雑感 > 『魏の武王 曹操』シナリオ案1

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『漢の魏王 曹操』の企画について

企画のタネ

『反反三国志』をつくりおえた、15年11月上旬のツイートから。
151102 16:07:33 のツイート
お話をふたつ(『曹丕八十歳』『反反三国志』)書いたけど、1回も「視点」を置かなかったのが曹操。曹丕から見てるだけ、劉備から見てるだけ。 来年は、魏王1800周年だから、それを謳ったイベントがあるはず(何も知りませんが)。『魏の武王・曹操』も作りたい!

『吉川三国志』の最後は、こんなふうです。
「しかし、敗るるや、急激だった。四世五十二年にわたる呉の国業も、孫皓が半生の暴政によって一朝に滅んだ。――陸路を船路を、北から南へ北から南へと駸々と犯し来れるもののすべてそれは新しき国の名を持つ晋の旗であった。三国は、晋一国となった。」です。
これを踏まえて、ぼくの作品では、最後に駆け足が始まり、こんなふうに終わります。
「しかし(曹操が)薨ずるや、急撃だった。一世二十四年にわたる曹氏の献帝奉戴も、曹丕が魏王の継承によって一朝に已んだ。――内朝を外朝を、陰に陽に陰に陽に、駸々と犯し来れるもののすべて、それは、新しき国の名を待つ革命の論であった。曹操は、魏武帝となった。


『反反三国志』の二人称の作者によるチェックを終えて、天白公園を散歩しながら、平針方面に抜けて……、アイディアを固めました。
まだ何も準備してないので、公平?な立場で言える気がするんですが、魏王1800周年に作る予定の来年の同人誌『魏の武王 曹操』は、石井仁先生の『魏の武帝 曹操』のノベライズなんです。きっとすごくおもしろいです!

タイトルが揺れております。まだ揺れるかも。原作にケチをつけるつもりはありませんが、曹操が「武」になるのは、死後に曹丕が嗣王したあと。「帝」になるのは、曹丕が皇帝になったあと。しかし原作は、曹操の死後について、まったく扱わない。「武帝」の話は、出て来ないのです。それなら、生前の称号の最終形は、「漢の魏王」ですね。
タイトルにおいて、原作との差異をもうけるため(さすがに同じタイトルで出すのは、憚られる)あえて屁理屈を捏ねていることは内緒です。

論文の小説化は、ぼくの開発したい&強みを出せそうな分野です。やります!
三国志学会で先生に献本して、微妙な顔をされる…というところまで、イメージ出来ているので、きっと完成させられると思います!

次回作『魏の武王 曹操』2016の構想を練る。石井先生の本の世界観?のノベライズです。
人物相関図(きっとすごく大きな紙が必要)を仕上げたら、準備の半分は終わるだろう。つぎは年代順に、人物たちの絡む場面を物語化して、あらすじに落としていく作業か。 単純化はするけれど、史実準拠で。

本の独自性である、おもに前半から相関図を起こした。
『魏の武帝 曹操』より、人物相関図

祖父のつくった人脈が、曹操が世に出るときに、どうやって利いたか。それが『魏の武帝 曹操 』の問題感心だと思うし、ぼくが吸収したいことです。

原作を読みながら、構想をねる

董卓軍にも含まれていた「秦胡」は胡漢の混血児。梁冀の子孫が羌族の聚落に匿われ、主張になったという伝説がある。だから暴動を起こした羌胡は、純粋な異民族でなく、西北列将の皇甫規・張奐も、懐柔策を優先。皇甫嵩・董卓はその後継者で、董卓の「百余戦」も八百長試合(魏の武帝 曹操105p)
同じ本の276頁、韓遂・馬超の味方として「梁興は安定梁氏の一門と思われる。梁冀の失脚後も涼州では依然として勢力を保持していたのだろう」とある。これを〈原作〉に小説を書くなら、曹騰・梁冀の人脈、董卓・梁興の八百長、梁興を太守に任ずる曹操、という因縁を描こう。

中央官界にコネがある家と、地方勢力とが相補的に結合する。沛国曹氏(曹騰が中央にコネ)と、沛国丁氏(地元を支配)が婚姻し、双方の資質をうけついだ期待の星が曹操(魏の武帝 47p)。194年、劉焉(宗室にコネ)、韓遂・馬騰(地元)が結んで長安を襲う。中央+地方 は石井先生のキー概念か。

『魏の武帝 曹操』は、全7章から成る。第6章が「中原を制す」で、第7章が「赤壁の敗戦、そして魏王へ」から分かるように、前半生に比重が高い。赤壁の敗戦は、「曹操の伝記を、単純なサクセスストーリーに陥ることから救い出した」という意義こそあれ、細かく語るほどの魅力には欠くという感じか。
というわけで、数えてみた。


実態としては、途中で息切れした、規定の枚数に達した、もしくは赤壁までで曹操の魅力を書き尽くしたような充実感に至ってしまい、後半を細かく書く必要を感じなくなった、というところかも知れません。
これを原作にノベライズするなら、枚数の比率も踏襲したいと思います。

『魏の武帝 曹操』の荀彧は、漢の純臣ではなく、曹操に天下統一の戦略を与えたひと。荀彧の死因は、漢王朝がらみでなく、曹操が天下統一を辞めたから。この原作の設定で、荀彧という変数(算数の用語)を固定すると、議論がしやすくなり、他の多くのことが見えやすくなりそう。
曹操の小説を描いてみようと思っても、話が膨大になりすぎる。まず、原作を設定して描いてみる、という手法は、われながら良いアイディアだと思います。

曹操は、計算高いマキャベリストでも、完全無欠の超人でもない。情に流されやすかった。そうした欠点を強靱な意志の力でカバーしたことに、彼の偉大さがある。現実主義の政治家、縦横自在の戦略家、冷酷無比の権力者。後世のレッテルは、自らが作り上げた、もう一つの人格。『魏の武帝 曹操』198p

通販サイトのレビューなどで、ここを引用しているひとが多いですが。筆者が「ここがまとめだぞ」と意識して、集約して書いてくれたところを、「おお、要点じゃ、要点じゃ」と引用するのは、うまくないと思う。むしろ、本を書く&読む意義は、このように総括的なコメントでは、拾いきれないさまざまな人物像を、描き&受け取りたいからであって。
この言葉を使うことなく、しかし「曹操って、そういう人だったんだな」と思わせられたら、石井先生の本を原作とする、小説の成功となるだろう。説明するな、描写せよ。

徐州・兗州の戦いは、曹操の欠点を浮き彫りにする。目先のことに捕らわれ、大局を見失いがちな性格。理性よりも感情のひと。悪くいえば、お調子者。少年時代の「軽佻浮薄」という評価は、正しい見方なのだろう。ただ短所を自覚しており、よく荀彧ら周囲の意見に耳を傾けた。『魏の武帝 曹操』171p

曹操と橋玄の出逢いを劇的に語るのは、やや見当外れ。曹騰-种暠-橋玄-曹操という識抜の系譜があり、西北の列将の後継者。橋玄は曹操のモデルで、曹操を堂室(私室)に通した。法の厳格な運用と、軍隊の統率はパラレル、寛猛相済(『魏の武帝 曹操』p60)
橋玄に従軍する少年曹操を書きたい!

『魏の武帝 曹操』が、史実を解説するときに使用する観点(切り口)は、地縁・官職・文化を通じた人脈のネットワークと、士大夫層からの支持の有無。渡邉先生よりも、地縁にウェイトがあるが、その他、わりと切り口が似ているような印象。あとがきのなかでも、交流のことが書かれています。

地縁のことを否定するのが、渡邉先生の議論の特徴だった。むしろ、地縁にもとづいて交流を想定するほうが、「常識的」「多数派」の議論かも知れない。←ここに、カッコをつけて書いたのは、渡邉先生の筋道に異を唱えるつもりがないからです。


出身地と姓が同じなら、繋がりを見出すのが『魏の武帝 曹操』の発想法。順帝期の宦官の州輔は、『隷釈』にある「吉成侯州輔碑」曰く、六帝四后に仕え、順帝のもと小黄門・中常侍となり、曹騰と経歴が似る。魏の州泰は南陽のひと。州輔の養孫の州謀を、州泰の父と設定し、曹操のウラキャラにしよう!

州泰の父は、宦官の養孫として蔑まれ、世に出ることができなかった。これが、曹操が歩んだかもしれない別の道。オリジナルにキャラを設定して、ストーリー中で具現化することで、これを見せる。
原作において、曹操のウラキャラ(未遂)と認定されているのは、王甫。曹操になりそうなのに、曹操になれなかった人物、曹操の分身をたくさん登場させることで、曹操が、歴史の文脈と繋がっていること(普遍性)と、しかし似たような人々のなかから抜け出した凄さ(特異性)を両面的に描けたら、「原作に忠実」な小説となるだろう。←すごく重要なことを言いました。自分的に。
皇甫嵩なんかも、西北の列将の血縁者であり、帝位を勧められるが腰が砕ける。これも曹操のウラキャラである。


陶謙の実像(163p)は、士大夫の弾圧を辞さぬ権力者。第二の反董卓同盟の黒幕。曹操を挑発するため曹嵩の殺害に積極的に関与。

ぼくは思う。石井先生は触れないが、陶謙は自称天子の闕宣と繋がる。天子をねらう曹嵩は、曹操の「忠」に賛同せず、陶謙の勢力圏の瑯邪に移動。王朝建設を画策するが、決裂…とか?


29pで「曹騰は、自らが一生をささげた漢王朝を、滅ぼすことになる孫(曹操)の顔を見ることができたのだろうか」とある。 ここから、ぼくは「曹騰が、曹操という孫の顔を見て、漢王朝の行く末に思いを馳せたシーン」を作り、先生の想像力や願望を代行すると。次回作の「システム」が「分かって」きた

「曹操が漢王朝を滅ぼす」というのは、うっかり本音?がこぼれている。308p「もはや、曹操にないのは皇帝という称号だけになった」とある。赤壁後に方向転換して、荀彧と決裂したことから分かるように、曹操は漢として再統一することを諦め、漢を滅ぼして魏を建てる方向に向かった、というロコツな図となる。いっそ、ここまで曹操像を割り切ったほうが、逆に話が広がると思う。方針転換を決断する曹操、とか描きたくなってきた!

『魏の武帝 曹操』のノベライズは、先生の微言大義(学者として実証性を担保するため口をつぐんだが、行間に潜めた歴史像)を読解して、それを小説に移し替える作業。やりながら気づいた。原作の引き写しどころか、かなり史実準拠にして「オリジナル」な作品にできそう。曹嵩の人物像とか、良いネタ!

曹嵩の素性は、陳琳曰く「どこの馬の骨か分からぬ乞食」で、曹操は「否定しようにも、否定できない事実」で、石井先生は「宦官の養子のなかには、奴隷出身者も多数含まれていたといわれる」と締め括る。言明は避けられているが、曹嵩は夏侯氏ですらない!が、行間の大義だろう『魏の武帝 曹操』34p
微言大義とはこのことで、石井先生の頭のなかでは「曹嵩は、みずから天子をねらう野心家」で、その野心ゆえに、曹操は父のことに一言も触れ(られ)なかった。漢魏革命を、曹嵩・曹操・曹丕の三代にわたる、気まずくて本音を言えないプロセスと捉えたら話が壮大!
『魏の武帝 曹操』37pによると、曹嵩はみずから次代の天子になるために、名前をアレンジしたことになる。176年、譙県に黄龍が出たというのも、時期的に曹嵩のための情報操作。
「不明」とする曹嵩の政治生活を、石井先生はかなりの野心家の側にシフトさせたいのかも。
費亭侯の曹忠は、あざなを巨堅という。前年、養父の曹騰が推挙した堂谿典の意見に基づき「崇高山」を「嵩高山」と改めたことを受け、諱を「嵩」、あざなを「巨高」と改めた。どちらも「たかい」という意味を持つ。『春秋讖』の「漢に代わるのは当塗高」を踏まえ、重大な野望を秘めて改名したのである。

当塗高のことを言うのは、袁術と曹丕である。あいだの曹操は、なぜか当塗高を持ち出さない。袁術が当塗高のことを言ったとき、「父と同じことを言ってる。バカめ」という、参照先のある憎悪を向けたのかも知れない。

176年、沛国譙県に黄龍が現れたとき「この地から王者が出る前兆」といって、曹氏の興隆をほのめかした単颺(文帝紀)は、曹騰に推薦された過去を持つ。順帝末に曹騰を弾劾した益州刺史の种暠と、董承とともに曹操を殺そうとした种輯はおそらく同族。曹騰から曹操への人脈は、発見がいっぱい。

後漢の沛王は、漢魏革命まで血統が存続した(『魏の武帝 曹操』16p)。後漢の豫州刺史は、沛国の譙県(曹操の本籍地)に駐留した(『魏の武帝 曹操』18p)。曹操の少年時代に、沛王(光武十王伝によれば、劉琮・劉曜あたり)・豫州刺史(誰がいいかな)と出会ったエピソードを作りたくなる。

渡邉義浩『諸葛亮孔明』は、章立てが「陳寿の描く諸葛亮/虚像/実像」となってる。事実の諸葛亮を追うより、「諸葛亮の人物像の歴史」が基本テーマ。一連の企画の石井仁『曹操 魏の武帝』は、プロローグ7頁だけで「曹操の人物像の歴史」を片づけ、事実の曹操を追う。力点の違いがおもしろい。

董承の陰謀に参加した、种輯は种暠の一族と考えられるが、繋がりは一切不明。長安から洛陽にお供をした数少ない近臣。呉子蘭は呉碩のあざなか。王子服は手掛かりがなく、『後出師表』で李服と記され、曹操の信任が厚かったとされる。子服はあざな。あざなの表記は、何かを隠そうとするとき使われる。
あざなの表記によって本名が隠された理由は、よほど重要な地位の幹部だったか、あるいは『三国志』が執筆された当時、関係者が権貴の地位にでもあったのか。真相は闇のなか。『魏の武帝 曹操』202p
ぼくは思う。晋で権貴な王氏の縁者を比定するのって楽しそう。誰かなー

さらに再読しつつ、、

宮城谷『晏子』が、親子2代の物語だったように。ぼくの次回作(予定)の石井先生の『魏の武帝 曹操』のノベライズは、曹騰・曹嵩・曹操の3代の物語。ただし、赤壁以降は、エピローグに突っ込んでしまえる程度のおまけ。いかにして曹操が後漢末に現れ、いかにして中原を再統一したか、というお話。
原作の世界観は、少なくともそうなっており、赤壁・魏公・魏王は、本筋から脱線したオマケ。赤壁前に、いかに中原の再統一が完了したかが、強調され過ぎるくらいに、表現されている。
そういう歴史像を小説に移し替えていこう。構成力の、いい腕試しになりそう。

曹操は、宦官の孫として蔑まれ、官界で孤立した地点から(ゼロどころかマイナスから)スタートし、稀有の性格と能力を発揮してのし上がり、1代で天下の大半を得た……、という曹操像に「NO」を唱えるのが『魏の武帝 曹操』の問題意識、使命感だと思います。
後漢末には、曹操のモデル(先輩)や、性質の似通ったライバル(同輩)がたくさんいて、そのなかを勝ち抜いたに過ぎない。劉邦や朱元璋のような伝記のおもしろさを期待してはダメで、袁紹ほどではなくても、曹騰・曹嵩がだいぶ、人脈・財物などの遺産をくれたと見るべきか。
赤壁までは、戦争や政治における勝者だが、まだ交換可能な官僚(汎用的な人材、コモディティ)であり、赤壁で失脚すれば、そんな官僚で終わった。魏公をプランニングした董昭が、曹操の失脚を回避させ、三国鼎立を導いた張本人で(荀彧の政敵であり)賈詡よりもたちが悪い。
『魏の武帝 曹操』は、赤壁以前の、汎用的な人材としての曹操像を強調・解明しており、その問題関心は、章立てにも現れてる。これのノベライズをするなら、曹操を群像のなかに埋没させ、馴染ませるという方向性になるか。『蒼天航路』の曹操のような超人とは正反対の。

袁紹さんちの派閥争いを、『魏の武帝 曹操』では、河北出身者と河南出身者という分け方で説明する。領土内の出身者は領土の保全をはかり、領土外の出身者は領土を補給拠点としか思わない。人脈を重んじ、地縁・土地支配を軽んじる視点からは、出てこない分類法。この対立軸は、蜀漢も似てるか。

