-後漢 > 袁宏『後漢紀』の訓読;光和三年~中平六年

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光和三年~光和六年

袁宏『後漢紀』を読みながら、気が向いたところを訓読していきます。あとで范曄『後漢書』で補えそうなところ(おもに上表など)は、訓読を飛ばすこともあります。

光和三年夏、虎があらわれる

三年春正月癸丑、大赦天下。夏、虎見平楽観下、又見憲陵。上詔問司徒楊賜、賜対曰:“虎者金行、參代之精、狼戻之獣也。今在位率多奢暴貪残酷虐乎!”

三年の春正月癸丑、天下を大赦す。
夏、虎 平楽観下に見はれ、又 憲陵に見はる。上 詔して司徒の楊賜に問ふ。賜 対へて曰く、「虎は金行にして、参代の精、狼戻の獣なり。今 位に在りて多く奢暴・貪残・酷虐を率ゐるや」と。

中郎将張均上言曰:“虎見憲陵、又見平楽観下、隸皆訛言也。洪範之論、言之不従、則毛蟲之孽。虎者、西方之獣、為禽剛猛強梁之物也、居而穴処、不可睹見。今於先帝園陵為害、又言見於城下、皆在位者仁恩不著、有苛克殺之意乎!此乃大兵劇賊之徴、不可不防也。”秋七月、大長秋曹節為車騎将軍。

中郎将の張均 上言して曰く、「虎 憲陵に見はれ、又 平楽観下に見はる。隸は皆 訛言なり。洪範の論、之を言ひて従はず、則ち毛蟲の孽なり。虎は西方の獣にして、禽として剛猛・強梁の物なり。居りて穴に処り、睹て見る可からず。今 先帝の園陵に害を為し、又 城下に見ると言ふ。皆 位に在るもの仁恩 著さず、苛にして克殺の意有あらんや。此れ乃ち大兵・劇賊の徴にして、防がざる可からず」と。
秋七月、大長秋の曹節 車騎将軍と為る。

郎中の審忠の上書

九月辛酉、日有蝕之。詔群臣上封事、靡有所諱。郎中審忠上書曰:“臣聞治国之要得賢則安、失賢則危。故舜有五臣天下治;湯挙伊尹、不仁者遠。故太傅蕃、尚書令尹勲知中官奸乱、考其党与。華容侯朱瑀知事覚露、禍及其身、乃与造逆謀、迫脅陛下、聚会群臣、因共割裂城社以相賞。父子兄弟被蒙尊栄、素所親厚布在州郡、皮剝小民、甚於狼虎。多畜財貨、繕治殿舍、車馬服飾、擬於大家。群公卿士杜口吞聲、州郡承風順指。故蟲蝗為之生、夷狄為之起。天意憤盈積十餘年矣、故頻年日有蝕之於上、地震於下、所以譴戒人主、欲令覚悟。今瑀等並在左右、陛下春秋富盛、懼惑佞謟、以作不軌。願陛下留漏刻之聽以省臣表、掃滅丑類、以答天怒。”章寝。

九月辛酉、日の之を蝕する有り。群臣に詔して封事を上らしめ、諱む所有る靡からしむ。
郎中の審忠 上書して曰く、「臣聞く、治国の要は、賢を得れば則ち安んじ、賢を失へば則ち危ふしと。故に舜は五臣有りて、天下は治まる。湯 伊尹を挙げて、仁あらざる者は遠ざく。故の太傅たる(陳)蕃・尚書令の尹勲 中官の奸乱するを知り、其の党与を考す。華容侯の朱瑀 事の覚露して、禍ひ其の身に及ぶを知り、乃ち与に逆謀を造し、陛下に迫脅し、群臣を聚会す。因りて共に城社を割裂して以て相ひ賞す。父子・兄弟 尊栄を被り蒙るは、素より所親厚布在州郡、皮剝小民、甚於狼虎。多畜財貨、繕治殿舍、車馬服飾、擬於大家。群公卿士杜口吞聲、州郡承風順指。故蟲蝗為之生、夷狄為之起。天意憤盈積十餘年矣、故頻年日有蝕之於上、地震於下、所以譴戒人主、欲令覚悟。今瑀等並在左右、陛下春秋富盛、懼惑佞謟、以作不軌。願陛下留漏刻之聽以省臣表、掃滅丑類、以答天怒。」と。章 寝む。

司徒の楊賜が造園を諌める

有星孛於狼、(狐)〔弧〕、初作霊泉、(單)〔畢〕圭苑。司徒楊賜上書曰:“臣聞使者並出、規度城南民田、欲以為苑者。昔先王製囿、裁足取牲以備三驅、薪采芻牧者往焉。故詩曰:‘王在霊囿、麀鹿攸伏。’傳曰:‘吾王不遊、吾何以休。’皆被其徳政、而楽何為如此。(是)〔至〕六国之際、取獣者有罪、傷槐者被誅。孟軻謂梁恵王極陳其事。先帝之製、左開洪池、右作上林、不儉不泰、(礼)以合〔礼〕中。今猥規都城之側、以畜禽獣之物、非所保養民庶赤子之義。築郎不時、春秋有譏;盤於遊田、周公作戒。(具)〔其〕城外之苑以有五六、足用逞情意、順四節、何必變革舊製、以罷民力。楚興章華、郢人乖叛;秦作阿房、黎憤怨。宜思夏後卑室之意、太宗露台之費、慰此下民勞止之歌。”上欲止、侍中任芝、楽鬆等曰:“昔宣王囿五十裏、民以為大;文王百裏、民以為小。今造二苑与百姓共之、不妨於政、民蒙其沢”。上遂従之、

星孛 狼・弧に有り、初めて霊泉・畢圭苑を作る。
司徒の楊賜 上書して曰く、「臣聞く、使者 並びに出で、城南の民田を規度し、以て苑を為さんと欲す。昔 先王 囿を製るに、裁足取牲以備三驅、薪采芻牧者往焉。故に『詩』に曰く、『王 霊囿に在り、麀鹿攸伏。』と。『傳』に曰く、『吾が王 遊ばず、吾 何を以て休まん』と。皆 其の徳政を被り、而して楽何為如此。六国の際に至り、獣を取る者は罪有り、槐を傷つくる者は誅せらる。孟軻 梁恵王に謂ふに極めて其の事を陳ぶ。先帝の製れるは、左は洪池を開き、右は上林を作り、儉ならず泰ならず、以て礼中に合ふ。今 猥りに都城の側に規り、以て禽獣の物を畜ふるは、非所保養民庶赤子之義。築郎不時、春秋有譏;盤於遊田、周公作戒。(具)〔其〕城外之苑以有五六、足用逞情意、順四節、何必變革舊製、以罷民力。楚興章華、郢人乖叛;秦作阿房、黎憤怨。宜思夏後卑室之意、太宗露台之費、慰此下民勞止之歌」と。
上 止めんと欲するに、侍中の任芝・楽鬆ら曰く、「昔 宣王の囿 五十里なるとも、民 以て大と為す。文王 百里なるとも、民 以て小と為す。今 二苑を造るに百姓と之を共にし、政を妨げず、民 其の沢を蒙る」と。
上 遂に之に従ふ。

光和三年冬

閏月、司徒楊賜久病罷。冬十月、太常陳耽為司徒。十一月、立皇後何氏。南陽(苑)〔宛〕人、以良家子選入掖庭、有寵、自貴人為皇後。父真早卒、異母兄進為河南尹、誰弟苗越騎校尉。十二月、車騎将軍曹節罷。

閏月、司徒の楊賜 久しく病みて罷む。
冬十月、太常の陳耽 司徒と為る。
十一月、皇后の何氏を立つ。南陽宛の人、良家の子を以て選び掖庭に入れ、寵有り、貴人となりてより皇后と為る。父の真 早くに卒し、異母兄の進 河南尹と為り、進が弟の苗 越騎校尉たり。十二月、車騎将軍の曹節 罷む。

光和四年

四年春、初置騄驥廄丞、領受郡国調馬、而豪右辜搉、馬一匹至二百萬。夏四月庚午、大赦天下。司徒陳耽不堪其任、罷。太常袁隗為司徒。六月、追爵諡皇後父何真為車騎将軍、舞陽宣懐侯。

四年春、初めて騄驥廄丞を置き、郡国の調馬を領受す。而して豪右 辜搉し、馬一匹ごとに二百萬に至る。
夏四月庚午、大赦天下。司徒の陳耽 其の任に堪へず罷む。太常の袁隗 司徒と為る。六月、追ひて爵を皇后の父の何真に諡し、車騎将軍・舞陽宣懐侯と為す。

秋七月、五色鳥見於新城、衆鳥隨之、民謂之鳳皇。九月庚寅朔、日有蝕之。冬十月、太尉許鬱〔坐〕辟召錯謬罷、太常楊賜為太尉。車駕幸広城。

秋七月、五色の鳥 新城に見はれ、衆鳥 之に隨ひ、民 之を鳳皇と謂ふ。
九月庚寅朔、日の之を蝕する有り。
冬十月、太尉の許鬱 辟召の錯謬するに坐して罷め、太常の楊賜 太尉と為る。
車駕 広城に幸す。

是歳、於後宮与人為列肆販(買)〔売〕、使相偷盜、争著進賢冠。又於西園駕四驢、上躬自操轡馳駆、周旋以為歓楽。於是公卿貴戚転相放效、至乗輜軿以為騎従、(牙)〔互〕相請奪、驢価与馬斉。本誌曰:“行天者莫如龍、行地者莫如馬。詩雲:‘四牡騤騤、載是常服。’驢乃服重致遠、野人之所用、非帝王君子之所宜。驂服遅鈍之畜、而今貴之、天意若曰:‘国且大乱、賢愚倒植、執政者皆如驢也。’”

是歳、後宮に人と列肆を為して販売し、相ひ偷盜せしめ、争ひて進賢冠を著す。又 西園に四驢を駕し、上 躬ら自ら轡を操り馳駆し、周旋して以て歓楽を為す。是に於て公卿・貴戚 転た相ひ放效し、輜軿に乗りて以て騎従を為すに至り、互相に奪はんと請ひ、驢の価 馬と斉し。
本誌曰く、「天を行く者は龍に如くは莫く、地を行く者は馬に如くは莫し。『詩』に云はく、『四牡騤騤、載是常服』と。驢 乃ち服重致遠、野人之所用、非帝王君子之所宜。驂服遅鈍之畜、而今貴之、天意若曰:『国 且に大いに乱れ、賢愚は倒植し、執政者は皆 驢が如きなり』と」と。

光和五年

五年春正月辛未、大赦天下。二月、大疫。三月、詔三公以謠言挙刺史、二千石貪汙濁穢為蠹害者。夏、旱。五月庚申、永楽宮署災。秋七月、星孛於太微。

五年春正月辛未、天下を大赦す。二月、大疫あり。三月、三公に詔して謠言を以て刺史・二千石の貪汙・濁穢にして蠹害を為す者を挙げしむ。
夏、旱あり。五月庚申、永楽宮署 災す。秋七月、星 太微を孛す。

光和六年

六年春三月辛未、大赦天下。夏、爵號皇後母為舞陽君。秋、金城河水溢出二十餘裏。

六年春三月辛未、天下を大赦す。夏、皇后の母を爵號して舞陽君と為す。秋、金城の河水 溢れ出づること二十餘里。

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中平元年~中平二年

中平元年春

中平元年春正月、鉅鹿人張角謀反。初、角弟(良)〔梁〕、弟宝自称大医、事善道、疾病者輒跪拝首過、病者頗愈、転相誑耀。十餘年間、弟子数十萬人、周遍天下、置三十六坊、各有所主、期三月五日起兵、同時俱発。角弟子済陰人唐客上書告角、天子遣使者捕角、角等知事已露、因晨夜敕諸坊促令起兵。

中平元年春正月、鉅鹿の人の張角 謀反す。
初め、角の弟の梁・弟の宝 自ら大医を称し、善道に事へ、疾病する者は輒ち跪拝して首過し、病める者は頗る愈え、転た相ひ誑耀す。十餘年間にして、弟子は数十萬人、天下に周遍し、三十六坊を置き、各々主とする所有り、三月五日を期して兵を起し、時を同して俱に発せんとす。角の弟子たる済陰の人の唐客 上書して角に告ぐるに、「天子 使者を遣はして角を捕ふ」と。角ら事の已に露はるを知り、晨夜に因りて諸坊に敕して促して起兵せしむ。

二月、角等皆挙兵、往往屯聚数十百輩、大者萬餘人、小者六七千人。州郡倉卒失拠、二千石、長吏皆棄城遁走、京師振動。角党皆著黄巾、故天下号曰黄巾賊。初、司徒楊賜、衛尉劉寬、司空張済、禦史劉陶並陳角反謀、宜時捕討以絶乱原、上不従。及角作乱、天子思陶言、封為中陵侯。

二月、角ら皆 兵を挙ぐ。往往にして屯聚するもの数十百輩、大なる者は萬餘人、小なる者は六七千人。州郡の倉卒 拠を失ひ、二千石・長吏 皆 城を棄てて遁走し、京師 振動す。角の党 皆 黄巾を著け、故に天下 号して「黄巾賊」と曰ふ。

初め、司徒の楊賜・衛尉の劉寬・司空の張済・禦史の劉陶 並びに角の反謀するを陳ぶ。宜しく時に捕討して以て乱原を絶つべしと。上 従はず。角の乱を作すに及び、天子 陶の言を思ひ、封じて中陵侯と為す。

黄巾を予言した劉陶伝

陶字子奇、潁川潁陰人。沈勇有大謀、不修威儀、不拘小節。与人交、誌好不同、雖富貴不顧也;所行斉趣、雖貧賤必尊貴之。疾悪太甚、以此見憎。辟司徒府、遷尚書、侍中、以数直諌、為権臣所悪、徙為京兆尹。上素重陶才、徴為諌議大夫。諸中官讒陶与張角通情、上遂疑之、收陶考黄門北寺。中官諷考、楚毒極至。陶対使者曰:“朝廷前封臣、雲何不恒其徳、反用佞邪之譜?臣恨不与伊、呂同儔、而与三人同輩。今上殺忠謇之臣、下有憔悴之民、亦在不久。然後悔於冤、臣将複何逮?”不食而死。

陶 字は子奇、潁川潁陰の人なり。沈勇にして大謀有あり、威儀を修めず、小節に拘らず。人と交はり、志 好みて同からざれば、富貴と雖も顧みず。所行斉趣、貧賤と雖も必ず之を尊貴す。疾悪すること太だ甚しく、此を以て憎まる。司徒府に辟され、尚書・侍中に遷り、以て数々直諌し、権臣の悪む所と為り、徙りて京兆尹と為る。上 素より陶の才を重んじ、徴して諌議大夫と為す。諸々の中官 陶は張角と通情すと讒し、上 遂に之を疑ひ、陶を收めて黄門北寺に考す。中官 諷考し、楚毒 極めて至れり。
陶 使者に対へて曰く、「朝廷 前に臣を封ぜども、何ぞ其の徳を恒とせず、反りて佞邪の譜を用ふると云ふや。臣 伊・呂と同儔ならざるを恨み、而れども三人と同輩なり。今 上は忠謇の臣を殺し、下は憔悴の民有り、亦 久からざるに在り。然る後、冤に悔い、臣 将た複た何ぞ逮なるか」と。食はずして死す。

中平元年三月

三月戊申、河南尹何進為大将軍、帥師次於都亭、自函穀、伊闕、太穀、轘轅、盟津皆置都尉、備張角也。於是考諸与角連及官省左右、死者数千人。上内憂黄巾、問掖庭令呂強何以静寇。対曰:“誅左右奸猾者;中常侍丁粛、徐演、李延、趙裕、郭耽、朝廷五人号為忠清、誠可任用;赦党人、簡選挙、何憂於賊?”上納其言。壬子、大赦党人、皆除之。

