孫呉 > 『呉志』巻十三 陸遜伝・陸抗伝をよむ

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陸遜:揚州で増兵に努める

6年前に指摘したこと

このワクのみ、101031 に作成した。当時、指摘してきたかったことは、ひとつ。はじめから陸遜は、孫権に忠実な将校だった。赤壁のとき、曹操に帰順すべきとする「沈黙の多数派」だった……わけではないと言いたかったのです。

満田剛先生はいう。(イベントでは)陸遜が「沈黙の多数派」だった可能性があると申しましたが、口頭でも拙著『三国志―正史と小説の狭間』でも、「赤壁の戦いの時点で抗戦派か降伏派かははっきりしない」ともつけ加えていたと思います。


ぼくは思う。陸遜は、廬江太守・陸康を、孫策に殺されて、孫氏と対立していたのではない。名門を気どって、揚州で半独立をしてたわけでない。赤壁のとき「沈黙の降伏派」だったわけじゃない。
陸遜は、会稽太守・討虜将軍・孫権のしたで、部将としてセッセと働いていた。職歴からいえば、呂蒙にちかい。もちろん陸遜は、兵卒の呂蒙よりは、スタート地点が高かっただろうが。

呂蒙について、以前、書きました。
「呂蒙伝」:『三国志集解』を横目に、自分で翻訳する
呂蒙が魯粛に代わったのは、単なる「軍師」のバトンタッチではない。劉備に対する政策の変更でもない。孫権の君主権力が、やっと荊州に及んだ画期だ。
魯粛は、孫権よりもスケールのデカい発想をした。孫権は、魯粛を使いこなせない。なぜなら、魯粛を理解できないから。魯粛の死後、孫権は呂蒙を置いた。呂蒙は、孫権に忠実な武官として、孫権の単なる手足として、荊州を接収した。

関羽との戦線において。呂蒙の後任が陸遜なのは、どんな理由によるか。
「前任者とおなじタイプの人材のうち、より若い人に更新した」という判断による。呂蒙から陸遜への交替は、人事政策のなかでは、もっとも当然で穏当で、面白みに欠く、打ち手である

孫権は荊州に、おなじ種類の人材を、つづけて置いた。メリットは、均質さが保てること。デメリットは、変化に対応できないこと。
孫権の認識で、呂蒙時代の荊州は、うまく言っていた。呂蒙が生きていてくれたら、ずっと留任させる気がマンマンだった。

では、孫権の手足・陸遜伝の序盤を、『三国志集解』とともに読みます。

2016年時点の読解力で、『三国志集解』を読み直して増補した。


陸績のおとる家柄

陸遜字伯言,吳郡吳人也。本名議,世江東大族。

陸遜は、あざなを伯言という。呉郡の呉県の人だ。本名は陸議だ。

『魏志』明帝紀の太和二年・青龍二年には、陸議と書かれている。「蜀志」先主伝・黄権伝もまた、陸議と書いている。
ぼくは思う。陳寿は基本、韋昭『呉書』をまる写ししたらしい。だが「本名議」の3文字は、陳寿が『呉書』に加筆したか。陳寿が見た史料のうち『呉書』だけが陸遜とする。だから正しくは陸議だと、ことわったとか。


陸氏世頌曰:遜祖紆,字叔盤,敏淑有思學,守城門校尉。父駿,字季才,淳懿信厚,為邦族所懷,官至九江都尉。

『陸氏世頌』はいう。

盧弼はいう。『陸氏世頌』は、『隋書』『唐書』の目録にない。

陸遜の祖父は陸紆、あざなは叔盤。敏淑で思学あり、城門校尉を守す。陸遜の父は陸駿、あざなを季才。淳懿で信厚、邦族に懐かれ、九江都尉に至る。

盧弼はいう。九江郡の都尉である。『続百官志』はいう。辺境の郡にだけ、往々にして都尉を置く。郡から県を分け、郡のように都尉が民政をした。
応邵はいう。郡に賊があると、郡は臨時に都尉をおく。賊がおわれば、都尉をのぞく。『范書』滕撫伝はいう。朝廷は、ひろく将帥をもとめ、三公は、文武の才能がある滕撫を、九江都尉にしたと(賊の平定に特化した臨時の官とわかる)。
ぼくは思う。陸遜は、陸績の家柄に劣る。陸績の曽祖父は、『范書』独行伝にある。陸績の祖父・陸ホウは、霊帝の課税を批判した。陸績の父・陸康は、3郡の太守で実績をあげ、廬江太守に。対して、陸遜の父は、太守でない。
ぼくは思う。九江郡の反乱を探し、陸遜の父が平定した時期を探れないか。


陸遜は陸績より年長ではない

遜少孤,隨從祖廬江太守康在官。袁術與康有隙,將攻康,康遣遜及親戚還吳。遜年長於康子績數歲,為之綱紀門戶。

陸遜は、若くして父を亡くした。陸遜は、従祖父の廬江太守・陸康にしたがって、官位にある。袁術と陸康は、対立した。袁術に攻めらそうになり、陸康は、陸遜や親戚を、故郷の呉郡に返した。

陸康は、袁術に負ける見通しだったのか。これは、変である。だって、呉郡に行くと、袁術に近づいていくことになる。廬江にいたほうが、まだ安全である。
余談。曹操は、家族をつれて外征する。留守するほうが、危険だったから。曹操に従軍したほうが、まだ安全だった。孫策の陸康ぜめは、電撃的だった。だから陸康は、対策する時間が得られなかったか。よく分からない。

陸遜は、陸康の子・陸績より、数歳ほど年長。だから陸遜が、門戸を綱紀した(陸氏をひきいた)。

「年長だから」とは、陳寿が史料を(彼なりに)合理的に批判して、推測で書いたものだ。ぼくはこの推測が、誤っていると思う。陸遜が、陸績より年長とは限らない。
陳寿説+10歳で、赤壁開戦に猛反対した陸績伝
もし陳寿が、韋昭『呉書』を丸写しにしたなら、韋昭らの推測ミスとなる。


陸績の縁故をつかわず、孫権の将校となる

孫權為將軍,遜年二十一,始仕幕府,曆東西曹令史,出為海昌屯田都尉,並領縣事。

孫策が死に、孫権が討虜将軍となった。陸遜は21歳のとき、はじめて孫権の幕府に仕えた。

盧弼はいう。陸遜は赤烏八年に、63歳で死んだ。生まれたのは、後漢の光和六年である。陸遜が21歳だから、建安八年(203) のことだ。
ぼくは思う。孫権が孫策をついだのは、200年だ。陸遜は3年間、孫権に仕えていない。後漢末の慣例で、就職するのは21歳だ。年齢不足から、陸遜は就職しなかったか。これは一理。
だが203年は、べつの意味がある。同年、孫権の外戚・丹楊太守の呉景が死んだ。孫権の弟・孫翊が、丹楊太守に。孫権が、呉夫人&張昭による外戚政治から、離反をねらい始める。呉夫人&張昭は、孫権を曹操に帰順させる方針。孫権はこれに抵抗し、独立を助けてくれる人材を集めている。陸遜が応募した。
ぼくは補う。孫権が孫策にならい、彼にとって1回目の黄祖攻めをしたのも同年(ここで凌操が戦死)。孫権が、独自路線を指向し始めた歳といえようか。
「幕府」の解説は、『魏志』袁紹伝をみよ。

