孫呉 > 孫策伝の決定版をつくる

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第1回 孫堅が死んで徐州に避難する

孫策伝は、過去に2回やってまして、
2010年4月(6年半前)に、『三国志集解』を読まずに、
孫策は袁術に、絶縁状を突きつけていない
2011年4月(5年半前)に、『三国志集解』を読みながら作った。
袁術が死ぬまでの忠臣、死ぬまで献帝の忠臣、孫策伝
これらの記事のときより、漢文に慣れたので(自分比)、新しく記事を起こしてみる。ひとり孫策の列伝を吟味するだけでなく、関係する人物の列伝を渡りあるいて、多面的な情報を整理したい。

周瑜と交際する

孫策は、あざなを伯符。本伝によると、孫堅が義兵を起こすと、母を連れて舒県に居し、周瑜と友になったと。
『江表伝』は本伝より詳しく、かつ記述が異なる。孫堅が朱儁の佐軍となると、家属を寿春に残した。このとき孫策は十余歳であった。周瑜が孫策の風聞を聞きつけ、舒県から親交を結びにきて「断金」の関係となり、孫策に舒県に移住するように勧めた。孫策がこれに従ったと。

より詳しいほうの、『江表伝』を検討する。
孫堅伝によると、中平元年、中郎将の朱儁は、表して孫堅を佐軍司馬として、郷里の少年が下邳より従った。孫堅は、淮水・泗水のあたりの精兵をひきい、朱儁の配下に入った。
孫堅が下邳から出発し、下邳の周辺の精兵を動員できたのは、孫堅が下邳丞だったから。『三国志集解』孫堅伝によると、下邳で孫権が生まれている。孫策と孫権は、母が同じ。つまり孫堅は、家属を伴って下邳に赴任した。黄巾の乱が起きると、下邳丞を辞め、朱儁の戦場である、豫州(汝南・潁川)に向かった。途中で寿春を通過して、家属をその経済都市に置いてきた。
のちに袁術が本拠地に据えるように、有力な都市だったことが窺える。
朱儁と孫堅が戦うのは、中平元(184)年である。孫策は175年生まれなので、『江表伝』の伝える「十余歳」は整合する。すなわち、本伝の「義兵を起こすと」は、朱儁の配下となったことを意味する。下邳の官兵を抜くことはできないので、自前で集めた兵(義兵)を集めて、同郷の朱儁に協力した。

周瑜は、周瑜伝によると、廬江郡の舒県のひと。舒県は、廬江郡の郡治。従祖父の周景と、周景の子の周忠が太尉となった。父の周異は洛陽令。

周瑜伝:孫堅興義兵討董卓、徙家於舒。堅子策、與瑜同年、獨相友善。瑜、推道南大宅、以舍策、升堂拜母、有無通共。瑜從父尚、爲丹楊太守、瑜往省之。會策將東渡、到歷陽、馳書報瑜。瑜、將兵迎策。

さっそく、史料に齟齬がある。周瑜伝によると、孫堅が「義兵」を興したのは、董卓を討つときを指す。つまり中平六(189)年か、初平元(190)年。
どのように考えるべきか。
孫堅は、朱儁の佐軍司馬となった後、別部司馬となる。中平三(186)年に、司空の張温の参軍事となる。つまり、孫堅が家属のものに帰ってくる時間がない。孫権の弟の孫翊は、184年生まれで、これより下に年齢の明らかな弟がいない。
つまり、184年に下邳を出発し、孫策は、母や弟とともに寿春に住む。郷里に帰るよりも、経済都市にいたほうが生活しやすい(治安・経済の両面で)、という判断だろう。そして、孫策はそれ以後、父に再会しなかった。
董卓の乱が起き、190年、関東の州郡の長官が起兵すると、孫策たちは身の安全を確保するため、周瑜の家に逃げこんだ。という順序であろう。

周瑜は、名声ある人物を訪ねて回り、すぐに味方にならなくても、危急のときに連携できるように、伏線を張る。顕著な例が、魯粛である。

魯粛伝:周瑜、爲居巢長、將數百人、故過、候肅、幷求資糧。肅家有兩囷米、各三千斛。肅乃指一囷與周瑜。瑜、益知其奇也、遂相親結、定僑札之分。

周瑜は、天下が乱れることを予期して、少しでもウワサを耳にすれば、わざわざ出かけて、親交を結んだ。
中平期(黄巾と董卓のあいだ)周瑜が、わざわざ故郷の舒県から、寿春の孫策を訪ねたことに、意味がある。将軍として頭角を現しつつある、新興の孫堅の子として、孫策は、周瑜に目を付けられた。

孫堅が死に、曲阿に移る

孫策伝は「堅薨,還葬曲阿」に飛ぶ。孫堅が薨ずると(周瑜のもとである、廬江の舒県から去って)還って曲阿に葬った。

考え過ぎかも知れないが、孫堅なき孫氏に、周瑜が魅力を見出さなくなったのかも知れない。つまり、追い出された。そうでなくても、孫策らが、寿春-舒県に住んだのは、孫堅が「単身赴任」しているあいだの暫定措置であった。孫堅が死ねば、根拠地に帰って、つぎの方針を立てねばならない。

さっそく分からない。孫堅伝に「呉郡富春人」とある。曲阿は故郷ではない。孫堅の死に関する記述を、順番に見てゆく。

孫堅伝によると、初平三(192)年、劉表と撃って、黄祖に射殺された。孫堅が死んだ時期には、史料のあいだで齟齬があるが、『三国志集解』は初平二(191)年と確定するから、これに従う。

史料に見える、年齢や年号の記述を比べるしかないから、究極的には一つに決まらない。その理由は、初平三年の前後あしかけ3年で、劉表・袁術に目立った動きがない。出来事の前後関係から、時期を特定する手法が使えないのが、痛手である。

孫堅が死ぬと、兄子の孫賁が士衆をひきいて袁術に就いた。袁術は、孫賁を豫州刺史にしたとある。しかし、時系列が短絡していることが疑われるため、宗室 孫賁伝をみる。
孫賁は、孫羌の子。孫羌は、孫堅の同母兄。早くに父母を亡くし、(呉)郡の督郵や(県の)守長となった。盧弼は「守長」を衍字に疑うが、「県の」を補えば、必ずしも衍字ではない。
孫堅が長沙太守として、董卓に対して義兵をあげると、孫賁は官職を去って征伐に従った。つまり、郷里の呉郡のなかで、地方官を務めていたが、既存の官職のルートを捨てて、孫堅を族長と定め、命運を託したといえる。孫堅が薨ずると、孫賁は扶けて霊柩を送ったとある。のちに袁術が寿春に移ると、孫賁はこれに拠ったと。

孫賁伝:堅薨、賁攝帥餘衆、扶送靈柩。後袁術徙壽春、賁又依之。術從兄紹、用會稽周昂、爲九江太守。紹與術不協、術遣賁攻破昂、於陰陵。術表賁、領豫州刺史、轉丹楊都尉、行征虜將軍、討平山越。

孫賁は、孫堅が死ぬと、いちど袁術から離脱した。「故郷に葬る」というルールに機械的に従ったのでなく、乱世に生き残るために、曲阿を選んだ。
孫堅伝によると、孫堅の死後、すぐに孫賁を豫州刺史に任命したとあるが、これはミスリードである。孫賁伝にあるように、袁術が孫賁を豫州刺史とするのは、おそらく袁術が揚州をおもな争奪の場としてから(初平四年以降)であろう。

この間の豫州刺史として、兗州で曹操の留守番をしている荀彧を脅しにきた、郭貢がいる。袁紹が周喁を豫州刺史に任命して、孫堅に対抗させたことがあったが、これは孫堅の生前のことなので、ここでは関係がない。


曲阿は、呉郡の最北部で、徐州に接する。孫堅は、揚州刺史の臧旻に評価されて、塩瀆丞(広陵郡)・盱眙丞(下邳国)・下邳丞を歴任した。へたに故郷の富春にこだわるのでなく、孫堅の威令が行き届いた、徐州と揚州の境界あたりに、孫氏に有利な環境があったのかも知れない。
のちに孫策は、徐州刺史の陶謙と接点をもつ。やはり、故郷に固執するよりも、徐州南部~揚州北部が、一族を養う土地としては、適したようである。

曲阿と孫氏の繋がりを、もう少し見ておく。

孫邵伝:孫韶字公禮。伯父河,字伯海,本姓俞氏,亦吳人也。孫策愛之,賜姓為孫,列之屬籍。
孫河伝 注引『呉書』:吳書曰:河有四子。長助,曲阿長。次誼,海鹽長。並早卒。次桓,儀容端正,器懷聰朗,博學彊記,能論議應對。
孫策伝:徐州牧陶謙深忌策。策舅吳景,時為丹楊太守,策乃載母徙曲阿,與呂範、孫河俱就景,因緣召募得數百人。

呉郡のひと兪河は、(時期はもっと後であろうが)孫策に愛されて、孫氏の姓を与えられた。孫河には4名の子があり、長男の孫助は曲阿の県長になった。このあたりは、孫氏の勢力圏である。

もとに戻ると、孫堅が薨ずると、孫賁は、袁術のもとから離脱した。もともと孫堅が県丞を歴任して、孫氏の声望を行き渡らせた、揚州の北部にきた。元来、孫堅が率いていたのは、下邳や、泗水や淮水あたりの兵なので、彼らの故郷に近い。
周瑜に養われている場合ではなくなった孫策とその母も、孫賁が棺をもたらした、曲阿に移住した。

◆揚州刺史のこと
孫堅が薨じた、初平二年(三年・四年の説もあり)は、揚州刺史の着任者が、安定しない。
『通鑑考異』よると、『献帝紀』初平四年3月、袁術は陳温を殺して、淮南に拠る。『魏志』袁術伝では、袁術は陳温を殺して、揚州を領する。裴松之が考えるに、『英雄記』で陳温は病死しており、袁術に殺されない。『九州春秋』には、初平三年、揚州刺史の陳禕が死んだから、袁術が陳瑀に揚州を領させたとする。けだし『九州春秋』では、陳禕を陳温に改めるべきだろう。「初平三年、揚州刺史の陳温が(病気で)死んだ」とするのが正解だろう。

亡くなった陳温は、武帝紀 初平元年に見える。「太祖兵少。乃與夏侯惇等、詣揚州募兵。刺史陳溫・丹楊太守周昕、與兵四千餘人。還到龍亢、士卒多叛」とある。揚州刺史の陳温と、丹陽太守の周昕は、曹操・夏侯惇に兵を与えた。董卓に敵対している。距離的な問題からか、反董卓同盟に加わるには至らず。


孫策が曲阿に移ったころ、揚州刺史の陳温が病死した。これに対して、袁紹は同族の袁遺を送りこむが、袁術派に追い返される。袁術は、鄭泰を送りこむが、鄭泰は着任せずに、道中で病死。けっきょく袁術は、下邳の陳瑀を揚州刺史とする。
なにが言いたいかといえば、揚州刺史の権力は、安定していないということ。長安からは隔絶するので、陳温の病死がタイムリーに伝わらない可能性がある。袁紹と袁術は、おのれの支配力を発揮するため、刺史を任命する。しかし、袁紹・袁術とも、本拠地から遠いため、直接的な衝突は起こらない。けっきょく、下邳の陳瑀で落ちついたかと思いきや、その直後に袁術が割りこんでくる。
やはり、孫策が曲阿に移ったことの揚州は、安定を見ない。

徐州に移住し、広陵郡に居す

孫策伝によると、長江を北渡して、徐州の広陵郡の江都に居した。さらに故郷を離れる行動である。考えられる理由は、①揚州が混乱して危険であること、②徐州南部が孫堅の勢力圏であったこと、であろう。
このとき、揚州刺史は不安定であるが、呉郡太守はだれか。

おいおい分かると思うので、宿題に。


孫策は長江を渡ったことで、徐州牧の陶謙に忌まれた(孫策伝)。
『後漢紀』初平四年正月の条に掛けて「五月」より前に、「徐州刺史陶謙遣使奉貢,以謙為徐州牧」とあり、陶謙が徐州刺史から徐州牧・安東将軍にアップグレードする。おなじ初平四年春に、袁術は南陽から飛び出して、曹操に匡亭で大敗する。この頃から、陶謙は「自立」をしてゆく。

『范書』陶謙伝:是時徐方百姓殷盛,穀實甚豐(陳志は「穀米封贍」に作る),流民多歸之。而謙信用非所,刑政不理(陳志は「背道任情、刑政失和」に作る)。別駕從事趙昱,知名士也(陳志は「徐方名士也」に作る),而以忠直見疎,出為廣陵太守。

陶謙は徐州牧になると、徐州は万民が豊かで、食べ物も充分にあり、流民が集まった。孫策が長江を北渡したのも、混乱する揚州を避けて、徐州の平穏を求めたからであろう。

しかし陶謙の統治は、刑罰・政治が適切に行われなかったという。
『范書』陶謙伝によると、別駕従事の趙昱は、陶謙を諌めたために、疎まれて広陵太守にさせられた。広陵に出るというのは、「徐州の東南のすみっこ、揚州との境界まで行け」という、日本風にいえば「島流し」のようなもの。

『陳志』陶謙伝 裴注 謝承『後漢書』:會黃巾作亂,陸梁五郡,郡縣發兵,以為先辦。徐州刺史巴祇表功第一,當受遷賞,昱深以為恥,委官還家。徐州牧陶謙初辟別駕從事,辭疾遜遁。謙重令揚州從事會稽吳範宣旨,昱守意不移;欲威以刑罰,然後乃起。舉茂才,遷廣陵太守。賊笮融從臨淮見討,迸入郡界,昱將兵拒戰,敗績見害。

黄巾が乱をなすと、趙昱はまっさきに立ち向かった。徐州刺史の巴祇(陶謙の前任)は、趙昱の功績をほめたが、趙昱は(民の教化に失敗したことを)恥として官職を捨てた。徐州牧の陶謙は、別駕従事に辟したが、趙昱はにげた。陶謙はかさねて、揚州従事の会稽の呉範に、辟召のことを告げさせたが、趙昱はそれでも聞かない。陶謙は「辟召に応じないと罰する」と脅して、趙昱を広陵太守にした。賊の笮融が、臨淮から侵入すると、趙昱は殺害された。
このように、陶謙の治める徐州は、相対的に豊かであるとはいえ、安定的な統治とは言いがたく、孫策は安住できなかった。

趙昱と同じとき、陶謙によって遠くに飛ばされたのが、東海郡の王朗。

王朗伝:謙乃遣昱奉章、至長安。天子嘉其意、拜謙安東將軍。以昱爲廣陵太守、朗會稽太守。と、趙昱と同時なので、『資治通鑑』は因果関係をつなぐ。

のちに孫策が追いかける、会稽太守の王朗は、「小人の曹宏ら」せこい人材を用いた陶謙によって、遠くに飛ばされたのでした。

趙昱が飛ばされた辺境の、さらに南端にあるのが、孫策の移住した江都。長江を隔てて、揚州から徐州の広陵に来るだけで、孫氏が生活しやすくなるのだから、陶謙の力量が窺える。
『范書』陶謙伝によると「會徐州黃巾起,以謙為徐州刺史,擊黃巾,大破走之,境內晏然」とあるから、黄巾の乱のときから、10年ほどこの地を治め、反董卓の起兵には兵を出さず、朱儁を盟主にしたときも兵を出さず。徐州は「避難先」として、ベストであった。(曹操に攻められるまでは)
あたかも孫策伝は、「陶謙に、孫策を用いる器量がないから、仕方なく去ってやった」というニュアンスである。しかし、陶謙が、疎ましい趙昱を飛ばす先にする、そのさらに端っこの江都にいる、孫策のことを気に掛けるだろうか。虐げる理由があるとしたら、もと盟主の袁術に対するアテツケであるが、理由として薄い。単純に、袁術が揚州に入って、孫策の縁者が袁術に従ったので、それを頼って、再び長江を南渡した、という程度であろう。

まとめると、孫策は、孫堅という強力な家長を失った。孫堅の武勇が、孫氏の社会的な資本であったが、それは「戦死」により、紙くずになるリスクが高く、その代償をみごとに支払った。そうなれば、周瑜に養われる理由がない。
孫堅の勢力圏と故郷のあいだにあり、まだ治安がよさそうな曲阿に移る。陶謙がつくった豊かな徐州の恩恵を受けにいく。すると、たまたま袁術が、荊州から揚州に移ってきたから、母系の呉景にならって、袁術に身を寄せる……。
きわめて従属的で、非主体的な孫策の少年時代である。董卓とか反董卓とか、袁紹とか袁術とか、漢朝の継続や断絶など、まだ一切、関係ない。161203

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第2回 孫策が袁術に従い、丹陽で募兵

張紘が戦略を立案する

孫策が江都にいたとき(まだ袁術と接点をもつ前)の収穫として、張紘との出会いを裴注『呉歴』が伝える。アトヅケな感じのする史料だが、「二次創作」「仮託」だとしても、いちおう読んでみます。
ちなみに、張紘伝によると、

張紘伝:張紘、字子綱、廣陵人。游學京都、還本郡、舉茂才、公府辟、皆不就、避難江東。孫策創業、遂委質焉。表爲正議校尉、從討丹楊。
同注引『呉書』:吳書曰。紘入太學、事博士韓宗、治京氏易、歐陽尚書、又於外黃從濮陽闓受韓詩及禮記、左氏春秋。/吳書曰。大將軍何進、太尉朱儁、司空荀爽三府辟爲掾、皆稱疾不就。

とある。張紘は広陵のひとだから、孫策の避難した江都と同じ郡である。張紘は郷里にいた。出会いの必要条件を満たす。
洛陽に遊学して『京氏易』・『歐陽尚書』・『韓詩』・『春秋左氏伝』を学んだ、一流の知識人であるが、広陵郡に帰ってきた。何進・朱儁・荀爽に辟されたが応じないという、就職拒否タイプ。江東に避難したとあるから、陶謙が「悪政」した末期か、曹操に侵略された、もしくは劉備が徐州刺史となり(袁術との対決に明け暮れて)、統治が混乱した時期か。すぐ下で見るように、呂布が徐州の長官になったときは、すでに長江を南渡したあとである。
孫策が「創業」したときに、孫策に身を委ねた。正義行為(胡三省によると孫策の私設)となり、従軍して丹陽を討った。ひとつの時期の目安は、孫策が丹陽を討つときである(後で時期を確認する)

さらに張紘伝 注引『呉書』に、

紘與張昭並與參謀、常令一人居守、一人從征討、後呂布襲取徐州、因爲之牧、不欲令紘與策從事。追舉茂才、移書發遣紘。紘心惡布、恥爲之屈。策亦重惜紘、欲以自輔。答記不遣、曰「海產明珠、所在爲寶、楚雖有才、晉實用之。英偉君子、所游見珍、何必本州哉?」

のちに呂布が徐州牧になると、張紘を孫策に仕えさせたくないから、徐州牧(張紘の郷里の州の長官)の権限をつかって、張紘を徐州に徴した。直接対決を、ついにすることのなかった、呂布・孫策という二人の英雄が、間接的に競いあった記述であり、貴重です。
呂布が劉備から徐州を奪うのは、『資治通鑑』は建安元年五月に置く。厳密には、『范書』呂布伝では「徐州牧」を自称するが、『陳志』ではあくまで「徐州刺史」を自称して、曹操の朝廷に「徐州牧に任命してくれ」と要請する。陳珪・陳登を、曹操の朝廷に派遣するが、けっきょく焦らし作戦により、正式な官号を保障されない。
呂布が徐州の長官であったのは、建安元年夏から、敗死する建安三(198)年冬まで。この期間、呂布は、袁術と婚姻して同盟するだの、袁術から兵糧の供給を受けるだの、約束を破られるだの、曹操から官号をもらうだの、交渉に失敗するだの、ふらふらする。
この期間に呂布は、孫策の配下から張紘を剥がして、自らの参謀にするべく、州府に招く。しかし張紘は呂布を憎み、屈することを恥とした。孫策は張紘を重んじて惜しみ、自らの輔佐としたいから、張紘を明珠に例えて引き留めた。

建安元年以降、孫策が張紘を参謀に迎えることは、揺らがない。しかしいま問題にしたいのは、張紘が孫策に従った時期。やはり、孫策が丹陽を攻めるとき(後で扱う)である。江都に避難した、一介の「将軍の遺児」である孫策に、何進・朱儁・荀爽からの辟召を断った張紘が、どこまで協力的になってくれるか。
その怪しさの検証をすべく、『呉歴』を読む。

◆孫策が張紘に「世務」を問う

孫策伝 注引『呉歴』:初策在江都時、張紘有母喪。策數詣紘、咨以世務、曰「方今漢祚中微、天下擾攘、英雄儁傑各擁衆營私、未有能扶危濟亂者也。先君與袁氏共破董卓、功業未遂、卒爲黃祖所害。策雖暗稚、竊有微志、欲從袁揚州求先君餘兵、就舅氏於丹楊、收合流散、東據吳會、報讐雪恥、爲朝廷外藩。君以爲何如?」

孫策が江都にいるとき、張紘は母の喪に服していた。孫策はしばしば張紘を訪問し、世務について質問した。

諸葛亮伝 注引『襄陽記』に「劉備訪世事於司馬德操。德操曰「儒生俗士、豈識時務?識時務者在乎俊傑。此間自有伏龍、鳳雛。」備問爲誰、曰「諸葛孔明、龐士元也。」とある。司馬徽によると「時務」を知るのは、伏龍・鳳雛のみで、それは諸葛亮と龐統であると。
つまり在野の賢者で「世務」や「時務」を知るのは、一流であると。

孫策はいう。漢朝が衰微したが、亡父は袁氏とともに董卓を討ち、功業をなさずに黄祖に殺された。袁揚州(袁術)に父の残兵をもとめ、おじの呉景に従って、丹陽を攻め、呉郡・会稽の地に拠って(そのあとで荊州に遠征して?)報仇し、朝廷の外藩となりたいものだ。あなたの考えはいかに。

袁術が、揚州の長官となったことはない。袁紹が任じた、揚州刺史の袁遺は、袁術派に追い返された。もしかすると袁術は、自ら任じた揚州牧の下邳の陳瑀を追い払ったあと、当初、周囲に「揚州牧」と認識されたか。それとも、ぼくの考え過ぎか。

これを信じるなら、袁術は孫堅の余兵をガメている。現実的には、孫賁(孫堅の従兄)が、袁術に従っていることを指すだろう。孫賁・呉景に合流して、丹陽を討ち、散らかった民や兵を集めることを、第一目標とする。知識人に戦略を問うときは、「目的だけあって、手段がない」という白紙状態が望ましいが、孫策は、まだ「避難した遺児」である段階で、第一手については、見解をもっている。
というか、呉郡・会稽を手にしたあと、荊州の黄祖を攻めることまで、予定に入っている。もしも、孫策がこれを初平期に唱えたとしたら、軍師が不要なほど、戦略を持っている。

『呉歴』続き:紘答曰「既素空劣、方居衰絰之中、無以奉贊盛略。」策曰「君高名播越、遠近懷歸。今日事計、決之於君、何得不紆慮啓告、副其高山之望?若微志得展、血讐得報、此乃君之勳力、策心所望也。」因涕泣橫流、顏色不變。紘見策忠壯內發、辭令慷慨、感其志言、乃答曰「昔周道陵遲、齊、晉並興。王室已寧、諸侯貢職。今君紹先侯之軌、有驍武之名、若投丹楊、收兵吳會、則荊、揚可一、讐敵可報。據長江、奮威德、誅除羣穢、匡輔漢室、功業侔於桓、文、豈徒外藩而已哉?方今世亂多難、若功成事立、當與同好俱南濟也。」策曰「一與君同符合契、(同)有永固之分、今便行矣、以老母弱弟委付於君、策無復回顧之憂。」

張紘は「喪中なんで、教えることはない」と拒絶した。孫策は「私の計略の成否は、あなた(が助けてくれるか否か)に掛かっています。もしわが志を達成でき、父の仇をとれたら、これはあなたの勲功であり、私が望む結果です」という。
つまり孫策は、すでに戦略(to do list)は出来ているから、それを実現するための輔佐をしてくれ、とかなり「失礼な」頼みごとをしている。だが張紘は、孫策の忠壮が内側から発するもので、その言葉に感じ入って、答えた。
「周道が陵遅したとき、斉・晋(斉桓公・晋文公)が周室を立て直した。周王の王室が安定すると、諸侯は貢職(定期的な財物の納入)を再開した。きみは孫堅の生きざまをなぞり、驍武の名声がある。もしも丹陽に投じ、呉郡・会稽で兵をあつめたら、揚州・荊州をひとつにまとめ、黄祖を討つことができる。長江に拠って、威徳をふるい、反逆者たちを除き、漢室を匡輔すれば、功業は斉桓公・晋文公に匹敵する。単なる外藩ではない(王朝の中興を実現できる)。世は乱れて難が多いが、もしも功業が成るなら、同好の士とともに長江を南渡しましょう」
こうして孫策は、張紘と意気投合した。「張紘に、老母・弱弟を預けたなら、わたしは後方の心配がなくなる」と、張紘に頼りまくって、志を実現することを誓った。

これの意義は、諸葛亮の隆中対とは、ちょっと性質が違う。隆中対は、漢室匡輔という志があるが、具体的な方策のない劉備に、方策を教えた。志や意義は、劉備が初めから持っていた。
逆に孫策の場合、「孫賁・呉景とともに丹陽を攻め、揚州に拠り、荊州を攻めて父の仇を雪ぐ」という戦略までは、もう決めてる。史料の信憑性に、やや問題がないでもないが、まだ「避難した遺児」「一度も戦ったことがない」という、徒手空拳の孫策の知りうることを動員すれば、これだけのことを言えなくはない。だとすると、孫策は「戦略の立案能力のあるひと」という評価になる。この時点では、父を失って、取りあえず安全なところに、逃げただけなのに。デビュー前から、見識がある。
張紘の役割は「孫策がやろうとしていることは、漢室の匡輔になる」と意義を教えたこと。何進・朱儁・あの荀爽にすら、仕えるのを拒否し、あとで呂布も拒否する。その張紘が孫策に仕えた理由は、孫策が彼自身のために実現したいことが、たまたま張紘の志である漢室匡輔と一致することに気づいたから。同床異夢というが、互いが互いを利用しあう関係というか。
究極的には、孫策から見た張紘は、「オレのやりたいことを輔佐してくれる、事務スタッフ」であり、張紘から見た孫策は、「孫堅の子という運命により、漢室匡輔に役立ちそうな若者」である。

孫策が、丹陽太守の呉景を頼る

孫策伝:策舅吳景、時爲丹楊太守。策、乃載母徙曲阿、與呂範孫河、俱就景。因緣、召募得數百人。興平元年、從袁術。術、甚奇之、以堅部曲還策。

孫策のおじ(母の弟)の呉景は、このとき丹陽太守であった。孫策は、母をつれて曲阿にうつり、呂範・孫河とともに、呉景に就いた。呉景のもとで、数百人の兵を募った。
これが「興平元年」より前だから、遅く見積もって、初平四(193)年である。というか、袁術が寿春に入るのが、初平四年の春に、曹操に匡亭で敗れた結果だから、初平四年のことと決まる。

◆呉景伝

呉景伝:孫破虜吳夫人,吳主權母也。本吳人,徙錢唐,早失父母,與弟景居。孫堅聞其才貌,欲娶之。吳氏親戚嫌堅輕狡,將拒焉,堅甚以慚恨。夫人謂親戚曰:「何愛一女以取禍乎?如有不遇,命也。」於是遂許為婚,生四男一女。

呉景伝によると、呉夫人は、弟の呉景とともに住んだ。孫堅が結婚を申し込むと、呉氏は孫堅が「軽狡」であるから、拒んだ。呉夫人は「孫堅の恨みを買うのは、一族のためにならない」と判断して、孫堅に嫁いだ。4男1女を生んだ。
ここから分かるのは、孫堅は、婚姻戦略(@ブルデュー)によって、家格の上昇を試みたということ。結婚とは、異質なものを等号で結ぶこと。呉氏の反応を見ると、孫堅よりも呉氏のほうが、家格が高いことが分かる。
『三国志集解』に趙一清がひく説によると、姑蘇山の西北20里に、漢の奉車都尉で、衡州刺史であった、呉[火軍]の墓がある。呉[火軍]は、あざなを光脩という。丹楊太守・呉景の父であると。漢代に衡州刺史という官職はないが、ともあれ後漢の官僚の家で、孫堅が狙いを定めるほどの家柄であった。

呉景伝:景常隨堅征伐有功,拜騎都尉。袁術上景領丹楊太守,討故太守周昕,遂據其郡。孫策與孫河、呂范依景,合眾共討涇縣山賊祖郎,郎敗走。

呉景は、孫堅に従軍して、騎都尉を拝した。袁術が上表して、呉景を丹陽太守とした。もと丹陽太守の周昕を討って、丹陽に拠った。孫策は、孫河・呂範とともに呉景を頼り、涇県の山賊である祖郎を敗走させた。

周昕は、武帝紀 初平元年の裴注に見える。

會稽典錄曰:昕字大明。少游京師,師事太傅陳蕃,博覽群書,明於風角,善推災異。辟太尉府,舉高第,稍遷丹楊太守。曹公起義兵,昕前後遣兵萬餘人助公征伐。袁術之在淮南也,昕惡其淫虐,絕不與通。
獻帝春秋曰:袁術遣吳景攻昕,未拔,景乃募百姓敢從周昕者死不赦。昕曰:「我則不德,百姓何罪?」遂散兵,還本郡。

『会稽典録』によると、周昕は、あざなを大明。太傅の陳蕃に師事して、風角・災異に詳しい。太尉府に辟され、最優秀として高第に挙げられ、丹陽太守に遷った。曹操が義兵を挙げると、1万余人の兵を送って、曹操を支援した。袁術が淮南にくると、周昕は袁術の淫虐を嫌い、関係を断って通ぜず。
『献帝春秋』によると、袁術は呉景に周昕を攻めさせた。呉景が抜く前、呉景は百姓を募り、敢えて周昕に従うものを死罪にして赦さないとした。周昕「わが不徳である。百姓になんの罪がある」と。ついに兵を解除し、本郡=会稽に帰った。
周昕は、孫静伝に見えて、まだ出番がある。とりあえず、周昕の事蹟は、丹陽太守を追われるところまで見ました。

◆袁術の第一手は、丹陽の攻略
揚州に本拠を移した袁術は、まず孫堅にゆかりのある呉景に目を付けた。そして、寿春(九江郡)の東南にある丹陽を、最初の攻撃目標と定めた。
なぜ丹陽か。丹陽は、強兵の産地。先主伝によると、霊帝末「大將軍何進、遣都尉毌丘毅、詣丹楊募兵。先主與俱行、至下邳遇賊、力戰有功、除爲下密丞」と、何進は都尉の毋丘毅に、丹陽兵を集めにゆかせ、劉備がこれに伴った。献帝初、曹操が、丹陽に出向いて兵を募集し、董卓に対抗しようとした(武帝紀)。劉備が徐州牧の陶謙を、曹操から救うために駆けつけると、陶謙は「既到、謙以丹楊兵四千、益先主」した(先主伝)。
曹操・劉備が、のきなみ欲しているのが、丹陽兵。よほど強い。

上の『呉歴』で、孫策が張紘に語った戦略も、「はじめに丹陽を確保して」と、最優先であった。丹陽から攻略することは、群雄にとって「常識」に属することか。

孫策が丹陽を優先に考えて張紘に語ったことと、袁術が呉景を最初に丹陽に向かわせたことは、別の話。これを「丹陽を優先にするのは常識」と見るべきか、「出会う前から、袁術と孫策の所見は同じ」と見るか。ともあれ、袁術の戦略に、誤りはない。
いや、孫策の口ぶりから見ると、呉景・孫賁が、すでに丹陽に向かわされたことを、知っているようなので、孫策がタイムリーに血縁者たちの動きを(長江を隔てて)つかんでいたか。それはそれで、孫策の情報収集能力がすごい。

群雄割拠の初期条件、すなわち、
霊帝期から丹陽太守を務めたのは、陳蕃の弟子であり、官僚としての成績が優秀で、曹操を支援したこともある、一流の「一般的な後漢の官僚」である。袁術は、呉景を使役して、手段を選ばずに丹陽を得た。
かつて、「軽狡」な孫堅を嫌った呉氏である。丹陽の攻略のとき、「周昕に従ったら、絶対に殺す!」と言ったとは考えにくい。というか、そんな方法では、統治が安定しない。「袁術を貶す」という史書の傾向に、呉景が巻きこまれた例であろう。
ともあれ、いかにも後漢の正規の官僚で、統治がうまくいってた周昕を駆逐してでも、袁術の揚州支配には、丹陽が必要不可欠だったことが分かる。孫策が興平元年に、丹陽の呉景を頼る。袁術が寿春に入ったのは、初平四年。寿春に入って1年以内(半年ほど?)で、丹陽の攻略に成功している。

こうして、孫策が、舒県(周瑜の家)→曲阿→(長江を北渡)→江都→(長江を南渡)→丹陽と、長江の南に帰ってくる条件が整った。
陶謙に脅かされた孫策は、おじの呉景(母の弟)が丹陽太守に収まったのを待って、それを頼った。
かつて、長沙太守であることを元手に、董卓に戦ったのが孫堅。そのあと豫州刺史などに移ったりしたが、やはり孫堅の戦いの原資は、長沙太守であることに由来した。孫堅が死ぬことで、孫賁は曲阿に逃れるしかなかった。
いま、孫堅に代わって、呉景が太守の地位を得ることで、孫策たちは居場所を得ることができた。孫堅の婚姻戦略は、このような形で、遺児たちを助けた。なすべきは「ぎゃく玉の輿」である。孫堅が死んでも、呉景が活躍すれば、孫氏は養ってもらうことができる。婚姻戦略が、さっそく成功した。

孫策と行動をともにした、呂範・孫河

孫策伝によると、このとき孫策とともに丹陽に投じたのは、呂範・孫河である。
呂範は、寿春に避難していたところを、孫策と会った。かつて孫策は寿春にいたが、周瑜に見初められて舒県に移った。黄巾の乱のころ、十余歳の孫策と面識を持って、十年を経て、袁術が寿春に入るに至り、「あの孫策が、袁術の陣営に加わったらしい」と知って、旧縁を頼って合流した、という感じだろうか。
孫策は、十余歳ながら、寿春を「名声の場」として、周瑜・呂範との繋がりを作ったことになる。寿春を本拠とする袁術には、すんなり仕えることになる。

◆呂範伝
呂範伝については、こちらで読みました。
『呉志』巻十一を読む:洞浦で曹休をふせぐ、呂範伝
呂範は、あざなを子衡。汝南郡の細陽県のひと。若くして県吏となり、容観・姿貌あり。同邑の劉氏は、家は富み、娘は美しい。呂範は、娘を求めた。娘の母は、呂範をきらい、嫁がせたくない。しかし父の劉氏は云った。「呂子衡を観れば、久しく貧乏であろうか」と。結婚できた。
ここに見える婚姻戦略は、孫堅と同じ。県吏などは出すが、支配階級のなかでは、下層。特別なことをして目立たないと、歴史の表舞台には立てない。孫策と、さぞかし気が合っただろう。孫策軍の純粋な初期メンバーは、孫河と呂範。孫河は、異姓だけど、孫氏の姓をもらうほど。呂範も、親族と同じレベル。

のちに呂範は、寿春に乱を避けた。呂範は、孫策と会った。孫策は、呂範を評価した。呂範は孫策に委昵し、私客1百人をひきい、孫策に帰した。

呂範が寿春に移動したのは、董卓軍が、191年? に豫州を攻めたときか。同じく豫州の荀彧も、逃げた。北に逃げたら、冀州-袁紹。南に逃げたら、揚州-袁術に属することになった。呂範は南を選んだ。
……と、呂範伝を読んだときに書きましたが、修正が必要か。孫策は、興平元年、江都-曲阿-丹陽と直行している。寿春で、知り合って、すぐに深い関係になるとは考えにくい。黄巾の乱のとき、寿春にいたと考える。
黄巾の乱のとき、孫堅は下邳丞から、朱儁の司馬に移った。あのとき、孫策らは寿春に置かれた。やはり寿春は、黄巾・董卓の乱によって傷つかず、支配した者を天下に近づける、大都市である。

孫策の母・呉氏は、江都にいた。孫策は呂範に、母を迎えに行かせた。徐州牧の陶謙は、呂範が袁術のスパイであるとして、県に諷して呂範を拷問した。呂範の親客たちは、呂範を奪い返した。呂範と孫河だけは、つねに孫策と辛苦をともにし、孫策も親戚として待遇し、升堂して、孫策と呂範・孫河は、呉氏の前で飲宴した。

出ました、母を巻きこんだ交際。呂範・孫河は、孫策と運命を共にするものです。周瑜は、孫堅が死んだとき、孫策と離れたから、遅れて合流することになる。
孫策伝では、孫策は母を連れて曲阿にゆき、呂範・孫河が、同じく呉景を頼ったとする。これには省略があるようで、実際には、さきに孫策が長江を渡って(陶謙の勢力圏から逃れ)、つぎに呂範に「母も連れてきて」と依頼して、呉夫人を回収に行かせた。孫策が再び北渡したら、陶謙に捕らえられる、というほど、緊迫していたか。

もしも、初平四(193)年のタイミングで、袁術が揚州に拠り、呉景が丹陽を攻略しなかったら、孫策は行き場がなく、陶謙によって迫害されたかも知れない。かつて陶謙と孫堅は、司空の張温が、中平期に涼州で戦ったとき、面識がある。陶謙は、孫氏をライバル視したのかも知れない。そして、そんな陶謙の勢力圏に避難しなければならないほど、孫氏は揚州に居場所がなかったことが分かる。
故郷の富春よりも、曲阿のほうがマシ。曲阿よりも、長江を渡った広陵郡のほうがマシだと。「孫策が、張紘のような人材を求めて、危険を冒してでも長江を渡っていた」という解釈は、さすがにムリ。

陶謙から見れば、孫策が江都を離脱して、南渡しただけでも怪しい。警戒が強まったところに、孫策の代わりに呂範が北渡して戻ってきたから、陶謙が疑ったと。陶謙は興平元年に死ぬが、死の直前になっても(曹操の2回の進攻を受けても)、徐州と揚州の境界まで、警戒が行き渡っている。

◆孫河伝
孫河は、孫堅の族子。孫韶伝にひく『呉書』に見える。

吳書曰:河,堅族子也,出後姑俞氏,後複姓為孫。河質性忠直,訥言敏行,有氣幹,能服勤。少從堅征討,常為前驅,後領左右兵,典知內事,待以腹心之任。又從策平定吳、會,從權討李術,術破,拜威寇中郎將,領廬江太守。

孫河は、若きとき孫堅に従って征討し、腹心の任を預かった。孫策に従って、呉郡・会稽を平定したと。随分と列伝がザックリ省略されているが、ともあれ、孫策と世代を同じくして、つねに一緒にいた人物でしょう。

袁術が孫策を「奇」とする

孫策伝:興平元年、從袁術。術、甚奇之、以堅部曲還策。

興平元(194)年、孫策は袁術に従った。つまり、はじめは「袁術の部将である呉景」を頼ってきた、遺族の一員に過ぎなかった。しかし、改めて袁術と面会して、評価された。孫堅の部曲を返還してもらった。

このときのことが、孫策伝 注引『江表伝』にある。『江表伝』は、晋代にこの地域の伝承を集めたもの。わりと「孫呉の正統」のためにアレンジした話が多いので、まゆつばで読みたい。

『江表伝』:策徑到壽春見袁術、涕泣而言曰「亡父昔從長沙入討董卓、與明使君會於南陽、同盟結好。不幸遇難、勳業不終。策感惟先人舊恩、欲自憑結、願明使君垂察其誠。」術甚貴異之、然未肯還其父兵。術謂策曰「孤始用貴舅爲丹楊太守、賢從伯陽爲都尉、彼精兵之地、可還依召募。」策遂詣丹楊依舅、得數百人、而爲涇縣大帥祖郎所襲、幾至危殆。於是復往見術、術以堅餘兵千餘人還策。

