孫呉 > 『呉志』巻十一を読む

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呉郡太守を31年間、朱治伝

朱治は、10年前に1回目、ちくま訳だけを見て、6年前に2回目、『三国志集解』をあまり読めずに、袁術に興味を持ったころ、扱ったことがある。今回は、ぶじに『三国志集解』もだいたい読めるようになって、やっと決定版となる予定。

10年前:孫権が絶対服従のオヤジ殿、朱治伝
6年前:孫策の家族を拉致し、袁術を裏切らせようとした朱治伝
ぼくは思う。宛先(具体的な読み手)のある文章は、精度が上がる。その宛先が、個人的に交流のある後輩だったりすると、やる気も上がる。「いっちょ、教えてあげよう」と、腕を振るいたくなる。5年以上前の自分の『三国志集解』読解・考察は、いま見るとひどい。それを更新する作業は楽しい。むかしも自分も「交流のある後輩」みたいなもの。というか、いちばん親しい後輩です。彼を指導するつもりで訂正してく。精度もやる気も上がるなー。がんばろう。


故郷を出て、孫堅にしたがう

硃治字君理,丹楊故鄣人也。初為縣吏,後察孝廉,州辟從事。

朱治は、あざなを君理という。丹楊郡の故鄣県の人だ。

黄武三年に69歳で死ぬから、孫堅のひとつ下。
故鄣は孫権伝 赤烏十三年にみえる。梁商鉅はいう。『寰宇記』巻九十四に、故鄣の城とは、晋代の鄣郡城であり、俗に「府頭」と号する。湖州の長興県の西南80里にある。「もと鄣の郡城」で故鄣かと。
ぼくは思う。丹楊郡は、強兵の産地。出身者は、河南4州に影響力があり、陶謙が有名。朱治の用兵にも、注意を向けて列伝を読みたい。

はじめ朱治は、県吏となった。のちに孝廉に察され、州は從事に辟す。

郡・州で就職。朱氏の祖先は書かれないが、在地の有力豪族でよい。富春孫氏と同じレベルはある。


隨孫堅征伐。中平五年,拜司馬,從討長沙、零、桂等三郡賊周朝、蘇馬等,有功,堅表治行都尉。從破董卓於陽人,入洛陽。表治行督軍校尉,特將步騎,東助徐州牧陶謙討黃巾。

孫堅に随って征伐した。

州の従事をやめて、孫堅に従軍したのがおもしろい。同州の揚州から、このように官僚が、孫堅軍に合流している。孫堅への期待・名声は、それなりに(朱治が予定調和の昇進ルートを外し、部下になるほどには)あったか。

中平五年(188) 孫堅の司馬となり、長沙・零陵・桂陽ら3郡の賊である、周朝・蘇馬らを討ち、功あり。

孫堅伝がいう。長沙の賊・区星を城邑に囲み、孫堅は長沙太守となった。周朝・郭石が、零陵・桂陽で応じ、越境して孫堅が討った。ぼくは補う。朱治伝は区星の名がなく、蘇馬の名が増えている。

孫堅が表して、都尉を行せしむ。

孫堅が任じるのだから、長沙都尉であろう。
ぼくは思う。朱治は、私兵をひきいたという記述がない。期待の「丹陽兵」を連れてはいないか。孫堅との何らかの縁(「同州」以上にあるはず)を頼り、単身で、「孫堅の副官」とでも言うべき地位になった。同時期、程普・黄蓋・韓当などが合流しているが、董卓と戦う前、程普・黄蓋・韓当は官位が記されない。程普は幽州、黄蓋は荊州で、地方吏となる家柄だが(韓当はランク外)昇進は、もうちょい後である揚州で地方吏となる家柄の朱治だけが、家柄のレベルは程普・黄蓋と同じなのに、孫堅のもとで長沙都尉を行した。揚州の地縁?


董卓と戦い、徐州の陶謙を救う

從破董卓於陽人,入洛陽。表治行督軍校尉,特將步騎,東助徐州牧陶謙討黃巾。

朱治は孫堅に従い、董卓を陽人で破り、洛陽に入る。

陽人は孫堅伝に見える。孫堅のメインの戦いに、朱治は、全部参加。これは、程普・黄蓋・韓当も同じ。司馬&都尉として、副官のようにピタリと寄りそったのかな。
孫堅が袁術と話すときも、同席していてほしい。

孫堅は上表し、朱治に督軍校尉を行せしめ、とくに歩騎をひきい、東のかた徐州牧の陶謙を助け、黄巾を討った。

督軍校尉は定員1名、呉が置く。←盧弼は適当すぎ
陶謙は、朱治とおなじ丹楊の人。だが「同郷人だから助けた」とは考えにくい。袁術(孫堅のボス)が、陶謙に恩を売って、影響力を確保しようとしたか。袁術と陶謙をライバルと見るなら(両者の関係は、複雑に変遷する)朱治は、袁術&孫堅の密命をおび、徐州を切り取り、陶謙に代わって徐州の丹楊兵を握ろうとしたか。のちに朱治は、孫策を面倒みる。袁術&孫堅の命令どおり動くのは、疑いない。袁術は荊州をおさえ、孫堅を豫州牧とし、つぎは徐州をねらう、という見通しがあったか。


袁術からの独立を、孫策に提案

會堅薨,治扶翼策,依就袁術。後知術政德不立,乃勸策還平江東。時太傅馬日磾在壽春,辟治為掾,遷吳郡都尉。

孫堅が死ぬと、朱治は孫策を扶翼し、袁術をたよる。

ぼくは思う。朱治は徐州のどこかに駐屯して、黄巾を牽制したのか。陶謙は、劉備を使うみたいに、そとの将軍の力を借りる。朱治が使われても不思議ではない。
孫堅の死後、孫賁が集団をひきい、孫策は徐州で、陶謙に虐げられた。孫策を「扶翼」して徐州から連れ出し、袁術のもとに連れたのが朱治である、とか。張昭・張紘をゲットする前の孫策は、朱治に導かれた。

のちに朱治は、袁術の政治は徳が立たぬと知り、孫策に(故郷に)還り、江東を平定せよと勧めた。

袁術の根拠地・寿春は、長江の西北。呉郡や丹楊郡は、長江の東南。
朱治伝で、孫策がすぐに従わない。袁術との距離感は、かなり難しい判断。袁術が皇帝のことを言わずとも、朱治からしたら、「いちど頼ってみたものの、ダメだこりゃ」であった。朱治は、揚州の西北(袁術)ではなく、揚州の東南(のちの呉)に割拠すべしと、孫策に教えたひとである。父代わりといえる。

ときに太傅の馬日磾が、寿春におり、朱治を辟して太傅の掾・呉郡都尉とした。

呉軍都尉の治所は銭唐である。程普伝をみよ。
ぼくは思う。馬日磾は、朱治を属僚とし、馬日磾を中心としたネットワークをつくる。「長安の皇帝のために、秩序を築こう」とか「オレの党派を増やそう」とか「袁術集団の求心力を削ごう」とか、意図はいろいろあろうが、官職の任命は、強制的に人間関係を作り変える。袁術にとっての、最大の味方=ライバルは、馬日磾であろう。


是時吳景已在丹楊,而策為術攻廬江,於是劉繇恐為袁、孫所並,遂構嫌隙。而策家門盡在州下,治乃使人於曲阿迎太妃及權兄弟,所以供奉輔護,甚有恩紀。

ときに呉景が丹楊におり、孫策は袁術のために廬江を攻める。こうして劉陽は袁術・孫策に併呑されるのを恐れ、袁術・孫策を警戒した。

ぼくは思う。劉繇は、はじめから袁術に対抗するため、揚州に派遣されたのではないと気づく。長安の李傕政権は、現状を追認する傾向がある。袁術の割拠を認めつつ、ただし袁術だけが強大になるのを防ぐため、劉繇を派遣した。
呉景伝によると、呉景らは劉繇を「迎」えた。これが歓迎なのか迎撃なのか分からないが、初めから戦闘的なのはおかしい。歓迎したのか。のちに劉繇が、孫策の勢いを見て、身の危険を感じて、「揚州の争奪」を仕掛けたと。

孫策の家門が、尽く州下(劉繇の州治である曲阿)にいるから、朱治は曲阿にひとをやり、孫策母および孫権の兄弟を迎えた(曲阿から逃がした)。朱治がおこなった供奉・輔護(送迎と護衛)には、恩紀があった。

曲阿は孫策伝にみえ、呉は雲陽と改めた。
ぼくは思う。朱治にすれば、「袁術は将来性がなく、孫策は将来性がある」であり、孫堅はもと上官であり、恩人である。早くから孫氏一族に、頼りがいを見出したという点で、朱治は家族レベルの運命共同体である。
すでに朱治は、袁術が(皇帝の自称を検討する、遥か前から)将来性がないと思っている。しかし、孫策が袁術の部将であるうちは、表だって袁術に叛逆しない。
孫策伝によると、孫策の母は、曲阿から歴陽にうつる。つぎに孫策は、母を阜陵(九江)にうつす。長江の西は袁術、東は劉繇の勢力圏だから、東から西に移したのだろう。朱治は、孫策の家族を寿春まで運ばず、丹陽のそばで止まった。袁術からの「独立」を視野にいれた、朱治の「先走り」ではないか。
移送したあと、朱治が孫権と対面するシーンがあるよね、きっと。


朱治が呉郡太守となる

治從錢唐欲進到吳,吳郡太守許貢拒之於由拳,治與戰,大破之。貢南就山賊嚴白虎,治遂入郡,領太守事。策既走劉繇,東定會稽。

朱治は銭唐から呉郡に進もうとすると、呉郡太守の許貢は、朱治を拒んだ。朱治と許貢は、由拳で戦った。朱治は、おおいに許貢を破った。

由拳県は、孫策伝にある。呉の黄龍三年、由拳を禾興に改め、赤烏五年に嘉興に改めた。
孫策伝で、朱治・孫策が、ともに許貢を討ったとは見えない。孫策と並行し、別れて戦ったか。孫策の部下でなく、袁術軍の同僚である。だから、孫呉が君主権を確立するとき、朱氏がジャマっぽくなり、諸葛瑾が孫権に、朱治を弁護する。

許貢は南へゆき、山賊の厳白虎をたよった。朱治は、呉郡(の郡治)に入った。呉郡太守事を領した。

盧弼はいう。呉郡を平定したのは、朱治の功績である。のちに孫策は、許貢の食客に殺された。仇討の火種を作った。
朱治としては、丹陽・呉郡といった東南の確保を最優先すべき。孫策は、北東の曲阿で劉繇と戦っているが、これは袁術のための戦い。「孫策にその気がなくても、きたるべき孫策の国の領土を先に確保しておく」というのが、朱治の動きでは。袁術との関係よりも、呉郡・会稽を重視するのが朱治。さっき本伝で「江東にいけ」と言ってた。

孫策は、すでに劉繇を追い出し、東のかた会稽を定む。

ぼくは思う。孫策の会稽平定は、袁術に手柄を認めてもらうための転進。これが偶然、朱治が準備したマップ(江東の平定)に、孫策が重なってきた。
孫策の背後を固める朱治は、袁術の呉郡太守に等しい。朱治は、袁術に将来性がないと考えている。主観的には「孫氏の臣」でありたいが、まだ若い孫策は官職がひくく、朱治は「袁術の部将」の立場で、しばらくステイ。
のち202年に孫権が上表し、朱治を呉郡太守とする。つまり孫権が上表するまで、朱治は、正式な呉郡太守であってはならない。ただしこれは『呉志』の都合だ。きっと袁術の名義で、呉郡太守であった。「領太守事」と記すのは、孫権の202年の上表をムダにしないための、記述のうえでの配慮。


