-後漢 > 当サイト内の袁術にかんする記事まとめ

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後漢の人々の列伝より

石井仁先生の『魏の武帝 曹操』と、Jominian氏の『季漢書』は、史料をまとめなおし、解釈を確定させていくという点で、同じ種類の仕事だと思います。ぼくは、5年くらい前に、袁術に関する話を連投して「袁術ファンサイトのひと」として名が売れたみたいです。袁術の伝記をまとめようかなあ。
というわけで、まずは準備の作業から。

董卓伝

袁氏から後漢王朝を守った、外戚風の宮廷政治家・董卓伝
献帝の動向を知るために、李傕・郭汜伝
『三国志』董卓伝 漢文を改行&スペース挿入(pdf)
董卓によって後漢が実質的に滅ぼされ、袁術の活動が始まる。董卓伝は「本紀」としての機能もあるから、はずせない。李傕政権との関わりは、袁術が淮南で何をやろうとしたのか、史料には表れにくい意志のレベルで、かなり重要なテーマ。曹陽で天子が敗れたとき、袁術は天子即位を検討する。

董承は袁術の落目を見抜き、曹操を「護衛兵」に採用した
楊奉と韓暹は、献帝をうつし、董卓の代替政権をめざした
献帝の争奪戦は、袁術の正統性にとって重要。『資治通鑑』は、袁術が献帝を奪取しようとしたことを、巧妙に削除してしまった。今年の投稿論文に書きました。

袁紹伝

曹操と対比して単純化せず、袁紹の河北平定と皇帝政策を読む
袁紹伝の読み方:豫州と冀州の名士の評価
袁紹は、叔父の袁隗をだまし、皇帝になろうとした(pdf)

列伝35「袁安伝」を読む
作成時期が遡るほど、コンテンツが怪しくなっていくけど。

公孫度伝

劉邦と劉秀の二廟を立て、天地を郊祀する公孫度伝
独自に祭祀する群雄として、同じひと。

劉表伝

袁術との差異を比較して読む、南進主義者・劉表伝
曹操の献帝奉戴をめぐる、劉表の動き
劉表は袁術のライバル。南陽に駐屯したときのならず、淮南に移ってからも。献帝奉戴については、曹操と敵対するという点、独自に天子の権威を獲得する点で、一致する。
劉焉と劉表は、帝位を称した:キーワードは「前漢の皇族」

劉焉・劉璋伝

霊帝の軍制改革の欠陥を突いて、後漢から独立・劉焉伝
荊州の劉表と孫権をマネしつづけた、孤児の君主・劉璋伝

妄想を発展させ、袁術は劉焉を、皇帝に推戴しようとしたのでは?
思考実験「袁術と劉焉の同盟」を、史料から読めないか

公孫瓚伝

劉虞と袁紹を知るために、公孫瓚伝
『三国志』公孫瓚伝 漢文を改行&スペース挿入(pdf)
袁紹と袁術を開戦させる役割を演じ、袁術と同盟関係にあった。

張楊伝

呂布が なり損ねたハーフな騎馬隊の群雄・張楊伝

呂布伝

袁術に徐州の経営を委任&期待された、一軍人の呂布伝
『後漢書』呂布伝を、『三国志』と比べる(pdf)

張範・張承伝

袁術を責めつづけたお友達? 張承伝(張範伝より)

袁術伝

吉川忠夫訓注を見て『後漢書』袁術伝に、訓点をつける(pdf)

ダメなことに、『後漢書』袁術伝、『三国志』袁術伝を、きちんと抄訳・注釈したものは、作っていなくて、断片的な考察?があるばかり。
袁術は英雄なんだと、真面目に語らせて頂きました
かなり初期、まだ思いつきで、これから史料を読みますというときの記事。こういう直感が、わりと当たっていることが多いので、他人になった気持ちで再読します。というか、5年半も経過したら、もはや他人です。「三国志ファンの若者の意見」として、目を通すような感じです。

三国志「袁術伝」を『三国志集解』でおぎなう
190年代の豫州は、やんわり袁術の支配領域
太祖武帝紀より 袁術は献帝から、禅譲を受ける予定?
袁術の青年時代は、どんなだったか(袁湯、袁逢、袁隗)

史料を集める作業を、そこそこ試みていた。
自分用メモ:袁術にからむ人の列伝を、拾って注釈
陸康、陸績、臧旻。馬日磾、趙岐、何進。陳球、鄭太、何顒。
袁術に関する記述を網羅する
「術」で検索をひっかけ、関係ないものを削除した。

