雑感 > 『曹操戦死』製作のための『三国志集解』読解1

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徐晃伝:曹操に傾倒、関羽の包囲を破る

同人誌イフ小説『曹操戦死』の準備のために、史料を読みます。

イフ小説の設定を、史料を読みながら思いついた場合は、この薄い色で書いておく。この薄い色を読み飛ばせば、ふつうに『三国志集解』の読書記録となる。


楊奉の部下となる

徐晃字公明、河東楊人也。爲郡吏、從車騎將軍楊奉討賊有功、拜騎都尉。李傕郭汜之亂長安也、晃說奉、令與天子還洛陽。奉、從其計。天子渡河至安邑、封晃都亭侯。及到洛陽、韓暹、董承日爭鬭。晃說奉令歸太祖。奉欲從之、後悔。太祖討奉於梁、晃遂歸太祖。

徐晃は、あざなを公明。河東の楊の人。

『郡国志』はいう。司隷の河東郡の楊県である。

郡吏となり、車騎將軍の楊奉に従い、騎都尉を拝す。李傕・郭汜が長安を乱すと、楊奉に説いて天子を洛陽に還させる。天子が渡河して安邑に至ると、都亭侯に封ぜらる。
洛陽に到ると、韓暹・董承があらそう。徐晃は楊奉に説き、曹操に天子を帰せしむ。のちに楊奉は後悔した。曹操は梁県で楊奉を討ち、徐晃は曹操に帰す。

安邑は武帝紀の興平二年。梁は武帝紀の建安二年。


潼関の戦い、梁興の平定

(中略)從征荊州、別屯樊、討中廬、臨沮、宜城賊。又與滿寵討關羽於漢津、與曹仁擊周瑜於江陵。十五年、討太原反者、圍大陵、拔之、斬賊帥商曜。

荊州の征伐にしたがい、べつに樊城に屯し、中廬・臨沮・宜城の賊を討った。

中廬は劉表伝に。臨沮・宜城は、明帝紀の景初二年に。

また満寵ととおmに、関羽を漢津で討ち、曹仁とともに周瑜を江陵で討つ。
建安十五(210)年、太原の商曜が反したので、大陵を囲って斬った。

武帝紀の建安十六年にある。夏侯淵伝で、建安十七年の前にある。建安十六年が正しい。


韓遂、馬超等反關右、遣晃屯汾陰以撫河東。賜牛酒、令上先人墓。太祖至潼關、恐不得渡、召問晃。晃曰「公盛兵於此、而賊不復別守蒲阪、知其無謀也。今假臣精兵渡蒲坂津、爲軍先置、以截其裏。賊可擒也」
太祖曰「善」使晃以步騎四千人渡津。作塹柵未成、賊梁興夜將步騎五千餘人攻晃、晃擊走之、太祖軍得渡。遂破超等。

韓遂・馬超らが関右でそむく。徐晃を(河東郡の)汾陰に屯させ、河東を撫せしむ。(河東と鎮圧できたので)牛酒を賜る。徐晃は(故郷である河東にある)先祖の墓にたてまつる。
曹操が潼関に至ると(渭水を?黄河を?)渡れないのを恐れた。徐晃を召して問う。徐晃「曹操軍はここで盛んなのに、賊は兵を分けて蒲阪を守らない。彼らが無謀であると知れる。私が蒲阪にわたり、先に軍営を置き、背後を断てば、賊を捕らえられる」と。

ちくまは「蒲阪を守る」と誤訳する。

徐晃は歩騎4千で津を渡る。まだ塹柵が(蒲阪に)できる前、賊の梁興が5千人で徐晃を攻めた。徐晃は梁興を撃ち、曹操は渡ることができた。馬超を破った。

使晃與夏侯淵平隃麋汧諸氐、與太祖會安定。太祖還鄴、使晃與夏侯淵平鄜、夏陽餘賊。斬梁興、降三千餘戶。從征張魯。別遣晃討攻櫝、仇夷諸山氐、皆降之。遷平寇將軍。解將軍張順圍、擊賊陳福等三十餘屯、皆破之。

徐晃と夏侯淵が、隃麋と汧にいる諸氐を平らげ、安定で曹操と合わさる。

隃麋と汧は、夏侯淵伝にあり。

曹操は鄴に還る。徐晃・夏侯淵が、鄜と夏陽にいる餘賊を平らぐ。梁興を斬って、三千余戸を降す。

鄜と夏陽は、鄭渾伝!にある。
銭大昭はいう。徐晃伝の「鄜」を、夏侯淵伝は「鄠」につくる。
盧弼はいう。2つの県は近い。鄭渾伝を見るに、梁興は「鄜」城にいた。「鄜」県は、前漢にはあったが、後漢にはなかった。武帝紀の建安十七年、梁興は「藍田」で夏侯淵に平定される。「藍田」もすぐ近くである。けだし当時、潼関より西、渭水の南北には、馬超・韓遂の余党がいた。←ザックリすぎる

張魯の征伐にしたがう。張郃は別れて、櫝と仇夷の諸山にいる氐を降す。平寇將軍に遷る。

劉備との戦い

太祖還鄴、留晃與夏侯淵、拒劉備於陽平。備遣陳式等十餘營、絕馬鳴閣道。晃別征破之、賊自投山谷多死者。太祖聞甚喜、假晃節、令曰「此閣道、漢中之險要、咽喉也。劉備欲斷絕外內、以取漢中。將軍一舉、克奪賊計。善之善者也」太祖遂自至陽平、引出漢中諸軍。

曹操が鄴に還ると、徐晃・夏侯淵を留め、陽平で劉備を防ぐ。

陽平は、武帝紀の建安二十年にある。

劉備は陳式ら十余営をやり、馬鳴閣道を絶つ。

『郡国志』はいう。益州の広漢郡の葭萌県である。蜀は漢寿県と改め、梓潼郡に属させた。そこに馬鳴閣がある。
潘眉はいう。『太平寰宇記』によると、馬鳴閣とは、褒谷の桟道である。諸葛亮が諸葛瑾に送った手紙に、水中に柱を立てた桟道があり、水が暴出すると橋閣が壊れる、という話が書いてある。これが馬鳴閣道である。

徐晃は別れて陳式を破り、山谷に投じて死んだ蜀兵が多い。節を仮せらる。
曹操「この馬鳴閣道は、漢中の険要・咽喉である。劉備は(曹操軍の)内外を絶ち、漢中を取ろうとした。徐晃が、劉備の計略をダメにした。善のなかの善である」
曹操が陽平に来て、漢中の諸軍を引き出す。

徐晃の漢中での役割は、これで終わりである。


関羽との戦い

復遣晃、助曹仁討關羽。屯宛、會漢水暴隘、于禁等沒。羽圍仁於樊、又圍將軍呂常於襄陽。晃所將多新卒、以羽難與爭鋒、遂前至陽陵陂屯。太祖復還、遣將軍徐商、呂建等詣晃、令曰「須兵馬集至、乃俱前」賊屯偃城。晃到、詭道作都塹、示欲截其後。賊、燒屯走。

曹仁を助けて関羽を討つため、宛城に屯した。

宛城は武帝紀の建安二十三年。

漢水があふれ、于禁らが没した。関羽は、樊城の趙仁、襄陽の呂常を囲む。徐晃は新兵を多くひきい、関羽と戦えないから、

潼関~漢中で徐晃がひきいた兵は、益州に置いて来たのだろう。徐晃は、身ひとつで荊州の戦線に投入されたのかも。

進んで陽陵陂に屯した。
徐商・呂建が徐晃のところにきた。曹操「兵馬が集まるのを待ち、ともに進め」と。

徐晃だけでは、関羽に勝てないので、曹操が援軍をくれた。

関羽軍は偃城にいる。徐晃がくると、あざむいて道に塹をつくり、関羽軍の退路を絶つふりをした。関羽軍は(偃城の)屯を焼いてにげた。

晃得偃城、兩面連營、稍前、去賊圍三丈所。未攻、太祖前後遣殷署、朱蓋等凡十二營詣晃。賊圍頭有屯、又別屯四冢。晃揚聲當攻圍頭屯、而密攻四冢。羽見四冢欲壞、自將步騎五千出戰、晃擊之、退走。遂追陷與俱入圍、破之、或自投沔水死。

