-後漢 > 『後漢書』と『三国志』のあいだのズレ検証

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劉和や公孫越のあたりで何が起こったか

劉虞の子である劉和。公孫瓚の従弟である公孫越。
彼らのあたりで、なにが起こったのか、史料が混乱しているような気がするから、整理してみます。袁術の意思?のようなものも、史料のなかで推測されていて(史家の臆断は、史実を知る根拠にならない)、ちょっと困った話なのです。

『資治通鑑』より

初平二年末に、記事がある。

劉虞子和為侍中,帝思東歸,使和偽逃董卓,潛出武關詣虞,令將兵來迎。和至南陽,袁術利虞為援,留和不遣,許兵至俱西,令和為書與虞。虞得書,遣數千騎詣和。

劉虞の子の劉和は(長安で)侍中となった。皇帝は、東帰(洛陽に帰還)したい。皇帝は、劉和に、(長安から出てゆく理由を)いつわって董卓から逃げさせ、ひそかに武関をでて、(幽州の)劉虞のところにゆき、兵をひきいて(皇帝を)迎えさせ(ようとし)た。劉和が南陽にいたると、袁術は、劉虞を利して(劉虞を)たすけることにした。(袁術は)劉和を留めて遣わさず、(劉虞の)兵が至れば、ともに西にすすむ(長安から皇帝を迎える)ことを許した。(袁術は)劉和に文書を書かせ、(南陽から)劉虞に送った。劉虞は(劉和の)文書を得て、数千騎をつかわし、劉和のもとにゆかせた。

公孫瓚知術有異志,止之,虞不聽。瓚恐術聞而怨之,亦遣其從弟越將千騎詣術。而陰教術執和,奪其兵,由是虞、瓚有隙。和逃術來北,復為袁紹所留。

公孫瓚は、袁術に「異志」があるのを知り、(劉虞が数千騎を送ることを)とどめた。劉虞は(公孫瓚による制止を)ゆるさなかった。

ここだけ読んでも、袁術がなにを企んでいるのか、分からないわけです。「異志」というのは、「袁術は、劉虞に協力するふりをしているが、べつの意図があるのです」ということだろうが、やはり内容は不明。なにかを付け足せば、妄想になる。毛宗崗本。

公孫瓚は、袁術に(劉虞による派兵に反対したことを)聞かれて怨まれることを恐れた。また公孫瓚は、従弟の公孫越に千騎をひきいさせ、袁術のところに行かせた。しかも、ひそかに(公孫瓚は)袁術に劉和をとらえさせ、その(劉虞から送られた、劉和の)兵を(袁術に)奪わせた。

公孫瓚は、なにを考えているんだろう?
はじめ、袁術が劉虞の兵をあわせて、力を得ることを警戒した。しかし劉虞は、「他意のない袁術のなかに、あらぬ野心を見出す公孫瓚こそ、あらぬ野心を持っているのではないか。袁術は、皇帝を董卓から救いだそうとしるだけで、協力すべき勢力だ」といった。
これを受けて公孫瓚は、劉虞の部下として振る舞うことの限界を感じた。袁術を心変わりさせ、自分のほうに引き込もうとした。つまり、劉虞の兵を強奪し、劉和を捕らえ、長安の天子を無視するように、袁術に仕向けた。
のちに袁術が、アホな称帝をやるキッカケは、公孫瓚によって作られた。公孫瓚が、袁術をだまして、おかしな方向に仕向けなければ、袁術は後漢の忠臣だったのに……。
ということだろう。実態はどうあれ、他の史料はどうあれ、少なくとも『資治通鑑』の記述だけを読めば。

これにより、劉虞と公孫瓚は、関係が悪化した。劉和は、袁術のもとから逃げて、北にゆこうとした。こんどは(劉和は)袁紹によって留められた。

是時關東州郡、務相兼併以自強大,袁紹、袁術亦自相離貳。術遣孫堅擊董卓未返,紹以會稽周昂為豫州刺史,襲奪堅陽城。堅歎曰:「同舉義兵,將救社稷,逆賊垂破而各若此,吾當誰與戮力乎!」引兵擊昂,走之。