三月戊申、河南尹の何進 大将軍と為り、師を帥ゐて都亭に次し、函穀・伊闕・太穀・轘轅・盟津より皆 都尉を置き、張角に備ふ。是に於て諸々の角と連なるを考し、官省左右に及び、死者は数千人。
上 内に黄巾を憂ひ、掖庭令の呂強に何を以て寇を静めんかと問ふ。対へて曰く、「左右の奸猾なる者を誅せ。中常侍の丁粛・徐演・李延・趙裕・郭耽、朝廷は五人を号して忠清と為し、誠に任用す可し。党人を赦し、選挙を簡とせば、何ぞ賊を憂はん」と。上 其の言を納る。
壬子、党人を大赦し、皆 之を除す。

呂強伝

強字漢盛、河南成皋人。忠貞奉公、不与佞幸同。是時権邪怙寵、政以賄成、郡国貢献、皆先愧賂然後得行、左右群臣好上私礼。強諌曰:“陛下物出天下、然而所輸之府輒有導行之財、皆出於民。今発十而貢一、費多而献少、無為使奸吏用巧、私門致富也。又阿媚之臣、好献其私、容謟姑息進入。其所奉献、皆禦府所有、無為使従諌之臣、得自媟黷也。旧選挙委任三府、尚書受奏禦而已、各受試用、責以成功。功無可察、以事付尚書、尚書乃覆案虚実、行其罪罰。於是三公毎有所選、參議掾属諮其行状、度其器能、然猶有〔溺〕職廃官、荒穢不治。今但任尚書、或有詔用、三公得免選挙之負、尚書又無考課之勤。陛下虚自労苦、有廃乱之負、無所責也。”書奏、上以示中常侍夏惲、趙忠。忠、惲曰:“此言是也。然強自負清潔、常怏怏有外心。”

強 字は漢盛、河南成皋の人なり。忠貞にして公に奉り、佞幸と同ぜず。是の時、権邪 怙寵し、政 賄を以て成り、郡国 貢もて献じ、皆 先に賂を愧ぢ、然る後に行ひ得て、左右の群臣 上に私礼するを好む。強 諌めて曰く、「陛下の物 天下より出づ。然して輸する所の府 輒ち導行の財有り、皆 民より出づ。今 十を発して一を貢じ、費は多くして献は少なし。奸吏をして用巧して私門に富を致さしむるを為す無かれ。又 阿媚の臣、其の私に献ずるを好み、謟を容れ姑息に進み入る。其の奉献する所、皆 禦府の有する所、従諌の臣をして、得て自ら媟黷しむるを為す無かれ。旧より選挙は三府・尚書に委任し、奏を受けて禦するのみ。各々試用を受け、責は功を成すを以てせよ。功 無くんば察す可し、事を以て尚書に付し、尚書 乃ち虚実を覆案し、其の罪罰を行へ。是に於て三公 毎に選ぶ所、参議・掾属 其の行状を諮り、其の器能を度さば、然して猶ほ職に溺れ官を廃し、荒穢して治まらざる有るがごとし。今 但だ尚書に任じ、或いは詔有あれば用ひ、三公 選挙の負を免ずることを得て、尚書 又 考課の勤無し。陛下 虚しく自ら労苦し、廃乱の負有り、責ある所無きなり」と。
書 奏し、上 以て中常侍の夏惲・趙忠に示す。忠・惲曰く、「此の言 是なり。然るに強ひて自ら清潔を負ひ、常に怏怏にして外心有り」と。

及赦党人、中官疾之。於是諸常侍人人求退忠、惲、共構会強、雲“与党人謀、数読霍光傳。強兄弟所在亦皆貪穢”。上聞強読霍光傳、意不悦、使中黄門持兵召強。強聞上召、怒曰:“吾死、乱兵起矣。大丈夫欲書忠国史、無為複対獄吏也。”遂自殺。
詔公卿百官出馬弩各有差。

党人を赦すに及び、中官 之を疾む。是に於て諸々の常侍 人人に忠・惲に(呂強を)退けんことを求め、共に構して強に会して云はく、「党人と謀り、数々霍光傳を読む。強の兄弟 在る所 亦 皆 貪穢たり」と。
上 強の霍光傳を読むを聞き、意 悦ばず。中黄門をして兵を持して強を召さしむ。強 上の召を聞き、怒りて曰く、「吾 死さば、乱兵 起たん。大丈夫たるもの忠を国史に書れんと欲するに、複た獄吏に対ふるを為す無し」と遂に自殺す。
詔して公卿・百官に馬・弩を出さしめ、各々差有り。

傅燮が、趙忠の妨害をおそれる

中郎将盧植、左中郎将皇甫嵩、右中郎将朱儁各持節征黄巾。護軍司馬傅燮討賊形勢、燮上書諌曰:“臣聞天下之禍、所由於外、皆興於内。是故虞舜升朝、先除四凶、然後用十六相。明悪人不去、則善人無由進。張角起於趙、魏、黄巾乱於六州。此皆釁発蕭牆、而禍延四海。臣受戎任、奉辞伐罪、始到潁川、戦無不克。黄巾雖遏、其釁由内作耳。

中郎将の盧植・左中郎将の皇甫嵩・右中郎将の朱儁 各々持節して黄巾を征す。
護軍司馬の傅燮 賊を討ち勢を形はすに、燮 上書して諌めて曰く、「臣聞く、天下の禍、外に由る所、皆 内より興ると。是れ故、虞・舜 朝に升り、先に四凶を除き、然る後に十六相を用ふ。明に悪人 去らざれば、則ち善人 由り進むこと無し。張角 趙魏に起ち、黄巾 六州を乱す。此 皆 釁は蕭牆に発して、禍 四海に延ぶ。臣 戎任を受け、辞を奉じて罪を伐ち、始め潁川に到り、戦へば克たざる無し。黄巾 遏すと雖も、其の釁 内由り作るのみ。

黄巾を平定する困難より、内側から足をひっぱられる危険が大きいと。


陛下仁徳寛容、多所不忍、中官弄権、忠臣之憂愈深耳。何者?夫邪正之在国、猶冰炭不可同器而並存也。彼知正人之功顕、而危亡之兆見、皆将巧詞飾説、共長虚偽。孝子疑於屢至、市虎惑於三人。
陛下不詳察之、臣恐白起複賜死於杜郵、而盡節效命之臣無所陳其忠矣。唯陛下察虞舜四罪之挙、使讒佞受放殛之罰、萬国知邪臣之為誅首、忠正時得竭其誠、則善人思進、奸凶不討而自滅矣。臣聞忠臣之事君、猶孝子之事父。子之事父、焉得不盡情以言?使臣伏鈇鉞之戮、陛下少用其言、国之福也。”
書奏、中常侍趙忠見而怨焉。

(傅燮の上書つづき)陛下 仁徳にして寛容、多く忍ばざる由、中官 権を弄び、忠臣の憂 愈々深し。何ぞや。夫れ邪正の国に在るや、猶ほ冰炭 器を同じくして並存す可らざるがごとし。彼 正人の功顕を知らば、而して危亡の兆見とし、皆 巧詞を将て説を飾り、共に虚偽に長ず。孝子 屢至に疑はれ、市虎 三人を惑はす。
陛下 詳に之を察せざれば、臣 恐る、白起 複た死を杜郵に賜はり、而して盡節・效命の臣 其の忠を陳ぶる所無きを。唯だ陛下 虞舜の四罪の挙を察し、讒佞をして放殛の罰を受けしめ、萬国 邪臣の誅首を為すを知り、忠正 時に其の誠を竭するを得れば、則ち善人 進むことを思ひ、奸凶 討たざるとも自ら滅ばん。臣聞く、忠臣の君に事ふるは、猶ほ孝子の父に事ふるがごとし。子の父に事ふるに、焉ぞ情を盡すに言を以てするを得えんや。臣をして鈇鉞の戮に伏せしむるとも、陛下 少しく其の言を用ひれば、国の福なり」と。
書 奏し、中常侍の趙忠 見て怨む。

中平元年夏

夏四月、太尉楊賜以寇賊罷、太仆鄧盛為太尉。司空張済久病免、大司農張温為司空。初売官、自関内侯以下至虎賁、羽林入銭各有差。皇甫嵩、朱儁連戦失利、遣騎都尉曹操将兵助嵩等。

夏四月、太尉の楊賜 寇賊を以て罷み、太僕の鄧盛 太尉と為る。司空の張済 久しく病みて免ぜられ、大司農の張温 司空と為る。
初め官を売り、関内侯より以下 虎賁・羽林に至るまで、銭を入るること各々差有り。
皇甫嵩・朱儁 連りに戦へども利を失ひ、騎都尉の曹操を遣はして兵を将ゐて嵩らを助けしむ。

五月乙卯、黄巾馬元義等於京都謀反、皆伏誅。皇甫嵩、朱儁撃黄巾波才於潁川、大破之、斬首数萬級。詔行車騎将軍、封都郷侯、儁西郷侯。於是傅燮功多応封、為趙忠所譖、上識燮、不罪之、然不得封。

五月乙卯、黄巾の馬元義ら京都に謀反し、皆 誅に伏す。皇甫嵩・朱儁 黄巾の波才を潁川に撃ち、大いに之を破り、斬首すること数萬級。詔して(皇甫嵩を)行車騎将軍とし、都郷侯に封じ、儁を西郷侯とす。是に於て傅燮 功 多くして封に応じ、趙忠の譖る所と為る。上 燮を識り、之を罪せず、然るに封ずるを得ず。

左中郎将盧植征張角不克、徴詣廷尉、減死罪一等。中郎将董卓代植、既受命、累破黄巾。角等保広宗、植囲塹修梯、垂當拔之。上遣小黄門左豊観賊形勢。或勧植以賂送豊、植不従。豊言於上曰:“広宗賊易破耳!盧中郎固塁息軍、以待天誅。”上怒、植遂抵罪。

左中郎将の盧植 張角を征するとも克たず、徴して廷尉に詣り、死罪一等を減ぜんとす。中郎将の董卓 植に代はり、既に命を受け、累りに黄巾を破る。角ら広宗を保ち、植 塹を囲みて梯を修し、當に之を拔くに垂とす。上 小黄門の左豊を遣はして賊の形勢を観せしむ。或ひと植に賂を以て豊に送るを勧むとも、植 従はず。豊 上に言ひて曰く、「広宗の賊 破り易し。盧中郎 塁を固くして軍を息め、以て天誅を待つ」と。上 怒り、植 遂に罪に抵つ。

六月、中郎将張均上書曰:“張角所以能興兵作乱、萬民楽附之者、原皆由十常侍多放、父子兄弟婚親賓客典拠州郡、辜榷財利、侵冤百姓。百姓之冤無告訴、因起従角学道、謀議不軌、相聚為賊。今悉斬十常侍、懸其頭於南郊以謝天下、即兵自消、可一戦而克也。”上以章示十常侍、皆免冠頓首、乞自致雒陽獄、家財助軍糧、子弟為前鋒。上曰:“此則直狂子也。十常侍内有一人不善者耳。”天子使禦史考諸為角道者、禦史奏均学黄巾道、收均、死獄中。

六月、中郎将の張均 上書して曰く、「張角 能く兵を興し乱を作し、萬民 楽附する所以は、原より皆 十常侍の多放に由るなり。父子・兄弟・婚親・賓客 州郡に典拠し、財利を辜榷し、百姓を侵冤す。百姓の冤 告訴する無く、因りて角の学道に従ひて起つ。謀議 軌ならず、相聚 賊と為る。今 悉く十常侍を斬り、其の頭を南郊に懸けて以て天下に謝さば、即ち兵 自ら消え、一戦にして克つ可し」と。
上 章を以て十常侍に示し、皆 冠を免じて頓首し、自ら雒陽獄に致り、家財は軍糧を助け、子弟は前鋒と為るを乞ふ。
上曰く、「此れ則ち(張均は)直だ狂子なるのみ。十常侍 内に一人 善からざる者有るのみ」と。天子 禦史をして諸々の角の道を為す者を考せしむ。禦史 奏すらく、「均 黄巾道を学ぶ」と。均を收め、獄中に死す。

中平元年秋

秋八月、皇甫嵩撃黄巾卜己於東郡、大破之、斬首萬餘級。中郎将董卓征張角不克、徴詣廷尉、減死罪一等、以皇甫嵩代之。朱儁攻黄巾埸弘於南陽、自六月至八月不抜、有司奏徴儁司空張温議曰:“昔秦用白起、燕信楽毅、亦曠暦年載、乃能克敵。儁潁川有效、引師南指、方略已設。臨軍易将、兵家所忌、可以少假日月、責其功效上。”上従之、詔切儁。儁懼誅、乃急撃弘、大破斬之、封儁上虞侯。

秋八月、皇甫嵩 黄巾の卜己を東郡に撃ち、大いに之を破り、斬首すること萬餘級。中郎将の董卓 張角を征して克たず、徴されて廷尉に詣り、死罪一等を減じ、皇甫嵩を以て之に代ふ。
朱儁 黄巾の埸弘を南陽に攻め、六月より八月に至るまで抜けず、有司 儁を徴せ奏す。司空の張温 議して曰く、「昔 秦 白起を用ゐ、燕 楽毅を信じ、亦 曠く年載を暦て、乃ち能く敵に克つ。儁 潁川に效有り、師を引きて南のかた指し、方略 已に設く。軍に臨みて将を易ふるは、兵家の忌む所、可以少假日月、責其功效上」と。上 之に従ひ、詔して儁に切す。儁 誅せらるるを懼れ、乃ち急ぎ弘を撃ち、大いに破り之を斬る。儁を上虞侯に封ず。

賊複以韓忠為帥、衆号十萬、拠宛拒雋。儁兵力不敵、然欲急攻、乃先結塁起土山以臨之。因偽修攻具、耀兵於西南;儁身自被甲、将精卒乗其東北、遂得入城。忠乞降、議郎蔡邕、司馬張超皆欲聴之。儁曰:“兵有形同而勢異者。昔秦、項之際、民無定主、故有賞以勧來者;今海内一統、惟黄巾造寇、降之無可勧、罰之足以懲悪。今若受之、更開逆意、利則進戦、鈍則降服、縱敵長寇、非良計也。”因勒兵攻之、連戦不克。儁登土山望之、顧謂邕曰:“吾知之矣。今外囲周固、内營逼急、忠故乞降、降又不受、所以死戦也。萬人同心、猶不可當、況十萬人乎、其害多矣!不如徹囲解弛、勢當自出、出則意散、必易破之。”即解囲入城、忠果自出。儁因自撃之、大破斬忠、乗勝逐北、斬首萬餘級。即拝儁為車騎将軍、封餞唐侯、徴入為光禄大夫。

賊 複た韓忠を以て帥と為し、衆 十萬と号し、宛に拠りて雋を拒む。儁の兵力 敵せず、然して急攻せんと欲し、乃ち先に塁を結び土山を起して以て之に臨む。因りて偽りて攻具を修め、兵を西南に耀す。儁 身ら自ら被甲し、精卒を将ゐて其の東北に乗り、遂に城に入るを得たり。忠 降らんことを乞ふ。
議郎の蔡邕・司馬の張超 皆 之を聴さんと欲す。儁曰く、……。

『范書』朱儁伝と同じっぽいので、訓読しない。

即ち囲を解きて城に入り、忠 果して自ら出づ。儁 因りて自ら之を撃ち、大いに破り忠を斬り、勝ちに乗じて北に逐ひ、斬首すること萬餘級。即ち儁を拝して車騎将軍と為し、餞唐侯に封じ、徴して入れて光禄大夫と為す。

中平元年冬

冬十月、皇甫嵩攻張角弟(良)〔梁〕於広宗、大破之、斬首数萬級。角先病死、破棺戮屍。拝嵩為車騎将軍、封槐裏侯。嵩既破黄巾、威振天下、故信都令漢陽閻忠説嵩曰:“夫難得而易失者、時也;時至而不旋踵者、機也。故聖人常順時而動、智者必見機而発。今将軍遭難得之時、蹈之而不発、将何以権大名乎?”嵩曰:“何謂也?”忠曰:“天道無親、百姓与能。故有高人之功者、不受庸主之賞。今将軍受鈇鉞於暮春、收成功於末秋。兵動若神、謀不再計、攻堅易於折枯、摧敵甚於湯雪、旬月之間、神兵電掃、封(戶)〔屍〕刻石、南麵以報、威振本朝、聲馳海外、是以群雄回首、百姓企踵、雖湯、武之挙、未有高将軍者也。身立高人之功、乃北麵以事庸主、何以図安也?”

