雑感 > 『三国志』郡国志をつくる(地図つき完成版)

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はじめに

2016年2月末から3月半ば、『三国志』郡国志をつくるを書き、あわせてイラストレーターでマップを作っていました。その完成版として、文字と地図のコラボです。

作成中のツイートより

地球は丸いので(←いまさら)、『中国歴史地図集』をスキャンしたものと、ネットで拾える地形図(山の場所が分かるもの)が、うまく重なるとは限らない。たいへんな作業!
地図を作り始めました。イラストレーターは10年以上ぶりなので、境界線はあとで直します。『歴史地図集』東漢を土台にして、『歴史地図集』三国を手許におき、自分の整理しかけのサイトを見ながら、郡県を打ち込んでいく。単純作業は、たのしい。

地図をつくってます。州郡の区画は、時代・情勢によって変化する。いずれにも縛られず、「勢力地図」で塗り分けられるように、恣意的に区切っていく。史実をどのように捉え、どのように区切ったかをメモりながら。自作の歴史シミュレーション用です。
三国志の勢力図のためのマップを作ってます。扶風が東西に分割された郡界は、後漢・曹魏・西晋を通じて存在しないけれど、ぼくのマップでは、五丈原を境界として、東西に分割します。
郡国は時代によって変わる。郡国どおりに勢力が割拠するわけじゃない。諸葛亮の最大版図?を示すために境界を独自に設定。

『歴史地図集』は経線が「末広がり」になっており、緯線が円弧になってる。この図法は南ほど面積が広くなる。三国志の地図は、北の重要性が高いから、これは困る。イラレの自由変形ツールで、経線と緯線を直行させると、ほしかった図に近づく。
蜀・呉のファンは、経線が「末広がり」の地図をつかって、領土の広さをアピールできる。魏ファン(とまでは言えずとも、中原を重視するひと)は、経線と緯線を直交させて、蜀・呉の面積を小さく表示するといい。地図の図法は、用途で使い分けるのみならず、ものの見方・思想の表明。※イラレの自由変形ツール

◆末広がりで、呉蜀の領土が広く見える


◆経線と緯線を直行させ、中原を重んじる


いざ、魏の中心地の魏郡(魏国)から作り始めます。160314

『三国会要』の魏の序文より

『魏志』蒋済伝に、「今雖有十二州、至于民數、不過漢時一大郡」と、魏代には12州があったことが分かる。杜畿伝に、杜畿の子の杜恕が、

今大魏奄有十州之地、而承喪亂之弊、計其戶口不如往昔一州之民。然而二方僭逆、北虜未賓、三邊遘難、繞天略帀。所以統一州之民、經營九州之地、其爲艱難譬策羸馬以取道里。豈可不加意愛惜其力哉。以武皇帝之節儉、府藏充實。猶不能十州擁兵、郡且二十也。今荊揚青徐幽幷雍涼緣邊諸州皆有兵矣、其所恃內充府庫外制四夷者、惟兗豫司冀而已。

といい、蒋済が言ったところの「十二州」の名が全て分かる。兵事があって経済状況が苦しいのは、荊州・揚州・青州・徐州・幽州・并州・雍州・涼州の8州。経済状況がマシなのは、ただ兗州・豫州・司州・冀州の4州のみであると。

『洪志』は、魏を十三州というが、これは秦州を分けた数え方。
『晋書』地理志は、秦州について記す。

秦州。案禹貢本雍州之域,魏始分隴右置焉,刺史領護羌校尉,中間暫廢。及泰始五年,又以雍州隴右五郡及涼州之金城、梁州之陰平,合七郡置秦州,鎮冀城。太康三年,罷秦州,并雍州。七年,復立,鎮上邽。統郡六,縣二十四,戶三萬二千一百。

魏文帝が即位すると、隴右を分けて秦州を置いて、秦州刺史は護羌校尉を兼ねたが、のちに廃された。以後、改廃がくり返されたことが分かる。
『元和郡県志』によると、「魏は隴右を分けて秦州を置いたが、尋いで(すぐに)雍州に統合された」とある。だから、魏の実態は十二州であろう。

思うに、曹丕および泰始期(司馬炎)には、秦州を個別に認識したいという、管理上のニーズがあった。ぼくはこれを尊重したい。諸葛亮の北伐、西方の異民族政策にも影響が出ますので。


景元四年(263) ほぼ魏の滅亡時点で、663,422戸、男女4,432,891口である。咸熙二年(265) 州は12、郡国は93、県は720。吏および兵は未詳。

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1.冀州

冀州の概要

三国志でもっとも重要な地、冀州から作業開始。
冀州は、もとの治所は高邑(趙国)だが、黄初期に鄴が五都のひとつとなり、州治を信都(安平郡)に移した。

冀州。案禹貢、周禮並為河內之地,舜置十二牧,則其一也。春秋元命包云:「昴畢散為冀州,分為趙國。」其地有險有易,帝王所都,亂則冀安,弱則冀強,荒則冀豐。舜以冀州南北闊大,分衞以西為并州,燕以北為幽州,周人因焉。及漢武置十三州,以其地依舊名為冀州,歷後漢至晉不改。州統郡國十三,縣八十三,戶三十二萬六千。

冀州は、漢武帝が十三州を置いたときから変化なし。

魏郡



地図は、建安十八年五月、曹操が魏公となったときの魏郡に近づけてある。

◆編成の歴史
この魏郡は2つの部分から構成される。後漢の魏郡に含まれる県と、建安十七年に周囲の郡国から編入された県である。

編入について確認する。
武帝紀の建安十七年、「割河内之蕩陰朝歌林慮、東郡之衛国頓丘東武陽發干、鉅鹿之廮陶曲周南和、廣平之任城、趙之襄國邯鄲易陽、以益魏郡」とある。
河内郡から、蕩陰・朝歌・林慮を併合した。

魏代に、鄴県に近い蕩陰を残して、林慮・朝歌は河内郡に返還された。地図では、魏代にならい、この2県を河内郡に戻してある。

東郡から、衛国・頓丘・東武陽・發干を併合した。東郡のうち、黄河の北側の3県である。東武陽とは、袁紹の部将であった曹操が駐屯させられた地である。

のちに曹操は、同じ東郡でも、黄河の南側の鄄城を本拠として、袁紹との距離をとった。袁紹は黄河を南限として勢力範囲を形成し、曹操はそれを踏襲した。つまりこの区画は、袁紹の本拠地の領域をも示している。


鉅鹿から、廮陶・曲周・南和が併合される。曲周・南和とも、鉅鹿の南部かつ魏郡の北部であり、境界上にある。廮陶は鉅鹿の郡治であり、魏代には返還された。『三国会要』は返還の時期を未詳とする。広平国(鉅鹿郡)から任県が併合された。
趙国から襄国・邯鄲・易陽が魏郡に吸収された。趙国は、治所である邯鄲を失い、房子に治所を移した。領域の大半を失い、漢代とは位置が変わってしまった。

武帝紀の建安十八年、「冬十月分魏郡爲東西部、置都尉」と、魏郡に東武都尉・西部都尉が置かれる。漢魏革命が終わると、黄初二年、東武都尉は陽平郡に、西部都尉を広平郡となった。地図では、曹丕によって三郡に分割される前を表示する。

◆所属する郡県
魏郡プロパーは9県で、郡治は鄴県。鄴県・繁陽・内黄・魏県・黎陽・陰安・斥丘・蕩陰・長楽があり、以上が曹魏の魏郡である。

黎陽県には、倉城があり、『冀州図経』によると袁紹が兵糧を集めたところ。袁譚城・曹公城がある。

魏郡東武都尉から、広平郡に移されたのは16県で、郡治は曲梁である。曲梁・易陽・武安・渉県・南和・平恩・邯鄲・襄国・任県・曲周・列人・斥章・肥郷・臨水がある。

易陽県は、もとは趙国に属した。『寰宇記』によると、魏代に趙国から魏国に移した。
『歴史地図集』東漢には、広年県・広平県・梁期県がある。この3県は『続漢志』鉅鹿郡に見えるが、地理的には、魏郡東武都尉である。しかし『歴史地図集』三国魏には見えない。県を省かれたか。

魏郡西部都尉から、陽平郡に移されたのは9県で、郡治は館陶である。館陶・元城・清淵・衛国・發干・東武陽・頓丘・陽平・楽平がある。

陽平県には、頓城があり、臧洪が太守となり治所とした。
楽平県には、『宋志』によると魏が立てた県とするが、誤りであって、漢代の東郡に楽平県がある。


鉅鹿(・安平)

冀州のうち、魏国の北側である。冀州に入った袁紹が、公孫瓚の侵攻にあい、戦った地域である。『陳志』袁紹伝にひく『英雄記』が記す、界橋・薄落津をふくむ。この地域から公孫瓚を駆逐するのが、袁紹の初期の防衛目標であった。
地勢が似ているため、魏代の鉅鹿・安平をひとつの区画とする。安平には冀州刺史の治所があり、鉅鹿は張角の本籍である。後者のほうが有名なので(笑)区画名は「鉅鹿」とする。



◆編成の歴史
まず、鉅鹿について。『続漢志』(范曄『後漢書』に接続された司馬彪の『続漢志』郡国志)によると、鉅鹿とは秦が設置したが、建武十三年(光武帝が)省いて広平国とした。

魏郡東武都尉こと「広平郡」は、後漢の広平国に由来がある。上述の武帝紀でも「廣平之任城」という表現が見られ、建安期においても、鉅鹿郡ではなく広平国と扱われたことが分かる。

再編によって、県の変動が激しい。建安十七年、廮陶・曲周・南和の3県が魏郡に入れられ(上述)、廮陶は鉅鹿郡に返還された一方、曲周・南和は、曹操の魏国(のち魏郡東武都尉→広平郡)に吸収された。『三国会要』では8県あり、『晋書』では侵食が進んで、廮陶・鉅鹿の2県に減っている。

張燕伝:張燕,常山真定人也,本姓褚。黃巾起,燕合聚少年為群盜,在山澤閒轉攻,還真定,眾萬餘人。博陵張牛角亦起眾,自號將兵從事,與燕合。燕推牛角為帥,俱攻廮陶。牛角為飛矢所中。……其後人眾寢廣,常山、趙郡、中山、上黨、河內諸山谷皆相通,其小帥孫輕、王當等,各以部眾從燕,眾至百萬,號曰黑山。……袁紹與公孫瓚爭冀州,燕遣將杜長等助瓚,與紹戰,為紹所敗。

常山のひと張燕が、郡治の廮陶を攻めている。廮陶より西が、并州の黒山に接する山がちな地域圏である。袁紹と公孫瓚が戦ったとき、張燕が公孫瓚を助けた。
西から張燕、北から公孫瓚、南から袁紹が奪いあう地域といえる。

つぎに安平について。安平は、魏郡に県を奪われることを免れた。『三国会要』は、建安十八年、「安平ら10郡を魏国とした」とあるが、未詳である。

◆所属する郡県
鉅鹿郡は8県で、治所は廮陶。廮陶・鉅鹿・楊氏・南[糸言糸]・下曲陽・平郷・[梟β]県・大陸。

『三国会要』は、大陸県を載せる。『続漢志』『晋書』ともに大陸県がないが、杜預の『左伝』の注釈に「鉅鹿の大陸県」が見えるため、載せたのである。大陸沢があるため、この近辺と思われるが、『歴史地図集』に見えないため、地図に反映しない。


安平郡は15県で、治所は信都。信都・南宮・下博・武邑・観津・扶柳・経県・安平・饒陽・南深沢・博陸・

『三国会要』は博陸県を載せる。後漢の桓帝がおき、博陸郡としたが、建安末年に省かれた。『輿地広記』によると、晋が博陸と改めたとするが、魏が改めたか。
『歴史地図集』では、博陸を中山国に食いこませた盲腸みたいに配置する。群雄の勢力形成には影響しないと思われるため、この地図では中山国のなかに置いた。

棗強・広宗・阜城である。

『続漢志』郡国志・『歴史地図集』東漢は、武遂県を載せる。『三国会要』三国魏・『三国会要』は、武遂県を載せない。地図上には表示した。


常山(・趙国)



趙国の属県は『続漢志』で、邯鄲・易陽・襄国・柏人・中丘である。

『三国会要』は「中邱」、『歴史地図集』は「中丘」とする。

治所は邯鄲。しかし邯鄲・易陽・襄国は、曹操の魏郡(受禅後は広平郡となる)に奪われた。そこで北に接する常山国から、房子・元氏・高邑・平棘を譲ってもらい、魏代は房子が治所となった。

『続漢志』には「欒城」があり、李賢注に「〔在平棘〕縣西北四十里」とある。『歴史地図集』東漢には、平棘のとなりに見える。地理的には、趙国に編入されたはずだが、『三国会要』・『歴史地図集』三国魏からは消えている。

つまり南に接する魏郡に、おのれの南部を譲って(治所すら譲って)、代わりに北に接する常山国から、その南部を譲ってもらった。その結果、北に平行移動したことになる。
「趙王」「趙相」もしくは「趙郡太守」が、この地に拠って立って活躍せず、属県が少なく、範囲を再編(解体)されてアイデンティティを失っているため、地図では「常山」に統合した。

楽平郡は、并州に属する。
『三国会要』によると、曹操は建安二十年、新興郡をつくり、またのちに上党を分けて楽平郡を置いた。

曹植伝にひく『曹志別伝』に「及受禪,改封鄄城公。發詔以志為樂平太守,歷章武、趙郡,遷散騎常侍、國子博士,後轉博士祭酒」とあるが、時代がくだる。

楽平郡には、治所の楽平(もと沾県)・轑阿・上艾の3県がある。上艾は、後漢では常山に属し、曹操によって楽平郡に移された。この地図では、もと常山の上艾を(地理的に近いので)この区画に含めた。

『続漢志』によると、上艾はもと太原郡に属し、常山国に移された。魏代に常山から楽平に移されたのである。たしかに西に離れている。
曹操の「作為」を無視したことになって、すみません。


いよいよ区画の名とした常山。趙雲の故郷。
常山の属県は『続漢志』で、元氏・高邑(冀州刺史の治所)・南行唐・房子・平棘・欒城・九門・霊寿・蒲吾・井陘・真定・上艾がある。
上述のように、元氏・高邑・房子・欒城(魏代に消滅)は、魏代に趙国に譲った。上艾は楽平郡に譲った。代替地が用意されるわけでなく、漢代よりも狭いのが魏代の常山である。
治所は、漢代は元氏であったが、これを趙国に譲ったから、かわりに真定。
漢代の常山になかった県として、石邑がある。『歴史地図集』前漢では県、後漢で廃され、曹魏が県に戻したようである。建安二十五年、ここ石邑に鳳凰があらわれた。上曲陽は、後漢では中山国に属し、曹魏では常山に属するため、この区画に入れた。

呂布伝に「北詣袁紹,紹與布擊張燕于常山」とある。張燕伝に「張燕,常山真定人也,本姓褚」とある。趙雲の故郷という情報には、あまりマップにおける意味はなく、むしろ張燕の地理的な本拠地である。張燕は、ここから東に接する「鉅鹿」に進出して、公孫瓚を助けて、袁紹を挫いた。

中山

烏丸鮮卑伝に「中山太守張純叛入丘力居眾中,自號彌天安定王」とあり、張純が拠って立ったところ。曹操に負けた袁尚が逃げこんだのもこちら。独立した区画として扱う。


『続漢志』によると、中山国の属県は、盧奴・北平・(母)〔毋〕極・新市・望都・唐県・安国・安憙・漢昌・蠡吾侯國(もと涿郡に属す)・上曲陽(もと常山に属す)・蒲陰・広昌(もと代郡に属す)。
ここから魏代への変化として、上曲陽は、魏代に常山に移ったので、地図に反映した。漢昌は「魏昌」に改称された。
北の霊丘県は、『歴史地図集』東漢では代郡だが、『歴史地図集』三国魏では中山とする。中央の重点化(北方の放棄ともいう)が時代の傾向だと思うので、魏代のとおり中山国に入れる。

郡境は、『歴史地図集』も適当なので、代郡の面積を食い過ぎないように、しかし霊丘は含めるように設定した。

漢代にある新市県が、『歴史地図集』三国魏・『三国会要』に見えない。
『歴史地図集』三国魏で、博陸県は、安平郡から盲腸のようには食いこんでいるが、漢代のなめらかな郡境をひくと、この区画に入る。160316

