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『三国志読本』の感想ツイート

宮城谷昌光『三国志読本』の感想をツイートしたところ、話が膨らみましたので、転載します。おもに行きの通勤電車のなかでツイートしてたんですが、三国志を楽しむ上で、わりと重要そうな話ですので、あとで読み返すために載せます。

話者がぼくのツイートについては、字数制限がかかって書けなかったことを、追記しておきます。頭のなかにはあったけど、140字以内には入れられなかったことです。

にゃもさんと、竹内先生のツイートも引用させて頂きます。黒字はぼくのツイートで、緑字が引用です。

この件、敎団さん @Vitalize3K がまとめて下さってるので、参考にしました。
宮城谷氏に対するオブジェクションとか
http://togetter.com/li/679947
自分のホームページ内にも記録がほしいので、載せます。

独自性あるキャラは、わずか数名

宮城谷『三国志読本』読んだ。長い年月かけて長い話を書いても、著者自身が振り返って独自性を発揮した!と思えるのは、わずか数点なんだなと思った。脱『演義』の初の歴史小説、楊震を起点にせねば三国志は描けない、劉備は「玄徳」な老荘思想の持ち主と。他は史料をノートにまとめて引き写す苦行。

宮城谷氏の話、ぼくが蓋を開けた?みたいで、界隈でツイートが膨大に広がりました。敎団さんによるまとめが、長大なので、びっくりしました。
ときどき引用していただく「苦行」って、ぼくの「意訳」なんですw 三国志を書くための部屋に入りたくないーとか、創作の苦しみを語ったあたりを、ぼくがツイート用に「要約」しただけなんです。竹内先生に引用していただき、信憑性が高まりましたが、『三国志読本』にその表現はないはずです、、、
本人が言ったこと以上に、本人が言いそう(言ってほしい)セリフを、ぼくが作ってしまったので、訂正しておきます。宮城谷氏は、「苦行」とは言っていませんw

陳舜臣『秘本三国志』は章末で手の内を暴露。北方謙三『三国志読本』、宮城谷『三国志読本』は、書名が同じで、手の内の暴露本としても同じ。いずれも長い小説を書いても、独自性を発揮したのは、主要人物1人か2人分で、あとは代わり映えのない荒れた景色を、根気強く歩いただけな感じ。

@TAKEUTIMasahiko
それを「苦行」と言ってしまう段階で、宮城谷氏は三国志には手を出すべきではなかったと暴言を吐いてみる。

‏@AkaNisin
それは文学と言えるのだろうかQT@Hiro_Satoh: 宮城谷『三国志読本』読んだ。長い年月かけて長い話を書いても、著者自身が振り返って独自性を発揮した!と思えるのは、わずか数点なんだなと思った。脱『演義』の初の歴史小説、......

@AkaNisin
すごい悪口になるんですけど、脱『演義』と言いつつ、やったことは結局『演義』の藍本である『通鑑』の真似事なのでは...


宮城谷『三国志』は、『ホボ通鑑』なんです。『通鑑』等を読んで手書きでノートに年表を作る→1日に原稿用紙1枚半書く、という作業だそうです。結果、話の順序は『通鑑』に準拠。セリフを開きつつ、人物や時代を模索した結果が紡がれました。

先行研究を読んでない

‏@AkaNisin
へー...宮城谷さんはあまり三国志に詳しい方ではないのでしょうか?


ご本人いわく、英米文学を学ばれましたが、中国史は独学のようです。
大衆小説や一般向け解説本に飽きたらず、いきなり原典に飛ぶ、という学び方のようです。歴史小説の志望者には、『詩経』、『資治通鑑』を原文で読め、と無理な助言をされます。漢字は象形文字だから、見てれば意味が分かるとか。先行研究には疎そうです。
『史記』はどこにいったら読めるのか、と質問してくるような読者に、いくつか訳本を紹介しつつも、いきなり原文読め!漢詩書けるよ!と勧めたりする。赤ん坊に熱燗を飲ますような指導をする人です。後進を育てたいのか、つぶしたいのか、よく分からない芸術家肌だと思います。