朱治が孫権に仕える

權年十五,治舉為孝廉。後策薨,治與張昭等共尊奉權。

孫権が15歳のとき、朱治が孝廉にあげた。

盧弼がいう。孫権が15歳なのは、興平二年(195) である。孫権は、呉郡の富春のひと。ゆえに朱治は、呉郡から孝廉にあげた。
ぼくは思う。朱治が許貢から呉郡を奪った(袁術が呉郡を得た)のは、195年までと判明。のちに孫策が、袁術から曹操に乗り換えたとき、呉郡を保ったまま、孫策に連動して乗り換えたのだろう。「袁術に将来性なし」とする朱治の見通しは、袁術の称帝によって、見通しの甘さが顕在化して、やっと孫策にも気づいてもらえた。

孫策が薨ずると、朱治は張昭とともに孫権を尊奉した。

盧弼がいう。朱治は呉郡、孫策は会稽を領した。朱治と孫策は、地位が対等。孫権が継いだとき、まだ20歳。しかし朱治は孫権をかつぐ。朱治は孫氏の父子と周旋し、張昭・周瑜が孫権の将来性をいうから、朱治は心服した。孫権は会稽太守を領したが、呉県に屯した。久しく(呉郡と会稽、朱治と孫権の)境界があいまい
ぼくは思う。孫策を失った後、「再び混沌となるより、(孫堅・孫策の遺徳をつぐ)孫権を担いだほうがマシ」と考え、朱治が領土支配の代理人になって、孫権をトップにした。周瑜・張昭も重要人物だが、呉郡・会稽を支配するひとではない。


建安七年權、表治爲九真太守、行扶義將軍、割婁、由拳、無錫、毗陵、爲奉邑、置長吏。征討夷越、佐定東南、禽截黃巾餘類、陳敗、萬秉等。黃武元年、封毗陵侯、領郡如故。二年、拜安國將軍、金印紫綬、徙封故鄣。

建安七年(202) 孫権は表して、朱治を九真太守・行扶義将軍とした。

潘眉はいう。「九真」ではなく呉郡太守。奉邑も、呉郡のなか。このとき、孫策・孫権は九真を支配下に置いていないから、やはり九真太守はおかしい。
沈家本はいう。朱治は、呉郡都尉として太守事を領したが、ここで上表され「真の太守」となった。「九」が衍字である。
盧弼はいう。孫賁伝はいう。豫章を定めて、上して孫賁に豫章太守を領させたと。これは孫策が上表して、孫賁を豫章太守にした。呉夫人伝はいう。孫策は呉景を丹陽太守とした。漢は議郎の王誧に南行させ、呉景を表して揚武将軍とし、郡を領すると故の如し。これら、孫策が渡河して長吏を更めて置き、みな上表して(孫策が曹操に)許可をとったから、孫権が上表するのを待たない。あるいは、ときに漢はすでに陳瑀を行呉郡太守として(孫策伝にひく『江表伝』)孫策は陳瑀と戦っており、上表が(呉郡太守に関してだけは曹操に)届いていなかったか。

婁県・由拳・無錫・毗陵をさいて奉邑とし、長吏を置かせた。

婁県は張昭伝に、由拳は朱治伝に、無錫は孫瑜伝に、毗陵は諸葛瑾伝にある。奉邑については、周瑜伝に盧弼が解いた。

朱治は、夷越を征討し、東南の平定をたすけ、黄巾の餘類である陳敗・萬秉を禽截した。

『范書』皇甫嵩伝では、黄巾は「青・徐・幽・冀・荊・楊・兗・豫 八州」にひろまる。揚州が入っていない。黄巾の残党が、揚州にも流入していたか。たとえば、陶謙を悩ませ、朱治が戦ったという徐州の黄巾とか。名士や流民が、徐州から揚州に流れてくるなら、黄巾だって流れてくる。


孫権から特に礼遇される

黃武元年、封毗陵侯、領郡如故。二年、拜安國將軍、金印紫綬、徙封故鄣

黄武元年(222) 毗陵侯に封じられ、呉郡太守はもとのまま。黄武二年(223) 安国將軍を拝し、

安国将軍は、定員1名、呉がおく。杭世駿はいう。『刀剣録』によると、朱君理は安国将軍を拝し、佩刀1つ作り「安国」ときざむ。

金印・紫綬、徙して(本籍の)故鄣に封ず。

『続漢志』輿服志はいう。公侯・将軍は紫綬である。劉昭注はいう。『前書』によると、太尉は金印紫綬で、将軍も金印である。『漢官儀』はいう。馬防が車騎将軍となると、銀印・青綬であった。和帝は(外戚の)竇憲を車騎将軍にしたとき、はじめて金印・紫綬をくわえた。


。權、歷位上將、及爲吳王、治每進見、權常親迎、執版交拜、饗宴贈賜、恩敬特隆。至從行吏、皆得奉贄私覿。其見異、如此。

孫権は上将を歴位し、呉王になる。朱治は進見するたび、孫権がつねに親迎し、版を執り交拝した。饗宴・贈賜、恩敬は特に隆い。朱治の従行吏まで、みな(孫権に)贄を奉り、個別に会えた。孫権が朱治を特に敬うのは、こんなふう。

諸葛瑾伝はいう。呉郡太守の朱治は、孫権の挙将である。孫権はかつて朱治に不満があったが、それを言えずに、自分を責めてしまった。諸葛瑾はそれを知り、孫権のストレスを解除してあげた。
ちくま訳 諸葛瑾伝:孫権が、朱治に強い不満を持った。しかし平生より、孫権は朱治に礼を尽くしており、詰問は憚られた。言いたいことが言えず、怒りが内攻するばかり。。諸葛瑾はそれを勘付き、あからさまに指摘せず、「自問自答してみたい」と言い出した。諸葛瑾は、孫権の面前で手紙を書き、道理を論じて朱治を責めた。次に諸葛瑾は、朱治になり代わって、弁明の手紙を書いた。孫権は笑って、喜んだ。「納得できた。顔回の徳は、人に親密な関係をもたらしたと言うが、諸葛瑾の振る舞いを指しているのだろうか」と。ぼくが創作した手紙の文面は、こちら。
ぼくは思う。孫権にすれば、朱治は、父の孫堅の代わりであり、挙将としては「上官」にあたる。孫堅の部将たちが、のきなみ「脳みそ筋肉」であるなか、朱治はそうではないから、人間関係のトラブルのもと。


朱治が、孫翊・孫賁をみちびく

初、權弟翊、性峭急、喜怒快意。治、數責數諭以道義。權從兄豫章太守賁、女爲曹公子婦、及曹公破荊州、威震南土、賁畏懼、欲遣子入質。治聞之、求往見賁、爲陳安危、賁由此遂止。

はじめ孫権の弟の孫翊は、性は峭急で、喜怒は快意。朱治は、しばしば道義により孫翊を諭す。

銭大昭はいう。朱治は、孫翊の挙主である。盧弼はいう。孫翊は(その性格のせいで)左右の辺鴻に殺された。孫翊伝にある。
ぼくは思う。朱治が31年間も呉郡太守をするから、富春孫氏は、みな「朱治を挙主として」世に出るしかない。のきなみ朱治に頭が上がらない。すごい制約である。この絶大的な権限は、朱治が孫策・孫権にたてた功績の大きさを示す。

孫権の従兄である豫章太守の孫賁は、娘を曹操の子に嫁がせた。曹操が荊州を破ると、威は南土を震わし、孫賁は畏懼して、子を曹操に送って質に入れかけた。朱治は孫賁を説得し、思い留まらせた。

曹彰は孫賁の娘をめとった。孫賁伝にある。孫賁伝によると、建安十三年、曹操の使者の劉隠が、詔を奉じて、孫賁を征虜将軍とし、豫章太守はもとのまま。
ぼくは思う。孫賁を説得したところから、朱治が孫堅の代理として、孫氏のモトジメであると分かる。孫権では、世代が下だし、若いから、孫翊・孫賁に指示を出せない。孫堅の代理としての朱治なら、その調整ができる。


江表傳載治說賁曰「破虜將軍昔率義兵入討董卓、聲冠中夏、義士壯之。討逆繼世、廓定六郡、特以君侯骨肉至親、器爲時生、故表漢朝、剖符大郡、兼建將校、仍關綜兩府、榮冠宗室、爲遠近所瞻。加討虜聰明神武、繼承洪業、攬結英雄、周濟世務、軍衆日盛、事業日隆、雖昔蕭王之在河北、無以加也、必克成王基、應運東南。故劉玄德遠布腹心、求見拯救、此天下所共知也。前在東聞道路之言、云將軍有異趣、良用憮然。今曹公阻兵、傾覆漢室、幼帝流離、百姓元元未知所歸。而中國蕭條、或百里無煙、城邑空虛、道殣相望、士歎於外、婦怨乎室、加之以師旅、因之以飢饉、以此料之、豈能越長江與我爭利哉?將軍當斯時也、而欲背骨肉之親、違萬安之計、割同氣之膚、啖虎狼之口、爲一女子、改慮易圖、失機毫釐、差以千里、豈不惜哉!」

『江表伝』は、朱治が孫賁に説いた言葉を載せる。いかにも事後的な創作。

呉郡を31年おさめて死ぬ

權常歎、治憂勤王事。性儉約、雖在富貴、車服惟供事。權優異之、自令督軍御史、典屬城文書。治、領四縣租稅而已。然、公族子弟及吳四姓多出仕郡、郡吏常以千數。治、率數年一遣詣王府、所遣數百人。每歲時獻御、權答報過厚。是時、丹楊深地、頻有姦叛。亦、以年向老、思戀土風、自表、屯故鄣、鎭撫山越。諸父老故人、莫不詣門。治、皆引進、與共飲宴。鄉黨以爲榮。在故鄣歲餘、還吳。黃武三年卒、在郡三十一年、年六十九。

つねに孫権は、朱治が王事に憂勤してくれるから、歎じた。朱治は倹約し、富貴でも車服は供事(用をなす必要最低限)だけ。孫権は優異し、朱治は(特権により)自ら督軍・御史をして属城の文書を典らしめた。朱治は4県を領し、租税するだけ。

4県とは、婁県・由拳・無錫・毗陵である。
ぼくは思う。朱治に太守の実務をやらせず、軍事・行政にわたって、督軍・御史が文書を管理したか。太守の仕事の煩雑さから解放したか。監察官であるはずの督軍・御史が、呉郡に属する城の文書を管轄した。監察官に行政長官を兼務? させたら(監察するひとがおらず)チェック機能が働かない。朱治をラクにするにしても、組織論としては、おかしい。ぼくの読み方が違うのか。
国名の「呉」であり、かつ呉の四姓を輩出した、特別な郡には、特別な統治が行われたと。すると朱治のもとで、呉郡の督軍・御史(実務官)から、有能な政治家が出てきそう。探してみよう。

しかし、公族の子弟および呉の四姓は、おおくが出て郡に仕え、郡吏はつねに千を数える。朱治は、数年に1度、数千をひきいて王府に詣るとき、数百人が同行する。祭時ごとに献御し、孫権からの返礼も手厚い。

孫権は、建業・柴桑・武昌を動く。呉王・呉帝になるのに、海沿いの故郷=呉郡は、ほったらかし。領土の東端で、魏蜀との戦争・外交に不向きだからか。ここを孫権は、朱治に委任。朱治は「なんちゃって呉王」である。王の爵位はないが、孫権からの特別な敬意と、支配の実効がある。富春孫氏のみならず、呉の四姓まで、朱治を挙主にしないと、世に出られない!