河間

張郃の故郷であり、田銀・蘇伯がそむいたところ。


『続漢志』によると、河間国に属する県は、楽成・弓高・易(もと涿郡に属する)・武垣(もと涿郡に属する)・中水(もと涿郡に属する)。鄚県(もと涿郡に属する)。高陽(もと涿郡に属する)・

どれだけ、「もと涿郡に属す」れば、気が済むのでしょう。

文安(もと勃海に属する)・束州(もと勃海に属する)・成平(もと勃海に属する)東平舒(もと勃海に属する)

どれだけ、「もと勃海に……
もと涿郡に属する西部と、もと勃海に属する東部に分類できそうです。広くて県数があり、隣接するどれかと合併するのは気が引けた。成り立ちからして、涿郡・勃海からの寄せ集めであり、平地を区切るのは難しいことが分かる。


臧洪伝に、張超のこととして「超遣洪詣大司馬劉虞謀,值公孫瓚之難,至河間,遇幽、冀二州交兵,使命不達。而袁紹見洪,又奇重之,與結分合好」ともある。
幽州と冀州のあいだ(冀州に属する)で、公孫瓚が籠もった易京を含む。ただしぼくは、公孫瓚が易京に籠もって、袁紹に幽州を渡さなかったことから、易京は幽州の区画とする。恣意的ですが、勢力図を作るのが目的です。
程昱伝に「田銀、蘇伯等反河間,遣將軍賈信討之」とあり、曹操が遠征して曹丕が留守するとき、田銀・蘇伯が河間国でそむく。これを一区画とする。

治所は楽成。

『三国会要』には、楽城を載せ、旧名は「楽陵」であり、後漢の桓帝が改めた、侯国であり、太和元年に陽都侯の曹洪が封じられたとする。しかし『歴史地図集』三国魏になく、『歴史地図集』西晋では、三国魏の「楽成」の地点が「楽城」に変わっている。同じ場所であろう。

「もと○○に属す」と『続漢志』が書かず、河間国プロパーなのは、もうひとつ弓高県だけであるが、魏代にはもう見えない。
鄚県には、黄初元年、張郃が(故郷に)封じられた。
『三国会要』は「東州」につくるが、『続漢志』の「束州」が正しいか。

勃海(・楽陵)

袁紹は、勃海太守からはじまった。


『続漢志』で勃海は、8県のみ。南皮・高城・重合・浮陽・東光・武県・陽信・脩県(もと信都に属す)。
魏代でも8県は変わらないが、内訳に異動がある。南皮・東光・浮陽・饒安・高城・重合・蓚県・広川である。

章武県は、『三国会要』に見えないが、『歴史地図集』東漢と三国魏にある。しかし『歴史地図集』のうちでも、東漢と三国魏とで、位置が異なる。いま三国魏に従う。『続漢志』では「武」県となっており、ますます分からない。

郡治の南皮県には、観台があって、袁譚が築いたもの。曹操が袁譚を捕らえたのはここ。曹公固がある。
東光県には清河があり、『水経注』によると、公孫瓚は黄巾を東光界でやぶり、清河まで追って、三万を斬首した。
『続漢志』の脩県は、『歴史地図集』は東漢・三国魏とも「蓚県」とする。『三国会要』によると、漢代は「條」につくり、『元和志』によると晋代に「蓚県」と改められたとするが、田畴伝に「蓚」とあるから、漢末に改められたか。
『歴史地図集』三国魏・『三国会要』で、勃海郡の領域は、安平郡・清河国に食いこんで、広川県を取りにいく。しかし形が不自然なので、後漢の郡境を採用して、広川県を勃海に含めなかった。

後漢では、広川県(地図の左下の隅)は清河国に属する。この地図では、清河国を、区画「平原」に統合(後述します)。安平郡(この地図では、区画「鉅鹿」に統合)の棗強と接近しており、扱いがむずかしい県。
公孫瓚伝に、「以嚴綱為冀州,田楷為青州,單經為兗州,置諸郡縣。紹軍廣川,令將麴義先登與瓚戰,生禽綱。瓚軍敗走勃海,與範俱還薊,於大城東南築小城,與虞相近,稍相恨望」とあり、袁紹が厳綱を生け捕りにしたところ。袁紹が冀州から公孫瓚を追い出すプロセスで、境界線として戦場になった。ここで敗れた公孫瓚は、気前よく刺史・太守を任命していた優勢から一転して、幽州にひっこむ。
劉備が、となりで平原相になっていたのも、ここが公孫瓚の勢力範囲だったから。


◆楽陵郡
建安十八年、曹操は、平原・勃海から県を割いて、楽陵郡を立てた。海沿い。『歴史地図集』において新楽県は、勃海のなかに食い込んでいるが、『沈志』に「新楽県は楽陵郡に属する」とあるから、境界線がいびつである。
楽陵郡の創設は、「平原郡から、海沿い・黄河の北を切りとる」という区画整理である。地理的に勃海郡と癒着していることから、同一の区画「勃海」とした。楽陵郡は厭次を治所とし、厭次・楽陵・新楽・陽新・漯沃を含む。

平原(・清河)

袁紹なきあと、鄴に入れなかった袁譚の本拠地となった。


◆清河国
まずは、区画「平原」に統合した、清河国から。地図の西半分。
漢の桓帝の建和二年、清河を甘陵と改めたが、魏では清河にもどした。黄初三年、曹貢を清河王としたが、翌年に薨じたので国が除かれた。
『続漢志』によると、甘陵(=清河)・貝丘・東武城・鄃県・霊県・繹幕・廣川(もと信都郡に属す)の7県である。『三国会要』のいう魏代も同じ。

武帝紀に「太祖將討之,譚乃拔平原,并南皮,自屯龍湊。十二月,太祖軍其門,譚不出,夜遁奔南皮,臨清河而屯」とある。清河は、曹操の長女の「清河公主」を除いて、地理的に意味のある文脈で出てくるのは、ここぐらい。袁氏の勢力圏として、隣接した平原にくっつけて、1区画とする。

単独の区画にするには意義が薄いから、統合したかった。袁氏の本拠地である、勃海・平原に連動することが多いから、西の鉅鹿でなく、東の平原に統合した。


◆平原郡
『続漢志』によると、平原国には、平原・高唐・般県・鬲県・祝阿・楽陵・濕陰・安德・厭次がある。建安十一年、国を除いて郡とする。黄初三年、斉公の曹叡を平原王とする。黄初七年、曹叡が皇帝を嗣ぐと、郡に戻された。
曹操によって、楽陵・厭次が楽陵国(この地図では、区画「勃海」に統合)に持って行かれたことは、すでに見た。
魏代には、平原・高唐・安徳・西平昌・般県・鬲県・博平(もと東郡に属す)・聊城(もと東郡に属す)・荏平(もと済北に属す)が含まれる。

曹操は「魏郡」の範囲を広げるため、東郡から黄河の北をうばった。すると、東郡の北西部が、飛び地になってしまった。仕方がないので、隣接する平原郡に統合した。済北から荏平県をもらったのも、同じ事情による。
地図では、「曹操の魏郡」を表現したかったので、必然的に、後漢ではなく曹魏の境界線をなぞり、博平・聊城・荏平を、平原郡に含めた。
魏の境界線に従った結果、漢代には平原に含まれていた、祝阿・濕陰は、領域の外に出てしまった。2県は、魏代は済南国に属する。

般県には般河があり、公孫瓚が黄巾を破ったところ。
袁紹の死後、袁譚は、鄴に入れないと黎陽(魏郡の内)にゆき、つぎに南皮(勃海郡)・平原(平原郡)と転戦して、「公之圍鄴也,譚略取甘陵、安平、勃海、河間。尚敗,還中山」と平原を軸足にして、周囲の郡を奪ってゆく。袁氏の勢力基盤である。160316

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2.兗州

兗州の概要

漢代、兗州の治所は昌邑(山陽郡)である。興平二年、曹操が兗州牧となると(曹操が軍事上の都合で本拠地としていた)鄄城(東郡)が治所となった。明帝のとき、廩邱(東郡)が治所となった。

『晋書』地理志:兗州。案禹貢濟河之地,舜置十二牧,則其一也。周禮:「河東曰兗州。」春秋元命包云:「五星流為兗州。兗,端也,信也。」又云:「蓋取兗水以名焉。」漢武帝置十三州,以舊名為兗州,自此不改。州統郡國八,縣五十六,戶八萬三千三百。

兗州は、漢の武帝のときから変化なし。

東郡

曹操の最初の根拠地である。もとの治所は濮陽だった。初平二年、曹操が治所を東武陽とした。建安期、東武陽が魏郡に編入されたから、濮陽が治所となった。

『歴史地図集』によると、東武陽は黄河の北側。兗州は黄河の南、冀州は黄河の北なので、東武陽が冀州の魏郡に属することは自然なのかも知れない。
初期の曹操が袁紹の部将として動くとき、本拠地を袁紹のそば(黄河の北)におくのか、袁紹から離れたところ(黄河の南)に置くかは、とても重要なこと。この地図では「曹操の魏国」を表現して、黄河が国境線になった。それは「袁紹の本拠」とも同義。建安初期、東武陽などの黄河の北部は、曹操ではなく袁紹の勢力圏であろう。だからこの国境線で構わない。




『続漢志』で、東郡の治所は濮陽である。濮陽・燕県(もと南燕国)・白馬・頓丘・東阿・東武陽・范県・臨邑・博平・聊城・發干・樂平・陽平・衛国・穀城が属する。
このうち、黄河の北側は、曹操によって魏郡に編入された。頓丘・東武陽・發干・楽平・陽平・衛国である。魏郡の拡大によって、東郡から見たら「飛び地」になってしまった、聊城・博平は、魏代には隣接する平原郡に移された(既述)
すると残るのが、濮陽・燕県(延津がある)・白馬(黎陽津=白馬津がある)・東阿・范県・臨邑・穀城である。魏代になると、東阿・臨邑・穀城は、東の済北国に統合された。

東阿は、荀彧・程昱が呂布から守り抜いた城なので、区画「東郡」に残した。范県・鄄城と切り離したりしない。臨邑・穀城は、区画「済北」に移す。勢力地図をつくるため、後漢と曹魏を折衷した郡境とする。

つぎに、後漢の東郡から増えるのは、鄄城・廩丘である。
鄄城・廩丘は、後漢では済陰郡に属する。曹魏では鄄城・廩丘とも東郡に属する。曹操の初期の勢力範囲を「東郡」とする場合、鄄城は曹操の勢力圏であるのは確かである。曹魏のくくりに従って、東郡に入れておく。

『陳志』荀彧伝:貢、見彧無懼意、謂鄄城未易攻、遂引兵去。又與程昱計、使說范東阿。卒全三城、以待太祖。
鄄城・東阿・范県のみが、呂布・陳宮になびかなかった。

鄄城は曹操が兗州刺史として駐屯し、明帝紀に廩丘が州治にとなる。

面積がせまく(治める価値が薄そう)、東西に長い(治めにくそう)である。西から東に流れる黄河に沿った区画であるが、青州黄巾が兗州に流入し、曹操がここから群雄となり、袁紹もここを奪いにきた。魏の五都は置かれなかったが、「天下:荊州=中原:東郡」というくらい必争の地。

済北(・東平)

曹操を迎えたのは、済北相の鮑信。東郡と、済北・東平は、後漢・曹魏を通じて、属県のシャッフルが起こる。同一の地域圏に属すると見てよいだろう。この区画の北部がおおむね済北で、南部がおおむね東平である。「おおむね」というのは、編成の変更が激しいから。地図は再掲。


◆済北国(区画「済北」のおおむね北部)
建安十七年、皇子の劉邈を封じて、郡から国となる。魏が受禅すると、劉邈は列侯となり、国は除かれ郡となる。明帝期、曹植の子・曹志が、陳から済北に移され、また国となる。

東郡太守の曹操と、済北相の鮑信は、境界を接して、穀城・臨邑・東阿の周辺でつながった同盟勢力であった。鮑信なきあと、曹操の領土になった。

『続漢志』では、5県である。盧県・蛇丘・成・茌平(もと東郡に属す)・剛県。成県は、『続漢志』の校勘によって不明とされ、泰山の式県かとされる。
魏代になると、荏平は平原に移った。代わりに、後漢の東郡から、穀城・臨邑・東阿が入った。穀城・臨邑・東阿は、東郡の東端であった。郡治から遠すぎるから、近くに治所のある東平に編入されたのであろう。

後漢に従って東阿を区画「東郡」とし、曹魏に従って穀城・臨邑を区画「済北」とする理由は、曹操の勢力圏を的確に表現するための折衷的な郡境です(既述)。整理すると、東阿は後漢で東郡、曹魏で済北。范県は後漢で東郡、曹魏で東平。ぼくは東阿・范県とも、区画「東郡」に残した。

『歴史地図集』三国魏では、肥成が県として表示されるので、反映した。

◆東平国(区画「済北」のおおむね南部)
『続漢志』では、7県である。無塩・東平陸・富成・章・寿張(もと東郡に属す)・須昌(もと東郡に属す)寧陽(もと泰山に属す)。
『三国会要』では、章県がなく、かわりに剛父がある。『左伝』杜預注 隠公五年にあるらしい。『晋書』は「剛平」とする。

『歴史地図集』では「剛県」であり、『続漢志』では済北国に含める。

『歴史地図集』三国魏では、西にすすんで後漢の東郡を侵食し、范県を東平国の範囲に収めた。寿張・須昌が東郡から編入された(『続漢志』)ように、東郡と同一の地域圏なので、郡境はある程度は、暫定的なものとなる。この地図では、後漢の東平国の境界を採用して(区画「済北」に丸ごと含めて)いる。

漢代の治所は無塩だが、魏代は寿張。黄初四年、廬江王の曹徽が寿張に封じられ、東平郡は東平国となった。
曹操が兗州に入った直後から、寿張で黄巾を破り、早くから曹操が程昱を寿張令としている。まるまる曹操の勢力圏である。ただし、呂布・陳宮がきたときは、おおきな戦闘は起きていない。

済陰

建安十七年、皇子の劉熙を封じた。魏が受禅すると、劉熙は列侯となり、国から郡となった。黄初期、彭城王の曹拠を封じたが、黄初五年、定陶王(県王)に改封されて郡にもどった。


『続漢志』によると、11県ある。定陶・冤句・成陽・乘氏・句陽・鄄城・離狐(もと東郡に属す)・廩丘(もと東郡に属す)・單父(もと山陽に属す)・成武・己氏(もと梁国に属す)。
魏代でも、だいたい同じ。ただし、鄄城・廩丘は東郡に移った(上述)。地理的に接近しており、東郡のあたりは郡境に「必然性」がないようである。

離狐県は、李典伝によると、李典は離狐太守となる。曹操は袁紹と戦っており、郡をおいて後に廃したのだろう。

離狐県は、済陰の西北の端で、袁紹との前線に近い。太守の権限で動いてもらうため、臨時で郡を置いたのだろう。ひとつの区画に切り分けるほどではない。

寃句県は、『元和志』によると袁紹城がある。

初平四年、袁術を寿春まで追い落とした曹操は、「夏,太祖還軍定陶 」。興平二年、「二年春,襲 定陶 。濟陰太守吳資保南城,未拔。會呂布至,又擊破之。……布夜走,太祖復攻,拔定陶,分兵平諸縣。」と、たびたび戦場になる。夏侯惇が済陰太守となって、領土を経営する。160317

夏侯惇伝:復領陳留濟陰太守、加建武將軍、封高安鄉侯。時大旱、蝗蟲起。惇、乃斷太壽水、作陂。身自負土、率將士勸種稻、民賴其利。


陳留

初平期、張邈が陳留太守だった。袁術が進入して曹操の本拠地である東郡を脅かしたところ、徹底的に反撃された。


『続漢志』によると、陳留郡は17県。陳留・浚儀・尉氏・雍丘・襄邑・外黄・小黄・東昬・済陽・平丘・封丘・酸棗・長垣・己吾・考城(もと梁国に属す)・圉県(もと淮陽に属す)・扶溝(もと淮陽に属す)
『三国会要』によると、魏代も属県に変化なし。

黄初三年、襄邑公の曹峻を封じて国となる。黄初五年、襄邑に改封して、陳留は国から郡にもどった。太和六年、ふたたび曹峻が封じられ、国となった。 平丘県には匡亭があり、曹操が袁術をやぶったところ。酸棗県には烏巣沢があり、また袁紹をやぶったところでもある。
圉県がある。『魏書』地形志によると、後漢・晋では陳留に属したが、のちに罷めたと。ゆえに『晋書』にはない。

