読書 > 『資治通鑑考異』後漢末~曹魏末の考察の和訳

全章
開閉

188年~195年(『通鑑』巻59~巻61)

『通鑑考異』を和訳します。字句そのままではなく、じぶんで諸史料を見直して、意味をおぎないながら書きます。いつもは抄訳ですが、今回に限っては、やや情報が増えています。

『通鑑考異』は、『資治通鑑』の本文をそのまま引用せずに、要約や抽象化をして、「あの記事のことなんだけどさ」と位置を示す。比較対照しにくいから、なるだけ『資治通鑑』の本文そのままをひく。


中平五年≒188年

中平五年三月…益州刺史郤儉
『范書』は「郗倹」とつくるが、『蜀志』に従い「郤倹」とする。

南匈奴…右部□落、與屠各胡合,凡十餘萬人,攻殺羌渠。
『范書』霊帝紀に、「休屠各胡攻殺幷州刺史張懿,遂與南匈奴左部胡合,殺其單于」とあるが、『范書』南匈奴伝にしたがう。

八月,初置西園八校尉
『范書』袁紹伝で、袁紹が佐軍校尉となる。『范書』何進伝で、淳于瓊が佐軍校尉となる。いま、楽資『山陽公載記』にしたがう。

冬十月…帝躬擐甲、介馬,稱「無上將軍」,行陳三匝而還,以兵授進。帝問討虜校尉蓋勳
『范書』蓋勲伝では、蓋勲はときに宗正の劉虞、佐軍校尉の袁紹とともに、禁兵を典ずるとする。この蓋勲伝の記述は、正しくない。
なぜなら、劉虞は匈奴が叛する前からすでに幽州牧となっており(洛陽にはいないはずだし)、また宗正は、兵を典ずる官職ではない(蓋勲伝は誤りである)。ゆえに(『通鑑』からは、劉虞を)除く。

『通鑑』では、蓋勲が、袁紹にだけむかって、霊帝の政治を論じる。完成品は、勳謂袁紹曰:「上甚聰明,但蔽於左右耳。」與紹謀共誅嬖倖,蹇碩懼,出勳為京兆尹。という感じで。


中平六年≒189年

四月…太尉馬日磾免;遣使即拜幽州牧劉虞為太尉
『袁紀』では、三月己丑、光禄勲の劉虞を、司馬となし、幽州牧を領せしむ。いま『范書』にしたがう。

戊午,皇子辯即皇帝位,年十四。
『范書』霊帝紀では、年十七とする。張璠『漢紀』は、帝の年を十四とする。いま『漢紀』にしたがう。

中常侍郭勝,進同郡人也,太后及進之貴幸
『元紀』は、郭脉([月+永])とする。『九州春秋』は、郎勝とする。いま『范書』何進伝にしたがう。

ぼくはいう。質問です。『通鑑考異』の漢代のところに出てくる「元紀」とは、どの史料のことでしょうか。著者が「元」姓の史料だと思いますが、知りません。お願いいたします。
@yuan_shao さんはいう。前漢部分なら元帝紀のはずなんですが、ちょっと後漢っていうのが。手元に『通鑑』がないので確認できないんですが、もしかしたら袁の誤植じゃないですかね。
ぼくはいう。ありがとうございます。『通鑑考異』は、リンク先で見ています。范曄『後漢書』本紀を指すとき、「帝紀」とだけ書き「霊紀」「献紀」と書きません。「荀紀」「袁紀」とあるので、著者が「元」の「~紀」という史料だと思います。
http://ctext.org/library.pl?if=gb&res=14
リンク先の108枚目の画像なんですが、、ご指摘のとおり、「袁紀」の誤りに思えてきました。『後漢紀』に「郭脈」とあるので、これを指しているかと思われます。


六月,辛亥,董後憂怖,暴崩
『九州春秋』は、太后は「憂懼して自殺」する。いま『范書』董皇后紀にしたがう。

七月…嵩從子酈說嵩曰
『袁紀』は「嵩從子邐諫嵩曰」とあり、皇甫嵩のおいの名がちがうが、いま『范書』にしたがう。

何進召卓使將兵詣京師
『范書』何進伝では、董卓を召して関中の上林苑に屯せしむ。ときに董卓は、すでに河東に屯しているから、もし上林苑に屯せしめれば、更めて(更に)西に行かせたことになり、何太后を脅すことにならない。いま『范書』董卓伝にしたがう。

虎賁中郎將袁……術因燒南宮青瑣門
『范書』何進伝では、「九龍門」につくる。いま『袁紀』にしたがう。

十月…白波賊寇河東
『范書』霊帝紀では、中平五年九月、南単于が叛き、白波賊とともに河東を寇する。『范書』南匈奴伝をみると、霊帝が崩じた後、於夫羅は白波賊とともに寇する(中平五年は、霊帝がまだ生きており)本紀が誤りである。南匈奴伝にしたがい、霊帝の死後に、南単于が叛する記事をおく。

初,尚書武威周毖、城門校尉汝南伍瓊,說董卓矯桓、靈之政
『范書』では、吏部尚書である漢陽の周ヒツ([王+必])と、侍中である汝南の伍瓊である。『袁紀』では、侍中の周ヒツ([王+必])とする。いま『魏志』および『英雄伝』にしたがう。

『三国志』董卓伝:卓信任尚書周毖、城門校尉伍瓊等。
『英雄記』:毖字仲遠,武威人。瓊字德瑜,汝南人。《魏志.董卓傳》注。又《後漢書.董卓傳》注引無「汝南人」三字。
『英雄記』と『英雄伝』は同じですか?


陳留孔伷為豫州刺史
『九州春秋』では、「孔胄」につくる。いま『范書』董卓伝にしたがう。

馥乃作書與紹,道卓之惡,聽其舉兵。
『范書』と『魏志』とに、この記事がある。『范書』では挙兵のあと、『魏志』では挙兵の前におく。もし挙兵のあとならば、すでに袁紹は盟主である。なぜ韓馥が、袁紹の挙兵を禁じることができようか。この記事は、挙兵の前におくべきであり、このあたり(中平六年の末)が妥当であろう。『魏志』にしたがう。

初平元年≒190年

三月,乙巳,車駕入長安
『袁紀』は、三月己巳,車駕至長安とする。『范書』にしたがう。

術由是得據南陽。
『范書』袁術伝では、劉表が上して、袁術を南陽太守とする。『范書』劉表伝では、「袁術阻兵屯魯陽,表不能得至,乃單馬入宜城」と、袁術が劉表の着任のじゃまをする。
『魏志』袁術伝では、「長沙太守孫堅殺南陽太守張咨、術得據其郡」と、孫堅が南陽太守を殺して、そのあとを袁術が拠点とする。
武帝紀は、初平元年の2月、すでに袁術が南陽に屯したという。
けだし、袁術ははじめに魯陽にいて、この年の春に孫堅が南陽をうばい、その南陽に袁術が拠ったのだろう。(猶ほ)魯陽にいたまま、南陽の治所とした。

胡毋班、吳修、王瑰至河內,袁紹使王匡悉收系殺之。
謝承『後伝漢書』に、胡母斑は、王匡の妹の夫だとある。胡母斑が王匡におくった文書には、「私は、太傅の馬日磾、太僕の趙岐、少府の陰脩とともに、詔命を受けて、関東の諸郡をまわっている。王命を奉じている私を、捕らえて辱めるな」とある。
『范書』では、この年(初平元年)の6月、韓融らをやって、関東を安集させるが、袁術や王匡は、韓融らをそれぞれ捕らえて殺す。2年後の初平三年8月、馬日磾と趙岐に、天下を慰撫させる。
『袁紀』では、馬日磾と趙岐を関東にやるのは、初平三年8月である。時期が近接しており、混同されたと見られるので、謝承がひく胡母斑の文書は(正しくないと見なして)採用しない。