このとき関東の州郡の長官は、権限を兼ねあわせ、自らを強大とした。袁紹・袁術もまた、二つに分かれて対立した。
袁術は、孫堅をつかわせて董卓を撃ったが、まだ(孫堅は)帰らない。袁紹は、会稽の周昂を豫州刺史として、孫堅(が豫州刺史として本拠地とする)陽城を襲って奪った。孫堅は歎じて、「……」と。
孫堅は兵をひいて、周昂を撃ち、これを走らせた。

袁術遣公孫越助堅攻昂,越為流矢所中死。公孫瓚怒曰:「余弟死,禍起於紹。」遂出軍屯磐河,上疏數紹罪惡,進兵攻紹。冀州諸城多畔紹從瓚。紹懼,以所佩勃海太守印綬授瓚從弟范,遣之郡,而范遂背紹,領勃海兵以助瓚。瓚乃自署其將帥嚴綱為冀州刺史,田楷為青州刺史,單經為兗州刺史。又悉改置郡、縣守、令。

袁術は、公孫越をつかわし、孫堅を助けて(公孫越に)周昂を攻めさせた。公孫越は、流矢にあたって死んだ。公孫瓚は怒った。「わたしの弟が死んだ。禍いは袁紹のせいで起きた」と。ついに軍を出して、磐河に屯した。上疏して、袁紹の罪悪を数えあげ、兵を進めて袁紹を攻めた。冀州の諸城は、ほとんど袁紹にそむき、公孫瓚に従った……。

事実ベースだと、袁紹が、さきに周昂に豫州を襲わせて、ちょっかいをかけた。孫堅がかえってきて、豫州を守ろうとしたのは、1対1のふつうの反応。
この袁術のための戦いに、公孫越が参加した。袁術のところにいる、もと劉虞軍の騎兵とか、公孫越とかは、皇帝を救い出す戦いよりも、自勢力を拡大するための戦いに使われるようになった。これは、公孫瓚が仕向けたこと。
でも、公孫瓚に仕向けられなくても、袁紹が、孫堅の豫州を奪ってきたという時点で、皇帝をそっちのけの戦いが始まっていたわけで。袁術を、皇帝無視に仕向けたのが、先手の袁紹であり、袁術の内部で、袁術に道を誤らせた(皇帝無視に仕向けた)公孫瓚の手のもの。
なんか、「どっちが先に手を出して、世界情勢が狂ったか」という、近代の戦争の話にも通じるような気がする。
そして、公孫瓚が袁紹を攻めたことは、袁術に関係ないな。なんか、袁紹と公孫瓚という、自勢力の拡大に熱心な軍閥のせいで、劉虞や袁術という、皇帝のことを優先する「時代遅れの忠臣」が巻きこまれた感じ。劉虞や袁術が、皇帝を救うための元手として持っている土地を、かってに切りとっていくのだから、応戦するしかないと。後漢末の混乱は、公孫瓚と袁紹が張りあったことで、本格化するのだなー。
というのが、『資治通鑑』の記述から読めること。


『後漢書』劉虞伝の場合

二年,冀州刺史韓馥、勃海太守袁紹及 山東諸將議,以朝廷幼沖,逼於董卓,遠隔關塞,不知存否,以虞宗室長者,欲立為主。 乃遣故樂浪太守張岐等齎議,上虞尊號。虞見岐等,厲色叱之曰:「今天下崩亂,主上蒙 塵。吾被重恩,未能清雪國恥。諸君各據州郡,宜共勠力,盡心王室,而反造逆謀, 以相垢誤邪!」固拒之。

初平二年、冀州刺史の韓馥、勃海太守の袁紹らが、劉虞を天子にしようとした。もと楽浪太守の張岐らが、劉虞のところに話をもってきた。劉虞は、かたく拒んだ。

馥等又請虞領尚書事,承制封拜,復不聽。遂收斬使人。於是選 掾右北平田疇、從事鮮于銀蒙險閒行,奉使長安。獻帝既思東歸,見疇等大悅。
時虞子 和為侍中,因此遣和潛從武關出,告虞將兵來迎。道由南陽,後將軍袁術聞其狀,遂質和, 使報虞遣兵俱西。虞乃使數千騎就和奉迎天子,而術竟不遣之。

