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『献帝伝』に関する情報収集

『三国志』巻2 文帝紀 注に「禅代衆事」が載っていることから、とても気になる『献帝伝』について、情報を集めてみました。

『後漢書』の注釈に見える『献帝伝』

『後漢書』列伝62 董卓伝
馬騰のことを注釈して、
獻帝傳曰:「騰父平,扶風人。為天水蘭干尉,失官,遂留隴西,與羌雜居。家貧無妻,遂取羌女,生騰。」
献帝から長安から洛陽に脱出するとき、
獻帝傳曰:「掠婦女衣被,遟違不時解,即斫刺之。有美髮者斷取。凍死及嬰兒隨流而浮者塞水。」

『後漢書』列伝64 袁紹伝
沮授のことを注釈して、
獻帝傳 曰:「沮授,廣平人。少有大志,多謀略。」
『後漢書』志4 礼儀上
獻帝傳曰「興平元年正月甲子,帝加元服,司徒淳于嘉為賓,加賜玄纁駟馬,〔賜〕貴人、(公主)〔王、公〕、卿、司隸〔校尉〕、城門五校及侍中、尚書、給事黃門侍郎各一人為太子舍人」也。

『三国志』の注釈に見える『献帝伝』

『三国志』巻1 武帝紀
曹操が魏王になるとき、
獻帝傳載詔曰……(以下略)

『三国志』巻2 文帝紀
曹丕が魏帝になるとき、
獻帝傳 載禪代衆事曰……(以下略)
曹丕が魏帝になってから、
獻帝傳曰:辛未,魏王登壇受禪,公卿、列侯、諸將、匈奴單于、四夷朝者數萬人陪位,燎祭天地、五嶽、四瀆,曰: 「皇帝臣丕敢用玄牡昭告于皇皇后帝……(以下略)

『三国志』巻3 明帝紀
秦宜禄のことを注釈して、
獻帝傳曰:朗父名宜祿,為呂布使詣袁術,術妻以漢宗室女。其前妻杜氏留下 邳。布之被圍,關羽屢請於太祖,求以杜氏為妻,太祖疑其有色,及城陷,太祖見之,乃自納之。宜祿歸降,以為 銍長。及劉備走小沛,張飛隨之,過謂宜祿曰:「人取汝妻,而為之長,乃蚩蚩若是邪!隨我去乎?」宜祿從之數 里,悔欲還,飛殺之。朗隨母氏畜于公宮,太祖甚愛之,每坐席,謂賓客曰:「世有人愛假子如孤者乎?」

献帝が死んだときに、
獻帝傳曰:帝變服,率羣臣哭之,使使持節行司徒太常和洽弔祭,又使持節行大司空大司農崔林監護喪事。詔 曰:「蓋五帝之事尚矣,仲尼盛稱堯、舜巍巍蕩蕩之功者,以為禪代乃大聖之懿事也。山陽公深識天祿永終之運, 禪位文皇帝以順天命。先帝命公行漢正朔,郊天祀祖以天子之禮,言事不稱臣,此舜事堯之義也。昔放勛……(以下略)

『三国志』巻6 袁紹伝
袁紹が献帝を奉戴するか迷うと、沮授が勧めて、
獻帝傳 曰:沮授說紹云:「將軍累葉輔弼,世濟忠義。今朝廷播越,宗廟毀壞,觀諸州郡外託義兵,內圖相滅,未有 存主恤民者。且今州城粗定,宜迎大駕,安宮鄴都,挾天子而令諸侯,畜士馬以討不庭,誰能禦之!」紹悅,將從 之。郭圖、淳于瓊曰:「漢室陵遲,為日久矣,今欲興之,不亦難乎!且今英雄據有州郡,眾動萬計,所謂秦失其 鹿,先得者王。若迎天子以自近,動輒表聞,從之則權輕,違之則拒命,非計之善者也。」授曰:「今迎朝廷,至義 也,又於時宜大計也,若不早圖,必有先人者也。夫權不失機,功在速捷,將軍其圖之!」紹弗能用。案此書稱 沮授之計,則與本傳違也。

袁紹が南進を決めると、沮授が諌めて、
獻帝傳 曰:紹將南師,沮授、田豐諫曰:「師出歷年,百姓疲弊,倉庾無積,賦役方殷,此國之深憂也。宜先遣使獻 捷天子,務農逸民;若不得通,乃表曹氏隔我王路,然後進屯黎陽,漸營河南,益作舟船,繕治器械,分遣精騎, 鈔其邊鄙,令彼不得安,我取其逸。三年之中,事可坐定也。」審配、郭圖曰:「兵書之法,十圍五攻,敵則能戰。 今以明公之神武,跨河朔之彊眾,以伐曹氏。譬若覆手,今不時取,後難圖也。」授曰:「蓋救亂誅暴,謂之義兵;恃 眾憑彊,謂之驕兵。兵義無敵,驕者先滅。曹氏迎天子安宮許都,今舉兵南向,於義則違。且廟勝之策,不在彊 弱。曹氏法令既行,士卒精練,非公孫瓚坐受圍者也。今棄萬安之術,而興無名之兵,竊為公懼之!」圖等曰: 「武王伐紂,不曰不義,況兵加曹氏而云無名!且公師武臣竭力,將士憤怒,人思自騁,而不及時早定大業,慮 之失也。夫天與弗取,反受其咎,此越之所以霸,吳之所以亡也。監軍之計,計在持牢,而非見時知機之變也。」 紹從之。圖等因是譖授「監統內外,威震三軍,若其浸盛,何以制之?夫臣與主不同者昌,主與臣同者亡,此 黃石之所忌也。且御眾于外,不宜知內。」紹疑焉。乃分監軍為三都督,使授及郭圖、淳于瓊各典一軍,遂合而 南。

顔良が斬られると、
獻帝傳 曰:紹臨發,沮授會其宗族,散資財以與之曰:「夫勢在則威無不加,勢亡則不保一身,哀哉!」其弟宗曰: 「曹公士馬不敵,君何懼焉!」授曰:「以曹兗州之明略,又挾天子以為資,我雖克公孫,眾實疲弊,而將驕主忲,軍 之破敗,在此舉也。揚雄有言,『六國蚩蚩,為嬴弱姬』,今之謂也。」

