孫呉 > 呉主伝の決定版をつくる

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第1回 会稽太守・討虜将軍となる

孫策に従軍して県長に

孫權、字仲謀。兄策既定諸郡、時權年十五、以爲陽羨長。
江表傳曰。堅爲下邳丞時、權生、方頤大口、目有精光、堅異之、以爲有貴象。及堅亡、策起事江東、權常隨從。性度弘朗、仁而多斷、好俠養士、始有知名、侔於父兄矣。每參同計謀、策甚奇之、自以爲不及也。每請會賓客、常顧權曰「此諸君、汝之將也。」

孫権、あざなは仲謀。孫策が諸郡を平定すると、孫権が15歳のとき(建安元年=会稽太守の王朗を駆逐した年)に、呉郡の陽羨長となった。呉将の多くは、県の令長としてキャリアをスタートさせる。孫権もその一員。

陽羨県は、呉は呉興郡に属する。孫亮の五鳳二年、陽羨県の離里山で大石が自ら立ち上がった。孫晧の天璽元年、陽羨山で石の空洞が見つかり、石室といわれ、国山(離里山)で封禅をして、天紀と改元した。呉の後期の正統性は、別途検討。

『江表伝』によると、孫堅が下邳丞のとき(霊帝の光和四年、孫堅伝)孫権が生まれた。『宋書』符瑞志によると、孫策が生まれるとき母は月を、孫権が生まれるときは日が入った。孫堅は子孫の繁栄を確信したと。妃嬪伝に引く『捜神記』も同じ逸話を載せる。
孫策が江東で事業を起こすと、孫権はつねに孫策に随従した。つねに参同して計謀し、孫策は奇として「自分は孫権に及ばない」と言った。賓客を集め、常に孫権を顧みて「この諸君は、お前の将である」と言った。
孫策から孫権への政権継承を「結果オーライ」に見せるエピソードであると思われ、趙一清は反論する。孫策の英武が、なぜ孫権に及ばぬものかと。

郡察孝廉、州舉茂才、行奉義校尉。漢以策遠脩職貢、遣使者劉琬、加錫命。琬語人曰「吾觀、孫氏兄弟、雖各才秀明達、然皆祿祚不終。惟中弟孝廉、形貌奇偉、骨體不恆、有大貴之表、年又最壽。爾、試識之。」

呉郡(太守の朱治)が孝廉に察し、揚州(刺史の厳象)は茂才に挙げ、行奉義校尉となる。
朱治伝に「權年十五、治舉爲孝廉」とあり、建安元年に孝廉に挙げられたと分かる。諸葛瑾伝に「吳郡太守朱治、權舉將也」とあり、裏づけられる。
孫策伝に、曹操が「又命揚州刺史嚴象、舉權茂才」とある。厳象が揚州刺史となるのは、袁術が病死した建安四年である。呉主伝は後に建安四年の記事がある。ゆえに孫権は、孝廉が建安元(196)年、茂才が建安四(199)年と決まる。曹操政権は、袁術が死ぬや否や、揚州刺史の権限を行使して、孫氏に働きかけたことが分かる。
孫権の官位は、呉主伝で「行奉義校尉」とするが、孫策伝 注引『呉録』建安四年十二月の上表に「行奉業校尉孫權」と見える。奉義と奉業が異なる。
漢朝は孫策が遠くから職貢を納めたので、劉琬を使者として、錫命を加えた劉琬は人に「孫氏の兄弟のなかで、中弟の孝廉=孫権だけが、長命で栄達する」と予言した。『宋書』符瑞志は、呉主伝に引く『江表伝』に見える孫権の身体的特徴の記事に繋げて、劉琬が孫権の長命を予言したとする。劉琬は、ここ以外に史料が見えず、不詳である。

建安四年、從策征廬江太守劉勳。勳破、進討黃祖於沙羡。五年策薨、以事授權。

建安四年、孫策に従って廬江太守の劉勲、江夏太守の黄祖を討つ。劉表の征伐は、曹操政権の詔に従ったもの。途中で劉勲を攻めたのは、袁術の死を受けた後継者争いで、荊州にいく途中。孫策伝に引く『呉録』より、孫策が黄祖に勝利したのが建安四年十二月と分かる。
建安四年、孫策が荊州を攻めているスキに、広陵太守の陳登が、厳白虎の余党に印綬を与えて、反乱を煽った。建安五年、孫策が広陵を攻める準備をしていると、孫策は死んだ。孫策に先立ち、孫権が広陵に攻めこんだ。
『三国志』呂布伝に引く『先賢行状』に「太祖 登を廣陵太守と爲し、陰かに衆を合せて以て呂布を圖(はか)らしむ。……(建安三年冬)布 既に誅に伏し、登 功を以て加へて伏波將軍を拜す。甚だ江・淮閒の歡心を得たり。是に於いて江南を吞滅するの志有り。(建安五年)孫策 軍を遣はし登を匡琦城に攻む」とある。このとき広陵太守の陳登を、匡琦もしくは射陽で包囲したのが、孫権軍であった。

陳登は、功曹の陳矯を曹操に送り、救援を求めた。巻二十二 陳矯伝に、

郡爲孫權所圍於匡奇、登令矯求救於太祖。矯說太祖曰「鄙郡、雖小形便之國也。若蒙救援使爲外藩、則吳人剉謀、徐方永安、武聲遠震、仁愛滂流。未從之國、望風景附、崇德養威。此王業也」太祖奇矯、欲留之。矯辭曰「本國倒縣、本奔走告急。縱無申胥之效、敢忘弘演之義乎」太祖乃遣赴救。吳軍既退、登多設閒伏勒兵追奔、大破之

とある。陳矯は、孫権に匡琦(位置は諸説あり)を囲まれ、救援を曹操に求めた。「広陵は辺鄙であるが、曹操が味方とすれば外藩となり、呉人を挫ける」と説得。しかし曹操は(要求を聞かず)陳矯を手許に置こうとした。陳登と孫策の抗争は、たがいの利益のための私闘であって、曹操は、片方に味方するメリットがない。孫策に官位を賜与して、味方にした。陳登を救って、孫策と敵対するのは、得策でない。しかも、袁紹との決戦に向けた時期なので、メリットがない出兵は避けたい。
かりに曹操が、「孫策が許都を襲撃するかも知れない」と心配しておれば、陳登と力をあわせて、遠征中の孫策を叩くチャンスを得たのだから、すぐに兵を出しただろう。だが曹操が陳矯を留めて、介入を見送ったことから、孫策を味方と見なしたことが分かる。曹操の参謀のなかには、孫策を危険視する意見もあっただろうが。
陳矯は、かさねて事態の緊急性を強調。曹操が救いに行くと、呉郡が撤退し、陳登が追撃した後だった。恐らく孫策の受傷をもって、孫権軍は撤退し、追撃を受けたのであろう。孫策の死は、単体の事件ではなく、広陵の攻略の失敗、その撤退の失敗、という重大なダメージを孫氏集団に与えた。

討虜将軍・会稽太守となる

權、哭未及息。策長史張昭、謂權曰「孝廉、此寧哭時邪。且、周公立法而伯禽不師。非違父、時不得行也。況、今姦宄競逐、豺狼滿道。乃、欲哀親戚顧禮制、是猶開門而揖盜。未可以爲仁也」乃、改易權服、扶令上馬、使出巡軍。是時、惟有會稽、吳郡、丹楊、豫章、廬陵。然、深險之地猶未盡從。而天下英豪布在州郡、賓旅寄寓之士、以安危去就爲意、未有君臣之固。張昭、周瑜等謂、權可與共成大業故委心而服事焉。

