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第四十二回 劉玄徳 敗れて夏口に走る

第四十二回の途中から。劉備が長阪で曹操から逃げきってから。厳密な訓読は、幸田露伴の『水滸伝』みたいに冗長になるので、意味が変わらない範囲で、原文の字を減らしてます。

劉備が劉琦と合流する

江南の上に舟船 蟻の如く、風に順ひ帆に揚げて、大いに戦鼓を鳴らす。玄徳 色を失ひ雲長と倉中に視る。白袍・銀甲 船頭に立ち、近づきて叫びて曰く、「叔父 恙がなきや。小姪 罪を得たり」と。
玄徳 視るに、乃ち劉琦なり。船を過り、抱きて哭く。琦曰く、「叔父 曹操より困を受くと聴く。小姪 接応して兵を一処に合はせ、舟を放ちて船中に在り」と。
江の西南に船あり、一字に開す。劉琦 大いに驚きて曰く、「江夏の兵 小姪 尽く此に起す。いま戦船 江東の兵にあらざれば、即ち曹操の軍なり。

毛宗崗本では、「曹操の軍でなければ、江東の兵である」と、逆転している。

玄徳 視るに、綸巾の道服 船頭に坐す。乃ち孔明なり。後ろに立つは孫乾なり。玄徳 慌てて船に請ひ、その来る所を問ふ。
孔明曰く、「主公より離れ、まづ雲長をして漢津より陸地に登らしむ。而して亮 料るに、曹操の必ず来りて追はば、則ち主公 必ず敗れ、敗るれば則ち江陵よりせず、斜に漢津を取らんと。 公子に接応せんことを請ふ。亮 夏口に往きて、尽く兵を起し、前みて接応す」

先主伝に「劉備は、斜に漢津に趨り、たまたま関羽の船と会い、沔水(漢水)を渡れた。江夏太守の劉琦と遇い、衆万余人となり、ともに夏口に至る」とある。

玄徳 大いに喜びて一処に合はせ、曹を破るの策を商議す。
孔明曰く、「夏口の城は険にして、頗る銭糧あり。城郭は狭小なると雖も、以て久しく守るべし。主公に請ふ、夏口に屯せ。公子 江夏に回り、船隻を整頓し軍器を收拾して、首尾の勢となれ。以て曹軍の百万の衆に抵るべし。共に江夏に帰れば、則ち勢は孤ならん」
劉琦曰く「軍師の言 善しと雖も、琦 権父に請はんと欲す、暫く江夏に到り、軍馬を整頓し、再び夏口に回すとも遅からず」

諸葛亮は、劉備は夏口、劉琦は江夏にゆき、2箇所に分かれて「掎角の計」をやれという。しかし劉琦は、諸葛亮に逆らって、まず江夏で軍資を補充せよという。劉備はこちらを採用した。夏口の守備は、関羽に任せた。関羽は、さすがに頼れる。

玄徳曰く、「賢姪の言 是なり」
遂に雲長を留めて五千の軍を帯び、夏口を守らしむ。玄徳・孔明・劉琦 共に江夏に投ず。

曹操が孫権に書状を送る

曹操 雲長の路に一万の軍を引き、出路の口を截つを見て、伏兵あるを疑ひ、敢へて追はず。また水路に江陵を奪はるるを恐れ、星夜に江陵に赴く。
荊州の治中の鄧義・別駕の劉先 すでに襄陽の事を知り、料るに「我ら安にか能く操に敵せんや」と。ただ荊州の軍民を引きて郭に出でて、投降す。
曹操 曹仁をして城に入り民を安ぜしめ、秋毫も犯かすことなし。

曹仁伝で分かるのは、赤壁から撤退した後、曹仁が江陵を周瑜から守ったこと。李卓吾本はふくらませ、曹仁にさきに入城させて、オーナー意識を養っている。

操 城に入り、韓嵩の囚を釈き、加へて大鴻驢となす。鄧義に加へて郎中となし、劉先に加へて尚書となす。余 皆 封じて列侯となし、安慰す。

毛宗崗本では、鄧義・劉先に与えた官職を記さない。さすが李卓吾本は、正史ベース。物語のおもしろさに役立たない、正史の情報だって、乗せてくれる。『陳志』劉表伝によると、蒯越を光禄勲、韓嵩を大鴻臚、鄧羲を侍中、劉先を尚書令とした。『范書』劉表伝で、韓嵩は大鴻臚、鄧義は侍中、劉先は尚書令。『陳志』と『范書』は一致しているが、李卓吾本の官位は、鄧義・劉先を誤っている。

操 衆将と商議す。いま劉備 すでに江夏に投ず。但だ東呉の孫権と結連することを恐る。当に何なる計を用ひん」
荀攸 進みて曰く「檄文を持たしめ、孫権に請へ。江夏に会猟し、共に劉備を擒へて荊州の地を分取し、永く好を結盟ばんことを。

正史にない(あたかも黙して伝わらなかったような)荀攸の計略である。
呉主伝にひく『江表伝』は、「今 水軍80万の衆を治め、方に将軍とともに呉に会猟せん」とする。これを李卓吾本は、会猟の対象を劉備に置き換えた。作中で劉備は、劉琦とともに軍備を整えるため、かりに江夏に入ったから、この表現になった。
李卓吾本の曹操は、孫権に荊州を分け与えてくれる。気前がいい。この好条件を示しても、なお孫権が曹操を恐れ、降伏してくると、タカをくくっている。

この意 雄壮なり。孫権 必ず驚き憂ひて、投降せん。それ大事 済まん」
操曰く、「この計 甚だ好し」
一面に檄文を写して使を遣はす。一面に軍馬を計らば、馬歩・水軍 八十三万なり。詐りて一百万と呼す。水陸 並進し、船騎 江面に沿ひ、西は荊陜に連なり、東は蘄黄に接し、寨柵を連ぬること三百余里。烟火 絶へず。

魯粛が荊州に出発する

江東の孫権 柴桑郡に兵を屯し、曹操の一百万の衆を引きゐ、已に襄陽を取り、劉琮 文武を引きゐて皆 降り、星夜 道を兼せて江陵を取るを聴く。権 衆将・謀士を集めて大事を商議す。
魯粛 進みて曰く、「荊州 国と隣接す。水流 北に順ひ外に江漢に帯び、内に江陵を阻み、金湯の固あり。沃野は千里、士民は殷富なり。

「国」とは、揚州のこと。毛宗崗本は「水流」以下の地勢の説明をはぶく。魯粛はこの時点から、孫権が荊州を取るべきことを説いている。さすが。

もし拠りて之を有たば、これ帝王の資なり。いま劉表 新たに亡く、二子 素より睦まず。軍中の諸将 各々彼此あり。加へて劉備は梟雄にして、操と隙あり。劉表に寄寓するも、表 その能を悪みて、能く用ひず。若し彼と心を協はせ、上下 力を同じうすれば、則ち宜しく安撫し、ともに和好を結ぶべし。如し離違あらば、宜しく別に図りて、以て大事を済せ。

毛宗崗本は、劉備が梟雄で、劉表に用いられず……という説明をはぶく。『演義』で劉表は、劉備に国を譲る。矛盾してしまうからか。
劉備が協力しなかった場合、別に孫権が荊州を取る可能性にまで、言及しているが、毛宗崗本はこれを省く。魯粛の戦略性が削がれてしまう。

粛 命を奉りて喪を吊し、并せてその軍中の用事する者を慰労せん。及び劉備に説きて表の衆を撫し、心を一意に同じうせしめ、共に曹操を破らん。備の心 喜びて命に従ひ、此の如くんば、天下を克諧し、定むるべきなり。いまもし往かず、曹操を恐るれば、悔ひても晩し」

魯粛の最初のねらいは、劉備に、もとの劉表の将兵を統率させて、孫権の味方にすること。成功の因子は、①劉備は劉表に冷遇されたから怨んでいるはずで(助言さえあれば荊州を奪うことに同意すると思われており)、②劉琦・劉琮の対立に漬けこめば、劉備が荊州を得るチャンスがあると。その劉備を、孫権の味方にせよと。劉備を活用することは、魯粛の既定路線かも知れないが、情報が増えるに従い、作戦が変わっていくプロセスに着目したい。