冬…左中郎將蔡邕議:「孝和以下廟號稱宗者,皆宜省去,以遵先典。」
『袁紀』では翌年の記事だが、『范書』にしたがう。

初平二年≒191年

夏,四月,董卓至長安,公卿皆迎拜車下。卓抵手謂御史中丞皇甫嵩曰…
『范書』皇甫嵩伝と、『山陽公載記』では、皇甫嵩の言葉が異なる。いま、張璠『漢紀』の言葉を採用する。

『通鑑』:明公以德輔朝廷,大慶方至,何怖之有!若淫刑以逞,將天下皆懼,豈獨嵩乎!
『范書』皇甫嵩伝:嵩笑而謝之,卓乃解釋(台詞なし)
同注引『献帝春秋』:昔與明公俱為鴻鵠,但明公今日變為鳳皇耳!
『山陽公載記』:


馥長史耿武、別駕閔純、治中李歷聞而諫曰
『九州春秋』は「耿彧」とするが、『范書』『魏志』『袁紀』にしたがう。
『范書』では、騎都尉の沮授が、韓馥を諌める人のなかにあり、ぎゃくに李歴がでてこない。いま『魏志』『袁紀』に従い、沮授をはぶいて、李歴をのせる。

十月…劉虞子和為侍中,帝思東歸,使和偽逃董卓,潛出武關詣虞,
『范書』劉虞伝で、劉虞は田畴を使者として、長安にゆかせる。ときに劉和は侍中として長安にいた。劉和は武関から出て(父の劉虞がいる幽州をめざす)。
『魏志』公孫瓚伝をみると、天子は(洛陽に)帰りたいというだけで、田畴が長安に至ったとはいわない。

つぎに、「若爾當令和與疇俱還不應出武関」とありますが、議論がよく分からなかったので、ここに原文だけ載せておきます。

また田畴が帰る前に、劉虞が死んだ。劉虞の死は、初平四年冬である。界橋の戦いは、初平三年春である。『范書』が誤りである。

結論だけは、『范書』劉虞伝よりも、『魏志』公孫瓚伝に拠りましょうということで、了解しました。


堅乘勝夜追祖,祖部兵從竹木間暗射堅,殺之。
『范書』では、初平三年春、孫堅が死ぬ。
『呉志』孫堅伝でも、初平三年に死ぬ。『英雄記』では、初平四年正月七日、孫堅が死ぬ。『袁紀』では、初平三年五月に死ぬ。
『山陽公載記』は、孫策の上表を載せて、「私が十七のときに父が死んだ」とする。裴松之が考えるに、孫策は建安五年に死んだとき、二十六歳だった。かぞえると、孫堅が死んだとき、十八歳となる。上表とあわない。
張璠『漢紀』、胡沖『呉歴』は、どちらも孫堅の死を、初平二年とする。これが正しい。『呉志』孫堅伝の誤りである。いまは初平二年としておく。

初平三年≒192年

袁紹…斬其所置冀州刺史嚴綱,獲甲首千餘級
『九州春秋』では「劉綱」につくるが、『范書』『魏志』にしたがう。

夏四月…布令同郡騎都尉李肅
『袁紀』では「李順」につくるが、『范書』『魏志』にしたがう。

初,黃門侍郎荀攸與尚書鄭泰、侍中種輯等謀曰:「董卓驕忍無親…
『魏志』では、荀攸は、何顒・伍瓊と同謀する。だが、何顒と伍瓊が死んでから、すでに久しい。おそらく『魏志』の誤りである(から、何顒と伍瓊の名をのぞく)

五月
『范書』は、丁酉に大赦とする。『袁紀』は、丁未に大赦とする。
この年の正月丁丑に大赦しており、また李傕が赦をもとめると、王允が「1年に2回の赦はしない」という。五月に、大赦はなかったであろう。

傕隨道收兵,……與卓故部曲樊稠、李蒙等合圍長安城,城峻不可攻,守之八日。
『魏志』では、攻城戦を十日とする。『范書』に従う。

原則として、『資治通鑑』は、『范書』を正しいとして進む。『袁紀』は、ほぼ全滅。劉虞のところみたいに、明らかに『范書』に誤りがない限り、『魏志』に乗り換えない。


揚州刺史汝南陳溫卒,袁紹使袁遺領揚州;袁術擊破之。遺走至沛,為兵所殺。術以下邳陳瑀為揚州刺史。
『献帝紀』初平四年3月、袁術は陳温を殺して、淮南に拠る。
『魏志』袁術伝では、袁術は陳温を殺して、揚州を領する。
裴松之が考えるに、『英雄記』で陳温は病死しており、袁術に殺されない。
『九州春秋』には、初平三年、揚州刺史の陳禕が死んだから、袁術が陳瑀に揚州を領させたとする。けだし『九州春秋』では、陳禕を陳温に改めるべきだろう。「初平三年、揚州刺史の陳温が(病気で)死んだ」とするのが正解だろう。

初平三年、陳温が死んだ。その空隙をねらって、袁紹が袁遺をつかわせた。その袁遺を、袁術が撃破したと。
袁術が殺した相手は、袁遺なのだが、誤って「袁術が陳温を殺した」とすり替わった、というのが司馬光の意見。


初平四年≒193年

春,正月丁卯,赦天下。
『袁紀』は、五月丁卯に赦とする。『范書』にしたがう。

六月…下邳闕宣聚眾數千人,自稱天子;陶謙擊殺之。
『范書』陶謙伝では、「閻宣(エンセン)」とするが、『魏志』武帝紀および陶謙伝にしたがって「闕宣(ケッセン)」とする。
『魏志』武帝紀は、陶謙は闕宣とともに、泰山・任城を掠めたとする。『魏志』陶謙伝では、陶謙ははじめ闕宣と結んだが、のちに闕宣を殺して、衆をあわせたとする。
(司馬光が)按ずるに、陶謙は徐州にいて、勤王をとなえた。どうして闕宣などと手を結ぶものか。けだし陶謙の別将が、闕宣とともに曹嵩を襲ったのだろう。曹操は、これを陶謙の罪と見なして、討伐したのである。

興平元年≒194年

なし

興平二年≒195年

春,正月,癸丑,赦天下。
『袁紀』は、癸酉とする。
長暦を按ずるに、この月は癸卯がついたちである。癸酉はない。『范書』にしたがう。

詔即拜袁紹為右將軍。
『袁紀』では、後将軍とする。『范書』にしたがう。

閏月,己卯,帝使竭者僕射皇甫酈和傕、汜。
『袁紀』は、皇甫麗とする。『范書』にしたがう。

沮授說袁紹
『魏志』袁紹伝で、天子が河東にいるとき、袁紹が郭図を使者にしたという。郭図は還ってきて、天子を鄴に迎えようというが、袁紹は従わない。いま、『後漢書』にしたがう。

『范書』つよいなあ!これが『資治通鑑』漢紀だから?