でも、大学で体系的に中国史を学んでないから、いきなり原文に飛び、ちぐはぐなことを言う、、って、ぼく自身にも該当することです。ちまたの本に飽き足らず、次のステップに進もうとしたら、いきなり原文と格闘して、先行研究を顧みないって、身に覚えがあります。
さいわいにして、『三国志学会』に行くとかで、先行研究を読むことの重要性を認識して、いろいろ目を通さねば!という態度でいられますが。
宮城谷氏は、三河地方(愛知)の田舎にいて、ほしい文献が見られない。見られたとしても、適時に見られない、という昔のグチを書いていました。ぼくは同じ県に生まれ育ち、三河にも住んでいたことがあるので、気持ちは分かります。田舎にいると、日本の研究の蓄積には触れることができず、いきなり原文に飛ぶんですw

宮城谷『三国志』から、三国ファンになれるか

@TAKEUTIMasahiko
そこまでが真価だと思います(笑)>宮城谷三国志。あれは宮城谷ファンのための三国志なのであって、既存の三国志ファンに対して供する(or挑戦する)ものではないかと。
少なくとも新たな三国志ブームの中核になり得るような作品と評価することはできないと思います。まあ、ここまで三国志コンテンツが飽和している状態で、そのような作品を創出することが極めて困難なのは承知の上で言ってみる。


宮城谷氏は「吉川も柴田もおもしろいが『演義』ベースだからダメ。それなら私が正史ベースで書こう」みたいに言ってました。「ダメ」はもう少し婉曲させてましたが。彼の作品及び自作解説は、「演義バカ、正史タダシイ」という歪んだ言説の震源の1つかもです。
春秋時代とか、物語化の蓄積がない分野では彼に新規性があります。三国のように先行作品が多い場合、今さら感が強まります。「実は」有能な曹操、「実は」魔術を使わぬ孔明などが彼自身の作品のウリにカウントされ、正史読め派の純粋さがまぶしいです。

ggrks(ググれカス)と並んで、ssym(正史読め)という罵倒が、一部で流行している気がする。

「なぜ日本人の自称・歴史通は、『三国演義』を軽視するような発言をするのか」が、日本の三国志受容史の分析のネタになりそうで、宮城谷『三国志』は、そのサンプルとして活用しやすいと思いました(笑)
ぼくが卒業論文のときに読んだ、『三国演義』の初の邦訳である『通俗三国志』は、歴史の勉強ができる!みたいな売り言葉が書いてありました。当時は、エンギ、セーシ、と議論する土壌などないのですが、「セーシの代用品としてのエンギ」のような、受容の見通しはあったのではないかと思います。
現代のぼくら三国志ファンは、『通俗三国志』を出版した書肆の見込み客の子孫にあたるわけです。
こういった、セーシのようなものに触れたいという欲求を持った人々にとって、宮城谷『三国志』は、著者の意図したとおりに、魅力ある作品なのか。三国志関連の本が充実している今日、必ずしもそうじゃないと思います。

@TAKEUTIMasahiko 「物語化の蓄積がない分野では彼に新規性があ」るというご指摘が本質を突いているでしょうね。宮城谷氏を読む前からの三国志ファンで、宮城谷氏のファンだと言う方に、宮城谷三国志の感想を聞いてみたいものです。

「宮城谷氏を読む前からの三国志ファンで、宮城谷氏のファン」の話も聞きたいですけど、宮城谷氏のファンだったかの前歴を問わず、「宮城谷『三国志』で、三国志のファンになった」という人がいるなら、話が聞きたいです。いるんでしょうか、、
もとから宮城谷氏のファンという人は、大勢いると思います。でも、三国志ファン・三国の受容史という切り口から見れば、「宮城谷『三国志』で、三国志のファンになった」という人の数や存在感が、重要になってくるわけで。3年後とか5年後に、そういう出自の方と、話をすることになったとき、ぼくはきっと驚きつつ、宮城谷『三国志』を読み返すでしょう。

馬謖が斬られる巻くらいまでは、単行本で発売直後に購入して読みました。『文藝春秋』を書店で開いては(立ち読みまではしませんが)本編がどこまで進んでいるのか(どれくらい遅れているのか)チェックしていました。蜀漢の滅亡くらいまで見たのが、最後だったかな。けっこうマメにチェックしていたのです。
単行本は、馬謖が斬られてからは買わず、文庫本が古本で流れてくるのを待っています。いきなり『三国志読本』に飛んで、ネタバレ!をしてしまったが、まあ他の三国ファンよりは、宮城谷『三国志』の熱心な読者だと自負していますw