孫権 聞きて大いに喜び、子敬を行かしむ。

魯粛と劉備がであう

玄徳 江夏に到り、孔明・劉琦と共に久安の計を商議す。
孔明曰く、「いま劉琮 操に降り、銭糧・軍馬 皆 曹操に帰す。操 いま勢は大いに急にして、搖動し難し。如かず、江東の孫権に投じて、以て応援と為し、南北を相ひ持さば、吾ら中に事を取らん」

毛宗崗本は「吾等於中取利」と、もっと明確。曹操と孫権を対立させておき、漁夫の利を得ようと。史書よりも、過渡期的な戦略をたくさん読めておもしろい。
史実で、「劉備の威力を利用する孫権(魯粛)」は出てくるが、「孫権の威力を利用する劉備(諸葛亮)」というのは、ここでしか読めない。劉備は、つねに主体性があるように錯覚するが、この時点では、『演義』のほうが真理を突いてる。

玄徳曰く、「江東の人物 極めて多し。皆 遠謀あり。安にか容るることを肯ぜんや」

劉備は、自分が孫権にとって、害となることと、そのように害となることを孫権の群臣が理解していることを理解している。

孔明 笑ひて曰く、「いま操 百万の衆を引きゐ、江漢に虎踞す。安んぞ来たらず、虚実を探聴することを得んや。もし人の到るあらば、亮 一帆に風を借り、江東に到り、三寸不爛の舌もて説き、南北の両軍をして相ひに吞併せしめん。吾 則ち事なし。若し南軍 勝たば、旧に照して操を殺し、以て荊州の地を取るべし。北軍 勝たば、勢に乗じて以て江南を取るべし。これ遠大の計なり」

諸葛亮は、曹操が勝つシナリオまで用意していたのか。「曹操にくし」で凝り固まった諸葛亮のイメージを持つ限り、このような話は書けない。『演義』のほうが、よほど柔軟に思える。『江表伝』には、赤壁に参戦しない劉備が記されるが、劉備は、揚州を得るために待機したとも解釈できる。孫権と劉備が奪い合うのは、荊州だけではなく、ことによると揚州も戦場にする気である。劉備は、ほんとうに梟雄。

玄徳曰く、「この論 甚だ高し。江東の人 到るを得ること如何」

人 報ず、孫権 魯子敬をして吊喪に来らしむと。船 已に岸に傍す。孔明 笑ひて曰く、「大事 済れり」と。劉琦に問ひて曰く、「往日 孫策 亡きとき、吊喪するや否や」

こうしてウラを取るのも、とてもリアルである。

琦曰く、「江東と吾が家 積世の讐なり。安んぞ通じて喪の礼を報ずるを得んや」
孔明曰く、「これ吊喪にあらず、実は乃ち虚実を探聴するなり。もし魯粛 至りて但だ曹操の動静を問はば、主公 只だ推して知らざるとせよ。再三に問ふとき、主公 只だ諸葛亮に計を問へと云え」

正史で魯粛は、劉琮が降ったことを知って、劉備に会いにくる。しかし実際は、魯粛が荊州の北部のことをリアルタイムで知るはずがなく、『演義』のように偵察したと考えたほうが現実に即すか。諸葛亮が、劉備に変なアドバイスをするかは、ともかく。

魯粛を迎接し、琦 自ら粛を邀ふ。

毛宗崗本では、劉琦が魯粛を迎えない。弔問の使者というから、劉表の長子として、劉琦に務めを果たさせた。

城に入り吊喪し、礼物を収む。劉琦 粛に玄徳と相ひ見えんことを請ふ。礼 畢はり、邀へて後堂に入り、酒を飲む。
粛曰く、「久しく聞く、皇叔 拝識するに縁らず。いま幸いに遇ふを得たり。願はくは聞かん。近ごろ知る、皇叔と曹操 会戦すること数次なりと。必ずその情を知らん。敢へて問ふ、操の軍 約そ幾何なるや。誰ぞ能く意は天下を図るにあらんや」

毛宗崗本は「天下を」の話をしない。兵数を聞くだけ。要旨はまとまっているが、せっかく曹操をよく知る劉備に会えたなら、曹操の志についても、情報を集めておきたい。

玄徳 皆 推して知らざるとす。
粛曰く、「皇叔 新野にありて曹操と交鋒す。何ぞ知らざると言ふ」
玄徳曰く、「備の兵は微にして、将は寡なし。但だ操の至るを聞かば、則ち夏口に走り、その実を知らず」

諸葛亮からは「知らん」と言えとだけ、指示を受けている。この嫌らしい謙遜・遁辞は、劉備のオリジナルである。ただし「劉備がもっている曹操軍の情報」は、劉備が孫権と交渉するときの有利なカードになる。易々と喋らないのは、かなりしたたか。

粛曰く、「つねに人 江を渡りて説くあり、皇叔 諸葛亮の謀を用ひ、両たび火焼を塲し、得て操をして魂は亡ひ肝は碎かしむと。何ぞ累ねて敗るると言ふや

諸葛亮の謀略による勝利は、『演義』のフィクションだからだよ!

玄徳曰く、「孔明に問はば、便ちその詳を知るべし」
粛曰く、「願はくは一たび見はんことを求む」

玄徳 孔明をして出てて粛と相ひ見へしむ。
粛曰く、「我 子瑜の友なり。久しく聞く、先生の才徳を。縁の拝会するなし。いま幸ひに相ひ遇す。願はくは聞目せん、いまの安危の事を」
孔明曰く、「操の奸計 亮 尽く知る。恨むらくは、力 未だ及ばずして、避くるを」
粛曰く、「皇叔 ここに止まるや」
孔明曰く、「使君 蒼梧太守の呉臣と旧あり。往きて投ぜん」

正史では劉備のセリフなのに、孔明が奪った。呉巨を呉臣と誤るのは、毛宗崗本も同じ。正史との突合を、さてはしていないな。

粛曰く、「呉臣 糧は少なく兵は微なり。自ら保ち難し。焉ぞ能く人を納るるや」
孔明曰く、雖「呉臣 久しく居すに足らざれば、去りて暫く居して別に後計を図らん」

先主伝にひく『江表伝』は、この押し問答がなく、すぐに魯粛が、孫権のところを勧める。しかし、「呉巨がダメなら、また別を考える」という孔明のセリフのほうがリアル。魯粛が、焦らされている。魯粛は、当初の目的である荊州の確保を、劉備の状況を見て、いつのまにか諦めている。


孔明が柴桑にゆくことに

粛曰く、「孫討虜 聡明にして仁恵なり。賢を敬ひ士を礼し、江東の英雄 帰附する者は、雲のごとく屯し、霧のごとく集まる。

雲と霧の比喩は『江表伝』になく、毛宗崗本でも削られる。

すでに六郡に拠り、兵は精にして糧は足る。文武 俱に備ふ。いま君のために計るに、心腹を遺はして自ら東呉と結ぶに若くはなし。以て共に世業を済さん。此れ行ふこと若何」
孔明曰く、「亮 知る、使君もまた心腹少なし。孫将軍 旧に無らず。唇舌を虚費することを恐るるなり」

毛宗崗本は「劉使君与孫将軍自来無旧、恐虚費詞説。且別無心腹之人可使」とある。劉備と孫権は旧知ではないから、言葉を費やしてもムダと。李卓吾本では、劉備に心腹の臣が少ない上に、そのなかに孫権との旧知の人物もいない(私=孔明も含めて)とあり、意味がちがう。

