読書 > 南宋の郭允蹈 『蜀鑑』を訓読する

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巻二 劉備の時代

ここの画像を見ながら、つくっています。 蜀鑑 全書242頁_大家藝文天地 恭錄 本文は大文字として、1文字低く書かれている部分(注釈?自注?)は、ふつうのサイズとしました。150418

曹操 張魯を平げて漢中を取る

漢献帝の初平二年、益州牧の劉焉 張魯を遣はして漢中を襲ふ。劉焉 益州に在りて陰かに異計を計る。沛人の張魯 祖父の陵より以来、五斗米道を為して蜀に居る。焉 乃ち魯を以て督義司馬と為し、漢中太守の蘇固を掩殺し、閣道を断絶して漢使を殺す。
建安五年、劉璋 父の焉の位を襲ひ、魯は璋の闇懦たるを以て、復た承順せず、別部司馬の張修を襲ひて之を殺し、其の衆を并す。魯 遂に漢中に拠りて璋と敵と為る。
建安二十年、曹操 張魯を撃ちて武都より氐に入る。氐人 道を塞ぐ。張郃・朱霊を遣はして攻め、之を破らしむ。

武都は今の階州の同谷の武興らの地なり。旧は白馬氐有りて之に拠る。

操 陳倉より散関に出でて河地に至り、氐王の竇茂の衆万餘人を屠る。秋七月、操 陽平に至る。魯 其の弟の衛らを遣はして陽平関に拠らしむ。操 将を遣はして夜に襲ひ、之を破らしむ。魯 潰して巴中に奔る。操 遂に南鄭に入る。
軍 武都より山を行くこと千里、険阻を升降す。操 是に於いて大いに軍士を饗す。
七月、陽平に至る。魯 弟の衛をして将の楊昂らと与に陽平関に拠る。横山 築城すること十餘里(一)。之を攻むれども抜くこと能はず。操 険に乗じて夜襲し、大いに之を破る。魯 潰して巴中に奔る。操 南鄭に入りて尽く府庫の珍宝を得たり。

(一)原文「拠陽平関横山築城十餘里」の返り方に迷った。

陽平なるは、『後漢史』に『周地図記』を注して曰く、褒谷の西北に古の陽平関有り。其の地は今の梁州の褒城県の西北に在るなり。又、『寰宇記』を按ずるに、褒城県は漢陽に有り、県の西北に在り。漢の時、立つる所なり。先主 夏侯淵を破りたるは其の地なり。『水経』も又 注して云はく、白馬城は亦 名を□口といひ陽平関に有り。今の西県に在り。西県とは乃ち古の沔陽なり。褒城県を去ること七十里。邑の名 遷徙して未だ知る可からざるなり。『郡県志』は因りて謂はく、曹操・昭烈・孔明 皆な嘗て関下に至り、未だ嘗て関を越えざるとするは、則ち誤りなり。今 大安軍より五里 亦た陽平関に有り。頗る険要なるも然れども旧迹に非ざるなり。

十二月、操 夏侯淵・張郃を留めて、漢中を守らしむ。
操の淵・郃を留むるや、鶏肋を以て外人に示す。外人察するもの莫し。主簿の楊脩 独り曰く、夫れ鶏肋は之を棄つるは惜しむ可きものなるが如きも、之を食らふに得る所無きなり。
論に曰く、曹操 群雄を芟夷(一)し、偽りて一時を定め、再び漢中に入りて下す能はず。強弩の末は真に向かう可からざるに殆(ちか)きなり。天を抑へて留め、昭烈・孔明に遺(をく)るを以て、万世の三綱をして頼りて以て不冺(二)ならしむるや(三)。

(一)かりとって消滅させ
(二)不滅のものとする
(三)読めませんでした。原文「抑天留以遺昭烈孔明使万世之三綱頼以不冺耶」と。曹操が漢中を仮押さえしたものの、結果的には劉備にその地を差しだすことになり、おかげで三綱の規範が実行に移された、か。
(四)原文「北拠漢沔利尽南海東連呉会」とあり、南のみ、東西南北の対句がくずれている気がして、返り方が分からない。


昭烈の君臣 江道より蜀に入る

建安十六年、昭烈 荊州より数万人を将ゐて蜀に入り、江州に至る。北のかた墊江水より涪に詣る。
昭烈帝 荊州に在るとき諸葛亮を草盧に三顧して、計策を以て問ふ。亮曰く、「荊州は北は漢・沔に拠り、利は南海を尽くし(一)、東は呉会に連なり、西は巴蜀に通ず。此れ用武の国にして、其の主 守ること能はず。此れ殆ど天の将軍を資くる所以なり。将軍 豈に意有らんや。

