雑感 > 袁紹の軍師8名を3つに分類し、対立構造を分析

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1.袁紹の8名の軍師を分類する

2015年の冬休みをつかって、袁紹伝を読みました。
陳寿『三国志』袁紹伝と、范曄『後漢書』袁紹伝を照合する

複雑だけど魅力的なのが、軍師たちの人間模様。ただし軍師といっても、口だけ出している、頭脳明晰なおじさんたち、という単純なものではない。生産基盤をもつ豪族・政治家・思想家・軍事家などの側面があり、袁紹政権に参加している。
彼らの動きを、うまく説明できる分類を探ります。

袁紹の軍師を3つに分類する

袁紹の軍師で、メインは8名。権力の拠り所に基づいて分類すると、
 ①袁紹の旧知(家柄・名声は二の次):逢紀・許攸
 ②潁川の名士(清流に由来する名声):荀諶・郭図・辛評
 ③冀州の大姓(在地の生産力・兵力):田豊・沮授・審配

おのずと政治目標が変わってくる。
①袁紹と旧知のひとは、袁紹との個人的な関係がキモになる。君主権力と構造的に衝突することはないが、旧知ゆえに君主を侮ったり(許攸)、君主が代替わりしたらアウト(逢紀)。
きっと袁紹がいちばん気楽に、本音で話せる相手。
史実では、袁紹の傾きとともに、もっとも早く解散した集団。
淳于瓊なんかも、西園八校尉のころから袁紹と知り合いであり、分類するならここ。やはり、袁紹集団とともに運命をともにした。

②潁川の名士は、董卓軍に故郷を脅かされ、袁紹に従ったひとたち(韓馥が荀彧を誘ったように)。清流派の後裔として、天下国家を論じるのが好きそう。人事制度を整えて、組織を作るのを好む。郭図は、べつに讒言ばかりしたのでなく、袁紹の君主権力を安定させるための装置を演じたと見ましょう。ただし、バランス・ゲームをやり過ぎると、組織そのものが崩壊する。功罪あいなかば。

荀諶・辛評は、史料がほとんど残っていないが、荀彧・辛毗と同じように動くと考えて止さそう。荀諶・辛評も、兄弟たちと同じく、袁紹の統治機構(官僚・軍の組織図づくり)に能力を発揮したはずだ。

天下国家のことは、煎じ詰めると、易姓革命の可否の議論の行き着く。彼らが袁紹にプレゼントしたのは、新たな王朝のタマゴだったのか否か。土地から切り離され、「公」的な名声に基盤を置き、見識・人格・主義主張を、存在の拠り所にする。君主権力との対立の仕方は、「名士」としての典型的なもの。
②潁川の名士は、極限になると、袁氏を裏切る。もっと抽象的な「天下」の一員だから、曹操に転職することは辞さない。荀諶の子、辛評の弟(辛毗)は曹操に仕えた。郭図は、袁譚とともに斬られたが、もし生き残っていたら、曹操に仕えただろう。同族の郭嘉を頼ったりして。

③冀州の在地の士大夫は、韓馥からスライドした。袁紹が最初に、協力を仰ぐべき相手。冀州の安定のためには、経済財・兵力を提供してくれるから、心強い。しかし冀州を平定すると、袁紹の政治目標と乖離が生じる。積極的な、ときにはバクチのような外征には、協力したくない。
しかし、現状維持で満足するのではなく、より慎重に戦局を見極めて、外征にも協力してくれる。「カネも兵も出すから、口も出す」という感じ。この温度感のズレが、君主とのあいだに広がると、悲劇を生む(沮授・田豊)。
ただし君主に対して冷淡ではなく、袁氏のために忠誠を尽くして死ぬ(沮授・審配)ところが、②潁川の名士たちと違うところ。抽象的な「天下」の一員というよりは、冀州を守り富ませてくれる袁氏に、徐々に帰属意識を深めるようで、「おらが殿さま」に対する忠義は厚い。
天下国家に対する見識も持っていて、沮授には、天子奉戴を勧める発言がある。ただしちょっと、②潁川名士よりも、抽象よりも具体、攻めより守りに、比重が高いと言えそうです。