冬十月、皇甫嵩 張角の弟の梁を広宗に攻め、大いに之を破り、斬首すること数萬級。角 先に病死し、棺を破りて屍を戮す。嵩を拝して車騎将軍と為し、槐裏侯に封ず。嵩 既に黄巾を破り、威は天下に振ふ。故信都令たる漢陽の閻忠 嵩に説きて曰く、「夫れ得難くして失ひ易き者は、時なり。時 至りて踵を旋らさざる者は、機なり。故に聖人は常に時に順ひて動き、智者は必ず機を見て発す。今将軍 得難きの時に遭ひ、之を蹈むとも発せず、将た何を以て大名を権せんか」
嵩曰く、「何の謂ぞや」
忠曰く、「天道は親無く、百姓は能に与る。故に高人の功有る者は、庸主の賞を受けず。今 将軍 鈇鉞を暮春に受け、成功を末秋に收む。兵の動くこと神の若く、謀ごとは再び計らず、堅を攻むること枯を折るより易く、敵を摧くこと雪に湯そそぐより甚し。旬月の間、神兵 電のごとく掃ひ、屍を封じて石に刻み、南面して以て報い、威は本朝に振ひ、聲は海外に馳す。是を以て群雄 首を回らせ、百姓 踵を企す。湯・武の挙と雖も、未だ将軍より高き者有らざるなり。身に人より高きの功を立て、乃ち北面して以て庸主に事ふ。何ぞ以て安きを図らんや」

嵩曰:“夙夜在公、心不忘忠、何故不安?”忠曰:“不然。昔韓信不忍一餐之遇、棄三分之利、拒蒯通之説、忽鼎峙之勢、利剣揣其喉、乃歎息而悔何以見烹於女子也!今主勢弱於劉、項、将軍権重於淮陰、指麾足以震風雨、叱吒足以興雷電。赫然奮発、因危抵頽、崇恩以綏前附、振武以臨後伏、徴冀方之士、勒七州之衆、

嵩曰く、「夙夜 公に在りて、心は忠を忘れず。何が故に安からずや」

中央の政治が腐敗しているから、皇甫嵩は、はやくも韓信と同じ葛藤にさらされ、それを閻忠が見抜いたと。中央の腐敗のほうが、黄巾の軍事的な脅威よりも、よほど怖ろしいという話。閻忠も、自滅的な革命主義者ではない。

忠曰く、「然らず。昔 韓信 一餐の遇に忍びず、三分の利を棄て、蒯通の説を拒み、鼎峙の勢を忽て、利剣は其の喉に揣り、乃ち歎息して何を以て女子に烹らるやと悔いたり。今 主は勢は劉・項より弱く、将軍の権は淮陰より重し。指麾すれば以て風雨を震はすに足り、叱吒すれば以て雷電を興すに足る。赫然として奮発し、危に因りて頽(つぶ)れたるを抵ち、恩を崇(さか)んにして以て前んじて附けるを綏んじ、武を振ひて以て後に伏せるに臨み、冀方の士を徴し、七州の衆を勒し、

『范書』皇甫嵩伝と、だいたい同じだが、ちょっと違う。
黄巾軍(大方・小方)がどこまで上意下達の整備された組織だったか。黄巾を破って功績が過大となり、早くも韓信なみに立場が危うくなった皇甫嵩に、閻忠は「冀方の士」「七州の州」を動員して後漢を討てという。張角の代わりに皇甫嵩がトップになっても、後漢(霊帝軍)と戦い得る組織だったか。
黄巾は、明確な指揮系統によらず、なんとなく連鎖的に複数の州で挙兵があったとイメージしてた。「民衆」反乱に対する思いこみかも。シャドウ王朝として、複数の州にわたる指揮系統があったのかも。そして黄巾軍の形成には、後漢の高官・宦官も関わっていたっぽい。王朝を形成するノウハウは、既存王朝のなかにあるから。


羽檄先馳於前、大軍向振於後、蹈流漳河、飲馬盟津、誅中官之罪、除群怨之積。如此則無交兵、守無堅城、不招必影従、雖童兒可使奮空拳以致力、女子可使褰裳以用命、況厲熊罷之卒、因迅風之勢哉!功業已就、天下已順、乃請呼上帝、喻以大命、混斉六合、南麵称製、移神器於将興、推亡漢於已墜、実神機之至会、風発之良時。夫既朽不雕、衰世難佐。将軍雖欲委忠於難佐之朝、雕朽敗之木、猶逆阪走丸、必不可得也。方今権官群居、同悪如市、上不自由、政出左右、庸主之下難以久居、不賞之功讒人側目、如不早図、後悔無及。”

羽檄 先づ前に馳せ、大軍 向かはば後に振ひ、流れを漳河に蹈み、馬を盟津に飲ませ、中官の罪を誅し、群怨の積を除け。此の如くんば、則ち兵を交はすこと無く、守りて城を堅くすること無く、招かずとも必ず影のごとく従ひ、童兒と雖も空拳を奮ひて以て力を致せしむ可く、女子も裳を褰げて以て命を用ゐしむ可し。

黄巾の受けて、それが誰の責任かで揉める。『後漢紀』でも、その闘争が細かく描かれている。「張譲・趙忠を除きますか、後漢を滅ぼしますか」という問いが、決して誇張ではなく存在していた。だから、高官が命を投げ出して諌めた。「張譲・趙忠の保身」の物語にすると、いっきに台なしになるが、わりと後漢の曲がり角だったのではないか。
すると、黄巾による革命を支持する人々とか、黄巾がダメなら、皇甫嵩・朱儁・盧植・董卓といった中郎将のだれかに革命を期待する人々が出てきても、決しておかしくない。それほど後漢は「腐敗」していたと。
黄巾に前後した切迫感を正しく描けるかが、『三国志』の成否を決める。

況んや熊罷の卒を厲まし、迅風の勢に因るをや。功業 已に就き、天下 已に順ひ、乃ち上帝を請(まね)き呼び、大命を以て喻ひ、六合を混斉し、南面して制を称し、神器を将に興らんとするに移し、亡漢を已に墜ちたるに推せば、実に神機の至会、風発の良時なり。夫れ既に朽ちたれば雕らず、衰世は佐け難し。将軍 雖欲委忠於難佐之朝、雕朽敗之木、猶逆阪走丸、必不可得也。方今権官群居、同悪如市、上不自由、政出左右、庸主之下難以久居、不賞之功讒人側目、如不早図、後悔無及」

嵩懼曰:“黄巾小孽、非秦、項之敵也、新結易散、非我功策之能。民未忘主、而子欲逆求之、是虚造不冀之功、以速朝夕之禍、非移祚之時也。孰与委忠本朝、雖有多讒、不過放廃、猶有令名、死且不朽。逆節之論、吾所不敢也。”忠知計不用、乃佯狂為巫。

嵩 懼れて曰く、「黄巾の小孽、敵すること秦・項に非ず、新たに結びて散じ易く、我が功策の能に非ず。民 未だ主を忘れず、而るに子 逆らひて之を求めんと欲す。是れ虚しく冀まざる功を造り、以て朝夕の禍を速き。祚を移すの時に非ざるなり。忠を本朝に委ぬるに孰与(いずれ)ぞや。多讒有ると雖も、放廃を過ぎず、猶ほ令名有らば、死するとも且つ不朽なり。節に逆らふの論、吾 敢てせざる所なり」と。
忠 計の用られざるを知り、乃ち佯狂して巫と為る。

黄巾の乱に際し、霊帝に「張譲らを殺すか、漢を滅ぼすかどっち」という極論が提出される。政治闘争の言説は過激化するのがツネでも、実は(当事者すら無自覚ながら)真実を、かすっていたのかも知れない。
黄巾の原因が宦官の悪政(人民の圧迫)に求められた。黄巾討伐の将は、どれだけ功績を立てても/功績を立てれば立てるほど、宦官におびえた。演義で活躍する左豊は、まだ悪役としての誇張が足りないほどかも知れない。史書によると盧植は、死罪を覚悟していた。また、黄巾と張譲の癒着を王允が暴いた。宦官にとっては、利権をひろげる最大のチャンスであり、同時に最低のピンチでもあった。疑獄事件は、だれにも事実が分からないから、「公定の事実」をめぐる戦い。
趙忠が「黄巾平定の功績」で車騎将軍になり、宦官が勝利。「張譲ら小悪党が霊帝をミスリードした」というセコい話ではない。桓帝期(順帝に遡っても可)から数十年かけ、宦官は自己に有利な政治体制を築き、霊帝期末に利権が最大化。「張譲か漢か」の二択が提出されるほどに。
当初の宦官は小悪党的だったのだろうが、黄巾の乱の時期に/黄巾の乱によってこそ、宦官の利権と問題点が顕在化・深刻化・先鋭化。地盤にストレスが溜まって大地震が起きるように、霊帝期末は暴発寸前。袁紹・袁術が宦官を皆殺しにして朝廷に空白をつくって三国時代を準備するわけです。
皇甫嵩は、その前史に生きたひと。袁紹・袁術のような暴発には移ることなく。


十一月、嵩又進兵撃張宝於下曲陽、斬之。於是黄巾悉破、其餘州所誅、一郡数千人。十二月、金城人邊章、韓遂反。

十一月、嵩 又 兵を進めて張宝を下曲陽に撃ち、之を斬る。是に於て黄巾 悉く破れ、其の餘州 誅する所、一郡に数千人。十二月、金城の人の邊章・韓遂 反す。

中平二年春

中(和)〔平〕二年春二月丁卯、故太尉劉寛薨、贈車騎将軍、諡曰(郡)〔昭〕烈侯。

中平二年の春二月丁卯、故太尉の劉寛 薨じ、車騎将軍を贈り、諡して昭烈侯と曰ふ。

寛字文饒、弘農華陰人也。少好学、博通群書。稍遷東海、南陽太守、遇民如子、口無悪言、吏民有罪、以蒲鞭鞭之、示恥辱而已。其善政帰之於下、有不善輒自克責、庶民愛敬之。好与諸生論議、行県使三老、学生自隨到亭伝、輒複講論、教化流行、不厳而治。嚐有客遣奴酤酒、久而不還、及其還也、客不堪之、罵詈曰:“畜産。”寛須臾遣人視之、曰:“此人也、罵言畜産、恐其自殺。”夫人欲試寛一恚、伺当朝会、装厳已訖、使婢奉肉羹一盂。寛手未得持、放羹衣上、婢急收羹、寛言:“徐徐!羹爛汝乎?”其寛裕如此、内外称為長者、上深悼之。

寛 字は文饒、弘農華陰の人なり。少くして学を好み、博く群書に通ず。稍く東海・南陽太守に遷り、民を遇すること子の如く、口に悪言無く、吏民に罪有れば、蒲鞭を以て之に鞭うち、恥辱を示すのみ。其の善政 之を下に帰し、不善有れば輒ち自ら克責す。庶民 之を愛敬す。諸生と論議することを好み、県に行き三老・学生をして自ら隨ひ亭伝に到らしめ、輒ち複た講論す。教化 流行し、厳からずして治まる。嚐て客の奴を遣りて酒を酤するもの有り、久しくして還らず、其の還るに及ぶや、客 之に堪へず、罵り言ひて曰く、「畜産」と。寛 須臾にして人を遣はして之を視て曰く、「此の人や、畜産と罵り言ふ、其の自殺するを恐る」と。夫人 試みに寛を一たび恚らしめんと欲し、朝会に伺当し、装ふこと厳にして已に訖はり、婢をして肉羹の一盂を奉ぜしむ。寛 手づから未だ持つを得ず、羹を衣の上に放つ。婢 急ぎ羹を收む。寛言はく、「徐徐とせよ、羹 汝に爛せんや」と。其れ寛の裕たること此の如し。内外 長者為りと称し、上 深く之を悼む。

袁宏曰:在溢則激、処平則恬、水之性也。急之則擾、緩之則静、民之情也。故善治水者引之使平、故無衝激之患;善治人者雖不為盜、終帰刻薄矣。以民心為治者、下雖不時整、終帰敦厚矣。老子曰:“古之為道者不以明民、将以愚之。”故以智治国、国之賊也。

袁宏曰く、溢るること在れば則ち激し、平に処れば則ち恬たるは、水の性なり。之を急とすれば則ち擾ぎ、之を緩とすれば則ち静たるは、民の情なり。故に善く水を治むる者は之を引きて平ならしめ、故に衝激の患無し。善く人を治むる者は盜を為さざると雖も、終に刻薄に帰す。民心を以て治を為す者は、下は時に整はざると雖も、終に敦厚に帰す。老子曰く、「古の道を為す者は以て民を明とせず、将た以て之を愚とす」と。故に智を以て国を治むるは、国の賊なり。

羌、胡寇三輔、車騎将軍皇甫嵩征之。己酉、南宮雲台災。庚戌、楽城門災、延及北闕嘉徳殿、和歓殿。本誌曰:“雲台者、乃周家之所造也、図書珍宝之所蔵。京房易伝曰:‘君不思道、厥妖火焼宮。’天戒若曰、刑濫賞淫、何以旧典為?故焚其秘府也。”收天下田畝十歳以治宮室、州県送材及石、貴戚縁賎買入己、官皆先経貴戚然後得中、宮室連年不成、天下騒擾、起為盜賊。司徒袁隗久病罷。三月、廷尉崔烈為司徒。辺章、韓遂寇三輔、中郎将董卓副皇甫嵩討之。於是関、隴擾攘、発役不供。

羌・胡 三輔を寇し、車騎将軍の皇甫嵩 之を征す。
己酉、南宮の雲台 災す。
庚戌、楽城門 災す。延びて北闕の嘉徳殿・和歓殿に及ぶ。
本誌曰く、「雲台は、乃ち周家の造る所なり。図書・珍宝の蔵する所なり。京房『易伝』曰く、『君 道を思はざれば、厥の妖火 宮を焼く』と。天戒 若曰く、刑は濫にして賞は淫なり、何の旧典を以て為すや。故に其の秘府を焚くなり」と。
天下の田畝より十歳を收めて、以て宮室を治む。州県 材及び石を送り、貴戚 賎に縁り己に買ひ入れ、官 皆な先づ貴戚を経て、然る後に中を得たり。宮室 連年するとも成らず、天下 騒擾とし、起ちて盜賊と為る。
司徒の袁隗 久しく病みて罷む。三月、廷尉の崔烈 司徒と為る。
辺章・韓遂 三輔を寇し、中郎将の董卓 皇甫嵩の副として之を討つ。是に於て、関隴は擾攘し、役を発せども供せず。