孫策を失い、孫権が哭していると、孫策の長史の張昭が、葬礼の完遂よりもやるべきことがある!と、喪服を脱がせて馬に乗せ、軍を巡察させた。このとき、ただ会稽・呉郡・丹陽・豫章・廬陵のみ領有するが、深険の地は服従しないと。
いま挙がった5郡も、豫章・廬陵は前年に得たばかり。丹陽は、もとは周瑜の従父の周尚が太守であったが、袁胤が代わり、呉景がこれを破って入ったものの、太史慈が起兵して太守を自称するなど、争奪が激しくて安定しない。強兵の産地であり、ねらう群雄は多い。最も古い会稽郡も、まだ4年前に王朗から奪ったばかり。それぞれの太守の政治力&軍事的センスに、完全に委任されており、よこの連帯も期待しにくい。太守同士の関係が悪化したら、アウト。「離反」「謀反」というよりは、「敢えての連帯を中止」というほうが実態に近い。
呉主伝によると、天下の英豪 州郡に布在し、賓旅・寄寓の士、安危・去就をを以て意と爲し、未だ君臣の固有らず。つまり、身の安全を確保してくれる群雄がいれば、いつでも移住する心づもり。孫権を「主」と見なす人は少ない。わずかに張昭・周瑜だけが孫権に期待を寄せる。むしろ、張昭・周瑜が、孫策なき後の孫氏集団を、暫定的な逗留先と見なしているに過ぎない。

張昭・周瑜(だけでも)孫権に期待した理由は、揚州5郡の太守が、孫策をハブにした人的構成であり、孫権がそれを継承し得るからか。会稽は孫策から孫権へ、呉郡は朱治、丹陽は呉景、豫章は孫賁、廬陵は孫輔。
孫呉プロパーに見えがちだが、注意が必要なのは、廬江。前年に劉勲から奪ったばかりで、新任の太守は汝南の李術である。廬江は、かつて孫策が陸康から奪取し、袁術の故吏の劉勲が太守となり、袁術の遺族を収容した地。おそらく経済的に豊か。しかし呉主伝は、廬江を孫氏の領有とカウントしない。李術は、袁術の配下の有力者の一人(劉勲・孫策の同輩か)で、侮りがたい影響力を持つらしい。孫策は、親族を太守に配置するのが基本路線であるが、自ら計略をつかって劉勲から奪ったはずの廬江に、親族を置けなかった。李術の強さが窺われる。

『三国志集解』に引く沈家本の説によると、建安十九(214)年、孫権が皖城を征し、廬江太守の朱光を捕らえた。孫権が李術を破ったが、その地を得られなかった証左であると。盧弼によると、『資治通鑑』は建安五年、孫呉の領土に「廬江」を加えるものの、このとき孫策は、会稽・呉郡・丹陽・豫章の4郡にしか実効支配が及ばない。廬陵は分置しただけ。淮南・廬江・江夏の3郡は、のちに魏・呉で分割したから、陳寿が領土にカウントしなかったのであると。
つまり、会稽の孫権、呉郡の朱治、丹陽の呉景、豫章の孫賁、が実態である。

曹公、表權爲討虜將軍、領會稽太守。屯吳、使丞、之郡行文書事。待張昭以師傅之禮、而周瑜、程普、呂範等、爲將率。招延俊秀聘求名士、魯肅、諸葛瑾等、始爲賓客。分部諸將鎭撫山越、討不從命。

曹操は上奏して、孫権を討虜将軍・領会稽太守とした。孫策の地位を継承することは、内部的には張昭・周瑜の意志であったが、オーソライズしたのは曹操。曹操としては、孫権の実力は未知数であるが、孫策と同じ役割を期待した。つまり、①曹操の敵対者(劉表ら)を攻撃する、②揚州に小康状態をもたらし、背後の脅威を作らない(袁紹との戦いに専念させてほしい)。これらの期待をこめて、討虜将軍・会稽太守を与えた。
孫権は呉郡に屯し、丞を郡にゆかせ、文書事を行わせた。盧弼によると、会稽の治所は山陰県であるが、軍事に利点は、呉郡のほうにある。顧雍伝によると、丞として行太守事をしたのは、顧雍である。孫策伝に引く『呉録』によると、会稽丞は、陸昭から顧雍へと代わったことが分かる。

『呉録』:時有高岱者,隱於餘姚,策命出使會稽丞陸昭逆之,策虛己候焉。つまり、会稽太守の孫策のときは、陸昭が丞であったが、陸昭は、孫策と高岱の間のトラブルに巻きこまれたのか、史料からフェードアウトしてる。

孫権は、本貫の呉郡太守にはなれない。曹操は、孫権などに揚州刺史をプレゼントしたくない(というか、これも三互の法に抵触する)。しかし、最低でも孫権に太守の肩書きがないと、周囲よりも官位が低くなり、指導者になり得ない。などのジレンマの産物。もっとも、孫策が、はじめて自前で(袁術から距離をおいて)制圧したのは会稽郡なので、この肩書きは、政権にとって意味がある。

孫権は、張昭を師傅の礼で待遇し、周瑜・程普・呂範らを将率とした。
張昭伝に「張昭は群僚を率いて輔く」とある。周瑜伝に「周瑜は兵を率いて(孫策の)喪に赴き、呉に留まって中護軍となり、長史の張昭とともに衆事を掌る」とある。周瑜は、建安四年の荊州征伐に従っている。袁術の後継者として、孫策を選んだ(劉勲に勝たせた)のが周瑜といえる。孫策が、袁術・劉繇の遺族や残党を吸収して、トップになったところで死んだ。だから消去法で孫権となった(ライバルを孫策が潰した直後だから、対抗者がちょうどいない)。中護軍の周瑜・長史の張昭が、消去法によって選出された、孫権を支える体制。
『呉録』が載せる、建安四年、孫策が率いた主な部将は、「領江夏太守行建威中郎將周瑜、領桂陽太守行征虜中郎將呂範、領零陵太守行蕩寇中郎將程普、行奉業校尉孫權、行先登校尉韓當、行武鋒校尉黃蓋」である。周瑜・呂範・程普は、荊州の太守の官号を遙領しており、ここに見える呉主伝のメンツと一致。孫権をとばして、韓当・黄蓋と続く。見方を変えれば、すでに揚州のなかで太守として着任した、朱治・呉景・孫賁・孫輔らは、孫権と同格である。会稽太守の孫権のもとで、直属の将として使えるのは、この時点で太守になり損ねている(劉表を討伐したら、荊州で太守を得る予定の)周瑜・呂範・程普である。
孫策にせよ孫権にせよ、征服した地に、自派の人材を配置するという方法では、次々に同輩が成長し、ライバルを作っていくようなもの。のちに荊州に領土を広げたときも、同じことが起きる。やはり(少なくとも、既存の制度のなかでは)州牧としての監察権がほしいなあ、となるわけです。

魯粛・諸葛瑾らを招いて賓客とした。諸将を分部して山越や敵対者を討伐した。とりあえず、呉郡・会稽・丹陽だけでも「開拓」の余地は、呉朝の後期になっても尽きることがない。
孫策は、外征につぐ外征の途中で死んだ。もしも孫策が存命で、外征を休止するなら、孫権と同じように、呉郡にあって、内政に着手しただろう。孫策は人格に欠陥があって嫌われたが、孫権が継承するに至って、孫権の人格を慕って魯粛・諸葛瑾が仕官した――というより、単純に孫策の年表には、その時間がなかった。
孫権としては、当面の潜在的なライバルは、朱治・呉景・孫賁・孫輔となる。孫策から継承した、周瑜・張昭の存在は、圧倒的に有利であるが、朱治らの「主君」になったわけではない。そこで、人材を掻き集めるのでした。

◆張紘伝
張紘伝によると、曹操は伐呉を考えたが、張紘が説得した。

張紘伝:建安四年、策遣紘奉章至許宮、留爲侍御史。少府孔融等、皆與親善。
吳書曰。紘至、與在朝公卿及知舊述策材略絕異、平定三郡、風行草偃、加以忠敬款誠、乃心王室。時曹公爲司空、欲加恩厚、以悅遠人、至乃優文襃崇、改號加封、辟紘爲掾、舉高第、補侍御吏、後以紘爲九江太守。紘心戀舊恩、思還反命、以疾固辭。

建安四年、張紘が許都にゆき、留められて侍御史となる。
虞翻伝に引く『江表伝』に、孫策が虞翻に「博学なあなたに許都に行ってほしいが、あなたに断られたら、張紘を使者にする」という。孫策は虞翻に断られたのである。
孫策伝に引く『江表伝』に、建安三年に孫策は、建安元年に2倍の献上をして、討逆将軍・呉侯にしてもらったと。『通鑑考異』によると、孫策が初めて貢献したのは建安二年である。張紘伝によると、建安四年という。もしも『江表伝』を正しいとするなら、張紘伝の「建安四年」は、「建安三年」とすべきである。云々。