任城(・山陽・魯郡)

山陽・任城・魯国は、せまく、割拠した勢力がない。初平期、袁遺が山陽太守だったが「割拠」とはいえない。武帝紀に「秋九月,太祖還鄄城。布到乘氏,為其縣人李進所破,東屯山陽」とあり、呂布が兗州の南部を奪ったことが分かる。
任城は、曹操が兗州に入る前、任城相の鄭遂が殺された。武帝紀によると陶謙が「徐州牧陶謙與共舉兵,取泰山華、費,略任城」と、曹操の兗州に攻めこんできた。
魯国は、張遼伝に「布為李傕所敗,從布東奔徐州,領魯相,時年二十八」とあるくらい。山なので使い物にならず、争奪の対象にならなかったのだろう。ほんとは兗州に豫州がメリこんだ部分なのだが、兗州とセットにしてしまう。実際の群雄の争いで、遠隔地を治めるには、特別の努力が必要だっただろうから。歴史がある区画は、実際の遠近とはズレてしまう。
「曹操が攻め取られやすい、兗州の部分」という括りで、ひとつにまとめる。というか、面積がせまいのが、併合のいちばんの理由。まんなかにある任城の地名を取ろう。

反対に、「曹操が攻め取られにくい、兗州の部分」というのは、西どなりの済陰である。ここは、程昱・夏侯惇が治めており、曹操の原資となったようである。




◆山陽
『続漢志』では、昌邑は兗州刺史の治所。東緡・鉅野・高平・湖陸・南平陽・方與・瑕丘・金郷・防東である。『三国会要』も同じ。
おもにこの区画の東部だが、瑕丘・南平陽は、任城・魯郡にくいこんでいる。
建安十七年、皇子の劉懿を封じた。魏が受禅すると、劉懿は列侯となり、国は郡となった。

湖陸県がある。『地道記』によると、費亭城があり、曹操がはじめに封じられた地と。しかし曹操の祖父が封じられた費亭は、沛国にある。董昭伝に「曹操に父の費亭侯を嗣がせよ」とあるから、山陽ではなく沛国の費亭である。

献帝が禅譲したのち、山陽に封じられた。

◆任城
『続漢志』によると、任城・亢父・樊県がある。『三国会要』も同じ。
黄初三年、鄢陵侯の曹彰を任城王とした。子の曹楷は、中牟に移されて、国から郡にもどった。

3県しかない小さな郡だが、『晋書』地理志でもそのまま。


◆魯国
『続漢志』によると、魯国は、魯県・騶県・蕃県・薛県・卞県・汶陽の6県である。『三国会要』も同じ。魯国には、孔子の旧宅がある。160326

泰山

麋竺伝 注引:曹公集載公表曰「泰山郡界廣遠、舊多輕悍、權時之宜、可分五縣爲嬴郡、揀選清廉以爲守將。偏將軍麋竺、素履忠貞、文武昭烈、請以竺領嬴郡太守、撫慰吏民。」

泰山郡は嬴県をふくむ。麋竺伝によると、麋竺が嬴郡太守となる。
泰山郡は東平陽県をふくむ。前漢の県で、後漢で廃されたが、魏がまた立てた。『晋書』羊祜伝によると、泰山郡の平陽ら5県を「南城郡」とした。魏代に平陽県があったことが分かる。
『続漢志』によると、奉高・博県・梁甫・鉅平・嬴県・山茌・萊蕪・蓋県・南武陽・南城(もと東海に属す)・費県(もと東海に属す)・牟県がある。

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3.豫州

豫州の概要

漢代は譙県を治所とした。曹操の故郷である。正始・嘉平期に、刺史の治所が安成に遷された。

『晋書』地理志:豫州。案禹貢為荊河之地。周禮:「河南曰豫州。」豫者舒也,言稟中和之氣,性理安舒也。春秋元命包云:「鉤鈐星別為豫州。」地界,西自華山,東至于淮,北自濟,南界荊山。秦兼天下,以為三川、河東、南陽、潁川、碭、泗水、薛七郡。
漢改三川為河南郡,武帝置十三州,豫州舊名不改,以河南、河東二郡屬司隸,又以南陽屬荊州。先是,改泗水曰沛郡,改碭郡曰梁,改薛曰魯,分梁沛立汝南郡,分潁川立淮陽郡。後漢章帝改淮陽曰陳郡。魏武分沛立譙郡,魏文分汝南立弋陽郡。及武帝受命,又分潁川立襄城郡,分汝南立汝陰郡,合陳郡于梁國。州統郡國十,縣八十五,戶十一萬六千七百九十六。

『禹貢』の荊河の地。天下の中心といえば豫州だけれど、漢代にはその呼称を洛陽の周辺に譲っていた。漢は、泗水を沛国と改め、碭を梁国と改め、薛を魯国と改めた。梁国・沛国を割いて、汝南郡をつくった。

梁国・沛国はせまく、汝南はひろい。汝南は経済的に発展して、人材も豊富。しかしもとは、梁国・沛国の南部、荊州に接したところを切り出したフロンティア。
魏代の『歴史地図集』を見ると、梁国・沛国が残りカスみたいに見える。

潁川を分けて淮陽郡をつくった。

『范書』は、淮陽王がたくさん出てくる。
『陳志』でも、高柔伝にひく『陳留耆舊傳』に、靖高祖父固,不仕王莽世,為淮陽太守所害,以烈節垂名。とあり、たしかに淮陽太守がいる。

後漢の章帝は、淮陽を陳郡に改めた。魏は、曹操が沛国を分けて譙郡をつくり、曹丕は汝南を分けて弋陽郡を立てた。司馬炎が受命すると、潁川を分けて襄城郡を、汝南を分けて汝陰郡をつくった。陳郡を梁国に合わせた。

潁川

『元和志』によると、魏は洛陽に都したが、宮室・武庫は、その後も許昌に残っていた。言わずもがな、曹操が献帝を飼っていた場所。
漢代の許県を、曹丕が許昌と改めた。「譲王台」がある。典農都尉が置かれた。

◆襄城郡
咸熙元年、襄城典農中郎将を廃して郡とした。地理的には頴川郡に属する。司州の野王郡・原武郡と同じで、地理的に独立しているわけでなく、典農部の重要性ゆえに太守が置かれただけ。今回の趣旨に照らすと、分けなくてよい。
『宋書』『元和志』では、魏が潁川郡を分けて置いたとする。7県ある。
繁昌県は、もと頴陰の繁昌亭であり、曹丕がここで受禅して、県に昇格した。
郟県には摩陂があり、明帝期の青龍元年、井中に龍が現れた。『水経注』によると、明帝は龍を見にきて、摩陂を龍陂と改め、県城を「龍城」といった。

許都を献帝の居場所として切り取るなら、頴川郡を東西に分けて、東に許都=潁川郡、西に襄城郡としたほうが、マップが盛り上がるかも。許都を脅かす勢力の拠点として、区画として使い勝手がある。曹操は献帝を守る立場だったが、やがて曹丕が「献帝を脅かす勢力」として、ここに駐屯したのである。7県とは少なくないし、郡としての実態が三国期にある。
……と思いましたが。献帝の支配は「土地」に対するものではない。後漢に比べると三国魏の潁川・襄城は、後漢の潁川を単純に2つに分けたものではない。区画を引くと混乱するので、分けない。

この期間の変遷を『歴史地図集』で調べると、西部(潁川→襄城)は、漢代の郡治であった陽翟を、魏代に司州に奪われた。東部(潁川→潁川)は、西晋にあると東南に広がり、陳国の長平を吸収し、汝南の邵陵を吸収した。

地図は、後漢の潁川の範囲にもとづいて、境界をひく。


『続漢志』によると、郡治の陽翟は、禹が都とした。陽翟・襄城・昆陽・定陵・舞陽・郾県・臨潁・潁陽・潁陰・許県・新汲・焉陵・長社・陽城・父城・輪氏がある。
三国時代での異同は、曹丕が受禅の前に駐屯した繁昌亭が、県に格上げされたくらい。陽翟・陽城・輪氏は、『歴史地図集』三国魏・西晋では、司州に移っている。ここでは漢代を尊重した。
潁陰は荀彧の故郷。長社は黄巾の激戦地、鍾繇の故郷。臨潁は、曹仁伝に「文帝遣使即拜仁大將軍。又詔仁移屯臨潁」とある。趙儼伝に「入為司空掾屬主簿。時于禁屯潁陰,樂進屯陽翟,張遼屯長社,諸將任氣,多共不協」とある。潁陰・陽翟・長社は、許都のすぐそばである。

陳国



漢の旧国。もとは睢陽国。黄初四年、淮南王の曹邕を封じた。太和六年、東阿王の曹植が封じられた(陳思王)。曹植の子の曹志が、済北に改封されたから、郡にもどった。
西晋が受命すると、梁国に統合された。
陳県には、賈侯渠がある。賈逵が刺史のとき、200余里にわたって築いた。『初学記』は劉澄之『豫州記』をひき、陳県の北に芍陂がある。魏の王淩が呉の張休と交戦したところであると。
『続漢志』によると、寧平・新平・扶楽県も含まれる。
武帝紀に「建安元年春正月,太祖軍臨武平,袁術所置陳相袁嗣降」とあり、袁術が国相を独自に置いていたことがわかる。駱統公緒伝に「駱統字公緒,會稽烏傷人也。父俊,官至陳相,為袁術所害」とあり、駱統の父は、陳の国相となり、袁術に殺された。袁術の勢力圏の区画。

『続漢志』よると、陳国に属するのは、陳県・陽夏・寧平・苦県・柘県・新平・扶楽・武平・長平(もと汝南に属す)。
漢代には、汝南の宜禄県が、陳国に食いこんでいる。しかし宜禄県は、『歴史地図集』三国魏にはなくなる。境界は、三国魏に従った。

梁国



睢陽・下邑・虞・碭山・蒙・寧陵の6県。 寧陵は、『湯志』にはなく(代わりに)己氏がある(図中に丸じるし)。しかし済陰の属県として己氏を載せる(から梁郡に己氏県は含めるべできでない)。『続漢志』によると、ほかにも穀熟・エン・薄の3県がある。『寰宇記』によると、穀熟は曹丕期に廃された。
『続漢志』によると、治所は淮陽である。下邑・睢陽・虞県・碭県・蒙県・穀熟・鄢県(もと陳留に属す)・寧陵(もと陳留に属す)・薄県(もと山陽に属す;殷湯王の都)がある。

魏代の譙郡は、曹氏の故郷なので「不当に」広い。陳国の苦県を侵食した部分(西晋になると陳国に返却した上で、陳国が梁国に併合される)、沛国の蕭県・相県を侵食した部分(西晋になると沛国に返却される)は、ぼくのマップでは譙郡に含めず、もとどおり、陳国・沛国に振り分ける。


漢代の国で、魏が受禅すると郡となる。太和六年、元城王の曹悌を封じた。漢代は下邑、晋代は睢陽を治所とする。『歴史地図集』は睢陽を治所とする。
陽夏県(図中に丸じるし)は、もとは陳国に属したが、『通鑑』胡注によると、魏代は梁国に属した。ただし『歴史地図集』では、陽夏県は陳郡とする。陽夏を梁国と考えると、飛び地になってしまう。

『三国志』では、武帝紀「梁國橋玄」、先主伝「十月,曹公自征布,備於梁國界中與曹公相遇,遂隨公俱東征」とあるが、梁国に拠って立つ勢力はない。
臧洪伝・劉繇伝に、劉繇が郡治の「下邑長」となったとあるが、ただの経歴であって、群雄割拠とは関係がない。しかし伝統ある国なので、合併しない。


盧毓伝:文帝踐阼,徙黃門侍郎,出為濟陰相,梁、譙二郡太守。帝以譙舊鄉,故大徙民充之,以為屯田。而譙土地墝瘠,百姓窮困,毓愍之,上表徙民於梁國就沃衍,失帝意。雖聽毓所表,心猶恨之,遂左遷毓,使將徙民為睢陽典農校尉。毓心在利民,躬自臨視,擇居美田,百姓賴之。

と、盧植の子の盧毓が、済北相・梁郡太守・譙郡太守を歴任したことが見える。曹丕に郡の窮状を報告したところ、睢陽典農都尉(梁国の治所)に左遷される。

汝南・汝陰(・陽安)

◆汝南郡
治所は、漢代に平輿で、『晋書』では新息である。魏代は未詳。『歴史地図集』によると、新息を郡治としている。

新息はひろい豫州の南端で有り、弋陽郡との境界にある。

24県もあり、陽安・汝陰・汝陽などもこの郡。『歴史地図集』によると、豫州刺史の州治が、郡内の安成に置かれた。

後漢の汝南は最大の郡のひとつであるが、魏代には、西を汝南・東を汝陰に2分割された。それ以外にも、県を周辺に切りとられた。南部の弋陽・期思は、魏代は弋陽郡に奪われた。北部の宜禄は、魏代になくなり、『歴史地図集』三国魏では陳国の領域。東部の思善・城父・山桑は、魏代に譙郡に奪われた。
『続漢志』によると、分割される前の汝南とは、平輿・新陽・西平・上蔡・南頓・汝陰・汝陽・新息・北宜春・隠強・灈陽・期思・陽安・項県・西華・細陽・安城・呉房・鮦陽・慎陽・慎県・新蔡・安陽・富波・宜禄・朗陵・弋陽・召陵・征羌・思善・宋国・襃信・原鹿・定潁・固始・山桑・城父(もと沛国に属す)
おもに魏代に従って、地図を区切った。


◆陽安都尉(陽安郡)
巻十八 李通伝 「分汝南二縣,以通為陽安都尉」とあり、官渡のころに曹操が、汝南のうちで、自分の勢力が及ぶ範囲に陽安都尉を置いた。郡ではないが、郡になぞらえてマップを分割するといいかも。
『魏略』によると、李通は陽安太守となった。趙儼伝を按ずるに、袁紹が豫州の諸郡を招誘したとき、ただ陽安郡だけが動ぜず、都尉の李通は急ぎ戸調を録したとある。『魏氏春秋』によると、初平三年(192) 陽安都尉を置いた。 陽安県・朗陵県の2県が属する。

『歴史地図集』にないから、この2県だけが含まれるように(ほかの県を巻きこまないように)群境をぼくが作るしかない。かすれた筆で区切ってみた。


◆汝陰郡
『晋書』地理志によると、魏は郡を置いたが、廃した。泰始二年に晋が改めて置いた。『三国会要』は魏の郡には含めないが、『陳志』明帝紀に見えて、魏が置いたことのある郡である。

明帝紀:(景初二年)夏四月庚子,司徒韓暨薨。壬寅,分沛國蕭、相、竹邑、符離、蘄、銍、龍亢、山桑、洨、虹。十縣為汝陰郡。宋縣、陳郡苦縣皆屬譙郡。以沛、杼秋、公丘、彭城豐國、廣戚,并五縣為沛王國。

汝南をめぐる争いは、曹操・袁紹の時代に重要です。広すぎる汝南郡を分割して表示するために、汝陰郡をマップに設定するのは、有効です。

全体の見通しを先につくってから、『三国志集解』にいきます。この明帝紀だけを見ると、いまいち分からない。


『寰宇記』によると黄初元年に、『元和志』によると黄初三年に、曹丕が汝南を分けて置いた。明帝紀には景初二年に、沛国の10県を割いて汝陰郡に入れた。18県となる。

『歴史地図集』三国魏の地図では、沛国が小さくて汝陰郡と接していない。『歴史地図集』東漢を見たら、沛国が汝陰郡と接しており、編入された県がわかる。

固始県がある。司馬懿が鄧艾に屯を置かせた。武邱があり、『寰宇記』では邱頭ともいう。司馬昭が諸葛誕を征伐したとき、ここに兵を屯させた。諸葛誕を斬ると、武邱と改めた。

汝南郡の西半分が汝南のまま、東半分が汝陰郡とみればよい。司馬懿・鄧艾・司馬昭のことから見えるとおり、司馬氏が経済・軍事の基盤として使ったのかも。西に許昌があり、東に寿春があり、どちらにもアクセスできる土地である。
漢代の汝南は広すぎて、マップで持て余したので、汝陰郡は使いたい。

項県には、公路城がある。『地道記』によると袁術が築いた。

項県は、陳国との国境である。袁術が(漢代の広い)汝南郡の東半分は制圧しており、さらに北上して陳王を殺しにきたとき築いたのだろう。やはり、寿春・許都のいずれにもアクセスできる、重要な土地である。