次回、袁紹伝の時系列に沿って、分類の妥当性を検証。151230

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2.袁紹伝に沿った分類の検証

上で設けた、①旧知、②潁川、③冀州という分類で、どのくらい袁紹伝のできごとを説明できるのか、チェックしてみます。

袁紹が冀州に入るまで

袁紹が洛陽を脱出して、董卓と戦うとき、①旧知の逢紀・許攸は一緒にいた。『英雄記』に「紹去董卓,與許攸及紀俱詣冀州」とあるから、決まり。
①旧知は、洛陽・董卓の経験をともにした「初期メンバー」であり、袁紹と戦友として絆が深い。

②潁川派は、『陳志』荀彧伝に、冀州牧の韓馥が、同郡出身のよしみで、騎兵を送って迎えにきたとある。きっと、同じようなことが、他でも行われた。②潁川派は、董卓と対峙したころの袁紹と、合流していない。袁紹が冀州に入ったあと、韓馥から引き継ぐかたちで、袁紹のもとに合流した。
②潁川派は、冀州に入った後、遅れて傘下に入ってきた。①逢紀・許攸への信頼に比べると、信頼度は劣るはず。

③沮授・田豊・審配とも、韓馥のもとで志を得なかった。
やがて袁紹が、董卓を攻めあぐね、兵糧がなくて自壊しそうになると、「袁紹を冀州に迎えるか」という議論が起きた。『范書』袁紹伝によると、治中〔従事〕の劉恵もしくは劉子恵が、堂々と意見をのべる。劉恵もしくは劉子恵は、『范書』袁紹伝にひく『英雄記』によると、中山のひとで、やはり冀州人。別駕従事の耿武が、韓馥から劉子恵をかばったり……、韓馥のもとでは、劉子恵や耿武らが主役である。

袁紹が冀州に入る

韓馥軍には、涼州で戦った経験がある麹義がいて、初平二年(191) 韓馥にそむく。 これを見て、①逢紀が、公孫瓚をひきいれて、韓馥から冀州を奪えという。
『陳志』袁紹伝によると②荀諶が、『通鑑』では②辛評・郭図までもが、韓馥に「袁氏を頼れ」と説得する。
ぼくの見た範囲では、袁紹が、彼の駐屯地から、②潁川名士を使者として送ったという描写はない。袁紹軍から来た使者なら、韓馥はもっと警戒するはず。きっと、韓馥のもとに避難している②名声ある士大夫が、袁紹を迎えるべきですよと、アドバイスした。
陳留の高幹も、説得に加わっているが、祖父が司隷校尉、父が蜀郡太守という高幹の家柄なので、立場としては、②名士に近い。きっと故郷が戦乱になり、冀州に避難していたのだろう。

韓馥の食客である②潁川名士が、袁紹を頼れと説得する。彼らは、冀州の安定、韓馥の安全、などに興味はない。むしろ天下のメリットになることを、公的な立場から主張するから、韓馥にとっては、扱いにくい連中である。
もちろん②潁川名士と対立し、韓馥の体制を維持したいのは、韓馥の部下たち。『陳志』袁紹伝では、長史の耿武、別駕の閔純、治中の李歴が、袁紹軍への補給を辞めて、自壊させてしまえという。

『范書』では、このメンバーに、③騎都尉の沮授が加わるが、『通鑑』はこれを採用しない。『献帝伝』で、沮授は韓馥のときも別駕となり、騎都尉となったとする。沮授は、わりと良い位置に着けていたが、のちの袁紹の時代ほど主流ではない。

韓馥派が、「せっかく韓馥さまが保護してやったのに、②潁川名士は、恩を知らんな」という怒りを持つのは、当然である。

整理したい。
韓馥とその部下たち(耿武・閔純・李歴)を排除することを、②潁川名士は天下国家のために企画した。③沮授・田豊・審配は、自分たちが冀州のなかで台頭するために、間接的に協力した。
②潁川派と③冀州派の利益が、韓馥の排除で一致した。のちに血みどろになる二派が、協調してるなんて、珍しい光景。
『英雄記』によると、耿武・閔純は、袁紹軍が冀州にくると、最後まで抵抗して、③田豊に殺された。韓馥派に対する、田豊のクーデターに見える。