粛曰く、「孔明の兄 江東の参謀官となり、公を望むこと既に久し。魯粛 願はくは公に請ふ、同に孫討虜に見へ、共に大事を議せんことを」

玄徳曰く、「孔明 吾の師なり。頃刻も相ひ離るべからず。豈に去くべけんや」
粛 堅く孔明に、ともに去かんことを請ふ。玄徳 言を詐はりて肯ぜず。
孔明曰く、「事は急なり。命を奉じて行かんことを請ふ」
玄徳曰く、「即ち夏口に回り、相ひ会せ」と。
孔明・魯粛 玄徳・劉琦と別かる。船 柴桑郡を望む。つづく。160907

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第四十三回 諸葛亮 群儒と舌戦す

魯粛が、孔明を連れてくる

魯粛・孔明 舟中にあり共に議す。粛 猛りに孔明を省るに、舌辨の士なり。江東に到り、猶ほ恐る。刀兵を起こし、もし勝たば則ち可なるも、もし敗るれば則ち罪を我に帰すことを。尋いで思ふこと半晌、
孔明に曰く、「先生 呉侯に見ふとき、切に実に曹操の兵は多く、将は広きことを言ふべからず。もし操 江東に下るや否やと問はるれば、只だ知らざると言へ」と。
孔明曰く、「子敬の叮嚀を須たず。亮 自ら対答あり」
魯粛に語ること数番、孔明 笑みを含む。
船 已に岸に到る。粛 孔明に駅中に安歇するを請ふ。

曹操の勧告

粛 孫権に見えるに、、権 正に文武を堂上に聚む。魯粛の到るを知り、急ぎ召し入れて、問ひて曰く、「子敬 荊州に往き事情を探る。若何」、 粛曰く、「未だ虚実を知らず」、権曰く、「幹する所、何事」、粛曰く、「別に商議あり」

権 曹操の檄文を粛に示して曰く、「操 昨に使を遺はし文を齎らす。孤 発して使を送り、回せん。いま衆を会して商議するも、未だ定まらず」
粛 檄文を看るに、曰く、
「操 近ごろ帝の命を承け、詞を奉じ、罪を伐つ。旌麾 南のかた劉琮を指すに、手を束ぬ。荊襄の民 風を望みて帰順す。いま大兵の百万・上将の千員を統べ、将軍と江夏に猟し、共に劉備を伐ち、ともに漢土を分け、永く盟好を結び、相ひ見えんと欲す。宜しく早く報を回すべし」

曹操が赤壁に進んだ理由は、正史では不明だが、『演義』では明白で、劉備を追うためである。劉備を、孫権とともに挟み撃ちにするために、東に下った。この分かりやすさは、常識なのだろうか。ぼくは驚きました。

粛 看畢はりて曰く、「主公の尊意 若何」
権曰く、「未だ論を定めず」

張昭らの降伏論

張昭曰く、「曹操 虎豹なり。いま百万の衆を擁し、天子の名を借り、以て四方を征す。拒まば順ならず。且つ将軍の大勢 以て操を拒むべきは長江なり。いま操 荊州の水軍・艨艟・闘艦を得て、動すれば以て千を数ふ。浮ぶに以て江に沿ひ、水陸 俱に下らば、これ長江の険を已に我と共にするなり。

荊州の水軍が曹操に奪われた時点で、長江は、孫権にとって、専有できる有利な材料ではない。曹操もまた、長江を利用できる。のちに、なんとしても江陵を奪い、「長江を専有するように、領土を形づくる」ことにこだわった理由は、ここにある。

その勢 山嶽の如く、敢へて迎ふべからず。降るに如かず。以為へらく万安の策なり。

曹操は文面で、サービス精神を発揮して、分かりやすく「劉備をともに捕らえよう」という。しかし張昭は、文面どおり解釈せずに、やや飛躍して、ともすれば恣意的に「孫権を討伐するよ」と理解し、勝機がないから、降伏せよと先回りしていう。この先回りを「先見の明」というのかも知れない。曹操の文書は、書いてあるとおりに理解したのでは、現実に対応できないこともある。

衆くの謀士 皆 曰く、「子布の言、正に天意に合ふ」
孫権 語らず。張昭ら 又 曰く、「主公 必ずしも多く疑はざれ。もし操に降らば、則ち東呉の民は安し、江南の六郡 保つべし

魯粛が孫権を焚きつける

権 起ちて更衣す。粛 宇下に随ふ。権 粛の意を知り、粛の手を執りて曰く、「卿 如何せんと欲す」
粛曰く「衆人の意 専ら将軍を誤らしめ、大事を図るに足らず。衆 皆 曹に降る可し。将軍の如きは必ず不可なり」
権曰く「何を以て言ふ」
粛曰く「粛らの如きは操に降らば、当に郷党に還りて、その名位を品し、猶ほ操従事より下ることを失わず、犢車に乗り吏卒を従がへ、士林に交游し、官を累ぬ。故に州郡を失はざるなり。将軍 曹操に降らば、安づこに帰せんと欲するや。官は封侯を過ぎざるのみ。車は一乗を過ぎず、騎は一匹を過ぎず、十人に過ぎざるを従ふ。豈に得て南面して孤と称せんや。衆人の意 各々自ら為にし已に用ふべからず。将軍 之を詳らかにし、早く大事を定めよ」
権 嘆ぎて曰く、「諸人の議論 甚だ孤の望みを失せり。子敬 大計を説くに、正に吾と同じなり。これ天 子敬を以て我に賜ふなり。保全の計 その意 須らく已に定むべし。但だ操 新たに袁紹を得て、近ごろ荊州の兵を得たり。勢は大にして以て敵に抵たり難きを恐る」
粛曰く、「粛 江を渡りて当陽に到り、已に聞く、劉豫州の兵 敗れ、次りて江夏に至ると。相ひ見え、その虚実を問ふに、一人あり、深く前故を知るもの。引きて此に到る。主公 試みに之に問へ」
権曰く、「是れ何なる人か」、粛曰く、「諸葛瑾の弟の諸葛亮なり
権曰く、「臥龍先生に非ざる莫きや」、粛曰く、「是なり。館駅にて安歇す」
権曰く、「今日 天は晩し。来日 文武を帳下に聚め、まづ江東の英俊を見しめ、然る後、堂に升りて事を議せ」、粛 命を領して去る。

次日、早くに孔明に来見せんことを請ふ。粛また嘱して曰く、「如し呉侯に見へば、切に言ふべからず、曹操の兵 多きことを」
孔明曰く、「亮 自ら機を見て変ず。公に悞せず」

張昭が孔明に論争をいどむ

魯粛 孔明を引きて幕下に至る。張昭・顧雍らと見ふ。文武二十余人 峩冠・博帯 衣を整へて端坐す。孔明 衆の謀士に料り、俱に逐一に相ひ見へ、各々姓名を問ひ、礼を施す。已に畢はり、客席に坐す。
張昭ら、孔明の飄飄として、出世の表あり、昂昂として凌雲の志あるを見る。張昭ら孔明を料る、来りて詞を下し、東呉を説かんと。昭 先に言を以て挑みて曰く、
「昭 乃ち江東の微末士なり。久しく聞く、先生 隆中に臥して躬ら隴畆を耕して、以て天を楽しむと。真に好みて梁父吟を為し、毎に自ら管仲・楽毅に比すと。この語 果して之あらんや
孔明 暗にこの人の言語を思ふに、我に挑めりと。遂に応答す。
「これ亮 平生に小に可く比すなり」

毛宗崗本も同じで、立間訳「思いつくままに言ったまで」

昭曰く、「近く聞く、劉豫州 先生を草廬の中に三顧して、高論を聴く。豫州 魚の水を得るが如く、毎に荊襄を席捲せんと欲す。いま一旦に以て曹公に属す。未だこれ何なりと審らかならず」

孔明 自ら思ふ、張昭 乃ち孫権の手下の第一の謀士なり。若し先に彼を倒し難くば、如何にして孫権に説くことを得んや。遂に昭に答へて曰く、
「吾 観るに、漢上の地を取ること、掌を反すが如く易し。吾が主 劉豫州 躬ら仁義を行ひ、同宗の基業を奪ふこと忍びず。故に力めて辞す。劉琮の孺子 侫言を信じ、暗かに国を献じ、投降して使を曹操に致す。得て猖獗を以てす。今 豫州の兵 江夏に屯し、別に良図あり。等閑するに非ざること知るべし」

