-後漢 > 『三国志』に出てくる秦末漢初の人名をリストアップ

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陳寿・裴松之が記録したなかに登場する、秦末漢初(楚漢戦争の時代)の人物をリストアップします。
目を皿のようにして、ちくま訳から当該人物を探すという方法があるでしょう。しかし、見落とすような気がします。それよりも、ちくま訳の索引から当該人物を見つけて、登場箇所を特定する、という方法をとります。
索引を使っても、そもそも索引のなかから見落とせばアウトです。しかし、メジャーどころを見落とす恐れは少ないでしょう。

索引が不完全というリスクもありますが、無視します。少なくとも、ぼくが冒頭から順番に読んでいくよりは、精度が高いと思うので。


尉佗(趙佗)

・巻2 文帝紀 注引:曹丕の『太宗論』をひきながら。「漢文帝は、尉佗が帝号を称したときも慰撫したから優れている」
・巻8 公孫度伝 注引『魏臣名臣奏』:夏侯献が、公孫淵を説得することを、陸賈が尉佗を説得したことになぞらえて。
・巻17 辛毗伝:辛毗が、曹丕の呉攻めを諌めて、「尉佗は帝号を称したが、滅びた。孫権だって滅びるさ」
・呉主伝 注引『魏略』:郡臣が、孫権が魏に服するつもりがないと主張。「孫権は、尉佗・英布のごとく謀反を考えている」

公孫淵・孫権など、周辺部で割拠する勢力の取り扱いについて論じるとき、尉佗がひきあいに出される。しかし、尉佗そのひとのキャラではなく、「不服従の勢力」の代名詞として、記号的に書かれるに過ぎない。

・士燮伝:士燮の兄弟の強大さが、尉佗よりも優れていた。

尉佗そのひとのキャラを準えるなら、後漢末であれば、まちがいなく士燮。

・薛綜伝:呂岱が交州から中央に召されることになり、薛綜は交州から呂岱を剥がすことに反対して、この地の歴史を振り返る。尉佗はその昔語りに登場。
・陸瑁伝:尉佗に対する漢文帝の対応をほめて。曹丕『太宗論』と同じ文脈。裏返して、孫晧の政治を批判している。

夏侯嬰

・巻9 夏侯惇伝:夏侯惇は夏侯嬰の子孫である
・巻36:陳寿の評:趙雲・黄忠が、戦って爪牙となったのは、灌嬰・夏侯嬰に似ている。

黃忠、趙雲、彊摯壯猛、並作爪牙、其灌滕之徒歟。
夏侯嬰(劉邦の御者で、投げ捨てられた恵帝を馬車にひろいあげた人)は、『三国志』のなかに2箇所だけ出てくる。①夏侯惇伝で、夏侯惇の祖先として。②蜀志第六の評で、陳寿が「黄忠・趙雲の働きは、灌嬰・夏侯嬰に似ている」と。曹操が臣下を「夏侯嬰」と評したことはなく、なぜか蜀志の評にある。
陳寿の脳内を予測。「蜀将のうち最も派手な大将首をとったのは、夏侯淵を斬った黄忠。項羽を斬った灌嬰に近い。蜀将のうち位は高くなくとも劉備の護衛として活躍したのが趙雲。劉邦の御者である夏侯嬰に似てる。長阪の逃亡戦のイメージともあう」と。


蒯通(蒯徹)

・劉表伝 注引『傅子』:蒯越は、蒯通の子孫である
・公孫淵伝 注引『魏書』:公孫淵は、魏に対して、謀反などしないと申し開きをした。その言い訳のなかで、「蒯通は高帝に、率直に意見を述べて死刑を免れました」と。蒯通曰く、「韓信に鼎立せよと教唆したのは、当時の情勢では当然の判断であり、高帝に対する謀反ではなかったでしょ」と説明した。
・賈詡伝 注引『九州春秋』:閻忠が皇甫嵩に自立を勧めながら、「韓信は蒯通の言うとおりに自立しないから、あとで殺されました」と。皇甫嵩を韓信になぞらえ、閻忠を蒯通になぞらえるという、うぬぼれ用法。
・呉主伝 注引『魏略』:郡臣が曹丕に、呉が魏に服するつもりがないから、討伐せよと主張。そのなかで故事を振り返る。かつて酈食其は、漢王の使者として、斉王の田横を和解した。これに先立ち、斉の討伐に出ていた韓信は、役割を喪失した。そのとき蒯通が韓信に、「酈食其が成し遂げた和解を無視して、田横を攻め滅ぼせ」と進言した。韓信はそのとおり、田横を攻撃した。いま孫権は(田横のように降伏を申し出たが)、曹丕は(韓信がやったように)孫権を滅ぼせ。これを説得している郡臣が、蒯通の役割を演じていることになる。

