孫呉 > 『呉志』巻七を読む

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孫権の称帝を認めなかった、張昭伝

趙昱・王朗と友となる

張昭、字子布、彭城人也。少好學、善隸書。從白侯子安、受左氏春秋、博覽衆書、與琅邪趙昱、東海王朗、俱發名友善。弱冠察孝廉、不就。與朗共論舊君諱事、州里才士陳琳等皆稱善之。

張昭は、あざなを子布といい、彭城のひと。少きより学を好み、隸書を善くす。〔白〕侯子安より『左氏春秋』の学問を受け、博く衆書を覧ず。

彭城は『魏志』武帝紀 建安三年に。白侯子安は、盧弼が注釈せず。えー。

琅邪の趙昱・東海の王朗と、ともに名を発し友善す。

趙昱は『魏志』陶謙伝および注釈、『呉志』劉繇伝に。趙昱は、庶士である東莞の綦毋君より『公羊伝』を受けた。張昭と対称性をなすか。

弱冠で孝廉に察せられたが、就かず。王朗とともに舊君の諱事について論じ、州里の才士である陳琳らは、みな称善した。

陳琳は広陵のひと。『魏志』王粲伝にみえる。彭城・広陵は、どちらも徐州に属するから「州里の」という。


時汝南主簿應劭議宜爲舊君諱、論者皆互有異同、事在風俗通。昭著論曰「客有見大國之議、士君子之論、云起元建武已來、舊君名諱五十六人、以爲後生不得協也。取乎經論、譬諸行事、義高辭麗、甚可嘉羨。愚意褊淺、竊有疑焉。蓋乾坤剖分、萬物定形、肇有父子君臣之經。故聖人順天之性、制禮尚敬、在三之義、君實食之、在喪之哀、君親臨之、厚莫重焉、恩莫大焉、誠臣子所尊仰、萬夫所天恃、焉得而同之哉?然親親有衰、尊尊有殺、故禮服上不盡高祖、下不盡玄孫。又傳記四世而緦麻、服之窮也。五世袒免、降殺同姓也。六世而親屬竭矣。又曲禮有不逮事之義則不諱、不諱者、蓋名之謂、屬絕之義、不拘於協、況乃古君五十六哉!邾子會盟、季友來歸、不稱其名、咸書字者、是時魯人嘉之也。何解臣子爲君父諱乎?周穆王諱滿、至定王時有王孫滿者、其爲大夫、是臣協君也。又厲王諱胡、及莊王之子名胡、其比衆多。夫類事建議、經有明據、傳有徵案、然後進攻退守、萬無奔北、垂示百世、永無咎失。今應劭雖上尊舊君之名、而下無所斷齊、猶歸之疑云。曲禮之篇、疑事無質、觀省上下、闕義自證、文辭可爲、倡而不法、將來何觀?言聲一放、猶拾瀋也、過辭在前、悔其何追!」

汝南の主簿の応劭は、『風俗通』を著して、旧い主君まで遡って、諱の文字の使用を避けるべきと主張した。

応劭のことは『魏志』武帝紀 興平元年にひく『世語』にみえる。応劭が『風俗通』を撰したことは、『魏志』王粲伝にひく華嶠『漢書』にみえる。(この裴注にある)応劭が旧君を諱事について論じたことは、現有の『風俗通』にない。

張昭(と王朗)はこれに反論した。後漢だけでも、56名も避けねばならず、合理的でない。

盧弼はいう。光武帝から後漢末まで、旧君は56名もいない。ぼくは思う。後漢は、傍流から即位する皇帝がおおい。それらの父系を足し、皇后も足すとか。

君主を尊び、諱を忌避すべきであるが、『礼記』の服喪の規定も、上は高祖父まで及ばず、下は玄孫まで及ばず。ゆえに『伝』では、自分から4世代までの者が死ねば緦麻の喪服を着けるが、5世代を離れれば簡素になり、6世代を離れれば親族として扱わない。ゆえに後漢の56名の旧主を、すべてを忌避する必要はない。『春秋』魯隠公元年・魯閔公元年に、諱を避けて、あざなを書く場合があるが、個別にその人物を慕って諱を避けたのであり、君主の父祖の名だから避けたのではない。周穆王の諱「満」は、周定王のとき「王孫満」という大夫がおり、文字がかぶる。周厲王の諱「胡」は、荘子の子「荘胡」と、文字がかぶる。応劭の議論は適切でない。

周王の諱がかぶせられた事例は、説得力がある!
後漢の旧主56名を避けよとは、儒教が「発達」した結果、出てきた言説に見える。なんでも格式・形式を整えれば、極端になり、実生活に支障が出る。「言葉狩り」が行われて、発言しづらくなる。わかき張昭は、合理的で柔軟だったことが分かる。のちに自称・皇帝の孫権に仕えるのだから、合理的・実務重視でないと、不可能だろう。「堅苦しいジジイ」のイメージがあるが、柔軟でもある。


陶謙を断り、孫策に仕える

刺史陶謙舉茂才、不應、謙以爲輕己、遂見拘執。昱、傾身營救、方以得免。漢末大亂、徐方士民多避難揚土、昭皆南渡江。孫策創業、命昭爲長史、撫軍中郎將。升堂、拜母、如比肩之舊。文武之事、一以委昭。

徐州刺史の陶謙は茂才に挙げるが、応ぜず。陶謙は「張昭がオレを軽んじた」と考え、拘執した。趙昱は身を傾けて救い、免れた。

陶謙が徐州刺史である(徐州牧でない)年数は短いから特定できそう。
陶謙が病死すると、張昭は哀辞を撰した。『魏志』陶謙伝にひく『呉書』に。もとのように挙主を敬礼し、拘留したことは憾まなかった。ぼくは思う。呉や魏など、史書の主人公以外の勢力が、人材を抱えようとすると、「脅迫して拘束した」みたいな書かれ方をする。「二君に仕えるのは、都合が悪い」という規範によってか、前歴が「やむを得ない寄り道」として書かれるのだろう。

漢末はおおいに乱れ、徐州の士民は、おおく揚州に避難した。張昭も江を南渡した。孫策が創業すると、張昭に命じて長史・撫軍中郎将とした。

ぼくは思う。孫策もまた、陶謙に迫害され、母とともに、長江の北の江都にいた。孫策が張昭と出会うのは、長江の北だと、ドラマチック。一緒に長江を渡るとか。
洪飴孫はいう。撫軍中郎将は1名、比2千石、第4品。

張昭は堂に升り、孫策の母に拝し、比肩の旧のように扱われた。

周寿昌はいう。「升堂拝母」の語は、ここが初出。のちに周瑜伝にもある。孫策伝にひく『呉録』で、呉夫人(孫策母)は孫策に「王晟とおまえの父は、升堂して妻にあった関係だ」といった。「升堂見妻」もわずかに用例がある。
ぼくは思う。孫策の扱いは「升堂拝母」「比肩の旧」に見えるように、張昭・周瑜で等しい。20歳上の張昭と、同年齢の周瑜だが、年齢差と関係なく、なにか感じるものがあったか。孫策の死後も、張昭・周瑜が孫氏を支えるのは、母の呉夫人が接点になったように見える。孫策と孫権は同母兄弟だから、呉夫人が健在である限り、孫策が孫権に入れ替わろうが、張昭・周瑜と呉夫人の距離は同じである。乱世に特有の感情なのか、もしくは、張昭・周瑜とも、呉夫人に恋心を懐いたとか

文武の事は、すべて張昭に一任された。

孫策伝では、張昭は「謀主」とされる。


吳書曰。策得昭甚悅、謂曰「吾方有事四方、以士人賢者上、吾於子不得輕矣。」乃上爲校尉、待以師友之禮。

『呉書』はいう。孫策は張昭を得て、はなはだ悦び、「われ四方に事あり(四方と戦ってゆく)。士人・賢者を以て上とす。あなたを軽んじるものか」と。上表して校尉とし、師友の礼で待遇した。

