孫呉 > 『呉志』巻十を読む

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呉将で最年長の程普伝

『呉志』巻十の本文に入る前に、盧弼の注釈。
劉咸キはいう。(この巻に列伝をもつ者のうち)程普が最年長で、黄蓋・韓当は孫堅にしたがい、蒋欽・周泰・陳武・董襲は孫策にしたがい、甘寧・凌統・潘璋・徐盛は孫権がもちいた。丁奉がもっとも(呉に仕えたのが)遅い。
ぼくは思う。『呉志』巻十(『陳志』巻五十五)は、呉の武将にかんする列伝。呉では(というか魏蜀でも)武将は単独で行動することが少なく、一緒にもしくは多方面に作戦を遂行する。ヨコのつながり(タイムテーブル)を揃えて整理したら、使い勝手がよくなるかも。
となると、武将にとっての「本紀」的な役割を果たす、『呉志』巻九(周瑜・魯粛・呂蒙伝)が背骨になるのかも知れない。

程普が孫堅に仕える

程普、字德謀、右北平土垠人也。初爲州郡吏、有容貌計略、善於應對。從孫堅征伐、討黃巾於宛、鄧、破董卓於陽人。攻城野戰、身被創夷。

程普、あざなは徳謀、右北平の土垠のひと。はじめ州吏・郡吏となり、容貌・計略があり(ルックスもアタマもよく)、応対(上官との受け答え)がうまい。

右北平郡の土垠県のことは、『魏志』明帝紀 景初元年にみえる。
ぼくは思う。つぎに突然、孫堅に従軍する。なぜ北辺の出身者が孫堅と合流するのか。サッパリ分からない。幽州刺史もしくは右北平太守に気に入られて、洛陽にともをして、そこで人脈を広げて……、というパターンか。劉備のように学問で中央に行ったという記述もない。程普はジアタマが良いかも知れないが、文化資本に接触して、ネットワークを築いたようではない。

孫堅に従って征伐し、黄巾を宛城・鄧城で討ち、董卓を陽人でやぶる。

ぼくは思う。州吏・郡吏になるにも、在地で有力豪族であることが前提になる。石井仁「富春孫氏考―孫呉宗室の出自をめぐって―」によると、『宋書』巻九十四 恩倖伝序に「郡県の掾史、ならびに豪家より出で、戈を負う宿衛、皆 勢族に由る」とある。掾史(地方官吏)と負戈の宿衛(郎官)は、豪族から出た。17歳で県吏となった孫堅は、そこまで(瓜を売ることが印象づける最下層の)出身ではないと。程普も同じことが言える。
山本博文『格差と序列の日本史』では、格差のことを「序列の固定化によって越えられない壁」と定義する。思うに、壁を越えられないのが不当な理由によると(社会的に納得感が得られないと)格差が問題化する。その意味で、孫堅と程普は「辺境の豪族、郡吏になれるレベル」という序列を共有している。それ未満(支配される側の民爵、さらに下の奴隷)を閉めだして(指揮官には任用せず)、孫堅集団はスタートしている。志ひとつで、原資ゼロで旗揚げしたのではない。これは(善悪の区別がない、同時代において自明・客観的な)序列なのか、or 憎まれるべき格差なのか。

城を攻め、野に戦い、キズを受けた。

宛・鄧・陽人のことは、いずれも孫堅伝にみえる。
ぼくは思う。キズを受けたというのは、かなり象徴的な表現で、列伝の文体では拾えない、かなり激しくて命知らずの戦闘をやったのだろう。孫堅ですら死にかけているから、程普がもっと先に死なねばならない。もし死ぬのなら。


程普が孫策に仕える

堅薨、復隨孫策在淮南、從攻廬江、拔之、還俱東渡。策到橫江、當利、破張英、于麋等。轉下、秣陵、湖孰、句容、曲阿。普皆有功、增兵二千、騎五十匹。

孫堅が薨ずると、のちに孫策にしたがって淮南におり、廬江ぜめに従って抜き(寿春に)還ってともに(長江を)東にわたる。孫策が横江・当利にいたると、張英・于麋らをやぶった。秣陵・湖孰・句容・曲阿を転戦した。すべての戦いで功績があり、兵2千・騎50匹を増やされた。

横江・当利・秣陵・湖孰・曲阿は、孫策伝に、句容は孫権伝 赤烏八年にみえる。
「五十匹」を「五十四」につくる版ばあるが、誤りである。もしくは「(四頭立ての馬車)」の字から馬ヘンが脱落したか。潘眉はいう。韓当伝に「兵2千・騎50匹を授けらる」とあり、呂範伝に「兵2千・騎50匹」とあるから、ここでも「騎50匹」が正しい。
ぼくは思う。恩賞の通例として「兵2千・騎50匹」があるなら、これをもらうタイミングが早いほど、孫氏集団にとって重臣の仲間入りが早いことになる。いま韓当伝・呂範伝を見たら、おそらく同じタイミングだった。つまり孫策が劉繇を駆逐した段階で、程普・韓当・呂範の功績がひとしい。


進破、烏程、石木、波門、陵傳、餘亢、普功爲多。策入會稽、以普爲吳郡都尉、治錢唐。後徙丹楊都尉、居石城。復討、宣城、涇、安吳、陵陽、春穀諸賊、皆破之。策、嘗攻祖郎、大爲所圍。普、與一騎共蔽扞策、驅馬疾呼、以矛突賊、賊披、策因隨出。後拜盪寇中郎將、領零陵太守。從討劉勳於尋陽、進攻黃祖於沙羨。還、鎭石城。

烏程・石木・波門・陵傳・餘亢に進んで破り、程普はおおくの功績があった。

烏程は孫堅伝に、余杭は孫策伝にある。沈欽韓はいう。石木・波門・陵傳は、烏程・余杭の間にある(はずだ)。いま『湖州府志』にこの地名はない。

孫策が会稽に入ると、程普は呉郡都尉となり、

銭唐は孫堅伝にある。呉郡西部都尉は顧承伝にみえる。
『三国志集解』顧承伝をみた。
趙一清はいう。呉郡西部都尉は、漢代にはない。呉が置いたものだ。
沈約はいう。呉のとき、呉郡の無錫より西を分けて毗陵典農校尉とした。あるいは先に呉郡西部都尉があって、のちに毗陵典農校尉となったか。諸葛瑾伝にひく『呉書』に、「新都都尉の陳表・呉郡都尉の顧承は、領するひとを率いて毗陵で耕作した」とある。これが(呉郡都尉が典農都尉となった)証拠である。
王先謙はいう。『沈志』によると、毗陵典農都尉は毗陵・武進・雲陽の3県をふくみ、太康二年に典農都尉をやめて毗陵郡を置き、これが晋代の晋陵郡の前身とする。しかし『沈志』は誤りである。『呉志』華覈伝に「呉郡の武進のひと」とあり、韋曜は「呉郡の雲陽のひと」とある(いずれも典農都尉の配下の県のはずなのに、所属が「呉郡」となっている)。けだし嘉禾期(232-238) に顧承は呉郡西部都尉となり、のちに都尉をはぶいて呉郡に再統合したが、陳寿はこれを記さなかった。『沈志』が太康二年(晋代になってから)典農都尉を省いたと記すが、これは誤りである(都尉の廃止を、陳寿が記述しないせいで、沈約は、その廃止を晋代だと思ってしまった)。
ぼくは補う。「嘉禾三年、詔復曲阿為雲陽,丹徒為武進」とある。武進・雲陽は、丹徒・曲阿のこと。こっちの地名のほうがナジミがある。

銭唐を治所とした。

下に地図を載せた。上の青い丸が、のちの毗陵典農都尉の領域。無錫より西(というか北西)を切り分けた。毗陵・曲阿・丹徒がその配下の3県。
ただし程普は呉郡都尉として、銭唐を治所とした。地図の赤い丸。つまり、のちの呉郡西部都尉・毗陵典農都尉のような小さな地域でなく、呉郡全般を受け持ったのだろう。「西部」と限定が付いていないし、曲阿と銭唐は遠すぎる。



後徙丹楊都尉、居石城。復討、宣城、涇、安吳、陵陽、春穀諸賊、皆破之。策、嘗攻祖郎、大爲所圍。普、與一騎共蔽扞策、驅馬疾呼、以矛突賊、賊披、策因隨出。後拜盪寇中郎將、領零陵太守。從討劉勳於尋陽、進攻黃祖於沙羨。還、鎭石城。

のちに丹楊都尉にうつり、石城を治所とした。

石城は、上の地図の緑の丸。
『郡国志』によると、丹陽の石城県である。『一統志』によると、東西にふたつの石山があって河を挟み、城のように見えるから「石城」という。へー。呉の黄武二年、韓当を石城侯とした。
『元和志』は「韓当は石埭城侯となった」とあるが、呉にそんな地名はなく(石城が正しく)、封侯に「城」をつけるのもおかしい。
呉増僅はいう。丹徒都尉は石城を治所とし(程普伝に見える)韓当をここに封じた。韓当の子・韓綜が魏に降ったので、国は除かれた。県境に「虎林督」が置かれ、重鎮であった。
石城は孫策伝の注にもある。『魏志』文聘伝に「石梵(石城)」があり、検証伝にも「石城」があるが、同名異地である。
ぼくは思う。韓当と程普は、ともに石城で治めた。同格・交換可能と分かる。

また宣城・涇県・安吳・陵陽・春穀の諸賊を討ち、いずれも破った。

宣城・涇県・陵陽は、孫策伝にみえる。安呉は孫休伝 永安四年にある。春穀は周瑜伝に見える。

かつて孫策は祖郎を攻め、大勢に囲まれた。程普は、1騎だけを伴って突破したので、孫策は出られた。

唯一のアクションシーンが出てきた。ちくま訳を参照。

のちに盪寇中郎將となり、零陵太守を領した。孫策に従って劉勲を尋陽に破り、進んで黄祖を沙羨に攻めた。もどって石城に鎮した。

程普が孫権に仕える

策薨、與張昭等共輔孫權、遂周旋三郡、平討不服。又從征江夏、還過豫章、別討樂安。樂安平定、代太史慈備海昬、與周瑜爲左右督。破曹公於烏林、又進攻南郡、走曹仁。拜裨將軍、領江夏太守、治沙羨、食四縣。

孫策が薨ずると、張昭らとともに孫権をたすけた。3郡をめぐり、服さぬものを平定した。孫権にしたがい江夏を征ち、もどって豫章を過ぎると(孫権の本隊と)わかれて楽安を討った。楽安を平定すると、太史慈に代わって海昏をまもり、

楽安は孫権伝 建安八年にみえる。海昏は孫策伝。

周瑜とともに左右督となった。曹操を烏林で破って、南郡を攻めて(建安十四年)曹仁を走らせた。

杭世駿はいう。『湘中記』によると、君山には地道があり、楂渚の対岸に古城がある。これは孫権が程普に立てさせたもの。
盧弼が考えるに、孫皎伝に「呂蒙は孫権にいう、『周瑜・程普は左右都督となって、ともに江陵を攻めた。作戦は周瑜が決めたが、程普は長く仕えてきたことを頼み、どちらも督であり(指揮権を持っており)ついに協調しなかった』と」と。
ぼくは思う。「周瑜・程普が和解して、曹操に勝つ」というのが美談だが、実際は違ったようだ。居合わせたであろう呂蒙がそう言うのだし、孫権だってウラを取れる。見え透いたウソをつくメリットがない。周瑜・程普は、和解しなかったのだろう。和解せずとも、曹操・曹仁に勝てた。


先出諸將、普最年長。時人皆呼、程公。性好施與、喜士大夫。周瑜卒、代領南郡太守。權分荊州與劉備、普復還領江夏、遷盪寇將軍、卒。

呉将のなかでも程普が最年長だったので、

ぼくは思う。程普は、若くて文化資本を持った、周瑜と対立した。程普だって若いときは、ルックスが売りだった。程普は周瑜を(年齢がズレたなりに)同質のライバルと見ただろう。そこに、呉将としてのキャリアの差が加わって、優劣がねじれて、遺恨の根が深くなるという。「すべてにおいて劣っている」なら対抗心がわかない。なまじ「オレとあいつを比べたら、2勝3敗だ、いやいや、本当は3勝2敗ではないか」と主観的に思うから、和解から遠ざかる。

みな「程公」と呼んだ。

顧炎武『日知録』巻二十はいう。『方言』によると、老人を尊ぶとき「公」と呼んだ。『戦国策』に「孟嘗君が馮公に問う」とある。程普もこの用例である。

ほどこしを好み、士大夫を喜ばせた。周瑜が卒すると、代わって南郡太守となる。孫権が荊州を劉備に分与すると、程普は(地理的に)もどって江夏太守となり、盪寇將軍に移って死んだ。

吳書曰。普殺叛者數百人、皆使投火、卽日病癘、百餘日卒。

『呉書』はいう。程普は反乱した数百人を殺し、すべて死体を火に投じた。その日のうちに病気になり、100余日で死んだ。

ぼくは思う。反乱したひとの死体は、どうするのがノーマルだったのか。「火葬」をするのは、反乱したひとに対しても、過酷すぎる仕打ちであると認識されたからこそ、この因果が成り立つ。「風葬」というか、放置するのがノーマルか。
周瑜の死後、「周瑜の後任」となるのは、きっと、程普を持て余した孫権の「祭り上げ」であろう。実際には、同年配の魯粛・呂蒙らを重用した。年齢・功績とも最大なのに(最大であるがゆえに)組織で孤立する程普……とか、切ない。反乱者の死体を、過剰に痛めつけたのは、その鬱屈の現れかも知れず、それを孫呉は『呉書』に書き記すことで、「程普さんは晩年は、人格が歪んでたから、重用されなくても仕方ない」というツジツマを得た。でなければ、歴史書にそんな死にザマを書く必要がない。


權稱尊號、追論普功、封子咨、爲亭侯。

孫権が尊号を称すると、追って程普の功績を論じ、子の程咨を亭侯とした。

ぼくは思う。逆にいえば、孫権が皇帝になるまでは、程普のことは「忘れられていた」わけです。そして、亭侯に過ぎないなんて。建国の功臣として、特別扱いまでは受けていない。代替わりの激しい集団は、重臣の新陳代謝もはやい。年長者にとっては、「功績を足し算方式で蓄える」ことができず、生きづらかったようです。


おわりに

周瑜と同等の権限をもって、烏林の曹操・南郡と曹仁と戦ったところで、孫権集団の世代交代によって起こるストレスが最大化したように思う。

同等の権限でならべるって、もしも将軍たちが「来歴も感情も抜け落ちたコマ」だったら、非効率のきわみ。絶対にやめるべき。しかし、将軍たちには、来歴や感情がある。組織の力学・政治的に、ここは程普・周瑜を並べなければならなかった。もっと言えば、このふたりを並べたことから、孫権の政治生活は、本格稼働する。曹氏を退けることができた原因は、この配慮の行き届いた配置による、、という立論もおもしろそう。