昭曰く、「かくの如くんば、先生の言行 相違するなり。聖人 云ふあり、古は之を言ひて出でざれば、恥躬之不逮なり。先生 自ら管仲・楽毅に比す。愚 幼より酷く春秋を愛し、深く二公の人となりを慕ふ。管仲 桓公に相たりて、諸侯に覇す。一たび天下を匡し諸侯を糾合するに、兵車を以てせず。管仲の力なり。楽毅 微弱の燕を扶持して斉の七十余城を下す。この二人は済世の才と謂ふべし。古今の豪傑なり。

『春秋』ファンを自称する張昭にとって、管仲・楽毅が、その足もとにも及ばない、孔明のような若造によって穢されるのが許せないという論法。ただの古典との不整合を言うのでなく、感情がこもっている。

いま曹操 中国に横行し、檀に征伐を行ひ、動かば克たざるなく、その欲するに順ふ者あらば慰む。その欲するに順はざるものは伐つ。宣言して曰く、『吾 天子の明詔を奉じて反を誅し逆を討つ』と。これに因り、海宇 震動し、英雄 賓服す。
先生 草廬の中にありて、但だ風月を笑傲し、膝を抱き危坐す。いま既に劉豫州に従ふ。当に与に霊を生じて利を興し、害を除け。いはゆる達せば則ち善を天下に兼せよと。
且つ玄徳公 未だ先生を見ざるとき、尚ほ且つ縦横に寰宇し、城池を拠守す。いま先生を見るに、人 皆 面を仰ぎて望む。三尺の童蒙と雖もまた謂はん、彪虎 翼を生やし、将に漢室の復た興りて、曹氏 即ち滅するを見んとすと。

劉備は諸葛亮がいなくても、州牧になれた。まして諸葛亮が味方になったから、さぞかし強いかと思いきや、、という皮肉。

朝廷の故旧の大臣・山林の隠迹の士、皆 目を拭ひて待つ、高天の雲を払ひ、日月の光輝を翳仰し、民を水火の中より拯ひ、袵席の上に措くを。何なるや其れ先生 自ら豫州に帰するに、曹兵 一たび出づれば、玄徳 甲を棄て戈を拋て、風を望みて竄れたるは。上は能く劉表に報ゐて以て庶民を安ぜず、下は能く孤子を輔けて漢室に拠らしめず。先生 知りて不仁ならしむ。知らずして不智ならしむ。
近く聞く、玄徳 新野を棄てて樊城に走り、当陽に敗れ夏口に奔り、容身の地もなく、焼眉の急あり。先生を得て以来、反りてその初に如かず。豈に管仲・楽毅の万分の一もあらんや。先生 幸にも愚直を以て怪しむなかれ。

劉備は、孔明と合流する前のほうが、勢力があった。という、「管仲・楽毅」に自らを比すという、孔明そのひとへの個人攻撃。孫権の開戦については、まだまったく触れない。挨拶がわりに、挑発したのだ。


孔明が張昭に反論する

孔明 昂然として笑ひて曰く、「鵬 万里を飛び、その志、豈に群烏の識るや。古人 云ふあり、善人 邦の百年のために、また以て残に勝ち殺を去るべし。且つ世俗の病人を以てこれを論ずるに、夫れ疾病の極に、当に糜粥を用てこれと薬を飲み、服してその臓腑の調和し、形体の暫回するを待つべし。然る後、肉食を用て輔け、猛薬もて以て治さば、則ち病根 尽く抜き去り、人 生を全うするを得るなり。
汝 もし気脈の和緩するを待たず、便ち投ずるに猛薬・硬食を以てせば、安を求めんと欲せども、誠に難たり。

吾が主の劉豫州を以て向日 軍は汝南に敗れ、劉表に寄跡す。軍は千に満たず、将は関・張・趙雲を推すのみ。新野は山僻の小県なり。人民は稀少にして、糧食 鮮薄なり。険要の地に非ず。豫州 ここを借りて身を容るるは、正に病勢の尫羸の極の如きなり。

曹操に敗れて、劉表のところに来たとき、劉備は瀕死の病人だと。しかも劉表から与えられたのは、本拠地にするには貧弱な新野であった。ここにいれば、曹操に負ける。逃げるほうが正解なのだと。「孔明が来たのに新野を失った」でなく、「孔明が来たおかげで、新野を捨てるという戦略的な行動ができた」と、自己宣伝している。

夫れ甲兵を以て完さず、城郭 堅からず、軍は経練せず、糧は継かず。日に守れば則ち坐して死を待つのみ。金玉を以て溝壑に棄るが如し。
博望に屯を焼き、白河に水を用ひ、夏侯惇・曹仁らをして、吾の名を聞き、心肝 皆 裂かしむ。管仲 復た生き、楽毅 死せざると雖も、安にか我に及ぶべきや。

諸葛亮が「管仲・楽毅より、私のほうが優れている」と述べたエピソードは、どちらも『演義』オリジナルの架空。

劉琮 投降するは、豫州 知らず。亮 嘗て数々豫州に言へども、乱にじて人の基業を奪ふこと忍びず。これ大義なり。

『通鑑』は、孔明が「荊州を劉表の遺児から奪え」というのに否定的だが、『演義』は肯定的である。

ゆえに為さず、当陽に大敗す。豫州 見る、十数万 赴義の民を。老を扶け幼を携け、棄つるに忍びず、日に行くこと十里のみ。江陵に進みて取ることを思はず、甘んじてともに敗を同じくす。これまた大義なり。兵書に云ふ、寡 衆に敵せず、勝負は乃ち常事なりと。 焉んぞ必勝の理あらんや。

自爆的な行動(劉琮から襄陽を奪わず、民を捨てて江陵を目指さず)は、いずれも「大義」から発した行動であり、張昭のいうような失敗ではない。いささかも、私(孔明)が、管仲・楽毅に劣る要素ではない。自爆的な行動を取れば、損害が出るのは、当然の帰結である。そこまで分かっていて、自爆したと。


昔 楚の項羽 数々高皇に勝つも、垓下に一戦して功を成す。これ韓信の良謀なり。且つ信 久しく高皇に事ふるに、未だ嘗て勝ちを累ねず。国家の大計・社稷の安危、自ら謀を主ることにあり。誇弁の徒・虚誉の妄人と比するにあらず。坐して議して立ちて談ず。誰ぞ臨機応変に及ぶべき、百に一を能くするなし。誠に天下のために笑ひを取らんか」
子布 口直を怪しむこと莫く、只だ張昭 一言も無し。

虞翻が孔明を、蘇秦・張儀にたとえる

一人 言を高くして問ひて曰く、「いま曹公の兵 百万を屯し、将列 千員なり。龍のごとく驤し虎のごとく視て、江夏を平吞せんとす。公 以為へらく何如」
孔明 視るに、乃ち従事の会稽の余姚人の虞仲翔なり。孔明 声に応じて答へて曰く、「曹操 袁紹の蟻聚の兵劉表の烏合の衆を收む。軍に紀律なく、将 謀略なし。数百万と雖も、懼るるに足らざるなり」
虞翻 大いに笑ひて曰く、「〈劉備の〉軍は当陽に敗れ、計は度口に窮まり、区区と人に救ひを求む。猶ほ懼れずと言ふか。これ真に、耳を掩ひて鈴を偸むなり」

孔明曰く、豈に聞かざるや、兵法に云はく、信兵は実に戦ふと。吾が主の劉豫州 数千の仁義の師あり。安んぞ能く百万の残暴の衆に敵すや。退きて夏口を守りてりて、その時を待つ。

仁義の数千で、百万の残暴には勝てない。そこは認めてしまう。

いま汝の江東の兵は精しく、糧は足る。また長江の険あるも、猶ほその主をして膝を屈し賊に降さしむ。何ぞそれ太だ懦なるや。此の若く之を論ずれば、劉豫州 実に操賊を懼れず」と。虞翻 対ふる能はず。