孫策渡河
『魏志』『袁紀』では、どちらも初平四(193)年、袁術に命じられて、孫策が渡河する。『范書』献帝紀と『呉志』孫策伝では、興平元(194)年、渡河する。孫策伝にひく『江表伝』では、おそらく興平二(195)年に渡河したとする。
袁術は、初平四(193)年、寿春をえた。孫策伝は、袁術が徐州を攻めようとして、陸康に協力を要請したが、これは劉備が徐州を得たあとでなければならない。『呉志』劉繇伝では、伍瓊が劉繇を攻めたが、「歳余」勝てなかった。つまり、孫策の渡河は、興平元年より前のはずがない。いま、『江表伝』に基づいて、興平二(195)年に渡河したと見なす。

劉繇敗走
『范書』献帝紀では、劉繇は興平元(194)年に敗走する。いま『江表伝』に従って、興平二(195)年に敗走したとする。

劉繇使豫章太守朱皓攻袁術所用太守諸葛玄
『献帝春秋』は、劉表が上して、諸葛玄に豫章太守を領させたとある。
『范書』陶謙伝もまた、劉表が諸葛玄を用いたとある。
しかし『蜀志』諸葛亮伝は、諸葛玄が袁術に用いられたとある。
按ずに、許劭が劉繇に「劉表をたよれ」と勧めている。劉繇が、劉表のおいた諸葛玄を攻めるはずがない。だから『蜀志』諸葛亮伝により、諸葛玄は袁術によって置かれたとする。150204

閉じる

196年~200年(『通鑑』巻62~巻63)

建安元年≒196年

備收餘兵東取廣陵,與袁術戰,又敗,屯於海西。
『蜀志』劉備伝では、ここにおいて、楊奉と韓暹が、徐州・揚州の間に寇したから、劉備が2人を斬ったとする。
按ずるに、韓暹と楊奉は、どちらも呂布とともに袁術を破る。このとき、2人は死なない。『蜀志』劉備伝が誤りである。

「先主伝」と書かないのは、『通鑑考異』の仕様です。


召備…使屯小沛。布自稱徐州牧。
『蜀志』劉備伝では、関羽に下邳を守らせたとする。それは呂布を破ったあとのことであり、この時点では、関羽は下邳にゆかない。

八月…操乃遣揚武中郎將曹洪將兵西迎天子,董承等據險拒之,洪不得進。
『魏志』武帝紀は、建安元年正月のこととする。しかし『魏志』荀彧伝では、天子が洛陽にきた後のこととする。いま荀彧伝にしたがい、八月まで遅らせる。

遂共表操為鎮東將軍,襲父爵費亭侯。
『魏志』武帝紀は六月とする。しかし『魏志』董昭伝は、天子が洛陽にきた後のこととする。いま、董昭伝にしたがい、八月まで遅らせる。

或謂操曰:「備有英雄之志,今不早圖,後必為患。」操以問郭嘉,嘉曰:「有是…
『魏志』郭嘉伝で、程昱と郭嘉は、曹操に「劉備を殺せ」と勧める。いま『魏志』にしたがう。

建安二年≒197年

曹操遣議郎王誧以詔書拜孫策為騎都尉,襲爵烏程侯,
『江表伝』に、建安二年夏、王誧が戊辰の詔書を、孫策に与えたとある。しかし何月のことか分からない(から夏の記事のうち、適当な場所に配置する)

九月…操擊破蕤等,皆斬之。
『范書』呂布伝では、呂布が張勲を下邳でやぶり、橋蕤をいけどる。いけどられたのは、橋蕤の部下の一将であろう。もしくは、橋蕤はいけどられたが、返還されたか。
『魏志』呂布伝に、呂布が橋蕤を捕らえたという記事がない。『范書』が誤りである(から、呂布が橋蕤を捕らえる記事を採用しない)

操…乃引沂、泗灌(下邳)城。月餘,布益困迫,
『范書』呂布伝で、3ヶ月、下邳城をひたす。
『魏志』呂布伝もまた、3ヶ月、囲む。
按ずるに、曹操は10月に下邳城にきて、呂布を殺すまで、一季の期間をかけた。(下邳に着いた直後から、水攻をしないと)「3ヶ月」とは言えないから、『魏志』武帝紀にしたがって(水攻の期間を「月余」)とする。

劉備曰:「不可。明公不見呂布事丁建陽、董太師乎!」
『献帝春秋』は、曹操が呂布を活かしたいから、縛りをゆるめようとした。主簿の王必が、はしって進み、「ゆるめるな」といった。いま、『范書』『魏志』にしたがって(王必ではなく、劉備が言ったことにする)

十二月…郡人桓階說羨舉長沙、零陵、桂陽三郡以拒表,遣使附於曹操,羨從之。
『魏志』桓階伝に、袁紹と曹操が対立して官渡を渡ると(200)、桓階が張羨に説く。しかし、『范書』劉表伝によると、建安三(198)年、張羨は曹操に帰順する。官渡よりも前のことである。

孫策遣其正議校尉張紘獻方物,曹操欲撫納之,表策為討逆將軍,封吳侯
『江表伝』によると、建安元年に献上して、同年に討逆将軍・呉侯をもらったとする。しかし、建安元年ではなく、建安二年が正しい。
『呉志』張紘伝によると、建安四年、張紘は許都にゆく。張紘は、孫策の才略を、曹操にアピールする。曹操が孫策を改号して、加封してやる。だから……

よくわからないので、『通鑑考異』の原文をのせておく。按吳書紘述策才略忠欵曹公乃優文襃崇改號加封然則紘來在策封吳侯前本傳誤也
まあ『資治通鑑』が、建安三年の末に、月を特定できない記事をおいている。建安四年より前というのが固くて、それ以外は、よく分からない。


率其部曲奉術柩及妻子,奔廬江太守劉勳於皖城。
『呉志』孫策伝では、袁術が死ぬと、長史の楊弘、大将の張勲らが、衆をひきいて孫策をたよろうとする。だが廬江太守の劉勲に、迎撃されて捕らわれ、珍宝を奪われる。
史料ごとに違うので、いま『范書』『陳志』にしたがう。

『通鑑考異』に「今從范書陳志術厚及江表傳」とあるが、「術厚」の意味がわかりません。


策便進軍,歆葛巾迎策,策…便向歆拜,禮為上賓。
華嶠『譜叙』に、孫策は揚州で勢いがあるから、豫州はおおいに恐れて、孫策を出迎えよといった。華歆は……

華歆伝の裴注がひかれる。華嶠譜敍曰。孫策略有揚州、盛兵徇豫章、一郡大恐。官屬請出郊迎、教曰「無然。」策稍進、復白發兵、又不聽。及策至、一府皆造閣、請出避之。乃笑曰「今將自來、何遽避之?」有頃、門下白曰「孫將軍至。」請見、乃前與歆共坐、談議良久、夜乃別去。義士聞之、皆長歎息而心自服也。

この説は、あまり人情に近くない(真実味がない)ので、採用しない。

備遂殺徐州刺史車冑,留關羽守下邳,
『蜀志』劉備伝は、董承が謀反がバレて死んだから、劉備が車冑を殺したとする。だが『魏志』では、車冑を殺した翌年、董承が死ぬ。『袁紀』では、劉備が下邳に拠るのは、董承が死ぬ前である。『蜀志』が誤りである。

建安五年≒200年

曹操擊劉備,破之,獲其妻子
『魏書』に、劉備は曹操がきたと聞くと、さっさと逃げたとある。信じられる話ではない。

策還擊登,軍到丹徒,須待運糧。
これは『江表伝』より。
『呉志』孫策伝によると、孫策は許都を襲おうとして、死んだ。
『魏志』陳矯伝によると、陳登は、孫権によって匡奇で包囲された。陳登は、陳矯を曹操につかわし、救いを求めた。曹操がきたので、孫権は撤退した。
『先賢行状』には、陳登が江南を呑む志をもち、孫策は陳登を匡奇城で攻めて、陳登を破ったとする。陳登は、功曹の陳矯をつかわし、曹操に救いを求めた。史料によって異なる(陳登を囲んだのが、孫権か孫策か)
孫盛『異同評』によると、袁紹は建安五年、黎陽にきた。孫策は、同年4月に殺害された。孫策が「曹操と袁紹が官渡でむきあった」のを聞いたというのは、誤りである。
いま孫盛にしたがって、孫策の最期のターゲットと陳登とする。

初,策殺吳郡太守許貢
『江表伝』によると、許貢は漢帝に上表して、「孫策を京邑に召せ」とすすめた。孫策はこれを知って、許貢を責めて、絞め殺した。
按ずるに、許貢はさきに朱治のために追い出され、厳白虎を頼った。どうして、再び(呉郡太守として孫策に対抗)できるものか。けだし孫策は、厳白虎を破ったとき、あわせて許貢も殺したのであろう。