『仲書』をまとめかけ、途中で終わっています。
袁術の王朝の歴史書を、偽作する

今回の作業とは、直接は関係しませんが、袁術の印象操作を克服する記事として、
『三国演義』の袁術の記述を集め、物語の演出手法を指摘する

劉繇伝

袁術のライバル、腐っても劉繇について『集解』で史料あつめ

陳王 劉寵伝

『後漢書』袁術が殺した、弩兵が巧みな皇族の列伝

朱儁伝

『後漢書』朱儁伝を、狩野直禎氏の翻訳を横目に読む
徐璆・董卓・孫堅との関わりをもつ。徐璆は、黄巾の乱のとき、朱儁に助けられた。陶謙の同盟に祭り上げられる。朱儁の子の朱晧は、豫章太守になった。

陶謙伝

袁紹と袁術に立ち向かい、袁術に敗れた野心家・陶謙伝

劉虞伝

『後漢書』劉虞伝 漢文を改行&スペース挿入(pdf)

弘農楊氏

『後漢書』より、四世三公の楊震伝をまとめ、袁氏と比べる

諸葛亮伝

袁術は、諸葛亮の生存&人格形成に濃厚に関わった

『資治通鑑』抄訳

『資治通鑑』199年198年197年196年195年、
194年193年192年191年190年189年188年

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孫呉にかかわる人々の列伝より

袁術のファンサイトと称されたこともある、このホームページで、袁術にかんする記事をまとめます。そして、袁術の伝記のようなものにまとめたいと思います。

つぎは何をして遊ぼうかと模索してます。
かつてホームページを「袁術のファンサイト」と評されたことがある。しかし、袁術が登場する時代の史料は網羅したつもりでも、書き散らかしており、読みにくい。伝記の形式でまとめよう。『魏の武帝 曹操』にならい、論文調。推測の範囲と、根拠を明示して。
袁術の伝記をまとめたら「ぼくの考えた最強の、後漢末の戦乱の収束方法」として、袁術が活躍するイフ物語を書く。イフへの分岐は、孫堅が生き残って陳留で曹操に一勝し、兗州に橋頭堡を築くところから。
イフは、所詮は娯楽ですが、理解度と想像性の総力戦なのでやりたい。
三国鼎立とか、魏晋革命~八王・永嘉の乱は、バッドエンドだと思う。制度史・戦争は、ぼくがこれまでの同人誌であまり描けなかったところなので(理解度と創造性の限界)ここを補強して、再チャレンジをする。


陸績伝

陳寿説+10歳で、赤壁開戦に猛反対した陸績伝
廬江太守の陸康は、孫策に殺された。その子・陸績の列伝。陸績は、袁術から果物をもらった。廬江太守として、統治を安定させていた陸氏が、なぜ6歳の陸績を、袁術のところに派遣したのか。なぜすぐに袁術は、孫策に陸康を殺させたのか。二者の関係が謎。

虞翻伝

孫権を曹操に帰順させ損ねた、一途の虞翻伝
王朗から孫策に乗り換え、豫章太守の華歆をくだす。

張紘伝

孫策と孫権を、曹操に帰順させる能吏・張紘伝
曹操と袁術が、同一の戦略の競合者だった。皇帝権力をつかって、孫氏やその他の人材を、味方につけようという(おそらくマネしたのは曹操)。張紘と曹操の接近は、曹操の勝利につながる。

太史慈伝

群雄としての資格がない、場当たり的な男・太史慈伝
劉繇に受け入れられず、孫策につく。丹陽東部で自立するかと思いきや、孫策にくだり、劉表との国境を守る。

呂範伝

袁術の爪牙、孫策を助けた軍事マニア、呂範伝
徐州牧の陶謙は、呂範が袁術のスパイに来たとして、県で呂範を拷問した。袁術の徐州攻めにしたがい、陳瑀を攻める。

士燮伝

『三国志』交趾太守の士燮伝;豪族として、太守として
士燮の兄の士壱は、董卓が遷都するときに逃げた。袁術-(義兄弟)-楊彪-(反董卓の三公)-黄琬-(属官として重用)-士壱というわけで、袁術ともご縁がある。洛陽から交趾ににげるとき、袁術と話しているに違いない。董卓に対処するとき、中央を目指すか、地方から窺うか、意見を交わしたかも知れない。