現実の情勢を分析して、実りのある議論をするのは、ここまで。あとは、観念論とか、揚げ足の取りあいとか。


歩隲が孔明にいどむ

坐上にまた一人 声に応じて問ひて曰く、「孔明 蘇秦・張儀に效ひ、三寸不爛の舌に掉さし、江東に遊説するなり」
孔明 視るに乃ち、臨淮の淮陰の人の歩子山なり。孔明曰く、「君 蘇秦・張儀を乃ち舌辨の士と知る。蘇秦・張儀 乃ち豪傑の輩なるを知らず。

蘇秦・張儀の比喩の妥当性について、やりこめられる。まったく本題と関係ない。

蘇秦 六国の璽綬を佩き、張儀 二たび秦に相たり。皆 社禝の機を匡扶し、天地の手を補完す。株を守りて兎を待ち、刀を畏れて剣を避くるの人に比するにあらず。君ら聞く、曹操 虚ろに詐偽の詞を発するを。猶ほ豫りて決せず、敢へて蘇秦・張儀を望むや」と。歩隲 対ふる能はず。

薛綜が、曹操への禅譲を支持する

坐上に一人 問ひて曰く、「孔明 曹操を以て何如なる人とするや」。孔明 視るに乃ち沛郡の竹邑の人、薛敬文なり。
孔明 声に応じて曰く、「曹操 乃ち漢賊なり
綜曰く、「公の言 差てり。予 聞く、古人云はく、天下は一人の天下に非らず、乃ち天下の天下なり。ゆえに尭 天下を以て舜に禅り、舜 天下を以て禹に譲る。その後、成湯 桀を放ち、武王 紂を伐ち、列国 相ひ吞す。漢 秦業を承け、以て今に及ぶ。天数 将にここに終はらんとす。

曹操の禅譲を支持するひとが出てきた!毛宗崗本は、故事について大幅にけずり、「天數將終」だけだから、気づかない。

いま曹操 遂に天下の三分の二を有ち、人 皆 心を帰す。ただ劉豫州のみ天の時を識らず、強ひて争ふ。正に卵を以て石を撃ち、羊を駆って虎と闘はしむなり。安にか敗れざるを得んや」
孔明 声に応へて𠮟りて曰く、「汝 乃ち父なく君なきの人なり。夫れ人は天地の間に生まれ、忠孝を以て立身の本と為す。

呉臣のくせに、曹操の禅譲を支持してしまったら、反論する孔明のほうが多数派となる。劉備・孫権のことは関係なく、ただ一般論を述べればいい。ただし、呉にもそういう見通しのひとがいても、おかしくはないか。

汝の累代に漢氏の水土を食むを以て、その君に報ずると思ふ。奸賊の、国を蠧し民を害するあるを聞かば、誓ひて共に戮するは臣の道なり。曹操の祖宗 漢禄を四百余年に食むも、報效せんと思はず、久しく簒逆の心あり。天下 共に悪む。汝 天数を以て之に帰するとするは、父なく君なきの人なり。ともに語るに足らず。再び復た言ふなかれ」。薛綜 面に羞慚を溝み、敢へて対答せず。

陸績が劉備の血筋をうたがう

坐上に一人 声に応じて問ひて曰く、「曹操 天子を挾み以て諸侯に令すと雖も、猶ほ相国の曹参の後なり。汝の劉豫州 中山靖王の苗裔と雖も、稽考すべきなし。見るに只だ蓆を織り履を販るの傭夫なり。何ぞ曹操と抗衡するに足らん」

劉備の血筋に対するツッコミ!

孔明 視るに乃ち呉郡の陸公紀なり。孔明 笑ひて曰く、「公は乃ち袁術 坐する間 橘を懐くの陸郎なるや。汝 安坐して吾の論を聴け。
昔日 文王 天下を三分してその二を有ち、以て殷に服事す。孔子 云はく、周の徳 それ至徳と謂ふべきなりと。いはゆる『敢へて君を伐たざるなり』と。
のちに紂王 暴虐たること至甚なり。武王 これを伐つ。伯夷・叔斉 馬を叩きて諌めて曰く、『臣を以て君を弑すは仁と謂ふべきか』と。太公 称へて義士と為す。孔子もまた称して賢人となす。臣として上を犯さざるは、万古不易の理なり。
曹操 累世に漢臣なり。君また過〈とが〉なくとも常に簒弑の心を懐く。逆賊にあらずして何ぞや。
漢 高祖皇帝 身を起こすは乃ち泗上亭長なり。寛洪にして大度あり。重く文武を用ひて大漢の四百年の洪業を開き、吾が主に至る。縦ひ劉氏の宗親に非ざるとも、仁慈にして忠孝なること、天下 共に知る。豈に蓆を織りて履を販るを以て、辱となるや。汝 小児の見なり。ともに高士の共論をするに足らず。豈に自ら恥ぢざるや」。陸績 語は塞がる。

机上の学者・厳畯が黙らされる

坐上に昂然として出でて曰く、「吾が江東の英俊と雖も、汝の詞に奪却せらる。汝 何なる経典を治むるや

もはや、孔明に興味が湧いてしまった。

孔明 視るに、乃ち彭城の厳曼才なり。孔明 声に応じて曰く、「章を尋ね句を摘むは、世の腐儒なり。何ぞ能く邦を興こし事を立てんか。且つ古に莘を耕すは伊尹なり。渭に釣するは子牙なり。張良・陳平の流、鄧禹・耿弇の輩、皆 天地の手を斡旋し、宇宙の機を匡扶す。未だ審らかに平生に何なる経典を治めんや。

後天的な机上の勉学によって、身につく素質ではないと。

豈に書に效ひて区区たるを筆硯の間につくり、黄数・黒舞を論じ、文は筆を弄して唇舌を玩するや」と。厳畯 頭を低くし気を喪ひて対ふる能はず。

程徳枢が孔明にいどむ

一人 孔明を指して曰く、「汝の言、文は能く邦を安ぜず、武は能く国を定めず。何故に四科の首を立つ」
孔明 視るに、乃ち汝南の程徳枢なり。
孔明曰く、「君子の儒あり、小人の儒あり。夫れ君子の儒は、心は仁義に存し、徳は温良に処り、父母に孝たり、君王を尊ぶ。上は天文を仰瞻すべきや、下は地理を俯察すべきや。中に流沢ありて万民を天下に治むること、磐石の如く安し。功名を青史の内に立つ。これ君子の儒なり。
夫れ小人の儒は、性は吟詩に務め、空しく翰墨を書し、青春に賦を作り皓首にして経を筆下に窮む。千言あると雖も、胸中に実に一物もなし。且つ漢の楊雄の如く、文章を以て状元を為して、身を屈して莽に事へ、閣に投じて死するを免れず。これ乃ち小人の儒なり。日に万言を賦すと雖も、何ぞ道ふに足るか」
坐上の諸人 孔明の対答すること流るること滔滔たる如く、決すること江河の水の如きを見る。衆は皆 色を失ふ。

これで決着がつきましたと。


黄蓋の登場

また有り、呉郡の呉の人、張温。会稽の烏程の人、駱統。二人もまた、問ひて難ぜんと欲す。

張温と駱統は、黄蓋に発言の機会を奪われた。

忽ち一人 外より入る。声を励まして曰く、「孔明 乃ち当世の奇士なり。汝ら却りて唇歯を以て相ひ難ずるは、敬客の礼にあらず。曹操 百万の衆を引きて、虎のごとく江南を視る。思はざるや、敵を退くる策を。人 口頭の説を以て、各々己を負ひ、政事を能くす。安にか在る、呉侯 久しく等ち先生に請ふ。便ち入りて以て危安の言を論ずる者、畢竟 これ誰ぞ。160907