司徒崔烈欲棄涼州、議郎傅燮進曰:“斬司徒、天下乃安。”有司奏燮廷辱大臣。有詔問本意。対曰:“昔冒頓至逆也、樊噲為上将、雲願得十萬衆横行匈奴中、憤激奮勵、未失臣節也、不顧計之当与不当耳、季布猶廷斥曰‘噲可斬’、前朝是之。今涼州天下之衝要、国家之蕃衛也。尭、舜時禹貢載之;殷、周之世列為侯伯;高祖平海内、使酈商別定隴右;世宗拓境、列置四郡、議者以為断匈奴之右臂。今牧禦者失理、使一州叛逆、天下騒動、陛下不安寝食。烈為宰相、不念思所以緝之之策、乃欲棄一方萬裏之士、臣竊惑之。左衽之虜、得此地為患数世。今以勁士堅甲利兵、奸雄因之為乱、此社稷之深憂也。且無涼州、則三輔危、三輔危則京都薄矣。若烈不知憂之、是極弊也;知而欲棄、是不忠也;二者択而処之、烈必有之。”遂従燮議、亦不罪烈。由是朝廷益重燮、毎公卿缺、議輒帰燮。

司徒の崔烈 涼州を棄てんと欲す。議郎の傅燮 進みて曰く、「司徒を斬らば、天下 乃ち安んぜん」と。有司 燮は廷に大臣を辱すと奏す。詔有りて本意を問ふ。
(傅燮)対へて曰く、「昔 冒頓 逆するに至り、樊噲 上将と為り、願はくは十萬の衆を得て横ままに匈奴の中を行せんと云ふ。憤激して奮勵するとも、未だ臣節を失ざるなり。計の当と不当とを顧みざるのみ。季布 猶ほ廷に斥けて、『噲 斬る可し』と曰ふ。前朝 是れ之なり。今 涼州は天下の衝要にして、国家の蕃衛なり。尭・舜の時に『禹貢』之を載す。殷・周の世に列ねて侯伯と為る。高祖 海内を平らげ、酈商をして別に隴右を定めしむ。世宗 境を拓き、列ねて四郡を置き、議者 以為へらく匈奴の右臂を断てと。今 牧禦は理を失ひ、一州をして叛逆せしめ、天下は騒動し、陛下 寝食を安んぜず。烈 宰相と為るに、思ひて之を緝するの策を以てする所を念ぜず、乃ち一方に萬裏の士を棄てんとす。臣 竊かに之に惑ふ。左衽の虜、此の地を得れば数世に患と為らん。今 勁士・堅甲・利兵を以て、奸雄 之に因りて乱を為す。此れ社稷の深き憂ひなり。且つ涼州無くば、則ち三輔は危ふく、三輔 危ふければ則ち京都 薄し。若し烈 之を憂ふことを知らざれば、是れ極めて弊なり。知りて棄てんと欲さば、是れ不忠なり。二者 択びて之を処せ。烈 必ず之に有らん」と。
遂に燮の議に従ひ、亦 烈を罪とせず。是に由り朝廷 益々燮を重んじ、公卿の缺くる毎とに、議 輒ち燮に帰す。

中平二年夏

夏五月、太尉鄧盛久病罷、太仆張延為太尉。六月、以討張角功、封中常侍張譲等十二人為列侯。秋七月、車騎将軍皇甫嵩征辺章、韓(約)〔遂〕、無功免。八月、司空張温為車騎将軍、討章、約。九月、特進臨晋侯楊賜為司空。

夏五月、太尉の鄧盛 久しく病みて罷み、太僕の張延 太尉と為る。
六月、張角を討ちし功を以て、中常侍の張譲ら十二人を封じて列侯と為す。
秋七月、車騎将軍の皇甫嵩 辺章・韓(約)〔遂〕を征するに、功無くして免ず。八月、司空の張温 車騎将軍と為り、章・約を討つ。

皇甫嵩の官職は、どうなったか。
『范書』皇甫嵩伝:会々邊章・韓遂 乱を隴右に作す。明年の春(中平二年春)、嵩に詔して迴りて長安に鎮し、以て園陵を衛らしむ。章ら遂に復た入りて三輔を寇するや、嵩をして因りて之を討たしむ。
車騎将軍を外れたが、長安にいて守備を担当したようだ。

九月、特進の臨晋侯の楊賜 司空と為る。

冬十月、司空楊賜薨。策曰:“司空臨晋侯賜華嶽所挺、九徳純備、三葉宰相、輔国以忠。昔朕初載受道帷幄、遂階成勲、以陟大猷。師範之功既昭於内、弼亮之勤亦著於外、雖受茅土、未答厥勲。哲人既没、将誰諮度?朕甚悼焉。今使左中郎将郭儀持節追贈特進、司空、驃騎将軍印綬、諡曰文烈侯。”
賜字子献、篤誌於学、閑居教授、不応州郡之命。辟梁冀府、非其好也、因謝病去。挙高第、稍遷越騎校尉、光禄大夫。霊帝初、与劉寛、張済侍講於華徳殿。

冬十月、司空の楊賜 薨ず。策して曰く、「司空の臨晋侯たる賜 華嶽 挺する所、九徳 純備し、三葉に宰相にして、国を輔くるに忠を以す。昔 朕 載を初め道を帷幄に受け、階を遂げ勲を成し、以て大猷を陟す。師範の功 既に内に昭からにして、弼亮の勤 亦 外に著はれ、茅土を受くると雖も、未だ厥の勲に答へず。哲人 既に没し、将た誰に諮度せん。朕 甚だ焉を悼む。今 左中郎将の郭儀をして持節せしめ特進・司空、驃騎将軍の印綬を追贈し、諡して文烈侯と曰ふ」と。
賜 字は子献、篤く学を志し、閑居して教授し、州郡の命に応ぜず。梁冀の府に辟せられ、其の好に非ざるや、因りて病を謝りて去る。高第に挙げられ、稍く越騎校尉・光禄大夫に遷る。霊帝の初め、劉寛・張済と華徳殿に侍講す。

初、張角等誑耀百姓、天下惑之、繈負至者数十萬人。賜時居司徒、謂劉陶曰:“聞張角等党輩熾盛、稍益滋蔓。今若下州郡捕討、恐驚動丑類、遂成反乱。今欲切敕刺史、二千石、采別流民、鹹遣護送各帰本郡、以孤弱其党。然後乃誅其渠帥、可不労衆而定。何如?”

初め、張角ら百姓を誑耀し、天下 之に惑ひ、繈負して至る者 数十萬人。賜 時に司徒に居り、劉陶に謂ひて曰く、「聞けば張角らの党輩 熾盛なり、稍く益々滋蔓す。今 若し州郡に下して捕討せば、醜類を驚動するを恐れ、遂に反乱を成さん。今 切りに刺史・二千石に敕し、流民を采別し、鹹 各々帰する本郡に護送せしめ、以て其の党を孤弱とせんと欲す。然る後、乃ち其の渠帥を誅さば、衆を労せずして定む可し。何如」と。

張角に惑わされ、本籍地を離れた流民「数十万」が、黄巾の乱の原因。土地から離れた人口が、既存の秩序を破壊する。これは、張角の個人的な陰謀を知るか否かは関係なく、社会の趨勢として分析・解明できること。渠帥ら軍事の命令系統にかんする挙兵の時期こそ極秘だったかも知れないが、州郡の統治が破損していることは、明らかだった。これは統治の改善によってしか、解決しない。
劉陶・楊賜・傅燮・呂強あたりの言い分は「ブログ」形式でリライトしたい。


陶曰:“此孫子所謂不戦而屈人之兵、廟勝之術也。”賜(衆)〔遂〕上書言之。会賜去位、事留中。後帝徙南宮、閲故事、得賜所上奏及講時注籍、乃感悟。遂下詔曰:“大司馬楊賜、敦徳允元、(中受)〔忠愛〕恭懿、親以尚書侍講、累評張角始謀、禍未彰、賜陳便宜、欲緩誅夷、令徳既光、嘉謀怛然。詩不雲乎、‘無徳不報、無言不讎’。故褒城君孔霸、故太尉黄瓊侍講先帝、並宜受茅土之封。”賜上言曰:“臣前与故太尉劉寛、司徒張済並被侍講、俱受三事;張角謀乱、又共陳便宜。而独蒙師傅之沢、茅土之祚、而寛、済不蒙雲雨之潤、乞減賜戸以封寛、済。”上雖不聴、嘉其至誠、乃封寛為遂郷侯、済子根為蔡陽侯。賜子彪忠厚有孝行、複纂其家業。

陶曰く、「此れ孫子 謂ふ所は、戦はずして人の兵を屈するは、廟勝の術なりと」と。賜 遂に上書して之を言ふ。会々賜 位を去り、事 中に留まる。

この「黄巾に正しく対策しておれば、乱を防げたのに、惜しかった」という未遂の記述は、額面どおり受けとっていいか。史家は、べつの含意があったのでは。

後に帝 南宮に徙り、故き事を閲し、賜の上奏する及び時を講じ籍に注する所を得て、乃ち感悟す。
遂に詔を下して曰く、「大司馬の楊賜、敦徳にして允元、忠愛にして恭懿たり。親しく尚書を以て侍講し、累ねて張角の謀を始むるを評し、禍 未だ彰らかならず、賜 便宜を陳べ、夷を誅するを緩めて、徳をして既にして光らしめんと欲し、嘉き謀 怛然たり。詩に云はざるや、『徳無くんば報ぜず。言無くんば讎せず』と。故の褒城君の孔霸・故の太尉の黄瓊 先帝に侍講す。(楊賜は)並びに宜しく茅土の封を受くべし」と。

霊帝は、ちゃんと楊賜の提言「張角はあぶない」を見ていた!

賜 上言して曰く、「臣 前に故の太尉の劉寛・司徒の張済と並びに侍講を被り、俱に三事を受く。張角の謀乱、又 共に便宜を陳ぶ。而るに独り師傅の沢・茅土の祚を蒙り、而るに寛・済 雲雨の潤を蒙らず。乞ふ、賜が戸を減じて以て寛・済を封ぜよ」と。
上 聴さざると雖も、其の至誠を嘉し、乃ち寛を封じて遂郷侯と為し、済の子の根を蔡陽侯と為す。
賜の子の彪 忠厚にして孝行有り、複た其の家業を纂ぐ。

光禄勲許相為司空。十一月、張温、董卓撃張約、破之。約走金城。

光禄勲の許相 司空と為る。
十一月、張温・董卓 張・約を撃ち、之を破る。約 金城に走る。

是歳、於後園造萬金堂、以為私蔵門、司農金銭繒帛積之於中;又還河間置田業、起第観。上本侯家、居貧即位、常曰桓帝不能作家、曾無私銭、故為私蔵、複寄小黄門常侍家銭至数千萬。由是中官専朝、奢僭無度、各起第宅、擬(則)〔製〕宮室。上嚐登永安楽侯台、黄門常侍悪其登高、望見居処楼殿、乃使左右諌曰:“天子不当登高、登高則百姓虚。”自是之後、遂不敢複登台榭。

是の歳、後園に萬金堂を造り、以て私かに蔵門を為し、司農の金銭・繒帛 之を中に積む。又 河間に還り田業を置き、第観を起こす。上 本は侯家、貧に居りて即位し、常に曰はく、「桓帝 家を作すこと能はず、曾て私銭無し。故に私蔵を為す。

皇帝のポケットマネーを、国庫とは別につくった。これは桓帝がやらず、霊帝がやったことである。

複た小黄門・常侍に寄せ、家銭 数千萬に至る。是に由り中官 朝を専らにし、奢僭は度無く、各々第宅を起こし、宮室に擬製す。上 嚐て永安楽侯台に登らんとするに、黄門常侍 其の高みに登り、居る処の楼殿を望見せらると悪み、乃ち左右をして諌めしめて曰く、「天子 当に高みに登るべからず、高みに登らば則ち百姓 虚たらん」と。是より後、遂に敢て複た台榭に登らず。

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中平三年~中平五年

中平三年

三年春二月、太尉張延久病罷。庚戌、大赦天下。三月、車騎将軍張温為太尉。夏五月壬辰晦、日有蝕之。詔公卿挙直言。

三年春二月、太尉の張延 久しく病みて罷む。庚戌、大いに天下を赦す。三月、車騎将軍の張温 太尉と為る。夏五月壬辰晦、日の之を蝕する有り。公卿に詔して直言を挙げしむ。

中平四年

四年春正月己卯、大赦天下。二月、滎陽盗賊起、三月、河南尹何苗撃破之。以苗為車騎将軍、封済陽侯。

四年の春正月己卯、天下を大赦す。
二月、滎陽の盗賊 起こり、三月、河南尹の何苗 之を撃破す。苗を以て車騎将軍と為し、済陽侯に封ず。

夏、狄道人王国反。自黄巾之後、盗賊群起、殺刺史、二千石者往往而是。夏四月、太尉張温以寇賊未平罷、司徒崔烈為太尉。五月、司空許相為司徒、光禄勲丁宮為司空。

夏、狄道の人の王国 反す。黄巾の後より、盗賊 群起し、刺史・二千石を殺す者 往往にして是なり。
夏四月、太尉の張温 寇賊の未だ平らかならざるを以て罷み、司徒の崔烈 太尉と為る。
五月、司空の許相 司徒と為り、光禄勲の丁宮 司空と為る。

秋九月、大長秋趙忠為車騎将軍、執金吾甄挙為太仆、因謂忠曰:“傅南容有古人之節、前在軍有功不封、天下失望。今将軍当其任、宜進賢理枉、以副衆望。”忠納其言、遣弟延齎書致殷勤曰:“南容少答我常侍、萬戸侯不足得也。”燮正色拒之曰:“遇与不遇、命也;有功不論、時也。傅燮豈無功而求私賞哉?”遂不答其書。忠愈恨燮、然憚其高明、不敢害、出為漢陽太守。

秋九月、大長秋の趙忠 車騎将軍と為り、執金吾の甄挙 太僕と為り、因りて忠に謂ひて曰く、「傅南容(傅燮)古人の節有り、前に軍に有りて功あれども封ぜられず、天下 望を失ふ。今 将軍 其の任に当り、宜しく賢を進めて枉を理め、以て衆望に副ふべし」
忠 其の言を納れ、弟の延をして書を(傅燮に)齎致せしめ、殷勤に曰く、「南容 少しく我が常侍(趙忠)に答ふれば、萬戸侯 得ること足らず」と。
燮 色を正して之を拒みて曰く、「遇と不遇とは、命なり。功有りて論ぜざるは、時なり。傅燮 豈に功無くして私賞を求めんや」と。遂に其の書に答へず。

傅燮と趙忠の戦いは、見所のひとつ。かたや正義派の良将、かたや濁流の権化たる宦官。傅燮は皇甫嵩と接点があるので、共闘させたい。

忠 愈々燮を恨むも、然るに其の高明なるを憚り、敢て害せず、出して漢陽太守と為す。

冬十月、零陵盗賊寇長沙、太守孫堅討破之、封堅為烏程侯。十一月、太尉崔烈久病罷、大司農曹嵩為太尉。

冬十月、零陵の盗賊 長沙を寇し、太守の孫堅 討ちて之を破り、堅を封じて烏程侯と為す。
十一月、太尉の崔烈 久しく病みて罷み、大司農の曹嵩 太尉と為る。

張純・張挙の反乱

是歳、漁陽人張純反。初発幽州烏桓以討涼州、故中山相張純請将之、不聴、使涿令公孫瓚。純忿不得将、因説故太山太守張挙曰:“烏桓数被徴発、死亡略盡、今不堪命、皆願作乱。国家作事如此、漢祚衰亡之徴。天下反覆率豎子、故若英雄起、則莫能禦。吾今欲率烏桓奉子為君、何如?”挙曰:“漢祚終訖、故当有待之者。吾安可以若是?”純曰:“王者網漏鹿走、則智多者得之、子勿憂也。”遂共率烏桓作乱、故人喜悦帰純、日十餘萬。