(江都-曲阿-丹陽から)寿春に到った孫策は、袁術に会うと、涕泣した。「亡父は、明使君(あなた)とともに南陽で合流したが、道なかばで死んだ。私は先人の旧恩に感じ、あなたを頼りたい。わが誠を察してくれ」と。袁術は孫策を、はなはだ貴異としたが、父の兵を還さない。袁術は孫策に、「私ははじめに、きみのおじの呉景を丹陽太守とし、孫賁(伯陽)を丹陽都尉とした。丹陽は、精兵の地である。丹陽にもどって、兵を召募するがよかろう」と。

袁術のケチ!という話に流用されるエピソードだが、きわめてマトモ。もともと孫堅の兵は、孫賁が連れており、袁術が盗んだのではない。孫賁は、孫堅が死んだらすぐに荊州を離脱した。この時点で、袁術の最優先の攻略先である丹陽に、孫氏の主力の呉景・孫賁がいる。そこで兵を募れ、というのは、理性的で、整合性がある。

孫策は、丹陽に戻っておじを頼り、数百を得た。涇県の祖郎に襲われ、孫策が死にかけた。ここにおいて袁術に再び会い、袁術は孫堅の兵1千余を孫策に還した。

涇県は、丹陽郡に属する。丹陽の郡治である、宛陵の西南にあり、もっとも近い県。のちに孫策が、太史慈を捕らえるのが、ここである。

さて、孫策が襲われた状況は、
初平元年、曹操が丹陽で募兵したとき、その兵に叛かれたことに通じる。丹陽兵は強いけれど、簡単には従わない。まだ、呉景・孫賁は、丹陽に入ったばかりであり、現地に支配が浸透していない。孫策が襲われた理由は、「袁術がケチったから」ではなく、「袁術・孫氏が、支配を開始した直後だから」であろう。
『江表伝』では、袁術がケチっていた孫堅の兵を返却したとあるが、南陽郡において、袁術と孫策の軍は一体であった。孫堅のものを返したというより、袁術は「曹操に破られて不足する兵力から、孫策(というか呉景・孫賁)のために、1千を捻出した」が実態に近いであろう。

孫策を襲った祖郎は、宗室 孫輔伝に見える。孫策が江東を平定して、袁胤を駆逐したあと、袁術が祖郎に印綬を与える話である。そのときが来たら扱う。
孫輔伝にひく『江表伝』に、後年、祖郎を捕らえた孫策が、「爾昔襲擊孤、斫孤馬鞍、今創軍立事、除棄宿恨、惟取能用、與天下通耳。非但汝、汝莫恐怖」と回想する。つまりデビュー戦で孫策は「馬鞍を斬られる」ほどのピンチになった。いかに前線で、命を晒して戦っていたかが分かる。

まとめ(193年~194年)

初平四(193)年の夏以降、袁術が寿春に入ると、同年のうちに、最優先で、丹陽太守の会稽の周昕を攻略した。袁術が差し向けたのは、孫堅の姻族である呉景、孫堅の従兄である孫賁である。呉景は、やや強引に郡府を攻略した。
「呉景が太守となり、拠点を得た」
と聞いた孫策は、やはり同年のうちに、江都を脱出した。黄巾の乱のころ、避難先の寿春で知り合った呂範と合流した。警戒が強まった徐州に、自ら行けなくなった孫策は、呂範に「江都に残してきた母を、回収してくれ」と依頼した。孫策を捜索していた陶謙は、呂範を袁術のスパイと疑った。
このとき、孫堅の族子である兪河(のちの孫河)も加わった。
孫策は、母を曲阿に置くと、呂範・孫河とともに、丹陽太守の呉景・丹陽都尉の孫賁を頼った。一族を保護するにも、兵を養うにも、経済基盤が必要であり、地方長官の資格がほしい。孫堅を失ってから2年ぶりに、袁術の支援を受け、孫氏は地方長官の地位を得た。孫策は、徐州に避難する必要がなくなった。

つぎの興平元(194)年、孫策が、盟主の袁術に初めて会うと、高く評価された。孫策は「丹陽の兵を増やしてほしい」と請願したが、その台詞は「亡父の兵を返してほしい」という言い方になった。前年、曹操に惨敗した袁術である。兵が不足するからこそ、精兵の産地である丹陽を、真っ先に攻略したところである。「丹陽で集めなさい」と常識的な回答をした。
孫策が丹陽にもどり、おじの支援を受けながら募兵したが、隣県の祖郎に攻撃され、馬の鞍を斬りつけられるほど、追い詰められた。
丹陽での募兵すら覚束ないと知った袁術は、なけなしの兵を捻出して、最初の占領地・丹陽の統治を安定させることを、呉景・孫賁(おまけに彼らの子世代の孫策)に委任したと。
次回、馬日磾がやってきます。161203

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第3回 九江太守・廬江太守になれず

馬日磾がやってくる

太傅馬日磾、杖節、安集關東。在壽春、以禮辟策、表拜懷義校尉。

太傅の馬日磾が、杖節をもって、関東を安集した。寿春で、礼をもって孫策を辟し、表して懐義校尉を拝させた。

袁宏『後漢紀』に初平三(192)年に、「八月辛未,車騎將軍皇甫嵩為太尉。使太傅馬日磾、太僕趙岐持節鎮關東」とある。『范書』献帝紀も、初平三年八月に置くから、時期は確定する。
『范書』献帝紀 興平元(194)年に「是歲,楊州刺史劉繇與袁術將孫策戰于曲阿,繇軍敗績,孫策遂據江東。太傅馬日磾薨于壽春」とある。
つまり、192年8月に馬日磾は長安を出発し、194年に寿春で薨じた。移動時間がかかるが、192年内には寿春に着き、足掛け3年、袁術のもとにいて、薨じた。

『范書』孔融伝によると、

初,太傅馬日磾奉使山東,及至淮南,數有意於袁術。術輕侮之,遂奪取其節,求去又不聽,因欲逼為軍帥。日磾深自恨,遂嘔血而斃。及喪還,朝廷議欲加禮。融乃獨議曰:「日磾以上公之尊,秉髦節之使,銜命直指,寧輯東夏,而曲媚姦臣,為所牽率,章表署用,輒使首名,附下罔上,姦以事君。昔國佐當晉軍而不撓,宜僚臨白刃而正色。王室大臣,豈得以見脅為辭!又袁術僭逆,非一朝一夕,日磾隨從,周旋歷歲。漢律與罪人交關三日已上,皆應知情。春秋魯叔孫得臣卒,以不發揚襄仲之罪,貶不書日。鄭人討幽公之亂,斲子家之棺。聖上哀矜舊臣,未忍追案,不宜加禮。」朝廷從之。

(地の文に)馬日磾は淮南に到ると、袁術に取り入ろうとする意志を見せた。袁術はこれを軽侮し、節を奪って軍帥にしようと迫った。馬日磾は深く恨んで倒れた。馬日磾の死体が(許県の)朝廷に返還され、朝廷は礼を加えようとした。孔融のみが「馬日磾は姦臣に媚びて、推薦した人材の任用書は、すべて馬日磾が最初に署名している。(『漢書』武帝紀にいう)下に諂い上を蔑ろにすることです(袁術に諂い献帝を蔑ろにしています)。袁術の僭逆は、一朝一夕でないのに、馬日磾は袁術に従って、数年を過ごした。漢律では、罪人とともに3日過ごせば、事情を知ると見なします。馬日磾の死体に礼を加えませんように」と。
馬日磾が袁術に味方して、上表して(孫策らに)官職を与え、数年間を寿春で過ごしたという。馬日磾の意志がどこにあれ、同時代の孔融がこのように認識し、朝廷(曹操)が従ったことは、『後漢書』が伝えることである。もしも袁術のみが邪悪であれば、「孔融め、馬日磾の名誉を損なうな。むしろ孔融、死ね」となるはず。

馬日磾と袁術の関係を、どのように考えるべきか。
類似した他の例と比べて見る。
かつて董卓に対して、周毖・伍瓊は、袁紹らに官職を与えて手懐けることが、董卓の利益になると教えた。だから董卓は、袁紹を勃海太守にした。結果、袁紹が反董卓の中心となり、周毖・伍瓊は処刑された。
天下の分裂期にあって、強硬な姿勢で臨むだけが正解ではなく、懐柔もあり得る。もしも周毖・伍瓊が、勃海太守に任命する使者として、袁紹のもとに赴いていたら、馬日磾と同じことが起きたのではないか
「袁紹には官職を与える代わりに、兵を解いてもらおう」と思って訪問して、まずは袁紹に媚びる。それで、袁紹が2人を舐める。袁紹が周毖・伍瓊を手許に留めて、かえって袁紹軍の軍帥に就けたとする。周毖・伍瓊の意図は、天下の分裂の回避であったから、袁紹の軍帥になりたくない。董卓のもとに帰らせてくれ、と言っても、袁紹に引き留められて、帰ることができない。失意の死!
あくまで、天下の収束をねらって懐柔する朝廷側(説明用の設定では董卓、ここでは李傕)と、その懐柔すら逆手にとって、おのれの勢力拡大に努める群雄(設定では袁紹、ここでは袁術)。その思惑のズレゆえに生じた、悲劇でしょう。

ともあれ袁術は、まだ董卓と戦っているとき、『范書』献帝紀 初平元年、

大鴻臚韓融、少府陰脩、執金吾胡母班、將作大匠吳脩、越騎校尉王瓌安集關東,後將軍袁術、河內太守王匡各執而殺之,唯韓融獲免。

と、朝廷の使者である少府の陰脩を殺したことがある。陰脩は、かつての潁川太守で、荀彧・郭嘉らの故主。陰脩が殺されたのは、董卓との戦いが始まった直後であり、群雄割拠の気配がなく、単純な「戦闘」状態であった。しかし馬日磾が派遣された時期は、すでに群雄割拠の時期であり、使者の「利用価値」も代わっている。

ちなみに、馬日磾とともに出発したのは、太僕の趙岐。

『范書』趙岐伝:及獻帝西都,復拜議郎,稍遷太僕。及李傕專政,使太傅馬日磾撫慰天下,以岐為副。日磾行至洛陽,表別遣岐宣揚國命,所到郡縣,百姓皆喜曰:「今日乃復見使者車騎。」

趙岐は、馬日磾とともに天下を慰撫した。馬日磾は洛陽に到ると、上表して趙岐と分かれた(趙岐は袁紹、馬日磾は袁術という分担を決めた)。趙岐の到った郡県では、百姓が喜んでくれた。趙岐は、袁紹・公孫瓚の死闘を止めるという、役割に成功している。
つまり、関東でも、群雄の力が拮抗しているとき、朝廷からの使者は、第三者の裁きとして機能する。しかし、初平末、袁術の権力は、揚州で(一時的に)安定していた。だから、袁術に媚びたような形になってしまった。馬日磾は、交渉および立場の取り方に失敗したと考えたが、それを挽回できず、寿春で薨じたと。

後漢の官僚家や、袁術に厚遇される

術大將喬蕤、張勳、皆傾心敬焉。

袁術の大将の橋蕤・張勲は、みな孫策に心を傾けて敬った。

『范書』袁術伝によると、建安二年、袁術が僭号すると、張勲・橋蕤に呂布を攻めさせたが、大敗した。曹操が袁術を征伐し、袁術は逃げて淮水を渡った。曹操は、橋蕤を斬り、張勲は退走したと。この2名である。

この橋蕤・張勲は、二千石レベル(太守を輩出する家柄)で、とくに橋蕤は、梁国の橋玄の一族といわれる。袁術のところには、二千石レベルの人材が集まっていたし、この2名が将軍を務めたということは、袁術軍は、後漢の官職の高低によって、序列が決まったことを伝えている。その頂点に立つのが袁術。いちおう「整合性」がある秩序です。

しかし、袁術のもとで軍を任された橋蕤・張勲が、後漢の高官の家柄であることは、「袁術がすごい」ことの証明にならない。ここは、誤解すべきでない。
むしろ、後漢の官職の高低を、組織内の序列に優先的に適用したのは、袁術の融通の利かなさを示す。後漢の将軍職は、常設でない。官職の高低と、軍をひきいる腕前とは相関関係が少ないから。
橋蕤・張勲が名門であることは、「袁術と一緒になって、孫策に目を掛けた」という、上から目線の行動によっても判明する。もしくは、韋昭が『呉書』を編纂するとき、「あの橋蕤・張勲から、評価されたらしい。これは、孫策さまの事蹟にとってプラス」と判断したから、このような表現が残った。

◆袁術の組織の論理
袁術の組織の論理は、他と比べると、特性が明らかになる。
曹操は、人材の能力を重視した。後漢での官職とか、前職(かつて誰に臣従したか)を問わないという大方針があった。完全に公平はムリでしょうが。そして、曹操が「才能」のトップであることが、この組織の論理を保証する。曹操の方針は、彼自身の能力と自信があって、初めて打ち出せたもの。
袁紹は、後漢の官職を混ぜつつ、「奔走の友」的な、仲間内の価値観を大切にする。志だの相性だのを重視した印象。一緒に苦難に立ち向かえることが大切で、なかでも、袁紹が「志が高くて節を折れる」好人物のトップであることが、組織の論理を保証する。

いっぽうで袁術は、家柄によって決める!
ゆえに「三公の子弟」を味方にしようと努力する。河内の張氏など、主義主張や相性のあわない人でも、必死に口説くから、不要な批判や反論をもらい、史料に記されることになる(『范書』袁術伝)。
一見すると硬直しているが、そうでもない。家柄の低い者は、袁術の属吏となることでチャンスを得た。もしくは、袁術の推挙によって勅任官(太守や令長)を得ることで、このネットワークに加われた。これもまた、後漢の官僚登用制度の「開かれた」性質の流用です。
孫堅・孫策と、袁術との関係は、属吏のネットワークの構築方法によって作られた。孫策をさしおき、袁術が故吏を太守に任命しまくるのも、同じ論理による。限られた官職の資源を、適切な順序で、適切な相手に配分することに、袁術は最大の努力をする。全体最適かどうかは別として。

後漢において開府を許された、三公や将軍は、現代に例えると「優秀な中間管理職」もしくは「2代目以降の社長」である。創業社長の仕事ではない。

ここで袁術は、四世三公の「官僚」のトップとして君臨し、組織の論理を保証する。
袁術のまずさは、家格の低い者をひろえないことでなく、家格の高い者を除けないことか。結果から論じるのはセコいが、橋蕤・張勲は、曹操にとても敵わず、袁術が中原に進出する(より具体的には、曹操から献帝を奪う)ことを、絶望的にした。

袁術のやり方は、「自分が官僚制のトップだから、自分の都合のいい組織の論理を採用した」という、ケチなものではない。
後漢の危機を救うのは、後漢で高官に昇った者(およびその子弟)である!という、後漢の官僚の登用制度に対する信頼感に裏打ちされている。もしも「後漢の人事は、デタラメ」という信念があれば、こんな方式は採らない。
後漢で高官になるには、それなりに志と才能があるはずで、高官になったからには、その志と才能はさらに磨かれるはずである。官職の高低によって、格差は(いい意味で)広がり、その上澄みをすくえば、後漢は復興するに違いない!という、圧倒的な信頼感が、背景にある。

渡邉義浩先生は、袁紹の「寛治」の方針を、後漢の継承とした。袁紹が烏桓、袁術が匈奴と結んで「体制内異民族」として位置づけようとしたのも、後漢の継承とする。また、袁術の地位が「後漢の官位の高さ」に依存しているのに、その後漢を滅ぼしたことを自家撞着と捉える。
袁術の称帝に関する分析は、おいおいここで更新していければと思いますが、ともあれ、袁紹・袁術は、後漢を継承・模倣することで、新しい集団を作ろうとした。乱世が訪れたとき、最初に有力候補となるのは、既存の体制における卓越者(皇帝の次に強力なもの)。つまり、後漢の政治手法に親和性が高い人々(親和性が高いから、卓越して後漢末を迎えたわけで)。その点は、確認できました。

袁術に特別扱いされる

孫策伝:術、常歎曰「使術有子如孫郎、死復何恨」策騎士、有罪、逃入術營、隱於內廄。策、指使人就斬之。訖、詣術謝、術曰「兵人好叛、當共疾之。何爲謝也」由是、軍中益畏憚之。

袁術はつねに「孫郎のような子がいたら、死んでも何を恨もうか」といった。

梁商鉅によると、曹操が「孫権のような子がいたらな」と言ったのと同じ口吻。権力者は、はるか年齢が下の人材を認めると、同じようなことを言ったのかも知れない。

孫策の騎士に罪があり、袁術の軍営に逃げこんで、内廐に隠れた。孫策がこの騎士を斬った。処罰が終わってから、孫策が袁術に謝ると、「兵人は、叛くもの。謝らなくていい」と言った。これにより、軍中はますます孫策を畏れ憚った。

胡三省注によると、袁術の軍営に入り、殺を専らにした(袁術の許可をとらずに、裁断した)ことを謝ったのである。


廬江太守の陸康を攻め殺す

孫策伝:術、初許策爲九江太守。已而、更用丹楊陳紀。

袁術は、はじめ孫策を九江太守にするといったが、丹陽の陳紀を任命した。
『三国志集解』孫策伝がひく銭大昕のように、潁川の陳紀(陳羣の父)とは別人。陳紀の前歴が分からないが、丹陽の在地の有力者であろう。前の官職が記されないから、官職や家柄ではなく、丹陽の統治の抑えを目的として、有力者を吸収したと思われる。呉景・孫賁・孫策が、祖郎と戦って苦戦するなど、まだ丹陽の統治すら、覚束ないため。

占領した地域から、有力者を登用して、政治体制を整えるのは、たとえば曹操が、袁氏から冀州を奪ったときに、行ったことである。その小規模バージョン。

九江郡は、後漢の治所が寿春。つまり、袁術にとっての「首都圏」を含む地方の長官にあたる。九江太守は、袁術とともに、寿春で為政したかも知れない。

そもそも、これから拡大する(拡大したい)組織は、「自分で切り取ってきた土地を任せる」という方式で行きたい。

会社なら、新しい地域・顧客を開拓して、そのエリアの採算が取れるようになったら、その開拓した功労者を「支店長」に任命するようなもの。

しかし寿春を取ったのは、他ならぬ袁術ご本人。そこに、なんの手柄もなく、いちど丹陽で募兵して、しくじっただけの孫策を任命する理由がない。
このとき袁術は、私的な父子の関係になぞらえて孫策と付き合い、特別扱いをしている。周囲の公的な属吏たちが「袁術の寵愛を受けた孫策は、オレたちにとって、厄介な存在になるかも」と警戒している。孫策のためにも、破格の待遇をしてはいけない。秩序が、ガタガタになる。

スケールをずらすと、後漢における「司隷校尉」とか「河南尹」とか「洛陽令」といった、都を中心とする地方の行政区間の長官である。ここの九江太守は。


◆袁術の徐州に対する野心

後、術欲攻徐州、從廬江太守陸康、求米三萬斛。康不與、術大怒。

のちに袁術が徐州を攻めるため、廬江太守の陸康に、米3万石を求めた。陸康が与えないため、袁術は大怒した。

さて、これはいつか。
『陳志』陸績伝を読んだ。父の陸康は、後漢の体制内にいる改革派
『資治通鑑』は、孫策が陸康を攻めるのを、興平元(194)年に置き、年月を特定しない。 徐州の情勢は、興平元年に陶謙が病死し、劉備が徐州刺史となる。興平二年(195)夏、呂布が曹操から兗州を奪いそこね、徐州に流れてくる。その時点で、まだ劉備は、袁術と開戦していない。
恐らく、袁術が徐州を攻めようとしたのは、陶謙から劉備に代わった時期である。陶謙の生前では、袁術がまだ揚州に落ちついておらず、準備が整わない。

陶謙は、反董卓のときは袁術派に属し、その後も明確な敵対はしなかった。袁術が揚州で地歩を固め、徐州を目指す前に、陶謙が病死した、というのが真相であろう。もしも、陶謙があと数年 延命すれば、陶謙と袁術の衝突が見られたはずだが、それがないため、陶謙のキャラが分かりにくくなった。

『資治通鑑』は、建安元(196)年五月に繋いで、「袁術攻劉備以争徐州、備使司馬張飛守下邳、自将拒術於盱眙、淮陰、相持經月、更有勝負」とする。劉備が袁術と戦っていると、呂布がそのすきに徐州を盗んだと。
つまり、袁術の徐州攻めは、兵糧の調達に成功して、建安元年に実現に至った、と見てよい。いま、その準備をしている。
また『范書』陸康伝によると、足かけ2年の攻防であった。194年に孫策が袁術と初対面し、その歳に陶謙が死んだから、「徐州を得るチャンス!」と思ったが、戦費がない。そこで孫策が、194年~195年にかけて、陸康を攻め落とした。そして、196年に徐州への北伐が成った。

ここだけ読むと、195年~196年という可能性もゼロではない。しかし孫策は、興平二(195)年に、劉繇との戦いに加わる。ゆえに、足かけ2年は、195年に終わらねばならない。『資治通鑑』もそのように編纂された。


袁術の徐州に対する「野心」は、
『范書』袁術伝に、「又將其餘眾奔九江,殺楊州刺史陳溫而自領之,又兼稱徐州伯。李傕入長安,欲結術為援,乃授以左將軍,假節,封陽翟侯」とあるように、揚州に入ったときから「徐州伯」を兼称したことから分かる。袁術が揚州に入ったのは、初平四(193)年であり、馬日磾によって、左将軍・仮節・陽翟侯が届けられたのは、興平元(194)年である。迷ったり、ブレたりしたような、タイムラグがない。徐州への野心は、揚州入りとセットである。
つまり袁術は、南陽にいる時期は、遠くの徐州は(同盟者の)陶謙に任せておけば良いと考えたが、いざ揚州に入るからには、自ら支配することが必須、という戦略を持っていた。揚州の次に攻略するのは、徐州と決めていた。
そのために、実質的な揚州の支配者となった袁術は、「配下」の廬江太守の陸康は協力すべき、という発想の仕方をした。

◆陸康伝とあわせて読む
陸績伝によると、陸康が廬江太守になったのは、董卓の乱以前。

董卓がにわかに任命した地方長官は、統治が安定しない。しかし、徐州刺史の陶謙・丹陽太守の周昕・の廬江太守の陸康のように、霊帝期から赴任していた地方は、統治が安定し、財物の蓄積がある。だから、朝廷に奉献することができる。ぎゃくに、董卓の乱以後の群雄の「収奪の対象」となる。つまり、食われる。

陸康は3郡の太守を務めてから、廬江太守となった。
范曄『後漢書』陸績伝によると、廬江の賊が4県を攻め陥とすと、陸康が廬江太守となった。献帝が即位すると、天下は大乱した。陸康は、険しい道から、孝廉と計吏を献帝に送り、朝廷に貢献した。献帝は陸康を、忠義将軍とし、秩禄は中二千石とした。袁術は、孫策に陸康を攻めさせた。

190年代の地方長官は2種類いて、①霊帝期から現職にあり、董卓が執政しても留任し、地域内に蓄積があって献帝に財物を納入できるほど余裕がある、②董卓による任命もしくはそれ以後の奪取によって長官となり、財政が苦しい。おもに、②が①を収奪して群雄になるという構図。袁術は②で、陶謙・周昕・陸康が①。袁術は、周昕・陸康から収奪することに成功したが、陶謙の蓄積は、曹操・劉備・呂布らが食い散らかして、得られなかった。
もちろん変則があって、劉焉は①タイプだが、道路の不通を理由にボイコットした。劉表は、時期的には②だが、ぶじに袁術・孫堅を退け、群雄になって蓄財に成功した。韓馥は②のくせに才覚がないから、同じ②の袁紹に奪われた。


孫策伝:策、昔曾詣康、康不見、使主簿接之。策嘗銜恨。術、遣策攻康、謂曰「前錯用陳紀、每恨本意不遂。今、若得康、廬江真卿有也」策攻康、拔之、術復用其故吏劉勳爲太守、策益失望。

孫策は、むかし陸康を訪問したが、会ってもらえず、主簿が応接した。孫策は恨みに思った。

「張飛が、劉巴に相手にされずに怨んだ」と同型の話。しかし、もうちょっと因縁がある。むかし孫堅は、長沙太守だったころ、越境して陸康を救ったことがある。
孫堅伝にひく『呉録』:是時廬江太守陸康從子作宜春長、爲賊所攻、遣使求救於堅。堅整嚴救之。主簿進諫、堅答曰「太守無文德、以征伐爲功、越界攻討、以全異國。以此獲罪、何媿海內乎?」乃進兵往救、賊聞而走。

時期は分からないが、ともかく孫策は、「父が恩を与えた」はずの「在地の名家」の陸康に、軽くあしらわれた。孫堅からして、呉氏に「軽狡」と誹られたのだから、家柄としては仕方がない。こういう立場だからこそ、孫堅・孫策は、その武勇にも関わらず、袁術のカンバンを必要とした。

孫堅伝・孫策伝を「袁術から自立する物語」と捉えては、本質を見失う。読むならば、「袁術から、曹操+献帝に乗り換える話」として、孫権伝に繋がってゆく。

袁術は、孫策に陸康を攻撃させた。「まえに誤って陳紀を用いてしまった。本意が遂げられなくて、後悔していた。いま、もし陸康を捕らえたら、ほんとに廬江太守にしてあげよう」と。孫策は陸康を抜いた。

孫策が陸康を殺害したことを、「孫氏と江東名家の深い禍根となった」と捉え、陸遜の登用を、その劇的な和解と捉える説がある。孫権の時代からすれば、そうでしょう。しかし、それは孫策の「見識の浅さ」を意味しない。
このとき孫氏の浮沈は、袁術に賭かった。もしも袁術が軍費を得られず、徐州を取れねば、孫氏に未来がないという状態で、しっかり協力しただけである。


このときのことを、『范書』陸康伝から描くと、

時袁術屯兵壽春,部曲飢餓,遣使求委輸兵甲。康以其叛逆,閉門不通,內修戰備,將以禦之。術大怒,遣其將孫策攻康,圍城數重。康固守,吏士有先受休假者,皆遁伏還赴,暮夜緣城而入。受敵二年,城陷。月餘,發病卒,年七十。宗族百餘人,遭離飢戹,死者將半。朝廷愍其守節,拜子儁為郎中。

寿春にいる袁術は(徐州に遠征するまでもなく)飢餓であり、陸康に物資の提供を求めた。陸康は閉門して通ぜず、防戦の準備をした。袁術は怒り、孫策に攻めさせた。休暇に出ていた吏士も、逃げ隠れつつ、陸康の城に戻ってきて、暮夜に入城して(陸康に協力した)。敵を受けること2年で、城が落ちた。1ヶ月余、陸康は病死した。70歳だった。宗族の1百余人は、ばらばらになって飢え、半分弱が死んだ。朝廷は、陸氏の守節をあわれみ、子の陸儁を郎中とした。

この書きぶりを見ると、袁術・孫策が、典型的な賊です。新しい勢力・秩序を作るには、既存の勢力・秩序から略奪しなければならない。そういう、当たり前のことが分かります。
陸康と孫策は、対立がロコツに表れて、尖鋭化してしまったが。たとえば、袁紹のところで「冀州出身vsその他」とか、蜀漢の「益州出身vsその他」とか、現地の万民が暮らすためのリソースを、天下の戦いのために投入すべきか(投入してよいか)は、つねに三国志でくり返されるテーマ。

ちなみに、陸康が立て籠もったのが、郡治の舒県。つまり、周瑜の家があり、孫策が留まったことがある城を、孫策は歳をまたいで攻撃した。
陸康の遺族に、ひどいめに遭わせたわりには、周瑜は、袁術・孫策に愛想を尽かせることなく、あとで合流してくれる。きっと「天下のためには、1郡を犠牲にしても仕方がない」という、侵略者(英雄)の発想を、周瑜も持っていたのであろう。そちらのほうが、かえって天下のためである、という戦略眼(もしくは思い込み)。

故吏の劉勲の登場

陸康との戦いには、オチがついて、孫策が陸康の一族を虐殺したにも関わらず、袁術は、故吏の劉勲を廬江太守にした。
これは「手違いで、うっかり、すまんすまん」という、袁術の人格をそしるだけのエピソードではない。勢力の正念場(揚州を維持し、徐州に出て行けるか)の成否を決める、判断です。
まず九江郡の寿春を抑えた袁術であるが、つぎに攻略できた「強兵を産出する丹陽」に並んで、「資源を蓄積した廬江」は、大切な拠点です。

初期の劉表が、蒯越によって「江陵を抑えろ」と進言され、のちに劉備・曹操も、江陵の確保を目標とした。このような「要所」が、きっと陸康のいた廬江である。
故吏である劉勲は、袁術から、財物の管理能力について、信頼を得ていたのでしょう。だから袁術の死後、袁術の遺族たちは、劉勲を頼った。どうでもいいけど、『典論』で曹丕に、個人的な武芸の談義に付き合わされたのが、この劉勲である。「嘗與平虜將軍劉勳、奮威將軍鄧展等共飲」とある。

勢いのある若者(孫策)よりも、安定感のある管理者に委ねたい。もし、袁術が口約束を破ったなら、それは人格に問題があるが、この人選は、結果(劉勲が袁術の遺族の避難先になる)を知るぼくらから見ても、妥当でした。むしろ、陸康のカタキとなった孫策を、現地に置くことは、危険すぎる。袁術にとってマイナスだし、孫策だって暗殺されたかも知れない。

孫策が廬江を攻略したころ、袁術のほうは、危機が訪れていた。揚州刺史の劉繇が、長安から派遣されたため。孫策は、遅れて劉繇との戦いに合流し、劉繇を追い払う。161204

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第4回 揚州刺史 劉繇との戦い

孫策が年をまたいで、廬江太守の陸康と戦っているあいだに。
もともと淮水沿いに避難しており、かつて一時的に、呉景・孫賁が守ってあげた劉繇が、揚州刺史に任命された。これが袁術の揚州支配のジャマになっていた。

劉繇が揚州刺史となる

孫策伝:先是,劉繇為揚州刺史,州舊治壽春。壽春,術已據之,繇乃渡江治曲阿。時吳景尚在丹楊,策從兄賁又為丹楊都尉,繇至,皆迫逐之。景、賁退舍曆陽。繇遣樊能、于麋(陳)( 橫屯江津)〔屯橫江津〕,張英屯當利口,以距術。

孫策伝によると、これより先、劉繇は揚州刺史となる。もとの州治は寿春であるが、寿春に袁術がいるので、渡江して曲阿にゆく。ときに呉景は、なお丹楊にいる。孫策の従兄の孫賁は、丹楊都尉である。

胡三省はいう。『続漢志』はいう。揚州は、もともと州治は歴陽だ。

劉繇が至ると、どちらも(呉景・孫賁の両者を)迫って(丹陽から)逐った。(呉景・孫賁は、丹陽を失って)退いて歴陽にいた。劉繇は、樊能・于麋をつかわして横江津に屯させ、張英を当利口に屯させ、袁術をふせいだ。

劉繇は、袁術派の呉景・孫賁が、かってに攻略した丹陽を攻めて、彼らから丹陽を奪った。呉景・孫賁は、丹陽を失って、袁術軍の将校として(呉景伝では督軍中郎将となる)劉繇との対決に移る。
状況が複雑なので、異なる史料を順に見ていく。

◆劉繇伝
劉繇は、袁術のライバル、腐っても劉繇について『集解』で史料あつめ
東莱の牟平のひとで、兄は兗州刺史の劉岱。初平三(192)年、青州黄巾が侵入して、任城相の鄭遂を殺した。劉岱は迎撃したら、戦死した。

どこにも書いてないが、劉繇は、兄の劉岱とともに、青州にいたかも知れない。故郷にいるよりも、軍をひきいる青州刺史のところのほうが安全。そして劉岱が殺されたので、青州から「淮浦」に避難したと。ただの推測ですが。
劉岱の死が初平三年。揚州刺史の陳温の病死も、初平三年。劉繇が青州を離れて、淮水のあたりに向かった頃合いに、長安政権が「現地にいるなら、よろしく」と、劉繇を揚州刺史とした。あると思います。


『范書』劉繇伝:興平中,繇為楊州牧、振威將軍。時袁術據淮南,繇乃移居曲阿。值中國喪亂,士友多南奔,繇攜接收養,與同 優劇,甚得名稱。袁術遣孫策攻破繇,因奔豫章,病卒。

劉繇は、興平期(194-195) 揚州牧・振威将軍となった。ときに袁術が淮南におり、劉繇は(州治を)移して曲阿に居した。中原が喪乱したので、士友がおおく南に避難した。劉繇は士友をもてなして養い、優劇を共有して、名声を得た。袁術が孫策に劉繇を攻破させ、豫章に逃げて病死した。
劉繇の現地での求心力や強さを伝える点では、貴重な資料。経緯を要約すると、こうなんだが、よく分からないので、『陳志』を読む。

『陳志』劉繇伝:避亂淮浦,詔書以為揚州刺史。時袁術在淮南,繇畏憚,不敢之州。欲南渡江,吳景、孫賁迎置曲阿。術圖為僭逆,攻沒諸郡縣。繇遣樊能、張英屯江邊以拒之。以景、賁術所授用,乃迫逐使去。於是術乃自置揚州刺史,與景、賁並力攻英、能等,歲餘不下。

劉繇が淮浦に乱を避けていた。詔書は劉繇を揚州刺史とした。

劉繇は、揚州刺史の官職を帯びて赴任した、荊州の劉表のパターンと異なる。もともと江南に避難していたところ、「せっかく現地にいるなら、揚州刺史をどうぞ」という、李傕の朝廷のサシガネである。これは、家柄や本人の名声によるもの。

このとき袁術が淮南におり、劉繇はこれを畏れ憚り、敢えて州治に行かない。長江を南渡したい。呉景・孫賁は、迎えて曲阿に置いた。

時系列が分かりにくいが、袁術が寿春にいるが、しかし呉景・孫賁が、袁術の独立帝国の建設に加担することを決める前(劉繇と敵対する理由ができる前)に、劉繇は揚州刺史として、呉景・孫賁により、曲阿に迎えられた。
史料に「月」の記述がないから分からないが、初平三年の後半から、初平四年の初めであろう。
呉景・孫賁は、袁術と合流したあと、官制上、明らかに袁術に敵対する劉繇を、歓迎もしくは迎撃したのではない。袁術に合流する前、多くの中原の士人に、避難先を提供するものとして、接待・護衛したのだろう。
これぐらい、記述順と、編者が想定した時系列がズレることは、『資治通鑑』の調査などをして、分かってきた。というか、時制の発達していない漢文で、そこまで厳密に表現するのはムリ。

袁術が僭逆をはかり、郡県を攻め落とした。劉繇は、樊能・張英を長江ぞいに屯させ、これを防いだ。呉景・孫賁は(劉繇を支持する立場から一転して)袁術に用いられ、劉繇に迫って逐い、劉繇を去らせようとした。ここにおいて袁術は、自ら揚州刺史(の恵衢)を置き、(袁術は)呉景・孫賁とともに力をあわせて張英・樊能を攻めたが、1年余りたっても、劉繇は負けない。

『三国志集解』によると、袁術と劉繇の衝突開始は、興平元(194)年である。
確認すると、袁術は、初平四(193)年に寿春に入った。呉景・孫賁が、劉繇から袁術に乗り換えた。袁術は、呉景・孫賁に、丹陽郡を攻め落とさせた。そこに孫策が合流した。つぎの照準を徐州に定めた……ところに、要らぬジャマが入った。もともと、呉景・孫賁が曲阿に迎えて、留まっていた劉繇が、揚州刺史として、士人たちの支持を獲得していった。呉景・孫賁は、劉繇軍によって、丹陽から追い出された。
呉景が劉繇から袁術に乗り換えた、と考えるのは「迎」の一字のため。

この一字がなければ、呉景・孫賁は、一貫して「袁術派」になるので、理解がラク。しかし逆に、揚州の人々から見て、劉繇と袁術は、どちらも魅力的な選択肢であった、呉景・孫賁は(孫堅の因縁もあってか)ギリギリのところで、袁術を選んだ。そういうセメギアイがあったほうが、史実を的確に想像できている気がする。

呉景らが劉繇を「迎えて置いた」という曲阿は、孫策が初めに避難し(いちど江都に行ってから)再び母を避難させた場所。中原の喪乱から逃げた劉繇も、呉景・孫賁に守られる形で、曲阿に避難して、政権を作ろうとした。これが「迎」の意味か。
劉繇を刺史とするというのは、家柄も名声もあったので、不当な人事ではない。実際には『范書』が伝えるように、劉繇は求心力を持った。しかし、ほぼ同時に袁術が寿春に入って、揚州の支配を目指したため、劉繇とバッティングしてしまった。

州郡の長官がバッティングして、戦いが起こるというのは、この時期に各地で起こること。それだけ「刺史」「州牧」の肩書きには、実効性があったことの裏返しである。


袁術は、興平元(194)年、郡県を順番に攻略していく流れで、揚州刺史の劉繇と衝突した。後漢の官僚として、悪いことをしたと思えない(むしろ治績のある)丹陽太守の周昕・廬江太守の陸康を攻めるのが、袁術である。侵略性は、否定すべくもない。
劉繇は、士人の避難地を確保して、求心力を持っていた。曲阿は、袁術の目標たる徐州とも接しており、袁術にとって対抗勢力(となり得る)政権はジャマ。しかも劉繇は、せっかく袁術が呉景に取らせた丹陽を、攻略してきた。「どっちが先に手を出した」ということはなく、構造的に対立は必至で、あたかも「官制の神サマ」に操られるように、袁術・劉繇は主導権を争っていく。
興平元年の時点では、呉景・孫賁は、すでに曲阿をはなれ(劉繇ら亡命した士人を守ることを辞めて)、袁術の手先となり、丹陽の攻略に成功して、丹陽太守・丹陽都尉となっていた。しかし彼らは、劉繇軍によって丹陽を追い出された。袁術は、あぶれた彼らを自軍に加え、劉繇を攻めた。しかし劉繇は、ちょっと強かったと。

◆時系列の検討
漢文は時制の表現が弱い。「是より先」「時に」が挟まると、それがどこまで掛かるか分からず、「…せんと欲し」も混乱を招く。『三国志』劉繇伝も怪しいが、漢文の時制の弱さと、情勢を考えると、
①(初平三年、青州刺史の劉岱が黄巾に殺されて?)劉繇が淮浦に避難、②初平三年、揚州刺史の陳温が病死、③長安政権が劉繇を揚州刺史に任命、④初平四年春、袁術が寿春を攻略、⑤劉繇は袁術を避けて曲阿へ、⑥呉景・孫賁が劉繇を曲阿に迎える、⑦呉景・孫賁が(劉繇でなく)袁術に従うことに決め、丹陽を攻める、⑧劉繇が丹陽を攻め、呉景らを追い出す、⑨袁術が曲阿の劉繇を攻撃、孫賁・呉景も参戦、⑨孫賁・呉景は苦戦して、歴陽に撤退。

もともと、袁術が寿春で政権を築く前、揚州刺史は交代・任命が激しくて安定しない。劉繇が揚州刺史になったのは、初平三(192)年の陳温の病死を受けたものと考えてみました。
袁紹が袁遺を、袁術が鄭泰・陳瑀を揚州刺史に任命するのと同時に、長安では劉繇を指名したかも。使者の移動時間やらで、タイムラグが生じた。たまたま袁術が、初平四年の春に寿春に入ってきたから、劉繇は州治に行けないし、陳瑀は袁術に押し出されて、下邳への帰郷を強いられた。

初平三年の後半かに、このとき孫堅を失って揚州に帰っていた呉景・孫賁は、家柄・名声が豊かな劉繇に期待した。ほぼ同時に(揚州の長官が安定しないことを利用して)袁術が揚州を支配し、呉景・孫賁は袁術に乗り換えたと。
以上を整合的に捉えようとすると、呉景・孫賁が劉繇を迎えたのは、袁術が寿春を得た(劉繇は袁術を憚って州治に行かなかった)が、呉景・孫賁が、袁術を盟主とすることを決断する前きわめて短い期間。直後、呉景・孫賁は、袁術の手先となり、曲阿の劉繇のもとを離れ、袁術の丹陽攻撃に加担したと。