徐晃は偃城を得ると、2営を編成して、連携して進んだ。関羽軍の(樊城を攻めてる)包囲軍まで、3丈のところにきた。

趙𠑊伝を見よと。殷署が平難将軍であることは趙𠑊伝にある。

関羽軍を攻める前に、曹操は、殷署・朱蓋ら12営を徐晃によこす。関羽軍は、囲頭(地名)の屯して、それとは別に四冢にも屯した。

謝鍾英はいう。陽陵陂・偃城・四冢はいずれも樊城のそば。

徐晃は、声をあげて囲頭の屯を囲んで攻めるが、ひそかに四冢を攻めた。関羽は、四冢の屯が徐晃軍に壊されそうなのを見て、みずから5千を率いて戦いにきた。徐晃は関羽を退走させた。(四冢を救いにきた)関羽軍を追って、(樊城を)囲む関羽軍のなかまで追い、包囲を破った。あるものは自ら沔水の投じて死んだ。

関羽伝にひく『蜀記』で、関羽が徐晃に親しげに話しかける。


太祖令曰「賊圍塹鹿角十重、將軍致戰全勝、遂陷賊圍、多斬首虜。吾用兵三十餘年、及所聞古之善用兵者、未有長驅徑入敵圍者也。且樊襄陽之在圍、過於莒卽墨。將軍之功、踰孫武穰苴」
晃、振旅還摩陂。太祖迎晃七里、置酒大會。太祖舉巵酒勸晃、且勞之曰「全樊襄陽、將軍之功也」時諸軍皆集、太祖案行諸營、士卒咸離陳觀。而晃軍營整齊、將士駐陳不動。太祖歎曰「徐將軍可謂有周亞夫之風矣。」

曹操は、「関羽軍による樊城の包囲は、鹿角が十重もある厳重なものだったのに、徐晃は包囲を破った。関羽を追撃しながら、(包囲軍のなかに逃げこむ関羽を追って)包囲軍をも破った。私は30余年も用兵してきたが、聞いたことがない勝ち方である」とほめた。

関羽による樊城・襄陽の包囲は、莒・即墨よりも厳しいものだった。これを破ったのだから、徐晃は孫武・穰苴を越えるものだ、とも書いてます。

徐晃は、軍旅をつれて摩陂にくる。曹操は徐晃を7里に迎え、置酒・大会した。曹操は徐晃に酒を勧め、いわたわって「樊城・襄陽を全うできたのは、将軍の功だ」といった。徐晃の軍営が整っているのを見て、「徐晃は、周亜夫の風があるというべき」といった。

ぼくは思う。徐晃がいれば樊城の包囲を解くことができる。呂蒙が関羽の背後を突いて…、というのは、この後の段階の話。ここで樊城が落ちてしまえば、関羽は帰る場所に困らなかった。
創作メモ:馬鳴閣で活躍し、樊城を破るところまでは、史実なみにやらせればいい。もしくは馬鳴閣で馬超に妨害されるか。戦後、曹操に労われるシーンがないところが徐晃の悲哀であり、その悲哀に漬けこまれて、徐晃は転落していく。


明君と会えたから、私の名誉は要らない

性儉約畏慎。將軍常遠斥候、先爲不可勝、然後戰。追奔爭利、士不暇食。常歎曰「古人患不遭明君、今幸遇之。常以功自效、何用私譽爲」終不廣交援。

性質は、儉約・畏慎である。つねに遠くに斥候をだし、まず勝てない場合の備えをしてから、その後で戦った。敵を追撃して、戦利を争うときは、兵士に食べる時間を与えなかった。
つねに歎じた。「古人は明君に会えないことを憂えたが、私は幸いにも明君に会えた。つねに(曹操のために)功績を立てよう。私の名誉・名声なんて後回しだ」と。けっきょく、名士との人脈を広げなかった。150526

メモ:この曹操に一辺倒で、つぶしが利かない人脈の作り方が、史実では吉と出た。しかし曹操がいない設定で、劉備に降伏することは難しい。関羽から救済を申し出られ、関羽との「交際」をテコにして、立場を得られると勧められる。しかし「明君」曹操に出会えたことが、アホな楊奉のもとから転職できた徐晃の人生で一度切りの喜びであり、これを更新するつもりはない。散々、劉備軍を苦しめたあと、洛陽の防衛戦あたりで散っていく。または。摩陂には、夏侯惇がくる(史実)。夏侯惇と、曹操のことを懐かしんで、徐晃に死亡フラグという感じかな。

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夏侯惇伝:有力な姻族、曹丕のママ

夏侯惇、字元讓、沛國譙人。(中略)

夏侯惇は、沛国の譙県のひと。

ぼくは思う。曹操との同族の問題はさておき、通婚を重ねた一族。沛国で曹操と婚姻したのは、曹操の丁夫人や、丁儀・丁廙。曹丕が妹について、「丁儀は片目です。丁儀でなく、夏侯楙に嫁がせたらどうですか」と誘導した例がある。丁氏と夏侯氏は、曹氏が公や王になっても、婚姻をくり返していたらしい。
メモ:早くに曹操が死ねば、曹植に近い丁儀・丁廙は、活躍する機会がある。むしろ、曹氏の姻族として勢力をもつのが、かたや夏侯氏、かたや丁氏 と二極化する可能性がある。曹植には、楊彪の子の楊脩もついている。派閥をつくるかも。
ぼくは思う。曹操は曹昂を殺して、丁夫人から離婚された。曹操は、郷里での力関係から、自由ではなかった証拠である。夏侯惇は、曹操の寝室に出入りできた。夏侯惇は魏臣にならなかった。姻族たる夏侯惇の影響力を大きく見積もれば、丁氏も大きくなる。夏侯惇だって、官職こそ高いが、後半の事績が列伝にない。丁氏と変わらない。
というか、曹操を潼関で助ける丁斐だって丁氏だ。
メモ:丁斐が牛馬を解き放って、事態をウヤムヤにする理由が、「曹操の死を隠すため」となるかも。それぐらい「頼れる」一族だから。

夏侯嬰の後裔である。

以前、ぼくが勉強会の前に書いたこと。
曹操は大きなミスが多い。『蒼天航路』では、夏侯惇は曹操の母親のようだと言われた。彼の包容力、たしかに母性だ。母性のイメージは、前漢の夏侯嬰と重なる。
夏侯嬰は、劉邦の臣。劉邦が間違えて、夏侯嬰を傷つけた。夏侯嬰はシラを切りとおした。偽証罪で、逆に夏侯嬰が罪を問われても、劉邦の無実を言い続けた。君主に対する、母性の表われだ。夏侯嬰は劉邦に、根拠地の沛を与えた。(夏侯惇の兗州の戦いに通ず)。劉邦が捨てた子を助けた。君主一族を、君主以上に護衛する。
メモ:遺児である曹丕の守り役になってくれそう。曹丕は、だんだん自立心がめばえてきて、夏侯惇の「母性」を煙たがるようになり(史実では立太子されるころ)、逆に孤立を深めていく。そういう話。


二十一年從征孫權還、使惇都督二十六軍、留居巢。賜伎樂名倡。令曰「魏絳以和戎之功、猶受金石之樂。況將軍乎」

建安二十一年、孫権の征伐にしたがう。26軍を都督して居巣に留まる。

居巣は、武帝紀の建安二十二年。
洪亮吉はいう。曹操は居巣に屯して、夏侯惇・曹仁も屯した。『寰宇記』によると、のちに魏呉が戦って、土地が荒廃した。

伎樂・名倡を賜った。令に曰く、「魏絳は戎を和した功ですら、金石の楽を受けた。まして将軍の(功績の大きさを考えたら賜って当然だろ)」と。

『左伝』襄公十一年。上海古籍897頁。


二十四年太祖軍擊破呂布軍于摩陂、召惇常與同載。特見親重、出入臥內、諸將莫得比也。拜前將軍。

建安二十四年、曹操は関羽を破り、摩陂にくる。夏侯惇を召し、同乗させ、臥内に出入りさせた。諸将とは比べられない。前将軍を拝する。

徐晃・曹操・夏侯惇が、摩陂にいる。


魏書曰。時諸將皆受魏官號、惇獨漢官、乃上疏自陳不當不臣之禮。太祖曰「吾聞太上師臣、其次友臣。夫臣者、貴德之人也、區區之魏、而臣足以屈君乎?」惇固請、乃拜爲前將軍。

