蜀漢 > 正史に準拠して、孟達の伝記をまとめる

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劉璋・劉備に仕えた時代

孟達に関する正史の史料を集めました。
「新城」太守の「孟達」に関する正史類を収集
孟達の説得を聞かず、成都に帰った劉封伝

これに基づき、孟達の伝記をまとめます。
やや、ちゃんとした文章で書きます。

扶風の人、孟達_子敬

孟達は、字を子敬といい、のちに子度に改めた(『三国志』巻四十 劉封伝、以後『三国志』を出典とするときは書名を省略する)。劉備の叔父が劉子敬というため、これを避けたものである。
叔父の劉子敬とは、少年期に劉備が生家の東南角にある桑樹を見て、「吾 必ず当に此の羽葆蓋車に乗るべし」と言ったとき、「汝 妄語する勿れ。吾が門を滅すや」と窘めた人物であった(巻三十二 先主伝)。
直接は関係しないが、孫呉の魯粛も、字を子敬という。
孟達は、涼州扶風の人である。劉封伝に初出するとき「扶風の孟達」と記され、巻三十七 法正伝で、扶風の郿県の人である法正と「同郡」と記されることからも確認できる。ただし出身の県までは不詳である。

父は涼州刺史の孟他

父は孟他、一名を不令休、字を伯郎といい、後漢の霊帝期の人物である。巻三 明帝紀 注引『三輔決録』とそこに続けて引用される同書への注釈に事績が見え、中常侍の張譲と交渉を持ったことが分かる。ほぼ同じ内容の記事が、范曄『後漢書』列伝六十八 宦者列伝にあるが、ここでは姓名が「孟佗」とされる。
孟他は、張譲の「家事を典護」する「監奴」たちに対し、家財を費やして賄賂を贈り、親しくなった。家財が尽きたとき、監奴たちは(孟他の家財を全て奪ってしまったことに)慚じて、代わりにしてやれることがないかと聞いた。孟他は、「卿曹(張譲)に合わせてほしい」と願い、これを許された。
当時、張譲は「朝政を専らに」しており、官職の任免に発言権を有した。そのため張譲の門前には賓客が数百もの馬車を連ね、何日待っても面会できない状況であった。後日、孟他が張譲を訪れると、監奴は孟他だけを優先して張譲の家に招き入れた。賓客らは、「孟他は張譲と仲が善い」と考え、口利きをしてもらうべく、孟他に珍宝を贈った。孟他は、ここで得た珍宝を全て張譲に贈り、大いに張譲を喜ばせ、本当に張譲との関係を築くことに成功した。
孟他が献じたなかに蒲陶(葡萄)酒があり、これが張譲に喜ばれて、涼州刺史の官職を得ることができた。『漢書』巻九十六 西域伝上 大宛国の条に、「大宛の左右 蒲陶を以て酒と為し、富人 酒を蔵すこと万餘石に至る。久しきは数十歳に至るも敗せず」とあり、『太平御覧』巻九百七十二 果部九 蒲萄には、この果物を讃美する魏文帝 曹丕の詔が採録されている。蒲萄酒が、いかに価値を認められ、張譲を歓喜させて刺史を斡旋するに充分な贈り物であったかが窺われる史料である。

涼州刺史としての孟他は、『後漢書』列伝七十八 西域伝 疏勒国の条に見える。疏勒国とは、洛陽から一万三百里の距離にあり、領戸は二万一千、擁する兵は三万余人であった。現在の新疆ウイグル自治区カシュガル地区に存した国である。後漢の霊帝の建寧元(一六八)年、疏勒王が季父の和得に殺され、和得が自ら王となった。二年後、涼州刺史の孟佗らが三万余人で和得の城を攻めたが、四十余日かけても下すことができず、撤退した。以後、疏勒国では内部で王の殺害が連鎖し、後漢の統制が利かなくなった。

