-後漢 > 『三国演義』の元ネタの『資治通鑑綱目』を抄訳する

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漢桓帝の永康元年(一六七)

『資治通鑑綱目』巻十二より、読み始めます。
『三国演義』は、『資治通鑑』でなく、『資治通鑑綱目』が元になってる部分もあるらしいので。さいきんは、どこに行っても、(タイトルに興味を引かれて)どんな本を手にとっても、朱子・朱子と言ってる。避けて通れない気配。
テキストは、紀州藩文庫の写真を見ています。
http://densi.lib.wakayama-u.ac.jp/kan/2/2_index.html

凡例:大きめの文字が朱子の「綱」で、ふつうのサイズの文字が「目」です。割注は、〔こうして〕括弧つき。抄訳者による補足は、(こうして)表示します。

後漢の桓帝の永康元(一六七)年春正月、東羌がまた反したが、段熲が破った。その残りの東羌が玄菟郡を寇した。夏四月、羌族が三輔を寇した。五月、地が裂けた。この月の晦、日食あり。六月、党人を赦して田郷に帰らせ、終身 禁錮とした。
陳蕃が既に免じられ、朝臣はおそれ、党人のために発言する者はいなかった。賈彪が、「私が西に行かねば(洛陽に行かねば)、大禍(党錮の禁)は解けない」と言い、洛陽に入った。賈彪は、竇武および尚書の霍諝らを説得した。
竇武が(賈彪に説得されて)上疏するには、「李膺らは建忠・抗節の志であり、陛下にとって稷・窩・伊・呂のような〔稷・窩は、舜の臣である。伊は伊尹で殷登王の臣、呂は周公旦で周武王の臣である〕輔佐の臣にあたります。姦臣・賊子にそそのかされて(李膺を罰して)、天下・海内を失望させてはいけません。陛下はご賢察ください。台閣の近臣である尚書の朱寓・荀緄・劉祐・魏朗・劉矩・尹勲らは、みな国家の貞士であり、朝廷の良佐です。尚書の張陵〔張陵より以下の六人は、すべて尚書郎である〕・媯皓・苑康・楊喬・辺韶・戴恢らは、文質が彬彬として国典に明達しています。しかし陛下は(ここに列挙した人材を用いず)近習に権限を与え、外は州郡を任せ、内は心膂を委ねます。近習の権限を削って罪を罰し、忠良な人物を信任して、善悪を正しく判定すべきです。邪と正、毀と誉のあるべき姿は以上のとおりです。咎徴〔「咎徴」という語は、『尚書』洪範篇に見える。悪行の験である〕は、天応を消すでしょう。(咎徴を排除して)正しい政治をすれば、嘉禾・芝草・黄龍ら(天応が)現れるでしょう。そもそも祥瑞とは、必ず徳のある善人のところに現れ、徳がなければ(瑞祥でなく)災異が現れるものです。陛下の(李膺を罰するという)所行は、天意に合っておりません」と。竇武は上奏すると、病を理由にして、城門校尉・槐裏侯の印綬を返上した。
霍諝もまた上表したので、桓帝の意思はようやく解けた。
桓帝は中常侍の王甫を獄にゆかせ、党人の取り調べを行わせた。王甫は党人に、「あなたたちは、相互に(優れた人材であると)推薦しあって、唇歯の関係を築いているが、どういうつもりか」と詰問した。范滂は、「善を善としてその清さ(についての認識)を共有し、悪を悪としてその汚なさ(についての認識)を共有しているだけだ。もし徒党を組んだという罪により私が殺されたら、首陽山のそばに(死体を)埋められたいものだ。上は皇天にそむかず、下は伯夷・叔斉にも恥じない」と。王甫は愍然として、顔つきを改め、李膺らの桎梏を解いた。また王甫は宦官の子弟をひきつれた。宦官らは(党人を投獄することの誤りを)懼れて、桓帝に党人の赦免を願いでた。党人の二百余人は、みな赦されて田里に帰された。党人の名は三府に記録されて、終身 禁錮となった。
范滂は(上表により釈放に導いてくれた)霍諝に会いに行ったが、感謝の言葉を述べなかった。ある人が范滂を咎めると、范滂は、「昔 叔向は、祁奚に会わなかった。なぜ私が(范滂に)感謝せねばならないか」と言った。〔叔向は春秋期の晋の公族である。祁奚は晋の大夫である。『左伝』襄公二十一年に見える〕
南陽の士大夫で、范滂を迎える者は、車が数千両であった。郷人の殷陶・黄穆は、范滂に侍衛して、賓客として応対した。范滂は、「これ(大勢の出迎え)は私にとって更なる禍いである」と言い、逃げ還った。
はじめ詔書が下され、徒党を組む者を弾劾せよと命じた。郡国のうち、多くを検挙して報告した所では、百人を数えた。ただ平原相の史弼だけは、一人も報告しなかった。詔書が追って出され、(報告を怠った)州郡をとがめ、コン・笞刑にするとした。掾史従事〔下にある「中都官従事」のことである〕は伝舎に坐し、(史弼を)責めて、「青州に六郡があるが〔済南・平原・楽安・北海・東莱・斉国である〕、うち五郡は党人を検挙した。平原国のみが、なぜ党人を検挙しないか」と。史弼は、「先王が天下に(州郡を区切る)境界線を引き、(州郡ごとに)水土は齋が異なります。〔相(性質)が同じでないと言うのである。『周礼』に、『五齋とは、水・火・木・金・土である』とある。この五つは相(性質)が同じでない〕風俗は同じではありません。他の郡で(党人が)いても、平原にはいません。なぜ詔書に迎合して、良善な者を誣陥できましょうか。平原のなかに党人がいると見なすなら、私は死んでも合意できません」と言った。従事は大怒して、史弼を検挙した。そのころ党錮の禁が、いちどは解除されたので〔霊帝の建寧二年、再び禁錮があるため、「いちどは」という〕、(禁錮を)免れた者はとても多かった。
竇武が推薦した楊喬は、容儀が偉麗で、しばしば政事を発言した。桓帝はその才貌を愛して、公主を娶らせようとした。楊喬は固辞したが、桓帝は押しつけた。ついに楊喬は、食事を絶って死んだ。