許都で、張紘は、少府の孔融と交友した。
『呉書』によると、張紘が朝廷で「孫策は三郡を平定し、王室に心を寄せる」とアピールした。三郡とは、呉郡・会稽・丹陽であろう。呉郡は漢朝が任じた許貢を朱治が追い出し、会稽は漢朝が任じた王朗から奪った。漢朝にアピールできるのは、袁術派の袁胤から、呉景が丹陽を奪ったことぐらいのはず。盛りすぎ。と言うか、チグハグ。張紘の発言のおかしさが、孫策の一貫性のなさ(袁術から曹操に乗り換えた)を示すし、それを黙って追認した曹操が、実利を優先したことを窺わせる。張紘は、事実を述べているのでなく、「政治的に正しく、都合がよい」ことを述べている。
孫策伝の引く『呉歴』で、張紘が孫策に向け、江東を平定して、漢室に貢献するプランを提示する。「漢室に忠たる孫策」というイメージは、張紘が遡及的に作り出したものであろう。このイメージが必要となり、効果をもち、盛んに言われたのは、建安四年であり、つまり袁術の滅亡後。上記『江表伝』を正しいとして、建安三年と見ても、袁術は衰退しており、事情は同じ。
建安三年(建安四年であっても)張紘は、これから孫策が荊州を攻め、道中で廬江の劉勲を破ることになる征西が始まる前に、呉を出発した。だから「三郡を平定す」という言い方になったと思われる。
曹操は張紘を司空掾とし、高第に挙げ、侍御史に補した。のちに張紘を九江太守としたが、張紘は(孫策の)旧恩を思って、辞退したという。
九江は、郡治が寿春。曹操は、孫策集団の人間を「曹操が」太守に任命することで、自己の勢力圏にしようとした。だって、任命できれば、罷免・異動もできるわけで、それに従う義務を先々に向けて負わせることができ、孫権集団は、ガタガタになる。まさが張紘が、長江の北側の寿春にいて、曹操に不利益・孫権に利益となる行動を、現実的にやれるはずがない。

張紘伝:曹公聞策薨、欲因喪伐吳。紘諫以爲、乘人之喪、既非古義、若其不克成讎棄好、不如因而厚之。曹公從其言、卽表權爲討虜將軍、領會稽太守。曹公欲令紘、輔權內附。出紘爲、會稽東部都尉。

曹操は、孫策が薨じたと聞き、伐呉したい。張紘は「ひとの喪に乗じるのは、古義でない。勝てねば仇敵となり、友好関係がすたれる。厚遇するほうがいい」と言った。そこで曹操は、孫権を討虜将軍・領会稽太守とした。曹操は、張紘が孫権を輔佐しつつ、曹操政権の味方にするよう誘導させたい。張紘を会稽東部都尉として、赴任させた(治所は『三国志集解』張紘伝に注釈あり)。
注意したいのは、張紘が、孫権を、曹操と友「好」的で「内付」した政権にリードしようとしたこと。べつに「呉臣の張紘が、まんまと曹操をだまし、孫権の地位を上昇させ、人質扱いの許都から会稽に脱出した」のではない曹操(漢朝)の意志が、孫権による揚州の安定にあることを、張紘という存在が保証したと言うべき状況。こうして、若き孫権は、曹操の意向のおかげで、自らが他の太守より上位にあるという拠り所を得て、孫策を継承することができた。
逆に見れば曹操は、呉景・朱治らが、かりに自分に反逆しても、孫権が彼らを牽制して、曹操派に留める役割を期待した。それが、討虜将軍・会稽太守という、分不相応な厚遇の理由である。

張紘伝 注引『呉書』:權初承統、春秋方富、太夫人以方外多難、深懷憂勞、數有優令辭謝、付屬以輔助之義。紘輒拜牋答謝、思惟補察。每有異事密計及章表書記、與四方交結、常令紘與張昭草創撰作。紘以破虜有破走董卓、扶持漢室之勳。討逆平定江外、建立大業、宜有紀頌以昭公義。既成、呈權、權省讀悲感、曰「君真識孤家門閥閱也。」乃遣紘之部。或以紘本受北任、嫌其志趣不止於此、權不以介意。

孫権が継承したとき、太夫人(母の呉氏)は、張紘を頼った。張紘と張昭は、四方に送る文書を書いた。つまり孫権集団は、単独で成り立つのでなく、周囲の群雄(というより太守)との関係により、成り立っていた。もちろん、最重要なのは、曹操との関係。
張紘は、孫堅が董卓を破ったことを、漢室に対する勲功と(読み替えを)した。孫策の軍功を記録してほめた。孫権は読んで感動し「わが一族のことを、本当によくご存知だ」と言った。張紘が、中原に帰るつもりと言う人もいたが、孫権は気にせず。

『呉書』:初、琅邪趙昱爲廣陵太守、察紘孝廉、昱後爲笮融所殺、紘甚傷憤、而力不能討。昱門戶絕滅、及紘在東部、遣主簿至琅邪設祭、幷求親戚爲之後、以書屬琅邪相臧宣、宣以趙宗中五歲男奉昱祀、權聞而嘉之。及討江夏、以東部少事、命紘居守、遙領所職。……

かつて張紘は、広陵太守の瑯邪の趙昱に孝廉に察せられた。趙昱が笮融に殺された(劉繇伝に見える)。張紘は会稽東武都尉に着任すると、主簿を遣わして瑯邪で祭りを行わせ、瑯邪相の臧宣に頼んで、趙昱の子孫に祭祀を継承させた。江夏を討つに及び……後述。

廬江太守の李術を殺す

江表傳曰。初策表用李術爲廬江太守、策亡之後、術不肯事權、而多納其亡叛。權移書求索、術報曰「有德見歸、無德見叛、不應復還。」權大怒、乃以狀白曹公曰「嚴刺史昔爲公所用、又是州舉將、而李術凶惡、輕犯漢制、殘害州司、肆其無道、宜速誅滅、以懲醜類。今欲討之、進爲國朝掃除鯨鯢、退爲舉將報塞怨讐、此天下達義、夙夜所甘心。術必懼誅、復詭說求救。明公所居、阿衡之任、海內所瞻、願敕執事、勿復聽受。」是歲舉兵攻術於皖城。術閉門自守、求救於曹公。曹公不救。糧食乏盡、婦女或丸泥而吞之。遂屠其城、梟術首、徙其部曲三萬餘人。

呉主伝に戻り、注引『江表伝』によると、李術は孫策が死去すると、孫権に従わず人々や、孫権から離れて背いた人々を、李術が吸収した。袁術の後継者をめぐる戦争が再開された、と評価できるでしょう。
孫権が文書をまわして、離反者を探し求めると、李術は「徳があれば帰順し、徳がなければ離反する。あんたの所には帰って来ないよ」と。つまり、もと袁術・劉繇に帰属した人々が、孫策の死を見て、李術を頼ったのである。
孫権は大怒して、曹操にチクった。「揚州刺史の厳象は、曹公が任用した人で、私の挙将(茂才に挙げてくれた)だが、李術は凶悪で、漢制を軽犯し、厳象を殺害した。すみやかに誅滅すべきだ」と。この年、孫権は李術を皖城に攻めた、李術は閉門して、曹操に救いを求めたが、曹操は救わず。糧食が尽き、孫権は李術を梟首して、部曲3万余人を強制移住させた。
孫韶伝 注引『呉書』によると、孫河は、孫権に従って李術を討伐し、孫河が廬江太守となった。孫策の路線の継承である。