白話小説と日本の歴史小説は異ジャンル

@AkaNisin
『演義』は軽視するのに、歴史文学って点では同じはずの司馬遼太郎をありがたがる...って傾向がある気がします


宮城谷氏にとって、司馬遼太郎は尊敬すべき目標なんですが、羅貫中ら白話小説の著者は、異ジャンルという意識のようです。日本の歴史大衆小説というジャンルの開拓や確立への使命感を語ってました。『通俗三国志』は無視でした。

@AkaNisin
僕は歴史文学の醍醐味は、作者が史料(史実)をどう料理したか、どんなフィクションを盛り込んだかを楽しむことにある...と思ってます。でもこれは、読者もその歴史に精通してないとできない読み方であります。しかし...
きっと少なくない読者が、歴史文学を歴史を知る術として見ていませんか。そういう読者にとっては、いかに「史実」に忠実であるかが重要なのではありませんか。たとえば司馬遼太郎とか...
演義が現在低く見れらる理由も同じでは。演義による三国志イメージが根強かった一昔前、その払拭のため演義と正史の比較が流行ったと聞きます。そのとき、演義は正史とこんなに違う「だからそこが面白い」ではなく、「だから間違ってる」って見方に流れてしまった...?
それまでの講談や通俗文学を越えるため、近代歴史文学を切り開いた司馬遼太郎の役割はすごく大きいと思います。ただそれが同時に、史実しか見ない偏った読者を生んだことにもなったのでは、と感じています


司馬遼太郎は、『項羽と劉邦』は書きましたが、『三国志』は書きませんでした。中国の歴史小説という市場がまだなかったので、『三国志』が書かれなかったと。そのように、宮城谷氏かその対談相手が推測していたはずです。
(その市場を切り拓いたのが宮城谷氏、という文脈だったはず)
司馬遼太郎の『三国志』が読みたかった、というのは、ぼくも同じことを考えていた時期がありました。
内容があるのか、ないのか、わかりませんが、「司馬史観」という造語があるように、司馬遼太郎は、歴史および歴史小説の到達点として、尊敬を集めています。「司馬遼太郎の受容史」も、ひとつの研究テーマになりそうです。どうしてあれほど尊敬されるのかと。
これこそ、民族誌的奇習、に見えるんですよね。

@AkaNisin
今、正史に準拠することを「脱演義」と言うなら、それは『演義』が進めた針を逆行させるだけで、とくに面白味はないと僕は思います。『演義』が取りこぼした正史の妙味を拾うってことも、もうずいぶん果たされたと思いますし
晋代の『三国志』とも明代の『演義』とも違う、現代の感性が作る三国志作品、たとえば『三国無双』とか『蒼天航路』とか『レッドクリフ』とか。そうゆう作品が「脱演義」なんだと思ってます

「『演義』が取りこぼした正史の妙味を拾うってことも、もうずいぶん果たされた」というのは、そのとおりだと思います。
『三国志』というタイトルを掲げた作品は、三国志ファンにとって、時代を区切るような重要なものになる可能性が高いです。まして、中国の歴史小説において、影響力のある宮城谷氏が『三国志』に手をつけたとき、ぼくは興奮しました。しかし宮城谷氏は、バトンを受けとったかに見えて、じつはバトンを持たずに競技場を走っていました。置き去りにされたバトンを、つぎは誰がひろうのか。みんな、じっと息をつめて見守っている、というのが本当のところでは、ないでしょうか。

注釈のある歴史小説の提案

吉川英治でさえ食人の件で申し訳なさそうなように、小説家が作中で注釈をするのは、誰が決めたか知りませんが禁忌です。「小説の書き方」系の本を読んでも、一様に、作者による注釈を戒めています。
この禁忌を緩めたら、歴史小説も味わい方の幅が広がる気がします。娯楽と歴史のお勉強が両立するジャンルができそうです。娯楽派は注釈を読まねば良いわけで。
宮城谷氏も『三国志』執筆中は、史料と格闘し、解釈やアレンジをしたはず。この思考過程を全て意図的にメモし忘れ、連載完結後に「15年を振り返って」とか総論的なインタビューをするから、台無しになる。歴史小説こそ、学術論文ばりに注釈(出典や著者の解説)を付けたら、おもろかろうに。