甘羅

秦宓伝:劉焉に任安を推薦する。「甘羅・范子奇は、年少でも功績を立てました。だから、年少の任安のことも採用してね」

一説には甘寧の祖先?らしいですが、甘寧がらみの記述なし。


韓王信

・巻24 韓暨伝 注引『楚国先賢伝』:韓暨は、韓王信の子孫

つまり韓暨は、戦国時代の君主のちゃんとした子孫。張良がなんとしても復興しようとした血筋。まあ史料の性質上、血筋の継続性を強調するこを価値としていそうだから、過剰に重視してはいけませんが。


韓信

・武帝紀 建安22年 注引『魏書』:曹操が人材を積極的に登用することを宣言。蕭何・曹参は県の吏にすぎない。韓信・陳平は、けがらわしい評判があった。しかし蕭何・曹参・韓信・韓信・陳平のおかげで、高帝は勝つことができた。だから曹操サマも人材を用いよう。
・武帝紀の評:曹操は、韓信・白起の奇策をやって勝った。

曹操を韓信になぞらえてる。ただし、同時に、申不害・商鞅のような法術とか、たくさんの人物を列挙してるから、キャラが固定されない。

・明帝紀 注引『魏名臣奏』:何曽が、遼東を討伐する司馬懿に、副将をつけることを勧める。「韓信が趙を討伐したとき、張耳が副将となった(からうまくいった)」と。
・賈詡伝:閻忠が皇甫嵩に自立を勧める(蒯通で既述)
・巻11 田疇伝:田疇の功績をたたえて、「広武君は田疇のために、燕を滅ぼす計画を立てた。薛公は鯨布について計画を立てた」と。広武君・薛公を、田疇になぞらえている。 ・巻13 鍾毓伝:鍾毓が、曹爽の蜀攻めに反対して、「韓信が、陳余と趙王の趙歇を斬った井陘の戦いのようなことを(曹爽は)する必要がない」という。
・巻14 程昱伝:程昱は、曹操が袁紹の傘下に取り込まれることに反対する。「韓信・彭越のように、漢王(袁紹)に対抗する力を持ちながら、屈してはいけない」と。ここでは、初期の曹操が、韓信・彭越に準えられる。
・巻14 劉曄伝:劉曄は曹操に、廬江の平定にあたって、「広武君が燕に宣伝することで、韓信による燕の平定を容易にした。広武君がやったのに、恩賞をやると廬江郡に宣伝しましょう」という。漢王の一方面の将として転戦する曹操は、韓信になぞらえられる。

程昱伝・劉曄伝を見ると、曹操を韓信になぞらえる例がある。曹操(韓信)は、はじめから大将になれないため、袁紹(劉邦)を頼って、一方面の将として活躍。曹操は袁紹からの独立を選んで、官渡で旧主を押し返す。もし韓信が蒯通に従って独立すれば、劉邦vs韓信という楚漢期の「官渡」が見られた。
『三国志平話』で、韓信を曹操に転生させたことは、あながち無根拠ではない。正史ベースです(笑)

・巻17 張郃伝:曹操が張郃の投降を受けて、「韓信が高帝に降ったみたいだ」
・巻22 衛臻伝:蒋済が衛臻に、人材登用について説く。「高帝は、降兵の韓信を受け入れた」
・巻24 崔林伝 注引『王氏譜』:蕭何は韓信を推薦した
以下まだ韓信はありますが、ダブり感が出てきたので、次にいきます。