是時、丹楊深地、頻有姦叛。亦、以年向老、思戀土風、自表、屯故鄣、鎭撫山越。諸父老故人、莫不詣門。治、皆引進、與共飲宴。鄉黨以爲榮。在故鄣歲餘、還吳。黃武三年卒、在郡三十一年、年六十九。

このとき、丹楊は深地で、しきりに姦叛あり。また、朱治は老年となり、故郷の土風を思恋し、自ら表して(故郷であり、統治の課題があって朱治の手が必要な)故鄣に屯して、山越を鎮撫した。

ぼくは思う。朱治の後任の呉郡太守を、追跡しなければならない。特殊な「委任統治領」に、その後、どうやって君主権力が分け入ったか。

父老・故人は、みな朱治の門に詣る。朱治は、もれなく引進し、ともに飲宴した。郷党は(朱治との飲宴を)栄誉とした。故鄣にきて1年余、呉郡に還った。黄武三年(224) に卒した。呉郡にあること31年、69歳であった。

朱治が「呉郡」を管理した生前、孫権は皇帝に即位せず。「朱治がジャマで呉帝とならず」ということはあるまいが、朱治の死は、きっと時代の転換点として、同世代から感慨ぶかく眺められた。
呉郡太守の朱治=笑っていいとも!のタモリ説。30余年も1つのところを主催し、ゆるやかな場を提供して、数々の人材を輩出し(富春孫氏も、呉の四姓も、みな朱治の属吏としてキャリアを始めた)、彼と交際することがその世界で名誉なこととされた。タモリが笑っていいとも!を終えたとき、満69歳。ほぼ同じじゃないか。


朱才伝・朱紀伝・朱琬伝

子才、素爲校尉領兵、既嗣父爵、遷偏將軍。
吳書曰。才字君業、爲人精敏、善騎射、權愛異之、常侍從游戲。少以父任爲武衞校尉、領兵隨從征伐、屢有功捷。本郡議者以才少處榮貴、未留意於鄉黨、才乃歎曰「我初爲將、謂跨馬蹈敵、當身履鋒、足以揚名、不知鄉黨復追迹其舉措乎!」於是更折節爲恭、留意於賓客、輕財尚義、施不望報、又學兵法、名聲始聞於遠近。會疾卒。

朱治の子は、朱才といい、校尉となり兵を領す。父の爵位をつぎ、偏将軍に遷る。
『呉書』はいう。朱才はあざなを君業といい、

朱治はあざなを君理という。1字を共有している。

人となりは精敏で、騎射を善くし、孫権は愛し異とす。つねに游戲に侍従す。若きとき、父(の高位)により武衛校尉となり、兵を領して征伐に随従し、功捷あり。

武衛校尉は、定員1名、呉がおく。←また情報が増えず

本郡(丹陽)の議者は、「朱才は若くから栄貴となり、郷党に意を留めない」と批判した。朱才は歎じた。「私は部将となって戦場を経験してきた。郷党が、わが挙措を追跡し(注目してる)ことを知らなかった」と。態度を改め、節を折り恭となり、意を賓客に留め、財を軽んじ義を尚び、施しても返礼を望まず、兵法を学び、やっと名声が遠近に聞こえた。病没した。

ぼくは思う。「郷里」の粘着した視線が、とても怖い。孫権という君主権力のそばにいると、在地のネットリした人脈のことを忘れてしまうが、郷里からの支持を失ったら、足をひっぱられる。このあたりは、丹陽ないしは呉領は、與那覇潤氏の唱える「江戸時代」モデルである。


才弟紀、權以策女妻之、亦以校尉領兵。紀弟緯、萬歲、皆早夭。才子琬、襲爵爲將、至鎭西將軍。

朱才の弟は、朱紀である。孫策の娘をめとり、校尉となり兵を領す。

ぼくは思う。孫策の娘をめとっても、めぼしい功績がない。そういうことも「許される」わけか。陸遜は、孫策のむこだからではなく、彼自身の有能さによって、大役を受けたことが分かる。

朱紀の弟の朱緯・朱萬歲は、早夭した。

「萬歳」は、幼名ないしは小字だろう。皮肉にも夭折した。

朱才の子の朱琬は、爵位をつぎ(朱治-朱才-朱琬と継承されて)鎮西将軍となった。160614

『呉志』巻十三 陸抗伝に「晉巴東監軍徐胤率水軍詣建平,荊州刺史楊肇至西陵。抗令張咸固守其城;公安督孫遵巡南岸禦祜;水軍督留慮、鎮西將軍朱琬拒胤;身率三軍,憑圍對肇。將軍朱喬、營都督俞贊亡詣肇」とあり、晋将の徐胤をふせぐ。ぼくが検索した限り、朱琬はほかに『陳志』『晋書』にみえず。

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曹丕から江陵を守る、朱然伝

朱然が孫策に仕える

朱然、字義封、治姊子也、本姓施氏。初、治未有子、然、年十三、乃啓策乞以爲嗣。策、命丹楊郡、以羊酒、召然。然到吳、策優以禮賀。然、嘗與權同學書、結恩愛。

朱然は、あざなを義封といい、朱治の姉の子。本姓は施氏。

趙一清はいう。昌黎は『太学博士施士丏墓銘』にいう。先生の祖先は、氏は施父から出て、子孫の施常が孔子につかえ、施讎は博士となり、施延は太尉となった。太尉の孫は、はじめて呉にゆく。朱然・朱績の事績も墓銘にある。つまり朱然・朱琬は、太尉の施延の子孫である。
‏@goushuouji さんはいう。『太学博士施士丏墓銘』を作った昌黎は唐の文人韓愈のことですね(自称昌黎出身)
ぼくは思う。『范書』順帝紀 陽嘉二年(133) に「秋七月己未,太尉龐參免。八月己巳,大鴻臚沛國施延為太尉」とあり、李賢注に「延字君子,蘄縣人也」とある。同じく陽嘉四年(135) に「夏四月甲子,太尉施延免」とある。太尉の施延は、沛国蘄県のひと。つまり丹陽朱氏(朱治の姉)は、三公の傍裔と婚姻したと。順帝期のひとの孫が呉に移住したなら、まさに後漢末の出来事ではないか。

はじめ朱治に子がなく、朱然が13歳のとき、朱治が孫策に「朱然を嗣にしたい」と啓した。孫策は丹陽郡に命じ、羊酒もて朱然を召した。

ぼくは思う。丹陽太守は、孫策のおじの呉景か。朱治が、わざわざ孫策に申し入れてる。孫策が、袁術から曹操に移籍して、集団のトップと認識された時期だろう。
記述がないが、このとき施氏は、丹陽にいたか。もしくは、呉景が立会人となって、この「養子」取りをオフィシャルなものにしたか。

朱然は(朱治が太守を務める)呉郡にいたり、孫策は優に禮賀した。朱然は、孫権とともに(朱治の治める呉郡で)書を学び、恩愛を結ぶ。

朱然は、「年六十八、赤烏十二年卒」とあるから、孫権と同年。
朱治にすれば、孫権も朱然も「養子」みたいなもの。孫権は、朱治によって劉繇のもとから救出され、曲阿-歴陽-阜陵ときて、呉郡に落ち着いたのだろう。


孫権に仕え、会稽を治める

至權統事、以然爲餘姚長、時年十九。後、遷山陰令、加折衝校尉、督五縣。權、奇其能、分丹楊爲臨川郡、然爲太守、

孫権が統事すると、朱然は(会稽の)餘姚長となる。ときに19歳。

余姚は孫策伝にみえる。趙一清によると、『方輿紀要』巻九十二はいう。余姚県に新旧2城があり、旧城は呉将の朱然が築いた。周囲は2里に及ばず、のちに廃れた。ぼくは思う。朱然が肩肘はって、小さいけど自分なりの城を築いた。19歳の企画することで、数百年先まで堪えるものではなかったが、がんばった。
光和五年(182) 生まれで、建安五年(200) 孫権がついだのと同時に、朱然は県長となった。孫権が会稽太守で、その領域内で朱然は県長をやってる。この「上下関係」は、あまり重要ではない。孫権は会稽に赴任せず、呉郡で朱治に庇護されていた。

のちに山陰令に移り、折衝校尉を加えられ、5県を督す。

山陰は、孫策伝にみえる。
ぼくは思う。山陰は、会稽の郡治。郡治の県令として、かつ複数の(5つの)県を督するとは、実質的には太守である。孫権がなのる会稽太守は、孫策から継ぎ、曹操に承認されたもので、孫氏集団のトップを示す肩書き。しかし実務は、朱然がする。つまり、名実ともに呉郡太守は朱治、実の会稽太守は朱然(名の会稽太守は孫権)という体制。朱氏は、在地支配において、孫氏の代行者。
『呉志』顧雍伝はいう。孫権が会稽太守を領すると、郡にゆかず、顧雍を丞として、太守事を行せしめた。朱然との役割分担はいかに。

孫権は、朱然の能を奇とし、丹陽を分けて臨川郡とし、朱然を太守とした。

裴松之はいう。この郡はすぐに(尋=ついで)廃され、いま臨川郡はない。
呉増僅はいう。朱然伝にある臨川郡をおくのは、建安末のこと。『呉志』周魴伝に「豫章・臨川」と並列される。裴注によると、孫亮の太平二年、はじめて臨川郡をおいたとされ、これ以前、臨川郡はないのか。呉増僅が考えるに、周魴が発言したのは、黄武七年で、建安末から10年も過ぎない。黄武期、臨川郡があったのでは。黄武より後、臨川郡が廃されたか。すると裴松之の「すぐに廃す」はおかしい。
周魴伝がいう臨川(朱然が任された郡)の属県は、だいたい西は豫章に接し、東は丹陽に接し、南は新都に接し、臨城・石城らの県を含みそう。孫休期におかれた臨川とは、名は同じで地が異なる。
盧弼はいう。丹陽を分けたのは(朱然伝の記述順序によると)曹操が濡須に出てくる前。建安十年代であり、建安末ではない。その他のことは、周魴伝をみよ。
ぼくは思う。朱然が「山陰令として会稽の5県を督す」から、「臨川太守」に移ったのは、いつか。孫権が会稽太守から徐州牧(自称)になるのは、建安十四年である。だれが孫権の後任の会稽太守になったかで、だいぶ決まってきそう。


授兵二千人。會、山賊盛起。然、平討、旬月而定。曹公出濡須、然備大塢及三關屯、拜偏將軍。

兵2千人を授ける。このとき山賊が(臨川郡で)盛起す。朱然は平討し、旬月にして定む。 曹公が濡須に出ると、

曹操が濡須に出るのは、建安十八年と建安二十二年。呂蒙が濡須塢を築くのは、建安十八年に間にあい、主要な戦闘は、建安二十二年。朱然が塢を建設するのなら、建安十八年のほうに係る記事か。

朱然は、大塢および三関屯をつくって備え、偏將軍を拝す。

趙一清はいう。大塢は濡須塢である。三関屯とは、東興関である。関は、三面を険に面して、ゆえに呉人は屯をつくった。ぼくは補う。のちに諸葛恪が司馬師を破る。
ぼくは思う。濡須で勝つまで、朱然は、国内の統治だけをした。いま朱然の名が、曹操らに認知された(と孫権たちが認識した)。呉で「陸遜のような無名」のカテゴリを脱した。「荊州に投入した場合、関羽に警戒されるかも知れない」人材となった。


関羽をとらえる

建安二十四年、從討關羽、別與潘璋到臨沮禽羽、遷昭武將軍、封西安鄉侯。

建安二十四年、従って関羽を討ち(孫権と)別れて潘璋とともに臨沮で関羽を禽らえ、昭武將軍に遷り、西安郷侯に封ぜらる。

潘璋伝:配下が関羽を禽えた:潘璋伝
西安は太史慈伝にある。
ぼくは思う。関羽の仇敵になった朱然に、『演義』第八十四回は、残酷な結末を準備する。夷陵で趙雲に、脈絡なく遭遇し、一突きで絶命。「(趙)雲正殺之間、忽遇朱然、便與交鋒。不一合、一鎗刺朱然於馬下、殺散吳兵、救出先主、望白帝城而走」と。史実は249年に68歳で死ぬ。