◆戦いの推移

呉景伝:會為劉繇所迫,景複北依術,術以為督軍中郎將,與孫賁共討樊能、於麋於橫江,又擊笮融、薛禮於秣陵。

たまたま呉景は劉繇に迫られ、呉景はふたたび北のかた袁術に依る(孫策伝と整合)。袁術は呉景を督軍中郎将として、孫賁とともに樊能・于麋を横江で撃たせた。また笮融・薛礼を秣陵で撃たせたと。
呉景伝によると、揚州刺史の劉繇は、丹陽太守の呉景に圧力をかけた。つまり劉繇は、袁術の手先となって呉景が犯した「丹陽太守の周昕を攻破する」という罪をとがめ、「何も悪いことをしていない、後漢の地方長官は、この劉繇が守ってあげる」という方針で、袁術派の地方長官に敵対した。これは、後漢(長安の朝廷)の威光を利用できる、有効な戦略。
そこで袁術は、呉景に督軍中郎将(将軍職の下位)を与えて、孫賁とともに、劉繇との戦争に突入したと。
地方長官と将軍職の兼務は、ふつうに行われる。つまり呉景は、丹陽太守を辞める必要はない。袁術の認識では、丹陽太守・督軍中郎将となり、いちど任地(占領地)の丹陽を離れたのだろう。

孫策が、劉繇と戦う

長らく劉繇・呉景について見てきたが、これは孫策の登場の伏線。

『陳志』劉繇伝:漢命加繇為牧,振武將軍,眾數萬人,孫策東渡,破英、能等。繇奔丹徒,

長安政権は劉繇に州牧を加え、振武将軍とした。軍勢は数万人である。孫策は長江を東渡して、張英・樊能らを破った。劉繇は丹徒に逃げた。

盧弼によると、興平二年、『陳志』荀彧伝に、曹操が徐州を取りたいとき、荀彧が曹操に「先に(兗州の)呂布を破り、そのあとで南のかた揚州(の劉繇と結び)ともに袁術を討て」という。劉繇軍は、興平二(195)年まで、袁術との対抗勢力であった。


孫策伝:術自用故吏琅邪惠衢為揚州刺史,更以景為督軍中郎將,與賁共將兵擊英等,連年不克。策乃說術,乞助景等平定江東。

袁術は、故吏である瑯邪の恵衢を揚州刺史とした。

袁術は、193年に寿春に入ったが、194年に劉繇との対決が深刻化するまで、揚州刺史を置かなかった。自ら任命して駆逐した、下邳の陳瑀に対する遠慮か。それとも、事実上、自分が揚州の長官だから、黙っていたか。史料中に「袁揚州」と見えたこともあり、揚州の長官と見なされていたと思われる。
いま、故吏を揚州刺史に任命することで、袁術は「揚州刺史を任命するもの」となり、劉繇よりも、1段 高い位置になる。というか、刺史を任命するのは、皇帝か…。

あらためて呉景を督軍中郎将として、孫賁とともに張英らを撃たせたが、連年、克たず。孫策は袁術に説いて「呉景を助けて、江東を平定したい」といった。
この「連年」が大切。
『資治通鑑』は、劉繇が呉景・孫賁と戦うのを、興平元(194)年に置き、決着を付けずにこの年が終わる。意図的に、史料をブツッと切る。
興平二(195)年に、孫策が参戦して、劉繇を破る。ここに見える「江東」は、のちに孫策が版図とする6郡ではなく、「劉繇の領土」くらいの意味だろう。劉繇の領土は、曲阿を中心として、長江の東側である。

◆朱治伝
『三国志集解』によると、「江東」の語は、朱治伝にある。見ておく。

朱治伝:從破董卓於陽人,入洛陽。表治行督軍校尉,特將步騎,東助徐州牧陶謙討黃巾。會堅薨,治扶翼策,依就袁術。後知術政德不立,乃勸策還平江東。時太傅馬日磾在壽春,辟治為掾,遷吳郡都尉。

朱治は、孫堅に従って陽人で董卓を破って、洛陽に入った。上表され行督軍校尉となり、とくべつに歩騎をひきい、徐州牧を助けて黄巾を討った。孫堅が死ぬと、朱治は孫策を扶翼し、袁術をたよる。

朱治は孫堅の部将であるが、孫堅が死んだとき、徐州にいた。陶謙を助けたのは、袁術が、陶謙とともに反董卓の立場であり、朱儁を担いで董卓にぶつける!という戦略を、共有していたからだろう。しかし孫堅が死ぬと、孫策は徐州で、陶謙に虐げられた。孫策を「扶翼」して徐州から連れ出し、袁術のもとに連れたのが朱治である、とか。
呉軍都尉の治所は銭唐である。程普伝をみよと。

のちに朱治は、袁術の政治は徳が立たぬと知り、孫策に(故郷に)還り、江東を平定せよと勧めた。ときに太傅の馬日磾が、寿春におり、朱治を辟して太傅の掾・呉郡都尉とした。

馬日磾が思わぬ影響力を。袁術は、馬日磾がもつこの任命権を吸収した。
この「政徳 立たざる」は、遡及的な記述である。また「江東」も漠然としている。なぜなら、まだ朱治伝の時系列は、初平四年である。つぎに陸康・劉繇との戦いを記す。


朱治伝:是時吳景已在丹楊,而策為術攻廬江,於是劉繇恐為袁、孫所並,遂構嫌隙。而策家門盡在州下,治乃使人於曲阿迎太妃及權兄弟,所以供奉輔護,甚有恩紀。

ときに呉景が丹楊におり、孫策は袁術のために廬江を攻める。こうして劉繇は袁術・孫策に併呑されるのを恐れ、袁術・孫策を警戒した。
孫策の家門が、尽く州下(劉繇の州治である曲阿)にいるから、朱治は曲阿にひとをやり、孫策母および孫権の兄弟を迎えた(曲阿から逃がした)。朱治がおこなった供奉・輔護(送迎と護衛)には、恩紀があった。
家属の回収は、
きっと興平元年のことだろう。つまり孫賁・呉景は、はじめは劉繇と同調したから、家属のいる曲阿に劉繇を迎えたほど。やがて、袁術を盟主として、丹陽にいると、なんだか袁術と劉繇の雲行きが怪しくなってきた。そこで、慌てて家属を劉繇のもとから引き離した。その役を担ったのが、朱治であると。
朱治伝は、つぎに呉郡太守の許貢との戦いを記す。また、のちほど。

◆周瑜伝
孫策が劉繇と戦うとき、周瑜が合流する。

瑜從父尚為丹楊太守,瑜往省之。會策將東渡,到曆陽,馳書報瑜,瑜將兵迎策。策大喜曰:「吾得卿,諧也。」遂從攻橫江、當利,皆拔之。

周瑜の従父の周尚が丹陽太守となると、周瑜は行って会った。たまたま孫策が東渡して、歴陽に到った。文書を送って周瑜に伝えた。周瑜は兵をひきいて、孫策に会った。孫策はおおいに喜び、「きみが来てくれたら、うまくいく」といった。周瑜は孫策にしたがい、横江・当利を攻め、どちらも抜いた。
ここで疑問が生ずる。丹陽太守の周尚? 丹陽太守の周昕を、呉景が攻めて、呉景が丹陽太守になったのではなかったのかと。

周尚・周瑜は、廬江周氏。周昕は、会稽周氏。ややこし。


『三国志集解』にひく周寿昌の説によると、丹陽太守は周尚であり(権限は従父にあるのに、単なる従子のくせに)どうして周瑜は兵をひきいて孫策を迎えることができたか。また(周瑜伝で劉繇を破った後のこととして)孫策が「周瑜は還って丹陽に鎮せ」といい、周尚と言わない。袁術が従子の袁胤を丹陽太守にすると、周瑜と周尚はともに寿春に還る。周瑜はこのあと居巣長となるが、周尚が史料から消える。周瑜伝に引く『江表伝』に、

『江表伝』:策又給瑜鼓吹、爲治館舍、贈賜莫與爲比。策令曰「周公瑾英儁異才、與孤有總角之好、骨肉之分。如前在丹楊、發衆及船糧以濟大事、論德酬功、此未足以報者也。」

とあり、孫策は「さきに周瑜は丹陽にあって、兵員・船糧を調達してくれた」という。このとき丹陽太守は周尚であり、孫策を支援したのは周尚であろうに。孫策は周瑜をほめるが、周尚のことを言わない。手柄を盗んだことになると。

なるほど。
周寿昌の指摘したナゾを整合的に理解するためには、周尚は、劉繇が任命した丹陽太守と見るべきではないか。劉繇は、丹陽太守を「自称」する呉景を駆逐するため、廬江周氏の影響力に期待して、周尚に「丹陽を取れ、勝ったら太守にする」という命令を下した。周尚が呉景を駆逐した。
めでたく劉繇派の丹陽太守となった周尚のところに、従子の周瑜が訪問して「袁術に味方しろ」と説得した。周尚は、それに納得して、袁術(具体的には孫策)を支援することにした。

周瑜は、呉景・孫賁・孫策という親族集団に、かつて孫堅に抱いたのと同じ期待を持ったか。もしくは、袁術サマを支援したほうが、揚州が安定すると考えたか。
周瑜というひとは、袁術と劉繇が争えば、長安の朝廷から遠そうな、袁術を支持した。のちに、孫権に焚きつけて、後漢の丞相である曹操と対決する。名門の出身なのかも知れないが、なんか反抗的というか、反体制的というか。

これならば、孫策が周瑜だけに感謝するのが分かる。劉繇を破ったあとは、孫策が周瑜に「従父の周尚が、きちんとオレたちに味方するように、見張っておれ(還って鎮せ)」と指図してもおかしくない。
袁術にしてみれば、もと劉繇派の周尚に、要所の丹陽を任せるのは不安だから、身内の袁胤に代えましたと。周尚は、いちどは袁術に敵対した手前、断ったら「戦争」が起きちゃうから、従わざるを得なかったと。
それにしても、袁術・劉繇とも、本拠地を確保したら、つぎに手を伸ばすのは丹陽である。丹陽を抑えた者が、揚州を制する。そんな格言めいた記述は、史料には見えないが、彼らの動きがそれを傍証している。

◆孫策伝
なんども同じところを、グルグルしてますが。袁術vs劉繇は、きっと全揚州(+隣の徐州)が注目した、かなり熾烈な主導権争いだったと思われる。そのとき、のちに孫呉の主要人物となるひとは、袁術のほうを支持した。

孫策の参戦にあたり、孫策伝にひく『江表伝』に、

江表傳曰:策說術雲:「家有舊恩在東,原助舅討橫江;橫江拔,因投本土召募,可得三萬兵,以佐明使君匡濟漢室。」術知其恨,而以劉繇據曲阿,王朗在會稽,謂策未必能定,故許之。

孫策は袁術に言った。「わが一族は、江東に旧恩を施した。おじを助けて横江(の劉繇軍)を撃ちたい。横江を抜いて(劉繇を追い出し)郷土にいって兵を募れば、3万を得られる。明使君(あなた)を助けて、漢室を救うことができます」と。
袁術は、孫策の恨みに気づいたが、劉繇が曲阿におり、王朗が会稽にいて(脅威なので)、孫策に「必ず成功するとは限らないぞ」と言って、行くことを許した。

おもしろい。昔は「デタラメ」と切り捨てたが、真理を含んでいる。

まず袁術は、劉繇を倒すのが優先。そして、劉繇=長江の東。いずれ袁術は、この地域が欲しかった。たまたま、孫氏の郷土で、募兵しやすいというなら、是非とも行ってもらいたい。孫策の台詞「袁術を輔佐して漢室を救済する」も真実味がある。このとき袁術は、漢室を匡輔するために戦っている。

『三国志集解』によると、『資治通鑑』は漢室のところを「天下を定める」に改変。

『江表伝』が記す、袁術が悟ったという「孫策の恨み」は、袁術が孫策に充分な兵を与えないことだろう。孫策は「兵が足りないから、オレも、おじの呉景も苦戦している」という。…おっしゃるとおり。きっと異論はないです、袁術。

というか、募兵しやすい、桜の舞ったポケストップがあるなら、袁術から頼んで、孫策に行ってほしいほど。

袁術は、すでに開戦した劉繇のほかに、会稽太守の王朗という強敵がいる。『江表伝』で袁術は、孫策が失敗するかも、それなら孫策が(独立して)私の興味にならないかも、という屈折した感情を持っているが、単なる書き方の問題である。そんな内面の葛藤は、映像で撮っても、だれにも分からない。

術表策為折沖校尉,行殄寇將軍,兵財千餘,騎數十匹,賓客原從者數百人。比至曆陽,眾五六千。策母先自曲阿徙於曆陽,策又徙母阜陵,渡江轉鬥,所向皆破,莫敢當其鋒,而軍令整肅,百姓懷之。

袁術は、孫策を折沖校尉・行殄寇將軍とした。兵財は1千余、騎馬は数十匹。賓客のうち随従を願うものは、数百。(呉景らが退いて屯する)歴陽につくころ、孫策軍は5-6千。孫策の母は、曲阿から歴陽にうつる。孫策は、母を阜陵(九江)にうつす。渡江して転戦し、むかうところ敵なし。軍令は整肅で、百姓は孫策軍になつく。

さて問題です。この兵は、どこから湧いてきたのか。呉景・孫賁では勝てないが、孫策が劉繇に勝てた理由は何か。周瑜の協力、これに尽きるでしょう。呉景・孫賁は、丹陽を奪われた状態で戦った。しかし、その丹陽を周瑜が味方に付けてくれて、郡兵を兵を動員できた。
孫策の「建国神話」なので、潤色されているでしょうが、決め手は丹陽兵かと。劉繇は、丹陽太守の周尚に(形から見ると)離反され、窮地に追いこまれた。丹陽って、ほんとうに重要。

劉繇を駆逐する戦い

孫策伝に引く『江表伝』が、戦いの経緯を伝える。

『江表伝』:策渡江攻繇牛渚營,盡得邸閣糧谷、戰具,是歲興平二年也。

孫策は、劉繇を牛渚(丹陽郡の秣陵の南か)で攻めて、ことごとく邸閣の糧穀・戦具を得た。

ぎゃくに劉繇が、丹陽の秣陵の南の倉庫を、きちんと抑えていたことに驚き。史料で負け役の袁術に、さらに負ける劉繇のことは、史料が散佚しているが、一時期、かなり袁術を追い詰めたのでは。

この年は、興平二(195)年であると。

ここでは、おもに『資治通鑑』に従いつつ、袁術と劉繇の戦いを、興平元年から二年(194-195)だとして読んできましたが、この『江表伝』を見れば、一撃で解決。しかし、『三国志集解』は異説を載せる。
『通鑑考異』によると、「魏志」・袁宏『後漢紀』は、孫策の渡江を初平四年(193)とする。『後漢書』献帝紀・「呉志」孫策伝とも、興平元年(194)とする。いま『江表伝』は、興平二年という。袁術は初平四年に初めて寿春を得て、徐州を攻めるため、孫策に陸康を攻めさせた。袁術が寿春を狙うのは、劉備が徐州を得たあと(陶謙の死後)であろう。劉繇伝に、呉景が「連年」克てずとある。孫策の渡江は、興平元年以前はありえない。だから(司馬光は)『江表伝』に従うと。

ぼくはこれに従って、この記事を書いてきました。司馬光を支持します。

潘眉によると、興平二年でなく、興平元年とすべき。『後漢書』献帝紀は、興平元年(194)に、劉繇と孫策が戦い、劉繇が敗れたという。この歳、孫策は朱治を呉郡太守にして、朱治は呉郡を31年間おさめ、黄武三(224)年に死んだ。もし興平二年(195)なら、黄武三(224)年まで、30年間しかない。ゆえに、興平元年(194)とすべきだ。 孫策は、長江を初平四年(193)年にわたり、つぎの興平元年(194)に、劉繇を破った。「魏志」武帝紀も同じである。

考えますに、潘眉の唱える、194年説のキリフダは、朱治伝。たしかに朱治が、呉郡太守の許貢を破るのは、劉繇を破ったあと。しかし朱治伝に「時太傅馬日磾在壽春,辟治為掾,遷吳郡都尉」と、袁術が劉繇と戦う前に呉郡に行っている。だから、孫策の母を、先回りして曲阿(劉繇)から、保護できた。孫策より先に、朱治が動いて呉郡にいても、おかしくない。
朱治伝は「黃武三年卒、在郡三十一年、年六十九」という。呉郡太守を31年やったのでなく、呉郡に31年いた。つまり、太守でない期間もカウントされてる。やはり、興平二(195)年で決まりであろう。むしろ、朱治が馬日磾によって呉郡都尉になった時期が、興平元(194)年と確定された。

脱線しまくりだが、孫策伝に引く『江表伝』の続きは、

『江表伝』:時彭城相薛禮、下邳相笮融依繇為盟主,禮據秣陵城,融屯縣南。

彭城相の薛禮・下邳相の笮融 は、秣陵に拠り、笮融は(秣陵の)県城の南にいた。劉繇を盟主とする。

薛礼は、『陳志』劉繇伝に見えて、

曹公攻陶謙,徐土騷動,融將男女萬口,馬三千匹,走廣陵,廣陵太守趙昱待以賓禮。先是,彭城相薛禮為陶謙所偪,屯秣陵。融利廣陵之眾,因酒酣殺昱,放兵大略,因載而去。過殺禮,然後殺晧。

曹操が陶謙を攻めると、(下邳の)笮融は男女1万口・馬3千匹をひきい、広陵に逃げた。広陵太守の趙昱は、賓礼によって笮融を迎えた。これより先、彭城相の薛礼は、陶謙に圧迫され、秣陵に屯した。笮融は、広陵の軍勢を利用し(もしくは利益を与え)、酒席を設けて(広陵太守の)趙昱を殺した。兵をはなって略奪をゆるし、財物を持って去った。ゆきずりに薛礼を殺し、その後で(豫章太守の)朱晧を殺した。
関係ある箇所だけを整理すると、
陶謙(興平元(194)年に没)が虐げた薛礼は、陶謙のもとで好き勝手やった笮融とともに、劉繇を盟主とした。陶謙の死後、劉備に従わなかった軍閥(陶謙の生前も、統治に馴染まなかった集団であるが)が、劉繇を盟主とした。

陶謙の配下には、多彩な人材がおり、かつ陶謙は彼らとともに、好き勝手をした。徐州の長官を10年弱つとめた。1つの役職に長く留まると、腐敗する。だから定期的な人事異動が必要。内部統制の原則は、州郡の長官にも適用できる。

どうやら秣陵にいるから、形式的に徐州のもとの守相の官職を持つが、現地を実効支配しているわけではなさそう。
ともあれ、「揚州にあって、徐州を統合する」という意味で、劉繇は、薛礼・笮融を取りこみ、袁術の目標をすでに(部分的に)達成していることが分かる。のちに袁術が劉備と戦うときは、盱眙あたりが戦場となる。つまり、もと劉繇の領土から徐州を攻めている。劉繇との対決は、袁術にとって、徐州平定の前哨戦・準備でもある。単なる揚州の内部の争いに留まらず。曲阿という、徐州と往来しやすい地域に劉繇がいた。劉繇には、戦略眼があった。

薛礼のことで脱線した。孫策伝に引く『江表伝』に戻る。

『江表伝』:策先攻融,融出兵交戰,斬首五百餘級,融即閉門不敢動。因渡江攻禮,禮突走,而樊能、于麋等複合眾襲奪牛渚屯。策聞之,還攻破能等,獲男女萬餘人。複下攻融,為流矢所中,傷股,不能乘馬,因自輿還牛渚營。或叛告融曰:「孫郎被箭已死。」融大喜,即遣將於茲鄉策。策遣步騎數百挑戰,設伏於後,賊出擊之,鋒刃未接而偽走,賊追入伏中,乃大破之,斬首千餘級。策因往到融營下,令左右大呼曰:「孫郎竟雲何!」賊於是驚怖夜遁。融聞策尚在,更深溝高壘,繕治守備。策以融所屯地勢險固,乃舍去,攻破繇別將於海陵,轉攻湖孰、江乘,皆下之。

孫策はさきに笮融を(秣陵の南で)攻めた。笮融は兵を(城から)出して交戦し(孫策は)斬首すること5百余級。笮融は閉門して動かず。そこで孫策は、渡航して薛礼を攻めた。

『三国志集解』によると、同じ『江表伝』のすぐ上に、薛礼は秣陵に、笮融は秣陵の南にいたとある。薛礼を攻めるため、渡江する必要はない。打ち消し線をつけた。

薛礼は(孫策の陣を)突破して逃げた。しかし、樊能・于麋らは、また軍勢を合わせて牛渚を襲い奪って屯した。孫策はこれを聞き、もどって樊能らを破り、男女1万余を得た。
ふたたび下って笮融を攻めると、流矢に当たって、乗馬できない。牛渚の軍営にもどった。あるひとが(孫策を)裏切って笮融に「孫郎は矢を受けて死んだ」と告げた。笮融は喜び、部将の于茲を遣わして孫策を攻めた。孫策は歩騎の数百をひきいて挑み、伏兵を後ろに設けた。交戦する前ににげて、于茲を伏兵のなかに呼び、斬首すること1千余級。
孫策は笮融の軍営のもとにゆき、左右に大呼させた。「孫郎がどうしただって」と。笮融は驚き怖れ、夜に逃げた。笮融は孫策が健在と聞いて、溝を深め塁を高くし、守備を修繕して守った。孫策は笮融の守りが固いので去り、劉繇の別将を(海陵)〔梅陵〕で破り、転じて湖孰・江乗を攻め、どちらも降した。

同じ戦いが、呉景伝にも載っており、

術以為督軍中郎將,與孫賁共討樊能、于麋於橫江,又擊笮融、薛禮於秣陵。時策被創牛渚,降賊復反,景攻討,盡禽之。從討劉繇,繇奔豫章,策遣景、賁到壽春報術。

袁術は(劉繇派に丹陽を逐われた)呉景を督軍中郎将とし、孫賁とともに樊能・于麋を、横江で討たせた。また笮融・薛礼を秣陵で攻撃した。ときに孫策は牛渚でキズをおい、降賊がふたたび反した。呉景はこれを討ち、すべて捕らえた。(孫策に従って)劉繇を討ち、劉繇は豫章ににげた。孫策は呉景・孫賁を遣わして、寿春で袁術に報告させた。

同じ戦いが、周瑜伝にも載っており、

遂從攻橫江、當利,皆拔之。乃渡擊秣陵,破笮融、薛禮,轉下湖孰、江乘,進入曲阿,劉繇奔走,而策之眾已數萬矣。因謂瑜曰:「吾以此眾取吳會平山越已足。卿還鎮丹楊。」瑜還。

ついに(周瑜は孫策に)従って、横江・当利を攻め、どちらも抜いた。渡江して秣陵を攻撃し、笮融・薛礼を破った。転じて湖孰・江乗をくだし、進んで曲阿に入った。劉繇は奔走した。こうして孫策の軍勢は、すでに数万となった。だから孫策は周瑜に「この軍勢があれば、呉郡・会稽の地を取って、山越を平らげるのに充分だ。きみは還って丹陽に鎮せ」と。周瑜は丹陽に還った。

呉景伝・周瑜伝により、『江表伝』の裏づけが取れ、全貌が見えた。
呉景・孫賁が苦戦しているところに、孫策が(勝利のメドなく)合流した。たまたま、周瑜が合流してくれて、優勢に。劉繇の軍勢を吸収することで、孫策は兵力不足を解消できた。これから戦いが予定されるライバル(会稽太守の王朗ら)と戦うには、周瑜の助力が必要なくなったので、周瑜を還らせたと。

今回の考えでは、周瑜は、劉繇派の丹陽太守であるおじの周尚から、兵を借りてる、もしくは脅し取っている状況。周瑜は、安定して孫策に協力できる状況にない。

孫策の兵力不足は、袁術と合流したときからの課題だった。周瑜に兵を「元本」として、劉繇の兵を吸収するという「利潤」をあげ、孫策も独立事業者として、成り立つようになったと。

次回、呉郡・会稽の地を平定してゆきます。161208

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(番外編)その後の劉繇

追い払った劉繇が、豫章で再興する

孫策伝:策為人,美姿顏,好笑語,性闊達聽受,善於用人,是以士民見者,莫不盡心,樂為致死。劉繇棄軍遁逃,諸郡守皆捐城郭奔走。

孫策の人となりは、姿顔が美しく、笑語を好み、性格は闊達で、ひとの話を聴いて受けいれ、人を用いるのがうまい。ゆえに孫策に会った士民は、みな心をうばわれ、孫策のために進んで死力を尽くした。劉繇は軍をすてて逃げ、諸郡の太守も、みな城郭をすてて奔走した。
劉繇派が、複数の郡を、短期間で抑えていたことが分かる。劉繇の場合、兄が兗州刺史として戦死したが、後漢の正当な官僚として、揚州を結集する力があった。劉繇は「孫策にやられる役」であるが、じつは袁術よりも強かった。一時的に。

劉繇伝で裏を取ると、

劉繇伝:孫策東渡,破英、能等。繇奔丹徒,遂泝江南保豫章,駐彭澤。笮融先至,殺太守朱晧,入居郡中。繇進討融,為融所破,更復招合屬縣,攻破融。融敗走入山,為民所殺,繇尋病卒,時年四十二。

孫策が張英・樊能らを破ると、劉繇は丹徒ににげた。ついに長江をさかのぼり、南のかた豫章をたもち、彭沢に留まる。

丹徒は、曲阿より北。長江の南岸。つまり劉繇は、いちどは徐州への逃亡を考えたか。しかし、徐州には劉備がいるから、避難先として、安心できない。そこで南西にゆき、廬江・丹陽の裏手で、新しい勢力を持つことに。彭沢は、長江沿い。長江をひたすら遡って、袁術・孫策の手から逃れたようである。
孫策は、南東の呉郡・会稽を目指すことは、きっと確実。南西にゆけば、まだ生き残りの可能性がある。つぎに裴注『後漢紀』で、許劭が教えることです。正しかった。

笮融は先に至り、豫章太守の朱晧を殺しており、郡中に入って居していた。劉繇は進んで笮融を討った。劉繇は笮融に敗れた。

笮融は、いちどは盟主とした劉繇が、せっかく自分で確保した豫章郡に入ってくることを、望まなかった。笮融は、陶謙とも距離を取っていたし、立派な準群雄である。

あらためて劉繇は属県(の軍)を招き合わせ、笮融を破った。笮融は敗れて山に入り、民に殺された。ついで劉繇は病気で卒した。42歳だった。
つまり劉繇は、いちどは味方だった、下邳の笮融と、朱晧から奪った豫章郡をとりあい、潰しあった。孫策が手を下すまでもなく、片付いてしまった。
あっけない記述だが、建安二(197)年まで、粘った結果である(後述)。

劉繇伝 注引『後漢紀』:劉繇將奔會稽,許子將曰:「會稽富實,策之所貪,且窮在海隅,不可往也。不如豫章,北連豫壤,西接荊州。若收合吏民,遣使貢獻,與曹兗州相聞,雖有袁公路隔在其間,其人豺狼,不能久也。足下受王命,孟德、景升必相救濟。」繇從之。

劉繇が会稽に行こうとすると、許子将が、

『范書』許劭伝によると、許劭は広陵に避難し、徐州刺史の陶謙に厚遇された。許劭は安心できず、揚州刺史の劉繇のいる曲阿に投じた。孫策が攻められると、許劭は劉繇とともに豫章ににげ、46歳で死んだ。

「会稽は富貴だが、孫策にねらわれる。海に面して、逃げ先がない。豫章のほうがよい。北は(淮北の)豫州・兗州と結び、西は荊州と接する。もし吏民をあつめ、皇帝に使者をおくり、曹兗州と連絡をとれば、袁術を挟撃できる。袁術の人柄は豺狼であり、勢力を長く保てまい。あなた=劉繇が王命(皇帝からの「袁術を討て」という詔命)を受ければ、曹操・劉表は、必ずや援軍をくれる」と。

笮融を遣わして、劉繇がめざした豫章の太守の諸葛玄について、

劉繇伝 注引『献帝春秋』:是歲,繇屯彭澤,又使融助晧討劉表所用太守諸葛玄。許子將謂繇曰:「笮融出軍,不顧(命)名義者也。朱文明善推誠以信人,宜使密防之。」融到,果詐殺晧,代領郡事。

この歳(興平二年か)劉繇は彭沢に屯した。笮融に(皇帝が任命した豫章太守の)朱晧を助けさせ、劉表袁術がおいた太守の諸葛玄を討った。

諸葛玄の任命者は、つぎに検討する。劉表でなく袁術と思われる。

許劭は劉繇に「笮融が軍を出せば、命令・道義を顧みない。朱晧(朱文明)は誠意があって人を信じる。使者をやって(笮融が朱晧を殺さぬように)防止させるように」と。笮融が(豫章に)到ると、果たして騙して朱晧を殺して、代わって郡事を領した。
……とある。皇帝が任命した豫章太守の朱晧は、劉表袁術が豫章太守に任命した諸葛玄と、地位を争っていた。劉繇は、その豫章あたりを本拠地にするため、まずは諸葛玄を押し退けたい。朱晧を支援するために、劉繇を盟主とあおぐ笮融を先に派遣した。しかし許劭の見立てどおり、笮融は(支援すべき)朱晧を、あべこべに殺して、豫章郡をのっとり、しかも劉繇の入城まで拒んだと。

◆袁術が任命した、豫章太守の諸葛玄について
諸葛亮伝で、裏を取ると、

諸葛亮伝:父珪,字君貢,漢末為太山郡丞。亮早孤,從父玄為袁術所署豫章太守,玄將亮及亮弟均之官。會漢朝更選硃皓代玄。玄素與荊州牧劉表有舊,往依之。

諸葛亮の従父の諸葛玄は、袁術が任命した豫章太守である。諸葛玄は、諸葛亮と諸葛均をつれて(寿春から)豫章に赴任した。ちょうど同じころ、漢朝が朱晧を太守に選んで、諸葛玄に代えようとした。諸葛玄は、荊州牧の劉表と旧知なので、荊州を頼った。

もうちょい多面的に史料を見てから、検討したい。

諸葛亮伝 注引『献帝春秋』」初,豫章太守周術病卒,劉表上諸葛玄為豫章太守,治南昌。漢朝聞周術死,遣硃皓代玄。皓從揚州太守劉繇求兵擊玄,玄退屯西城,皓入南昌。建安二年正月,西城民反,殺玄,送首詣繇。此書所雲,與本傳不同。

はじめ豫章太守の周術が病死した。劉表が上表して、諸葛玄を豫章太守として、南昌においた。漢家は周術が死んだと聞き、諸葛玄のかわりに朱晧を置いた。朱晧は、揚州刺史の劉繇にしたがい、兵を求めて(笮融を派遣してもらい)諸葛玄を撃った。諸葛玄は、南昌から西城にしりぞく。南昌に朱晧が入った。建安二年正月、西城の民がそむき、諸葛玄を殺して、首級を劉繇におくる。

『通鑑考異』はいう。『献帝春秋』は、劉表が上して、諸葛玄に豫章太守を領させたとある。『范書』陶謙伝もまた、劉表が諸葛玄を用いたとある。しかし『蜀志』諸葛亮伝は、諸葛玄が袁術に用いられたとある。按ずるに、許劭が劉繇に「劉表をたよれ」と勧めている。劉繇が、劉表のおいた諸葛玄を攻めるはずがない。だから『蜀志』諸葛亮伝により、諸葛玄は袁術によって置かれたとする。
盧弼は、『後漢書』陶謙伝にこの記述がなく、『通鑑考異』を不審とする。


ここでは司馬光『資治通鑑』を支持したい。許劭の発言のとおり、劉繇が(ゆかりのない)豫章にいくのは、孫策から離れ、袁術の背後を抑え、劉表・曹操と結ぶという戦略に基づいた行動である。劉繇のライバルは、袁術である。これ以上、ライバルを増やすのは、得策でない。
もしも、劉表の勢力圏である(劉表が任じた諸葛玄が太守を務める)豫章に入ると、劉表との戦いが始まる。北に袁術、西に劉表というライバルを抱えられるほど、敗残の劉繇には余力がない。

劉表は、長沙と黄祖に守らせ、そこから東に進出しない。あくまで劉表は「荊州牧」である。荊州の範囲内であれば、外敵を攻撃するが、州を越えようとしない。勢力の安定した200年以降でも、揚州に侵入しないのだから、190年代後半に、わざわざ豫章まで、太守を派遣したと思えない。
長江の上流にある荊州から見れば、揚州は脅威ではない。下流にある揚州から見れば、荊州が脅威となるから、「片思い」のように、長江を遡上して攻撃をしかける。

諸葛亮のおじが、袁術派であったことを隠蔽すべく、のちに諸葛亮が劉表を頼ることを遡及的に反映させ、「諸葛玄を任用したのは劉表」という設定を作ったのだろう。取って付けたみたいに「そういえば諸葛玄は、劉表と旧知で」とか、史料が言い訳しているように見える。

つまり袁術は寿春に居ながら、揚州のすべての郡県に、自派の官僚を差し向けた。豫章に向かったのは諸葛玄。諸葛亮伝では抹消されているが、父の諸葛珪が泰山丞となり、早くに亡くなると、諸葛氏は寿春に避難したのではないか。きっと袁術が寿春に入る前。袁術は、避難した士人を見繕って、郡県の長官に選んでいったと。

もともと諸葛亮の本貫の瑯邪は、曹操に虐殺された地域から、離れている。諸葛亮が、虐殺のとき立ち会ったというのは、物語のなかだけの話だろう。諸葛亮が、徐州でなく寿春にいても、なんのズレも生じない。


太史慈伝

興平二(195)年、劉繇は孫策に敗れて、長江を遡って、豫章に屯した。建安二(197)年に、力尽きた。これに並行して、興平二年の劉繇の敗北につきあい、自立を目指したのが太史慈。

太史慈伝:揚州刺史劉繇、與慈同郡。慈、自遼東還、未與相見。暫、渡江到曲阿、見繇。未去、會孫策至。或勸繇可以慈爲大將軍、繇曰「我、若用子義、許子將不當笑我邪」但使慈偵視輕重。時、獨與一騎、卒遇策。策、從騎十三、皆韓當、宋謙、黃蓋輩也。慈、便前鬭、正與策對。策、刺慈馬而擥得慈項上手戟、慈亦得策兜鍪。會兩家兵騎並各來赴、於是解散。

揚州刺史の劉繇は、太史慈と同郡(東莱)の出身である。太史慈は遼東から還ったが、

太史慈が遼東から帰ると、邴原は劉政を太史慈に頼らせた。邴原伝に見える。

まだ劉繇に会ったことがない。しばらくして渡江して、曲阿にいたり、劉繇に会った。曲阿に滞在していると、たまたま孫策が至った。あるひとは劉繇に「太史慈を大将軍にせよ」と勧めた。

盧弼は「大将」もしくは「将軍」にすべきという。
このとき太史慈は、同郡のよしみで劉繇に会いにきた。避難先として、曲阿を見なした。劉繇の属吏として、関係を結んだり、上司のために尽くしたりしていない。

劉繇は「もしわたしが子義(太史慈)を用いたら、許子将(許劭)が私を笑わないだろうか」といい、太史慈を輜重の偵視(斥候)をさせた。

許劭は、人物評価の名手だから、、という説明が付くことがある台詞だが、一面的な見方か。許劭は、劉繇の「軍師」である。同郡というだけで、ほぼ所縁のない太史慈を、いきなり軍のトップに任用するには、軍師の許可がいる。「そんな適当な人事を、やっていいの」と笑われるのを、怖れたのではなかろうか。

ときに1騎でいるとき、にわかに(神亭で)孫策に遭遇した。孫策は13騎。韓当・宋謙・黄蓋らしか居ない。太史慈と孫策は戦い、かぶとを奪った。両軍の兵が来たから、戦いをやめた。

慈、當與繇、俱奔豫章、而遁於蕪湖、亡入山中、稱丹楊太守。是時、策已平定宣城以東、惟涇以西六縣未服。慈、因進住涇縣、立屯府、大爲山越所附。策躬自攻討、遂見囚執。策卽解縛、捉其手曰「寧識神亭時邪。若卿爾時得我、云何」慈曰「未可量也」策大笑曰「今日之事、當與卿共之」卽署門下督。還吳、授兵、拜折衝中郎將。後、劉繇亡於豫章、士衆萬餘人未有所附。策、命慈、往撫安焉。左右皆曰「慈、必北去不還」策曰「子義、捨我、當復與誰?」餞送昌門、把腕別曰「何時能還」答曰「不過六十日」果如期而反。

太史慈は(孫策に曲阿を奪われた)劉繇に従い、ともに豫章にゆき、蕪湖にのがれ、山中に入って「丹陽太守」を自称した。

太史慈までもが「揚州を抑えるなら、丹陽が最優先」を心得ていた。群雄となるには、州郡の長官にならねばならない。肩書きだけでも、欲しかった。
蕪湖は、丹陽郡の北部。劉繇と袁術の戦場となった、秣陵・湖孰などと、それほど離れていない。つまり太史慈は、ちっとも「逃亡」していない。まだ近くで、丹陽を奪う意欲を見せている。

このとき、すでに孫策は宣城より以東を平定したが、涇県より西の6県だけが服従しない。太史慈は、これにより涇県にとどまり、屯府を立てて、おおいに山越を味方につけた。

太史慈が引いた「境界線」は、下の地図を参照。

孫策は自ら攻め、太史慈を捕らえた。縛を解き「もし神亭で、オレを捕らえたら、どうしていたか」と。太史慈を門下督に署させた。呉郡に還り、兵を授けて、折衝中郎将とした。
のちに劉繇が豫章に逃げると、士衆1万余が、劉繇に味方した。孫策は太史慈に撫安を命じた。太史慈は60日で還ると約束した。


黄色が袁術派で、ピンクが献帝・劉繇派。諸葛玄の孤立ぶりが可哀想。

孫策と劉繇の仲直り?