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第四十三回 諸葛亮 智もて孫権を激す

孔明を孫権の前につれる

諸葛亮に請ふは、何なる人ぞ。乃ち零陵の泉陵の人。姓は黄、名は蓋、字は公覆。むかし孫堅に随ひ山賊を破り、多く奇功を獲る。後に孫策に随ひ、しばしば功勲あり。孫権に糧料の官に下さる。孔明に曰く、
「愚 多言を聞いて利を獲たるも、如かず、黙りて言うなきに。何ぞ金石の論を以て、討虜将軍に対へず、これを言うか」
孔明曰く、群儒 世務を知らず、相ひ難問して容れず、答へざるなり」

黄蓋 魯粛とともに孔明を引きて入りて中門に至る。諸葛瑾に遇す。孔明 礼を施す。瑾曰く、「兄弟 既に江東に到るに、何故に来りて我に見えんや」
孔明曰く、「亮 本より劉豫州に事ふ。理合 公を先として私を後とす。公事 未だ畢はらず。敢へて私に兄に望まず。察せ」
瑾曰く、「兄弟〈弟〉 呉侯に見ふを待たん」
魯粛曰く、「この言相ひ悮すべからず」。孔明 点頭して応ず。引きて堂上に至る。

孔明が孫権を怒らせる

呉侯の孫権 欠身して迎ふ。孔明 下拝す。権 半礼に答ふ。蓋 ために聞かしむ、孔明の才故、相ひ敬なるを。孔明に坐らんことを請ふ。謙譲すること数次、遂に側に坐す。乃ち玄徳の意を致す。目を偸みて孫権を観るに、碧眼・紫鬚 堂堂たる人才なり。暗かに思ふ、この人 只だ激すべし、説くべからざると。彼の問ふを等ち、ときに便ち言を動かして激せしめば、この事 済まんと。
孫権 茶湯を献ぜしめ、文武 分かれて両に行きて立つ。魯粛 孔明の側に立つ。

孫権 孔明に問ひて曰く、「多く子敬に聞き、足下の徳を談ず。いま幸いにも相ひ見えるを得たり。教えを求めんと欲す」
孔明 答へて曰く「不才にして無学なり。明問に辱ずるあり」
権曰く、「足下 近く新野にあり、劉玄徳を輔佐す。曹操と共に勝負を決すること、いかん」、孔明曰く、「劉豫州の兵は千に満たず、将は惟だ三四人なり。更に兼せて新野の城は小さく、糧なし。安にか能く曹操を抗拒するや」

張昭への説明のくり返し。

権曰く、「操の兵 共に多少〈いくばく〉あらん」
孔明曰く、「曹操 呂布を破り、袁紹を滅して収む。北のかた遼東を定め、新たにまた劉琮を降す。馬歩・水軍は一百余万なり」

魯粛が、曹操の兵が多いと言うなと、釘を刺したのに。

権曰く、「詐りにあらざるなきや」

孫権は、曹操の情報が少ないから、諸葛亮から得るしかない。だから、張昭・孫権は、しつこく諸葛亮に曹操の情報を聞く。降伏するにも決戦するにも、まずは曹操の情報が必要である。使者としての諸葛亮は、単純な交渉者(状況認識と意見が確定した相手の、態度をこじ開ける役割)ではなく、情報を提供しながら、相手の状況認識を誘導し、呉の世論を操作するという、複合的な役割をもつ。

孔明曰く、「明公 差へり。曹操 兗州に就きて已に青州軍の四五十万あり。袁紹を平らげてまた四五十万を得たり。中原に新たに招く。兵 何ぞ二三十万に止まるや。いま荊州の兵を得ること、また二三十万あり。ここを以てこれを論ずるに一百五十万を下らず。亮 一百万を以てこれを言ふに、江東の士を驚かしむを恐る

魯粛は、曹操の兵が多いと言えば、呉臣や孫権が萎縮し、降伏に傾くことを恐れる。諸葛亮は、曹操の兵が多いと言えば、孫権が刺激され、決戦に傾くと考える。


権曰く、「〈曹操の〉手下の戦将 還りて多少〈いくばく〉あるや」
孔明曰く「足智・多謀の士、揚威・耀武の人、何ぞ一二千人あるに止まらん」
権曰く、「公と比して如何」
孔明曰く、「亮と比ぶるが如き、車に載せて斗量し、勝げて数ふ可からず」

正史では、呉の使者が曹丕に対して言うセリフ。正史では、私くらいのレベルの人材なら、わが国に、どっさりいます。私よりも上級の人材がたくさんいるから、わが国を恐れなさいと。まあ、なんで「相対的に、取り立てて優秀でない」人材が、大国への使者になったのか、人選に疑問を生じますが。


孫権曰く、「いま曹操 荊楚を平らげ、復た遠図あらんや

曹操は、荊州のつぎに揚州も狙う可能性があるか。この孫権にとって最も重要な情報も、諸葛亮に聞くしかない。

孔明曰く、「即ちいま江に沿ひて寨を下し、戦ひに准備す。船の旌旗 空を蔽ひ、連絡すること数百里なり。江南を図らんと欲せざれば、待ちて何なる地を取らん」

曹操は、明らかに揚州を攻める準備をしています。

権曰く、「若し吞併の意あらば、戦ふや、戦はざるや。足下に一決を請う」
孔明曰く、「但だ恐るるは、明公 聴きて従ふことを肯ぜざる」
権曰く、「願はくは金玉の言を聞かん」
孔明曰く、「方今 海宇は大いに乱る。将軍 兵を起こし江東に拠る。劉豫州もまた江南に投じて、曹操と天下を併争す。いま曹操 四夷を除きて略ぼ平げんと欲す。ついに荊州を破り、威は四方を震し、よりて英雄の用ふる所なし。ゆえに豫州 逃遁してここに至る。将軍 父兄の基業を承け、力を量りて処す。もし能く呉越の衆を以て中国と抗衡せば、早くこれ〈曹操〉と絶つに如かず。若し当たる能はざれば、ただ一計ありて、以て保障すべし」

劉備が、ここに逃げてきたことの言い訳は忘れない。

権問ひて曰く、「何なる計もて保障となるや」
孔明曰く、「何ぞ衆謀の士の議論に従ひ、兵を按じ甲を束ね、北面してこれに事へざる」、権 首を垂れて語らず。

これも孫権への挑発です。あえて、もったいぶって、安全な選択肢について、孫権みずからの頭で考えさせ、可能性に期待させ、がっかりさせた。

孔明曰く、「将軍 外は服従の名に托して、内に并吞の計を懐く。事は急なり。しかるに断ぜざれば、禍ひ至ること日なし」、孫権 黙然として答へず。

孫策の死後、8年に渡って孫権が保ってきた、曹操と強調するという姿勢を、諸葛亮はウソだと断定する。


孔明また言ふ、「古に云はく、寡 固より衆に敵すべからず、弱 固より強に敵すべからずと。これ必然の理なり。明公 早く曹に降らざれば、則ち江東の地の士民 俱に塗炭を受く
権曰く、「誠に君の言ふが如くんば、則ち劉豫州 何ぞ降らざる」
孔明曰く、「田横は斉の壮士なり。尚ほ義を守りて屈せず。况んや劉豫州は王室の胄なり。英才は世を蓋ひ、衆士 仰慕すること、水の海に帰するがごとし。これに事へて済はざれば、これ乃ち天なり。安にか能く人の下に服せんや」

孫権が劉備のふがいなさに突っこんだら、孔明は劉備の立派さ(孫権よりも優れること)を唱え、孫権を挑発した。

孫権 勃然と色を変じ、即ち身を起てて後堂に入る。衆 皆 哂笑して散ず。

魯粛が孫権を連れもどす

権 既に怒りて後堂に入る。魯粛 孔明を責めて曰く、「先生 何故にこの言を出す。幸いに吾が主 寛洪にして大度あり。面責せずして先生の言を入る。 極めて甚だ相ひ藐すること多し」
孔明 面を仰ぎて笑ふ。 「いかに、この能く物を容れざるは。吾 自ら曹を破るの計あり。汝 我に下問せざれば、吾 何ぞ之を言はん」