『反反三国志』で、李厳は、現地出身者としての行動を取らせました。益州の保全のほうが、天下統一よりも優先なんだぞと。


などと、原作を読みながら、話を考えております。

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第1回 曹騰が宦官となって順帝に仕える

曹騰が宦官になるまで

漢室発祥の地である沛国で、19p「一介の農民」、21p「曹節は、たいして経済力のない小農民だったに違いない」とある。18p「沛国は豫州に配属され、後漢時代、刺史は国内の譙県に駐留した。ここが、曹操の本籍地である」とある。21p「曹騰が後宮に出資するのは、安帝の時代」とある。

物語の起点を探すため、てきとうに検索をかけてたら、見つけた!
『范書』列伝六十六 循吏 王渙伝に、

王渙字稚子,廣漢郪人也。父順,安定太守。渙少好俠,尚氣力,數通剽輕少年。 晚而改節,敦儒學,習尚書,讀律令,略舉大義。為太守陳寵功曹,當職割斷,不避豪右。寵風聲大行,入為大司農。和帝問曰:「在郡何以為理?」寵頓首謝曰:「臣任功曹王渙以簡賢選能,主簿鐔顯拾遺補闕,臣奉宣詔書而已。」帝大悅。渙由此顯名。

王渙は、広漢太守の陳寵のもとで功曹となった。陳寵が大司農となって(洛陽に入り)和帝に広漢郡の統治を聞かれると、「功曹の王渙がひとを選び、主簿の鐔顕が欠をおぎなった」と答えた。和帝が悦び、王渙の名があらわれた。

鐔顯後亦知名,安帝時豫州刺史。時天下飢荒,競為盜賊,州界收捕且萬餘人。顯 愍其困窮,自陷刑辟,輒擅赦之,因自劾奏。有詔勿理。後位至長樂衛尉。

鐔顕ものちに名を知られ、安帝のときに豫州刺史となった。ときに天下が飢荒し、(人民は)競って盗賊となった。州界で1万余人をとらえた。鐔顕は、かれらの困窮をあわれみ、ゆるした。鐔顕は、かってな処置について、中央にごめんなさいをしたが、詔により罪とされなかった。

◆ブタを盗むエピソード
安帝期、天下が飢荒した(『范書』王渙伝)。
たいして経済力のない小農民である曹節は、隣人から、ブタを盗んだ疑惑をかけられる。なぜか。明日の食糧すら欠く。隣人は財産を失うことに過剰にシビアで、正常な判断ができないからである。
これは、司馬彪『続漢書』の記事であるが、原作者は、誤解が解けたのち、「ただ笑ってブタを受けとる、仁厚なひと」という逸話に懐疑的である。つまり、『続漢書』どおりに書いたら、原作のノベライズではない。
ぼくの作品では、ブタを巡って殺しあいをする。飢えのために、みなが盗賊と区別がつかない。隣人に「曹節はブタを盗んだ盗賊だから、死ね」と急襲されるが、なけなしの武器によって返り討ちにする。

曹操が呂伯奢を殺すイメージ。勘違いで殺してしまってもいい。
そういえば、原作は、呂伯奢が出てこない。原作者にとって、呂伯奢のエピソードは、どうでもよかったらしい。裴注に列挙された諸説と、『演義』との比較は、だれでも触れるところなのに。

原作者は、殺しあいのことまでは書かないが、20pで、魏王朝の成立後、士大夫の美談を拝借したとあるから(美談がウソだというから)ぼくの小説としては、曹節は笑って許さず、本気で抗争せねばならない。

この曹節の罪が、曹操が魏公となったとき、書き換えられるプロセスも、作中で描いて初めて、原作のノベライズと言えるだろう。

殺人罪によって訴えられ、県で裁かれる。しかし、当地に留まっている豫州刺史の鐔顕によって、赦免される。飢えた上でのトラブルだから、殺人も仕方がないよ、と大目に見てもらう。

曹節は小農民として窮状を訴える。しかし、税金は安くならない。国家権力により、豪族を牽制するのも難しい。
曹節が絶望すると、中央にパイプを持つ鐔顕から、鄧太后に宦官を差し出すことを勧める。鐔顕と鄧太后のパイプとは、『范書』王渙伝に、

永初二年,鄧太后詔曰:「夫忠良之吏,國家所以為理也。求之甚勤,得之至寡。故孔 子曰:『才難不其然乎!』昔大司農朱邑、右扶風尹翁歸,政迹茂異,令名顯聞,孝宣皇帝嘉歎愍惜,而以黃金百斤策賜其子。故洛陽令王渙,秉清脩之節,蹈羔羊之義,盡 心奉公,務在惠民,功業未遂,不幸早世,百姓追思,為之立祠。自非忠愛之至,孰能若斯者乎!今以渙子石為郎中,以勸勞勤。」

永初二(108)年、鄧太后がもと洛陽令の王渙の民政をほめて、王渙の子の王石を郎中にした。王渙と鐔顕は、同郷であり、陳寵のもとで働いた同僚である。賢者を用いる(らしい)鄧太后が、地方官に目を配っており、「鐔顕が盗賊をかってに赦したのは、罪ではない」と詔を発し(上述)、理解を示してくれているなら、こういう斡旋が、たまたまあっても、不思議ではないか。

曹節が4人?の息子を見渡したとき(341pの系図)、長男?の曹褒(曹仁・曹純の祖父)と、末子?曹騰が、見所がありそう。

武帝紀の『三国志集解』より。
趙一清はいう。『後漢書』蔡衍伝はいう。蔡衍は、河間相の曹鼎を劾めた。曹鼎とは、中常侍・曹騰の弟だ。趙一清は考える。曹節には、4子あった。曹騰が末子だ。なぜ曹騰に、弟がいるか。兄の誤りか。
盧弼は、曹洪伝にひく『魏書』をひく。曹洪の伯父は、曹鼎だ。曹鼎は、尚書令となった。『魏書』が正しければ、曹鼎は、曹騰のおいだ。どちらが正しいか、わからない。
『水経注』はいう。譙郡に、曹騰の兄の墓がある。墓の東に碑があり、「漢のもと潁川太守・曹君の墓」とある。曹仁伝にひく『魏書』はいう。曹仁の祖父は、曹褒だ。曹褒は、潁川太守となった。これは、曹騰の兄の名が、曹褒である証拠だ。
ぼくは思う。司馬彪『続漢書』に従って「曹騰の父を曹節とする」ことと、「曹騰の兄を曹褒とする」ことは、情報のソースがちがう。安易に「曹褒の父を曹節とする」と接続してよいのか疑問。原作では、スペースの都合なのか、『続漢書』の曹節の話を疑うからか、系図に曹節が載っていない。
しかし話が進まないので、あえて接続する。原作者も、曹節の実在性までは疑っていないので。美談のことは、否定的であるが。

曹節は、2人のうちでも、頭がよく、かつ幼いから去勢の意味すら分かっていない、末子の曹騰を、差し出すことにする。
21p「どうして好きこのんで、子供を宦官にしたりするだろうか。曹騰は、幼いうちに去勢手術をほどこされ、宮中に入れられたのだろう」

宦官として仕える曹騰(安帝・順帝期)

23p、永寧元年(120)、劉保(のちの順帝)が皇太子になると、鄧太后は「謹厚」な曹騰に目をつけ、その勉強相手をつとめさせる。
鄧太后がなくなり、121年、鄧氏が失脚すると、ポスト安帝をにらむ閻皇后と、兄の閻顕が、ろこつな多数派工作にのりだす。安帝の母の弟・大将軍の耿宝も、これに同調する。124年、劉保は皇太子の座をおわれる。猛反対した大尉の楊震が、自殺に追いこまれた。23p

ここは2つの伏線となる。
扶風の耿氏と、弘農の楊氏が出てくるから。

作品を読みやすくするために、劉保を廃太子にした主体として、閻氏よりも、耿氏を前に出してもいいかも。

320p 扶風の耿氏は、十九人の列侯・十一人の将軍・十三人の九卿など、高位高官を輩出した、後漢きっての名門。だがこの事件(曹操に対するクーデターの失敗)で勢力を失い、「漢とともに栄え、漢とともに滅んだ」(『范書』列伝九 耿弇伝)である。……金禕・耿紀らのクーデターは、漢王朝の最後の抵抗だった。

『范書』耿弇伝では、「其後貴人薨,大將軍梁冀從承求貴人珍玩,不能得, 冀怒,風有司奏奪其封。承惶恐,遂亡匿於穰。數年,冀推迹得之,乃并族其家十餘人。」で終わっており、直系は梁冀に殺されているが、まだ傍系がたくさんある。
しかし原作は、地域と姓を手掛かりにして、もう少し柔軟である。たとえば、後漢中期の梁冀と、末期の梁興とを血縁関係(梁氏の生き残り)とみる。後漢中期までの耿宝も、末期の耿紀と血縁関係(耿氏の生き残り?)とみる。この繋がりは、ぼくの作中で活かしてゆく
『范書』の列伝が、傍系たちを別に書いてて、耿紀が史料上で確実な血縁であることを確認しました。

『范書』耿弇伝を読み、安帝・順帝の時代の耿氏を、曹騰の目線から描き、活躍させる。漢にとって最後の抵抗をした、原作にいう「陰謀の黒幕」となることの説得力をつける。
弘農楊氏は、漢末索引から、楊彪・楊脩の登場シーンを見てみたが、あんまり特徴づけされていない。楊彪は、任官について名があるだけ。楊脩は、曹植をかついだので粛清されたという役割として登場する。

◆ドラマチックな袁紹
原作の特徴として、袁安・袁湯が出て来ない。桓帝の擁立を、梁冀・曹騰とともに取り組んだのは、袁湯(袁術・袁紹の祖父)だが、出て来ない。
袁氏と曹氏の交渉はなくて、何顒を媒介にして、曹操がメンバーに加えてもらったことが強調される。
思い返せば、原作では、「橋玄と曹操の出逢いを劇的に捉えるのは、やや見当外れ」として、曹騰の時代からの人脈を描く。たまたま意気投合したのでなく、すでに前段に背景があるのだよと。
同じ論法を裏返せば、原作で、袁紹と曹操の出逢いはドラマチックになっている。曹騰・袁湯に接点を見出すのは、無理ではない。原作のように、史料の空白を埋めていくような手法ならば、曹騰・袁湯について、交渉を「窺う」ことくらいできそうだが、やらない。原作にとって、袁紹とは、曹操がドラマチックに出会うべき人物であり、かつ官渡の戦いは、曹操が集約されたハイライトなのだ。

原作者がそのように思って、書いていなくても、そう読解できると思うので、その設定でいきます。


話がそれたが、廃太子された劉保(曹騰の学友)は、宦官の孫程に即位させてもらった。24p 曹騰は十九侯の列に加わっていない。だが、ごくひとにぎりの中黄門だけが劉保を支持し、決起したのである。……曹騰は、数少ない劉保の側近だったにちがいない。
ぼくが思うに、まだ曹騰は幼いor若いから、権力闘争の前面に出なかったのだろう。十九侯に含まれないのも、それが理由だと思う。鄧太后が学友に割り振るぐらいだから、11歳の順帝とほぼ同年代と思われる。
孫程の爵位を、親族が襲うことが許され、135年、宦官の養子による襲爵が正式に法令化された。25p

宦官が養子を取って、爵位を嗣がせられる。この法整備が「曹操」を出現させるための前提、舞台装置である。いよいよ、本番。盛り上がって参りました!という感じで、『漢の魏王 曹操』を進めていく予定です。151124

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第2回 後漢を支える涼州豪族 vs 曹操

次回作『魏の武王 曹操』のために準備をしています。
前回、気持ち悪かったのが、耿宝のこと。もうちょっと史料を消化しないと、つぎに進めない。

あらすじの段階で、読むべき史料は、さきに目を通しておく。これが『曹丕八十歳』『反反三国志』のときの教訓なので、こういう寄り道は、むしろ正義です。
小説に着手する前には、もう1工程を増やし、このような「あらすじ」に基づいて、設計図をつくって、物語を細かく組み立てる必要がある。あらすじの段階で、そのような細かい設計図をつくるのはムリだし(発想が殺される)、しかし設計図なしで小説に着手するのは無謀(手戻りが発生しまくる)

突発的にですが、読むべき史料は、消化しておきます。耿弇の直系の家柄は、わりに穏やかでも、弟たちに家柄が、梁冀に滅ぼされたり、曹操に滅ぼされたりする。

耿弇の直系の子孫

まず、耿弇伝より、その直系の子孫について。

光武帝期の耿弇伝については、こちらで抄訳した。
『後漢書』列伝8,9,10を抄訳して、光武の功臣をならべる


子忠嗣。忠以騎都尉擊匈奴於天山,有功。忠卒,子馮嗣。馮卒,子良嗣,一名無禁。 延光中,尚安帝妹濮陽長公主,位至侍中。良卒,子協嗣。

耿弇が死ぬと、子の耿忠がつぎ、騎都尉となって匈奴を撃った。耿忠の子の耿馮が嗣いだ。耿馮が卒すると、子の耿良が嗣ぎ、一名を無禁という。延光中(122-125)、安帝の妹である濮陽長公主と結婚し、位は侍中に至る。耿良が卒すると、子の耿協が嗣ぐ。

耿弇の弟・耿覇の子孫たち

隃麋侯霸卒,子文金嗣。文金卒,子喜嗣。喜卒,子顯嗣,為羽林左監。顯卒,子援嗣。尚桓帝妹長社公主,為河(陽)〔東〕太守。後曹操誅耿氏,唯援孫弘存焉。[一]決錄注云「援字伯緒,官至河東太守」也。

(耿弇の弟である)隃麋侯の耿霸が卒すると、子の文金が嗣ぐ。文金が卒すると、子の喜が嗣ぐ。喜が卒すると、子の顯が嗣ぐ。羽林左監となる。顯が卒すると、子の援が嗣ぐ。耿援は、桓帝の妹である長社公主と結婚し、河東太守となる。のちに曹操が耿氏を誅したとき、ただ耿援の孫の耿弘だけが生き残った。『決録注』によれば、耿援はあざなを伯緒といい、官は河東太守に至る。

桓帝の妹の孫でもある?耿弘だけが、漢の末路を見届けた。


耿弇の弟・耿舒の子孫たち、耿宝の家

牟平侯舒卒,子襲嗣。尚顯宗女隆慮公主。襲卒,子寶嗣。
寶女弟為清河孝王妃。及安帝立,尊孝王,母為孝德皇后,以妃為甘園大貴人。帝以 寶元舅之重,使監羽林左(車)騎,位至大將軍。而附事內寵,與中常侍樊豐、帝乳母王聖等譖 廢皇太子為濟陰王,及排陷太尉楊震,議者怨之。寶弟子承襲公主爵為林慮侯,位至侍 中。

(耿弇の弟である)牟平侯の耿舒が卒すると、子の襲が嗣ぐ。顯宗の娘である隆慮公主と結婚する。襲が卒すると、子の寶が嗣ぐ。
耿宝の女弟(いもうと)は、清河孝王(劉慶)の妃となる。(清河孝王が)安帝として立つと、劉慶を追尊し、生母を孝德皇后とし、妃(耿宝の妹)を甘園大貴人とした。安帝は、耿宝が元舅之重(母方のおじの年長者)なので、羽林左騎を監させ、位は大將軍に至る。しかし、内寵に附事し(側近におもねり)、中常侍の樊豐、安帝の乳母の王聖らとともに、譖って皇太子(のちの順帝)を廃して濟陰王とし、太尉の楊震を排陷して、議者に怨まれた。

最高権力者である、大将軍の耿宝につめよられて、廃太子される。そのすぐそばに、亡き鄧太后から学友に任じられた曹騰がいる。太子も曹騰も、まだ少年である。という場面。耿宝が「漢の体制側」であると。
曹騰が、幼い曹操に、昔話として「順帝にお仕えしたときに、いちばん怖かったのは、耿宝だった」とインプットしてほしい。そして曹操は、耿紀による、ラスト・クーデターを鎮圧したとき、祖父のことを思い出して感無量になるのだ。

耿宝の弟の子である耿承は、(祖母である隆慮)公主(=顕宗の娘)の爵位を襲って林慮侯となり、位は侍中に至る。

安帝崩,閻太后以寶等阿附嬖倖,共為不道,策免寶及承,皆貶爵為亭侯,遣就國。寶 於道自殺,國除。大貴人數為耿氏請,陽嘉三年,順帝遂(詔)〔紹〕封寶子箕牟平侯,為侍 中。以恆為陽亭侯,承為羽林中郎將。其後貴人薨,大將軍梁冀從承求貴人珍玩,不能得, 冀怒,風有司奏奪其封。承惶恐,遂亡匿於穰。數年,冀推迹得之,乃并族其家十餘人。