韓馥らが(劉虞に)領尚書事を請うから、ついに劉虞は使者を斬った。ここにおいて、田畴・鮮于銀は(劉虞の使者として)長安にいった。献帝は、東帰したいから、田畴らに会って、おおいに悦んだ。
ときに劉虞の子の劉和は(長安で)侍中である。これにより(田畴らが幽州から長安にきて、劉虞には皇帝に仕える意思があると伝えたから)ひそかに劉和を武関から出して、劉虞に(助けてくれと)告げ、兵をひきいて迎えさせたい。劉和は、南陽を通過したとき、後将軍の袁術が、その状(劉和が託された皇帝の意思)を聞いて、ついに劉和と盟約して、

原文「質和」。人質にする、盟約する、問い質す、判断をはかる、面と向かって答える、などの意味がある。つぎに、「ともに西す」とあるから、人質と読むことはできない。盟約する、という意味だと思う。「ちかひて」と訓読する。

(袁術が劉和から)劉虞に連絡させ、(劉虞に)兵をつかわして(袁術と)ともに西する(長安にむかう)ことにした。劉虞は、数千騎をつかわして、劉和に(数千騎をひきいさせ)天子を奉迎させようとした。しかし袁術は、ついに(兵を長安に)送らなかった。

おや?なんで?と、『後漢書』の読者が思ったところで、その解説がはじまる。『後漢書』劉虞伝の連続した記述より。


初,公孫瓚知術詐,固止虞遣兵,虞不從,瓚乃陰勸術執和,使奪其兵,自是與瓚仇怨益 深。和尋得逃術還北,復為袁紹所留。瓚既累為紹所敗,而猶攻之不已,虞患其黷武,且慮得志不可復制,固不許行,而稍節其稟假。瓚怒,屢違節度,又復侵犯百姓。

これより前、公孫瓚は、袁術にいつわりがあると知り、かたく劉虞の派兵に反対した。だが劉虞は従わない。公孫瓚はひそかに、袁術に「劉和をとらえろ」と勧め、(袁術に劉虞の)兵を奪わせた。これにより、公孫瓚と劉虞の仇怨は、ますます深まった。
しばらくして、劉和は袁術から逃げることができ、北に還ったが、袁紹に留められた。(劉和が袁紹に捕らわれたとき)公孫瓚は、すでに袁紹になんども敗れていたが、なおも袁紹を攻撃してやまなかった。劉虞は、公孫瓚の好戦性をうれいて、また(公孫瓚が袁紹を破って)志を得たら、制御できなくなることを心配して、(公孫瓚が袁紹を攻めることを)かたく禁じた。公孫瓚は怒って、劉虞の命令をきかなくなり、百姓を侵犯するようになった。

『後漢書』公孫瓚伝の場合

瓚既諫劉虞遣兵就袁術,而懼術知怨之,乃使從弟越將千餘騎詣術自結。術遣越隨其 將孫堅,擊袁紹將周昕,越為流矢所中死。瓚因此怒紹,遂出軍屯槃河,將以報紹。乃 上疏曰……遂舉兵攻紹,於是冀州諸城悉畔從瓚。

公孫瓚は、すでに劉虞に「袁術のところに兵を送るな」と諌めたので、袁術にこれ(諌めたこと)を知られて、怨まれることを懼れた。従弟の公孫越に、千余騎をひきいさせ、袁術のところにゆかせ、自ら(働きかけて)袁術と結ぶことにした。袁術は、公孫越を(袁術の)部将の孫堅にしたがわせて、袁紹の部将の周昕を撃たせた。公孫越は、流矢にあたって死んだ。公孫越は、これにより袁紹に怒り、ついに軍を出して、磐河に屯して、袁紹に報いようとした。

公孫瓚と袁紹の対立は、これがきっかけ。それまでは、きっと「幽州のトップは劉虞だが、どうも扱いづらいな」という、やんわりと共感をむすぶような関係だったのだろう。袁紹が、不覚を取って印綬を投げ出すのだが、理由は2つだろう。1つ、公孫瓚がつよい。2つ、公孫瓚に備えてなかった。公孫瓚が敵対するなんて、思いもしないから、たちまち苦戦したのだろう。
袁紹と劉表、袁術と公孫瓚、という遠交近攻の分かりやすい構図は、各勢力の成立から滅亡まで、基本的に維持されたと思いがち。しかし、ひょんなこと(公孫越の死など)で、たまたま一時的にできた形成に過ぎない。だから、劉表がいまいち袁紹に協力的でないことや、公孫瓚と袁術の具体的な連携が見えないことなど、怪しむことはない。むしろ、袁術と公孫瓚の連携なんて、このときが、最初で最後だったのでは?