べつに程普が「偏屈・頑固なジジイ」だから、周瑜と対立したのではない。個人の性格に紐付けて、分析を止めてしまうのは不可。対立の原因は感情論ではないから、「程普と周瑜が和解した」という、安直な物語を描くこともできないわけで。
脱皮する生物は、そのときに死ぬリスクがある。成長して、異質なものに変化するとき、その摩擦によって死ぬ……。本末転倒に思われるが、それが宿命。
赤壁の前後で、孫権集団がどのように変化したか。その定点観測につかえるキャラクターだと思いました。160608

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後漢の典型的な令長:黄蓋伝

『呉書』巻十を読んでいて思いました。
孫呉って領土が難治(反乱が続発する)だから、武将たちは普段は太守・令長として散らばっている。
烏林の曹操、江陵の曹仁、合肥の張遼、荊州の関羽、夷陵の劉備みたいに外圧が加わると、定例ミーティングもしくは同窓会のように一箇所に集まり、功績をまとめて立てて官爵を上昇させ、キズナを確認して散っていく。

『呉書』巻十の、武将の列伝の集合体という性格によるものか、けっこう遠慮なく、立伝された本人が戦死する。死と隣り合わせ、滅亡と隣り合わせだからこそ、「定例ミーティング」は求心力となる。孫権との関わりが濃密となる。孫権が張遼に追いこまれたときなんて、忠臣・猛将のフィルターをかけるため、わざとピンチをつくったのでは、と勘ぐりたくなるほど、名場面である。

あらかじめ確固とした孫氏集団があり、それが曹操や劉備に対抗するのではなく、これらの外圧によって集団が形成され、やがて皇帝を頂く国になる。主体性も正統性も、主義主張も見えにくいのは、孫権が怠けたからではない。外圧に突き固められたという、集団のなりたち=本質に根ざしたこと。

黄蓋が孫堅に仕える

黃蓋、字公覆、零陵泉陵人也。

黄蓋は、あざなを公覆といい、零陵の泉陵のひと。

零陵の郡治は泉陵。『蜀志』先主伝 建安十三年にみえる。


吳書曰。故南陽太守黃子廉之後也、枝葉分離、自祖遷于零陵、遂家焉。蓋少孤、嬰丁凶難、辛苦備嘗、然有壯志、雖處貧賤、不自同於凡庸、常以負薪餘閒、學書疏、講兵事。

『呉書』はいう。黄蓋は、もと南陽太守の黄子廉の後裔である。

何焯はいう。『風俗通義』に、潁川の黄子廉は、馬が水を飲んだ川に銭を投じた(料金を支払うほど金離れがよいという美談?)が、これが黄蓋の祖父であり、潁川から零陵に移ったと。
杭世駿はいう。黄溍『筆記』が陶靖節の詩をのせ、その詩に「黄子廉」が見える。湯伯紀はこれに注釈して、「後漢の尚書令の黄香の孫の黄守亮は、あざなを子廉といい、南陽太守となった」とする。子廉とは子亮のあざなであって、名ではない。
趙一清はいう。(『范書』列伝七十 文苑 黄香伝によると)黄香は江夏の安陸のひと。黄香の子は黄瓊、黄瓊の子は黄琬であり、黄守亮はでてこない。後漢に二字名のものは少ない。黄溍『筆記』が、なにを根拠に黄子廉について書いたのか分からない。
黄瓊伝・黄琬伝は、『范書』列伝五十一にある。

枝葉が分離し、祖父のとき零陵にうつった。黄蓋はわかくして父をなくし、凶難にあって辛苦をなめたが、壮志があった。

ぼくは思う。祖先の身分が高くて、傍流に分かれ、父を早くなくす。劉備と同じパターン。この家族歴が、三国志的な英雄をうみだす典型例として、分析できるのかも。

貧賎にあっても、凡庸に同ぜず、薪をせおって、あいまに書疏(疏を書くこと)を学び、兵事を講じた。

初爲郡吏、察孝廉、辟公府。孫堅舉義兵、蓋從之。堅南破山賊、北、走董卓、拜蓋別部司馬。堅薨、蓋隨策及權、擐甲周旋、蹈刃屠城。

はじめ郡吏となり、孝廉に察せされ、公府に辟せらる。

ぼくは思う。郡吏になるから郡内の有力者で、10万人に1人の孝廉にあげられ、三公の府に辟された。ただの貧者でも、二宮金次郎でもない。上では関係性が不明とされたが、三公・九卿・太守を輩出した、黄香・黄瓊・黄琬の家の傍流というのは、真実味をおびる。孫氏集団のなかで、最高級の家柄では。

孫堅が義兵をあげると、黄蓋はしたがった。

長沙太守の孫堅が、郡境を越えて討伐戦をしたときか。よき家柄で、官途もひらけている黄蓋だから、「孫堅の政治的主張に共鳴した」が従軍の動機か。孫堅集団にすれば、「なんか名家のエリートが、参加してくれたぞ」という嬉しい展開。

孫堅が南のかた山賊を破り、

孫堅伝に「周朝・郭石が、零陵と桂陽で、長沙の区星に呼応した。孫堅は郡を越境して、平定した。3郡(長沙、零陵、桂陽)は粛然とした」とある。これを指すだろう。零陵の黄蓋は、現地で合流した。
「地方のよき統治者」という黄蓋の生来のキャラから見て、孫堅の平定の行動は、支持すべきものに見えた。親族の黄氏も禁錮されている中央政府よりも、現場で活躍する孫堅に賭けた。

北のかた董卓を走らせ、別部司馬となる。孫堅が薨ずると、孫策および孫権に仕えた。よろいを着けて戦場にたち、城をほふった。

孫策期がえらくあっさりしている!黄蓋の本領は、戦場で圧倒的な功績を立てることではない。もちろん戦闘に参加したが、特記すべきことはなかったか。
いまムリに分ければ、孫氏の戦いには2種類あって、統治のための平定戦と、拡張のための攻略戦である。 黄蓋は、孫堅による平定戦に参加した。ここでは活躍した。孫策は、攻略戦がおおいから、黄蓋はめぼしい活躍がない。つぎに孫権は、平定戦が多くなるから、ふたたび活躍できる。


黄蓋が孫権に仕える

諸山越不賓、有寇難之縣、輒用蓋爲守長。石城縣吏、特難檢御。蓋、乃署兩掾、分主諸曹、教曰「令長不德、徒以武功爲官、不以文吏爲稱。今賊寇未平、有軍旅之務。一以文書委付兩掾、當檢攝諸曹、糾擿謬誤。兩掾所署、事入諾出、若有姦欺、終不加以鞭杖。宜各盡心、無爲衆先」初皆佈威、夙夜恭職。久之、吏以蓋不視文書、漸容人事。

各地の山越は賓せず(孫権に従わず)、山越が寇難する県があると、黄蓋が守長となった。

孫策のときは、戦うために走り回っているだけ。しかし孫権は、山越の対策係として、黄蓋をつかった。孫権のひとづかいの巧さが見える。

石城の県吏は、とくに検御しにくい。

石城県は、程普伝にみえる。
ぼくは思う。ちくま訳は「綱紀が乱れて手におえない」とある。これは直接的な山越の話ではなく、役所の内部の話。役所が不正をするから、山越が服従しないという因果関係があるのかも。山越を相手に、徴税が重すぎるとか。アメリカの建国プロセスを単純化したみたいに「先住民を駆逐して、領土を広げる」という簡単な話ではないだろう。この地域では、「山越を納得させられるように統治する」ことが使命で、役所のなかで不正が横行していれば、山越だって(山越じゃなくとも誰だって)服従したくない。

黄蓋は、ふたりの掾を任命し、諸曹を分けて主管させた。黄蓋は、「令長(わたし)は徳がなく、ただ武功だけによって、県の長官となった。文吏として評価があるわけではない。

レトリックであろうが、こういうレトリックを使うことから、黄蓋の価値観が見える。孫堅の後半・孫策期は、武功のみによって地位を上げることに、疑問があった。秩序をもどす平定戦でなく、秩序をみだす攻略戦が、孫氏のメインの戦いとなった。これは孫氏が悪いのでなく、時代の流れなのだが、黄蓋としては不本意だったのだろう。名門の傍流として、「文吏を以て称へらる」が、黄蓋の理想。孫策期には、ちょっと浮いてたかも。

いま賊寇は、いまだ平らかならず、軍旅の務がある(私は県政に専念できない)。ふたりの掾に、権限を委譲する。諸曹の仕事ぶりをチェックして、不適切な処理を摘発せよ。処理に不正や虚偽があれば、最後は鞭杖を加えない(死刑とすることも辞さない)」と。はじめ、みな黄蓋を佈威して、夙夜きっちり働いた。しばらくして、吏たちは黄蓋が文書を見ないから、徐々に人事を容れた(情実を加えた)。

蓋亦、嫌外懈怠、時有所省、各得兩掾不奉法數事。乃悉請諸掾吏、賜酒食、因出事詰問。兩掾辭屈、皆叩頭謝罪、蓋曰「前已相敕、終不以鞭杖相加。非相欺也」遂殺之。縣中震慄。後轉春穀長、尋陽令。凡守九縣、所在平定。遷丹楊都尉、抑彊扶弱、山越懷附。

黄蓋は、吏たちがダラけたのを見て、書類をチェックしたら、ふたりの掾の違法行為をつかんだ。すべての掾吏をあつめ、酒食をあたえ(掾の仕事ぶりについて)詰問した。ふたりの掾は、辞屈し、叩頭して謝罪した。黄蓋は、「まえに私は、不正や虚偽があれば、鞭杖を加えず(死刑を辞せず)と言った。ふたりの掾を殺しても、きみらを欺いたことにならない(約束したとおりの処置だ)」といい、ふたりの掾を殺した。県中は震慄した。

黄蓋の知恵がうかがわれる。黄蓋は、自ら述べるように、ひとつの県に付きっきりで、統治できるほど余裕がない。「自分が不在でも、統治のレベルを維持できる」のがベスト。だから、掾に権限を委譲する。ひとりに委譲すると、その掾が万能(令長と同等)になり、暴走する恐れがあるから、ふたり。相互に牽制・監視させることもできる。この掾は、べつに信頼できる人物である必要はない。
ときどき黄蓋がチェックに立ち寄って、ぬきとり監査をすれば、掾の行動をしばることができる。掾を殺すとき、あえて「相ひ欺くにあらず」と言い訳しているように、一見するとトラップだが、そうではない。行政機関を、清く正しく効率的に回す工夫なのだよと。
「信頼できる人物に、全権を委譲する」よりも、「信頼できずとも、在地の有力者の複数に、県の機関を分けて委託する」ほうが、再現性が高い。はじめて赴いた県で、信頼できる人物を探さなくてもいい。ヒト系ではなく、仕組みによって解決する。

のちに春穀長、尋陽令に転じた。9県の長官をつとめ、県政を正した。丹楊都尉に移った。強きをおさえ、弱きをたすけたから、山越が懐付した。

春穀は周瑜伝に、尋陽は孫策伝にみえる。丹陽都尉は、程普伝に見える。
この書きぶりだと、やはり漢族の豪強が、県政を牛耳って、法をおかし、山越に不利な「悪政」をやったことが、反乱の原因であったことになる。


赤壁の戦い

蓋、姿貌嚴毅、善於養衆、每所征討、士卒皆爭爲先。建安中、隨周瑜拒曹公於赤壁、建策火攻、語在瑜傳。

黄蓋は、姿貌は厳毅である。衆を養うことを善くし、征討のたび、士卒は先を争った。周瑜にしたがって曹操を赤壁で拒ぎ、火攻を建策した。周瑜伝にしるす。

趙一清はいう。『方輿紀要』巻七十六に、「百人山は、漢陽府の西南70里にあり、周瑜と黄蓋が曹操をあざむき、大軍を起こした場所である」という。南は長江に浜し、百人磯がある。『水経』江水注に、「鸚鵡州の下尾に、黄軍浦があり、むかし黄蓋が屯した場所である」という。


吳書曰。赤壁之役、蓋爲流矢所中、時寒墮水、爲吳軍人所得、不知其蓋也、置廁牀中。蓋自彊以一聲呼韓當、當聞之、曰「此公覆聲也。」向之垂涕、解易其衣、遂以得生。

『呉書』はいう。黄蓋は流矢にあたり、寒いのに水に堕ちた。呉軍が黄蓋をひろったが、黄蓋だと気づかず、寝床の側部にねかせた。

『漢書』汲黯伝に、「大将軍の衛青が侍中となり、漢武帝は廁(寝床の側部)に腰掛けたまま、衛青と会った」とある。孟康は、「廁とは、牀の辺側である」という。
『漢辞海』でも調べましたが、べつに黄蓋はトイレに置かれたのではない。

黄蓋が韓当をよび、韓当が気づいてくれた。(冷えた)衣を着替えさせ、生き延びることができた。

武陵の蛮夷の反乱を平定する

拜武鋒中郎將。武陵蠻夷反亂、攻守城邑、乃以蓋領太守。時郡兵才五百人、自以不敵、因開城門、賊半入、乃擊之、斬首數百、餘皆奔走、盡歸邑落。誅討魁帥、附從者赦之。自春訖夏、寇亂盡平。諸幽邃、巴、醴、由、誕、邑侯君長、皆改操易節、奉禮請見、郡境遂清。後長沙益陽縣、爲山賊所攻、蓋又平討。加偏將軍、病卒于官。

武鋒中郎將となる。

黄蓋が「行武鋒校尉」になったのは、孫策伝にひく『呉録』にある。
沈家本はいう。孫策伝にひく孫策の上表によると、「行武鋒校尉」の黄蓋が見える。孫策が黄祖を沙羨県で討ち、黄蓋が従軍したのが建安四年。黄蓋伝は、黄蓋が黄祖を討ったことを記さない。孫策の上表に出てくる、周瑜・呂範・程普・孫権・韓当は、みな劉勲・黄祖を討ったことを記す。黄蓋伝の書きモレである。
ぼくは思う。黄蓋は、建安四年のとき「行武鋒校尉」であり、建安十三年の赤壁ののち、「武鋒中郎将」に昇格した。「武鋒」が固定されているのがおもしろい。

武陵の蛮夷が反乱し、城邑を攻守したから、黄蓋が武陵太守を領した。ときに郡兵は5百人ばかり、蛮夷に敵わぬから、城門を開き、賊の半数が入ってから(分断して)これを撃った。数百を斬首し、のこりは逃げて、邑落に帰った。魁帥だけを斬り、のこりは赦した。春から夏までで、寇乱をすべて平らげた。

何焯はいう。自軍は整い、敵軍は乱れていた。訓練された軍で、烏合の衆を撃ったから、このような奇策ができたのだ。
ぼくは思う。武陵の蛮夷といえば、蜀の馬良の統治を思い出すが、劉備・孫権が荊州で混在する時期、黄蓋が武陵の秩序を守ったこともあった。呉としては、武陵を蜀に奪われたら、おもしろくない。