安帝が崩ずると、閻太后は、耿宝らが嬖倖に阿附して(側近におもねり)ともに不道をなしたとして、耿宝および(耿宝の弟の子の)耿承を策免し、みな爵位をおとして亭侯として、国にゆかせた。耿宝は道で自殺し、国が除かれた。

順帝・曹騰という2人の少年の知らないことで起きた事件。
安帝の母系である耿氏を、安帝の皇后である閻氏が排除した。皇太后として権力を振るうために。皇帝が代替わりすると、外戚も代替わりするという事件。

(甘園)大貴人(=耿宝の妹)は、しばしば耿氏のために請い、陽嘉三年(134)、順帝はついに耿宝の子である耿箕に牟平侯をつがせ、侍中とした。(同じく耿宝の子である)耿恒を陽亭侯にした。(耿宝の弟の子である)耿承を羽林中郎將とした。のちに大貴人が薨ずると、大將軍の梁冀は、耿承から大貴人の珍玩をもらおうとしたが、得られずに怒った。有司に風して(担当官にほのめかして)奏し、その爵位を奪った。耿承は惶恐し、ついに穰県にかくれた。数年後、梁冀につかまって、その家族の十餘人がみな殺しにされた。

ぼくは思う。曹騰が「耿宝の残党を滅ぼしたい」と、梁冀に耳打ちをした。梁冀の関心が向くように、珍宝のことをチクった。いかにも内情に詳しい、宦官がやりそうなこと……。そういう話が思い浮かびますが、原作がそこまで書いていないので、自重いたします。書くなら、別の場所で。

ここで范曄の「論」が入って仕切り直される。

耿弇の弟・耿国の子孫たち、耿秉・耿紀の家

つぎもまた、耿弇の弟である、耿国の列伝が始まる。いまは『魏の武帝 曹操』に関係ありそうなところだけ。

光武帝期の耿国伝については、こちらで抄訳した。
『後漢書』列伝8,9,10を抄訳して、光武の功臣をならべる

見るべきは、烏桓・鮮卑の対策を行い、南単于を立てたこと。度遼将軍と左右校尉を五原郡におき(後漢の兵の?)逃亡を防げといい、光武帝に採用された。
原作が重んじる「西北の列将」は、後漢で唯一の常設の将軍職である、度遼将軍についた。55p~59pに詳しい。

耿国には2人の子がおり、耿秉と耿夔である。
耿秉は、父ゆずりの「西北の列将」であり、明帝期に党錮ととにも胡族と戦い、章帝期に征西将軍となり、戊己校尉を救援した。076年、度遼将軍となり7年間もつとめた。美陽侯。

秉性勇壯而簡易於事,軍行常自被甲在前,休止不結營部,然遠斥候,明要誓,有警,軍 陳立成,士卒皆樂為死。

耿秉は、勇壮で、礼儀作法にこだわらず、軍行するときは、みずからも鎧をつけて前に立ち、休止するときは営舎を設営しなかった。斥候を遠くにやり、規律を明らかにし、警報があればすぐに陣をつくり、士卒はみな(耿秉のために)死ぬことを楽しんだ。

石井先生は触れておられないが(さすがに時代が遠いので)、度遼将軍をおいた耿国と、その子である耿秉は、わかき曹操が描いた、理想像の原点であり、必然的に意識をしただろう。その子孫である耿紀は、曹操から敬われるが、曹操が漢を奪うと考えて敵対する。「西北の列将になりたい曹操」が、赤壁で敗れて、「漢を滅ぼすしかない曹操」に変節したとき、その批判をする権利があるのが、耿紀である。
というか、順帝を廃太子した耿宝のことを調べようと、この列伝を読み始めたのだが、むしろ「西北の列将」の始祖を見つけることができて、そちらのほうが膨らみそう。耿宝のことは、わりとどうでもいいな。


長子沖嗣。及竇憲敗,以秉竇氏黨,國除。沖官至漢陽太守。
曾孫紀,少有美名,辟公府,曹操甚敬異之,稍遷少府。紀以操將篡漢,建安二十三年, 與大醫令吉、丞相司直韋(況)晃(曄)謀起兵誅操,不克,夷三族。于時衣冠盛門坐紀罹 禍滅者眾矣。

(耿秉の)長子の沖が嗣いだ。竇憲が敗れると、耿秉は竇氏の党として、国を除かれた。耿沖は、官は漢陽太守に至る。
(耿沖の)曾孫の耿紀は、少くして美名あり、(曹操の)公府に辟され、曹操は甚だ敬異した。稍く少府に遷る。耿紀は、曹操が篡漢しようとするから、建安二十三年(218)、大醫令の吉ヒ・丞相司直の韋晃とともに、謀起兵誅操し、克たず夷三族された。このとき、衣冠の盛門(代々の高い官職についた名門)は、耿紀に坐して、禍をこうむって滅ぶものが多かった。

集団としての漢臣は、このクーデターによって滅び、曹丕の革命が準備される。耿紀は、本作でとても重要な役割になります。


耿弇の弟・耿夔の子孫たち

また列伝は遡り、耿弇の弟には、耿国(耿紀の祖先)のほかに、耿夔がおり、これも後漢初期にあらわれた、西北の列将である。
耿夔は、匈奴を撃って騎都尉となり、大将軍左校尉、中郎将となったが、竇固に連座した。長水校尉、五原太守、雲中太守、行度遼将軍事となる。また度遼将軍となる。
さらに耿国の弟の子である耿恭は、戊己校尉(あるいは戊校尉)となる。匈奴を攻めると包囲されたが、「漢の兵は神がかっている」と怖れさせ、のどが渇くと祈って水を湧き出させた。

本作に関係ないから省いているが、耿恭伝もおもしろい。『全訳後漢書』602頁。

『東観漢記』に、耿恭はみずからカゴをひき、兵士たちに水を飲ませず、泥をこねて城壁にぬり(水がないと泥ができないから)水をあげて匈奴に示した。

馬謖は水を絶たれて敗れますが、それと対照的に『演義』の司馬昭だかは、姜維と戦ったとき、水を絶たれるけれども、祈りによって水を湧き出させる。「祈りによって水を得る」というのは、王朝の神秘性・正統性をいうときに、つかわれる手法。


その他、耿氏の列伝……

ほかにも、耿氏の列伝はつづいて、胡族との戦いがたくさん描かれている。曹操が耿宝を「敬」した理由は、ここにあるのでしょう。320p「扶風の耿氏は、十九人の列侯・十一人の将軍・十三人の九卿など、高位高官を輩出した、後漢きっての名門」とあるが、将軍職が常設ではない後漢で、これだけの将軍を輩出したのは、西北の戦場を、おもな活躍の場としたから。
曹操が、漢の復興をあきらめ、魏の建国を志すのならば、最終的に決戦すべき相手は、耿紀だったということが、言えると思います。石井先生の論を、方向は同じで、さらに先まで延ばすと、これを言うことができます。

曹操の抵抗勢力としての涼州豪族

耿氏の列伝を読んで、見えてきたこと。

後漢で活躍期間が長い家としては、汝南袁氏と弘農楊氏の話になるけど、三公に限る必要はない。むしろ、視野が狭くなる。
扶風の馬氏(馬援から馬融や馬超まで)、扶風の耿氏(耿弇から耿宝を経て耿紀まで)、安定の梁氏(梁統から梁商・梁冀をへて梁興まで)という、三公でなくても後漢初(光武帝期)から後漢末まで人物を輩出した家、おもしろそう。
いずれも涼州が本籍地で、外戚になって朝廷を独占することもあり。外戚は「累世」ができないから(そしたら、こっちが皇帝家になってしまう)時代がとびとびで活動する。馬超・梁興は、本籍と姓は同じだが系図は不明。馬超・耿紀・梁興ともに曹操と戦って負けてます。
活動時期は短いが、霊帝の母の董氏と、血縁があるっぽい書かれ方をする董卓もおそらく同質で、涼州の隴西。そして董承は、曹操と戦って敗れるところも同じ。
涼州が産出する息の長い家柄って、後漢の「体制側」を形成しており、漢魏革命の最後の抵抗勢力と位置づけられるか。

後漢の「体制側」を形成する、涼州勢力。


丞相司直の韋晃、金禕、吉本

耿紀とともに乱を起こすのは、金禕・吉本・丞相司直の韋晃。このひとたちも、ぼくがさっき思いついた、「後漢の体制側としての涼州豪族」というカテゴリかも知れない。涼州というと良くないので、三輔・関内、くらいまで範囲をひろげて捉えます。

319p 太医令の吉本(馮翊の人)は、子の吉邈・吉穆らを仲間とする。「馮翊の吉氏は有名な大豪族」であり、医師団を統括するのが役目で、本人が医者かどうかは別の話。だそうです。

『三国志集解』武帝紀はいう。『続百官志』はいう。太医令は、1名、6百石。『風俗通』はいう。吉本は、周代の尹吉甫の子孫である。漢代には、漢中太守の吉恪がいた。
ぼくは思う。石井先生の「有名な大豪族」とは、漢中太守を輩出したことを指しているのか。三輔の塢の記録とかで、吉氏が出てくるのか。
本人が医者じゃないというのは、『演義』に対する牽制かな。

金禕は京兆のひとで、金日磾の子孫。

韋晃は謀反人だからか、列伝がなく、ほかの列伝でも関係性の説明がない。
石井先生の原作では、319pで「韋晃(京兆の人か)」とある。やんわり、韋端・韋康との親族関係が推測されているが、確証がないから「か」と付いていると思われます。これは重い。2つのことが窺えます。まず、史料が「ない」ことが「分かる」。つぎに、やはり韋端・韋康との繋がりを、石井先生が想像している……ようです。

『てぃーえすのワードパッド』より

『てぃーえすのワードパッド』では、以下の記事がある。引用します。
◆「韋と金」2014-04-23
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140423/1398179058
三輔決録注曰、金旋字元機、京兆人、歴位黄門郎、漢陽太守、徴拜議郎、遷中郎將、領武陵太守、為備所攻劫死。子禕、事見魏武本紀。(『三国志』巻三十二、先主伝注)
劉備に敗れたあの金旋は、漢陽太守だった時期があるらしい。 漢陽郡=天水郡であり、涼州牧韋端・刺史韋康親子の本拠あたりであったはずなので、韋端と金旋が共に涼州にいた時期があったんじゃないだろうか。
そんな金旋の子供と、(もしかしたら)韋端・韋康の親族(かもしれない)韋晃が共に反旗を翻す(吉本の乱)というのはちょっと面白い。色々と想像できるではないか。

◆「ひとこと」2014-04-23 http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140414/1397404436
後漢末のいわゆる吉本の乱を起こした高官の中に丞相司直韋晃というのがいる。もし彼が涼州刺史韋康の近親だとしたら、彼が敢えて曹操に刃向おうとした理由が説明できるかもしれないな。
韋康が8カ月の籠城戦の末に討たれたことを、曹操が適切な対策をしないでおいた人災と考え、曹操を仇と思ったという風に言えるんじゃないだろうか。
また実際にそこまで思っていなくても、そのあたりの事情から韋氏近辺が曹操から次第に遠ざけられていくような疎外感を味わい始め、そこが反乱の一因になった、ということもあるかもしれない。

◆「王必と胡婢と韋晃と韋誕」2012-08-06
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20120806/1344181950
曹操の丞相長史王必は、あの吉本の乱の首謀者の一人金禕から、射撃が得意な胡婢を手に入れていた、という。

ブログ『雲子春秋』によると、『初学記』巻十九「奴婢」に、「三輔決錄曰.金禕為郡上計.留在許都.時魏武使長史王(原文は伍と作る、藝文類聚に従って改める)必.將兵衛天子於許都.禕與必善.必見禕有胡婢善射.必常請之從役也.」(三輔決録曰く、金禕は郡の上計となって、許都に留まっていた時、曹操は長史王必に兵を率いさせて、許都で天子を守らせていた。金禕は王必と親しくしていた。王必が金禕の胡婢(おそらく異民族の女奴隷。『蒼天航路』の水晶みたいな感じだと思う。)に射の上手い者がいるのを見て、王必は、常に彼女に請うて従役させた)
金禕には弓矢の上手い胡婢がいた。王必は彼女を気に入り、よく従わせた。
『三国志』巻一「武帝紀」に引く『三輔決録注』に「禕遣人為內應,射必中肩.」(金禕は人を遣って内応させ、王必を射て肩に命中させた)とあり、金禕の乱の時に王必の肩を射抜いたのが彼女だったらドラマチック! 以上、http://d.hatena.ne.jp/chincho/20090922/1253557676

ということは元々はその胡婢は金禕の元にいたわけだ。金禕ははるかな先祖は匈奴とはいえ、王必と同じ許県にいたようだから、どうやって射撃が得意という胡婢を入手したのだろうか。射撃が得意ということは涼州方面で生まれ育ったのだろう。涼州の刺史といえば韋康・韋端である。そして金禕と共に反乱した人物に出身不明の丞相司直韋晃というのがいる。金禕や吉本も三輔の出身であることを考えると、韋晃も三輔の出身であろう。つまり韋康らの親族ということだ。ということは、胡婢は元々は韋康らが口を利いたか贈ったかしたのではないだろうか。・・・という妄想である。吉本の乱の一因に、韋端が救われなかったことで三輔の韋氏が曹操に対し含むところがあったのだ、と強引に繋げようとしたのである。

ぼくは思う。石井先生の「京兆の人『か』」を膨らませると、こういうブログの先行記事で肉付けしていくことになるのでしょう。


◆「曹操怒りの誘導尋問」2011-10-07
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20111007/1317915971
山陽公載記曰、王聞王必死、盛怒、召漢百官詣鄴、令救火者左、不救火者右。眾人以為救火者必無罪、皆附左。王以為「不救火者非助亂、救火乃實賊也」。皆殺之。(『三国志』武帝紀注引『山陽公載記』)
吉本の乱の首謀者の一人侍中・少府耿紀は元は丞相府の人間だし、韋晃は丞相司直つまり曹操直属の監察官現役だった。当時の漢の百官の多くはこのように曹操シンパで固められていたのだろう。要職であればあるほどそういう傾向だったに違いない(尚書令などがわかりやすい)。
この時の乱は、曹操に非協力的な勢力が公然と牙を剥いたのではなく、曹操自身が味方と思っていた者たちの反乱だったのである。……この件で殺した「漢の百官」は、「元々曹操に非協力的だった漢王朝の旧臣」などではないということだ。そんな連中は二十年を超える建安時代の間に絶滅危惧種になっていたはずだ。吉本の乱首謀者たちだって少なくとも表向きは曹操シンパとしてふるまっていたのだ。曹操は自分のシンパ、自分に服従した者どもが刃向うという事態に直面したからこそ激怒し皆殺しにしたのである。
以上、引用は終わりです。

再び、曹操の抵抗勢力としての涼州豪族

T_Sさんの指摘・イメージされてくる物語を、『魏の武帝 曹操』の文脈で読み替えると、どうなるか。

曹操シンパのひとびとは、天下を統一する漢臣、「西北の列将」の後継者としての曹操に期待していた。しかし、赤壁で負けただけでなく、涼州でも手こずった。
石井先生が強調するように、潼関の戦いはうまくいった。しかし、仕上げの戦いは、やっぱり難しくて(そもそも難易度が高い)T_Sさんが指摘されるように、韋晃は親族を馬超軍に殺されて、失望していた。

漢を復興できず、官僚(豪族)を守れず、そのくせ自分は魏王になるなんて、単なる横暴です。
『魏の武帝 曹操』に描かれた、曹操の路線転換の意味とは、「もと漢の領域の豪族に対して、保護する責任を負わない。なぜなら、魏の領域ではないから。というか、天下統一は、もう済んでるもん。遠い地域(天下の外側)は、これから繰り入れるところなので」という開き直りである。天下統一してなくても、皇帝を目指すとは、そういうことである。そりゃ、韋晃は反乱するわ。

◆曹丕のこと
曹操の分析から派生して、その1。
曹丕の革命は、ほんとうに危なかった(成否が定まらなかった)ということが分かる。むしろ、外敵を倒せず、天下統一を諦めた曹操は、皇帝になる歩みを止めたのではなく、内側の敵を倒すことに「積極的」になったのだろう。その完了(耿紀・吉本・韋晃の反乱平定)とともに、たまたま曹操の寿命が尽きた。だから曹丕が続きをやった。曹操が内側の敵を粛清してくれねば、曹丕は怖くて革命などできなかったというのが、実際のところではないか。
曹丕の時代になって、やっと涼州が平定されるが、曹操の晩年の動きから連続しており、やっと成果が出たのだ。逆に、曹丕の時代になっても、馬超の残党レベルがウヨウヨしていたら、革命はコケたな。閻温・楊阜、ありがとう。