『魏書』はいう。ときに諸将は魏の官号を受けるが、夏侯惇だけが漢官だった。上疏して、「曹操に臣下として礼を取らないのはおかしい」という。曹操は断ったが、夏侯惇がねばって前将軍にしてもらった。

『魏氏春秋』で夏侯惇は、曹操に「位を正す」ように進めている。武帝紀 建安二十四年にあり。


督諸軍還壽春、徙屯召陵。文帝卽王位、拜惇大將軍、數月薨。

諸軍を督して、寿春に還る。召陵にうつる。曹丕が魏王になると、大将軍を拝して、数ヶ月で薨じた。

召陵は、文帝紀の黄初六年にあり。
メモ:夏侯惇は、孫権方面を抑えて死ぬ。史実なみ。


惇雖在軍旅、親迎師受業。性清儉。有餘財輒以分施、不足資之於官、不治產業。

夏侯惇は軍旅にあっても、先生をまねいた。性質は清倹であり、余財があれば施した。財産に不足したら官署から出仕してもらい、産業を治めなかった。

魏略曰。時夏侯淵與惇俱爲將軍、軍中號惇爲盲夏侯。惇惡之、照鏡恚怒、輒撲鏡于地。

『魏略』はいう。夏侯淵と夏侯惇は、ともに将軍である。軍中では夏侯惇を「盲夏侯」という。夏侯惇は鏡を見て怒り、地に打ち付けた。

ぼくは思う。夏侯淵と夏侯惇は、左右対称ではない。曹操は夏侯惇に遠慮している。だが夏侯淵に対してなら、「白地将軍(バカ将軍)だ」といえる。夏侯淵は夏侯惇の「族弟」だが、立場が下。
夏侯淵が際立つ戦績を残すのは、官渡の戦の後だ。曹操の創業から、重要な仕事をしてきた夏侯惇より、10年以上も遅い。夏侯惇は厄介な重鎮で、夏侯淵は使いやすい一軍人だ。 将軍号を初めてもらうのが、夏侯惇は195年ごろ、呂布を退けたとき。夏侯淵は212年、長安に指揮官として赴いたとき。17年も違う。
例えば夏侯惇は、袁紹を滅ぼしたとき、伏波将軍・河南尹。法制に縛られない特権あり。同じとき夏侯淵は、督軍校尉として兵糧を調達する。「目を負傷したから、後方に引っ込んだ」は違う。
メモ:曹操の死後、夏侯淵が一介の将軍として方面軍をやる一方で、夏侯惇が中央に留まって重石になるのは、頷けること。漢臣として許都にいるべきだ。ぎゃくに、反抗した曹丕が、夏侯惇を許都から外し、揚州方面に配した時点で、「夏侯惇を、夏侯淵と同じ扱いにした」という軽視である。

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夏侯淵伝:韓遂・宋建を撃ち、羌族に畏れらる

馬超との戦い

夏侯淵、字妙才、惇族弟也。……十四年以淵、爲行領軍。太祖征孫權、還。使淵督諸將、擊廬江叛者雷緒。緒破、又行征西護軍。督徐晃、擊太原賊、攻下二十餘屯。斬賊帥商曜、屠其城。從征韓遂等、戰於渭南。又督朱靈、平隃糜、汧氐。與太祖會安定、降楊秋。

夏侯淵は、あざなは妙才。惇の族弟。……建安十四(209)年、行領軍。太祖が孫権を征して還ると、淵に諸將を督させ、廬江の雷緒を撃たせた。

廬江は、武帝紀の建安四年にある。
先主伝に「建安十三年、廬江の雷緒が部曲の数万口をひきい…」とある。

雷緒を破ると、行征西護軍。

『通鑑』は、建安十六(211)年三月、曹操は鍾繇に張魯を討たせ、征西将軍の夏侯淵を河東に出して合流させたとある。胡三省は、「征西護軍」だろと指摘する。

徐晃を督して、太原の賊を撃ち、攻めて二十餘屯を下し、商曜を斬り、その城を屠る。韓遂らを討ち、渭南で戦う。また朱霊を督して、隃糜・汧の氐を平らぐ。

氐族のいた地名については、徐晃伝でみた。

曹操と安定で合わさり、楊秋を降す。

武帝紀にある。武帝紀 注引『魏略』で、楊秋を「臨涇侯」に封じるが、臨涇とは安定の郡治である。
メモ:関中十部のうち、曹氏に降伏して爵位をもらうものがいる。彼らは、馬超軍に踏み潰されるべきだ。


十七年、太祖乃還鄴。以淵行護軍將軍、督朱靈、路招等、屯長安。擊破南山賊劉雄、降其衆。圍遂超餘黨梁興於鄠、拔之、斬興。封博昌亭侯。馬超圍涼州刺史韋康於冀、淵救康。未到、康敗。去冀二百餘里、超來逆戰、軍不利。汧氐反、淵引軍還。

十七(212)年、曹操は鄴に還る。淵は行護軍將軍として、朱霊・路招らを督して長安に屯す。南山の賊の劉雄を破り、その衆を降す。

張魯伝に、劉雄鳴が武関道口に拠り、夏侯淵に破られたとある。
『魏略』は、劉雄鳴は数千の衆がいて、夏侯淵に討たれたと。このとき2字名はないから、賊としてあだ名か。飛燕・白騎のように。

梁興を「鄠」県で囲って斬り、博昌亭侯となる。
馬超が涼州刺史の韋康を冀城で囲むので、夏侯淵が救う。到着の前に、韋晃が敗れた。冀城から2百余里で、馬超に逆撃され、不利である。汧の氐が反したので、淵は軍をひき(長安に)還る。

氐王の千萬が反して、馬超に呼応して、興国に屯した。
胡三省はいう。氐王の千萬とは、略陽の清水氐の種である。子孫は、仇池の楊氏となる。


十九年、趙衢尹奉等謀討超。姜敍、起兵鹵城以應之。衢等譎說超、使出擊敍、於後盡殺超妻子。超奔漢中。還圍祁山。敍等急求救、諸將議者欲須太祖節度。淵曰「公在鄴、反覆四千里。比報、敍等必敗。非攻急也」遂行、使張郃督步騎五千在前、從陳倉狹道入、淵自督糧在後。郃至渭水上。超將氐羌數千、逆郃。未戰、超走。郃進軍收超軍器械。淵到、諸縣皆已降。

建安十九(214)年、趙衢・尹奉らが謀って馬超を討つ。

武帝紀では、南安の趙衢、漢陽の尹奉とある。

姜敍は鹵城で起兵して、尹奉に応ず。

姜叙は、あざなを伯弈。天水のひと。楊阜伝に見ゆ。
胡三省はいう。鹵城は、西県と冀県のあいだ。何焯はいう。西県は漢陽に属す。
馬與龍はいう。姜叙は西県の歴城に屯した。
謝鍾英はいう。楊阜伝によれば、鹵城で起兵する。『漢晋春秋』には、司馬懿が鹵城に至ったとあるが、これは「西城に至った」と書くべき。鹵城のことは楊阜伝にある。
ぼくは思う。楊阜伝も読むことになった。

趙衢らは、馬超をだまして、姜叙を撃ちにいかせ、その後ろで馬超の妻子を全殺した。馬超は漢中に奔るが、還って祁山を囲む。

祁山は、明帝紀の青龍二年。

姜叙らは急ぎ救援を求めた。諸将は、「曹操の節度を待て」という。夏侯淵は、「曹操は鄴城にあり、往復で4千里。連絡のあるころには姜叙は敗れてる」という。
夏侯淵は戦うことにした。張郃に歩騎5千をひきいて前におき、陳倉から狹道に入れる。夏侯淵は糧を督して後ろにいる。張郃は渭水の上に至る。馬超は氐羌の数千をひきい、張郃を迎え撃つ。戦う前に、馬超はにげた。