孫策伝で、孫策が黄祖を討伐する道すがら、廬江で劉勲を破ったとあるが、実際は、それほど孫策の功績が大きくないか、孫策が占領する余力がないか、だったのかも。


李術は(形式的には)孫策の意向で廬江太守となり、孫権に殺された。「厳象殺害の罪をなすられた」という解釈も成り立つ。しかし、李術を、もと袁術集団で、孫策への対抗勢力と捉えたらどうか。孫策・孫権は、曹操に接近した。というか、孫策の死というピンチにより、孫氏は曹操への依存度をいっそう高めた
しかし、旧袁術派が、すべて曹操派になるとも限らない。李術は、孫策とは別の仕方で、袁術の後継者になろうとした。つまり、曹操から独立した勢力を揚州に再建すべく、曹操の送った刺史である厳象を殺したと。べつに「袁術を復興」するのが目的ではなかろうが、「曹操を頼る孫氏と、距離を置いた集団」くらいなら、充分に目指せる余地がある。孫策は、揚州に敵が多そうだし。
曹操が、孫権vs李術という、「ポスト袁術」の抗争に参加しないのは、袁紹と戦っていて余力がないことに加え、私闘に肩入れするメリットがないから。さらに、献帝の詔書という得がたいカードを得たのだから、兵を出さずに各地の情勢を操って初めて、その効果を発動させたことになる。なお、劉勲・李術ら、孫策・孫権に敗れたひとは、とりあえず曹操を頼るが、それは「仲裁を期待した」とか「中央に帰任した」くらいの意味であり、曹操の陰謀を想定する必要はないと考える。

まとめ。孫策が死に、孫氏集団は動揺した。張紘が「孫権に継承させると、曹操にも利益がある」と説明して、孫権が太守・将軍となった。曹操のおかげで孫権の継承が成り立った。孫策の死により、旧袁術集団の後継者の地位を、李術に掠われそうになったが、なんとか持ち堪えたというところ。次回に続く。170104

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第2回 劇県の山越を討伐する

母の呉氏と、呉景が死去する

七年權母、吳氏薨。八年權、西伐黃祖。破其舟軍、惟城未克、而山寇、復動。還過豫章、使呂範平鄱陽會稽、程普討樂安、太史慈領海昏。韓當、周泰、呂蒙等、爲劇縣令長。

建安七年、孫権の母の呉氏が薨じた。建安八年、西のかた黄祖を伐つ。舟軍(水師・水軍)を破るが、(江夏太守の治所である)城を抜くには至らず。山越がまた動く。胡三省によると、丹陽・豫章・廬陵に山越がいる。孫権の領土6郡の後進性を示す。荊州から還って豫章を過ぎり、呂範に鄱陽(豫章郡)と会稽を平定させた。『続郡国志』劉昭注によれば、建安十五(210)年、孫権は豫章郡を分けて、鄱陽郡を鄱陽県に立てる。
ただし呂範伝によると、呂範が鄱陽県を平定するのは、建安四年に孫策に従軍したとき。呂範伝に「拜征虜中郎將,征江夏,還平鄱陽。策薨,奔喪于吳。後權複征江夏,范與張昭留守」とある。
また胡三省によれば「会稽」は衍字である。盧弼も、会稽は先に孫策が平定しており、改めて平定するのはおかしいという。しかし、鄱陽・会稽の山越が、孫策の死後にふたたび活動したと考えれば、おかしくはない。呉主伝を誤りとは言えない。

程普に楽安(豫章郡から鄱陽郡に移る)を討たせ、太史慈に海昏を討たせた。韓当・周泰・呂蒙らを、劇県(山越がいて難治の県)の令長とした。沈家本によると、韓当は楽安長、周泰は宜春長、呂蒙は広徳長であるが、この建安八年の1年以内の平定・任命ではなかろうと。盧弼によると、賀斉は建安・漢興・南平県を平定したことが、賀斉伝に見える。
さらに『資治通鑑』は、黄蓋伝を接続する。黄蓋は山越がいて治めにくい、石城県・春穀県・尋陽県ら9県の長官をつとめて県政を正し、丹楊都尉に移ったという。
沈家本が言うように、孫権が孫策を嗣いで、赤壁を迎えるまでに、呉将たちが取り組んだことを、時系列にこだわらず書いたと思われる。呉将は、県の令長となり、山越を平定するというのが主な仕事だった。孫権集団は、望むと望まざると、曹操政権の外注先として、漢の境界線を守り、ときには広げ、曹操が袁紹とその子を駆逐するのを待つことになった。

九年權弟、丹楊太守翊、爲左右所害。以從兄瑜、代翊。

建安九年、孫権の弟の丹陽太守の孫翊が、左右に殺害された。従兄の孫瑜を、代えて丹陽太守とした。
孫翊伝によると、建安八年、孫翊は20歳で丹陽太守となり、にわかに左右の辺洪に殺害された。孫韶伝に引く『呉歴』に見える。孫権の兄弟は4名で、孫策・孫翊・孫匡はいずれも早死にした。(曹操の使者)劉琬の言うとおりとなった。

◆呉景伝

及權少年統業、夫人助治軍國、甚有補益。建安七年臨薨、引見張昭等、屬以後事。合葬高陵。
會稽典錄曰。策功曹魏騰、以迕意見譴、將殺之、士大夫憂恐、計無所出。夫人乃倚大井而謂策曰「汝新造江南、其事未集、方當優賢禮士、捨過錄功。魏功曹在公盡規、汝今日殺之、則明日人皆叛汝。吾不忍見禍之及、當先投此井中耳。」策大驚、遽釋騰。夫人智略權譎、類皆如此。
志林曰。按會稽貢舉簿、建安十二年到十三年闕、無舉者、云府君遭憂、此則吳后以十二年薨也。八年九年皆有貢舉、斯甚分明。

孫権が継承すると、呉夫人が軍事・国政を助けた。
『三国志集解』呉夫人伝により、呉夫人の経営ぶりを確認できる。周瑜伝に引く『江表伝』に、曹操が袁紹を破ると、建安七年、孫権に任子を要求した。孫権は郡臣と会議したが結論が出ず(郡臣は任子を出せというが孫権は賛同しかねて)周瑜だけを連れて呉夫人と話しあい、任子を送らぬことを決めた。張紘伝に引く『呉書』によると、呉夫人は張紘に輔佐を依頼し、張紘は丁重にお返事を書いた。張昭伝によると、「むかし孫策と呉夫人が私に託してくれたから、私は臣節を尽くすのです」という。董襲伝によると、孫権が継承したとき年少なので、張昭および董襲に引見し、江東の存否を問うた。
建安七年、呉夫人が薨じるとき、張昭らに後事を託した。このことが、張昭が孫権に対して、強気に出る原因となる。「母に任されたので」と言うようになる。
『会稽典録』によると、孫策の(会稽太守としての)功曹の魏騰(『太平御覧』は魏勝に作り、呂範伝は魏滕に作るが、エピソードは同じ)は、孫策に逆らって殺されそう。呉夫人は大井によって、「江南は新たに平定したばかりで不安定。名士を招くべき。しかし今日 魏騰を殺せば、明日には皆が背くだろう。それだったら井戸に落ちて自殺する」という。孫策は驚いて魏騰を許した。呉夫人が政権維持のために知略を発揮するのは、このようであったと。
『志林』によると、会稽の貢挙簿によると、建安十二年から十三年まで、推挙されたものがない。府君(孫権)に不幸があった証左であり、呉夫人が薨じたのは建安十二年であろうと。
『三国志集解』呉夫人伝に引く梁商鉅の説によると、『志林』を支持すれば、すぐ後ろにある「建安八年に呉景が死んだ」も誤りとなる。しかし盧弼は、呉主伝に建安七年に呉夫人が薨じたとし(呉夫人伝が誤りでない)とする。
呉景が建安八年に死なないと、孫翊が丹陽太守となれず、建安九年に殺害され得ない。呉夫人が建安七年に薨じ、呉景が建安八年に死んで、呉氏の勢力が衰えた、というストーリーで良いだろう。『志林』のような状況証拠だけで、呉主伝・呉夫人伝を退ける必要はない。

◆宗室 孫翊伝

孫翊伝:孫翊、字叔弼、權弟也、驍悍果烈、有兄策風。太守朱治舉孝廉、司空辟。建安八年、以偏將軍、領丹楊太守、時年二十。後、卒爲左右邊鴻所殺。鴻亦卽誅。
典略曰。翊名儼、性似策。策臨卒、張昭等謂策當以兵屬儼、而策呼權、佩以印綬。
吳歷載翊妻徐節行、宜與媯覽等事相次、故列於後孫韶傳中。

