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『三国志』における「西平」について

掲示板に質問を頂いたので、調べてみました。
リョウさん曰く、
曹操は荊州攻めの際に「新野を攻めるべく西平に駐屯した」とありますが、荊州にも西平という地名があったのでしょうか?
図解三国志群雄勢力マップ(こちらに紹介されていたので早速購入w)の図では宛になっていました。
しかし、wikiの郭皇后の記事でも荊州の西平郡出身とあり、申耽の記事でも西平・上庸の豪族との記載があったので、涼州ではなく荊州にも同じ地名があったのか気になりまして、もしご存知でしたらご教示頂ければ幸いですm(_ _)m

というわけで、検索をかけ、『三国志集解』を見てみました。

『三国志』における「西平」

巻一 武帝紀:(建安八年)八月,公征劉表,軍西平。
建安八(203)年、8月、曹公は劉表をうち、西平に進軍した。

おそらく質問者の方は、建安十三(208)年の、曹操の荊州攻め=赤壁の戦いのときと、混同しておられるかと思います。曹操が劉表を攻めたのは、一度ではありません。ともあれ、調査を続行します。

『三国志集解』によると、胡三省はいう。西平県は、汝南郡に属す。(この劉表攻めは)郭嘉の謀に従ったのである(袁紹の子同士を反目させるために、南を攻めるポーズを取ったのである)。

この西平県は、荊州ではなく、豫州でした。

『一統志』はいう。西平故城は、いまの河南の汝寧府の西平県の西45里にある。

武帝紀:(建安十九年、春)韓遂徙金城,入氐王千萬部,率羌、胡萬餘騎與夏侯淵戰,擊,大破之,遂走西平 。
夏侯淵が西平を平定した。
『三国志集解』はいう。西平郡は、斉王紀の嘉平五年にも見える。
呉増僅はいう。『通典』『元和志』『寰宇記』によると、西平郡は、建安期に置かれた。『水経注』によると、魏の黄初期に置かれた。『魏志』王修伝にひく『魏略』によると、郭憲は建安期に西平郡の功曹となる。杜畿伝で、杜畿は西平太守となる。張既伝にひく『魏略』で、韓約は閻行に西平郡を別領させる。以上から、郡が設置されたのは、黄初期でなく、建安期がただしい。
盧弼はいう。『元和志』は、建安期、金城を分けて西平をおくという。胡三省も同じことをいう。『一統志』はいう。西平郡の故城は、いまの甘粛の西寧県の治所である。もとは漢代に臨羌県だった。後漢末に、西都県を析置し、西平郡を兼置した。

こちらが涼州の西平郡です。


武帝紀:(建安二十年)西平、金城諸將麴演、蔣石等共斬送韓遂首。
『三国志集解』によると、これも涼州の西平郡のほう。

巻三 明帝紀:(太和元年)西平麴英反,殺臨羌令、西都長,遣將軍郝昭、鹿磐討斬之。
『三国志集解』によると、これも涼州の西平郡のほう。

巻四 斉王紀:八月,詔曰:「故中郎西平郭脩,砥節厲行,秉心不回。…
『三国志集解』によると、これも涼州の西平郡のほう。

巻五 明元郭皇后伝:明元郭皇后,西平人也,世河右大族。
『三国志集解』によると、これも涼州の西平郡のほう。

巻六 袁紹伝:太祖南征荊州,軍至西平。
これは武帝紀の建安八年とおなじで、豫州の汝南郡の西平県。

巻十一 王脩伝:郭憲字幼簡,西平人,為其郡右姓。
これは、涼州の西平郡のほう。西平郡の郭氏というのが、現地の豪族だったことがわかる。

巻十六 杜畿伝:太祖以畿為司空司直,遷護羌校尉,使持節,領西平太守。
護羌校尉と兼ねているので、涼州のほう。

巻二十三 和洽伝:和洽字陽士,汝南西平人也。
汝南の西平といっているから、豫州のほう。

巻二十五 辛毗伝:太祖將征荊州,次于西平。
豫州のほう。ただし曹操が西平に進軍したのは、史実はいちどだけで、さまざまな視点から書かれ、あちこちに出てくるだけ。

巻二十六 郭淮伝: (正始)八年,隴西、南安、金城、西平諸羌餓何、燒戈、伐同、蛾遮塞等相結叛亂。
金城と隣接しており、涼州のほう。

巻三十三 後主伝:(建興)十三年,姜維復出西平,不克而還。
姜維が攻めたのは、涼州のほう。

巻四十 劉封伝 注引 魏略曰:申儀兄名耽,字義舉。初在西平、上庸間聚眾數千家,後與張魯通,又遣使詣曹公,曹公加其號為將軍, 因使領上庸都尉。
『三国志集解』はいう。趙一清によると、「西平・上庸」は誤りであり、「西城・上庸」とすべきである。

質問者の方の疑問が、これで解決したかと思います。
武帝紀の建安二十年、「復漢寧郡為漢中;分漢中之安陽、西城為西城郡,置太守; 分錫、上庸郡,置都尉」とあります。つまり曹操が、上庸と隣接する地域に、西城郡を置きました。申儀・申耽の兄弟は、この地域にいて張魯と通じていました。荊州北部(孟達・劉封が活躍する地域)と、益州北部(後漢のとき漢中郡に属し、荊州北部と漢水によって繋がる)のあたりを指して、「西城・上庸」とすべきだと、趙一清が言っています。
申儀・申耽がいる地域は、まさにここなので、趙一清に従って、「西城・上庸」とすべきでしょう。ネット上の記事は、劉封伝にひく『魏略』をそのまま引用して(もしくは引用したものを、孫引き・曽孫引きして)誤っているのだと思われます。


巻四十四 姜維伝:十二年,假維節,復出西平,不克而還。
後主伝に同じで、涼州のほう。

結論:ふたつあります

というわけで、『三国志』に出てくる「西平」は、2つあります。
ひとつは、豫州の汝南郡の西平県。建安八年、曹操が袁紹の遺児たちを対立させるため、南征するポーズを見せて進軍した。武帝紀と袁紹伝に用法があり、それ以外には見えない。
もうひとつは、涼州の西平郡。韓遂(韓約)の勢力圏で、建安期に夏侯淵が平定した地域。金城郡から分割して設置された。この地域には、郭氏という豪族がおり、魏の皇后や、官僚を輩出した。以上です。

番外編として、劉封伝にひく『魏略』で、申儀・申耽が「西平・上庸」にいたとありますが、これは「西城・上庸」にいたと訂正されるべきです。上庸は、豫州の汝南郡の西平県と、涼州の西平郡は、いずれも地理的に離れており、また申儀・申耽がいた地域からも遠いので、誤りだと考えられます。151118

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