韓馥からの扱いの重さ、のちの動きからすると、③沮授が黒幕となって、袁紹を誘致したのだろう。

『九州春秋』に見える、韓馥の都督従事であった趙浮・程奐は、袁紹軍を防いでおり、これも排除されるべき韓馥派。

袁紹が冀州牧となる

袁紹が冀州牧になることで、①旧知と、②潁川派と、③冀州派があわさる。
袁紹は、③沮授を別駕として、戦略を教わる。沮授は、河北の平定を優先せよという戦略を述べる。むしろ河北さえ掌握すれば、あとは自動的に天下が治まるとする。かなり偏向的である。河北を重く、その他を軽く見ている。おそらく、河北を平定するところまでしか、当事者意識をもって考えていない。
沮授は『陳志』では「監軍・奮威将軍」、『范書』では「奮武将軍となし諸將を監護せしむ」となる。冀州軍のトップになった。

このとき、袁紹が冀州を得られた手柄は、誰のものか。①袁紹とともに腹を減らしていた旧知ではなく、②ゲストとして韓馥に参考意見(韓馥より袁紹のほうが実力があるよ)を述べた潁川派でもなく、③体制内のクーデターを起こした冀州派のおかげだと、袁紹はよく分かっていた。
この時期は、③冀州派の躍進が目立つ。『范書』袁紹伝によると、魏郡の審配・鉅鹿の田豊(ともに河北出身)は、韓馥のもとでは志を得なかった。しかし袁紹は、田豊を別駕〔従事〕、審配を治中〔従事〕として重んじた。

初平三年、青州黄巾を破って強くなった公孫瓚が、冀州に進行して、冀州の諸城が、みな公孫瓚に呼応する。
袁紹は、麹義を先鋒にして、③田豊とともに戦う。麹義は、軍師の分類には当てはめにくいが、韓馥を裏切って(結果的に)袁紹に味方して、地位を上げたという点で、③冀州派に近い。この戦いは、③田豊・③麹義のおかげで袁紹の勝利に終わる。やはり、③冀州派が主役である。
つづく魏郡の反乱を経て、冀州は安定した。
時期は分からないが、麹義は、功績をおごって袁紹に殺される。袁紹が、とりあえず冀州を本拠地として安定させると、③冀州派が強くなりすぎ、鼻につく。のちに、③沮授が権限を分割される。
おおきな流れとしては、①旧知・②潁川からの揺り戻しが起きてゆく。

献帝奉戴をめぐる議論

興平期の関心事は、長安を出た献帝を、いかに扱うか。
『陳志』袁紹伝では、袁紹が②郭図を使者に送り、郭図が天子奉戴を勧める。いかにも天下国家を優先する、②潁川名士らしい。
しかし、裴注『献帝伝』では、意見が異なる。③沮授が天子奉戴を勧め、②郭図と淳于瓊が反対する。淳于瓊は①旧知に近いだろう。つまり、①旧知と②潁川名士が奉戴に反対し、③冀州派が賛成する。
ええと……、
史料が食い違うので、なんとも言えないが……、ぼくが思うに、この時点で②郭図が、天子奉戴に積極的に反対する理由がない。「沮授が正しく、郭図は誤る」という思い込みで、記述が混乱したのではないか。
やや強引だけれど、ぼくの理解では、①旧知の淳于瓊らは、袁紹の君主権力が掣肘されるのを嫌って、奉戴に反対する。士大夫としての社会的地位と責任感のある②潁川名士と③冀州大姓は、奉戴に賛成する。おおまかには、こうだろう。
天子奉戴については、①は反対、②は賛成、③は賛成。

『范書』は、後継者問題を先取りして、③沮授が「袁譚に嗣がせよ」という。私的な傾向に流れやすい①旧知と比べると、③沮授は、儒教の規範を身につけており、のちに袁譚にくみする②辛評・郭図に近い。