ぼくは思う。孫堅の死後、孫策は苦しくなるが、袁術のネットワークと関係のないところで、人脈を広げた。これがのちに呉王朝の基礎となる。


昭每得北方士大夫書疏、專歸美於昭。昭、欲嘿而不宣則懼有私、宣之則恐非宜、進退不安。策聞之、歡笑曰「昔管仲、相齊。一則仲父、二則仲父、而桓公爲霸者宗。今子布賢、我能用之。其功名獨不在我乎。」

いつも張昭が北方の士大夫から書疏を得ると、もっぱら張昭をほめる。張昭は、黙っていれば(孫策に隠して)私的に外部と連絡を取ることになるから懼れ、公開すれば(自慢になって)宜しくないので、進退は安じない。孫策はこれを聞き、歓笑して「むかし管仲は斉国で相となった。斉桓公は、管仲のおかげで覇者となった。張昭が賢く(北方の士大夫から絶賛される手紙が来るほどなら)私は、あなたを、うまく用いよう。張昭の功名は、私のものにもなる(斉桓公のように)」と。

孫権に孫策を継がせる

策臨亡、以弟權託昭。昭、率羣僚立而輔之。吳歷曰。策謂昭曰「若仲謀不任事者、君便自取之。正復不克捷、緩步西歸、亦無所慮。」

孫策は死に臨み、孫権を託した。張昭は、群僚をひきいて立ち、孫権を輔けた。

孫策伝と、孫権伝 建安五年にある。

『呉歴』はいう。孫策は張昭に「もし孫権は適任でなければ、きみが自ら取れ。

劉備・孫策は、どちらも「自ら取れ」という。梁商鉅はいう。これは劉備が劉禅を諸葛亮に託した言葉と、同根のようである。阿斗はアホだが、孫権は英勇なので(劉備の場合と異なり)孫策がこれを言ったところで、だれを欺けるか。

(私のように)勝利できなくとも、歩を緩めて西に帰すれば(揚州を離れて、中原に帰還すれば)憂慮することはない」

周寿昌はいう。張昭が丞相になれなかったのは、この数語が原因である。孫権は、張昭に廃されることを恐れた。皇帝となっても、孫策に皇帝号を贈らない。孫策の子孫は、扱いが悪い。『江表伝』で、張昭は(呉の独立を唱える)魯粛・周瑜と対立した。孫策・張昭に対するワダカマリである。
盧弼はいう。孫翊伝にひく『典略』で、張昭が孫策に「兵を孫翊に属させよ」という。これもまた、孫権が張昭を信頼しなかった理由である。
ぼくは思う。「自ら取れ」は、劉備は皇帝位だが、孫策の場合は会稽太守である。張昭が自ら会稽太守になれ、といっても、全然おかしくない。むしろ、リアリティがある。のちに孫権が皇帝になったせいで、だいぶ文脈が変わってしまった。
中原に帰る(曹操に従う)というオプションを孫策が想定した(と『呉録』が書いた)ことが、おもしろい。張昭が、北方の士大夫との人脈を使えば、孫策の部下たちは、それなりのポストが得られる。孫策が、そういう「保険」の意味も込めて、張昭を厚遇した……と考えるのは、さすがにコジツケか。


上表漢室、下移屬城、中外將校、各令奉職。權悲感未視事、昭謂權曰「夫、爲人後者、貴能負荷先軌、克昌堂構、以成勳業也。方今天下鼎沸、羣盜滿山。孝廉、何得寢伏哀戚、肆匹夫之情哉」乃身自扶權上馬、陳兵而出。然後、衆心知有所歸。昭、復爲權長史、授任如前。

上は漢室に(新体制を)表し、下は属城に文書を回付し、中外の将校には(孫策の生前と同じく)奉職させた。孫権は悲感して事を視ない。張昭は孫権にいう。「あとを継ぐ者は、先人の仕事をふまえ、勲業を成せ。天下は鼎沸し、群盗や山に満つ。孝廉(孫権)よ、なぜ寝伏して哀戚し、匹夫の情にひたるのか」と。

ぼくは思う。「群盗が山に」というのが、いい。孫権に期待されるのは、曹操と雌雄を決するのでなく、揚州の山賊(山越ふくむ)を討伐すること。賀斉や、初期の陸遜の働きこそ(張昭に言わせれば)孫策の役割を継ぐもの。

自ら孫権を扶け起こし、馬に乗らせ、兵を陳べて出た。その後、衆心は帰する所を知る。張昭は、孫権の長史になり、任務は前とおなじ。

孫策の討逆将軍・孫権の討虜将軍は、いずれも漢王朝(曹操)のために、揚州の山賊を討つことが主務。だから、孫権はただちに出陣したのだ。
盧弼はいう。これは孫権伝と内容は同じで、言葉が異なる。周瑜伝によると、建安五年、孫権が統事すると、周瑜は兵をひきい喪に赴き、呉に留まった。中護軍となり、長史の張昭とともに衆事を掌ったと。魯粛伝によると(孫権が継承したとき)張昭は魯粛を厳しく否定した。


吳書曰。是時天下分裂、擅命者衆。孫策蒞事日淺、恩澤未洽、一旦傾隕、士民狼狽、頗有同異。及昭輔權、綏撫百姓、諸侯賓旅寄寓之士、得用自安。權每出征、留昭鎭守、領幕府事。後黃巾賊起、昭討平之。權征合肥、命昭別討匡琦、又督領諸將、攻破豫章賊率周鳳等於南城。自此希復將帥、常在左右、爲謀謨臣。權以昭舊臣、待遇尤重。

『呉書』はいう。このとき天下は分裂し、命を擅にする者はおおい。孫策は活動期間が短く、恩沢が浸透しないため、孫策が死ぬと、士民は狼狽して(孫策の死に対する反応に)同異があった。張昭が孫権を輔けると、百姓を綏撫したから、諸侯・賓旅・寄寓の士は、安心できた。孫権が出征するとき、つねに張昭が留まって鎮守し、幕府事を領した。黄巾が起こると、張昭が討平した。

ぼくは補う。朱治伝で、建安七年(202) の記述のあとに、「朱治は、夷越を征討し、東南の平定をたすけ、黄巾の餘類である陳敗・萬秉を禽截した」と見える。孫権が継いでからも、揚州に黄巾が現れる。

孫権が合肥を征すると、張昭に命じて別れて匡琦を討った。また諸将を督領し、豫章賊率の周鳳らを南城で攻破した。

匡琦は、『魏志』巻七 陳登伝にひく『先賢行状』と、『魏志』巻二十二 陳矯伝の注釈に。『郡国志』はいう。揚州の豫章郡に南城県がある。呉は臨川郡と改めた。

張昭が將帥になるのはマレで、つねに孫権の左右で、謀謨の臣である。孫権は張昭が旧臣なので、もっとも重く待遇した。

孫策が「袁術の部将」に終わらず、実のある将軍府=政治集団を組織できたのは、張昭のおかげ。孫策から孫権への継承ができたのも、張昭のおかげ。


孫権を諌める

後、劉備表權行車騎將軍、昭爲軍師。 權、每田獵、常乘馬射虎。虎常突前攀持馬鞍、昭變色而前曰「將軍、何有當爾。夫、爲人君者謂、能駕御英雄、驅使羣賢。豈謂、馳逐於原野、校勇於猛獸者乎。如有一旦之患、奈天下笑何?」權謝昭曰「年少、慮事不遠。以此慚君」然、猶不能已、乃作射虎車。爲方目、閒不置蓋、一人爲御、自於中射之。時有逸羣之獸輒復犯車、而權每手擊、以爲樂。昭雖諫爭、常笑而不答。

(建安十四年 209)劉備が上表して、孫権を行車騎将軍とすると、張昭を軍師とした。
孫権は田猟し、つねに乗馬して虎を射た。虎の前足が、孫権の馬鞍にかかるので、張昭は色を変じて進み、「危ないこと禁止」というと、孫権は「若くて、つい」と。

盧弼はいう。ときに孫権は30歳以上であり、若くない。

しかし田猟をやめられず、孫権は「射虎車」をつくった。窓をあけて、そこから虎を射た。群れをはぐれた獣が、孫権の車を襲ったが、孫権はそれを射ることを楽しんだ。張昭は諌争したが、笑って受け流された。