なんと孫権は狭量なのだ。あれしきの発言も、大人しく聞けないとは。私には良計があったのに、孫権が聞かないから、教えてあげなかったまで。「曹操を破りたい、どうしたらいいですか」と聞かずに、劉備の批判ばかりするんだから、孫権はバカねと。

粛曰く、「果して良策あらば、 粛 主公をして教へを請はしむ」
孔明曰く、「吾 視るに、曹操の百万の衆は、群蟻のごとし。但だ亮 手を挙ぐれば、則ち皆 虀粉とならん」
粛 この言を聴きて、便ち後堂に入り、権に見ゆ。権の怒気 息まず。顧みて粛に謂ひて曰く、「いま汝 渡江して、ただ一箇の好人を帯びて来りて、吾を助けんとす。豈に知るや、是のごとき虚謬の人なるを」
粛曰く、「吾もまた此〈無礼な発言〉を以て孔明を責む。孔明 大いに笑ひて言を止む。主公 能く物を容れずして便ち怒を発す。操を擒ふるの策、孔明 軽々しく言ふを肯ぜず。主公 何ぞ求めざる」
権 回りて真に喜びて曰く、「原来、孔明 良策あり、故〈ことさら〉に言詞を以て我を激せしむ。我 一時の浅見にて幾ふく大事を誤らんとす」
慌忙して衣を整へ、出でて孔明に請ひて曰く、「適来 権 小見にて怒り発して厳威を冐凟す。幸いに怒りたる罪を乞はん」

孫権が開戦を決意する

孔明 罪を謝して曰く、「亮の言語 冐犯す。乞ふ寬恕を賜らんことを」邀ひて後堂に入りて対坐し、置酒して相ひ待すること数巡の後、

座って酒を飲みあい、関係性の作りなおし。

権曰く、「曹操 平生に悪む者は、呂布・劉表・袁術・豫州と孤のみ。いま数雄 すでに滅び、独り豫州と孤のみ、尚ほ存す。

周瑜伝に、孫権のセリフがある。「老賊は、漢を廃して自ら立たたんと欲すること久し。徒だ二袁・呂布・劉表と私を忌むのみ。いま数雄すでに滅し、惟だ孤のみ尚ほ存す」と。出典ですね。

孤 呉地を保全すること能はず、十万の衆を以てしても制を人に受く。吾が計 決せり。豫州にあらざれば、以て曹操に当たるべきなし。然るに豫州 新らたに敗るるの後なり。安にか能く、この難を抗拒せんや」

劉備の敗走は、なんども聞かれる、不安材料に違いない。


孔明曰く、「豫州 新らたに長坂に敗るるも、いま戦士 還る者は極めて多し。関羽 精甲の万人を率ひ、劉琦 江夏の戦士を領し、また万人を下らず。

そうだったのか。劉備の兵は、回復していたのか。

曹操の衆 遠く来りて疲憊す。聞かば、豫州を軽騎もて追ひ、一日一夜に行くこと三百余里なり。これ正に、強弩の末、勢ひは魯縞を穿つこと能はざるなり。故に兵法 之を忌みて曰く、『必ず将軍を蹶上す』と。

諸葛亮伝に、「曹操之衆、遠來疲弊。聞、追豫州、輕騎一日一夜行三百餘里。此所謂『彊弩之末、勢不能穿魯縞』者也。故、兵法忌之、曰『必蹶上將軍』」とある。

且つ北方の人 水戦に習はず、また荊州の民 操に附く者 兵勢に因りて逼らるのみ。本心にあらず。いま将軍 誠に能く武将を用ひ、兵の数万を統ぶ。豫州と協助して同力せば、曹軍を破ること必なり。曹軍 破ず必れ、北に還らん。此の如くんば、則ち荊州 得るべし。

劉備と孫権、どちらが荊州を得るかは、この時点では触れない。共闘することで、両者が得られる、、くらいのニュアンス。しかし、つぎに「鼎足」というから、荊州は劉備が得ることを、ひっそり前提にしゃべっている。

呉地 患ひ無く、鼎足の形 成れり。成敗の機 今日にあり」
権 大いに喜びて曰く、「先生の言、頓りに茅塞を開す。吾が意 已に決せり。再び復た議せず。即日、兵を起こし、共に曹操を滅せ」と。魯粛をして令を伝へ、遍く文を武官の員に告げしむ。孔明を館駅に送り、安歇せしむ。

張昭・顧雍が開戦に反対する

張昭 得て孫権の兵を興すを知り、遂に衆議とともに曰く、「孔明の計に中てらる。急ぎ入りて権に見へ」と。
昭曰く、「昭ら聞く、主公 兵を興こして曹公と鋒を争ふと。主公 自ら思へ、袁紹と比べていかん」、権 答へず。
昭また曰く、「曹公 向日 兵は微なく将は寡なく、尚ほ能く一鼓にて袁紹に克つ。况んや今日、百万の衆を擁し、南征す。食に足り兵に足り、威名 大いに振ふ。焉ぞ敵すべき。孔明の説詞を聴き、妄りに兵甲を動かすなかれ。これ薪を負ひて火を救ふと謂へり」
顧雍曰く、「劉備 数々曹公に敗れ、讐あり。ゆえに兵を起して伐つ。江東 自来 冤なし。安んぞ併吞の意あらんや。孔明の言を聴くなかれ、国家の患を生ずるを免れよ。主公 自ら察せよ」、孫権 また答へず。

孫権が迷ってしまう

身を起して後堂に入る。魯粛 張昭の一班 料りて諌めて兵を動かさざらしむを見て、慌てて入りて権に見えて曰く、「張子布ら、また主公を諌めて兵を動かず、曹操に投降すべしとす。文官 皆 降らんと欲する者は、妻を嬌し子を嫰す。大厦の高堂に富貴を恋ふ。安んぞ白刀に就きて主公のために死するを肯ぜんや」
孫権曰く、「你 且つ暫く退け。吾 これを思わん」

周瑜が、次回、孫権の決断を促してくる。そのために、孫権は、まだ自分で決めることはできない。

粛曰く、「主公 若し疑を持たば、必ず衆人に悞らる」、粛 退出するに、外に武将 戦はんとし、文官 多く降らんとし、紛紛として議論 一ならず。

孫権 後堂にあり、寝食 安ぜず。猶ほ決せず。呉夫人 権のかくの如くあるを見て、入らんことを請ひ、問ひて曰く、「何なる事 心にあり、寝食 俱に廃するや」
権曰く「いま曹操 兵を江漢に屯し、江南に下るの意あり。諸々の謀士に問ふに、或ひとは降れと言ひ、或ひとは戦へと。待ちて戦ふも、また寡 衆に敵せずを恐れ、待ちて降らんと欲するも、操の容れざるを恐る。故に猶ほ決せず。
呉夫人 嘆じて曰く、「仲謀 何ぞ吾が姐の言を記へざるや。吾 夙夜 仲謀を忘るること能はず。何ぞ記へざるや。孫権 酔ひて方に醒むるが如く、夢みて初めて覚むるに似る。只だ此の言 断じて曹操の八十三万の大軍に送れり。総評……160909

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第四十四回 諸葛亮 智もて周瑜に説く

周瑜が到着する

呉夫人曰く、「先に姐 遺言す。乃ち伯符の語に、内の事 決せざれば、張昭に問へ。外の事 決せざれば、周瑜に問へと。何ぞ公瑾に請ひて問はざる」
権 大いに喜びて、即ち時に使を差はして鄱陽に往き、周瑜に請ひて回へらしむ。周瑜 鄱陽湖に在り、水軍を訓練す。曹操の軍 漢上に到るを聴き、星夜 帰りて柴桑に到る。

周瑜は、孫権のおば・孫権からのヘルプが入る前に、すでに柴桑に向かっていた。正史だと、孫権のおばではなく、魯粛が周瑜を呼ぶ。なぜなら、おばは『演義』のオリジナルキャラだから。