是の歳、漁陽の人の張純 反す。
初め幽州の烏桓を発して、以て涼州を討たんとす。故の中山相の張純 之に将たらんことを請ふも、聴さず、涿令の公孫瓚に(将を)せしむ。純 将を得ざることに忿り、因りて故の太山太守の張挙に説きて曰く、
「烏桓 数々徴発せられ、死亡するおと略々盡くし、今 命に堪へず。皆 乱を作さんと願ふ。国家 事を作すこと此の如し、漢祚 衰亡の徴あり。天下 反覆して豎子を率ゐ、故に若し英雄 起たば、則ち能く禦する莫し。吾 今 烏桓を率ゐて子を奉じて君と為さんと欲す。何如」と。
挙曰く、「漢祚 終訖し、故に当に之を待つ者有るべし。吾 安んぞ以て是の若くある可きか」と。純曰く、「王者 網は漏れ鹿は走れば、則ち智の多き者 之を得ん。子 憂ふ勿かれ」と。遂に共に烏桓を率ゐて乱を作し、故に人 喜悦して純に帰し、日に十餘萬なり。

中平五年春

五年春正月丁酉、大赦天下。太尉曹嵩罷。二月、有星孛於紫宮。三月、少府樊陵為太尉。

五年春正月丁酉、大いに天下を赦す。太尉の曹嵩 罷む。
二月、星の紫宮を孛す有り。
三月、少府の樊陵 太尉と為る。

中平五年夏

夏五月、涼州刺史耿鄙撃王国、敗績。
初、鄙合六郡兵将欲討国、漢陽太守傅燮諌之曰:“使君統政日浅、民未知化。孔子曰:‘不教民戦、是謂棄之。’今率不教之民、越大隴之危、賊聞大軍将至、必萬人同心、其鋒難当也。萬一内変、悔何及也?不若息軍養徳、明賞罰以教民戦。賊得寛容、必為我怯、群悪争勢、其離可必。然後率已教之民、討離練之賊、其功可立。今不為萬全之福、而就危敗之禍、不為使君取也。”鄙不従。

夏五月、涼州刺史の耿鄙王国を撃つも、敗績す。
初め、鄙 六郡の兵将を合はせて国を討たんと欲するに、漢陽太守の傅燮 之を諌めて曰く、「使君 政を統べて日は浅く、民は未だ化を知らず。孔子曰く、『民を教せずして戦ふ、是れ之を棄つと謂う』と。今 教せざるの民を率ゐ、大隴の危を越ゆれば、賊 大軍の将に至らんとするを聞き、必ず萬人 心を同じうし、其の鋒 当たり難し。萬一にも内に変あれば、悔いても何をか及ばんや。若かず、軍を息ませ徳を養ひ、賞罰を明として以て民を教して戦ふに。賊 寛容を得れば、必ず我に怯を為し、群悪 勢を争ひ、其の離 必なる可し。然る後、已に教せるの民を率ゐ、離練の賊を討たば、其の功 立つ可し。今 萬全の福を為さず、而して危敗の禍に就くは、使君の取ると為さざるなり」と。鄙 従はず。

まだ戦乱の初期だから、正面から戦うのではなく、政治を補正してやれば、自然と反乱は解体する。そういう傅燮の「平時の戦術」が、ここでは正しい。皇甫嵩が董卓と、陳倉の戦闘方針について揉めるときも、皇甫嵩は「平時」が前提で、董卓が「有事」であり、皇甫嵩が正しかった。どこで潮目が変わるのか。


臨陣、前鋒果敗、鄙為別駕所害。国遂囲漢陽太守傅燮。時北胡騎数千在城外、皆叩頭流涕、欲令燮棄郡帰郷裏。燮子幹進曰:“国家昏乱、賢人斥逐、大人以正不容於朝。今天下以叛、兵不足以守、郷裏羌胡被大人恩者、欲令棄郡而帰。願大人計之、徐帰郷裏、率賢士大夫子弟而輔之。”言未終、燮歎曰:“汝知吾必死邪?蓋‘聖達節、次守節’。且殷紂之暴、伯夷之不食周粟而死、仲尼以為賢。今朝廷不甚殷紂、吾徳不及伯夷、吾何行之乎?”

陣に臨み、前鋒 果して敗れ、鄙 別駕の害する所と為る。国 遂に漢陽太守の傅燮を囲む。時に北の胡騎の数千 城外に在り、皆 叩頭して流涕し、燮をして(漢陽)郡を棄てて郷里に帰らしめんと欲す。
燮の子の幹 進みて曰く、「国家 昏乱し、賢人 斥逐せられ、大人(傅燮)正を以て朝に容らず。今 天下 叛するを以て、兵 以て守るに足らず、郷里の羌胡 大人の恩を被る者は、郡を棄てて帰せしめんと欲す。願はくは大人 之を計り、徐ろに郷里に帰り、賢なる士大夫の子弟を率ゐて之を輔けよ」と。

さっそく最前線に出現した、いかにも「末世」な感じ。漢からの逃走。すばらしい。岬の先端で、嵐の到来を感じているような(という比喩は、日本ではしっくり来るが、中国ではダメかも)
期せずして、現代日本にも「末世」が訪れていると思うので、この絶望感に共感できる土壌があってよい(妄想でも可)。既存の社会システムが不全となったが、そのシステムが継続・暴走することによって、さまざまな弊害が。イイネ!

言 未だ終はらざるに、燮 歎きて曰く、「汝 吾の必死なるを知るや。蓋し『聖なるは節に達し、次なるは節を守る』と。且つ殷紂の暴に、伯夷の周粟を食はずして死するを、仲尼 以て賢と為す。今 朝廷 殷紂より甚しかず、吾が徳 伯夷に及ばず。吾 何ぞ之を行はんか」と。

王国使故酒泉太守黄衍説燮曰:“天下事已可知矣。先起者上有霸王之業、下成伊、呂之勲。天下非複漢有、府君寧有意為吾属師乎?”燮按剣叱之曰:“若非国家剖符之臣邪、求利焉逃其難?且諸侯死社稷者、正也。”

王国 故の酒泉太守の黄衍をして燮に説きて曰く、「天下の事 已に知る可し。先に起つ者は上は霸王の業有り、下は伊・呂の勲を成す。天下 複た漢の有に非ざれば、府君 寧ぞ意 吾が為に師に属すること有らんか」

もと酒泉太守は、王国軍のほうに寝返っているわけですね。

燮 剣を按じて之を叱りて曰く、「若し国家に剖符の臣非らざるや、利を求めて其の難より逃ぐるか。且つ諸侯 社稷に死してこそ正なり」と。

遂麾左右出戦、臨陣而死。上甚悼惜之、策諡曰壯布侯。亦字南容、北地霊州人。身長八尺、厳恪有誌操威容、性剛直履正、不為権貴改節。六月丙寅、風大起折木、太尉樊陵策罷、射声校尉馬日磾為太尉。

遂に左右を麾して出でて戦ひ、陣に臨みて死す。上 甚だ之を悼惜す。策して諡して壯布侯と曰ふ。
亦 字は南容、北地霊州の人。身長は八尺、厳恪にして志操に威容有り、性は剛直にして正を履み、権貴の為に節を改めず。
六月丙寅、風 大いに起き木を折る。太尉の樊陵 策もて罷み、射声校尉の馬日磾 太尉と為る。

中平五年秋

秋八月、置西園三軍及典軍助軍、以小黄門蹇碩為上軍校尉、虎賁中郎将袁紹為中軍校尉、屯騎校尉鮑洪為下軍校尉、議郎曹操為典軍校尉。初、黄巾起、上留心戎事、碩壮健有武略、故親任之、使為元帥、典護諸将、大将軍已下皆令属焉。

秋八月、西園三軍及び典軍・助軍を置き、小黄門の蹇碩を以て上軍校尉と為し、虎賁中郎将の袁紹を中軍校尉と為し、屯騎校尉の鮑洪を下軍校尉と為し、議郎の曹操を典軍校尉と為す。初め、黄巾 起つや、上 心を戎事に留め、碩 壮健にして武略有り、故に之を親任し、元帥と為らしめ、諸将を典護し、大将軍より已下 皆 焉に令属す。

九月、司徒許相策免、司空丁宮為司徒、光禄勲劉弘為司空、(特進)〔衛尉〕董(卓)〔重〕為驃騎将軍。己未、詔曰:“頃選挙失所、多非其人。儒法雑揉、学道浸微。処士荀爽、陳紀、鄭玄、韓融、李楷耽道楽古、誌行高潔、清貧隠約、為衆所帰。其以爽等各補博士。”皆不至。

九月、司徒の許相 策免せられ、司空の丁宮 司徒と為り、光禄勲の劉弘 司空と為り、、衛尉の董重 驃騎将軍と為る。
己未、詔して曰く、「頃 選挙の失所、多く其の人に非ず。儒法 雑揉たり、学道 浸く微なり。処士の荀爽・陳紀・鄭玄・韓融・李楷 道に耽り古を楽しみ、志行は高潔、清貧にして隠約、衆の帰する所と為る。其れ爽らを以て各々博士に補せ」と。皆 至らず。

融字元長、潁川人。博学不為章句、皆究通其義。屢徴聘、皆不起、晚乃拝河南尹、(時)〔暦〕鴻臚太僕卿。年七十餘、弟兄同居、閏庭怡怡、至於没歯也。楷字公超、河南人。以至孝称、棲遅山沢、学無不貫、徴聘皆不就。除平陵令、視事三日、複棄官隠居、学者隨之。所在城市華陰南土、遂有公超市。頻煩策命、就拝光禄大夫、固疾不起。乃命河南、弘農致玄縹束帛、欲必致之、楷終不屈。
袁宏曰:布衣韋帶、白首不仕者有矣;結発纓冠、老而不退者有矣。此二途者、古今之所同也。久而安之、故無中立之地焉。語曰:“山林之士往而不能反、朝廷之士入而不能出。”往而不反則能執意、入而不出失之遠矣。古之為士、将以兼政、可則進、不可則止、量分受官、分極則身退矣。故於仕与不仕之間有止足焉。不仕則枯槁矣、遂仕則負累矣。若仕能止者在於可否之間、不同心乎!

融 字は元長、潁川の人なり。博学なるとも章句を為さず、皆 其の義を究通す。屢々徴聘せらるとも、皆 起たず、晚く乃ち河南尹を拝し、鴻臚・太僕卿を暦す。年七十餘、弟兄 同居し、閏庭怡怡、没歯に至る。
楷 字は公超、河南の人なり。至孝を以て称へられ、山沢に棲遅し、学びて貫せざる無く、徴聘せらるとも、皆 就かず。平陵令に除せられ、事を視ること三日、複た官を棄てて隠居し、学ぶ者 之に隨ふ。在る所の城市 華陰の南土なり、遂に公超の市有り。頻煩に策命あり、就て光禄大夫を拝するも、疾を固くして起たず。乃ち河南・弘農に命じ、玄縹・束帛を致し、必ず之を致さんと欲すれども、楷 終に屈せず。
袁宏曰く…はぶく。

彼らのネグレクトぶりも、漢からの逃走にカウントできる。


是時大将軍何進多辟海内名士、以為己佐。鄭玄称疾不到、州郡迫脅、不得已、玄幅巾詣進、進設幾杖之礼、一宿而退、莫知其所。初、申屠蟠隠於梁、碭之間、免於党人之禍、亦為進所辟、逾年不至。進恨之、欲脅以威刑、使同郡黄忠与蟠書曰:“大将軍幕府初開、〔徴〕辟海内、並延英俊、雖有高名盛徳、不獲異遇。至如先生、特加殊礼、優而不名、設幾杖之坐、引領東望、日夜以冀、彌秋暦冬、経邁二載、深拒以疾、無恵然之顧。重令爰中郎(昭)〔曉〕暢殷勤、至於再三、而先生抗誌彌高、所執益固。将軍於是憮然失望而有愧色、自以徳薄、深用咎悔。僕竊論之、先生高則有餘、智則不足。当今西戎作乱、師旅在外、軍国異容、動有刑憲。今潁川荀爽輿病在道、北郡鄭玄北麵受署。彼豈楽羈牽者哉、知時不可佚豫也。且昔人之隠、雖遭其時、猶放声絶跡、巢棲茹薇;其不遇也、則裸身大笑、被発狂歌。今先生処平壤、遊人間、吟典籍、襲衣裳、行与昔人謬、而欲蹈其跡、擬其事、不亦難乎!僕願先生優遊俯仰、貴処可否之間。孔氏可師、何必首陽。備托臭味、庶同休戚、是以假飛書以喻左右。”蟠不答其書、亦無懼色。蟠字子龍、陳留外黄人。同県大女侯玉為父報讎、殺夫之従母兄、姑怒執玉送吏。時県令梁配将断其獄、蟠年十五、自精舍詣県、奏記曰:“伏聞大女侯玉為父報讎、獄鞠以法、不勝感悼己情、敢陳所聞。昔太原周党感春秋之義、辞師複讎、当時論者猶高其節。況玉女弱、内無同生之謀、外無交遊之助、直推父子之情、手(刀)〔刃〕莫大之讎。当時聞之、人無勇怯、莫不張膽增気、輕身重義、攘臂高談、称羨其美。今聞玉幽執牢檻、罪名已定、皆心低意阻、惆悵悲歎。蟠以玉之節義、暦代未有、足以感無恥之孫、激忍辱之子。若其在昔、尚当旌閭表墓、以顕後嗣。況事在清聴、不加以義!”於是県令具以状聞、得減死一等。蟠学無常師、博覧無不通。初在太学、済陰王子居病困臨卒、托蟠致喪、蟠即自負其屍、遂致済陰。道遇司隸従事、嘉幡誌義、湣其負重、為封過所伝、蟠不受、投地而去。挙有司、公車徴、諸所聘礼皆不就。董卓初徴天下賢儁、皆起家登宰相。蟠得徴書、時人皆勧之行、蟠笑而不答。居無何、而王室大乱。蟠年七十餘、以寿終。

是の時、大将軍の何進 多く海内の名士を辟し、以て己の佐けと為さんとす。鄭玄 疾を称して到らず、州郡 迫脅し、已むを得ず、玄 幅巾にて詣り進み、進みて幾杖の礼を設け、一宿して退き、其の所を知る莫し。
初め、申屠蟠 梁・碭の間に隠れ、党人の禍を免かれ、亦 進の辟する所と為り、年を逾いで至らず。進 之を恨み、脅すに威刑を以てせんと欲し、同郡の黄忠をして蟠に書を与えしめて曰く、「大将軍の幕府 初めて開き、海内より徴辟し、英俊を並延す。(申屠蟠伝は後日)」。蟠 其の書に答へず、亦 懼るるの色も無し。
蟠 字は子龍、陳留外黄の人なり。同県の大女の侯玉 父の為に讎に報ゐ、夫の従母兄を殺す。姑 怒りて玉を執へて吏に送る。時に県令の梁配 将に其の獄を断ぜんとするや、蟠 年は十五にして、精舍より県に詣り、奏記して曰く、「伏して聞く、大女の侯玉 父の為に讎に報ゐ、……(申屠蟠伝は後日)」。是に於て県令 具に状を以て聞き、死一等を減ずるを得たり。
蟠 学ぶに常師無く、博く覧じて通ぜざる無し。初め太学に在り、済陰の王子 病困に居りて卒するに臨み、蟠に喪を致すを托す。蟠 即ち自ら其の屍を負ひ、遂に済陰に致る。道に司隸従事に遇ひ、幡の志義を嘉し、其の重を負ひたるを湣れみ、為封過所伝、蟠 受けず、地に投げて去る。有司に挙げられ、公車 徴し、諸々の聘礼する所 皆 就かず。
董卓 初めて天下の賢儁を徴し、皆 起家して宰相に登る。蟠 徴書を得て、時人 皆 之に行くことを勧むるに、蟠 笑ひて答へず。居ること何も無くして、王室 大いに乱る。蟠 年は七十餘、寿を以て終はる。