丙年,策卒,時年二十六。
虞喜『志林』によると、孫策は4月4日に死んだ。ゆえに、4月にこの記事をおく。
『呉志』孫策伝では、許都を襲うつもりだった。『魏志』郭嘉伝では、郭嘉は、匹夫である孫策の死を予見したことになっているが、さすがにムリ。郭嘉は、孫策が許都を襲うことまでは、ムリだと(軍事情勢を分析して)判断したに過ぎない。

十月…攸怒,遂奔操。操聞攸來,跣出迎之
『魏志』武帝紀では、許攸は、貪財であり、袁紹は満足させられなかったから、曹操に投降したことになっている。しかし、『范書』袁紹伝を採用する。

許攸が投降した理由は、「會攸家犯法,審配收系之」となっている。
ぼくは思う。司馬光は、努めて陳寿『三国志』からの記述を、排除しようとしてる。『范書』を優先的につかう。『江表伝』などの裴注があれば、積極的につかう。『三国志』のおそまつさは、陰の主人公の劉備伝=先主伝ですら、間違いだらけであることに顕著。


操盡坑之,前後所殺七萬餘人。
『范書』袁紹伝では、袁紹軍が、八万人が殺されたとする。
『献帝起居注』にみえる曹操の上言をみると、七万余級である。

魯肅將北還,周瑜止之,因薦肅於權
『呉志』魯粛伝によると、劉子揚は、魯粛をとどめて、鄭宝を頼らせようとした。魯粛が行こうとすると、周瑜が孫権をたすけろと勧めて、魯粛をとどめた。
按ずるに、劉曄は鄭宝を殺して、その衆を劉勲に与えた。劉勲は孫策に殺されて、滅ぼされた。鄭宝は孫権に及ばない。150204

ぼくは思う。なんだか、『通鑑考異』は、許攸の内面をさぐったり、郭嘉の予知能力をうたがったり、鄭宝をけなしたり、、本来の目的から、逸れてきている気がする。『資治通鑑』編集者は、『三国志』ファンだろうか。禁欲的に、仕事しろよ。

閉じる

201年~219年(『通鑑』巻64~巻68)

建安七~十年≒202~205年

七年五月南單于降
『魏志』張既伝では、高幹が反して、単于はみな(高幹に)降るが、それは誤りである。

八年二月曹操攻黎陽
『魏志』武帝紀では「三月」につくる。いま『范書』袁紹伝にしたがう。また『魏志』袁紹伝では、袁譚・袁尚と曹操は、黎陽で相拒すること二月より九月に至る。ゆえに(武帝紀のいう「三月」でなく)二月とすべきである。

操追袁譚袁尚至鄴
『范書』袁紹伝で、袁尚は逆撃して曹操軍をやぶる。いま『魏志』袁紹伝にしたがう(袁尚の勝利は、なかったことと見なす)。

司馬光は『范書』と『魏志』を見比べて検討しているのがわかる。


九年七月袁尚保祁山
『魏志』袁紹伝で、袁尚は還りて「濫口」を守る。『范書』袁紹伝は「藍口」につくる。いま『魏志』武帝紀にしたがう。

建安十三~十五年≒208~210年

十三年正月趙溫免
『献帝起居注』では、建安十五年に記事がある。『范書』献帝紀では、建安十三年に記事がある。按ずるにこの年に三公の官を廃止した。建安十五年まで、趙温が三公でいられるはずがない。

甘寜奔孫權
『呉志』孫権伝で、建安八年・建安十二年に、どちらも黄祖を撃つ。『呉志』凌統伝で、父の凌操が死んだとき、凌統は十五歳で、父の兵を嗣いだ。のちに麻保の屯を撃ち、陳勤を刺殺した。按ずるに、周瑜伝・孫権伝では、建安十一年に麻保の屯を撃つ。つまり凌操の死は、建安八年であろう。その五年後(建安十三年ごろ)甘寧が孫権のもとに奔ったとするなら、(記事を置く位置が)遅いのかも知れない。いま年月の手掛かりがないから、ここに記事を置いておく。

甘寧が孫権のもとに奔った時期を、『三国志集解』などで推定すると楽しい。


六月曹操表馬騰為衛尉
『典略』によると、建安十五年、馬騰を徴して衛尉にした。張既伝を按ずるに、曹操がまさに荊州を征するとき(建安十三年)張既に馬騰を「入朝せよ」と説得した。
けだし『典略』の「建安十五年」は誤りで、「建安十三年」であろう。

八月蒯越等說劉琮降
『范書』劉表伝・『陳志』劉表伝ともに、韓嵩もまた劉琮に「曹操に降れ」と説いたことになっている。按ずるに、韓嵩はこのとき囚われている。ぜったいに謀に預からない(韓嵩が発言したとする『范書』『陳志』の記事は誤りであるから、『通鑑』では韓嵩に発言させない)。

九月操以王粲為掾屬
王粲伝によると、曹操は漢浜(漢水のそば)で置酒した。王粲はさかずきを奉じて賀したと。按ずるに、曹操は劉備が江陵に拠るのを恐れて、襄陽に至るとすぐに1日に300里以上も進んだ。名士を率いて用い(名士も曹操とともに)みな江陵に至った。その(江陵に至った)後で漢浜で置酒することはできない。恐らく王粲伝は誤りであろう。

十二月孫權圍合肥
『魏志』武帝紀の建安十三年十二月、孫権は劉備のために合肥を攻めた。曹操は江陵から劉備を攻めて巴丘に至った。(曹操が合肥に行けないから)張熹をつかわし、合肥を救わせた。孫権は張熹がきたと聞いて(合肥の包囲を解いて)逃げた。曹操が赤壁に至り、劉備と戦ったが、利がなかった。
孫盛『異動評』によると、『呉志』を按ずるに、劉備は先に曹操の軍を破って、(劉備が曹操を赤壁で破った後に)後に孫権が合肥を攻めた。武帝紀では、先に孫権が合肥を攻め、後に劉備が赤壁で戦ったという順序になる。ふたつの戦いの前後関係が異なる。『呉志』もこれと同じである。
また陳矯伝によると、陳登が孫権に匡奇で囲われたので(陳登が)陳矯を遣わして、曹操に救いを求めたという。しかし『先賢行状』によれば、陳矯は(孫権ではなく)孫策に囲まれたという。按ずるに孫策は、陳登を攻めようとしたが、長江を渡る前に、許貢の食客に殺された。
『呉書』によると、孫権が合肥を攻め、張昭に命じて別軍をひきいて匡奇を討たせた。このとき(建安十三年)陳矯はすでに曹仁の長史になっている(陳登の使者として曹操のもとに救いを求めるのはおかしい)。また陳登は三十六歳で死んでおり、(建安十三年の時点で)すでに死んでいる。陳登が孫氏(孫策もしくは孫権)に囲まれた時期は、いつのことだか分からない。

陳登が孫氏に囲まれる戦いは、司馬光が仮説すら作れなかった。


十四年三月權燒圍走
『魏志』武帝紀の(建安十三年)十二月、孫権は合肥を囲んだ。劉馥伝によると、攻囲すること百余日という。孫権伝は、「月をまたいでも(合肥城を)下せなかった」とある。これにより、孫権が(合肥から)退いたのは、今年(建安十四年)であることは明らかである(十二月から百余日が経過すれば、翌年の三月になるため、記事をここに置く)

張遼討斬陳蘭梅成
張遼伝には、(張遼が陳蘭・梅成を斬ったのが)何年かという記述がない。按ずるに繁欽『征天山賦』によると、建安十四年十二月甲辰、丞相・武平侯の曹操は、東征して川(長江?)に臨む。渡る前に、反乱勢力が蠢動して、セン・六のあたりで割拠した。俾上將・蕩寇將軍の張遼は、兵を南嶽の陽(南)で治めた。