虎威將軍呂蒙病篤、權問曰「卿如不起、誰可代者?」蒙對曰「朱然、膽守有餘、愚以爲可任」蒙卒、權假然節、鎭江陵。黃武元年、劉備舉兵攻宜都、然督五千人與陸遜幷力拒備。然、別攻破備前鋒、斷其後道、備遂破走。拜征北將軍、封永安侯。

虎威將軍の呂蒙が病篤となり、孫権は問う。「卿 如し起たずんば、誰か代はる可きか」と。呂蒙「朱然は胆守して余あり、愚おもへらく任ず可し」と。

李安渓はいう。呂蒙は、陸議・朱然を挙げた。人材を知る。
ぼくは思う。かつて呂蒙が「二枚舌」を使ったと思いましたが、ちがう。関羽の存命中、呂蒙が病気になると、陸遜は「偏将軍・右部督」として呂蒙に代わり、関羽を攻めた。宜都太守となり、蜀との国境を任された。関羽の没後、呂蒙が死ぬとき、朱然があたかも呂蒙の「南郡太守」を継ぐように、荊州を治めさせた。呂蒙の対蜀の司令官(将軍職の機能)を陸遜がつぎ、呂蒙の荊州の行政官(太守の機能)を朱然がついだか。陸遜へのバトンタッチは関羽の生前に、朱然へのバトンタッチは関羽の死後に行われた。二枚舌じゃなかった。

呂蒙が死ぬと、孫権は朱然に節を仮し、江陵に鎮せしむ。

江陵は南郡の治所。陸遜が前線の宜都に、朱然が中核の江陵にいる。この時期、南郡太守がべつに任命されていないか、チェックせねば。
関羽との戦いの前後で比較。朱然は、関羽の捕獲をトリガーにした昇進なし。陸遜は、まず偏将軍・右部督となり、攻め進んで、宜都太守・撫辺将軍となり、関羽以外の蜀の残党を討って、右護軍・鎮西将軍となる。
呂蒙の病死の前後で比較。朱然は、朱然に節を仮し、江陵に鎮す(南郡太守ではない)。陸遜は、呂蒙の死をトリガーにした昇進はない。同時期に荊州の平定を進め、自力で昇進していた。


夷陵の戦い

黃武元年、劉備舉兵攻宜都、然督五千人與陸遜幷力拒備。然、別攻破備前鋒、斷其後道、備遂破走。拜征北將軍、封永安侯。

黄武元年(222) 劉備が宜都を攻め、朱然は5千人を督して、陸遜とともに劉備を拒ぐ。朱然は、別れて劉備の前鋒を攻破し、その後道を断つ。

ぼくは思う。陸遜伝に、陸遜がひきいたのは「朱然・潘璋・宋謙・韓當・徐盛・鮮于丹・孫桓ら、5万」とある。宿将の韓当よりも、朱然が先で、不自然。朱然伝にあるように、陸遜の配下から外れ、「もう一方の指揮官」として別働隊をひきいたか。陸遜が諸将に突き上げられたとき、朱然はそばにいない。

劉備は破れ走げた。征北将軍を拝し、永安侯に封ぜらる。

宜都は先主伝 章武二年、永安は孫休伝 永安元年をみよ。
夷陵の戦いの前後で比較。朱然は、戦後に征北将軍となる。陸遜は、劉備がくると大都督・仮節、勝つと輔国将軍・荊州牧。これを見ると、なぜか朱然は、荊州で地方長官にならない対蜀の戦争・外交をひっくるめ、孫権は陸遜にまるごと委任するつもりか、朱然は脇役となる。将軍職をおびて、陸遜を助けるだけ。呂蒙の遺言は、「暫定的に朱然が江陵を抑え、陸遜の荊州平定(関羽の残党狩り)を支える」として実現された。この残党狩りで成果があがったので、劉備が東下したときも、司令官は陸遜となったのでしょう。
戦後、陸遜が荊州牧となったとき、行政官としての機能も、陸遜に統合された。これは、夷陵で、陸遜が(すでに故人である呂蒙が想像できなかったほど)成長して、功績を立てたからだろう。前提が変われば、結論も変わる。
陸遜は、何段階も「期待を越える成長」をして、官職があがっていく。朱然が嫉妬しそうだが、少なくとも歴史家に検知された、嫉妬エピソードはない。
むしろ朱然の「征北」という号に見えるように、「陸遜が蜀なら、朱然には魏を任せたい」という、孫権の視線のシフトと、人材の使い分けが見えるか。夷陵の戦いが収束するや否や(収束する前から)魏の脅威が、現実化してくる。陸遜伝にみえる。
『呉志』巻十三 陸遜伝・陸抗伝をよむ:呉蜀同盟のあたり


魏軍から江陵を守る

魏、遣曹真、夏侯尚、張郃等、攻江陵。魏文帝自住宛、爲其勢援、連屯圍城。

魏は曹真・夏侯尚・張郃らに、江陵を攻めさせた。曹丕も宛にきて、勢を援けた。屯を連ね、江陵城を囲む。

南陽の治所は宛県。武帝紀 巻首をみよ。
『魏志』文帝紀に、黄初三年(222) 十月、孫権がふたたび叛し、曹丕は許昌から南征した。十一月、宛にくる。翌年三月、宛から洛陽に還ると。
ぼくは思う。陸遜が(宜都で?)劉備と停戦交渉をしている最中に、黄初三年冬、曹丕が南陽に表れ、曹真・夏侯尚・張郃が、朱然の守る江陵を包囲した。同年秋に夷陵で終わったばかりで、停戦協定はまだ。もしも朱然が負けたら、陸遜は西に劉備、東に魏軍から挟まれる。陸遜伝にひく『呉録』で劉備は、陸遜の足もとを見て、不敵にも「蜀軍が江陵を救ってやろうか」と言い出す。
劉備に「悲歎に暮れた晩年」はなく、夷陵の戦後も、魏呉の動静を注視し、自軍に有利な展開を模索した。「魏から江陵を救う」名目で呉と同盟し、魏軍が撤退したら、「呉は江陵を蜀にゆずれ」と主張するか、そのまま江陵に居座るかして、夷陵の失点を挽回するつもりか。死ぬまで「狡猾」な劉備である。
ときに陸遜の配下の徐盛は、魏の脅威を顧みず、まだ「白帝城の劉備を殺して、蜀を滅ぼす」と逸る。劉備は「蜀軍が魏から江陵を救う」と脅迫し、最期の計略を仕掛ける。陸遜が内外の危機を乗り越え、夷陵の激戦から一転、呉蜀同盟を組めたのは、朱然が江陵を死守したおかげ。このとき陸遜がつくった呉蜀同盟は、40年後に蜀が滅びるときまで、維持される。「歴史をつくった」瞬間だ。朱然すごい!


權、遣將軍孫盛督萬人、備州上、立圍塢、爲然外救。郃、渡兵攻盛。盛、不能拒、卽時卻退。郃、據州上圍守。然、中外斷絕。權、遣潘璋楊粲等、解、而圍不解。

孫権は、将軍の孫盛らに1万人を督させ、州上(百里州という中洲)に配備し、囲塢(防壁に囲まれた塢)を立て、朱然を外から救う。

『通鑑』によると、孫盛は江陵の中州に拠り、南郡を外援する。胡三省によると、潘濬伝に「江陵の中洲とは、百里州である」とある。

張郃は、兵を(百里州)に兵を渡し、盛んに攻めた。孫盛は拒げず、撤退した。

『通鑑』によると、黄初四年春正月、曹真は張郃に呉兵を撃たせ、ついに江陵の中洲を奪ったと。

張郃は百里州にのぼり、囲んで守った。朱然は、中外(城内の朱然と、城外の孫盛と)が断絶した。孫権は、潘璋・楊粲らを使わし、魏軍の包囲を解こうとしたが、解けない。

潘璋伝にはいう。夏侯尚らが南郡(江陵)を囲むと、前部3万人を分け、浮橋をつくり、百里洲の上に渡った。諸葛瑾・楊粲は、兵をあつめ赴き救うが、手出しができない。魏兵は日に日に渡って増える。潘璋「魏勢は始め盛んで、江水も浅い。まだ戦うな」と。魏の上流50里にゆき、葦を伐って数百万束をつくり、縛って大筏をつくり、上流から流して火を放ち、浮橋を焼き壊そうとした。水が深くなるのを待つ。夏侯尚は(潘璋に気づいて)撤退した。潘璋は流れを下り、陸口で備えた。
ぼくは思う。陸遜が、劉備との戦後処理をしているとき、朱然・潘濬のような「関羽を捕らえたメンバー」で、魏軍に対処している。


時然城中兵多腫病、堪戰者裁五千人。真等起土山、鑿地道、立樓櫓、臨城、弓矢雨注、將士皆失色。然、晏如而無恐意、方厲吏士、伺閒隙、攻破兩屯。魏攻圍然、凡六月日、未退。江陵令姚泰、領兵、備城北門、見外兵盛、城中人少、穀食欲盡、因與敵交通、謀爲內應。垂發、事覺、然治戮泰。尚等、不能克、乃徹攻退還。由是、然名震於敵國、改封當陽侯。

ときに朱然の(江陵)城中では、兵が腫病が多く、戦えるのは5千人を切る。曹真らは土山をつくり、地道をうがつ。樓櫓をたて、城に臨み、弓矢は雨のごとく注ぐ。将士は、みな色を失う。

ぼくは思う。これほどの堅城を、関羽から計略だけで奪ったのだから、呂蒙は偉大である。前年、劉備が宜都に出てきたのも、江陵を狙って。というか、白帝城の劉備は、まだ江陵を諦めていない。魏も、江陵を欲している。「荊州は争奪の対象となる」というが、端的には「江陵は争奪の対象となる」である。
劉表が物資を蓄積し、曹操がここを抑えたときから、全ては始まった。

朱然は、晏如として恐意なく、吏士をはげまし、間隙をうかがい、両屯を攻破した。魏は朱然を囲むこと6ヶ月、まだ引かない。

劉備も半年以上、滞陣した。魏も粘るのだ。このとき、まだ「関羽のつぎに、だれが江陵を領有するか」が決まっていない。チャンスがあると思うから、魏も蜀もこだわる。

江陵令の姚泰は、兵を領し、城の北門をまもり、外の兵が盛んなのを見て、城中に人が少なく、穀食が尽きそうなので、敵と交通し、内応しようと謀った。実行の直前に発覚し、朱治は姚泰を治戮した。夏侯尚らは勝てないから、撤退した。

姚泰のことが、夏侯尚なりの切り札だったのだろうか。

これにより朱然の名は、敵国を震はせ、當陽侯に封ぜられた。

ぼくは思う。史料のモレかも知れないが、朱然は、荊州で太守などにならない。荊州牧は、陸遜が持っていった。
孫権の気持ちを妄想すると、孫権は、同年齢・同学の朱然を、自分の分身のように思ったのでは。本来であれば、国の正念場である荊州のことは、孫権が対処せねばならない。しかし、陸遜に丸投げに見える。しかし丸投げではなく、分身・代理の朱然を荊州に置くことで、気持ちの上では陸遜と「共闘」していた。だから朱然は、地方長官とならず、陸遜をバックアップした。


石陽・合肥新城の戦い

六年、權自率衆、攻石陽。及至旋師、潘璋斷後。夜出錯亂、敵追擊璋、璋不能禁。然、卽還住拒敵、使前船得引極遠、徐、乃後發。
嘉禾三年、權與蜀克期大舉。權自向新城、然與全琮各受斧鉞、爲左右督。會吏士疾病、故未攻而退。

