孫呉 > Wikipedia「魯粛」の編集履歴を分析

全章
開閉

Wikipedia「魯粛」2004~2015の編集

あそびの趣旨

ぼくが思いますに、「実はこの人物はこうだった」と新説を唱えて衆目を驚かすには、前提が2つ必要です。1つ、大衆のなかに、人物に関する共通の了解・常識があること。2つ、論者が特権的であること(職務上、稀少な史料に当たれる。稀有な読解力や洞察力があるなど)。
みんなが吉川英治・横山光輝を見て、共通の了解・常識を持っており、かつ歴史書(の翻訳)を見るひとが少ないとき、「実はこの人物はこうだった」という語り口が有効かも知れない。でも、共通了解がどの辺にあるか分かりにくく、かつ歴史書にアクセスしやすくなると、その語り口の有効性が怪しい。
いま「実はこの人物はこうだった」という話法が使われるとき、前提となる人物像がどのへんに設定されているのか、気になる。「(みなさんご存知の)三国演義では…」みたいな文を読んだことがあるが、『三国演義』を和訳ででも通読したひとって、ほぼいないはずだし。

ここで、@HAMLABI3594 さんから返信。
昔、某先生に「君たちがいくらネットで騒いでも教授でもなければ博士でもない奴の言うことなど広まらんのだよガハハハ」と言われて、真理だなぁとおもったw 教授でもないは違ったかな。

学者の世界には広まらない(もしくは既読スルーされる)のは真理でしょう。でも三国志に興味を持ったひとが、とりあえずググって、Wikipediaを見るというのが、受容の主流だと思うんです。きっとWikipedia編者のほうが、影響力があり、世論をつくってます。
……というわけで、Wikipediaの編集履歴を見て(できたら分析して)三国志の人物にかんするイメージ・世論?が、どのように変遷したか見てみよう。ためしに議論が割れそうな魯粛をやってみる。2004年まで遡れるようなので。

いろいろ書いてますが、だれが書いた記事なのか知らないし、ハンドルネームから個人を特定しているわけでもありません。「集合知」を担う、匿名の集団の、組織的な行跡について、とやかく書いているだけです。
もし記事を書いたひとが、これを読んでも、「あなた」を批判しているわけじゃないです。怒らないでください。

2004年の当初の記述

引用は、緑色の文字でおこないます。

(172年~217年)呉・孫策と孫権時代の重臣。210年に大都督となると、それまでの強硬外交路線を改め、劉備との同盟関係を強める協調外交へと転換し、曹操と対立した。
政治面でも優秀で、赤壁の戦いで疲労しきっていた呉の国力を回復させたのは、この魯粛の時代である。しかし劉備との協調外交には呉の内部で非難する者も少なくなく、そのため、魯粛の死後、後を継いだ呂蒙は再び強硬外交路線をとって劉備と対立する事となる。

シンプルですねー。ここから、どのように記述が増殖していくのか、とても楽しみです。
網羅的に編集履歴を記録するのでなく(記録なら、Wikipediaにある)、ぼくが気になった改変を追っていきます。

ちくま訳に基づく肉づけ

正史にもとづき、エピソードが加わります。しかし、完全に客観的な記述など、原理的にありません。

裕福な家で産まれたが、家の事はほったらかしにして、困っている人を助け、地方の名士と交わりを結んだ。

「ほったらかす」が楽しげですが、ちくま訳は、「家業をうっちゃらかし、」となっており、ちくま訳のほうが楽しそうでした。編者は、百科事典の編者としての自覚をもち、語義を変えない範囲で、堅そうな言葉にアレンジしたのでしょう。
魯粛伝の原文は「肅不治家事」です。ここから「ほったらかす」を導くのは困難だと思います。ちくま訳を見ながら書いたのでしょう。

袁術のやることが支離滅裂なのに見切りをつけ、

魯粛伝は、「肅見術無綱紀」とあるのを、ちくま訳が「袁術のやることが支離滅裂であって」としてます。「綱紀無し」から、ちくま訳とは独立に「支離滅裂」を導き出すのは、難しいと思います。

周瑜を召しかえし、曹操の軍にあたらせたり、諸葛亮と話し合い同盟の手はずを整えるなど赤壁の戦いの時は主に縁の下で働いていた。

そうか、「縁の下」なんだ。ふーん。

地方でも彼の威徳は行き渡り、赤壁の戦いで疲弊していた呉の国力を回復させる。

出典がほしいですねー。魯粛のイメージか?
出典がない(とぼくは思う)から、淘汰されたのかも知れないけど、魯粛のイメージ、魯粛ならやってくれそうなこと、として書かれたのだろう。それとも出典があるのかな。