維基百科によると、繁欽は、218年没。あざなは休伯。後漢の潁川のひと。『陳志』巻二十一にひく『典略』に見える。杜襲とともに劉表につかえ、曹操の丞相主簿となる。建安十四年、曹操が張遼に陳蘭・梅成を討たせたとき、繁欽がそのときのことを描写した。
典略曰。欽字休伯、以文才機辯、少得名於汝、潁。欽既長於書記、又善爲詩賦。其所與太子書、記喉轉意、率皆巧麗。爲丞相主簿。建安二十三年卒。
『征天山賦』に、「建安十四年十二月甲辰,丞相武平侯曹公東征,臨川未濟,群舒蠢動,割有灊、六,乃俾上將蕩寇將軍張遼治兵南嶽之陽。」とある。

また天柱を去陟し南徂した(?)。ゆえに(張遼が陳蘭・梅成を斬る記事を)ここに置く。

十五年十二月周瑜卒
『江表伝』を按ずるに、周瑜と孫策は同年である。孫策は建安五年に二十六歳で死んだ。周瑜が死んだとき、三十六歳だった。ゆえに(年数を計算して、周瑜の死亡記事を)この年に置く。

魯肅勸權以荊州借備
魯粛伝によると、曹操は、孫権が土地を劉備に貸したと聞いて、筆を地に落としたという。恐らく曹操に(タイムリーに)伝わらない。ゆえにこの(魯粛伝の記述は、建安十五年十二月の出来事として)採用しない。

建安十六~二十五年≒211~220年

十六年八月操遣徐晃等渡蒲阪津
徐晃伝によると、曹操が潼関に至ったとき、(軍が川を)渡れないのを恐れた。ゆえに徐晃を召して(軍を渡らせる方法を)問うた。徐晃は(巻十七 徐晃伝で)「公盛兵於此、而賊不復別守蒲阪、知其無謀也。今假臣精兵渡蒲坂津、爲軍先置、以截其裏。賊可擒也」と答えて、曹操に意見を採用された。
武帝紀を按ずるに、ひそかに二将を遣わして蒲阪に渡らせたが、これを曹操の発案としている。徐晃伝によれば、みな徐晃の発案である。けだし陳寿は、おのおの(武帝紀では曹操の、徐晃伝では徐晃の)功績を称えるために、あい顧みず(武帝紀と徐晃伝とで、記事の整合性を犠牲にしたのだろう)

操與韓遂語
許褚伝によると、曹操が漢水・馬超らと会語したとき、左右(護衛の部隊を)従えることができず、ただ許褚だけが従った。馬超が力にまかせて曹操を殺そうとしたが、許褚の雄を聞いており、曹操に(許褚が)従っているのではないかと疑った(から、曹操を殺すのを躊躇した)。馬超は曹操に「虎侯はどこにいますか」と聞いた。曹操は顧みて、許褚を指さした。許褚がにらんでおり、馬超はあえて動けなかった(曹操を殺害できなかった)。按ずるに、このとき馬超は、韓遂に同行して(会語に参加して)いない。馬超が「虎侯はどこにいますか」と聞いた話は、妄説であろう(だから『通鑑』に採用しない)

十二月法正說劉備取益州
韋曜『呉書』によると、劉備はさきに張松に会ってから、のちに法正を得て、どちらも恩徳をもって厚遇して、蜀中の情況を、張松ら(法正も)から聞き出した。

備前見張松後得法正皆厚以恩徳接納盡其殷勤之歡因問蜀中闊狹兵器府庫人馬衆寡及諸要害道里逺近松等具言之

劉璋伝・劉備伝を按ずるに、張松はいまだかつて、さきに劉備に会っていない。韋曜『呉書』の誤りであろう。

十七年十月荀彧飲藥而卒
『陳志』荀彧伝によると、「憂薨」したという。『范書』荀彧伝によると、曹操はカラの容器を贈って、荀彧が毒薬を飲んで死んだ。孫盛『魏氏春秋』も、『范書』と同じである。按ずるに荀彧の死は、曹操が誅したことを隠したのである。陳寿は「憂いて卒す」とするが、どうも実態を正確に表していない。
『范書』の「毒薬を飲んで死ぬ」という表記のまま、表記を正さずに『通鑑』を記す。おそらく後に、世で君主が誅殺を隠すときに、このように書くことになっていたのだろう。

怪しげな記述をそのまま採用し、不自然さを読者に突きつけることで、「曹操が荀彧を殺した」という真相をほのめかす。読者諸賢は、へんな記述の背後にある事実を、ぜひ良心にしたがって読み取ってほしい。という感じか。


十八年九月馬超奔張魯
楊阜伝によると、建安十七年九月(馬超が張魯にはしる)。
武帝紀は、建安十八年、馬超が漢陽にいて、ふたたび羌胡を味方につけて、害をなす。建安十九年の正月、趙衢らが馬超を討ち、馬超は漢中に奔ったという。
按ずるに、姜叙は(建安十八年)九月、起兵する。けだし『魏志』は、勝報が鄴に至った月を書いたのであろう。楊阜伝(建安十七年とする記述)は、誤りである。

建安十八年九月、馬超と趙衢の戦いに決着がつき、馬超が張魯のもとに奔る。その勝報が、建安十九年正月、鄴県に到達したというのが、司馬光の解釈。


十九年七月操留少子植守鄴
曹植伝によると、曹操は曹植を戒めて、「私が頓丘令になったとき、二十三歳だった。いま、きみは二十三歳である」という。また曹植は、太和六年に薨じたとき、三十一歳だったという。按ずるに、曹植はこのとき(建安十九年)二十三歳であれば、死んだとき四十一歳となるはずである。本伝(曹植伝)が誤りである。

二十年五月呂蒙留孫河委以後事
按ずるに、孫河はすでに死んでいる。同名異人であろうか。

劉備聞操將攻漢中
劉備伝によると、劉備は「曹操が漢中を平定した」と聞いたことになっている(「曹操が漢中を攻めようとした」となっていない)。孫権伝によると、「曹操が漢中に入ると」とある。
按ずるに、曹操は七月に漢中に入った。劉備がすぐに「曹操が漢中を平定した」と聞くのはおかしい。八月、孫権はすでに合肥を攻めている。けだし曹操の兵が、動き始めて漢中に向かうと聞いて、すぐに兵を引いて還ったのであろう。

司馬光が何を気に懸けているのか、これだけでは分からないので、史料で確認する。


七月張衛等夜遁
武帝紀によると、曹操が陽平に至ると、張魯は弟の張衛らに、関に拠らせた。曹操は攻めても抜けないから、夜襲して破った。劉曄伝によると、劉曄が張魯を破る献策をする。郭頒『世語』によると、張魯は五官掾をつかわして(曹操に)降ったが、弟の張衛が曹操軍を拒んで進めない。張魯は巴中ににげた。曹操軍の軍糧がつきたので、曹操が撤退しようとすると、西曹掾の郭諶は、「進めば勝てる(撤退するな)」といった。曹操は疑いつつ夜に進むと、張衛は大軍に挟まれたと思って驚き、曹操に降った。『魏名臣奏』は楊暨の『表』を載せて、「武皇帝が張魯を十万で征したとき、みずから張衛の守陣に臨んだが、地形が険しくて大軍を展開できない。三日で撤退しようとしたら、天は大魏を祝福し、張魯軍が自壊して、平定された」と。また董昭の『表』でも同じで、涼州のひとびとも「事実です」と支持しているから、そのとおりに『通鑑』を記す。

張魯は、曹魏政権に接近した。だから、ロコツな平定戦争を書きたくない。「公式見解」として、張衛をスケープゴートとしたのだろう。◎


守將雖斬之
劉曄伝によると、劉備は守将を斬ったとする。しかし劉備伝によると、劉備は公安に降っており、曹操が漢中を定めたと聞いて(公安から)還った。このように、劉備は公安にいた(守将を斬っていない?)。