黄武六年(227) 黄武五年(226) 孫権はみずから石陽を攻めた。

孫権伝はいう。黄武五年秋七月、孫権は曹丕が崩じたと聞き、江夏を征し石陽を囲んだ。『魏志』明帝紀はいう。黄初七年八月、孫権が江夏を攻め、太守の文聘が堅守したと。盧弼はいう。魏の黄初七年は、呉の黄武五年である。黄武五年とすべき。
石陽は、『魏志』文聘伝にみえる。

軍をひくとき、潘璋が後ろを断つ(殿軍として魏の追撃を防いだ)。夜に錯乱し、敵は潘璋を追撃した。潘璋は、統制がとれない。朱然は、ひきかえして魏軍を拒いだ。前船(孫権の乗る船)を遠くに行かせてから、ゆっくり進んだ。

孫権の撤退が遅れると、むかしの合肥の張遼みたいなことが起こる。


黃龍元年、拜車騎將軍、右護軍、領兗州牧。頃之、以兗州在蜀分、解牧職。

黄龍元年(229) 朱然は車騎將軍・右護軍を拝し、兗州牧を領す。このころ、兗州は蜀の支配予定地となり、州牧の職を解かれた。

陸遜伝に「黃龍元年、拜上大將軍、右都護」とある。陸遜・朱然の官職を比べても、あまり意味がないかも知れないが。

嘉禾三年(234) 孫権は、蜀とともに魏に大挙した。孫権は合肥新城にむかい、

孫権伝はいう。嘉禾三年五月、孫権は合肥新城を囲むと。

朱然と全琮は斧鉞を受け、左右督となる。吏士が疾病し、攻める前に退いた。

沈家本はいう。『魏志』明帝紀はいう。景初元年、孫権は朱然ら2万をひきい、江夏を囲んだ。荊州刺史の胡質が撃ち、朱然は退走した。案ずるに、景初元年は、呉の嘉禾六年である。この戦いは、朱然伝・孫権伝に記されない。


以下、後日やります。

赤烏五年、征柤中。
襄陽記曰。柤音如租稅之租。柤中在上黃界、去襄陽一百五十里。魏時夷王梅敷兄弟三人、部曲萬餘家屯此、分布在中廬宜城西山鄢、沔二谷中、土地平敞、宜桑麻、有水陸良田、沔南之膏腴沃壤、謂之柤中。

魏將蒲忠、胡質、各將數千人。忠、要遮險隘、圖斷然後。質、爲忠繼援。時、然所督兵將先四出、聞問、不暇收合。便將帳下見兵八百人、逆掩。忠戰不利、質等皆退。
孫氏異同評曰。(魏志)[魏書]及江表傳云然以景初元年、正始二年再出爲寇、所破胡質、蒲忠在景初元年。魏志承魏書、依違不說質等爲然所破、而直云然退耳。吳志說赤烏五年、於魏爲正始三年、魏將蒲忠與朱然戰、忠不利、質等皆退。按魏少帝紀及孫權傳、是歲並無事、當是陳壽誤以吳嘉禾六年爲赤烏五年耳。

九年、復征柤中。魏將李興等、聞然深入、率步騎六千、斷然後道。然、夜出逆之、軍以勝反。先是、歸義馬茂、懷姦、覺誅、權深忿之。然、臨行上疏曰「馬茂小子、敢負恩養。臣今奉天威、事蒙克捷、欲令所獲、震耀遠近、方舟塞江、使足可觀、以解上下之忿。惟陛下識臣先言、責臣後效」權、時抑表不出。然既獻捷、羣臣上賀、權乃舉酒作樂、而出然表曰「此家、前初有表。孤以爲難必、今果如其言。可謂明於見事也」遣使拜然爲左大司馬、右軍師。


朱然が死ぬ

然、長不盈七尺、氣候分明、內行脩絜、其所文采、惟施軍器、餘皆質素。終日欽欽、常在戰場、臨急膽定、尤過絕人。雖世無事、每朝夕嚴鼓、兵在營者、咸行裝就隊。以此玩敵、使不知所備、故出輒有功。諸葛瑾子融、步騭子協、雖各襲任、權特復使然總爲大督。又陸遜亦本、功臣名將存者惟然、莫與比隆。

朱然は、身長が7尺に見たぬが、気候は分明、内行は脩絜、文采(かざる)のは軍器だけで、ほかは質素。終日 欽欽とし(ひとを楽しく進ませ)、戦場にあるときは、急に臨めば胆は定まり、人より優れた。世に事が無くとも(平時でも)朝夕に厳鼓し、軍営にいる兵は、みな行装して(武装して)隊に就いた。これによって敵を玩び、(自軍の)備えのあるところを知られず、出れば功があった。

これを江陵の防衛戦のエピソードに絡めたい。

諸葛瑾の子の諸葛融、步騭の子の歩協は、親の職位を継いだが、孫権はとくに朱然に統べさせ、大督とした(諸葛融・歩協を朱然の配下とした)。陸遜が卒すると、功臣・名将で存命は朱然だけで(孫権からの優遇は)比べるものがない。

寢疾二年、後漸增篤、權晝爲減膳、夜爲不寐。中使、醫藥口食之物、相望於道。然每遣使表疾病消息、權輒召見、口自問訊、入賜酒食、出送布帛。自創業功臣疾病、權意之所鍾、呂蒙、淩統最重、然其次矣。年六十八、赤烏十二年卒、權素服舉哀、爲之感慟。子績嗣。

病気のため2年間 寝たきりで、徐々に悪くなった。孫権は膳を減らし、夜も眠らず。中使をおくり、医薬・食物を運ばせた。使者に病状を聞き(使者に)酒食・布帛を渡した。創業の功臣の病気のうち、孫権が心配したのは、呂蒙・凌統がもっとも重く、朱然はそれに次ぐ。68歳で、赤烏十二年(249) に卒した。孫権は素服して哀を挙げ、感慟した。子の朱績が嗣いだ。160618

呂蒙・凌統は、まだ若かったから、惜しまれた。周瑜は、孫権にとっては格上だから、対処法が異なる。魯粛は、最後のほうは、ジャマそう。陸遜は、怒らせて死なせた。

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洞浦で曹休をふせぐ、呂範伝

6年前にやった記事の上位互換です。
袁術の爪牙、孫策を助けた軍事マニア、呂範伝

結婚戦略

呂範字子衡,汝南細陽人也。少為縣吏,有容觀姿貌。邑人劉氏,家富女美,範求之。女母嫌,欲勿與,劉氏曰:「觀呂子衡寧當久貧者邪?」遂與之婚。

呂範は、あざなを子衡。汝南郡の細陽県のひと。

上層では袁紹、下層では呂蒙と同じ郡の出身。

若くして県吏となり、容観・姿貌あり。同邑の劉氏は、家は富み、娘は美しい。呂範は、娘を求めた。娘の母は、呂範をきらい、嫁がせたくない。しかし父の劉氏は云った。「呂子衡を観れば、久しく貧乏であろうか」と。結婚できた。

孫堅が呉氏を娶るときも、同じエピソードがある。つまり呂範は、孫堅と同じで、県吏などは出すが、支配階級では最下層。特別なことをして目立たないと、歴史の表舞台には立てない。
ぼくは思う。呂蒙は同郡で、富陂のひと。県をまたいで、遠い親戚かも知れない。県をまたいで同族が分布することは、珍しくない。杓子定規に「県が違うと、血縁なし」とするほうが、ムリがある。



孫策のために呉氏をはこぶ

後避亂壽春,孫策見而異之,範遂自委昵,將私客百人歸策。

のちに寿春に、乱を避けた。

董卓軍が、191年? に豫州を攻めたときか。同じく豫州の荀彧も、逃げた。北に逃げたら、冀州-袁紹。南に逃げたら、揚州-袁術。呂範は南を選んだ。

呂範は、孫策と会った。孫策は、呂範を評価した。呂範は孫策に委昵し、私客1百人をひきい、孫策に帰した。

孫策伝:堅薨、還葬曲阿。已乃渡江、居江都。徐州牧陶謙、深忌策。策舅吳景、時爲丹楊太守。策、乃載母徙曲阿、與呂範孫河、俱就景。因緣、召募得數百人。


時太妃在江都,策遣範迎之。徐州牧陶謙謂范為袁氏覘候,諷縣掠考范,範親客健兒篡取以歸。時唯范與孫河常從策,跋涉辛苦,危難不避,策亦親戚待之,每與升堂,飲宴於太妃前。

孫策の母・呉氏は、江都にいた。孫策は呂範に、母を迎えに行かせた。徐州牧の陶謙は、呂範が袁術のスパイであるとして、県に諷して呂範を拷問した。呂範の親客たちは、呂範を奪い返した。

孫策が母の呉氏を失えば、故郷の有力豪族・呉氏とのつながりが切れる。絶対に失敗できない仕事。「格上の家と婚姻して、階層をあがる」は、孫堅だけでなく、呂範も採用した戦略である。呂範なら、呉氏の重要性を理解して、きっと成功すると信頼したのだろう。
この呂範の受難により、193年? 長江を挟み、陶謙と袁術の関係が最悪であるという証拠になる。陶謙の影響力が、長江沿いの江都にまで、及んでいたことも分かる。陶謙すごいな。陶謙は194年に没。

呂範と孫河だけは、つねに孫策と辛苦をともにし、孫策も親戚として待遇し、升堂して、孫策と呂範・孫河は、呉氏の前で飲宴した。

曲阿でのこと。曲阿に置いてきた母が、のちに劉繇の人質になるリスクが生じ、朱治が回収する。劉繇が表れるまでは、丹陽太守の呉景の勢力圏であったようだ。そうでなければ、曲阿に呉氏を置いたりするまい。


孫策の平定戦にしたがう

後從策攻破廬江,還俱東渡,到橫江、當利,破張英、於麋,下小丹楊、湖孰,領湖孰相。策定秣陵、曲阿,收笮融、劉繇餘眾,增範兵二千,騎五十匹。後領宛陵令,討破丹楊賊,還吳,遷都督。

孫策に従い、廬江(陸康)を攻破した。(廬江から寿春へ)還り孫策とともに(長江を)東渡し、横江・當利で、張英・于麋を破る。小丹楊・湖孰を降した。湖孰の相になった。

小丹陽は、『魏志』陶謙伝をみよ。漢末、湖孰は侯国で、ゆえに「相」をおく。横江・当利・湖孰・秣陵・曲阿・宛陵・多尿は、いずれも孫策伝をみよ。

孫策は、秣陵・曲阿を平定した。笮融・劉繇の余兵をおさむ。孫策は呂範に(笮融・劉繇の兵から)兵2千・騎50匹を増やす。

程普伝に「秣陵・湖孰・句容・曲阿を転戦した。すべての戦いで功績があり、兵2千・騎50匹を増やされた」とある。韓当伝に「孫策が東渡すると、三郡の討伐に従い、先登校尉となり、兵2千・騎50匹を授けられた」とある。おなじ。
ぼくは思う。孫策は、袁術から与えられた兵に、笮融・劉繇から奪った兵を加え、部将に与えながら会稽を平定する。

のちに呂範は、宛陵令。丹楊の賊を討ち、呉郡にかえった。都督に遷る。

ぼくは思う。せっかく県令になったのに、県令を蹴って、孫策の都督(部下)に還ってきた。これを不審に思って、つぎの『江表伝』が創作される。
もしや、呂範を県令としたのは袁術で、このように人材を分布させ、揚州を支配するつもりか。しかし呂範は、袁術に逆らって、孫策とともに行動することを選んだ。