何進を無視するだけでなく、董卓をも無視したことで、災厄を免れた。


中平五年冬

十月甲子、上観耀兵於平楽観。先是望気者以為京師当有大兵、流血両宮。或説何進曰:“太公六韜有天子将兵事、以示四方。”進以為然。乃言於上、(太)〔大〕発兵講武於平楽観下、天子親擐甲胄、臨軍三匝。既罷、以兵属大将軍進。

十月甲子、上 耀兵を平楽観に観ず。是より先き、望気者 以為へらく京師 当に大兵有るべし、両宮に流血すと。或ひと何進に説きて曰く、「太公の六韜 天子 兵を将ゐる事有り、以て四方に示せ」と。進 以て然りと為す。
乃ち上に言ひ、大いに兵を発して平楽観下に武を講ぜよと。天子 親ら甲胄を擐き、軍三匝に臨む。既に罷み、兵を以て大将軍の進に属せしむ。

初、漢陽太守蓋勲著績西州、知耿鄙之必敗也、自免帰家。於是徴為武都太守。詔大将軍何進、上軍校尉蹇碩為勲祖道、京師栄之。未至武都、徴為討虜校尉。上問勲曰: “天下何以反?”勲対曰:“幸臣子弟擾之使然。”時碩子弟尤甚、天子顧而問碩、碩不能対。帝又謂勲曰:“吾以陳師於平楽観、多出中蔵以餌戦士、何如?”勲曰:“臣聞昔者先王耀徳而不観兵、今寇在遠而設陣於近、不足以昭果毅、祗足以瀆威武耳。”帝曰:“善。恨見卿晚、群臣初無是言也。”

初め、漢陽太守の蓋勲 績は西州に著はれ、耿鄙の必ず敗るるを知るや、自ら免じて家に帰る。是に於て徴して武都太守と為る。大将軍の何進・上軍校尉の蹇碩に詔して勲の為に祖道せしめ、京師 之を栄とす。未だ武都に至らざるに、徴して討虜校尉と為す。上 勲に問ひて曰く、「天下 何を以てか反するや」と。
勲 対へて曰く、「幸臣の子弟 之を擾がし、然らしむ」と。
時に碩の子弟 尤も甚しく、天子 顧みて碩に問ふも、碩 能く対へず。

どうして霊帝は、宦官を批判した意見書を受けとると、「これ、どう思う?」と、当事者である宦官に聞くんだろう。まともな回答が得られるわけないのに。
①バカ、②史家のイタズラ心、③宮中の機密管理の限界
思うに、「ひとりで充分な内省ができる、自立した自己」というのは、近代人の成熟モデルであって、帝王学とは関係ないのかも知れません。

帝 又 勲に謂ひて曰く、「吾 師を平楽観に陳し、多く中蔵を出して以て戦士に餌す。何如」と。勲曰く、「臣聞く、昔者 先王 徳を耀せて兵を観ず、今 寇 遠に在りて陣を近くに設け、以て果毅を昭らかにするに足らず、祗(た)だ以て威武を瀆するに足るのみ」と。帝曰く、「善し。卿に見ゆること晚きを恨む。群臣 初めて是れ言ふ無きなり」と。

勲与劉虞、袁紹等並典禁軍、勲謂虞、紹曰:“吾見上、上甚聡明、但擁於左右耳。勇力誅嬖幸、然後徴抜英俊、以興漢室、功遂身退、豈不快邪!”虞、紹亦有宿謀、因共相結未発、而司隸校尉張温挙勲為京兆尹。帝方倚勲、欲親近之、而碩等心憚、並勧帝従温議、遂拝京兆尹。

勲と劉虞・袁紹ら並びに禁軍を典し、勲 虞・紹に謂ひて曰く、「吾 上を見るに、上は甚だ聡明なるとも、但だ左右を擁するのみ。勇力もて嬖幸を誅し、然る後に英俊を徴抜して、以て漢室を興し、功は遂げ身は退かん。豈に快ならざるや」と。

@daradara3594 さんはいう。劉虞は中平五年に宗正から幽州牧に遷ってて、西園軍設置が同年八月だから、蓋勲伝の話は中平五年の出来事みたい。

虞・紹 亦 宿謀有り、因りて共に相ひ結ばんとするも未だ発せず、而して司隸校尉の張温 勲を挙げて京兆尹と為す。帝 方に勲を倚り、之を親近せんと欲せしが、而るに碩ら心に憚り、並びに帝に温の議に従はんことを勧め、遂に京兆尹を拝す。

まるで張温が、蓋勲・劉虞・袁紹の計画を未然防止したような書きぶり。


小黄門高望、皇子〔辯之〕愛(之辯)臣也。因碩属望子於勲、欲以為孝廉、勲不肯。或謂勲曰:“皇子副主也、望其保也、碩帝之寵臣也、三怨成府、豈可救也?” 勲曰:“選賢所以報国也。非賢不挙、雖死可悔乎!”

小黄門の高望なるもの、皇子の辯の愛臣なり。因りて碩 望の子を勲に属せしめ、以て孝廉と為さんと欲するも、勲 肯ぜず。或ひと勲に謂ひて曰く、「皇子 副主なり。望 其の保なり。碩 帝の寵臣なり。三怨(劉辯・高望・蹇碩の怨み)府に成る。豈に救ふ可きや」と。 勲曰く、「賢を選ぶは国に報ゆる所以なり。賢に非ざれば挙げず。死すると雖も悔ゆる可きか」と。

是時王国衆十餘萬、三輔震〔動〕、勲自請発兵萬人分屯三輔。毎有密事、帝呼詔問勲。勲雖身在外、甚見信重。乃著琴詩十二章奏之、帝善焉、数加賞賜。十二月、左将軍皇甫嵩、前将軍董卓屯右扶風、討王国。

是の時、王国の衆 十餘萬あり。三輔 震動す。勲 自ら請ふらく、兵萬人を発して三輔に分屯せんと。毎に密事有るごとに、帝 呼びて詔して勲に問ふ。勲 身は外に在ると雖も、甚だ信重せらる。乃ち琴詩十二章を著はして之を奏し、帝 焉を善とし、数々賞賜を加ふ。
十二月、左将軍の皇甫嵩・前将軍の董卓 右扶風に屯し、王国を討つ。

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中平六年

中平六年春

六年春正月、王国攻陳倉、董卓将救之、謂(王)〔皇〕甫嵩曰:“智者不後時、勇者不留決。速救則城全、不救則城滅、複何疑哉?”嵩曰:“不然。善用兵者、全軍為上、破軍次之、百戦百勝、不如不戦而屈人之兵也。上兵伐謀、故見可而進、知難而退、故速戦為下。是以先為不可勝、以待敵之可勝。不可勝在我、可勝在彼。彼守不足、我攻有餘。有餘者在於九天之上、不足者陥於九地之下。陳倉雖小、城守備固、非九地之陥也。国兵雖攻我所不抜、非九天之勢也。夫勢非九天、攻者受害;陥非九地、守者不抜。国今已陥受害之地、而陳倉保不抜之城、我可不煩兵而取全勝之功、将何救!”不従。

六年春正月、王国 陳倉を攻め、董卓 将に之を救はんとし、皇甫嵩に謂ひて曰く、「智者は時に後れず、勇者は決を留めず。速やかに救はば則ち城は全し、救はざれば則と城は滅ぶ。複た何ぞ疑ふや」と。
嵩曰く、「然らず。善く兵を用ゐる者は、軍を全するを上と為し、軍を破るを次とす。百戦して百勝するとも、戦はずして人の兵を屈するに如かず。上は兵もて謀を伐ち、故に可しきを見て進み、難きを知りて退き、故に戦を速くを下と為す。是を以て先づ勝つ可からざるを為し、以て敵の可しきを待ちて勝つ。勝つ可からず我に在らば、勝つ可き彼に在り。彼は守りて足らざれば、我は攻めて餘り有り。餘り有る者は九天の上に在り、足らざる者は九地の下に陥つ。陳倉 小さきと雖も、城の守 備へ固く、九地の陥に非ざるなり。国の兵 我を攻めて抜かざる所と雖も、九天の勢に非ざるなり。夫れ勢 九天に非ざれば、攻むる者は害を受く。九地に陥るに非ざれば、守る者は抜かれず。国 今 已に受害の地に陥り、而して陳倉 抜けざるの城を保つ。我 兵を煩はす可からずして、全勝の功を取らん。将た何をか救はんとす」と。(皇甫嵩は董卓に)従はず。

国囲陳倉八十餘日、城中堅守、竟不能抜、賊衆疲弊、果自解去。嵩欲進兵撃之。卓曰:“不可。兵法:‘窮寇勿迫、帰衆勿追。’今我追国、是追帰衆、迫窮寇也。困獣猶闘、蜂蠆有毒、況大衆乎!”嵩曰:“不然。前吾不撃、避其鋭也。今而撃之、待其衰也。所撃疲墮、非帰衆也。国衆且走、莫有闘誌。以整撃乱、非窮寇也。”使卓為殿、嵩自与国戦、大破斬之。由是卓恨嵩、陰与嵩有隙。

陳倉を囲むこと八十餘日、城中 堅りは守く、竟に抜く能はず、賊衆 疲弊し、果して自ら解きて去る。嵩 兵を進めて之を撃たんと欲す。卓曰く、「不可なり。兵法に、『窮寇 迫る勿かれ、帰衆 追ふ勿かれ』と。今 我 国を追はば、是れ帰衆を追ひ、窮寇に迫るなり。困獣すら猶ほ闘ひ、蜂蠆にも毒有り、況んや大衆をや」と。
嵩曰く、「然らず。前に吾 撃たざるは、其の鋭を避くればなり。今にして之を撃つは、其の衰へるを待てばなり。撃つ所は疲墮にして、帰衆に非らず。国の衆 且に走れ、闘志有る莫し。整を以て乱を撃つは、窮寇に非ざるなり」と。
卓をして殿と為さしめ、嵩 自ら国と戦ひ、大いに破り之を斬る。

『范書』皇甫嵩伝では、董卓は「後拒」。ここでは「殿」。同じ。

是に由り卓 嵩を恨み、陰かに嵩と隙有り。

徴卓為少府、卓不肯就、上書輒行前将軍事。既而以卓為並州牧、以兵属皇甫嵩。卓又上書請将兵之官。嵩従子邐諌嵩曰: “本朝失政、能安危定傾者、惟大人与卓耳。今怨隙已結、二人不俱存。先人之言、兵家所重。卓被詔当放兵、而諷将士上書自請、此逆命也。彼度京師政乱、故敢躊躇、此懐奸也。二者刑所不赦、卓凶虐無親、将士不附。公為元帥、仗国威以討之、上顕忠義、下除奸凶、此桓、文之挙也。”嵩曰:“専命亦罪也。不如顕奏、使朝廷裁之。”天子以責譲卓不受詔、選五千騎将自河津渡。

卓を徴して少府と為せども、卓 就くを肯ぜす、上書して輒ち前将軍の事を行す。既にして卓を以て並州牧と為し、兵を以て皇甫嵩に属せしむ。卓 又 上書して将兵の官を請ふ。
嵩の従子の邐 嵩に諌めて曰く、「本朝 政を失ひ、能く危を安んじ傾を定むる者は、惟だ大人と卓のみ。今 怨隙 已に結び、二人 俱に存せず。先人の言はく、兵家 重しとする所なりと。卓 詔を被り当に兵を放つべきなるとも、而るに将士に諷して上書して自ら請ふ、此れ命に逆へるなり。彼 京師の政 乱るるを度し、故に敢へて躊躇す、此れ奸を懐くなり。二者 刑して赦さざる所、卓 凶虐にして親無く、将士 附かず。公 元帥と為り、国威に仗りて以て之を討たば、上は忠義を顕はし、下は奸凶を除く。此れ桓・文の挙なり」と。

董卓との葛藤が、皇甫嵩の後半生のテーマ。イイネ!!

嵩曰く、「命を専にするも亦た罪なり。顕奏して、朝廷をして之を裁しむるに如かず」と。天子 以て卓の詔を受けざるを責譲するや、五千騎を選びて将て河津より渡る。

董卓は、霊帝の崩後に混乱した洛陽のそばに「偶然」いた経緯を確認する。まず中平六年正月、董卓は陳倉で王国を破り、皇甫嵩の指示で追撃。平定後、董卓を警戒した朝廷が、兵権を剥がすため中央官に任ず。董卓はゴネた。ゴネを咎められ、二月?に兵五千をひきいて洛陽に向かう。霊帝の崩御は直後の四月。霊帝の崩御を「待つ」かのように、詔命に逆らってまで(下手したら死罪なのに)兵権を手放さなかった董卓。数ヶ月だから、ギリギリ無理が通った。のちに董卓が、流浪した少帝&陳留王をひろったことは幸運?だけど、それ以上に、直前の数ヶ月の動きのほうが奇跡的にすごい。陳倉の勝利から連続した、洛陽の制圧までの流れるような動きが。
中平六年春まで、皇甫嵩は陳倉で董卓と共闘。董卓と同等に影響力があった(おいの酈の評価だが)。董卓が廃帝したとき、蓋勲が頼ろうとしたのも皇甫嵩。董卓から後漢を「救済」できるなら皇甫嵩。「いかにして、英雄・皇甫嵩は腰が砕けたか」は、皇甫嵩という個人を掘り下げるだけでなく、後漢末を分析する視角として有効そう。


上軍校尉蹇碩悪大将軍進兵強、欲進在外、因而間之。乃与常侍通謀説上、使進征辺章、韓約。帝従之、賜進戎車百乗、虎賁斧鉞。進亦知其謀、請中軍校尉袁紹東発徐、兗兵、以稽其行。

上軍校尉の蹇碩大将軍の進の兵 強きを悪み、進を外に在らしめんと欲し、因りて之を間す。乃ち(何進が)常侍と通謀せりと上に説き、進をして辺章・韓約を征たしむ。帝 之に従ひ、進に戎車百乗・虎賁斧鉞を賜ふ。進 亦た其の謀を知り、中軍校尉の袁紹を請ひ東のかた徐・兗の兵を発せしめ、以て其の行に稽まる。

三月己丑、光禄劉虞為司馬、領幽州牧、〔撃〕張純。虞使公孫瓚撃純、大戦破之。純客王政斬純首降。封虞為襄賁侯、瓚為都亭侯、並鎮北辺。

三月己丑、光禄の劉虞 司馬と為り、幽州牧を領し、張純を撃つ。虞 公孫瓚をして純を撃たしめ、大いに戦いて之を破る。純の客たる王政 純の首を斬りて降る。虞を封じて襄賁侯と為し、瓚を都亭侯と為し、並びに北辺に鎮せしむ。