巴・醴・由・誕の邑侯・君長は、みな態度をかえて黄蓋に礼を奉じて会いにきて、ついに郡境はおちついた。

潘眉はいう。巴・醴とは、巴陵・醴墓のことで、由・誕は未詳。 趙一清はいう。巴・醴・由(油)・誕は、いずれも川の名前。由は油水で、誕は澹水のこと。
「王仲宣(王粲)が士孫文始(士孫萌、士孫端の子)に贈るの詩」に、「悠々たる澹・灃」とでてくる。

のちに長沙の益陽県が山賊に攻められたから、黄蓋が平討した。偏将軍を加えられ、在職のまま病没した。

蓋、當官決斷、事無留滯、國人思之。及權踐阼、追論其功、賜子柄、爵關內侯。
吳書曰。又圖畫蓋形、四時祠祭。

黄蓋は、職務にあたって決断でき、仕事が滞留せず、国人(被統治者)から慕われた。孫権が践祚すると、功績を追って論じ、子の黄柄を関内侯とした。
『呉書』によると(被統治者は)黄蓋のすがたを描いて、四時に祠祭した。

おわりに

黄蓋伝は、『後漢書』の列伝の末尾にありそうな「すぐれた地方官」としての結末。領民にしたわれた為政者として、祭られた。赤壁で火攻を唱えたことが強調されがちだが、火攻だけの一発屋ではない。
曹操は、黄蓋の降伏を聞いたとき、人となりを調査しただろう。「後漢の典型的な官人」である黄蓋だから、信じたのでは。血筋・名声が、説得力をもった。もしも、孫堅・孫策と密着した、純粋な武将!だとしたら、無視されたかも知れない。
王朗が孫策に追われて曹操に帰したように、黄蓋が孫権を離れて曹操に帰すことも、リアリティがあった。まだ「孫権の臣」「呉の武将」ではなく、職務の都合や、行きがかりによって、揚州にいるだけで、漢土を移動するのが普通である、、という時期である。王朗や華歆、劉曄の動きと同じで、揚州に居づらくなったら、曹操(というか後漢)に帰するという。もっと言えば、曹操は、孫権がこのように中央に戻ることを予期していたかも知れず、それは現実的なこと。
赤壁以後、「孫権の臣」「呉の武将」が固定化されていく。160609

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敢死・解煩をひきいた韓当伝

韓当が孫堅に仕える

韓當、字義公、遼西令支人也。以便弓馬有膂力、幸於孫堅、從征伐周旋、數犯危難、陷敵擒虜、爲別部司馬。

韓当は、あざなを義公という。遼西の令支のひと。

遼西の令支は、『魏志』公孫瓚伝にみえる。

弓馬がうまく膂力があり、孫堅のもとにゆく。

経緯がいっさい不明。おなじ北方の出身でも、程普は州郡の吏となったが、韓当はちがう。霊帝末~何進期に、各地で募兵が盛んに行われた。そのなかに韓当がいたのかも知れない。家柄の裏づけがなく、兵卒として移動したのかも。
史料に、中央にいく明確な理由がないということは、ぎゃくに想像し放題ということ。時代が風雲急を告げるのを感じとり、「遼西にいてもダメだ!」と主体的に動いた物語を設定しても、不当なことではない。

きびしい戦いをくぐり、別部司馬となる。

吳書曰。當勤苦有功、以軍旅陪隸、分於英豪、故爵位不加。終於堅世、爲別部司馬。

『呉書』はいう。韓当は苦難に勤めて功績があるが、軍旅の陪隸(従卒?)であるから、英豪に分けられ(あちこちに配属せられ)爵位は加えられず。孫堅の時代をつうじ、別部司馬になった。

官本『考証』はいう。「英豪に分かれ」を「英豪に介し」か。
ぼくは思う。さっき読んだ黄蓋伝でも、黄蓋は孫堅の時代に、別部司馬になった。在地豪族の黄蓋と同じランクを得たのだから、冷遇とはいえまい。むしろ、「孫堅によって兵士のなかから特別に見出された」と考えるべきか。もしくは、黄蓋は政治家キャラで、戦場の功績はうすい。「家柄はあるが戦功がない黄蓋と、家柄はないが戦功がある韓当がならぶ」ほど、孫堅集団は『格差』が少なかった。軍功がフェアに評価される。
袁術の部将に過ぎない孫堅が、独自に爵位をバラまくことはない。「爵位を加へず」から、韓当は不遇だった、と解釈するのはミスリードである。


韓当が孫策に仕える

及孫策東渡、從討三郡、遷先登校尉、授兵二千騎五十匹。從征劉勳、破黃祖、

孫策が東渡すると、三郡の討伐に従い、先登校尉となり、兵2千・騎50匹を授けられた。

先登校尉は、定員1名、呉がおくと。つまり即興で発案された肩書。歴史的な経緯などがなく、「まっ先に城壁を登る」という韓当の行動を表したもの。
孫策が、兵2千・騎50匹を授けるのは、程普・韓当・呂範である。韓当は、程普・呂範と同じくらいの功績があった。程普から見れば、「故郷が近く、出身階層は自分のほうが上なのに、韓当に追いつかれた」となる。
列伝はすごくアッサリしているが、これは他のひとと同所で行動し、列伝の記載が重複するからであり、孫策の主な戦いで「先に登る」功績をあげまくった。

劉勲・黄祖を征伐するのに従い、

韓当が孫権に仕える

還討鄱陽、領樂安長、山越畏服。後以中郎將與周瑜等、拒破曹公、又與呂蒙襲取南郡、遷偏將軍、領永昌太守。宜都之役、與陸遜朱然等、共攻蜀軍於涿鄉、大破之、徙威烈將軍、封都亭侯。曹真攻南郡、當保東南。

もどって鄱陽を討った。楽安長を領すると、山越は畏服した。

鄱陽・楽安は、どちらも孫権伝の建安八年に見える。
孫権伝に、「建安四年、從策征廬江太守劉勳。勳破、進討黃祖於沙羡」とあり、「八年權、西伐黃祖。破其舟軍、惟城未克、而山寇、復動。還過豫章、使呂範平鄱陽會稽、程普討樂安、太史慈領海昏。韓當、周泰、呂蒙等、爲劇縣令長」とある。
ぼくは思う。韓当伝で、劉勲・黄祖を討ったのは、建安四年に孫策に従って。つぎに鄱陽鄱陽・楽安を討つのは、建安八年に孫権に従って。韓当伝が、ひと続きに書くが、年表が縮減されている。孫権伝では、程普が楽安を討ったこと、韓当が令長になったことが記されるが、韓当が楽安長になったことは分からない。いじわる。

のちに(建安十三年)中郎將の周瑜らと曹操を(赤壁で)拒ぎ破った。(建安十四年)呂蒙とともに南郡を襲い取り、偏將軍に移り、永昌太守を領す。

永昌郡は、『蜀志』後主伝 建興三年にみえる。
銭大昭はいう。永昌郡は益州なので、けだし遙領である。したに冠軍太守を領すとあるが、冠軍は南陽に属して、孫権はここを領していない。
ぼくは思う。永昌は益州の西南のすみ。あえて非現実的な地名にしたのはなぜか。益州を併呑する心意気を示したか。もしくは逆に、永昌郡は、劉璋の勢力圏でもなさそうだから(成都の政権が永昌まで支配するのは、蜀漢期を待たねばならない)劉璋に配慮したか。または、「韓当は太守にすべき功績があるが、任ずるべき土地が足りない」という問題がすでにあったか。でも韓当は、兵士あがりなので、程普・黄蓋のように政治はできないだろう。「太守なみの功績があるが、太守の実務を任せられない」ということか。ともあれ、不思議な人事である。

宜都の役で、陸遜・朱然らとともに、蜀軍を涿郷で攻めて、おおいに破った。威烈將軍にうつり、都亭侯に封ぜられた。

宜都郡は夷道を治所とし、『蜀志』先主伝 章武二年に見える。
謝鍾英はいう。涿郷は夷陵県の西にあり、いまの宜昌府の西。
威列将軍は、定員1名で呉が置いた。つまり歴史的な経緯なし。

曹真が南郡を攻めると、韓当は(南郡の城の)東南にとりでした。

なにもしてないのではなく、多くの戦いに出て、さきに列伝がある人々と、行跡が重なったから、このようにアッサリとして「記憶に残らない」ひとになる。


在外爲帥、厲將士同心固守。又、敬望督司、奉遵法令、權善之。黃武二年、封石城侯、遷昭武將軍、領冠軍太守、後又加都督之號。將敢死及解煩兵萬人、討丹楊賊、破之。會病卒、子綜、襲侯領兵。

城外で帥(指揮官)となれば、将士をはげまして心を同じくして固守した。また督司を敬望し、法令を奉遵し、孫権にみとめられた。黄武二年(223) 石城侯に封ぜられ、昭武將軍に遷り、冠軍太守を領した。

石城は、程普伝にみえる。
冠軍は、『魏志』巻二十 曹沖伝にみえる。曹沖伝をみた。
『郡国志』によると、南陽郡に冠軍県がある。『一統志』はいう。冠軍の故城は、河南の南陽府の鄧州の西北40里にある。
ぼくは思う。南陽が孫権の領土でない上に、「冠軍郡」なんてない。曹魏の領土をかってに分割して郡を設けるというのは、ファンタジー。韓当の功績により(横並びで見て)太守の称号を与えたいが、実務を任せるでもない、という複雑な事情か。つぎに「敢死」と「解煩」を率いたという。良くも悪くも軍人!なのだろう。

のちに「都督」の号を加えられた。「敢死」および「解煩」兵の1万人をひきい、丹楊賊を破った。病没し、子の韓綜が、爵位をつぎ、兵を領した。

呉には「解煩督」がいる。銭大昭はいう。解煩兵は、陳表伝にある「無難士」のようなもの。『呉志』巻十二 張温伝に「特以繞帳、帳下、解煩兵五千人付之」とある。陳修が解煩督となる。『呉志』巻十七 胡綜伝に、「立解煩兩部。詳、領左部。綜、領右部督」とある。


孫権がいない首都で反乱:韓綜伝

其年、權征石陽。以綜有憂、使守武昌。而綜、淫亂不軌。權雖以父故不問、綜內懷懼、

その年(韓当が病死した=曹丕が没した226年)孫権は石陽を征した。韓綜は憂があり、武昌を守らされた。

石陽は、孫策伝にみえる。
ちくま訳は「憂」を、韓綜が服喪の期間中なので(後方に留まって)武昌を守ったとする。

しかし韓綜は、淫乱にして軌ならず。孫権は父の功績によって不問にしたが、韓綜は内に懼れをいだいだ。

吳書曰。綜欲叛、恐左右不從、因諷使劫略、示欲饒之、轉相放效、爲行旅大患。後因詐言被詔、以部曲爲寇盜見詰讓、云「將吏以下、當並收治」、又言恐罪自及。左右因曰「惟當去耳。」遂共圖計、以當葬父、盡呼親戚姑姊、悉以嫁將吏、所幸婢妾、皆賜與親近、殺牛飲酒歃血、與共盟誓。

『呉書』はいう。韓綜は(孫権の外征中に)叛こうとしたが、左右が従わないことを恐れ、劫略にしむけ、富貴になれることを示した。やり放題になったので、行旅はおおいに患いた。

ぼくは思う。『呉志』で「淫乱」とあり、『呉書』で「劫略」した。なんか人格の破綻者みたいで意味不明だが。
孫権は、曹丕の死に乗じて外征した。韓綜は不在をねらい、呉を滅ぼして魏に差し出そうとしたのでは。内なるクーデター。曹操における魏諷みたいに、首都を征圧して、孫権から帰る場所を奪おうとした。
功臣の韓当の子がクーデターをするのは、恰好がわるい。孫権が韓綜を赦したから、なお真相を隠すべきである。だから、狂ったみたいに書かれた。
「叛せんと欲し」とある。韓綜が部下たちに約束した饒(富貴)とは、魏からの褒賞であり、魏での悠々自適な生活である。国を移ることを、経済的な利得に移し替えて、言ったに違いない。

のちに韓綜は詔を受けたと詐り、部曲は寇盜したことを詰譲され、「将吏より以下、みな逮捕される」といった。左右は「呉を去るしかない」といった。ついに韓綜は、計画を実行した。韓当の葬儀のとき、親戚の姑姉をあつめ、すべて将吏に嫁がせ(姻族として運命共同体となり)寵愛する婢妾を親近する兵士にあたえた。牛を殺して血をすすり、ともに盟誓した。

ぼくは思う。ここまでするのは、やはり「呉を魏に差し出す」計画である。
韓当は、政治・思想に関わらず、特殊部隊をひきいた。特殊部隊は、上意下達が徹底され、命令次第でなんでもする。誰にとっても危険な核兵器みたいなもの。韓綜が、なぜ呉への反乱を思ったか分からない。父の死によって圧倒的な力を得たタイミングと、孫権が不在にしたタイミングが重なり、万能感が湧いてきたのだろう。親族・自分の女性をバラまくとは、まさに建国レベルの大事業をやろうとする者の振る舞い。
明帝紀によると、曹叡は「どうせすぐ孫権は撤退する」と予見し、それがヒットする。曹丕といい曹叡といい、安楽椅子で戦いを推測するのが好きである。孫権が退いたのは、韓綜が原因だったらおもしろい。よりによって留守を任せたひとが反乱するなんて。
さらに進んで「曹叡と韓綜に密約があった」とすると、話がつまらなくなるから、小説だとしても不可。韓綜が、身の回りおよび天下の情勢をみて「いまだ」と踏み切ったと考えたほうが、リアルに近かろうし、小説としてもおもしろい。


載父喪、將母家屬部曲男女數千人、奔魏。魏、以爲將軍、封廣陽侯。數犯邊境、殺害人民、權常切齒。東興之役、綜爲前鋒、軍敗身死。諸葛恪、斬送其首、以白權廟。

(クーデターが未遂で、孫権から赦されたが)韓綜は父の遺体をのせ、母や家属・部曲の男女 数千人をひきい、魏にはしった。魏では将軍・廣陽侯となった。

広陽は、『魏志』荀彧伝にみえる。
潘眉はいう。広陽は、晋代の県名である。陵陽侯とすべき。東晋の咸康四年(338) 杜皇后の諱をはばかり、県名をかえた。魏では韓綜を陵陽侯とし、呉では周泰を陵陽侯とした。
盧弼はいう。幽州の広陽郡の広陽である。魏代は燕国に属した。『陳志』荀彧伝に「惲子甝,嗣為散騎常侍,進爵廣陽鄉侯,年三十薨」とある。(荀惲の子の)荀甝が、広陽郷侯に封じられており、漢魏にも広陽はある。潘眉は誤り。
ぼくは思う。韓当は幽州のひと。降伏したことを「評価」され、故郷のそばに爵土をもらうのは、劉禅と同じ。

韓綜は(魏将として)しばしば呉の国境をおかし、呉の人民を殺害した。孫権はつねに切歯した。東興の役(252) で、韓綜は前鋒となり、軍が敗れて戦死した。諸葛恪は、首を斬って送り、孫権の廟に報告した。160610