孫翊は、孫権の弟で、孫策の風がある。呉郡太守の朱治は孝廉に挙げ、曹操の司空府に辟された。建安八年、偏将軍となり、丹陽太守を領した。
孫権と同じく将軍+太守であるが、孫権と差をつけるために「偏将軍」という低位の号を与えられた。曹操は、官位をあやつって「孫権を活かさず殺さず」にしたい。とりあえず、孫権と孫翊を抗争させる意図はなかったようである。
孫権から見れば、前任の丹陽太守であった呉景(建安八年に死去)は、おじで格上であり、揚武将軍の号を持ったので、孫権の中央集権にはジャマであった。たとえば後漢では幼帝のとき、皇太后の一族が仕切った。皇帝の場合、君主の姓が固定されているから、乗っ取られる心配はないが(それでも王莽のように乗っ取る人はいたが)孫権の場合、そのまま呉郡呉氏の政権に移行するリスクもあった。母の呉夫人がいないと、孫権集団は立ち抜かないものの、呉氏は、潜在的な脅威ではあった。それを、丹陽太守を孫翊に置き換えることで、とりあえず扱いやすくなった。
のちに孫翊は、左右の辺鴻に殺され、辺鴻もその場で誅された。
『典略』によると、孫策が死にかけたとき、張昭らは孫策に「兵を孫翊(改名前の孫儼)に属させよ」と言ったが、孫策は孫権を呼び、印綬を佩かせた。孫策に従ってきた張昭は、孫策の代わりが務まるのは、孫策と同類の孫翊であると考えたが、孫策は(なぜか)孫権を後継者に指名したという話。出典が『典略』なので、中原にまで聞こえた話か。この話に依れば、「孫権でなく孫翊」という意見が集団のなかにあったかも知れない。孫氏集団のトップが孫権でない可能性が、大きかった。まだ若くて実績に乏しいから、孫権が孫翊より有利なのは、曹操から与えられた官位のみ。張昭の支持ですら、はじめは孫翊だったのだから。
『呉歴』によると、孫翊の妻の徐氏と媯覧の話は、孫韶伝に見える。

◆宗室 孫瑜伝

瑜、字仲異、以恭義校尉、始領兵衆。是時、賓客諸將多江西人。瑜、虛心綏撫、得其歡心。建安九年、領丹楊太守、爲衆所附至萬餘人。加、綏遠將軍。十一年、與周瑜、共討麻保二屯、破之。

孫静の子である孫瑜は、恭義校尉となり、初めて兵衆を領した。孫呉に恒例の、雑号将軍・雑号中郎将・雑号校尉のたぐい。賓客・諸将は、おおくが江西の人なので、孫瑜は虚心に綏撫して、歓心を得た。建安九年(孫翊の死を受けて)丹陽太守を領し、万余人が付いてきた。綏遠将軍を加えられた。胡三省によると、『宋書』百官志に、魏が置いた将軍四十号の十四位に綏遠がある。ただし、ここでは偶然の一致であろう。 建安十一(206)年、周瑜とともに麻保の二屯を破った。『水経注』江水に、白沙屯があり、沙屯ともいい、麻屯口のことであると。盧弼によると、建安十五年、周瑜は水軍を率いて夏口にゆく。『蜀志』先主伝に引く『献帝春秋』にも見える。

◆呉主伝 注引『呉歴』沈友伝

呉主伝 注引 吳錄曰。是時權大會官寮、沈友有所是非、令人扶出、謂曰「人言卿欲反。」友知不得脫、乃曰「主上在許、有無君之心者、可謂非反乎?」遂殺之。友字子正、吳郡人。年十一、華歆行風俗、見而異之、因呼曰「沈郎、可登車語乎?」友逡巡卻曰「君子講好、會宴以禮、今仁義陵遲、聖道漸壞、先生銜命、將以裨補先王之教、整齊風俗、而輕脫威儀、猶負薪救火、無乃更崇其熾乎!」歆慚曰「自桓、靈以來、雖多英彥、未有幼童若此者。」弱冠博學、多所貫綜、善屬文辭。兼好武事、注孫子兵法。又辯於口、每所至、衆人皆默然、莫與爲對、咸言其筆之妙、舌之妙、刀之妙、三者皆過絕於人。權以禮聘、既至、論王霸之略、當時之務、權斂容敬焉。陳荊州宜幷之計、納之。正色立朝、清議峻厲、爲庸臣所譖、誣以謀反。權亦以終不爲己用、故害之、時年二十九。

孫権が官僚を大会したとき、沈友は(政権の経営に関する)是非を論じた。孫権は、人をつかって沈友を退席させ、「沈友が謀反しそうという話もある」と言った。沈友は逃れられないと考え、「主上が許都にいるのに、ないがしろにする心を持つ者(孫権)は、謀反ではないと言えるのか」と反論した。孫権は沈友を殺した。
『三国志集解』呉主伝によると、沈友の死は、建安九年で、二十九歳であった。この時期、孫権は、周瑜・呉夫人と話して、任子を送らなかった。確かに、曹操に全面的な服従をしたとは言えない。しかし、孫権の権力の源泉は、曹操のくれた官位であり、これが剥奪されると、親族の孫氏ですらライバルになり得る状況。沈友の発言は、孫権の権力の正統性の、もっとも痛いところを突いており、だから、沈友を殺して口を封じた。
沈友は、呉郡のひと。十一歳のとき、華歆に見出され、「桓霊より以来、こんな優れた若者はいない」と絶賛した。沈友の没年から遡ると、華歆との出会いは、霊帝の中平三(186)年である。盧弼によると、文中で華歆が「桓霊より以来」というが、霊帝期にこのセリフが出るのはおかしい。しかし、華歆伝によると、霊帝期に華歆は呉郡に来ている。『呉録』のこのセリフだけを除くのがよいか。
沈友は『孫子兵法』に注釈を付け、筆・舌・刀がひとよりも優れた。孫権は礼をもって招き、王覇の略・当時の務を聞き、孫権は敬意をもって教えを受けた。このあたり、魯粛の戦略に耳を傾けたときと同じであろう。荊州を併合すべきだと述べ、孫権はそれを採用した。ただし、荊州の攻撃は、孫策の代からの事業であり、曹操の詔も受けていたから、沈友の独創とは言いがたい。沈友は、つまらぬ人々にそしられ、謀反すると誣告され、孫権は、沈友が最後には自分の部下に収まらないと考え、殺害した。このあたり、名士に対する残虐性は孫策ゆずりであり、曹操に対する半独立の歯がゆさ・政権基盤の複雑さが、早くも表出している。

黄祖を討ちとる

十年權使賀齊、討上饒。分爲、建平縣。

建安十(205)年、賀斉に、上饒を平定させ、建平県を置いた。
『三国志集解』によると、『晋書』地理志には、建平県はない。『宋書』では鄱陽郡に置かれ、呉が立てたとする。どうも存在がよく分からない県。

呉主伝は載せないが、建安十一年、麻・保の二屯を撃った。周瑜伝・孫瑜伝に見える。というわけで、放置していた周瑜伝に目を配る。

◆周瑜伝

五年、策薨、權統事。瑜、將兵赴喪、遂留吳。以中護軍、與長史張昭、共掌衆事。
江表傳曰。曹公新破袁紹、兵威日盛、建安七年、下書責權質任子。權召羣臣會議、張昭、秦松等猶豫不能決、權意不欲遣質、乃獨將瑜詣母前定議、瑜曰「昔楚國初封於荊山之側、不滿百里之地、繼嗣賢能、廣土開境、立基於郢、遂據荊楊、至於南海、傳業延祚、九百餘年。今將軍承父兄餘資、兼六郡之衆、兵精糧多、將士用命、鑄山爲銅、煮海爲鹽、境內富饒、人不思亂、汎舟舉帆、朝發夕到、士風勁勇、所向無敵、有何偪迫、而欲送質?質一入、不得不與曹氏相首尾、與相首尾、則命召不得不往、便見制於人也。極不過一侯印、僕從十餘人、車數乘、馬數匹、豈與南面稱孤同哉?不如勿遣、徐觀其變。若曹氏能率義以正天下、將軍事之未晚。若圖爲暴亂、兵猶火也、不戢將自焚。將軍韜勇抗威、以待天命、何送質之有!」權母曰「公瑾議是也。公瑾與伯符同年、小一月耳、我視之如子也、汝其兄事之。」遂不送質。