陸遜は、東西の曹令史を歴任した。出て海昌の屯田都尉となり、あわせて県事を領す。

盧弼はいう。海昌都尉の解説は、孫権伝 赤烏五年の「海塩」に注した。『続百官志』はいう。辺境の郡には、「農都尉」をおいた。屯田・殖穀をつかさどる。
ぼくは思う。すでに陸績は、孫策の時代から、孫氏に仕えた。張昭・張紘・秦松と同席し、天下国家を論じた。孫権が200年につぐと、すぐに奏曹掾に。陸遜の動きと異なる。2つが指摘できる。
 ● 陸氏をひきいたのは、陸績と考えるのが自然(陸遜が年長とは限らず)
 ● 当時の陸遜は、陸績よりずっと下位
陸績は後漢の官僚として、曹操のために、孫権を「牽制」する。陸績は、孫権のヨコにいる。あたらしく就職した陸遜は、孫権の幕僚として、孫権のシタにいる。陸遜は、気安い部下だ。
おなじ構図があった。曹操:荀彧:郭嘉=孫権:陸績:陸遜という構図だ。
曹操の手先として、司法権・警察権を濫用した、郭嘉伝


陸氏祠堂像贊曰:海昌,今鹽官縣也。

『陸氏祠堂像贊』はいう。海昌とは、いまの塩官県のことだ。

沈家本はいう。『陸氏祠堂像贊』は、『隋書』『唐書』に載っていない。だれが書いたのか、分からない。
『宋書』州郡志はいう。呉郡の塩官令は、漢代の旧県。『呉記』は「塩官はもと嘉興郡に属し、呉が海昌都尉を立てて、塩官を治所とし、のちに県とした」というが、正しくない。
呉増僅はいう。『寰宇記』は『呉録』地理をひき、塩官はもとは海昌といい、のちに塩官に改称されて呉郡に属した。『呉志』陸遜伝をみると、陸遜ははじめ海昌都尉となり、あわせて県事を領した。裴注『陸氏祠堂像賛』によると、海昌はいまの塩官県という。陸遜が兼務したのは、海昌県のことである。海昌都尉とは海昌県事を領したのである。けだし呉ははじめ海昌県を立て、のちに塩官に改称した。ゆえに『呉録』は「もとは海昌という」とする。晋代に呉をふまえ、塩官といった。ゆえに『陸氏祠堂像賛』は、海昌とはいまの塩官のことという。
洪亮吉はいう。『宋書』によると塩官は漢代の旧県で、呉が立てない。だが『漢書』地理志・『続漢志』郡国志に塩官県はないから、呉が立てたのか。『陸氏祠堂像賛』は海昌はいまの塩官というが、もとは海昌都尉の治所で、新たに県に改めたか。


中原に見向きもせず、呉地を開拓

縣連年亢旱,遜開倉谷以振貧民,勸督農桑,百姓蒙賴。時吳、會稽、丹楊多有伏匿,遜陳便宜,乞與募焉。會稽山賊大帥潘臨,舊為所在毒害,歷年不禽。遜以手下召兵,討治深險,所向皆服,部曲已有二千餘人。鄱陽賊帥尤突作亂,複往討之,拜定威校尉,軍屯利浦。

連年、ひでり。陸遜は官倉をひらき、穀物を貧民にほどこす。農桑を勧督し、百姓は頼った。ときに呉郡と会稽には、伏匿(孫権の支配を回避して、納税や兵役を逃れる者)が、おおい。陸遜は方策をのべ、彼らを(兵役や労役に)募りたい。

陸績と陸遜は、むいている方向が、正反対だ。張昭、張紘、虞翻、陸績らは、中原ばかり見ている。張紘・虞翻が、孔融との文通に精を出しているころ、陸遜は、地道な開拓をした。どうして陸遜が「呉郡の名族として、孫権を掣肘していた」ものか。掣肘したのは陸績。陸遜は、孫権に忠実。

会稽の山賊の大帥たる潘臨は、所在で毒害をなし、歴年とらえず。陸遜は手下を兵とし、深険を討治し、行けば皆が服した。部曲はすでに2千余人がいる。

原文は「手下を以て兵を召し」とあるが、盧弼が「召」の字は誤りだろう、というから抄訳に反映。陸遜は、部曲(自身の支配民)をもちだして、孫権のために呉郡・会稽の討伐に協力した。結果、部曲も増える。

(建安二十一年)鄱陽の賊帥たる尤突が乱をなすと、また往って討ち、定威校尉を拝し、軍は利浦に屯す。 陸遜は、定威校尉となった。軍は利浦においた。

胡三省はいう。定威校尉は、孫権がはじめて置いた。
ぼくは思う。孫権は後漢の外側に、ちっぽけな国を作り始めた。そのメンバーが陸遜。ただし陸遜も、独自に部曲をもつ。孫権の国のなかに、さらに小さな「陸遜の国」を作り始めてもいる。
趙一清はいう。利浦は、当利浦である。孫策伝にある。
ぼくは補う。賀斉伝に「建安二十一年、鄱陽の民の尤突が、曹公の印綬を受け、民を化して賊となす」とある。


權以兄策女配遜。數訪世務,遜建議曰:「方今英雄釭跱,財狼闚望,克敵寧亂,非眾不濟。而山寇舊惡,依阻深地。夫腹心未平,難以圖遠,可大部伍,取其精銳。」權納其策,以為帳下右部督。

孫権は、孫策の娘を、陸遜にめあわす。

以上のぼくの読解から、この結婚は「名族・陸氏と和解し、孫氏の味方にひきこむため」でないことが分かる。ほんとうに呉郡の陸氏を取り込みたければ、陸績の家と、婚姻をむすぶべだ「兄の娘」なんて、血縁が濃厚で、超レア&高貴な手ゴマを、どうして傍流・陸遜に与えたか。チーム孫権の内輪を、がっちり固めるためだ。
ぼくは思う。賀斉伝により、尤突の乱が建安二十一年と判明。孫策の娘との結婚は、記述順を信じるなら、それ以後。関羽との戦いが建安二十四年。陸遜は「新婚」で荊州に向かった。もしくは、蜀との戦いに投入するために、婚姻をむすんだ。

孫権は陸遜に、よく世務を聞いた。陸遜は建議した。
「いま英雄が並立し、豺狼らに勝つには、兵数が必要だ。しかし山寇は旧くから対立し、阻深の地に依る。腹心(領土の内部)が平らかでなければ、遠きを図れない。部伍を大きくし(兵数を増やし)精兵を得よ」と。

ぼくは思う。「遠きを図る」の射程はどれほどか。劉表か、曹操か。ともあれ、孫権に独立を勧めた早さでは、魯粛におとらない。懐刀である。魯粛と陸遜は、意見がおなじ。2人の友情を妄想したくなるほど。
ぼくは思う。陸遜は呉の功臣だから、「早くから孫権に独立を勧めた」と遡及的に描かれる可能性もある。この時点では「兵を増員せよ。とりあえず富国強兵が大切!」といっただけかも。

陸遜は、帳下右部督となった。

帳下左右部督は、張温伝にみえる。


丹陽賊が曹操に印綬をもらう

會丹楊賊帥費棧受曹公印綬,扇動山越,為作內應,權遣遜討棧。棧支黨多而往兵少,遜乃益施牙幢,分佈鼓角,夜潛山谷間,鼓譟而前,應時破散。遂部伍東三郡,強者為兵,羸者補戶,得精卒數萬人,宿惡蕩除,所過肅清,還屯蕪湖。