@HAMLABI3594 さんはいう。「肅初住江陵,後下屯陸口,威恩大行,眾增 萬餘人」。増えた=国力回復かなぁ


備達には常に友好的な態度で接し、事を荒立てないようにした。しかし、要求を行う時は常に毅然とした態度で臨み、兵を用いずして、荊州の三郡(長沙・黎陽・桂陽)を取り返す事に成功する。

単刀会のことが、「兵力を用いずして」と総括されている。
「黎陽」は「零陵」の誤りです。この三郡の返還を要求した結果、すべて返還されたわけでもない。零陵は、劉備に返してます(呂蒙伝に「權乃歸普等,割湘水,以零陵還之」とある)。
ちくま訳を斜め読みした結果の弊害ですが、魯粛の功績をできるだけ大きくしたい、というファン心理が働いたのでしょう。いちはやく、魯粛の項目に手を出すくらいだから、熱烈なファンです。そして、パソコンに「れいよう」と入れて、「黎陽」が出てきてしまうほど、変換辞書が充実していたひとです。

正史では、この様に剛毅にあふれる人物に描かれているが、『三国志演義』では、諸葛亮に言いようにやられてしまうお人好しとして描かれている。

でました。「正史では~、演義では~」という話法。もはや、イディオムですね。丸暗記すべきです。この語り口は、魯粛のために用意されたようなもの。
編者は、ちくま訳を斜め読みして、いちおう正史には触れたものの、『三国演義』についてはなにも検証せずに、結論だけを、ぶん投げてくる。
今日の同じ項目では、

小説『三国志演義』では、知略に優れた人物として扱われつつも、温厚かつお人よしな性格のために諸葛亮にあしらわれ、周瑜に詰られるという損な役回りを演じている。また、正史では成功した関羽との交渉も、演義では不調に終わり追い返されてしまっている。

となっています。
『三国演義』を、いちいち「小説」と断るところに、厳密な態度というよりは、『三国演義』に対する悪意を感じます。
言葉は増えておりますが、論調は同じです。「諸葛亮にあしらわれる」は、編者なりの抽象化なので、いまいち論証になってません。「周瑜になじられる」のは、「温厚かつお人好し」だからでしょうか。温厚かつお人好しが相手なら、なじっても構わない、という性格で捉えられている周瑜のキャラクターは、人間的に、ちょっとアレです。
関羽との交渉の件は、具体例として成り立っていますが、「温厚かつお人好し」の例ではないですね。「また、」という、論理関係をごまかすために使う接続詞で、つながれています。「いちおう、正史と演義との違いとして、指摘しておきたいが、『温厚かつお人好し』との関連性については、自分でもよく分からない」と編者が考えたと、ぼくは推測します。
念のために言いますが、ぼくは、「新しい編集結果のほうが優れている」とは考えていません。プロセスのなかに渦巻く、魯粛の人物像に興味があります。

2005年

正史では成功した関羽との交渉も、演義ではけんもほろろに追い返されてしまっている。こうしたキャラクターのためか[[連環画]]などではその性格を表した風貌に加えて、肥満漢に描かれることが多い。

「けんもほろろ」とか、オリジナリティがある表現です。今日では、百科事典らしく、「不調に終わる」となってます。
今日(20150520)まで受け継がれている、連環画の指摘は、当初は「肥満漢」というのが結論でした。じつは、連環画では、べつに太っていないのか(ぼくは未確認)、横山光輝で丸顔なのを取り違えたのか、もしくは「魯粛のことをデブっていうな」というファン心理が働いたのか、今日では、

連環画などではその性格を表した風貌に描かれることが多い

という、とても「配慮」が行き届いた描写になっています。遠回しに、「デブ」って言ってるってことです、今日の記述は。いくら見つめても、履歴をチェックしないと、気づくことができません。
同じタイミングで、「重臣」から、「武将・参謀」に肩書きが変わっています。

2006年

孫策の東征の折に[[周瑜]]を頼り、[[孫策]]の配下になった。孫策が亡くなると[[孫権]]に仕えた。
孫策が亡くなると家臣達は内部分裂をするようになり、[[曹操]]から仕官の話がくると曹操の元に行こうとするが、周瑜の説得により帰還。そして[[孫権]]に謁見し、仕官する。

家臣の内部分裂とか、曹操からの誘いとか、イメージ先行で書かれています。
曹操からの誘いとは、劉子揚(劉曄)が「鄭宝に仕えよう」と誘ったのを、取り違えたのでしょうか。

魯粛は武勇に優れていた書されているが、戦陣で活躍したという記録はなく。魯粛の特筆すべき所は、名将・周愉も驚かす程の発想である。
天下三分の計 は諸葛亮の神策と言われているが、実質は呉と蜀の総力でも魏には対抗できず。中身の無い策だとも言われている。