袁紹が渡河して、
獻帝傳 曰:紹將濟河,沮授諫曰:「勝負變化,不可不詳。今宜留屯延津,分兵官渡,若其克獲,還迎不晚,設其有 難,眾弗可還。」紹弗從。授臨濟歎曰:「上盈其志,下務其功,悠悠黃河,吾其不反乎!」遂以疾辭。紹恨之,乃 省其所部兵屬郭圖。

袁紹が敗れると、沮授は曹操に捕らわれ、
獻帝傳云:授大呼曰:「授不降也,為軍所執耳!」太祖與之有舊,逆謂授曰:「分野殊異,遂用圮絕,不圖今日乃相 禽也!」授對曰:「冀州失策,以取奔北。授智力俱困,宜其見禽耳。」太祖曰:「本初無謀,不用君計,今喪亂過 紀,國家未定,當相與圖之。」授曰:「叔父、母、弟,縣命袁氏,若蒙公靈,速死為福。」太祖歎曰:「孤早相得,天下 不足慮。」

『太平御覧』にみえる『献帝伝』

人事部28「汗」の項目にて、曹操が流汗して、
《獻帝傳》曰:舊儀三公領兵見,令虎賁執刃扶之,曹操顧左右,汗流背,自後不敢復朝請。

人事部127「餓」の項目にて、
《漢獻帝傳》曰:車駕至洛陽。是時宮室燒盡,百官披荊棘依丘墻間,州郡各擁強兵,而委輸不至。群僚饑乏,尚書郎以下自出采穞,或餓死墻壁間。

車部2「敘車下」にて、董卓の車を描写して、
《漢獻帝傳》曰:董卓作乘輿,青蓋,金范瓜畫兩輻者。乘之,時人皆號月軨磨車,言近天子也。后地動,卓問蔡邕。邕曰:「地動陰盛,大臣逾制之所致也。公乘青蓋,遠近以為非宜。太師之乘,白蓋車,畫輻。」

飲食部17「麋粥」にて、長安での食糧事情として、
《漢獻帝傳》曰:帝在長安,谷一斛五十餘萬。帝使侍御史侯汶出太倉米豆為饑民作糜粥,死者不絕。帝疑廩賦不實,敕取米豆五升,於御前作糜,得滿兩盆。杖汶五十。

『芸文類集』に見える『献帝伝』

巻69 服飾部上「簟」にて、
《漢獻帝傳》曰:尚書令王允奏曰:太史令王立,說孝經六隱事,能消卻姦邪,常以良日,允與立入,為帝誦孝經一章,以丈二竹簟,畫九宮其上,隨日時而出入焉。及允被害,乃不復行也。

『水経注』に見える『献帝伝』

巻17「渭水」について
《魏春秋》曰:諸葛亮據渭水南原,司馬懿謂諸將曰:亮若出武功,依山東轉者,是其勇也。若西上五丈原,諸君無事矣。亮果屯此原,與懿相禦。渭水又東逕郿縣故城南,《地理志》曰:右輔都尉治。《魏春秋》:諸葛亮寇郿,司馬懿據郿拒亮。即此縣也。渭水又東逕郿塢南,《漢獻帝傳》曰:董卓發兵築郿塢,高與長安城等,積谷為三十年儲。自云:事成,雄據天下;不成,守此足以畢老。其愚如此。

『献帝伝』に関する『三国志集解』の注釈

初出である、曹操が魏王になるところより、

章宗源はいう。『献帝伝』は巻数が分からない。『隋書』に載ってない。『献帝伝』から引かれるのは、『魏志』武帝紀の詔詞、文帝紀にひく禅代衆事、明帝紀の秦宜禄、青龍2年の山陽公の死亡記事、袁紹伝注、『水経注』渭水注、『後漢書』董卓伝、『芸文類集』服飾部である。

『水経注』と『芸文類集』を見てなかった。すぐやる。

編者がわからない。ただし『初学記』鳥部に、「劉艾『漢帝伝』」という題をひく。案ずるに『漢志』には、高祖伝・孝文伝がある劉艾はすでに献帝のために「紀」をつくり、それを更めて「伝」としたのでは。
『太平御覧』車部にひく『献帝伝』で、董卓は地動について蔡邕に問う。『魏志』にひく『献帝紀』と同じである。

沈家本はいう。章宗源によれば、『献帝伝』と『献帝紀』は同じ文書であるという。『献帝記』と巻中で書かれることもがあるが、写しまちがいで、「記」は「紀」とするのが正しい。

姚振宗はいう。『三国志』明帝紀の青龍二年、献帝が死んだときの文書があるが、これは完成後に追加されたものだろう。
また姚振宗はいう。『初学記』にひく『漢帝伝』とは、劉艾の著書名に似ている。献帝(山陽公)が死んだ青龍二年に、書名を『漢帝伝』から『献帝伝』に改めたのであろうか。晋代に入った後、『霊帝紀』とあわせて1帙として、名を『霊帝紀』『献帝紀』と定めたのである。『隋志』によれば、霊帝・献帝の世は、天下が乱れて、史官が常には置かれなかった。博達の士は廃絶をあわれみ、それぞれ聞見したことを書き記したのである。『献帝伝』が山陽公が薨したことを記すが、魏に入って14年が経っている。はじめは劉艾の著書があったが、あとから追加されたのだろうか。

漢末の人々の集合的な知性によって、『献帝紀』ないしは『献帝伝』がつくられた。この一事をもって、献帝は充分に報われるような気がする。


『献帝伝』について思うこと

献帝そのものよりも、周辺情報の提供というかたちで、利用されていることが分かった。ちょっと残念。曹操を魏王に封ず、曹丕に禅譲する、献帝の死を魏帝が悼む、という3つの文章が、『献帝伝』を通じて現在に伝わっているので、そこは大切。