(一)原文「北拠漢沔利尽南海東連呉会」とあり、南のみ、東西南北の対句がくずれている気がして、返り方が分からない。

益州は険塞にして沃野千里、天府の土なり。高祖 之に因りて以て帝業を成す。劉璋は暗弱なり。張魯は北に在りて、民は殷んにして国は富めども、而れども知らず、智能の士を存䘏することを知らず、明君を得んことを思ふ。将軍 既に帝室の冑なり。信義は四海に著はる。英雄を総攬して賢を思ふこと渇するが如し。若し荊・益を跨有して其の巌阻を保ち、西は諸戎に連なり、南は夷越を撫さば、天下に変有らば則ち一上将に命ぜよ。荊州の軍を将ゐて以て宛洛に向かへ。将軍 身づから益州の衆を率ひて秦川より出でよ。百姓 熟づくにか敢へて箪食壺漿して以て将軍を迎へんや。誠に是の如くんば、則ち覇業 成る可し。漢室 興る可し」と。 昭烈 既に曹操を破る。張松 璋に説き、法正を遣はして昭烈を荊州に迎へしむ。法正 陰かに昭烈に益州を取らんことを勧む。昭烈 疑ひて未だ決せず。龐統 復た之に賛ず。昭烈 乃ち諸葛亮を留めて荊州を守らしめ、趙雲を以て留営司馬を領せしむ。昭烈 歩卒数万人を将ゐて益州に入り、江州より北のかた墊江水より涪に詣る。成都を去ること三百六十里なり。璋 歩騎三万人を率ゐて往きて之に会す。歓飲すること百餘日。
按ずるに昭烈は自ら今の重慶府より合州の江路上水に入り、涪に至る。即ち今の錦州なり。唐の乾符間王助なり。『綿州富楽山碑』云はく、昭烈 蜀に入るや、劉璋 延べて此の山に之き、蜀の富盛なるを望見せしむ。飲食の楽しきこと甚だし。故に名を得たり。

璋 昭烈を推して大司馬と為し、張魯を撃たしむ。昭烈 葭萌に至る。
璋 昭烈の兵に厚く資給を加へ、張魯を撃たしむ。又た白水の軍を督せしむ。璋 成都に還る。昭烈 北のかた葭萌に到るも、未だ即(ただ)ちに魯を討たず。
白水軍は、『後漢史注』を按ずるに、公孫述の将たる侯丹 白水関を開き、城の西南に水関有り。葭萌は今の利州に在り。

昭烈 葭萌より蜀を襲ひ、進みて涪城に拠る。 劉璋の張松を斬るや、昭烈 大いに怒り、白水軍督の楊懐・高沛を召して無礼を以て責め、之を斬る。兵を勒して径(ただ)ちに関頭に至り、其の兵を并はす。遂に進みて涪城に拠る。
涪城は今の綿州なり。

建安十八年、昭烈 雒城を囲む。
雒城は今の雒県なり。

建安十九年、諸葛亮 関羽を留めて荊州を守らしめ、遂に張飛・趙雲と与に流を沂して巴東に克ち、東のかた江州に至り、巴郡太守の顔厳を破りて之を生きながらに獲る。分けて趙雲を遣はし、外水より江陽・犍為を定む。飛は巴西・徳陽を定む。
法正 劉璋に書を与へて曰く、「今 張益徳の数万の衆 巴東を定めて犍為の界に入り、分かれて資中・徳陽を平らげ、三道に並進す。将(は)た何を以て之を禦がんや。又た魚復は関頭と与に、実に益州の禍福の門為(た)り。今、二門 悉く開き、数道より並進し、已に心腹に入る。愚 以為(おもへらく) 変化を図りて以て尊門を保つ可し」と。
秦 滅びて、巴 置く。巴の郡治は江州なり。江州は県名なり。今の重慶府の巴県 是なり。劉焉 巴を分けて三と為す。墊江 已に上りて巴西と為る。治は安漢なり。今の果州なり。墊江 以て下り巴東と為る。治は江州なり。墊江は今の合州 是なり。江陽は今の瀘州なり。犍為は資栄・嘉眉らの地なり。徳陽は今の遂寧府なり。趙雲、外水より瀘州に至り、分かれて資中・嘉眉らの地を定む。張飛 重慶より合州に入り、遂寧・果州らの地を定む。今、法正の「益徳 犍為の界に入り、分かれて資中・徳陽を平らぐ」と称するを按ずるに、時に正に雒城に在り、劉璋に書を与ふ。能く遥かに千里の外を度すること能ふに非ざれば、飛 墊江より上るとも未だ嘗て犍為・資中に入らざるなり。