秋八月、巴郡が「黄龍が現れた」と報告した。
はじめ巴郡の人は、池浴しようとして池水を見たら、池の水が濁った。戯れに恐れ、池の中に黄龍がいると語った。太守は皇帝に報告しようとした。郡吏の傅堅が、「これは走卒の戯語です(でたらめな話を皇帝に報告してはいけません)」と諌めたが、太守は報告した。

大水、海が溢れた。冬十月、羌族が三輔を寇した。張奐が司馬の董卓を遣わして羌族を撃破した。
張奐は功を論じ、(侯爵に)封じられるべきであったが、宦官に反対されて封じられなかった。董卓は郎中を拝した。董卓は隴西の人で、性は粗猛で謀が有った。羌胡は董卓を畏れた。

十二月、桓帝は崩じた。皇后を尊んで皇太后といい、皇太后が臨朝した。 はじめ竇皇后が立てられても、桓帝に御見するのは稀であった。ただ采女の田聖らが寵愛を受けた。竇皇后は、ふだんから忌忍していた。桓帝の梓宮(棺)がまだ前殿にあるうちに、竇皇后は田聖らを殺した。

使者を遣わして解瀆亭侯の劉宏を迎え、京師に招いた。 竇武は侍御史である河間の劉ユウを召して、「国中の宗室で賢者はだれか」と問うた。劉ユウは、劉宏を称えた。竇武は竇太后に申し上げ、劉宏を後継者に定めた。劉ユウを守光禄大夫・持節として、劉宏を迎えさせた。劉宏はこのとき十二歳。

気が向いたら、『資治通鑑』がどのようにアレンジされているのか見つつ、続きをやります。140920

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