陳倉は、武帝紀の建安二十年にある。
ぼくは思う。なぜ馬超は逃げちゃったの? 張郃軍と戦う準備ができてなかったのか。

張郃は、馬超軍の器械をおさめた。夏侯淵がくると、諸県はみな降る。

韓遂との戦い

韓遂在顯親、淵欲襲取之、遂走。淵、收遂軍糧、追至略陽城。去遂二十餘里、諸將欲攻之、或言當攻興國氐。淵以爲「遂兵精。興國城固、攻不可卒拔。不如擊長離諸羌。長離諸羌多在遂軍、必歸救其家。若羌獨守則孤。救長離則官兵得與野戰、可必虜也」淵、乃留督將守輜重、輕兵步騎到長離。攻燒羌屯、斬獲甚衆。諸羌在遂軍者、各還種落。

韓遂は顕親にいる。夏侯淵が襲おうとすると、韓遂は逃げた。夏侯淵は、韓遂の軍糧をうばい、略陽城に至る。(略陽まで)20余里のところで、諸将は城を攻めようとする。あるひとが、「興国の氐族を攻めるべき」という。

『郡国志』はいう。によると、涼州の漢陽郡の「顕親」である。銭大昕はいう。光武帝は竇融の弟の竇友を顕親侯国に封じた。
「略陽」は、文帝紀の黄初二年にある。『漢書』では天水郡だが、『郡国志』はいう。では漢陽郡である。このあたりは、魏晋で天水郡に改変されたり、ややこしい。上海古籍905頁。
「興国」は、武帝紀の建安十八年。胡三省はいう。『魏略』によれば、建安期、興国氐王の阿貴、百頃氐王の千萬は、部落ごとに1万余いて、馬超に従って反した。馬超が敗れた後、阿貴は夏侯淵に滅ぼされ、千萬は南して蜀に入る。
メモ:阿貴・千萬は負けずに劉備に協力する。馬超が異民族に影響力があったというリアルな例である。本当だったんだw

夏侯淵「韓遂は精兵である。興国の城は固くて、攻めても抜けない。長離の諸羌を撃ったほうがいい。長離の諸羌は、多くが韓遂の軍にいる。必ず帰って自分の家を救うだろう。もし韓遂が(兵の出身地である、羌族の居住地を救わず)自分だけを守れば、孤立するだろう。長離を救いにこれば(韓遂は興国の城から出ざるをえず)野戦となる。韓遂を必ず捕らえられる」と。

ぼくは思う。夏侯淵は名将すぎる。韓遂は、興国にいるが、これは逃げた結果である。故郷を守っているのではない。韓遂そのものを攻めず、韓遂が連れている兵の故郷を攻めることで、韓遂を引きずりだす。馬超・韓遂は、潼関に集まるものの、中身が異民族の混成部隊であれば、こういう弱点がある。

夏侯淵は督將を留めて輜重を守らせ、輕兵・步騎で長離に至る。羌族の屯を焼き、とても多くを斬獲した。諸羌のうち韓遂の軍にあるものは、みな種落に還った。

遂、果救長離、與淵軍對陳。諸將、見遂衆、惡之、欲結營作塹乃與戰。淵曰「我轉鬭千里、今復作營塹、則士衆罷弊、不可久。賊雖衆、易與耳」乃鼓之、大破遂軍。得其旌麾、還略陽、進軍圍興國。氐王千萬逃奔馬超、餘衆降。轉擊高平屠各、皆散走、收其糧穀牛馬。乃、假淵節。

韓遂は、果たして長離を救い、夏侯淵と対陣した。諸将は、韓遂軍が多いから戦いたくない。営を結び塹を作ってから戦いたい。
夏侯淵「千里を転戦して、いま営塹をつくれば、軍勢は疲弊する。韓遂軍は多いが、戦えば勝てる」と。鼓して韓遂軍を破り、旌旗を奪う。略陽にかえり、進んで興国を囲む。氐王の千万は馬超のともに逃げ、その他は降った。

東夷伝末にある『魏略』西戎伝を見よと。

高平(安定郡)の屠各(外夷の族名)と戦い、みな散走させ、糧穀・牛馬を得る。節を仮せらる。

枹罕との戦い

初、枹罕宋建因涼州亂、自號河首平漢王。太祖使淵帥諸將討建。淵至、圍枹罕、月餘拔之、斬建及所置丞相已下。淵、別遣張郃等、平河關。渡河、入小湟中、河西諸羌盡降、隴右平。 はじめ枹罕の宋建は、涼州が乱れたので、「河首平漢王」を自称した。夏侯淵が討つ。枹罕を囲んで1ヶ月余りで抜いた。宋建がおいた丞相より以下を斬った。

枹罕・宋建・河首は、武帝紀の建安十九年。

張郃らが河関を平らげ、黄河を渡り、小湟中に入る。河西の諸羌は全て降り、隴右は平定された。

地名は、上海古籍906頁。
『後漢書』董卓伝 注引『献帝春秋』:涼州義從の宋建と王國らが叛く。偽って金城郡にくだる。涼州の大人、もと新安令の邊允(辺章)、從事の韓約(韓遂)に会いたいと求めた。韓約は会わなかった。金城太守の陳懿は、韓約たちを行かせた。王国らは、韓約ら数十人を、人質にとった。金城郡は乱れた。陳懿は金城郡から出て、王国らに殺された。だが宋建らは、邊允と韓約らをゆるした。隴西では、邊允と韓約の名をかぶせて賊だと公布した。金城郡は邊允と韓約を買い戻した。
ぼくは思う。宋建が活躍したのは、214年まで30余年とされ、180年ごろから「漢を平らげる王」を自称したことに。『後漢書』董卓伝 注引『献帝春秋』によれば、184年冬に金城郡を襲い、韓遂を賊に引きずりこんだ。
武帝紀 注引『献帝伝』で、216年、曹操を魏王に封じるとき、「韓遂と宋建は、南に巴蜀とむすんだ。逆賊とともに、社稷を危うくした。曹操は夏侯淵に命じて撃った」とある。宋建は、韓遂と同格かそれ以上の独自勢力である。曹操に釣られ、潼関に来てくれなかった涼州の大物である。
あとで張既伝を見るときも、宋建が登場する。


太祖下令曰「宋建、造爲亂逆三十餘年。淵一舉滅之、虎步關右、所向無前。仲尼有言『吾與爾不如也』」二十一年增封三百戶、幷前八百戶。還、擊武都氐羌下辯、收氐穀十餘萬斛。

曹操の令「宋建は30余年、乱逆をなしたが、夏侯淵が一挙に滅した。関右を虎歩して、向かうところ敵なし。孔子の言う『私とお前は、あいつに及ばない』である」と。

ちくま訳によれば、「孔子と子貢は、顔回に及ばない」。

建安二十一(216)年、3百戸が増え、前とあわせて8百戸。

潘眉建安二十(215)年が正しかろうと。つぎの武都の氐族と、張魯のことは、どちらも建安二十年のことである。

還ると、武都の氐羌を下辯(道)で撃ち、氐の穀10余万斛をおさむ。

武都・下弁は、武帝紀の建安二十年。
『郡国志』はいう。涼州の武都郡にある、下弁(道)と武都道である。
盧弼はいう。『漢書』では、下弁道の武都とする。云々。


劉備との戦い

太祖西征張魯。淵等將涼州諸將侯王已下、與太祖會休亭。太祖每引見羌胡、以淵畏之。會魯降、漢中平。以淵行都護將軍、督張郃徐晃等、平巴郡。太祖還鄴、留淵守漢中、卽拜淵征西將軍。