◆諸葛亮のこと
曹操の分析から派生して、その2。
すると、孔明の戦略の輝きが見えてくる。
「漢を復興するために、益州に入り、益州から関内を目指せ」といった。なぜなら関内には、後漢を体制内から支えた豪族が、たくさんいる。曹操が簒奪を目指すのならば、彼らを味方にすることができる。
歯車が狂って、曹操の時代に、耿紀ら、体制内の涼州豪族が粛清された。曹丕の時代に、涼州が鎮静してしまった。曹叡の時代になって、やっと北伐に取りかかっても、遅かったわけで。戦略としては勝れていたが、もうちょい早く実現されるべきプランだったようです。

蜀が勝つ話『反反三国志』を作っていて、馬超を涼州に潜伏させた。馬超が、羌族の民族意識に働きかけ、異民族につめたい魏に敵対させる、という話にしました。漢の体制内の豪族としては、弘農楊氏を設定しました。いまさら言っても仕方がないが、これは「惜しい」のであって、涼州豪族を、内側の許都と、外側の涼州から、同時に立ち上がらせるイフ物語のほうが、すばらしかったな。


物語のあらすじとしては、話が進みませんでしたが、物語のテーマを固めるための史料読解としては、ものすごく前進することができました。151125

史料を読みながら、史実・人物にかんする発見をして、先行ブログにも学び、物語づくりも捗る。このゴチャゴチャのページが、ひとつの理想型ではないかと思うのです。

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第3回 外戚の梁氏と癒着する曹騰

前回、涼州豪族の話で膨らませましたが、本編に戻る。
なんか「あとがき」に書くべきことかも知れませんが(気が早い)、昨日の朝、電車で思いました。
石井先生の『曹操』を、大学図書館で借りて、京都を散歩しながら読んだときは、コレデモカ!コレデモカ!と、後頭部を叩かれ、目からウロコどころか、目ごと落ちそうになりました。石井先生の『曹操』を原作に小説を書きたい、ついに曹操という素材を扱ってみたい、と思うようになったのは、10年くらい前、三国志のファンになりたての頃の、眼窩から眼球が落ちるような読書体験があるからです。小説を「書きながら」歴史の勉強になる。これが理想形。

本編に戻って、
原作25p 政治というものは、個人の好き嫌いで動いているわけではない。昨日まで口をきわめて罵っていたものと、今日は平気で手を結ぶ。……要するに、曹騰は、したたかな政治家だった。

中常侍の張逵に、謀反を告発される

永和四年(139)、中常侍の張逵が、順帝に「大将軍の梁商・中常侍の孟賁が、中常侍の曹騰とともに謀反をたくらんだ」という。梁商の娘は順帝の皇后、妹は順帝の貴人。
伝えられている、梁商の人柄からしても、あり得ない話。

『宮城谷三国志』でも、梁商はすぐれた政治家であり、その子の梁冀が、人格の腐ったひととして描かれた。

孟賁の経歴は不明だが、曹騰と同じように、不遇の時代の順帝をささえた寵臣。

『范書』列伝 第二十四 梁商伝

永和四年,中常侍張逵、蘧政,內者令石光,(內者,署名,令一人,秩六百石,屬少府,見漢官儀也。)尚方令傅福,宂從僕射杜永連謀,共譖商及中常侍曹騰、孟賁,云欲徵諸王子,圖議廢立,請收商等案罪。帝曰:「大將軍父子我所親,騰、賁我所愛,必無是, 但汝曹共妒之耳。」逵等知言不用,懼迫,遂出矯詔收縛騰、賁於省中。帝聞震怒,勑宦者 李歙急呼騰、賁釋之,收逵等,悉伏誅。
辭所連染及在位大臣,商懼多侵枉,乃上疏曰:「春秋之義,功在元帥,罪止首惡,故賞不僭溢,刑不淫濫,五帝、三王所以同致康乂也。 竊聞考中常侍張逵等,辭語多所牽及。大獄一起,無辜者眾,死囚久繫,纖微成大,非所 以順迎和氣,平政成化也。宜早訖竟,以止逮捕之煩。」帝乃納之,罪止坐者。

事件のことは梁商伝にあり、張逵は「相手が悪すぎた」ので「ぎゃくに誅殺される」という。石井先生は触れていないが、梁商は、罪人が広がりすぎないように、処罰に制御をかけている。このあたりからも、梁商の「人柄」が窺われる。逆にいえば、梁商・曹騰・孟賁に敵対したひとが、体制のなかに、とても多かったことが分かる。つまり、順帝の即位後、体制の首脳が一新されたが、「一新されすぎて、職務が停滞する」という恐れすらあったのだろう。
ちなみに、梁商の子・梁冀が粛清されると、朝廷からひとが居なくなる。政争は、朝廷の高官を、ゴソッと入れ替える。原作では、張逵がひとりで(無謀にも、順帝の信任の厚い)梁商・曹騰・孟賁に挑んだように読めるが、そうではない。新旧が交代するほどの政争であり、曹騰は、梁氏と密着して、主導的な立場を手に入れたと言えるだろう。

石井先生は、これ以上は触れていないが、周辺のことを調べる。孟賁は、春秋期に同姓同名がいて、検索しにくいが、列伝六十八 宦者 孫程伝に、

四年,詔宦官養子悉聽得為後,襲封爵,定著乎令。……
黃龍、楊佗、孟叔、李建、張賢、史汎、 王道、李元、李剛九人與阿母山陽君宋娥更相貨賂,求高官增邑,又誣罔中常侍曹騰、孟賁等。永和二年,發覺,並遣就國,減租四分之一。宋娥奪爵歸田舍。唯馬國、陳予、苗光保全封邑。

陽嘉四年(135) 、宦官が爵位を襲うことを許された。順帝の即位を助けた「十九侯」に対する恩典である。「十九侯」の結末として、九人は、曹騰・孟賁を「誣罔」して、張逵の事件の2年前、国に行かされて(中央を追放されて)封邑の4分の1を削られた。
ぼくは第1回で、順帝を即位させた「十九侯」に曹騰が含まれないのは、曹騰が幼かったからだと書いた。しかし、順帝が即位してから、すでに10年。順帝は21歳。曹騰もそれと同じか、ちょい年長。
「十九侯」の筆頭・孫程は、張逵の事件の3年前に死んでいる。「十九侯」がバラけ始め、それを危機に思った張逵が、世代交代を拒んだというのが、事件の顛末ではなかろうか。石井先生の記述は簡素なので、張逵が無謀に見えるが、それだけじゃないだろう。
梁商は、後漢初の梁統の子孫だが、外戚として力を付けつつある。張逵にしてみれば、「外戚の閻氏を倒して、順帝は即位したのに、つぎは外戚の梁氏に力を与えるのですか。危ない」というアラームなのだろう。しかし、皇帝は皇后を立てないわけにはいかないし、皇后の親族が高位につく制度だし、イタチごっこだ。梁商の「人柄」だけが、外戚権力のストッパーという、属人的な危うい状態。
曹騰は、順帝が「前代の外戚を倒す」ときは幼くて間に合わなかったが、順帝が「当代の外戚を用いる」とき、梁氏にくっついて、のし上がってきた宦官だと定義できようか。宦官は、後宮に仕えるもの。きっと梁皇后からも信頼されて、梁氏とセットになったのだろう。

『続漢志』志 第十一 天文中に、

三年二月辛巳,太白晝見,戊子,在熒惑西南,光芒相犯。……三月壬子,太白晝見。六月丙午,太白晝見。八 月乙卯,太白晝見。閏月甲寅,辰星入輿鬼。己酉,熒惑入太微。乙卯,太白晝見。 太白者,將軍之官,又為西州。晝見,陰盛,與君爭明。……辰星入輿鬼,為大臣有死者。熒惑入太微,亂臣在廷中。
是時,大將軍梁商父子秉勢,故太白常晝見也。其四年正月,祀南郊,夕牲,中常侍張逵、蘧政、楊定、內者令石光、尚方令傅福等與中常侍曹騰、孟賁爭權,白帝言騰、賁與商謀反,矯 詔命收騰、賁,賁自解說,順帝寤,解騰、賁縛。逵等自知事不從,各奔走,或自刺,解貂蟬 投草中逃亡,皆得免。

永和三年(138)、つまり張逵の事件の前年、太白(木星)が昼に見えるなどの異変があった。太白とは将軍の官であり、また西州のことでもある。昼に見えるのは、陰気が盛んとなり、君主(太陽)と明るさを競うことをいう。大将軍の梁商と梁冀の父子が、太白のこと。翌年、中常侍の張逵らが、曹騰・孟賁と権力を争い、「曹騰・孟賁は、梁商とともに謀反する」といい、詔命をいつわって、曹騰・孟賁をとらえた。孟賁はみずから弁明した。順帝は(謀反などないと)悟り、曹騰・孟賁のいましめを解かせた。張逵らは、失敗したので、にげて自殺したり、冠をすてて逃亡したりした。
前年の辰星・熒惑は、この事件を暗示していた。

張逵の件は、天文との対応関係が記されるほど、宮中を揺るがす大事件だったことが分かる。原作では、25p「曹騰にも、ただ一度ではあるが、あぶない場面があった」とある。曹騰にとって、梁商との密着を選び、権力を得るという、決定的な展開に向かうために、周囲と摩擦があったと考えるべきだろう。原作では、あたかも「とっくに順帝の信頼のあつい曹騰を、なぜか誣告したバカモノ」という調子で、張逵の告発を描いているが、ちょっと違うかも。
鄧太后によって、順帝の学友に選ばれた曹騰が、順帝とともに成人した。ただし順帝期、権力の中枢にいけることは、既定路線とまでは言えない。先輩の宦官たちを打ち倒す必要があった。梁氏との密着は、そのために絶対に必要な選択であった。
外戚が権力を持ちすぎて、ウンザリされるのは、すでに後漢の王朝で、なんども経験されてきた。しかし、外戚の存在は、制度的に不可欠であり、曹騰の世代が、たまたま巡りあったのが、梁氏だった。

孟賁という、曹騰と同じ立場の宦官がいるので、このような歴史観とか、生存戦略について、曹騰としゃべらせたら(小説として)楽しい。
孟賁の史料は、『范書』では、ここにあげた記述しかない。つまり残りは、小説家が調理できる。張逵に縛られて、無罪を証明したとあるから、きっとおしゃべりのキャラだ。
この20年後、梁氏と癒着するあまり、梁冀とともに誅滅されるという、「もうひとりの曹騰」の役割を、孟賁に演じてもらおう。「曹騰も、よほどうまくやらねば、このような末路があったのだ」と描きたい。曹騰と同じように、養子を取っていたが、養子・養孫ともども殺されるシーンを描くことで、曹騰-曹嵩-曹操というバトンタッチが、奇跡的だったことを浮き上がらせる。養孫の名を「徳」にして、曹操と同い年にしたら、「幼くして殺害される孟徳」を描くことができる。いたずらのような設定(笑)
次回作のシステムが、このあらすじを作りながら、分かりつつあるのだが、「もしかしたら曹操になれたかも知れない同輩たち」をたくさん登場させ、しかし彼らを、多彩な理由で失脚・族滅せてゆき、曹操が「後漢の背景から登場した、ありふれた存在」であることと、しかし「稀有の運命によって王朝を開いた、奇跡のような存在」であることを、同時に示すのだ。原作を貫いているのは、きっとこの対立的な2つの命題だと思う。


梁冀とともに桓帝を立てる

26p「父とちがって権力欲のつよい梁冀」は「聡明な質帝を制御できなくなると考え、暗殺してしまう」。「曹騰は、同僚の宦官とともに、このとき梁冀の妹の縁組みのため、洛陽に滞在していた蠡吾侯の劉志をおす」。「かつて(皇帝の候補、清河王)劉蒜に冷たくあしらわれたのを根に持ったのだという話もあるが、真相はわからない」と。

『范書』列伝四十五 章帝八王 清河孝王 劉慶伝に、

蒜為人嚴重,動止有度,朝臣太尉李固等莫不歸心焉。初,中常侍曹騰 謁蒜,蒜不為 禮,宦者由此惡之。及帝崩,公卿皆正議立蒜,而 曹騰說梁冀不聽,遂立桓帝。語在李固傳。 蒜由此得罪。

(順帝の生前に)中常侍の曹騰は、劉蒜に謁したが、劉蒜は礼をなさない。宦者は、これによって劉蒜を悪んだ。だから順帝が崩ずると、公卿は議論を正して、劉蒜を立てようとしたが、曹騰が梁冀に「劉蒜を立てるな」と吹き込んだ。とか、

『范書』列伝五十三 李固伝に、

先是蠡吾侯志當取冀妹,時在京師,冀欲 立之。眾論既異,憤憤不得意,而未有以相奪。中常侍曹騰等聞而夜往說冀曰:「將軍 累世有椒房之親,秉攝萬機,賓客縱橫,多有過差。清河王嚴明,若果立,則將軍受禍不久 矣。不如立蠡吾侯,富貴可長保也。」冀然其言。明日重會公卿,冀意氣凶凶,而言辭激切。 自胡廣、趙戒以下,莫不懾憚之。皆曰:「惟大將軍令。」而固獨與杜喬堅守本議。冀厲聲曰: 「罷會。」固意既不從,猶望眾心可立,復以書勸冀。冀愈激怒,乃說太后先策免固,竟立蠡 吾侯,是為桓帝。

劉志は梁冀の妹をめとっていた。梁冀は、劉志を立てたいが(李固らに)反対された。中常侍の曹騰は、夜に梁冀をおとずれ、「劉蒜は厳明だから、もし彼が即位すれば、ほどなく梁冀は禍いを受けます」と教えた。梁冀はそのとおりと考え、ゴリ押しした。

これらの記述は、范曄の歴史観として、宦者列伝に、

自曹騰說梁冀,竟立昏弱。魏武因之,遂遷龜鼎。所謂「君以此始,必以 此終」,信乎其然矣!此謂宦官也。言漢家初寵用宦官,其後終為宦官所滅。左傳楚屈蕩曰「君以此始,必以此終」也。

曹騰が梁冀に説いて、昏弱(な桓帝)を立てた。曹操はこれにより、ついに革命をした。いわゆる「漢家は宦官によって始まり、宦官によって終わる」ということである。注に拠れば、漢家は、宦官を寵用することで始まり、宦官によって終わらされた。『左伝』楚屈蕩にちなんだ言葉であると。

原作者(石井先生)は、「真相はわからない」と書いておられるが、これは「范曄のウソである」と同義だとぼくは思います。
「桓帝・霊帝が、バカだから王朝が滅んだ」というのが范曄の歴史観であり、そのキッカケを曹騰がつくった、という「お話」が『范書』で描かれたが、原作者はこれを支持しないと。つまりぼくは、劉蒜に無礼を働かれる曹騰とか、梁冀に耳打ちする曹騰を、描いてはいけない。それが、『魏の武帝 曹操』を原作にもつということの意義です。

竹田晃『曹操』は、このあたりの曹騰を、いきいきと描いていた。史料がすくない人物の、せっかくの詳細な描写なのだから、取りあげたくなるのは分かる。

では、なぜ原作者は、「真相はわからない」という、ボカした書き方をするかと言えば、「史料にあるのに、それを否認する」というのは、史料を起点とする研究者として、やりにくいことだからでしょう。

建和二年(147)、曹騰は、長楽太僕の州輔(南陽のひと、95-156)など、7人の宦官とともに、桓帝を立てた功績により、費亭侯に封ぜられる。費亭とは、沛国のサン県の犬丘城を指す。
曹騰が、「すぐれた人物である劉蒜を退け、梁冀とともに保身をはかって、暗愚な桓帝を立てた」というのは、范曄によるウソ、もしくは誇張だとしても、

なぜ「夜」を選んで密談したことが、後世にモレているのだw

梁冀・曹騰が、桓帝を立てたことは、事実と認定すべきだろう。思うに、梁氏の外戚権力と、曹騰の地位は、セットである。梁氏が、継続して外戚であり続けるために、すでに梁氏と婚姻した劉志を推したというのが、ありそうな政治判断の中身ではなかったか。
宦官は、生物学的に子孫を遺せないという宿命が象徴するように、皇帝・皇后に1代きりでしか仕えられない。順帝の死は、曹騰にとって、失脚のピンチだったはずだ。曹騰は、順帝の学友として始まっているから、順帝の死後は、皇帝の信頼をモトデに生き残る、という期待ができない。まして、沖帝・質帝と代替わりが激しいから、かなり持ち堪えるのが大変だっただろう。