後、策西、伐江夏、還過豫章、收載繇喪、善遇其家。王朗、遺策書曰「劉正禮、昔初臨州、未能自達。實賴尊門、爲之先後。用能濟江成治、有所處定。踐境之禮、感分結意、情在終始。後、以袁氏之嫌、稍更乖剌、更以同盟、還爲讐敵。原其本心、實非所樂。康寧之後、常願、渝平更成、復踐宿好。一爾分離、款意不昭、奄然殂隕、可爲傷恨。知、敦以厲薄、德以報怨、收骨育孤、哀亡愍存、捐既往之猜、保六尺之託。誠深恩重分、美名厚實也。昔、魯人、雖有齊怨、不廢喪紀。春秋善之謂之得禮。誠良史之所宜藉、鄉校之所歎聞。正禮元子、致有志操。想、必有以殊異。威盛刑行、施之以恩、不亦優哉。」

のちに孫策は、西のかた江夏を伐ち、還って豫章を通過した。劉繇の死体を収容し、家属を厚遇した。王朗は、孫策から劉繇への手紙を残しており?、孫策曰く、「劉繇が、かつて揚州刺史として着任すると、支配が確立しなかった。だからわが孫氏は、劉繇のために、各地を平定した。のちに劉繇が袁術と対立するようになると(袁術のせいで)劉繇と孫氏は、敵対する関係になってしまった」と。

発信者・受信者を取り違えていたら、申し訳ありません。


劉繇伝の「欲南渡江,吳景、孫賁迎置曲阿」にある「迎」の一字が、よく分からなかったが、ナゾが解ける。袁術が寿春で、揚州の盟主となることを宣言する前。さきに(おそらく初平三年、劉岱が兗州で戦死したあと)劉繇が、曲阿に流れてきた。
初平三年、揚州刺史の陳温が死んだので、漢朝は劉繇を揚州刺史とした。呉景・孫賁は、これを支持した。呉景らは、揚州長官の空白期間ができぬよう、劉繇に協力して、郡県の治安を守ってきたと。孫堅が死んでから、袁術に合流するまで、孫氏の動静は史料にないが、劉繇のために戦っていたのだ。
劉繇は、避難に適した曲阿でなく、歴陽もしくは寿春(正式な州治)に移りたいが、、折悪しく、初平四年春、袁術が寿春に入ったので、曲阿に残ることになった。もしくは、これより先にも、劉繇は寿春をめざしたが、袁術が任命した、下邳の陳瑀が寿春を占拠し、入れなかったか。
初平四年、呉景あたりが「劉繇より袁術に従おう」と決断して、劉繇と敵対的な関係になった。

袁術より先に揚州におり、徐州・揚州をまたがって、名士や武人らを味方にしていた劉繇は、袁術にとって、最大のライバルとなった。というか、呉景(ともづれで孫賁・孫策)や、周瑜が、もしも袁術に味方しなければ、揚州牧の劉繇が、この地域に「荊州の劉表」「益州の劉焉・劉璋」と同じ、宗室による辺境の長期政権を築いた可能性すらあった。
寿春に入ったばかりの袁術を、呉景が支持したことが、袁術にとっての転機となったことが分かりました。間接的には、孫呉政権の誕生は、このときに運命づけられた。
あー、劉繇について、長かった。それだけ、強敵だったようです。

おわりに

興平二(195)年、孫策が劉繇を追い払ったところまで、孫策伝が進みました。このあと、呉郡・会稽を平定してゆくのですが。さきに、建安二(197)年の劉繇の滅亡まで、先に見ました。次回、もとに戻ります。

袁術が皇帝となった建安二年、かつて揚州をめぐって争ったライバルである劉繇は、豫章での再起の企てが実らず、勢力が解散した。
かつて、一時的に劉繇が接点をもった太史慈(劉繇の臣というほどでもない)は、劉繇が豫章に逃れたあとも、(劉繇とは違って)丹陽にこだわって残り、山越=丹陽兵を味方にして、袁術の威令がおよばぬ、丹陽郡の南西の半分を占拠して、孫策に対抗した。しかし孫策に敗れ、「群雄」として扱われた。太史慈が初めにやったことが、「豫章まで出張して、その残兵を収容してくること」であった。

太史慈は「劉繇のマネをして、豫章で、もう一旗あげる!」と虚勢を張ることなく、孫策のために働いた。すでに、袁術による揚州支配は、ほぼ決着がついており、いまさら反旗を翻してもムリだと悟ったのだろう。「孫策の侠気に、個人的に惚れた」という側面もあろうが、それは論じるのが難しい。
いちどは、血筋と名声により、曲阿に一大勢力を築き、袁術をおびやかした劉繇ですら、「劉表・曹操の支援を引き出して、袁術に対抗する」ことに失敗した。劉繇の死んだ建安二年、まだ劉表・曹操は健在で(むしろ許劭が劉繇のために、戦略を立案したときより、劉表・曹操は強盛となっているが)、太史慈は諦めた。
建安二年は、袁術の最盛期だから。その最盛期を作ったのが、劉繇を破ったあとの、孫策の動き。呉郡・会稽の平定。やっと次回に繋がりました。161208

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第5回 呉郡・会稽を征圧する

前回までに、史料を突き合わせて気づいたのは、劉繇が揚州に入るのは、袁術より早く、初平三年(192年)と思われ、呉景や孫賁は、劉繇を支持した時期があった。曲阿や江都を往復して、母の呉氏と避難生活をし、陶謙に虐げられた時期の孫策は、劉繇の支配圏のなかにいたということ。
初平四年(193年)、曹操に敗れて寿春に入った袁術は、孫堅との旧縁によってか、呉景・孫賁に支持されて、やっと揚州に根づき始めた。まず廬江太守の陸康を殺して、兵糧不足に応急措置。廬江周氏が袁術・孫策に兵を貸して、ずっと兵力不足に悩んだ袁術は、劉繇に辛勝した。

袁術が徐州刺史の劉備を攻める

興平二(195)年、呉景・孫賁は、孫策(+周瑜)の加勢を得て、劉繇を破る。ここで、呉景は別の動きをした。
また前後しますが、呉景伝を先まで読んでおく。

呉景伝:策遣景賁、到壽春、報術。術方與劉備爭徐州、以景爲廣陵太守。

孫策は(劉繇が豫章まで逃げると)呉景・孫賁を遣わし、寿春に到らせ、袁術に報告させた。袁術は、劉備と徐州を争い、呉景を広陵太守とした。

呉景は初平四年に丹陽太守となったが、劉繇派の丹陽太守(この記事では周尚と推測)に追い出された。いま改めて、征服する目標の地の太守の地位が与えられた。

袁術は、曲阿の一帯を支配下に置くことで、徐州への進攻経路を確保した。『資治通鑑』は、劉備と袁術の戦いを、建安元年の五月条のあと(なか)に置くが、司馬光の意図としては「『秋』字より前に置き、夏のうちと示す」であろう。

先主伝:袁術来攻先主。先主拒之於盱眙、淮陰。曹公表先主、為鎭東将軍、封宜城亭侯。是歲建安元年也。先主与術、相持經月、呂布乗虛襲下邳。下邳守将曹豹反、閒迎布。布、虜先主妻子、先主轉軍海西。楊奉、韓暹、寇徐揚閒。先主邀撃、尽斬之。先主求和於呂布、布還其妻子。

劉備は、袁術を盱眙で防ぎ、曹操は劉備を鎮東将軍・宜城亭侯とした。先主伝に「この歳、建安元年なり」とある。司馬光がここに置いた意図は、「先主伝に従って建安元年であろうが、この年のうちでも曹操が献帝を奉戴する前」という判断が働いたと思われる。
劉備と袁術は、月をまたいで対峙するうち、呂布が下邳を奪い、劉備の妻子を捕らえたので、劉備は軍を転じて海西に転じた。(献帝の護衛から脱落した)楊奉・韓暹が、徐州・揚州の間にきたので、劉備がこれを迎撃した。
どうやら、楊奉・韓暹は、徐州と揚州のあいだに、新しい根拠地を求めたようである。つまり、豊かであるが、支配者が安定しない地域。かつて陶謙の徐州支配から脱落したひとが集まり、劉繇が曲阿から北にむけて手をのばし、いま袁術が入りこんだ地域である。しかし、建安元年の夏から秋にかけては、劉備がここを制圧していた。
士人にとって「避難先」であると同時に、群雄がここに「避難」してくると、新しい勢力の旗揚げを意味する。劉繇・劉備、そして楊奉・韓暹は、動き方が似ている。

同じころのことが、呉景のペアの孫賁伝にあり、

孫賁伝 注引『江表伝』:袁術以吳景守廣陵、策族兄香亦爲術所用、作汝南太守、而令賁爲將軍、領兵在壽春。策與景等書曰「今征江東、未知二三君意云何耳?」景卽棄守歸、賁困而後免、香以道遠獨不得還。

『江表伝』に、袁術が呉景に広陵太守を守せしむと、孫策の族兄の孫香が袁術に用いられ、汝南太守となった。孫賁を将軍として、兵を領して寿春に在らしめた。孫策は呉景ら(孫賁・孫香)に文書を送り、「いま江東を征圧する。二三君(きみたち)の意志はどうだ」と。

孫香は、袁術によって中原の征圧に動員された。袁術の故郷の長官であるから、袁術の子弟を察挙できる。劉備が袁譚を察挙して、恩を売ったように。そして孫賁は、おそらく袁術の「中央軍」を任された。呉景とセットで動くのでなく、呉景とは別の役割を与えられた。
このままだと、「孫策軍」といったものは形成されず、袁術の命令ひとつで、ぽんぽん配置換えされる。孫策は、それを嫌った。

すぐに呉景は守を棄て(袁術集団の守広陵太守としての任地を棄て、孫策軍に)帰属した。孫賁は困してのちに免じられた。孫香は道が遠いから、ひとり(孫策軍に)帰属できなかった。
まるで「孫策軍」の結成に、喜び勇んで駆けつけたように見えるが、ちがう。呉景(というか袁術軍)は、広陵を攻略できなかった。だから、広陵に駐屯することができない。孫賁が「困」した理由は分からないが、中央軍を曹操に破られた責任を負ったか、袁術の故吏たちとの権力闘争に敗れたか。どちらもありそうな話。孫賁は、中央軍に居場所を失って、孫策に帰属することになった。
孫香は、袁術の汝南太守を全うした。「道が遠いから」孫策に帰属しなかったとあるが、最後まで、袁術のために働いたのだろう。汝南は、建安元年に、袁術・曹操が献帝を奪いあって戦う場所である。「献帝を袁術にもたらす」ために、孫香は戦って、曹操軍に敗れたと思われる。

孫香の末路は、同じ孫賁伝に引かれ、

孫賁伝 注引『呉書』:香字文陽。父孺、字仲孺、堅再從弟也、仕郡主簿功曹。香從堅征伐有功、拜郎中。後爲袁術驅馳、加征南將軍、死於壽春。

孫香は、あざなを文陽という。父の孫孺は、あざなを仲孺といい、孫堅の再従弟である。呉郡に仕えて主簿・功曹となる。孫香は、孫堅に従って征伐して功績があり、郎中を拝した。のちに袁術のために駆馳(諸郡県を平定)して、袁術の征南将軍を加えられ、寿春で死んだ。
死ぬまで、袁術軍の将軍であり続けた孫氏もいた、という実例。

孫策と別に動く人々の動きを、先に見ましたが、孫策は劉繇を破ったあと、呉郡の平定にむかう。

孫策が、劉繇に代わる

孫策伝 注引『江表伝』:劉繇既走、策入曲阿勞賜將士、遣將陳寶詣阜陵迎母及弟。發恩布令、告諸縣「其劉繇、笮融等故鄉部曲來降首者、一無所問。樂從軍者、一身行、復除門戶。不樂者、勿強也。」旬日之間、四面雲集、得見兵二萬餘人、馬千餘匹、威震江東、形勢轉盛。

劉繇が逃げてしまうと、孫策は曲阿に入って、将士をねぎらった。部将の陳宝を阜陵に遣わし、母・弟(呉氏・孫権ら)を迎えた。恩を発して令を布き、(長江の東の)諸県に告げた。「劉繇・笮融らの同郷者や部曲のうち、早くに降伏したものは(前歴について)一切を問わない。従軍したい者がいて、1人が軍に入れば、門戸ごとの賦役を免除する。従軍したくなければ、強制しない」と。
旬日の間に、四方から兵員が雲集して、2万余人・馬1千匹を得た。威は江東を震わし、一転して孫策の形勢は盛んとなった。

これまで、慢性的な兵力不足に苦しむ袁術に属し、孫策は、パッとしなかった。
いま孫策は、劉繇の軍・支配領域から、兵員・軍資を得た。これが、呉郡・会稽を平定するための、原動力となる。もともと、劉繇を打ち破ることができたのは、廬江周氏(周瑜)による援助であった。袁術のおかげではない。

分析すらく、孫氏集団は、政治的・名義的には、袁術に依存する。
もともと揚州刺史の配下にあった呉景・孫賁が、袁術が寿春に現れるや、いきなりその配下に入って、丹陽を攻略し、丹陽太守・丹陽都尉の官職をもらった。このように政治資本を使いこなせる、家柄・才覚があるのが、袁術の優越性である。
かつて、不法に越境した長沙太守(&州郡の長官を殺害した犯罪者)である孫堅は、袁術の政治資本を頼って、配下に入った。それと同じように、呉景らも袁術に期待した。
しかし、袁術は、悪い言い方をすれば「官職をもてあそぶ」ことしかできない。いやいや、「もてあそべる」だけで、すごいんですけど。
だから、故吏(いちど袁術から官職をもらったひと)たちが、孫氏の不可避的なライバルとなる。すでに孫策は、バカを見た。連年に渡って廬江太守の陸康を攻撃し、揚州における声望を損なってまで、袁術のために尽力したのに、故吏の劉勲に「廬江太守」という褒賞を横取りされた(形になった)。
こういう形での政治闘争は、ふつうに起こること。政治闘争があることや、敗者が不満を溜めることは、ふつうにある。問題は、孫氏が、そういう闘争に参加したいか、参加して勝ち目があるか、という点である。

上記で、やや先取りしてしまったが(といっても、1年か2年分だけですけど)、孫賁・呉景が、袁術のもとから離れ、(まずは地理的に)孫策のほうに移動するのは、こういう事情があろう。


袁術は、政治資本が豊かであるが、経済資本に弱点がある。孫策が、どれだけ袁術に「兵員を増やしてくれ」と言っても、袁術は、イジワルではなく、ヤリクリの問題によって、叶えてあげられなかった。
袁術軍における経済資本の弱点を、たまたま孫策は、自前で補填できた。廬江周氏から、兵員と軍糧を借りた。袁術の同格以上のライバルの劉繇を倒すことで、現地の租税・兵員をわがものにした。避難地として「活況」を呈した、揚州のうちでも長江よりも東を、孫策は征圧した。

孫策の名声や縁故は、いちども? 帰ったことのない、故郷の富春よりも、孫策自身も避難生活を送った、曲阿のあたりに根づいている。孫策は、偶然も手伝って、熟知した土地を、劉繇から接収することができた。孫策が曲阿で歓迎されたのは、孫策のことを昔から知る人々の「おかえり」コールだったのかも知れない。

『江表伝』で、孫策が劉繇の領土を接収する様子は、孫策の英雄エピソードに見えるが、それは目眩まし。「孫策に会えたら(憧れのアイドルに会ったみたいに)魂魄が吹っ飛んだ」とか、レトリックである。重要なのは、徴税と徴兵である。
孫策は、自前の経済資本を手に入れた。
袁術のいる寿春は、各方位に敵がおり、徐州・豫州・兗州に、領土を拡大するための「中心的な都市」である。つまり「ものすごく消費が激しい」地域である。経済資本に弱い、という傾向は、強化される一方である。
孫策が、これと異なる収益構造を手に入れたことは、マ系の指摘のように「物質によって、孫策集団の性質が規定される」という、唯物論的な考え方によって、孫策と袁術を、構造的に対立させていく。
(孫策を繋ぎ止めるために、また袁術は政治資本を駆使するけど)

これが袁術にとって難しいところで、「消費地の都市」を支えるためには、「後背の生産地」が必要である。その生産地を、これから孫策が、呉郡・会稽を平定することで得ようとするから、「是非たのむ」と言わざるを得ない。
兵法において、現地調達は基本中の基本。そして、遠隔地の将軍が、自立の気配を見せるのも、歴史の常套句。孫策は、袁術・孫策の意志とは無関係に、「袁術から独立しそう」な条件を備えていた。しかし孫策は、いちども袁術を攻撃しなかった。ライバルというか「同僚」の劉勲とも、良好な関係を保った(袁術の死後に、孫策は劉勲をだまし討ちにしたが、だませたのは、関係性が構築されていたからこそ)。
つまり袁術は、経済資本において、孫策への依存性を強める一方で、しかし「孫策に、劉繇・呉郡・会稽の征伐を命じた主君」・「孫氏があおぐ盟主」としての地位を、失うことがなかった。経済的にボロボロなのに、官職をもてあそぶだけで、孫氏をアゴで使えたんだから、袁術はすごい。

◆曹操が献帝を奉戴したメリットは?
袁術の政治資本の有効性に、反論があり得るでしょう。
孫策は、献帝を奉戴した曹操に、籠絡されているじゃないかと。孫策伝を見てみろと。……そういう史料があることは、知っています。
思うに、おそらく孫策の実態は、皇帝袁術と後漢献帝に、往復書簡の形式上は「両属」していたのではないかと。
のちの孫権は、曹操・曹丕に従ったふりをして、実際に曹氏の軍がくると、強く拒絶する。地理的に離れ、長江に隔てられているがゆえに「書面上は、なんとでも言える」のです。どうして、孫権だけが、その怪しげな「両属」戦略をつかって、孫策が使わないことがあろうか。配下のブレーンは、ほぼ同じなのだ。

きっと、曹操は「言ったもん勝ち」作戦を発動して、献帝の名のもとに、孫策に官職を与えたり、袁術の討伐を命じたりする。きっと袁術も。そして孫策も、張昭・張紘らの知恵を借りて「言ったもん勝ち」という同じ作戦によって応答する。
けっきょく(元も子もない話だけど)勝敗は、戦争によって決するのです。他ならぬ孫策が、戦争によって呉郡・会稽を切り取った。ならば、戦争をせぬ限り、孫策が、どちらかに本質的に屈服することはない。のちの曹操だって、孫権がいかに書面上は屈服しても、長江に大軍を送りこむことを辞めなかった。

遠隔地の軍閥に対して、複数の皇帝が、官爵をポトラッチするのは、遼東の公孫氏に対して、魏・呉が、形式上は優遇しまくったことと同じ。公孫氏は、どちらかの使者を切るなり、使者を相手方に突き出すことにより、移り気な意志を表現する。いいご身分であるが、これも遠さゆえの特権。
孫策伝の最初の裴注で、孫策が「呉郡・会稽をねらって割拠したい」と言うと、張紘は「漢朝の藩になると自己認識しなさい」と教えた。さもないと、ただの賊となる。ちょうど、遼東の公孫氏は、独自の漢の二祖(高帝・光武帝)を祭った。遠隔地の軍閥は、このように自己の政権の意義をオマケして付け、現地のライバルたちを圧倒しつつ、中央政権からのポトラッチを待つ。
東西南北の異民族だって、漢族の王朝をこのように利用して、現地での権力闘争に勝とうとする。呉の背後にあると観念された、邪馬台国も、同じような理由で、魏(きっと呉とも)外交した。

あとは、呉朝の歴史家が、献帝との往復書簡だけ、選択的に保存すれば、それで「袁術と絶縁して、献帝に乗り換えた、漢朝の忠臣・孫策」が誕生する。ちょろいもんです。

ぼくはかつて「孫策は、袁術の忠臣であることを貫いた。袁術への絶縁状は、後年の偽作」と書きました。これは、呉朝の歴史家による操作を、裏返しただけ。恐らく、妥当ではない。孫策の実態は、きっと形式的な両属。献帝にも敬意を払い、袁術にも敬意を払った。しかし現実は、江東から租税と兵員を集める権限をもって、中立? 傍観? の第三勢力への道を、歩み始めていた。
袁術軍は侮りがたいし、盟主の袁術を攻撃したら、人間関係や評判がギクシャクする。袁術の皇帝即位が、政治的に正解だったかどうかはサテオキ、やはり孫氏の支配力は、袁術の政治資本に頼るところが大きい。かといって、献帝の影響力を、貧乏くさく利用しまくる、新興勢力の曹操からのウザい連絡を、無視することもできない。だから、遠隔地にあって、形式上は両属。


生半可な日本史の知識の流用の疑いがあるが、「曹操は、献帝を奉戴することで、諸侯に命令をできる立場になった」という指摘がある。しかし、どこまで有効だったのか怪しい(日本史の場合も、どうだったのか)
袁紹は、席次を曹操の下に据えられて、イラッとしただけ。結局は、すごい大軍で押しよせてきた。張繍が曹操に降ったのは、賈詡による「弱いほうに味方して恩を売り、影響力を得よう」という打算によるもの。呂布が、官職を得られずにムカッとしていたが、あれは在地の陳珪・陳登が、皇帝の威光を利用しただけであり、曹操はタダ乗りしただけ(もしも献帝が曹操のもとに居なければ、献帝の居所を探して行くだけ)。そのあと、曹操が呂布を殺せたのは、城攻めの軍略による。因果関係がうすい。
とすると、
曹操が(建安初期に)献帝の名義を有効活用できそうなのは、袁術集団の切り崩しだけ。なぜなら、袁術だけが皇帝に即位し、「うちの漢の忠臣なのだ」というポーズを取れなくなったから。
その袁術集団の孫策ですら、実際に曹操に利する軍事行動(袁術を攻めるとか)を、いちども起こさなかった。やったのは、独自に徐州・揚州を攻めて(袁術の敵でもある人々を攻めて)、袁術のものとも、孫策のものとも確定できない領土を拡大しただけ。史実に反して、もうちょい、袁術の王朝が存続して、「袁術が、孫策を寿春に召還するが、孫策がそれに抵抗して挙兵」みたいなイベントがあれば、孫策の「絶縁」が明らかになった。しかし、袁術は孫策の利用価値を分かっているのか、どこまで「割り切ったお付き合い」なのか分からないが、孫策の江東の支配に、文句を付けなかった。袁術・孫策に共通する外敵が多いのに、争っている場合ではない。

孫策から袁術への、税収の上納はどうなっていたか。これが分かれば、孫策と袁術の関係が判明するのだが。もしかしたら孫策は、袁術の称帝を理由に、上納をしぶるようになって、そのときの書翰が残っており、絶縁状として史書に引かれたとか。

孫策の場合を検討しましたが、
けっきょく、曹操が献帝を奉戴したことによる、現実的なメリットって、なんだったんだ。河北の袁氏を破ったあとは、赤壁で周瑜に「漢賊」と言われて反抗される。馬騰を手許に置くことには、役立ったかも知れないが、馬超との戦いは、その甲斐もなく発生した……。

呉朝の歴史家に「孫策は、皇帝となった袁術を見限った」というストーリーを書くための、テキスト素材を提供したことくらいか。
孫策が、まだ呉郡に進む前に、だいぶ先のことまで書いてしまった。通勤電車のなかで、『三国志集解』孫策伝を読むから、頭が先走ってしまう。史料に戻りましょう。

建安元年、さきに会稽を征圧する

孫策伝:吳人嚴白虎等、衆各萬餘人、處處屯聚。吳景等、欲先擊破虎等乃至會稽。策曰「虎等羣盜、非有大志。此成禽耳」遂引兵渡浙江、據會稽、屠東冶、乃攻破虎等。

呉郡のひと厳白虎らは、それぞれ1万余人の軍勢をもち、あちこちに屯聚する。呉景らは、さきに厳白虎らを撃つため、会稽に至る。孫策は「厳白虎らは群盗であり、大志をもたない。捕虜と成るのみだ」と。ついに兵をひきいて浙江をわたり、会稽に拠って、東冶をほふってから、厳白虎らを攻めた。

厳白虎が、特別に弱いのではない。呉郡の1郡を支配したのが、劉繇であった。劉繇を倒せば、メインの敵は残っていない、という意味だろう。


◆孫静伝(王朗を破る)

孫靜字幼台,堅季弟也。堅始舉事,靜糾合鄉曲及宗室五六百人以為保障,眾鹹附焉。策破劉繇,定諸縣,進攻會稽,遣人請靜,靜將家屬與策會于錢唐。

孫静は、孫堅が(172年の許昌or許生の乱のとき)戦闘を始めると、郷里の部曲および宗室5-6百人をあわせて、(富春県の)守備を固めた。(時間が流れまくり)孫策が劉繇を破ると、諸県を定め、進んで会稽を攻めた。孫策は人をやって、孫静に「家属をひきいて、銭唐で合流しよう」と要請した。

孫策が、呉郡の「色の塗り残し」を潰すのは、後にした。さきに会稽にいくのは、孫策伝に合致。孫静のいる、孫氏の郷里の富春は、呉郡のなかでも、劉繇がいた北部ではなく、会稽に近い南部である。ここで孫策は、一族をあげて兵衆を動員することを、おじの孫静に求めた。もともと孫策は、袁術に「江東は故郷があるんで、兵を調達できる」と言っていた。予定どおりの行動。


是時太守王朗拒策於固陵,策數度水戰,不能克。靜說策曰:「朗負阻城守,難可卒拔。查瀆南去此數十裏,而道之要徑也,宜從彼據其內,所謂攻其無備、出其不意者也。吾當自帥眾為軍前隊,破之必矣。」策曰:「善。」

このとき会稽太守の王朗は、孫策を固陵でふせいだ。たびたび孫策は、水戦したが、王朗に勝てない。孫静は、孫策に説いた。「王朗は、攻めにくい地形を守っています。すぐに固陵をぬくのは、難しい。査瀆は、ここから南へ数十里で、交通のかなめです。査瀆から(王朗軍)の内側の地に拠れば、王朗の守備のない所をつけます。私が前軍となり、査瀆を抑えます。必ず王朗を破れます」と。孫策は「たのみます」と。

乃詐令軍中曰:「頃連雨水濁,兵飲之多腹痛,令促具罌缶數百口澄水。」至昬暮,羅以然火誑朗,便分軍夜投查瀆道,襲高遷屯。朗大驚,遣故丹楊太守周昕等帥兵前戰。策破昕等,斬之,遂定會稽。

孫静は、軍中にウソの命令を出した。「連日の雨で、水が濁っている。濁った水を飲み、おおくの兵士が腹痛だ。数百のカメを用意し、澄んだ水を用意させよ」

『説文解字』によると、「罌」とは「缶」。師古によると、腹が大きくて、口が小さいビン。

日が暮れた。火を照らして居場所をいつわり、王朗をあざむいた。孫静は、夜に査瀆の道をゆき、高遷の屯所を襲った。王朗は大いに驚き、もと丹楊太守の周昕らを、進ませて戦わせた。孫策は周昕を斬って、ついに会稽を平定した。

周昕は、袁術が寿春に入ったとき、最初に標的にした丹陽太守。呉景・孫賁に破れた。いま、周昕は故郷の会稽に帰り、おそらく会稽太守の王朗の府に出仕していた。
孫静伝は何を言いたいかというと、会稽を平定したのは、孫策でなく、孫静の功績であると。故郷の呉郡で長官になれない孫氏は、孫策・孫権とも「会稽太守」を称する。この称号を与えたのが孫静。孫静が、群盗・黄巾・群雄から守ってきた富春は、会稽郡の主要部分(浙江ぞい)に近い。ゆえに地理を知り尽くした戦い方ができた。


表拜靜為奮武校尉,欲授之重任,靜戀墳墓宗族,不樂出仕,求留鎮守。策從之。權統事,就遷昭義中郎將,終於家。

上表して(孫策→袁術から、献帝にお伺いを立てたという建前で)孫静を奮武校尉とした。孫策は重任を授けたいが、

ひらたく言えば、孫策は、袁術を介して、孫静を会稽太守にしたい。若すぎる孫策が、会稽太守になるのは不自然であった。孫静が、しつこく辞退したことで、「孫策が会稽太守になるのも、やむなし」という空気ができたと思われる。

孫静は、墳墓・宗族を守っていたいから、故郷に留まりたい。孫策は従った。

◆王朗伝(孫静に敗れる)

王朗、字景興、東海郡人也。……徐州刺史陶謙、察朗茂才。時漢帝在長安、關東兵起。朗爲謙治中、與別駕趙昱等說謙曰「春秋之義、求諸侯、莫如勤王。今天子越在西京、宜遣使奉承王命」謙乃遣昱奉章、至長安。天子嘉其意、拜謙安東將軍。以昱爲廣陵太守、朗會稽太守。

王朗は、東海郡(郯県)のひと。徐州刺史の陶謙によって茂才に察せられた。王朗は治中となり、別駕の(瑯邪の)趙昱とともに陶謙に説く。「春秋の義によると、諸侯に求めることは、勤王が最優先である。いま天子は長安にいる。使者を遣わして王命を受けよ」と。陶謙は、趙昱に文書を持たせ、長安に行かせた。天子は(193年)、陶謙を安東将軍、趙昱を広陵太守として、

『三国志集解』は、『范書』陶謙伝とのズレを指摘する。『范書』は、趙昱が広陵太守となったのは、陶謙に疎まれたからとする。しかし王朗伝では、長安の任命によって(とくに陶謙と関係を悪化させず)広陵太守となる。
思うに、王朗伝が正しい。陶謙を悪人にしたい歴史家が、趙昱の任地が遠いことに託け、陶謙の悪感情を作った。趙昱が赴任した広陵は、曲阿の劉繇と連携でき、士人らの避難地となっている。べつに「徙刑」ではない。太守だし。

王朗を会稽太守とした。

『范書』桓曄伝によると、桓曄の姑は、司空の楊賜の夫人となった。桓曄が京師にきても、楊氏の家に泊まったことがない。初平期、桓曄は会稽に避難した。
『范書』袁閎伝によると、袁忠は官職を捨てて、会稽の上虞で客寓された。いちど太守の王朗と会ったら、徒衆が整飾であり、心に嫌って、病気と称して交際を断った。……とある一方で、王朗がゼイタクしなかったことを、李賢注 謝承『後漢書』や『東観記』が伝える。
『蜀志』許靖伝によると、王朗は許靖と旧知である。ゆえに王朗を頼ったと。王朗は許靖に文書を送り「男子が2人おり、長男は王粛といい、年は39歳。会稽で生まれた」という。許靖伝の注に見える。
まとめると、会稽太守の王朗は、士人の避難の受け入れ先となり、桓曄・袁閎・許靖がいた。このうち、許靖だけが王朗と仲が良かった。


王朗伝 注引『王朗家伝』:會稽舊祀秦始皇、刻木爲像、與夏禹同廟。朗到官、以爲無德之君、不應見祀、於是除之。居郡四年、惠愛在民。

会稽の古俗で、始皇帝を祭った。木造をつくり、夏禹と同じ廟に祭った。王朗が着任すると、始皇帝は無徳の君主であり、夏禹と合祀すべきでないから、木造を撤去させた。郡にいること4年。現地の民に恵みをほどこして愛した。

『後漢紀』初平四年正月の条に掛けて「五月」より前に、「徐州刺史陶謙遣使奉貢,以謙為徐州牧」とあり、陶謙が徐州刺史から徐州牧・安東将軍にアップグレードする。初平四(193)年から4年というと、建安元(196)年となる。孫策の会稽攻めが196年となり、この記事の時系列と整合する。


孫策渡江略地。朗功曹虞翻以爲、力不能拒不如避之。朗、自以身爲漢吏、宜保城邑、遂舉兵與策戰。敗績、浮海至東冶。策又追擊、大破之。朗乃詣策。策、以朗儒雅、詰讓而不害。雖流移窮困朝不謀夕、而收卹親舊分多割少。行義甚著。

孫策が渡江して、会稽の地を侵略した。王朗の功曹の虞翻が考えるに、「孫策の戦力に敵わないから、避けるべき」と。王朗は、自らが漢吏なので、城邑を保つべきと考え、ついに孫策と戦った。破れて、海路で東冶に逃げたが、孫策に追撃された。王朗は孫策のもとに至る。王朗が儒雅なので、詰譲したが殺害せず。逃亡して、朝に困窮して夕に謀略も尽きたが、従者らに食糧をきちんと配分した。

王朗伝 注引『献帝春秋』:孫策率軍如閩、越討朗。朗泛舟浮海、欲走交州、爲兵所逼、遂詣軍降。策令使者詰朗曰「問逆賊故會稽太守王朗。朗受國恩當官、云何不惟報德、而阻兵安忍?大軍征討、幸免梟夷、不自掃屏、復聚黨衆、屯住郡境。遠勞王誅、卒不悟順。捕得云降、庶以欺詐、用全首領、得爾與不、具以狀對。」朗稱禽虜、對使者曰「朗以瑣才、誤竊朝私、受爵不讓、以遘罪網。前見征討、畏死苟免。因治人物、寄命須臾。又迫大兵、惶怖北引。從者疾患、死亡略盡。獨與老母、共乘一欐。流矢始交、便棄欐就俘、稽顙自首於征役之中。朗惶惑不達、自稱降虜。緣前迷謬、被詰慚懼。朗愚淺駑怯、畏威自驚。又無良介、不早自歸。於破亡之中、然後委命下隸。身輕罪重、死有餘辜。申脰就鞅、蹴足入絆、叱咤聽聲、東西惟命。」

孫策が閩越まで、王朗を追い詰めた。王朗は交州に逃げられず、投降した。孫策は使者に王朗を詰問させた。「逆賊のもと会稽太守に問う。王朗は国恩を受けて、太守の地位に就いたのに、なぜ徳に報いようとせず(孫策軍)兵を阻んだのか。大軍(孫策軍)が征討し、幸いに梟首を免れたが、ふたたび軍勢を集めて、郡境に屯している。遠く王(袁術?)の軍に誅殺をわずらわせ、恭順することを悟らない。捕まったら『降伏する』といい、欺いて生き残ろうとする。申し開きをしてみろ」と。

袁術の正義の所在、孫策軍の信念が、よく分かる史料。「王朗は、漢朝から恩を受けて官職にあるのに、徳に報いず(職責を果たさず)、そのくせに、わが軍が来ると防戦・抵抗しやがって」と。孫策軍は、怠慢な官僚を追放する「世直し」運動な感じ。
後漢末の群雄や士人は、漢の存続・復興を、ふつうは支持しない。袁紹が始める割拠の時代の根底には、漢の悪政に対する「怨嗟」が渦巻き、戦争の原動力になった。だが、戦争の勝敗!という偶然も手伝い、袁紹・袁術が倒れ、曹丕・劉備が漢を肯定する王朝を作り、漢を美化したから、その「怨嗟」は史料に残りにくいが。

王朗は「禽虜」と自称して、卑屈に詫びたのでした。

太祖、表徵之。朗、自曲阿展轉江海積年、乃至。
裴注:朗被徵未至。孔融與朗書曰「世路隔塞、情問斷絕、感懷增思。前見章表、知尋湯武罪己之迹、自投東裔同鯀之罰、覽省未周、涕隕潸然。主上寬仁、貴德宥過。曹公輔政、思賢並立。策書屢下、殷勤款至。知櫂舟浮海、息駕廣陵、不意黃熊突出羽淵也。談笑有期、勉行自愛!」
裴注引『漢晋春秋』:孫策之始得朗也、譴讓之。使張昭私問朗、朗誓不屈、策忿而不敢害也、留置曲阿。建安三年、太祖表徵朗、策遣之。太祖問曰「孫策何以得至此邪?」朗曰「策勇冠一世、有儁才大志。張子布、民之望也、北面而相之。周公瑾、江淮之傑、攘臂而爲其將。謀而有成、所規不細、終爲天下大賊、非徒狗盜而已。」

曹操が(孫策に捕らわれた)王朗を徴した。王朗は曲阿から、長江や海路をへて、数年かけて(曹操のもとに)至った。
孔融は王朗に手紙を書いた。「曹操が輔政され、賢者を任用したいと思っています。策書がしばしば下され、王朗のことを思いやっています。海路から、広陵にたどり着いて休んでいると聞きました。早くお会いしたいです」
『献帝春秋』はいう。孫策が王朗を捕らえると、譴責した。ひそかに張昭に訪問させると、王朗は屈さぬと誓っていた。孫策は怒ったが、敢えて殺さず、曲阿に留め置いた。建安三(198)年、曹操は王朗を徴した。孫策は王朗を行かせる。

建安三年末、曹操が呂布を殺す。徐州にゆかりのある士人を、朝廷の権限をつかって、曹操が任命しまくっている時期。このとき、袁術は弱っている。孫策は、曹操・袁術に両属している。「王朗を殺すと、名声を損ねる。しかし王朗を生かしても、抵抗される」と、持て余していた孫策にとっては、片方の盟主である曹操が、王朗を引き取ってくれて、嬉しかったのだろう。

曹操は王朗に「孫策は、なぜこの勢力を築くに至ったか」と聞いた。王朗は、孫策・張昭・周瑜のことをほめ、このままだと天下の大賊になる、狗盗で終わるやつらではない」と答えた。

虞翻伝によると、虞翻は会稽太守の王朗の功曹となった。

翻別傳曰:朗使翻見豫章太守華歆,圖起義兵。翻未至豫章,聞孫策向會稽,翻乃還。會遭父喪,以臣使有節,不敢過家,星行追朗至候官。朗遣翻還,然後奔喪。而傳雲孫策之來,翻衰絰詣府門,勸朗避策,則為大異。

王朗は、虞翻を使者として、豫章太守の華歆と義兵を起こそ(袁術に対抗しよ)うとした。虞翻が豫章に至るより前に、孫策が会稽に向かうと聞いたので、虞翻は豫章から会稽にもどった。ちょうど父が死んだが、王朗を守って候官に至った。王朗は、虞翻を帰宅して服喪させた。
これが虞翻伝 注引『呉書』だと、虞翻が王朗を広陵に送ろうとするが、王朗が予言を信じて交州に向かおうとして、虞翻が諌める。王朗の逃げ先は、きっとモメて迷ったはずなので、裴松之が言うように史料に混乱があるが、怪しまなくてよい。
着目したいのは、会稽太守の王朗が、豫章太守の華歆と連携し、袁術に対抗しようとしたこと。華歆のことは、また後で出てくる。

呉郡の厳白虎を討つ

ここの孫策伝に引く『呉録』に、平定の記述がある。会稽で王朗を捕らえたあと、呉郡にとって返して、放置していた残敵の掃討にかかった。

『呉録』:時有烏程鄒他、錢銅及前合浦太守嘉興王晟等,各聚眾萬餘或數千。引兵撲討,皆攻破之。策母吳氏曰:「晟與汝父有升堂見妻之分,今其諸子兄弟皆已梟夷,獨餘一老翁,何足複憚乎?」乃舍之,餘鹹族誅。
臣松之案:許昭有義於舊君,謂濟盛憲也,事見後注。有誠於故友,則受嚴白虎也。

烏程(呉郡)の鄒他・銭銅と、さきの合浦太守の嘉興(呉郡の由拳県のこと)の王晟らは、1万余あるいは数千を集めて(呉郡の各地に割拠する)。孫策は、すべて攻破した。孫策の母の呉氏が、「王晟は、亡父の孫堅と、升堂して妻に会うほどの親友であった。いま王晟の親族をみな殺した。老いた王晟だけを残しても、なんの支障がありますか」と。孫策は、王晟だけを生かし、残りを族誅した。

『呉録』:策自討虎,虎高壘堅守,使其弟輿請和。許之。輿請獨與策會面約。既會,策引白刃斫席,輿體動,策笑曰:「聞卿能坐躍,剿捷不常,聊戲卿耳!」輿曰:「我見刃乃然。」策知其無能也,乃以手戟投之,立死。輿有勇力,虎眾以其死也,甚懼。進攻破之。虎奔餘杭,投許昭於虜中。程普請擊昭,策曰:「許昭有義於舊君,有誠於故友,此丈夫之志也。」乃舍之。

孫策が(会稽を得たあと)自ら厳白虎を討つ。厳白虎は塁を高くして堅守した。弟の厳輿に、請和させた。孫策はこれを許して、「厳輿はひとりで来い、面会しよう」と約束した。その席で、孫策は厳輿を殺した。厳輿は、厳白虎の軍のなかで強者と認められており、その厳輿が殺されたから、みな懼れた。
孫策に敗れた厳輿は、余杭(呉郡、のちに呉興郡に改編)に逃げて、虜中で許昭に投じた。

『三国志集解』によると、虜中は誤りが疑われる。
沈家本がいう。潘眉は、会稽の妖賊の許昌の子に「許韶」がいたから、これと、厳白虎が投じた許昭を同一人物とする。しかし、熹平三年に臧旻・孫堅は、許昌の父子を捕らえたし、すでに21年が経過して、別人である。

程普が「厳白虎をかくまった許昭を撃とう」というと、孫策は「許昭は、旧君(呉郡太守の盛憲)に義があり、故友に誠がある。これは丈夫の志である」といって、放置した。

許昭の旧君が、呉郡太守であることから、許昭は呉郡のひと。会稽の妖賊とは、出身の郡が異なるから、やはり別人であると。


◆盛憲伝
呉郡太守の盛憲のことは、孫韶伝にひく『会稽典録』に見える。

會稽典錄曰。憲字孝章、器量雅偉、舉孝廉、補尚書郎、稍遷吳郡太守、以疾去官。孫策平定吳、會、誅其英豪、憲素有高名、策深忌之。初、憲與少府孔融善、融憂其不免禍、乃與曹公書曰「歲月不居、時節如流、五十之年、忽焉已至。公爲始滿、融又過二、海內知識、零落殆盡、惟會稽盛孝章尚存。其人困於孫氏、妻孥湮沒、單孑獨立、孤危愁苦、若使憂能傷人、此子不得復永年矣。春秋傳曰『諸侯有相滅亡者、桓公不能救、則桓公恥之。』今孝章實丈夫之雄也、天下譚士依以揚聲、而身不免於幽執、命不期於旦夕、是吾祖不當復論損益之友、而朱穆所以絕交也。公誠能馳一介之使、加咫尺之書、則孝章可致、友道可弘也。今之少年、喜謗前輩、或能譏平皮柄反。孝章。孝章要爲有天下大名、九牧之民所共稱歎。燕君市駿馬之骨、非欲以騁道里、乃當以招絕足也。惟公匡復漢室、宗社將絕、又能正之、正之之術、實須得賢。珠玉無脛而自至者、以人好之也、況賢者之有足乎?昭王築臺以尊郭隗、隗雖小才、而逢大遇、竟能發明主之至心、故樂毅自魏往、劇辛自趙往、鄒衍自齊往。嚮使郭隗倒縣而王不解、臨溺而王不拯、則士亦將高翔遠引、莫有北首燕路者矣。凡所稱引、自公所知、而有云者、欲公崇篤斯義也、因表不悉。」由是徵爲騎都尉。制命未至、果爲權所害。子匡奔魏、位至征東司馬。