二十二年正月操軍居巢
孫権伝によると、曹操は居巣にいて、濡須を攻めた。昨年の冬にも(濡須を攻める)記事がある。いま(孫権伝でなく)武帝紀にしたがう。

二十四年正月劉備營於定軍山
劉備伝によると、「定軍山勢」に軍営をきずいた。法正伝によると、「定軍興勢」とする。いま黄忠伝に従う(「定軍山」とする)

斬夏侯淵
夏侯淵伝によると、劉備は夜に囲みの(夏侯淵の陣を守るための)鹿角を焼いた。夏侯淵は、張郃に東の囲みを護らせ、みずから軽兵をひきいて南の囲みを護った。劉備は張郃に戦いを挑んだ。張郃は利あらず。夏侯淵は兵を分けて張郃を助けた。そのために(張郃に兵を回したせいで)夏侯淵は劉備に襲われて死んだ。
張郃伝によると、劉備は走馬谷で、すべての囲みを焼いた。夏侯淵は、ほかの道から消火にむかった。夏侯淵は劉備と遭遇して、接近戦をやって死んだと。いま、劉備伝・黄忠伝・法正伝にしたがう(張郃伝を採らない)160116

閉じる

曹丕・曹叡の時代の『通鑑考異』

司馬光がザツになって、えらく記事が少ない。

高祖の黄初元年十月辛未、壇に升り受禅す
『陳志』は十月丙午に、上(曹丕)が曲蠡に至り、漢帝は禅位す。庚午、壇に升り即阼したとする。『袁紀』もまた庚午に、魏王が即位したとする。『范書』献帝紀によると、十月乙卯に初めて禅譲の冊書が発せられ、二十九日(辛未)に登壇して受命したという。また文帝の受禅碑は、今日まで現存しており、これも辛未に受禅したという。(庚午とする)『陳志』『袁紀』は誤りである。

『范書』献帝紀と、受禅碑を根拠として、『陳志』『袁紀』を退ける。


『范書』は、魏は使者を遣わして璽綬をもとめ、曹皇后が与えなかったとする。これは前漢の王元后の故事であって、曹皇后というのは誤りである。

(黄初)二年
『陳志』は正月乙亥に東郊で朝日をまつったという。裴松之は、朝日は二月とする。按ずるに、二月は辛丑が朔であって、乙亥は二月にはない。

烈祖の太和二年正月、姜維 漢に降る
孫盛『雑語』によると、姜維は諸葛亮のところにいたり、母とはぐれた。のちに母からの手紙を得て、帰って来いと言われた。姜維は、帰らないと言った。按ずるに、姜維は学術を理解しており、こんなことを言わないと思われるので、『資治通鑑』に採用しない。

人物像がありきで、『資治通鑑』を編纂するパターン。


青龍二年
唐太宗が編纂させた『晋書』によると、景懐夏侯后伝によると、后はこの年に死去した。后は、司馬懿が魏の『荀子』でないことを見抜いていた。后は魏氏(曹氏)の姻戚であったから、司馬懿は后を忌んで、鴆殺したという。按ずるに、このとき司馬懿は魏明帝に信任されており、不臣の形跡はない。ただ魏氏の姻戚というだけで鴆殺するのは、妥当ではない。ほかの理由で鴆殺したと思われ、『資治通鑑』に採用しない。

景初二年六月、公孫淵は囲塹すること二十余里
『晋書』宣帝紀によると、南北六-七千里であるが(そんなに長いとは思われないので)公孫淵伝に従う。

十二月、劉放 帝の手を執り、詔を作り、燕王の曹宇らの官を免ず
劉放伝によると、曹宇は固辞した。明帝は劉放・孫資に引見して「曹宇は適任だろうか」と質問した。劉放・孫資は、「大任に堪えない」といった。明帝は「曹爽はどうか」と聞く。劉放・孫資は賛成しつつ、「速やかに太尉お司馬懿を召せ」と提案した。
劉放・孫資が退出すると、明帝の気が変わって、「司馬懿は来なくていい」という。さらに明帝は、劉放・孫資に「司馬懿を召したが、曹肇らにそれを止められた。あらためて曹爽だけを召そう」という。劉放・孫資は詔を受けて、ついに曹宇・夏侯献・曹肇・秦朗の官を免じたと。
司馬光が按ずるに、陳寿は晋代に『魏志』を作った。もしも劉放・孫資に関する実情を書いてしまえば、政治的に都合が悪い。ゆえに諱んで書かなかった。いま習鑿歯『漢晋春秋』・郭頒『世語』が、実態を反映していると思われるため、依拠して『資治通鑑』を作る。161230

閉じる

『通鑑考異』晋紀(孫呉滅亡まで)

世祖の泰始元(二六五)年九月乙亥、文王を葬った。
『晋書』文紀は「癸酉」に作る。今は『魏志』陳留王志に従う。

泰始二(二六六)年八月、陸凱が上疏して呉主を諫めた。
陳寿は、予(わたくし)は荊州・揚州に関わりがある者から、陸凱が孫皓を諫めた二十の事を得たが、広く呉人に確認しても陸凱がこの上表をしたとは聞かない。その文書はひどく切直であり、恐らく孫皓が容認できないものである。あるいは陸凱が文箱にしまって公開する前に病気が悪化したのだろうか。孫皓が董朝を派遣して(陸凱に)意見を聞いたから、そこで伝えたのだろうか。虚実が不明なので特定しない。(陳寿は)孫皓に対する指摘を惜しみ、後世の戒めになるから陸凱伝に採録したというが、今は採用しない。

十月丙午朔、日食があった。
『宋書』志には、この日食がないが、今は『晋書』に従う。

十二月、呉主は都を建業にもどした。
『呉志』陸凱伝によると、ある人が言うには、宝鼎元(二六六)年十二月、陸凱と丁奉・丁固が、孫皓が廟に謁するとき孫皓を(皇帝位から)廃して、孫休の子を立てようと謀った。当時、左将軍の留平が兵を領して先駆しており、密かに留平に(計画を)語ったが、留平が拒んで許さず、(しかし留平は)洩らさないと誓った。(陸凱らの廃立計画は)果たされなかった。考えるに陸凱は忠を尽くして義を執り、このような事をするはずがない。ましてや孫皓は残酷で猜疑心が強く、留平は凡人であるから、もしも陸凱の謀略を聞いたら、洩らさずには居られないので、虚語と確定するだろう。今は採用しない。

泰始四(二六八)年正月丙戌、賈充らは律令を上表した。皇帝は裴楷に執読させた。
(『晋書』)刑法志は、泰始三(二六七)年に上表されたとするが、今は武帝紀に従う。裴楷伝によると、文帝のとき裴楷に詔して御前で執読させたとあり、今は刑法志に従う。

九月、石苞が免官された。
『晋書』武帝紀及び石苞伝は、石苞が免官された年月がない。蕭方等『三十国春秋』、杜延業『晋春秋』は、この時期(泰始四年九月)に記事を置くため、今は従う。さらに石苞伝によると、琅邪王(司馬)伷に敕して下邳から(移って石苞と)寿春で会したという。武帝紀によると、司馬伷は翌年二月に下邳に鎮しており、恐らく石苞伝の誤りであろう。

十月、呉の万彧が襄陽を寇した。
『晋書』武帝紀は、「郁」に作るが、今は『呉志』に従う。

泰始五(二六九)年二月、文立は蜀の名臣の子孫を登用せよと言った。
文立伝はこの上表がされた時期を、太子中庶子に遷った後とする。考えるに泰始七年、文立は郤詵を推挙したが、その時点でなお(文立が)済陰太守であり、(太子中)庶子になっていない。もし諸葛京が署吏になったのが文立の上表のおかげでなく、先にすでに署吏となっていたのならば、文立が(泰始七年以降)改めて(蜀の)人材評価をして登用せよという必要がない。