孫策が死ぬと、周瑜は兵をひきいて孫策の喪に赴き、呉郡に留まった。中護軍となり、長史の張昭とともに衆事を掌った。
『江表伝』によると、建安七年、曹操が文書をくだして孫権に任子を求めた。張昭・秦松らは決めかね、孫権は任子を送りたくない。孫権は周瑜を母の前に連れて行く。周瑜は「孫権は、孫堅・孫策の事業を嗣ぎ、六郡の衆を合わせ、兵員も糧秣も豊かである。これは春秋戦国の楚よりも有利な出発である。もし任子を送れば、曹操に同調せざるを得ず、軍役に駆り出され、独立性が失われる。もしも曹操に従えば、侯の印1つ、従僕10余人、車を数乗、馬を数匹もらえるだけ。南面している現状と比べると、格段に待遇が落ちるもし曹操が正義を実践するなら、それから臣従しても遅くない。もし曹操が暴乱をはかって、兵火が続くならば、自滅するでしょう。人質を出す必要はない」と。孫権の母は賛成した。

孫権集団で、曹操への敵意を唱えているのは、周瑜だけである。6年後の赤壁の戦いでも、けっきょくは周瑜がひとりで戦った。廬江周氏は影響力が甚大!と言うことができるが、それって孫権集団の性質とは言いがたい。周瑜の死後、孫権集団が、どのように変遷していくか注目が必要。
胡三省は、この周瑜のセリフを「時に相ひて動く」ものと評価する。しかし周瑜の言葉は(日和見により)大義に悖ることはなく、魯粛・呂蒙のやからでは及ばない!という。『通鑑輯覧』によると、周瑜だけが一貫した意見をもち、もし周瑜が死なねば、東呉は曹操に対して、称臣して任子を送る議論もなかったはずだと。
ただし、孫権が一貫して曹操に敵対したら、もっと早くに政権が滅びていた可能性も、忘れるべきではないかと。曹操なしの孫権集団というのは、とくに赤壁までは想定しづらい。周瑜が少数派で良かったね、という側面もあるはず。

いちおう「孫権は人質を送りたくないけど」という心境が書かれているが、張昭・秦松を撥ねのけられないのだから、なんの歴史的な意義もない。赤壁のときも、孫権は本心では曹操と戦いたいが、という描かれ方がするが、やはり政権運営にとって、そんな「秘めたる思い、実現しない夢」なんてのは、ないも同じ。逆に言えば、現実に影響を与えていないのだから、歴史家が描写するのも自由。なにを書いたって、史実に抵触することがないのだから、ズルい領域である。
ここで確認できたのは、孫策の死後、孫権集団を主宰した周瑜・張昭のうち、張昭は一貫して曹操に従い、周瑜は早くから曹操に背く準備があった。孫策の時代、ばたばたして、周瑜の意志が全面に出ることはなかったが、とりあえず曹操を暫定的に支持した(孫策が曹操に接近するのを妨げなかった)。この建安七年、曹操に対する態度は保留だが、回収が不能になる人質に関しては、選択権を残すために拒否。建安十三年、曹操を「漢賊」と位置づけて開戦!という流れ。

盧弼によると、建安七年、曹操は袁紹を破って、このたび任子を要求した。これより建安十二年(赤壁の前年)まで、袁譚・袁尚と連戦して、呉に介入する余裕がない。河北を平定して、初めて兵を南下させた。孫権のことを度外において(忘れていた)わけではない。

周瑜伝:十一年。督孫瑜等、討麻保二屯、梟其渠帥、囚俘萬餘口、還備官亭。江夏太守黃祖、遣將鄧龍、將兵數千人、入柴桑。瑜、追討擊、生虜龍、送吳。十三年春、權討江夏、瑜爲前部大督。

建安十一年、周瑜は、孫瑜らを督して、麻・保を討伐して、渠帥を梟首して、1万余口の人口を得て、官亭を設置した。麻・保は孫瑜伝を参照とのことだが、いまいち有益な情報が拾えず。今回のように、独立した居住区に軍隊を入れて、人口を接収していくというのが、この時期の孫権集団の重点的な取り組み。
趙一清によると、「官亭」は「宮亭」に作るべきで、宮亭湖のことだという。しかし、支配するための役所を設置した、という意味ではなかろうか。
江夏太守の黄祖は、鄧龍に数千をひきいさせ、柴桑に入った。周瑜はこれを追討して、鄧龍を生け捕って、呉に送った。このように周瑜は、揚州の開拓をしつつ、群雄レベルの戦いの相手は、もっぱら劉表(の将の黄祖)である。曹操は、断続的に本拠地を留守にしたが、呉は一度も攻める気配すらない。やはり、曹操と親和的な政権であったと見なすべきであろう。もっとも曹操に敵対的な周瑜ですら、曹操の真価を見極めましょうと、さっき『江表伝』で言った。北伐するには至らない。

曹操は、袁譚・袁尚と長期間にわたって戦うが、呉で「曹操の背後を衝け」という議論は起きない。急先鋒の周瑜が保留、魯粛が無視を唱えたくらい。それ以外は、「曹操にオーソライズした孫権」に従っているだけ。周瑜が赤壁開戦を決意した理由は、建安十三年の曹操の政策(丞相となり、孔融を殺す)に求めるしかない。曹操は、南征を先にして、官制の変更を後にすれば、天下を平定できたのではないか。

建安十三年、孫権が江夏を討つと、周瑜は前部大督となった。盧弼によると、出征のときだけに置かれ、常設ではない。

◆再び呉主伝

十二年、西征黃祖、虜其人民而還。 十三年春權、復征黃祖。祖、先遣舟兵拒軍。都尉呂蒙、破其前鋒。而淩統、董襲等、盡銳攻之、遂屠其城。祖、挺身亡走、騎士馮則、追梟其首。虜其男女數萬口。是歲、使賀齊、討黟歙。分歙、爲始新、新定、犂陽、休陽縣。以六縣爲新都郡。
吳錄曰。晉改新定爲遂安。吳錄曰。晉改休陽爲海寧。

建安十二年、黄祖を攻めて、人民を捕らえて還った。
建安十三年春(甘寧の計略を用いて)ふたたび黄祖を攻めた。黄祖は、水軍を出して防ぐ。平北都尉の呂蒙が、黄祖の前鋒を破った。呂蒙伝によると、都督の陳就の首を取った。凌統・董襲らが、江夏の城をほふる。黄祖が舟をとどめて沔口を塞いだことは、董襲伝に見える。黄祖は逃げた。騎士の馮則が、追って首を取った。男女数万口を捕らえた。
この年、賀斉に黟・歙(孫策伝に引く『江表伝』に見える)を討伐した。歙県を分けて、始新・新定・犂陽・休陽県を作った。この6県を新都郡とした。賀斉伝によると、賀斉は始新を治所として、新都太守となった。『呉録』は、晋代に新定県が遂安県となり、休陽県が海寧県になったという。なお晋代、いま置かれた新都郡は、新安郡になるという。

このように、山越や不服従を討伐して、開拓することで郡を作り、自派の人物を太守として配置していく。後漢からある城を奪い合うよりも「生産的」なのが、この時期の呉。すなわち、李術を倒して、孫権が地位を確立してから、曹操の南下が聞こえてくるまでの、200年から208年。
曹操と戦うことはなく(戦う理由もなく)、山越を開拓して、郡県を増やした。敵は江水の上流にいる黄祖に絞りこみ、しかもその黄祖は「孫堅の仇」という意義もある。この時期の呉が、じつはもっとも充実した時期(のひとつ)だったのではないか。曹操・劉備と抗争するようになると、史料の分量は増えるけれども、それは通史的に見れば、単なる消耗戦である。170104