盛憲は、呉郡太守となり、病気で官職を去る。孫策が呉郡・会稽を平定すると、現地の英豪を誅した。盛憲は高名があるから、孫策に忌まれた。はじめ盛憲は、孔融と交友した。孔融は盛憲が禍を免れぬことを憂い、曹操に文書を送った。「盛憲は、孫氏に迫られている。妻は行方知れず、子が1人いるだけ。貴重な人材を失ったら、良くないよ」と。孔融の言い分は、はぶく。

孔融は、さっき王朗に文書を送ったり、情報のネットワークがすごい。

これにより曹操は、盛憲を徴して騎都尉とした。制命が至る前に、孫権に殺害された。子の盛匡は、魏に逃げて、征東将軍司馬にまでなった。

◆程普伝より
呉郡の平定のとき、程普が活躍している。

程普伝:堅薨、復隨孫策在淮南、從攻廬江、拔之、還俱東渡。策到橫江、當利、破張英、于麋等。轉下、秣陵、湖孰、句容、曲阿。普皆有功、增兵二千、騎五十匹。進破、烏程、石木、波門、陵傳、餘亢、普功爲多。策入會稽、以普爲吳郡都尉、治錢唐。後徙丹楊都尉、居石城。復討、宣城、涇、安吳、陵陽、春穀諸賊、皆破之。

横江・当利で、劉繇軍の張英・于麋を破った。劉繇の領土から、秣陵・湖孰・句容・曲阿を奪って、兵2千・騎50匹を増やされた。これは、劉繇軍から吸収したものだろう。つぎに呉郡の、烏程・石木・波門・陵傳・餘亢を平定した。あらかた呉郡が落ちつくと(厳白虎を後回しにして)孫策が会稽にゆく。程普を呉郡都尉として、銭唐に治させた。
孫策がふらふら会稽に行ったように見えるが、程普が抑えていた。

呉郡太守の許貢のこと

孫策は、会稽太守の王朗と戦っているが、それとツイをなすはずの呉郡太守は、許貢である。孫策伝では、孫策を殺すのが、許貢の関係者なので、構成上の都合で、末尾に許貢の名前が初出する。分かりにくいので、許貢の史料を集めておく。

◆朱治伝

時太傅馬日磾在壽春,辟治為掾,遷吳郡都尉。是時吳景已在丹楊,而策為術攻廬江,於是劉繇恐為袁、孫所并,遂搆嫌隙。而策家門盡在州下,治乃使人於曲阿迎太妃及權兄弟,所以供奉輔護,甚有恩紀。治從錢唐欲進到吳,吳郡太守許貢拒之於由拳,治與戰,大破之。貢南就山賊嚴白虎,治遂入郡,領太守事。策既走劉繇,東定會稽。權年十五,治舉為孝廉。後策薨,治與張昭等共尊奉權。

馬日磾により、朱治は呉郡都尉となる。曲阿にいて、劉繇に捕まりそうな孫策の母と弟を回収した。朱治が(孫策の母と弟を連れて)銭唐から呉郡に進もうとすると、呉郡太守の許貢が、由拳で防ぎ、朱治と戦った。

許貢の狙いは、おそらく「孫策の家族をつかまえて、劉繇に送り届ける」である。揚州は、献帝-劉繇に連なる、常識的? 守旧的な官僚と、袁術派とに分かれる。許貢は、劉繇派である。

許貢は敗れて、山賊の厳白虎を頼った。朱治は呉郡に入ることができ、太守事を領した。

孫策が、呉郡を後回しにできたのは、朱治が「領太守事」していたから。朱治の兵力は、呉郡都尉としてのものか。

孫策が劉繇を走らせ、会稽を平定した。孫権は15歳のとき、朱治を孝廉にあげた。

◆孫策伝 注引『江表伝』

初,吳郡太守 許貢 上表於漢帝曰:「孫策驍雄,與項籍相似,宜加貴寵,召還京邑。若被詔不得不還,若放於外必作世患。」策候吏得貢表,以示策。策請貢相見,以責讓貢。貢辭無表,策即令武士絞殺之。貢奴客潛民間,欲為貢報讐。

はじめ呉郡太守の許貢は、漢帝に上表した。

許貢が呉郡太守の任にあるので、劉繇がまだ曲阿で州長官をしている時期か。

「孫策は項羽に似ている。貴寵を加え、京邑に召還してしまえ。もし召還せねば(袁術のために戦って、劉繇を駆逐する結果となり)必ずや世の患いとなる」と。孫策の斥候の吏が、この文書をうばって孫策に見せた。孫策は、許貢を責譲した。許貢の言葉が無表? なので、孫策はすぐに許貢を絞殺させた。許貢の奴客は、民間にひそんで、復讐のチャンスをねらった。

きっと劉繇・許貢・王朗らには、これから孫策が袁術によって活用され、後漢の正当な地方長官を攻めにくることを、予見していた。それほど、孫堅・孫策が培った武名は、高かったことになる。
案の定、孫策は、揚州刺史・呉郡太守・会稽太守を滅ぼしにくるから怖い。

しかし、許貢の末路が矛盾する。朱治伝では、許貢は厳白虎を頼った。孫策伝 注引『江表伝』では、孫策が許貢と面会して、殺した。許貢が厳白虎を頼る、孫策が厳白虎を破る、厳白虎のもとにいた許貢が捕まる、という順序であろうか。

◆許靖伝

依揚州刺史陳禕。禕死,吳郡都尉許貢、會稽太守王朗素與靖有舊,故往保焉。靖收恤親里,經紀振贍,出於仁厚。孫策東渡江,皆走交州以避其難,靖身坐岸邊,先載附從,疎親悉發,乃從後去,當時見者莫不歎息。既至交阯,交阯太守士燮厚加敬待。

許靖は、揚州刺史の陳禕を頼った。陳禕が死ぬと、呉郡都尉の許貢・会稽太守の王朗は、許靖と旧知なので、彼らを頼った。孫策が長江を渡ってくると、みな交州に難を避けたが、許靖だけが岸辺に座り、疎きも親しきも船に乗せてから、最後に許靖が乗船した。
……とくに情報が増えなかった。

呉郡・会稽の平定のまとめ

劉繇と袁術(孫氏)の対立が始まるのは、興平元(194)年。
これより前(←こうい書き方がズルいですね、でも興平元年のうちで、開戦の前です)馬日磾によって、呉郡都尉に任命された朱治は、劉繇のもとにいる孫氏の家族(孫権ら)を回収して、呉郡に移した。呉郡都尉としての任地で、匿うつもりだったと思われる。

孫氏の家族が、マヌケにも劉繇の城である曲阿にいる理由は、はじめ、孫氏は劉繇の配下にあったから。孫氏が、突如として寿春に現れた袁術に(突如として方針を転換して)従うと、その迅速な決断についてゆけず、家族が取り残された。

孫策の家族に恩紀をほどこしながら護送する朱治は、袁術・孫策を脅威に感じている、呉郡太守の許貢によって、攻撃を受けた。朱治は許貢を破って、太守の権限を領した。許貢は、呉郡の厳白虎を頼った。
つまり、劉繇がまだ曲阿にいるうちに、実質的に、呉郡での権力の交替(袁術派が劉繇派を駆逐する)が済んでしまった。

呉郡太守の許貢を、豫州刺史の郭貢と同一人物と見なすべきらしい。郭貢は、曹操が留守のとき、呂布が兗州を攻めると、荀彧の守る弱々しい城まで赴き、降伏をせまった。荀彧に一喝されて、退いたという。つくづく「乱世向き」ではない。


興平二(195)年、許貢の心配が的中して、孫策が劉繇を破った。孫策は、曲阿に入った。曲阿で、兵力・物資を持久できるようになった。
順当に攻め進むなら、呉郡を平定して回るべき。しかし呉郡は、朱治が太守も同然であり、主な残敵は、厳白虎くらいしかいない。そこで孫策は、程普を呉郡都尉として残し(馬日磾に呉郡都尉に任じられた朱治は、スライドして呉郡太守とし)、会稽太守の王朗を撃ちにいった。会稽の治所の近くには、孫堅に従わず、故郷を守っていた、おじの孫静がいる。孫策は、孫静を駆り出した。

会稽の戦いは、建安元(196)年であると、『王朗別伝』により判明する。
会稽太守の王朗も、孫策が脅威となることを感じており、豫章太守の華歆と連携するため、配下の虞翻を使わしたところ。しかし、恐らく王朗が動いたのは、孫策が劉繇と開戦してからで、許貢よりも対応が遅かった。孫策が接近すると聞いて、虞翻は戻ってきた。
孫策の攻撃を受けた。地形を活かして凌いだが、孫静の作戦立案により、王朗は敗北。王朗は「漢吏として、城邑を守らねばならん」と責任感を発揮し、孫策と戦った。しかし、それがウラメに出たらしい。王朗は、孫策の使者に「漢吏のくせに職責を果たさず、王者の軍(正義の袁術軍)の手を煩わせるとは、なにごとか。サボるならサボって、一瞬で降伏しろ。マジメにやるなら、初めから善政をしろ」と、一貫性がないと決めつけられた。

こうして孫策は、いわゆる「呉会の地」を獲得した。161210

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(番外編)豫章太守まとめ

孫策伝の時系列を整理するのが主眼ですが、気になっていることがあるので、先に解消。さきに王朗伝をやりましたが、華歆伝と孫策伝との関係はいかに。

華歆伝を確認する

華歆伝:靈帝崩、何進輔政、徵河南鄭泰、潁川荀攸及歆等。歆到、爲尚書郎。董卓遷天子長安、歆求出爲下邽令。病不行、遂從藍田至南陽。
華歆伝 注引 華嶠『譜敍』:歆少以高行顯名。避西京之亂、與同志鄭泰等六七人、閒步出武關。道遇一丈夫獨行、願得俱、皆哀欲許之。歆獨曰「不可。今已在危險之中、禍福患害、義猶一也。無故受人、不知其義。既以受之、若有進退、可中棄乎!」衆不忍、卒與俱行。此丈夫中道墮井、皆欲棄之。歆曰「已與俱矣、棄之不義。」相率共還出之、而後別去。衆乃大義之。

霊帝が崩じて何進が輔政すると、河南の鄭泰・潁川の荀攸・平原の華歆らを徴した。

『范書』鄭泰伝によると、鄭泰は河南の開封のひと。何進に徵され、尚書侍郎となった。『陳志』荀攸伝によると、何進は海内の名士を20余人めし、荀攸は黄門侍郎となった

華歆が到ると、尚書郎とした。董卓が長安に遷都すると、華歆は「下邽令(京兆尹に属す)となりたい」と求めた。病気で赴任せず、藍田(京兆尹に属し、美玉を産す)から南陽に至った。
華歆は高行により名を顕わし、長安の乱を避けた。同志の鄭泰ら6-7人ともに、こっそり武関を歩き出た。道中で1人に同行を願われ、忍びずに許した。彼が井戸に落ちたので、みな捨てていこうとした。華歆「いちど同行すると決めたら、棄てるのは不義である」といい、救出した。みな華歆を大いに義とした。

『世説新語』方正篇・徳行篇にも引用された『譜叙』の逸話。武関は、武帝紀 初平元年に。
『世説新語』徳行篇に、華歆・王朗が船に同乗して、1人が溺れて頼ってきた。華歆が拒んだが、王朗が救った。のちに王朗が、この人を棄てようとしたが、華歆は棄てなかった。一貫性のある華歆と、場当たり的な王朗の優劣を示していると。


袁術在穰、留歆。歆說術使進軍討卓、術不能用。歆欲棄去、

袁術が穣県(南陽郡)にいて、華歆を留めた。華歆は袁術に「進軍して董卓を討て」と説いたが、袁術は用いることができず。華歆は(袁術を)棄てて去りたい。

袁術が孫堅を使って董卓と戦ったとき、魯陽におり、董卓と戦った。史料では、すでに董卓が長安におり、つぎに馬日磾が出てくる。つまり、孫堅を失ったあと、袁術は南陽で蕩尽するとき、穣県にいた。魯陽よりはずっと南西で、宛県のそば。劉表のいる襄陽にも近づいている。
鄭泰も、長安を脱出したら、袁術を頼った。袁術は鄭泰を、揚州刺史に赴任させようとして、ちょうど病没した。華歆と同郡の陶丘洪は、袁術と対立した逸話がある(荀攸伝に引く『漢末名士録』)。華歆・陶丘洪・鄭泰は、袁術と繋がりがある。



◆にわか荀攸伝
いま思いついた。荀攸が袁術に仕官した説。192年の董卓の死後、荀攸は荊州に留まってから、196年に曹操に徵された(荀攸伝)。荀攸伝の裴注『漢末名士録』には、陶丘洪と袁術が論争した話があり、陶丘洪と同郡&知人の華歆は袁術を頼っており(華歆伝)、華歆・荀攸と同時に何進に徵された鄭泰は袁術が任じた揚州刺史。
董卓の暗殺を試みた荀攸が、董卓の死後に「蜀郡太守になりたい」と思ったが、道が閉ざされており荊州に留まったという時期は、陶丘洪・華歆・何顒という人脈に照らすと、南陽で袁術に仕えた可能性がある。しかし、曹魏の参謀がそれでは都合が悪いから、言い訳のために経歴が詐称された。
荀攸伝は「會(董)卓死、得免。棄官、歸。復辟公府、舉高第、遷任城相、不行。(荀)攸、以蜀漢險固人民殷盛、乃求爲蜀郡太守。道絕不得至、駐荊州」と、未遂の記事ばかりです。劉表との接点もなさそうなので、ならば袁術で良いんではないでしょうか。時期は合いますし。
長安を脱出した直後は、華歆・鄭泰と同じく、袁術を頼ったと思われる。しかし「荊州に駐まる」とあるので、193年春の袁術の陳留の攻撃と、寿春への移動には付き従わず、荊州に残ったのでしょう。華歆が袁術を見捨てたように。以後、誰のもとにいたのかはナゾ。

@Golden_hamster さんはいう。当初は曹操も袁術に近かったかのような形跡がありますしね。同じようなことが他の人物にあっても不思議はないですね。
@Rieg__Goh さんはいう。杜襲などの潁川出身者がこの頃 劉表の所に一時いたように、荀攸もいたのではないでしょうか。曹操に呼ばれたときに劉表のところにいたかは不明ですが。

建安元年、曹操が献帝を迎えるとき、袁術・孫堅に味方した汝南黄巾に妨害される(武帝紀)。同年、袁術は呉景を広陵太守とし、孫策の族兄の孫香を汝南太守とする(孫賁伝 注引 江表伝)。

呉景のことは、年の特定のために持ち出しただけですが。

そして同年、天子を迎えた曹操は、荀攸を徴して汝南太守とする(荀攸伝)。曹操と争った、袁術派の汝南の統治者は孫香で、孫香を駆逐した曹操が、荀攸をその「後任」というか、抑えとして置くために、荊州から連れ出したか。

◆にわか馬日磾伝

華歆伝:會天子使太傅馬日磾安集關東、日磾辟歆爲掾。東至徐州、詔卽拜歆豫章太守

ちょうど天子が、太傅の馬日磾を使わして関東を安集する。馬日磾は、華歆を辟して、太傅掾とした。東して徐州に至ると、詔があって華歆は豫章太守を拝した。

馬日磾の足どりが、少し復元できそう。初平三(192)年8月、趙岐と長安を出て関東を安集(後漢紀)。洛陽で趙岐と別れ(後漢書 趙岐伝)、寿春で孫策を懐義校尉に(孫策伝)、朱治を呉郡都尉に(朱治伝)した。これに加え、華歆伝によると、南陽で華歆を太傅掾にし、徐州に至って華歆を豫章太守にした。陶謙を徐州牧にしたのも馬日磾?
華歆を豫章太守にした馬日磾ですが、趙昱を広陵太守に、王朗を会稽太守にしたのも、同時にやったことか。のちに王朗は孫策を脅威に感じ、虞翻を送って華歆との連携を試みる。王朗と華歆が、同じときに、徐州から揚州に赴任したとすると、連携の理由になる。そして2人とも孫策のせいで郡を失い(王朗は抗戦、華歆は降伏)、曹魏の三公となった。

馬日磾と同じ役割の趙岐が、河北にゆき、公孫瓚と袁紹を調停した。馬日磾も、戦いを止める目的で徐州に行ったか。曹操の「徐州虐殺」の時期と重なる。馬日磾が、徐州に平和をもたらそうとした可能性がある。もっとも曹操は、呂布に本拠の兗州を攻められ、慌てて帰ったけれど。
そして馬日磾は、徐州に居ながらにして、揚州を安定させるために、この方面の広陵に趙昱を、会稽に王朗を、豫章に華歆を送りこんだ。期せずして、彼らが「袁術が征服する対象」となったが。

寿春に行ってからの馬日磾は、どこまで袁術に協力的だったか。
袁術伝で馬日磾は、袁術に「節」を奪われ、怒って死んだ悲劇の人。しかし『後漢書』孔融伝で、孔融が「馬日磾は袁術につるんだから、遺体に礼を加えるな」といい、意見が採用される(上述)。孔融は、孫策・孫権に虐げられた、もと会稽太守の王朗・もと呉郡太守の盛憲に手紙を送るなど、揚州の情報通。馬日磾が、本当は袁術に協力的だったことを知っていたのでは。

◆ふたたび華歆伝

華歆伝:以爲政清靜不煩、吏民感而愛之。
注引『魏略』:揚州刺史劉繇死、其衆願奉歆爲主。歆以爲因時擅命、非人臣之宜。衆守之連月、卒謝遣之、不從。

豫章太守としての華歆の政治は、清静で煩でなく、吏民は感じて愛した。
(建安二年)揚州刺史の劉繇が死ぬと、その配下は華歆を盟主にしたい。華歆は、時勢を利用して擅命・専制するのは、人臣のやることではないと考えた。劉繇の配下は、月をまたいで華歆に要請したが、華歆は辞退をつらぬいた。

孫策略地江東。歆、知策善用兵、乃幅巾奉迎。策、以其長者、待以上賓之禮。後策死。太祖、在官渡、表天子徵歆。
胡沖吳歷曰。孫策擊豫章、先遣虞翻說歆。歆答曰「歆久在江表、常欲北歸。孫會稽來、吾便去也。」翻還報策、策乃進軍。歆葛巾迎策、策謂歆曰「府君年德名望、遠近所歸。策年幼稚、宜脩子弟之禮。」便向歆拜。

(建安四年)孫策が江東の地を侵略した。華歆は、孫策が用兵がうまいと知り、幅巾(三国志集解に注釈あり)をつけて、孫策を奉迎した。孫策は、華歆が長者であるので、上賓の礼で待遇した。のちに孫策が死ぬと、曹操は官渡におり、華歆を徴した。
『呉歴』によると、孫策が豫章を撃つと、さきに虞翻を使わして華歆に(降伏を)説いた。華歆は答えて、「華歆は久しく江表にいて、北に帰りたかった。孫会稽(会稽太守の孫策)が来たから、去ることにしよう」と。虞翻が還って孫策に告げると、孫策が進軍した。華歆は、葛巾をつけて孫策を迎えた。孫策は「府君は、年齢も人徳も名望もあり、遠近に帰された。わたしは要地なので、子弟の礼をおさめましょう」と。孫策は華歆に向けて拝した。

趙一清によると、言葉を飾っている。『呉志』虞翻伝に引く『江表伝』によって分かる。盧弼によると、虞翻伝に引く『呉歴』のほうが言葉が詳しく、『資治通鑑』に採用された。


華歆伝 注引 華嶠譜敍曰。孫策略有揚州、盛兵徇豫章、一郡大恐。官屬請出郊迎、教曰「無然。」策稍進、復白發兵、又不聽。及策至、一府皆造閣、請出避之。乃笑曰「今將自來、何遽避之?」有頃、門下白曰「孫將軍至。」請見、乃前與歆共坐、談議良久、夜乃別去。義士聞之、皆長歎息而心自服也。策遂親執子弟之禮、禮爲上賓。是時四方賢士大夫避地江南者甚衆、皆出其下、人人望風。每策大會、坐上莫敢先發言、歆時起更衣、則論議讙譁。歆能劇飲、至石餘不亂、衆人微察、常以其整衣冠爲異、江南號之曰「華獨坐」。

孫策がほぼ揚州を侵略して領有すると、(建安四年)強兵が豫章にきたので、1郡は恐れた。官属が華歆に「郊外に出て迎えましょう」と言ったが、華歆は止めた。孫策が進むと官属が「兵を発しましょう」というが、華歆は許さず。孫策が至ると、みな逃亡したい。華歆は笑って「孫策が来ちゃった。もう逃げられんよ」と。門下が「孫将軍がきた!」と報告した。孫策に面会を申し入れ、ながく談義してから、夜に別れた。孫策はみずから子弟の礼をとり、上賓として礼遇した。このとき四方の賢い士大夫で、江南に避難したものが多く、みな華歆に感心した。つねに孫策は、華歆より先に発言せず、華歆が更衣にたってから話した。華歆は1石を飲んでも乱れず、衣冠も整ったままなので、江南では「華独座」とよんだ。

虞溥江表傳曰。孫策在椒丘、遣虞翻說歆。翻既去、歆請功曹劉壹入議。壹勸歆住城、遣檄迎軍。歆曰「吾雖劉 刺史所置、上用、猶是剖符吏也。今從卿計、恐死有餘責矣。」壹曰「王景興既漢朝所用、且爾時會稽人衆盛彊、猶見原恕、明府何慮?」於是夜逆作檄、明旦出城、遣吏齎迎。策便進軍、與歆相見、待以上賓、接以朋友之禮。

孫策が椒丘にくると、虞翻を遣わして華歆に(降伏を)説いた。

胡三省によると、椒丘は豫章郡の南昌県より数十里。趙一清の引く『豫章記』によると、建安四年、孫策は劉繇劉勲を尋陽で破ると、豫章を取りたいと謀った。椒丘城は、太守の華歆が築いたもの。『水経注』によると、椒丘城は孫策が築いたという。

虞翻が去ってから、華歆は功曹の劉壹をよんで議論した。劉壹は、華歆に「城に留まり、文書を送って孫策を迎え入れよ」といった。華歆「私は劉刺史(揚州刺史の劉繇)に太守として置かれたが、符を剖いた(朝廷に任命された)吏と同じようなもの。いま孫策を迎え入れたら、(職務の放棄により)死んでも償いきれない罪責を負う」といった。劉壹は「王朗は漢朝に用いられ、当時は会稽郡の兵は強かったが(孫策に降伏しても)罪を(漢朝から)許された。(漢朝に任命されたわけでもない)明府は、なにを心配するのか」と。劉壹は夜に文書をつくり、翌朝に城を出て、吏を遣わして、孫策を迎えた。孫策が軍を進めると、華歆は会見して、上賓として待遇された。

さて。豫章太守が、いつ、誰なのか分からない。劉表or袁術が任命した諸葛玄と、朝廷が任命した朱晧が豫章太守の地位を争う。建安初、曲阿を失った劉繇が派遣した笮融が、ここを乗っ取る(三国志 劉繇伝)。建安二年、劉繇が死ぬと、華歆が盟主に推戴される(華歆伝)。
しかし華歆を豫章太守に任じた馬日磾(華歆伝による)は、建安になる前に死去している。華歆には豫章太守としての治績が華歆伝に記される。つまり、建安元年以前に着任して、政治をしていたと史料は伝える。
すると、諸葛玄と朱晧が地位を争ったとき、華歆はどこにいたのか。笮融が豫章郡を乗っ取ったとき、華歆はどこにいたのか。少なくとも建安元年、王朗が虞翻を遣わして連携を試みた豫章太守は、華歆であるが。
分からないので、虞翻伝を読んでみよう。

孫策の使者として、華歆を説得した虞翻伝

翻既歸,策複命為功曹,待以交友之禮,身詣翻第。
江表傳曰:策書謂翻曰:「今日之事,當與卿共之,勿謂孫策作郡吏相待也。」

虞翻は(王朗を南方に逃がすと服喪したが)服喪を終えて、孫策に帰した。孫策は、会稽太守として虞翻を功曹に任命して、交友の礼で待して、自ら虞翻の役所=住宅を訪れた。『江表伝』によると、孫策は虞翻に「今日の事業を、あなたと共にやりたい。孫策から郡吏として待遇された、と言わないでくれ」といった。

虞翻は、孫策の狩猟や単独行動を諌めた。
孫権を曹操に帰順させ損ねた、一途の虞翻伝 02
虞翻伝に引く『呉書』に「遂從周旋,平定三郡」とあり、虞翻は3郡の平定に従った。どこ?
孫策伝に、「盡更置長吏、策自領會稽太守、復以吳景爲丹楊太守、以孫賁爲豫章太守。分豫章、爲廬陵郡、以賁弟輔爲廬陵太守。丹楊朱治爲吳郡太守」とある。会稽はすでに得ているからちがう。丹陽は、すでに袁術のものだから違う。豫章は、これから取るから違う。廬陵は新設だから違う。呉郡はすでに得ているから違う。難しい。ザックリまとめすぎた。孫策伝も、虞翻伝 注引『呉書』も。

この孫策伝の記述は、袁術の僭号(建安二年春)より前に置かれる。しかし豫章は、建安二年まで劉繇がいて、華歆が後継者に推された。袁術・孫策が、豫章を得るには至らない。つまり孫賁は、遙領である。実際に孫策が、豫章を華歆から奪うのは、建安四年である。
ますます、虞翻が従軍した3郡の平定が、よく分からない。

江表傳曰:策討黃祖,旋軍欲過取豫章,特請翻語曰:「華子魚自有名字,然非吾敵也。加聞其戰具甚少,若不開門讓城,金鼓一震,不得無所傷害,卿便在前具宣孤意。」翻即奉命辭行,徑到郡,請被褠葛巾與(敵)相見,謂歆曰:「君自料名聲之在海內,孰與鄙郡故王府君?」歆曰:「不及也。」翻曰:「豫章資糧多少?器仗精否?士民勇果孰與鄙郡?」又曰:「不如也。」翻曰:「討逆將軍智略超世,用兵如神,前走劉揚州,君所親見,南定鄙郡,亦君所聞也。今欲守孤城,自料資糧,已知不足,不早為計,悔無及也。今大軍已次椒丘,僕便還去,明日日中迎檄不到者,與君辭矣。」翻既去,歆明旦出城,遣吏迎策。

(建安四年)孫策は黄祖を攻めたあと、通りがかりに豫章郡を取りたいと考えた。孫策は、虞翻に頼んだ。「豫章郡の華歆を説得し、開城させてほしい」 虞翻は華歆に説いた。「会稽郡の王朗さんと、あなた(華歆)を比べなさい。どちらが、名声や軍備で勝っているか」と。華歆「王朗が上」。虞翻「孫策はつよい。劉繇に勝った。王朗さんにも勝った。華歆さんは、王朗より下を自認するなら、降伏したほうがいい」。華歆は、降伏した。

裴注に異説があるが、『資治通鑑』がうまく統合する。論文に書きました。


『江表伝』:策既定豫章,引軍還吳,饗賜將士,計功行賞,謂翻曰:「孤昔再至壽春,見馬日磾,及與中州士大夫會,語我東方人多才耳,但恨學問不博,語議之間,有所不及耳。孤意猶謂未耳。卿博學洽聞,故前欲令卿一詣許,交見朝士,以折中國妄語兒。卿不原行,便使子綱;恐子綱不能結兒輩舌也。」翻曰:「翻是明府家寶,而以示人,人倘留之,則去明府良佐,故前不行耳。」策笑曰:「然。」因曰:「孤有征討事,未得還府,卿複以功曹為吾蕭何,守會稽耳。」後三日,便遣翻還郡。

豫章を平定すると、孫策は呉郡に還り、虞翻に言った。「むかし寿春で馬日磾に会い、中原の士大夫とも会った。わが東方にも才能のあるものは多いが、ただ学問が博くないのが残念で、議論では(東方の人々は、中原の士大夫に)及ばなかった。虞翻は学問が博いから、許都にいって朝臣たちに会い、やりこめてほしい。もし虞翻が行かぬなら、張紘を行かせるが、張紘が喋り負けることを恐れる」と。虞翻「私は、明府(あなた)の家宝です。人(曹操)に見せたら、留め置かれて、あなたを輔佐できなくなる」と。孫策は笑って、「虞翻はわが(会稽太守の)功曹として、蕭何の役割(安定的な補給)を果たし、会稽郡を守ってくれればいい」と。三日後、虞翻を会稽郡に戻した。

◆孫賁伝
だめ押しで、孫賁伝を見ておく。孫策伝では、袁術が197年に僭号する前に、孫賁が豫章太守となり、豫章を分けて孫賁の弟の孫輔が廬陵太守となったとある。しかし、これは編者が孫策政権の最後の形態を、象徴的にまとめたものであり、197年までの状況ではない。

孫賁伝:繇走豫章。策遣賁景、還壽春、報術、值術僭號。署置百官、除賁九江太守。賁不就、棄妻孥、還江南。時、策已平吳會二郡。賁、與策征廬江太守劉勳、江夏太守黃祖。軍旋、聞繇病死、過、定豫章。上賁、領太守。

(195年)劉繇が豫章ににげると、孫策は孫賁・呉景を寿春にもどし、袁術に報告させた。(197年)袁術が僭号すると、孫賁を九江太守にした。

むかし袁術は、孫策との約束を破って(1回目)、瑯邪の陳紀を九江太守にした。

孫賁は着任せず、(袁術に人質も同然に取られた)妻子を棄てて、江南にゆく。ときに孫策は、呉郡・会稽の2郡を平定している。孫賁は、孫策に従って(199年)廬江太守の劉勲・江夏太守の黄祖を攻めた。軍をもどし、(197年に)劉繇が病死していたことを聞き(豫章が求心力を失っているので)豫章を(199年に)平定した。孫策は上表して、孫賁に豫章太守を領させた。

孫賁が豫章太守となり、おまけに孫賁が廬陵太守となるのは、199年のことである。孫策伝の記述順を、時系列として読んではいけない。196-197年に、孫賁が豫章太守になっていない。遙領ですらない。歴史書が、まとめ過ぎた弊害である。

豫章太守の華歆まとめ

華歆が豫章太守になった時期が、史料で矛盾する。
華歆伝では、華歆が南陽にいるとき、192年、馬日磾が長安→洛陽→南陽→徐州→寿春と移動するのに従い、徐州で豫章太守に任命されて、赴任したという。しかしこれは、おそらく王朗の経歴と混同された結果。王朗は、徐州から会稽太守に赴任した。
王朗伝では、196年、会稽太守の王朗は、豫章太守の華歆との連携を試み、虞翻を豫章に行かせようとするが、孫策の襲来に間に合わず、実現しなかった。これも、おそらく後年に王朗と華歆が、ともに魏で三公になったから、事後的に「模造された記憶」である。実際に、史料中では未遂に終わっている。「華歆の説得にいく虞翻」というモチーフは、199年の史実から膨らまされたと思われる。

おそらく実際は、華歆はいちど南陽で袁術を頼った後、馬日磾に同行して、南陽→徐州まで移動し、そのあと劉繇のもとに避難したのでは。かつて華歆は南陽で、袁術に「董卓を討て」といい、袁術が(人材と兵糧の不足により)意見を聞いてくれなかったので、決裂したことがある。

この記事では、劉繇が揚州に入る時期を、袁術よりも早く、192年に兄の劉岱が青州黄巾に殺されたあとだと考えた。華歆が馬日磾に同行して、曲阿で「途中下車」するのは、充分にありえる展開。

そのまま曲阿にいて、追って揚州刺史の官職を得た劉繇に従い、袁術と敵対したことは、充分に考えられる。もしくは、195年までに、劉繇によって豫章太守に任命されたが、遙領である。赴任に至らない。きっと曲阿に残った。
華歆伝 注引『魏略』に、揚州刺史の劉繇が、華歆を豫章太守にしたとある。華歆伝 注引『江表伝』で、華歆は「私は劉繇に置かれた」と自己申告している。

195年、劉繇が孫策に敗れて曲阿を失うと、許劭の提案により、劉繇集団は、豫章に行くことにした。華歆も、袁術軍を避けるために、劉繇に同行する。このとき豫章では、袁術派の諸葛玄と、献帝派の朱晧が争っていた。劉繇は、献帝派の朱晧を助けるために、徐州から流れてきた笮融を遣わした。笮融は、諸葛玄・朱晧とも殺害して、豫章に割拠してしまった。

劉繇が華歆を豫章太守に任命しても、遙領だと考えたのは、この出来事による。もしも劉繇が、さきに華歆を派遣していれば、袁術派の諸葛玄・献帝派の朱晧・劉繇派の華歆という、三つ巴の戦いが起きねばおかしい。しかし実態は、195年に劉繇派の笮融が、やっと参戦する。やはり華歆は、赴任するには至らない。

197年までに、劉繇は笮融を撃破して、豫章郡に拠ることができたが、ほどなく病死した。そこで、残された劉繇派は、華歆を豫章太守に推戴した。こうして豫章太守となった華歆であるが、孫策が黄祖を撃った返りに通りがかり、虞翻に説得させて、降伏したと。

つまり、華歆が豫章太守として統治したのは、197年-199年。王朗の経歴と混同され、あたかも華歆が193年に赴任したかのような描写が見えるが、これは誤り。190年代の初めには、豫章太守は周術で(諸葛亮伝 注引『献帝春秋』)、周術が病死すると、袁術が諸葛玄を送りこむ。あとから献帝が朱晧を任命して、主導権を争った。そこに、195年、劉繇が笮融を投入した。197年、笮融を破った劉繇が死ぬと、華歆が後任者となった。199年、孫策が虞翻を派遣して、華歆を降伏させた。孫賁が、豫章太守となったと。161211

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第6回 揚州の各郡に太守を置く

孫策の関係者が、いつ・どのように太守になったか。

太守に関する列伝を読む

◆孫策伝
会稽・呉郡を孫策が制圧した後、「時に袁術は僭号し」とある前に、

孫策伝:盡更置長吏、策自領會稽太守、復以吳景爲丹楊太守、以孫賁爲豫章太守。分豫章、爲廬陵郡、以賁弟輔爲廬陵太守。丹楊朱治爲吳郡太守。

とある。孫策は196年に王朗を破って、(孫静が就任を断ったであろう)会稽太守に自ら就いた。賀斉伝に「建安元年、孫策が郡に臨み、賀斉を孝廉に察す」とある。王朗を破り、孫策が会稽を領したのは、建安元(196)年でよい。王朗の功曹だった虞翻を、孫策が自らの功曹に任命し直したのも、同じとき。続いて孫策伝は、ふたたび呉景を丹陽太守としたという。ん?