『献帝伝』は編著者が分からない。
献帝を主人公にした小説を書くのなら、献帝のための書記係として、『献帝伝』を書くひとが登場してもいいかも。『献帝伝』より前の『献帝紀』は、劉芳・劉艾など具体的な人名が伝わるが、『献帝伝』にまとめあげたひとは不明。『史記』のように、親子2代で書き上げてもいいかも。父が『献帝紀』と名づけた本を、禅譲のあとに、子が複雑な気持ちで『献帝伝』に変更する。


むしろ、袁紹・沮授のための本なのかと思えるほど、沮授に関する記述が、おおく『献帝伝』を通じて伝わっている。
『献帝伝』ありと、『献帝伝』なしでは、袁紹・沮授についての情報量や印象がだいぶ変わってくる。「献帝の奉戴を勧めた沮授を退けたから、袁紹はわるい人物である」という構造があって、沮授はそれを引き立てる役になってる。
沮授が曹操に口説かれず、袁紹に殉じて死ぬのは、「忠臣」というキャラだから。つまり袁紹は、「沮授が袁紹に対してやったように」漢室に殉じるべきだった、というのが『献帝伝』の著者の歴史観だろう。
こういう装置としての役割を取り去ると、果たして袁紹は優柔不断で人物を活かすことができなかったのか、怪しくなる。献帝を保護しなかった、という一点においては、(少なくとも『献帝伝』の編著者の観点からは)咎められるべきだが、それ以外ではどうだろうか。

小説のなかに、『献帝伝』の編著者を登場させる場合は、沮授を通じて袁紹の支援を受け、献帝を長安から救出し、後漢を復興する、というプランを描いているだろう。しかし、沮授が袁紹の操縦に失敗するから、「オノレ袁紹!無能っぷりを書き立ててやる」という怒りに発して、史書に書き付ける。沮授には自死を期待する。きっと沮授は、それほど綺麗に死ねなかったのだろうが、『献帝伝』のなかでは理想化された。こういう私情を挟んだら、ダメなんだけど、やりがち。ワッツ・発憤。

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『献帝起居注』に関する情報収集

『献帝伝』と並んで気になるのが、『献帝起居注』です。
『隋書』に「漢獻帝起居注五卷」とある。『旧唐書』に「漢獻帝起居注五卷」とある。『新唐書』にも「漢獻帝起居注五卷」とある。五巻ある、という情報から増えないので、残っているテキストを見ていきます。

『献帝起居注』への『三国志集解』の注

『隋書』経籍志はいう。『献帝起居注』は五巻である。
またいう。いま残っているのは、漢献帝および晋代以来の起居注である。みな近侍の臣が記録したものである。
新・旧の『唐書』とも同じである。

さっき確認してあります。


章宗源はいう。『三国志』注、『続漢書』注、『後漢書』注、『初学記』職官部、『太平御覧』職官部、『通典』礼門注は、『献帝起居注』をひく。ぜんぶで数十の記述がある。

侯康はいう。『唐六典』には、漢献帝および西晋以後の諸帝の起居注がある。みな史官が記録したものである。

ぼくは思う。『献帝伝』が民間というか、流亡した知識人が自発的に書いているものと推測されている一方で、『献帝起居注』は史官が書いたものと推測されている。まあ、書名からイメージを膨らませただけなんだろうけど、おもしろい。朝廷のそとに『献帝伝』の編者がいて、朝廷のなかに『献帝起居注』の編者がいる。『献帝起居注』のひとは、曹操の顔色を窺わねばならない。『献帝伝』のほうは、諸国を放浪できる。たとえば、袁紹のところにいき、沮授の活躍を書きとめることができる。
ふたつの性格の違う書物が、どちらも献帝に密着して、時代を記録しているという対比は、けっこう「絵になる」話だと思います。

『魏志』文帝紀の注に、一条がある。曹操を「太祖」と称する。つまり、魏代に入ってから成立した本である。

ぼくは思う。呼称は、書き写す人が、都合(時代の要請など)によって、けっこう機械的に変更できる部分である。書物の成立年代を特定するとき、あまりアテにならないと思う。


姚振宗はいう。起居注とは、天子にだけ適応される(記録の)制度である。魏代に入ってから、「起居注」という書名をつけるのはおかしい。山陽公になった後ではない。山陽公になったあとのことは、『献帝伝』(『献帝紀』でない)、『山陽公記』の諸書がある。曹操を「太祖」として、天子を「献帝」とよぶのは、魏人が書いた(書き写した?)から、そうなっただけ。

姚振宗が反論してくれるなら、ぼくが書かねばよかった。


『史通』はいう。許都にいるとき、楊彪は「頗に注記を存す」と。これはつまり「劉表の存する所」という意味である。この書物は、魏に関係すること(献帝期の曹操の事績)を記録しており、ゆえに魏臣が書中の曹操を「太祖」と書き改めたのである。青龍期の前、『漢帝起居注』といったが(劉協の死後に)書名を『献帝起居注』にしたのだ。

類書などに見える『献帝起居注』

『初学記』巻12 職官部下 侍中
「至靈帝時,侍中舍有八區,論者因言員本八人。」という本文に対する注釈として、「《獻帝起居注》曰:初置侍中六人,出入禁中,近侍帷幄,省尚書秦事。據此漢末未或省員。」

『北堂書鈔』巻92-97 董卓の墓につき、
獻帝起居注曰家戶開大風暴雨水土流入杼出之棺向入輒復風雨水溫郭戶如此者工四冢中水平所樊稠等共下棺又風雨蓋暴甚遂閉戶戶閉大風復陂其家附

『三国志集解』には、『北堂書鈔』に『献帝起居注』からの引用があると書いてなかったが、あるじゃん。


『太平御覧』職官部19 黄門侍郎につき、
《獻帝起居注》曰:自誅黃門后,侍中侍郎出入禁中,機事頗露。由是王允乃奏:侍中、黃門不得出入,不通賓客,自此始也。

同じく『太平御覧』兵部90 鞭につき、
《漢獻帝起居注》曰:李傕性喜鬼怪左道之術,又於朝廷省門為董卓設神坐,數以羊祠之。詞畢,過省閣問帝起居,求入見。傕帶三刀,手復與鞭合持一刀。侍中侍郎見傕帶仗,皆惶恐,亦帶劍持刀,先入在帝側。

李傕のようすを、楊彪が書きとめたものだとすると、とても楽しい。李傕がおかしな妖術をやり、3刀を帯び、手には鞭を持っていた。侍中・侍郎は、李傕が武器をもっているの怖れ、いち早く献帝のそばにきて、献帝が殴られるのを守った。
メモ:楊彪が身を挺して献帝をムチから守った、というシーンが思い浮かぶ。いい!