船 已に岸に到るに、飛報あり。魯粛 周瑜に前項の事をもって告訴す。周瑜曰く、「子敬 憂ふなかれ。瑜の胸中 自ら主張あり。兄 速やかに引くべし。孔明 来りて相ひ見え、幸をなさん」、魯粛 馬に上りて去る。

魯粛が孔明を呼びにいった。この時点で、周瑜は孔明について、いかなる評価も下していない。周瑜が、孔明に悪意をもっていくプロセスに注目。


張昭・顧雍らが周瑜に根回し

周瑜 方に歇息するに、人 報じて曰く、「張昭・顧雍・張肱・歩隲の四人 来りて相ひ瑜を探し、迎接して堂に入りて慰を問はんと」と。礼 畢はり、張昭 便ち曰く、「都督 江東の利害を知るや否や」

張昭や、呉の四姓ですら、周瑜に決定権があると思い、先手を競って根回しをする。陸氏ですら太守レベルだが、周氏は二世三公だから、格が違うと。

瑜曰く、「未だ知らず」
昭曰く、「曹操 百万の衆を引き、漢上に屯集す。昨、檄文を伝へ、ここに至り、主公に呉に会猟せんことを請ふ。相吞の意あると雖も、尚ほ曽てその形跡を見ず。昭ら、力めて主公に降ることを請ひ、江東の禍を免れんことを庶ふ。魯子敬 江夏より劉備の軍師の諸葛亮を帯び、ここに至る。彼の事のために、その急を救はんと欲し、ゆえに下りて詞を説き、以て呉侯を激せしむ。子敬 迷を執りて正を悟らず、都督の一決を待つ。幸いにも〈周瑜が〉回り来るを得たり。望む、片言を以て、呉侯に曹に降ることを勧め、六郡をして霊を生じて刀兵の厄を受くることを免れしめよ。乃ち公の陰隲なり」
瑜曰く、「公らの見ること皆 同じや否や」、顧雍ら曰く、「議する所 皆 同じ」
周瑜曰く、「吾もまた降らんと欲すること久し。公ら暫く回れ。明日の早、呉侯に見え、自ら議を定むることあらん」
昭ら辞退す。

程普・黄蓋・韓当が開戦をいう

人 報じて曰く、「程普・黄蓋・韓当ら一班の戦将 来りて都督に見はんとす」と。瑜 出でて迎へ至り、坐して各各 問慰す。当・程普ら曰く、「都督 知るや、江東 早晩に他人に属するを」、瑜曰く、「未だ知らず」

周瑜は、張昭にも程普にも、とぼける。

普曰く、「吾ら自ら討虜将軍に随ひ、開基して剏業す。後に将軍と禍乱を削平すること大小 数百戦。体に瘡痍を遍くし、纔かに六郡を占む。城池 一死にあらざるなり。いま君侯 謀士の言を聴き、曹操に降ることを納れんとす。これ乃ち万代の恥笑ならんや。吾ら寧んぞ死して君侯を辱しめざる。都督に請ふ、一言して兵を興こすことを決せよ。吾ら願はくは効ひて死戦せん」
周瑜曰く、「将軍ら見る所、皆 同じや否や」
黄蓋 昂然として起ち、手を以てその額に挙げて曰く、「吾が頭 断ちて誓ふべし、曹に降らずと」、衆ら皆 曰く、「降らず」と。
周瑜曰く、「吾 正に曹操と決戦せんと欲す。安にか降ることを肯ぜんや。諸将に請ふ、暫らく回れ。瑜 自ら議を定めん」、程普ら辞退す。

諸葛瑾・呂蒙らが相談にくる

人 報ず。諸葛瑾・闞沢・呂範・朱治 一班の文官 相ひ瑜を探すと。各々礼を敘し畢はる。諸葛瑾曰く、「聞かば舍弟〈孔明〉 漢上より来る。その言に、劉豫州 共に好を結び、曹公を破れと。文武 商議するに、定まらず。これ舍弟なれば、瑾をして敢へて多く言はしめず、専ら都督の来りて、この事を決するを等つ」

劉備の使者が、自分の弟だから、なにか発言しても、諸葛瑾は劉備の回し者と見られる。諸葛瑾はあまり意見を言わず、周瑜の到着を待っていたと。すでに、のちの板挟みが萌芽している。

瑜曰く、「公道を以て之を論ずるに、いかん」
瑾曰く、「降ることは安じ易し。戦ふことは保ち難し」、周瑜 笑ひて曰く、「吾 自ら主張あり。来日 同に府下に至り、議を定めん」、瑾ら辞退す。

また報じて曰く、呂蒙・甘寧らの一班 相ひ見ると。瑜 入らんことを請ふ。この事を説く所、戦ふべし、降るべしと、相ひ争論す。
瑜曰く、「必ず言を多くせざれ。来日 府下に到り、公に議せん」
周瑜 冷笑して止まず。左右に命じて燭を秉らしむ。

魯粛が孔明を連れてくる

人 報ず、魯子敬 孔明と門首に在りと。瑜 中門に出でて粛と孔明を等ち、入りて見え、客位に至し、礼を敘す。已に罷み、賓主に分れて坐る。

張昭ら、根回しにきたひとを周瑜が軽くあしらったのは、孔明と話す前には、何も決まらないと思ったから。

粛 先に瑜に問ひて曰く、「いま操 衆を駆り、南侵す。呉主 能く決せず、将軍に一聴す。将軍の意 安こに在るや」
瑜曰く、「いま曹公 兵を興して天子を以て名と為す。師 勢を拒ぐべからず、遏すべからず。戦はば則ち敗れ易し。降らば則ち安じ易し。

周瑜は、さっきインプットされた降伏の意見を、トレースしている。

吾 已に主に定めり。来日 討虜〈孫権〉に見ひて、便ち使を遺はして降ることを納れよとせん」
魯粛 愕然として曰く、「君の言 差てり。江東の基業 破虜より開剏し、今に到りて、已に三世を歴たり。豈に一旦にして廃すべき。孫伯符 世を棄てて以来、外事は将軍に付托し、国家を保全す。乃ち太山の靠をなす。いま何ぞ懦夫の議に従ふや」

魯粛は、読者を代弁して、平凡なことをいう。周瑜は、孔明の様子を見るために、揺さぶっているだけなのに。

瑜曰く、「江東の六郡、生霊 限りなし。もし大禍に罹れば、必ず主 吾を怨む。故に以てこれに降れ」

あえて保身に走って発言する周瑜。いやらしい。

粛曰く、「然らず。夫れ将軍の英雄を以て、東呉の険を以てせば、固より操とて、未だ必ず便ち能く江東を侵さず」
二人 辨を争ふ。孔明 手を袖して冷笑す。瑜曰く、「先生 何故に哂笑するや」

孔明 徐徐に答へて曰く、「亮〈周瑜を〉笑はず。別に子敬の時務を識らざるを笑ふなり」、粛また愕然として曰く、「孔明 いかにして反りて我の時務を識らざるを笑ふや」
孔明曰く、「公瑾の主意 操に降るとす。正に理に合ふなり」
瑜曰く、「孔明 乃ち時務を識るの士なり。必ず吾が見る所を知る」

司馬徽が、孔明・龐統のみ、当世のことを知ると言っていた。

粛曰く、「孔明、これを説くこと、いかん」
孔明曰く、「操 極めて善く用兵す。孫呉を彷彿とし、天下 敢へて当に能く当たるべき者なし。真に英雄なり。旧に只だあり、呂布・袁術・袁紹・劉表。対敵すべきは、いま数人なり。皆 操に滅せらる。天下また人なし。独り劉豫州あり、時務を識らず、強ひて争衡す。いま身を孤として、江夏に存亡し、未だ保たず。

孔明は、劉備もまた「時務を識らない」とした。周瑜は「降伏すべき」といい、孔明は「劉備は勝てない」といい、本心と反対のことばかり言うから、ややこしい。

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