孫権が呉王となる

魏、黃初二年、遣使者邢貞、拜權爲吳王。貞、入門、不下車。昭謂貞曰「夫禮、無不敬故法無不行。而君敢自尊大。豈以江南寡弱、無方寸之刃故乎」貞卽遽下車。拜昭爲綏遠將軍、封由拳侯。吳錄曰。昭與孫紹、滕胤、鄭禮等、採周、漢、撰定朝儀。

魏の黄初二年(221) 邢貞をつかわし、孫権を呉王とした。

『魏志』程昱伝に、程昱は、中尉の邢貞と威儀を争ったとある。このひとである。ぼくは思う。長身・年長の程昱と、威儀を争えるぐらいの人物を、曹丕は選出した。威圧してやろう!という底意が見えすぎる。

邢貞は門に入っても、車を下りない。張昭は邢貞に「礼とは、敬って法を守るためのもの。きみが尊大なのは、江南は寡弱で、方寸の刃もないと思うからか」と。邢貞はすぐに車を下りた。

徐盛伝に「邢貞には驕色があった。張昭は怒り、徐盛も忿憤した」と見えるから、邢貞に対抗したのは、徐盛と張昭である。曹丕を疑城であざむく徐盛伝
胡三省はいう。邢貞は張昭に言われて車を下りた。その気は、すでに奪われた。

張昭は綏遠將軍となり、由拳侯に封ぜられた。

由拳は、呉の黄龍三年(224) 禾興と改められ、赤烏五年に嘉興となる。孫策伝にひく『呉録』に詳しい。

『呉録』はいう。張昭は、孫紹・滕胤・鄭禮らとともに、周・漢の制度について情報をあつめ(呉王の)朝儀を撰定した。

趙一清はいう。孫紹とは(呉の初代丞相の)孫長緒であり、もとは「孫劭」につくる。盧弼はいう。孫邵のことは、孫権伝 黄武四年にひく『呉録』にある。鄭禮は、孫権伝 赤烏二年にひく『文士伝』にある。滕胤は列伝あり。


權於武昌、臨釣臺、飲酒大醉。權、使人以水灑羣臣、曰「今日酣飲。惟醉墮臺中、乃當止耳」昭、正色不言、出外車中坐。權、遣人呼昭還、謂曰「爲共作樂耳、公何爲怒乎?」昭對曰「昔紂、爲糟丘酒池長夜之飲。當時亦以爲樂、不以爲惡也」權默然、有慚色、遂罷酒。

孫権は武昌で、釣台に臨んで、台から堕ちるまで酔わせた。孫権が「公はなぜ怒る」と聞くと、張昭は「殷紂王と同じだ」と批判した。

武昌は、孫権伝 黄初二年に。『水経』江水注・『方輿紀要』巻七十六に、この釣台を記す。3165p
銭大昕はいう。『江表伝』で孫権は、配下をあざなで呼んだが、張昭だけは「公」と呼ぶと。ここでも張昭を「公」と呼ぶ。諸葛恪伝にも「張公」の表記がある。ちなみに顧雍もいまた、孫権から「顧公」と呼ばれた。


◆丞相にならない

初、權當置丞相、衆議歸昭。權曰「方今多事、職統者責重。非所以優之也」後、孫邵卒。百寮復舉昭、權曰「孤、豈爲子布有愛乎。領丞相、事煩。而此公性剛、所言不從、怨咎將興。非所以益之也」乃用顧雍。

はじめて(呉王として)孫権が丞相を置くとき、衆議は「張昭がいい」という。孫権「方今、多事なり。統ぶることを職とする者 責は重し。以て之を優とする所にあらず」といい(北海の孫邵を任命した)。

ちくま訳は「優遇することにならない」とする。ニュアンスが気になるので、訓読した。
ぼくは思う。孫邵は、張昭とともに、呉の朝廷の礼制について、検討した。北海といえば孔融である。北来の儒者で、張昭と同じくらい見識を持つが、張昭ほど逆らわないひとか。丞相は、官僚を統括するから、いちいち反発する人には務まらない。

(黄武四年 225)孫邵が卒した。百寮は張昭を挙げたが、孫権は「わたしはなぜ、張昭に愛がないことがあろうか。丞相を領せば、仕事は煩雑である。しかも張公の性は剛で、言っても従わず、怨咎が興きそう。(呉のために・私に)益さない」と。顧雍を用いた。

韓慕廬はいう。まことに張昭を愛するゆえの処置である。君臣の間では、短所を護って(短所が表に出ないように)用いる。まことに骨肉の愛のようで、ひとに感じさせると。盧弼はいう。孫権は、張昭に不満であるから、適当に理由をつけただけ。


孫権が皇帝になり、閑職へ

權既稱尊號、昭以老病、上還官位及所統領。

(黄龍元年 229)孫権が尊号を称すると、張昭は老病ゆえに、官位および統領するところを還した。

江表傳曰。權既卽尊位、請會百官、歸功周瑜。昭舉笏欲褒贊功德、未及言、權曰「如張公之計、今已乞食矣。」昭大慚、伏地流汗。昭忠謇亮直、有大臣節、權敬重之、然所以不相昭者、蓋以昔駮周瑜、魯肅等議爲非也。
臣松之以爲張昭勸迎曹公、所存豈不遠乎?夫其揚休正色、委質孫氏、誠以厄運初遘、塗炭方始、自策及權、才略足輔、是以盡誠匡弼、以成其業、上藩漢室、下保民物。鼎峙之計、本非其志也。曹公仗順而起、功以義立、冀以清一諸華、拓平荊郢、大定之機、在於此會。若使昭議獲從、則六合爲一、豈有兵連禍結、遂爲戰國之弊哉!雖無功於孫氏、有大當於天下矣。昔竇融歸漢、與國升降。張魯降魏、賞延于世。況權舉全吳、望風順服、寵靈之厚、其可測量哉!然則昭爲人謀、豈不忠且正乎!

『江表伝』孫権が尊位に即くと、百官をあつめ、功を周瑜に帰した。張昭は笏をあげて褒められるかと思いきや、孫権は「張公の計に従えば(曹操を迎えれば)いまごろ乞食だった」という。張昭は地に伏して汗を流した。張昭が丞相にならないのは、周瑜・魯粛に反対したから。

王氏の『白田草堂存稿』巻四は、この『江表伝』が誤りとする。張昭は孫権に憚らず、張公と呼ばれた。なぜ群僚の前で、地に伏せるか。のちに孫権が張昭に怒ったときも、曹操への帰順の話は出ない。張昭は、孫策の遺言を踏まえたのであり、失策であるが、大計を誤たない。孫権が皇帝になっても、曹操の話はふれない。陳寿はこの話を載せないが、『通鑑』は載せた。適切でないと。
盧弼はいう。孫権が張昭に不満をもつのは、前にある。王氏には賛同しかねる。

裴松之はいう。張昭が曹操を迎えよと勧めたのは、そんなに的外れか。張昭が孫氏に仕えたのは、苦しい時代状況を孫氏なら立て直せると見込んだから。孫氏を助けて、上は漢室に藩となり、下は民物を保った。呉を鼎立させることは、張昭のもとの志ではない。孫権が帰順していれば、天下の戦乱は終わったのに。

盧弼はいう。曹操が漢室に忠を果たしたのは、裴松之の言うとおり。周瑜は「漢相」になら降るといい、「漢相をかたる漢賊」には降らないといった。
李安渓は裴松之に反対して、曹操は漢賊という。その他、はげしい史論が応酬されるが(3167p)銭振鍠がまとめる。裴注で張昭について、議論が分かれる。諸葛瑾が劉備に送った手紙で「義は孫氏にあり」といってケンカになった。2説は水と火のように正反対だから、言っても仕方ない。

後漢初の竇融・後漢末の張魯のほうが正しい。

ぼくは思う。張昭が孫権に服従しない理由は、「孫権は、袁術と同じである」という告発である。張昭が丞相の職務に適任かどうか、というのは問題のすり替えである。張昭がいる限り、「孫権の赤壁より以後、天下を乱しただけ」という厳然たる事実を隠せない。個人的な相性の問題ではなく、政権構造に由来する対立だから、ふたりが和解できない。逆に相性の問題ではないから、孫権は張公をとうとぶ姿勢をくずさない。