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荊州牧劉表、死。魯肅、乞奉命弔表二子、且以觀變。肅未到、而曹公已臨其境、表子琮舉衆以降。劉備、欲南濟江、肅與相見。因、傳權旨、爲陳成敗。備、進住夏口、使諸葛亮詣權。權、遣周瑜程普等、行。是時、曹公新得表衆、形勢甚盛。諸議者、皆望風、畏懼、多勸權迎之。註04-03惟瑜肅、執拒之議、意與權同。瑜普、爲左右督、各領萬人、與備俱進、遇於赤壁、大破曹公軍。公、燒其餘船、引退、士卒飢疫、死者大半。備瑜等、復追至南郡。曹公遂北還、留曹仁徐晃於江陵、使樂進守襄陽。時、甘寧、在夷陵、爲仁黨所圍。用呂蒙計、留淩統以拒仁、以其半救寧、軍以勝反。權、自率衆、圍合肥、使張昭攻九江之當塗。昭兵不利、權攻城踰月不能下。曹公、自荊州還、遣張喜將騎赴合肥。未至、權退。 十四年。瑜、仁、相守歲餘所殺傷甚衆。仁、委城走。權、以瑜爲南郡太守。劉備、表權行車騎將軍、領徐州牧。備、領荊州牧、屯公安。 十五年、分豫章、爲鄱陽郡。分長沙、爲漢昌郡。以魯肅、爲太守、屯陸口。 十六年。權、徙治秣陵。明年、城石頭。改秣陵爲建業。聞曹公將來侵、作濡須塢。 十八年正月、曹公攻濡須、權與相拒月餘。曹公、望權軍、歎其齊肅、乃退。註05-01初、曹公恐、江濱郡縣爲權所略、徵令內移。民轉相驚、自廬江、九江、蘄春、廣陵、戶十餘萬皆東渡江。江西、遂虛、合肥以南惟有皖城。 十九年五月、權征皖城。閏月、克之、獲廬江太守朱光及參軍董和、男女數萬口。是歲、劉備定蜀。權、以備已得益州、令諸葛瑾、從求荊州諸郡。備不許、曰「吾、方圖涼州。涼州定、乃盡以荊州與吳耳」權曰「此、假而不反。而欲以虛辭引歲」遂、置南三郡長吏。關羽、盡逐之。權大怒、乃遣呂蒙督鮮于丹、徐忠、孫規等、兵二萬取長沙、零陵、桂陽三郡。使魯肅、以萬人屯巴丘、註06-01以禦關羽。權、住陸口、爲諸軍節度。蒙到、二郡皆服、惟零陵太守郝普、未下。會備到公安、使關羽將三萬兵至益陽。權乃召蒙等、使還助肅。蒙、使人誘普。普降、盡得三郡將守。因、引軍還、與孫皎潘璋幷魯肅兵並進、拒羽於益陽。未戰、會曹公入漢中。備、懼失益州、使使求和。權、令諸葛瑾、報、更尋盟好。遂分荊州、長沙、江夏、桂陽以東屬權。南郡、零陵、武陵以西屬備。備歸、而曹公已還。權反自陸口、遂征合肥。合肥未下、徹軍還。兵皆就路、權與淩統甘寧等在津北、爲魏將張遼所襲。統等以死扞權、權乘駿馬越津橋得去。註06-02 二十一年冬、曹公次于居巢、遂攻濡須。 二十二年春、權令都尉徐詳、詣曹公請降。公、報使脩好。誓重結婚。 二十三年十月。權、將如吳、親乘馬、射虎於庱亭。註07-a馬、爲虎所傷。權投以雙戟、虎卻廢、常從張世、擊以戈、獲之。 二十四年、關羽圍曹仁於襄陽。曹公遣左將軍于禁、救之。會漢水暴起、羽以舟兵、盡虜禁等步騎三萬、送江陵。惟城未拔。權、內憚羽、外欲以爲己功。牋與曹公、乞、以討羽自效。曹公、且欲使羽與權相持以鬭之、驛傳權書、使曹仁以弩射示羽。羽、猶豫、不能去。閏月、權征羽、先遣呂蒙襲公安、獲將軍士仁。蒙到南郡、南郡太守麋芳、以城降。蒙、據江陵、撫其老弱、釋于禁之囚。陸遜、別取宜都、獲秭歸、枝江、夷道、還屯夷陵、守峽口以備蜀。關羽、還當陽、西、保麥城。權使、誘之。羽、偽降、立幡旗爲象人於城上、因遁走。兵皆解散、尚十餘騎。權、先使朱然潘璋、斷其徑路。十二月、璋司馬馬忠、獲羽及其子平、都督趙累等、於章鄉。遂定荊州。是歲大疫、盡除荊州民租稅。曹公、表權爲驃騎將軍、假節、領荊州牧、封南昌侯。權、遣校尉梁寓、奉貢于漢。及令王惇、市馬。又遣朱光等、歸。註08-01 二十五年春正月、曹公薨。太子丕、代爲丞相魏王、改年爲延康。秋、魏將梅敷、使張儉求見撫納。南陽、陰、酇、筑陽、註09-a山都、中盧、五縣民五千家來附。冬、魏嗣王稱尊號、改元爲黃初。二年四月、劉備稱帝於蜀。註09-01權、自公安、都鄂、改名武昌。以武昌、下雉、尋陽、陽新、柴桑、沙羨、六縣爲武昌郡。五月建業言、甘露降。八月、城武昌。下令諸將曰「夫、存不忘亡、安必慮危、古之善教。昔、雋不疑、漢之名臣、於安平之世而刀劍不離於身。蓋、君子之於武備不可以已。況今、處身疆畔、豺狼交接、而可輕忽不思變難哉。頃聞、諸將出入、各尚謙約、不從人兵。甚非備慮愛身之謂。夫、保己遺名以安君親、孰與危辱。宜深警戒、務崇其大。副孤意焉」自魏文帝踐阼、權使命稱藩、及遣于禁等還。十一月、策命權曰「蓋、聖王之法、以德設爵、以功制祿。勞大者祿厚、德盛者禮豐。故、叔旦有夾輔之勳、太公有鷹揚之功、並啓土宇、幷受備物、所以表章元功。殊異賢哲也。近、漢高祖受命之初、分裂膏腴以王八姓、斯則前世之懿事、後王之元龜也。朕以不德、承運革命、君臨萬國、秉統天機、思齊先代、坐而待旦。惟君、天資忠亮、命世作佐、深覩曆數、達見廢興、遠遣行人、浮于潛漢、註09-02望風影附、抗疏稱藩。兼納纖絺南方之貢、普遣諸將來還本朝。忠肅內發、款誠外昭、信著金石、義蓋山河。朕甚嘉焉。今、封君爲吳王。使使持節太常高平侯貞、授君璽綬、策書、金虎符第一至第五、左竹使符第一至第十、以大將軍使持節督交州、領荊州牧事。錫君、青土、苴以白茅。對揚朕命、以尹東夏。其上故驃騎將軍南昌侯印綬符策。今又、加君九錫。其、敬聽後命。以君綏安東南、綱紀江外、民夷安業、無或攜貳。是用錫君、大輅、戎輅各一、玄牡二駟。君、務財勸農倉庫盈積。是用錫君、袞冕之服、赤舄副焉。君、化民以德禮教興行、是用錫君、軒縣之樂。君、宣導休風懷柔百越、是用錫君、朱戶以居。君、運其才謀官方任賢、是用錫君、納陛以登。君、忠勇並奮清除姦慝、是用錫君、虎賁之士百人。君、振威陵邁、宣力荊南、梟滅凶醜、罪人斯得。是用錫君、鈇鉞各一。君、文和於內武信於外、是用錫君、彤弓一、彤矢百、玈弓十、玈矢千。君、以忠肅爲基、恭儉爲德、是用錫君、秬鬯一卣、圭瓚副焉。欽哉、敬敷訓典、以服朕命、以勖相我國家、永終爾顯烈」註09-03是歲、劉備帥軍來伐。至巫山、秭歸、使使誘導武陵蠻夷、假與印傳、許之封賞。於是、諸縣及五谿民皆反爲蜀。權、以陸遜爲督、督朱然潘璋等、以拒之。遣都尉趙咨、使魏。魏帝問曰「吳王、何等主也」咨對曰「聰明仁智、雄略之主也」帝問其狀、咨曰「納魯肅於凡品、是其聰也。拔呂蒙於行陳、是其明也。獲于禁而不害、是其仁也。取荊州而兵不血刃、是其智也。據三州虎視於天下、是其雄也。屈身於陛下、是其略也」註09-04帝、欲封權子登。權、以登年幼、上書辭封。重遣西曹掾沈珩、陳謝、幷獻方物。