昭烈 進みて成都を囲み、劉璋 出でて降る。
雒城 潰え、進みて成都を囲む。諸葛亮・張飛・趙雲 兵を引きて来りて会す。馬超 武都より密かに書もて降らんことを請ふ。昭烈 兵を引きて城北に屯せしむ。城中 震怖す。城を囲むこと数十日、璋 遂に出でて降る。

呉蜀 荊州を分かつ

建安二十年、関羽 江陵に屯す。呉の孫権 諸葛瑾を遣はして荊州の諸郡を求めしむ。昭烈 許さず。呂蒙 長沙・桂陽の三郡を取る。零陵太守の郝普 固守す。
権 諸葛瑾をして備より荊州の諸郡を求めしむ。昭烈 許さずして曰く、「吾 方に涼州を図らんとす。涼州 定まれば乃ち尽く荊州を以て相ひ与えん」と。権曰く、「此れ仮りて反さず、虚辞を以て歳を引かんと欲するなり」と。遂に長沙・零陵・桂陽の三郡の長吏を置く。関羽 尽く之を逐ふ。権 呂蒙を遣はして兵二万を督せしめ、以て三郡を取る。長沙・桂陽 皆な風に望みて帰服す。惟だ零陵太守の郝普のみ、城 守りて降らず。 長沙は今の潭州に在り。零陵 今の永州に在り。桂陽 今の彬州に在り。

昭烈 公安に至り、関羽を遣はして益陽に至らしめ、三郡を争ふ。呉の孫権 進みて陸口に住まり、魯粛 益陽に屯して以て羽を拒む。郝普 零陵を以て呂蒙に降る。
権 書を遣はして呂蒙を召し、「零陵を舎てて急ぎ還り、魯粛を助けよ」といふ。蒙 書を得るとも、之を秘す。夜、諸将を召して方略を以て授く。「晨、当に零陵を攻むべし。客を遣はし、郝普に語るに、以へらく、『昭烈は漢中に在り、関羽は南郡に在れば、外援の恃む可きもの無し』と。普 懼れて出でて降らん」と。蒙 即日、軍を引きて益陽に赴く。
公安は今の江陵府に在り。陸口は今の鄂州の蒲圻県に在り。『寰宇記』に、孫権 益陽に城(きず)くは、今の潭州の益陽県に在りと有り。『寰宇記』云はく、魯粛は常徳府の沅江県に城く。関羽 屯兵するの所有り、名づけて曰く関州と。沅江も亦た益陽の県境なり。魯粛・関羽 此に於いて会語す。

昭烈 和を呉に求む。遂に荊州を分く。湘水を以て界と為す。長沙・江夏・桂陽より東を以て呉とす。南郡・零陵・武陵より西を以て漢に属せしむ。
昭烈 曹操の漢中を攻むるを聞き、使を遣はして権と好(よしみ)を通ず。遂に荊州を中分す。江夏は今の鄂州に在り。南郡は今の江陵府の武陵に在り。武陵は今の常徳府なり。
論に曰く、荊州、首は呉にあり、尾は蜀にあり。腹心の会合に拠り、二長 以て中原に向かふこと可なり。荊益を跨有し、其の巌阻を保つことは次なり。若し中分して呉と之を共にせば、則ち呉 以て攻む可きなるとも、而れども蜀 以て守る可からず。公孫述の夷陵に困せるは是なり。已に惜しきかな。昭烈の君臣 奮興することの晩(おそ)く、天下を三分するとも、僅かに区区の一隅を有するのみなり。

昭烈 漢中を取る

建安二十一年、張飛 大いに張郃の軍を宕渠に破る
曹操 既に漢中を定め、夏侯淵・張郃を留めて之を守らしむ。黄権 昭烈に言ひて曰く、「若し漢中を失はば、則ち三巴 振るはず。此は蜀の股臂を割くことと為るなり」と。操 張郃をして諸郡を督して、三巴を狥せしめ、其の民を漢中に徙して、軍を宕渠に進めんと欲す。巴西太守の張飛 郃と相ひ拒むこと五十餘日。飛 郃を襲撃して大いに之を破る。郃 走れて南鄭に還る。