項県には誘城があり、毋丘倹が乱をなして西にきて項県に至ると、鄧艾は軍を督して楽嘉で毋丘倹を誘った。だから後にこの名がついた。百尺堰があり、司馬懿が王淩を討ってここに至る。

沛国・譙郡

◆沛国
漢の旧国。太和六年、鄄城王の曹林を封じて、国となった。袁渙伝に「沛南部都尉を拝す」とある。

広戚県は、もとは彭城郡に属したが、景初元年に沛国に移った。地図に反映せず。

『続漢志』によると、後漢の沛国は、相県・蕭国・沛国・豊県・酇県・穀陽・譙県(後漢の豫州刺史の治所)・洨県・蘄県・銍県・鄲県・建平・臨睢・竹邑・公丘・龍亢・向本・符離・虹県・太丘・杼秋。しかし、大半を譙郡に持って行かれて、残滓のようになった。

劉備・呂布が徐州をめぐって戦ったとき、従属したほうが「小沛」にゆく。それを示すためだけの区画です。




◆譙郡
建安末、沛郡を分けて置かれた。黄初三年、譙県公の曹林を譙郡王とした。黄初五年、譙県王に縮小されて、郡にもどった。曹氏の故郷。

譙郡の設置により、沛国が大幅にワリを食いました。漢代と全然ちがう。

『水経注』淮水に、黄初期、曹丕は鄼県・城父・山桑・銍県を(沛国から)割いて譙郡を置いたとある。『元和志』『寰宇記』は、いずれも黄初元年に立った。
『宋書』にひく王粲の詩に、「すでに譙郡の界に入る」とあるが、王粲は建安期にすでに死んだから。曹操期に置かれたのでは。
西部の思善・城父・山桑は、汝南(汝陰)から奪ったもの(既述)。

譙県の城東には、曹操の旧宅がある。曹丕がここで生まれた。渦水があり、黄初六年、曹丕が舟師をもって譙県から渦水をめぐって淮水にでた。160326

宋県は、もとは汝陰に属したが、景初二年に編入。苦県は、もとは陳国に属したが、景初二年に編入。この景初期の再編は、地図に反映させず。もう譙郡が広いから。

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4.徐州

徐州の概要

州治は、郯県(東海)から、下邳(下邳)に移された。

『晋書』地理志:徐州。案禹貢海岱及淮之地,舜十二牧,則其一也。於周入青州之域。春秋元命包云:「天氐流為徐州。」蓋取舒緩之義,或云因徐丘以立名。秦兼天下,以置泗水、薛、琅邪三郡。楚漢之際,分置東陽郡。漢又分置東海郡,改泗水為沛,改薛為魯,分沛置楚國,以東陽屬吳國。景帝改吳為江都,武帝分沛、東陽置臨淮郡,改江都為廣陵。及置十三州,以其地為徐州,統楚國及東海、琅邪、臨淮、廣陵四郡。宣帝改楚為彭城郡,後漢改為彭城國,以沛郡之廣戚縣來屬,改臨淮為下邳國。及太康元年,復分下邳屬縣在淮南者置臨淮郡,分琅邪置東莞郡。州凡領郡國七,縣六十一,戶八萬一千二十一。

始皇帝が天下を統一して36郡を置くと、泗水・薛・瑯邪の3郡が置かれた。楚漢戦争のとき、東陽郡が置かれた。漢代に東海郡を分けた。泗水を沛と改め、薛を魯と改めた。沛を分けて楚国を置いた。東陽を呉国に属させた。景帝のとき、呉を江都と改めた。武帝のとき、沛・東陽を分けて臨淮郡を置いた。江都を広陵と改めた。
武帝が十三州を置いたとき、楚国・東海・瑯邪・臨淮・広陵の5郡国があった。
宣帝のとき、楚を彭城郡と改め、後漢では彭城国となった。彭城国には、沛郡の広戚県を属させた。臨淮を下邳国と改めた。
太康元年(280) また下邳から、淮水より南にある県を分けて臨淮郡をおいた。瑯邪郡を分けて東莞郡をおいた。

徐州はフロンティアなので、漢代の変遷がはげしい。三国志の世界を表現するために、どのようにマップに落とすのか、詳しく考えたい。


下邳

漢代は国だった。黄初三年、魯陽の曹宇が封じられた。黄初五年、曹宇が単父県に封じられ、郡にもどった。
下邳県は、『元和志』によれば、城は三重にある。曹操が呂布を白門で捕らえたが、これは大城の南門である。中白は呂布が守っていた。『水経注』にも見える。
淮陵県に、公路城がある。渦口(渦水の合流点)がある。

『続漢志』によると、下邳県はもとは東海郡に属した。徐県・僮県・睢陵・下相・淮陰・淮浦・盱台・高山・潘旌・淮陵・取慮・東成(もしくは東城)・曲陽(もと東海に属す)・司吾(もと東海に属す)・良成(もと東海に属す)夏丘(もと沛国に属す)。



北部の下邳・曲陽・司吾・良成の4県は、東海郡から移ってきた。
後漢では下邳だったが、三国魏で広陵郡に奪われたのは、淮陰・淮浦である。
後漢の盱眙(もしくは盱台)・高山・東城は、『歴史地図集』三国魏では、県でない。淮水より南は、三国魏になると、県として機能していない。

『続漢志』にある睢陵・潘旌は、位置を捜索中。



射陽(・広陵)

漢代は郡治は広陵であり、漢末に射陽に移す。やがて広陵にもどす。黄初期、淮陰にうつす。魏は9県を領して、のちに呉に属した。孫亮の建興二年、衛尉の馮朝に、広陵で城を築かせた。

魏呉に分断されたので、北を「淮陰」といい、南を「広陵」とする。

『続漢志』によると、広陵・江都・高郵・平安・淩県(もと泗水に属す)・東陽(もと臨淮に属す;呉王の劉濞の太倉がある)・射陽(もと臨淮に属す)・鹽瀆(もと臨淮に属す)・輿県(もと臨淮に属す)・堂邑(もと臨淮に属す)・海西(もと東海に属す)


平安県がある。白水陂があり、鄧艾が立てた。食いの破釜塘とあい連なり、8つの水門を開き、屯を立てて、田を灌すること12,000頃。石鼈城があり、これも鄧艾が築いたもの。
射陽県がある。公路浦がある。『水経注』のいう淮口はここである。袁術が九江にゆき、袁譚のところ奔るとき、ここの浦に出たから、この名がある。
海西県・淮浦県がある。徐宣伝によると、海西・淮浦の2県の民が乱をおこし、都尉の衛弥がにげた。このとき都尉が置かれていたことが分かる。

『水経注』淮水によると、広陵の東北は、山陽の湖道に至り、くだって精湖にそそぐ。
蒋済『三州論』によると、淮・湖は紆遠で、水陸は路を異にするから、山陽は通ぜずと。全祖望曰く、黄初六年、呉を伐ち、郡は還って精湖にきたが、水が枯れた。そこで蒋済は地をうがって船をあつめ、堤防をつくって湖の水をせきとめ、淮水にそそいで(曹丕軍の船を進ませた)。これは射陽のことである。

彭城

漢代は国だった。曹操のとき(劉氏の皇族を追い出して)国から郡となる。黄初四年、義陽王の曹拠を封じた。太和六年、郡から国となる。
彭城県は、徐州刺史の治所である。呂布城がある。呂梁の西岸にある。曹公城が東岸にある。
『続漢志』によると、彭城・武原・傅陽・呂県・留県・梧県・菑丘・広戚(もと沛国に属する)。兗州に向けて、沛国-彭城-下邳と、三段構えになっている。


陶謙伝に曹操の虐殺を「初平四年,太祖征謙,攻拔十餘城,至彭城大戰。謙兵敗走,死者萬數,泗水為之不流」と記す。武帝紀に「九月,公東征布。冬十月,屠彭城,獲其相侯諧。進至下邳,布自將騎逆擊」とある。下邳にいる陶謙・呂布と戦うとき、まず曹操が攻めるところ。
彭城郡は、沛国と隣接する。沛国は、漢代は広かったが、魏代には譙郡に多くを持って行かれる。沛国も、劉備が呂布を、呂布が劉備を置いたように、下邳から出たところである。彭城と位置づけが似ている。

東海(・昌慮・利城)

『続漢志』によると、郯県(徐州刺史の治所)・蘭陵・戚県・朐県・襄賁・昌慮・承県・陰平・利城・合(城)〔郷〕・祝其・厚丘・贛榆(もと瑯邪に属し、建安五年に復す)である。
後漢から三国魏に変動なし。

太和六年、館陶王の曹霖を封じた。
襄賁県がある。建安十一年、東海の襄賁・郯県・戚県を割いて、瑯邪国に足した。建安二十一年、瑯邪国が除かれて、3県はもとの東海郡に還された。
利城県がある。建安三年、曹操が郡をつくった。黄初六年、利城郡の兵の蔡方らが叛し、太守の徐質を殺した。のちに利城郡が見えないから、廃されたか。



瑯邪(・東莞)

◆瑯邪
太和六年、句陽王の曹敏を封じて、郡から国となった。
華県がある。臧覇伝によると、泰山の華県のひと。郭頒『世語』によると、曹嵩は泰山の華県にいた。『晋志』にはあるが、『続漢志』にはない。
『続漢志』によると、西海・諸県の2県がある。杜預が『左伝』に注釈して、諸県は城陽郡だという。魏および晋初には、諸県は城陽郡に属したのか。
『続漢志』によると、開陽(もと東海に属し、建安五年に復す)・東武・琅邪・東莞・西海(位置不明)・諸県・莒県(もと城陽に属す)・東安(もと城陽に属す)・陽都(もと城陽に属す)・臨沂(もと東海に属す)・即丘(もと東海に属す)・繒県(もと東海に属す)・姑幕がある。

◆東莞
太和六年、句陽王の曹敏を封じて、郡から国となった。
華県がある。臧覇伝によると、泰山の華県のひと。郭頒『世語』によると、曹嵩は泰山の華県にいた。『晋志』にはあるが、『続漢志』にはない。
『続漢志』によると、西海・諸県の2県がある。杜預が『左伝』に注釈して、諸県は城陽郡だという。魏および晋初には、諸県は城陽郡に属したのか。
東安県がある。杜畿伝の注によると、郭智は東安太守となった。けだし東安県は東安郡に昇格し、のちに省かれたのだろう。『太康地志』に従えば、県である。



建安初、曹操は瑯邪・斉郡〔・北海・泰山〕を分けて東莞郡を置いた。治所は東莞であった。

武帝紀の建安三年:太山臧霸孫觀吳敦尹禮昌豨、各聚衆。布之破劉備也、霸等悉從布。布敗、獲霸等、公厚納待。遂割青徐二州附於海、以委焉。分瑯邪東海北海、爲城陽・利城・昌慮郡。
城陽の郡治は、東武である。分かりにくいなあ。

東莞郡は、地図では分けなかった。城陽郡は表示したので、後漢の瑯邪の東部は、地図のなかの城陽に分けてある。160327

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5.青州

治所は臨菑。

『晋書』地理志:青州。案禹貢為海岱之地,舜置十二牧,則其一也。舜以青州越海,又分為營州,則遼東本為青州矣。周禮:「正東曰青州。」蓋取土居少陽,其色為青,故以名也。春秋元命包云:「虛危流為青州。」漢武帝置十三州,因舊名,歷後漢至晉不改。州統郡國六,縣三十七,戶五萬三千。

漢の武帝が置いたときのまま、晋代まで改めず。

済南

正始七年、任城王の曹楷を封じて郡から国となる。『晋書』によると、魏が蜀を平らげると、豪将の家を済北の北に移して、ゆえに済岷県といった。しかし『太康地志』にはなく、未詳である。
『続漢志』によると、東平・著県・於陵・臺県・菅県・土鼓・梁鄒・鄒平・東朝陽・歷城がある。

◆楽安
漢代は臨済、晋代は高宛を治所として、『三国会要』としては魏代は未詳。『歴史地図集』によると、高宛を治所とする。太和六年、陽平王の曹蕤を封じて国となる。
夏侯淵伝に「濟南・樂安黃巾徐和、司馬俱等攻城,殺長吏」とある。何夔伝に「海賊郭祖寇暴樂安・濟南界,州郡苦之」とある。済南と楽安はくっつける。
『続漢志』によると、楽安には9県がある。臨濟・千乘・高菀・樂安・博昌・蓼城・利県(もと斉郡に属す)・益県・(もと北海に属す;魏代は益都)・壽光(もと北海に属す)である。



斉国(臨菑)

漢代の旧国。建安十一年、国を除いて郡とする。青龍三年(236)、曹芳を斉王として、郡を国とした。曹芳が皇帝となると郡にもどす。嘉平六年(254)、曹芳を斉王にもどして、郡から国となる。
東安平県がある。漢代は北海郡に属したが、『宋志』によると魏代に北海から斉郡に移った。新沓県がある。景初三年、遼東の東沓県の民が渡海して、ここに住んだので、県を新設した。新汶県がある。正始元年、遼東・汶北・豊県の民が渡海した。斉郡の西安・臨菑・昌国から切りとって新汶県をたて、南豊県に住まわせた。
南豊県がある。『水経注』によると、司馬懿が公孫淵をうつと、北豊県のひとが移ってきたから、この県名に改めた。
武帝紀に、「秋八月,公進軍黎陽,使臧霸等入青州破齊、北海、東安,留于禁屯河上」とある。東安は、臨菑(斉郡の郡治)のとなり。北海と同一の区画とする。
『続漢志』によると、6県ある。臨葘(青州刺史の治所)・西安・昌國・臨朐・廣県・般陽(もと済南に属す)である。

◆北海
『続漢志』によると、北海には18県がある。劇県・營陵・平壽・都昌・安丘・淳于・平昌(もと瑯邪に属す)・朱虛(もと瑯邪に属す)・東安平(もと葘川に属す?)・高密・昌安・夷安・膠東・即墨・壯武・下密・挺県・觀陽である。
うち、曹操によって城陽郡に移されたのは、安丘・淳于・高密・昌安・夷安・平昌・壯武である。
北海郡は、事実上「解体」されているので、地図では、区画「斉国」に合わせた。合わせたのは、劇県・朱虛・營陵・平壽・都昌・下密・東安平である。
東端の観陽は、『歴史地図集』三国魏では東莱郡なので従った。



東莱

黄県がある。大人城がある。『元和志』によると、司馬懿が遼東を征伐したとき、ここに城を作って、糧を運ぶ船をここから入れた。境界は、曹魏にしたがう。
  『続漢志』によると、13県ある。黄県・牟平・惤県・曲成・掖県・當利・東牟・昌陽・盧郷・長廣(もと瑯邪に属す)・黔陬(もと瑯邪に属す)・葛盧・不其(もと瑯邪に属す)。
黔陬は、城陽郡に編入された。葛盧は、『歴史地図集』で発見できず。160414


城陽(東武)

建安三年、北海・瑯邪を分けて置く。海沿い。

武帝紀:遂割青徐二州附於海、以委焉。分瑯邪東海北海、爲城陽利城昌慮郡。

東武県がある。侯国。『寰宇記』によると、城陽の郡治は東武である。『元和志』によると、曹魏は瑯邪からはぶいて、東武を城陽に入れた。莒県がある。曹公城がある。『元和志』によると、曹操が陶謙を征したとき、5城を抜き、東海を略地した。そのき築いた城である。平昌県がある。『宋志』によると、曹丕が城陽を分けて平昌郡をおいた。孫礼伝によると、孫礼が平昌太守となる。しかし『太康地志』には、平昌県は城陽郡に属している。すぐに廃されたのだろう。


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6.揚州

もとの治所は歴陽。のちに寿春。建安初、合肥に移す。

『晋書』地理志:秦始皇並天下,以置鄣、會稽、九江三郡。項羽封英布為九江王,盡有其地。漢改九江曰淮南,即封布為淮南王。六年,分淮南置豫章郡。十一年,布誅,立皇子長為淮南王,封劉濞為吳王,二國盡得揚州之地。文帝十六年,分淮南立廬江、衡山二郡。景帝四年,封皇子非為江都王,並得鄣、會稽郡,而不得豫章。武帝改江都曰廣陵,封皇子胥為王而以屬徐州。元封二年,改鄣曰丹楊,改淮南複為九江。