このころ丹楊の賊帥・費棧が、曹操から印綬を受けて、山越を扇動し(曹操に)内応した。

胡三省によると「費、父沸翻、姓也」と。ちくま訳は「ふっさん」と読む。
ぼくは思う。費棧は、いつ山越を扇動したか。赤壁の前なら、曹操の印綬はニセモノ。孫権は、おとなしい漢臣で、張紘がパイプを確保している。赤壁のあとだろう。陸遜伝は、関羽と戦うまで、時期がまるで不明。

孫権は、陸遜に費桟を討たせた。費桟は支党が多いが、陸遜の兵が少ない。陸遜は、牙幢(将軍旗)を増やして施し、鼓角を広く分布させ、夜に山谷にひそみ、鼓譟して進む。時に応じて費桟を破散した。ついに東3郡を部伍し、強者は兵とし、弱者は戸とし(兵役以外の義務を課し)精卒の数万人を得た。宿悪を蕩除し、過ぎる所で粛清し、還って蕪湖に屯す。

胡三省はいう。東3郡とは、丹陽・新都・会稽である。
蕪湖は、太史慈伝にある。


會稽太守淳于式表遜枉取民人,愁擾所在。遜後詣都,言次,稱式佳吏,權曰:「式白君而君薦之,何也?」遜對曰:「式意欲養民,是以白遜。若遜複毀式以亂聖聽,不可長也。」權曰:「此誠長者之事,顧人不能為耳。」

会稽太守の淳于式は、「陸遜が民を搾取するから、所在(陸遜の統治地域)が愁擾する」と告発した。

ぼくは思う。孫権は、孫策をついだ直後、曹操に会稽太守にしてもらった。呉主伝によると、建安十四年(赤壁の翌年)劉備が表して「行車騎将軍、領徐州牧」となった。このとき孫権が、自分の後任として会稽太守を任命したのだろう。曹操からもらった官職を、他人に移すことで、曹操との決裂を確定させた。

のちに陸遜は都(秣陵)にゆき、「淳于式は佳吏である」と称えた。孫権「淳于式はきみを告発したのに、なぜほめる」、陸遜「淳于式の意は民を養うことにある。だから私を告発した。もし私が淳于式を批判して、聖聴(孫権の耳)を乱すのは宜しくない」、孫権「まことに長者の事である。なかなかできん」と。

淳于式が、曹操が派遣した、新しい会稽太守だったら、面白い。孫権の真意は「曹操に気がねせず、揚州を総動員すればいいんだ。陸遜は、その調子で徴発し、私の事業に加担してくれ」となる
ぼくは思う。孫権の口ぶりから、淳于式の任免権は孫権にあるだろう。孫権の配下同士で、「呉の民の支配を自己目的化した淳于式」と、「呉の民を天下取りの手段とする陸遜」という対立があったら、おもしろい。曹操の冀州・劉備の益州のように、つねにつきまとう議論である。初期の陸遜の平定戦は、揚州の治安を安定させるものだったが、赤壁後、陸遜が反復する平定戦は「揚州に負担をかけても、曹操と張り合える勢力をつくる」という色彩を帯びる。


おわりに:陸遜は、赤壁を後方支援した

はじめから陸遜は、孫権に忠実な将校だった。陸績との対比をヒントに、陸遜伝の中身を順に読むだけで、これを確認できたと思います。101031

陸績は、孫権の独立を諌めた。赤壁の翌年、交州の鬱林太守に左遷された。失意のうちに、死んだ。陸績の左遷と、赤壁との因果関係は、直接は史料にない。だが時期的に見て、ロコツに赤壁が原因だ。前述、ぼくの陸績伝で書きました。
陸遜は赤壁に、賛成だっただろう。もし戦場にいたら、勇躍して曹操を燃やした。もし南方にいたら、物資と治安を安定させて、孫権をサポートした。史料がないから、おそらく後者だ。赤壁を後方支援した。陸遜は「沈黙の降伏派」ではない。「雄弁な降伏派」陸績とは、根本的なポリシーがちがい、「行動する独立派」である。
160617 に追記。赤壁で孫権を勝たせたのは、陸遜の早期からの強兵策である。陸遜の「過剰」な行動が、孫権を「単なる会稽太守」から、群雄に育てた。

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陸遜:関羽の荊州を平定する

呂蒙に代わり荊州へ

呂蒙、稱疾詣建業。遜、往見之、謂曰「關羽接境、如何遠下。後、不當可憂也」蒙曰「誠如來言。然我病篤」遜曰「羽、矜其驍氣、陵轢於人。始有大功、意驕志逸。但務北進、未嫌於我。有相聞病、必益無備。今出其不意、自可禽制。下、見至尊、宜好爲計」蒙曰「羽、素勇猛、既難爲敵。且、已據荊州、恩信大行。兼始有功、膽勢益盛。未易圖也」

(建安二十四年)呂蒙は病気と称して、建業にいたる。陸遜は呂蒙に会い、「関羽は境を接するのに、なぜ離れたか。心配ではないか」と。呂蒙「そのとおり。しかし病気が篤い」、陸遜「関羽はその驍気を矜り、人を陵轢する。はじめは大功があるが、意は驕り志は逸す。ただ北進に務め、いまだ我を嫌わず。

関羽は油断しまくり。魏と戦うことに頭が占められ、呉を舐めて忘れている。呉が友好国だから、忘れたのではない。やはり、おのれの強さに酔って、呉が敵対する可能性を、カウントし忘れている。見抜いたのは陸遜か。

呂蒙が病と聞けば、ますます備えを怠る。不意をつけば、禽制できる。孫権に提案せよ」、呂蒙「関羽は勇猛だが、敵うまい。関羽は荊州に拠り、恩信は大いに行はれ、功があり(曹仁軍に勝ちつつあり)胆勢はますます盛ん。図れない」と。

胡三省はいう。英雄の士は、意見が一致する。呂蒙伝では、呂蒙が作戦を発案する。兵事は秘密をたっとぶ。陸遜の発言は、呂蒙の意図と一致したが、呂蒙は同意できないふりをした。
ぼくは思う。呂蒙伝では、呂蒙が荊州を離れる前に、「私を都に戻して、関羽を油断させましょう」と提案する。陸遜伝では、陸遜が作戦を発案して、むしろ呂蒙は慎重論で反対する。列伝の主人公に花を持たせてある。実際はいかに。


蒙至都、權問「誰可代卿者」蒙對曰「陸遜、意思深長、才堪負重、觀其規慮、終可大任。而未有遠名、非羽所忌、無復是過。若用之、當令外自韜隱、內察形便。然後可克」權乃召遜、拜偏將車右部督、代蒙。

呂蒙が都に至ると、孫権「誰がきみに代わるか」、呂蒙「陸遜です。意思は深長、才は重責に堪え、かれの規慮を観るに、大任ができる。そのわりに遠くに名が聞こえず、関羽に忌まれ(警戒されて)いないから、陸遜がベスト。もし陸遜を用いれば、外は自ら韜隠し、内に形便を察し、必ず勝てる」と。孫権は陸遜を召し、偏將車・右部督を拝し、呂蒙に代えた。