ぼくは思う。韓当のときは、表面化しなかったが、韓綜の代にいたって、「韓当集団」が、兵士・領民を大量にもち、呉を滅ぼせるほどの一大勢力だったことが分かる。韓当が単身で孫堅に仕え、将軍としては目立たなかったが、体制内にもう一つの「国」をつくった韓当。目立たないからこそ、すごさが分かる。
孫堅の代に仕えた、程普・黄蓋などは、赤壁後に失速する。しかし韓当は、曹真をふせぐなど、活躍期間がもっとも長い。このあたりも、韓当の隠れたスゴミである。

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宣城に屯し徐盛を認める:蒋欽伝

蒋欽が孫策に仕える

蔣欽、字公奕、九江壽春人也。孫策之襲袁術、欽隨從給事。及策東渡、拜別部司馬、授兵。與策周旋、平定三郡、又從定豫章。調授葛陽尉、歷三縣長、討平盜賊、遷西部都尉。

蒋欽は、あざなは公奕、九江の寿春のひと。孫策が袁術を襲うと、蒋欽は孫策に随従して給事した。

盧明楷はいう。孫策伝によると、袁術が僭号したら孫策が文書で絶交するが、袁術を襲ったことはない。誤りだろう。
趙一清はいう。何焯は「李術を襲うと」に改めるべきというが、それもおかしい。孫権伝にひく『江表伝』によると、孫策は李術を廬江太守にした(李術が孫氏と対立するのは、孫策の死後である)。李術でもない。
ぼくは思う。『呉志』巻十で、はじめて呉地のひと。当然だが、孫堅の代から仕えたひとは、孫堅が呉郡を領したことがないので、呉郡の外が出身。蒋欽伝は、孫策を主軸に書いて不自然になったが、「袁術が寿春に入ると」蒋欽は、袁術集団に加わったのだろう。現地で募兵され、孫策と知り合ったとか。陳寿もしくは筆写者は、袁術と孫策の関係がよく分からなくなって、意識的もしくは無意識に「孫策が袁術を襲うと」と書いてしまった。筆写者がおのれの良識に基づいて書き換え、かえって孫策伝・袁術伝と矛盾したとしたら、根が深くておもしろい。

孫策が東渡すると、別部司馬となり、兵を授かった。

ぼくは思う。黄蓋・韓当は、孫堅とともに戦い、別部司馬となった。孫策も独自の動きをはじめて、蒋欽を別部司馬とした。孫堅・孫策と別れて部隊をひきいるのが別部司馬か。官職というより戦場での役割。
『古今刀剣録』曰く、蒋欽は別部司馬を拝し、一刀を造り『司馬』と隷書で刻む。

孫策とともに周旋し、3郡を平定し、また従って豫章を平定した。葛陽尉となり、

趙一清はいう。『宋書』州郡志によると、葛陽は、呉が立て、鄱陽内史に属した。洪亮吉はいう。活用は、呉が余干の東界を分けて立てた。
謝鍾英はいう。『寰宇記』によると建安十五年に置かれ、弋陽県のこととするが、いま蒋欽伝で孫策期の(興平元年にあたる記事)に「葛陽尉」と見えるから、「建安十五年」は誤りである。

3県長をへて、盜賊を討平し、(会稽)西部都尉にうつる。

盧弼はいう。どこの郡の西部都尉か記さないが、つぎに冶県の賊を討つから、会稽西部都尉である。『呉志』巻十五 賀斉伝に、郡名ぬきで「南部都尉」とだけある。
『漢書』地理志によると、会稽郡の銭唐は、会稽西部都尉の治所である。のちに漢は会稽を分けて呉郡を置いた。程普伝によると、程普は呉郡都尉となると、銭唐を治所とした。
『宋書』州郡志によると、会稽太守は秦がおき呉県を治所とした。後漢の順帝の永建四年、会稽をわけて呉郡を置き、会稽の治所は山陰にうつした。東陽太守は、もとは会稽西部都尉であり、孫晧の宝鼎元年に東陽郡となった。


會稽冶賊、呂合、秦狼等爲亂、欽將兵討擊、遂禽合狼、五縣平定、徙討越中郎將。以經拘、昭陽、爲奉邑。

会稽の冶県の賊である、呂合・秦狼らが乱をなし、蒋欽はこれを撃って、呂合・秦狼をとらえ、5県を平定した。討越中郎將にうつる。

何焯はいう。東冶県である。呂岱伝にも東冶県がある。
討越中郎将は、定員1名、呉が置き、山越を討つ。←情報ふえてない

經拘・昭陽を奉邑とした。

銭大昕はいう。呉将の食邑は、県単位である。孫皎は沙羨・雲杜・南新市・竟陵。孫韶は曲阿・丹徒。呂蒙は下雋・劉陽・漢昌・州陵。徐盛は臨白。朱治は婁県・由拳・無錫・毗陵。呂範は彭沢・柴桑・歴陽から、リツ陽・懐安・寧国など。經拘・昭陽は、漢代の県ではない。『宋志』邵陵郡に邵陽県があり、呉が立てて「昭陽」県ともいい、蒋欽の食邑であったと。經拘は未詳。
趙一清はいう。『方輿紀要』巻八十一によると、後漢の昭陵県をわけて昭陽県が立てられ、零陵郡に属す。趙一清が考えるに、 経拘とは、『晋書』『宋書』に見えない。誤りか。けだし蒋欽が宣城に屯したから、子の蒋壱は宣城侯となった。その食邑は(地理的に近い)丹陽郡にあるだろう。零陵郡ではあるまい。漢の丹陽郡に涇県・句容がある(県名を略称で並記したか)あるいは、経拘・昭陽というのは郷亭の名か。したに「蕪湖の田を妻子に給した」とあるが、侯爵に封じるなら県単位を奉邑とする。蒋欽伝で、蒋欽は侯爵に封じられない(蕪湖は県なので「蕪湖侯」としても良さそうなのに)。あるいは史書が、封爵を書きもらしたか。
盧弼はいう。奉邑については周瑜伝に解あり。


蒋欽が孫権に仕える

賀齊討黟賊、欽督萬兵、與齊幷力、黟賊平定。從征合肥、魏將張遼襲權於津北、欽力戰有功、遷盪寇將軍、領濡須督。後召還都、拜津右護軍、典領辭訟。

(建安十三年)賀斉が黟の賊を討つと、蒋欽は1万の兵を督し、賀斉と力を合わせて、黟の賊を平定した。

黟は、孫策伝にみえる。賀斉が黟を討ったのは、孫権伝の建安十三年に見える。

(建安二十年)合肥を征め、張遼が孫権を(逍遙)津北で襲った。蒋欽は力戦して功績があり、盪寇將軍にうつり、濡須督を領した。

盧弼はいう。長江に瀕した要地には、督を置く。

のちに都にもどり、津右護軍を領し、辞訟を典領した。

盧弼はいう。「津右護軍」は「右護軍」とすべきか。呉には中護軍・左護軍・右護軍がおり、それぞれ1名ずつ。


權嘗入其堂內、母疎帳縹被、妻妾布裙。權歎其在貴守約、卽敕御府、爲母作錦被、改易帷帳、妻妾衣服悉皆錦繡。

かつて孫権が(蒋欽の)堂内に入ると、母と妻妾の衣住が質素である。孫権はその倹約ぶりを歎き、すぐに御府に敕し、母に錦被を与えて帷帳をかえさせ、妻妾の衣服を錦繡にした。

孫権は「蒋欽は富貴・栄顕であるが、節を折って学を好む」という。呂蒙伝にひく『江表伝』に見える。
蒋欽が、母や妻妾に倹約させているのは「貧しいから」ではない。儒家のいう規範意識にそった行動だろう。貧しさを見て孫権は「真に受けて」、代わりの高級品を与えた。しかし孫権も、アホではない。「貧しい生活をさせて、ごめんね」というポーズである。ただし根底には「蒋欽のご機嫌をとりたい」という動機がありそう。多少、すべっても。


◆徐盛との和解

初、欽屯宣城。嘗討、豫章賊。蕪湖令徐盛、收欽屯吏、表斬之。權、以欽在遠、不許。盛、由是、自嫌於欽。曹公出濡須、欽與呂蒙持諸軍節度。盛、常畏欽因事害己、而欽每稱其善。盛、既服德、論者美焉。

はじめ蒋欽は宣城に屯し、豫章の賊を討った。蕪湖令の徐盛は、

宣城は孫権伝に、蕪湖は太史慈伝にみえる。
ぼくは思う。「初」とある。時期が分かりにくいが、濡須の戦いが、建安十八年と、建安二十一年の2回。つぎに(おそらく)建安二十一年の戦いの話があるから、これより前か。徐盛伝で、かれが蕪湖令になる時期と、整合性をとらねば。

蒋欽の屯吏をとらえ、上表して斬れとした。孫権は、蒋欽が遠くにいるから許さず。これにより徐盛は、蒋欽を嫌った。曹操が濡須に出ると、蒋欽は呂蒙とともに諸軍の節度を持した。つねに徐盛は(上表のことで)蒋欽から危害を受けることを畏れた。しかし蒋欽は、いつも徐盛の善を称した。

孫権のほうが「空気を読みすぎ」て、その場にいない蒋欽を「臨場的に把握」して「蒋欽軍」を保全した。しかし蒋欽は、そんなことを望まず、たとえ配下でも、罪があれば斬られるべきと考えた。
領土の特性上、各地で反乱が起きるから、武将たちは散在しがち。互いに交渉が薄いが、ときに管轄する範囲が接近・重複すると、「徐盛が蒋欽の配下を告発する」ようなことが起こる。これを調整するのが孫権の役目。君主権力なんて確立している場合ではない。
さもなくば「曹操が烏林にきた!」「曹操が濡須にきた!」といった、久々に武将が集中するとき、摩擦が起こって軍として機能しない。甘寧・凌統のように「セットで使えない」という組み合わせが、どんどん複雑となる。
武将が散在するがゆえに「利害・名誉が対立しがちな、独立業者の集合体」である呉軍において、蒋欽のように、きっちりした規範意識をもち、利害・名誉よりも国家秩序を優先したひとがいると、全体がひきしまる。孫権の「空気読み」をかるく上回った、蒋欽の規範意識はすごい。

徐盛は、蒋欽の徳に服し、論者もこれをたたえた。

江表傳曰。權謂欽曰「盛前白卿、卿今舉盛、欲慕祁奚邪?」欽對曰「臣聞公舉不挾私怨、盛忠而勤彊、有膽略器用、好萬人督也。今大事未定、臣當助國求才、豈敢挾私恨以蔽賢乎!」權嘉之。

『江表伝』はいう。孫権は蒋欽にいった。「まえに徐盛はあなたを告発したが、あなたは徐盛を評価した。祁奚を慕うのか」

祁奚のことは呂蒙伝にみえる。沈家本はいう。呂蒙伝でも孫権は同じことをいう。ひとつの史実が伝わって、呂蒙・蒋欽の話になったのだろう。
ぼくは思う。『江表伝』は、それっぽい台詞を見てきたように付加しているだけ。

蒋欽「公のためには私怨を挟みません。徐盛は忠にして勤彊であり、膽略・器用があり、万人督がつとまる。大事が定まらず、国を助けて才を求めます。どうして私恨により賢者をさまたげるか」と。

はいはい、定型文、定型文。


関羽をかこんで病没する

權、討關羽。欽、督水軍、入沔、還、道病卒。權素服舉哀、以蕪湖民二百戶田二百頃、給欽妻子。子壹、封宣城侯、領兵拒劉備有功。還、赴南郡、與魏交戰、臨陳卒。壹無子、弟休領兵、後有罪失業。

孫権が関羽を討つと、蒋欽は水軍を督し、沔水に入った。

関羽の包囲網を描くときに、凌統の名と位置も忘れずに。満田先生の『群雄勢力マップ』に記載がないから、忘れないように要注意。
呉の蒋欽は、沔水で水軍を督して、関羽を包囲する一部をなした。帰り道に病没した。呂蒙・曹操と同じく「関羽の呪いで、道づれにされた」と描くことができる。

帰路に、道中で病没した。
孫権は素服して哀を挙げ、蕪湖の民を2百戸・田を2百頃、蒋欽の妻子に給した。

妻子が生活できないほど、蒋欽は資産がなかったか。寿春の出身で、このとき故郷は曹操が領しているから「在地豪族」という利点は失っている。

子の蒋壱は宣城侯に封ぜられ、兵を領して劉備をふせぎ功績があった。もどって南郡に赴き、魏と交戦し、戦陣に臨んで卒した。蒋壱に子がなく、弟の蒋休が兵を領し、のちに罪があって業を失った。160611

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傷を数えて濡須を督する:周泰伝

周泰が孫策に仕える

周泰、字幼平、九江下蔡人也。與蔣欽隨孫策爲左右、服事恭敬、數戰有功。策入會稽、署別部司馬、授兵。

周泰は、あざなは幼平、九江の下蔡のひと。蒋欽とともに孫策に随って左右となり、孫策に服事・恭敬し、しばしば戦功あり。孫策が会稽に入ると(東渡すると)別部司馬を署し、兵を授けらる。

下蔡は『魏志』蒋済伝にみえる。
ぼくは思う。孫策に仕えたのも、孫策の東渡(会稽いり)で別部司馬になったのも、蒋欽と同じ時期。蒋欽と周泰はペアとして認識すると、物語が駆動する。


周泰が孫権に仕える

權、愛其爲人、請、以自給。策討六縣山賊、權住宣城、使士自衞、不能千人。意尚忽略、不治圍落、而山賊數千人、卒至。權始得上馬、而賊鋒刃已交於左右、或斫中馬鞍、衆莫能自定。惟泰奮激、投身衞權、膽氣倍人、左右、由泰、並能就戰。賊既解散、身被十二創、良久乃蘇。是日、無泰、權幾危殆。策深德之、補春穀長。後從攻皖、及討江夏、還過豫章、復補宜春長、所在皆、食其征賦。

孫権は、周泰の人となりを愛し、孫策に頼んで自分につけてもらった。孫策は6県の山賊を討つと、孫権は宣城にとどまり、士に自衛させたが、1千人もいない。警戒が充分でないところに、にわかに山賊が数千人きた。孫権は馬上にいたが、賊の鋒がすでに左右に交わし、馬鞍にあたって切った。孫権軍は混乱した。周泰は憤激し、身をもって孫権を衛り、胆気はひとに倍した。左右は周泰を見て、戦いに就けた。賊が解散すると、身にはキズが12あり、久しくして蘇生した。この日、周泰がおらねば、孫権は死ぬところ。孫策は深く徳とし、春穀長とした。

春穀は周瑜伝にあり。
したに地図を載せる。宣城は、孫権が孫策の留守をつとめて賊に襲われたところ。孫権を救った周泰は、春穀長となる。この宣城は、のちに蒋欽が屯して、蕪湖令の徐盛に部下を告発されたところ(上述 蒋欽伝)。いずれも隣接している。