更拜輔吳將軍、班亞三司、改封婁侯、食邑萬戶。在里宅無事、乃著春秋左氏傳解及論語注。

更めて輔呉將軍を拝し、班は三司につぎ、改めて婁侯に封ぜられ、食邑は1万戸。

輔呉将軍は1名、呉がおく。『世説』排調篇に「張輔呉」が出てくるが、これに劉注は環済『呉紀』をひき、張昭であるとする。
婁県は呉郡に属す。前漢では会稽であり、後漢で呉郡に遷った。盧弼はいう。建安二十四年(219) 孫権は陸遜を婁侯とし、劉備を破ったら江陵侯に改めた(陸遜伝)。呉の黄龍元年、張昭を婁侯に封じた。
ぼくは思う。張昭への人事は、孫権が皇帝になった同年のこと。孫権が皇帝になると、原理的に両立しない張昭を、名誉職に押しやったのだ。孫権と張昭の対立を、個人の叩きあいだとするのは、問題のすり替えに嵌まっている。

里宅にいて公務をせず、『春秋左氏傳解』および『論語注』を著した。

盧弼はいう。これは張昭が若きとき学んだもの。ぼくは思う。完璧に「追放」されている。孫権の皇帝即位が遅れたのは、張昭の追放に時間がかかったせいとも言えそう。衆論が「張昭を丞相に」といううちはムリ。『張昭』と『孫権の建国』が両立しないことを、意図的に? 見落としている衆論は、集団的な健忘症だろうか。
盧弼はいう。曹丕は『典論』と詩賦を書いて、孫権と張昭に贈った。『魏志』文帝紀 黄初七年にひく『呉歴』にみえる。ぼくは思う。曹丕は晩年になっても、なお「孫権を降伏させるキーマンは張昭」と看破し、期待していたのか。


權嘗問衞尉嚴峻、「寧念小時所闇書不?」峻因誦孝經「仲尼居」昭曰「嚴畯、鄙生。臣請爲陛下誦之」乃誦「君子之事上」咸以昭爲知所誦。

孫権はかつて、衛尉の厳畯に、子供のとき暗唱した経書を言えるかと聞いた。厳畯は『孝経』の「仲尼居」を誦した。

厳畯は『孝経伝』を著したのは、厳畯伝にみえる。潘眉はいう。『孝経正義』は古文の『孝経』をひき「仲尼間居」につくるが、偽古文である。三国期は、まだ偽古文が出ていないから、古文どおり「仲尼居」と厳畯がいった。『説文解字』のいう、古文・偽古文の区別と整合する。

張昭「厳畯は鄙生である。私が陛下のために誦そう」といい、「君子の上に事ふる」章を誦した。みな張昭が誦す所を知る(皇帝の孫権の前で、ふさわしいテキストを選んだ)と思った。

趙一清はいう。『南史』王倹伝で、斉高帝が陸澄に『孝経』を誦させると、「仲尼居」から誦す。王倹は陸澄をしりぞけ、「君子の上に事ふる」章を誦した。張昭を踏まえた。


称帝の不当性を、告発し続ける

昭每朝見、辭氣壯厲、義形於色。曾以直言逆旨、中不進見。後、蜀使來、稱蜀德美、而羣臣莫拒。權歎曰「使張公在坐、彼不折則廢、安復自誇乎」明日遣中使勞問、因請見昭。昭、避席謝。權、跪止之。昭坐定、仰曰「昔太后、桓王、不以老臣屬陛下、而以陛下屬老臣。是以思盡臣節、以報厚恩、使泯沒之後有可稱述。而意慮淺短、違逆盛旨、自分幽淪、長棄溝壑。不圖、復蒙引見、得奉帷幄。然、臣愚心所以事國、志在忠益、畢命而已。若乃、變心易慮以偷榮取容、此臣所不能也」權辭謝焉。

張昭は朝見するたび孫権に逆らい、朝見しなくなった。のちに蜀使がきて、蜀の徳を称えたとき、郡臣は対抗できなかった。孫権「張公がいれば、蜀使の言うがままにしなかったのに」と。

張昭は、言葉の運用能力において、蜀使に対抗できる。しかし、「呉帝」を認める気がないから、主義主張に照らして、呉帝をほめてくれないだろう。孫権は、皇帝として有頂天になり、日常的に躁状態で、そこを見落としている。

使者をやって張昭を呼ぶが、張昭は席を退いて謝す(朝見をこばむ)。孫権が跪いて留めたが、「呉夫人・孫策は、この老臣に陛下を託され、私なりに臣節を尽くしたいと思ったが、意思を曲げてまで陛下に仕えるつもりはない」と。

ぼくは思う。呉夫人・孫策は、「揚州を平定せよ。経営が難しければ、漢朝(曹操)に帰順せよ」であった。張昭は、孫権を漢朝に帰順させることを任務とした。赤壁の「クーデター」により、孫権は道を誤った。孫権が皇帝を辞めない限り、呉夫人・孫策の遺言を守ったことにならず、孫権に仕えるつもりはない。しかし孫権が皇帝を辞めるなんて現実的でないから、臣従をこばんだ。
袁術に絶縁状を突きつけた孫策と、同じ気分である。


權、以公孫淵稱藩、遣張彌許晏、至遼東、拜淵爲燕王。昭諫曰「淵、背魏懼討、遠來求援、非本志也。若、淵改圖欲自明於魏、兩使不反。不亦取笑於天下乎」權、與相反覆、昭意彌切。權、不能堪、案刀而怒曰「吳國士人、入宮則拜孤、出宮則拜君。孤之敬君亦爲至矣、而數於衆中折孤。孤嘗恐失計」

(嘉禾二年 233)公孫淵が称したから、孫権は使者をやり燕王にしてやる。張昭が諌めた。「公孫淵は魏に懼れ、遠くに救援しただけ。(呉への帰順は)本志でない。もし公孫淵が魏につけば、呉使は帰ってこられず、天下に笑われる」

軍事的・経済的に、なんのメリットもないところに「外藩」を求めるのは、皇帝に特有の病状である。その皇帝としての、空想的な政策を、張昭は責めている。

張昭がきつく反対するから、孫権は堪えられず、刀を案じて怒り、「呉国の士人は、宮に入れば私に拝すが、宮を出ればキミに拝す。私はキミを敬うのに、キミは私に公の場でつっかかる。計を失う(キミを殺してしまう)ことを恐れる」と。

さきに引いた『白田草堂存稿』巻四で、孫権は、呉臣の動向・張昭の態度をとがめるが、「赤壁のとき、曹操への帰順を勧めやがって」と怨みを述べない。この怨みは精算が済んでいた、と論じてあった。
ぼくは思う。精算されたのでなく、抑圧・隠蔽されただけ。「宮を出れば張昭に拝す」とは、孫権の称帝は、政治的には認めた(ふりがされる)が、文化的価値を重んずる名士から、失笑されたということ。孫権のクレームは、袁術の言葉としても通じる。これで張昭を殺せば、「不当にも臣従を迫って、名声ある老賢者を殺す」という、まさに袁術と同じパターンである。
孫権の台詞「計を失う」を、ちくま訳は「そうした態度が国を誤る」として、よく分からないが、胡三省は「張昭を許せなくなって殺す」と書いてある。そちらを採用する。


昭熟視權曰「臣、雖知言不用、每竭愚忠者、誠以、太后臨崩呼老臣於牀下、遺詔顧命之言故在耳」因涕泣橫流。權擲刀致地、與昭對泣。然、卒遣彌晏往。昭、忿言之不用、稱疾不朝。權恨之、土塞其門。昭又於內以土封之。
淵、果殺彌晏。權、數慰謝昭、昭固不起。權因出、過其門、呼昭、昭辭疾篤。權燒其門、欲以恐之、昭更閉戶。權使人滅火、住門良久、昭諸子共扶昭起、權載以還宮、深自克責。昭、不得已、然後朝會。