曹操が張魯を攻めると、夏侯淵は涼州の諸将の侯王より以下をひきい、曹操と休亭で会する。曹操は羌胡と引見するたび、彼らは夏侯淵を畏れていた。

ぼくは思う。この地域における、馬超・韓遂・宋建といった、羌胡を束ねていた人を、ほぼ1人で片づけたのが夏侯淵である。馬超らがもっていた威信を、すべて1人で集めてしまった。

張魯が降り、漢中が平らぐと、夏侯淵は行都護將軍となり、張郃・徐晃らを督して、巴郡を平らぐ。

巴郡は武帝紀の建安二十年。
陽平関は、武帝紀の建安二十年。

曹操が鄴に還ると、夏侯淵を漢中に留む。征西將軍を拝す。

二十三年劉備軍陽平關。淵率諸將拒之、相守連年。二十四年正月備夜、燒圍鹿角。淵使張郃護東圍、自將輕兵護南圍。備挑郃戰、郃軍不利。淵分所將兵半、助郃、爲備所襲。淵遂戰死。諡曰愍侯。

二十三(218)年、劉備が陽平関に軍す。夏侯淵は、連年ふせぐ。
二十四(219)年、正月、劉備は夜に、夏侯淵軍の陣を囲む、鹿角を焼く。張郃は東の囲みを守る。夏侯淵は南を守る。劉備は張郃に挑み、張郃は利あらず。夏侯淵は兵の半分を分けて、張郃を助け、劉備に襲われた。夏侯淵は戦死した。

『太平御覧』巻337に、曹操の軍策令がある。今月、劉備が鹿角を焼いた。鹿角は、本営から15里のところにある。夏侯淵は4百をひきい、鹿角の修復にいった。劉備は山上から之を視て、谷中よりにわかに出た。夏侯淵は戦ったが、劉備に後ろを囲われた。兵は退くが、夏侯淵が退く前に、傷を負わされた。夏侯淵は用兵が上手くなかったから、軍中で「白地将軍」とよんでいた。督帥が自ら戦うというのはナンセンスなのに、まして鹿角の修復にいくなんて。
『通鑑考異』によると、張郃伝だけ、夏侯淵の死に方がちがう。だが司馬光は、先主伝・黄忠伝・法正伝に従って『通鑑』を書くことにする。


初、淵雖數戰勝、太祖常戒曰「爲將、當有怯弱時。不可但恃勇也。將、當以勇爲本、行之以智計。但知任勇、一匹夫敵耳。」

夏侯淵はしばしば戦勝したが、曹操は常に戒めた。「将たるもの、怯弱なときが必要。勇敢さにばかり頼るな。将たるもの、勇敢さが本分だが、行動するときは智計をつかえ。ただ勇に任せて行動すれば、匹夫の敵にしかなれん」と。150527

イフ設定でも夏侯淵は戦死の予定でした……
@Golden_hamster さんはいう。そういえば夏侯淵は張飛と縁続きでしたね。史実と違い曹氏内部が動揺しているとしたら、夏侯淵は戦死ではなく孤立して降伏、あるいは説得に応じて離反といった展開にすることも考えられるかもしれないですね。
ぼくはいう。矛先を180度 変える夏侯淵。グロテスクな展開です。ぼくがいちおう曹氏の長として置いている曹丕の徳をズタズタにしておけば、あるいは夏侯淵は劉備の兵になるかも知れませんね。
@Golden_hamster さんはいう。全てが終わってから、劉備に後継者をどうすべきか聞かれて「曹操を思い出しました」と賈詡が答え、劉備はそれによって劉禅以外を選ぶ・・・という締めですね。

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文聘伝:沔水の北を呉から奪い、孫権を防ぐ

後漢末

文聘字仲業、南陽宛人也、爲劉表大將、使禦北方。表死、其子琮立。太祖征荊州、琮舉州降、呼聘欲與俱、聘曰「聘不能全州、當待罪而已」太祖濟漢、聘乃詣太祖。太祖問曰「來何遲邪」聘曰「先日、不能輔弼劉荊州以奉國家。荊州雖沒、常願據守漢川、保全土境。生不負於孤弱、死無愧於地下、而計不得已以至於此。實懷悲慚無顏早見耳」遂欷歔流涕。太祖爲之愴然曰「仲業、卿真忠臣也」厚禮待之。授聘兵、使與曹純、追討劉備於長阪。

文聘は、字を仲業という。南陽の宛のひと。劉表の大將となり、北方を守る。

ぼくは思う。具体的に「北方」とはどこか。劉表の後半は、劉備が「北方」を守ったはずだが。江夏を任されるのは、赤壁のあと。故郷の南陽(宛城)あたりにいたか。それなら、張繍と接点あり?

劉表が死に、劉琮が立つ。劉琮が曹操に降る。曹操は文聘を呼び、(南征を)ともにしたい。文聘「私は荊州を全うできず。罪を待つべきだ」と。
曹操が漢(沔水)を渡ると、

原文「漢」を沔水とするのは『集解』より。

文聘は曹操にいたる。曹操「くるのが遅い」。
文聘「先日、劉荊州を輔弼して、国家を奉じられず。荊州は没したが、つねに漢川に拠って守り、土境を保全したいと思った。生きては孤弱(劉琮)にそむかず、死んでは地下(劉表)に愧じない。しかし計画は、やむなくこうなった。

ぼくは思う。劉琮が降伏したことも関係なく、漢川を防衛線にすれば、曹操に対抗して、劉表の政権を保てると思った。しかし、曹操に漢川を渡らせてしまい、荊州を守ることができなくなった。というか、曹操が大軍だから、実際の戦闘もなく、あれよあれよと状況が変わり、手出しができなかったと。
無謀な自爆戦を挑むことはなく、その場をどかずに守り続ける。心はブレることなく。そういう、使い勝手のよい武将です。劉表が死に、劉琮が降っても、まだ国を守ろうとするのだから。

まことに悲慚を懐き、早くに見せにいく顔がなかった」と。ついに欷歔・流涕した。曹操は愴然として「仲業、卿は真の忠臣なり」といい、禮を厚くし待遇した。文聘に兵を授け、曹純とともに長阪で劉備を追はしむ。

太祖先定荊州、江夏與吳接、民心不安。乃以聘爲江夏太守、使典北兵、委以邊事。賜爵關內侯。與樂進討關羽於尋口、有功、進封延壽亭侯、加討逆將軍。又攻羽輜重於漢津、燒其船於荊城。

曹操が荊州を定めると、江夏は呉と接して、民心は安ぜず。文聘を江夏太守として、北兵(中原の兵)を典ぜしめ、辺事を委ねた。関内侯。

江夏は、武帝紀の建安十三年。
趙一清はいう。呉・魏は江夏を並立させた。呉は沙羨を郡治として、程普に太守を領せしむ。魏は石陽を郡治として、文聘が太守。
呉増僅はいう。劉表が黄祖を江夏太守としたとき、沙羨に屯した(孫策伝)。嘉平期、王基がみずから上昶に城きずき、江夏の治所を上昶に徙す。魏末の江夏とは、上昶が治所。
謝鍾英はいう。赤壁後、劉備は劉琦を荊州刺史とした。江夏の全域は、劉琦・劉備のもの。劉琦が没すると、孫権が江夏の諸県を奪い、江陵に道を通ぜしめ程普を太守とした。孫皎が程普に代わって夏口を督すと、沙羨・雲杜・南新市・竟陵を封邑として賜る(孫皎伝)。呉が江夏の全域を抑えたのは、孫皎が夏口にきたときだ。その後、沔水の北(孫皎の封邑たる4県)は、魏に取られていく。嘉禾五年、周峻らが江夏・新市・安陸・石陽を撃った(陸遜伝)。諸葛亮は、「孫権は長江を越えられないのは、魏賊が漢水を渡れないのと同じ」というように、沔水の北の江夏らは魏に奪われていた。
盧弼はいう。夏侯尚伝によると、荊州は荒れたので、魏呉は漢水を境界とした。謝鍾英は、魏の江夏郡は、北は義陽・汝南、東は弋陽、西と南は漢水を境界としたという。これが魏の江夏郡の範囲である。
ぼくは補う。これが文聘の管轄した地域である。