始皇帝が天下を平定すると、鄣・会稽・九江を置く。項羽が、英布を九江王に封じると、3郡をすべて領有した。
漢は、九江を淮南郡と改め、英布を淮南王に封じた。六年、淮南郡を分けて、豫章郡を置いた。十一年、英布が誅されると、皇子の劉長を淮南王に封じ、劉濞を呉王にした。淮南・呉の2国は、揚州をことごとく領有した。漢文帝の十六年、淮南郡を分けて、廬江・衡山を立てた。漢景帝の四年、皇子を封じたが江都王とせず、鄣郡・會稽を与えたが、豫章は与えなかった。
武帝のとき、江都を改めて廣陵郡とし、皇子の劉胥を王に封じたが、広陵国は徐州に管轄させた。元封二年、鄣郡を改めて丹楊郡とし、淮南郡を改めて再び九江郡とした。

広陵というのが、もとは揚州だったが、徐州に入った。開発が進んで、北に押し上げられたのだろう。


後漢順帝分會稽立吳郡,揚州統會稽、丹楊、吳、豫章、九江、廬江六郡,省六安並廬江郡。獻帝興平中,孫策分豫章立廬陵郡。孫權又分豫章立鄱陽郡,分丹楊立新都郡。孫亮又分豫章立臨川郡,分會稽立臨海郡。孫休又分會稽立建安郡。孫皓分會稽立東陽郡,分吳立吳興郡,分豫章、廬陵、長沙立安成郡,分廬陵立廬陵南部都尉,揚州統丹楊、吳、會稽、吳興、新都、東陽、臨海、建安、豫章、鄱陽、臨川、安成、廬陵南部十四郡。 江西廬江、九江之地,自合肥之北至壽春悉屬魏。及晉平吳,以安成屬荊州,分丹楊之宣城、宛陵、陵陽、安吳、涇、廣德、甯國、懷安、石城、臨城、春穀十一縣立宣城郡,理宛陵,改新都曰新安郡,改廬陵南部為南康郡,分建安立晉安郡,又分丹楊立毗陵郡。揚州合統郡十八,縣一百七十三,戶三十一萬一千四百。

漢順帝のとき、会稽を分けて呉郡を立てた。揚州は会稽・丹楊・呉・豫章・九江・廬江の6郡となる。興平期、孫策は豫章を分けて、廬陵郡を立てた。孫権は豫章を分けて鄱陽郡を立て、丹楊を分けて新都郡を立てた。

地図に織りこむなら、ここまでだろう。

孫亮は豫章を分けて臨川郡を立てた。孫休は会稽を分けて建安郡を立てた。孫皓は会稽を分けて東陽郡を立て、呉郡を分けて吳興郡を立てた。豫章・廬陵・長沙を切り分けて安成郡を立てた。廬陵を分けて廬陵南部都尉を立てた。
晋が平呉すると、安成を荊州に属させた。丹陽を分けて宣城郡をつくり、……

淮南(寿春)

合肥県をふくむ。
後漢の九江郡を、魏は淮南と改めた。『宋志』にみえる。
寿春は、揚州刺史の治所。『文選』にひく『江都図経』には、江西の寿春は魏に属し、揚州刺史が寿春に鎮したとある。
鍾離県がある。『呉歴』によると、馬茂は、もとは淮南の鍾離の県長であった。つまり魏の中期には、鍾離県が廃されたということ。
合肥県には、新旧の2城がある。また蔵船浦・西津橋がある。

『続漢志』によると、陰陵・浚遒の2県がある。ここには逍遙津があり、張遼が孫権を破ったところ。塗陽城がある。
歴陽県がある。横江浦・洞口浦があり、曹休・張遼が呉を伐ったところ。当利浦・濡須塢・烏江がある。『宋志』によると、魏呉が争って、江淮のあいだは数百里も住民がいなくなった。このあたりは、民戸がなくて久しく廃れた。

『続漢志』九江郡にある県は、以下のとおり。陰陵・寿春・浚遒・成德・西曲陽・合肥・歷陽(後漢の州治)・當塗・全椒・鍾離・阜陵・下蔡(もと沛国に属す)・平阿(もと沛国に属す;塗山がある)・義成(もと沛国に属す)
地図では、歴陽・全椒・阜陵は、魏でなく呉なので、呉領の区画「広陵」に移した。

廬江・安豊

建安末に、治所を陽泉にうつす。
陽泉県には、陽宜口がある。陸遜が廬江を伐ったとき、満寵が陽宜口に趨った。
潜県があり、潜山がある。袁術が部曲の陳蘭・雷薄のもとに奔ったのは、ここである。
皖県がある。呉塘坡がある。『寰宇記』によると、曹操が朱光に皖県に屯させ、稲田を開かせた。呉領堰があり、刺史の劉馥は芍陂・茹陂の七門をひらいて、稲田を灌させた。のちに呉に属した。
呂蒙が廬江太守となり、皖県に屯した。諸葛恪もここに屯し、司馬懿に攻められて柴桑で退いた。
居巣県は、建安期に曹操が屯した。夏侯惇・曹仁・張遼・臧覇も屯した。のちに呉に属した。
钁里があり、孫綝が朱異を殺したのはここ。『湯志』によると、皖県・居巣の2県は、建安期にすでに呉に属しており、呉の蘄春郡の配下とすべきである。なるほど。
龍舒県がある。七門堰があり、劉馥が修築した。龍舒水を断って、田5千頃を灌した。

『続漢志』によると、廬江郡にある県は、以下のとおり。舒県・雩婁・尋陽・潛県・臨湖・龍舒・襄安・晥県・居巣・六安・蓼県・安豊・陽泉・安風である。
『歴史地図集』三国魏でも、廬江に残るのは、六安・舒県(廃される)・龍舒(廃される)・居巣(廃される)・潛県(廃される)・陽泉(東漢と三国魏で位置が違う) 安豊郡に移るのは、安豊・雩婁・安風・蓼県・

地図では、後漢の揚州から分離した安豊郡と、後漢の荊州から分離した弋陽郡を、ひとつの区画にまとめている。不都合があれば、分離する。

呉領に属したのは、晥県・臨湖・襄安・尋陽・居巣(ふたつめ?)である。

この地域は、魏呉の戦いで荒廃しており、事実上「解散」している。


広陵

後漢の広陵のうち呉が切りとった範囲と、後漢の廬江のうち呉が切りとった範囲から成る。『歴史地図集』三国呉でも、このふたつを、ひとつの「郡」として扱うが、「その他」の扱いだろうか。


丹陽・建業・新都

◆建業・丹陽
建業は、もとは秣陵といい、建安十七年に改名。

『歴史地図集』東漢と、『歴史地図集』三国呉の建業は、位置がちがう。三国呉は、現在の南京と重なる。改名と同時に、移動させたのか。

周魴伝によると、西部都尉がある。『宋書』によると、呉は湖孰・江乗をはぶいて、典農都尉とした。
丹陽には慈湖があり、笮融がここに兵を屯した。
牛渚があり、劉繇がここに兵を屯した。
丹陽は侯国で、孫皎の子の孫允が封じられた。
蕪湖は侯国で、建安末に徐盛が封じられた。黄武期に督が置かれた。県境に牛渚鎮がおかれ、蕪湖督とともに重要な拠点であった。

『通典』によると、建安十六年(211) 揚州牧が曲阿から建業に移された。

地図では、曲阿(毘陵都尉)を呉郡から分ける。丹陽の北部を「建業」として切り取る。
西晋では、この切り分けの境界線は、丹陽の中部を「宣城郡」として切り取るときに設けられたもの。「宣城郡」の顧邵は使わないけど、境界線だけは『歴史地図集』から借りる。

丹陽の中部を「丹陽」とする。丹陽の南部は、孫権によって「信都郡」に切り分けられる。こうして、たてに長い呉郡・丹陽を、南北に切り刻む。孫策の征圧戦を表現するために必要なので。

『続漢志』によると、丹陽には以下の県がある。宛陵・溧陽・丹陽・故鄣・於潛・涇県・歙県・黝県・陵陽・蕪湖・秣陵(南に牛渚がある)・湖熟・句容・江乘・春穀・石城である。
後漢の丹陽北部にあり、地図で「建業」に振り分けるのは、江乘・湖熟・丹陽・秣陵・蕪湖・石城・溧陽・句容である。これに、『歴史地図集』三国呉から、県を追加する。
後漢の丹陽中部にあり、地図で「丹陽」に振り分けるのは、春穀・宛陵・故鄣・陵陽・於潛・涇県である。これに『歴史地図集』三国呉から県を追加する。
後漢の丹陽南部にあり、地図で「信都」に振り分けるのは、歙県・黝県である。これに『歴史地図集』三国呉から県を追加する。



◆新都
建安十三年、丹陽(の南部)を分けて置かれた。
郡治の始新県は、『沈志』によると孫権が歙県を分けておいた。

郡治をはじめ、配下の県も、孫権が新たに立てたものが多い。丹陽はひろく、しかも郡治は北端にある。南方に開拓する拠点として、「始新」というスローガンのような県名がつけられた。

『水経注』によると、賀斉が属を平定して、歙県の華郷に府をおいた。のちに新亭に府を移した。

蘄春

建安初に呉が立てたが、やがて晋宗が魏に降って太守となり、魏に入った。賀斉伝によると、黄武二年、また呉が置いた。
蘄春・尋陽・皖県の3県。

地図 

尋陽は、武昌から移ってきた。呉は県境に半州都督をおいて、重鎮とした。

武昌は郡ではないので、武昌のある江夏郡から移ってきたと理解するか。荊州と揚州をまたがっているので、半州都督というのか。知りません。

皖城は、廬江郡から移ってきた。

『湯志』によると、蘄春郡は4県ある。皖県・居巣県を含む。
銭大昕はいう。『宋書』によると太康元年、蘄春郡をはぶき、安豊を改めて高陵とし、高陵・邾県をすべて武昌郡に属させたとある。ゆえに(蘄春と尋陽に、安豊と邾県を加えて)呉には4県があったのである。

後漢の廬江の南部を呉が切りとり、さらにその西部を蘄春とした(東部は「呉の廬江」として残った)。『歴史地図集』三国呉は、そのとおり作られているので従った。
しかし、「呉の廬江」に分類されている皖城・居巣も、『三国会要』で、西晋が再編するときに蘄春郡として扱われている。ひとつの区画にくっつけてもよいかも。地図では、ふたつに割ってますが。





会稽

永興県は、漢代は余曁県といったが、呉が改名した。永興県には固陵がある。同じく柤瀆があり、王朗が孫策を拒いだところ。
餘姚県は、『水経注』によると県城を朱然がつくった。



『続漢志』によると、会稽郡には、山陰・鄮県・烏傷・諸暨・餘暨・太末・上虞・剡県・餘姚・句章・鄞県・章安(もと冶といい、閩越の地だが、光武帝が改名した。

『後漢書集解』にひく恵棟によると、『続漢志』の「閩越地」は、『宋書』州郡志では「閩中地」につくる。銭大昕によると、鄭宏傳に、「舊交阯七郡,貢獻轉運皆從東冶汎海而至」とある。ここにいう東冶とは、会稽郡の冶県のことである。鄭宏は、章帝期の建初八年、大司農となったが、そのときも「東冶」と呼んだなら、光武帝が改名したという『続漢志』の記述は誤りである。


永寧(永和三年、章安県の東甌郷を県にした)・東部(侯国)。

三国呉の後期につくられた郡は、以下のとおり。南方なので、この地図では表示しない。 ◆臨海郡(章安)
太平二年(257) 会稽郡の東部を分割した。

章安は海沿いで、孫策の戦地でもない。区画は必要ないかも。

孫権伝には「臨海(郡の)羅陽県」という表記があるが、遡って反映させたもの。

◆建安郡(建安)
永安三年(260)、会稽郡の南部を分けた。

会稽郡が広いから、ただ形式的に分けただけ。区画いらん。

侯官(東冶)をふくむ。王朗が逃げたところ。
『文士伝』『捜神記』に孫権のとき建安太守が出てくるが疑わしい。

◆東陽郡(長山)
宝鼎元年(266)、会稽の西を分けて置いた。

呉郡

黄初二年、曹丕が孫権を呉王に封じる。県は13。雲陽県をふくむ。孫権伝によると、嘉禾三年、曲阿を改めて雲陽とし、朱拠を封じた。
『続漢志』によると呉郡には、呉県・海塩・烏程・餘杭・毗陵(季札の居たところ)・丹徒・曲阿・由拳(三国呉では嘉興)・安県・富春・陽羨・無錫・婁県の13県がある。



◆毘陵典農都尉
『歴史地図集』三国呉によると、雲陽(曲阿から嘉禾三年に改称)のあたりは、毗陵典農校尉として、呉郡の北部を切り出している。

劉繇の勢力圏を表すのに、ちょうどいいから、区画を設けようか。

『宋書』によると、呉は呉郡を分け、無錫より西に屯田をつくり、典農都尉を置いた。顧承伝によると、呉郡西部都尉となる。けだし、呉郡西部都尉というのが、毘陵典農都尉のことだろう。
武進県がある。もとは丹徒県といい、嘉禾三年に改めた。『元和志』によると、呉のとき「京城」と呼んだり、「徐陵」と呼んだりした。
雲陽県がある。もとは曲阿県といい、嘉禾三年に改めた。顧邵伝によると、張秉は雲陽太守になったという。けだし、かつて雲陽郡があったのだろう。

◆呉興郡(烏程)
宝鼎元年(266)、丹陽・呉郡を分けて呉興郡をつくる。
烏程県がある。石城山があり、厳白虎がこの山のもとに石をかさねて城をつくり、呂蒙と戦った。

呉末の強がりなので、区画は要らない。呉興郡は9県もあるし、厳白虎の領土として、呉郡の南部・丹陽の西部を切り取ることも考えたが、却下です。


豫章・鄱陽

賀斉伝によれば、豫章東部(都尉?)があった。
郡治の南昌は、侯国。劉繇城がある。斉王城があり『輿地志』によれば、孫賁が斉王となったとき居た。『豫章記』によると、椒邱城があり、華歆が築いたもの。
西安県がある。『寰宇記』によると、海昏県を分けて立てた。幕浮山がある。『呉書』によると、劉表の子の劉盤は、艾県より西を寇したので、呉は海昏・建昌の左右6県をわけて、太史慈を建昌都尉として、諸将を督して劉盤を拒がせ、ここの山に営幕を置いたから「西安」という名になった。

海昏県とは、豫章の東端。おそらく、荊州との接点である西方には、ろくに県(防衛拠点)がなかったから、劉盤が入ってきた。そこで、太史慈に出張らせて、荊州にフタをした。 豫章の区画のトップが、劉繇→太史慈に変わる。

彭澤県がある。呂範伝によると、呂範は彭澤太守となり、彭澤・柴桑・歴陽を封邑として、柴桑に屯した。けだし孫権が「彭澤郡」を立てたのだろう。のちに呂範が丹陽を領したので、郡は省かれた。

豫章郡は東北にツノのように領域が張り出しており、廬江・丹陽と接している。彭澤とは、このあたり。柴桑も隣接する。というか、孫権が居城として武昌郡(のち江夏郡)に入れるまで、柴桑は豫章郡の一部であった。


『続漢志』によると、豫章郡には、南昌・建城・新淦・宜春・廬陵・贛県・雩都・南城・鄱陽・歴陵・餘汗・鄡陽・彭澤彭・柴桑・艾県・海昬・平都(もと安平)・石陽・臨汝(永元八年に置く)・建昌(永元十六年に海昏を分けて置く)がある。

廬陵など、孫策が廬陵郡とした範囲は、地図に入ってません。




◆廬陵郡(西昌)
建安元年、孫策は豫章を分けて置く。孫賁の弟の孫輔を廬陵太守とした。

北緯28度より南は、作らない。廬陵郡は見えなくなるが、長沙までは見える。蜀は、北緯28度が、ちょうど益州と庲降都督の境界ぐらい。北緯28度は、けっこういいかも。

◆廬陵南部都尉:孫晧が置いた。
◆鄱陽郡(鄱陽):建安十五年、豫章を分けて置く。
◆臨川郡(南城):太平二年、豫章の東部を分けて置く。
◆安成郡(平都):宝鼎二年、豫章・廬陵・長沙を分けて置く。