泰始六(二七〇)年正月、呉の丁奉が渦口に入った。
『呉志』丁奉伝によると、建衡元(二六九)年、晋の穀陽を攻めたとするが、『晋書』武帝紀は載せない。丁奉伝は、渦口に入ったと言わないが、一事(同じ戦いのこと)かと疑われる。

泰始七(二七一)年四月、呉の陶璜が董元を襲って殺した。
陶璜伝によると、(陶璜は)想定外の経路から交趾に至ったという。董元のことを考えるに、九真太守であって交趾(の長官)ではない。『華陽国志』は、董元が病没し、楊稷は改めて王素をこれに代えたという。武帝紀は四月、九真太守の董元が呉将の虞汜に攻められ、軍が敗れて死んだとする。つまり董元は病死ではない。恐らく楊稷は王素を董元に代えようとしたが、軍に到着する前に董元が死んだのである。

多くの胡族が内叛し、樹機能とともに牽弘を包囲し、牽弘は死んだ。
崔鴻『十六国春秋』禿髪烏孤伝に、もともと樹機能は河西の鮮卑であり、泰始年間、秦州刺史の胡烈を殺し、涼州刺史の牽弘を斬ったとある。『晋書』武帝紀に、叛虜(叛乱した異民族)が胡烈を殺し、北地胡が牽弘を殺したとあるが、どちらも鮮卑(が州長官を殺した)と言わない。恐らく群虜が内叛したなかに鮮卑が含まれていたのだろう。あるいは北地胡とは、樹機能のことである。

七月癸酉、賈充が秦州・涼州を都督した。
『三十国春秋』・『晋春秋』は、賈充が出鎮したのをどちらも泰始八(二七二)年二月とする。武帝紀によると、賈充が出鎮したのは、この月(泰始七年七月)である。二春秋は、太子が妃(賈充の娘)を納れたのを八年二月とするから、これを誤ったのであろう。

陶璜は交趾を陥れて毛炅(けい)を殺した。
(孫皓伝 注引)『漢晋春秋』によると、これより先、霍弋が楊稷・毛炅らを派遣して交趾を守らせるとき、「もし賊が城を囲んで百日せずに降伏したら家属を誅殺しよう。もし百日を過ぎて救援が来なくて落城したら、私(霍弋)が罪を引き受けよう」と約束した。楊稷らは城を守って百日未満で糧食が尽きたので、陶璜に降伏を申し入れたが、陶璜が許さず、糧食を(敵方の城内に)供給して(継続して)守らせた。諸将たちが陶璜を諫めて、「霍弋がすでに死に、楊稷を救えないのは確実です。(百日の期日が)満ちたと言うのを待ち、その後に降伏を受け入れれば、彼ら(楊稷・毛炅ら)は無罪となり、私たちは義を実践して民に教訓を示し、外では隣国から慕われます。素晴らしいことではありませんか」と言った。楊稷らは兵糧が尽き、救援が来なかったため、(陶璜は)降伏を受け入れた。
(孫皓伝 注引)『華陽国志』は、楊稷らは城が破られると囚われ、楊稷は血を吐いて死に、毛炅は賊を罵って死んだという。
二つの資料は矛盾して整合しない。しかし『晋書』陶璜伝は、両方(の逸話)を載せる。考えるに、孫皓は猜疑心が強いので、(呉将の)陶璜が敵方に糧食を供給したとは思われず、今は『華陽国志』に従う。

十月丁丑朔、日食があった。
『宋書』五行志は、五月庚辰の日食があり、十月丁丑の日食がない。『晋書』武帝紀および天文志には、十月丁丑の日食があり、五月庚辰の日食がない。今は『晋書』に従う。

十二月、安楽思公の劉禅が卒した。
『晋春秋』によると、劉禅は「恵公」と謚されたが、今は王隠『蜀記』に従う。

泰始八(二七二)年夏、張弘が(益州刺史の)皇甫晏を殺し、王濬はこれを討伐して斬った。
『華陽国志』によると、張弘が皇甫晏を殺したのは泰始十年五月である。武帝紀は、この年の六月とする。考えるに、王濬が伐呉を請願した上表のなかで、「私が造船して七年が経過し(船が)老朽化した」と言い、再び益州刺史に任命された。詔を受けて造船を開始したのは咸寧五(二七九)年であり、詔を下して呉を征伐させた。それならば(「七年」の発言と整合させるならば)、王濬が益州(刺史)となったのは泰始九(二七三)年より前である。今は『晋書』武帝紀に従い(年月を)定める。

羊祜が上表し、王濬をふたたび益州(刺史)とした。
羊祜伝によると、上表して王濬を(益州に)留め、益州諸軍事を監し、龍驤将軍を加えたという。王濬伝によると、羊祜は密かに上表して、王濬に重ねて益州刺史を拝させ、また謠言があったとし、龍驤将軍・監梁益諸軍事を拝させた。それならば、「刺史となる」と「監軍(軍を監す)」は、二つの(別々の)事である。
『華陽国志』もまた、咸寧四(二七八)年、王濬が大司農に遷り、五(二七九)年、龍驤(将軍)・監梁益二州を拝したとする。
考えるに、このとき羊祜はすでに死んでおり、依拠できない。

王濬は船艦を造った。
『華陽国志』によると、咸寧三(二七七)年三月、王濬が詔を受けて船艦を造ったという。王濬の上表は、「造船すること七年」というから、『華陽国志』は依拠することができない。

十月、(敦煌太守)尹璩が死ぬと、(功曹)宋質は(後任の太守)梁澄を廃し、上表して令狐豊を敦煌太守とした。
『晋春秋』は、尹璩を尹「拠」に作るが、今は武帝紀に従う。武帝紀によると、令孤豊は梁澄を廃して、自ら郡事を領したという。今は『晋春秋』に従う。

賈充が朝士と宴をした。
『三十国春秋』は、十一月とする。『晋春秋』は十月己巳とする。恐らくどちらも実態とは事なり、ゆえに冬の末に記事を置く。

呉の万彧が自殺した。
『呉志』孫皓伝によると、万彧は譴責されて憂死した。今は『江表伝』に従う。

泰始九(二七三)年正月辛酉、鄭袤が死んだ。
本伝によると、鄭袤は司空となったが固辞し、しばらくして許され、侯をもって第に就き、儀同三司を拝した(司空とならなかった)が、武帝紀は「司空の鄭袤が薨ず」と書いており、誤りである。

七月丁酉朔、日食があった。
『宋志』はこの日食がなく、今は『晋書』に従う。

泰始十(二七四)年四月、呉王が章安侯の孫奮を誅した。
『江表伝』によると、張布の娘は孫皓に寵愛されたが死んだ。孫皓が厚葬すると、国人は葬儀が奢麗なので、みな孫皓が死んで葬られたと考えた。孫皓の舅子の何都は顔つきが孫皓に似ているから、民間の訛言で(孫皓の代わりに何都が帝位に)立つとされた。臨海太守の奚煕は訛言を信じ、挙兵して秣陵に還って、何都を誅殺しようとした。何都の叔父の何植は海を守備し、奚煕を撃破して夷三族とした。訛言は止んだ。
(孫奮伝 注引『江表伝』によると)孫奮はもとは章安にいたが、(孫皓が)呉城に徙して禁錮された。息子・娘は通婚を許されず、三十歳や四十歳になっても婚姻できなかった。孫奮は上表して、自らを禽獣に準え、息子・娘同士を結婚させて欲しいと求めた。孫皓は大いに怒って察戦を派遣し、毒薬を孫奮の父子に与え、これを飲んで死んだという。
裴松之が考えるに、建衡二(二七〇)年に孫奮が死んだとき、孫皓が即位してまだ期間が短い。もし孫奮が(孫皓の次の皇帝になると)疑いをかけられる前に、息子や娘が二十歳前後になっていれば、孫奮が死んだとき、三十歳や四十歳にはなれない。もしすでに(疑いをかけられた時点で)すでに長大で(三十歳や四十歳で)あれば、自ら婚期を逃したのであり、孫皓に禁錮されたためではない。孫皓の悪事を増やしたいのであろうが、道理に合わない。
(司馬光が考えるに)『呉志』孫皓伝によると、鳳皇三年、会稽で「孫奮が天子になる」と妖言があり、奚煕を誅殺したとあるが、孫奮を誅殺したとは言わない。孫奮伝は、建衡二年、左夫人の王氏が死ぬと、民間で訛言があり、孫奮及び五子が誅殺されたという。『三十国春秋』によると、孫皓が張布の娘を妻とした記事、孫奮を殺した記事は、いずれも天冊元年とする。考えるに、孫奮がもしも建衡二年に死んだなら、鳳皇三年に会稽の訛言(妖言)が起こるはずがない。孫奮の死が、果たして何年なのか分からない。今は奚煕の死に因ってこの記事を終える。