灌嬰

・公孫瓚伝 注引『呉書』:韓馥が袁術に文書を送る。「周勃・灌嬰が、呂氏を倒した後に、恵帝の子でない皇帝を殺して、代王を迎えた。霊帝の子でない劉協を排除して、劉虞を立てよう」
・公孫瓚伝 注引『呉書』:公孫瓚は、身分のいやしい者と義兄弟になり、「酈商・灌嬰だって、身分がひくかったじゃないか」といった。
・毛玠伝:「賈誼が中央から追い出されたのは、灌嬰・周勃のせい」
・巻36 評:趙雲は灌嬰ににている。
・張紘伝:孔融から張紘への手紙「灌嬰・周勃は、武官の出身だが礼を学んだ(丞相になった)」
・駱統伝:周勃・灌嬰が、賈誼の悪口をいって中央から追い出した

陳寿が、灌嬰との類似をほのめかすから、期待がもてたのだが。おおくの用例は、天下が治まってからの政治家としての灌嬰の働きを書いている。


番外編(あとできちんと配置します)

曹参

・武帝紀:曹操は曹参の子孫
・武帝紀 注引:蕭何・曹参は県吏だが、高帝が登用した
・荀彧伝 注引『荀彧別伝』:曹操が荀彧に爵位をあげたくて、「武功のある曹参よりも、計略をやった蕭何のほうが先に封邑を与えた」と、荀彧の功績を強調。ここでは、荀彧が蕭何になっている。曹参は(曹操の祖先のわりには)武功しかない筋肉バカである。
・王朗伝:曹参は、斉相をやめるとき、ひきつぎをきちんとした
その他の『魏志』では、蕭何・曹参のペアががんばった、という記事がつづく。

余談だが、司馬遼太郎『項羽と劉邦』では、蕭何の奮闘は見られるが、曹参はそのペアとして付いてきた、くらいの描き方しかされてない。

・費詩伝:費詩が関羽にいう。「曹参・蕭何は先に高帝につかえたが、陳平・韓信に席次を上回られた。しかし彼らは苦情を言わなかった」

「曹操が曹参の子孫」が怪しいのは、曹参の子孫が爵位をついでいるという考証学的な批判のほかにも、史料を読めば、①曹操が曹参を規範や目標にした発言がない、②魏の人々が曹参の功績を称揚しない(ただの古参の武人扱い)などからも窺い知れる。夏侯嬰も同じ。韓信のほうがよほど言及・参照が盛ん。
「曹参伝説」「夏侯嬰伝説」のようなものはなく、「劉邦伝説」だけがある。曹操は、これらの血筋を強調することで、とくにメリットは享受してなかった様子です。


張良

・袁紹伝:孫盛が、田豊・沮授を、張良・陳平になぞらえる
・荀彧伝:わが子房である
・荀攸伝 注引『魏書』:曹操は荀攸に、高帝が張良にじぶんの封戸を選ばせたように、じぶんで選ばせたい。

荀彧も張良なら、荀攸も張良である

・賈詡伝:閻忠「賈詡には、張良・陳平の計略がある」
・巻10の評:荀攸・賈詡は、張良・陳平につぐかも
・巻10の評 裴注:張良と陳平は同列ではない。『漢書』がやむなく同じ巻にまとめただけ。賈詡は、程昱・賈詡と同類である。

荀彧・荀攸・賈詡は、張良・??・陳平という感じで対応するか。

これ以後、「張良・陳平の策謀」という常套句として出てくるばかり。 ・譙周伝:『仇国論』のなかで、張良が「項羽と停戦すれば、民心が安定する。その後では、項羽を覆すことができない」と速戦を主張したことをあげる。

彭越

・関羽伝:諸葛亮は関羽に手紙を書いた。「馬超は、彭越・鯨布のともがらである。張飛とは同類だが、ヒゲさんに及ばない」
・諸葛恪伝:臨淮の臧均が、諸葛恪の埋葬について、「高帝は、項羽・韓信をきちんと棺に入れた。これが高帝の偉いところです。彭越の死体を、欒布がかってに収めたのは、善くないことです」という。

『三国志平話』で、劉備を彭越に、孫権を英布に割り振った。彼らが楚漢期に鼎立のシーンをつくったからで、人物像まで検討した結果ではないだろう。上に書いたとおり、韓信と初期の曹操に似たところがあるが、あとは噛みあってない。劉備が徐州あたりのカッパライというのは、イメージできなくないが、劉備の物語のなかでの魅力は、カッパライであることではない。

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