中国の士人は、交州ににげた。「蜀志」許靖伝はいう。孫策が長江を東にわたると、みな交州ににげた。「魏志」袁渙伝はいう。陳国の袁渙の従弟・袁徽は、儒学の素養でたたえられた。天下が乱れると、交州に避難した。「呉志」薛綜伝はいう。薛綜は、族人をたよって、交州に避難した。
許靖、袁徽、薛綜を交州に追いやったのは、いずれと袁術と関わりがあることが、おもしろい。許靖を追いやった孫策は、袁術のために劉繇を討伐した。陳国の袁渙は、袁術と交流があるが、陳王の劉寵を殺したのは袁術である。袁術は曹操と、陳国で戦った。沛郡の薛綜は直接でないかも知れないが、曹操、劉備、袁術が、あのあたりで抗争した。
陳国の袁徽は、尚書令の荀彧に文書をおくり、許都政権とつながりをもつ。曹操政権・袁術政権のどちらが、秩序の回復者として、士人を中央に呼び戻すことができるか。献帝をめぐる以外の要素でも、競合関係にある。というか、袁術政権の位置を、曹操が横取りしたのだろう。おそらく、史書に残っている曹操政権の人脈と同じくらい、袁術政権と交州の士人との交流があったのではないか。

孫権の袁夫人

孫権の妃嬪伝:謝、徐、歩、袁、王、王、潘夫人
歩夫人が死ぬと(238)、孫権は袁夫人を皇后にしたい。袁夫人は、子がないので、固辞した。

孫権伝(呉主伝)

孫策をつぎ、曹操の方面司令官に:孫権伝
孫策が諸郡を平定すると、15歳(建安元年)で、陽羨(呉郡)の県長となる。孫策が勝ち、袁術の揚州支配が完成したとき、就職した。孫策が袁術の方面司令官を務めたように、孫権は曹操の方面司令官を務めた。黄祖・劉表を攻めて、劉表が、曹操の河北制圧に干渉できないように、間接的に協力をした。

孫策伝

孫策は袁術に、絶縁状を突きつけていない
『呉書』の公式見解は、後漢の忠臣である孫氏が、やがて天下を統一するであろうという、予定調和的な歴史像。しかしそれは、実態と乖離している。この違和感を、陳寿と裴注とを比べながら、検証してゆく、初期の記事。
孫策は、袁術から官爵を受けて権威を得るか、曹操(献帝)から官爵を受けて権威を得るか、両者のポトラッチに晒された。その任命のすさまじさから、史料が混乱した。いつ、どちらから、何の官職をもらい、受納したか拒絶したか。裴注で、互いに矛盾しあっており、ひとつに決まらない。
実態として、曹操と献帝を分離することはできない(これより前、李傕と献帝を分離できなかったことと同じ)。しかし『呉書』のニーズは、孫策を曹操と敵対させ、献帝は救出の対象と見なす。これだけでも混乱を引き起こすために、充分な材料があるが、袁術との関係も生じる。孫策を、袁術と敵対させる必要があるが、孫策の実際の勢力基盤は、袁術によって築かれたもの。
ぼくの見通しでは、やや消極的にでも、孫策は、袁術の与党であり続けた。孫策が袁術の影響から正式に脱するのは、袁術の死後である、となる。

袁術が死ぬまでの忠臣、死ぬまで献帝の忠臣、孫策伝
絶縁状はなかった、という考え方に基づいて、『三国志集解』で孫策伝を読む。
『呉書』は記述が少なすぎ、裴松之が注釈をつける場所が、微妙に本文と時系列がずれていたり、孫策の年齢すら定まらない。孫策が、袁術の敵対者である陳瑀と戦っていることから、少なくとも孫策は、袁術の皇帝即位を直接的な契機として、離脱したわけではないことが固まる。
袁術を離脱するのが、袁術の軍事的な衰亡が確定した198年なのか、袁術が死去した199年なのか、決まらない。

『呉志』宗室伝

「呉志」宗室伝より:袁術をめぐる、孫氏の去就
孫静、孫賁、孫輔+孫河

呉景伝

ほんとうは偉かった外戚、呉夫人と呉景伝
袁術の先鋒として徐州を攻めたが、彼が天子即位したとき、関係を絶った。

朱治伝

孫権が絶対服従のオヤジ殿、朱治伝
『三国志集解』で補強する必要あり。官歴や、居場所について整理すると、孫氏の歴史について、おおくが言えるでしょう。
朱治は、15歳の孫権を、孝廉に推挙した。建安元年。袁術の影響を抜きには語れない。

孫策の家族を拉致し、袁術を裏切らせようとした朱治伝
孫堅との個人的な結合は強そうだが、陶謙に協力したり、劉繇に協力?したように見えたり、行動がよくわからない。在地豪族として、群雄を「選ぶ」立場だったのだろうか。

太史慈伝

呂布・劉備と同じ穴の梟、太史慈
群雄としての資格がない、場当たり的な男・太史慈伝

劉繇伝

袁術のライバル、腐っても劉繇について『集解』で史料あつめ

『建康実録』

唐代『建康実録』をだいたい和訳し、孫呉をふくらます
厳白虎の旧知・許貢の食客である許昭が、孫策を刺した。

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