註09-05立登、爲王太子。註09-06 黃武元年春正月。陸遜、部將軍宋謙等、攻蜀五屯、皆破之、斬其將。三月鄱陽言、黃龍見。蜀軍、分據險地、前後五十餘營。遜、隨輕重、以兵應拒、自正月至閏月、大破之。臨陳所斬及投兵降首數萬人。劉備奔走、僅以身免。註10-01 初、權外託事魏、而誠心不款。魏乃遣侍中辛毗尚書桓階、往與盟誓、幷徵任子。權、辭讓不受。秋九月、魏乃命曹休、張遼、臧霸、出洞口。曹仁、出濡須。曹真、夏侯尚、張郃、徐晃、圍南郡。權、遣呂範等督五軍、以舟軍拒休等。諸葛瑾、潘璋、楊粲、救南郡。朱桓、以濡須督拒仁。時、揚越蠻夷多未平集、內難未弭。故、權卑辭上書、求自改厲「若罪在難除必不見置、當奉還土地民人、乞寄命交州以終餘年」文帝報曰「君生於擾攘之際、本有從橫之志、降身奉國、以享茲祚。自君策名已來、貢獻盈路、討備之功、國朝仰成。埋而掘之、古人之所恥。註11-01朕之與君、大義已定、豈樂勞師遠臨江漢。廊廟之議、王者所不得專。三公上君過失、皆有本末。朕以不明、雖有曾母投杼之疑、猶冀言者不信以爲國福。故、先遣使者犒勞、又遣尚書侍中、踐脩前言以定任子。君遂設辭、不欲使進、議者怪之。註11-02又前、都尉浩周勸君遣子。乃實、朝臣交謀以此卜君。君果有辭、外引隗囂遣子不終、內喻竇融守忠而已。世殊時異、人各有心、浩周之還、口陳指麾、益令議者發明衆嫌。終始之本、無所據仗、故遂俛仰從羣臣議。今省上事、款誠深至、心用慨然、悽愴動容。卽日下詔、敕諸軍但深溝高壘不得妄進。若君必效忠節以解疑議、登身朝到夕召兵還。此言之誠、有如大江」註11-03權、遂改年、臨江拒守。冬十一月大風、範等兵溺死者數千、餘軍還江南。曹休、使臧霸以輕船五百敢死萬人、襲攻徐陵、燒攻城車、殺略數千人。將軍全琮徐盛、追斬魏將尹盧、殺獲數百。十二月權、使太中大夫鄭泉、聘劉備于白帝、始復通也。註11-04然、猶與魏文帝相往來。至後年、乃絕。是歲、改夷陵爲西陵。 二年春正月、曹真、分軍據江陵中州。是月、城江夏山。改四分、用乾象曆。註12-01三月曹仁、遣將軍常彫等、以兵五千、乘油船、晨渡濡須中州。仁子泰、因引軍急攻朱桓。桓兵拒之、遣將軍嚴圭等、擊破彫等。是月、魏軍皆退。夏四月權羣臣、勸卽尊號、權不許。註12-02劉備薨于白帝。註12-03五月曲阿言、甘露降。先是、戲口守將晉宗、殺將王直、以衆叛如魏。魏以爲蘄春太守、數犯邊境。六月權、令將軍賀齊、督糜芳劉邵等、襲蘄春。邵等、生虜宗。冬十一月蜀使中郎將鄧芝、來聘。註12-04 三年夏、遣輔義中郎將張溫、聘于蜀。秋八月、赦死罪。九月魏文帝、出廣陵、望大江、曰「彼有人焉。未可圖也」乃還。註13-01 四年夏五月丞相孫邵、卒。註14-01六月以太常顧雍、爲丞相。註14-02皖口言、木連理。冬十二月鄱陽賊彭綺、自稱將軍、攻沒諸縣、衆數萬人。是歲、地連震。註14-03 五年春、令曰「軍興日久、民離農畔、父子夫婦、不聽相卹、孤甚愍之。今、北虜縮竄、方外無事。其、下州郡有以寬息」是時、陸遜以所在少穀、表、令諸將增廣農畝。權報曰「甚善。今、孤父子親自受田、車中八牛以爲四耦。雖未及古人、亦欲與衆均等其勞也」秋七月權聞、魏文帝崩、征江夏圍石陽、不克而還。蒼梧言、鳳皇見。分三郡惡地十縣、置東安郡、註15-01以全琮爲太守、平討山越。冬十月陸遜、陳便宜、勸以施德緩刑寬賦息調。又云「忠讜之言、不能極陳。求容小臣、數以利聞」權報曰「夫、法令之設、欲以遏惡防邪、儆戒未然也。焉得不有刑罰以威小人乎。此、爲先令後誅、不欲使有犯者耳。君以爲太重者、孤亦何利其然、但不得已而爲之耳。今承來意。當重諮謀、務從其可。且、近臣有盡規之諫、親戚有補察之箴、所以匡君正主明忠信也。書載『予違、汝弼。汝、無面從』孤、豈不樂、忠言以自裨補邪。而云、不敢極陳。何得爲忠讜哉。若小臣之中有可納用者、寧得以人廢言而不採擇乎。但諂媚取容、雖闇、亦所明識也。至於發調者、徒以天下未定事以衆濟。若徒守江東脩崇寬政、兵自足用復用多爲。顧坐自守、可陋耳。若不豫調、恐臨時未可便用也。又、孤與君、分義特異榮戚實同。來表云、不敢隨衆容身苟免。此、實甘心所望於君也」於是、令有司盡寫科條。使郎中褚逢、齎以就遜及諸葛瑾、意所不安令損益之。是歲、分交州置廣州。俄、復舊。註15-02 六年春正月諸將、獲彭綺。閏月、韓當子綜、以其衆降魏。 七年春三月封子慮、爲建昌侯。罷東安郡。夏五月鄱陽太守周魴、偽叛、誘魏將曹休。秋八月權、至皖口。使將軍陸遜、督諸將、大破休於石亭。大司馬呂範、卒。是歲、改合浦爲珠官郡。註16-01 黃龍元年春、公卿百司皆勸權正尊號。夏四月夏口武昌並言、黃龍鳳凰見。丙申、南郊卽皇帝位。註17-01是日大赦、改年。追尊父破虜將軍堅爲武烈皇帝、母吳氏爲武烈皇后、兄討逆將軍策爲長沙桓王。吳王太子登爲皇太子。將吏皆進爵加賞。初、興平中、吳中童謠曰「黃金車班蘭耳、闓昌門出天子」註17-02五月使校尉張剛管篤、之遼東。六月蜀遣衞尉陳震、慶權踐位。權、乃參分天下、豫青徐幽屬吳、兗冀幷涼屬蜀。其司州之土、以函谷關爲界。造爲盟曰「天降喪亂、皇綱失敘、逆臣乘釁、劫奪國柄。始於董卓、終於曹操、窮凶極惡、以覆四海、至令九州幅裂、普天無統、民神痛怨、靡所戾止。及操子丕、桀逆遺醜、荐作姦回、偷取天位。而叡么麼、尋丕凶蹟、阻兵盜土、未伏厥誅。昔、共工亂象而高辛行師、三苗干度而虞舜征焉。今日滅叡、禽其徒黨、非漢與吳、將復誰任。夫、討惡翦暴、必聲其罪、宜先分製、奪其土地、使士民之心各知所歸。是以春秋、晉侯伐衞、先分其田以畀宋人、斯其義也。且、古建大事、必先盟誓。故、周禮有司盟之官、尚書有告誓之文。漢之與吳、雖信由中。然、分土裂境、宜有盟約。諸葛丞相、德威遠著、翼戴本國、典戎在外、信感陰陽、誠動天地。重復結盟、廣誠約誓、使東西士民咸共聞知。故、立壇殺牲、昭告神明、再歃加書、副之天府。天高聽下、靈威棐諶、司慎司盟、羣神羣祀、莫不臨之。自今日漢吳既盟之後、戮力一心、同討魏賊、救危恤患、分災共慶、好惡齊之、無或攜貳。若有害漢、則吳伐之。若有害吳、則漢伐之。各守分土、無相侵犯。傳之後葉、克終若始。凡百之約、皆如載書。信言不豔、實居于好。有渝此盟、創禍先亂、違貳不協、慆慢天命、明神上帝、是討是督、山川百神、是糾是殛、俾墜其師、無克祚國。于爾大神、其明鑒之」秋九月、權遷都建業。因故府不改館。徵上大將軍陸遜、輔太子登、掌武昌留事。

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