沖帝の夭折、質帝の毒死のとき、曹騰がどのようにウォッチしていたか。それを考えるだけでも楽しいが、あまり膨らますところではない。
情勢について「会話」する相手は、州輔にお願いしよう。

梁冀は、皇太后の権力を頼れば、しばらくは安心だが(曹騰ほど切迫していないかも知れないが)つぎの皇帝が、もしくは、つぎの皇帝の皇后の家が、力を持つようになると、つらくなる。だから質帝の毒殺なんて、やってしまうわけで。

安帝の閻皇后の家を滅ぼして、つぎに順帝の梁皇后の家が権力をもった。つぎの皇帝の皇后の家が強くなれば、閻氏と同じように、梁氏は滅ぼされる。

つぎの皇帝の皇后も、自分の家から出してしまえば、心配がない。

そういう「知恵」を、曹騰が「夜」に訪問して、耳打ちした、というストーリーを、范曄を換骨奪胎して描いてみようか。このときの、行動のペアは州輔。州輔は、墓碑があるために、156年に死ぬことが分かっている。つまり、梁冀の滅亡まで、生きていられない。梁冀とともに滅ぶ担当は、やはり上述の孟賁にお願いしよう。


出身地と姓が同じなら、繋がりを見出すのが、原作の発想法。順帝期の宦官の州輔は、『隷釈』にある「吉成侯州輔碑」曰く、六帝四后に仕え、順帝のもと小黄門・中常侍となり、曹騰と経歴が似る。 「順帝恩顧の宦官……が、一致団結して、梁冀および桓帝を支持したのである。外戚と宦官が相容れない……わけではなく、士大夫がつねに外戚や宦官を目のかたきにしたのでもない」と。

すでに書いたが、派生して。魏の州泰は南陽のひと。州輔の養孫の州謀を、州泰の父と設定し、曹操のウラキャラに。
州泰の父は、宦官の養孫として蔑まれ、世に出ることができなかった。これが、曹操が歩んだかもしれない別の道。オリジナルにキャラを設定して、ストーリー中で具現化することで、これを見せる。このオリジナルキャラの名前(漢字1文字)を募集します。
わかき曹操と、行動をともにする。曹操が、何顒グループに入りこむとき、一緒にいた州氏は脱落して、ダークサイドにおちる。どこかで曹操を妨害したら、なおよし。

曹騰は、大長秋(皇后の侍従長)、位特進。

外戚が、うまく勝ち残る方策として、宦官を味方につけること。曹騰・州輔らと結んだことが、梁冀のゴリ押しが成功した要因でもある。また、皇帝が幼少のうちは、クーデターの危険もないから、梁冀は無敵である。
のちの曹操の権力の握り方とは、構造がちがう。そりゃそうか。


梁冀とともに栄える曹騰

28p、河間相の曹鼎が、冀州刺史の蔡衍に弾劾される。蔡衍は、清流派の幹部となる。宦官の子弟が、政界に進出することを快く思わず。

『范書』列伝五十七 党錮 蔡衍伝

蔡衍字孟喜,汝南項人也。……舉孝廉,稍遷冀州刺史。中常侍具瑗託其弟恭舉茂才,衍不受,乃收齎書者案之。又 劾奏河閒相曹鼎臧罪千萬。鼎者,中常侍騰之弟也。騰使大將軍梁冀為書請之,衍不荅, 鼎竟坐輸作左校。乃徵衍拜議郎、符節令。梁冀聞衍賢,請欲相見,衍辭疾不往,冀恨之。 時南陽太守成瑨等以收糾宦官考廷尉,衍與議郎劉瑜表救之,言甚切厲,坐免官還家,杜門不出。

汝南のひと、蔡衍は、冀州刺史となる。中常侍の具瑗は弟を茂才に挙げてくれというが、蔡衍は拒否した。河間相の曹鼎(曹騰の弟)は、千万を収賄したとして、劾奏された。曹騰は、大将軍の梁冀をつうじて許しを求めたが、曹鼎は罰せられた。
蔡衍は議郎、符節令となる。梁冀は、蔡衍と会いたがったが、蔡衍は病気といって拒否した。

曹騰が、具瑗と近いことが分かる。ともに弟を官僚にしたがって、蔡衍に拒否られた。本人たちがどう思っていようが、派閥としては同類である。
そして曹騰が、梁冀とのツナガリを活用して、横車を押そうとしたことが分かる。曹操の祖父という属性を忘れると、典型的な「濁流の宦官」である。曹騰は、まるで「具瑗みたいなやつ」である。マスとしての宦官の一員。

南陽太守の成瑨は、宦官を批判したために、つかまった。蔡衍は、成瑨を救おうとしたが、言葉がキツくて、免官された。

このように曹騰らは、自己に批判的な勢力を、虐げまくっていた。せっかく原作が、曹鼎のことを拾っている。この事件により、曹騰の濁流さを印象づけることで、曹操が「濁流の出身」であることを、描けるだろう。


◆曹嵩を養子にもらう
時期的に、このころ曹操が誕生する。つまり、梁冀と曹騰が癒着しているときに、曹嵩が養子になり、曹操をつくったことになる。

よほど功績がないと、養子をもらって、爵位を嗣がせる、ということにならない。桓帝をたてた146年から数年以内に、曹嵩をもらったのだろう。

原作によると、曹嵩の素性が不明(夏侯氏とも決まらない)理由は、貧しいからだと思われますが、「史書に書けないから」という妄想も余地がある。なぜ史書に書けないか。敗退・謀反した家とツナガリがあったから……。というのは、史書に書けない、よくあるパターンのひとつ。
梁冀の家にいる奴隷を、曹騰が気に入ってもらってきたとか。さらに妄想するなら、梁冀と遠縁だとか。梁冀→曹嵩→曹操という「簒奪」の系譜を繋げたら楽しい。

◆梁冀と曹操
303p「魏公から魏王へ」として、列侯の封邑が複数県にまたがることは殊礼であり、「鄧禹の故事」と称された。該当者は、①呉漢、②耿弇、③朱浮、④竇融、⑤賈復、⑥梁冀(151年、鄧禹に比せられ、乗氏侯・4県・3万戸)、⑦皇甫嵩(184年、槐裏侯、2県)。
①から⑤までは、光武帝の創業をたすけた。

①から⑤までは、特殊な事情なので、曹操と比べることはできない。梁冀と皇甫嵩は、「もうひとりの曹操」として、たえず参照されるべきである。曹操が複数県をもらうとき、前例としては、梁冀・皇甫嵩しかないのだから。
皇甫嵩ですら(時期は曹操より早く、戦乱は曹操より浅く、功績は曹操より小さくても)帝位を勧められた。袁紹を倒した時点で、曹操を帝位に、という声はあっただろう。むしろ、曹操を帝位にあげることをモチベーションに、袁紹との戦いに耐えたというのが、本当ではなかったか。皇甫嵩とのバランスから見ると、そうなる。

曹操は、206年、武平侯の封邑を、武平・柘城・陽夏・苦県の4県・3万戸となる。県をまたがること、戸数がおおいことにおいて、「いっぱんの臣下と隔絶する殊礼である」と。p304

袁紹の遺児を駆逐したとき、すでに曹操は、「王朝を復興したひと」として、前例のないレベルで、優遇されていた。黄巾を平定した皇甫嵩の「2倍すごい」という位置づけ。


さて、桓帝期、曹騰は、孟賁(ともに張逵に弾劾された)、州輔(ともに桓帝を立てた)と集まっては、梁冀が革命をする可能性を見当したのだろう。

梁冀伝の読書記録:破壊者・梁冀の血の成分
『范書』で、梁冀の風貌は、『漢書』王莽伝を意識して描かれている。そして、若いころの遊びぶりは、曹操のことを思わせる。いいか悪いかは別として「帝王」なのである。
冀字伯卓。為人鳶肩豺目,洞精矘眄,口吟舌言,裁能書計。少為貴戚,逸游 自恣。性嗜酒,能挽滿、彈棊、格五、六博、蹴鞠、意錢之戲,又好臂鷹走狗,騁馬鬬雞。

岩波書店の訳本の164p-181pのあいだは、どれだけ褒めて特権を与えても梁冀が悦ばず、ちょっとでも批判をしたら復讐されるという話。
天子の一歩手前にくると、これ以外の道がない。実質的に天子なんだから、天子以外の特権は要らん。特権を与えるほど、ますます天子に近づくが、天子にはなれないから、「実は天子なのに、名は天子でない」ことが激しくなり、ストレスが増す。という負のスパイラルであろう。べつに、傲慢だから、機嫌が悪いのではない。構造的に、不愉快のなかに放り込まれているのだ。
これは、曹操ですよ!

曹騰は早くも、孫の未来の姿を、政権の当事者として、眺めているわけです。孟賁・州輔と、「なぜ梁冀は不機嫌なのか」と分析をし、王朝というもののあり方に思いを馳せ、「オレたち、梁冀と癒着したままで、大丈夫かね」と首をひねっていたのだろう。当事者だから、一族の命運をかけて、知恵を絞るはずだ。
梁冀は、外戚のなかで、もっとも成功した。なぜなら、順帝・桓帝の2代にわたって、連続して皇后をだせたから。

沖帝は早死にしたので、実質的にノーカウント。質帝は梁冀に殺された。つまり、梁冀が2代も連続で、皇后の家となれたのは、実力行使によって作った状況である。本能的にでも、それを分かっていて、婚姻関係にある劉志(桓帝)を迎えたのだろう。
皇后の家として、2代を連続させれば、皇帝権力に等しい皇太后権力を「世襲」できるわけで、それは、みずから皇帝の家となったに等しい。

しかし梁冀は、もっとも成功して、天子と同等となったから(桓帝が幼いうちは、天子よりも強いから)革命のジレンマに陥ったのです。やはり、これは曹操ですよ!

梁冀の話で、晩年の曹操を先取りできる。物語の構成としては、とても「よくできている」ものになりそう。皇甫嵩の登場場面も、ていねいに描こう。


梁冀の末期、すでに曹操は生まれている。曹操と梁冀は「同時代人」です。

梁冀の滅亡に連ならない

延熙二年(159)、梁冀は桓帝のクーデターで崩壊する。このとき、曹騰が存命したか「定かでない」28p。
『水経注』陰溝水の条に、譙県の城南につくられた曹氏の墳墓について記述がある。曹騰の碑があり、延熙三年(160)に建立された。この前後になくなった「のだろう」。「あれほど癒着していたかにみえる梁冀の滅亡に、曹騰の一族がまきこまれた形跡はない。よほど、巧妙な予防措置をこうじていたのだろうか」29p。

梁冀を倒したのは、単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡。「五侯」。
ぼくが思うに、曹騰が生き残るには、彼らと結びつくしかない。すでに、蔡衍伝で、蔡衍は、具瑗の弟・曹騰の弟を官界から遠ざけようとした。具瑗と、同じような動きをしていた。
また、原作から離れて材料を集めると、
『三国志』巻六 袁紹伝にひく『魏氏春秋』に、陳琳の檄文を載せて、「祖父騰,故中 常侍,與左悺、徐璜並作妖孽,饕餮放橫,傷化虐民」とある。曹騰は、左悺・徐璜とともに、民を虐げたとある。
曹騰が、左悺・徐璜と括られている。

梁冀のとき、曹騰はすでに官職をきわめ、封邑ももらっている。「五侯」は、このタイミングで封邑をもらう。つまり、曹騰のほうが先輩なのである。
思えば順帝期、曹騰は、中常侍の張逵に弾劾されたが、あの事件は、「前代の宦官が、新進の宦官の芽を摘む」ものであった。時代が移り変わると、同じことが起きる。つまり、曹騰は旧世代として、新進の宦官から煙たがられるはずです。こんどは曹騰が老害となり、「五侯」に罪を着せて、彼らの進出を防がねばならない立場。
しかし、そこは曹騰。
張逵の失敗に学んで、「五侯」の助言役になったのではないか。曹騰・五侯とも、梁冀の権力に癒着して、さんざん子弟を官僚にしてもらいながら、、「そろそろ梁冀を裏切って、桓帝に親政してもらおう」ともちかけた。
なぜ曹騰が、梁冀を裏切ったか。
天子と同等の権限をもらいながら、天子にはなれない梁冀。アクセルとブレーキを同時に踏んで、少しでもアクセルが強くって、車両が前進すれば(簒奪すれば)コンビニに突っこむ(賊臣として汚名を垂れる)、しかしブレーキは焼き付いて(ストレスを溜めて)故障しそう(何をやりだすか分からない)。そんな梁冀と、一緒にいるのは、政治家として危ない。
せいぜい梁冀にできるのは、国富を蕩尽することだけ……。

天子の一歩前で、爵位や特権の進退が窮まり、人格崩壊を起こしそうな梁冀。これを見て、「梁冀と一緒に栄えて、子弟を官界に送りこむだけでは、まずそうだ」と反省し、皇帝権力の本質を見通して、いち早く梁冀に見切りをつけ、クーデターを企画できたのが、曹騰の「したたかさ」だったのではないか。
曹騰の陰謀説は、原作にある「よほど、巧妙な予防措置をこうじていたのだろうか」に基づいて、ぼくが勝手に書いていることですが、いちおう念頭に置いている事例があります。
のちに、曹操・曹丕の簒奪に対して、謀反を起こした人々がいる。前回あつかった、耿紀・金禕・韋晃です。彼らが立ち上がったときの使命感と、曹騰が「五侯」を焚きつけたときの使命感は、同質のものではないでしょうか。

范曄としては、「曹操の祖父が、梁冀を倒して、漢王朝を延命させた」という話は、おいしくないわけです。だから、史料できっちり曹騰グルになって出てくる五侯には、桓帝を助けた手柄を与えるが、曹騰の末期の政治活動を記述しない、という扱いで、歴史観の一貫性を保ったのではないか。
全部、つじつま合わせの妄想です。知ってます。原作の問いかけに対する、ぼくなりの回答です。こうやって穴を埋めていくのが、小説を書くという行為だと思います。


物語の序盤で、曹騰に、梁冀(のちの曹操の先行事例)を排撃させる。この皮肉なところが、良いではありませんか(自己満足)。

『蒼天航路』で曹騰は、曹操と雪ゾリに乗って、「お前みたいなやつに仕えたかった」と言いました。うろ覚えですみません。きっと書き手は、多様な解釈ができるような書き方を、わざとしたのだと思いますが、、本作の構想でいけば、
「西北の列将として、漢のために尽くせ。まちがっても、梁冀のようになるな」というメッセージを、想像することができる。河北を平定したあたりで、ちょっと調子が狂い始め、赤壁で破れて、曹操は「梁冀化」する。おじいちゃんが泣いてるぞ。
ただし原作により、曹騰が160年ごろに死んでいることが指摘されており、曹操がまだ6歳ごろに曹騰が死ぬので、『蒼天航路』のシーンは書けません。原作を重んじて、史実路線でいくので。


原作29pで、曹嵩について出てくる。「養子にむかえた時期も不明」とある。ぼくは上で、曹嵩は梁冀ツナガリで迎えた養子ではないか、想像しました。

これは、100% 創作です。梁冀-曹嵩-曹操と、簒奪の系譜を繋げたいから、こういう設定を考えています。また帰るかも知れません。


「曹操が生まれたのは、永寿元年(155)。みずからが一生をささげた漢王朝を、滅ぼすことになる孫。曹騰は、その顔を見ることができたのだろうか」
ぼくは原作者が、孫の顔を見たシーンがあったらいいな、と仰っているように受けとります。顔を見てもらいましょう。
ぼくの設定だと、梁冀が滅びたとき、曹嵩に残っている「梁冀の残り香」を消す必要がある。同郷で、通婚を重ねている夏侯氏から迎えたという、ウソ設定を、梁冀の滅亡に前後してつくった、既成事実として広めた。それにより、曹嵩-曹操の父子を守った、という場面がほしい。

小説なので……、曹嵩は、梁冀が奴隷に生ませた子というふうにしようか。まあ、梁冀との血縁は、いかようにも解釈できるような、ボカした描写で。
原作では、梁冀に連座しなかった「巧妙な予防措置」の記述の直後、「また、曹嵩を養子に……」と、話がつながる。ただ時系列で書いていることは、知っておりますが、過剰に行間を読み取って、梁冀と曹嵩の関係を、想像していきます。


曹騰が「五侯」のプロデューサーであれば、荀彧のしゅうとの唐衡は、曹騰の世話になったことになる。荀彧が、袁紹を見限って曹操のもとに行くとき、この事実が、間接的に影響を及ぼした、とするのは、小説としてはアリだと思う。