劉璋に仕える

建安初(一九六)、天下が飢饉となり、孟達は、同郡の法正とともに蜀に入った。このとき蜀は、劉璋が益州牧であった。法正については、「久之〈しばらくして〉、新都令と為り、後に召され軍議校尉に署す」と法正伝に見え、劉璋に任用されたことが分かる。だが、同時に蜀に入った孟達の処遇は、記述が見えない。後に劉備を益州に招くとき、孟達は、法正とともに兵をひきいて劉備を迎える役割を与えられていることから、法正と同等の官職に就いていたことが推測される。
建安十三(二〇八)年、別駕の張松が劉璋の使者として、荊州を平定した曹操を訪れた。冷遇されたと感じた張松は、劉璋に、「劉豫州は、使君の肺腑なり」と説き、曹操でなく劉備を頼るように勧めた。これに同意した劉璋は、孟達を正使とし、法正を副使として、それぞれ兵二千をひきいて劉備を迎えさせた。劉備は、劉備自身の兵と孟達の兵とを合わせ、孟達を江陵に駐屯させた(劉封伝)。やがて劉備は劉璋の要請に従い、漢中に赴いて張魯と戦うが、劉備が荊州を空ける期間の守備として、孟達は配置されたのである。諸葛亮・張飛らが追って益州に移動した後も、孟達は荊州に留まり続ける。

劉備に仕える

建安十九年、劉備が蜀を平定すると、すなわち劉璋から益州牧の権限を奪うと、孟達は宜都太守となった。江陵・宜都とも荊州に属し、長江の沿岸の城である。宜都のほうが上流に位置する。


はみ出して、すみませんw

建安二十四年春、劉備軍が定軍山で夏侯淵を斬ると、曹操は長安から陽平に南征した。同年夏、曹操が撤退して、劉備は漢中を得た。これを受けて劉備は、漢中と荊州をつなぐ、漢水沿いの城の攻略を始めた。この一帯を得れば、劉備軍が漢水を下り、荊州を攻めることができる。
孟達は、江陵から長江を遡って秭歸にうつり、秭歸から陸路で北伐し、房陵太守の蒯祺を殺害した。房陵郡は、後漢の行政区分には存在しない。劉表が設置した郡であるか、曹操が設置した郡であるか、定かではない。もしも劉表が設置した太守であっても、劉表は曹操に降伏したのであるから、蒯祺が曹操を支持する勢力であることは確かである。曹操が漢中を放棄した後も、漢中への入り口であるこの地に残っていたのであろう。
劉備は、漢水沿いの攻略が孟達だけでは難しいと考え、副軍中郎将の劉封と、輔漢将軍の李平を、漢中から沔水を経由して荊州に入らせ、孟達の軍を統率させることにした。孟達と劉封は上庸で合流し、上庸太守の申耽を降した。申耽の妻子・宗族は成都に行って(人質となり)、申耽は征北将軍を加えられ、上庸太守の官職に留まった。申耽の弟の申儀は、建信将軍となり、西城太守とされた。西城とは、漢水沿いの城であり、劉備が(申儀を太守にするため)ここに郡を設置した。劉封は、指揮官を務めて上庸を得た功績により、副軍将軍となった。

ぼくは思う。出典は不詳ですが、関羽の最期の北伐は、彼の独断で暴発って印象がある。でも、建安24年春、夏侯淵を斬る。夏、曹操が漢中を諦める。孟達に房陵を北伐させ、劉封・李平も投入して上庸も取り、漢中から荊州への進路を確保。同年秋、関羽も北伐して樊城を囲む。て、完璧に整合的な一連の作戦に見える。ところで、「関羽が自分勝手に、北伐を始めちゃって、劉備の周辺は呆れて焦った」という印象って、どこから流れてきたんだろう。気のせいか、、


関羽に背き、魏に投じる

同年秋、関羽が樊城・襄陽を囲むと、孟達・劉封に兵の動員を要請した。だが、孟達・劉封は、上庸を得たばかりであり、(統治の維持のため)まだ軍を動かすべきでないと考え、関羽の命令を受けなかった。関羽が敗死すると、劉備は孟達・劉封を恨んだ。また、孟達と劉封は対立するようになり、劉封が孟達の鼓吹を奪った。孟達は(関羽の命令を拒んだ)罪を恐れ、(劉封に向けて)忿怒し、ついに劉備に離別の文書を送り、魏王の曹丕に降った。
劉封伝 注引『魏略』は、孟達から劉備に送った文書を載せる。141018

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