公孫瓚は上疏して(袁紹の罪悪を数えあげた)。ついに兵を挙げて袁紹を攻め、ここにおいて冀州の諸城は、ことごとく袁紹にそむき、公孫瓚に従った。

『後漢書』袁術伝の場合

術從兄紹因堅討卓未反,遠,遣其將會稽周昕奪堅豫州。術怒,擊昕走之。紹議欲立 劉虞為帝,術好放縱,憚立長君,託以公義不肯同,積此釁隙遂成。乃各外交黨援,以相圖 謀,術結公孫瓚,而紹連劉表。豪桀多附於紹,術怒曰:「羣豎不吾從,而從吾家奴乎!」又 與公孫瓚書,云紹非袁氏子,紹聞大怒。

袁紹は、まだ孫堅が董卓を討ちにいって還らず、遠くにいるので、会稽の周昕に、孫堅の豫州を奪わせた。袁術は怒り、周昕を撃って走らせた。

周昕を撃ったのが、孫堅とか、公孫越とか、具体的に書いてない。まるで袁術が、みずから撃ったようだ。そして、公孫越がこの戦いで死んだことも書いてない。

袁紹は、劉虞を皇帝に立てようと議した。袁術は放縦をこのみ、年長の君主が立つのをはばかるから、公議に託して賛同しなかった。このことで、袁紹との対立が決定的となった。

ほかの史料では、劉虞が帝位をこばむ→劉虞が長安に使者をやる→劉和が長安から出てくる→袁紹の部将の周昕が豫州を攻める→公孫越が死ぬ→公孫瓚が袁紹を攻める→袁術と袁紹の対立が本格化、という話だった。公孫越の死がトリガーであって、天子をどうするかという議題で揉めたのではない。というか、袁紹は劉虞に即位を断られて、諦めている。献帝を廃さない、という大きな点において、袁紹と袁術のあいだに、この時点で見解の相違はない。
しかし『後漢書』袁術伝では、袁紹と袁紹の対立は、豫州をめぐる攻防ではなく、天子をどうするかという問題が、トリガーとされてる。これは、いたくない袁術の腹を探った結果、史料の編者もよく分からなくなってきた、原因と結果の取り違えというか、結果の遡及的な反映というか、とにかく誤りだろう。

それぞれ同盟者をもとめた。袁術は公孫瓚とむすび、袁紹は劉表とむすんだ。豪傑がおおく袁紹についたので、袁術は怒った。また袁術は、公孫瓚に文書をおくり、「袁紹は、袁氏の子じゃない」といった。袁紹も怒った。

劉表は唐突で、なんの脈絡がない。また、袁紹と袁術の対立が先にあって、公孫瓚が巻きこまれたような書きぶりだが、他の史料では、ちがう。袁紹と公孫瓚の戦いが先鋭化した結果、袁術は公孫瓚に味方するような声明を、ニーズにあわせて出したとみるべきだろう。トリガーは、公孫越を殺された公孫瓚が、狂ったように袁紹を攻めたこと。天子をめぐるヴィジョンの違いで、袁氏が兄弟げんかを始めたと、見ることはできない。かなり内面に立ち入って、史料を曲解しないと、そういう話にはならないから。
袁紹と劉表の同盟は、公孫瓚と袁術の同盟を受けて、さらに事後的に、結ばれたものだろう。そのわりに、劉表が、袁紹のニーズで動くことは、いちどもないのだし。