次回、「曹騰の人脈」。原作の真骨頂です。151127

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第4回 曹騰の人脈:堂谿典・単颺・种暠

P29 曹騰の推薦を受けて、高位高官にのぼったのは、①司空の虞放、②陳国相の辺韶、③京兆尹の延固、④太尉の張温、⑤太常の張奐、⑥五官中郎将の堂谿典。
『范書』列伝 第六十八 宦者 曹騰伝に、

騰用事省闥三十餘年,奉事四帝,未嘗有過。其所進達,皆海內名人,陳留虞放、邊韶、 南陽延固、張溫、弘農張奐、潁川堂谿典等。

とある。扱いやすそうなひとから、順番に消化してゆく。

⑥堂谿典

『范書』巻八 霊帝紀の熹平五年(162)に、

復崇高山名為嵩高山。大雩。(前書武帝祠中嶽,改嵩高為崇高。東觀記曰:「使中郎將堂谿典請雨,因上言改之,名為嵩高山。」)

崇高山を「嵩高山」と改称した。『漢書』で武帝が中嶽をまつったとき、嵩高を「崇高」と改めたと注釈にあるから、堂谿典はこれを戻したことになる。『東観記』によると、(五官)中郎将に、雨乞いを管轄させ、そのとき山の名を変えたと。

この山の名が、曹嵩の改名とリンクし、おのれを当塗高にあてはめたというのは、原作のp36。曹騰の墓碑が、160年前後に立てられたことから考えると、曹騰の死後、わりとすぐに、曹嵩はおのれの「政治生活」を始めたことになる。宦官の子弟は、地方長官になることが多いから(曹鼎もしかり)すでに、何らかの役職を持っていたと見たい。
のちに曹操は「洛陽令になりたい」というが、かなわない。熹平期、曹騰の推挙した人材が活躍したころ、曹嵩は洛陽令として、中央にいられる地方官だったという設定で、お話を書こう。


『范書』列伝 第五十下 蔡邕伝で熹平四年(161)に、

邕以經籍去聖久遠,文字多謬,俗儒穿鑿,疑誤後學,熹平四年,乃與五官中郎將堂谿典、光祿大夫楊賜、諫議大夫馬日磾、議郎張馴、韓說、太史令單颺等,(堂谿,姓也。先賢行狀曰:「典字子度,潁川人,為西鄂長。」)奏求正定六經文字。靈帝許之,邕乃自書(冊)〔丹〕於碑,使工鐫刻立於太學門外。於是後儒晚學,咸取正焉。及 碑始立,其觀視及摹寫者,車乘日千餘兩,填塞街陌。
洛陽記曰:「太學在洛城南開陽門外,講堂長十丈,廣二丈。堂前石經四部。本碑凡四十六枚,西行,尚書、周易、公羊傳十六碑存,十二碑毀。南行,禮記十五碑悉崩壞。東行,論語三碑,二碑毀。禮記碑上有諫議大夫馬日磾、議郎蔡邕名。」

蔡邕は、五官中郎將の堂谿典、光祿大夫の楊賜、諫議大夫の馬日磾、議郎の張馴・韓說、太史令の單颺らと、六経の文字を正し定めた。

楊賜(楊彪の父、楊脩の祖父)とか、馬日磾(袁術に臣従を強いられる)の名が見えて、とても興味があるが、本作とは関係ないのでスルー。弘農楊氏・汝南袁氏の累世ぶりを、原作はほとんど扱わない。なぜなら、曹氏との直接的な交渉は、曹操の代にドラマチックに始まるのだから。
原作 p30 でもこの蔡邕のことが触れられている。馬日磾が馬融の族孫で、194年頃に死んだとされる。


堂谿典とともに六経を校定した単颺は、同じく蔡邕伝に、

時妖異數見,人相驚擾。其年七月,詔召邕與光祿大夫楊賜、諫議大夫馬日磾、議郎張華、太史令 單颺詣金商門,引入崇德殿,使中常侍曹節、王甫就問灾異及消改變故所宜施行。邕悉心以對,事在五行、天文志。

このあと、蔡邕伝の続きや、『続漢書』天文志に、災異にかんする分析がある。
蔡邕は、のちに董卓に協力して、あるべき漢王朝の姿を実現するために、改革を断行する。霊帝の文化事業に参加した人々は、意見や方向性はいろいろだが、現状を打開する必要性を感じている点で、共通していた。
『演義』では、怪異が起きて、漢王朝の「終わりの始まり」が提示されるが、それは史書に基づいたもの。霊帝期、曹騰の人脈が活躍したころ、そういう「妖異」が相継いだ。曹嵩は、この時代の空気を吸っている。

『范書』列伝七十二 方術 単颺伝に、

單颺字武宣,山陽湖陸人也。以孤特清苦自立,善明天官、筭術。舉孝廉,稍遷太史令,侍中。出為漢中太守,公事免。後拜尚書,卒於官。
初,熹平末,黃龍見譙,光祿大夫橋玄問颺:「此何祥也?」颺曰:「其國當有王者興。不 及五十年,龍當復見,此其應也。」魏郡人殷登密記之。至建安二十五年春,黃龍復見譙, 其冬,魏受禪。

単颺は、山陽のひと。孝廉にあげられ、太史令、侍中にうつる。熹平(172-178)末、譙県に黄龍があらわれ、光禄大夫の橋玄が「なんの兆しか」と聞くと、「五十年以内に、この地から王者が興る」という。
『三国志』文帝紀では、熹平五年(176)と限定されており、四十五年後に曹丕が革命をおこなう。

ここから浮かび上がるのは、漢を危ぶみ、曹氏に期待する人々です。堂谿典と単颺は、同じ職場の仲間として、意見を等しくしたというのは、原作のほのめかす範囲内です。橋玄は後述しますが、質問者が橋玄というのが、あざとい。マッチポンプのような気がする。
石井先生は、単颺のいう王者とは、曹操のこととする。しかし、目の前に、曹騰の爵位を嗣いだ曹嵩がいるのに、まだ世に出ぬ曹操に期待するというのは、不自然。王者とは、曹嵩をイメージした発言ではないでしょうか。
おそらく、曹騰が推薦したひとびとと、曹嵩とは、同じ年代。現在、天下がやばいのに、「あなたの子供の時代になったら、何とかしてくれるでしょう」では、気が長すぎる。曹操神話をつくるため、曹嵩がワリを食ったとぼくは考える。
30p「学問・文筆の分野で名をあげたものが多い」という、曹騰の人脈と、曹嵩は親しく付き合った。この分野は、先天的な素養(幼児期の教育環境)に左右されるから、奴隷?出身の、曹嵩が活躍することはできない。だから、学者たちにへりくだり、彼らの顔を立てることで、曹嵩は政治家としての支持を得ていった。清流の党人とは、別の仕方で、つまり党人は王朝の改革を志して、既存の宦官らと衝突したが、曹嵩のまわりは革命によって、世を清めようとした。曹嵩に備わった王者としての風格(本作では、梁冀の遺伝子)は、それを期待させるに充分だった。

不幸中の幸いとして(言葉の使い方が間違ってますが)堂谿典・単颺は、これ以上、史料がない。曹嵩との交際を描くことができる。

①虞放・②辺韶・③延固

桓帝紀・霊帝紀の、官職の任免をのぞくと、
『范書』列伝 第四十四 楊震伝で、「順帝即位,樊豐、周廣等誅死,震門生虞放、陳翼詣闕追訟震事」と、楊震の門生として、楊震の名誉回復につとめた。
『范書』列伝 第四十七 劉瑜伝のなかの尹勲伝で、「延熹中,誅大將軍梁冀,帝召勳部分眾職,甚有方略,封宜陽鄉侯。 僕射霍諝,尚書張敬、歐陽參、李偉、虞放、周永,並封亭侯」とある。虞放は、尹勲とともに梁冀を誅して、亭侯に封じられた。
『范書』列伝 第五十七 党錮列伝で、「大長秋曹節、因此諷有司奏捕前黨故司空虞放、太僕杜密、長樂少府李膺、司隸校尉朱 禹、潁川太守巴肅、沛相荀翌、河內太守魏朗、山陽太守翟超、任城相劉儒、太尉掾范滂等百餘人,皆死獄中。」とあり、もと司空の虞放は、宦官の曹節(曹騰の父とは別人)のせいで、獄中で死んだ。
さすが、原作でスルーされるだけあり、曹氏との関連を見出しにくい。
②辺韶、③延固あるいは延篤も、国立史料編纂所(東観)への勤務が、原作で触れられるが、アリバイ的な解説だと思われ、本題はこちらではない。

④張温(南陽のひと、-191)、⑤張奐(敦煌、弘農のひと、104-181、党錮に連座)は、西北の列将として、原作であとで触れられるから、ここでは扱わない。

益州刺史の种暠

31p、曹騰は益州刺史の种暠に弾劾されたが、「能吏」とほめた。

曹騰伝:時蜀郡太守因計吏賂遺於騰,益州刺史种暠 於 斜谷關搜得其書,上奏太守,并以劾騰,請下廷尉案罪。帝曰:「書自外來,非騰之過。」遂 寢暠奏。騰不為纖介,常稱暠為能吏,時人嗟美之。……种暠後為司徒,告賓客曰:「今身為公,乃曹常侍力焉。」

順帝末期、蜀郡太守が、曹騰にワイロを送ろうとしたが、益州刺史の种暠は、斜谷関で、その文書を没収して、曹騰をせめた。しかし曹騰は「种暠は能吏だ」といった。のちに种暠は賓客に、「三公になれたのは、曹常侍の力だ」といった。

この种暠というひとは、『范書』桓帝紀によると、延熹四年(161)、大司農から司徒になる。延熹六年(163)、司徒として薨ずる。
原作32p 种暠は、洛陽の資産家の家に生まれた。父は定陶県令、先祖にめぼしい人物なし。文人に師事せず。遺産3千万銭をめぐみ、「清廉潔白」をカネで買った。儒家官僚のコースに乗り、孝廉にあげられ、侍御史になるのが、順帝期の142年。桓帝期、辺境の地方官を歴任。延熹四年(161)、大司農から司徒。
曹騰が种暠にシンパシーを抱いた理由は不明。种暠の官僚としてのスタンスが、曹操にオーバーラップする。曹操の大恩人・橋玄は、种暠に目をかけられた。
种暠-橋玄-曹操、三者の関係は、後述らしい。

◆史料の確認
『范書』列伝五十六 种暠伝がある。益州刺史のときの勤務ぶりは、3年間で、異民族をなつけた。

种暠伝:出為益州刺史。暠素慷慨,好立功立事。在職三年,宣恩遠夷,開曉殊俗,岷山雜落皆 懷服漢德。其白狼、槃木、唐菆、卭、僰諸國,自前刺史朱輔卒後遂絕;暠至,乃復舉種 向化。
時永昌太守冶鑄黃金為文蛇,以獻梁冀,暠糾發逮捕,馳傳上言,而二府畏懦,不敢案之,冀由是銜怒於暠。

永昌太守が、梁冀にワイロを送ろうとしたときも、种暠がブロックした。
曹騰にワイロを送ろうとした蜀郡太守をブロックしたのと、同じ構図である。种暠は、梁冀に恨まれた。このあたり、梁冀と曹騰のウツワの違いが窺われる。『范書』は、曹騰をけなしそびれている。

會巴郡人服直聚黨數百人,自稱「天王」,暠與太守應承討捕, 不克,吏人多被傷害。冀因此陷之,傳逮暠、承。太尉李固上疏救曰:「臣伏聞討捕所傷,本 非暠、承之意,實由縣吏懼法畏罪,迫逐深苦,致此不詳。比盜賊羣起,處處未絕。暠、承以首舉大姦,而相隨受罪,臣恐沮傷州縣糾發之意,更共飾匿,莫復盡心。」梁太后省奏,乃 赦暠、承罪,免官而已。

巴郡のひとが「天王」を自称すると、种暠は平定に失敗して、梁冀により罰せられそうになった。しかし李固の弁護により、許してもらった。
このあと、涼州刺史、漢陽太守、使匈奴中郎將、遼東太守を務める。このあたりが、石井先生が「辺境の地方官を歴任」とまとめたところ。

入為大司農。延熹四年,遷司徒。推達名臣橋玄、皇甫規等,為稱職相。在位三年,年六十一薨。并、涼邊人咸為發哀。匈奴聞暠卒,舉國傷惜。單于每入朝賀,望見墳墓,輒哭 泣祭祀。二子:岱,拂。

种暠は司徒となると、名臣の橋玄・皇甫規を推達した。曹操のロールモデルといえそうな人物たちの系譜が、この种暠伝に集約されている。曹騰-种暠-橋玄-曹操というツナガリである。
つまり石井先生は、曹騰が「西北の列将」にシンパシーを持っていた、と仰りたいのでしょう。

すると、この系譜から外れた曹嵩が、いまいち浮かび上がらない。むしろ、学者のなかに混じり、革命に熱心で、軍事における実績に乏しく、、という曹嵩の人物像は、曹丕を思わせる。曹氏は隔世遺伝をしていて、西北の列将を理想とする、曹騰・曹操・曹叡。中央での政治家として腰を落ち着けた、曹嵩・曹丕。


◆种暠の子の种払
种暠の子はふたりいて、种岱と种払である。种岱は、曹操と関係なさそうだから、种払のほうだけ、読んでおく。种払の子が、种邵である。

拂字穎伯。初為司隸從事,拜宛令。時南陽郡吏好因休沐,游戲市里,為百姓所患。 拂出逢之,必下車公謁,以愧其心,自是莫敢出者。政有能名,累遷光祿大夫。初平元年,代荀爽為司空。明年,以地震策免,復為太常。

初平元年、荀爽にかわり司空となる。

李傕、郭汜之亂,長安城潰,百官多避兵衝。拂揮劒而出曰:「為國大臣,不能止戈除暴, 致使凶賊兵刃向宮,去欲何之!」遂戰而死。子劭。

李傕・郭汜の乱にて、落命する。子は种邵。

◆种暠の孫の种邵

劭字申甫。少知名。中平末,為諫議大夫。
大將軍何進將誅宦官,召并州牧董卓,至澠池,而進意更狐疑,遣劭宣詔止之。卓不受,遂前至河南。劭迎勞之,因譬令還軍。卓疑有變,使其軍士以兵脅劭。劭怒,稱詔大呼叱之,軍士皆披,遂前質責卓。卓辭屈,乃還軍夕陽亭。

何進が宦官を殺すとき、董卓を召した。何進は、董卓のことを疑い、种邵をやって董卓を止まらせた。

及進敗,獻帝即位,拜劭為侍中。卓既擅權,而惡劭彊力,遂左轉議郎,出為益涼二州 刺史。會父拂戰死,竟不之職。服終,徵為少府、大鴻臚,皆辭不受。曰:「昔我先父以身徇 國,吾為臣子,不能除殘復怨,何面目朝覲明主哉!」遂與馬騰、韓遂及左中郎劉範、諫議大夫馬宇共攻李傕、郭汜,以報其仇。與汜戰於長平觀下,軍敗,劭等皆死。勝遂還涼州。

献帝期、董卓は种邵の強さをにくみ、益州・涼州の刺史にして追い出した。李傕の乱で、父の种払が死ぬと、服喪した。李傕政権に加わるのを拒んだ。馬騰・韓遂・劉範・馬宇とむすんで、父の仇を取ろうとしたが、長平観で死んだ。

◆种輯のこと
曹操を殺そうとする种輯は、种邵と同世代のような気がするが、謀反人のためか、血縁が不明。
原作で种輯の登場シーンは、p150 荀攸の前歴として、何顒・鄭泰・种輯らと、董卓の暗殺を企てたことがある。p179 興平二年(195) 九月、侍中の种輯が、楊定・楊奉・董承をよびよせ、郭汜が出奔。p187 曹操が献帝を迎えて、侍中の丁沖・种輯ら、13人が列侯に封じられた。
p219 董承の陰謀にあたり、長水校尉の种輯が参加する。原作曰く「特徴ある姓氏からして、种暠の一族だと考えられるが、つながりはいっさい不明。ただ、長安から洛陽まで献帝のお供をした、数少ない近臣のひとり」とある。

种払・种邵と、そっくりの動きをしている。董卓を牽制して、李傕から献帝を守ろうとした。ぼくの推測では、种邵のいとこ。たとえば、种払の兄である种岱の子に設定しても、おおきく逸脱はしないだろう。まあ、これは脳内設定であって、ウソにならないように、「种邵の族兄」くらいの書き方を、小説のなかではやるが。