江表傳曰:策從容獨與范釭,範曰:「今將軍事業日大,士眾日盛,範在遠,聞綱紀猶有不整者,范原蹔領都督,佐將軍部分之。」策曰:「子衡,卿既士大夫,加手下已有大眾,立功於外,豈宜複屈小職,知軍中細碎事乎!」範曰:「不然。今舍本土而讬將軍者,非為妻子也,欲濟世務。猶同舟涉海,一事不牢,即俱受其敗。此亦范計,非但將軍也。」策笑,無以答。範出,更釋褠,著袴褶,執鞭,詣閤下啟事,自稱領都督,策乃授傳,委以眾事。由是軍中肅睦,威禁大行。

『江表伝』はいう。孫策が呂範と棊をうつと、呂範は「将軍の事業は日に大きくなり、士衆は日に盛ん。しかし遠くで綱紀が整わぬと聞いた。私が都督を領し、将軍をたすけ(遠くの兵を)管理・統率したい」と。

「之を部分せん」だから、部して分ける。孫策の管理・統率が行き届かないところを、呂範が受け持つ。ちくま訳「ことの処理にあたる」と。

孫策「子衡、あなたは士大夫だから、手下を加えてすでに大衆を有し(大軍をひきい)功を外に立てた。

胡三省はいう。呂範は宛陵令を領して、丹陽賊を破って還った。

なぜまた小職に屈して、軍中の細事を行うのか」と。呂範「ちゃう。本土(汝南)をすてて將軍に託するのは、妻子ではなく世務のため。船は1つの弱いところから沈む。私のために(孫策軍の弱点を補強するのであり)将軍のためではない」と。孫策は笑って答えず。呂範は外に出て、袴褶(騎服)をつけ、鞭を執り、自ら都督と称した。軍中は粛睦とし、威禁は大いに行われた。

沈欽韓がいう。漢魏より、兵を領する将軍の張下には、護軍と都督がいた。呂範は都督となり、将軍を助けたいといった。
ぼくは思う。大きな戦略より、現場が好きだというタイプか。将軍・令長となって孫策と横並びになるより、孫策の配下でいることを好んだ。孫策の下にいることに「快感」を覚える、軍事マニアなのか。もしくは、そういう嗜好を排除して、単純に「孫策ひとりに任せると、ワキが甘すぎて、そのうち大敗するぞ」と心配したのかも知れない。孫策に惚れこみ、同時に弱点を知って補ったという、ナイスな副官である。まあ孫策の最大の弱点(かつ強み)は、彼自身が突出することで、そのために孫策は死ぬけど。


呉郡太守の陳瑀との戦い

是時下邳陳瑀自號吳郡太守,住海西,與強族嚴白虎交通。策自將討虎,別遣范與徐逸攻瑀於海西,梟其大將陳牧。

このとき下邳の陳瑀は、

陳瑀は、あざなは公瑋。下邳の淮浦の人。陳球の子で、陳登の従父。『魏志』袁術伝にひく『英雄記』・呂布伝にひく『先賢行状』・孫策伝にひく『江表伝』にある。

みずから呉郡太守を号した。

『江表伝』によれば、陳瑀は、漢朝の詔勅が行呉郡太守・安東将軍とした。自号でない。ひそかに陳瑀は、孫策を襲うことを図った。だから『呉志』は(孫策のライバルを貶めて)陳瑀が詔勅を仮借したと書いた。

陳瑀は海西におり、強族の厳白虎と交通した。孫策はみずから厳白虎を討った。孫策はべつに、呂範・徐逸に、海西に陳瑀を攻めさせ、大将の陳牧を梟した。

海西は孫策伝にみえる。ぼくは思う。陳牧は、下邳の陳氏の一員か。そうであれば、孫策の党与・呂範による陳氏の殺害は、袁術と陳珪・陳登との対立を深める。


◆袁術が揚州に入ったときのこと

九州春秋曰:初平三年,揚州刺史陳禕死,袁術使瑀領揚州牧。後術為曹公所敗於封丘,南人叛瑀,瑀拒之。術走陰陵,好辭以下瑀,瑀不知權,而又怯,不即攻術。術於淮北集兵向壽春。瑀懼,使其弟公琰請和於術。術執之而進,瑀走歸下邳。

『九州春秋』はいう。初平三年(192) 揚州刺史の陳禕が死ぬ。

宋本は「陳偉」につくる。『英雄記』は、揚州刺史の陳温とする。

袁術は陳瑀を、揚州牧とした。(初平四年)袁術が曹操に封丘で敗れると、南人は、陳瑀に叛き、陳瑀はこれを拒ぐ。

盧弼がいう。「南人は袁術に叛く」とすべきか。ぼくは思う。ここは陳瑀でも袁術でも、文はとおる。「叛瑀」とすれば、陳瑀は、袁術が任じた揚州牧なので、親玉の袁術が弱まり、追い出されそうに。逆にいえば、南陽にいた袁術は、揚州まで実効支配が、届いていたことになる。「叛術」ならば、陳瑀は(弱体化した)袁術にさからった。
文意はどうにでもなるが、主語が「南人」なので、袁術が曹操に敗北したことで、揚州の世論がどうなったかは興味がある。袁術の手先である陳瑀を見捨てたのか、袁術そのひとも見捨てられたのか。

袁術は陰陵ににげ、好辞で陳瑀を下そうとした。

「陳瑀を下そうとした」のか「陳瑀に下った(下手にでた)」のか迷います。ちくま訳は後者で、「言葉たくみに、下手に出て説得した」と。陳瑀に「寿春をくれ。もともとオレがあげたじゃん」とか言ったのか。

陳瑀は権謀を知らず、また怯懦なので、袁術を攻めない。袁術は、淮北で兵を集め、寿春に向かう。陳瑀は袁術をおそれ、弟の陳公琰をやり、和睦を請うた。

『范書』陳球伝がいう。陳瑀の弟は、陳琮で、汝陰太守。陳公琰とは陳琮のこと。
ぼくは思う。どうして袁術は、淮北(陰陵)で兵を集められたか。なにがモトデになったか。考察したら楽しそう。

袁術は、陳瑀の弟・陳公琰をとらえ、寿春に進んだ。陳瑀はにげ(故郷の)下邳に帰った。

『英雄記』がいう。陳瑀が揚州を治めると、袁術は封丘で負けて、陰陵にきて、寿春に向かう。陳瑀は袁術を納れず。袁術は退いて陰陵にとりでし、更めて軍をあわせて陳瑀を攻めた。陳瑀は懼れて下邳ににげた。
ぼくは思う。いちど寿春から逃げた陳瑀が、懲りずに(詔勅を得て)呉郡太守となった。詔勅を斡旋したのは、徐州牧の劉備か。袁術が徐州に北伐し、劉備が防いだことがある。陳瑀は、袁術との国境に近い海西にいる。劉備を支持した陳珪・陳登は、陳瑀と同族。いずれも袁術対策である。
呉景が対抗して「広陵太守」になったのも、劉備と対立するなかでか。


又從攻祖郎於陵陽,太史慈於勇裏。七縣平定,拜征虜中郎將,征江夏,還平鄱陽。策薨,奔喪于吳。後權複征江夏,范與張昭留守。

また呂範は、孫策にしたがい、祖郎を陵陽で攻めた。

陵陽は『呉志』孫策伝・呉夫人伝をみよ。孫策は孫河・呂範とともに呉景に依り、衆を合わせて涇県の祖郎を討ったと。『呉志』孫輔伝がいう。孫輔は孫策に従い、陵陽で祖郎を生け捕った。
盧弼が考える。祖郎のことは、孫輔伝にひく『江表伝』に。孫策伝にひく『江表伝』によると、祖郎と厳白虎らは、みな陳瑀に扇誘され、孫策を攻めた。

呂範は、太史慈を勇裏で攻めた。

太史慈伝によると、孫策はすでに、宣城より以東を平定した。ただ涇県より以西の6県のみ孫策に服せず。太史慈は涇県にとどまり、自ら孫策が太史慈を捕らえた。

7県(涇県+それ以西の6県)を平定した。呂範は、征虜中郎将となり(建安四年)江夏を攻めた。

征虜中郎將は、定員1名。呉がおく。
孫策が黄祖を攻めたとき、呂範は桂陽太守。孫策伝がひく『呉録』より。

呂範は還り(建安八年)鄱陽を平らげた。

鄱陽は孫権伝 建安八年に。趙一清はいう。『方輿紀要』巻八十五によると、鄱陽城は、呉芮が居した。後漢のとき県治となった。建安八年、鄱陽の山越が乱し、孫権が呂範に平らげさせた。晋代以後、郡治になった。呉芮が築いたときは広周7里で、呉の周魴が9里30歩を増設した。
ぼくは思う。建安五年に孫策が死ぬから、呂範の鄱陽攻めは、それより後に書くべき。

孫策が死んだ。呂範は呉に奔って、喪に服した。のちに孫権が江夏郡を攻めると、呂範は、張昭とともに留守をした。

彭沢太守として柴桑に

曹公至赤壁、與周瑜等俱拒破之、拜裨將軍、領彭澤太守。以彭澤、柴桑、歷陽、爲奉邑。

(建安十三年)曹操が赤壁に至ると、周瑜とともに拒破し、(建安十四年)裨將軍を拝し、彭澤太守を領した。

彭沢は孫策伝をみよ。趙一清はいう。彭沢はのちに廃され、豫章に入った。『方輿紀要』巻八十五はいう。建安十四年、孫権は彭沢郡をおき、呂範を太守とした。尋いで廃したと。

彭沢・柴桑・歴陽 歴陵を、呂範の奉邑とした。

柴桑は、孫権伝 黄初二年にある。歴陽は孫策伝に。
趙一清はいう。「歴陽」は「歴陵」とすべき。呉で歴陵は鄱陽に属して(彭沢・柴桑・歴陵)3県は近接する。遠くの九江郡の歴陽というのは、おかしい。盧弼・胡三省も、そうだという。
甘寧伝に「權嘉寧功、拜西陵太守、領陽新、下雉、兩縣」とあり、呂範の奉邑のすぐ上流には、甘寧の奉邑がある。甘寧と呂範は、お隣さんである。そして西陵郡・彭沢郡とも、後漢の郡でもなく、孫呉の郡でもない。赤壁後、暫定的に置かれただけ。



劉備詣京見權、範密請、留備。後遷平南將軍、屯柴桑。

(建安十四年)劉備が京に詣り孫権にあった。呂範はひそかに「劉備を留めよ」と請う。のちに平南將軍にうつり、柴桑に屯す。

劉備を留めるのは、魯粛伝にひく『漢晋春秋』、周瑜伝にもみえる。
洪飴孫はいう。平南将軍は、1人、第三品。


丹陽太守として建業に

權、討關羽、過範館、謂曰「昔早從卿言、無此勞也。今當上取之、卿、爲我守建業」權破羽還、都武昌。拜範建威將軍、封宛陵侯、領丹楊太守、治建業、督扶州以下至海。轉以溧陽、懷安、寧國、爲奉邑。

(建安二十四年)孫権が関羽を討つとき、呂範の館にきて、「むかし呂範の言うとおり、劉備を京に留めれば、この労はない。いま(長江を)上って関羽を討つ。建業を守ってくれ」と。

「孫権が不在の建業を守る」というのが、呂範の固有の役割となる。呂範の死んだ翌年、孫権は武昌で皇帝になって、その年内に(呂範なき)建業に入る。

孫権が関羽を破って還ると、武昌に都した。

沈家本はいう。「還る」でなく「遷る」とすべきか。孫権が荊州を得ると、はじめて鄂県を都とし、「武昌」と改称した。

呂範は建威將軍を拝し、宛陵侯に封ぜられ、丹楊太守を領し、建業に治す。扶州より下を以て、海に至るまでを督す。

丹陽の郡治は宛陵であったが、丹陽の治所を(呂範のいる)建業に移す。詳しくは孫権伝 嘉禾三年。ぼくは思う。呂範を宛陵侯として、丹陽太守とすれば、そのまま爵土=治所となる。しかし、呂範に建業を任せたいから、治所を建業にする。それなら、なぜ「宛陵侯」にしたのか。変なの。
『呉志』賀斉伝はいう。鎮江の上に出て、扶州より上を以て、皖に至るまでを督すと。賀斉伝にも「扶州」が見える。謝鍾英はいう。扶州は、江寧の西南の江中の洲に係るだろうが、そこを指すのか確かでない。