丹陽太守は呉景とあるが、(劉繇派)周尚の後任として、袁術が袁胤を任命したはずでは。
呉景伝に「術後僭號,策以書喻術,術不納,便絕江津,不與通,使人告景。景即委郡東歸,策複以景為丹楊太守」とある。つまり、呉景が丹陽太守となるのは、袁術が僭号した後である。まだ孫策伝の時系列は、建安元年なので、紛らわしい。……丹陽太守を整理しておく。

◆孫権の徐夫人・その父の徐琨伝

徐夫人伝:吳主權徐夫人,吳郡富春人也。祖父真,與權父堅相親,堅以妹妻真,生琨 。 琨 少仕州郡,漢末擾亂,去吏,隨堅征伐有功,拜偏將軍。堅薨,隨孫策討樊能、于麋等於橫江,擊張英於當利口,而船少,欲駐軍更求。 琨 母時在軍中,謂 琨 曰:「恐州家多發水軍來逆人,則不利矣,如何可駐邪?宜伐蘆葦以為泭,佐船渡軍。」 琨 具啟策,策即行之,眾悉俱濟,遂破英,擊走笮融、劉繇,事業克定。策表 琨 領丹楊太守,會吳景委廣陵來東,復為丹楊守, 琨 以督軍中郎將領兵,

孫権の徐夫人は(孫氏と同県の)呉郡富春のひと。祖父の徐真は、孫堅と親しく、孫堅は妹を徐真にめあわせ、徐琨が生まれた。徐琨は、孫堅に従って征伐し、偏将軍となる。孫堅の死後、孫策に従って、樊能・于麋を横江で討ち、張英を当利口で撃った。

孫策が劉繇との戦いに加わるとき、みんな合流する。「ついに袁術でなく、孫氏のための戦さを始めるぞ」と捉えたら、物語として盛り上がるが、そうではなく、縁者を総動員しないと、克てなかった。孫賁・呉景が、劉繇を棄てて袁術に付いたからには、ここで克たないと、劉繇に族殺される!くらいの危機感がありそう。

しかし(孫策軍は)船が少ないため、軍を留めて船を探し求めた。徐琨の母(孫堅の妹)は軍中にあり、徐琨に「州家(揚州刺史の劉繇)が、多くの水軍を発して向かってこれば、不利となる。なぜ留まってよいか。蘆葦を刈ってイカダとし、船が軍を渡すのを助けよ」と。徐琨はその方法を孫策に伝え、孫策は軍勢を渡すことに成功した。ついに張英を破り、笮融・劉繇を走らせ、(195年)事業は克って定まった。

時系列が飛びまくっているが、このあいだに袁術の僭号(197年)がある。

孫策は、徐琨に丹陽太守を領させた。たまたま呉景が(袁術に攻略を命じられて、太守となった)広陵を捨てて、江東にきた。そこで呉景を丹陽太守として、徐琨を(丹陽太守から押し出されて)督軍中郎将として兵を領させた。

徐夫人 注引:江表傳曰:初,袁術遣從弟胤為丹楊,策令琨討而代之。會景還,以景前在(仕)丹楊,寬仁得眾,吏民所思,而 琨 手下兵多,策嫌其太重,且方攻伐,宜得 琨 眾,乃復用景,召 琨 還吳。

はじめ袁術は、従弟の袁胤を丹陽太守とした。孫策は徐琨に令して袁胤を討たせ、徐琨を袁胤に代えた。ちょうど呉景が還って、まえに呉景が丹陽太守であったとき(193年)寛仁により兵員の徴発に成功し、吏民に思慕されたことがある。徐琨のもとに兵が多く、孫策はその(影響力の)太重を嫌い、また攻伐するにあたり、徐琨の兵を自らの指揮下に入れたいから、(197年)呉景を丹陽太守として、徐琨を呉郡に還らせた。

從破廬江太守李術,封廣德侯,遷平虜將軍。後從討黃祖,中流矢卒。

徐琨は、廬江太守の李術を破るのに従い、広徳侯に封じられ、平虜将軍にうつる。のちに黄祖を討つのに従い、流矢にあたって死んだ。

◆孫輔伝
関連がありそうな列伝で、多面的に捉えたい。

孫輔伝:孫輔字國儀,賁弟也,以揚武校尉佐孫策平三郡。策討丹楊七縣,使輔西屯歷陽以拒袁術,并招誘餘民,鳩合遺散。又從策討陵陽,生得祖郎 等。

孫輔は、孫賁の弟。揚武都尉となり、孫策を助けて3郡を平定した。

3郡という表記は、虞翻伝にも出てきた。建安二年~四年ぐらいのことか。

(197年)孫策が丹陽の7県(の宗帥の祖郎)を討つとき、

孫策伝に引く『江表伝』に、陳瑀は都尉の萬演らをひそかに渡江させ、印を30個あまりをもたせ、丹陽・宣城・涇県・陵陽・始安・黟県・歙県らの諸県に伝えた。大帥の祖郎と、焦已および呉郡の烏程県の厳白虎らに内応させ、孫策から諸郡を攻め取ろうとした。孫策はこれを覚り、呂範・徐逸に陳瑀を海西で攻めさせ、おおいに陳瑀を破り、吏士と妻子4千人を捉えた。

孫輔に西のかた歴陽に屯させ、袁術を防がせた。余民を招誘し、遺散を鳩合した。また孫策に従って陵陽を討ち、祖郎を生け捕った。

江表傳曰:策既平定江東,逐袁胤。袁術深怨策,乃陰遣閒使齎印綬與丹楊宗帥陵陽 祖郎等,使激動山越,大合眾,圖共攻策。策自率將士討郎,生獲之。策謂郎曰:「爾昔襲擊孤,斫孤馬鞍,今創軍立事,除棄宿恨,惟取能用,與天下通耳。非但汝,汝莫恐怖。」郎叩頭謝罪。即破械,賜衣服,署門下賊曹。及軍還,郎與太史慈俱在前導軍,人以為榮。

孫策がすでに江東を平定すると、袁胤を逐った。袁術は深く孫策を怨み、ひそかに印綬を丹陽の宗帥である陵陽県の祖郎らにあたえ、山越を激動させ、ともに孫策を攻めた。孫策はみずから祖郎を生け捕った。

孫策伝に引く『江表伝』では、祖郎に印綬を与えたのは、陳瑀である。孫賁伝に引く『江表伝』では、祖郎に印綬を与えたのは、袁術である。祖郎は、いちど孫策に敗れてから、孫策の仲間になる。陳瑀と袁術の行動は、どちらかが誤り。
思うに、陳瑀が正解であろう。祖郎と袁術は、袁術が揚州に来たときから対立している。孫策が「袁胤を丹陽太守から逐う」という、気にくわない行動を1つしたからと言って、袁術が祖郎を動かして、孫策の領土(来歴からすると袁術の領土と言うべき)を、根っこからひっくり返すことに利益がない。

孫策は祖郎に「むかし祖郎に襲撃され、馬鞍を斬られた。しかし、軍を作って事業を始めるから、宿怨は忘れよう。ただ能力のある者を登用するだけ。恐れるな」といい、祖郎のカセを壊して、門下賊曹とした。孫策は軍を還し、祖郎と太史慈は、ともに軍を先導した。人々は栄誉なこととした。

孫輔伝:策西襲廬江太守劉勳,輔隨從,身先士卒,有功。策立輔為廬陵太守,撫定屬城,分置長吏。遷平南將軍,假節領交州刺史。遣使與曹公相聞,事覺,權幽繫之。數歲卒。

(199年)孫策が西のかた劉勲を討つと、孫輔は随従した。廬陵太守となり、属城を撫定し、分けて長吏を置いた。

孫策伝は、孫輔を廬陵太守にするのを先に、廬江太守の劉勲を破ったのを後に置く。孫賁伝を見ると、孫賁と孫策は、劉勲を征伐し、軍を還して豫章を通過し、孫賁を豫章太守とした。孫策伝ではなく、この孫輔伝の順序が正しく、劉勲を討った後に廬陵太守となった。孫策伝に引く『江表伝』によると、孫策は孫賁・孫輔を分けて、兵八千で彭沢で劉勲を待ち伏せた。劉勲を討ったのは、孫賁・孫輔である。

のちに曹操と通じたと疑われ、孫権は獄に繋ぎ、数年で卒した。

孫策派の太守任命のまとめ

後述するが、孫策伝 注引『江表伝』によると、建安二年夏、曹操は議郎の王誧を遣わして、孫策を会稽太守とする。
また呉景伝によると、呉景は袁術が僭号すると交通を絶つ。袁術が任地とした広陵を捨てて、呉景は江東に帰ってくる。呉景は、同じ王誧によって、揚武将軍とされ、丹陽太守は留任とされる。これを確認しておき、まとめると……。

孫策伝は、袁術との関係を「脱臭」するため、『呉志』の本紀にあたる巻であるはずが、記述順と時系列が対応しない。だが他の列伝と突合すると、年単位で時系列の復元はできる(季節や月まではムリ)。
史実の孫策は、遠隔地という利を活かし、袁術・曹操に両属して勢力確立を試みた。後年の孫権・遼東公孫氏と同じ。


建安元年、孫策が会稽・呉郡を平定する。袁術は、2つの要因によって皇帝を称する。まず、手先の孫策が、揚州の要所2郡を抑え、地盤が確立したこと。つぎに、献帝が曹操のもとに奪われ、入手が難しくなったこと。
建安二年春、袁術は皇帝に即位した。これを受けて、献帝を擁した曹操と、皇帝となった袁術の「官職のポトラッチ」が始まる。戦闘的な贈与により、関係性を構築し、負債感によって自らのために動かそうとする。

先攻の袁術の攻撃。
建安二年春、袁術は、会稽太守の孫策・呉郡太守の朱治の地位を追認する。史料には書かれておらず、孫策伝は「自ら領す」と、おかしな書き方になっているのは、袁術の任命を隠蔽するため。もともと、袁術の手先として2郡を攻略した孫策・朱治のことを、袁術は「漢帝に表す」というクッションを置いて、地位を保証していた。そのクッションが無用になった。
袁術の称帝から2年前の195年、劉繇派の丹陽太守の周尚は、袁術派の袁胤に代えられた。新たな袁術王朝の丹陽太守は、袁胤である。兵力の供給源に、親族を配するのは、基本的な戦略。また、廬江太守は故吏の劉勲のまま。
しかし孫策は、袁術の王朝の「創業メンバー」として、丹陽太守の人事に不服がある。孫策は、父の妹の子(交差イトコ)である徐琨を、丹陽太守にしたい。しかし、袁術が聞き入れない。太守のポジションをめぐって、孫策が要望を出して、袁術が却下をするのは、以前から見られること。

史書は、孫策が丹陽太守に関する人事について袁術に反抗し、徐琨を持ち出した理由を、「袁術の僭号に反対したから」とする。0%ではなかろうが、この要因ばかり強調するのは、違うでしょう。

どこまでの戦闘があったか分からないが、孫策は、袁胤を追い払い、徐琨を丹陽太守とした。ただし、これは「袁術から孫策が独立した」と言えるほどのイベントではなく、袁術王朝の「臣下どうし」のポスト争いである。袁術は、おもしろくなかろうが、孫策と敵対するのは得策ではないので、袁胤を寿春に戻した。

『江表伝』によると、袁胤が逐われたことを怨み、袁術が祖郎に印綬を配って、孫策を攻撃させた、、というのは、きっと誤り。別のところで『江表伝』に、陳瑀が同じことをする。祖郎らに印綬を配ったのは、陳瑀である。

袁胤は、袁術が199年に死ぬとき、寿春にいる。丹陽を離れてから、ずっと袁術王朝の「中央官」を務めたと思われる。

後攻の曹操の攻撃。
建安二年(197)夏(孫策伝 注引『江表伝』)、曹操のもとから議郎の王誧が到着し、孫策の会稽太守を追認する。
さらに王誧は、孫策の母の弟の呉景を、丹陽太守とした。さっき孫策は、徐琨を丹陽太守にしたが、呉景が選ばれたのは、孫策の側の事情。孫策が徐琨を丹陽太守に選んだとき、呉景が不在だった。不在の理由は、建安元(196)年、袁術の命令で、広陵に外征していたから。

ちょうど、徐州の長官が、劉備から呂布に代わった。袁術の徐州に対する方針が、「劉備を武力で討伐」から「呂布を外交で操作」に代わった。さらに、下邳陳氏などが力を持って、武力で徐州に北進するのを辞めた。呉景は、袁術のために徐州で戦う理由がなくなり、江東に戻ってきた。

徐琨と呉景、どちらも孫策の姻族であるが、徐琨よりも呉景を身近に感じており、呉景を丹陽太守に推した。むしろ徐琨は、孫策にとって警戒の対象。徐琨が挟まって、分かりにくくなったが、マクロで見れば、袁術派の袁胤から、孫策派(曹操の後援により権威を付与)の呉景が、丹陽を奪った形。袁術は兵力の供給源を損なった。

197年、曹操は孫策に官職を与えた代わりに、袁術を討伐するように詔によって命令した。孫策は「献帝の詔書」の代金を支払うため、袁術を攻撃しようとする。このとき孫輔は歴陽にいて、袁術軍にそなえた。
しかし、同じく曹操から袁術の討伐を命じられ、味方のはずの陳瑀が、(潜伏していた、かつての孫策の敵の)祖郎らに印綬を配って、孫策の支配地を覆そうとした。孫策はそちらに手を取られ(袁術と戦うヒマもなく)7郡を討伐して祖郎を生け捕った。呉景の丹陽支配は、雨が降って地が固まったでしょうが。
さらに呂範・徐逸が陳瑀を攻撃して、海西で破った。

このように、曹操から詔書を引き出して官職をもらうことで、孫策が袁術に対して発言力を持ち、自立性を高めるには、曹操のために働くという代償が求められ、マル儲けできない。「袁術王朝のなかで、意見を通す」ために、曹操から詔書の権威を借りると、「袁術王朝を討伐する」戦いに駆り出される。その結果、純粋な孫策の戦略からは、不必要な戦いに参加せねばならない。苦労して得た根拠地に、外敵が介入してきて、勢力が揺らぐ。これで滅びたら、本末転倒である。

のちに袁紹の死後、袁譚は、袁尚との後継者争いに勝つために、袁紹を倒した曹操に助け求める、という本末転倒なことをした。けっきょく、袁譚・袁尚の争いは、収拾が付かなくなった。孫策は、この種類の失敗に、片足をつっこんだ。

建安二年、曹操のために働くと、同盟者だと思っていた陳瑀に領地を脅かされた。陳瑀と孫策は、「たまたま同時に、袁術の討伐を命じられた」という以外、なんの共通点もない。利害関係の調整もない。だから、詔書に従って動くことは、リスキー。こうした「無関係の人々」を同時に動員できるのが、詔書の威力であるが、巻きこまれる側は迷惑な話であり、面従腹背という対応をすることもある。

この点で、袁術の配下として、袁術の領土を拡張するため、劉繇・王朗らと戦ったとき、孫策は、こんな複雑なパワーゲームを演じる必要はなく、戦いに専心できた。往時が懐かしい。


199年に袁術が死ぬと、孫策は、廬江太守の劉勲・江夏太守の黄祖を破った。その帰りに、199年、豫章太守の華歆を降伏させ、孫賁を豫章太守とした。豫章郡を分けて、孫賁の弟の孫輔を廬陵太守とした。劉勲の後任として、汝南の李術を廬江太守とした(あとで孫権に叛く)。

◆まとめ
以上、孫策伝が建安元年あたりに置く記述に、年号を補うと、
196年に王朗を破った孫策は(袁術が漢朝に表する形式で)会稽太守となり、197年春に袁術王朝の会稽太守となり、197年夏に献帝から会稽太守に追認された。朱治の呉郡太守も、同じように変遷し、追認されていく。
197年春、袁術が皇帝を称したころ、孫策は「袁術派の丹陽太守の袁胤がジャマ」といい、従兄弟の徐琨に袁胤を逐わせ、徐琨を丹陽太守とする。ちょうど、呉景が広陵から帰ってきたので、197年夏、孫策は、議郎の王誧を介して、呉景を献帝派の丹陽太守にした。徐琨は、孫策の中軍に統合。
199年、袁術の死後、孫策は廬江太守の劉勲・江夏太守の黄祖を破り、通りがかって豫章太守の華歆を降した。廬江太守に李術を表し(献帝派)、豫章太守に孫賁、豫章を分けた廬陵太守に孫輔を置いた。

これを孫策伝は「盡更置長吏、策自領會稽太守、復以吳景爲丹楊太守、以孫賁爲豫章太守。分豫章、爲廬陵郡、以賁弟輔爲廬陵太守。丹楊朱治爲吳郡太守」と、袁術の称帝より前(196年)にまとめて置いてしまうから、孫策がいきなり袁術から自立したように見える。ひどいなー。161211

以上、孫策伝が「袁術の称帝と同時に、孫策は、揚州六郡をもって自立した」かのように記述することが、いかにデタラメ(誤解をまねく、ザツな要約)であるかを検証しました。

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(番外編)袁術の年譜

孫策だけを見ていると、全体像を見失うので、袁術伝に目を配る。

袁術が下邳陳氏と決裂する

『范書』袁術伝:四年,術引軍入陳留,屯封丘。黑山餘賊及匈奴於扶羅等佐術,與曹操戰於匡亭,大敗。術退保雍丘,又將其餘眾奔九江,殺楊州刺史陳溫而自領之,

初平四(193)年、袁術は陳留に入り、封丘に屯した。黒山賊および郷土の於夫羅が袁術をたすける。曹操は匡亭で戦い、大いに袁術を破る。袁術は退いて雍丘を保ち、余衆をひきいて九江に走る。揚州刺史の陳温を殺して、自らこれを領す。

『陳志』裴注:臣松之案英雄記「陳溫字元悌、汝南人。先爲揚州刺史、自病死。袁紹遣袁遺領州、敗散、奔沛國、爲兵所殺。袁術更用陳瑀爲揚州。瑀字公瑋、下邳人。瑀既領州、而術敗于封丘、南向壽春、瑀拒術不納。術退保陰陵、更合軍攻瑀、瑀懼走歸下邳。」如此、則溫不爲術所殺、與本傳不同。

裴松之が『英雄記』を按ずるに、陳温は汝南のひと。揚州刺史となり、病死した。袁紹は袁遺に揚州を領さしめるが、敗散して沛国に奔り、兵に殺された。更めて陳瑀を揚州刺史とした。陳瑀は、下邳のひと。すでに陳瑀が揚州を領したが、袁術が封丘で敗れると、南のかた寿春に向かう。陳瑀は防いで納れず。袁術は退いて陰陵にとりでし、更めて軍をあわせて陳瑀を攻めた。陳瑀はにげて(故郷の)下邳に帰した。陳温が袁術に殺されておらず、本伝と異なる。

『陳志』袁術伝:時、沛相、下邳陳珪。故太尉球弟子也。術、與珪俱公族子孫、少共交游。書與珪曰「昔秦失其政、天下羣雄爭而取之。兼智勇者、卒受其歸。今世事紛擾、復有瓦解之勢矣。誠英乂有爲之時也。與足下舊交、豈肯左右之乎?若集大事、子實爲吾心膂」珪中子應、時在下邳。術並脅質應、圖必致珪。珪答書曰「昔秦末世、肆暴恣情、虐流天下、毒被生民。下、不堪命、故遂土崩。今雖季世、未有亡秦苛暴之亂也。曹將軍神武應期、興復典刑、將撥平凶慝、清定海內、信有徵矣。以爲、足下當勠力同心、匡翼漢室。而陰謀不軌、以身試禍、豈不痛哉!若迷而知反、尚可以免。吾備舊知、故陳至情。雖逆于耳、骨肉之惠也。欲吾營私阿附、有犯死不能也。」

ときに、沛相は下邳の陳珪である。陳珪は、もと太尉の陳球の弟の子。陳珪と袁術は、どちらも三公の子弟なので、幼いとき交遊した。袁術は陳珪に文書を送って、「乱世になったから、英乂が活躍すべき時である。私とあなたは旧交がある。わが事業を手伝ってくれないか」と。陳珪の中子の陳応は、ときに下邳にいた。袁術は陳応を脅して質にとり、陳珪を強引に協力させようとした。

袁術が、下邳にいるひとに、手を伸ばせるだけの兵勢があった。きっと、195年に劉繇を追い払った後だろう。陳珪は、呂布の配下となって、曹操と呂布に両属して、情勢を操る。袁術は、それに参加しようとした。
袁術が初めて皇帝即位に言及するのは、興平二(195)年の冬、李傕が献帝を曹陽で攻めたとき。陳珪にアクセスしたのは、この後と思われる。

陳珪は答えた。「袁術は現代を秦末に例えたが、漢朝は暴秦と同じではない。曹操が政治・刑罰・征伐を正しく行っている。袁術も協力して、漢室を匡翼すべきである。旧知だからって、頼ってくるな」

陳珪・陳登が、呂布の配下となり、曹操と結ぶように勧めるのは、建安元年の後半だろう。曹操が、建安元年九月に献帝を得てから、すぐと思われる。


『范書』陳球伝:『范書』:子瑀,吳郡太守;瑀弟琮,汝陰太守;弟子珪,沛相;珪子登,廣陵太守:並知名。
同注引:謝承書曰:「瑀舉孝廉,辟公府,洛陽市長;後辟太尉府,未到。永漢元年,就拜議郎,遷吳郡太守,不之官。球(兄)〔弟〕子珪,字漢瑜。舉孝廉,劇令,去官;舉茂才,濟北相。/珪子登,字元龍。學通今古,處身循禮,非法不行,性兼文武,有雄姿異略,一領廣陵太守。」/魏志曰,登在廣陵,有威名,有功加伏波將軍,年三十九卒。

陳球の子の陳瑀は、呉郡太守となる。陳瑀の弟の陳琮は、汝陰太守となる。陳球の弟の子の陳珪は、沛相となる。陳珪の子の陳登は、広陵太守となる。みな名を知られた。
謝承『後漢書』によると、陳瑀は呉郡太守となったが、赴任せず。陳珪は、済北相となる。陳登は、広陵太守となる。『魏志』によると、陳登は広陵にあって威名があり、功績があって伏波将軍を加えられた。

袁術が皇帝となる

興平二(195)年冬、袁術は、天子が曹陽で敗れたと聞いて、皇帝即位を検討する。これは、孫策が劉繇を破ったあと、曲阿で兵員・物資の徴発に成功したときで、これから会稽に赴く前である。袁術は、とりあえず揚州の最大のライバルを片づけて、調子に乗った。でも、会稽には王朗が健在で、劉繇は豫章で生きており、まだ完全勝利とは言えない。袁術は即位を見送った。
袁術は、河内張氏(張範・張承)にも協力を打診するが、断られる。

『陳志』袁術伝:建安二年,因河內張炯符命,遂果僭號,自稱「仲家」。以九江太守為淮南尹,置公卿百官,郊祀天地。

袁術が皇帝の位に即いた時期って、『後漢書』孝献帝紀に建安二年春とあるだけで、『三国志』武帝紀では年がほのめかされるだけ。『三国志』袁術伝・『後漢書』袁術伝・袁宏『後漢紀』では、年月の記述がない。前後関係からすると、建安二年に最大のライバルの劉繇が病死しており、その後か、くらい。

『陳志』武帝紀は、建安二年正月に、賈詡のせいで、曹操が曹昂・曹安民を失った記述を載せてから、いっきに飛んで、

『陳志』武帝紀:袁術欲稱帝於淮南、使人告呂布。布收其使、上其書。術怒攻布、爲布所破。秋九月、術侵陳、公東征之。術聞公自來、棄軍走、留其將橋蕤李豐梁綱樂就。公到、擊破蕤等、皆斬之。術走渡淮。公還許。

九月に袁術が陳国を攻めたことの前振りとして、袁術が淮南で称帝せんと「欲し」、呂布に告げたが、呂布がその使者を捉えて曹操にチクッたため、袁術が怒って呂布を攻め、逆に呂布に負けた……というのが、状況説明としてある。年月が確定するのが、建安二年秋九月に、袁術が陳国を侵略したから、曹操がこれを征伐したところだけ。袁術と呂布の連絡は、月日が不明。

『范書』袁術伝:乃遣使以竊號告呂布,并為子娉布女。布執術使送許。術大怒,遣其將張勳、橋蕤攻布,大敗而還。術又率兵擊陳國,誘殺其王寵及相駱俊,曹操乃自征之。術聞大駭,即走度淮,留張勳、橋蕤於蘄陽,以拒操。〔操〕擊破斬蕤,而勳退走。

袁術は、ひそかに使者をやり、呂布に皇帝を号したことを告げ、子を呂布の娘にめあわせた。呂布は、袁術の使者を捕らえて、許都に送った。袁術は大怒して、張勲・橋蕤が呂布を攻めたが、大敗して還った。袁術は、陳国を攻め、陳王の劉寵および国相の駱俊を誘って殺した。〔九月〕曹操が自ら袁術を征伐すると、袁術はびっくりして淮南に逃げた。張勲・橋蕤を蘄陽にとどめ、曹操を防がせた。曹操は、橋蕤を斬り、張勲は退いて逃げた。

これによると、袁術は、建安二年の九月までに、呂布と1度、戦っている(武帝紀と整合する)。建安二年、袁術は、さきに呂布、あとで9月に曹操と戦って、どちらも負けた。実質的に、袁術の外征は、ここで機能が停止する。
おまけに、上記のように、建安二年夏、議郎の王誧が曹操のところから来て、孫策を会稽太守・呉景を丹陽太守にした。孫策が、袁術から離反する方向の斥力が働き始めたのは、この頃。もっとも、曹操との連携は、孫策にとってデメリットがあることは確認しました。孫策が「袁術から独立」するには至らない。
さらに同じころ、袁術は、丹陽という強兵の産地を失った。孫策の実力・献帝の詔書の影響力により、袁胤が丹陽太守から外れ、兵を供給できなくなった。これも、建安二年のこと。

建安二年の春か夏に、孫策が徐琨を丹陽太守にしたがり、建安二年夏に王誧がきて、呉景を丹陽太守とした。時期的に重なるから、「袁術の称帝をトリガーに、孫策が反発した」と歴史家は書きたがるが、その胸中はナゾ。

はじめ呂布、つぎに曹操に兵を削られた後、呉景が兵の供給をストップすれば、袁術は大規模な軍事行動は取れなくなる。
中原における袁術の脱落が決定的となる、建安二年に起きた2つの戦いを、改めて見ておく。

建安元年の情勢

建安元年夏六月のこととして、

『資治通鑑』:袁術攻劉備以争徐州、備使司馬張飛守下邳、自将拒術於盱眙、淮陰、相持經月、更有勝負。下邳相曹豹、陶謙故将也、与張飛相失、飛殺之、城中乖乱。袁術与呂布書、勸令襲下邳、許助以軍糧。布大喜、引軍水陸東下。備中郎将丹陽許耽開門迎之。張飛敗走、布虜備妻子及将吏家口。備聞之、引還、比至下邳、兵潰。備收餘兵東取広陵、与袁術戦、又敗、屯於海西。

と、劉備と袁術が徐州を争い、劉備が盱眙・淮陰で袁術を防ぎ、月をまたぐ。この間に、袁術が呂布に文書を与え、下邳を襲わせた。つまり袁術は、劉備との直接決戦でラチが明かないから、呂布を利用した。袁術にしては、作戦がヒットした。孫策を利用するのと同じように、呂布を使うことに成功した、、かに見えた。
『資治通鑑』の記事の置き方からすると、「年月が分からないが、とりあえず夏のうち」という編者の意志であることが多い。しかしここは例外で、このあとに六月庚子の記事(楊奉・韓暹奉帝東還、張楊以糧迎道路)がある。つまり、劉備が海西に落ちのびた記事を、建安元年六月であると、自信を持って置いたということ(になる)。もっとも、記述のなかに「相持經月」があるので、怪しい&苦しい。袁術軍が劉備を破るのは、六月に決着した、という司馬光の意志は見てよいでしょう。

袁術が呂布に、劉備を襲う条件として提示したのは、軍糧を与えること。兗州で、曹操と泥沼の戦いをした呂布には、兵糧がなかった。きっと下邳の城内も、備蓄がなく(劉備が袁術との戦いで消費した)、それが城外の呂布・袁術にも知れ渡っていた。備蓄のない下邳を奪うことが、呂布にとって魅力的でないから、呂布は動かず、劉備が下邳をカラにしても、だれも手を出さなかった。
袁術が呂布に兵糧の補助を申し出て、呂布が下邳を奪う理由を与え、奪える物的な条件も整えてあげたのだろう。張飛の飲酒とか、まじで些事。

袁術がアテにした原資は、揚州刺史の劉繇から奪ったものだろう。しかし、同じ建安元年、孫策が王朗との戦いをしており、そちらに振り分けたら、呂布に回す余裕がなくなったと思われる。もしくは、劉繇から吸収した兵が多すぎた。キャッシュフローが悪化して、黒字倒産しそうな状態に似ている。


下邳を失った劉備は、東のかた広陵を取って、袁術と戦い、劉備が敗れて海西に屯した。いま、建安元年夏、劉備を破ったのが、袁術の広陵太守の呉景である。海西は、徐州の内部(北)に引っこんだところ。



『資治通鑑』は建安元年の末尾(季節や月は不明)として、呂布が劉備を小沛に置いたことを伝え、袁術軍の紀霊が劉備を攻めに来ると、呂布が「仲裁」して、袁術を追い返す。

『范書』呂布伝:布又恚術運糧不復至、乃具車馬迎備、以為豫州刺史、遣屯小沛。布自号徐州牧。術懼布為己害、為子 求婚、布復許之。術遣将紀霊等歩騎三万以攻備、備求救於布。諸将謂布曰:「将軍常欲殺劉備、今可假手於術。」布曰:「不然。術若破備、則北連太山、吾為在術囲中、不得不救也。」便率歩騎千 餘、馳往赴之。霊等聞布至、皆斂兵而止。

袁術は約束をやぶり、呂布に軍糧を届けなかった。そこで呂布は、劉備を豫州刺史として、小沛に屯させた。

沛相は陳珪だったが、陳珪は下邳にいて、呂布を操っている模様。劉備は、豫州の治所を、かってに小沛に変更。あとで袁術派の沛相として、舒仲応が出てくる。任免がどうなっているかは別に検討。

呂布は、劉備を抱きこみ、徐州牧を自号した。袁術は、呂布が脅威となるのを恐れて、婚姻を申し出た。
同年のうちに袁術は、紀霊に小沛の劉備を攻めさせた。呂布は、袁術が力を持ちすぎると、自分が危うくなるので、紀霊・劉備の戦闘を中止させた。
つまり袁術は、建安元年、孫策に会稽・呉郡を平定させる一方で、呂布・劉備という、対立した2者をテダマにとって、徐州・沛国(豫州)を得ることを試みた。呂布が、自らの存続のために、袁術を牽制する方針を採用して、劉備を味方につけたので、袁術の作戦は失敗した。さすが、「利」には聡いのが、呂布さん。

再説すると、
建安元年、袁術は、はじめは劉備から徐州を力づくで奪うため、広陵太守の呉景を派遣した。盱眙・淮陰で、劉備とモツレてしまったので、次善の策として、呂布を利用することに。建安元年夏ごろ(『資治通鑑』では六月)呂布が下邳を奪った。根拠地を失った劉備を、呉景が攻撃して、海西まで追い詰めた。
建安元年の秋から冬にかけ、呂布が「劉備が退治されたら、次に袁術に狙われるのは自分だ」と、目敏く計算して、劉備を小沛に配置した。袁術は、劉備・呂布を各個撃破して、当初の目的どおり徐州を得るため、先に弱そうな劉備を、紀霊に攻めさせた。これが建安元年のうち。しかし、呂布が介入した。呂布にとって、劉備はどうでもいい人間だが、袁術に対する牽制となるなら、積極的に活用する
袁術が徐州を攻めたとき、曲阿-広陵-淮陰-下邳という、海側のルートを取った。しかし、劉備が置かれた小沛は、そんな遠回りをしなくても、袁術の本拠地の寿春に近い。むしろ呂布は、寿春をねらえる小沛に劉備を置くことで、袁術を牽制させようとした。もちろんジャマだから、袁術は紀霊を派遣したと。

陳珪・陳登による妨害

『陳志』呂布伝に基づき、『范書』呂布伝で補う。

陳志:術欲結布為援,乃為子索布女,布許之。術遣使韓胤以僭號議告布,并求迎婦、〔布遣女隨之〕。沛相陳珪恐術、〔報〕布成婚,則徐・揚合從,將為國難〔范書は「為難未已」),於是往說布曰:「曹公奉迎天子,輔讚國政,威靈命世,將征四海,將軍宜與協同策謀,圖太山之安、〔共存大計〕。今與術結婚,受天下不義之名,必有累卵之危。」布亦怨術初不己受也,女已在塗,〔乃〕追還絕婚,械送韓胤,梟首許市(范書は「執胤送許、曹操殺之」。

袁術は、呂布を味方にしたいので、呂布の娘を求め、呂布が許した。袁術は、韓胤を遣わして僭号のことを告げた。

袁術の即位が、建安二年春であれば、これは建安元年の冬までのこと。

沛相の陳珪は、袁術を恐れ、袁術が徐州・揚州を合わせて従えれば、国難になると考えた。

陳珪は、親族の陳応を、袁術にラチされて、協力を強制された。遡れば、193年、袁術は、下邳陳氏の陳瑀を揚州刺史にしておきながら、自らが寿春を占拠して、陳瑀を追い返した。最初、仲が良さそうだっただけに、下邳陳氏との確執は、袁術にとって惜しい。
陳珪から見ると、195年、劉繇を曲阿から追い払った袁術は、196年には徐州を転戦しており(劉備を各地で破り)、何か手を打たねば、袁術が徐州を支配するのは目前である。呂布だって、下邳に入ったものの、袁術から兵糧の支援を受けられず、支配が安定しない。
たまたま、袁術が徐州に手を伸ばした時期と、献帝が長安から流れてきて、曹操のもとに落ちついた時期が、同じであった。ここに、相関関係はない。陳珪は、国家観の差異によるか、感情的な問題によるか、袁術のことを嫌っている。徐州を袁術に与えないという、195年ごろから顕在化した意志を実現するため、196年秋、献帝を奉戴した曹操(奉戴したのが別の群雄なら、その人を選んだでしょう)に連絡を取った。献帝の詔命の力を利用して、ほかの群雄を圧倒したいな-、と思っていた曹操に、偶然にもそのネタを提供する形になった。

陳珪は呂布に「天子を奉迎した、曹操と協同したほうがいい。袁術と結べば、不義の名を得る」と勧めた。呂布もまた、袁術がかつて(董卓を殺害した直後)受け入れてくれなかったことを怨み、娘を道中から引き戻した。韓胤を捕らえて、許都で梟首にした。

陳珪は、曹操が天子を奉迎し、袁術と結ぶのが「不義」と言った。しかし、これは修辞である。呂布から見たら、曹操より袁術のほうが恐い(徐州を奪われるリスクが高い)から、曹操と結んだだけ。天子とか不義は、二の次である。その証拠に、呂布は、義とは関係なく、曹操に攻め滅ぼされる。「曹操が天子を奉戴するから、曹操に従おう!」という、思考にはならない。


『陳志』呂布伝に基づき、『范書』呂布伝で補う。

陳志:術怒〔布殺韓胤〕,與韓暹、楊奉等連勢,遣大將張勳〔・橋蕤等〕攻布。〔步騎數萬,七道攻布。布時兵有三千,馬四百匹,懼其不敵〕、布謂珪曰:「今致術軍,卿之由也,為之奈何?」珪曰:「暹、奉與術,卒合之軍耳,策謀不素定〈李賢注:素,舊也〉,不能相維持,子登策之,比之連雞,勢不俱棲〈李賢注:戰國策曰:「秦惠王謂寒泉子曰:『蘇秦欺弊邑,欲以一人之知,反覆山東之君。夫諸侯之不可一,猶連雞之不能俱上於棲〉,〔立〕可解離也。」布用珪策,遣人說暹、奉,使與己并力共擊術軍。軍資所有,悉許暹、奉。於是暹、奉從之,〔遂共擊勳等於下邳〕勳大破敗。〔生禽橋蕤,餘眾潰走〕。

(建安二年)袁術は、韓胤を呂布に殺されたので、韓暹・楊奉と結び、張勲・橋蕤らと呂布を7道から攻めた。この戦いは、建安二年春に袁術が称帝した後で、袁術が陳国で曹操と戦う同年九月より前。

7道から、兵3千・馬4百で、と具体的な数まで伝わっている。きっと、まともに戦ったら、袁術が確実に下邳を陥落させられる規模だった。必勝のはずだった。つぎに呂布が、陳珪を責めていることから、呂布の危機感が分かる。

呂布は陳珪に「袁術軍がきたのは、お前のせいだ」と言った。陳珪「韓暹・楊奉は、にわかに合わさっただけで、恐くない」といい、陳登が韓暹・楊奉を説得し、軍糧を負担してやると約束して、袁術軍を裏切らせた。

建安元年、呂布が袁術に味方したのは、軍糧をくれるという条件を提示されたからで、袁術はそれを守らなかった。ここにおいて建安二年、同じ構造が再現されており、呂布が韓暹・楊奉の軍糧を負担するという条件で、韓暹・楊奉を引き抜いた。こういう謀略が、下邳陳氏の仕事だ。そして、当面は、韓暹・楊奉に兵糧を支給したのだろう。その後、袁術の領土での略奪を許した。べつに「約束を守ることが義である」だからではない。韓暹・楊奉を、下邳陳氏の都合よく動かすために必要な措置であった。
その証拠に、袁術の脅威が去ると、韓暹・楊奉は始末された。

呂布は、下邳で、張勲・橋蕤らを大いに破った。

196年、袁術は、呂布を利用すべく、下邳を与えた。しかし、恐らく196年内に、袁術を妨げる陳珪・陳登が、呂布の操縦を始めた。197年、袁術は、曹操の敵である韓暹・楊奉を味方にしたつもりが、陳登の工作によって、彼らは離反した。
このあたり、「他人を利用するのは良い。ただし、利用された側にもメリットが出るように、利用しなくてはダメ」という失敗である。袁術は、融通が利かない。他人のことを分かっていない。呂布にせよ、韓暹・楊奉にしろ、彼ら自身にメリットがあるような形で、袁術軍のために動かせば、役立っただろうに。
大事なのは、信義じゃなく、各局面で信義を見せかけ、いかに他者を操縦できるか。用済みになれば、切ればよいのだ。下邳陳氏には、その才覚があった。袁術には、それがなかった。それができる参謀も、どうやら得られなかった。
その点で呉景・孫策との間には、幸福な誤解、もしくは不干渉の関係が築かれた。孫策・呉景にとって、袁術軍の一員としてでも、呉郡・会稽を抑えることは、彼ら自身のメリットになる。見かけ上、袁術のために平定戦をがんばっている。呉景・孫策らの躍進は、袁術から見れば、彼らが自立するリスクとセットなのだが、袁術は、そこまで考えが至っていない。すでに曹操の魔の手が伸びていたのに。そして、対立が顕在化する前に、袁術が病死したので、ウヤムヤになった。


裴注『英雄記』は、呂布が袁術軍を押し戻し、逆に袁術の領土を攻める。

『英雄記』:布後又與暹、奉二軍向壽春,水陸並進,所過虜略。到鍾離,大獲而還。既渡淮北,留書與術曰:「足下恃軍彊盛,常言猛將武士,欲相吞滅,每抑止之耳!布雖無勇,虎步淮南,一時之閒,足下鼠竄壽春,無出頭者。猛將武士,為悉何在?足下喜為大言以誣天下,天下之人安可盡誣?古者兵交,使在其閒,造策者非布先唱也。相去不遠,可復相聞。」布渡畢,術自將步騎五千揚兵淮上,布騎皆于水北大咍笑之而還。

呂布は、韓暹・楊奉とともに寿春に向かう。水陸で並進し、通過するところ(沛国の範囲で、魏代に譙郡となる地域)で略奪した。(寿春の北東そばの)鍾離に至り、大いに物資を得て還った。

文脈から推測すると、袁術政権の備蓄倉庫が、ここにあったのかも。慌てて袁術が、呂布らの略奪を防ぎにきたが、後の祭りであったと。

淮水を北に渡って還るとき、袁術に文書を送り、いやみを言った。呂布が渡り終えると、袁術は自ら歩騎5千で兵を淮水まで率いてきたが、呂布は引きあげたあとで、袁術を嘲笑して還った。

実態は分からないが、袁術の遠征軍が敗れ、呂布が寿春のそばまで来た。袁術が自ら迎撃を試みると、呂布は袁術の中軍には克てないから、略奪するだけして、引きあげたのだろう。袁術軍を減らすより、物資を得るほうが優先。


『范書』袁術伝:乃遣使以竊號告呂布,并為子娉布女。布執術使送許。術大怒,遣其將張勳、橋蕤攻布,大敗而還。術又率兵擊陳國,誘殺其王寵及相駱俊,曹操乃自征之。術聞大駭,即走度淮,留張勳、橋蕤於蘄陽,以拒操。〔操〕擊破斬蕤,而勳退走。
『陳志』武帝紀:秋九月、術侵陳、公東征之。術聞公自來、棄軍走、留其將橋蕤李豐梁綱樂就。公到、擊破蕤等、皆斬之。術走渡淮。公還許。

張勲・橋蕤が呂布を攻め、大敗して敗れて還った。つぎに袁術は、兵をひきいて陳国を撃ち、陳王の劉寵と陳相の駱俊を(刺客を遣わして)殺した。この戦いが、建安二年の九月。曹操と接点を持つから、珍しく月が特定できる。
呂布に続いて、袁術が攻めた陳王との戦いは、どんなふうだったか。

◆陳王の劉寵伝

『范書』陳王伝:及獻帝初,義兵起,寵率眾屯陽夏,自稱輔漢大將軍。國相會稽駱俊素有威恩,時天下飢荒,鄰郡人多歸就之,俊傾資賑贍,並得全活。後袁術求糧於陳而俊拒絕之,術忿恚,遣客詐殺俊及寵,陳由是破敗。是時諸國無復租祿,而數見虜奪,并日而食,轉死溝壑者甚眾。夫人姬妾多為丹(陽)〔陵〕兵烏桓所略云。

献帝初、劉寵は義兵を起こし(董卓に対抗し)陽夏に屯して、輔漢大将軍を自称した。国相である会稽の駱俊は威恩があり、天下が飢えたので、隣郡からの避難を受け入れ、振給した。のちに袁術が糧秣を求めると、駱俊が拒絶した。袁術は怒り、客を使わして偽って駱俊・劉寵を殺した。陳国は、これにより滅びてしまった。

李賢注:謝承書曰:「俊字孝遠,烏傷人。察孝廉,補尚書侍郎,擢拜陳國相。人有產子,厚致米肉,達府主意,生男女者,以駱為名。袁術使部曲將張闓陽私行到陳,之俊所,俊往從飲酒,因詐殺俊,一郡吏人哀號如喪父母。」

このとき諸国には租禄がなく、しばしば虜奪された。陳国の夫人・姫妾は、おおく丹陽・烏桓に略奪された。……これにより、袁術軍には、丹陽兵・烏桓兵がいたことが分かる。烏桓は、どこから供給したのやら。193年、袁術が陳留に北伐したとき、黒山・匈奴と連携した。それだけでなく、背後の烏桓にまで、交渉を持っていたかも知れない。

197年の丹陽太守は呉景に代わっているが、呉景・孫策は、袁術と敵対しつつある。呉景は、この戦いに参加せず、江東に帰っている。ここで陳国に攻め入ったのは、袁胤が丹陽太守だったころ(195-197年)に供給した兵だろう。

時系列から因果関係を繋ぐなら、呂布に寿春そばまで攻めこまれ、略奪されて、袁術軍は困窮した。そこで、そばにあって豊かな陳国を、暗殺によって乗っ取り、そこの備蓄を補充したと。本当に、なりふり構っていられない。

おそらく袁術軍は、呂布に大敗したので、かなり傷ついている。陳国には、あくまで「窃盗」に行ったのであり、戦う準備がない。そこに、神速で曹操が現れたから、そりゃ袁術は逃げるし、橋蕤・張勲は持ち堪えることができない。
これは、曹操がいち早く陳国に来たところで、ほぼ勝負が決まっている。200年、劉備が徐州で自立したとき、曹操がすぐに討伐に現れたときと似ている。

『范書』袁術伝にある、袁術の兵糧のエピソードは、

時舒仲應為術沛相,術以米十萬斛與為軍糧,仲應悉散以給飢民。術聞怒,陳兵將斬之。仲應曰:「知當必死,故為之耳。寧可以一人之命,救百姓於塗炭。」術下馬牽之曰:「仲應,足下獨欲享天下重名,不與吾共之邪?」

舒仲応という人が沛相であった。恐らく呂布が劉備を沛国に置いたから、これに対抗するために、袁術が任命した人だろう。袁術は米10万石を、舒仲応に軍糧として与えた。呂布を撃つためであろう。しかし舒仲応は、飢民に分け与えてしまった。袁術は「オレの物資で、お前が名前を売るなよ」と起こった。