中平六年 夏四月

夏四月、太尉馬日磾罷。丙午朔、日有蝕之。丙辰、帝崩於嘉徳殿。時蹇碩在省中、欲誅大将軍何進、使人迎進、欲与計事。進即駕往、司馬潘隠出迎進、因而(逆)〔目〕之。進馳去、屯百郡邸、称疾不入。戊午、皇子辯即帝位、太後臨朝、大赦天下。封皇弟協為渤海王。初、帝数失皇子、何太後生皇子辯、養於史道人家、故号為史侯。王貴人生皇子協、養於董太後宮、号為董侯。

夏四月、太尉の馬日磾 罷む。丙午朔、日 之を蝕する有り。丙辰、帝 嘉徳殿に崩ず。
時に蹇碩 省中に在り、大将軍の何進を誅せんと欲し、人をして進を迎へしめ、与に事を計らんと欲す。進 即ち駕して往かんとするに、司馬の潘隠 出でて進を迎へ、因りて之に目す。進 馳せ去り、百郡の邸に屯し、疾と称して入らず。
戊午、皇子の辯 帝位に即き、太后 臨朝し、天下に大赦す。皇弟の協を封じて渤海王と為す。
初め、帝 数々皇子を失ひ、何太后 皇子の辯を生み、史道人の家に養ひ、故に号して史侯と為す。王貴人 皇子の協を生み、董太后宮に養ひ、号して董侯と為す。

初、大臣請立太子、〔帝以〕辯軽佻無威儀、不可以為宗廟主。然何後有寵、大将軍進権重、故久而不決。帝将崩、属協於上軍校尉蹇碩。協疏幼少、在喪哀感、百官見者為之感慟。

初め、大臣 太子を立てんと請ふや、帝 辯の軽佻にして威儀無きを以て、以為へらく宗廟の主とす可からず。然るに何后 寵有り、大将軍の進 権は重く、故に久しくして決せず。帝 将に崩ぜんとするや、協を上軍校尉の蹇碩に属せしむ。協 疏にして幼少、喪に在りて哀感し、百官 見る者 之の為に感慟す。

壬戌、詔曰: “朕以眇身、君王海内、夙夜憂懼、靡知所済。夫天、地、人道、其用在三、必須輔佐以昭其功。後将軍袁隗徳量寛重、奕世忠恪、今以隗為太傅、録尚書事。朕且諒闇、委成群後、各率其職、称朕意焉。”上軍校尉蹇碩以帝軽佻不徳、二舅好修虚名、無股肱之才、懼不能安社稷也、欲誅進等、立渤海王、与常侍趙忠、宋典書曰:“大将軍兄弟秉国威権、欲与天下党人共誅内官。以碩有兵、尚且沈吟。観其旨趣、必先誅碩、次及諸君。今欲除私仇以輔公家。是時上新崩、大行在前殿、左右悲哀、念在送終。碩雖用有謀策、其事未可知也。”忠、典以碩書告大将軍進、進誘諸常侍共誅碩。或曰:“碩先帝所置、所嚐倚仗、不可誅。”中常侍郭脈与進同郡、素養育進、子弟遇之、曰:“進我所成就、豈有異乎?可卒聴之。”庚午、上軍校尉蹇碩下獄誅、兵皆属進。

壬戌、詔して曰く、「朕 眇身を以て、海内に君王たり。夙夜 憂懼し、済する所を知る靡し。夫れ天・地・人道、其の三に在るを用て、必ず須らく輔佐して以て其の功を昭らかにすべし。後将軍の袁隗 徳は量く寛は重く、奕世 忠恪たり、今 隗を以て太傅と為し、尚書事を録せしむ。朕 諒闇に且り、群後を委成し、各々其の職を率し、朕の意を称へよ」と。 上軍校尉の蹇碩 帝の軽佻にして不徳、二舅(何進・何苗)虚名を修むるを好み、股肱の才無きを以て、社稷を安んずる能はざるを懼れ、進らを誅し、渤海王を立てんことを欲し、(蹇碩は)常侍の趙忠・宋典に書を与えて曰く、「大将軍の兄弟 国の威権を秉り、天下の党人と共に内官を誅せんと欲す。碩 兵有るを以てすら、尚ほ且つ沈吟す。其の旨趣を観るに、必ず先づ碩を誅し、次に諸君に及ばん。今 私仇を除きて以て公家を輔けんと欲す。
是の時 上 新たに崩じ、大行 前殿に在り、左右 悲哀し、送終に在るを念ず。碩 用て謀策有りと雖も、其の事 未だ知る可からず」と。
忠・典 碩の書を以て大将軍の進に告げ、進 諸常侍を誘ひて共に碩を誅す。或ひと曰く、「碩 先帝の置く所、嚐に倚仗する所、誅す可からず」と。
中常侍の郭脈 進と同郡にして、素より進を養育し、子弟 之を遇す。曰く、「進 我の成就する所、豈に異有らんや。卒に之を聴す可し」と。
庚午、上軍校尉の蹇碩 獄に下し誅せられ、兵 皆 進に属す。

中軍校尉袁紹説進曰:“黄門常侍秉権日久、永楽太後与之通謀、禍将至矣。将軍宜立大計、為天下除患。”於是進、紹謀共図中官。進厚遇紹及虎賁中郎将術、因以招引天下奇士陳紀、荀攸、何顒等(上)〔与〕同腹心。

中軍校尉の袁紹 進に説きて曰く、「黄門・常侍 権を秉りて日は久しく、永楽太后 之と与に謀を通じ、禍 将に至らんとす。将軍 宜しく大計を立て、天下の為に患を除くべし」と。
是に於て進・紹 共に中官を図らんことを謀る。進 厚く紹及び虎賁中郎将の術を遇し、因りて以て天下の奇士たる陳紀・荀攸・何顒らを招引し、与に腹心を同じうす。

初驃騎将軍董重与大将軍何進権勢相害、中官協重以為党助、永楽亦欲与政事、何後不聴。永楽後怒曰:“汝怙大将軍邪?敕驃騎断大将軍頭如反手耳!”何後聞之、以告進。

初め、驃騎将軍の董重 大将軍の何進と権勢 相ひ害し、中官 重と協して以て党助を為し、永楽 亦た政事を与にせんと欲す。何后 聴さず。永楽后 怒りて曰く、「汝 大将軍を怙むや。驃騎に敕さば大将軍の頭を断つこと手を反すが如し」と。
何后 之を聞き、以て進に告ぐ。

中平六年 夏五月

五月、進与三公奏:“故事、蕃後不同居京師、請永楽宮還(太)〔故〕国。”於是驃騎将軍董重下獄死。永楽後怖、暴崩。衆以為何後殺之。紹複説進曰:“前竇氏之敗、但坐語言漏泄、以五營兵士故也。五營皆畏中官、而竇後反用之、兵皆叛走、自取破滅。今将軍既有元舅之尊、二府並領勁兵、部曲将吏皆英俊之士、楽尽死力、事在掌握、天讚之時也。功著名顕、垂之後世、雖周之申伯、何足道哉!”進言之太後。

五月、進 三公と与に奏すらく、「故事に、蕃后 京師に同居せずと。永楽宮に故国に還らんことを請ふ」と。是に於て驃騎将軍の董重 獄に下され死す。永楽后 怖れ、暴かに崩ず。衆 以為へらく何后 之を殺すと。
紹 複た進に説きて曰く、「前に竇氏の敗るるは、但だ坐して語りて言は漏泄し、五營の兵士を以て(計画遂行を)するが故なり。五營 皆 中官を畏れ、而して竇后 反りて之を用ひ、兵 皆 叛して走り、自ら破滅を取れり。今 将軍 既にして元舅の尊有り、二府(何進・何苗)並びに勁兵を領し、部曲・将吏 皆 英俊の士なり。死力を尽すことを楽しみ、事 掌握するに在り、天讚の時なり。功は著はれ名は顕はれ、之を後世に垂るれば、周の申伯と雖も、何ぞ道ふに足らんや」と。進 之を太后に言ふ。

太後曰:“中官領禁兵、自漢家故事、不可廃也。且先帝新棄天下、我奈何楚楚与士人対共事乎?”進承太後意、但欲誅其放縦者。紹以中官近至尊、今不廃滅、後益大患。

太后曰く、「中官 禁兵を領すこと、自ら漢家の故事なり、廃す可からず。且つ先帝 新たに天下を棄て、我 奈何 楚楚として士人と与に対ひ事を共にせんや」と。進 太后の意を承け、但だ其の放縦なる者を誅せんと欲す。紹 中官の至尊に近きを以て、今 廃滅せざれば、後に益々大患ならんとす。

初、進寒賎、依諸中官得貴幸、内嚐感之、而外好大名、複欲従紹等、計久不能決。太後母舞陽君及弟車騎将軍苗謂進曰:“始従南陽来、依内宮以致富貴。国家亦不容易、深思之、覆水不可收、悔常在後。”進入複言於太後曰:“大将軍専欲誅左右、以擅朝権。”太後疑焉。

初め、進 寒賎にして、諸々の中官の貴幸を得るに依り、内に嚐に之に感じ、而るに外は大名を好み、複た紹らに従はんと欲し、計 久しく決する能はず。

何進の内面的な葛藤は、きっと見せ場になる!

太后の母の舞陽君及び弟の車騎将軍の苗 進に謂ひて曰く、「始め南陽より来り、内宮に依りて以て富貴に致る。国家 亦た容易ならず、深く之を思へ。覆水 收むる可からず、悔ひは常に後に在り」と。
進 入りて複た太后に言ひて曰く、「大将軍 専ら左右を誅して、以て朝権を擅ままにせんと欲す」と。太后 焉を疑ふ。

紹聞之懼、複説進曰:“形勢已露、将軍何不早決?事久変生、複為竇氏矣!”於是進以紹為司隸校尉、王允為河南尹。乃召武猛都尉丁原、並州刺史董卓将兵向京師以脅太後。尚書盧植以為誅中官不足外徴兵、且董卓凶(捍)〔悍〕而有精兵、必不可製。進不従。原将数千人寇河内、焼宮府及居人、以誅中官為言、太後猶未寤。

紹 之を聞きて懼れ、複た進に説きて曰く、「形勢 已に露はるるに、将軍 何ぞ早く決めざる。事 久しくして変は生じ、複た竇氏と為らん」

やばい。超やばい。緊張してきた。

是に於て進 紹を以て司隸校尉と為し、王允を河南尹と為す。乃ち武猛都尉の丁原・并州刺史の董卓を召して、兵を将ゐて京師に向はしめ、以て太后を脅す。
尚書の盧植 以為へらく、「中官を誅するに外に兵を徴すに足りず、且つ董卓は凶悍にして精兵有り、必ず制す可からず」と。進 従はず。原 数千人を将ゐて河内を寇し、宮府及び居人を焼き、中官を誅するを以て言と為し、太后 猶ほ未だ寤らず。

中平六年 夏六月

六月辛酉、葬孝(陵)〔霊〕皇帝於文陵。

六月辛酉、孝霊皇帝を文陵に葬る。

「早死したせいで歴史が変わった」人物の延命を妄想するのは楽しいですが、三国志にとってインパクト最大の早死は、後漢の霊帝かも知れない。『後漢紀』を訓読していて思いました。曹操の1歳下だから、健康に配慮すれば、あと20年は生きられた。生き返るなら、董卓を召してしまったこのタイミングです。
16年 GWの悪ふざけ、霊帝の生存イフしましょうかねー。


中平六年 秋七月

秋七月、徙渤海王協為陳留王。董卓到澠池、上書曰:“中常侍張譲等竊幸乗寵、汩乱海内。昔趙鞅興晋陽之甲、以逐君側之悪。(以)〔乃〕鳴鍾鼓、以如洛陽。”進謂諸黄門曰:“天下匈匈、正患諸君耳。今董卓欲至、諸君何不各就国?”於是黄門各就裏舍。

秋七月、渤海王の協を徙して陳留王と為す。董卓 澠池に到り、上書して曰く、「中常侍の張譲ら幸を竊み寵に乗じ、海内を汩乱す。昔 趙鞅 晋陽の甲を興し、以て君側の悪を逐ふ。乃ち鍾鼓を鳴し、以て洛陽に如かん」と。
進 諸々の黄門に謂ひて曰く、「天下は匈匈とし、正に諸君を患ふのみ。今 董卓 至らんと欲し、諸君 何ぞ各々国に就かざる」と。是に於て黄門 各々里舍に就く。

何進「董卓がくるから宦官はにげろ」と。自分で呼んだくせに。


是時進謀頗泄、諸黄門皆懼而思変。張譲子婦、太後之娣也。譲叩頭向子婦曰:“老臣得罪、当与新婦俱帰私門。惟受恩累世、今当離宮殿、情懐恋恋、頤一複入直、得暫奉望太後、陛下顔色、然後退就溝壑、死且不恨!”譲子婦言於舞陽君、入白、乃詔諸常侍皆複入直。

是の時、進の謀 頗に泄れ、諸々黄門 皆 懼れて変を思ふ。張譲の子婦は、太后の娣なり。譲 叩頭して子婦に向ひて曰く、「老臣 罪を得て、当に新婦と俱に私門に帰るべし。惟るに恩を累世に受け、今 当に宮殿を離るべし。情懐 恋恋とし、頤して一に複た直に入り、得て暫く太后・陛下の顔色を奉望し、然る後、退きて溝壑に就き、死して且に恨みず」と。
譲の子婦 舞陽君に言ひ、入りて白し、乃ち諸常侍に詔して皆 複た直に入る。

中平六年 秋八月

八月庚寅、太白犯心星。戊辰、大将軍何誰白太後、将決其事、謀欲尽誅諸常侍、選三署郎補其処。中常侍張譲、段珪相謂曰:“大将軍常称疾、不臨喪葬、今忽入省、此意何為?竇氏意複起邪?”使侍者聴之、具聞進言、出坐省戸下、譲謂進曰:“天下憤憤、亦非独我曹也。又先帝嚐与太後不快、幾至成敗、我曹泣涕救解、各出家財且千萬、共為礼和悦上意、但欲托門戸於卿耳。今卿雲何欲滅我曹種族、不亦太甚乎?卿言省内濁穢、公卿已下、忠清為誰乎?”