さらに『太平御覧』方術部15 巫上にて、
《獻帝起居注》曰:李傕性喜鬼怪左道之術,常有道人、女巫擊鼓下神,祭六丁,符劾厭勝之,具無不為。又於朝廷省門外為董卓作神坐,數以牛羊祠之。天子使在中郎將李固持節,拜傕為大司馬,在三公之右。傕自為得鬼神之助,乃厚賜諸巫。

李傕が大司馬になれたのは、鬼神のおかげ。なんとも、官職を与えがいのない人物である。李傕の同僚・部下から見ても、意味不明だが、献帝から見ても、意味不明である。


『通典』礼30 元正冬至受朝賀
本文に、「後漢歲首正月,為大朝受賀。其儀:夜漏未盡七刻,鐘鳴,受朝賀及贄。」とあり、「獻帝起居注:「舊典,市長執雁,建安八年始令執雉。」と注釈する。

『後漢書』に見える『献帝起居注』

巻9 献帝紀
本文「初令侍中、給事黃門侍郎員各六人」とあり、注釈に「獻帝起居注曰:「自誅黃門後,侍中、侍郎出入禁中,機事頗露,由是王允乃奏侍中、黃門不得出入。不通賓客,自此始也。」とある。

巻9 献帝紀で、李傕が殺され、
獻帝起居注曰「傳傕首到許,有詔高懸之」也。

列伝62 董卓伝、董卓の墓が壊れて、
獻帝起居注 曰:「冢戶開,大風暴雨,水土流入,抒出之。棺向入,輒復風雨,水溢郭戶,如此者三四。冢中水半所,稠等共下棺,天風雨益暴甚,遂閉戶。戶閉,大風復破其冢。」

同じく董卓伝、六府ができてしまい、
本文で「於是傕、稠始相猜疑。猶加稠及郭 汜開府,與三公合為六府,皆參選舉」といってから、獻帝起居注 曰:「傕等各欲用其所舉,若壹違之,便忿憤恚怒。主者患之,乃以次第用其所舉,先從傕起,汜次之,稠次之。三公所舉,終不見用。」

同じく董卓伝、李傕が大司馬となると、
獻帝起居注 曰:「傕性喜鬼怪左道之術,常有道人及女巫歌謳擊鼓下神祭,六丁符劾厭勝之具,無所不為。又於朝廷省門外為董卓作神坐,數以牛羊祠之。天子使左中郎將李國持節拜傕為大司馬,在三公之右。傕自以為得鬼神之助,乃厚賜諸巫。」

董卓伝で、車駕が洛陽をめざして出発し、
獻帝起居注 曰:「初,天子出,到宣平門,當度橋,汜兵數百人遮橋曰:『是天子非?』車不得前。傕兵數百人皆持大戟在乘輿車前,侍中劉艾大呼云:『是天子也!』使侍中楊琦高舉車帷。帝言諸兵:『汝却,何敢迫近至尊邪!』汜等兵乃却。既度橋,士眾咸稱萬歲。」

洛陽に辿りつき、本文で「張楊以為己功,故因以『楊』名殿となれば、
獻帝起居注曰:「舊時宮殿悉壞,倉卒之際,拾摭故瓦材木,工匠無法度之制,所作並無足觀也。」

『続漢書』志第4 禮儀上 立春
本文に、「立春之日,夜漏未盡五刻,京師百官皆衣青衣,郡國縣道官下至斗食令史皆服青幘,立 青幡,施土牛耕人于門外,以示兆民,至立夏。唯武官不。立春之日,下寬大書曰:「制詔三 公:方春東作,敬始慎微,動作從之。罪非殊死,且勿案驗,皆須麥秋。退貪殘,進柔良,下 當用者,如故事。」
とあってから、注釈に、
月令曰:「命相布德和令。」蔡邕曰:「即此詔之謂也。」
獻帝起居注曰:「建安二十二年二月壬申,詔書絕,立春寬緩詔書不復行」

立春のとき、死刑より軽ければ、取り調べをするなという、刑罰を「寛」とする詔が出された。麦秋までは取り調べが延期された。しかし、建安二十二(217)年以降、この詔が出なくなった。216年に曹操が魏王になる。その翌年から停止したということは、曹操が魏王になった時点で、献帝は詔を出さなくなった。


『続漢書』志第4 禮儀上 冠に、
本文「王公以下,初加進賢而已」に対して、獻帝起居注曰:「建安十八年正月壬子,濟北王加冠戶外,以見父母。給事黃門侍郎劉瞻兼侍中,假貂蟬加濟北王,給之。」とある。

済北王って、献帝の子で、曹操に殺されるひとだっけ。


『続漢書』志第4 禮儀上 朝會に、
本文「每(月朔)歲首〔正月〕,為大朝受賀。其儀:夜漏未盡七刻,鍾鳴,受賀。及贄,公、侯璧, 中二千石、二千石羔,千石、六百石鴈,四百石以下雉、百官賀正月。」とあり、
注釈で、獻帝起居注曰:「舊典,巿長執鴈,建安八年始令執雉。」とある。

なぜ歳のはじめに振る舞われる鳥の種類を変えたのか。203年、曹操が袁氏の遺児を滅ぼしており、用意できなかったのか。


『続漢書』志第8 祭祀中 迎氣に、
本文で「立冬之日,迎冬于北郊,祭黑帝玄冥。車旗服飾皆黑。歌玄冥,八佾舞育命之舞」とあり、獻帝起居注曰:「建安八年,公卿迎氣北郊,始復用八佾。」とある。