なお、『後漢書』袁紹伝には、劉虞の話はない。ただ、公孫瓚の軍事的な脅威について、書いてあるだけ。今回は、やらない。

『三国志』公孫瓚伝の場合

卓、遂劫帝西遷、徵虞爲太傅。道路隔塞、信命不得至。袁紹韓馥議。以爲少帝制於姦臣、天下無所歸心。虞、宗室知名、民之望也。遂推虞爲帝。遣使詣虞、虞終不肯受。紹等復勸虞、領尚書事承制封拜、虞又不聽。然猶與紹等、連和。

董卓は、皇帝をおどして西に遷都した。劉虞を(長安に)めして太傅にしたい。だが道路がふさがり、連絡を届けられない。袁紹と韓馥は、劉虞を皇帝に推した。劉虞が受けないので、領尚書事して、封拜を承制せよと勧めた。劉虞はこれも受けない。だがなお、劉虞は袁紹らと連和した。

『後漢書』では、使者を斬っていた。
ここに裴注『九州春秋』があって、もと楽浪太守の張岐が、劉虞のところにいくが、叱られるだけ(『後漢書』と同じ)。ただし、斬られない。
使者を斬ったとする、『後漢書』劉虞伝の劉虞のほうが、ちょっと脚色が入っているのだろう。せいぜい、辞退しただけだろう。袁紹・韓馥・劉虞は、友好関係をいちおうは保ったというのが、現実的に思える。


同注引『呉書』より:

馥以書與袁術、云帝非孝靈子、欲依絳、灌誅廢少主、迎立代王故事。稱虞功德治行、華夏少二、當今公室枝屬、皆莫能及。又云「昔光武去定王五世、以大司馬領河北、耿弇、馮異勸卽尊號、卒代更始。今劉公自恭王枝別、其數亦五、以大司馬領幽州牧、此其與光武同。」是時有四星會于箕尾、馥稱讖云神人將在燕分。又言濟陰男子王定得玉印、文曰「虞爲天子」。又見兩日出于代郡、謂虞當代立。紹又別書報術。
是時術陰有不臣之心、不利國家有長主、外託公義以答拒之。紹亦使人私報虞、虞以國有正統、非人臣所宜言、固辭不許。乃欲圖奔匈奴以自絕、紹等乃止。
虞於是奉職脩貢、愈益恭肅。諸外國羌、胡有所貢獻、道路不通、皆爲傳送、致之京師。

韓馥は、袁術に文書を送って、「皇帝は、霊帝の子ではない。劉虞を天子とすべき」と伝えた。袁紹も、べつに袁術に文書を送って報せた。
このとき袁術には、ひそかに不臣の心がある。国家に年長の君主がいるのは、都合がわるい。外面的には、公議に託して、韓馥・袁紹の提案をこばんだ。

袁術が、劉虞と同意見で、献帝をもりたてようとしたのか。袁術が、劉虞とも、袁紹・韓馥ともちがって、自ら皇帝になろうとしたのか。この段階では、前者のほうが自然な状況理解だろう。『呉書』が、内面の描写をねじ曲げているような気がする。

袁紹は、ひそかに劉虞にも使者を出したが、固辞して受けてもらえない。劉虞は、匈奴に逃げこんで、計画をつぶそうとしたから、袁紹らはあきらめた。 ここにおいて劉虞は(長安の皇帝に)奉職・脩貢して、ますます恭肅であった。

ふたたび、陳寿の公孫瓚伝にもどって……

虞子和爲侍中、在長安。天子、思東歸、使和偽逃卓、潛出武關詣虞、令將兵來迎。和、道經袁術、爲說天子意。術、利虞爲援、留和不遣。許兵至俱西、令和爲書與虞。虞得和書、乃遣數千騎詣和。瓚知術有異志、不欲遣兵、止虞。虞、不可。瓚懼術聞而怨之、亦遣其從弟越將千騎詣術以自結。而陰教術、執和奪其兵。由是虞瓚益有隙。和、逃術來北、復爲紹、所留。