と、なぜか諸葛亮をけなす。「神策」と持ち上げた上で、敢えて「中身がない」と、谷底に叩き落とす。諸葛亮の悪口をいうと、魯粛がすばらしく見える、という前提が、頭のなかに組み上がっているようです。
つづいて、

実は魯粛も天下三分の計を唱えているが、諸葛亮とは違う構造になっている。周瑜が説いた「天下二分の計]を、さらに発展させた策であり。呉が蜀を庇護をしつつ魏を牽制し、天下三分の形を維持。時をみて呉が蜀を飲み込み天下二分に移行する。これは、ほとんど知られていないが史実評論では高い評価をうけている。

周瑜の二分の計?とやらを、「発展」させ、呉が蜀を「庇護」する。「知られていない」優れた計略なんだそうな。脳みそがとろけそうです。
こんな、おかしな記述でも、明確な誤字とか、句読点ミスとかがあると、別のひとが修正してくれる。ほんとに、ネット利用者の自発性に支えられた媒体だと、気づくことができます。無償の校正マン。

20060429に、「黎陽」が「零陽」に修正されます。じつに、1年半を経て、直されたわけですが、正しくは「零陵」です。誤字から誤字への修正。
と思ったら、2分後に「零陵」に直されてました。

さっきの、脳みそがとろけそうな、魯粛の天下三分の計(そもそも、何だこりゃ)を入力したひとは、名将・周も驚かす程の発想」としていましたが、2006年のGWに修正が入ります。「周瑜」に直ります。
じつは、「周りが愉しんでね」というジョーク記事なのかも知れない。あえて誤字を挿入することで、書いてあることのデタラメさを、言外に知らせていたのかも。

魯粛の特筆すべき所は、孫権、周瑜も驚かす程の発想といわれる。

驚いたひとが、周瑜だけでなく、孫権も加えられた。そして、客観的(風味)を心がけて、「である」の断定から、「といわれる」に変わった。個人者の感想です、かつ感じ方には個人差があります、というわけだ。
しかし、だれが言ったのか明示してないから、なんの情報も増えてない。むしろ、編者その人(もしくは編者の集合体)が、発言の責任を放棄したのだから、情報が劣化した。

2006年6月に、

裕福な家に産まれたが家業はやらず、困っている人を助け、地方の名士と交わりを結んだ。これは名声を高め、[[袁術]]の陣営に入るためと思われる。

と改変され、「家業をほったらかす」がなくなった。しかし、列伝の原文を見ての改変ではなく、日本語として、学術的(風味)にアレンジしたに過ぎない。
同じタイミングで、魯粛が名士と交わった目的が、「袁術の陣営に入るため」という、新説?が登場する。なにか、悪いものでも読んだのだろう。

直後、「家業をやらず」が気に入らないひとが、「家業を手伝わず」とする。これも、日本語の好みの問題で、「職業は、家事手伝いです」という常套句からヒントを得た改変だと思われます。
なぜ、「手伝わない」のかといえば、

剣術・馬術・弓などを習い、兵法の習得などに力をいれている事から、乱世が始まれば家業も長く続かないと断じていたのかもしれない。

と、胸中を勘ぐっております。
このたびの編者は、勘ぐるのが得意らしく、周瑜にむけて蔵をあげたエピソードについては、

気前がいいと思われるが、実際は孫策の重臣である周瑜に名を覚えてもらうためと思われる。

という、売名行為だと決めつける。
こういう楽しい話は、個人のブログでやればいいのに。だから、ウェブ上で戦争が起きてしまうのだ。

孫策が亡くなり家臣達が内部分裂をするようになると、友人の[[劉曄]]からの手紙によって孫家から離反するように要請される。魯粛はこれを了承したことから、生涯一人の主に使える忠に欠けるという、現代評価ができあがったと思われる。

曹操に誘われたというミスが消され、劉曄に直された。しかし、孫策の死後に離脱することを、「孫家から離反」と解釈され、「忠に欠ける」と断じられる。江戸時代の、寺子屋の先生が、近所の無知な子供たちに、適当なことを教えているような印象です。
しかも、魯粛の不忠は「現代評価」だそうです。まず、「現代評価」という言葉が、しっくり来ないけれど、、いつ魯粛の不忠が、常識になったのだろう。劉曄のことに気づくほど、いちおう、ちくま訳は読んでいるひとが書いているはずだが、おかしなことを言ってます。
内容の是非はさておき(非だと思いますが)、記述者の頭のなかで、「魯粛といえば不忠、これ常識でしょ」という了解があった。この了解の形成プロセスを知りたい。