ぼくは思う。陸遜を、曹操・劉備との戦いに使わなかったことが功を奏した。孫権の忠実な部下として、富国強兵だけをやってきた。このタイミングで、秘蔵の陸遜を出せた(というか、出すべき秘蔵の人物がいた)のが、孫権を雄飛させた。
陸遜のことを知らなかったのが、関羽のオチドではある。しかし、敵国の内部にいる、あまり国境の紛争とは関わらなさそうな官員の名まで抑えておくのは、むずかしい。関羽というより、その参謀の仕事だった。


関羽を油断させて捕らえる

遜、至陸口、書與羽曰「前承、觀釁而動、以律行師、小舉大克、一何巍巍。敵國敗績、利在同盟、聞慶拊節。想、遂席卷、共獎王綱。近、以不敏、受任來西。延慕光塵、思稟良規」又曰「于禁等見獲、遐邇欣歎。以爲、將軍之勳足以長世。雖昔晉文城濮之師、淮陰拔趙之略、蔑以尚茲。聞、徐晃等、少騎駐旌、闚望麾葆。操、猾虜也、忿不思難、恐潛增衆、以逞其心。雖云師老、猶有驍悍。且、戰捷之後、常苦輕敵、古人杖術、軍勝彌警。願將軍、廣爲方計、以全獨克。僕、書生疏遲、忝所不堪、喜鄰威德、樂自傾盡。雖未合策、猶可懷也。儻明注仰、有以察之」

陸遜は陸口に至り、関羽に書をおくる。

陸口は、孫権伝 建安十五年にある。

「関羽は(魏の)隙をみて動き、律を以て師を行ひ、小兵で大勝をあげた。魏の敗北は、蜀の同盟国である呉の慶びでもある。魏を席巻し、ともに王綱を奨めましょう。私は敏くないが、任を受けて西にきた。光塵を延慕し、良規を思稟せん」と。

これが呂蒙のいう「外は自ら韜隠」である。

また陸遜はいう。「于禁を捕獲され、遠近は欣歓しています。関羽将軍のすごさは、晋文公の城濮の師、淮陰侯(韓信)の抜趙の略と同じ。

晋文公は『左伝』僖公二十八年。韓信は『史記』淮陰侯列伝。 韓信は張耳とともに東下して、井陘で趙を撃つ。漢の赤い幟をもって間道をすすむと、趙軍を見つけた。韓信「趙軍は、私が逃げるのを見たら、必ず自城をカラにして追ってくる。(回りこんで)趙の城に入って、趙の幟をぬき、漢の赤い幟を立てよ」と。
ぼくは思う。これら故事と、関羽の作戦が似ているのではない。ただ「関羽サマ、すごいっす。尊敬してます」と伝えるため、輝かしい故事を並べているだけだろう。

徐晃の増援がきたと聞いた。猾虜の曹操は、さらに兵を増やすかも。曹操軍は老いているが、まだ強い。勝っても敵を軽んじるなと、古人は戒めている。将軍は油断せず、勝利を完全なものに。

関羽の油断を誘っているのが陸遜だというのが、ほんとうに巧妙。「盗聴器の調査をします」と、親切ごかして部屋に入ってきて、盗聴器を仕掛けて帰るみたいな。

私は書生で(軍事には)疏遅なので、任務に堪えないが、隣に威徳ある関羽がいることを喜び、全面的に頼りたい」

ぼくは思う。陸遜の「書生」の自称は『呉志』陸遜伝にある。『三国演義』も『吉川三国志』も陸遜を「書生」という。日本語だと、明治の居候=就職しない文学青年のイメージ。でも陸遜伝で、陸遜は官歴が長く、平定戦も多い。「曹操・劉備レベルの強敵とは戦ったことがない、儒学の徒=教養人」のニュアンスか。儒学を修めただけで、軍事に疎いので、すべて関羽サマのご指示のとおりに、という意味だろう。


羽、覽遜書、有謙下自託之意、意大安、無復所嫌。遜、具啓形狀、陳其可禽之要。權、乃潛軍而上、使遜與呂蒙爲前部。至、卽克公安、南郡。遜、徑進、領宜都太守、拜撫邊將軍、封華亭侯。

関羽は陸遜の文書をみて、陸遜が謙下し、「荊州のことは関羽に託す」というから、安心して、陸遜を嫌わず(警戒を解いた)。

胡三省はいう。果たして呂蒙の計に堕ちたのである。

陸遜は、つぶさに状況を報告し、孫権に関羽を捕らえる方法を連絡した。孫権はひそかに軍をのぼらせ、陸遜・呂蒙を前部とした。公安・南郡をやぶる。陸遜は道を進みながら、宜都太守を領し、

宜都は『蜀志』先主伝 章武元年にある。
趙一清はいう。『宋書』州郡志によると、宜都郡は呉が南郡を分けて立てたと。張勃『呉録』は劉備が立てたという。『呉志』呂蒙伝をみると、呂蒙が南郡を平らげて江陵によった。陸遜は別れて宜都を取り、秭帰・枝江・夷道県を獲た。はじめ孫権は劉備に荊州を分与し、南郡は劉備に属した。このとき劉備は南郡を分けて、宜都を立てた。呉が立てたのでない。習鑿歯によると、曹操が荊州を平らぐと、南郡の枝江より以西を臨江郡とした。建安十五年、劉備が(曹操の臨江郡を、劉備の)宜都郡とした。趙一清が案ずるに、劉封伝で孟達は宜都太守となる。これである。

撫邊將軍を拝し、華亭侯に封ず。

撫邊将軍は、定員1名、呉がおく。
潘眉はいう。華亭は唐代に県となるが、呉では亭侯であった。『郡県志』に華亭谷は華亭県の西35里にあり、陸遜がここに奉じられたとある。
呉士鑑はいう。『太平御覧』百七十は『輿地志』をひき、陸機が華亭について言う。
敦煌石室残本『修文殿御覧』にひく『晋八王故事』によると、陸機が成都王(司馬穎)に誅されるとき、左右を顧みて歎じた。「今日、華亭の鶴のこえを聞きたかった」と。華亭は呉の由拳県の郊外の野で、清泉・茂林があった。呉が平定されると、陸機の兄弟はここで遊んだと。
『元和郡県国志』二十五に、華亭谷があり、華亭県の西35里である。陸遜・陸抗の宅がそばにある。陸遜が封ぜられ、陸機が鶴を聞いたのはここである。
『世説』尤悔篇にひく『語林』に、陸機が河北都督となると、警角の音をきき、孫丞に「華亭の鶴のこえのほうがいいなあ」という。


備宜都太守樊友、委郡走、諸城長吏及蠻夷君長、皆降。遜、請金銀銅印、以假授初附。是歲、建安二十四年十一月也。

劉備の宜都太守の樊友は、郡をすてて走げた。諸城の長吏および蛮夷の君長は、みな降る。

関羽は「蛮夷の君長」の統治もやっていた。ご苦労さまでした。

陸遜は、金・銀・銅の印を(孫権に)請い、假授して新たに附した。この歳は、建安二十四年の十一月である。

荊州を平定する

遜、遣將軍李異、謝旌等、將三千人、攻蜀將詹晏、陳鳳。異、將水軍。旌、將步兵。斷絕險要、卽破晏等、生降得鳳。又、攻房陵太守鄧輔、南鄉太守郭睦、大破之。

陸遜は、将軍の李異・謝旌らに3千人をつけ、蜀將の詹晏・陳鳳を攻めさせた。

胡三省はいう。「詹」は姓である。周に詹父がおり、楚に詹尹がいる。

李異は水軍を、謝旌は歩兵をひきいる。険要を断絶し、詹晏らを破り、陳鳳を生け捕った。また、房陵太守の鄧輔・

房陵郡は、『魏志』文帝紀 延康元年の新城の注釈にある。
「新城」太守の「孟達」に関する正史類を収集
呉増僅はいう。房陵県は、漢代は漢中郡に属する。『華陽国志』『元和志』は、いずれも漢末に郡となるという。
『通鑑』はいう。劉備が孟達を派遣して房陵を攻め、太守の蒯祺を滅ぼしたと。胡注に、この郡は劉表が置いて、蒯祺が太守だったのだろうか、とする。いま考ふるに、劉表は「荊州八郡」に拠ったが、房陵はない。建安二十年、張魯が来降したとき、曹操が置いたのだろうか。黄初元年に至り、房陵郡は新城に合わされた。
ぼくは思う。文脈からすると、陸遜が攻めた鄧輔とは、蜀が設置した太守か。蜀将の孟達が魏から奪い、その地に鄧輔を置いたところ、すぐに陸遜にやられた。