後從攻皖、及討江夏、還過豫章、復補宜春長、所在皆、食其征賦。從討黃祖、有功。後、與周瑜程普、拒曹公於赤壁、攻曹仁於南郡。荊州平定、將兵屯岑。

のちに従って皖城を攻め、江夏を討った。(建安八年)もどって豫章を過ぎると、また宜春長に補され、赴任した県で征賦(軍用の税収?)を食んだ。

「還過豫章」は、孫権伝・程普伝に見える。いちど荊州まで進出し、戻ってきて地方長官を編成しなおす。孫策を継いだばかりの孫権にとって、建安八年(203) は重要な区切りとなりそう。皖・宜春はいずれも孫堅伝にあり。

(建安十三年)黄祖を討つのに従い、功績あり。のちに周瑜・程普とともに曹操を赤壁に拒ぎ、曹仁を南郡に攻めた。(建安十四年)荊州を平定すると、兵をひきい岑に屯した。

『水経』灃水注によると、涔水は作唐県の西南の天門郡界から出て、南に流れて涔坪屯をとおる。「涔坪屯」とは、屯戌の名であろう。いまの澧州の東北である。周泰伝は「涔坪に屯した」とすべきか。
後漢の区画でいうと、武陵郡に属する。孫権が荊州に進んで、最前線に周泰が置かれた。すぐに劉備とぶつかるから、駐屯を続けるのは難しそう。建安十五年、劉備に荊州を都督させる。建安二十年、呉蜀で境界線をひきなおす。この5年間、周泰が武陵郡のなかに居座ったのか。列伝に記述がなく、分からない。
ぼくが思うに、「孫権は人材を空費しない」&「列伝は変化点をモレなく記す」という前提をおけば、建安十五年、劉備に公安を与えて以降も、呉将が荊州に駐屯していたか。劉備集団・孫権集団の境界線は(人的にも地理的にも)明確でない。建安二十年に、荊州の西部から呉将を締め出し、混在が解消され、孫権と劉備は「敵国」となった。孫権は荊州の西部から(周泰のような)武将を撤退させることができ、合肥に投入できた。こう考えれば、境界線の確定は、孫権にもメリットがある。防衛ラインが短くなり、人材に余裕が生まれる。


曹公出濡須、泰復赴擊、曹公退、留督濡須、拜平虜將軍。

(建安二十一年)曹操が濡須に出ると、周泰は赴いて撃つ。曹操が退くと、留まって濡須を督し、

呉主伝で、建安二十年、関羽と一触即発になり、つぎに合肥を攻める。蒋欽伝では、(建安二十年)合肥で張遼に襲われたのち、盪寇將軍にうつり、濡須督を領し、つぎに都に戻る。つまり建安二十年の合肥の戦いのあと蒋欽が濡須を督し、翌年の濡須の戦いのあと周泰が濡須に督したか。つくづく、蒋欽と周泰はペアである。

平虜將軍を拝す。

『刀剣録』はいう。周泰が曹操に勝ち、平虜将軍となり、一刀を造った。刀身の背に銘して「幼平」と。
胡三省が「平虜将軍は、けだし呉が初めて置く」とするが、盧弼によれば、漢に「平虜将軍の劉勲」がおり、『魏志』武帝紀 建安十八年の注釈に見える。呉が初めてではない。


◆徐盛との和解

時、朱然徐盛等、皆在所部、並不伏也。權、特爲案行、至濡須塢、因會諸將、大爲酣樂。權自行酒、到泰前、命泰解衣。權、手自指其創痕、問以所起。泰、輒記昔戰鬭處以對、畢、使復服。歡讌、極夜。其明日、遣使者授以御蓋。於是、盛等乃伏。

ときに朱然・徐盛らが、周泰の部す所となるが、どちらも伏せず。特別に孫権は濡須にゆき、諸将をあつめ、おおいに酣樂した。孫権は酒をついで、周泰のまえで「衣を解け」と命じた。キズあとを指さしながら、由来を聞いた。周泰は、むかしの戦闘で負傷したときのことを答えた。終わると衣を着せた。酒席は終夜つづく。翌日(孫権は)周泰に御蓋を授けた。これにより、朱然・徐盛らは、周泰に伏した。

江表傳曰。權把其臂、因流涕交連、字之曰「幼平、卿爲孤兄弟戰如熊虎、不惜軀命、被創數十、膚如刻畫、孤亦何心不待卿以骨肉之恩、委卿以兵馬之重乎!卿吳之功臣、孤當與卿同榮辱、等休戚。幼平意快爲之、勿以寒門自退也。」卽敕以己常所用御幘青縑蓋賜之。坐罷、住駕、使泰以兵馬導從出、鳴鼓角作鼓吹。

『江表伝』は、孫権が周泰のために「あなたのキズを数えましょう」をしたときのことを、見てきたようにアレンジする。「周泰は寒門の出身だが、朱然・徐盛をはばかることはない」と励まして、孫権の御幘と青い縑蓋をあたえた。周泰に兵馬をひきいさせ、鼓角を鳴らし鼓吹を作した。

鼓吹については、『蜀志』劉封伝にある。
蒋欽と周泰は、同時に孫策に仕えて、同時に別部司馬となった。徐盛と対立するところまで、蒋欽と周泰は経歴が同じである。ただし、呉将のあいだの緊張関係は、蒋欽と徐盛に限ったことではない。
孫権は、蒋欽には気を使っていたが(徐盛による部下の告発を見送るなど)、周泰には気を使わない。ひとり周泰のみが孫権に近く、孫権が気を使っていない。徐盛・朱然による違和感を押し切って、周泰に指揮権を与え、それをアピールすることが、君主権力の伸張とイコールとなる。孫権の「孤立」ぶりがきわだつ。


後權破關羽、欲進圖蜀、拜泰漢中太守、奮威將軍、封陵陽侯。黃武中卒。
子邵、以騎都尉領兵。曹仁出濡須、戰有功、又從攻破曹休、進位裨將軍、黃龍二年卒。弟承、領兵襲侯。

のちに孫権が関羽を破ると、蜀をねらって、周泰を漢中太守・奮威将軍とした。陵陽侯に封じた。黄武期に卒した。160612

趙一清はいう。漢中太守は遙領である。ぼくは思う。「周泰を漢中太守から剥がした」と見えない。呉蜀が和解するのは、黄武元年から二年。周泰は、黄武の初期に死んだのだろう。 陵陽は孫策伝にみえる。

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合肥で戦死した陳武伝

陳武が孫策に仕える

陳武、字子烈、廬江松滋人。孫策在壽春、武往脩謁、時年十八、長七尺七寸。因從渡江、征討有功、拜別部司馬。策破劉勳、多得廬江人、料其精銳、乃以武爲督、所向無前。及權統事、轉督五校。仁厚好施、鄉里遠方客多依託之。尤爲權所親愛、數至其家。累有功勞、進位偏將軍。

陳武は、あざなを子烈といい、廬江の松滋のひと。

『漢書』地理志はいう。廬江に松茲があり、侯国である。
銭大昕はいう。『漢書』では廬江郡に松茲県があり、『続漢志』(『後漢書』郡国志)にない。後漢では県が省かれ、漢末にふたたび置かれたか。

孫策が寿春におり、陳武は行って謁した。ときに陳武は18歳で、身長7尺7寸。

『太平御覧』巻四百四十六にひく『陳武別伝』に、陳武はときに察する者(推薦してくれる者)がおらず、頓丘の閻遐が軍府に推薦してくれた。あるひとが閻遐に「陳武は軍中のだれと同類か」と聞いた。閻遐「謝道堅は比べるに足らず(陳武が上で)、徐世璋には余りある(陳武が下だ)」と。謝道堅・徐世璋は当時の知名の士である。陳武はこれを聞き、「私を季・孟の間におくのか(ふたりの名士の間に位置づけてくれて光栄だな)」と笑った。
ぼくは思う。陳武が比較された、謝道堅・徐世璋ってだれ??
@GiShinNanBoku さんはいう。おそらく十六国時代の人ですから、特定はかなり難しいと思われます。陳武別伝は他にも記述が残っており、そこで彼の字の決定に石勒・石虎の方針が関わったことが載っています。

孫策に従って渡河し、功績により別部司馬となる。

別部司馬のバーゲンセール。孫堅・孫策のときは、国というより「軍」と集団が同義なので、このような官職に与え方になる。

孫策が劉勲をやぶると、おおく廬江のひとを得た。精鋭をえらび(同郷の)陳武を督とし、向かうところ敵なし。

陳武が孫権に仕える

及權統事、轉督五校。仁厚好施、鄉里遠方客多依託之。尤爲權所親愛、數至其家。累有功勞、進位偏將軍。建安二十年、從擊合肥、奮命戰死。權哀之、自臨其葬。

孫権が統事すると、督五校に転ずる。

『続百官志』はいう。北軍中候は、五営を掌監すると。すなわち、屯騎・越騎・歩兵・長水・射声の五校尉である。劉昭は注し、大駕・鹵簿(皇帝の行列)で、五校は前にあり、それぞれ鼓吹一部があった。
盧弼はいう。このとき孫権は皇帝ではない。『続百官志』にいう五営ではなく、「無難督」「解煩督」のような部隊5つを、陳武が督したとみるべき。

仁厚で施しを好み、郷里・遠方からの客は、おおく陳武に依託した。とくに孫権に親愛され、しばしば家にきた。功労をかさね、偏将軍に進んだ。

孫権が、個人的に親愛したというのは、周泰につづいて、『呉志』巻十でふたりめ。孫権は、①孫堅でなく孫策に仕えた(世代が近くて頼れそうな)、②兵として出発した(文化資本の乏しい)、③戦場で勇敢なひと(孫権の身代わりに戦死するようなタイプ)を愛する。この3つの条件を備えれば、あまり気を使う必要がない。孫権は、キラクでシンプルな人間関係を好むようです。

建安二十年、合肥で命を奮って戦死した。孫権は哀しみ、葬に臨んだ。

江表傳曰。權命以其愛妾殉葬、復客二百家。
孫盛曰。昔三良從穆、秦師以之不征。魏妾既出、杜回以之僵仆。禍福之報、如此之效也。權仗計任術、以生從死、世祚之促、不亦宜乎!

『江表伝』はいう。孫権は陳武の愛妾に命じて葬に殉ぜしめた。客2百家(に租税を)を復した。
孫盛はいう。むかし(『左伝』文公六年)3名の賢者が秦穆公に殉じると、秦は(人材不足となり)遠征できなくなった(殉死して国を弱めた)。(『左伝』宣公十五年)魏武子の妾が(夫に殉ぜず)再婚し、魏が秦に勝った(殉死せず国を救った)。殉死にまつわる禍福の報いは、このように表れる。孫権は、陳武の愛妾に殉死させ、国の命運を衰退させた。

孫盛はいずれも「殉死は国にとって害をなす」という例をひく。「殉死が、吉と出れば、凶と出ることもある」というクールな態度ではない。きっちり殉死に反対している。


子脩。有武風、年十九、權召見、奬厲、拜別部司馬、授兵五百人。時、諸新兵多有逃叛、而脩撫循得意、不失一人。權奇之、拜爲校尉。建安末、追錄功臣後、封脩都亭侯、爲解煩督。黃龍元年卒。

子は陳脩。陳武の風があり、19歳のとき孫権に召見し、別部司馬となり、兵5百を授かる。ときに新兵は逃叛するものが多いが、陳脩が撫循して意を得たので、1人も失わず。孫権はこれを奇として、校尉とした。建安末、功臣の子孫に爵位をあたえ、陳脩は都亭侯となり、解煩督となる。黄龍元年に卒した。

韓当伝に解煩兵があり、解煩督がひきいる。
韓当よりも、陳脩の死のほうが早い。「韓当の死後、陳脩がそれを引き継いだ」のではない。同名の部隊があったとか、そのたびに督が異なるとかで、「私兵集団の固有名詞」ではない。


陳表伝

陳表(陳武の庶子、陳脩の庶弟)については、後日。160612

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濡須で船とともに沈んだ董襲伝

董襲が孫策に仕える

董襲、字元代、會稽餘姚人、長八尺、武力過人。
謝承後漢書稱襲志節慷慨、武毅英烈。

董襲は、あざなを元代といい、会稽の余姚のひと。身長8尺、武力は人に過ぐ。
謝承『後漢書』は董襲を「志節は慷慨、武毅は英烈たり」とする。

余姚は孫策伝にみえる。
ぼくは思う。謝承があえて董襲の人となりを、やや定型的にほめたのはなぜ? もしくは、陳寿が「定型文だから、イラネ」と省略したが、裴松之が気を利かせて補ったか。


孫策入郡。襲、迎於高遷亭。策、見而偉之、到、署門下賊曹。時、山陰宿賊黃龍羅、周勃、聚黨數千人。策自出討、襲身斬羅勃首、還拜別部司馬、授兵數千、遷揚武都尉。從策攻皖、又討劉勳於尋陽、伐黃祖於江夏。

孫策が会稽郡に入ると、董襲は高遷亭で迎えた。孫策は董襲をみて偉とし、門下賊曹に署した。

高遷亭は、孫静伝にみえる。

ときに山陰県(会稽郡)の宿賊である黄龍羅・周勃は、数千人の党をあつめる。孫策は自ら出で討ち、董襲は黄龍羅・周勃の首を斬り、もどって別部司馬となり、兵数千を授けられた。

銭大昭は「周」は衍字というが、盧弼はそれは違うという。ぼくは思う。黄龍羅は、黒山賊がつかったような、勇ましい仮名だろうか。漢魏革命にもっとも近い男。
また別部司馬。孫策のもとには、別部司馬がつぎつぎ誕生する。

揚武都尉に遷る。董襲は、孫策に従って皖城を攻め、尋陽で劉勲を撃ち、江夏で黄祖を伐つ。

揚武都尉は、定員1名、呉が置く。
董襲は孫策とはぐれることなく、ぴたりと同じ戦いに参加したのだ。


董襲が孫権に仕える

策薨、權年少、初統事。太妃憂之、引見張昭及襲等、問、江東可保安否、襲對曰「江東地勢、有山川之固。而討逆明府、恩德在民。討虜承基、大小用命、張昭秉衆事、襲等爲爪牙。此地利人和之時也、萬無所憂」衆皆壯其言。

孫策が薨ずると、孫権は年少で統事する。呉太妃はこれを憂い、張昭および董襲らに引見し、江東を保安できるか問うた。

張昭と周瑜ではなく、張昭と董昭が頼られる。董襲は(少なくとも呉太妃から見たら)周瑜と同じくらい頼りになる、孫策の右腕だったのか。

「江東の地勢は、山川の固あり。討逆(孫策)は、恩徳を民にほどこした。討虜(孫権)は事業を継承し、大小の官僚は命令に従い、張昭は衆事(政事に関する多くのこと)を執り、董襲らは爪牙となる。地の利・人の和があるから、万事に憂いはない」と。みなその発言を壮とした。