張昭は孫権を熟視し、「私の意見は用いられないと知っているが、いつも私が忠を尽くして(つっかかって差し上げるのは)呉太后が崩に臨み、私をベッドのもとによび、詔を遺して『顧命』の言をなさったから」と。

孫権の母・呉氏が死ぬのは、赤壁の直前。孫策・呉氏の遺志は、曹操への帰順である。つまり、孫権が独立に走ったのは、呉氏が死んだから。このときから始まった判断ミスを、張昭は終生、軌道修正しようとした。

孫権は刀をなげうち、張昭にむけて泣いたものの(張昭の反対を無視して)公孫淵に使者を行かせた。張昭は怒って、病気といい朝廷にゆかず。孫権は恨み、土で門を塞いだ。張昭も内から門を土で塞いだ。
果たして公孫淵が(張昭の言ったとおり)呉使を斬ると、孫権は張昭を慰め謝ったが、張昭は立たず。孫権は門前でよぶが、張昭は病気だといって辞した。孫権は門を焼いて、張昭に恐れを抱かせようとするが、張昭は更めて門を閉じた。消火させ、張昭の諸子に扶け起こさせた。孫権は宮に還り、深く自らを責めた。張昭はやむを得ず、朝廷にきた。

習鑿齒曰。張昭於是乎不臣矣!夫臣人者、三諫不從則奉身而退、身苟不絕、何忿懟之有?且秦穆違諫、卒霸西戎、晉文暫怒、終成大業。遺誓以悔過見錄、狐偃無怨絕之辭、君臣道泰、上下俱榮。今權悔往之非而求昭、後益迴慮降心、不遠而復、是其善也。昭爲人臣、不度權得道、匡其後失、夙夜匪懈、以延來譽、乃追忿不用、歸罪於君、閉戶拒命、坐待焚滅、豈不悖哉!

習鑿歯は、張昭を「不臣」と批判する。盧弼の注は、経書の出典だけ。はぶく。

習鑿歯は、張昭を「不臣」として、「だからダメ」という。だが張昭は「皇帝」孫権に臣従するつもりがない。不臣の行動をとることは、一貫性がある。『呉志』では、張昭のこの意図が見えにくい(というか、わざと隠蔽されており)一読しても、よく分からん。「張昭は、なぜそんなムチャするのか」と、陳寿・裴松之も、解けない疑問を畳み掛ける。


張昭が卒す

昭、容貌矜嚴、有威風。權常曰「孤與張公言、不敢妄也」舉邦憚之。年八十一、嘉禾五年卒。遺令、幅巾素棺斂以時服。權、素服臨弔、諡曰文侯。

張昭は、容貌は矜厳で、威風あり。孫権はつねに「張公にむけて、妄になことは言えない」といい、国をあげて憚った。81歳で、嘉禾五年(236) に卒した。

張昭は、漢桓帝の永寿二年生まれで、孫堅の1歳下。

遺令により、幅巾をつけ素棺に時服でおさめられた。孫権は、素服して臨弔し、文侯と諡した。

幅巾は、『魏志』武帝紀 建安二十五年にひく『傅子』、華歆伝にみえる。時服でおさめるのは、『魏志』司馬朗伝にある。


典略曰。余曩聞劉荊州嘗自作書欲與孫伯符、以示禰正平、正平蚩之、言「如是爲欲使孫策帳下兒讀之邪、將使張子布見乎?」如正平言、以爲子布之才高乎?雖然、猶自蘊藉典雅、不可謂之無筆迹也。加聞吳中稱謂之仲父、如此、其人信一時之良幹、恨其不於嵩岳等資、而乃播殖於會稽。

『典略』はいう。私(魚豢)が劉荊州(劉表)に聞いたこと。

ちくま訳は、劉荊州を劉備とするが、変じゃないか。

かつて劉表が、自ら書をつくり、孫策に送ろうとして、禰衡に示した。禰衡はわらって、「こんなものは、孫策の帳下のガキに読ませるのか、もしくは張昭に見せるのか」といった。禰衡の口ぶりから察するに、張昭の才能は高いと評価されたか疑問である。

ちくま訳は「才能を高く買っていたとは思えない」とある。ぼくは、高く買ったと思う。「孫策の無学なガキに見せるならまだしも、張昭に見てもらうに値するか」が本意では。禰衡は捻くれているから、言葉どおりに解釈できない。あえて、ガキと対比したのだから、評価しているのだろう。

しかし、張昭は典籍につうじ、呉中では「仲父」とよばれ、一時の良幹(同時代の中核的な人物)として信頼された。中原で素質を競わず、会稽に根づいて(中華の総体として、才能をムダにしたことが)恨まれる。

盧弼は、袁宏『三国名臣序賛』を注釈する。はぶく。


長子承、已自封侯。少子休、襲爵。

長子の張承は、すでに侯に封じられており、少子の張休が爵位を嗣ぐ。160623

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張昭よりも信頼された丞相、顧雍伝

顧雍が蔡邕にまなぶ

顧雍、字元歎、吳郡吳人也。吳錄曰。雍曾祖父奉、字季鴻、潁川太守。

顧雍は、あざなを元歎といい、呉郡の呉県のひと。

呉県は孫策伝に。趙一清はいう。顧炎武『顧氏譜系考』によると、越王句践の8世孫が、漢から顧余侯に封じられ、漢初に会稽に居し、顧氏となった。後漢から孫呉のとき、呉県の四姓といわれた。呉県の四姓について、3176p

『呉録』はいう。顧雍の曽祖父の顧奉は、あざなを季鴻といい、潁川太守。

趙一清はいう。『范書』張覇伝に、張覇が会稽太守となると、表して郡人の庶士である顧奉・公孫松をもちい、顧奉は潁川太守に、公孫松は司隷校尉となったと。『范書』儒林 程曽伝に、程曽が家に還って講授すると、会稽の顧奉ら数百人がつねに門下に居たと。
盧弼はいう。『范書』順帝紀によると、永建四年、会稽を分けて呉郡をつくる。だから顧奉は、会稽のひととされる。『范書』黄瓊伝によると、徴聘の士である胡元安・薛孟安・朱仲昭・顧季鴻は、功業が採用されず、ゆえに俗論に「処士が虚声をぬすんだ」と言われたと。


蔡伯喈、從朔方還、嘗避怨於吳。雍、從學琴書。江表傳曰。雍從伯喈學、專一清靜、敏而易教。伯喈貴異之、謂曰「卿必成致、今以吾名與卿。」故雍與伯喈同名、由此也。吳錄曰。雍字元歎、言爲蔡雍之所歎、因以爲字焉。

蔡伯喈は、朔方より還ったが(宦官の曹節の)怨みを避けて呉にいた。顧雍は、蔡邕より琴・書を学んだ。

『范書』蔡邕伝に、蔡邕の密奏を、宦官の曹節が盗み見て、蔡邕を朔方にとばした。蔡邕は還っても、呉郡・会稽にゆき、太山の羊氏をたよった。呉にいること12年と。

『江表伝』はいう。顧雍は蔡邕(あざなは伯喈)より学び、専一に清静で(勉強に集中し)教えやすい学生だった。蔡邕はこれを貴異とし、「卿は必ず成致せん。いま、わが名を卿に与えよう」と。ゆえに顧雍は、蔡邕と同じ名である。

潘眉はいう。「雍」と、「邕」の古字は通用する。

『呉録』はいう。顧雍のあざなは元歎というが、蔡邕に「歎」じられ、あざなに付けた。

林国賛はいう。顧雍の同母弟の顧徽は、あざなを子歎という。だれに(優秀さを)歎じてもらったか。ぼくは思う。蔡邕に歎じられたから、というのがデタラメか。それとも弟が兄にならって、あざなを決めたか。