曹操の庇護のもと、八佾を再開できたようだ。建安八年というのが、曹操が朝廷の儀礼を整える、区切りの年に見える。ただしおなじ八佾は、すでに劉表がやっていたのだろうが。袁紹を片づけた曹操が、劉表との対立を見込んで、劉表の非・僭越を見える化するようになったのが、建安八(203)年と考えたらおもしろそう。それまでは、劉表には中立を保ってもらうべきだから、劉表が天子なみの儀礼をやっても放置したと。


『続漢書』志第13 五行一
本文「獻帝興平元年秋,長安旱。是時李傕、郭汜專權縱肆。」に、注釈で「獻帝起居注曰:「建安十九年夏四月,旱。」とある。

つまり、214年の時点で、前の213年に魏公になった曹操が、李傕なみに朝廷を乱したから、ひでりが起きたと。うっすら『献帝起居注』はそれを言っている。


『続漢書』志第15 五行三 大水・水變色に、
本文「獻帝建安二年九月,漢水流,害民人。是時天下大亂」に、注釈「袁山松書曰:曹操專政。十七年七月,大水,洧水溢。」をつけ、
本文「十八年六月,大水」に、注釈「獻帝起居注曰:七月,大水,上親避正殿;八月、以雨不止,且還殿。」をつけ、

献帝は大水により、正殿を避け、翌月にもどった。

本文「二十四年八月,漢水溢流,害民人」に、注釈「袁山松書曰:明年禪位于魏也。」とする。

関羽が樊城を水没させた大水は、袁山松によれば、漢魏革命の予兆になってしまう。これで樊城が陥落して、曹仁が斬られていれば、べつの予兆になったかも知れない。どうにでもして。


『続漢書』志第19 郡國一 右扶風に、
獻帝起居注曰:「中平六年,省扶風都尉置漢安郡,鎮雍、渝麋、杜陽、陳倉、汧五縣也。」

『続漢書』志第23 郡國五 漢陽郡に、
獻帝起居注曰:「初平四年十二月,已分漢陽、上郡為永陽,以鄉亭為屬縣。」

『続漢書』志第23 百官二 衛尉に、
本文「公車司馬令一人,六百石。本注曰:掌宮南闕門,凡吏民上章,四方貢獻,及徵詣公 車者。」に、注釈が、
獻帝起居注曰:「建安八年,議郎衞林為公車司馬令,位隨將、大夫。舊公車令與都官、長史位從將、大夫,自林始。」

議郎の衛林が、公車司馬令となった。位は、将・大夫に随ふ(将・大夫と同じとする)。もともと公車令は、都官・長史と(同等だった)。将・大夫に従ふ(同じである)のは、衛林から始まる。
読み方に自信がないのですが、都官・長史よりも、将・大夫が上位という読み方になりましたが、合っているのか怪しいです。


『続漢書』志第23 百官三 少府の黄門侍郎に、
獻帝起居注 曰:「帝初即位,初置侍中、給事黃門侍郎,員各六人,出入禁中,近侍帷幄,省尚書事。改給事黃門侍郎為侍中侍郎,去給事黃門之號,旋復復故。舊侍中、黃門侍郎以在中宮者,不與近密交政。誅黃門後,侍中、侍郎出入禁闈,機事頗露,由是王允乃奏比尚書,不得出入,不通賓客,自此始也。」又曰:「諸奄人官,悉以議郎、郎中稱,秩如故。諸署令兩梁冠,陛殿上,得召都官從事已下。」

『続漢書』志第23 百官三 少府の尚書僕射に、
本文「尚書僕射一人,六百石。本注曰:署尚書事,令不在則奏下眾事」とあり、注釈に「蔡質漢儀曰:「僕射主封門,掌授廩假錢穀。凡三公、列卿、將、大夫、五營校尉行復道中,遇尚書僕射、左右丞郎、御史中丞、侍御史,皆避車豫相迴避。衛士傳不得迕臺官,臺官過後乃得去。」臣昭案:獻帝分置左、右僕射,建安四年以榮邵為尚書左僕射是也。 獻帝起居注曰:「邵卒官,贈執金吾。」

建安四年、尚書左僕射となった「榮邵」という人物が登場する。あんまりキャラが立ってなさそうなので、扱いづらいかも。


『続漢書』志第28 百官五 州郡に、
獻帝起居注曰:「建安十八年三月庚寅,省州并郡,復禹貢之九州。冀州得魏郡、安平、鉅鹿、河閒、清河、……という行政区分の変更について書かれている。

『続漢書』志第28 百官五 百官奉に、
獻帝起居注曰:「帝在長安,詔書以三輔地不滿千里,而軍師用度非一,公卿已下不得奏除。其若公田,以秩石為率,賦(輿)〔與〕令各自收其租稅。」

献帝が徴税できる範囲である三輔は狭いのに、軍用の調発がたびたび起こるから、朝廷には備蓄がない。官僚たちは支給が受けられず、みずから徴税にいった。


『続漢書』志第30 輿服下 進賢冠
獻帝起居注曰:「中平六年,令三府長史兩梁冠,五時衣袍,事位從千石、六百石。」

『続漢書』志第30 輿服下 黃赤綬
獻帝起居注曰:「時六璽不自隨,及還,於閣上得。」

一時的に、てもとに六璽がなくなった。きっと董卓さんのせいである。伝国璽の伝承は別にして、必要な印璽に欠いたのは、史実といえそう。


『三国志』に見える『献帝起居注』

巻1 武帝紀で、曹操が袁紹を破った報告をして、
獻帝起居注 曰:公上言「大將軍鄴侯袁紹前與冀州牧韓馥立故大司馬劉虞,刻作金璽,遣故任長畢瑜詣虞,為說 命錄之數。又紹與臣書云:『可都鄄城,當有所立。』擅鑄金銀印,孝廉計吏,皆往詣紹。從弟濟陰太守敍與紹書 云:『今海內喪敗,天意實在我家,神應有徵,當在尊兄。南兄臣下欲使即位,南兄言,以年則北兄長,以位則北 兄重。便欲送璽,會曹操斷道。』紹宗族累世受國重恩,而凶逆無道,乃至于此。輒勒兵馬,與戰官渡,乘聖朝之 威,得斬紹大將淳于瓊等八人首,遂大破潰。紹與子譚輕身迸走。凡斬首七萬餘級,輜重財物巨億。」