ぼくは思う。爪牙の代表として、董襲は自分を筆頭にあげた。周瑜がいないところで、これを喋ったのだろう。
銭大昭はいう。曹操は孫権を討虜将軍にした。だから孫権をこのように呼ぶ。ぼくは思う。呉太妃が憂いたのは「孫呉政権」「のちの呉王朝」ではなく、当面の孫氏・呉氏の親族集団の行く末か。そして董襲は、曹操に与えられた官位を前提にして、「当面は大丈夫でしょう」と保障した。


鄱陽賊、彭虎等衆數萬人。襲、與淩統、步騭、蔣欽、各別分討。襲所向輒破、虎等望見旌旗、便散走。旬日盡平、拜威越校尉、遷偏將軍。

鄱陽の賊である彭虎らは、衆が数万人。董襲は、凌統・歩隲・蒋欽とともに分かれて討つ。董襲が向かうところは、たちまち破り、彭虎らは董襲の旌旗を望見したら、すぐに散走した。旬日で尽く平らげ、威越校尉となり、偏將軍に遷る。

ぼくは思う。鄱陽の討伐戦は、みんなが参加するけど、董襲ほど強さが強調されるひとは少ない。呉太妃にも頼られているし、とくに董襲は強かったのかも知れない。


建安十三年、權討黃祖。祖、橫兩蒙衝、挾守沔口。以栟閭大紲、繫石爲矴、上有千人、以弩交射、飛矢雨下、軍不得前。襲、與淩統俱爲前部、各將敢死百人、人被兩鎧、乘大舸船、突入蒙衝裏。襲、身以刀斷兩紲、蒙衝乃橫流、大兵遂進。祖、便開門走、兵追斬之。明日大會、權舉觴、屬襲曰「今日之會、斷紲之功也。」

建安十三年、孫権が黄祖を討つ。黄祖は2両の蒙衝を横にならべ、沔口(漢口・夏口)を挾み守る。ロープで船を固定し、船上に1千人がおり、弩で交射し、飛矢は雨のごとく下り、孫権軍は進めない。

趙一清はいう。『方輿紀要』巻七十六に、漢水は東して、大江と大別山の北で合流する。その地を漢口という。山陰の石に2つの穴があり、「鎖穴」とよばれ、黄祖が船を固定するために開けたもの。
盧弼はいう。沔口とは夏口のこと。『魏志』武帝紀 建安十三年・文聘伝にある。

董襲は、凌統とともに前部となり、それぞれ敢死1百人をひきい、2つの鎧を重ね着して、大舸船に乗り、蒙衝の内側に突入した。董襲は、刀をもって(潜水して)ロープを切った。黄祖の蒙衝は、横に流され、孫権の大軍は進めた。黄祖は、開門して走げ、兵は追って斬った。

騎士の馮則は、黄祖の首を梟した。孫権伝に見える。

翌日、大いに会し、孫権はサカズキを挙げ、董襲にわたして「今日の会は、ロープを切った功績のために設けた」といった。

盧弼はいう。董襲の功績は(平呉のとき)王濬が鉄鎖を焼いた功績と比べて、どこが異なるか。(王濬のように)流れに順って下るなら、無人の境を行くようなもの。しかし(董襲のように)流れに逆らうと、身におおくの矢を受ける。董襲が人に過ぐる武力をもたねば、ロープを切れなかった(董襲のほうが王濬より優れる)。しかし史書で、孫権はサカズキを挙げるだけで、それ以上に褒賞を記さない。史書にモレがあるか。
趙一清はいう。『刀剣録』によれば、董襲は自ら鉄を打ち、一刀をつくった。のちに黄祖を蒙衝河に撃った。蒙衝河の流れを断ち切り、大司馬を拝して、剣に「断衝刀」と刻んだと。趙一清が考えるに、蒙衝とは船艦のことで、河名ではない。「蒙衝河の流れを断ち切り」はおかしい。
ぼくは思う。『刀剣録』にある「大司馬を拝す」もおかしい。黄祖を伐って、董襲が昇進しなかったのがおかしいが、大司馬というのも上がりすぎ。威越校尉から、偏将軍に進んだのが、このときかも知れない。


曹公出濡須、襲從權赴之。使襲、督五樓船、住濡須口。夜卒暴風、五樓船傾覆。左右、散走舸、乞使襲出。襲怒曰「受將軍任、在此備賊、何等委去也。敢復言此者斬」於是莫敢干。其夜船敗、襲死。權改服臨殯、供給甚厚。

(建安二十一年)曹操が濡須に出ると、董襲は孫権に従って赴く。董襲は五楼船を督し、濡須口にとどまる。夜、にわかに暴風があり、五楼船が傾覆した。左右は走舸に散り、董襲に脱出を乞う。董襲は怒り、「將軍の任を受け、ここで賊に備える。なぜ(もちばを)捨てて去れるか。敢えて、また言うなら斬る」と。ここにおいて、敢えて守った。その夜に船が破損して沈み、董襲は死んだ。孫権は服を改め殯に臨み、供給すること甚だ厚し。160612

走舸は周瑜伝に見える。
ぼくは思う。「大きな船を並べ、水路の要衝を守る」のは、建安十三年に黄祖が孫権に使った作戦で、沔口をふさいだ。董襲が潜水し、船を固定するロープを切った。のちに孫権は、五楼船で濡須口をふさぐ(黄祖の再現)。五楼船の指揮は、奇しくも(黄祖を破った)董襲で、船からの脱出を拒んで溺れ死んだ。因果であり、黄祖の呪いを思わせるが、董襲が「大きな船で、水路を塞ぐ」ことの有効性を身を以て知ればこそ、船から離れなかったのだろう。

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父を罵れば友将すら殺す、凌統伝

凌操が孫策に仕える

淩統、字公績、吳郡餘杭人也。父操、輕俠有膽氣、孫策初興、每從征伐、常冠軍履鋒。守永平長、平治山越、奸猾斂手、遷破賊校尉。及權統軍、從討江夏。入夏口、先登、破其前鋒、輕舟獨進、中流矢死。

淩統は、あざなを公績といい、呉郡の餘杭のひと。

余杭は孫策伝にある。呉は呉興郡と改めた。謝鍾英はいう。凌統の墓が呉県の東北25里にあり、碑に「呉興の余杭のひと」とある。陳寿は郡の旧名で記した。

父の凌操は、軽俠で胆気がある。孫策が初めて興ると、つねに征伐に従い、つねに軍に冠して鋒を履む。

時代は下るが、同じ『呉志』巻十 丁奉伝に「數隨征伐、戰鬭常冠軍」とある。ほぼ同じ内容。凌操は、戦場の功績によって、呉の中枢に成り上がるべき素質があった。というか、だからこそ早死にした。ハイリスク・ハイリターン。だれもが死と隣り合わせ。戦場における兵卒のごとき働きがあれば、「格差」なく成り上がれる。成り立ちからして、曹操・劉備のところと異なる。
建国の苦しみ、つまり「国を産む」苦しみは、曹操・劉備のところと異なりそう。

永平長を守し、山越を平治す。奸猾なやつらも手をひっこめた。破賊校尉にうつる。孫権がつぐと(建安八年)従って江夏を討つ。夏口に入り、先に登り、黄祖の前鋒を破る。軽舟でひとり進み、流矢にあたって死す。

永平県は、『呉志』妃嬪 全夫人伝にある。破賊校尉は定員1名で、呉が置く。凌操が甘寧が殺されたのは、甘寧伝にひく『呉書』にみえる。
ぼくは思う。凌操が向こう見ずにひとりで「突撃」し、弓のうまい甘寧に「狙撃」されたというイメージがあれば、修正したい。まっさきに上陸して、黄祖の前鋒を破っているから、集団としての軍事行動である。また舟はひとりでは動かない。流矢があるとは、つまり黄祖が集団に向けて戦っている証拠。 もし凌操ひとりが突出したら、貴重な矢を降らせたりしないだろう。一騎討ち史観(そんなものあるのか?)を是正したい。命知らずの軽舟が隊列を組み、黄祖を押しこんだから、矢で応戦したのだろう。史料に「ひとり」とあるから、船団のなかで、ちょっと前に出すぎたことは、あったかも。


凌統が孫権に仕える

◆麻屯を攻めるとき、陳勤を殺す

統、年十五、左右多稱述者、權亦以操死國事、拜統別部司馬、行破賊都尉、使攝父兵。後、從擊山賊。權、破保屯、先還。餘、麻屯萬人。統、與督張異等、留攻圍之、克日當攻。

凌統は15歳で(建安八年)国に殉じた凌操をつぎ、別部司馬となり、破賊都尉を行し、父の兵を摂ぐ。

破賊都尉は定員1名で、呉が置く。父が国に殉じたから、父が「校尉」なのに、わかい凌統が「都尉」になった。昇格と考えてよいのか? それとも年齢・功績が父に劣るから、降格?

のちに山賊を撃つ。(建安十一年)孫権が保屯を破ると、孫権が先に還った。ほかに麻屯に1万人がいる。凌統は、督の張異らと、留まって麻屯を囲み、日をくぎって攻めることに。

保屯・麻屯は、孫瑜伝にある。


先期、統與督陳勤、會飲酒。勤、剛勇任氣、因督祭酒、陵轢一坐、舉罰不以其道。統、疾其侮慢、面折、不爲用。勤、怒詈統、及其父操。統、流涕不答、衆因罷出。勤、乘酒凶悖、又於道路辱統。統不忍、引刀斫勤、數日乃死。

保屯を攻めるより前、凌統と督の陳勤は、飲酒した。陳勤は剛勇・任気で、督なので祭酒(酒席の取り回し)をした。一坐を陵轢し(同席者をけなし)、挙罰は(献杯も罰杯も)ルール無用。凌統は陳勤の侮慢をにくみ、面とむかって注意し、陳勤の取り回しに従わない。陳勤は怒って凌統を罵り、父の凌操にも及んだ。

曹操が陳琳にそしられ、そしりが父祖に及んだことを怒ったのに似てる。

凌統は流涕して答えず、出席者は散会した。陳勤は酔って凶悖となり(悪のりして)、道路で凌統を辱めた。凌統は忍びず、刀を引いて陳勤を斫った。数日後、陳勤は死んだ。

ぼくは思う。ひとの本性は変わらない。18歳の凌統は、酒席で父を罵られて、陳勤を斬り殺す(『呉志』凌統伝)。10年近く経っても、酒席で甘寧を見つけて、剣舞に託して斬ろうとした(『呉志』甘寧伝にひく『呉書』)。


及當攻屯、統曰「非死無以謝罪」乃率厲士卒、身當矢石、所攻一面、應時披壞、諸將乘勝、遂大破之。還、自拘於軍正。權、壯其果毅、使得以功贖罪。

保屯を攻めるにあたり、凌統は「死なねば罪を謝せない」といい、士卒をはげまし、矢石を身に受け、保屯の一面を攻めた。屯の防壁がこわれ、諸将が乗じたので勝てた。還ると、凌統はみずからを縛り、軍正に出頭した。孫権は、その果毅ぶりを壮とし、功績により罪をチャラにした。

ぼくは思う。凌統のキャラの魅力は、2つの要素がある。①甘寧が父を殺したから復讐を試みた、という『呉書』の(とくに根拠のないが、同情だけは誘う)理由説明と、②張遼に襲われて甘寧と和解したという逸話のおかげ。
実態は、①矢の雨に突撃した凌操は、誰に殺されたか不明。黄祖がよこした指揮官は、甘寧だったかも知れないが、それを根に持っていたら、主従の流転する当時にあっては「不適合者」と言わざるをえない。②はフィクション。凌統は終生にわたり、父が絡むと見境なく自軍の武将すら殺す(陳勤は死亡、甘寧は未遂)迷惑な軍律違反者でしかない。しかも、どちらも酒がらみ。この救いのなさが、陳勤のところで(なんの弁護も装飾もないので)露呈している。


◆黄祖・曹操・曹仁を伐つ

後、權復征江夏。統爲前鋒、與所厚健兒數十人、共乘一船、常去大兵數十里。行入右江、斬黃祖將張碩、盡獲船人。還以白權、引軍兼道、水陸並集。時、呂蒙敗其水軍、而統先搏其城、於是大獲。權、以統爲承烈都尉、與周瑜等、拒破曹公於烏林、遂攻曹仁、遷爲校尉。雖在軍旅、親賢接士、輕財重義、有國士之風。

のちに(建安十三年)ふたたび孫権が江夏を征めた。凌統は前鋒となり、厚遇する健児の数十人とともに、1船に乗り、つねに大兵から数十里のところにいる(孫権の本隊より先行した)。右江に入り、黄祖の将の張碩を斬り、ことごとく船・人を捕らえた。還って孫権に報告し、軍をひきいて道をあわせ、水陸で並進した。

董襲伝で書かれるように、黄祖は、沔口(漢口・夏口)に蒙衝2つを並べた。凌統・董襲が水にもぐってロープを切り、蒙衝がそこに止まって居られなくなった。その話であろう。

ときに呂蒙が黄祖の水軍を敗り、凌統は先に(黄祖の江夏)城を攻めて、おおく(人員・財物)を獲らえた。孫権は、凌統を承烈都尉とした。

承烈都尉は定員1名で、呉が置く。←情報がふえず

凌統は、周瑜とともに烏林で曹操を拒ぎ、曹仁を攻め、校尉となった。軍旅にあっても、賢に親しみ士に接し、財を軽んじ義を重んじ、国士の風あり。

ここでは、承烈都尉から「校尉」となってる。ナニ校尉なのか。伝統のある校尉なのか。都尉と校尉の優劣は、一概にはいえないのか。


◆関羽・張遼と戦う

又從破皖、拜盪寇中郎將、領沛相。與呂蒙等、西取三郡。反自益陽、從往合肥、爲右部督。

(建安十九年)孫権に従って皖城を破り、盪寇中郎將を拝し、沛相を領す。(建安二十年)呂蒙らと(関羽から荊州の)西のかた3郡を取る。益陽にもどり、益陽から合肥にゆく。右部督となる。

時權徹軍、前部已發、魏將張遼等、奄至津北。權使追還前兵、兵去已遠、勢不相及。統、率親近三百人陷圍、扶扞權出。敵已毀橋、橋之屬者兩版。權、策馬驅馳。統、復還戰、左右盡死、身亦被創、所殺數十人、度權已免、乃還。橋敗路絕、統被甲潛行。權、既御船、見之驚喜。統、痛親近無反者、悲不自勝。權、引袂拭之、謂曰「公績、亡者已矣。苟使卿在、何患無人」

孫権が軍を撤退させ、前部はすでに発した。張遼らが奄(には)かに津北に至る。

盧弼はいう。合肥の東は、逍遙津の北である。

孫権は前部を追って、引き返させようとしたが、すでに遠くにいて及ばず。凌統は、親近する3百人とともに魏軍の包囲をやぶり、孫権を扶けて脱出させた。敵はすでに橋をこわし、橋には2枚の板しかない。孫権は馬をムチうち駆馳した。凌統は(孫権を逃がす時間をかせぐため)還って戦った。左右は尽く死し、凌統も身にキズを受けた。数十人を殺し、孫権が逃げきったと思ったので、還った。道路は断絶しており、凌統は甲を着て、潜水した。