顧雍が孫策に仕える

州郡表薦、弱冠爲合肥長、後轉在婁、曲阿、上虞、皆有治迹。

州郡は表薦し、弱冠のとき合肥長となり、

顧雍は168年生まれなので、156年生まれの張昭と、175年生まれの孫策のあいだ。弱冠=20歳なら、187年なので、霊帝末。ときの揚州刺史はだれだっけ。

のちに転じて、婁県・曲阿・上虞にあり、どこでも治迹あり。

合肥は『魏志』武帝紀 建安十三年に。趙一清はいう。『方輿紀要』巻二十六によると、建安四年(199) 孫策は合肥を取り、顧雍を合肥長とした。建安五年、曹操は表して劉馥を揚州刺史とした。ときに(曹操は)揚州の九江郡しか有さない。劉馥は単馬で合肥にゆき、合肥の城をつくった。趙一清が考えるに、のちに孫権が合肥を何度も攻めても勝てず、合肥は重鎮となった。太和六年、満寵が更めて新城を置く。呉は一度も、淮南にわずかな土地も得られなかった。
ぼくは思う。孫策と曹操は親和的なので、合肥を融通した。孫策から見ると、合肥は遠いから、曹操に委ねたのだろう。親和的である証拠に孫策は、張昭への遺言で、「(揚州の事業が)うまく行かねば、西に帰せ(曹操を頼れ)」という。張昭伝にひく『呉録』より。母の呉氏も、曹操派。
婁県は張昭伝、曲阿・上虞は孫策伝にある。


顧雍が孫権に仕える

孫權領會稽太守、不之郡、以雍爲丞、行太守事。討除寇賊、郡界寧靜、吏民歸服。數年、入爲左司馬。

孫権が会稽太守を領すると、郡にゆかず、顧雍を丞として、

『続百官志』はいう。郡ごとに太守1名をおき、2千石。丞1名。
孫権伝はいう。曹操は表して孫権を討虜将軍とし、会稽太守を領せしめ、呉県に屯す。だから丞を郡にゆかせ、文書事を行させた。

太守事を行せしめた。

朱治伝はいう。孫権が統事すると、朱然は(会稽の)餘姚長となる。ときに19歳。のちに山陰令に移り、折衝校尉を加えられ、5県を督すと。顧雍も、太守の代理として会稽の郡治・山陰にいたから、時期が重なる。

寇賊を討除し、郡界は寧静となり、吏民は帰服した。数年で(中央に)入り、(討虜将軍の孫権の)左司馬となる。

權爲吳王、累遷大理奉常、領尚書令、封陽遂鄉侯。拜侯、還寺、而家人不知、後聞乃驚。

孫権が呉王となると、

なにこの列伝、展開が早すぎる!会稽で、盗賊を討伐するのは、そこそこに切り上げ(賀斉らに委ねて)孫権は、顧雍を中央で使った。荀攸もそうだが、中央で政策の立案者になると、列伝がスカスカになる。むしろ、孫権の諸政策そのものが、顧雍の「作品」なのかも知れないが。

累ねて大理・奉常に遷り、尚書令を領し、陽遂郷侯に封ぜられた。

『晋書』地理志では、交州の九徳郡に陽遂県がある。『宋書』地理志によると、九徳郡はもと九真郡に属し、呉が分けて立てた。陽遠(盧弼は「陽遂」につくれという)は、呉が立てたとき、陽成といった。西晋の太康二年に改名された。盧弼はいう。『宋書』によると呉が陽成を立てたのであり、陽遂という地名はない。顧雍の封地は、どこだか分からない。交州ではなさそうだがと。

侯を拝して、顧雍が寺(官舎)に還っても、家人は(顧雍が爵位を受けたことに)気づかず、のちに聞いて驚いた。

潘眉はいう。寺とは、官寺。漢代の九卿の官府を「九寺」という。このとき顧雍は、大理・奉常となり、九卿だから、「寺」に還ったのである。
ぼくは思う。中央で政策立案に携わるためには、ポーカーフェイスが必要。


酒を飲まず、太常・丞相となる

黃武四年、迎母於吳。既至、權臨賀之、親拜其母於庭。公卿大臣畢會、後太子又往慶焉。雍、爲人、不飲酒、寡言語、舉動時當。權嘗歎曰「顧君不言、言必有中」至飲宴歡樂之際、左右恐、有酒失而雍必見之、是以不敢肆情。權亦曰「顧公在坐、使人不樂」其見憚如此。是歲、改爲太常、進封醴陵侯、代孫邵爲丞相、平尚書事。其所選用文武將吏、各隨能所任、心無適莫。

黄武四年(225) 母を呉県から迎えた。孫権は臨んで賀し、みずから母に庭で拝した。公卿・大臣が会し、のちに太子もいって慶した。

顧雍は呉県のひとなので、呉県「に」迎えたではないか。ちくま訳は「都に」としている。孫権が迎えるのだから、都に顧雍の母がきたと。

顧雍の人となりは、酒を飲まず、言葉すくなく、挙動は当を得た。孫権は歎じて「顧君は言葉が少ないが、言えば必ず正しい」と。飲宴・歓楽のとき、左右は、酒による失態を顧雍が見ているから恐れ、感情のままにやれない。孫権「顧公が座にいると、ひとは楽しめん」と。憚られることは、こんなふう。

張昭が「張公」といわれ、顧雍も「顧公」といわれた用例である。

この歳(黄武四年 225)、改めて太常となり、

趙一清はいう。魏の黄初元年、奉常を改めて太常とした。呉朝の官位も、これと同じ。けだし孫権が魏の正朔を奉じたときである。盧弼はいう。孫権は黄武に年号を改めて(222) 以後、長江に臨んで魏を拒ぐ。黄武三年(224) ついに魏と断絶した。魏の官制にならったはずがない。
ぼくは思う。魏ではなく、漢の官制にならったのであろう。孫権が皇帝を称するのは、229年であるが、それ以前に、呉王として、漢朝にならった官制を整えた。呉の官制の整備過程を考えると、おもしろいかも。

醴陵侯に封ぜられ、孫邵に代わって丞相となり、尚書事を平した。

『郡国志』はいう。醴陵は、荊州の長沙郡である。
『宋書』百官志はいう。漢武帝のとき、左右曹の諸吏をして尚書事を分平せしむ。昭帝が即位すると、霍光が尚書事を領した。成帝のはじめ、王法が尚書事を録した。後漢の皇帝が即位するたび、太傅が置かれ、尚書事を録し(太傅が)薨ずると廃された。録尚書の職は総べざるなしと。洪飴孫はいう。呉はあるいは尚書事を領すといい(滕胤伝)あるいは尚書事を平すという(顧雍・顧譚伝)。あるいは、尚書事を分平すという(劉繇の子・劉基伝)。あるいは尚書事を省す(是儀伝)という。常員なし。

選用する文武の將吏は、みな能力に随って任じられ、好き嫌いの感情によって、人材を選ばない。

時、訪逮民閒、及政職所宜、輒密以聞。若見納用則歸之於上、不用、終不宣泄。權、以此重之。然、於公朝有所陳及、辭色雖順、而所執者正。權、嘗咨問得失。張昭因陳、聽采聞、頗以法令太稠、刑罰微重、宜有所蠲損。權、默然、顧問雍曰「君、以爲何如」雍對曰「臣之所聞、亦如昭所陳」於是、權乃議獄輕刑。

ときに顧雍は民のなかを訪れ、政職について意見を聞けば、ひそかに孫権に聞かせた。もし意見が採用されれば、孫権に帰し(孫権の発案とし)、採用されねば、どこにもモラさず。孫権は、そういう顧雍を重んじた。しかし、朝廷で公に議論を交わすとき、語調・顔色は従順であるが、正しさを執らえた。

趙一清はいう。『御覧』巻四百五十四は梁祚『魏国統』をひき、顧雍は孫権を諌めて、「公孫淵は信頼できないから(友好を結べば)後に必ず後悔する」と。孫権が禁中に入ると、顧雍は追いかけ、頓首して「これは国の大事なので、死をもって諌争します」と。孫権は左右に、顧雍を扶け起こして、退出させたと。
盧弼はいう。孫権伝には、公孫淵について「丞相の顧雍より以下、みな諌めた」とある。その詳細な描写が『魏国統』に見えたのである。

孫権はかつて得失を諮問したときのこと。張昭は「意見を聞き集めたが、法令が細かくて多く、刑罰がやや重いから、緩和せよ」と。孫権は黙然とし、顧雍を顧みて「きみはどう思う」と。顧雍「私の聞くところ、張昭の発言と同じです」と。孫権は、獄を議して計を軽くさせた。