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7.荊州

『晋書』地理志:荊州。案禹貢荊及衡陽之地,舜置十二牧,則其一也。周禮:「正南曰荊州。」春秋元命包云:「軫星散為荊州。」荊,強也,言其氣躁強。亦曰警也,言南蠻數為寇逆,其人有道後服,無道先強,常警備也。又云取名於荊山。六國時,其地為楚。及秦,取楚鄢郢為南郡,又取巫中地為黔中郡,以楚之漢北立南陽郡,滅楚之後,分黔中為長沙郡。漢高祖分長沙為桂陽郡,改黔中為武陵郡,分南郡為江夏郡。武帝又分長沙為零陵郡。及置十三州,因舊名為荊州,統南郡、南陽、零陵、桂陽、武陵、長沙、江夏七郡。

秦が楚の鄢郢を南郡とし、巫中地を黔中郡とした。楚の領土のうち漢水より北に南陽郡をたてた。楚を滅ぼした後、黔中を分けて長沙郡を立てた。
漢高祖は、長沙を分けて桂陽郡を、黔中を分けて武陵郡を、南郡を分けて江夏郡をつくった。漢武帝は、長沙を分けて零陵郡をつくった。漢武帝が十三州を置いたとき、荊州は、南郡・南陽・零陵・桂陽・武陵・長沙・江夏の7郡があった。

だんだん南方に郡を増やしていくのが分かる。


後漢獻帝建安十三年,魏武盡得荊州之地,分南郡以北立襄陽郡,又分南陽西界立南鄉郡,分枝江以西立臨江郡。及敗於赤壁,南郡以南屬吳,吳後遂與蜀分荊州。於是南郡、零陵、武陵以西為蜀,江夏、桂陽、長沙三郡為吳,南陽、襄陽、南鄉三郡為魏。而荊州之名,南北雙立。

建安十三年、曹操が南郡の北を分けて襄陽郡とし、

襄陽郡は、ふたつの意義を持たせられる。①劉表が単身で乗りこんだときの本拠地。北に南陽郡があるが、ここには袁術がいた。袁術を追い払った後も、張済・劉備をここに置いた。②曹操の領土の南端。「南郡のうち、曹操が領有できたところを襄陽郡とした」というのが、本当の成り立ち。

南陽郡を分けて南郷郡・臨江郡を立てた。曹操が赤壁に敗れると、南郡より南は孫呉に帰属し、その後は蜀と荊州を分割した。南郡・零陵・武陵は蜀に、江夏・桂陽・長沙は呉に、南陽・襄陽・南郷は魏に属した。

@Jominian さんはいう。諸葛亮は長沙、桂陽、零陵の三郡を治めたが、その治所は臨蒸に置かれた。河川の集まる場所なので物流をコントロールするのには十分だが、それならもっと北の長沙郡治でも良いはずである。漢昌郡の領域というのは、後の湘東郡境くらいまで南に広がっていたのではないか?


蜀分南郡,立宜都郡,劉備沒後,宜都、武陵、零陵、南郡四郡之地悉復屬吳。魏文帝以漢中遺黎立魏興、新城二郡,明帝分新城立上庸郡。孫權分江夏立武昌郡,又分蒼梧立臨賀郡,分長沙立衡陽、湘東二郡。孫休分武陵立天門郡,分宜都立建平郡。孫晧分零陵立始安郡,分桂陽立始興郡,又分零陵立邵陵郡,分長沙立安成郡。荊州統南郡、武昌、武陵、宜都、建平、天門、長沙、零陵、桂陽、衡陽、湘東、邵陵、臨賀、始興、始安十五郡,其南陽、江夏、襄陽、南鄉、魏興、新城、上庸七郡屬魏之荊州。及武帝平吳,分南郡為南平郡,分南陽立義陽郡,改南鄉為順陽郡,又以始興、始安、臨賀三郡屬廣州,以揚州之安成郡來屬。州統郡二十二,縣一百六十九,戶三十五萬七千五百四十八。

蜀は南郡を分けて宜都郡を立てた。劉備の没後、蜀の4郡(宜都、武陵、零陵、南郡)は、呉に復した。
曹丕は、魏興・新城を立てた。曹叡は、新城郡を分けて、上庸郡を立てた。
孫権は、江夏を分けて武昌郡を立て、蒼梧を分けて臨賀郡を立て、長沙を分けて衡陽・湘東を立てた。孫休は、武陵を分けて天門郡を立て、宜都を分けて建平郡を立てた。孫皓は、零陵を分けて始安郡を立て、桂陽を分けて始興郡を立て、零陵を分けて邵陵郡を立て、長沙を分けて安成郡を立てた。

孫休・孫晧がつくった、天門・建平・始安・始興・邵陵・安成は、ぼくの地図には要らないだろう。『歴史地図集』でも、呉の反映されていない。西晋のほうを見れば反映されているが。
孫権が立てた武昌郡は、呉の首都圏のための郡であって、範囲はせまい。

荊州は15郡である。南郡・武昌・武陵・宜都・建平・天門・長沙・零陵・桂陽・衡陽・湘東・邵陵・臨賀・始興・始安である。うち7郡(南陽、江夏、襄陽、南郷、魏興、新城、上庸)が魏だった。平呉すると、南郡を分けて南平郡を立て、南陽を分けて義陽郡を立て、南郷郡を改めて順陽郡とした。また、始興・始安・臨賀を交州に属させ、揚州の安成郡を荊州に組み入れた。

南陽・新野・襄陽・南郷

『続漢志』によると、南陽は、三十七城,戶五十二萬八千五百五十一,口二百四十三萬九千六百一十八。37県もあるから、三国期には分割されてゆく。

宛県・冠軍・葉県・新野・章陵・西鄂・雉県・魯陽・犨県・堵陽・博望・舞陰・比陽・復陽・平氏・棘陽・湖陽・隨西・育陽・涅陽・陰県・酇県・鄧県・山都・酈県・穰県・朝陽・蔡陽・安衆・筑陽・武當・順陽・成都・襄郷・南郷・丹水(もと弘農に属す)・析県(もと弘農に属す)



◆義陽郡
西晋では、南陽の南部を切り取って「義陽郡」をつくる。割拠の地図をつくるため、この境界線を借りてくる。宛県をふくむ、もとの南陽の北部を「南陽」とし、西晋で義陽郡になるところを、その治所の名をとって「新野」とする。
◆襄陽
建安十三年、曹操が南郡を分けて置いた。景初元年、南部都尉を置いた。

◆南郷郡
曹操が荊州を平定すると、南陽の西を分けた。『方輿紀要』によると、魏は順陽を治所にしたという。未詳。
三国時代に独自の勢力が、南郷に拠って立ったことはなく、ぼくの地図で分けるべきが不明。むしろ、荊州の郡数が少ないことを嫌って、魏が形式的に増やしたのではないか。しかし8県もあるから、大きすぎる南陽を分けたというのが実際かも知れない。 鍾繇伝にひく『先賢行状』に、鍾晧のこととして、「前後九辟三府,遷南鄉、林慮長,不之官」とある。これ以外、「南郷」は、爵位の名前として出てくるだけ。

魏興・上庸・新城

建安二十年、漢中から安陽・西城をわけて「西城郡」を置く。曹丕のとき、西城を魏興郡に改める。
建安二十年、漢中に「上庸都尉」をおいた。やがて郡に改めた。
黄初元年、曹丕は房陵・上庸を合わせて置いた。房陵を治所とする。


江夏

もとは西陵を治所としたが、曹操が文聘を太守にして、石陽に屯させた。石陽は、呉との国境の最前線である。『沈志』によると、石陽県を置いたのは呉だが、魏に入った。太和元年、南部都尉が置かれた。
安陸県は、建安期に呉に入ったが、青龍期に魏にもどる。

建安十三年、孫権が黄祖をやぶって、江夏の南部を得た。魏も呉も江夏郡を立てた。武昌県は、もとは鄂県といい、孫権が武昌と改めた。黄武初、孫権は建業より都を徙した。黄龍元年、建業に都を還して、都督をおいて重鎮とした。のちに左右の両部に分けた。
柴桑県は、かつて武昌郡とされた。
『水経注』によると、孫権は黄初元年に江夏郡を立てて、建業の民1千家を移して、江夏郡の人口を増やした。

呉王の都は、建業でなく江夏(武昌)だという明確な政策。関羽を荊州から打ち払ってから、呉は揚州・荊州の2州をもつから、その中央に都を置いたのであろう。

邾県がある。もとは魏だったが、のちに呉に入る。陸遜がつねに3万人で邾県を守った。
◆武昌郡
呉は江夏を分けておき、孫権・孫晧が都とした。6県。
武昌県には、郊壇がある。下雉県は、陽新県に編入された。柴桑県は、もとは豫章郡に属した。沙羨県には、夏口があり沔口ともいい、魯山があって呉が督を置いた。陽新県は、鄂県(武昌県)を分けて置かれた。甘寧伝によると、甘寧は西陵太守となり、陽新・下雉の2県を領した。尋陽県をふくむ。

県は、呉の江夏郡とかぶる。孫権は、おのれの都合によって、赤壁のころ居城だった柴桑を「揚州の豫章郡ではなくて、荊州だ」ということにした。荊州の前線にいることにしたい。柴桑から見ると、武昌は北西にあり、魏にも蜀にも近づいている。孫権の居城にあわせて「武昌郡」と名乗ったが、漢代の伝統ある郡名ではない。だから、魏にぶつけるかたちで「江夏郡」としたのだ。江夏郡を宣言しないと、「魏の領有する江夏に、孫権が間借りして都をつくった」という状態になる。
柴桑と武昌は、150キロくらい離れているが、同一の区画でいいだろう。分ける理由がない。




『続漢志』で江夏にある県は、西陵・西陽・軑国・鄳県・竟陵・雲杜・沙羡・邾県・下雉・蘄春・鄂県・平春・南新市・安陸である。

地図では、三国期を反映して、西陵・邾県・蘄春は、区画「蘄春」に移動。西陽は「安豊」に移動。雲社・章陵・沙羨・下雉は、三国呉の江夏郡としての区画「武昌」に移動。


長沙

建安十三年、劉備が領有した。建安二十四年、呉に入る。
臨湘には、故尉城があり、孫権は程普を長沙西部都尉としたとき、立てたもの。橘州があったと『水経注』にある。孫堅廟がある。
『続漢志』では、臨湘・攸県・荼陵・安城・酃県・湘南・衡山・連道・昭陵・益陽・下雋・羅県・醴陵・容陵がある。


◆衡陽郡(湘郷)
太平二年、長沙の西10県を分けた。郡治の湘郷は、もとは零陵郡に属した。重安県・烝陽県も、もと零陵郡。長沙の西を分けたといいながら、零陵からも切り取っている。南郡の真南、荊州のちょうど真ん中に郡を新設したかたち。
『玉海』によると、衡山県に銅柱がある。黄武二年、程普と関羽が境界を分けたところに立てた。
長沙郡のうち、湘水の西を衡陽郡という。これは(たまたま)魯粛と関羽が話し合って、劉備のほうに帰属した土地である。「衡陽」と名づけた区画を設ける。

◆湘東郡(_県)
太平二年、長沙の東6県を分けた。

もはや呉の趣味の領域なので、区画を分けない。『歴史地図集』では、三国呉ではなく、西晋のところを見るべし。しかし衡陽郡はあったが、湘東郡はなかった。


南郡

建安十三年、周瑜が曹仁を破り、南郡を得た。さきに江陵、あとで公安を治所とした。江陵県は、呉が督を置いて重鎮とした。侯国。黄武初、婁侯の陸遜をここに封じた。
孱陵(センリョウ)県がある。『水経注』によると、孫夫人がこの城を修した。公安城があり、劉備が荊州牧を領したとき、油口に鎮したところ。楽郷城があり、陸康が諸郡を都督してここに治した。

『続漢志』によると、南郡に属する県は、江陵・巫県(西に白帝城あり)秭歸・中盧・編県・當陽・華容・邔県・宜城・鄀県・臨沮(荊山あり)・枝江・夷道・夷陵(荊門・虎牙山あり)・州陵・很山(もと武陵に属す)である。


◆宜都郡
もとは臨江郡という。建安十三年、曹操が南郡の枝江より西を分けて、臨江郡をおいた。やがて呉に入り、劉備に属した。建安十五年、劉備が臨江から宜都に改めた。また呉に入った。『水経注』によると、郡治は陸遜が築いた。

夷陵(西陵)があるところ。劉備にとって「宜しく都とすべし」か。
歩闡が持ち逃げしたことを表現できるのも、この地域。

夷道県があり、呉が督を置いて重鎮とした。
西陵県は、もと夷陵県という。孫権伝によると、黄武元年に改名した。呉が督を置いて重鎮とした。西陵峡とは荊門のことで、歩隲城・歩闡城・陸抗城がある。

◆建平郡
永安三年(260)、宜都の西を分けて立てた。治所は巫県。
秭帰県をふくむ。潘璋伝によると、孫権は宜都を分けて秭帰までの2県を分けて、固陵郡をおき、潘璋を固陵太守とした。一時的に置かれたものか。

劉備と孫権の領土の取りあいを表現するとき、区画に分けることが有効であれば、区切ろう。そうでなければ、呉の内政において、建平と宜都を分けることの意義があれば、区画を設ける。孫権のときおいた固陵郡を、呉末に建平郡として分けたことになる。


武陵

建安十三年、劉備が領有したが、建安二十四年、呉に入った。
『続漢志』では、臨沅・漢壽(もと索県で、陽嘉三年に更名し、刺史の治所)・孱陵・零陽・充県・沅陵・辰陽・酉陽・遷陵・鐔成・沅南(建武二十六年に置く)・作唐がある。


◆天門郡(零陽)
永安六年(263)、武陵を分けて置く。3県。

『三国会要』が永和六年になってる。まちがい。


零陵郡

建安十三年、劉備が領有した。二十四年、呉に入った。
◆始安郡(始安):甘露元年(265)、零陵の南部を分けて置いた。
◆邵陵郡(昭陵):宝鼎元年(266)、零陵の北部を分けて置いた。

桂陽郡

◆始興郡(曲江):甘露元年、桂陽の南部を分けて置いた。
◆臨賀郡(臨賀):黄武五年、蒼梧を分けて立てた。

零陵・桂陽は、南方なので地図に表示しない。

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8.司州

魏が受禅したときに置かれた。治所は洛陽、『三国会要』によると郡は7。

『晋書』地理志:司州。案禹貢豫州之地。及漢武帝,初置司隸校尉,所部三輔、三河諸郡。其界西得雍州之京兆、馮翊、扶風三郡,北得冀州之河東、河內二郡,東得豫州之弘農、河南二郡,郡凡七。位望隆于牧伯,銀印青綬。及光武都洛陽,司隸所部與前漢不異。魏氏受禪,即都漢宮,司隸所部河南、河東、河內、弘農并冀州之平陽,合五郡,置司州。晉仍居魏都,乃以三輔還屬雍州,分河南立滎陽,分雍州之京兆立上洛,廢東郡立頓丘,遂定名司州,以司隸校尉統之。州統郡一十二,縣一百,戶四十七萬五千七百。

『禹貢』において「豫州」と認識された地である。

だから曹操が九州制をしくと、豫州となった。

漢武帝のとき司隷校尉が置かれ、三輔・三河を範囲とした。涼州から京兆・馮翊・扶風の3郡をもらい、冀州から河東・河内の2郡をもらい、豫州から弘農・河南の2郡をあわせ、ぜんぶで7郡。後漢も同じ。
魏が受禅すると、漢代の司隷の河南・河東・河内・弘農と、冀州の平陽をあわせ、この5郡を「司州」とした。

漢の司隷校尉部から、魏の司州への出入りをまとめる。京兆・馮翊・扶風は雍州に切り出し、并州から平陽を加えた。7-3+1=5。


『三国会要』は郡が7つという。7-5=2は何か。
原武郡と野王郡である。咸熙元年(264) 魏が置いた典農部が廃止され、かわりに郡が置かれた。原武郡は原武県のみ、野王郡は野王県のみ。三国時代の郡というより、三国時代が終焉して、魏の制度が役割を終えたから、西晋によって置かれた郡である。

河南

もとは秦の三川郡で、漢が改名した。建安十八年(九州制に復すとき)豫州に統合されたが、漢魏革命にて分離された。治所は洛陽。

後漢から曹魏に移ると、河南は西の境界線がのびる。すなわち、陸渾県をふくむようになる。関羽伝「梁郟、陸渾羣盜或遙受羽印號,為之支黨,羽威震華夏」とある。洛陽のすぐ南、おなじ領域であることをアピるためにも、曹魏の郡境を採用する。