転じて、溧陽・懐安・寧国を奉邑とする。

溧陽は何姫伝に。『宋書』州郡志はいう。宣城太守は、太康元年に丹陽を分けて立てた。懐安令を領した。呉が立てたと。『晋書』は宣城郡の懐安県があるという。洪亮吉はいう。懐安は、呉が宛陵を分けて立てた。
寧国は、孫権伝 赤烏十三年にある。



曹休に洞口で負ける

曹休、張遼、臧霸等、來伐。範、督徐盛、全琮、孫韶等、以舟師、拒休等、於洞口。遷前將軍、假節、改封南昌侯。時遭大風、船人覆溺、死者數千、還軍、拜揚州牧。

(黄初三年・黄武元年 (222))曹休・張遼・臧霸らが、来伐す。呂範は、徐盛・全琮・孫韶らを督し、舟師をもって、曹休らを洞口で拒ぐ。

洞口は、曹休伝にみえる。 ぼくは思う。曹丕が天下統一する、最初で最後・最大の好機は222年。曹休・張遼!が二十余軍で揚州を攻撃。夏侯惇が都督した「二十六軍」か。建業を守る呂範は大敗し「船は覆り人は溺れ」た。同年、夷陵で劉備とともに疲弊した陸遜は、曹真・張郃に江陵を囲まれて孤立。魏は水戦で勝ち(珍しいこともあるものだ)劉備を「利用」して戦略的に動いた。
三国鼎立が確定するのは、劉備の死・呉蜀同盟の成立。それまでは関羽の死から始まった、領土・国交の流動化が止まらない。流動は、端的には「江陵の争奪」に表れる。江陵は、呂蒙が関羽から奪い、朱然が預かり、劉備が取りにきて、陸遜が防ぐウラで、曹真が半年も囲んだ。朱然が粘ったことにより、江陵は正式に呉のものになった。
やや結果論だけど、呉蜀同盟が成った時点で、曹丕が「一手」で天下統一するのは難しくなる。ベタだが、「呉蜀の対立に乗ずる」が不可能になるから。第三勢力があることの旨味を、魏だけが使えなくなるから。222年の揚州(曹休)・荊州(曹真)の同時攻撃が、ラストチャンスだった。

呂範は、前將軍に遷り、假節、改めて南昌侯に封ず。ときに(呂範軍は)大風に遭ひ、船人は覆溺し、死者は数千。軍を還し、揚州牧を拝す。

『魏志』文帝紀 黄初四年の裴注に詔を載せ、「征東将軍(曹休)は、呂範と水戦し、斬首すること4万、船を得ること1万」という。曹休伝で、征東大将軍の曹休が、張遼ら20余万をひきい、呂範を洞浦で破る。董昭伝でも、呂範が大敗する。『魏志』では、誇張があるにせよ、魏が勝つ。
孫権伝・呂範伝でも「船は覆り人は溺れ、使者は数千」と、負けを記す。呂範は負けたのに、揚州牧になる。なぜ。曹休は26軍をひきいて、曹丕みずから呉を平定にきた。しかし平定されず国境を守れた。だから、呂範・徐盛・全琮も爵を進めて賞された。孫権が将軍を御するウマサは、ここに見える。
ぼくは補う。賀斉伝で、賀斉が戦場に遅刻したおかげで、敗残の呉軍は引きあげることができた。
ぼくは思う。孫権の正しい認識では、このまま建業(揚州)が、魏軍に蹂躙されても、仕方がないレベルの戦いだった。呂範という稀有の軍略家のおかげで、辛うじて助かった。呂範のいちばんの功績があるなら、この戦いだなあ!惜しかったね、曹丕。


私では奢侈、公には潔癖

性好威儀。州民、如陸遜、全琮及貴公子、皆脩敬虔肅、不敢輕脫。其居處服飾於時奢靡、然勤事奉法、故權悅其忠、不怪其侈。

呂範は、性は威儀を好む。州民は、陸遜・全琮および貴公子まで、みな脩敬・虔肅し、あえて軽脱せず。

「威儀」を、ちくま訳は「格式ばったこと」とする。
康発祥はいう。陸遜も全琮も、揚州のひと。だから「州人」という。
盧弼はいう。呂範は、陸遜を辟して別駕従事とし、茂才に挙げた(陸遜伝)
ぼくは思う。陸遜は、挙主の呂範に頭が上がらない。これは、孫権が挙主の朱治に頭が上がらないのと同じ。孫権政権の中核は、魏蜀と比べて、ひとつ世代が分かるから、こういう「体制内のおやじ」たちが表れる。

住居・服飾は奢侈であるが、勤務では遵法するから、孫権はその忠を悦び、奢侈を怪しまず。

「忠を悦び」というよりは、口出しできなかったのだろう。


江表傳曰。人有白範與賀齊奢麗夸綺、服飾僭擬王者、權曰「昔管仲踰禮、桓公優而容之、無損於霸。今子衡、公苗、身無夷吾之失、但其器械精好、舟車嚴整耳、此適足作軍容、何損於治哉?」告者乃不敢復言。

『江表伝』はいう。あるひとが「呂範と賀斉は奢侈で、服飾は王者を僭擬してる」という。孫権「むかし管仲が礼を越えたとき、桓公はゆるして、覇となった。呂範・賀斉には管仲のような過失がなく、器械(兵器)が精好で、舟車が厳整なだけ。どちらも軍容を立派にするもの。どうしてダメなのかね」と。チクったひとは言い返せず。

孫権よりも派手な軍容で、堂々と進軍する、賀斉・呂範。絵になる。しかも呂範は「容観・姿貌あり」であるから、いっそう威圧感がある。
賀斉伝:齊、性奢綺、尤好軍事。兵甲器械、極爲精好。所乘船雕刻丹鏤、青蓋絳襜、干櫓戈矛葩瓜文畫、弓弩矢箭咸取上材、蒙衝鬭艦之屬望之若山。
ぼくは思う。洞口の敗戦で、呂範を救ったのは、同じく奢侈の賀斉。賀斉・呂範を絡ませて、奢侈を競いながら生まれる、友情? の物語を設定したら、おもしろそう。


初、策使範、典主財計。權、時年少、私從、有求。範、必關白、不敢專許。當時、以此見望。權、守陽羨長、有所私用。策或料覆、功曹周谷、輒爲傅著簿書、使無譴問。權、臨時悅之。及後統事、以範忠誠、厚見信任。以谷、能欺更簿書、不用也。

かつて孫策は、呂範に財計を典主させた。わかい孫権は、私的にカネを融通してほしい。呂範は許さず。孫権は呂範を怨んだ。孫権が陽羨長を守すと、公金を私的に使った。孫策が料覆(会計監査)すると、功曹の周谷は、帳簿を書き換えて、監査をクリアした。孫権は悦んだ。のちに孫権が統事すると、呂範は忠誠で信任され、周谷は帳簿改竄をするから、任用せず。

孫権は、ダブル・スタンダードである。


呂範が死ぬ

黃武七年、範遷大司馬、印綬未下、疾卒。權素服舉哀、遣使者追贈印綬。及還都建業、權過範墓、呼曰「子衡」言及流涕、祀以太牢。

黄武七年(228) 呂範は大司馬にうつるが、印綬がくだる前に病没。孫権は素服で哀を挙げ、使者に印綬を追贈させた。還って建業に都すると、

呉主伝によると、黄龍元年(229) 秋九月、皇帝となった孫権は、建業を都とする。呂範の死んだ翌年である。

呂範の墓にゆき、「子衡」とあざなを呼んで流涕し、大牢を祀った。

江表傳曰。初、權移都建業、大會將相文武、時謂嚴畯曰「孤昔歎魯子敬比鄧禹、呂子衡方吳漢、閒卿諸人未平此論、今定云何?」畯退席曰「臣未解指趣、謂肅、範受饒、褒歎過實。」權曰「昔鄧仲華初見光武、光武時受更始使、撫河北、行大司馬事耳、未有帝王志也。禹勸之以復漢業、是禹開初議之端矣。子敬英爽有殊略、孤始與一語、便及大計、與禹相似、故比之。呂子衡忠篤亮直、性雖好奢、然以憂公爲先、不足爲損、避袁術自歸於兄、兄作大將、別領部曲、故憂兄事、乞爲都督、辦護脩整、加之恪勤、與吳漢相類、故方之。皆有指趣、非孤私之也。」畯乃服。

『江表伝』はいう。孫権が建業に都すると、将相・文武とおおいに会した。孫権は厳畯に問うた。

『呉志』巻八 厳畯伝に「權爲吳王、及稱尊號、畯嘗爲衞尉使至蜀」とある。孫権が皇帝になってから、厳畯は衛尉となった。つまりここに出てくるのは不審ではない。しかし、あたりさわりない話し相手として、創作に駆り出された感がある。

「私は魯粛は鄧禹、呂範は呉漢に比した。厳畯は不平だったようだが(私が皇帝になった)いまなら納得してくれるか」。厳畯は席を退き、「いいえ。魯粛・呂範は、孫権に褒められすぎ」。
孫権「鄧禹が初めて光武に会ったとき、更始帝の部将に過ぎない光武に、帝王の志を説いた。魯粛と同じ。呂範は奢を好むが、公事を優先した。袁術を避けて孫策に帰した。孫策が呂範を大将にして、別に部曲を領させても、(大将・部曲の将を辞して)孫策を憂いて(孫策集団の弱点を補うため、配下の)都督となった。働きぶりが呉漢と同じだ」と。厳畯「なるほど」

呉漢は王郎に味方せず、光武に従った。呂範が袁術に味方しなかったのと同じ。
ぼくは思う。孫権の時代になると、「袁術を見捨てて、孫策に将来性を見出した」ことの早さが、手柄として登録される。袁術が称帝してから見捨てるのでは、普通である。それより一刻も早く、袁術を見捨てたことを、みなが声高に主張したことでしょう。


呂範の子の・呂拠伝については、日を改めて。160618

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曹仁から濡須を守る、朱桓伝

朱桓が孫権の将軍府に就く

朱桓、字休穆、吳郡吳人也。孫權爲將軍、桓給事幕府、除餘姚長。往、遇疫癘、穀食荒貴、桓分部良吏、隱親醫藥、飧粥相繼、士民感戴之。遷盪寇校尉、授兵二千人、使部伍、吳會二郡。鳩合遺散、期年之閒、得萬餘人。

朱桓は、あざなは休穆、呉郡の呉県のひと。

呉県は孫策伝に。朱治は、丹楊の故鄣のひと。異なる。
赤烏元年(238) 62歳で死ぬから、177年生まれと分かる。孫策は175年生まれ、孫権は182年生まれ、陸遜は183年生まれ。

孫権が将軍となると、朱桓は幕府に給事し、餘姚長に除せらる。


「幕府」は『魏志』袁紹伝にひく『魏氏春秋』に載せた「州郡に檄する文」で解く。
ぼくは思う。孫策の死後、孫権は「曹公、表權爲討虜將軍、領會稽太守」と討虜将軍となる。孫権の将軍府の属僚として出発したから、「孫権が統事すると」ではなく「孫権が将軍府を開設すると」が列伝のトリガーになる。