黄祖と戦うときも、凌統は潜水した。ここぞという戦いで、凌統は潜水する。黄祖は父のカタキであるが、いま凌統は、張遼軍によって致命傷を負った。

孫権はすでに船を御して(船上に逃れており)凌統を見て驚喜した。凌統は、親近する者がひとりも還らないのを痛み、悲しみがひどい。孫権は袂を引いて拭ってやり、「公績よ、死んだ者は仕方ない。もしキミがいれば、私は、ひとの居らぬことを患うものか(凌統さえいれば、私は充分だ)」と。

吳書曰。統創甚、權遂留統於舟、盡易其衣服。其創賴得卓氏良藥、故得不死。

『呉書』はいう。凌統はキズつき、孫権は凌統を舟にとどめ、すべて衣服を易えた。卓氏の良薬のおかげで、死なずにすんだ。

『三国志集解』は「卓氏の良薬」に注釈がない。ここをがんばってください。「卓氏白膏」と関係があるかも知れないそうです。
『太平御覧』薬部一に「『呉書』曰:合肥之役,陵統身被六七瘡。有卓氏良藥,故得不世」とあり、キズが6-7箇所であったことが分かる。


偏将軍として、兵団を再編成する

拜偏將軍、倍給本兵。時有、薦同郡盛暹於權者、以爲、梗概大節、有過於統。權曰「且令如統、足矣」後召暹、夜至。時統已臥、聞之、攝衣出門、執其手以入。其愛善不害、如此。

偏将軍を拝し、もとの兵の2倍をたまう。

凌統の兵は、張遼のせいで全滅した。だから、ふさぎこんでいた。張遼に殺されたのは、親近する3百人。2倍をもらっても、まだ1千人に満たない。孫権は、個人的に勇敢なひとを好む。数千・数万単位の兵で、政治をするようなひとがキライである。

ときに同郡(呉郡、のちに呉興郡)の盛暹を孫権に勧めるものがおり、盛暹の梗概・大節は、凌統に過ぐるという。孫権は「もし凌統と同類なら、任用に足る」という。のちに盛暹を召し、夜に至った。ときに凌統はすでに臥していたが、これを聞くと、衣を摂って門を出て、盛暹の手を取って(孫権の居室に)入った。(人物を)愛善して害さないのは、このようである。

すでに「いかにも人柄を表す」エピソードの紹介に入っている。偏将軍は、なかば「名誉職」であり、もう戦場には出られない。父と同じく、カラダを張って戦うひとでした。
列伝の記述の順序を重んじたら、張遼のために負傷した凌統は、自分にならぶ名声の持ち主に嫉妬しながら、「もう私は働けないから、代わりに盛暹が働いてくれたら、もういいんだ」と健気にがんばる。その盛暹は、凌統への対抗心を捨てて、つぎにある、凌統の晩年の事業=山越の募兵に協力してくれるとか。妄想が過ぎた。というか、列伝の順序は、あまり信用ならないのだ。
というか盧弼は、盛暹に注釈をしてほしかった。『陳志』『范書』で、ほかに見えず。孫権に殺された呉郡太守の盛憲は、同姓だけど、郷里がちがうだろう(呉郡のひとは、原則的に呉郡太守にならない)。いや、孫氏に遺恨のある陸氏が和解したように、盛氏の物語があってもよいか。


統、以山中人尚多壯悍、可以威恩誘也。權令、東占且討之。命敕屬城、凡統所求、皆先給後聞。統、素愛士、士亦慕焉。得精兵萬餘人。過本縣、步入寺門、見長吏懷三版、恭敬盡禮、親舊故人、恩意益隆。事畢當出、會病卒、時年四十九。權聞之、拊牀起坐、哀不能自止、數日減膳、言及流涕。使張承、爲作銘誄。

凌統は、山中のひとが壮悍なので、威恩によって誘うべきと考えた。孫権は、凌統に東のかた占めて(全権を与えて?、山中のひとを)討伐させ、属城(凌統が赴いた郡県に属する、周辺の城)に命じて、凌統の求めるものを先に補給し、あとで報告させた。

べつに史料を検討しますが、凌統の死は、建安二十二年(217) が有力だと思います。つまり、建安二十年(215) に張遼に負傷させられ、魏との前線で働けなくなった。晩年の2年間は、山越の徴兵のために働いたのだろう。父の代から、長年みがいた部隊を、張遼に全滅させられ、「再結成」に執念を燃やす凌統とか、よさそう。

凌統は士を愛し、士も凌統を慕った。精兵1万余人を得た。

凌統が唱えた方針は「威恩」の並用であった。ちくま訳は「威圧したり、恩を施したり」である。誤訳ではないが、ニュアンスが。威をふくむ恩、恩をふくむ威、威でもある恩、恩でもある威というか。うまく言えん……。
こうして凌統が、山越の1万余の精兵を残して死んだら、ドラマチック。

本県(余杭)を過ぎ、歩いて寺門(県府の門)に入る。長吏にあうとき、凌統は三版を懐き、

蔡質『漢儀』によると、三署郎が光禄勲に謁見するとき、版を執りて拝すと。『呉志』朱治伝に「版を執りて交拝す」とある。ちくま訳は「笏のことか」とする。

恭敬に礼を尽くし、親旧の故人にも、恩意はますます隆い。用件がおわって出ようとしたとき、病卒した。ときに49歳。

県府の門に入った話は、死の場面を描くため!すごい臨場感!
陳景雲はいう。凌操が建安八年に戦没し、凌統は15歳だった。47歳なら赤烏期である。合肥から還って20余年も、なにも功績がなかったか。駱統伝によると、凌統が死んで、その領兵を復したが、これは陸遜が蜀を破る前である。「29歳」の誤りか。
ぼくは補う。29歳としたら、没したのは建安二十二年(217) となる。

孫権はこれを聞き、ベッドに座り、どうしようもなく悲しくて、数日は膳を減らし、凌統のことを言えば流涕した。張承に銘誄を書かせた。

朱然伝に「創業の功臣が病んだとき、呂蒙・凌統がもっとも孫権から心配してもらい、朱然はそれに次ぐ」とある。
趙一清はいう。『寰宇記』巻九十一によると、凌統の墓の石碑に「忠毅果敢、常為前鋒」とある。
潘眉はいう。漢法では、諡号があって初めて誄がつくられる。凌統には諡号がないのに、誄がつくられて、おかしい。黄安涛はいう。東呉の将相で、諡号があるものは少ない。『陳志』では張昭に文侯、張昭の子の張承に定侯、顧雍に粛侯があるだけで、ほかは周瑜・魯粛にも諡号がない。陸遜は孫休期に昭侯とされたが、この4名にとどまる。蜀漢では、諸葛亮・蒋琬・費禕・関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠・趙雲・法正・陳祗・夏侯覇に美諡がおくられた。
ぼくは思う。凌統に諡号がなくても、誄ぐらい書いてもらえばいい。それより、呉には功臣に諡号をあたえず、蜀ではバーゲンセール。伝統を重んじすぎ、飾りすぎるアナクロな蜀。見栄っぱりの蜀。おもしろい。


二子、烈、封、年各數歲。權、內養於宮、愛待與諸子同。賓客進見、呼示之曰「此吾虎子也」及八九歲、令葛光、教之讀書、十日一令乘馬。追錄統功、封烈亭侯、還其故兵。後、烈有罪、免。封、復襲爵領兵。

凌統には2子がおり、凌烈と凌封である。それぞれ数歳(で幼い)。孫権は宮殿に入れて養い、(孫権自身の)諸子と同じように愛待した。賓客が進見すると、呼んで示し「これは吾が虎子である」といった。8-9歳になると、葛光に読書を教えさせ、10日に1回は乗馬させた。凌統の功績を追録し、凌烈を亭侯にして、凌統のもとの兵を還した。のちに凌烈に罪があり(官爵を)免ぜられた。(弟の)凌封が、爵位・領兵をついだ。

孫盛曰。觀孫權之養士也、傾心竭思、以求其死力、泣周泰之夷、殉陳武之妾、請呂蒙之命、育淩統之孤、卑曲苦志、如此之勤也。是故雖令德無聞、仁澤(內)[罔]著、而能屈彊荊吳、僭擬年歲者、抑有由也。然霸王之道、期於大者遠者、是以先王建德義之基、恢信順之宇、制經略之綱、明貴賤之序、易簡而其親可久、體全而其功可大、豈委璅近務、邀利於當年哉?語曰「雖小道、必有可觀者焉、致遠恐泥」、其是之謂乎!

孫盛はいう。孫権は士を養って死力を尽くさせた。周泰のキズに泣き、陳武の妾を殉死させ、呂蒙の延命を祈り、凌統の故事を育てた。孫権は、令徳・仁沢がないが、呉を建国できたのは、士を養ったおかげ。しかし覇王の道には、明確なビジョンがいる。孫権はそこまではなかった。160613

何焯はいう。孫権は、陳武の妾に殉死させたのは、礼を失するが、それ以外は王者として適切なこと。孫盛の意見は、見通しはあるが、(殉死とその他のことを、一緒くたに論じてしまい)あらい。
ぼくは思う。孫権が、周泰・陳武・呂蒙・凌統のためにやったことは、どれも過剰であり、ほかと異なる。このあたりが、孫権の特色なのだ。ここを軸にして、人物像や施政方針を見極めたい。ここにあげた5名は、文化資本に乏しく、軍人として叩き上げた。孫権がこういう人たちを愛した(ほかと差をつけた)のは、ぎゃくに孫権の孤立ぶりを窺わせる。

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曹丕を疑城であざむく徐盛伝

『呉志』巻十は、つぎは董襲伝のつぎは、甘寧伝・凌統伝ですが、後回しにして、さきに行きます。

徐盛が黄射をふせぐ

徐盛、字文嚮、琅邪莒人也。遭亂、客居吳、以勇氣聞。孫權統事、以爲別部司馬、授兵五百人、守柴桑長、拒黃祖。祖子射、嘗率數千人、下攻盛。盛、時吏士不滿二百、與相拒擊、傷射吏士千餘人。已乃、開門出戰、大破之。射、遂絕迹、不復爲寇。權、以爲校尉、蕪湖令。復討臨城南阿山賊、有功、徙中郎將、督校兵。

徐盛は、あざなを文嚮といい、琅邪の莒県のひと。乱にあい、呉に客居し、勇気をもって聞こゆ。

莒県は、『魏志』呂布伝にみえる。
ぼくは思う。瑯邪から避難してくるのは、諸葛瑾と同じ。「徐州のひと」というのが、のちの戦いに影響してくるのではないか。

孫権が統事すると、別部司馬となり、兵5百人を授けられ、柴桑長を守し、黄祖を拒ぐ。

柴桑は、孫権伝の黄初二年にみえる。
董襲・陳武は、孫策に仕え、孫策の生前に別部司馬となった。徐盛は、孫権の時代になって合流した。同じく徐州の、諸葛瑾・魯粛も、孫策と仕えていない。孫策期には、まだ若すぎた、ということか。または、「徐州のひとで、孫策には仕えないが、孫権には仕える」という要因があるか。

黄祖の子・黄射は、数千人をひきい、川を下って徐盛を(柴桑で)攻めた。徐盛はときに吏士が2百人に満たないが、黄射の吏士を千余人も傷射した。開門して出戦し、おおいに破った。黄射は二度と寇さない。

徐盛のハイライトは、曹丕軍を水際で食い止めること。その原型が、ここに表れていたらおもしろい。

孫権は徐盛を、校尉・蕪湖令とした。

蕪湖令の徐盛が、蒋欽の屯吏をとらえ、斬れと上表したのは、蒋欽伝に見える。

また臨城の南阿の山賊を討ち、功績があり、中郎将にうつり、校兵を督した。

臨城郡は、孫韶伝にみえる。孫韶伝をみた。
『晋書』地理志によれば、揚州の宣城郡に臨城県がある。『宋書』州郡志はいう。揚州の宣城太守は、司馬炎が太康元年に丹陽を分けて立てた。臨城令は、呉が立てたと。『寰宇記』はいう。臨城は、呉の赤烏期においた。



徐盛が曹操をふせぐ

曹公出濡須、從權禦之。魏嘗大出橫江、盛與諸將俱赴討。時、乘蒙衝、遇迅風、船落敵岸下。諸將恐懼、未有出者。盛、獨將兵、上突斫敵、敵披退走、有所傷殺。風止便還、權大壯之。

曹操が濡須に出ると、孫権がふせぐ。魏の大軍が横江に出た。徐盛は諸将とともに赴き討つ。ときに蒙衝に乗るが、迅風に遇い、船は敵の岸下に落ちた(座礁した? 吹き寄せられた?)。諸将は恐懼して(船から?)出られない。徐盛だけが兵をひきい、上陸して敵を突破した。にげた敵を傷殺した。風が止むと還った。孫権はおおいに壮とした。

濡須のとき大風がふき、董襲は五楼船とともに沈み、徐盛は敵のいる岸に投げ出された。暴風は、おとこの意地の見せどころ。


徐盛が曹丕をふせぐ

及權爲魏稱藩、魏使邢貞、拜權爲吳王。權出都亭、候貞。貞有驕色、張昭既怒、而盛忿憤、顧謂同列曰「盛等不能、奮身出命、爲國家、幷許洛、吞巴蜀。而令吾君與貞盟、不亦辱乎」因涕泣橫流。貞聞之、謂其旅曰「江東將相、如此。非久下人者也。」

孫権が魏の藩を称すると、魏使の邢貞がきて、孫権を呉王とした。孫権は都亭にでて、邢貞を待った。

趙一清はいう。はいう。『寰宇記』巻九十に、蔡州に昇州の江寧県がある。『丹陽記』によると、呉のとき客館がここにあった。

邢貞には驕色があった。張昭は怒り、徐盛も忿憤した。徐盛は同列(呉臣の同輩ら)を顧みて、「われらが身を奮い命を出し、国家のために許洛をあわせ、巴蜀をあわせないから、わが君に邢貞と盟約させた。辱ずべきではないか」と。涕泣しまくる。邢貞はこれを聞き、同行者に「江東の将相は、こんなふうだ。久しく人の下(魏の藩屏)でいることはない」といった。

張昭が怒ったことは、『呉志』張昭伝にある。
胡三省はいう。邢貞の発言からみるに、邢貞は敵国をよく見ている。使者の任務からもどったあと、魏主に復したのだろうか。ぼくは思う。「魏主に復す」というのは、復命して曹丕に呉のことを報告した、ということか。それとも「国を見る目があるのに、まだ曹丕に仕えたの?」という皮肉か。よく分からない。


後、遷建武將軍、封都亭侯、領廬江太守、賜臨城縣、爲奉邑。劉備次西陵、盛攻取諸屯、所向有功。曹休出洞口、盛與呂範全琮、渡江拒守。遭大風、船人多喪、盛收餘兵、與休夾江。休使兵將就船攻盛、盛以少禦多、敵不能克、各引軍退。遷安東將軍、封蕪湖侯。