ぼくは思う。張昭の意見だけでは信頼せず、顧雍の意見を信頼したという話。あまりにも、張昭を侮辱している。張昭は丞相にならず、顧雍は丞相になったし。
ところで、顧雍も張昭も、意見を民や部下から聞き取って、世論を受けて(世論を受けたという話法で)孫権に、政策について意見を述べている。タテマエだろうが、けっこう「民主的」な雰囲気である。


江表傳曰。灌常令中書郎詣雍、有所咨訪。若合雍意、事可施行、卽與相反覆、究而論之、爲設酒食。如不合意、雍卽正色改容、默然不言、無所施設、卽退告。權曰「顧公歡悅、是事合宜也。其不言者、是事未平也、孤當重思之。」其見敬信如此。
江邊諸將、各欲立功自效、多陳便宜、有所掩襲。權以訪雍、雍曰「臣聞兵法戒於小利、此等所陳、欲邀功名而爲其身、非爲國也、陛下宜禁制。苟不足以曜威損敵、所不宜聽也。」權從之。軍國得失、行事可不、自非面見、口未嘗言之。

『江表伝』はいう。孫権はつねに中書郎を顧雍のところに行かせ、意見を聞いた。

胡三省はいう。中書郎とは、魏では通事郎といい、晋では中書侍郎という。

もし顧雍の意見とあい、施行して良ければ(具体的な実効策を、顧雍が中書郎と)突きつめて論じ、酒食を設けた。もし顧雍の意見にあわねば、顧雍は態度・顔色を正して改め、黙然として言わず(顧雍は中書郎のために、酒食を)出さない。中書郎は、すぐに退いた。孫権は「顧公が歓悦すれば、政策案は正しい。顧雍が黙れば、政策は検討が足らないから、考え直そう」と。このように敬信した。
江辺の(魏との国境を守る)諸将は、功績がほしいから、魏を襲撃したい。孫権が顧雍を訪れると、顧雍は「兵法は小利を戒める。諸将は、自分のために功績がほしいだけで、国のためでない。陛下は禁制なさい。威を曜(かがや)かせて敵を損ねる(大きな利のある作戦提案)でなければ、許してはならない」と。孫権はこれに従った。軍国の得失・政策の採否は、面着でしか発言しない。

人柄エピソードも引けたので、以下、呂壱の件など、後日にやります。160624

顧雍伝の重要性は、顧雍そのひとではなく、呉県の顧氏の反映ぶり。「枝ぶり」の立派さ。あとの世代まで、列伝に記載されることが、たくさんあったこと。顧雍ひとりを見ると、「酒を飲まないが、信頼された丞相」という、地味な話しかない。

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顧雍の弟、曹操への使者・顧徽伝

顧雍伝の裴注『呉書』に、顧雍の同母弟・顧徽の伝がある。韋昭『呉書』のときは、きちんと列伝が立ったのだろうが、陳寿にカットされたようである。曹操が絡むので、取り扱う。

顧徽が孫権に仕える

吳書曰。雍母弟徽。字子歎、少游學、有脣吻。孫權統事、聞徽有才辯、召署主簿。嘗近出行、見營軍將一男子至巿行刑、問之何罪、云盜百錢、徽語使住。須臾、馳詣闕陳啓「方今畜養士衆以圖北虜、視此兵丁壯健兒、且所盜少、愚乞哀原。」權許而嘉之。轉東曹掾。

『呉書』はいう。顧雍の同母弟の顧徽は、あざなを子歎といい、少きとき游学し、脣吻あり(弁舌がたつ)。

原文「母弟」を、ちくま訳もぼくも「同母弟」だと思ったが、Wikipediaは、母の弟(母方の叔父)とする。そしたら姓が違うはずでは。
脣吻は、『漢書』東方朔伝にある。『蜀志』龐統伝にひく蒋済『万機論』に、「樊子昭は脣吻を吐く、自ら許文休の敵にあらず」とある。

孫権が統事すると、顧徽の才弁を聞き、召して主簿に署す。顧徽が近くに外出すると、営軍の将が、1男子を巿で刑すところ。罪を問えば「1百銭を盗んだ」と。顧徽は馳せて弁護した。「いま士衆を畜養して北虜を図るところ。この兵を視るに丁壮の健児である。盗んだ金額が少ない。私に免じて赦してやれ」と。孫権は許して嘉した。東曹掾に転じた。

ぼくは思う。北虜とは、曹操のこと。どの段階のエピソードか分からないが、赤壁より前から、曹操と戦う前提をもつひと(魯粛の同類)として、珍しい人材。これも弁舌エピソードだとしたら、ますます魯粛と重なる。


建安九年、曹操に会いにゆく

或傳曹公欲東、權謂徽曰「卿孤腹心、今傳孟德懷異意、莫足使揣之、卿爲吾行。」拜輔義都尉、到北與曹公相見。公具問境內消息、徽應對婉順、因說江東大豐、山藪宿惡、皆慕化爲善、義出作兵。公笑曰「孤與孫將軍一結婚姻、共輔漢室、義如一家、君何爲道此?」徽曰「正以明公與主將義固磐石、休戚共之、必欲知江表消息、是以及耳。」公厚待遣還。

(建安九年 204)あるひとが「曹操が東せんと欲す」と伝えた。孫権は顧徽に、「卿は孤が腹心なり。いま孟徳 異意を懐くと伝ふ。これを揣(おしはか)らしむに足るものなし。卿よ、吾がために行け」と。

赤壁の前、曹操と孫権は、ずっと親和政権である。しかし、その曹操が孫権を「攻撃」するなら、その親和関係の終わりをあらわす。
不適切な比喩ですが、たとえば、長年ずっと軍事・政治的に大国に従属して、大国の戦争を有利にするために、基地を提供したり、経済的に「発展させてもらったり」した小国があったとする。小国は、大国の顔色をうかがうことに必死。もし大国の元首が交代・心変わりしたら、小国は滅亡である。
あるとき、世界の地政学的なマップが書き換えられ、「大国にとっての小国」の戦略的価値が変わったとする。大国がライバルに勝ち、小国の価値が下落したり。その小国が「脅威」に転じたり。そのとき「大国が、攻めてくるらしい」と聞けば、最大級に信頼できる人物を「外交」の使者として、大国に派遣するでしょう。

輔義都尉を拝し、北にゆき曹操に謁見した。

輔義都尉は1名、呉が置く。

曹操は、孫権の国内の詳細について問い、顧徽は婉順に(すらすらと)応答し、「江東は大いに豊かで、山薮に古くから悪がいるが、みな孫権に慕化させて善に変え、義によって兵を供出させた」という。

孫権の着任~赤壁前まで、山越や不服従民を討伐して、県をおいて、兵を出させた。賀斉・陸遜がやってきた事業は、曹操(漢王朝のため)であるが、同時に、曹操の態度が悪ければ、「曹操に対抗する準備」にもなるよ、と脅したのだ。

曹操は笑って、「わたしと孫将軍は、婚姻をむすび、ともに漢室を輔け、義は一家のごとし。君はなぜ、そんなことを言う」

曹操の弟の娘を、孫策の弟の孫匡にとつがた。曹彰は、孫賁の娘をめとった。
ぼくは思う。大国の大統領は、小国の総理大臣と、握手する写真をとり、ともに世界秩序を守る盟友であることを強調する。しかし関係は対等ではなく、小国の総理大臣は、大国の意見にさからうと、「国内の民意」によって更迭される。赤壁前を、ぼくらの「現代史」に置き換えて理解する方法がわかった。たしかに魯粛は、国内から猛反発を食らうわ。自国で、一本立ちできるはずがなかろうと。

顧徽「明公と主将(曹操と孫権)は、義は磐石のごとく固く、休・戚を(安心も心配も)共にするから、必ず江表の消息を知りたいだろうな、と思って、言及しただけです」と。曹操は、厚待して還した。