余姚県にいくと、疫癘があり、穀食は荒貴した。朱桓は良吏を分部し、じかに医薬・飧粥をくばらせ、士民から感戴された。

疫病が流行っているが、そのなかに分け入って(伝染も恐れずに)医薬・食糧を配るから、それが徳とされる。まあ、朱桓そのひとでなく、部下にやらせていますが。

盪寇校尉に遷り、兵2千人を授けられ、呉郡・会稽の2郡で部伍(兵を編成)した。遺散したものを鳩合し、期年の間(まる1年)に、1万余人を得た。

後、丹楊、鄱陽、山賊蜂起、攻沒城郭、殺略長吏、處處屯聚。桓、督領諸將、周旋赴討、應皆平定。稍遷裨將軍、封新城亭侯。

のちに丹楊・鄱陽で山賊が蜂起して、城郭を攻没し、長吏を殺略し、処々に屯聚した。朱桓は諸將を督領し、周旋し赴討して、平定した。ようやくして裨將軍に遷り、新城亭侯に封ぜらる。

『宋書』州郡志はいう。揚州の呉郡の新城令は、浙江の西南(に城をかまえ、その城を)桐渓と名づけた。呉は新城県を立てて、のちに桐廬に併合された。
ぼくは思う。朱桓と陸遜は似ており、孫権のための領内でのみ働く。民政をやり、募兵をやり、孫権の国を富ませる仕事をしている。


濡須督として、曹仁をふせぐ

後、代周泰、爲濡須督。黃武元年。魏、使大司馬曹仁、步騎數萬、向濡須。仁、欲以兵襲取州上、偽先揚聲欲東攻羨溪。桓、分兵將、赴羨溪。既發、卒得仁進軍拒濡須七十里問。桓、遣使追還羨溪兵。兵未到而仁奄至。

のちに朱桓は、周泰に代わって濡須督となる。

濡須督になるのは、建安二十四~二十五年ごろ(219-220) か。
周泰伝はいう。(建安二十一年 216)曹操が濡須に出ると、周泰は赴いて撃つ。曹操が退くと、留まって濡須を督し、平虜將軍を拝す。ここで朱然・徐盛にナメられ、孫権にキズを数えてもらった。(建安二十四年 219)孫権が関羽を破ると、周泰を漢中太守・奮威将軍とした。黄武期(222-229) に卒した。
傷を数えて濡須を督する:周泰伝
つまり荊州に領土が広がり、周泰を荊州で使いたいから、代わりに朱桓を濡須に置いた。周泰も朱桓も、孫権の「子飼い」といえる人材。孫権が育てた人材が、要職に就いていくのが、220年前後。陸遜のデビューも同じ時期。曹操の没年が220年、劉備が222年。世代交代の季節である。

黄武元年(222)、魏は大司馬の曹仁に歩騎の数万で、濡須に向かわせた。

ぼくは思う。曹操が呉蜀を討つとき、曹操が指揮を取った。「同時で多方面」の進攻はしない。曹操が現れたところで、局所戦が連続で起こる。曹丕が嗣ぎ、初めて222年に平定戦を企画した。曹丕は後方(宛城)におり、曹真が江陵、曹休が洞口、曹仁が濡須を同時に攻めた。蜀は夷陵の直後だから攻撃無用。父と戦い方が違ってる。さすが皇帝陛下!どういう場合、どちらが適切なのか、いい論件!
222年の「同時で多方面」の攻勢のとき、孫権は人材層が厚く、各地で魏軍を食い止める。朱然が江陵、呂範が洞口、朱桓が濡須を。魏軍がもっとも強いと思いきや、このとき逆転していたのでは。

曹仁は兵をつかい、州上(中洲の上の地点)を襲取しようとして、さきに声を揚げて「東して羨溪を攻めよう」とウソを喧伝した。朱桓は将兵を分け、羨溪に赴く。

羨渓は蒋済伝をみよ。みた。杜佑はいう。羨渓は濡須の東30里である。

すでに朱桓が出発してから、にわかに「曹仁が濡須から70里にいる」と情報を得た。朱桓は、羨渓の兵を濡須に還そうとした。(羨渓から)兵が至らざるに、にわかに曹仁が(濡須に)到着してしまった。

時、桓手下及所部兵在者五千人、諸將業業各有懼心。桓喻之曰「凡兩軍交對、勝負在將、不在衆寡。諸君聞曹仁用兵行師、孰與桓邪。兵法所以稱客倍而主人半者、謂、俱在平原、無城池之守。又謂、士衆勇怯齊等故耳。今、人既非智勇、加其士卒甚怯、又千里步涉、人馬罷困。桓與諸軍、共據高城、南臨大江、北背山陵、以逸待勞、爲主制客、此百戰百勝之勢也。雖曹丕自來、尚不足憂。況仁等邪」

ときに朱桓の手下および部する兵は、5千人である。諸将は業業として懼心を生じた。朱桓は諭した。
「両軍が対決するとき、勝負は将にあり、兵の多寡ではない。諸君が聞いている曹仁の用兵・行師は、この朱桓と比べて、どちらが上か。

老将・曹仁の計略にかかり、寡兵で迎撃せざるを得ない朱桓。朱桓は、対外戦の実績ゼロ。諸将はパニックで、使いものにならず。これを受け、朱桓が演説をかます。「用兵において、曹仁とオレはどちらが上か?」と。諸将「(普通に曹仁のほうが上だろ、現に計略にかかったし)」となるはず。この演説は、ジョークなのか?対外戦の実績がなく、いきなり前世代の強敵と戦うのは、劉備と戦った陸遜に似てる。

兵法によると、客(攻め)が二倍で、主(受け)が半分だと、強さが均衡する。これは平原で、城池の守がない場合のことである(濡須塢があるから、有利に戦える)。兵法がいうのは、士衆の勇怯が等しい場合のことである(呉のほうが勇敢だから、有利に戦える)。
いま魏軍は智勇でなく、士卒は怯み、千里を歩渡して人馬は罷困している。わたしと諸軍は、ともに高き城(濡須)に拠り、南は大江に臨み、北は山陵を背にし、逸を以て労を待つ(体力が万全で、疲弊した軍を迎える)から、百戦して百勝できる状況だ。曹丕がみずから来ても、憂うに足らず。まして曹仁などは」

桓、因偃旗鼓、外示虛弱、以誘致仁。仁、果遣其子泰、攻濡須城、分遣將軍常雕、督諸葛虔、王雙等、乘油船、別襲中洲。中洲者、部曲妻子所在也。仁自將萬人、留橐皋、復爲泰等、後拒。

朱桓は旗鼓を休め、外に虚弱を示し、仁を誘って致らしめた。曹仁は、果たして子の曹泰に、濡須城を攻めさせた。將軍の常雕を分け、諸葛虔・王双らを督させ、油船に乗り、別れて中洲を襲わせた。

ぼくは思う。「朱桓が曹仁を誘った」とあるが、曹仁が予定どおり、普通に攻めただけ。なにか奇抜なことをしないと、流れが変わらないよ。
濡須山は和州の界にあり「東関」という。七宝山は無為の界にあり、「西関」という。
呉主伝では「常雕」は「常彫」につくる。古字は通ず。
胡三省はいう。「油船」とは、油皮でおおったもの。外に油をぬって、水をはじく。
厳衍はいう。この「中洲」は濡須が長江に入るところの中洲。江陵の中洲とちがう。

中洲には、朱桓軍の部曲の妻子がいた。曹仁はみずから1万人をひきい、橐皋に留まり、曹泰らの後ろをかためる。

橐皋は、孫亮伝 五鳳二年にある。


桓部兵將攻取油船、或別擊雕等、桓等身自拒泰、燒營而退。遂梟雕、生虜雙、送武昌。臨陳斬溺、死者千餘。權嘉桓功、封嘉興侯、遷奮武將軍、領彭城相。

朱桓は将兵を部して、油船を攻め取った。将兵を分けて常雕らを撃つ。朱桓はみずから曹泰を拒ぎ、営を焼いて退いた。ついに常雕を梟し、王双を生虜として、武昌に送った。

潘眉はいう。魏将の王双は、蜀の建興六年(228) 諸葛亮が斬る。于禁のように返却したのか。
盧弼はいう。于禁を返却したのは、黄初元年(220) で、王双を生け捕ったのは黄武二年(223) である。孫権は魏と敵対しており、返却するのはおかしい。
ぼくは思う。王双は脱走したか、別の王双なのか、朱桓伝のミスか。

陳に臨みて溺れたものを斬り、死者は1千余。

『魏志』蒋済伝はいう。黄初三年(222) 蒋済は大司馬の曹仁とともに呉を征し、蒋済は別れて羨谿を襲った。曹仁が濡須の洲中を攻めようとすると、蒋済が危ないよとアドバイス。「賊は西岸に拠り、上流に船をならべ、兵は舟のなかにいる。ここに行くのは、危亡の道である」と。曹仁は従わず敗れた。孫権伝の黄武三年もみよ。
ぼくは思う。けっきょく死ぬ気の朱桓が、気合いで勝っただけという。でも、そういうのって大事です、きっと。

孫権は功を嘉し、嘉興侯とする。奮武將軍に遷り、彭城相を領す。

趙一清はいう。彭城相は、遙領である。
ぼくは思う。『呉志』巻十一を通じた、曹丕との戦いに注目した話。
柴田錬三郎の三国志は、なぜか出師の表で終わる。「いかにして出師の表が書かれるに至ったかを描きたい」と作者が書いておられた(気がする)。「何それ、中途半端な」と思ってたが、少し分かってきた。曹丕の大遠征が失敗し、劉備が死んだ時点で「こうして三国が鼎立した」と物語が完結する。曹操の死でも区切れそうだが、劉備の死(出師の表の前)で、荊州の帰属が落ち着くまでは「一連のお話」であるべき。流れ・おもしろさを分断してはいけない。190年-208年(董卓・二袁が解体した天下を曹操が修復し)、208年-223年(曹操を劉備・孫権が妨害して、三国が鼎立する)という時代区分論。


朱桓が死ぬ

黄武七年……から途中をはぶいて、人柄エピソードにとぶ。

桓、性護前、恥爲人下。每臨敵交戰、節度不得自由、輒嗔恚憤激。然、輕財貴義、兼以彊識。與人一面、數十年不忘、部曲萬口、妻子盡識之。愛養吏士、贍護六親、俸祿產業、皆與共分。及桓疾困、舉營憂戚。年六十二、赤烏元年卒。吏士男女、無不號慕。又家無餘財、權賜鹽五千斛、以周喪事。子異嗣。

朱桓は、性は前を護り(前に犯した過ちを認めず)、ひとの下になるのを恥じた。つねに敵に臨んで交戦し、節度が自由を得ねば、嗔恚・憤激した。

『蜀志』関羽伝に「諸葛亮は、関羽が前を護るを知る」とある。
朱桓は、指揮どおりに兵が動かないと、めっちゃ激怒したと。

しかし、財を軽んじ義を貴び、識が強く(記憶力にすぐれ)顔を1たび見れば、数十年も忘れない。部曲は1万口いたが、妻子まで尽く記憶した。吏士を愛養し、六親を贍護し、俸禄・産業は、みなに分けた。

朱桓が曹仁に勝った理由は、「中洲に部曲の妻子がいた」がポイントでは。単純な地点の取りあいではなく、かわいがった部曲の家族がいる。また部曲たちも、自分の家族を守るために、実力以上を発揮した。もし捕らえられたら、魏に連れて行かれることは必至だから。

朱桓が疾困すると、営を挙げて憂戚した。

孫権よりも、部曲に病気を心配された。朱桓の性格からして、「ひとの下になるのがイヤ」だから、孫権と、仲良くやれなかっただろう。

赤烏元年(238) 62歳で死んだ。吏士の男女は、号慕しないものがない。家に余財がなく、孫権は塩5千斛をたまい、喪事に費用にあてた。子の朱異が嗣いだ。160619

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