論家は、呂蒙が荊州をとった功過について発言するが、是非はべつにして、事実は中国を分離にみちびいた大事件である。_037

建安18年、14州をあわせて9州にもどす。同年、曹操を冀州10郡の魏公に封じた。梁商鉅は、2つの事実をつなげる。前年に魏郡の範囲をひろげ、冀州の区画もひろげた。曹操の勢力に王畿の中枢を占めさせ、漢に取って代わろうとするものだと。かつて荀彧が反対した9州併合説の目的は、曹操の勢力の増大である。
「簒奪の行為がきわめて美しき言辞壮麗な儀式とにより潤飾せられて居るのは、魏志によって知られ、かつ曹操は一度は辞譲の形式をとり、のちには大官一致の勧進止み難き様を示した」のが裴注『魏書』と『魏略』で知られる。
建安21年、魏王となる。予定の行動なので、陳寿が献帝の詔を載せないのは当然である。「帝王の位、あい去ることわずかに一級、それでも曹操はなお簒奪の汚名を逃れてその世を終わった」と。_038
趙翼は、曹操になお名分の観念が残っており、時代を経るにしたがって簒奪は、いよいよ美しい形式のもとに、いよいよ露骨に行われたという。まさにそうである。その源は曹操に発したのである。

曹丕が簒奪する

延康元年3月、黄龍が譙にあらわれる。太史令の単颺の予言を、文帝紀に付す。
梁商鉅はいう。『宋書』符瑞志より、このとき13の郡国で黄龍が現れた記事がある。『水経』によると、譙を龍譙国と改名した。魏は黄龍が現れることで天命を受ける符としたと。_040
少なくとも3月よりすでに、魏を漢に代える運動があったことが文献から証明される。
許芝が、『春秋玉版讖』に「赤に代はる者は魏公子なり」をいう。孔子が未来を洞察したもので、時が至ると自ずから現れる。これを内学という。証明するために、符瑞・天数が利用される。「不可思議な幽冥の理によりて天位の尊厳を支持せんとするのはこの頃ことに著しくなった一傾向である」と。
司馬懿を筆頭とする一団が勧進し、漢の全官僚が一致の形式により勧進することで、禅譲の辞令が漢室から出た。しかし「曹丕と漢室との間にはなお数度にわたる形式的応酬があり、主として漢室側では禅譲の後の漢室の位置についての危懼があり、また魏の方面においては天下未だ統一せざる以前に帝位に即くことの名義上完備せざる欠点がある」と。
「しかし漢室の危懼に対しては、元来禅譲の意義はこれを受くる者の大福であるばかりでなく、これを授くる者もまた余慶を受くべきであるとして容易に調停を見たのであるが、魏が帝位を受くる資格に欠くるところあるはいかにしても免かれ難い。ただ事実上 魏の命令によりて北地の政治が行われて居るゆえをもって名義をもまたこれに与えんとするに過ぎない」と。

漢の処遇について、「禅代衆事」でモメてたか?

「とにかくも幾度か推譲の形式を取った後、曹丕は郡臣の勧進 已むを得ずとしてついに漢に代って帝位につくこととなったのである」と。

「とにかくも」と丸めこんでしまった。けっきょく、魏が帝位を「受くる資格」については、ごまかした。というか、どういうごまかしにより、漢魏革命が達成されたのかは、説明されてない。


呉蜀が同盟し、外交上は南北分立

孫登を任子に出さぬので、魏の三公は連名して孫権を責めた。曹丕は軍隊を動員して、任子を出すかの返答を要求した。威圧に対して、孫権は黄武元年の改めた。曹魏の正朔を奉じない意気を示した。
孫権は、劉備に和親の使者を出し、魏軍を退却させた。呉臣は孫権に帝位を勧めた。だが、魏と和親を絶つ意志があったわけではない。「呉の態度を約説すれば、魏に対して臣下として屈服の形式をとることを好まず、さりとて一方 蜀の復讐を顧念して魏と絶つを欲しないのである」と。
諸葛亮から「公然と」使者がきた。孫権は「ついに決心して」鄧芝を引見した。その結果、「呉蜀が誓盟して魏に当たるという往時の同盟主意が復活された」と。

荊州の帰属が異なれど、魯粛のビジョンが達成された。卓見!

「両国の交際はまったく対等の関係によって居るのであるから、もし長江流域の同盟によって北方に対する形よりすれば、外交上においては南北分立の状態であると考えても差支あるまい」と。ときに曹魏の黄初4年11月。3年後に孫権の下す令には「魏=北虜」と記される。

曹丕の政治にかんする評価

曹丕が帝位につくと、孫呉が称藩した。このことは彼の「虚栄心」を満足させた。劉曄の諌めもきかず、孫権を呉王に封じた。孫権が任子を拒絶すると、みずから南征した。故郷の譙県では、六軍を饗応して、譙県の父老・男女をよぶ。『隷釈』のするところの聞人 牟準の碑文に詳しい。『全三国文』にある。_050
魏軍は長江の中流・下流の2道よりすすむ。曹丕は広陵で督戦した。この方面は、曹休が意気を燃やす。しかし先鋒の臧覇の士気は低い。魏軍は撤退した。
南征が過失であったと、王朗伝 注引『魏書』に曹丕の反省の詔がのる。「けだし先朝の旧臣 賈詡、王朗等 みなはじめから南征の非を論じて居たのである」と。
曹丕は、呉蜀の関係を裂こうとして失敗し(呉録)、もとより討伐の意志のなかったことは、詩意のなかにも見られる。
誰か云ふ 江水の広きこと、、と。