2006年9月、「正史派」の評論家が加筆する。

『正史』では、虚虚実実の渡り合いを見事にこなし、沈着冷静にして剛毅な人柄であることがうかがえる。特に、赤壁の戦い以降、煩雑な情勢を巧みにあしらい、あわよくば荊州をものせんとする蜀を退けるなど、外交官、行政官としても卓越した手腕の持ち主であった。

「繁雑な情勢を巧みにあしらう」って、具体的にはどうやるのか、よく分かりません。しかし、正史の魯粛は有能なんだぜ!という、圧倒的な結論があって、しかし、記述の能力に恵まれていないひとが記事を書いたから、こうなったのでしょう。「あわよくば……せんとする」というあたりに、気負いが見えます。

話題の家業の件、「家業は手伝わず」に違和感があったらしく、「家業を放り出し」になります。陳寿の原文、ちくま訳、のいずれからも遊離した、日本語の好みの問題で、編集合戦が展開されます。
このころ、「推測や小説的表現を排除」をむねとする編者が登場して、魯粛の胸中を勘ぐるところを省きつつも、新たに、

一族郎党を引き連れて周瑜を頼り、袁術から独立し

と書き加えます。一族郎党って、『平家物語』かよ。これは小説的表現ではないのか。文章の審美眼というのは、みがくのが難しい。

2007年

魯粛の風貌につき、肥満が削除された後、それじゃあ、物足りないと思うひとが出てきたらしく、

(特に、[[横山光輝]]版の「三国志」ではいかにも温厚で頼りなさそうな風貌である)。

と、魯粛の外見にかんして、温厚・柔和・デブであるという記述は、「ここに書いておかなければならないこと」として、認識されている。べつに、史実の魯粛がどうだ、という議論ではなく、「魯粛のイメージは、温厚・柔和・デブなんだよ」と、教えずにはいられない。教えたくなって、ウズウズするらしい。
少し前に追加された、魯粛の絵は、ガリガリだけど。というか、ガリガリの絵に、違和感をもったひとたちが、「念のため、言っておくけど」と、筆を持たずにはいられなくなった。

魯粛の肩書きが、「武将・参謀」から「軍略家」に変わる。

2008年

魯粛が劉備から取り戻した郡が訂正される。

荊州南部の2郡([[長沙]]・[[桂陽]])を取り返す事に成功した。

零陵が、孫権から劉備に返還されたことが、反映された。
これまで、魯粛が「天下三分」ないしは「天下二分」を描いたとか、諸葛亮や周瑜と比べてどうだとか、そういう人物の印象論に関する記述が多かった。じつに4年間も、このときに呉が得た郡が、どこだったのか、ミスが修正されずに放置されていた。

情勢が複雑すぎて、いまいち、ぼくも分かっていないので、いっかい整理しよう。ほんとうにミスなのか、自信がない。
整理するなら、個人の名のもと、個人の責任のもと、個人のサイトで。こういう複雑な話を、寄ってたかって編集しようとする態度が、いまいちぼくには、理解できません。。

Wikipediaに参加するひとのモチベーションが、どのあたりにあるか、分かります。

2008年秋、孫権が、長沙・桂陽を得たわけですが、その表現につき、「取り返す」「割譲させる」「返却させる」と編集合戦が起きる。
郡がどのような扱いで、孫権から劉備に、支配権が移されているのか、その解釈をめぐって、なかなか合意を見ない。このあたり、魯粛論をやるときの本質でしょう。安易に答えを出してはいけない。

2010年

魯粛の肩書きが、「武将・政治家」に変わる。

若いころの話として、

村の長老には、「魯家に、気違いの息子が生まれた」と、までいわれていたという(『呉書』)。

とあり、まさかWikipediaにあるまじきことに、出典の史料が書かれている。このとき、正史に基づいて大幅に加筆され、今日の基礎となる。すなわち、記述のレベルが高いせいで、百科事典は充実したものの、編集合戦の楽しさは減退し、今回の遊びについても、ネタがなくなってしまった。

2013年

墓の情報が加えられる。陳寿・裴松之をいくら見ても、得られない情報。ちがうソースからの加筆は、利用者にとってありがたい。

湖南[[岳陽市]]に墓所が残る。光緒15年に墓碑と亭が整備されたが、文化大革命により破壊された。1986年に再建され、碑陽に「呉漢昌太守魯粛墓」と記された。省級重点文物保護単位。
江蘇[[鎮江市]]に墓所が残る。墓碑があり碑陽に「呉横江将軍魯粛之墓」と記されている。
湖北[[武漢市]]に墓所がある。同治6年に墓碑が整備されたが、武漢長江大橋の建設に伴い1955年に取り壊され、山麓に移された。碑陽に「呉漢昌太守魯粛墓」と記されている。


こうして今日の記述に至ります。150520

閉じる

ふたりめを企画中

閉じる

inserted by FC2 system