まとめ

袁術は、195年冬に皇帝即位を検討し、下邳陳氏に協力を求めた。このとき袁術は、下邳に手を出せるほど強かった。
196年の春から夏にかけ、袁術派の呉景が、徐州長官の劉備と戦う。196年の後半かに、袁術が呂布を動かして下邳を奪わせた。陳珪は新たな領主の呂布を迎えた。陳珪は、呂布が継続して袁術に味方することを嫌って、「曹操と協調しないと、呂布さん自身が危ないよ」と説く。
197年春、袁術が皇帝になり、呂布に婚姻を申し出た。しかし、呂布が陳珪に説得され、袁術の使者を許都に送る。
197年夏ごろ(少なくとも9月より前)袁術が、(前年の秋までに献帝のそばから放逐された)韓暹・楊奉を味方につけた。橋蕤・張勲が、呂布を下邳に攻める。陳登が、韓暹・楊奉を袁術から裏切らせ、橋蕤・張勲を撃破。呂布・楊奉・韓暹は、沛国で略奪しながら、袁術軍を本拠の寿春そばまで押し戻す。袁術が自ら中軍を率いてくると、それと衝突する前に、さっさと淮水を渡り直して、帰って行った。
197年秋9月、兵糧を失った袁術は、陳国の王と相を暗殺して、備蓄を奪う。戦うつもりもなく、ただ略奪しに行ったところ、曹操軍と期せずして戦闘になり、袁術は逃げていきました。

袁術の凋落のポイントは、称帝!が、真因ではない。ふつうに、外交交渉・戦争・経済政策によって、敗れている。というか、全然ダメじゃん。
下邳陳氏が、すべてのジャマをしている。恐るべし。

残りの袁術の年譜

建安二年九月、陳国で曹操に大敗した袁術は、列伝が一気にスカスカになる。

袁術伝は建安四年まで飛ぶが、呂布伝は、建安三年の記事がある。

『陳志』呂布伝:建安三年,布復叛為術(范書は「從袁術」),遣高順攻劉備於沛,破之。太祖遣夏侯惇救備,為順所敗。太祖〔乃〕自征布,至其〔下邳〕城下,遺布書,為陳禍福。布欲降,陳宮等自以負罪深〔於操〕、沮其計。

建安三年、呂布は、曹操にそむいて袁術に従った。高順が劉備を沛国で破り、劉備は曹操のもとにゆく。
呂布の行動原理は、「弱いほうに味方して、強いほうを挫き、自らが併呑されるのを避ける」である。なんて自分勝手。建安二年、呂布は袁術に攻められたから、防戦するしかなかった。同年九月、曹操が袁術の主力を打ち破った。すると、袁術に徐州を侵略されるリスクよりも、曹操に徐州を侵略されるリスクのほうが高まる。だから、再び袁術と味方する。
劉備は、一貫して袁術の敵である。もはや呂布は、「劉備を放逐して、袁術の攻撃を一人で受ける」よりも、「劉備のせいで袁術との関係が壊れる」ほうが恐いので、高順に劉備を攻撃させた。
呂布にとって、大敗したばかりの袁術の、どこが良かったのか、と疑問に思うが、「自分を攻めてきそうにない」ところが、良かったのです。

袁術伝の残りは、ただ袁術が経済的に破綻して、寿春を放棄する。

『范書』:術兵弱,大將死,眾情離叛。加天旱歲荒,士民凍餒,江、淮閒相食殆盡。……術雖矜名尚奇,而天性驕肆,尊己陵物。及竊偽號,淫侈滋甚,媵御數百,無不兼羅紈,厭粱肉,自下飢困,莫之簡卹。於是資實空盡,不能自立。
『陳志』:荒侈滋甚、後宮數百皆服綺縠、餘粱肉。而士卒凍餒、江淮閒空盡、人民相食。術、前爲呂布所破、後爲太祖所敗。

袁術が足踏みしている間(建安三年~四年)に、孫策は、何をしていたか。そして、袁術が死去した建安四年、孫策は、袁術の後継者争いをいかに勝ち抜いたのか。次回に繋がりました。161212

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第7回 陳瑀・劉勲・華歆を撃破する

建安元年、孫策は王朗を破って、事実上の会稽太守。それを袁術が漢朝に表して、袁術派の会稽太守に任ずる。建安二年春、袁術が皇帝となると、袁術王朝の会稽太守とする。
孫策伝に「時、袁術僭號。策以書責而絕之」とあるが、歴史家の印象操作が疑われる。「彭城張昭、廣陵張紘、秦松、陳端等、爲謀主」と、孫策伝にある参謀が、称帝に反対したかも知れないが、いきなり関係を絶つには至らない。

海西から陳瑀が、孫策の領土を転覆させる

孫策伝:曹公、表策爲討逆將軍、封爲吳侯。

(建安二年)曹操は表して、孫策を討逆将軍・烏程侯とした。
これは陳寿による要約であり、この官爵がすんなり決まったわけではない。その経緯が、裴注『江表伝』に見える。

孫策伝 注引『江表伝』:建安二年夏、漢朝遣議郎王誧奉戊辰詔書曰「董卓逆亂、凶國害民。先將軍堅念在平討、雅意未遂、厥美著聞。策遵善道、求福不回。今以策爲騎都尉、襲爵烏程侯、領會稽太守。」

建安二年夏、漢朝は議郎の王誧を遣わし、戊辰の詔書を奉じて、「孫策を騎都尉とし、孫堅の烏程侯を襲わせ、会稽太守を領させる」と。
たしか孫堅伝の最後の裴注『魏書』で「策當嗣侯、讓與弟匡」とあり、孫策が孫堅の爵位を嗣ぐべきを、弟の孫匡に譲ったとある。不審である。しかも、年齢順からすれば、孫策を飛ばしても孫権・孫翊がいる。しかしここで、孫策が烏程侯を嗣がせる。
孫策を呉侯にするとき、烏程侯が浮いたから、末の弟に移したのか。孫匡伝によると、孫匡の子の孫泰は、曹氏の従子だという。つまり、妻が曹操の血縁。ゆえに、烏程侯を移す先に選ばれたか。

兄がすでに爵位があるので、父の爵位を弟が嗣ぐのは、諸葛恪の場合など。


同注引『江表伝』:又詔敕曰「故左將軍袁術不顧朝恩、坐創凶逆、造合虛偽、欲因兵亂、詭詐百姓、[始]聞其言以爲不然。定得使持節平東將軍領徐州牧溫侯布上術所造惑衆妖妄、知術鴟梟之性、遂其無道、修治王宮、署置公卿、郊天祀地、殘民害物、爲禍深酷。布前後上策乃心本朝、欲還討術、爲國效節、乞加顯異。夫縣賞俟功、惟勤是與、故便寵授、承襲前邑、重以大郡、榮耀兼至、是策輸力竭命之秋也。其亟與布及行吳郡太守安東將軍陳瑀戮力一心、同時赴討。」

また詔勅に「もと左将軍の袁術は、朝恩を顧みず、反逆して、兵乱をよいことに、百姓を詭詐した(皇帝に即位した)と聞いたが、そんなことはあるまいと思った。しかし、使持節・平東将軍・領徐州牧の呂布が(袁術の臣である韓胤を許都に送って)袁術の即位が判明した。

呂布は、陳珪に官職の斡旋を頼んだが、ついに徐州牧になれずに怨みに思った、と呂布伝にあった。しかし、ここでは、呂布が許都に連絡をとって半年以内に、徐州牧と呼ばれている。混乱が見られる。

呂布は朝廷に『袁術を討ちたい』と前後にわたり上表してきた。

建安元年の秋から冬にかけ、呂布が「劉備が退治されたら、次に袁術に狙われるのは自分だ」と、目敏く計算して、劉備を小沛に配置した。紀霊がくると、停戦させた。呂布が徐州を得る&袁術を警戒したのと、曹操が献帝を奉戴した時期が、たまたま建安元年の後半で一致する。袁術が韓胤を送りこんだのは、建安二年の春。そして、この詔勅が建安二年夏。季節ごとのイベントが尽きず、事態は急速に動いている。付き合い始めたばかりの恋人同士のようである。

だから孫策は(詔勅に従って)速やかに呂布と、行呉郡太守・安東将軍の陳瑀とともに、袁術を同時に討て」と。

同注引『江表伝』:策自以統領兵馬、但以騎都尉領郡爲輕、欲得將軍號、(及)[乃]使人諷誧、誧便承制假策明漢將軍。是時、陳瑀屯海西、策奉詔治嚴、當與布、瑀參同形勢。行到錢塘、瑀陰圖襲策、遣都尉萬演等密渡江、使持印傳三十餘紐與賊丹楊、宣城、涇、陵陽、始安、黟、歙諸險縣大帥祖郎、焦已及吳郡烏程嚴白虎等、使爲內應、伺策軍發、欲攻取諸郡。

孫策は自ら兵馬を統領するとき、騎都尉では官位が軽いので、将軍号を求めた。王誧は承制して、明漢将軍を仮した。

まだ『陳志』本文の討逆将軍を得るには至らず。

このとき陳瑀は、海西(建安元年、呉景に敗れた劉備が最後に行き着いた地)にいた。孫策は軍備を整え、呂布・陳瑀と連携しようとした。銭唐にゆくと、陳瑀がひそかに孫策の領地を襲おうと、都尉の萬演をひそかに渡江させ、印璽30余個を、小勢力の賊らにばらまいた。(孫策に屈服させられた)丹楊・宣城・涇県・陵陽・始安・黟県・歙県らの大帥である祖郎・焦已と、呉郡の烏程の厳白虎らは、陳瑀に内応した。孫策が軍を出発させるのを伺い、孫策の諸郡を攻め取ろうとした。

何が起きたかというと。この数年で孫策が力づくで制圧した(はずの)丹陽・呉郡には、不満が渦巻いていた。そこで、海西にいる陳瑀が、朝廷から与えられた「呉郡太守」の肩書きを利用して、ひっくり返そうとしたと。新たな孫策の敵を送りこんだのでなく、孫策の以前からの敵が、同時に蜂起できるように、焚きつけたのである。

陳瑀は行呉郡太守だが、長江を南渡せず、ずっと海西にいた。

新たに平定した地で、揺り戻しがあった。よくある話。
しかも遠隔地で盟主となった陳瑀は、いちどは袁術によって揚州長官に任じられ、192-193年は着任している。揚州の盟主の資格が、なくはない。

振り返ると、前年の建安元(196)年、袁術軍の呉景が、徐州長官の劉備と、徐州の海側で戦った。劉備は海西まで逃げて、困窮して呂布を頼った。呉景も、戦果がないから江東に帰った。その戦いで荒廃し、空白となった地域が、徐州の海側。建安二(197)年、同じ海西を震源地として、陳瑀が、曹操-献帝と交渉を持てたことを利用して、逆に揚州に介入した。
というか、劉備が最後に海西まで撤退したのは、陳瑀を頼ったのかも知れない。陳瑀は、193年に袁術に寿春を奪われて、泣きながら下邳に還った。それ以来、4年目。ずっと、袁術の揚州支配を覆すチャンスを、狙っていたのかも知れない。

孫策伝 注引『江表伝』は、結末をあっさり伝える。

策覺之、遣呂範、徐逸攻瑀於海西、大破瑀、獲其吏士妻子四千人。

孫策はこれ(呉郡・丹陽をねらう陳瑀の謀略)を覚り、呂範・徐逸を遣わして、陳瑀を海西で破った。その吏士・妻子4千人を捕らえた。
これにて陳瑀は、群雄としての生命が尽きる。しかし、徐州の東南で、孫策の呉郡(曲阿あたり)を虎視眈々と狙うというポジションは、同族の陳登(陳珪の子)が継ぐ。陳登への遠征が、孫策の死出の旅になったとも言われるが、それは後の話。

けっきょく孫策は、詔勅の威光に目が眩んで、袁術を討つことにした。所在地が互いに離れており、人脈的な繋がりもなく、タイミングを合わせて連携することも難しい、、呂布・陳瑀とともに。
史料にあるから「ウソ」とは申しませんが、ぼくは軽率な行動だったと思う。
たしかに袁術の皇帝即位は、万人が賛成することではない。しかし、皇帝即位した事実のみで、軍事的な情勢が、一気に変わることはない。主義主張・思想的な対立ゆえに、名士がちらほら、袁術を去ったかも知れない。しかし袁術は、2年前の冬、献帝が曹陽で敗れたときから、「皇帝になろうかな」と言っている。袁術が、一夜にして劣化した!のでなく、既定路線を進んでいる。「皇帝になろうかな」と言ったあとも、袁術の勢力は維持されており、むしろ孫策・呉景の外征が成功した。

孫策の今日までの権力基盤は、いかに個人的に袁術を嫌おうと、やはり袁術であった。もともと孫堅・呉景・孫策は、官職に代表される権威がないから、袁術の持っている、社会関係資本を頼ったのである。孫堅は、荊州で刺史・太守を殺した罪を、袁術によって帳消しにしてもらった。呉景は、揚州刺史の劉繇を去ってまで、袁術を支持した。だったら孫策は、皇帝即位した袁術を支持しないまでも、「袁術が没落するまで利用しつくす」くらいの戦略が欲しかった。
孫策は、浮ついて詔勅に動かされ、本拠地を留守にした。袁術の中軍と戦って「独立」を勝ち取るつもりで、大いに動員をかけたのだろう。
しかし、呂布も陳瑀も、会ったこともなければ、利害の調整もされていない。こういうバラバラの人々を大同団結させるのが、詔勅の威力だとして、その威力に、まっさきに当てられてどうするんだ、孫策。

袁術の年譜で確認したように、(建安二年)袁術は、韓胤を呂布に殺されたので、韓暹・楊奉と結び、張勲・橋蕤らと呂布を7道から攻めた。この戦いは、建安二年春に袁術が称帝した後で、袁術が陳国で曹操と戦う同年九月より前。呂布伝・武帝紀から、分かる事実。
孫策が釣られて動いたのは、このタイミングかも知れない。張勲・橋蕤が(建安二年の春から夏に)下邳を攻めたが、逆に敗れて、寿春のそばまで押しこまれた。孫策は、建安二年夏、呂布・韓暹・楊奉が、袁術の領土で略奪を働くのを見て、「オレも袁術を滅ぼす」と、銭唐に行ったのかも知れない。
しかし、呂布・韓暹・楊奉は、袁術の中軍が来る前に、さっさと略奪を済ませ、淮水を北渡して還っていった。孫策と連携するのでなく、自らの都合だけで動いている。
さらに陳瑀ときたら、孫策の留守をねらう始末。

どうやら孫策は、これに学んだらしく、建安二年九月、袁術軍は陳国で曹操に大敗して、落ち目になってゆくが、袁術を攻撃することはない。袁術を攻撃するのは、広義の自殺である。袁術を見限っていても、攻める必要はない。攻めてはならない。袁術を攻めれば、せっかく得た呉郡・会稽が揺らぐし、下邳陳氏を初めとした敵対勢力に、留守を突かれるかも知れない。
それこそ、「中原に対する楯」ぐらいに思っておけば、良かったのかも知れない。

◆陳瑀伝
建安二年夏、孫策が新たに平定した地域に、手を突っこんだのが、行呉郡太守の陳瑀。陳珪・陳登と同じ、下邳陳氏の一員。見ておく。
『三国志集解』呂範伝によると、陳瑀は、あざなを公瑋といい、下邳の淮浦のひと。陳球の子で、陳登の従父。陳瑀のことは、『魏志』袁術伝に引く『英雄記』・『魏志』呂布伝に引く『先賢行状』に見え、『呉志』孫策伝に引く『江表伝』にも見える。

『陳志』袁術伝 注引『英雄記』に、

袁術更用陳瑀為揚州。瑀字公瑋,下邳人。瑀既領州,而術敗于封丘,南向壽春,瑀拒術不納。術退保陰陵,更合軍攻瑀,瑀懼走歸下邳。

とあり、袁術によって揚州刺史にされたが、193年に袁術が寿春に来たため、下邳に還った。

呂範伝に「是時下邳陳瑀自號吳郡太守,住海西,與彊族嚴白虎交通。策自將討虎,別遣範與徐逸攻瑀於海西,梟其大將陳牧」とある。下邳の陳瑀は、呉郡太守を自号して、海西に留まった。呉郡の強族の厳白虎と交通した。

孫策伝に引く『江表伝』で、詔勅が陳瑀を「行呉郡太守」と呼ぶため、「自号」ではない。盧弼によると、けだし陳瑀は、ひそかに孫策を襲おうとしており、ゆえに朝命を仮借したのである。
このとき呉郡太守は、許貢を実力で駆逐した朱治であり、皇帝袁術に追認されたと思われる。その袁術派の朱治にぶつける形で、陳瑀は「行呉郡太守」の地位をもらって、まずは名目において、孫策の本拠地を切り崩しにかかった。下邳陳氏が、朝廷を訪問して官職をもらい、政治利用するのは、陳珪・陳登も同じであった。

孫策は、自ら厳白虎を討ち、別けて呂範と徐逸を遣わし、陳瑀を海西で破り、大将の陳牧を梟首した。

前回この記事で、建安元年に呉景が劉備と戦い、淮陰・盱眙と転戦して、劉備が海西まで撤退した。建安元年後半、袁術は紀霊を下邳を攻めさせるなど、この海側で戦うのを辞める。ぼくは、袁術が海側から手を引いたと、書いてしまった。しかし、孫策(・呂範)がこれに代わって、海西まで押しこんだ。つまり、袁術・孫策軍は、徐州の海側への影響力を有することには、成功したらしい。

説明がないが、梟首された「大将の陳牧」は、陳瑀の同族であろうか。とことん、下邳陳氏を敵に回す、袁術・孫策。袁術・孫策に対抗するために、下邳陳氏は曹操に接近し、オマケとして、徐州の呂布を破るに当たる。

呂範伝 注引『九州春秋』に、

初平三年,揚州刺史陳禕死,袁術使瑀領揚州牧。後術為曹公所敗於封丘,南人叛瑀,瑀拒之。術走陰陵,好辭以下瑀,瑀不知權,而又怯,不即攻術。術於淮北集兵向壽春。瑀懼,使其弟公琰請和於術。術執之而進,瑀走歸下邳。

とある。袁術派の揚州牧となった陳瑀は、(初平四年春)袁術がくると懼れ、弟の陳公琰を遣わし、袁術と請和した。袁術は陳公琰を捕らえて軍を進めた。陳瑀はにげて下邳に帰したと。

「公琰」で検索したが、蜀の蒋琬のあざなとしてヒットするのみ。
盧弼によると、『范書』陳球伝に、陳瑀の弟の陳琮が汝陰太守になったといい、陳琮=陳公琰であろう。


陳瑀に関する史料を見終わったので、結末を。

孫策伝 注引『山陽公載記』:瑀單騎走冀州、自歸袁紹、紹以爲故安都尉。

陳瑀は(海西で呂範に敗れて)単騎で冀州に逃げ、袁紹に帰した。袁紹は、陳瑀を故安都尉とした。
群雄としての資格を失ったものが、袁紹もしくは袁術を頼って「落ちのびる」のは、定型的な行動。李傕に敗れた呂布、兗州を失いかけた曹操、兗州で敗れた張邈、曹操に敗れた劉備など、有名どころも同じことをする。

孫策が、討逆将軍・呉侯となる

吳錄載策上表謝曰「臣以固陋、孤持邊陲。陛下廣播高澤、不遺細節、以臣襲爵、兼典名郡。仰榮顧寵、所不克堪。興平二年十二月二十日、於吳郡曲阿得袁術所呈表、以臣行殄寇將軍。至被詔書、乃知詐擅。雖輒捐廢、猶用悚悸。臣年十七、喪失所怙、懼有不任堂構之鄙、以忝析薪之戒、誠無去病十八建功、世祖列將弱冠佐命。臣初領兵、年未弱冠、雖駑懦不武、然思竭微命。惟術狂惑、爲惡深重。臣憑威靈、奉辭罰罪、庶必獻捷、以報所授。」臣松之案。本傳云孫堅以初平三年卒、策以建安五年卒、策死時年二十六、計堅之亡、策應十八、而此表云十七、則爲不符。張璠漢紀及吳歷並以堅初平二年死、此爲是而本傳誤也。
江表傳曰。建安三年、策又遣使貢方物、倍於元年所獻。其年、制書轉拜討逆將軍、改封吳侯。

『呉録』は孫策の上表を載せる。「烏程侯を嗣ぎ、会稽郡を領させてくれてありがとう。興平二(195)年十二月二十日、呉郡の曲阿において、袁術が表して行殄寇将軍にしてもらった。あれは贋者だったんですね。

興平二年冬は、劉繇を破って曲阿に入って、孫策が兵員・物資の徴発をしたとき。かつ、献帝が曹陽で敗れ、袁術が皇帝即位を初めて発言した時期。孫策の昇進は、劉繇を破ったことへの褒賞であると同時に、袁術の即位の前?祝いで、みなに官職を配ったのかも知れない。

孫策が17歳と自称するが、裴松之が怪しむ。
『江表伝』によると、建安三(198)年、孫策は使者を遣わして方物を貢し、それは建安元年の二倍であった。この年、制書により、孫策を討逆将軍とし、呉侯に改封した。おそらく烏程侯は、このとき末弟の孫匡に移された。

遠回りしましたが、陳寿がシレッと「時、袁術僭號。策以書責而絕之。曹公、表策爲討逆將軍、封爲吳侯」とあるが、袁術が皇帝即位を口にし始めたのは、195年冬で、孫策が討逆将軍・呉侯となるのは、198年であった。

袁術の死去まで

年月と時系列を整理すると、
197年は、春に袁術が皇帝に即位し、袁術が呂布を攻めたが、楊奉・韓暹に裏切られた。夏に寿春のそばの鍾離まで呂布がきて、略奪をした。
呂布の動きに合わせ、同じ夏、使者の王誧によって、孫策は明漢将軍に任命され、「呂布・陳瑀とともに袁術を討て」と命じられた。若い孫策は、これを本気にして、領内の兵を動員した。すると、陳瑀が祖郎・厳白虎を扇動して、孫策の呉郡・丹陽の支配を覆そうとした。197年(もしかしたら198年までかけて)孫策は呂範・徐逸を遣わし、陳瑀を群雄から脱落させた。

197年夏、呂布の略奪を受けた袁術は、陳国の王・相を暗殺した。避難民を受け入れ、経済的に成功していた陳国から、備蓄を奪うためである。しかし、197年9月、曹操が神速で現れて、袁術は慌てて逃げ、主力軍は壊滅した。
これから先、袁術の寿命は、198年から199年まで、まだ1年半ほど残っているが、この期間は、兵員と物資のやりくりだけに費やされ、しかも経営が成功せず、寿春が破産するに至った。
毎年のように、外征をくり返した袁術は「自転車操業」であった。196年か、遅くても197年に徐州を得ないと、手許のキャッシュが枯渇して、倒産したようである。陳国からの略奪で、危機を逃れようとしたが、裏目に出た。
皇帝即位までが順調で、皇帝即位から凋落するのではない。たまたま、その潮目の転換点が、196年から197年に徐州を得られなかったことによって、引き起こされただけ。皇帝のことではなく、徐州のことによって、袁術は傾き始めた。勃興期も衰退期も、袁術がやっていることは同じ。
これまで袁術は、寿春とその周囲(丹陽・廬江)を193年-194年に獲得し、194年-195年に劉繇を破り、195年-196年に呉郡・会稽を平定するなど、足掛け2年ずつの作戦で、拡張してきた。196年-197年に、徐州を攻略したら、勢いは止まらなかった。

198年-199年、孫策も目立った動きがない。195年に劉繇を、196年に王朗を破ったばかり。しかも劉繇がくたばるのが197年。うかつに動いたら、197年夏のように、また誰かが孫策の領土に介入する。
陳瑀の扇動によって、厳白虎・祖郎が再び起兵したのと同時に、おそらく太史慈が蕪湖にのがれ、山中に入って「丹陽太守」を自称した。領土の回復のため、孫策は宣城より以東を平定したが、涇県より西の6県だけが服従しない。太史慈は、これにより涇県にとどまり、屯府を立てて、おおいに山越を味方につけた。孫策は、太史慈を捕縛することができた。

198年は、呂布が曹操にそむき、袁術に味方した時期。袁術は、「呂布を曹操から救う」という名目で徐州に兵を出して、実は徐州を手に入れたい。先に見通しを述べると、198年12月、呂布は曹操に殺される。袁術の軍略は、噛みあわない。

『陳志』呂布伝 裴注『英雄記』:布遣許汜、王楷告急于術。術曰:「布不與我女,理自當敗,何為復來相聞邪?」汜、楷曰:「明上今不救布,為自敗耳!布破,明上亦破也。」術時僭號,故呼為明上。術乃嚴兵為布作聲援。布恐術為女不至,故不遣兵救也,以綿纏女身,縛著馬上,夜自送女出與術,與太祖守兵相觸,格射不得過,復還城。

呂布は、許汜・王楷を遣わして、袁術に救いを求めた。袁術「呂布は娘をくれなかった。なぜ救う義務があるか」、許汜・王楷「明上(あなた)が呂布を救わねば、呂布は敗れる。呂布が敗れれば、明上も曹操に敗れるよ」と。袁術は皇帝なので、明上と呼ばれた。

196年に袁術の脅威におびえた呂布と劉備や、198年に曹操の脅威におびえた呂布と袁術のように、「べつに同盟した相手ではないが、自らの生き残りのために救援する」という、消極的な同盟が、徐州で再び形勢された。しかし、やはり信頼関係ではないので、ちっとも有効に機能しない。

袁術は兵を整え、呂布を救うと声をあげた。呂布は、娘のことがネックになるのを恐れ、娘を縛って袁術に届けようとしたが、失敗した。

もしも198年の秋から冬、袁術が呂布を救っていたら、曹操は撤退したか。したかも知れない。
しかし、呂布から見て袁術は「信用ならないが、曹操を防ぐためには、連絡を取らざるを得ない相手」である。信頼関係があれば、娘を送る・送らぬで、兵の派遣が決まったりしない。袁術から見て呂布は「本来は私が領有すべき徐州に、情勢を利用して居座ったやつ」でしかない。なんだか、気分が上がらない関係である。
そして袁術は、197年秋、曹操に主力軍を壊滅させられたばかり。呂布に兵糧を盗まれ、陳国で盗もうとした兵糧は、おそらく曹操軍に妨害されて、運び切れず。頼りの孫策は、江東の再平定に忙しい。とても動ける状態ではない。この時期の袁術・孫策は、過去数年の急激な膨張の副作用で、経済収支が合わず、反乱(揺り戻し)の芽を摘むために忙しい。

袁術の皇帝即位の弊害があるとしたら、軍糧を整える経済官僚となる名士が去った(かも知れない)ことと、利害だけで動くやつら(呂布・劉備・楊奉・韓暹)を操縦して、徐州を奪う謀略をやる名士が去った(かも知れない)こと。
例えば、物語が造型した荀彧のようなキャラクターが、袁術に欠けた。
荀彧は、曹操に本拠地(兗州)の重要性を説き、官渡の戦いでは兵站を維持してくれた。物語では、二虎競食・駆虎呑狼の計などを駆使して、呂布・劉備を操縦する。それができず、ただ力任せに正攻法なのが、欠点でした。

袁術の死後、西征する

孫策伝:後術死、長史楊弘、大將張勳等、將其衆欲就策。廬江太守劉勳、要擊、悉虜之、收其珍寶以歸。策聞之、偽與勳好盟。勳、新得術衆。時、豫章上繚宗民萬餘家在江東、策勸勳攻取之。勳既行、策輕軍晨夜襲拔廬江。勳衆盡降、勳獨與麾下數百人、自歸曹公。

(建安四年6月)袁術が死ぬと、長史の楊弘・大将の張勲は、軍勢をひきいて孫策に就きたい。廬江太守の劉勲が要撃し、すべて捕らえ、珍宝を収めて帰った。

盧弼は、袁術が死ぬと、劉勲がそむいて、人員・珍宝を奪った。劉勲は不義である。袁術は、廬江太守に孫策でなく劉勲を認証したから、人を見る目が無かった、とする。きっと違う。袁術の余党は、孫策でなく劉勲を頼ったのである。楊弘・張勲が「本当は孫策を頼りたかったのに」と、遡及的に証言したのであろう。

孫策はこれを聞き、張勲に「同盟しよう」と偽った。張勲は、新たに袁術の軍勢を得たところ。ときに豫章の上繚の宗民(江南の宗賊)1万余家が、江東にいた。孫策は劉勲に、これを攻め取ろうと告げた。劉勲が出発すると、孫策は軽軍をひきいて朝晩に駆けて廬江をぬき、劉勲の軍勢すべて降した。劉勲は、麾下の数百人とともに曹操に帰した。

孫権伝に「建安四年、從策征廬江太守劉勳。勳破、進討黃祖於沙羡」とある。孫策が劉勲を討ったのは、袁術が死んだ建安四(199)年であり、その足で沙羨に黄祖を討った。
『陳志』劉曄伝によると、孫策にやぶれた劉勲を、劉曄がみちびき、曹操のもとに連れて行ったらしい。劉曄は、魯粛に「鄭宝いいよ」と推薦するなど、揚州を平定できる君主を探していたみたいだ。孫策は、揚州を平定できる人材に見えなかったらしい。


孫策伝 注引『江表伝』:策被詔敕、與司空曹公、衞將軍董承、益州牧劉璋等幷力討袁術、劉表。軍嚴當進、

孫策は詔勅を受け、司空の曹操・衛将軍の董承・益州牧の劉璋と力をあわせて袁術・劉表を討てと。軍を整えて進むとき、袁術が死んだ。

孫策は、197年に陳瑀・呂布とともに袁術を討てと命じられたが、なにかする前に、陳瑀のせいで根拠地で反乱が起きまくり、袁術と戦うに至らず。199年、曹操・董承・劉璋とともに、袁術・劉表を討てと命じられたが、袁術を攻める前に、袁術が青州に旅立って死んだ。孫策と袁術の直接対決はなし。
197年は、ただ陳瑀が孫策の領土を撹乱しただけ。199年はなにもせず。孫策が袁術を攻撃したことはなく、両方ともウソ。現象だけ見ると、それも言える。
孫策に「袁術を討て」という詔が出たと伝えるのは、いずれも『江表伝』である。証言者が1名しかいない、というのは疑わしいが、197年に陳瑀・呂布・孫策という組み合わせに、曹操が袁術が討たせようとしたというのは、創作としても秀逸か。
199年の詔は、曹操・董承・劉璋が、袁術・劉表を討つという、諸葛亮の草盧対レベルの大きすぎる話。しかし、現実感のない話を、現実たらしめるのが、詔勅のもつ威力。やはり創作としても秀逸。
献帝の詔勅が、こういう草盧対レベルの規模の大きすぎる話をしていたなら、曹操が「下手な鉄砲、数打ちゃ当たる」方式で、自分に都合のいいグランド・デザインを群雄にばらまき、1ミリでも潜在意識に働きかけるのを期待したことになる。この詔勅が効いてか効かずか、袁術亡きあと、孫策はこのあと劉表を攻撃する。


孫策伝 注引『江表伝』:會術死、術從弟胤、女壻黃猗等畏懼曹公、不敢守壽春、乃共舁術棺柩、扶其妻子及部曲男女、就劉勳於皖城。勳糧食少、無以相振、乃遣從弟偕告糴於豫章太守華歆。歆郡素少穀、遣吏將偕就海昏上繚、使諸宗帥共出三萬斛米以與偕。偕往歷月、纔得數千斛。偕乃報勳、具說形狀、使勳來襲取之。勳得偕書、使潛軍到海昏邑下。宗帥知之、空壁逃匿、勳了無所得。

袁術が死ぬと、袁術の従弟の袁胤・女婿の黄猗は、曹操を畏懼して、あえて寿春を守らず、袁術の棺柩と妻子・部曲をともない、皖城の劉勲を頼った。

袁術がいなければ、寿春すら保つことができない。逆にいえば、袁術が生きていればこそ、経済都市の寿春を保つことができた。呂布・張繍と戦って忙しかったのも関係しようが、少なくとも曹操は、呂布・張繍よりも攻めやすいと考えなかった。

劉勲は糧食が少ないので、従弟の劉偕を豫章太守の華歆(在位は、劉繇の死んだ197年から199年まで)に送り、糧食を求めた。華歆の南昌城も糧食がない。華歆は部下の吏に、劉偕を海昏・上繚に連れてゆかせ、宗帥らに3万石の米を(まずは華歆に回すように)求めた。華歆の吏と劉偕は、月をまたいで(宗帥らと交渉して)わずかに数千石を得られそう。劉偕がこれを従兄の劉勲に状況を詳しく伝え、劉勲に襲い取らせようとした。

まず宗帥から華歆に供出し、華歆がピンハネしたあと、華歆から劉勲に援助する、という手順を、劉偕が嫌ったのだろう。ピンハネを防ぐには、海昏から南昌に運びこむ前に、奪えばいい。これは、利己心ではなく、分不相応に抱えてしまった人口を養うために、仕方がない措置。また華歆のところも、食糧が足りないから、吏を送って、劉偕とともに交渉に参加した。華歆は、劉偕を門前で追い払って「海昏・上繚にでも行って頼めば?」と言うのでなく、自らの吏を送った。
孫呉政権の成立要件として、江南の生産力・人口の増加があげられる。マクロで見ればそうかも。移行期にあたる190年代は、まだバランスが取れない。生産に従事しない避難民と、(避難民がいない前提のまま)従前どおりの生産体制。曹操みたいに、降伏者・移住者を強制的に耕作に従事させねば、たちまち食糧難である。

劉勲は、海昏の邑下に軍を潜ませた。宗帥はこれを知り、備蓄を隠して逃げてしまい、劉勲は何も得られなかった。

孫策伝 注引『江表伝』時策西討黃祖、行及石城、聞勳輕身詣海昏、便分遣從兄賁、輔率八千人於彭澤待勳、自與周瑜率二萬人步襲皖城、卽克之、得術百工及鼓吹部曲三萬餘人、幷術、勳妻子。表用汝南李術爲廬江太守、給兵三千人以守皖、皆徙所得人東詣吳。

ときに孫策は、西のかた黄祖を討つ。

孫策は、197年に領内の再平定に追われた。198年は、献帝に2倍の貢献をしただけで、戦争なし。199年、『江表伝』の伝える詔勅に従ったのか(自分のためなのか)荊州の黄祖を攻めた。
袁術が死んだ直後、黄祖を攻めた。袁術の死と、黄祖攻めのあいだに、因果関係があるのか。とても微妙。詔勅に従うなら、まず袁術を討つべき。しかし袁術を攻めることは、孫策にとって「広義の自殺」である。しかし袁術が病死した後なら、標的は劉表だけに絞られる。劉表は、父の仇であり、劉表を攻めることは、(もしも孫策に領土拡大の野心があれば)利益にかなう。このたり、袁術の死と、孫策の黄祖攻めが、時系列で密着しているから、行動理由は推測の域を出ない。

孫策が石城に及ぶと、劉勲が海昏に向かい(海昏の宗帥から米を得るために、廬江を留守にしていると)と聞いた。孫策は、従兄の孫賁・孫輔に8千人で彭沢において劉勲を待たせた。孫策は周瑜とともに、2万人で皖城を破って、袁術の百工・鼓吹、部曲3万人と、袁術・劉勲の妻子をとらえた。

孫策は、東(呉郡・会稽)から、西(黄祖)を討ちにゆく。劉勲は、北(皖城)から、南(華歆)を討ちにゆく。たまたまクロスして、孫策と劉勲の戦いが起きた。
孫策が西進した目的は、詔勅に従って劉表(の前線の黄祖)を撃つこと。しかし途上で、たまたま劉勲の留守を見つけ、彼の本拠を攻め取ったという形。劉勲が足を掬われたのは、袁術の余党を養うための兵糧を求めて。さらに、劉勲がともに兵糧を探しにいったのは、劉繇の余党を引き継いだ華歆の部下。劉繇・袁術が、避難民と大勢力をかかえ、その始末&お世話を、華歆・劉勲が見ている。華歆・劉勲は、その役割を果たせず、孫策の攻撃にさらされ、曹操のもとに帰順(というか太守の任期の自主的な終了、帰任)をした。

孫策は上表して、汝南の李術を廬江太守として、兵3千人で皖城を守らせ、ここで得た人口は呉郡に行かせた。

孫策は、袁術集団の遺産(ヒトもモノも)を手に入れたい。劉勲が最初の撃破の目標である。もともと、曹操の命令に従って、黄祖を撃った。孫策にとって、勢力拡大の余地があるのは西だけだから、自己の利害とも一致して、黄祖を撃っている。曹操と孫策は、①献帝の権威を認め(むしろ死せる袁術の権威を認めず)、②劉表を敵と見なし、③姻戚関係になっているため、公私にわたって、本音と建て前にわたって、協調的な軍閥同士である。


劉勲のふがいなさは、どんな背景があるか。
豫章太守の華歆(劉繇の後継者に推戴される)、廬江太守の劉勲(袁術の余党が流入)は、どうやら軍閥として自立するより、あくまで後漢の1官僚に徹する。曹操に帰順することは、挫折・滅亡でなく、単なる帰任である。役割が重くなりすぎ、ワリに合わないから、任地を積極的に去ったとも言えそう。
会稽太守の王朗は、1郡を1太守として普通に統治しており、孫策の攻撃を防いだ。豫章太守の華歆は、劉繇の余党を食わせることは、1太守の職務に余るから、さっさと降伏した。廬江太守の劉勲は、袁術の余党を食わせるのが大変。うっかり本拠地を留守にして、孫策に襲撃されたのではない。城を空けてでも食糧を探求せねば、滅亡しかない。だから、やむなく(旧主どうしが仇敵だった)華歆すら頼った。
袁術の死後の、孫策の急激な膨張は、「袁術の負債(劉繇の残党が迷っているのも、ある意味で袁術が作った債務)を、誰が代わりに背負うか」という押し付け合いである。孫策が手を挙げた。
孫策が死んだ時点で領したという6郡のうち、袁術の生前に孫氏が支配したのは、呉郡・会稽・丹陽の3つのみ。しかも呉郡は、朱治が許貢を追い出して、あらかた平定は終わっていた。丹陽は、傾いた袁術から「袁術王朝の内部の人事問題」として、袁胤を呉景が退けたもの。戦いらしい戦いは、会稽太守の王朗のみ。
廬江(もと劉勲)・豫章(もと華歆)・廬陵(新設)は、199年に袁術・劉繇の残党を掻き集めて、拾っただけ。孫策の「快進撃」は、思ったより大人しく、移動距離も少ない。

◆周瑜伝
孫策伝 注引『江表伝』の途中ですが、周瑜伝を見ておく。

周瑜伝:袁術遣、從弟胤、代尚爲太守。而瑜與尚俱還壽春。術欲以瑜爲將、瑜觀術終無所成、故求爲居巢長、欲假塗東歸。術聽之。遂自居巢、還吳。是歲、建安三年也。策親自迎瑜、授建威中郎將、卽與兵二千人、騎五十匹。瑜、時年二十四、吳中皆呼爲周郎。以瑜恩信著於廬江、出備牛渚、後領春穀長。頃之、策欲取荊州、以瑜爲中護軍、領江夏太守。

袁術が(195年頃か)袁胤を丹陽太守とし、周尚に代えた。周瑜はおじの周尚とともに寿春に還る。袁術は周瑜を将として使いたいが、周瑜は袁術の事業が結局ダメになると思い、居巣長になり、かりに東帰したい。袁術は許した。周瑜は居巣から呉郡(孫策のいる曲阿か)にゆく。これが建安三(198)年である。

袁術の称帝が197年春。周瑜を将軍にしたく、しかし居巣長に任じたのは、皇帝即位の頃だろう。197年9月、袁術の主力が曹操に滅ぼされ、袁術の経営は傾いた。だから198年、袁術の衰退を見た周瑜は、袁術王朝の県長の官職を捨てた。先見の明ではなく、ただの事後対応。

孫策は自ら周瑜を迎え、兵2千人・騎50匹を与えた。呉中で周郎と呼ばれた。

じつは周瑜は、孫策と「苦楽を共にした」わけではない。194年-195年の劉繇との戦いと、199年-200年の袁術の残党狩りにしか参加していない。孫策が権力基盤を築いた、会稽・呉郡の戦いのとき、不在である。劉繇・袁術という、揚州の盟主の勢力が滅びる戦いにだけ参加して、おいしいところだけ持っていく。
思うに、珍しく孫策が戦争をしない198年は、袁術の破綻を待ったのかも。袁術王朝の採算が合わず、自壊も時間の問題だという情報を、198年に周瑜が孫策にもたらした可能性がある。名士のネットワークを使って。