咸寧三(二七七)年五月、呉将の邵顗が……。
武帝紀は「邵凱」に作るが、今は羊祜伝に従う。

七月、楊珧が封建を議した。
職官志によると、楊珧と荀勗は、斉王(司馬)攸に時望があり、太子の後難となることを懼れ、ゆえにこの議論を建て、諸王を国に行かせようとした。当初、皇帝はこれを察せず、ここにおいて詔を下して(封建)制度を議論させた。
考えるに荀勗伝には異議が載っており、また当時、斉王は国に行かなかった。この(職官志の)説が事実でないことが疑われ、今は採用しない。

十二月、衛瓘が二虜を離間し、務桓は力微に降って死んだ。
魏收『後魏書』によると、鉄弗劉虎は、匈奴去卑の孫である。昭成四年に死んで、子の務桓が立った。考えるに、昭成四年は、(東)晋の成帝の咸康七年である。務桓は衛瓘と同時代の人ではなく、同名異人であろう。

咸寧四(二七八)年七月、司・冀らの州で洪水があり、螟虫が作物を傷つけた。杜預が上疏した。
食貨志によると咸寧三(二七七)年、杜預伝によると咸寧四年とする。五行志には、咸寧三年に洪水があったが虫害がなく、咸寧四年には螟虫の記事がある。今は杜預伝に従う。

九月、張尚は呉主に逆らい、建安(郡)に徙されて殺された。
『三十国春秋』によると、岑昏らは泥頭にて張尚の代わりに死にたいと請願し、張尚は死を免れ、広州に徙された(生き延びた)とあるが、今は張尚伝に従う。環氏の『呉紀』も参照して情報を取る。

十月、衛瓘は(皇帝の)椅子を撫で、皇帝は尚書に太子の人選に関する疑義を提出させた。
『三十国春秋』は、泰始八年の事とするが、衛瓘伝によると、泰始初に青州刺史となり、幽州に移って八年を務めたので、京師に居られない。衛瓘伝は、(椅子を撫でたのを)司空に遷った後のこととする。武帝紀によると、太康三(二八二)年、賈充が卒し、十二月に衛瓘が司空になったとある。(記事を衛瓘が)尚書令であった時期のもとに移す。

傅玄が卒した。
傅玄伝によると、五年、太僕に遷り、司隷に転じ、景献皇后が崩御すると、座して位を争って尚書を罵り、免じられてほどなく卒したという。景献皇后の崩御は、(咸寧)四(二七八)年なので、傅玄伝は誤りである。

咸寧五(二七九)年十一月、馬隆が転戦して前進した。
馬隆伝によると、ある人によると、道を挟んで磁石を積み重なり、賊軍は鉄鎧を着ているから進めなかったが、馬隆はにわかに(磁石に付かない)犀甲を全員に装備させ、進軍が滞らなかったので、賊軍はこれを神としたという。この説は正しくなかろう。

太康元(二八〇)年二月乙丑、王濬が呉の陸景を攻撃して殺した。
武帝紀によると、壬戌、王濬が夷道・楽郷の城で勝ち、陸景を殺した。陸抗伝によると、壬戌、陸晏を殺し、癸亥、陸景を殺したという。王濬伝によると、壬戌、夷道で勝って陸晏を捕らえ、乙丑、楽郷で勝って陸景を捕らえたという。今は王濬伝に従う。

ある人が「春水が出るから、久しく駐屯するのが難しい」と言った。
杜預伝によると、いま暑い季節に向かい、水位は下がるから、病気が起こるだろうという。当時、まだ暑くないので、今は『三十国春秋』に従う。

五月丁亥朔、孫皓が至った。
『呉志』孫皓伝によると、天紀四年三月丙寅、岑昏を殺し、戊辰、陶濬が武昌から還り、壬申、王濬が到って孫皓の降伏を受け、五月丁亥、京邑に集い、四月甲申、帰命侯に封じたという。
『晋書』武帝紀によると、太康元年二月、王濬らは武昌を破り、王渾は張悌を斬り、三月壬申、王濬は石頭に至り、孫皓が降伏し、乙酉、大赦して改元し、四月、朱震らを派遣して慰撫し、五月辛亥、帰命侯に封じ、丙寅、孫皓が引見して昇殿し、庚午、詔して士卒六十を帰家させ、庚辰、王濬を輔国将軍にしたとする。
王濬伝によると、二月庚申、西陵で勝って、また壬寅、王濬が石頭に入ったとするが月の表記がない。また(王濬が)上書して、「私は十四日に牛渚に至り、十五日に秣陵に至った」と言うが、これも月の表記がない。また「二月、武昌は守りを失い、孫皓の左右はみな宝物を持って逃げた」とある。
『三十国春秋』によると、四月甲子、王渾が張悌を斬り、丙寅、岑昏を殺し、何禎に書を送り、庚午、降伏の文書を送り、壬申、王濬が石頭に入り、甲申、帰命侯に封じ、五月丁亥、洛陽に至ったとする。
『晋春秋』はほぼ『三十国春秋』と同じである。
長暦では、昨年に閏七月があり、この年は二月戊午朔で、三月戊子朔、四月丁巳朔、五月丁亥朔、六月丙辰朔である。それならば、三月に戊辰・丙寅・壬申はなく、五月に庚午・庚申がない。『呉志』と『晋書』は合わず、ゆえに『三十国春秋』の月日に依拠する。しかし(月日は長暦と)合うのであっても、二月に武昌が守りを失い、左右が離散したというのは整合しない。四月十六日、王濬が秣陵に至ると、孫皓が降伏したとあり、また孫皓は四月十六日に降伏し、家を挙げて西上したが、五月一日に洛陽に到着することは出来ない。今は事実の戦後は『呉志』・『晋書』に依拠するが、その暦に合わない日付は削る。

王濬を鎮東大将軍に遷した。
王濬伝によると、歩兵校尉を領し、旧来の校尉は、五つのみが置かれ、これ(歩兵校尉)の軍営は王濬から始まるという。だが職官志によると、屯騎・歩兵・長水・越騎・射声校尉があってこれが五校であり、漢官も同じである。「歩兵校尉」は(王濬伝が言うように)王濬から始まったのではない。武帝紀はこの年六月丁丑、初めて翊軍校尉を置いたとし、王濬が領したのは(新設の校尉なら)これ(翊軍校尉)であろう。

この歳、州は全部で十九である。
『宋書』州郡志によると、太康元年、天下を一統し、全部で十六州である。後に雍州・梁州を分けて秦州を作り、荊州・揚州を分けて江州を作り、益州を分けて寧州を作り、幽州を分けて平州を作り、全部で二十州となった。杜佑『通典』によると、呉を平定したとき(天下を)十九に分け、01司州・02兗州・03豫州・04冀州・05并州・06青州・07徐州・08荊州・09揚州・10梁州・11雍州・12秦州・13益州・14涼州・15寧州・16幽州・17平州・18交州・19広州であり、今はこれに従う。171210

閉じる

inserted by FC2 system