曹操のもとに収まった天子から、詔書がくる。袁紹は、自分の立場を明らかにする。張譲・董卓との戦いは、王朝のためだった。河北平定も、天子のためだったと。
きっと、詔書の内容にビクビクしたのは、地盤のない②潁川名士だろう。
なぜか。③冀州大姓は、生産基盤に根づき、功績も大きいから、安穏としていられる。①旧知は、袁紹とケンカしなければ安泰。しかし、②潁川名士は、なりゆきで天子から距離をおいてしまい、賊臣の汚名に怯えねばならず、「オレたち、何やってるんだ」となる。その証拠に、袁紹伝で、②潁川名士は、この頃の活躍がない。
曹操のもとで、袁紹を官職・詔書によって追い詰めることを立案しているのは、②潁川名士の仲間たちである。曹操は、同類をつかい、②潁川名士をぐらつかせることで、袁紹に対抗しようとしている。
袁紹が「献帝を鄄城の移せ」という、ヒステリックな声明を出すのもこのころ。

③田豊は、③沮授よりは、現実的な戦術家という色彩が強くて、「許都を攻めて、天子を得よ」と言い出す。
勘違いしてはいけないが、べつに③冀州派は、「河北に籠もって、外に出るな」とは、ひとことも言わない。ただ少し、時期やペースが違うだけ。②観念を重視する潁川名士より、③地に足に付いた冀州大姓のほうが、ちょっと慎重になりがち。

河北統一から官渡へ

公孫瓚を滅ぼした袁紹は、体制を固める。
③審配・①逢紀が「軍事を統べ」、③田豊・②荀諶・①許攸が「謀主」で、顔良・文醜が「卒を将ゐ」る。
なにを狙ったか。③冀州派に集中しがちな権限を、分割する。①逢紀がひきいて、袁紹の君主権力にも、直属っぽい軍をつくる。③審配は、③冀州派のなかでも、沮授よりは下位のひと。のちに審配は、沮授の軍権の三分割を主張する。③冀州派といっても、一枚岩ではない。
より戦場向きな③田豊が「謀主」になると同時に、②荀諶・①許攸にも役割を与える。「謀主」は、①②③のバランスが取れた。
顔良・文醜は、来歴が不明。のちに沮授が「顔良をひとりで使うな」と、指導役みたいなことを言うから、③冀州軍の叩き上げか。麹義の後輩か。

『演義』袁紹が、華雄と戦うとき「顔良・文醜を連れてきていれば」というが、その設定は成り立たなくなる。


いざ官渡へ、というとき、諍いが始まる。
裴注『献帝伝』で、③沮授・③田豊が、冀州の疲弊を理由に、持久戦を主張する。いかにも故郷を保全したいひとの意見である。
同じく『献帝伝』で、③審配・②郭図が速戦を主張すると、③沮授が「天子を迎えた曹操を討伐することに名目がない」と反対する。

審配は③冀州派なのに、故郷を保全しなくていいの?
きっと審配というひとは、③冀州派の出身だが、③沮授に対抗するために、袁氏に心理的に接近し、袁氏と一体化し始めている。それが結実するのが、袁尚のために鄴城を曹操から死守して、北を向いて死ぬという最期のシーン。「③冀州を安定させてくれるのは、袁氏であるから、まるで①旧知の人々のように、君主権力に密着したい」という融合が起きた。
袁紹の冀州政権は、袁紹の生前だけでも10年。構成員だって、変質もする。

『范書』では、『献帝伝』で持久戦を主張した③沮授・③田豊の両名のうち、田豊の名を削る。田豊は、速戦派とされる。曹操が徐州に行った隙に、許都を襲えという速戦を唱えるから。
ぼくが思うに、田豊は、定見がないのではない。
③田豊は、より現場に近い戦術家として、冀州の利益よりも、戦闘の勝利を目指すようになる。情況が変われば、主張が変わる。むしろ、臨機応変で優れている。
袁紹は、このように、初期には袁紹に恩を売った③冀州派に働きかけ、袁紹の臣として純化していけば、最終的に勝利できそう。冀州の国を、まるごと袁紹の国とできれば、無限に協力を引き出せる。