周瑜の恩信は(故郷の)廬江にあらわれ、牛渚に出て守備し、のちに春穀長となった。

袁術に対する消極的な備えかも知れない。袁術に攻められるというより、袁術王朝が崩壊したら、兵乱が起きるから(劉備の死後に蜀で反乱が起きたように)、孫策・周瑜は、恩のある袁術の自壊を待ちつつ、死後の混乱を警戒した。袁術を攻めたら「不忠」となるし、袁術軍が思わぬネバリを見せないとも限らない。やはり、孫策の権力基盤である袁術を、自ら攻めるのは得策でない。197年の反省。

このころ(199年)孫策は荊州を取りたい。周瑜を中護軍・江夏太守とした。

これから攻める黄祖は、劉表の江夏太守である。それに重複させて、周瑜にこの官職を与えた。曹操に表して、という形式で。劉表の討伐を命じる、詔勅に従いますという体裁で。

以上のように、198年に周瑜は、すでに衰退した袁術を捨てて、孫策に就き、199年の西征に従った。袁術の残党の張勲らは、199年に袁術が死んでから、孫策を頼る。この1年分、「周瑜は孫策と近い」と言うべきか、単なる誤差なのか。ともあれ、必要以上に、孫策と周瑜の近さをアピールすべきでない。

◆黄祖の子と孫策が戦う
孫策伝 注引『江表伝』の続きに戻り、

孫策伝 注引『江表伝』:賁、輔又於彭澤破勳。勳走入楚江、從尋陽步上到置馬亭、聞策等已克皖、乃投西塞。至沂、築壘自守、告急於劉表、求救於黃祖。祖遣太子射船軍五千人助勳。策復就攻、大破勳。勳與偕北歸曹公、射亦遁走。策收得勳兵二千餘人、船千艘、遂前進夏口攻黃祖。時劉表遣從子虎、南陽韓晞將長矛五千、來爲黃祖前鋒。策與戰、大破之。

孫賁・孫輔は、彭沢(豫章郡)で劉勲を破った。劉勲は楚江に入り、尋陽(廬江郡)から置馬亭(尋陽県)にゆく。孫策が皖城を落としたと聞き、西塞(山名、呉の陽新県)に投じた。〔流〕沂に塁を築いて自保し、劉表に急を告げ、黄祖に救いを求めた。

袁術と劉表は、190年代前半に荊州を巡って対立したが、193年に袁術が揚州に移って利害が衝突しなくなり、また196年以降、献帝を擁した曹操に敵対する点で、ゆるい同盟関係となった。独自の王権をめざすのも同じ。
197年、曹操は劉表(の前線の張繍)と戦い、袁術と戦った。劉表・袁術は、「相手がピンチのとき、援軍を出すほどではないが、互いが存続すること自体、曹操への牽制となるから、憎からぬ思う隣人だ」と思いあう関係。
援軍を出さないのは、遠いから。この距離が、二者を対立から、ゆるい同盟に移したのだから、同盟の成立時点からの与件である。同盟・同調が窺われるがゆえに、曹操は『江表伝』が載せる詔勅で、袁術と劉表を名指しにして、董承・孫策・劉璋に討伐を命じた。
かつての豫章太守の諸葛玄は、袁術が任じたのか、劉表が任じたのか、史料に混乱が見られる。両者の政権が、ゆるい連帯をもち、人的に交流があった証左かも知れない。揚州で敗れた諸葛玄の遺族(諸葛亮)は、荊州に逃れた。
ぎゃくに、劉璋が曹操に対して、恭順していたことが、浮かび上がる。もしも劉璋が反抗的ないしは脅威であれば、曹操は、筆先だけで、劉璋を糾弾することもできた。だが、しなかった。赤壁のときも、劉璋は使者を送る。劉璋政権が、曹操に反抗したことは、いちどもない。反乱分子が、劉備を招いてしまったが。

黄祖は、子の黄射に水軍5千をつけて劉勲を救う。孫策は劉勲を破り、劉勲・(華歆の吏)劉偕は曹操をたよる。黄射はにげる。孫策は、劉勲の兵2千余と、船1千を得た。 孫策は、江夏で黄祖を攻めた。ときに劉表は、従子の劉虎・南陽の韓晞に長矛の兵5千をつけ、黄祖の先鋒とした。孫策はこれをおおいに破った。

いま、袁術の遺族をかかえる劉勲を、劉表の江夏太守が救った。(ゆるい同盟者であった)袁術の後継者の劉勲を、曹操の詔勅を帯びた孫策が攻めてきたから、劉表は援軍まで出して救った。
今度の場合は、近いから援軍を出せる。というか、孫策という現実的な脅威が、荊州に差し迫っているから、自らのために黄祖の子を送った。
劉勲・劉表を討伐する、末期の孫策と、新しい孫権の集団は、曹操派として歩みを始めたことになる。孫策の「自立」は、決して本当の自立ではなく、袁術からの独立、曹操への従属である。ゆえに孫権は、漢室匡輔をずっと唱えるし、赤壁の開戦に迷って、周瑜に押し切られる。
周瑜は、劉繇に反抗し、袁術に反抗し、曹操に反抗した。ときの盟主に反対して起兵し、情勢を覆すのが好きである。なぜこんなに反骨なのか。


◆孫策の上表

孫策伝 裴注:吳錄載策表曰「臣討黃祖、以十二月八日到祖所屯沙羨縣。劉表遣將助祖、並來趣臣。臣以十一日平旦部所領江夏太守行建威中郎將周瑜、領桂陽太守行征虜中郎將呂範、領零陵太守行蕩寇中郎將程普、行奉業校尉孫權、行先登校尉韓當、行武鋒校尉黃蓋等同時俱進。身跨馬櫟陳、手擊急鼓、以齊戰勢。吏士奮激、踊躍百倍、心精意果、各競用命。越渡重塹、迅疾若飛。火放上風、兵激煙下、弓弩並發、流矢雨集、日加辰時、祖乃潰爛。鋒刃所截、猋火所焚、前無生寇、惟祖迸走。獲其妻息男女七人、斬虎・韓晞已下二萬餘級、其赴水溺者一萬餘口、船六千餘艘、財物山積。雖表未禽、祖宿狡猾、爲表腹心、出作爪牙、表之鴟張、以祖氣息、而祖家屬部曲、掃地無餘、表孤特之虜、成鬼行尸。誠皆聖朝神武遠振、臣討有罪、得效微勤。」

『呉録』は、孫策の上表を載せる。私は(建安四年)12月8日、黄祖の屯所である沙羨県にいく。11日、私が部する周瑜・呂範・程普・孫権・韓当・黄蓋がともに進んだ。

周瑜の江夏、呂範の桂陽、程普の零陵という太守の官号は、いずれも荊州で、劉表の支配圏。これを上表で述べるということは、献帝の後任。曹操は、孫策の部下に荊州の太守を遙領させることで、孫策が劉表を破るモチベーションを与えた。
袁術は、支配圏にある揚州のなかの太守の官号だけをヤリクリして、官号が不足した。孫策が不満を溜めた。しかし曹操は、献帝の詔勅を左右し、天下全土の官号を自由に発行して、遠隔地の群雄を思うままに操ろうとする。プランは壮大だが、それって「漢賊」なんじゃ…。董卓が州郡の長官を任命しまくったのと同型である。もっとも、董卓のときは、まだ群雄割拠の前だから、形式は同じでも、内実(現実に及ぼす作用)は同じでないが。

黄祖の子7人を捕らえ、(劉表の従子)劉虎と韓晞より以下2万余級(実態は2千余級、それでも凄いな)を斬った。水に溺れた者は1万余口、沈んだ船は6千余。劉表を捕らえることはできなかったが、かねて黄祖は狡猾で、劉表の腹心となり、(江夏に)出鎮しては爪牙となったが、黄祖は私が倒しました」と。

曹操派の揚州支配者・孫策の確立

孫策伝:是時、袁紹方彊、而策幷江東。曹公、力未能逞、且欲撫之。
同注引『呉歴』:吳歷曰。曹公聞策平定江南、意甚難之、常呼「猘兒難與爭鋒也」。
孫策伝:乃以弟女、配策小弟匡。又、爲子章、取賁女。皆禮辟策弟權、翊。又命揚州刺史嚴象、舉權茂才。

このとき袁紹が強く、孫策が江東をあわせた。曹操は、孫策を討伐する余力がないので、孫策を撫した。曹操は、弟の娘を、孫策の弟の孫匡に嫁がせた。子の曹彰に、孫賁の娘を娶らせた。

袁術は、呂布には婚姻を持ちかけるが、孫堅・孫策には持ちかけず。曹操は、孫策に婚姻を持ちかける。対応が全然ちがって、おもしろい。
呂布は、董卓バブルによって爵位をあげたが、家柄は良くない。袁隗らのカタキを取ってくれたことを、私的に感謝したためか。それとも、徐州のキーマンと見なして、操縦しようとしたか(少しも操縦できなかった&マジメに付き合うつもりがなさそうだった)。
『呉志』・『呉歴』は、曹操は本当は孫策を脅威に感じているが、袁紹がいるから仕方なく慰撫した、、という筆致である。しかし、そうでもないだろう。曹操と孫策の対立は、歴史家の遡及的な視点。孫策は、曹操を支持することによってしか、袁術から独立できない。気前よく(未征服の地だけど)地方長官の官位をくれる。利害は、ピタリと一致している。むしろ曹操は、袁術の自爆のおかげで、遠隔地に思わぬ協力者ができた(幸い、劉表を攻撃してくれるし)と思っているだろう。曹操にとって、孫氏政権は、じつに都合がいいからこそ、相互に通婚した。「揚州を『息子』に任せている」は、単なる詭弁でなく、やや真実を含む。

礼をもって孫権・孫翊を辟した。揚州刺史の厳象に、孫権を茂才に挙げさせた。

『魏志』荀彧伝の注にも、厳象が見える。『太平御覧』巻百十八に引く『呉志』は「厳衆」に作る。宋本も「厳衆」とする。しかし沈家本によると、荀彧伝にひく『三輔決録』は「厳象」に作るから、厳象が正しい。


◆厳象伝

『魏志』荀彧伝:太祖以彧為知人,諸所進達皆稱職,唯嚴象為揚州,韋康為涼州,後敗亡。
同注引『三輔決録』:象字文則,京兆人。少聰博,有膽智。以督軍御史中丞詣揚州討袁術,會術病卒,因以為揚州刺史。建安五年,為孫策廬江太守李術所殺,時年三十八。象同郡趙岐作三輔決錄,恐時人不盡其意,故隱其書,唯以示象。  

厳象は、督軍御史中丞として揚州に赴任し、ちょうど袁術が死んだので、揚州刺史となった。建安五(200)年、孫策の廬江太守である李術によって殺された。
これだけ読むと「孫策は、曹操の派遣した揚州刺史を認めず、殺した」となる。しかし李術は、孫権に叛く。どこまで孫氏が、厳象・曹操と敵対する意向があったのか確定しない。161214

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第8回 広陵太守の陳登をねらう

前回、建安四(199)年の12月、黄祖を討伐した。上表という形ではあるが、月日が確定する、孫策にしてはめずらしい記事だった。移動時間も含めると、袁術が死んだ建安四年6月以降、孫策が行動を開始したと思われる。
孫策伝は、建安五年に移るが、その前の裴注を消化する。

高岱伝

孫策伝 注引『呉録』:時有高岱者、隱於餘姚、策命出使會稽丞陸昭逆之、策虛己候焉。聞其善左傳、乃自玩讀、欲與論講。或謂之曰「高岱以將軍但英武而已、無文學之才、若與論傳而或云不知者、則某言符矣。」又謂岱曰「孫將軍爲人、惡勝己者、若每問、當言不知、乃合意耳。如皆辨義、此必危殆。」岱以爲然、及與論傳、或答不知。策果怒、以爲輕己、乃囚之。知交及時人皆露坐爲請。策登樓、望見數里中填滿。策惡其收衆心、遂殺之。

ときに高岱という者があり、余姚(会稽郡)に隠れた。孫策は会稽丞の陸昭に迎えに行かせた。

会稽太守の丞となったのは、会稽陸氏である。孫策が陸康を殺して決裂したのは、呉郡陸氏である。血縁かも知れないが、いちおう政治集団としては区別されるだろう。

孫策は己を虚しくして交際を申し出た。高岱が『春秋左氏伝』が得意だと聞き、その話をしたいと言った。ある人が孫策に「高岱は、将軍(孫策)が英武だけで、文学の才がないと思っている。もし『春秋左氏伝』の話をして(本当は知るのに)知らないと言えば(まともな話し相手と見なしていない)証拠となります」という。さらに高岱に「孫将軍の人となりは、己より優れた者を憎む。もし問われたら、知らないと言って話を合わせておけ」と。高岱はそのようにした。孫策は果たして怒り、己が軽んじられたと考え、高岱を捕らえた。高岱の知交や時人は、みな高岱の釈放を願った。孫策はその人望をにくみ、ついに殺した。

孫氏が名士に侮られたエピソード、と説明できるほど単純ではない。むしろ、孫策が名士に侮られることを嫌うがゆえに発生した悲劇という感じがする。
ここに登場し、孫策・高岱に会話方法を吹きこんだ人は、孫策と高岱の対立を煽ったように見える。しかし、違うだろう。人間心理の機微を、きちんと理解せずに、ハンパなアドバイスをしたことが罪である。
孫策は「オレは名士に侮られる」と思っており、高岱は「孫策は名士に侮られると思っている」と思っており、、互いのメタな認識が、会話をギクシャクさせたと思われる。
高岱が聞いた事前情報の「孫策は、己に勝るものを憎む」という悪い性格は、じつは真実で、高岱の釈放を願うひとが「数里中に充満」すると、高岱を殺してしまった。
つぎの裴注(今回は省く)で、于吉に人望があるのを知って、于吉を殺害する。民衆の支持を、自分よりも集めるひとがいると、嫉妬して殺す。これは、于吉の呪いではなく、孫策の本性の一部なのだろう。

『呉録』:岱字孔文、吳郡人也。受性聰達、輕財貴義。其友士拔奇、取於未顯、所友八人、皆世之英偉也。太守盛憲以爲上計、舉孝廉。許貢來領郡、岱將憲避難於許昭家、求救於陶謙。謙未卽救、岱憔悴泣血、水漿不入口。謙感其忠壯、有申包胥之義、許爲出軍、以書與貢。

高岱は、呉郡のひと。財を軽んじて義を貴ぶ。友の8人ともに世の英偉とされた。呉郡太守の盛憲は、上計とし、孝廉に挙げた。許貢が(呉郡太守となり)郡を領すると、高岱は盛憲をつれて許昭の家に避難して、陶謙に救いを求めた(徐州に依頼にゆく)。

何焯によると、許劭(許子将)は、かつて陶謙に依ったことがある。ここは許昭でなく許劭に作るべきである。盧弼によると、裴注に「許昭が旧君に義をもつ」とある。許昭の旧君の盛憲を指す。許昭は呉郡のひとのはず(呉郡太守の部下だったから)なので、許劭ではなく許昭のママでよい。

陶謙の救援に行かぬと、高岱は不安で水も飲めない。

呉郡のひとにとって、陶謙は救いを求める相手であり、呉郡太守の許貢の統治が「憔悴・泣血」するほど、居心地が悪い。評価が最低である。 陶謙が死ぬのは興平元年である。許貢は興平元年までに呉郡太守として赴任した。許貢が地位を追われるのは、興平二(195)年、孫策が劉繇を曲阿から追い払った後(上述)。高岱が、近くの劉繇を頼らず(この記事では劉繇が揚州に初平三(192)年に来たと推定)、わざわざ遠くの陶謙を頼ったのはなぜか。 劉繇・許貢が共通の党派に属したからだろう。というより、許貢は劉繇派の太守で、献帝に正式に任命された太守と思われる。

陶謙は、高岱の忠壮に感じ、申包胥の義があると考え、(盛憲・高岱・許昭を徐州に迎えるための)軍を出すことを許し、許貢にそれを文書で告げた。

『呉録』:岱得謙書以還、而貢已囚其母。吳人大小皆爲危竦、以貢宿忿、往必見害。岱言在君則爲君、且母在牢獄、期於當往、若得入見、事自當解。遂通書自白、貢卽與相見。才辭敏捷、好自陳謝、貢登時出其母。岱將見貢、語友人張允、沈䁕令豫具船、以貢必悔、當追逐之。出便將母乘船易道而逃。貢須臾遣人追之、令追者若及於船、江上便殺之、已過則止。使與岱錯道、遂免。被誅時、年三十餘。

高岱は、陶謙の文書を得て還ったが、許貢はその母を捕らえた。呉郡のひとは、みな「許貢は怒っており、高岱がゆけば殺害される」と言った。それでも許貢に面会し、母を釈放してもらった。友人の張音・沈䁕に船を準備させた。高岱は、許貢が必ず釈放したことを悔いて、追ってくると思ったから、道を変えて(会稽の余姚に)逃げた。孫策に殺されたとき、30余歳だった。

名士を虐げて、理屈が通らないのに、家族や本人を捕らえ、いじめる。これって、陶謙も同じことをしたと伝わる。そのくせ、いま高岱は許貢を頼ろうとした。陶謙も許貢も、地方長官として、名士から尊敬を集めようとした。しかし、世俗権力に必ずしも屈しない名士は、長官たちの機嫌を損ねたとか。
呉郡太守の許貢から免れた高岱ですが、会稽太守の孫策に殺された。許貢も孫策も同類であり、ふらっと赴任した地で、名士を虐げただけである。孫策政権の限界が見える。現地の名士の協力は、得がたい。

孫策の北伐未遂

孫策伝:建安五年、曹公與袁紹相拒於官渡、策陰欲襲許、迎漢帝。密治兵、部署諸將。未發、會爲故吳郡太守許貢客、所殺。先是、策殺貢。貢小子、與客、亡匿江邊。策、單騎出、卒與客遇、客擊傷策。

建安五年、孫策は出兵の準備をしていると、もと呉郡太守の許貢の客に殺された。これより先、孫策は(朱治に敗れ、厳白虎を頼っていた)許貢を殺した。許貢の小子は客とともに、江辺に隠れていた。孫策は単騎で出て、にかわに客と遭遇して、傷つけられた。

孫策伝 注引『江表伝』:廣陵太守陳登治射陽、登卽瑀之從兄子也。策前西征、登陰復遣閒使、以印綬與嚴白虎餘黨、圖爲後害、以報瑀見破之辱。策歸、復討登。

広陵太守の陳登は、射陽を治所とした。陳登は陳瑀の従兄(陳珪)の子である。

呂布は、建安元年に徐州長官となり、建安三年末に曹操に殺された。この期間、陳登は曹操から広陵太守にしてもらった。建安三年末、呂布が死んだ。建安五年、劉備が徐州刺史の車冑を殺す。つまり、徐州長官が呂布から、車冑(曹操派)に交替しても、陳登は広陵太守であり続けた。

孫策が(袁術が死んだ建安四年六月から、上表に見えた十二月まで、黄祖を討つため)西征したと聞き、陳登はひそかに使者を送り、印綬を厳白虎の余党に贈って、孫策を後ろから攻め、陳瑀の恥を雪ごうとした。

建安二年、孫策は袁術を詔勅に従って袁術を攻めようとしたら、陳瑀に領内を乱された。いま建安四年、まったく同じことが起きた。孫策の江東(呉郡・会稽)支配は安定せず、下邳陳氏(陳瑀・陳登)が厳白虎の集団に印綬を配ると、簡単にゆらぐ。孫策が「群盗=ザコ」と言った厳白虎ですが、下邳陳氏がたびたび味方に選ぶほど、現地の有力者だったようだ。

孫策は(建安四年、劉勲を討って袁術の後継者としての地位を固め、詔勅に従って黄祖を討ち、その帰りに豫章を降して、呉郡に)帰ると、陳登を討とうとした。

孫策の軍事行動は、反復的なものである。
かつて建安二年、呂範と徐逸は、徐州の海西県まで攻めこみ、陳瑀を破り、袁紹のもとに走らせた。いま孫策は、自ら陳登を射陽県に討とうとしている。
陳登は(呂布の存命中から)曹操派なのに、曹操派になったはずの孫策が、これを討伐してもいいのか。いいんです。きっと孫策は「陳登は詔勅に叛いた」という名目で、陳登に報復を試みる。詔勅に従って動いている孫策を、背後から妨害するというのは、充分な討伐の理由になる。
というか孫策は、
『江表伝』が載せる詔勅に馬鹿正直に従うばかり。袁術のために馬鹿正直に外征を続けたときと、精神構造は同じである。これが名士でない者の苦しさか。袁術でも曹操でもいいから、行動に理由を与えてくれる盟主に、積極的に言いなりになる。
ぎゃくに、三公の家柄の下邳陳氏は、詔勅を利用して、自らの徐州支配に役立てようとしている。こういう「主体的」な行動が取れるのが、高級官僚の家の特権である。袁術・袁紹が、官職を「もてあそぶ」のも、同じ目線からの行為。袁術は、下邳陳氏に、粘り強く協力を持ちかけた。同じ階層に属するという証左である。
さらに廬江周氏の周瑜が、ものすごく反骨で、劉繇(194年)・袁術(198年)・曹操(208年)に楯突くのも、高級官僚の家の出身だからか。曹操を「漢賊」と認定できた周瑜の権力は、やはり家柄に拠るところが大きい。

「母国語話者」とは、その言語で造語できる者を指すともいう。ぼくが新奇な日本語の語彙をわざと使ったら(流通するかは別として)造語という行為である。しかし新奇な英語の語彙を使ったら、ただのバカ・勉強不足である。同じように、高級官僚の家は、詔勅・官職をいくらか自由に操り、独自の覇権に向けたアクションが取れる。しかし孫策は、原理原則のコードどおりに、詔勅に従うだけ。


建安五年、下邳は曹操派の官僚が治めるが、下邳よりも東南の広陵郡(いま射陽が郡治)だけなら、攻めてもいいかなと思いました、と釈明すれば、まだ話は通る。広陵は、袁術が築き損ねた江北の拠点である。献帝に名義上も逆らうことなく、念願の江北の拠点を取りに行ける。
というか、月が確定しないから難しいが、建安五年は、劉備が、曹操派の徐州刺史の車冑を殺した年。直後に曹操が下邳を奪還したが、曹操は官渡に行ってしまった。孫策は(諸史料が伝えるように)曹操の留守をねらった。ただし、ねらったのは献帝ではなく、徐州であった。劉勲を破って、袁術の遺族を呉郡に置いた孫策であるから、袁術の戦略を引き継ぐのは、自然なことである。

献帝を狙うのも、建安元年のころ袁術の戦略の一部(候補)であったかも知れない。袁術派が、曹操の献帝奉戴を妨害したのは、事実である。しかし袁術自身が、献帝を奪うために軍を出すことはなかった。それよりも、建安元年、徐州を得ようと、呂布・劉備あたりにイライラしていた。


『江表伝』:軍到丹徒、須待運糧。策性好獵、將步騎數出。策驅馳逐鹿、所乘馬精駿、從騎絕不能及。初、吳郡太守許貢上表於漢帝曰「孫策驍雄、與項籍相似、宜加貴寵、召還京邑。若被詔不得不還、若放於外必作世患。」策候吏得貢表、以示策。策請貢相見、以責讓貢。貢辭無表、策卽令武士絞殺之。貢奴客潛民間、欲爲貢報讐。獵日、卒有三人卽貢客也。策問「爾等何人?」答云「是韓當兵、在此射鹿耳。」策曰「當兵吾皆識之、未嘗見汝等。」因射一人、應弦而倒。餘二人怖急、便舉弓射策、中頰。後騎尋至、皆刺殺之。

孫策軍が丹徒に到り、軍糧の運搬を待った。孫策は猟を好み、鹿を逐った。
はじめ呉郡太守の許貢は(194年-195年の間か)漢帝に「孫策は項籍に似ているから(袁術から剥がして)京邑に召してしまえ」とチクった。孫策はその上表を得て、のちに許貢を責め、許貢を絞め殺した。
孫策に遭遇した許貢の食客は、「韓当の兵っす」と偽って近づいたが、孫策が「韓当の兵は、みな知っているが、お前らは違う」と言った。たちまち1人を射た。残り2人は怖れ、孫策のほおに矢を当てた。すぐに兵が至り、2人を刺殺した。

孫策伝 注引『呉歴』:策既被創、醫言可治、當好自將護、百日勿動。策引鏡自照、謂左右曰「面如此、尚可復建功立事乎?」椎几大奮、創皆分裂、其夜卒。

孫策は頬を傷つけられたが、医者は「100日も動かねば治る」という。孫策は鏡を見て、左右に「こんな顔で、なぜ功績を建てて事業を立てられるか」といい、興奮した。キズが割けて、その夜に死んだ。

孫策が死ぬ

孫策伝:創甚、請張昭等、謂曰「中國方亂。夫、以吳越之衆三江之固、足以觀成敗。公等、善相吾弟」呼權、佩以印綬、謂曰「舉江東之衆、決機於兩陳之間、與天下爭衡、卿不如我。舉賢任能、各盡其心、以保江東、我不知卿」至夜卒、時年二十六。

孫策は遺言して死んだ。26歳だった。

孫策の遺言は、ウソだ。孫権の取りまきが、後年捏造した。6年前、書いた。
2010年版・孫策伝04) 許都を目指さず、遺言せず


孫策伝には、矛盾する2つの力学が働いている。
1つ、呉王朝の(領土的な)基礎を築いた人物として、孫策を独立心にあふれた英雄として描くこと。袁術と絶縁し、曹操に対抗し、自主の気概をもって、各地を平定する描写が輝かしい。しかしそのプロセスは、初期は袁術に依存し、途中で袁術と曹操のパワーバランスのスキマを縫い、末期は曹操の手先として動いたものだった。この地域が、後漢・曹魏から独立した、呉王朝の領土!となるためには、後年の展開を追う必要がある。
2つ、しかし帝王の資格がない軽率な人物として、性格・素質的な問題を浮き上がらせること。呉王朝の帝位に即くのは、孫権の子孫であって、孫策の子孫ではない。たとえ兄でも。
とくに2つめが難しい。
兄弟の人間関係というのは、当該社会の相続制度によって規定されるところがある。兄弟の地位が平等で、親の財産を均等な(均等を強制されぬまでも、著しい偏りがない)場合、兄弟の仲は悪くならない。後漢の官位は世襲でないから、兄弟が並んで出世することもあるし、年齢順による優劣も付かない。日本史に由来するナゾの概念「家督の相続」は、後漢・三国の就官の分析には使えない。

むしろ、特定の家の同世代が、俊傑ぞろいだと、それをコレクションしたがる挙主が出てくる。コンプリートできたら、嬉しいだろうなーという欲望の対象となる。

しかし官僚家でなく、皇帝の家となると、とたんに兄弟が不平等になる。帝位を継承できるのは、原則として兄弟の1人。すると、官僚家では起きることのなかった「後継者争い」が登場する。

後漢・三国の臣下がもらい、世襲できる爵位も、兄弟の1人しか嗣げない。しかし、爵位による実利が少ないためか、「爵位をめぐった血で血を洗う抗争」は、起きない。

孫策と孫権は、そういう社会制度によって、史料の編纂過程で敵対的にならざるを得ず、孫策伝における孫策が、なんだかショボい。

2週間にわたり作ってきた「孫策伝の決定版」は、とりあえず完結です。最終回は、忘年会があった日にも関わらず、スケジュールの都合(趣味の)で、完結させておきたかった。161215

孫策の最期のライバル・陳登伝

『三国志集解』呂布伝 注引『先賢行状』を抜粋して訓読する。

太祖 登を廣陵太守と爲し、陰(ひそ)かに衆を合せて以て呂布を圖(はか)らしむ。……(建安三年冬)布 既に誅に伏し、登 功を以て加へて伏波將軍を拜す。甚だ江・淮閒の歡心を得たり。是に於いて江南を吞滅するの志有り。(建安五年)孫策 軍を遣はし登を匡琦城に攻む〔一〕。賊 初めて到り、旌甲 水を覆ふ。羣下 咸(みな) 今 賊衆の郡兵に十倍するを以て、抗すること能はざるを恐れ、軍を引きて之を避け、其の空城を與(あた)ふ可しとす。水人 陸に居せば、久しく處ること能はず、必ず尋(つ)いで引き去らんと。登 聲を厲(はげま)して曰く、……登 手づから軍鼓を執り、兵を縱(ほしいまま)にして之に乘す。賊 遂に大い破れ、皆 船を棄てて迸走す。登 勝ちに乘じて追奔し、斬虜すること萬を以て數ふ。賊 軍を喪ふことに忿り、尋いで復た大いに兵を興して登に向ふ。登 兵の敵せざるを以て、功曹の陳矯をして救ひを太祖に求む。……登を遷して東城太守と爲す〔二〕。廣陵の吏民 其の恩德を佩(お)び、共に郡を在るに、頻(しき)りに吳寇を致らしめ、幸いにして克(よ)く濟(すく)ふ。諸卿 何ぞ令君無きを患ふやと。孫權 遂に江外を跨有す。太祖 每(つね)に大江に臨みて歎じ、早く陳元龍が計を用ゐざるを恨む。而して豕(し)を封じて其の爪牙を養はしむ。

〔一〕趙一清曰く、「匡琦 是れ人の姓名に似て、高遷屯・白超塁の如し。陳矯伝は『匡奇』に作る。案ずるに、建安十三(二〇八)年、孫権 合肥を囲み、張昭をして九江の当塗を攻めしむ。而るに張昭伝 注引 呉書に云ふ、『別れて匡琦を討つ』と。則ち匡琦城 即ち当塗城なり」と。謝鍾英曰く、「江表伝、『広陵太守の陳登 射陽を治とす』といふ。孫権 登を攻むるに、宜しく射陽に在るべし。則ち匡琦 当に射陽と相ひ近くあるべし」と。弼 按ず、「此れ建安五年の事と為す。通鑑考異 已に詳らかに之を辯ず。登 江南を呑滅するの志有り、故に孫策 登を攻む。……本志 陳矯伝に云ふ、『郡 孫権の為に匡奇を囲まる』と。当に字句の脱誤と為すべし」と。
〔二〕趙一清曰く、「漢書 地理志に、九江郡の東城県あり。後漢は省く。故に続志に之無し。未だ郡を立つるを聞かず。此れ城の字は、郡の字の誤りなるを疑う。登 広陵由(よ)り東郡に遷る。既に去りて淮南 遂に虚たり。曹公 故に追ひて其の計(江南を吞滅するの志)を用ひざるを恨むなり。若し仍(よ)りて九江に在らば、則ち何ぞ歎き恨むこと之 有らんや」と。……謝鍾英曰く、「東城 県を廃するに、班志 九江郡に属せしめ、国志 下邳に属せしむ。先賢行状、『陳登 東城太守に遷る』といふ。呉志、『魯粛 臨淮の東城の人』といふ。蓋し漢末 升して郡と作(な)し、三国時、地は兵衝に当たり、遂に廃せり」と。……弼 按ずるに、「下文に『広陵の吏民 郡を抜けて相ひ随ふ』の語有り。当に仍(よ)りて下邳の東城と為すべし。地望 相ひ近く、故に能く相ひ随ふなり。若し兗州の東郡為(た)れば、則ち距離 甚だ遠し。何ぞ能く郡を抜けて相ひ随はんや。又 本志 方技伝 華佗伝に『広陵太守の陳登 病を得て死す』と云ふ。其れ『東城太守為(た)り』と言はず」と。

陳登は、呂布のいる下邳城のなかで、コソコソ謀略をしたイメージがあるが、下邳の東南の広陵太守となり、いち地方を抑えて、呂布を牽制することを期待され、その役目を果たした。呂布が198年末に片付くと、この時点ですでに袁術は主力軍が壊滅していたので、孫策を討伐する志を抱いていた。
199年末まで孫策が黄祖の討伐にゆくと、この隙を突いて、厳白虎の残党に印綬をまいた。そこで、孫権が匡奇(匡琦)城に攻めこみ、陳登を追いこんだ。『三国志集解』を引いた〔一〕は、匡琦の位置についてのこと。しかし、孫権が城を囲んでいるとき、西征から還って参戦するはずだった孫策が、許貢の食客によって殺された。そこで孫権は、あわてて敗走した。
この功績により、おそらく200年、陳登は東城太守となった。「東城」という郡があったのか、いや「東郡」である、いや「県から郡に昇格され、魏呉の国境にあるから廃れた」という諸説が述べられているのが、『三国志集解』を引いた〔二〕でした。
曹操の歎き方から推察するに、陳登は、魯粛の故郷でもある東城県に進駐した。東城の地は、徐州が揚州にメリこんだところで、寿春とほぼ緯度がひとしい。戦略的な価値がある土地として、陳登がここへの赴任を希望したのだろう。しかし、いちどは広陵太守になった陳登を「東城長」に降格するのはおかしい。東城県は、前漢では臨淮郡、後漢では下邳国に属した。つまり、陳登を「下邳相」にすれば、ここを管轄する太守(相)になるけれど、治所はあくまで下邳である。そういうわけで、陳登が、江東を攻略するための前線として、臨時に郡に昇格させて、ここに陳登を置いたのだろう。
ほどなく、華佗伝に見えるとおり、病気になって死んだ。孫権は、ぶじに江東に地盤をかため、曹操の前に立ちはだかることになる。161218

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(番外編)袁術政権論

孫策伝を読みながら考えた、袁術政権論

蛇足ですが、いま考えた、袁術政権論。
後漢末の群雄も、会社経営も大枠は同じ。初めに資本(金)があって、1つ工場を建て、商品を作って売って、シェアが広がって利益が出たら、新しい工場を建てて。初めに資本(社会関係資本や官職)があって、1郡を支配して、軍隊を作って攻めて、領土が広がって富んだら、新しい軍隊を編んで。
会社の倒産のパターンは、工場建設・原料仕入・商品製造まで、金が出て行ったが、商品が売れずにキャッシュが枯渇したとき。漢末の群雄も、1郡を支配し、外征して出費をしたが、領土が広がらずに赤字となり、自領で追加課税しまくって、領土支配が破綻したとき。
袁術の場合、南陽から領土を拡大できず、倒産しかかった。たまたま揚州を得られたから、倒産を回避。しかし、建安元年に徐州を獲得できず、経営が破綻しかかった。袁術のように、初期の自己資本が大きいと、すぐに事業が大きくなるが、要請される速度・規模が、どんどん大きくなってしまう。だから、わりと規模が大きくて強いのに(大きくて強いからこそ)突然の破綻、突然の死がある。

曹操と袁術のちがい

もうちょっと考えが膨らみました。
曹操が袁術に買った要因は、①献帝の奉戴でなく、②経済政策。

まず①の皇帝の問題につき、その影響の小ささを論じます。
興平~建安初、献帝を奉戴した勢力は多数あるが、決め手にならず。漢朝への怨嗟と絶望は共有され、みな冷淡。のちに曹丕・劉備・孫権が、漢を肯定的に継承するというロジックで、皇帝になったから、史料からは、怨嗟と絶望は見えにくい。しかし、桓帝・霊帝期には、やはり士大夫は苦労したみたい。さもなくば、後漢末が到来しないでしょう。
献帝のみが発行できるはずの官職は、一方的に「上表」をやりっぱなしとか、「承制」の形式を取るとか、馬日磾・趙岐ら「節」の保持者を媒介するとか、いろいろな方法で、関東に「自称」将軍、「自称」太守、「自称」刺史が蔓延している。献帝の裁可がなくても、実質的に官職は流通している。
献帝は、董卓に擁立されたという瑕疵があり、別の候補者が出てくると不利にも。袁紹が失敗したが、別の候補者を立てる者が、献帝の素性の怪しさを唱えて、檄文を回付してしまえば、政治的な文脈としては、充分に成立してしまう。

建安元年、曹操がひろった献帝は(荀彧のような個人の思い入れに反して)、客観的にそれほど有利なカードでない。孫策・呂布ら群雄が、献帝(曹操)と袁術に両属し、利益を天秤にかけたように。どちらが、何の官位をくれるのか、ケチケチと交渉をしている。孫策が、いろいろ官職を献帝の使者に要求してる。「漢の純臣」だったら、孫策・呂布のやり方は、いかがなものか。
このような、「ふたつの皇帝を天秤にかける」という、オークション方式は、ふつうに行われたこと。やがて三国期、遼東公孫氏が魏と呉に領属し、利益を追求したのと同型の、官職を贈る争いが起きるレベルで、「献帝は正しいけど、袁術もそこそこ正しい」という均衡状態があった。

結果から遡及して「曹操は賢明、袁術はバカ」と史料に記され、袁術が皇帝を称した瞬間に、みるみる支持を失ったように書かれるが、実態はそうではない。漢と仲の正統性をめぐる闘争が、徐州~揚州で起きていた。献帝の影響力は、それほど大きくないため、「袁術は、献帝を曹操に奪われたから、困惑して自棄になって称帝した」とも違う。袁術が困惑・自棄になるほど、曹操が献帝を入手したことが決定的ではない。袁紹さんのところだって、メリット・デメリットを比べていたじゃないか。

すると、曹操が袁術に勝った理由は、②経済政策かと思われる。
曹操は領土が拡大しなくても、屯田などで、既存の領内の生産量を増やして、軍を養えた。袁術は、領土の拡大が前提だった。勝ち続けることが前提の方針だから、トラブルに弱い。ここが違う。
建安初期の曹操は、「兗州牧」であるはずが、兗州支配は安定しない。前年まで、呂布との死闘で荒廃した。在地の豪族にも、離反された。兗州は、袁紹の勢力圏と接しており、収穫を独占できないかも知れない。そこで、建安元年、潁川の許県に移って、その周囲で屯田を開始。ここに献帝を招くのだが、数ある選択肢のなかで、あえて許県にしたというより、この生産拠点くらいしか、曹操が安定支配できる地がなかった、というのが実態ではなかろうか。潁川のすぐ南の汝南は、袁術派の勢力圏。同じ豫州の東は、徐州に接しており、呂布が介入してくる。建安元年、曹操の経済的実力は、張邈から奪った陳留の貯蓄+潁川の1郡ぐらい。潁川は、李傕・郭汜に荒らされた地で、みな避難しているし、かなり苦しい。

袁術は、領土の拡大により、戦費をまかなう前提。南陽を吸い尽くし、寿春を奪い、廬江の陸康を殺し、曲阿の劉繇を逐い、会稽の王朗を破った。新たに得た領土から、次の戦費を捻出する。これのくり返し。短期間で爆発的な勢力拡大が可能だが、建安元年に徐州を奪えず、突然の破綻。徐州刺史が、得体の知れない劉備になったから、かんたんに攻略できると思ったら、泥沼化。しかも利用しただけの呂布が、へんに利に聡くて、紀霊を追い返してきた。

領土が停滞しても戦い続けられる曹操。これに対して、一輪車やサメのように、拡大につぐ拡大が前提の袁術。袁術は「兵站の発想」というより「領土の経営」の発想がない。というか、ドミノ式に決着がつく短期決戦を想定したと思われる。というか、曹操だって、赤壁の時点で、ほぼ天下の統一が完了したつもりだった。乱世の期間を、袁術は10年、曹操は20年と見積もっていた。孫策の「躁病」みたいな快進撃こそ、袁術の想定・指示した戦法。10年戦争の終盤戦であるから、屯田だの勧農だのをしなくても、占領地から物資を掻き集めれば、たちまち天下を平定できると思っていた、、というのが袁術の想定の甘かったところ。ただし曹操も、甘かったけど。

袁術の主力は、建安二年九月、曹操に陳国で敗れて崩壊した。袁術は、逃げ出してしまった。袁術は、前年に徐州を攻略できず(紀霊が呂布に追い返され)、なりふり構わず陳国の王・相を謀殺して不足を補おうとした。そこに、張繍に敗れ、領土の拡大には(袁術と同じく)失敗している曹操が現れる。しかし曹操は、領土の広さが停滞しても、採算が取れている点で、袁術よりも優れている。これに袁術は撃破された。
建安二年というのは、領土の動きがなく、全体的には膠着した歳であったが、その膠着の状態ゆえに、袁術と曹操の強さと弱さが、ロコツに影響したと。161218

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