@AkaNisin
注釈作業は面白そうですね。DVDの副音声解説なんかが、ちょうどそんな感じじゃないでしょうか


副音声解説、ぼくは好きです。監督が、ここを撮ったときは、これが狙いで。これは上手くいかなかった。これは予想外だった、と述懐するのは、おもしろい。
小説だから、完成品だけが全てで、完成品だけで勝負する。その過程の副産物は、あるものは形をとどめて、あるものは融けてなくなって、隠し味的に仄めかされ、、というのは、惜しい気がします。

すでに故人となってしまった偉大な作家の小説を、あとで研究者が調理するのは、意味があることだと思います。しかし今日、文字数あたりのコスト(作成・保存・閲覧)が安くなっています。雄弁すぎるほどの注釈がついた歴史小説だって、アリなんじゃないでしょうか。
宮城谷『三国志読本』は、表紙を折り返したところに、万年筆で書かれた原稿が載っています。パソコンを使って小説を書けば、それは機械が書いた小説。万年筆で書かなくては、というのがコダワリのようです。これは、文字数あたりのコストが高い小説家の態度でしょう。
これを、支持する/支持しない、は自由です。
しかし、少なくともぼくは、文字数あたりのコストが相対的に安くなった世界を生きていると思っています。史料の原文なんて、維基文庫でコピペすれば、ほぼゼロのコストで入手できます。もちろん、中華書局などの紙の本をつかった〔校勘〕が必要になりますけど、手で書き写すよりは、断然に早い。
ネットでテキストを公開することだって、ゼロのコストです。だったら、文字数をケチらずに(精査しすぎずに)公開していく、という楽しみ方があるんだと思います。

読者設定の甘さ

@AkaNisin
「これはなかなか怖いことなのです。読者はみな『三国演義』こそが『三国志』だと思っていますから。逆に私の書くほうが嘘だと思われるかもしれない。連載が始まったころは、三国志ファンをすべて敵にまわすのではないか、という恐怖感さえ抱いたほどです」(宮城谷昌光『三国志読本』)
ふざけるな。何周遅れの勘違いだ。三国志ファンを、日本の三国志を舐めるな
研究において、先行研究を踏まえることはきわめて重要であります。それを怠るとこのような大恥になります
いま日本で受容されている三国志には、大変に面白い、かつ新しい「三国志文化」を切り開いてきた作品がいくつもあります。正史だ演義だので分けられるものではありません。その多様な三国志作品の分だけ、多様な三国志ファンがいます。それらを一顧だにしないことには腹が立つ
僕が宮城谷昌光の発言に腹を立てたのは、正史と演義の問題ではありません。三国志ファンは演義しか知らないと言わんばかりの言い草です。これら多様な作品たちを、そのファンを見ていない


ぼくには、にゃもさんの怒りのツボが、よく解ります。
べつに宮城谷氏に限ったことでも、三国志に関連する本に限ったことでもありませんが。(意図しようが、しまいが)読者を侮った本は、あんまり読みたくないのです。もしくは、読者の知性を信頼していない本は。

そういった意味では、まるで電化製品の取扱説明書みたいに、あらゆる立場の人が読めるように、もしくは読めなかったとしても「ここに、こう書いてあったでしょ」と言い訳できるように、みょうに丁寧につづられた言説もキラいです。見る人が見たら分かるだろうし、それ以外の人が見たら、分からん(もしくは腹を立てるだろうな)という言説で、いいじゃないかと思います。


三国志ファンに敬意を払った『三国志』。そういう歴史小説が出てきてほしいなーと思います。そういう話づくりの関与できるように、勉強をがんばろうと思いました。40歳になるくらいまでには、いちど、まとめてみたいな、と漠然とした目標ができました。
この目標がイメージできたのは、「日本の三国文化」というバトンを持たずに疾走してくださった、有能な先輩ランナーのおかげだと思います。140614

追記です。
宮城谷氏は小説家なので、ぼくらは小説を味わえば良いと思う。小説『三国志』は、細部に独自の解釈やアレンジが加わり、『資治通鑑』と付き合わせて読めば楽しめる。
『三国志読本』で、大雑把すぎる自作解説とか、三国文化の分析とか、中国史の学習法とかに言及するから、おかしなことになったのかも。べつに宮城谷氏は、書評や文学の学者ではないし、ましてや中国史の先生でもない。本職と違うところが、見え過ぎたから、いろいろ言ってしまったけど。
小説のところは、最初から最後まで(最初のほうは過剰に前の時代から)根気強く書き切られたという意味で、やっぱり偉大な作品なんだと思う。140614

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