楽進とともに関羽を尋口に討ち、延壽亭侯。

謝鍾英はいう。楽進伝によると、楽進は荊州の平定に従い、襄陽に留まり関羽・蘇非らを撃ち、どちらも走らす。文聘が関羽を討ったのは、このときだ。文聘は江夏の石陽に屯し、兵勢は西に向く。尋口とは、安陸府の西南、漢水の東西である。薪春郡の尋陽県にある、尋水が長江に入る口は関係ない。

討逆將軍を加ふ。また関羽の輜重を漢津で攻め、舟を荊城で焼く。

『水経注』によると、沔水は荊城の東南を流れる。


文帝・明帝期

文帝踐阼、進爵長安鄉侯、假節。與夏侯尚、圍江陵、使聘別屯沔口。止石梵、自當一隊、禦賊有功、遷後將軍、封新野侯。孫權以五萬衆自圍聘於石陽、甚急、聘堅守不動。權住二十餘日乃解去。聘追擊破之。增邑五百戶、幷前千九百戶。

文帝が踐阼すると、長安郷侯、假節。
夏侯尚とともに江陵を囲い、文聘は別れて沔口に屯す。石梵に止まり、自ら一隊に当り、賊を防いだ。後將軍、新野侯。

沔口とは、夏口のこと。武帝紀 建安十三年。
石梵は、上海古籍1510頁。はぶく。

孫權が五万で自ら文聘を石陽に囲む。甚だ急でも、堅守して動ぜず。孫権は二十餘日で囲みを解いて去る。文聘は追撃して破った。

明帝紀の巻首、黄初七年のこと。 地名について、たっぷり注釈あり。上海古籍1510頁。


魏略曰。孫權嘗自將數萬衆卒至。時大雨、城柵崩壞、人民散在田野、未及補治。聘聞權到、不知所施、乃思惟莫若潛默可以疑之。乃敕城中人使不得見、又自臥舍中不起。權果疑之、語其部黨曰「北方以此人忠臣也、故委之以此郡、今我至而不動、此不有密圖、必當有外救。」遂不敢攻而去。魏略此語、與本傳反。

『魏略』はいう。孫権がみずから数万をひきい、にわかに至る。ときに大雨で城柵は崩壊した。人民は田野に散り、城柵を補修してない。文聘は孫権が来ると聞き、防ぎようがない。思惟して、潜黙として(作戦がある振りをして)孫権に疑わせるしかないと判断した。城中の人には会わず、横になって起きない。孫権は果たして疑い、部党にいう。
「北方にこの忠臣がいる。ゆえに江夏郡を委ねている。私は江夏を囲んでも動じない。密図がないなら、外救があるはず」と。 孫権は敢えて攻めずに去った。
裴松之はいう。『魏略』の記事は、陳寿と異なる。

ぼくは思う。陳寿と同じじゃない? ただ結果だけ拾ってある。もしくは結果だけになるよう、抽象化してある。内面の動きなんて、同時代の史家ですら、知り得ないから。


聘在江夏數十年、有威恩、名震敵國、賊不敢侵。分聘戶邑、封聘子岱爲列侯、又賜聘從子厚爵關內侯。聘薨、諡曰壯侯。岱又先亡、聘養子休嗣。卒、子武嗣。
嘉平中、譙郡桓禺爲江夏太守、清儉有威惠、名亞於聘。

文聘は江夏に数十年あり、威恩がり。名は敵国に震い、賊は敢えて侵さず。……嘉平期、譙郡の桓禺が江夏太守となり、清儉で威惠あり、名は文聘につぐ。150528

メモ:孫権に攻めこまれ、逃げ遅れて孫権軍の武将になるパターンで。史実のように孫権に包囲され、孫権を追撃したところ、孫権の「誘い」であり、罠によって捕らえられる。そして、史実で曹操に対してこねた理屈を反復する。

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曹彰伝:死にぎわに曹操が長安から召す

曹操の生前

任城威王彰、字子文。少善射御、膂力過人、手格猛獸、不避險阻。數從征伐、志意慷慨。太祖嘗抑之曰「汝不念讀書慕聖道、而好乘汗馬擊劍。此一夫之用、何足貴也」課彰讀詩書。彰謂左右曰「丈夫一爲衞霍、將十萬騎馳沙漠、驅戎狄、立功建號耳。何能作博士邪」太祖嘗問諸子所好使各言其志、彰曰「好爲將」太祖曰「爲將、柰何?」對曰「被堅執銳、臨難不顧、爲士卒先。賞必行、罰必信」太祖大笑。建安二十一年、封鄢陵侯。

任城威王の彰は、字を子文という。少くして射御を善くし、膂力 人に過ぐ。手もて猛獸と格し、險阻を避けず。

孫策伝はいう。ときに袁紹は強く、孫策は江夏を併せた。曹操は孫策を撫すため、曹操の弟の娘を、孫策の弟の孫匡に配した。曹彰は孫賁の娘を取った。
メモ:曹彰は、孫賁の娘と結婚してる。曹操が袁紹と対抗すべき時期の政略結婚なのはいいとして。孫権と全く縁がなく、孫登が来る来るサギの被害を受け続けた曹丕に比べると、曹彰は孫氏と「妥協」できる余地がある。

しばしば征伐に従い、志意は慷慨たり。曹操「読書して聖堂を慕うことを思わず、汗馬に乗り撃剣を好む。これは一夫之用である。貴ぶに足らない」と。『詩』『書』を読むことを課した。

『史記』項羽本紀で、項羽は「剣は一人の敵。学ぶに足らず」という。

曹彰は左右にいう。「丈夫は一に衛青・霍去病となり、十万をひきい沙漠を馳け、戎狄を駆り、立功・建號するのみ。なんで博士になれようか」と。

これがピュアな曹彰の志を伝えるなら、とても快活な話。もしも、「曹彰は魏主には不適任だった」を遡及的に説明するために、創作された「公式見解」だとしたら、つらいなあ。
メモ:荒くれものの曹彰が、「魏主」に成長していく物語はおもしろそう。理屈をこねまわし、意図的に君主として成長しようとして、偏屈になる曹丕。悪い意味で、横暴になる曹丕。しかし曹彰は、戦場を駆け回っていれば、おのずと器量が備わっていくと。

かつて曹操は諸子に、志を言わせた。曹彰「好く将たらん」、曹操「将となってどうする」曹彰「堅を被て鋭を執り、難に臨みて顧みず、士卒の先と為らん。賞すらば必ず行あり、罰すらば必ず信あらん」と。曹操は大笑した。
建安二十一(216)年、鄢陵侯に封ぜられる。

鄢陵は、頴川郡にある。


二十三年代郡烏丸反、以彰爲北中郎將、行驍騎將軍。臨發、太祖戒彰曰「居家爲父子、受事爲君臣。動以王法從事、爾其戒之」彰北征、入涿郡界、叛胡數千騎卒至。時兵馬未集、唯有步卒千人騎數百匹。用田豫計、固守要隙、虜乃退散。彰追之、身自搏戰射胡騎、應弦而倒者前後相屬。戰過半日、彰鎧中數箭、意氣益厲、乘勝逐北、至于桑乾、去代二百餘里。

二十三(218)年、代郡の烏丸が反す。

代郡の治所は高柳。武帝紀の建安十二年にある。『通鑑』は、「代郡・上谷の烏桓の無臣氐らが反した」とする。

曹彰を北中郎將・行驍騎將軍とする。發するとき、曹操が戒めた。「家に居りては父子たれども、事を受くれば君臣たり。動かば王法を以て事に從へ。爾 其れ之を戒めとせよ」と。

盧弼はいう。曹操の執法の厳しさをいう。

曹彰は北征し、涿郡の界に入る。叛胡の數千騎がにわかに至る。ときに兵馬は未だ集らず、ただ歩卒が千人騎・數百匹いるだけ。田豫の計を用い、固守して隙を突いたので、胡族は退散した。

田豫伝はいう。曹彰が代郡を征すると、田豫を相にした。軍が易水の北にいくと、胡族が伏せた騎馬に襲われ、どうしてよいか分からない。田豫は地形にもとづき、車を回して円陣を組み、弓弩は内に満を持し?、疑兵(おとり)はその隙を塞いだ。胡族が進めないところを大破した。