南郷太守の郭睦をおおいに破った。

南郷は、『魏志』鍾繇伝の注釈および『蜀志』呂乂伝にある。
盧弼はいう。陸遜伝は、房陵太守・南郷太守を破る。どちらも蜀が置いたもの。陸遜が宜都太守となるが、これは劉備の宜都太守の樊友がにげたから。房陵・南郷も、劉備がおいた太守がいた。曹氏が置いたのではない。『通鑑』建安二十四年、荊州刺史の胡脩・南郷太守の傅方は、どちらも関羽に降る。これは建安二十五年以前に、南郷郡があった証拠。胡脩・傅方は『晋書』文帝紀にみえる。
ぼくは思う。諸説が3455pで入り乱れているが、盧弼の結論だけ抜き書きした。


秭歸大姓文布、鄧凱等、合夷兵數千人、首尾西方。遜、復部旌、討破布凱。布凱脫走、蜀、以爲將。遜、令人誘之。布、帥衆還降。前後、斬獲招納、凡數萬計。權、以遜爲右護軍、鎭西將軍、進封婁侯。

秭歸の大姓の文布・鄧凱らは、夷兵の数千人をあわせ、西の劉備についた。陸遜は、謝旌を部し、文布・鄧凱を討った。文布・鄧凱は脱走し、蜀で将となった。

こういう細部の「後始末」がおもしろい。関羽が死んだら、それで終わりではない。夷陵の戦いに向けた伏線になる。
秭帰までこれば、となりは巫県・公安である。益州に迫る。行けるところまで攻め取るようだ。益州が近いから、文布は、蜀と呉を往復してフラフラするわけで。

陸遜は人をやって、文布・鄧凱を誘う。文布は、衆をひきいて(荊州に)還って降った。前後して斬獲・招納は、数万を数えた。孫権は陸遜を、右護軍・鎮西将軍とし、婁侯に進めた。

婁県は、張昭伝にみえる。


吳書曰。權嘉遜功德、欲殊顯之、雖爲上將軍列侯、猶欲令歷本州舉命、乃使揚州牧呂範就辟別駕從事、舉茂才。

『呉書』はいう。孫権は、陸遜の功徳を嘉し、特別に顕彰したい。(とっくに)上将軍・列侯であるが(由緒ある仕官ルートである)本州の挙命を歴させるため、揚州牧の呂範に陸遜を辟して別駕從事とし、茂才に挙げさせた。



時、荊州士人新還、仕進、或未得所。遜上疏曰「昔、漢高受命、招延英異。光武中興、羣俊畢至、苟可以熙隆道教者、未必遠近。今、荊州始定、人物未達。臣愚慺慺乞、普加覆載、抽拔之恩、令並獲自進。然後、四海延頸、思歸大化」權敬納其言。

ときに荊州の士人は、呉の領土に入ったばかりで、仕官・昇進が適切でない。

ぼくは思う。支配領域が複数の州になって初めて、こういう「出身地による有利・不利」が生じる。揚州は呉のプロパーで、荊州を「敗戦国・被征服地」として扱うなら、荊州のひとは、まことに面白くない。劉備が恋しくなる。

陸遜は上疏した。「むかし漢高祖が受命すると、英異を招延した。光武帝が中興すると、羣俊は畢至し、道教を熙隆できる人材は、遠近にこだわらず登用した。荊州を平定したばかりで、人材の登用がまだである。彼らを登用しなさい」と。孫権はそうした。160617

荊州名士の代表格(まるで「荊州の司馬懿」)の潘濬を、孫権が招くのはこのときか。『江表伝』にある、ベッドごと潘濬を担ぎ出して、孫権が説得するのはフィクションだとしても、平定の直後、荊州の人材を集めたのは本当だろう。うまい。
『呉志』巻十六:関羽を棄てた荊州名士:潘濬伝

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陸遜:夷陵で劉備をやぶる

劉備が平野に布陣する

黃武元年、劉備率大衆來向西界。權命遜、爲大都督、假節、督朱然、潘璋、宋謙、韓當、徐盛、鮮于丹、孫桓等、五萬人、拒之。
備、從巫峽、建平、連圍至夷陵界、立數十屯、以金錦爵賞、誘動諸夷。使將軍馮習、爲大督。張南、爲前部。輔匡、趙融、廖淳、傅肜等、各爲別督。先遣吳班、將數千人、於平地立營、欲以挑戰。諸將皆欲擊之、遜曰「此、必有譎。且觀之」

黄武元年(222) 劉備は大軍をひきい西界に向かう。孫権は陸遜に命じて大都督・假節とし、

胡三省はいう。孫権は呂蒙を大督に命じて、関羽を捕らえた。いまふたたび陸遜を大都督として、劉備を拒がせる。大都督の号は、ここに始まったか。

陸遜は、朱然・潘璋・宋謙・韓當・徐盛・鮮于丹・孫桓ら、5万を督す。
劉備は、巫峽・建平から、囲を連ねて夷陵の界に至り、数十屯を立てた。

『通鑑』では劉備は「営を連ね」る。建平は孫休伝 永安三年、孫晧伝 天紀四年にひく『晋紀』にみえる。
胡三省はいう。『水経注』によれば、巫峡は首尾160里ある。巫県は建平郡に属し、巫峡は建平の郡境である。夷陵に至るとは、つまり宜都の郡界まで続く。孫休は永安三年、宜都を分けて建平郡を置いた。このとき「建平郡」はない。追書である。

金錦・爵賞により、諸夷を誘動す。将軍の馮習を大督とし、張南を前部とした。輔匡・趙融・廖淳・傅肜らは、おのおの別督とする。さきに呉班に数千をつけ、平地に営を立て、戦いを挑む。

ぼくが知らないだけで、馮習・張南は、一線級の武将なんだろうか。夷陵の敗戦をまねき、『季漢輔臣賛』のボロクソ書かれた。ゆえに、列伝の情報まで、抹殺されたように見える。

呉の諸将はこれを撃ちたいが、陸遜「これは必ず譎あり。観てろ」

ぼくは思う。この「観てろ」は、つぎの裴注『呉書』を、陳寿が抜粋・要約したものか。


『呉書』曰。諸將並欲迎擊備、遜以爲不可、曰「備舉軍東下、銳氣始盛、且乘高守險、難可卒攻、攻之縱下、猶難盡克、若有不利、損我大勢、非小故也。今但且獎厲將士、廣施方略、以觀其變。若此閒是平原曠野、當恐有顛沛交馳之憂、今緣山行軍、勢不得展、自當罷於木石之閒、徐制其弊耳。」諸將不解、以爲遜畏之、各懷憤恨。