建安二十二年、昭烈 諸将を率ゐて兵を漢中に進め、張飛・馬超・呉蘭らを遣りて下弁に屯せしむ。曹洪 之を拒む。
法正 昭烈に説きて曰く、「曹操 一挙にして張魯を降し、漢中を定む。此に因りて、以て巴蜀を図らざるは、必ず内憂有るが故なり。今、衆を挙げて漢中を取らば、必ず之に克つ可し。之に克つの日、農を広げて穀を積まば、釁(すき)を観て隙を伺ひ、上は以て寇敵を傾覆す可し、中は以て境土を広拓す可し、下は以て要害を固守す可し。此 失なふ可からず」と。昭烈 之に従ふ。
下弁は今の成州の同谷県なり。

建安二十三年、魏の曹洪及び呉蘭 固山に戦ひ、蘭 敗れて死す。
洪 将に呉蘭を撃たんとす。張飛は固山に屯し、声に言はく、「軍の後ろを断たんと欲す」と。衆議 狐疑す。曹休曰く、「賊 実(まこと)に道を断たば、当に兵を伏せて潜かに行くべし。今、乃ち先に声勢を張る。此れ其の明なること能はざるなり。宜しく其の未だ集まらざるに乗じ、促(せま)り蘭を撃つべし。蘭 破れなば、飛は自ら走(のが)れん」と。洪 之に従ひ、進みて蘭を撃破し之を殺す。張飛・馬超 走る。
固山 未詳なり。

昭烈 陽平関に屯す。
夏侯淵・張郃・徐晃ら之と与に相ひ拒む。昭烈 陳式らを遣りて馬鳴閣道を絶つ。徐晃 之を撃破す。張郃 広石に屯す。昭烈 之を攻むるも克つこと能はず。急書もて益州の兵に発す。諸葛亮 以て楊洪に問ふ。楊洪曰く、「漢中は益州の咽喉にして、存亡の機会なり。若し漢中を無くさば、則ち蜀も無し。此れ家門の禍ひなり。男子たれば当に戦ふべし。女子たれば当に兵に運発すべし。何をか疑はん」と。
馬鳴閣は『寰宇記』曰く、今の利州の昭化県に在り。『蜀志』を按ずるに、曹操曰く、「此の閣道 乃ち漢中の険要・咽喉なり」と。此を按ずるに、恐らく昭化に非ざるなり。広石は陽平関の西なり、砿石関有り。

建安二十四年、昭烈 陽平より夏侯淵を定軍山に破り、淵の首を斬る。
昭烈 夏侯淵と相ひ拒みて年を踰ゆ。昭烈 陽平の南より沔水を渡り、山に縁り、稍(ようや)く営を定軍の興勢に前(すす)む。淵 兵を引きて之と争ふ。法正曰く、「撃つ可し」と。遂に黄忠をして鼓譟に乗じて攻め、淵及び趙顒を斬る。張郃 軍を引きて陽平に還る。明日、昭烈 漢水を渡りて郃を攻めんと欲す。諸将 衆寡敵せざるを以て、水に依りて陣を為して以て之を拒む。郭淮 郃に謂ひて曰く、「水より遠ざかりて陣を為すに如かず。引きて之に致らば、半ば済(わた)りて後、之を撃たば、破る可し」と。既に陣す。昭烈 疑ひて渡らず、淮 遂に固守す。
定軍山 今の興元府の西県に在り。興勢 今の洋州の興道県なり、興勢山有り。

三月、曹操 長安より斜谷を出でて漢中に至る。趙雲 其の軍を漢水に破る。
操 長安より斜谷に出で、遮要に軍して、以て漢中に臨む。昭烈曰く、「曹操 来ると雖も、能く為すこと無きなり。我 必ず漢川を有たん」と。乃ち衆を斂め険に拒み、終に鋒を交へず。操 米を北山の下に運ぶ。黄忠 兵を引きて之を取らんと欲す。期を過ぎるも還らず。趙雲 数十騎を将ゐて営を出で、之を視るに、操の兵を揚げ大いに出るに値る。雲 猝(には)かに与に相遇す。遂に前みて其の陣に突す。且つ闘ひ且つ却(しりぞ)く。魏兵 散るとも復た合す。追ひて営下に至る。雲 営に入りて更に大きく門を開く。旗を偃め鼓を息(や)む。魏兵は雲に伏有りと疑ひ、兵を引きて還る。雲 鼓を擂(す)りて天を震はす。惟だ勁弩を以て後ろより魏兵を射る。魏兵 驚駭して漢水中に堕ち、死せる者 甚だ多し。明旦、昭烈 自ら来たりて雲の営に至り、昨に戦ひし処を視て曰く、「子龍 一身 都て是れ膽なり」と。
遮要は、『興元記』云はく、曹操の城 県の西北十二里に在り。斜谷口の遮要は軍を置く処なりと。