劉虞の子の劉和は、侍中として長安にいる。天子は、東帰したいと思い、劉和にいつわって董卓から逃げさせ、ひそかに武関を出て、劉虞のところにゆかせ、将兵に迎えにこさせたい。劉和は、袁術のところに立ち寄り、天子の意思を説いた。袁術は、劉虞の助けになろうと思い、劉和を留めて(幽州まで)行かせない。(袁術は、劉虞の)兵が至れば、(袁術の兵と)ともに西することを許した。劉和に文書を書かせ、劉虞に送った。
劉虞は、劉和の文書を得て、数千騎を劉和に送ろうとした。公孫瓚は、袁術に「異志」があるのを知り、兵を(袁術のところに)送らせたくない。

さっき注引『呉書』で、袁術の「不臣の心」が記述されたから、公孫瓚の危惧している「異志」の意味が、わかるような気になるが……陳寿だけを読むと、唐突すぎて分からない。公孫瓚は、いったい袁術について、なにを心配したのか。合理的な推測によって、なにを心配することができるのか(反語)

劉虞は、兵を送るのをやめない。公孫瓚は、袁術に知られて怨まれるのを懼れて、公孫越に千騎をひきいさせ、自ら袁術と結んだ。ひそかに袁術にしむけて、劉和をとらえて、その兵を奪わせた。

やっぱり、公孫瓚のへんな動きが、袁術を「皇帝を救うための群雄」から、「自分のことにしか興味がない群雄」に変質させている。なぜ袁術が、公孫越のいうことを聞いたかといえば、袁紹が、勢力を伸ばしてくるからだろう。「先に手を出した袁紹が悪い」のか、「闘争の仕方の変化を、いちはやく先取りした袁紹が偉い」のか、よくわからん。


『三国志』袁紹伝の場合

紹自號車騎將軍、主盟、與冀州牧韓馥、立幽州牧劉虞爲帝。遣使奉章詣虞、虞不敢受。後、馥軍安平、爲公孫瓚所敗。瓚遂引兵入冀州。以討卓爲名、內欲襲馥。馥懷不自安。

袁紹は、みずから車騎将軍を号して、同盟をつかさどる。冀州牧の韓馥とともに、幽州牧の劉虞を皇帝に立てたい。使者をおくるが、劉虞は受けない。

劉虞の擁立は、スルーされた。

のちに韓馥は安平に軍をおいたが、公孫瓚に敗れた。公孫瓚は、兵をひいて冀州に入った。董卓を討つことを名目にして、じつは(公孫瓚は)韓馥を襲おうとした。韓馥は不安になった。

公孫瓚は、幽州牧の劉虞の傘下を脱するために、冀州に根拠地がほしいだけ。袁紹をひどく攻めるのも、公孫越のカタキというのは名目で、ただ冀州がほしいだけだろう。
袁紹が主催する董卓を討つため同盟がゆるみ、劉虞を皇帝にして求心力を取り戻すという計画も失敗したとき、もっとも積極的だったのは、公孫瓚なのだな。時代の主役だ。袁紹と袁術は、董卓に敵対するという点で、味方同士だったのに、公孫瓚が「みずから公孫越を送って袁術と結び、かつ袁紹を磐河で攻める」という振る舞いをすることによって、袁紹と袁術は、敵同士にならざるを得なくなった。とおい幽州から、公孫越を荊州に、ポーンと投げこんだとき、董卓vsその他、という構図から、袁紹vs袁術という、つぎの時代の構図に、歯車が音を立てて動き出した、みたいな。


同注引『英雄記』いわく、

逢紀說紹曰「將軍舉大事而仰人資給、不據一州、無以自全。」紹答云「冀州兵彊、吾士飢乏、設不能辦、無所容立。」紀曰「可與公孫瓚相聞、導使來南、擊取冀州。公孫必至而馥懼矣、因使說利害、爲陳禍福、馥必遜讓。於此之際、可據其位。」紹從其言而瓚果來。

逢紀は袁紹にいう。「他人に補給を頼ってないで、一州を持たなくちゃ。公孫瓚に、いっしょに冀州を取ろうと呼びかければ、かならず彼はやってくる。懼れた韓馥に利害を説けば、韓馥は袁紹に、冀州牧の地位をゆずるよ」と。