『続漢志』によると、21城ある。雒陽・河南・梁県・熒陽・卷県・原武・陽武・中牟・開封・菀陵・平陰・穀城・緱氏・鞏県・成睪・京県・新城・匽師・新鄭・平県。


◆原武郡
曹操が袁紹と戦ったとき、于禁伝に「太祖復使禁別將屯原武,擊紹別營於杜氏津,破之」とある。徐晃伝に「太祖授晃兵,使擊卷、卷音墟權反。原武賊,破之,拜裨將軍」とある。軍事上の要地である。
明帝の毛皇后の弟の毛曽は、「遷曾散騎常侍,後徙為羽林虎賁中郎將、原武典農」となった。魏の財政にとって重要なポジションなので、外戚が管理した。
場所は、河南尹に属する。
『続漢志』によると、後漢の河南には原武県がある。『水経注』によると、李勝は、あざなを公昭といい、もと原武典農都尉である。

◆野王郡
張楊伝に「楊欲迎天子還洛,諸將不聽;楊還野王」とあり、建安初期には張楊の根拠地だった。
曹爽伝のなかに、「晏等專政,共分割洛陽、野王典農部桑田數百頃,及壞湯沐地以為產業,承勢竊取官物,因緣求欲州郡」とあり、何晏らが野王典農部の生産基盤を私物化したことが分かる。やはり財政にとって重要なところ。ただし、本ページの「群雄勢力マップ」の観点とはちがう。
場所は、河内郡に属する。

河内

『続漢志』によると、18県ある。懷県・河陽・軹県・波県・沁水・野王・温県・州県・平睾・山陽・武德・獲嘉・脩武・共県・汲県・朝歌・蕩陰・林慮である。

蕩陰は、魏代に冀州へ。地図は、河南と同じ。林慮は画面から切れました。


弘農

漢代は「宏農郡」といったが、霊帝を忌避した。
『続漢志』によると、弘農郡には、弘農・陝県・黽池・新安・宜陽・陸渾・盧氏・湖県(もと京兆に属す)・華陰(もと京兆に属す:太華山あり)

河東

黄初三年、曹霖を「河東王」として、郡から国に変わった。同六年に館陶県王に遷したため、郡にもどった。
『続漢志』によると、20城ある。安邑(鉄と塩池あり)・楊県・平陽(尭が都した)・臨汾・汾陰・蒲坂・大陽・解県・皮氏・聞喜・絳邑・永安(もと彘県;陽嘉二年に更名)・河北・猗氏・垣県・襄陵・北屈・蒲子・濩澤・端氏がある。


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9.益州

建安十九年、劉備は益州を定めた。二十四年、漢中を定めた。劉禅は建興元年、益州牧をおいた。劉禅は建興七年(229)、涼州の武都・陰平を得て、魏延を涼州刺史とした。のちに姜維も涼州刺史となった。益州郡を改めて建寧郡とした。交州を遙領した。後漢の旧郡11と、漢末および蜀漢が増やした郡11とをあわせて、22郡があった。治所は成都。
また庲降都督をもうけ、南中7郡を統べた。治所は味県。
後主伝にひく王隠『蜀記』によると、炎興元年(263) 1州・22郡・100県・吏4万人・帯甲将士102,000・戸280,000・男女口940,000。

蜀郡

秦が置いた。蜀漢は成都を治所とした。
『水経注』によると、もともと益州は、蜀郡・犍為・広漢の3郡を「三蜀」といった。

蜀郡・犍為・広漢から、周囲に広がったり、分離独立していった結果、蜀漢の末期の22郡となる。この3郡を地図づくりの基軸とする。

『続漢志』によると、蜀郡には11県がある。成都・郫県・江原・繁県・廣都・臨邛・湔氐道・汶江道・八陵・廣柔・緜虒道である。

八陵を、『歴史地図集』東漢・三国蜀で見つけられず。




◆文山郡(綿虎)
汶山郡とも。漢代に置かれた。蜀郡の西北。

『歴史地図集』東漢では、汶山郡は蜀郡にまるごと含まれる。区画を分けない。

郡治の綿虎道は、『水経注』によると劉備が置いた。
都安県がある。『宋志』によると蜀が立てた。都安堰がある。『水経注』によると、諸葛亮が堰をつくって国を富ませ、1200人で堰を守った。

都安は、成都の北西。ひろい汶山郡のなかで、南東の端にあり、蜀郡と接している。むしろ蜀郡の経済圏なのではないか。

平康県がある。姜維伝で、汶山の平康で夷がそむき、姜維が平定した。けだし蜀が立てた県だろう。

犍為

漢代に置かれた。蜀郡の南。郡治は武陽。
『呉書』に、呉の陳化が犍為太守となったとある。けだし遙領。
新道県がある。李厳伝によると、李厳は犍為太守となると、越巂の夷師は新道県を囲んだ。李厳はこれを救ったと。蜀漢が立てた県だろうか。新城県とも。
南安県がある。諸葛亮が南征するとき、峡口を置いた。蜀将の陳_と鄭綽は、叛将の黄元をここで捕らえた。

『歴史地図集』では、犍為郡のなかに新道県はない。

『続漢志』では犍為郡には、9県ある。武陽・資中・牛鞞・南安・僰道・江陽・符節・南廣・漢安がある。

◆江陽郡(漢安)
『続漢志』『水経注』によると、もと犍為枝江都尉の治所であった。建安十八年、劉璋が犍為郡を分けておいた。漢安・江陽・符節の3県。『輔臣賛』によると、王士は符節長(県長)となった。

建安十八年とは、劉璋と劉備が全面対決に突入したとき。割拠勢力の意味がなく、3県しかないし、区画を分けない。


漢嘉

漢嘉郡(漢嘉) 章武元年、蜀郡属国においた。4県。

『歴史地図集』蜀漢では面積ばかり広いが、西はスカスカで県がない。後漢の蜀郡属国を整理するため郡を置いたのだろう。『続漢志』によると、属国とは、郡を分割して遠方の県に置いたもの。蜀郡と、区画を分ける必要があるのか微妙。

厳道県があり、姜維城がある。
『続漢志』によると、蜀郡属国には4県ある。漢嘉・厳道・徙県・旄牛である。




広漢・梓潼

広漢郡は漢代に置かれ、治所は雒城。雒城・緜竹がある。

劉備と劉璋の戦いにおいて、区画を分けたい。漢代からの伝統もある郡だし、区画を分けるのがいい。

『続漢志』によると、11県ある。雒(刺史の治所)・新都・緜竹・什邡・涪県・梓潼・白水・葭萌・郪県・廣漢・德陽である。

◆東広漢郡:劉禅は広漢の4県を分けた。地図に示さず。
◆梓潼郡
建安二十二年(217)、蜀は広漢郡を分けて、梓潼郡を設けた。6県。白水県をふくむ。劉備が分けたこと、劉璋・劉備・曹操との戦いの説明で使えそうなことから、この区画は設けたい。
◆広漢属国:陰平道・甸氐道・剛氐道があり、三国蜀の陰平郡。



漢中

建安二十年、張魯は漢寧郡とした。二十一年、曹操が平定して漢中郡にもどした。二十四年、劉備は夏侯淵を斬ると、南鄭の地を領有した。漢中都督がここに屯して重鎮とする。
南郷県がある。『寰宇記』によると、蜀が成固県を分けて立てた。建安二十年、魏に入って、二十四年夏、蜀に入った。二十五年秋、また魏に入った。

南鄭の東南。ここを魏蜀で奪いあっているのはおもしろい。

『続漢志』によると、9県ある。南鄭・成固・西城・襃中・沔陽・安陽・錫県・上庸・房陵である。西城・安陽・錫県・上庸・房陵は、地図では魏興・上庸に切り出したので、この区画に示さない。


巴郡・巴西・巴東

『歴史地図集』東漢では、巴郡(江都)の広大な領域を、劉璋・蜀漢は4郡に分けた。
譙周『巴記』によると、初平元年、趙潁が巴郡を2郡にわけた。巴の旧名をのこしたいから、もとの巴郡は墊江と治所とした。安漢以下を永寧郡とした。『華陽国志』によると、劉備は費瓘を巴郡太守として、江州都督を領させた。

『続漢志』によると、巴郡には14県ある。江州・宕渠・朐忍・閬中・魚復(のち永安)・臨江・枳県・涪陵・墊江・安漢・平都・充国・宣漢・漢昌である。


◆巴郡(江都)
初平元年、趙潁が巴郡を分けて永寧郡を置いた。建安六年、劉璋が巴東郡に名を改めた。
二十一年、劉備が固陵郡に名を改めた。章武元年、巴東郡にもどした。
江都は蜀が置いた。江州都督はここに屯して重鎮となる。
呉の顧雍の弟の顧徽が巴郡太守となる。

◆巴西郡(閬中)
譙周『巴記』によると、建安六年、劉璋が巴郡を分けて巴西郡をつくった。(初平元年、趙潁が巴郡から永寧郡を切り出した体制から)永寧郡を巴東郡とした。(初平期の巴郡の治所である)墊江を巴西郡とした。(巴郡は郡治を江州に移して存続した?)

巴西は、張郃らが攻めこんできて、魏の領土になりかける。これを区画とするのは、意味があること。もとは劉璋が分けたのだけれど。

『蜀志』にて章武元年、(劉璋が墊江を巴西郡としたことを撤回して)巴西郡を巴郡に改めた。墊江が巴郡にふたたび合わさったのであろうか。しかし以後、諸々の地志には「巴西郡」が見えるから、巴郡に完全に吸収されたわけでもないか。

劉璋がなぜ建安六年(201) に郡県をいじったのか。五年~六年にかけて、成都が包囲されている。そのときの戦いの都合だろう。


◆巴東郡(魚復):劉璋が巴郡に置いた。
永安県がある。漢代は魚復という。『常志』によると、章武二年、永安に改めた。永安都督がここに置かれた。
北井県がある。『郡国志』にはない。この県は、もとは宜都郡に属した。劉備が固陵郡を置いたとき、宜都郡から固陵郡に移された。劉備が荊州牧のときに置いた県だろうか。

巴東郡は、荊州と接しており、長江が流れている。北井は荊州の建平郡と隣接している。永安県は、劉備が荊州から撤退してきて死んだ場所。

◆涪陵郡(涪陵):建安末、劉備が属国を改めて郡とした。

武都

漢代に置かれた。建安七年、蜀に入る。
沮県があり、武興県ともいう。『寰宇記』によると、蜀はこの地を衝要とみなして、蒋舒を武興都督としてここを守らせた。南鄭の西北である。
『続漢志』によると、下辨・武都・上祿・故道・河池・沮県(沔水は東狼谷より出づ)・羌道がある。


陰平

曹操が置いた。さきに魏に属し、建興七年、蜀に入る。
陰平県と広武県のみ。広武県は『沈志』によると蜀が立てた。

2城は東に偏っている。沓中は、遠く離れた北西にある。
『范書』劉玄伝に、陰平王が出てくる。
劉玄伝の李賢注:陰平 ,縣,屬廣漢國。 陰平縣屬廣漢國。
校勘:校補謂前漢 陰平 國屬東海郡,後漢改縣,屬同。又前漢 陰平 道屬廣漢郡,後漢分屬廣漢屬國,注據 陰平道言,雖亦可言「縣」,但屬前漢言,不當言「國」,屬後漢言,當云「屬國」,亦不當僅言「國」。
前漢において、陰平道は広漢郡に属した。後漢が広漢属国にわけ、陰平道はこちらに属した。李賢のいうように「広漢国」はない。というクレーム。
ぼくは思う。陰平というのは、羌族の方面に開拓した地域。前漢では独立した区画がなく、後漢では属国が置かれ、蜀漢において郡に昇格して、姜維がこのあたりにいた。

陰平県には、江油がある。鄧艾城がある。馬閣山がある。強川がある。姜維城がある。
『湯志』は『華陽国志』に基づいて、平武関尉を増した。160411

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10.雍州

建安初年、涼州の河西4郡を分けて置く。もとの治所は武威、魏は長安とした。

『晋書』地理志:……及武帝置十三州,其地以西偏為涼州,其餘並屬司隸,不統於州。後漢光武都洛陽,關中複置雍州。後罷,複置司隸校尉,統三輔如舊。獻帝時又置雍州,自三輔距西域皆屬焉。魏文帝即位,分河西為涼州,分隴右為秦州,改京兆尹為太守,馮翊、扶風各除左右,仍以三輔屬司隸。晉初於長安置雍州,統郡國七,縣三十九,戶九萬九千五百。

漢武帝が十三州を置くと、雍州をおかず、西は涼州、東は司隷とした。光武帝が洛陽に都すると、雍州をおく。のちに司隷校尉に入る。献帝のとき雍州をおく。(涼州を置かず)三輔より西域まで雍州とした。曹丕が即位すると、河西を涼州、隴右を秦州とした。京兆尹を太守、左馮翊を馮翊、右扶風を扶風とした。また三輔を司隷に属させた。晋初、長安に雍州を置いた。

『晋書』地理志:案《禹貢》本雍州之域,魏始分隴右置焉,刺史領護羌校尉,中間暫廢。及泰始五年,又以雍州隴右五郡及涼州之金城、梁州之陰平,合七郡置秦州,鎮冀城。太康三年,罷秦州,並雍州。七年,複立,鎮上邽。統郡六,縣二十四,戶三萬二千一百。

西晋の秦州とは、『禹貢』では雍州の領域だが、初めて魏が隴右を分けて置く。秦州刺史は、護羌校尉を領す。やがて廃された。
泰始五(269) 雍州の隴右5郡と、涼州の金城、梁州の陰平を寄せて7郡を秦州とした。冀城に鎮す。太康三年、雍州に合わせる。同七年、また分けて上邽に鎮す。
『晋書』において秦州とされるのは、隴西・南安・天水・略陽・武都・陰平である。『歴史地図集』の西晋には、秦州が表示されている。諸葛亮が当面の制圧目標とした地域に近いから、分けて認識するのは、おもしろいかも。

京兆(長安)

黄初二年、曹礼を晋公として、京兆郡を国とした。正始五年、また郡とする。
『続漢志』で京兆は、10県ある。長安・霸陵・杜陵・鄭県・新豐・藍田・長陵(もと馮翊に属す)・商県(もと弘農に属す)・上雒・陽陵(もと馮翊に属す)

地図では、商県・上雒は、別の区画にある。
『歴史地図集』三国魏には、陰般がある。高陵が「高陸」になってる。


馮翊(高陵→臨晋)

『続漢志』では、13県ある。高陵・池陽・雲陽・祋祤・頻陽・萬年・蓮勺・重泉・臨晋・郃陽・夏陽・衙県・粟邑である。

扶風(槐裏)

『続漢志』では、15県ある。槐里・安陵・平陵・茂陵・鄠県・郿県・武功・陳倉・汧県・渝麋・雍県・栒邑・美陽・漆県・杜陽である。

◆陳倉
東漢・曹魏の扶風を、五丈原で東西に分割する。こんな郡国の境界は、いちども引かれたことがない。西晋では、扶風は南北に分割される(南部は始平国とする)が、それとも違う。
ひとえに、諸葛亮の勢力範囲を表すためだけの区画。魏代に、栒邑・漆県は新平郡に入るため、区画の外に出した。



北地(泥陽)

『続漢志』によると北地は、富平・泥陽・弋居・廉県・参亦(もと安定に属す)・霊州がある。いずれも『歴史地図集』三国魏では、失われた地域なので、地図に表示しない。

泥陽・弋居は、位置だけは魏代の安定郡に含まれるが、『歴史地図集』三国魏では、県として表示されない。だから、漢代の故県の記号(茶色に黒枠)で表示した。三国魏の北地郡には、富平・泥陽があるが、後漢と位置が異なる。徙県であろう。

『元和志』によると、曹魏は、もと左馮翊の祋祤県に北地郡を置いた。魏代は、富平・泥陽の2県であるが、どちらも後漢の左馮翊のなか。
董卓伝「卓豫施帳幔飲,誘降北地反者數百人,於坐中先斷其舌,或斬手足」と、征服したところ。李傕は後漢の北地のひと。蘇則伝に「則世為著姓,興平中,三輔亂,飢窮,避難北地。客安定,依富室師亮」とある。避難する、やや独立した地域だったか。

『歴史地図集』東漢と曹魏を見比べると、後漢の北地は、曹魏の地図では、異民族の地域になっている。実質的に失われた地域の地名を、左馮翊のなかに置き直しただけである。ぼくの地図には、表現しなくていい。馮翊に統合してしまった。


新平(漆県)