②郭図は、周武王が殷紂王を討伐したことから、③沮授を論破しようとする。いかにも観念的な②潁川名士である。古典と一致すれば、国土が荒廃しても構わない、という急進派である。郭図が②の代表者である。
いつ詔書に悪口を書かれるか、②潁川派は、その情況に耐えられない。だから、なりふり構わず、許都に突撃したい。この衝動が、河北の割拠政権から、天下統一に踏みだそうとする袁紹と一致した。

◆沮授の権限を分割する
こうして見てくると、③冀州派の代表は沮授である。③審配は袁氏の忠臣に流れ、③田豊は戦術の適否に熱中するあまり、冀州そのものの保全を大切にしなくなる。袁紹の君主権力に毒されてしまった。
ついに、②郭図 vs ③沮授という構図。愚者 vs 賢者ではない。

南進するとき、有名な権限の分割が行われる。
②郭図・③審配が、「沮授に、袁紹と同等の権限を持たせるのは危険なこと。外で軍を統御するものに、内政をさせてはいけない」と主張し、②郭図・①淳于瓊に分割する。
①②③のバランスが取れる。
②郭図は、自分のために自分で主張したからシンプルである。審配は、自分の直接的なトクにならなくても、①君主権力の強化に繋がることを期待して、淳于瓊を支持した。淳于瓊は、袁紹との個人的な繋がりのおかげで、兵糧の警護という重任をもらって、失敗する。人間関係を優先した副作用だろう。

官渡の戦いに敗れる

③田豊は、曹操が劉備を撃って留守になったとき速戦を主張し、曹操が帰ってきたら持久戦を主張した。派閥争いというよりは、純粋な戦況の判断である。

沮授が袁紹に従軍するとき、宗族をあつめて、財産を分割した。戦国六国が愚かだから、秦に天下を与えてしまった、といって、袁紹の敗戦を予感する。
袁紹が、①旧知、②潁川、③冀州に、兵権を分割したことで、統制の取れた軍事行動ができなくなった。もしオレが③冀州軍をすべて率いていれば、まだ勝ちようもあったのに、という恨み言ではないか。
沮授は、袁紹の渡河にも反対する。袁紹は、③沮授から兵を取りあげ、②郭図に与える。
曹操・天子に揺さぶられた袁紹軍は、もう以前(公孫瓚を破るまで)のように③冀州が主導ではいられず、中央の戦いに引きずり出された。曹操との戦いは、②潁川派が主役の戦いである。

ぼくが沮授の思いを推測するに、河南に出て行くこと自体はよいが(沮授だって天子奉戴、天下統一を勧めた)、③冀州軍を集約して公孫瓚を倒してから、まだ1年である。②潁川派にも権力を与えた新体制は、まだ固まっていない。ギクシャクした状態で、みんなで黄河を渡るなよと。
沮授・田豊が主張した「三年待て」というのは、曹操が傾く時間ではなく、河北の①②③のバランスが整うための時間であったか。

しかし袁紹もバカではない。
沮授は、②潁川と③冀州が融けあう時間を取れと考えたかも知れないが、すでに、②潁川派の主導に切り替えるという判断があったはずだ。沮授から見たらバラバラでも、(袁紹から見れば)バラバラなのは、まだ納得してない沮授のせい。沮授が黙れば、わりと一枚岩だったりする。③沮授は、②郭図に政治的に負けた。

袁紹が①許攸の「許都を襲撃せよ」を用いることができなかったのは、軍事への理解が浅いから。まあ、光武帝の王道の再現とか、別のねらいがジャマになったのかも知れないが、今回のテーマではない。君主を侮るという副作用のある①旧知の許攸は、曹操に降ってしまった。曹操のことも侮って、殺されるのは別の話。
②郭図の讒言によって、河北の名族③である張郃は、曹操に降ってしまった。体制を整えて、①②③のバランスを取ろうというのは、袁紹の優れた手腕だが、戦いながら、バランスの調整をしてはいけない。そりゃ負けるって。
このあたり、自身が優れた指揮官であった曹操と異なる。
「田豊が居てくれたらなあ」というボヤキが出るほど、袁紹は軍事オンチ。