『三国志』袁術伝の場合

既與紹有隙、又與劉表不平。而北連公孫瓚。紹、與瓚不和而南連劉表。其兄弟攜貳、舍近交遠、如此。引軍入陳留、太祖與紹合擊大破術軍。

すでに袁紹と対立して、また劉表とも関係がわるい。だが北の公孫瓚とは連なった。袁紹は、公孫瓚と不和であり、南の劉表と連なった。

こういう総括的な表現が、こまかい情勢を分からなくするのだ。袁術が北に向かったのも、「公孫瓚と結んで、袁紹から冀州を奪う」という可能性が、なくはないのか。前に、公孫越を借りている。劉虞の数千騎だっても、手許にあるはずだから。そして、曹操に阻まれる。

袁術は、軍をひいて陳留に入れた。曹操は、袁紹とともに袁術をおおいに破った。

同注引『呉書』:

時議者以靈帝失道、使天下叛亂、少帝幼弱、爲賊臣所立、又不識母氏所出。幽州牧劉虞宿有德望、紹等欲立之以安當時、使人報術。
術觀漢室衰陵、陰懷異志、故外託公義以拒紹。紹復與術書曰「前與韓文節共建永世之道、欲海內見再興之主。今西名有幼君、無血脉之屬、公卿以下皆媚事卓、安可復信!但當使兵往屯關要、皆自蹙死于西。東立聖君、太平可冀、如何有疑!又室家見戮、不念子胥、可復北面乎?違天不祥、願詳思之。」
術答曰「聖主聰叡、有周成之質。賊卓因危亂之際、威服百寮、此乃漢家小厄之會。亂尚未厭、復欲興之。乃云今主『無血脉之屬』、豈不誣乎!先人以來、奕世相承、忠義爲先。太傅公仁慈惻隱、雖知賊卓必爲禍害、以信徇義、不忍去也。門戶滅絕、死亡流漫、幸蒙遠近來相赴助、不因此時上討國賊、下刷家恥、而圖於此、非所聞也。又曰『室家見戮、可復北面』、此卓所爲、豈國家哉?君命、天也、天不可讎、況非君命乎!慺慺赤心、志在滅卓、不識其他。」

議者は、霊帝の失政のために、天下が反乱したと考えた。皇帝は幼く、賊臣(董卓)が立てたものであり、また母方の血筋が分からない。幽州牧の劉虞は徳望があるから、袁紹は彼を皇帝にしたいと、袁術に報せた。
袁術は、漢室の衰退を見て、ひそかに「異志」があった。外面的には公議に託して、袁紹に反対した。袁紹は、袁術に文書を送った。「韓馥とともに、劉虞を立てたい。賛成してくれるよね」と。
袁術は答えた。「献帝は賢いし、血統もしっかりしている。董卓を滅ぼすことをすべきであり、その他のこと(廃立)なんて知らない。

これが、諸史料がいう「外面的に公議に託して」である。しかし、おそらく袁術にとって、偽りではない。わざわざ、本拠地をカラにして、孫堅を出張らせて、董卓を攻めているのだからね。董卓討伐に、もっとも積極的なのは、曹操ではなくて、袁術だった。そして、ゲームのルールが切り替わるタイミングを、微妙に見落として、群雄のレースに出遅れた。短期的な軍事行動じゃなくて、領土経営をして、割拠する体力を整えるべき時期に、入ったことに気づかなかった。孫堅を突撃させ、董卓さえ撃てば、後漢の平時に戻ると思ったから、無呼吸でダッシュして、息切れして倒れたのだ。その結果、南陽を失うが、寿春を得られるという、奇蹟を起こせたのは、袁術の「公議」にたいする真剣な姿勢が、それなりに声望を集めたからではなかろうか。
まあ、曹操は、本人には、董卓を撃つ意思があった(と史料に書かれている)が、袁紹らの理解を得られずに、カタチにならなかったのだが。
この『呉書』を見て、「いつわりだな」と思ったのは、史家たちの判断なんだと思う。編纂の段階で、ねじ曲げないでください。


というわけで、一連の出来事のはずなのに、そして袁紹と袁術の対立の本格化という、歴史的には見逃せない出来事のはずなのに、、史料によって、かくも記述がちがうのか!と驚くがための、史料の読解でした。つかれた!150215

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