曹彰はこれを追い、みずから胡族の騎馬を射た。弦に応じて倒れるものが前後にあいつぐ。戦って半日を過ぎ、曹彰の鎧にも数本の矢があたるが、意気はさかんで、勝ちに乗じて北に追い、桑乾(代郡の胡族の居留地)に至る。代郡の治所から、2百余里(も深入りしたところ)まで行った。

長史諸將皆以爲「新涉遠士馬疲頓、又受節度、不得過代。不可深進、違令輕敵」彰曰「率師而行、唯利所在。何節度乎?胡走未遠、追之必破。從令縱敵、非良將也」遂上馬、令軍中「後出者斬」一日一夜與虜相及、擊大破之、斬首獲生以千數。彰乃倍常科大賜將士、將士無不悅喜。

長史・諸將は、みな思うに、「遠くにきたばかりで、兵馬は疲弊している。節度を受けたが、代郡を越えられ(る許可をもらってい)ない。深く進み、令に違して敵を軽んじるべきでない」と。
曹彰「師を率ゐて行くは、唯だ利 在る所なり。何の節度なるや。胡 走りて未だ遠からず、之を追はば必ず破らん。令に從ひ敵を縱ままにせば、良將に非ざるなり」と。
遂に上馬し、軍中に令した。「後れて出づる者は斬る」と。一日一夜 虜に相ひ及び、撃破して、斬首・獲生 千を以て數ふ。曹彰は、通常の2倍の賞賜を、将士にあたえた。将士は喜ばないものがない。

ぼくは思う。曹操からの命令になかった所まで深入りして戦果をもとめ、命令を軽んじるようなことを言い、曹操軍で定められた賞賜の相場を与えて恩を与える(曹操軍よりも「曹彰軍」としての意識を醸成する)。これは、謀反である。もしくは、曹操の子という甘えから生じた、かってな行動である。


時鮮卑大人軻比能將數萬騎、觀望彊弱、見彰力戰所向皆破、乃請服。北方悉平。時太祖在長安、召彰詣行在所。彰、自代過鄴、太子謂彰曰「卿新有功。今西見上、宜勿自伐。應對常若不足者」彰到、如太子言、歸功諸將。太祖喜、持彰鬚曰「黃鬚兒、竟大奇也」

ときに鮮卑の大人たる軻比能は、数万騎をひきいて強弱を観望した。曹彰が強いのを見て、服従を請うた。北方は悉く平らいだ。

軻比能は、鮮卑伝をみよ。軻比能はもとは小さな部族の鮮卑だったが、勇健をもって……鮮卑伝を読もう。

ときに曹操は長安におり、曹彰を行在所に来させた。曹彰は代郡から鄴を過ぎた。鄴で曹丕に、「お前は新たに功を立った。西にゆき父にあうとき、自伐せず、応対は(功績が)足らない者のようにせよ」と。曹彰は曹丕に言われたとおりにして、功績を諸将に帰した。

曹丕と曹彰の、貴重な仲良しエピソード!

曹操は喜び、曹彰にひげを持ち「黄鬚児、竟に大奇なり」という。

魏略曰。太祖在漢中、而劉備栖於山頭、使劉封下挑戰。太祖罵曰「賣履舍兒、長使假子拒汝公乎!待呼我黃鬚來、令擊之。」乃召彰。彰晨夜進道、西到長安而太祖已還、從漢中而歸。彰鬚黃、故以呼之。

『魏略』はいう。曹操が漢中におり、劉備は(定軍山の)山頂にこもり、劉封を曹操に挑ませた。

『華陽国志』はいう。漢中の沔陽県に、定軍山がある。北は沔水にのぞみ、劉備はここに軍営をつくる。
林国賛はいう。武帝紀・張郃伝・先主伝では、劉備はこもって戦わなかった。「劉封を曹操に挑ませた」というのは、誤りである。ぼくは思う。劉封の武勇と、曹彰の武勇とを、ともに二世として対比したかったから、筆が滑ったのだろう。

曹操は罵った。「賣履の舍兒(くつ売りの捨て子)、假子(血縁のない、にせの子)にオレを防がせるか。オレが黄鬚を連れてくるのを待っていろ。黄鬚に(劉封を)撃たせる」と。
曹彰を召した。晨夜、道を進み、西して長安に至るが、すでに曹操は(漢中を放棄して長安に)還った後である。

曹彰伝 注引『魏略』で、曹操は漢中で劉封に挑まれて「うちの曹彰を召して、劉封に対抗させよう」という。だが『集解』にあるように、漢中で曹操と劉備は戦ってない。これは創作。曹彰・劉封とも武勇に優れた子で、後嗣の候補&悲劇の最期。劉封・曹彰の類似性に着目して、生まれた創作・伝承だろう。これは、いかにも「ありそう」な話で、巧妙にも裴松之の史料批判の目をくぐり抜けた。しかも曹彰は漢中の戦場に間に合わなかった、というオチがつき、史実に影響せず・矛盾せず。創作としては、最高の成功のかたちだと思う。
劉備は、生前に劉封を除き、後継者問題を防いだ。曹操は、死にぎわに曹彰を呼び、後継者問題を激化させた。袁紹・劉表の後継者問題につけこみ勝者になった曹操は、結局は彼らと同類。一方で劉備は賢明!という対比になる。劉禅が暗愚なら暗愚なほど「にも関わらず後嗣をぶらさない劉備は賢明」となる。

曹彰はひげが黄色いから、こう呼ばれた。

曹操の死後

太祖東還、以彰行越騎將軍、留長安。太祖至洛陽得疾、驛召彰。未至、太祖崩。

曹操が(長安から)東に還ると、曹彰は、行越騎將軍となり、長安に留まる。

『続百官志』には越騎校尉はあるが、越騎将軍がない。

曹操は洛陽で病を得て、駅伝で曹彰を召した。曹彰が至る前に、曹操は崩じた。

賈逵伝に、曹彰が「先王の璽綬はどこ」と問うから、賈逵が「鄴に太子がいるだろ」と叱ったとある。陳矯伝に、陳矯が「王が外で死んだとき、愛子がそばにいると、社稷は危うい」と言ったとする。胡三省によれば、愛子とは曹彰のことである。


魏略曰。彰至、謂臨菑侯植曰「先王召我者、欲立汝也。」植曰「不可。不見袁氏兄弟乎!」

『魏略』はいう。曹彰が至ると、曹植にいう。「先王が(死にぎわに)私を召したのは、きみを(魏王に)立てたかったからだ」と。曹彰「だめです。袁氏の兄弟を見なかったのですか」と。

『太平御覧』241は魏武の令を載せる。「子文(曹彰)に告ぐ。きみらを全て侯にしたが、子桓(曹丕)だけを侯にせず、五官中郎将に止めているのは、彼が太子だからである」と。
盧弼はいう。この魏武令は信ずるに足りない。林国賛は、「曹操ははじめに曹植をあわれみ、あとで捨てた。曹操は死ぬ1年前、曹植に樊城を救わせようとした。曹植は曹丕に迫られ、酔って指示を聞かなかった。曹操は怒って、楊脩を殺した。死にぎわに曹彰を召したが、どうしてこれが曹植を立てることになるのか。曹彰は毒殺され、曹植も曹丕に虐げられた。『魏略』は、曹彰・曹植の罪をひどく見せるため(曹丕の弟に対する処置を正当化するため)に、ウソを書いている。信じられない。


文帝卽王位、彰與諸侯、就國。

曹丕が魏王となると、曹彰は諸侯とともに国にゆく。

魏略曰。太子嗣立、既葬、遣彰之國。始彰自以先王見任有功、冀因此遂見授用、而聞當隨例、意甚不悅、不待遣而去。時以鄢陵塉薄、使治中牟。及帝受禪、因封爲中牟王。是後大駕幸許昌、北州諸侯上下、皆畏彰之剛嚴。每過中牟、不敢不速。