のちに建武將軍に遷り、都亭侯に封ぜられ、廬江太守を領し、臨城県を賜り奉邑とした。

陳表の子・陳脩は都亭侯となった。韓当は、宜都の役(夷陵の戦い)のあとで都亭侯となった。徐盛が都亭侯となったのも、この頃だろう。曹丕の時代になってから、孫権は爵位をバラまき始める。

劉備が西陵にくると、徐盛は諸屯を攻取した。曹休が洞口に出ると、徐盛は呂範・全琮とともに長江を渡ってふせぐ。大風に遭い、船も人も多くを喪った。徐盛は余兵をおさめ、曹休と長江をはさんで対峙した。曹休は、兵を船に乗せて徐盛を攻めさせた。徐盛は、少数で多数をふせいだ。曹休軍は勝てずに撤退した。

杭世駿はいう。『呉書』は徐盛が曹休と戦ったことを称えて、「賊は茅草を積んで、徐盛を焼こうとしたが、徐盛は船を焼いて去ったから、賊はひとつも得られず」とある。

安東將軍にうつり、蕪湖侯に封じられた。

後魏文帝大出、有渡江之志。盛建計、從建業築圍、作薄落、圍上設假樓、江中浮船。諸將以爲無益、盛不聽、固立之。文帝到廣陵、望圍愕然、彌漫數百里、而江水盛長、便引軍退。諸將乃伏。
干寶晉紀所云疑城、已注孫權傳。
魏氏春秋云。文帝歎曰「魏雖有武騎千羣、無所用也。」

のちに曹丕が大軍を出し、渡江の志あり。徐盛は計を建て、建業から囲みを築き、薄落をつくり、

康発祥はいう。草叢が生えるのを「薄落」といい、藩(かこい)である。けだし叢草によって、かこいを作ったのである。

上を囲って假楼(見せかけの楼閣)を設け、江中に船を浮べた。諸将は無益と考えたが、徐盛は聞かず、これを立てた。曹丕が広陵にいたると、囲いを望見して愕然とし、数百里にわたって囲いがあり(あるように見え)、長江の水面が上昇したので、軍をひいた。諸将は、徐盛に伏した。

徐盛が「見せかけの城壁を作ろう」といっても、みんな反対した。あらかじめ徐盛は、諸将に伏されていたのでない。呉将はデフォルトで潜在的なライバルであり、名誉・威信を競いあう。よほど国を救うことをして、はじめて「伏」される。徐盛も、周泰のキズを見るまで軽蔑していたし、ひとのことを言えない。

干宝『晋紀』いわく、徐盛がつくったのを「疑城」といい、すでに孫権伝に注釈した。
『魏氏春秋』はいう。曹丕は歎じた。「魏は武騎が千群いるけれども、使いみちがない」と。

黃武中卒。子楷、襲爵領兵。

黄武期に徐盛は卒した。子の徐楷が爵位・領兵をついだ。160612

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配下が関羽を禽えた:潘璋伝

劉表から境界を守る

潘璋、字文珪、東郡發干人也。孫權爲陽羨長、始往隨權。性博蕩、嗜酒、居貧。好賒酤、債家至門、輒言、後豪富相還。權奇愛之、因使召募。得百餘人、遂以爲將。討山賊有功、署別部司馬。後、爲吳大巿刺奸、盜賊斷絕。由是知名、遷豫章西安長、劉表在荊州、民數被寇。自璋在事、寇不入境。比縣建昌、起爲賊亂、轉領建昌、加武猛校尉、討治惡民、旬月盡平。召合遺散、得八百人、將還建業。

潘璋は、あざなは文珪、東郡の發干のひと。孫権が陽羨長となると、はじめて孫権のところにゆき随う。

發干は『魏志』管輅伝にある。陽泉は孫権伝の巻首にある。
ぼくは思う。孫権が陽羨長になるのは、孫策の生前。孫策の生前から孫権に仕えるのは、周泰と同じ。しかし周泰は、孫策から孫権に移った。はじめから孫権なのは、潘璋が陽羨県に移住・批判していたからか。

性は博蕩で、酒を嗜み、貧に居る。賒酤を好み、債家が門に至ると、「のちに豪富になったら返済する」といった。孫権はこれを奇として愛し、

このへんが「悪たれ」なんでしょう。きっと。

(潘璋に兵を)召募せしむ。潘璋は1百余人をあつめ、ついに将となる。山賊を討って功あり、別部司馬となる。のちに呉県の大巿刺奸(市場の取締)となり、盗賊が断絶した。

西安は太史慈伝にみえる。
ぼくは思う。潘璋が兵を募るのも自前の人脈で、市場を取り締まるのも自前の人脈。潘璋は揚州のひとではないが、「独自の人脈」という社会関係資本により、孫権に認められた。孫権は、そういう「悪たれ/アウトロー」を取りこもうとして、潘璋を大切にしたのかも。儒家のような文化資本は、やがて築くべき君主権力と対立するから、孫権と相性が悪い。しかしアウトローなら、問題がない。

これにより名を知られ、豫章の西安長にうつる。

銭大昕はいう。『漢書』『続漢志』『晋書』『宋書』いずれも豫章郡に西安県はない。『太平寰宇記』によると、西安県の故城は、分寧県の西20里にあり、建安期におかれ、開皇元年に廃された。『寰宇記』はまた、武寧県は古くは西安県で、建安期に海昏県をわけて置かれ、西晋の太康元年に「豫寧県」に改められたともいう。

劉表が荊州におり、しばしば民は寇された。潘璋が西安長になると、寇賊たちは境を入らず。

柴桑長の徐盛は、黄射と(列伝に特記されるほど)激しく戦って、侵入をふせいだ。潘璋の場合、揚州・荊州にまたがるアウトローのネットワークに働きかけ、侵入をふせいだようである。官職・列伝といった、乾いた堅い権力ではなく、泥のような権力の持ち主。そういう素質をそなえた潘璋が、じつは一番「強い」のかも知れない。

このころ建昌県で賊が起こり、潘璋は転じて建昌を領し、武猛校尉を加えられ、悪民を討治し、旬月に尽く平らぐ。遺散したものを召合し、八百人を得て、ひきいて建業に還る。

つぎは合肥の役にとぶ。つまり、黄祖の討伐、烏林の曹操・南郡の曹仁とは参戦しない。曹操軍が荊州に入って混乱するときも、豫章郡をカゲで治めていたのかも。



曹操から境界を守る

合肥之役、張遼奄至。諸將不備、陳武鬭死、宋謙、徐盛、皆披走。璋、身次在後、便馳進、橫馬、斬謙盛兵走者二人、兵皆還戰。權甚壯之、拜偏將軍、遂領百校、屯半州。

合肥の役で、張遼が奄って至る。諸将は備えなく、陳武は闘死し、宋謙・徐盛は逃げた。潘璋は後列におり、馳せ進み、馬を横にして(道を塞ぎ)宋謙・徐盛の逃兵を2人を斬った。兵は還って戦った。孫権は、はなはだ壮として、偏将軍とし、ついに百校を領し、半州に屯す。

潘眉はいう。百校は「五校」とすべき。半州は、張昭伝にみえる。
半州は、甘寧の半州赴任はいつか(史料の調べ方のてびき)


関羽・劉備をやぶる

權、征關羽。璋、與朱然、斷羽走道、到臨沮、住夾石。璋部下司馬馬忠、禽羽、幷羽子平、都督趙累等。權卽分宜都至秭歸二縣、爲固陵郡、拜璋爲太守、振威將軍、封溧陽侯。甘寧卒、又幷其軍。劉備出夷陵、璋與陵遜、幷力拒之、璋部下斬備護軍馮習等、所殺傷甚衆、拜平北將軍、襄陽太守。

孫権が関羽を征つと、潘璋は朱然とともに関羽の走道を断ち、臨沮に到り、夾石に住む。

臨沮は関羽伝に、夾石は王昶伝にある。

劉璋の部下である司馬の馬忠が、関羽を禽え、関羽の子の関平・都督の趙累らも捕らえた。孫権は、宜都の秭歸に至る2県(巫県と秭帰)を分けて、固陵郡として、潘璋を太守とした。

銭大昕はいう。至は「巫」とすべきである。『魏氏春秋』は建安二十四年、呉が巫県・秭帰を分けて、固陵郡を置いたと。呉増僅はいう。『呉志』潘璋伝によると、孫権は宜都の巫県・秭帰の2県を分けて固陵郡とし、潘璋を太守とした。考えるに建安二十一年のこと。いま『華陽国志』をみると、劉備は巴東を固陵郡とあらため、このとき宜都は劉備に属した。ゆえに宜都の巫県は固陵に入った。建安二十四年、関羽が敗れてから、巫県は呉に入り、宜都に戻った。ゆえにこの年(関羽が敗れたとき)孫権は巫県・秭帰の2県を分けて、蜀に対抗して固陵郡を置いた。章武元年、劉備が呉を伐つと、巫県・秭帰はふたたび蜀が得た。このとき呉の固陵郡は(支配の実効を失い)廃されたか。章武二年、猇亭の役で、呉は(劉備を負かして)2県を回復し、宜都郡に含めた。ゆえに孫休のとき、また宜都を分けて建平郡を置けた。
宜都は先主伝の章武二年、巫県は先主伝の章武元年、秭帰は劉璋伝と『魏志』文帝紀 黄初三年にある。
ぼくは思う。呉増僅が、呉が固陵郡をおいたのを建安二十一年とする理由が分からない。ふつうに潘璋伝を読めば、関羽をとらえた建安二十四年である。もし建安二十一年なら、「甘寧・潘璋が半州に赴任」した時期が、わりと絞れるのに。

振威將軍となり、溧陽侯に封ぜらる。

リツ用は、『呉志』妃嬪 何姫伝にみえる。

甘寧が卒すると、その軍を併せる。劉備が夷陵に出ると、潘璋は陸遜とともに拒ぐ。潘璋の部下が、劉備の護軍の馮習らを斬り、殺傷するもの甚だ衆く、

関羽を禽えた馬忠や、馮習を斬ったひとは、潘璋が「自前のネットワーク」で調達した人材である。呉の中央から割り当てられた、無色で交換可能な兵士ではない。とくに馬忠は、潘璋が孫権に仕えるところから、「悪たれ」集団を代表して物語るキャラとして、登場させてもおもしろい。

平北将軍を拝し、襄陽太守となる。

夏侯尚をふせぐ

魏將夏侯尚等、圍南郡、分前部三萬人、作浮橋、渡百里洲上。諸葛瑾、楊粲、並會兵赴救、未知所出、而魏兵日渡不絕。璋曰「魏勢始盛、江水又淺。未可與戰」便將所領、到魏上流五十里、伐葦數百萬束、縛作大筏、欲順流放火、燒敗浮橋。作筏適畢、伺水長當下、尚便引退。璋、下、備陸口。權稱尊號、拜右將軍。

魏将の夏侯尚らが南郡(江陵)を囲むと、前部3万人を分けて、浮橋をつくり、百里洲の上に渡った。

百里洲とは、江陵の中洲である。『魏志』張郃伝にみえる。

諸葛瑾・楊粲は、兵をあつめ赴き救うが、手出しができない。魏兵は日に日に渡って絶えず。潘璋は、「魏勢は始め盛んで、江水も浅い。まだ戦ってはならん」と。領兵をひきい、魏の上流50里にゆき、葦を伐って数百万束をつくり、縛って大筏をつくり、上流から流して火を放ち、浮橋を焼き壊そうとした。筏をつくり終えると、水が深くなるのを待つ。夏侯尚は(潘璋に気づいて)撤退した。潘璋は流れを下り、陸口で備えた。

陸口は、孫権伝 建安十五年にある。

孫権が尊号を称すると、右将軍となる。

璋、爲人麤猛、禁令肅然、好立功業、所領兵馬不過數千、而其所在常如萬人。征伐止頓、便立軍巿、他軍所無、皆仰取足。然、性奢泰、末年彌甚、服物僭擬。吏兵富者、或殺取其財物、數不奉法。監司舉奏、權惜其功而輒原不問。嘉禾三年卒。子平、以無行徙會稽。璋妻居建業、賜田宅、復客五十家。

潘璋は、人となりは麤猛で、禁令は粛然とし、功業を立つることを好み、所領の兵馬は数千を過ぎぬが、つねに1万人いるようである。征伐して止頓すると、いつも軍巿を立てた。他軍で足りないものは、潘璋の軍市で補給できた。

潘璋軍だけは、ちがう原理によって動いていそう。潘璋集団が、どういう価値観と、価値観に根ざした経済観念によって運営されていたか、設定を深めていくとおもしろい。

しかし性質は奢泰で、晩年はひどくなり、服物は僭擬である。吏兵の富める者は、あるひとは殺人して財物を奪い、たびたび法令にそむく。

潘璋集団が変質・堕落したのではなく、もともとの性質が昂進した結果、このように見えた、というだけだろう。経済的に聡明であることと、「貪欲」であることは、ものごとの表裏である。

監司は奏を挙げた。孫権は功績をおしみ、赦して問わず。

黄武六年(227) 孫権は石陽を攻め、師を旋すると、潘璋は後ろを断ち、夜に出て錯乱した。朱然伝にみえる。つまり、潘璋が戦場にいるのに、潘璋伝からモレていると。

嘉禾三年(234) 潘璋は卒した。子の潘平がつぎ、行なく(品行がわるく)会稽にうつる。潘璋の妻は建業におり、田宅を賜はり、また客50家を復せられた。

ちくま訳は「小作人50戸の租税を免除」とある。
この50戸が、潘璋集団の中核をなした、独自の集団だったら、ハッピーエンドだ。


付:丁奉伝のはじめ

丁奉、字承淵、廬江安豐人也。少以驍勇爲小將、屬甘寧、陸遜、潘璋等。數隨征伐、戰鬭常冠軍。每斬將搴旗、身被創夷。稍遷偏將軍。孫亮卽位、爲冠軍將軍、封都亭侯。

丁奉は、あざなを承淵、廬江の安豐のひと。

安豊は、『魏志』斉王紀 嘉平五年、王基伝・毋丘倹伝にある。

わかくして驍勇だから小将となり、甘寧・陸遜・潘璋らに属す。

甘寧→陸遜→潘璋のあいだで、少将が融通されていた。この情報が、とても価値がありそう。戦地が変わるごとに、兵がまるごと移動するのは非効率。将軍は移動して、移動した先で兵をあずかる、という感じか。
潘璋の場合、個人とひもづきの兵が多そうなので、数百人は潘璋とともに動いたか。そのあたり、流動的な感じがする。

しばしば征伐に随い、戦闘ではつねに軍に冠たり。いつも將搴旗を斬り、身にキズを受ける。やがて偏将軍となる。孫亮が即位すると、冠軍將軍となり、都亭侯に封ぜらる。160613

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