『呉書』はいう。諸将は劉備を迎撃したいが、陸遜が許さず。「劉備は軍を挙げて東下し、鋭気は盛んで、高に乗り険を守り、にかわに攻めがたい。勝ちがたく、もし勝てねば自軍の多数を損なう。いまは將士を獎励し、広く方略を施し、以てその変を観るべし。ここの(いま蜀軍がいる)ような平原・曠野で戦えば(蜀軍は?)顛沛・交馳の憂がある。(蜀が大敗のリスクを嫌って?)山に縁って行軍すれば、軍勢を展開できず、木石の間で疲弊する。じっくり蜀軍が(平原から山地に移って)疲弊するのを待ってから、制圧しよう」と。

胡三省はいう。原文「罷」は疲れるの意味。

諸将は納得せず「陸遜が劉備を畏れた」と、憤恨を懐いた。

劉備が山地に移る

備、知其計不可、乃引伏兵八千、從谷中出。遜曰「所以不聽諸君擊班者、揣之必有巧故也」遜上疏曰「夷陵、要害、國之關限。雖爲易得、亦復易失。失之、非徒損一郡之地、荊州可憂。今日爭之、當令必諧。備、干天常、不守窟穴而敢自送。臣、雖不材、憑奉威靈、以順討逆、破壞在近。尋備前後行軍、多敗少成。推此論之、不足爲戚。臣初嫌之水陸俱進、今反舍船就步、處處結營。察其布置、必無他變。伏願、至尊高枕、不以爲念也」

劉備は(呉班を平地において呉軍を誘う)計がヒットしないので、(役に立たなかった)伏兵8千をひきい、谷中から出た。
陸遜「諸君に呉班への攻撃を許さなかったのは、この計略(伏兵8千)があると思ったからだ」と。陸遜は上疏した。「夷陵は要害で、国の関限だ。

胡三省はいう。三峡より夷陵に下ると、山が連なる。長江は流れが激しく、西陵峡口を過ぎて流れが緩やかに。夷陵は三峡への入口であり、ゆえに呉の関限なのだ。
Wikipedia「三峡」より:重慶市奉節県の白帝城から湖北省宜昌市の南津関までの193kmの間に、上流から瞿塘峡(8km)・巫峡(45km)・西陵峡(66km)が連続する。ダム建設前の三峡は長江の水運の難所であり、夏の増水時には水位が上がり航行には危険が伴った。

得やすいが失いやすい。失えば、1郡を失うだけでなく、荊州があぶない。今日の争いで、必ず確保すべき。劉備は天常をおかし、窟穴を守らず(巴蜀に逼塞せず)敢えて自ら出てきた。私は不才だが、順を以て逆を討つ。

ぼくは思う。「討逆」将軍といえば、陸遜の妻の父・孫策のこと。諸将に侮られて孤立した陸遜は、孫権の命令だけでなく、孫策の霊威まで身にまとって、劉備を撃破しようとした。ちくま訳は「正義をかかがえて逆賊を伐つ」とあり、意味はよく分かるのだが、原文の文字が吹っ飛んで消えてしまった。

劉備の前後の行軍(戦績)は、敗は多く成は少なし(負け越してる)。戚(いた)むに足らず。劉備が水陸で並進したら脅威であったが、いま船を捨てて歩き、各地に営を結ぶ。

ぼくは思う。「劉備は敗戦が多いし」とは、今日の劉備論だけでなく、同時代でも言われていた。おもしろい。
なぜ劉備は、陸遜が恐れたように、水陸で並進しないのか。「船がない」ではなさそう。船から降りてるから。「輸送はできても、戦闘できる船団がない」か。のちに王濬が孫晧を滅ぼすように、長江の上流から攻め下りるのは定石。
劉備は先に「呉班+伏兵」で誘ったけど、これを見るより前に、陸遜は「大船団で攻め下ってこなかった、安心した」という嘆息が、いち段階あったのだ。

その布置を察するに、必ず他変なし(予測不可能な戦術に変化しない)

銭振鍠はいう。劉備が長江の上流という位置を活かさず、歩兵を使ったのはなぜか。不利なとき、撤退できないからか。すると劉備は致死の軍でなく、死を畏れて進まなかったことになる。7-8ヶ月も留まったのだから、これは報仇雪恨の軍ではない。『孫子』のいう「縻軍」であって「忿兵」ではない。
ぼくは補う。『孫子』謀攻篇に「夫將者,國之輔也,輔周則國必強,輔隙則國必弱。故軍之所以患于君者三:不知三軍之不可以進,而謂之進;不知三軍之不可以退,而謂之退;是謂縻軍。不知三軍之事,而同三軍之政,則軍士惑矣。不知三軍之權,而同三軍之任,則軍士疑矣。三軍既惑且疑,則諸侯之難至矣,是謂亂軍引勝」とある。
ぼくは思う。劉備が上流から下流を攻め、撤退しにくかったのは、敗北の結果であって、敗北の原因ではない。「撤退できない、戦いを挑むべきでない」と言うなら、立論としてムチャである。 行軍にとってマズイのは、進むべきでないと知らずに進めといい、退くべきでないと知らずに退けということ。これを縻軍(束縛・消耗した軍)という。

孫権は、枕を高くして待ってね」と。

ぼくは思う。劉備が水軍でなく歩兵を主体としたのは、劉備の経験・蜀軍の編成に理由があって、平等・自由にふたつを選べたわけではないだろう。
@Jominian さんはいう。水軍を率いたのは呉班と陳式(先主伝)。呉班は陸上で囮を行う(陸遜伝)。なぜか。北の人間である劉備と、南の人間である陸遜の戦略文化の違いが理由であろう。北の人間である劉備にとって、河川は、作戦線に沿えば良好な交通線に、横切れば障害になる地形、という認識しかなかったと思われる。水上で勝敗を決するなどという考えは端から無かった。劉備にとって河川は交通線であり、船は戦力を輸送する手段でしかない。平地まで出てくれば、軍を陸に上げ、陸上にて勝敗決しようと考えるのは自然なことである。


諸將並曰「攻備、當在初。今乃、令入五六百里、相銜持經七八月、其諸要害皆以固守。擊之必無利矣」遜曰「備、是猾虜、更嘗事多、其軍始集、思慮精專、未可干也。今住已久、不得我便、兵疲意沮、計不復生。犄角此寇、正在今日」乃先攻一營、不利。諸將皆曰「空殺兵耳」遜曰「吾已曉破之之術」

諸将は「劉備を攻めるなら、最初がよかった。いま、5-6百里も入らせ、7-8ヶ月もたつ。要害は固守され、攻撃しても利なし」と。陸遜「劉備は猾虜であり、しかも経験がおおい。

陸遜は関羽への手紙で、「曹操は猾虜(ずる賢いクソ野郎)」といい、陸遜は夷陵で呉将に「劉備は猾虜(ずる賢いクソ野郎)」という。次世代の陸遜にかかると、曹操も劉備も、猾虜(ずる賢いクソ野郎)となる。