武帝紀 建安十三年、曹操が丞相となり、
獻帝起居注 曰:使太常徐璆即授印綬。御史大夫不領中丞,置長史一人。

武帝紀 建安十八年、曹操の娘をめとって、
獻帝起居注 曰:使使持節行太常大司農安陽亭侯王邑,齎璧、帛、玄纁、絹五萬匹之鄴納聘,介者五人,皆以議郎 行大夫事,副介一人

武帝紀 建安十九年、曹操の娘をむかえにゆき、
獻帝起居注 曰:使行太常事大司農安陽亭侯王邑與宗正劉艾,皆持節,介者五人,齎束帛駟馬,及給事黃門侍郎、 掖庭丞、中常侍二人,迎二貴人于魏公國。二月癸亥,又於魏公宗廟授二貴人印綬。甲子,詣魏公宮延秋門,迎 貴人升車。魏遣郎中令、少府、博士、御府乘黃廄令、丞相掾屬侍送貴人。癸酉,二貴人至洧倉中,遣侍中丹將冗 從虎賁前後駱驛往迎之。乙亥,二貴人入宮,御史大夫、中二千石將大夫、議郎會殿中,魏國二卿及侍中、中郎二 人,與漢公卿並升殿宴。

『献帝伝』の著者ともいわれている劉艾が登場!あとで「劉艾」を検索ワードにして、史料を抜いてみよう。


武帝紀 建安十九年、「三月,天子使魏公位在諸侯王上,改授金璽,赤紱、遠遊冠」とあるときに、
獻帝起居注曰:使左中郎將楊宣、亭侯裴茂持節、印授之。

楊宣・裴茂についても情報を集めたい。


巻2 文帝紀に、
獻帝起居注曰:建安十(五) 〔三〕年,為司徒趙溫所辟。太祖表「溫辟臣子弟,選舉故不以實」。使侍中守光祿勳 郗慮持節奉策免溫官。

巻6 董卓殿に、献帝が即位したとき、
獻帝起居注 載策曰:「孝靈皇帝不究高宗眉壽之祚,早棄臣子。皇帝承紹,海內側望,而帝天姿輕佻,威儀不恪, 在喪慢惰,衰如故焉;凶德既彰,淫穢發聞,損辱神器,忝污宗廟。皇太后教無母儀,統政荒亂。永樂太后暴崩, 眾論惑焉。三綱之道,天地之紀,而乃有闕,罪之大者。陳留王協,聖德偉茂,規矩邈然,豐下兌上,有堯圖之 表;居喪哀戚,言不及邪,岐嶷之性,有周成之懿。休聲美稱,天下所聞,宜承洪業,為萬世統,可以承宗廟。廢 皇帝為弘農王。皇太后還政。」尚書讀冊畢,羣臣莫有言,尚書丁宮曰:「天禍漢室,喪亂弘多。昔祭仲廢忽立 突,春秋大其權。今大臣量宜為社稷計,誠合天人,請稱萬歲。」卓以太后見廢,故公卿以下不布服,會葬,素衣 而已。

巻6 董卓(李傕)伝に、李傕が献帝をいじめて、
獻帝起居注 曰:初,汜謀迎天子幸其營,夜有亡告傕者,傕使兄子暹將數千兵圍宮,以車三乘迎天子。楊彪曰: 「自古帝王無在人臣家者。舉事當合天下心,諸君作此,非是也。」暹曰:「將軍計定矣。」於是天子一乘,貴人伏 氏一乘,賈詡、左靈一乘,其餘皆步從。是日,……

同じく、獻帝起居注 曰:傕性喜鬼怪左道之術,常有道人及女巫歌謳擊鼓下神,祠祭六丁,符劾厭勝之具,無所不為。又 於朝廷省門外,為董卓作神坐,數以牛羊祠之,訖,過省閤問起居,求入見。傕帶三刀,手復與鞭合持一刃。侍 中、侍郎見傕帶仗,皆惶恐,亦帶劍持刀,先入在帝側。傕對帝,或言「明陛下」,或言「明帝」,為帝說郭汜無狀,帝 亦隨其意答應之。……

同じく、獻帝起居注曰:初,天子出到宣平門,當度橋,汜兵數百人遮橋問「是天子邪」?車不得前。傕兵數百人皆持大 戟在乘輿車左右,侍中劉艾大呼……

巻11 邴原伝に、曹操が邴原を「徙署丞相徵事」して、
獻帝起居注曰:建安十五年,初置徵事二人,原與平原王烈俱以選補。

巻32 先主伝で、董承が曹操の暗殺をはかり、
獻帝起居注曰:承等與備謀未發,而備出。承謂服曰:「郭多有數百兵,壞李傕數萬人,但足下與我同不耳!昔呂 不韋之門,須子楚而後高,今吾與子由是也。」服曰:「惶懼不敢當,且兵又少。」承曰:「舉事訖,得曹公成兵,顧 不足邪?」服曰:「今京師豈有所任乎?」承曰:「長水校尉种輯、議郎吳碩是我腹心辦事者。」遂定計。

巻46 孫堅伝で、伝国璽について考察して、
江表傳曰:案漢獻帝起居注云「天子從河上還,得六璽於閣上」,又太康之初孫皓送金璽六枚,無有玉,明其偽也。

『献帝起居注』について思うこと

董卓との関係よりも、李傕との関係のほうが、リアルな描写がおおい。長安に置かれたときは、献帝も、楊彪ら高官も、物理的にピンチだった。だから記録すべきことが多かったのだろう。
そして、曹操との関係は、ほとんど語られない。わずかに、儀礼の変化によって、献帝の「待遇」が分かる程度。政治的な圧力が働くのだから、記録を残せなくて当然。袁山松のような史家は、天候に基づいて、「曹操は、李傕と同罪である」と妄想しており、そのあたりは細かく見たいところ。