曹丕は、曹真・曹休・陳群・司馬懿に、曹叡の輔政を命じた。その他の列伝には、4人のうち曹休の名が見えない。曹休伝にも遺命の記事がない。
『晋書』宣帝紀には、曹丕が曹叡に詔して、「三人のあいだを中傷する者があっても、疑ってはいけない」とある。やはり四人目の曹休はいないのか。
このとき、鍾繇・華歆・王朗はまだ生きている。彼らでなく、上記3人に輔政させたのは、「曹丕が帝位を一家の私事と考えた欠点を免かるることが出来ぬ」と。

曹叡が即位したとき、魏の重臣には「党同伐異の弊害」がすでに著しかった。陳群は上疏して論じた。夫れ臣下 雷銅し、、と。_052
このとき中書監の劉放、中書令の孫資が政務をにぎり、三公ら法制において政治をすべき者が軽くなった。2人は天下の公論を探って曹叡に告げたので、曹叡は群下を制御できた。だが蒋済は、中書監令が力を持ちすぎることを攻撃した。
孫資は、曹叡を対外的に消極とさせた。「斜谷は険しい。水軍は足りない。守ればよい」と。「魏の始終のやり方は、多く孫資のこの規画に基いて居るように見える」

曹叡が消極に転じたのは、孫資に従ったからと。なるほど、おもしろい。


魏室 衰え、司馬氏 興る

諸葛亮の死後、天下または漢家の正統を主張する者はなく、三国とも偏安に安じた。王室の威力も失墜した。
司馬懿が、楚漢期の司馬卬の子孫であることは「一般に信用されて居る」。河内の温県は、「黄河の要津として著聞した都会」なので、略奪を避けるために黎陽に逃れた。

曹爽と親しいのは、何晏・鄧颺。曹爽を支持したのは、夏侯玄や諸葛誕ら。「浮華の士」とされる。浮華というのは、もっぱら理論に走って実行を重んじない人と解せられる。その主たる内容は、形式的道徳を尊重しないということ。
曹爽らは、進取が急であり、前代の遺老を排斥した。自然秩序の破壊者として、批判された。たとえば傅嘏伝の裴注にあるように、河南尹となった李勝は、名望家をさまたげた。だがら司馬懿が片づけた。

嘉平6年、司馬師が李豊・夏侯玄を誅滅した。陳寿はあいまい。『魏略』によると、李豊は中書令として、曹芳から密議をあずかる。司馬師が内容を聞いても、李豊は秘密にしたから殺されたと。李豊が司馬師を殺して、夏侯玄を擁立し、、というのは廷尉の事後的な作文。
ときの廷尉は鍾毓であり、李豊のしかばねを受けとったとき、審理をこばんだ。だが司馬師に屈して、屈した。鍾毓はつじつまを合わせ、夏侯玄に示した。鍾毓は流涕し、夏侯玄は頷くのみと。夏侯玄は名流として重んじられ、曹爽・何晏と親しかったので、司馬師にとって対立者だった。

司馬師が曹芳を廃するが、事情が不分明。表面の手続だけは明白。女色に耽り、儒士を辱め、殿中で裸袒して遊戯した、礼法を蔑視する言動をしたと。天子の廃立の先例として、後世への影響が大きい。
正元2年、毋丘倹が反した。司馬師が兵権を中央に集め、辺境の将士に対する給与が少ないことが原因。
司馬師も死に、曹髦は、尚書の傅嘏に洛陽を守備させようとした。だが中書令の鍾会が、傅嘏と謀って曹髦の詔を改めた。司馬昭と傅嘏を、ともに洛陽に還らせた。恐らくこのころから、魏晋の禅譲の運動がきざした
、、ここで冒頭の曹髦の「浪漫的反抗事件」の話につながる。

三国の滅亡と、西晋の統一

夏侯覇が蜀にくだった。姜維が魏の意志を問うと、「司馬氏は門戸を営立するのに忙しい。しかし鍾会が志を得たら、蜀を攻めてくだるだろう」と。
司馬氏のやり方は、孫呉の張悌が評する。

司馬炎が嗣いだ。ときに呉は、交趾にそむかれあたので、魏に通じた。呉臣には、魏に帰付したい者がおおい。司馬氏は孫呉を討てるのだが、「司馬氏は帝業を修飾せんがためにもっぱら文徳を衒い、呉に対しては恩信をもってこれに臨む」。内では屯田を廃して平和の意向を示した。

孫晧は「敗徳の少年」として記される。このような型の天子は、南朝の歴史にしばしば出てくる。孫晧はその型をつくった人。もしくは一般から作り上げられた人。
孫晧が武昌に遷都したのは、西陵督の歩闡に従ったからだが、理由が明白でない。北伐の計画によるものではと想像される。このために、下流の民は、長江を遡って供給せねばならない。陸凱は童謡「寧ろ建業の水を飲むとも、武昌の魚を食らはず、、」をひいて、建業に還都させた。
陸凱の諌めを聞かない孫晧は「敗徳の少年」として鮮やかである。

南朝のほうもおもしろそうなので、また後日やります。140628

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