劉備軍が荊州にきた直後、思慮が精専で、手出しできず。いま久しく留まり、兵は疲れ意は沮し、もう計略を使えない。蜀軍を捕らえるには、今でしょ」と。

陸遜は「計 復た生ぜず」といい、戦機を見出す。つまり、劉備の計略にかかることを、ずっと陸遜は恐れていた。「劉備は負け越しだ」は強がりであり、実際には、めちゃくちゃ経験豊富な劉備のことを、心底、恐れていたようだ。
諸将は「陸遜が劉備を畏れる」と不満をいい、陸遜は状況を理屈っぽく説くんだけど、実態は、やっぱり陸遜が劉備を畏れていただけという。結果的に陸遜が勝ったから、陸遜の理屈が史書に残って、その理屈によって勝った、という歴史叙述ができるが、それはミスリードである。
劉備にしてみれば、「ここまで陸遜が、徹底的に自分を畏れるなんて、想定してなかった」となる。名誉なことかも知れないが、計算が違った。「書生」陸遜にしてみれば、兵略で劉備を圧倒することが勝利条件ではなく(そもそも圧倒できない)、三峡から蜀軍を出さないことが勝利条件である。
陸遜は、「劉備と一戦してやろう」という諸将とは、そりゃあ対立する。

先に一営を攻めたが、勝てず。諸将「むなしく兵を殺しただけじゃん」、陸遜「蜀軍を破る方法がわかったぞ」

文章の流れからすると、陸遜は、火計を思いついたように見える。しかし正確には「火計のような凡手を使っても通用するほど、蜀軍がダラけており、劉備は計略を使えない」と気づいたのではないか。蜀軍のだらけぶりが、発見なのだ。


火攻から、攻撃に転ずる

乃、敕各持一把茅、以火攻拔之。一爾勢成、通率諸軍同時俱攻、斬張南、馮習、及胡王沙摩柯等首、破其四十餘營。備將杜路、劉寧等、窮逼請降。備、升馬鞍山、陳兵自繞。遜、督促諸軍四面蹙之、土崩瓦解、死者萬數。備、因夜遁、驛人自擔、燒鐃鎧斷後、僅得入白帝城。其舟船器械水步軍資、一時略盡、尸骸漂流、塞江而下。備、大慚恚、曰「吾乃爲遜所折辱、豈非天邪。」

一把の茅を持たせ、火攻で抜く。いちど形勢が傾くと、諸軍は同時に進み、

ぼくは思う。赤壁も夷陵も「火攻め史観」でイメージが歪んでる。 陸遜伝では、火攻は呉軍が攻撃に転じるキッカケ。夷陵は広範囲に劉備が陣を築いており、延焼が勝敗の主因にならないはず。陸遜の勝因は、1年弱の滞陣で、経験豊富な劉備の計略を出し尽くさせ、かつ、蜀軍が疲れて計略を実現できなくなるまで待ったこと。

張南・馮習・胡王の沙摩柯らの首を斬り、40余営を破った。

趙一清はいう。『方輿紀要』巻74によると、定筰は、廃県である。漢代は越嶲郡に属した。『華陽国志』はいう。摩沙は、夷の居るところ。「沙摩」は「摩沙」とすべきか。ぼくは思う。「沙摩柯」で人名じゃないのか。
李安渓はいう。呉ひとは火攻の1策しかない。銭振鍠はいう。劉備が山木で軍営をつくらず、土石で軍営を作っていれば、燃やされずにすんだのに。ぼくは思う。こういうのが「火攻め史観」であるw

劉備の将の杜路・劉寧らは、窮逼して降を請ふ。劉備は馬鞍山にのぼり、兵を陣いて自ら繞う。

『方輿紀要』巻78によると、馬鞍山は、夷陵州の西北20里。

陸遜は、諸軍に督促して四面から劉備を締めつけ、蜀軍は土崩・瓦解し、死者は万を数える。劉備は夜に遁げ、駅人は自ら(荷物を)担ぎ、鐃・鎧を焼いて後ろを断ち(追跡をかわし)

「鐃」とは、鈴であるが、舌がなく秉があるもの。『周礼』によると、金鐃を以て鼓を止め、軍中 用ふる所なり。

やっと白帝城に入れた。

白帝城は、『蜀志』先主伝 建安十七年にある。胡三省はいう。劉備は兵を連ねて夷陵の界に入り、沿路に駅を置いた。駅は白帝に達した。兵が敗れると、駅の伝達経路だけが機能して、逃げることができた。
『水経注』によると、劉備が鎧を焼いたのは「石門」という地であり、秭帰県の西である。杜佑はいう。帰州の巴東県に石門山があり、劉備が道を断ったところ。
趙一清はいう。『江表伝』によると、劉備は船をすてて歩いてにげ、皮鎧を焼いて道を断ち、兵に錦を車で挽かせ(運ばせて)白帝ににげこむ。

舟船・器械、水軍・歩兵の軍資は、すべて放棄した。尸骸は漂流し、江を塞いで下る。劉備はおおいに慚恚し、「陸遜に折辱された。豈に天にあらざるや」

胡三省はいう。ダラケたところを敵に乗じられた。天命じゃないよ。


公族・旧将が、陸遜に反発する

初、孫桓、別討備前鋒、於夷道、爲備所圍、求救於遜。遜曰「未可」諸將曰「孫安東、公族、見圍已困。奈何不救」遜曰「安東、得士衆心。城牢糧足、無可憂也。待吾計展、欲不救安東、安東自解」及方略大施、備果奔潰。桓、後見遜曰「前、實怨不見救。定至今日、乃知調度、自有方耳。」

孫桓は、別れて劉備の前鋒を討つが、夷道で劉備に囲まれた。

宜都の郡治は夷道である。『蜀志』先主伝 章武二年をみよ。

孫桓が陸遜に救いを求めた。陸遜「まだダメ」と。諸将「孫安東は公族であり、囲まれてピンチだ。なぜ救わない」

孫桓は安東中郎将である。孫桓は、孫河の子である。孫河のもとの姓は「兪」である。孫策が愛して、公族にした。

陸遜「孫安東は、士衆の心を得ている。城は牢で糧は足る。心配ない。私が計略を実行すれば、孫桓を救わずとも、包囲は解ける」と。方略が大いに施され(陸遜が総攻撃をかけ)劉備は、奔潰した。孫桓はのちに陸遜に会い、「前は救ってくれないから怨んだ。劉備に勝った今日となっては、陸遜の考えを知ったよ」と。

ぼくは思う。陸遜は、孫桓を「尊い犠牲」にするつもりだった。助かったとしても、それは幸運である。まあ孫桓も、それを分かっていただろう。むしろ読解すべきは、「公族」が特別扱いされていた点。もしも諸将が、陸遜への反発ネタを探して、むりに捻り出した理由にしろ、そういう捻り出し方ができる時点で、特別扱いがされている。


當禦備時、諸將軍、或是孫策時舊將、或公室貴戚、各自矜恃、不相聽從。遜、案劍曰「劉備、天下知名、曹操所憚。今在境界、此彊對也。諸君、並荷國恩、當相輯睦、共翦此虜、上報所受。而不相順、非所謂也。僕、雖書生、受命主上。國家、所以屈諸君、使相承望者、以僕有尺寸可稱、能忍辱負重故也。各在其事、豈復得辭。軍令有常、不可犯矣」及至破備、計多出遜、諸將乃服。

劉備を禦ぐとき、将軍たちは、孫策期からの旧将や、公室・貴戚であり、みな自ら矜恃し、陸遜に聴従しない。陸遜は剣を案じて、「劉備は、天下に名を知られ、曹操に憚られた。いま境界におり、強敵である。