「曹操がいかに献帝を扱うか」については、一貫性がなくても可。むしろ袁紹を破るまでは、李傕とあまり変わらない扱いかも。曹操そのひとの勢力が不安定であり、外敵に晒されて休まるヒマがなく、物資にも欠く。李傕のときと同じような圧迫があったから、董承が立ち上がったり。
しかし、203年に儀礼が整えられ始めたように、袁紹を破った曹操は、「袁紹は不忠、オレは忠臣」という構図を設定することにメリットを見出して、いきなり紳士的になるのかも知れない。この変化をつけることで、「献帝を虐げる曹操」、本人の意志はどうあれ、厳しい戦況のために「李傕なみに献帝を苦しめる曹操」を描くことができる。付随して、献帝をなだめる?(なだめすかす?)荀彧とか。「カネがないんだから、黙っていて下さい」とか叱るのかも。
許都において、妙に声望を集めてしまう劉備とか。

李傕のもとにいる献帝は、写実的すぎるほどの記録がある。むしろ、踏まえ過ぎると、史家のトラップに嵌まるかと思われるほど。これを参考に、曹操のもとにいる献帝を、いかに「復元・解凍」するかが、腕の見せ所だと思いました。
著者を、かりに楊彪だと設定して、漢の高官のがわから見た後漢末、というテーマ設定も成り立つ。その立場から、書けることと書けないことを選別して「自粛」し、曹操が魏公・魏王となるプロセスを見守ると。150602

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「劉艾」に関する情報収集

『献帝伝』(もとは『献帝紀』か)の著者である可能性がある劉艾について、検索結果を貼っていきます。
劉艾が行動者として登場する場合も、劉艾が著者として登場する場合も、貼っておきます。

『後漢書』より

巻7 霊帝紀 中平元年
「秋七月,巴郡妖巫張脩反,寇郡縣。」という本文に対して、「劉艾紀曰:時巴郡巫人張脩療病,愈者雇以米五斗,號為『五斗米師』。」

巻7 霊帝紀 中平四年
本文「二月,滎陽賊殺中牟令」について、「中牟,今鄭州縣。劉艾 紀曰:令落皓及主簿潘業,臨陣不顧,皆被害」とする。

同じ年、本文「六月,洛陽民生男,兩頭共身」について、「劉艾紀曰:上西門外劉倉妻生也」と。

固有名詞に関する情報量を純増させるところで引かれる。ほんとうに詳しい本で、范曄が重要でなさそうなところを削ったのだろう。


巻9 献帝紀 初平四年
本文に、「九月甲午,試儒生四十餘人,上第賜位郎中,次太子舍人,下第者罷之。詔曰:「孔子歎 『學之不講』,不講則所識日忘。今耆儒年踰六十,去離本土,營求糧資,不得專業。結 童入學,白首空歸,長委農野,永絕榮望,朕甚愍焉。其依科罷者,聽為太子舍人。」
とあって、注釈に、
劉艾獻帝紀曰:「時長安中為之謠曰:『頭白皓然,食不充粮。裹衣褰裳,當還故鄉。聖主愍念,悉用補郎。舍是 布衣,被服玄黃。』」

まずしくて帰郷しようとする人士を「郎」にして、朝廷で召し抱えて、衣服を支給してやったと。人々の心(というか身)を、後漢に繋ぎとめるのも大変。


巻9 献帝紀 興平元年、献帝が食糧の支給の不正を見破り、
本文「帝疑賦卹有虛,乃親於御坐前量試作糜,乃知非實,使侍中劉艾出讓有司。於是尚書令以下皆詣省閣謝,奏收侯汶考實。詔曰:「未忍致汶于理,可杖五 十。」自是之後,多得全濟。」と処置をする。
注釈にも劉艾がいて、
袁宏紀曰:「時敕侍中劉艾 取米豆五升於御前作糜,得滿三盂,於是詔尚書曰:『米豆五升,得糜三盂,而人委頓,何也?』」

列伝62 董卓伝で、
卓謂長史劉艾 曰:「關東諸將數敗矣,無能為也。 唯孫堅小戇,諸將軍宜慎之。」乃使東中郎將董越屯黽池,中郎將段煨屯華陰,中郎 將牛輔屯安邑,其餘中郎將、校尉布在諸縣,以禦山東。
と、董卓の長史として、孫堅の脅威をいう。同名の異人のような気がするが、董卓の「軍師」のように、董卓軍に入りこんでいたらおもしろい。

李傕・郭汜について、固有名詞の情報をくれる。
劉艾 獻帝紀曰:「傕字稚然。汜,張掖人。」

董卓伝でも、食糧に関する不正を摘発する。
乃親於 御前自加臨檢。既知不實,使侍中 劉艾 出讓有司。於是尚書令以下皆詣省閣謝,奏收侯汶 考實。詔曰:「未忍致汶于理,可杖五十。」自是後多得全濟。

曹操が食糧の支給をごまかし、隠せなくなると、料理係?を殺して、不平をなだめたというのは、史料にあるんだっけ? あの曹操の処方との対比を描いたら、おもしろそう。正しさよりも実利をとる、現実主義者の曹操。この曹操だから、勝ち進むことができる。ぎゃくに、正しさのためなら、実利も捨てる(滅亡のリスクも辞さない)やや世俗から超越した献帝。


董卓伝 注引『献帝起居注』として、すでに貼ったが、
傕兵數百人皆持大戟在乘輿車前,侍中 劉艾 大呼云:『是天子也!』使侍中楊琦高舉車帷。帝言諸兵:『汝却,何敢迫近至尊邪!』汜等兵乃却。既度橋,士眾咸稱萬歲。」
と、進路を妨げる李傕を叱ったのが劉艾である。