血縁が不明の种輯を、种暠の孫だと設定することで、見えてくるものは。
原作は、西北の列将に連なる曹操と、それから脱落して建国する曹操、というフレームを設ける。このページ内では、くどいくらい書いていますが、このフレームを大切にするのが、石井先生の本を原作とすることの意義。
すると种輯は、「西北の列将たる种暠(曹騰に認められたひと)を祖父に持ち、祖父のおもかげを曹操に託して、曹操に献帝を預けた」というキャラになる。しかし种輯は、曹操のなかに、李傕と同じにおいをいち早く感じ、曹操の排除を画策した。おじ・族弟を、李傕に殺されているので、种輯は「李傕のにおい」に敏感である。
まだ官渡の戦いの前から、曹操が、西北の列将から脱落する気配を感じた。ロコツに書けば、种輯は、革命を予知した。

上でぼくは、官渡の戦いは、曹操を皇帝にすることを、潜在的なモチベーションにして戦ったと書いた。原作に従えば、官渡は、袁紹が採用した「オレが光武帝になる」という戦略を、乗っ取る(曹操が光武帝になる)ための戦いである。袁紹と開戦するとは、献帝の安全よりも、己の野心を優先させる戦いである。やってくることは、李傕と同じじゃないか、と。

だったら、曹操は何をすれば良かったのか。袁紹が南下したら、きっと献帝は、退位させられるだろう、袁紹と戦うしかない……という、曹操側のクレームが聞こえてきそうだ。そのクレームは正当なものだが、それほどに献帝は「ハレモノ」だったわけで。
このように、一度は頼った群雄を、やがて退けて、より強い群雄のもとに移動する、という連続した運動を、献帝(を伴った董承・种輯)は、くりかえした。袁紹に曹操を撃たせ、こんどは袁紹のご厄介になり、それより先のことは未定!だったのではなかろうか。明日にも死ぬかも知れないのに、未来のことを緻密に考えても仕方ない。
最強の袁紹に、献帝がつかまったら、、というだけで、別の物語が、1本書けてしまうので、また今度。


种輯が、曹操を排除しようとしたが、种輯にとっては「何回もやってきたこと」の延長である。長安から洛陽への移動のとき、群雄を、次から次へと乗り換えてきた。その乗り換えを、もう1回、やっただけである。
最後に落ち着いた先である、もっとも強い群雄が、西北の列将のように、有能かつ忠臣であることを期待して。その期待は、甘いものかも知れないが、ぎゃくにこれ以外に、期待すべきものがない。

原作のページ数は、まだp32 までしかやってないが、全体を見渡して、縦断的に(ときには後半を先取りして)構想を練っているので、決してぼくは、進捗に悲観しておりません(笑)151128

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第5回 沛国の夏侯氏と丁氏

曹嵩の出生

曹嵩が夏侯氏というのは、『曹瞞伝』、西晋の郭頒『魏晋世語』であり、「素性のはっきりしない、あやしげな書物」である。『魏志』は夏侯氏という説を採用せず、「一部始終はよくわからない」とお茶をにごす。p33

原作者は、「夏侯氏ではない」と言っていると読み取って、ほぼ間違いないと思います。だからぼくは、「梁冀が奴隷に生ませた子」という、小説的な出生を設定したい(小説だから)

伝統中国は、①同姓不婚、②異姓養子を禁じる。①曹嵩が異姓養子だったことは、「まちがいない」。陳琳は、「どこの馬の骨かわからぬ乞食が、ひろわれ養われた」と書き、曹操にとって「否定できない事実」で、「宦官の養子のなかには、奴隷出身者も多く含まれていたといわれる」と、原作者はこちらにクミする。
『魏志』巻九は、夏侯氏・曹氏の列伝であり、通婚関係があったとわかる。曹嵩が夏侯氏なら、通婚関係がある②同姓不婚も犯している。

世間の批判を覚悟で、異姓養子・曹嵩をむかえたのは、p35「一族構成員の層のうすさ」が理由。曹操にもツケを残し、曹真(秦邵の子)、秦朗(側室の杜氏の連れ子、父は呂布の将)、何晏(側室の尹氏の連れ子、何進の孫)。彼らは「仮子」「義児」とよばれる。劉備・孫堅と変わらない。p36
曹氏の墓から「費亭侯の曹忠、あざなは巨堅」が発見された。曹嵩の別名らしい。曹嵩は、「漢に代わる者は当塗高」を意識して、意図的に改名したのなら、「重大な野望が秘められていたことになる」と。

官職を購入する曹嵩

光和元年(178)、霊帝は離宮の西園で、官位を売買。売官は、安帝のころから、臨時の財政補填策として実施されていたが、霊帝は恒常化させた。関内侯(列侯より1級ひくく、封邑なし)、虎賁郎・羽林郎(親衛隊士)など、売買して実害がないもの。
しかし、実際は、公卿以下、孝廉・秀才も、非公開で売買された。謝礼を「西園礼銭」あるいは「助軍修宮銭」という。相場以外に、宦官へのワイロも必要とされた。

史料を確認すると、宦者 張譲伝に、

刺史、二千 石及茂才孝廉遷除,皆責「助軍修宮錢」,大郡至二三千萬,餘各有差。當之官者,皆先至西園諧價,然後得去。有錢不畢者,或至自殺。其守清者,乞不之官,皆迫遣之。

とあり、宦者 曹騰伝に、

嵩靈帝時貨賂中官及輸西園錢一億萬,故位至太尉。及子操起兵,不肯相隨,乃與 少子疾避亂琅邪,為徐州刺史陶謙所殺。

とある。曹騰は銭1億万で、太尉を買った。「中官に賂す」が、正式な代価のほかに、宦官へのワイロである。

先走ってしまうが、曹操が起兵したとき、「相ひ随ふことを肯んぜず」曹疾をつれて瑯邪にいって、徐州刺史の陶謙に殺された。


5百万銭を払った崔烈は、司徒・太尉になるが、霊帝は「1千万は取れたな」と悔しがる。曹嵩は、司隷校尉・大鴻臚を歴任してから、中平四年(187) 11月、崔烈に代わって、太尉となる。公式相場の10倍も支払った。
宦官の子弟が、三公になって「尊貴な位をカネで汚す」のは、
・劉囂(長沙のひと、宦官の姻戚、司空 169-170)
・唐珍(潁川のひと、五侯の唐衡の弟、司空 173-174)
・孟郁(河南のひと、河南のひと、中常侍の孟賁の弟、太尉 177-178)

孟賁は曹騰の同僚。蜀の大司農・孟光は、族子にあたる。沛相に在任のとき、曹氏の墓の造営に寄進した。
孟賁とは、139年、中常侍の張逵から弾劾されたひと。ぼくの解釈では、順帝期、旧世代の宦官と摩擦を起こし、旧世代を追い払い、自分たちの世代を主流に持ちあげたひと。 曹嵩よりも、1つ世代が上だから、三公になるのが10年早い。曹騰なきあと、曹嵩が、自分のロールモデルとして、孟郁を尊敬していたと設定しても、ムリはない。
『陳志』巻四十二 孟光伝:孟光字孝裕,河南洛陽人,漢太尉孟郁之族。[一]續漢書曰:郁,中常侍孟賁之弟。靈帝末為講部吏。獻帝遷都長安,遂逃入蜀,劉焉父子待以客禮。博物識古,無書不覽,尤銳意三史,長於漢家舊典。好公羊春 秋而譏呵左氏,每與來敏爭此二義,光常譊譊讙咋。
孟光は、董卓・献帝にしたがって長安にゆき、そこから益州ににげる。劉範(劉焉の子)とともに戦った、种払とツナガリがありそう。つまり、宦官の縁者である三公の一族という点で、曹操と同じ。延熙九年(246)に記述があったあと、九十余歳で亡くなる。曹操より少し年上か。孟郁が曹嵩に助言し、孟光が曹操に助言したという話に、ムリはない。

・張顥(常山のひと、中常侍の張奉=十常侍の張恭かの弟。太尉 178)
・樊陵(南陽のひと、宦官の姻戚、太尉 188。司隷校尉、袁紹に斬られる)

39p、不思議なことに、曹操はあれほど多くの文章を残しながら、父については一言も触れない。父子のあいだに何があったのか、史料は語らない。
ぼくが思うに、官僚としてのスタンスが、大きくズレていた。そういう理解でいいだろう。むしろ曹操は、前半は西北の列将、後半は革命の推進者として、分裂している。革命の推進者は、曹嵩と同じ。「曹騰の理想を受け継ぎ、父を否定しようと思ったが、現実の限界性に絡めとられ、父なみの革命家になってしまった」というのが、曹操の挫折だろう。しかし曹操は、革命家として一生を終えることを嫌った。だから、子の曹丕(曹嵩に近い)に、革命の役割を先送りした。

幼い曹丕が、祖父の曹嵩とお話をした、という場面が作れたら楽しいが、つねに戦場に妻子をつれていた曹操だから、曹丕だけが瑯邪に行くのはムリ。ならば、曹嵩のウワサを聞いて、曹嵩の「当塗高」へのコダワリを支持する曹丕と、その曹丕にムカつく曹操、という

曹操をスタンド・アロンな特別な人物とせず、群像に埋没させる、というのが本作も目標だが。曹嵩もまた、群像に埋没させるという目標も、同時に持ちたい。宦官の子弟として、ありふれており、

曹氏の協力者である、孟賁・孟郁とは、親しい。清流の荀彧に娘を送りこむ、唐衡・唐珍とも、曹嵩の代から交際がある。
曹操と荀彧の出逢いをドラマチックに描くと楽しいが、間接的なツナガリは準備されていた。曹騰は、唐衡(荀彧の妻の父)の先輩にあたり、梁冀の討伐で協力したことが窺われる。唐珍(唐衡の弟)は、宦官の子弟として三公となり(司空 173-174)、曹嵩の同類である。唐珍は、曹嵩の先輩として振る舞っただろう。


曹嵩が、相場の10倍も支払えたのは、財力を蓄えたから。当然、曹騰からの遺産もあろうが、それ以上に、地方長官として収奪した財産があっただろう。のちに曹操が粛清する、済南国など、父の曹嵩のとき、邪教?を奨励して、収益モデルを確立していたら楽しい。
劉章を祭って、王朝の滅亡について、ゴチャゴチャ怪しげな言説を広めるなど、曹嵩がやっており、それに曹操が反発したという構図なら楽しい。

沛国丁氏

曹操の生母なのかわからないが、曹嵩の夫人は丁氏である。延康元年(220) 7月、曹丕が「太王后」の称号を丁氏に贈った。曹操の正妻も丁氏だから、2代つづけて、丁氏から正妻を迎えたことになる。
夏侯淵は、曹操の「内妹」つまり妻の妹をめとった。曹操の劉夫人の妹だろう。沛国の劉氏は、相県の劉馥がいる。孫の劉弘のとき、夏侯氏との通婚関係が窺われる。曹操の司空長史をつとめた、沛国の劉岱もいる。
曹氏は、郷里の夏侯氏・丁氏・劉氏と提携した。41p

曹操の妻の劉氏(曹昂と清河公主の母)は、沛国相県の劉馥と同族か。劉馥に合肥を任せたのは、姻族として信頼できるから。先週の三国志サミットで、渡邉先生が「曹氏・夏侯氏以外で軍を預かった張遼は、信頼されていた」と発言しておられた。劉馥を姻族としてカウントすると、張遼の特異性が、さらに際立つ。


沛国譙県の丁氏には、丁儀(-220)と丁廙(-220)がいる。楊脩(-175-219)とともに、曹丕に粛清された。父の丁沖は、曹操と旧知。
丁沖は、献帝にしたがって長安に。曹操に天子の奉迎を勧める。許都で、司隷校尉に任じられるが、ほどなく病没。

長安で李傕に「捕らわれた」献帝と、関東の群雄のツナガリに興味がある。
曹嵩・曹操は沛国丁氏から妻を迎えているが、丁沖が長安にいる。袁術は弘農楊氏とたがいに妻を迎えているが、楊彪が長安にいる。官職だけじゃなく、婚姻関係を結んだ「義兄弟」が、関西・関東で連絡を取りあっていた。楽しい!190年代前半、関西・関東は、断絶していない。董卓が「半独立」させたつもりでも、いつでも関東に回帰する、潜在的なエネルギーが働いている。


曹操は、丁儀に会う前から、清河長公主との縁談をすすめる。しかし、『陳志』巻十九 曹植伝にひく『魏略』によると、

魏略曰: 丁儀字正禮,沛郡人也。父沖,宿與太祖親善,時隨乘輿。見國家未定,乃與太祖書曰:「足下平生常喟 然有匡佐之志,今其時矣。」是時張楊適還河內,太祖得其書,乃引軍迎天子東詣許,以沖為司隸校尉。後數來 過諸將飲,酒美不能止,醉爛腸死。

と、丁沖が献帝の奉戴を勧めた話をひく。このとき張楊は河内に還り、(張楊を経由して?)曹操は丁沖の手紙を受けとった。

張楊が、曹操・丁沖と結んでいるという話か。


太祖以沖前見開導,常德之。聞儀為令士,雖未見,欲以愛女妻之,以問五官將。五官將曰:「女人觀貌,而正禮目不便,誠恐愛女未必悅也。以為不如與伏波子楙。」太祖從之。尋辟儀為 掾,到與論議,嘉其才朗,曰:「丁掾,好士也,即使其兩目盲,尚當與女,何況但眇?是吾兒誤我。」

五官将=曹丕が、丁儀の婚姻を妨害した。

孟達とか、丁儀・丁廙とか、『三国志』に列伝がないひとの列伝を「復元」する作業は、行われるべきだ。いちども存在しなかったものを「復元」というのは、言葉づかいがおかしいが、それでいいと思う。「創出」という気分より「復元」という気分のほうが、作業のパフォーマンスが上がりそう。彫刻家が仏像を彫るとき、新たに作るのでなく、木塊のなかから取り出すと発想するように。

『陳志』に丁氏の列伝がないことを、『陳志』が世に出た当時から、いぶかる人が多かったらしく、『晋書』陳寿伝に、陳寿が丁儀の子孫に、「米1千石をくれ」と要求したという。石井先生は、この信憑性に「事実かどうか、かなり疑わしい」とする。

丁儀・丁廙の史料あつめ

◆『陳志』巻十二 徐奕伝

徐奕字季才,東莞人也。避難江東,孫策禮命之。奕改姓名,微服還本郡。太祖為司 空,辟為掾屬,從西征馬超。超破,軍還。時關中新服,未甚安,留奕為丞相長史,鎮撫西 京,西京稱其威信。轉為雍州刺史,復還為東曹屬。丁儀等見寵於時,並害之,而奕終不為動。

徐奕は、東莞のひと。江東に避難し、孫策から礼もて命ぜられた。(孫策をこばみ)姓名をかえて東莞郡にもどる。曹操が司空となると、辟され掾属となり、馬超の征伐に従う。ときに関中はまだ安定しないので、徐奕を関中とどめて丞相長史とし、長安を鎮撫させた。転じて雍州刺史となり、また復して東曹属となる。丁儀らが寵用され、徐奕を害そうとしたが、徐奕は動じなかった。

魏書曰:或謂奕曰:「夫以史魚之直,孰與蘧伯玉之智? 丁儀 方貴重,宜思所以下之。」奕曰:「以公明聖,儀豈得 久行其偽乎!且姦以事君者,吾所能禦也,子寧以他規我。」
傅子曰:武皇帝,至明也。崔琰、徐奕,一時清賢,皆以忠信顯於魏朝; 丁儀閒之,徐奕失位而崔琰被誅。

『魏書』はいう。あるひとが徐奕に「丁儀は貴び重んじられている。丁儀にくだれ」という。徐奕は「丁儀は長続きしない」といった。
『傅子』はいう。曹操は至明である。崔琰・徐奕は、ときの清賢であり、忠信は魏朝にあらわれた。丁儀はこれを聞くと、徐奕は官位を失い、崔琰は誅された。

丁儀が、徐奕を陥れようとした。どうやら魏の内部の派閥抗争のことなのだろう。


◆巻十二 何夔伝

魏國既建,拜尚書僕射。

魏国が建てられると、何夔は尚書僕射を拝した。

魏書曰:時丁儀兄弟方進寵,儀與夔不合。尚書傅巽謂夔曰:「儀不相好已甚,子友毛玠,玠等儀已害之矣。子宜 少下之!」夔曰:「為不義適足害其身,焉能害人?且懷姦佞之心,立於明朝,其得久乎!」夔終不屈志,儀後果 以凶偽敗。