胡三省はいう。「強対」とは「強敵」のこと。
ぼくは思う。陸遜の勝因は、劉備の怖さを徹底的に知り抜いたこと。きちんと怖がり、諸将の反対を押し切って、臆病な戦術を徹底した。「関羽は強いがワキが甘い、劉備はとことん強い」、この人物評価は、ぴたりと当たっている。「劉備よりも関羽のほうが、人物として高級」という気もするが、こと軍事に関しての陸遜の評価は、劉備が上。蜀の荊州政策(天下統一の道)は、陸遜の眼識によって、2回も阻まれた。

諸君は、国恩を荷い、輯睦しあって劉備をくじき、孫氏に報いるべき。対立するな。私は書生だが、主上に命を受けた。

陸遜が関羽を破るとき「私は書生で」と油断を誘った。いま諸将に説くとき「私は書生だが」と、同じ前提を持ち出す。陸遜は、自分の立場を客観的に査定でき、それに沿った動きができる。すげー優秀じゃん。いいのか、これ。
ぼくは思う。孫呉は、外圧によって国家・組織として成熟する。赤壁・合肥しかり。「孫策に従軍した、荒くれ者の集団」を、「君命を受けた、たかが書生」が制御する。年齢や腕力ではなく、制度が、上下関係を決める。夷陵の戦いによって、孫呉はやっと国になった(曹丕から呉王に封じられて国になったのではない)。陸遜は、まさに「国が誕生するための陣痛」を請け負って、ひとりで経験しているのである。

国家(孫権)が諸君を屈せしめた(私の統制下に入れた)理由は、私に尺寸の才覚があり、辱を忍び重を負えると見たからだ。ゆえに(諸君は)私の命令は断れない。軍令は常あり、犯すな」と。劉備を破った計略は、多くは陸遜が出したもので、諸将は服した。

權聞之、曰「君、何以初不啓、諸將違節度者邪」遜對曰「受恩深重、任過其才。又此諸將、或任腹心、或堪爪牙、或是功臣、皆國家所當與共克定大事者。臣、雖駑懦、竊慕相如寇恂相下之義、以濟國事」權、大笑稱善、加拜遜輔國將軍、領荊州牧、卽改封江陵侯。

孫権は(戦勝後に)これを聞き、「陸遜はなぜ、諸将の節度を違えたものを、私に報告しなかったか(処罰したのに)」と。陸遜「恩を深重に受け、任はわが才を過ぐ。また諸将は、腹心を任じ、爪牙に堪へ、功臣である。みな孫権とともにの大事を克定すべきもの(処罰してはならない)。私は駑懦であるが、蘭相如・寇恂のように(諸将との関係を調整して)国を救いました」と。

『史記』廉頗・藺相如列伝、『范書』寇恂伝をみよ。

孫権は大笑して善とし、加えて輔國將軍を拝し、

『晋書』職官志によると、輔国大将軍は、位は三公に従ぎ、この将軍号は献帝期の伏完にはじまる。ただし伏完は「輔国将軍」であり「大」がつかない。

荊州牧を領せしめ、江陵侯に改封した。

劉備の死、呉蜀が同盟する

又備、既住白帝。徐盛、潘璋、宋謙等、各競表言備、必可禽、乞復攻之。權、以問遜。遜、與朱然駱統以爲、曹丕大合士衆、外託助國討備、內實有姦心、謹決計、輒還。無幾、魏軍果出、三方受敵也。

劉備は白帝にとどまる。徐盛・潘璋・宋謙らは、競って「劉備を禽えられる。攻めよう」と表した。

ぼくは思う。宋謙は、合肥で張遼に襲われたとき、徐盛とともに行動していた。これは、列伝のない重要人物なのでは。検索して「宋謙伝」を作らねば。

孫権は陸遜に問う。陸遜・朱然・駱統は、「曹丕が士衆を集めている。外は呉を助け、劉備を討つといいつつ、じつは姦心があり(呉を攻める予定で)劉備とケリがついたら、呉に還るべき。すぐにも魏軍が出てきたら、三方に敵を受けます」

胡三省はいう。曹操は関羽を追わず、陸遜は劉備を再び攻めず、両者は同じこと。智を以て智に遇す(智者同士が並立する)から、三国は鼎立したのだろうか。
何焯はいう。勝って調子に乗って攻め、もし負けたら、さきの勝ちまで台なし。劉備は老いたが、蜀は固い。曹仁が南郡を保てず(周瑜に敗れて)逃げたのとは違う。徐盛・潘璋・宋謙は、イノシシなみ。


吳錄曰。劉備聞魏軍大出、書與遜云「賊今已在江陵、吾將復東、將軍謂其能然不?」遜答曰「但恐軍新破、創痍未復、始求通親、且當自補、未暇窮兵耳。若不惟算、欲復以傾覆之餘、遠送以來者、無所逃命。」

『呉録』はいう。劉備は魏の大軍が出たと聞き、陸遜に文書をおくる。「賊は、すでに江陵にいる。私は(魏軍と戦うために)また東にゆこう。将軍は同意できるか」

『通鑑』は「江漢」とする。ぼくは思う。司馬光は、さすがに江陵に魏軍が来るのは、早すぎて、劉備が単なるホラ吹きの脅迫となる。だから、江水・漢水のあたりにして、真実味をプラスした。しかし、文帝紀・朱治伝によると、曹真・夏侯尚・張郃は、江陵を包囲した。司馬光は、よけいな訂正をした。

陸遜「劉備軍がキズだらけ。呉蜀同盟は、成ったばかり。劉備軍を休ませるべきでしょ。もしキズついた軍で遠征したら、全滅するよ」

陸遜は、思いやるふりをして、劉備を牽制している。劉備が東に出てくることは、魏を防ぐことをタテマエに、呉を再び侵略すること同義。「鼎立」エピソード、いいですね。


備、尋病亡、子禪襲位。諸葛亮秉政、與權連和。時事所宜、權輒令遜、語亮。幷刻權印、以置遜所。權、每與禪亮書、常過示遜、輕重可否、有所不安、便令改定、以印封行之。

劉備が病死し、劉禅がつぐ。諸葛亮が秉政し、孫権と連和す。時事の宜とする所(呉蜀の関係構築)を、孫権は陸遜から諸葛亮に語らせた。孫権は「印」を刻み、陸遜にわたす。孫権が劉禅・諸葛亮に文書を送るとき、つねに陸遜に見せて内容を確認・改定させ、陸遜が(孫権の名義で)印で封をして送る。160617

胡三省はいう。『釈名』によれば「印」とは信のこと。ものを(印で)封じて、験(本物の証明)とした。派生して、ものを封じて送ることをいう。
ぼくは思う。陸遜は、関羽に侮られ、自軍の将軍にも侮られた。呂蒙に代わり、蜀との戦いで功績を立てたことで、名を顕した。その陸遜が、蜀との関係を一任され、この方面では、孫権と同等の権力を与えられた。これは、陸遜の家柄というより、蜀の人物を見抜く目を、買われたからだろう。
陸遜は水面下で、蜀と有力なパイプを持っていたのではないか。
陸遜は、一貫して孫権のために働いてきた。劉備との戦争・外交で、一歩もひかない。「呉を裏切って、蜀に利益を与える」ことは、ないでしょう。しかし、そういう疑いがかかっても不思議ではない立場。気をつけてね。

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