朝臣は、必然的に董卓の配下と親しくならざるをえない。劉艾が、李傕・郭汜と「親しく」つきあっており、あざなや本拠地を聞いていたとしても、不自然ではない。だれも興味がないような瑣末な固有名詞にかかる情報だけど、「親しい」からこそ書きとめる。


董卓伝 注引 袁宏『後漢紀』に、東遷につき、
袁宏紀曰:「傕、汜繞營叫呼,吏士失色,各有分散意。李樂懼,欲令車駕御舡過砥柱,出盟津。楊彪曰:『臣弘農人也。自此以東,有三十六難,非萬乘所當登。』宗正劉艾亦曰:『臣前為陝令,知其危險。舊故〔有〕河師,猶時有傾危,況今無師。太尉所慮是也。』」

楊彪とともに献帝を案内する劉艾がいる。陜県の県令になったことがあるから、地形について知っており、案内できると。
楊彪は『献帝起居注』の著者だとも言われ、劉艾は『献帝伝』の著者だとも言われる。献帝について記録するものが、協力して献帝の旅行をサポートしている。


董卓伝 注引 袁宏『後漢紀』で、曹操に合流して、
封衞將軍董承、輔國將軍伏完、侍中丁冲、种輯、尚書僕射鍾繇、尚書郭溥、御史中丞董芬、彭城相劉艾、馮翊韓斌、東郡太守楊眾、議郎羅邵、伏德、趙蕤為列侯,賞有功也。

曹操の政府の重要人物たちと一緒に、献帝を護衛して、東遷してきたことを評価されている。董承・伏完・鍾繇らと、劉艾がどういう人間関係にあったのか、とても気になる。


『三国志』にみえる劉艾

巻1 武帝紀で、
張璠漢紀曰:初,天子敗於曹陽,欲浮河東下。侍中太史令王立曰:「自去春太白犯鎮星於牛斗,過天津,熒惑又逆 行守北河,不可犯也。」由是天子遂不北渡河,將自軹關東出。立又謂宗正劉艾曰:「前太白守天關,與熒惑會; 金火交會,革命之象也。漢祚終矣,晉、魏必有興者。」立後數言于帝曰:「天命有去就,五行不常盛,代火者土 也,承漢者魏也,能安天下者,曹姓也,唯委任曹氏而已。」公聞之,使人語立曰:「知公忠于朝廷,然天道深遠,幸 勿多言。」

王立とともに、献帝を曹操のもとに連れてゆく。はやくも漢魏革命を予感している王立と、立場の違いでゴチャゴチャさせても、おもしろいか。


建安十九年、武帝紀 注引『献帝起居注』に、
獻帝起居注曰:使行太常事大司農安陽亭侯王邑與宗正劉艾 ,皆持節,介者五人,齎束帛駟馬,及給事黃門侍郎、 掖庭丞、中常侍二人,迎二貴人于魏公國。二月癸亥,又於魏公宗廟授二貴人印綬。

すでに見たように、曹操の娘を迎えにゆく。


韓遂について、固有名詞の情報を提供する。
劉艾 靈帝紀曰:章,一名(元) 〔允〕。

『献帝紀』より前から、『霊帝紀』も書いてた。


建安二十一年、曹操を魏王にするとき、注引『魏書』で、
……今 進君爵為魏王,使使持節行御史大夫、宗正 劉艾奉策璽玄土之社,苴以白茅,金虎符第一至第五,竹使符第一至 十。君其正王位,以丞相領冀州牧如故。……

巻6 董卓伝にあるが『後漢書』と同じ内容。

巻46 孫堅伝 注引『山陽公載記』に、董卓の長史として登場。
山陽公載記曰:卓謂長史劉艾曰:「關東軍敗數矣,皆畏孤,無能為也。惟孫堅小戇,頗能用人,當語諸將,使知忌 之。孤昔與周慎西征,慎圍邊、韓於金城。孤語張溫,求引所將兵為慎作後駐。溫不聽。孤時上言其形勢,知慎 必不克。臺今有本末。事未報,溫又使孤討先零叛羌,以為西方可一時蕩定。孤皆知其不然而不得止,遂行,留 別部司馬劉靖將步騎四千屯安定,以為聲勢。叛羌便還,欲截歸道,孤小擊輒開,畏安定有兵故也。虜謂安定當 數萬人,不知但靖也。時又上章言狀,而孫堅隨周慎行,謂慎求將萬兵造金城,使慎以二萬作後駐,邊、韓城中無 宿穀,當於外運,畏慎大兵,不敢輕與堅戰,而堅兵足以斷其運道,兒曹用必還羌谷中,涼州或能定也。溫既不能 用孤,慎又不用堅,自攻金城,壞其外垣,馳使語溫,自以克在旦夕,溫時亦自以計中也。而渡遼兒果斷(蔡園) 〔葵園〕慎棄輜重走,果如孤策。臺以此封孤都鄉侯。堅以佐軍司馬,所見與人同,自為可耳。」艾曰:「堅雖時見計,故自不如李傕、郭汜。聞在美陽亭北,將千騎步與虜合,殆死,亡失印綬,此不為能也。」卓曰:「堅時烏合義從,兵不如虜精,且戰有利鈍。但當論山東大勢,終無所至耳。」艾曰:「山東兒驅略百姓,以作寇逆,其鋒不如人,堅甲利兵彊弩之用又不如人,亦安得久?」卓曰:「然,但殺二袁、劉表、孫堅,天下自服從孤耳。」

天下の情勢を分析して、頭が良さそうである。また、韓遂・辺章と戦ったことがあり、韓遂の固有名詞について詳しくても不自然でない。張温と話せるほど、身分が高い。この劉艾さんは、同一人物と見なしてよいのかも。
董卓・献帝の政権からみれば、いかに関東の連中(袁紹・袁術・孫堅)が、秩序を乱すだけで、百害のみの連中として認識されているか分かる。べつに董卓に迎合して、董卓の敵を悪く言ったのではないだろう。
のちに劉艾・献帝が、いやでも濃密に付き合うことになる李傕・郭汜を、孫堅と比較しているところもおもしろい。『後漢書』董卓伝よりも記述が豊富で、活かしどころが多そうな記事。


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