興平元年(194) 安定郡の鶉觚県、右扶風の漆県をわけて設置。『続漢書』郡国志五より。

『歴史地図集』三国魏では、漆県・鶉觚を、新平県としているが、せまいので、地図では安定に統合してしまった。後漢の郡境があつまった地域(馮翊・北地・安定)を、1郡として切り分けただけ。

『陳志』巻二 文帝紀にひく『魏略』に「王將出征、度支中郎將新平霍性上疏諫曰」と、霍性の出身地として出てくる。
『陳志』巻二十三 趙儼伝に、「羌虜數來寇害、儼率署等追到新平、大破之」とある。
『陳志』巻二十三にひく『魏略』に、「及司馬宣王久病、偉爲二千石、荒于酒、亂新平・扶風二郡而豐不召、衆人以爲恃寵」とある。扶風とならんで、新平が郡として認識されている。

安定

『続漢志』によると、臨涇・高平・朝那・烏枝(もしくは烏氏)・三水・陰盤(もしくは陰槃)・彭陽・鶉觚(もと北地に属す)がある。

三水は、『歴史地図集』三国魏で領域から外れるので示さない。

『歴史地図集』三国魏では、陰密県があるから、地図に示す。陰盤とは違う位置。



漢陽

『続漢志』によると、漢陽郡には、冀県・望恒・阿陽・略陽・勇士・成紀・隴県(涼州刺史の治所)・豲道・蘭干・平襄・顯親・上邽(もと隴西に属す)・西県(もと隴西に属す)がある。
隴県は、『歴史地図集』三国魏に見えないから故県の記号とした。

魏蜀の戦いは、渭水沿いに集約していくので、重要度が落ちたのか。

蘭干を、『歴史地図集』東漢・三国魏で見つけられず。

◆天水(冀県)
漢代の漢陽郡から分かれた(もしくは置き換えられた)

『晋志』によると、天水郡は漢武帝が置いたが、明帝が漢陽に改め、また晋代に天水に戻した。『魏志』曹真伝では、すでに天水につくるが、晋代の地名を反映したのだろう。『魏志』明帝紀も天水につくる。

上邽県は、秦州刺史が置かれた。段谷があり、諸葛塁・司馬懿塁・姜維塁がある。木門があり、張郃が死んだところである。
冀県がある。閻温伝によると、馬超は涼州の州治である冀城を囲んだ。楊阜伝では、州治と郡治がどちらも冀県に置かれた。けだし漢末の涼州刺史はここ。

◆広魏(臨渭)
臨渭は、広魏郡の治所であるが、後漢は同じ位置に県がない。新設されたか。広魏郡は、もと永陽郡といい、『三国会要』によると曹操が名を改めた。臨渭・清水・平襄・略陽がある。

◆南安(豲道)
豲道を治所として、豲道・新興・中陶がある。
『続漢志』にひく『秦州記』によると、中平五年に分けて立てられた。『元和志』も同じ。『宋志』では、魏がはじめて分けて置いたとする。

建安期に曹操がやったことを「魏が」と主語で書かれると、分からなくなる。「黄初中」と「魏が」は同義のつもりでも、じつは「曹操が」を読み替えてる場合があるかも知れず、すると混乱が起きる。


三国魏における、天水・広魏・南安は、後漢の漢陽をタテに3つに分割している。渭水に沿って、東から順に、臨渭・冀県・豲道という(対蜀の防衛拠点となる)重要な都市があり、それぞれに郡のランクを与えて太守を駐屯させ、てきとうに属県を割り振ったのではなかろうか。

諸葛亮の北伐の主戦場になる地域。地図でどこまで区画を細かく割るかは、別途検討する。当面は、後漢の漢陽の範囲を分割せずに示す。

明帝紀に「蜀大將諸葛亮寇邊,天水、南安、安定三郡吏民叛應亮」とある。天水と安定のあいだには、広魏郡があるが、動向が分からない。郡名「広魏」や、郡治「臨渭」で検索してもヒットなし。「臨渭侯」が2件でてくるだけで、戦況を描写していない。いちど、後漢なみに漢陽を1区画として、名前は漢陽とする。面積も、不当に広くない。むしろ魏が分けすぎ。


隴西(襄武)

永初五年(111) 狄道から襄武に治所を移す。
『続漢志』によると、狄道・安故・氐道・首陽・大夏・襄武・臨洮・枹罕(もと金城に属す)・白石(もと金城に属す)・鄣県・河関(もと金城に属す)がある。
『歴史地図集』三国魏では、西方が廃県されてる。茶色の記号にした。



前漢後半よりも後漢、後漢よりも三国と、漢族の支配領域は縮小する。とくに西北の方面。距離に関するリアリティ・身体感覚においてハンデを負っている(と思われる)日本人にとっては、感じやすく・分かりやすくなるのがいいです。だったら初めから、東晋~南朝で遊べというツッコミはナシで…。160413

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11.涼州

建安十八年(213) 省いて雍州に入るが、曹丕が置きなおす。

匈奴既失甘泉,又使休屠、渾邪王等居涼州之地。二王后以地降漢,漢置張掖、酒泉、敦煌、武威郡。其後又置金城郡,謂之河西五郡。漢改周之雍州為涼州,蓋以地處西方,常寒涼也。地勢西北邪出,在南山之間,南隔西羌,西通西域,于時號為斷匈奴右臂。獻帝時,涼州數有亂,河西五郡去州隔遠,於是乃別以為雍州。末又依古典定九州,乃合關右以為雍州。魏時複分以為涼州,刺史領戊己校尉,護西域,如漢故事,至晉不改。統郡八,縣四十六,戶三萬七百。

匈奴の二王が漢に降ると、張掖・酒泉・敦煌・武威を置いた。のちに金城を置き、「河西五郡」とよぶ。献帝のとき、涼州で反乱が起こり、河西五郡は遠隔地なので、雍州として切り出した。『禹貢』の雍州と領域が異なるので、曹丕が直した。曹丕は遠隔地を涼州として、涼州刺史は戊己校尉を領した。西域を護すること漢の故事のごとし。晋も同じ。

金城(允吾→楡中)

允街県があり、広武城がある。郭淮が尭治・無戴を破ったのはここである。『水経注』にみえる。
『続漢志』によると、允吾・浩亹・令居・枝陽・金城・榆中・臨羌(昆崙山あり)・破羌・安夷・允街がある。

◆西平郡(西都)
建安期、金城を分けて置く。『晋志』によると、曹操が置いた12郡のうちの1つ。『通典』『元和志』『寰宇記』はいずれも建安期(曹操が)置いたとする。『水経注』だけが黄初期(曹丕が)置いたとする。
西都県は、魏が破羌県を分けて置いた。

後漢ベースで金城郡から分けずにおき、必要だったら分ける。明帝紀に「西平麴英反,殺臨羌令、西都長,遣將軍郝昭……」とある。つくるとしたら、麹英のための区画である。
張既伝に「是時,武威顏俊、張掖和鸞、酒泉黃華、西平麴演等並舉郡反,自號將軍,更相攻擊」とある。やはり麹氏のための区画である。



武威(姑臧)

『続漢志』によると、15県ある。姑臧・張掖・武威・休屠・揟次・鸞鳥・樸県・媼圍・宣威・倉松・鸇陰(もと安定に属す)・租厲(もと安定に属す)・顯美(もと張掖に属す)・左騎千人官。
地図には、『歴史地図集』三国魏で県として表示されているものだけ載せる。

張掖(觻得)

『続漢志』によると、觻得・昭武・刪丹・氐池・屋蘭・日勒・驪靬・番和がある。
地図には、『歴史地図集』三国魏で県として表示されているものだけ載せる。


これより西は地図をつくらない。160413

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12.并州

建安十八年(九州制により)冀州に編入された。黄初元年、また置かれた。治所は晋陽。

『晋書』地理志:漢武帝置十三州,並州依舊名不改,統上黨、太原、雲中、上郡、雁門、代郡、定襄、五原、西河、朔方十郡,又別置朔方刺史。後漢建武十一年,省朔方入並州。靈帝末,羌胡大擾,定襄、雲中、五原、朔方、上郡等五郡並流徙分散。建安十八年,省入冀州。二十年,始集塞下荒地立新興郡,後又分上党立樂平郡。魏黃初元年,複置並州,自陘嶺以北並棄之,至晉因而不改。並州統郡國六,縣四十五,戶五萬九千二百。

漢武帝が十三州を置いたとき、上党・太原・雲中・上郡・雁門・代郡・定襄・五原・西河・朔方の10郡。また別に朔方刺史を置いた。後漢の建武十一年、朔方刺史を除き、并州刺史に入れた。霊帝の末年に、羌胡が叛乱し、5郡(定襄・雲中・五原・朔方・上郡)は支配が届かず。 建安十八年、并州を廃して冀州に編入した。建安二十年、新興郡をつくり、上党郡から楽平郡を分けた。黄初元年、また并州をおく。晋代も同じ。

太原(晋陽)

晋陽は侯国で、黄初元年、張遼が封じられた。
『続漢志』によると、16県がある。晉陽(并州刺史の治所)・榆次・中都・于離・茲氏・狼孟・鄔県・盂県・平陶・京陵・陽曲・大陵・祁県・慮虎・陽邑がある。

『歴史地図集』東漢に見える県のうち、三国魏で消えている県は、茶色にした。于離は、三国魏では新興郡なので、地図では区画が異なる。于離を『歴史地図集』で発見できず。


西河(離石)

『続漢志』によると、離石・平定・美稷・樂街・中陽・臯狼・平周・平陸・益蘭・圜陰・藺県・圜陽・廣衍がある。
『歴史地図集』三国魏の西河郡は、離石だけが後漢から継承され、ほかは廃止。後漢の太原郡から、茲氏・界休の2県をもらって、中陽を新設して(漢代の中陽とは異なる;徙県か)、計4県。
『陳志』を検索しても、地名「離石」がヒットしない。「西河」は、武帝紀で「西河白波賊」とあり、荀彧伝に「則冀州當得河東、馮翊、扶風、西河、幽、并之地,所奪者衆」とくくられる。地図では区画として示さず、太原の西端に統合した。


上党

『続漢志』によると、13県ある。長子・屯留・銅鞮・沾県・涅県・襄垣・壺關・泫氏・高都・潞県・猗氏・陽阿・穀遠である。
漢代にない轑阿が魏に現れる。漢代は長子が治所だが、魏代は壺関に移った。

◆楽平郡
楽平・上艾・沾県の3県。建安二十年、新興郡をつくり、またのちに上党を分けて楽平郡を置いた。地図の境界は、後漢に基づいた。楽平郡は、上党・常山・にまたがる。以下の史料に見えるのは、県としての楽平。

巻十一 張臶伝:時鉅鹿張臶,字子明,潁川胡昭,字孔明,亦養志不仕。臶少游太學,學兼內外,後歸鄉里。袁紹前後辟命,不應,移居上黨。并州牧高幹表除樂平令,不就,徙循常山,門徒且數百人,遷居任縣。




雁門

『続漢志』では、陰館・繁畤・樓煩・武州・汪陶・劇陽・崞県・平城・埒県・馬邑・鹵城(もと代郡に属す)・廣武(もと太原に属す)・原平(もと太原に属す)・彊陰がある。
武州・平城・強陰は、『歴史地図集』三国魏で領域外なので示さない。

地図中の平城・雲中は、『歴史地図集』東漢と三国魏で、位置が異なる。地図は、三国魏の位置を示す。

領域内であっても、『歴史地図集』三国魏に見えない県は、茶色の記号とした。

◆新興郡(九原)
曹操が設置した。区画を設けない。北半分を喪失した雁門に統合する。
郡治の九原は、『歴史地図集』東漢には、城すらない。鮮卑に圧迫された後、人工的に(というのも変な表現だが)つくった城。雁門に併合して、いち区画とする。だとしても、面積・県数がほかと比べて大きすぎることはない。

新興郡は、もと太原郡の東北を切り取ったもの。魏代に後漢の太原から切り取ったところを、ぼくが雁門に移したかたち。後漢でも、雁門郡は、太原郡から県を融通されているし、流動的でもいいでしょう。




『続漢志』には、上郡・五原郡・雲中郡・定襄郡・朔方郡があるが、いずれも『歴史地図集』三国魏の領域外なので、地図に載せない。160414

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13.幽州

建安十八年、冀州に編入された。曹丕が置き直す。

『晋書』地理志:及秦滅燕,以為漁陽、上穀、右北平、遼西、遼東五郡。漢高祖分上谷置涿郡。武帝置十三州,幽州依舊名不改。其後開東邊,置玄菟、樂浪等郡,亦皆屬焉。元鳳元年,改燕曰廣陽郡。幽州所部凡九郡,至晉不改。幽州統都國七,縣三十四,戶五萬九千二十。

戦国秦が燕を滅ぼすと、漁陽・上穀・右北平・遼西・遼東の5郡を幽州とした。漢高祖が上谷郡を分けて、涿郡を置く。

『歴史地図集』を見ると、上谷の南部(冀州に面したところ)を分けて、涿郡を置いたと分かる。涿郡は、曹丕によって范陽郡と改められる。

武帝が十三州を置いたとき、幽州は旧名のまま。東方を開拓し、玄菟郡・樂浪郡を置く。

『晋書』地理志:案《禹貢》冀州之域,于周為幽州界,漢屬右北平郡。後漢末,公孫度自號平州牧。及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,居襄平,而分遼東、昌黎、玄菟、帶方、樂浪五郡為平州,後還合為幽州。及文懿滅後,有護東夷校尉,居襄平。咸寧二年十月,分昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪等郡國五置平州。統縣二十六,戶一萬八千一百。

『禹貢』では冀州に属し、漢の右北平郡に属す。
後漢末、公孫度が平州牧を自号した。子の公孫康、孫の公孫淵は遼東に依り、東夷の九族を服属させた。魏は東夷校尉を襄平に屯させた。

襄平は遼東の郡治。もと公孫氏の領土を平州と見なし、東夷校尉が治めた。

遼東・昌黎・玄菟・帯方・樂浪の5郡を平州として分けた。後に幽州に戻した。

『歴史地図集』を見ると、幽州は右北平・遼西までで、昌黎郡に面する。昌黎郡よりに東が平州。楽浪・帯方が朝鮮半島にある。

咸寧二年(276) 十月、昌黎・遼東・玄菟・帶方・樂浪の5郡を平州とした。

范陽(涿県)

黄初七年、涿郡から范陽郡に改められる。遒県には、馬河がある。公孫瓚が袁紹の別将の崔巨業を追撃したのが、ここである。
『続漢志』によると涿郡には、7県がある。涿県・迺県・故安(易水が出づ)・范陽・良郷・北新城・方城(もと広陽に属す)

◆広陽郡(薊県)
『続漢志』によると、薊県はもと燕国で、幽州の州治。薊県・廣陽・昌平(もと上谷に属す)・軍都(もと上谷に属す)・安次(もと勃海に属す)がある。地図では、区画「涿郡」に統合した。

◆燕国(薊県)
もとは広陽郡。曹仁伝によると、広陽太守を拝す。太和六年、下邳王の曹宇を封じて、燕国に改めた。
昌平県には、護鮮卑校尉が屯した。『水経注』によると、牽招は鮮卑校尉となり、昌平県に屯した。
安楽県がある。『晋志』によると劉禅が封じられた。『地道記』も同じ。『歴史地図集』三国魏では、隣の漁陽に属す。雍奴県には、新河がある。曹操が蹋頓を征伐するとき来た。『歴史地図集』三国魏では、隣の漁陽に属す。



上谷

『続漢志』によると、8県ある。沮陽・潘県・□県・廣□・居庸・雊瞀・涿鹿・下落である。

漢字が出ないところは、「寧」とした。[ウ心冉]みたいな。


◆代郡
『続漢志』によると、11県ある。高柳・桑乾・道人・當城・馬城・班氏・狋氏・北平邑・東安陽・平舒・代県である。
もとの郡治である高柳は、『歴史地図集』三国魏では領域外。班氏・北平邑も領域外。


漁陽

『続漢志』によると、9県ある。漁陽・狐奴・潞県・雍奴・泉州・平谷・安樂・傂奚・獷平である。

◆右北平
魏は「右北平」の「右」を取った。
『続漢志』によると、4県。土垠・徐無・俊靡・無終である。

れっきとした郡だが、地図では区画「漁陽」に統合。


遼西

『続漢志』によると、5県ある。陽樂・海陽・令支・肥如・臨渝である。



これより東は作らない。

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