曹操に捕らえられた沮授は、袁氏への恩を唱えて、逃亡する。③冀州派から、袁氏の臣下への変質というのは、沮授に表れ、審配はもっと顕著である。
わりと正しい戦術を唱えていた③田豊は、①逢紀の讒言によって殺される。「田豊が袁紹のことを笑った」と、つまり袁紹の君主権力を傷つけた、という理由で殺される。君主権力の尊厳が保たれてこその、①旧知である。数州の国家ができても、まだプライベートな結合を拠り所にする、①逢紀さん。

袁氏の後継者争い

鄴県を守っていた③審配は、②郭図・②辛評に讒言された。
田豊もそうだが、けっきょく官渡に負けてみれば、③冀州派の言うことが、いちいち正しかった。ただしこれは結果論であって、どっちに転ぶかは分からない。ひとつ言えるのは、②潁川名士が主導して、天下の公論を頂いて天下統一するという目標が頓挫して、保身のために、③冀州派を攻撃し始めるということ。

袁紹は、②潁川主導の全国政権になるかと思いきや、敗れて帰ってきて、冀州の反乱を平定するのに忙しい。また③冀州派が台頭する、前の情況に逆戻り。

沮授・田豊なきあと、実質的な鄴県のあるじである③審配が標的となる。

袁紹は、③審配を鄴県の守備からはずし、孟岱に代える。
ここで審配が死ぬ流れかと思いきや、①逢紀が「審配のことはキライだが、国のために審配が必要」と、びっくりするようなことをいう。審配は「配在位專政,族大兵強」なので、③冀州の大姓として偉そうで、いけ好かないが、彼の協力が必要だと。

◆袁紹の死後のこと
儒教の規範をもつ、②潁川名士である辛評・郭図は、順当に袁譚を立てる。しかし、これは袁紹の遺志に反すること。「袁紹の遺志よりも、儒教の規定のほうが優先する」という、公的なことをいうのが、②潁川名士である。
じつは袁譚は、もう亡兄の家を継がされた「他人」なんだけど、そんな袁氏の私的なお家事情を、儒家は聞きませんよと。衆論もこちらを支持。

おそらく、消去法で押し出されるかたちで、①逢紀と③審配が結合した。上記の弁護のことで、友情も芽生えていただろうし。
①逢紀は、袁紹という拠り所を失い、袁譚から嫌われて、生き残りに必死。③審配は、袁紹の遺志と、冀州の治安を守るという目標を、奇跡的に得ることができ、やる気を発揮。
②潁川派に擁立された袁譚は、袁氏が滅びても構わないとばかりに、袁尚に戦いを仕掛ける。外野の劉表から「袁紹の偉業を損なうな」と指摘されるほど。もはや、奪うために戦って、奪う対象を壊すという、よく分からない行動をとる。袁氏というプライベートな家よりも、「長子相続すべき」というセオリーを押し通すことに、執心しているように見える。
観念的に流れると、袁氏が壊れても可、冀州が疲れても可という、わけの分からない戦いになる。だが、曹操すら利用して、権謀術数もいとわず、袁譚が天下を狙ってゆく(辛毗がほのめかした通り)という、強迫的な目標に突っ走る。

もちろんこれを、曹丕・曹植にダブらせて書いています。曹操の遺志は、曹植だったかも知れない。しかし儒家官僚に妥協して、曹丕を立てた。もし、曹操が太子を決めずに死んだら、曹操の遺志を尊重する曹植派と、儒家の道理を通す曹丕派が、曹氏を壊すほどの勢いで戦っただろう。

①袁紹の仲間よりも、③冀州よりも、②儒家の正義のほうが優先だと。それが、袁譚に従った、②郭図・②辛評の発想なんだろう。

同じようにして、「天下のために」韓馥を冀州から追い出したし。


①逢紀は、袁譚に殺された。袁譚・②郭図は、曹操に斬られた。③審配は、袁氏に殉じた。②荀諶・②辛評は、行方不明になったが、きっと袁譚を扇動したことが、都合の悪い事実なので、史料から抹殺されたのだろう。
最後まで見てきて、思うのは、②名士層って、扱いが厄介だなーと。151231

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