八月庚寅、太白 心星を犯す。戊辰、大将軍の何進 太后に白し、将に其の事を決して、謀りて尽く諸々の常侍を誅せんと欲するに、三署の郎を選びて其の処(宦官を攻撃するための配置)に補す。
中常侍の張譲・段珪 相ひ謂ひて曰く、「大将軍 常に疾めると称し、喪葬に臨まず。今 忽ち省に入る。此の意 何為や。竇氏の意 複た起さんか」と。侍者をして之を聴かしめ、具に進の言を聞き、出でて省戸の下に坐せしめ、譲 進に謂ひて曰く、「天下 憤憤たり。亦た独り我が曹に非ざるなり。又 先帝 嚐て太后と快からず、幾に成敗に至り、我が曹 泣涕して救解せられ、各々家財を出すこと且に千萬、共に礼和を為して上の意を悦ばす。但だ門戸を卿に托せんと欲せしのみ。今 卿 何ぞ我が曹・種族を滅せんと云ふや。亦た太だ甚からずや。卿が言 内を省るに濁穢たり、公卿より已下、忠清 誰と為さんか」と。

於是尚方監渠穆抜剣斬進。珪、譲偽詔以故太尉樊陵為司隸校尉、故司空許相為河南尹。尚書得詔疑焉、請大将軍出議之。中黄門以進首与尚書、曰:“何進謀反、以伏誅。”進部曲将呉匡将兵在外、聞誰被誅、欲将兵入、宮門閉。虎賁中郎将袁術焼南宮青瑣門、欲以迫出珪等。珪等不出、持太後、天子、陳留王幸北宮崇徳殿。

是に於て尚方監の渠穆 剣を抜きて進を斬る。珪・譲 詔を偽はりて以て故の太尉の樊陵を司隸校尉と為し、故の司空の許相を河南尹と為す。尚書 詔を得て焉を疑ひ、大将軍に出でて議せんことを請ふ。中黄門 進の首を以て尚書に与へて曰く、「何進 謀反せり。以て誅に伏す」と。
進の部曲将たる呉匡 兵を将ゐて外に在り、進の誅を被むるを聞き、兵を将ゐて入らんと欲す。宮門 閉づ。虎賁中郎将の袁術 南宮の青瑣門を焼き、以て迫り珪らを出でしめんと欲す。珪ら出でず、太后・天子・陳留王を持して北宮の崇徳殿に幸す。

苗聞進死、陳兵朱雀闕下。進、苗素不相友善、進死、匡恐為苗所害、乃言曰:“大将軍欲誅諸常侍、車騎不欲。今大将軍死、車騎在、殺大将軍者、即車騎也、吏士能為大将軍複讎也?”進遇吏兵素有恩、皆涕泣曰:“願致死!”匡乃唼血為誓、引兵攻苗、戦於闕下。兵破、斬苗首。

苗 進の死せるを聞き、兵を朱雀闕下に陳す。進・苗 素より相ひ友善せず、進 死し、匡 苗の害する所と為るを恐れ、乃ち言ひて曰く、「大将軍 諸常侍を誅せんと欲するとも、車騎 欲せず。今 大将軍 死し、車騎 在あり。大将軍を殺したる者は、即ち車騎なり。吏士 能く大将軍の為に複讎せんか」と。進 吏兵に遇ひて素より恩有り、

宦官に味方できず、かといって宦官を誅殺できず、何太后にも頭があがらず、袁紹を重んじざるを得ず、吏兵には恩を与えて……。偉大なる凡人の何進のことが、好きになってきました。

皆 涕泣して曰く、「願はくは死に致さんと」と。匡 乃ち血を唼して誓を為し、兵を引きて苗を攻め、闕下に戦ふ。兵 破れ、苗の首を斬る。

於是司隸校尉袁紹斬偽司隸校尉樊陵、河南尹許相、勒兵捕諸中官、無少長皆誅之、死者二千餘人。引兵入宮、珪等迫急、複将天子、陳留王夜至小平津、六璽不自隨。是時宮中乱、百官無従者、惟河南部掾閔貢将十餘人従。会尚書盧植至、按剣責珪、珪等涕泣謝罪、又追兵至、珪等白上曰:“臣等死、天下大乱矣。”乃自投於河。辛未、帝還宮、公卿百姓迎於道。並州牧董卓適至、聞帝在外、単騎迎於此芒上。卓与帝言、不能対;与陳留王言、及禍乱之事。卓以王賢、有廃立之意。

是に於て司隸校尉の袁紹 偽の司隸校尉の樊陵・河南尹の許相を斬り、兵を勒して諸中官を捕へ、少長と無く皆 之を誅し、死者二千餘人。兵を引きて宮に入る。珪ら迫ること急なり。複た天子・陳留王を将て夜に小平津に至り、六璽 自ら隨はず。
是の時、宮中 乱れ、百官 従ふ者無く、惟だ河南部掾の閔貢 十餘人を将ゐて従ふ。会々尚書の盧植 至り、剣を按じて珪を責む。珪ら涕泣して謝罪し、又 兵を追ひて至る。
珪ら上に白して曰く、:「臣ら死さば、天下 大いに乱れん」と。乃ち自ら河に投ず。
辛未、帝 宮に還り、公卿・百姓 道に迎ふ。并州牧の董卓 適に至り、帝の外に在るを聞き、単騎にて此芒上に迎ふ。卓 帝に言へども、対ふる能はず。陳留王に言へば、禍乱の事に及ぶ。卓 王を以て賢とし、廃立の意有り。

是日、幸崇徳殿、大赦天下、得六璽、失伝国璽。武猛都尉丁原将河内救何氏、拝執金吾。何進兄弟既死、其部曲無所属、皆帰卓。卓使原部曲司馬呂布尽並其衆、京師兵権惟卓為盛。

是の日、崇徳殿に幸し、天下を大赦し、六璽を得るに、伝国璽を失ふ。武猛都尉の丁原 河内を将ゐて何氏を救ひ、執金吾を拝す。何進の兄弟 既に死し、其の部曲 属する所無く、皆 卓に帰す。
卓 原の部曲司馬の呂布をして尽く其の衆を並せしめ、京師の兵権 惟だ卓のみ盛為り。

是進遣騎都尉太山鮑信募兵、亦適至。信謂紹曰:“卓擁強兵、有異誌、今不早図、将為所製。及初至疲労、襲之可擒也。”紹畏卓、不敢発、信遂還郷裏。

是より先、進 騎都尉の太山の鮑信を遣りて兵を募らしめ、亦 適に至る。信 紹に謂ひて曰く、「卓 強兵を擁し、異志有り。今 早く図らざれば、将に制する所と為らんと。初めて至り疲労するに及び、之を襲ひて擒とす可きなり」と。紹 卓を畏れ、敢へて発せず、信 遂に郷里に還る。

中平六年 秋九月

先六月、雨、至於九月乃止。卓諷有司以久雨免司徒廳宮、司空劉弘、卓代為司徒、假節鉞虎賁。

六月より雨ふり、九月に至りて乃ち止む。卓 有司に諷して久しく雨ふるを以て司徒の廳宮・司空の劉弘を免じ、卓 代はりて司徒と為り、節鉞・虎賁を假す。

癸酉、卓謂司隸校尉袁紹曰:“人主宜立賢明、天下豈有常!毎念霊帝、使人憤毒。今当立董侯、不知能勝史侯否為当?且爾劉氏種不足複遺。”紹曰:“今上未有不善害於天下。若明公違礼、任意廃嫡立庶、四海恐不従明公議也。”卓叱紹曰:“豎子!天下事豈不在我?我欲為之、誰敢不従!”紹横刀長揖曰:“天下健者、豈唯董公!”既出、遂奔冀州。卓以廃帝議示太傅袁隗、隗報如議。

癸酉、卓 司隸校尉の袁紹に謂ひて曰く、「人主 宜しく賢明なるを立つべし。天下 豈に常有らんや。毎に霊帝を念ふに、人をして憤毒せしむ。今 当に董侯を立つべし。能く史侯に勝るを知らざるや否や、当と為すや。且つ爾 劉氏の種 複た遺すに足らず」と。

劉氏なんて飾りです。いや飾りですらない、ゴミです。

紹曰:「今 上 未だ不善にして天下を害すること有らず。若し明公 礼に違ひ、意に任せて嫡を廃して庶を立たば、四海 明公の議に従はざるを恐るなり」と。卓 紹を叱りて曰く、「豎子、天下の事 豈に我に在らざるか。我 之を為さんと欲せば、誰か敢へて従はざる」と。紹 刀を横たへ長揖して曰く、「天下の健なる者、豈に唯だ董公のみならんや」と。既に出で、遂に冀州に奔る。卓 廃帝の議を以て太傅の袁隗に示し、隗 議の如しと報ふ。

九月甲戌、卓大会群臣於崇徳殿、卓曰:“大者天地、其次君臣、所以為治也。今皂帝闇弱、不可奉宗廟、為天下主。今欲依伊尹、霍光故事、立陳留王、何如?”公卿已下皆惶恐、不敢対。盧植〔対曰〕:“按尚書:太甲既立不明、伊尹放之桐宮。又昌邑王立二十七日、罪過幹條、是以霍光廃之。今上富於春秋、行未有失、此〔非〕前事之比也。”卓大怒、欲誅植。議郎彭伯諌曰:“盧尚書海内大儒、天下之望也。今先害之、恐天下震怖。”卓乃止。

九月甲戌、卓 大いに群臣を崇徳殿に会す。卓曰く、「大なる者は天地、其の次は君臣なり。治を為すの所以なり。今 皂帝 闇弱にして、宗廟を奉り天下の主為る可からず。今 伊尹・霍光の故事に依り、陳留王を立てんと欲す。何如」と。
公卿より已下 皆 惶恐して、敢へて対へず。
盧植 対へて曰く、「『尚書』を按ずるに、太甲 既に立ちて不明なれば、伊尹 之を桐宮に放つ。又 昌邑王 立つこと二十七日、罪 幹條に過ぎ、是を以て霍光 之を廃す。今上 春秋に富み、行 未だ失有らず、此れ前事の比に非らず」と。卓 大いに怒り、植を誅せんと欲す。議郎の彭伯 諌めて曰く、「盧尚書 海内の大儒、天下の望なり。今 先に之を害さば、天下の震怖するを恐る」と。卓 乃ち止む。

是日、卓脅太後与群臣廃帝為弘農王。読策、太後流涕、群臣莫敢言。丁宮曰:“天禍漢室、喪乱弘多。昔際仲廃忽立突、春秋善之。今大臣量宜為社稷計、誠合天心、請称萬歳。”太傅袁隗解帝璽綬、立陳留王為皇帝、年九歳。太後遷於永安宮。
袁宏曰:丁宮可謂非人矣、以為雖遇伊尹之事、猶将涕泣而従之、而況陵虐其君而助讚其悪?夫仁義者、人心之所有也。濃薄不同、故有至与不至焉。当其至者、在君親之難、若身首之相衛也。其不至者、猶有児女之愛焉。無情於斯者、不得豫夫人倫矣。

是の日、卓 太后と群臣を脅して帝を廃して弘農王と為す。策を読み、太后 流涕し、群臣 敢へて言ふ莫し。丁宮曰く、「天 漢室に禍し、喪乱 弘く多し。昔 際仲廃忽立突、春秋 之を善しとす。今 大臣 量るに宜しく社稷の計を為すべし、誠に天心に合ひ、萬歳を称へんことを請ふ」と。太傅の袁隗 帝の璽綬を解き、陳留王を立てて皇帝と為す、年は九歳なり。太后 永安宮に遷る。

董卓が『後漢紀』で皇帝を廃立するとき、率先&代表して賛同するのが丁宮。曹操の正妻の丁氏と同族といわれ、丁儀・丁廙とも同族とされるひと。曹操とのつながりを考えると楽しい。『後漢紀』を編纂した袁宏には、「丁宮 人に非ざると謂ふ可し」と批判されてますけど。

袁宏曰く、丁宮 人に非ざると謂ふ可し。以為へらく伊尹の事に遇ふと雖も、猶ほ涕泣するを将て之に従ふ、況んや其の君を陵虐して其の悪を助讚するをや。夫れ仁義は、人心の有する所なり。濃薄 同じからず、故に至と不至と有り。其の至に当たるは、君親の難に在り、身首の相ひ衛るが若きなり。其の不至は、猶ほ児女の愛有るがごとし。斯より無情なるは、夫人の倫を豫るを得ず。

盧植称病而退、従近関出。卓遣人殺之、不及。隠於上穀、数年後疾卒。植字子幹、涿人也。師事扶風馬融、与北海鄭玄友善、所学不守章句、皆研精其旨。身長八尺二寸、剛毅多大節、常喟然有済世之誌、不苟合取容、言論切直、不好文辞、飲酒至一石而不乱。融妃後家絲竹歌舞者不絶於前、植侍坐数年、目未嚐一眄、融以是尤敬異之。学終辞帰、闔門教授、不応州郡之命。建寧中、徴為博士、補九江、廬江太守、為政務在清浄、弘大体而已。病去官、徴拝議郎、与蔡邕、楊彪等並在東観、補続漢紀。植将終、敕其子斂(其)〔具〕単衣、葬以土穴。其子従之。

盧植 病と称して退く。近き関より出づ。卓 人を遣りて之を殺さんとするに、及ばず。隠かに上穀に於いて、数年後 疾みて卒す。
植 字は子幹、涿の人なり。扶風の馬融に師事し、北海の鄭玄と友善し、学ぶ所は章句を守らず、皆 其の旨を研精す。身長は八尺二寸、剛毅にして大節を多とし、常に喟然として済世の志有り、取容を苟合せず、言論は切直、文辞を好まず、飲酒して一石に至るとも乱れず。融の妃の後家 絲竹の歌舞する者 絶へず前にあれども、植 侍坐すること数年、目して未だ嚐て一眄せず、融 是を以て尤も之を敬異す。学は終りて辞帰し、闔門教授、州郡の命に応ぜず。
建寧中、徴して博士と為り、九江・廬江太守に補し、政務を為るに清浄に在り、大体を弘するのみ。病みて官を去り、徴して議郎を拝し、蔡邕・楊彪らと並びに東観に在り、続漢紀を補す。
植 将に終はらんとし、其の子に単衣を斂具し、葬するに土穴を以てせよと敕ず。其の子 之に従ふ。

丙子、太後何氏崩、董卓殺之也。乙酉、司空董卓為太尉。丙申、太中大夫楊彪為司空、豫州牧黄琬為司徒。

丙子、太后の何氏 崩ず。董卓 之を殺すなり。乙酉、司空の董卓 太尉と為る。丙申、太中大夫の楊彪 司空と為り、豫州牧の黄琬 司徒と為る。

中平六年 冬

冬十(一)月乙巳、葬霊思何皇後。白波賊寇河東。十〔一〕月、太尉董卓為相国、爵卓母為池陽君、司徒黄琬為太尉、司空楊彪為司徒、光禄勲荀爽為司空。卓雖無道、而外以礼賢為名、黄琬、荀爽之挙、従民望也。又任侍中周毖、城門校尉伍瓊、沙汰穢悪、顕抜幽滞、於是以尚書韓馥為冀州、侍中劉岱為兗州、陳留孔胄為豫州、潁川張諮為南陽太守、東平張邈為陳留太守。

冬十月乙巳、霊思何皇后を葬る。白波賊 河東を寇す。
十一月、太尉の董卓 相国と為り、卓の母に爵して池陽君と為す。司徒の黄琬 太尉と為り、司空の楊彪 司徒と為り、光禄勲の荀爽 司空と為る。卓 無道なると雖も、外に礼賢を以て名と為し、黄琬・荀爽の挙、民望に従ふなり。又 侍中の周毖・城門校尉の伍瓊を任じ、穢悪を沙汰し、幽滞を顕抜す。是に於て尚書の韓馥を以て冀州と為し、侍中の劉岱を兗州と為し、陳留の孔胄豫州を為し、潁川の張諮を南陽太守と為し、東平の張邈を陳留太守と為す。

初、卓将兵東也、京兆尹蓋勲曰:“貪人敗類、京師其必有変。”乃為之備。及卓廃帝、勲与卓書曰: “昔伊尹、霍光権以立功、人猶寒心、足下小丑、何以堪之?賀者在門、吊者在廬、可不慎哉!”卓得書、甚憚之。時皇甫嵩尚三萬餘人在扶風。勲乃密語嵩、欲討卓。卓亦深忌勲、使人安喻之、因徴勲為議郎。

初め、卓 兵を将ゐて東するや、京兆尹の蓋勲曰く、「人の敗類を貪り、京師 其れ必ず変有らん」と。乃ち之の為に備ふ。卓 帝を廃すに及び、勲 卓に書を与へて曰く、「昔 伊尹・霍光 権りて以て功を立つとも、人 猶ほ心を寒くす。足下 小丑なれば、何を以て之に堪へんをや。賀する者 門に在らば、吊する者 廬に在り、慎む可からんや」と。卓 書を得て、甚だ之に憚る。時に皇甫嵩 三萬餘人を尚して扶風に在り。勲 乃ち密かに嵩に語り、卓を討たんと欲す。

皇甫嵩×蓋勲の物語は、これによってクライマックス。

卓 亦た深く勲を忌み、人をして安んじて之を喻さしめ、因て勲を徴して議郎と為す。160504

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