『魏略』はいう。曹丕が立ち、曹操を葬ると、曹彰を国にゆかす。はじめ曹彰は、曹操期に功績があったから、官職を授けて用いられることを望み、国に行けといわれて不服だった。曹丕からの使者を待たずに国に去った。
ときに鄢陵県は土地がやせており、中牟県を治めた。曹丕が受禅すると、曹彰は中牟王となった。

銭大昭はいう。列伝は、(曹彰の子である)曹楷を中牟王とする。魚豢は、曹彰を中牟王とする。どちらが正しいのか分からない。潘眉はいう。中牟王になったのは曹楷であり、曹彰ではない。つぎの「諸侯がさっさと中牟を通り過ぎた」というのは、作り話であり、裴松之がウソに引っかかったのだ。

のちに曹丕が許昌に行幸すると、河北の諸侯は、みな曹彰の剛厳をおそれ、中牟をさっさと通り過ぎた。

ぼくは思う。陳寿・裴松之とも、後嗣の候補たる曹彰の位置が分かっていない感じ。曹操が死にぎわに「愛子」曹彰を呼んだのはなぜか、示されない。自分の死の混乱を曹彰に収集させるためか、曹植を魏王にするためか(←意味不明。しかも曹彰自身のセリフにしたせいで、意味不明の度合いが深刻化)。曹操が、晩節を最大限に穢したという印象を与えるのだけは確か。袁紹・劉表はイヌやブタだが、曹操も同じだったと。曹操という英雄が、袁紹・劉表といったバカを滅ぼす話ではない。けっきょく同型の反復だった、という物語である。
前漢で頻繁に後継者争いが起きたが、『漢書』により、誰が正当な継承者で、誰がナカッタコトなのか明確になる。正当だ!と言い募るだけでなく、ナカッタコトのひとには悪事の逸話や、いかにもな因果関係が説明として付く。曹魏の場合、曹丕の功罪、曹彰・曹植の扱いの公式見解が固まる前に滅びた感じ。


詔曰「先王之道、庸勳親親、並建母弟、開國承家。故能藩屏大宗、禦侮厭難。彰前受命北伐、清定朔土、厥功茂焉。增邑五千、幷前萬戶」黃初二年進爵爲公。三年立爲任城王。四年、朝京都、疾薨于邸、諡曰威。

曹丕は詔した。「先王の道では、勳を庸(もち)ゐ、親に親しみ、同母弟を封建して、国を開いて家をつがせる。ゆえによく藩屏・大宗となり、困難を防いでくれる。

出典を調べると(儒家経典のどれかだろう)、曹丕の政策についてよく分かるだろう。
李安渓はいう。曹丕はまだ受禅してない(まだ魏王である)のに、同母弟を封建した。ぼくは思う。つまり漢の藩屏の魏のなかの諸侯である。

曹彰は受命して北伐し、北土を平定して、功績が大きい。5千戸を増邑し、1万戸とする」と。黄初二年、公に進む。黄初三年、任城王となる。黄初四年(六月甲戌)死んだ。

魏氏春秋曰。初、彰問璽綬、將有異志、故來朝不卽得見。彰忿怒暴薨。

『魏氏春秋』はいう。曹彰が璽綬について問うたとき、異志を持とうとした。だから来朝しても、曹丕に会えなかった。ゆえに怒って死んだ。150531

『世説新語』悔尤篇に、曹丕が曹彰を毒殺する話がある。母の卞氏がこれを見ていて、卞氏が左右のものに水を持たせようとしたが、曹丕が容器をこわした。卞氏ははだしで井戸まで走ったが、曹彰は死んだ。卞氏は「曹植まで殺すなよ」と釘を刺した。同じ話が、卞氏の列伝にもついてる。
王嘉『拾遺記』によると、曹彰が死んだとき、みな徳をしたって嘆き悲しんだ。

臨終の曹操が、曹彰を呼んだ件

ぼくがツイートしました。
曹彰伝を読んでます。陳寿・裴松之とも、後嗣の候補たる曹彰の位置が分かっていない感じ。曹操が死にぎわに「愛子」曹彰を呼んだのはなぜか、示されない。自分の死の混乱を曹彰に収集させるためか、曹植を魏王にするためか(←屈節してて意味不明)。曹操が、晩節を最大限に穢したという印象を与えるのだけは確か。

‏@Golden_hamster さんはいう。私も最後の一文のような感想を持ちますが、現代のファンもあまりそういう印象を持っていないような気がしますね。「曹操が後継者争いをちゃんと収めていて、袁紹のような混乱は起こさなかった」というのと、「曹彰は後継者争いに食い込んできているという印象がない」ということです。ただこれは統計や資料に基づかない私の主観になるので偏見かもしれません。
曹操については、賈詡との件が印象的すぎるのと、「曹操はそんなことやらない」的な側面もあるんですかねえ。それとも世間一般でも曹彰を呼んだ事などの混乱ぶりが認知されているんでしょうか。

ぼくはいう。曹丕と曹植との争いが派手に扱われるほど、曹彰の食い込みが忘れられる構造があるかも知れません。特定の誰かのミスリードというより、史書の読者、建安の文学の読者らの集合的な意識が、曹植をもちあげ、曹彰を忘れ、曹彰伝にある明白な史料の記述(曹操のご乱心)から目を背けているのかもです。
曹操の死って、漢中で劉備に引き籠もられて打つ手がなく(実質的に)敗北して長安に戻り、長安を曹彰に任せて本拠地(許都や鄴)に戻る途中、洛陽を通過し…、という時期ですよね。関羽が死んだとはいえ、敗戦の直後の危うい時期です。関羽に呼応した反乱も多くて。
「曹操の死の直後、曹氏の領土が減る」という史実がないから、曹操の死の危機が重視されない印象がありますが(曹操さんのご本人は、遺言で危機だと吠えてますけど、読者からは「でも曹氏は圧倒的な勝者じゃん。レトリックおつかれ」と思われているはず)、曹氏の領土が減ってもおかしくない時期です。遠い鄴の(軍事オンチの)曹丕よりも、近く長安の(軍事的に功績がおおい)曹彰を呼ぶのは自然です。遠くの嫡子よりも、近くの将軍。
史料によると、「印綬のありかを聞くな」とか「長幼の序が」とか、いかにも史家好みの「正しい」問答の記録がありますが、実際には、曹彰が統率力を発揮しないと、曹氏の領土は減るリスクあり、という危機感が、臨終の曹操にあったかもです。それなら「晩節を穢す」じゃないですね。史家が、結果としての事実、すなわち、「曹操の死後、曹氏が領土を減らさなかった」、「曹丕が後嗣となり(少なくとも曹彰を外したことが原因で)曹魏の命脈が縮まなかった」を踏まえて、文言を飾っただけかも知れません。

@Golden_hamster さんはいう。(曹彰を召したことで)結果としては問題になることは起こっていないですからね。賈逵が硬骨漢でなかったらどうなったのかわかりませんが。ただおっしゃるような決断は、その後に魏を曹彰と曹丕に分割する覚悟を伴わないとなかなかできないと思いますね。それができた曹操は凄いけれど危険でもあった。

ぼくはいう。曹彰の素志である「将になりたい。書は読まねえ」は、若いころから本人が言っていたなら、曹操の決断を助けます(曹彰を召しても、曹彰が魏王に対して色気を感じないので、魏を分けずに済みそう)。もし史家による後づけ(曹丕が魏王となることへの正統化)だとしても、よくできた伏線だと思います。

@Golden_hamster さんはいう。ただし曹操については曹彰以前にも、曹丕を太子に立てながら曹植を荊州の将にしようというのが、地味に危険な行為だったと思います。曹丕が実際に危機感を覚えたと記されているように、その結果次第では後継者問題が再燃しますから。この辺は地味ではあるけれど混乱しています。
曹操一人の感情や決断力だけの問題ではなく周囲の臣下や親族なども絡んだ問題でしょうけれど、曹操のそのあたりの言動に一本筋が通っていないのは否定しがたいように思います。結果上手く行ったと言っても、曹植や曹彰にとっては過酷な運命が待っていますし。

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