『魏書』はいう。ときに丁儀・丁廙の兄弟は、進寵され、丁儀と何夔は対立した。尚書の傅巽は、何夔にいう。「あなたは丁儀から嫌われています。あなたの友の毛玠は、丁儀のために害された。あなたは丁儀にくだれ」と。何夔はいう。「丁儀は、姦佞の心をいだくから、長続きしない」と。何夔は志を屈せず、はたして丁儀は敗れた。

話形としては、徐奕と同じである。毛玠・崔琰・徐奕・何夔を迫害するひととして、丁儀が幅を利かせている。よほど魏臣のなかで、権力を持っていたのだろう。


◆巻十二 邢顒伝

初,太子未定,而臨菑侯植有寵,丁儀等並贊翼其美。太祖問顒,顒對曰:「以庶 代宗,先世之戒也。願殿下深重察之!」太祖識其意,後遂以為太子少傅,遷太傅。

はじめ魏王の定まる前、曹植が寵愛され、丁儀らも曹植をほめた。曹操が邢顒にきくと、「庶を宗にかえるのは、先世の戒めです」と。曹操は意味を知り、のちに邢顒を(曹丕に仕える)太子少府、太傅とした。

曹植-丁儀は、派閥の主流だったことが分かる。
『陳志』巻十二は、崔琰・毛玠・徐奕・何夔・邢顒・鮑勛の列伝。はじめの5人は、いずれも丁儀と敵対し、官位もしくは生命を奪われた記述がある。「丁儀は優れた人格者を虐げた」というのが陳寿の設定した「陰の旋律」です。鮑勛は丁儀ではなく、曹丕に虐げられたけど、オマケで列伝をまとめられたか。
もしくは、丁儀が、崔琰たちと官僚として同質(活躍するフィールドが同じ)で、崔琰らと衝突したのかも。同じテリトリーで、同じエサを取ろうとすると、ライバル関係になるから。これは、陳寿が表現したかったことではなく、期せずしてモレてしまった、真実かも知れない。


◆巻十九 曹植伝

植既以才見異,而丁儀 、丁廙、楊脩 等為之羽翼。太祖狐疑,幾為太子者數矣。而植任性而行,不自彫勵,飲酒不節。

曹植は、丁儀・丁廙・楊脩を羽翼とした。

世語曰:脩年二十五,以名公子有才能,為太祖所器,與 丁儀兄弟,皆欲以植為嗣。

『世語』はいう。楊脩は25歳で、曹操から評価され、丁儀の兄弟とともに曹植に嗣がせようとした。

文帝即王位,誅 丁儀 、丁廙并其男口。

文帝が王位につくと、丁儀・丁廙とその一族の男を殺した。

魏略曰: 時儀亦恨不得 尚公主,而與臨菑侯親善,數稱其奇才。太祖既有意欲立植,而儀又共贊之。及太子立,欲治儀罪,轉儀為右刺 姦掾,欲儀自裁而儀不能。乃對中領軍夏侯尚叩頭求哀,尚為涕泣而不能救。後遂因職事收付獄,殺之。

重複を避けて、曹丕が婚姻を妨害したことを省いた。妨害された丁儀は、曹操の娘を娶れなかったことを恨み、曹植と親善し、奇才をたたえた。曹操は、曹植を立てる意思があり、丁儀らも賛成した。太子を立てるとき、丁儀に罪を着せようとした。丁儀を自殺にしむけたが、ダメだった。丁儀は、中領軍の夏侯尚に助けを求めたが、夏侯尚は救えなかった。のちに殺された。

曹操の心変わりの代償を、丁儀に転嫁したように見える。采配ミスの罪を馬謖に着せた諸葛亮に似てる(笑)


廙字敬禮,儀之弟也。文士傳曰:廙少有才姿,博學洽聞。初辟公府,建安中為黃門侍郎。廙嘗從容謂太祖曰: 「臨菑侯天性仁孝,發於自然,而聰明智達,其殆庶幾。至於博學淵識,文章絕倫。當今天下之賢才君子,不問少 長,皆願從其游而為之死,實天所以鍾福於大魏,而永授無窮之祚也。」欲以勸動太祖。太祖答曰:「植,吾愛之, 安能若卿言!吾欲立之為嗣,何如?」廙曰:「此國家之所以興衰,天下之所以存亡,非愚劣瑣賤者所敢與及。 廙聞知臣莫若於君,知子莫若於父。至於君不論明闇,父不問賢愚,而能常知其臣子者何?蓋由相知非一事一 物,相盡非一旦一夕。況明公加之以聖哲,習之以人子。今發明達之命,吐永安之言,可謂上應天命,下合人心, 得之於須臾,垂之於萬世者也。廙不避斧鉞之誅,敢不盡言!」太祖深納之。

丁廙は、丁儀の弟である。『文士伝』によると、はじめ曹操の公府に辟され、建安期に黄門侍郎となる。丁廙は曹操に、曹植をプッシュした。曹操は、そのとおりだと思った。

◆巻二十一 王粲ら建安七子の列伝に、

自潁川邯鄲淳、沛國丁儀、丁廙、弘農楊脩、河內苟緯等,亦有文采,而不在此七人之例。

邯鄲淳・丁儀・丁廙・楊脩・苟緯も、文采があったが、建安七子ほどじゃない。なんか、建安七子の顔を立てるために、邯鄲淳・丁儀らが、出番でもないのに登場させられ、けなされてる。

儀、廙、脩事,並在陳思王傳。荀勖文章敍錄曰:緯字公高。少喜文學。建安中,召署軍謀掾、魏太子庶子,稍遷 至散騎常侍、越騎校尉。年四十二,黃初四年卒。

丁儀・丁廙・楊脩のことは、曹植伝にある。河内の苟緯とは、荀勖『文章叙録』によると、わかくして文学をこのんだ。荀彧・荀勖は潁川のひとだが、苟緯は河内のひとなので、ちょっと系統が違うのか。

その他、巻二十一 劉廙伝に、「廙著書數十篇,及與丁儀共論刑禮,皆傳於世」と、劉廙と丁儀は、刑・礼について議論して、世に伝えられたとある。
巻二十二 桓階伝に、「時太子未定,而臨菑侯植有寵。階數陳文帝德優齒長,宜為儲副,公規密諫, 前後懇至。又毛玠、徐奕以剛蹇少黨,而為西曹掾丁儀所不善,儀屢言其短,賴階左右以 自全保。其將順匡救,多此類也」とある。桓階は、しばしば年長の曹丕を、後継者に勧めた。毛玠・徐奕は、剛直のため党派が少なく、西曹掾の丁儀と対立したから、桓階を頼ってきた。

桓階は、やや外部の視点から、客観的に、良心のありかを示すひと。毛玠・徐奕は、それに頼った。
それにしても、曹操が曹植を立てようとする記述の、なんと多いことか。単なる、親バカでは済まされない。政権の構造に踏みこんだ問題では。
曹操の魏には、私的な沛国曹氏の集団と、公的な官僚機構という、2つの矛盾した性格がある。いかなる王朝も、順番に勢力を拡大するのだから、この矛盾が同居するのは不可避。往復運動をしながら、徐々に後者に傾いていく、という段取りを踏む。
曹植伝にひく『魏略』で、自殺を仕向けられた丁儀は、夏侯尚に「助けて」と泣きつく。夏侯尚も泣いて「ムリ」という。強制的に自殺をさせないところに、曹操の「愛」を感じる。夏侯尚から丁儀への「愛」も感じられる。
沛国の豪族連合(曹氏・夏侯氏・丁氏)なら、姻族の総意で、曹植を後継者に立てることができた。だが、魏は公的な機関になることを迫られ、当事者(曹操を含む)の制御できない体制になってた。年長者を立てる、という儒家の意見を聞かざるを得なかった。
丁儀が、『陳志』巻十二の清潔な硬骨漢を、圧迫しまくっていたというのは、、中小企業から大企業になった組織で、「創業者の友だち」が、有能な中途採用者を押さえつけて、組織全体のパフォーマンスを、落としているような状態。創業者は「友だち」に、泣きながら退職勧告をする。「友だち」は泣きながら、古くからいる取締役たちに「オレを慰留して」と頼むが、取締役たちは泣きながら「ムリ」という。
@AkaNisin さんはいう。荊州では、そんな私的な集団のために、劉琮が立つことになったのかもしれませんね。
ぼくは思う。光武帝も、袁紹・孫権も、後継者問題でトラブって、私的集団から公的集団に、脱皮をしてゆきます(たまに失敗します)。それを考えると、よそ者の諸葛亮を重んじて、後継者問題で混乱しなかった蜀は、すごいなーという話ができそうです。


丁斐・丁謐

丁斐・丁謐の父子も、沛国の出身。p43
丁斐は、挙兵以来の重臣。事務能力にたけ、軍団のかなめ・典軍校尉をした。欠点は、カネに汚いことだが、曹操から信任された。

武帝紀で、馬超と戦ったとき、「校尉丁斐因放牛馬以餌賊,賊亂取牛馬,公乃得渡」とある。

丁謐は、博覧強記の才子。曹爽のブレインとなり、散騎常侍、尚書を歴任する。

彼らの史料は「丁斐」で検索してもヒットしなくて、巻九 曹爽伝で、丁謐が滅ぼされたとき、裴注に出てくる。

丁謐,字彥靖。父斐,字文侯。初,斐隨太祖,太祖以斐鄉里,特饒愛之。斐性好貨,數請求犯法,輒得原宥。為 典軍校尉,總攝內外,每所陳說,多見從之。建安末,從太祖征吳。斐隨行,自以家牛羸困,乃私易官牛,為人所 白,被收送獄,奪官。其後太祖問斐曰:「文侯,印綬所在?」斐亦知見戲,對曰:「以易餅耳。」太祖笑,顧謂左右 曰:「東曹毛掾數白此家,欲令我重治,我非不知此人不清,良有以也。我之有斐,譬如人家有盜狗而善捕鼠,盜 雖有小損,而完我囊貯。」遂復斐官,聽用如初。後數歲,病亡。

丁斐は、曹操と同郷なので、寵用された。カネを好んで、なんども法を犯したが、ゆるされた。典軍校尉となり、内外を「総摂」した。言ったことは、多くが採用された。

曹操にあるまじき、ゆるさ。いかにも沛国丁氏は、沛国曹氏の私的な仲間という感じ。

建安末、曹操に従って呉を征つ。丁斐は、自家の牛が痩せたから、ひそかに官牛と取り替えた。捕らわれ、官印を奪われた。のちに曹操が丁斐に「印綬はどこやった」と聞いた。丁斐は、戯れと知り、「餅と取り替えた」といった。曹操は笑い、「東曹掾の毛玠は、丁斐を罰したがるが、べつに罰さなくてもいいじゃん」といった。

毛玠は、公的権力の執行者である。曹操は、私的権力に甘えている。毛玠と丁斐の摩擦は、曹操の権力が、私的なものから、公的なものになるための「成長痛」である。


p44 反逆者の列伝が、正史から排除される。『陳志』は司馬氏に配慮した可能性がある。丁沖の父子と、丁斐の父子は、まちがいなく同族だからだ。しかし、丁沖は、曹操政権の立役者だから、彼の列伝がないのは、やはりおかしい。
丁氏の記録を抹殺した張本人は、おそらく曹丕。丁儀との縁談のことは、後継者争いが表面化する以前のこと。曹丕は、最初から丁氏に、複雑な感情を抱いていたことになる。

丁儀・丁廙が抹殺されたのは、曹操の時代ではなく、曹丕の時代。楊脩が曹操の時代に殺されたのと、混同してはいけない。
曹操は、沛国丁氏を身内だと思っており、丁儀に自殺をもとめても、強制的に殺さなかった。曹植を推したのは曹操でらい、自分が悪いと、知っていたからだなー。
『魏の武王 曹操』では、曹操が「武」王になるところ、つまり曹丕の時代の冒頭で終わる。締めくくりは、丁儀・丁廙の抹殺だな。こうして魏は、私的集団から、公的機関になりました、という終わり方。


司徒の丁宮、その子で曹操と義兄弟の丁沖

丁沖は、長安の朝廷に出仕。天子の侍従官、黄門侍郎・侍中を歴任。董卓は、黄門侍郎・侍中を6名ずつ置き、宦官のポストを補完した。任用されたのは、公卿の子弟。丁沖は洛陽にあり、父兄に公卿クラスの高官がいたことがわかる。
霊帝末期、中平四年(187) 五月、沛国の丁宮が、司空となった。董卓が政権を握ると、尚書(令?)の丁宮は、廃立を積極的に支持した。

『范書』は三公のめまぐるしい任免のみ。


『陳志』巻六 董卓伝にひく『献帝起居注』に、

「孝靈皇帝不究高宗眉壽之祚,早棄臣子。皇帝承紹,海內側望,而帝天姿輕佻,威儀不恪, 在喪慢惰,衰如故焉;凶德既彰,淫穢發聞,損辱神器,忝污宗廟。皇太后教無母儀,統政荒亂。……休聲美稱,天下所聞,宜承洪業,為萬世統,可以承宗廟。廢 皇帝為弘農王。皇太后還政。」尚書讀冊畢,羣臣莫有言,尚書丁宮曰:「天禍漢室,喪亂弘多。昔祭仲廢忽立 突,春秋大其權。今大臣量宜為社稷計,誠合天人,請稱萬歲。」卓以太后見廢,故公卿以下不布服,會葬,素衣 而已。

たしかに郡臣がだれも発言しないのに、尚書(令?)の丁宮だけは、発言している。石井先生曰く(董卓の支持者なので)長安にも同行した可能性がたかい。

『陳志』巻四十九 士燮伝に、

弟壹,初為郡督郵。刺史丁宮徵還京都,壹侍送勤恪,宮感之,臨別謂曰:「刺史若待罪 三事,當相辟也。」後宮為司徒,辟壹。比至,宮已免,黃琬代為司徒,甚禮遇壹。董卓作亂, 壹亡歸鄉里。

交州刺史だった丁宮は、士壱に「三公となったら、辟そう」と約束して、別れをつげる。のちに、交州の士氏の政権が、曹操と太いパイプを持っていた。


『太平御覧』疾病部二「狂」の条に、

《魏武帝令》曰:昔吾同縣有丁幼陽者,其人衣冠良士,又學問材器,吾愛之。后以憂患得狂病,即差愈,往來故常共宿止。吾常遺歸,謂之曰:「昔狂病,倘發作持兵刃,我畏汝。」俱共大笑,輒遣不與共宿。

若いころ、曹操・丁沖は、「往来同宿」した。劉関張をもちだすまでもなく、義兄弟の関係である。世代的には、曹操の丁夫人と同じで、「きわめて近い血縁関係」にある。

小説では、丁沖の妹が、丁夫人。石井先生の「きわめて近い」という、不思議な言葉使いは、きっとこれを意味しているのだ。

丁夫人は、実家をバックに、曹操にたてついた。丁宮と丁沖が父子ならば、董卓の与党が支配した長安に、丁沖がいたことが整合する。曹操が、無条件で丁儀に娘を嫁がせようとしたことが整合する(曹丕にブロックされたけど)。
中央官界にコネがある家と、地方勢力とが相補的に結合する。沛国曹氏(曹騰が中央にコネ)と、沛国丁氏(地元を支配)が婚姻し、双方の資質をうけついだ期待の星が曹操。47p

曹丕の母・卞氏は、瑯邪出身なので、出身地がよそ者。「女優」階層が出身なので、身分がよそ者。だから、曹丕は、あとつぎとしての正当性を主張するとき、丁氏一族は否定すべき存在だった。

派生して、考えていること。

ネットと同人誌の境界線について

史料の翻訳や解釈は、ネットで無料でアクセス可能であってほしい。有料にするなら論文レベルに検証してないと、欲しくない。小説は、ネットで無料で読むと嬉しさが半減するから(←習慣の問題か)有料でも紙で読みたい。しかしウエブで公開したものを印刷しただけの本は、なんか欲しくない。
自分が見たいものを公開し、自分が買いたいものを売りたい。歴史小説を作るなら、まず史料の翻訳や解釈の工程がある。これはネット向き。しかし小説は公開せず、お楽しみにしたい。
その中間に、「あらすじ」と、それを細かくした「設計図」があり、どちらに属すか区別ができず、取り扱いが難しい。←今ここ

『反反三国志』の経験を踏まえると、史料を読みつつ構想してネットに上げてる「あらすじ」と、小説の本文のあいだに、「詳細な設計図」をはさむと、作業が圧倒的にラクになると気づいた。これは非公開に属するのだろう。
もし新たな気づきがあれば、ネットに移せばいいか。
工程を整理すると、史料読解(ネット)、あらすじ(ネット)、設計図(非公開)、小説(非公開)と。151129

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