ぼくは思う。大国にとって、冷戦の相手が健在であれば、とくに小国の「利用価値」が高い。優遇した政策を打つのは、小国を思いやるからではなく、大国自身のためである。


權問定云何、徽曰「敵國隱情、卒難探察。然徽潛采聽、方與袁譚交爭、未有他意。」乃拜徽巴東太守、欲大用之、會卒。子裕、字季則、少知名、位至鎭東將軍。

孫権は顧徽に「どうだった」と問う。顧徽「敵国同士は、情況を隠すもの。にわかには探察しがたい。しかし私が潜かに采聴するに、袁譚と交争しており、まだ他意はない(孫権を攻めない)と。

盧弼はいう。袁譚と争うのは、建安九年のこと。
こうやって、曹操が口に出さない(隠したがる)が、曹操がどういう情況にあるのか、顧徽は探ってきた。袁譚との抗争すら、外には隠したと分かる。逆にいえば、袁譚・袁尚が片付けば、曹操による孫権の攻撃は、現実化するということ。

そこで顧徽を巴東太守とし、おおいに用いようとしたが、顧徽が死んだ。

巴東は、『魏志』武帝紀 建安二十年にみえる。趙一清はいう。このとき巴漢は、なお劉璋に属する。遙領である。
ぼくは思う。顧徽は、荊州・益州をあわせるプランを、孫権に聞かせたか。だから、巴東太守を、早くも建安九年の時点でもらった。

子の顧裕は、あざなは季則で、少くして名を知られ、位は鎮東將軍に至る。160625

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顧雍の長子、顧邵伝(未完)

邵、字孝則、博覽書傳、好樂人倫。少與舅陸績、齊名。而陸遜、張敦、卜靜等、皆亞焉。吳錄曰。敦字叔方、靜字玄風、並吳郡人。敦德量淵懿、清虛淡泊、又善文辭。孫權爲車騎將軍、辟西曹掾、轉主簿、出補海昬令、甚有惠化、年三十二卒。卜靜終於剡令。

(顧雍の長子で早世する)顧邵は、あざなを孝則、書伝を博覧し、人倫(人物評論)を好楽す。少くして、舅の陸績と名をひとしくす。

「人倫」は、『蜀志』龐統伝に解く。
陸績もまた呉郡の呉県のひと。列伝あり。顧邵は、陸績の甥であり、母は陸康の娘。

陸遜・張敦・卜静らは、みな顧邵につぐ。

陸遜伝はいう。陸遜は、若くして父を亡くした。陸遜は、従祖父の廬江太守・陸康にしたがって、官位にある。袁術と陸康は、対立した。袁術に攻められそうになり、陸康は、陸遜や親戚を、故郷の呉郡に返した。陸遜は、陸康の子・陸績より、数歳ほど年長。だから陸遜が、門戸を綱紀したと。
ぼくは思う。顧邵は、陸績と並んで、陸遜より上である。つまり、陸績のほうが、陸遜よりも格上である。孫策が陸康を殺したから、本筋の陸康-陸績と気まずくなったので、傍流の陸遜を、孫権が抱きこんだ。「陸氏の族長は陸遜」というイメージが、遡及的に陸遜伝に反映されたのでは。

『呉録』はいう。張敦は、あざなを叔方、卜静は、あざなを玄風、どちらも呉郡のひと。張敦は、徳量で淵懿、清虚で淡泊、また文辞を善くす。孫権が車騎将軍になると、西曹掾に辟され、主簿に転じ、出て海昬令に補され、はなはだ恵化あり、32歳で卒す。卜静はついに剡令となる。

張敦の子の張純は、孫和伝および注『呉録』にみえる。
剡県は、賀斉伝に。『呉志』巻十五:会稽南部都尉・新都太守、賀斉伝


自州郡庶幾及四方人士、往來相見、或言議而去、或結厚而別、風聲流聞、遠近稱之。權、妻以策女。年二十七、起家爲豫章太守。下車、祀先賢徐孺子之墓、優待其後。禁其淫祀非禮之祭者。小吏、資質佳者輒令就學、擇其先進、擢置右職。舉善以教、風化大行。

州郡の庶幾および四方人士は、往来して相見し、

庶幾は張昭伝(というか張承伝)に解く。ちくま訳「なすことあらんと志す者」と。

議論して去ったり、結厚して別れたりして、風声は流聞し、遠近が称した。 『世説新語』品藻篇にひく注に「或諷議而去、或結友而別」と、ちょっと言葉がちがう。
孫権は、孫策の娘を、顧邵の妻とした。27歳で起家して豫章太守となる。

『蜀志』龐統伝はいう。瑜卒、統送喪至吳。吳人多聞其名。及當西還、並會昌門。陸勣、顧劭、全琮、皆往。統曰「陸子、可謂駑馬有逸足之力。顧子、可謂駑牛能負重致遠也」謂全琮曰「卿、好施、慕名。有似汝南樊子昭。雖智力不多、亦一時之佳也」績劭謂統、曰「使天下太平、當與卿共料四海之士」深與統相結、而還。
『世説新語』品藻篇はいう。顧劭は、龐士元とと宿語して……というところ。

(豫章に赴任すると)下車し、先賢の徐孺子の墓を祀り、その子孫を優待した。その淫祀・非礼の祭を禁じた。小吏のなかに、資質の佳き者がいれば、就学させ、先進を択んで、擢んでて右職に置く。善を挙げ以て教し、風化は大いに行はる。

『范書』列伝第四十三 徐稺伝はいう。徐稺は、字孺子,豫章南昌人也。家貧,常自耕稼,非其力不食。恭儉義讓,所居服其德。屢辟公府,不起。時陳蕃為太守,以禮請署功曹,稺不免之,既謁而退。蕃在郡不接賓客,唯稺來特設一榻,去則縣之。後舉有道,家拜太原太守,皆不就。
『世説』徳行篇はいう。陳蕃が豫章太守となると、まっさきに徐稺の所在をきいた。云々、『世説新語』は後日。
『豫章記』はいう。徐孺子の墓は、郡の南40里にあり、白社亭という。呉の嘉禾期、豫章太守である長沙の徐熙が、墓に松を植えた。豫章太守である南陽の謝景は、墓のそばに碑を立てた。永安期、豫章太守である梁郡の夏侯嵩は、碑のそばに思賢亭・松碑亭をたてて、現存する。
ぼくは思う。『范書』徐稺伝に「靈帝初,欲蒲輪聘稺,會卒,時年七十二」とある。霊帝初になくなった、地元の名声あるひとを、顧劭はまっさきに顕彰したのだ。


以下、後日つくります。

初、錢唐丁諝、出於役伍。陽羨張秉、生於庶民。烏程吳粲、雲陽殷禮、起乎微賤。邵、皆拔而友之、爲立聲譽。秉遭大喪、親爲制服、結絰。邵當之豫章、發在近路、值秉疾病、時送者百數、邵辭賓客曰「張仲節、有疾、苦不能來別。恨不見之、暫還、與訣。諸君少時相待」其留心下、士惟善所在、皆此類也。諝、至典軍中郎。秉、雲陽太守。禮、零陵太守。

はじめ銭唐の丁諝、出於役伍。陽羨張秉、生於庶民。烏程吳粲、雲陽殷禮、起乎微賤。邵、皆拔而友之、爲立聲譽。秉遭大喪、親爲制服、結絰。邵當之豫章、發在近路、值秉疾病、時送者百數、邵辭賓客曰「張仲節、有疾、苦不能來別。恨不見之、暫還、與訣。諸君少時相待」其留心下、士惟善所在、皆此類也。諝、至典軍中郎。秉、雲陽太守。禮、零陵太守。

禮子基作通語曰。禮字德嗣、弱不好弄、潛識過人。少爲郡吏、年十九、守吳縣丞。孫權爲王、召除郎中。後與張溫俱使蜀、諸葛亮甚稱歎之。稍遷至零陵太守、卒官。
文士傳曰。禮子基、無難督、以才學知名、著通語數十篇。有三子。巨字元大、有才器、初爲吳偏將軍、統家部曲、城夏口、吳平後、爲蒼梧太守。少子祐、字慶元、吳郡太守。

粲、太子少傅。世以邵爲知人。在郡五年、卒官。子、譚、承云。

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