夏五月、操 漢中の諸軍と与に長安に還る。
操 後に嘗て人に語りて曰く、「南鄭 直(た)だ天獄の中為(た)り。斜谷道 五百里の石穴為(た)るのみ」と。

昭烈 孟達を遣りて秭歸より北のかた房陵を攻めしめ之を下す。劉封を遣りて沔水に乗じて達と会して上庸太守の申耽を攻めしむ。郡を挙げて降る。
耽を以て上庸太守と為し、耽の弟たる儀を西城太守と為して漢中の地を定む。
秭歸は今の帰州なり。房陵は今の房州なり。上庸・西城 皆な今の金州の地なり。即ち『漢地理志』の漢中の諸郡なり。

秋七月、昭烈 漢中王の位に沔陽に於いて即く。魏延を以て漢中太守を領せしむ。
沔陽は今の興元府の西県なり。

孫権 荊州を襲ふ

建安二十四年、関公 江陵より樊を攻め、大いに于禁・龐徳を漢水に破る。
関公 麋芳をして江陵を守らしめ、傅士仁をして公安を守らしめ、自ら衆を率ゐて曹仁を樊に於いて攻む。仁 于禁・龐徳らをして樊の北に屯せしむ。八月、大いに霖雨あり漢水溢る。地を平らぐること数丈。于禁ら七軍 皆な没す。禁ら高みに登りて水を避く。公 大船に乗りて就ち之を攻む。于禁 遂に降る。龐徳を殺す。
樊城 今の襄陽府に在り。

公 樊城を囲む。
公 樊城に急攻す。城 水を得て往往(一) 崩壊す。衆 皆な洶懼す。満寵 曹仁に謂ひて曰く、「今 若し遁去せば、洪河より以南、復た国家の有に非ざるなり。乃ち白馬を殺して盟を為し、心を同じくして固守せよ」と。公 船に乗りて城に臨み、立ちどころに数重に囲み、内外断絶す。公 又た別将を遣はして呂常を襄陽に囲む。荊州刺史の胡修・南陽太守の傅方、皆な公に降る。公の威 華夏を震はす。操 都を徙して以て其の鋭を避けんことを議す。

(一)いたるところで。


呂蒙 江陵を襲ひて之を取る。関公 退きて走(のが)れ、章郷に死す。孫権 遂に荊州を定む。
呂蒙 陸口に屯し、孫権に蜀を取りて長江に拠ることを全きにせよと勧む。蒙 遂に病篤しと称す。孫権 蒙を檄して蕪湖に至り、陰かに与に計を図る。陸遜を遣はして蒙に代へ、陸口に屯せしむ。遜 深く自ら謙抑して忠を尽して、自ら公に託するの意を為す。公の意 大いに安ず。稍く兵を撤して以て樊に赴く。公 于禁らの人馬の数万を得て、糧食は乏絶す。擅に権の湘関の米を取る。権 之を聞きて、遂に兵を発して公を襲ふ。呂蒙を以て大都督と為し、又 曹操に上表して蜀を討ち自ら効(なら)はんことを請ふ。公 之を聞くとも猶豫し(一)て去る能はず。

(一)ためらって

会ま傅方・胡修 皆な死す。公 遂に樊城の囲を撤す。呂蒙 尋陽に至る。公の置く所の広陵太守の麋芳・公安守の傅士仁 皆な降る。蒙 江陵に入り、其の将士を撫して、府庫を封じて以て権の至るを俟つ。公 南郡の破れしを聞きて、即ち走りて南のかた還る。権 江陵に至る。荊州の将吏 悉く皆な帰付す。独り治中従事の潘濬 疾と称して見えず。権の輿 之に致る。即ち濬を遣はして武陵を平らげしめ、其の従事たる樊佃を斬らしむ。陸遜を以て宜都太守を領せしむ。関公 西のかた麦城に保(とりで)す。権 朱然に命じて其の径路を断たしめ、公及び其の子たる平を章郷に於いて得て、之を害す。遂に荊州を定む。
陸口は今の鄂州の蒲圻県なり。蕪湖は今の太平州なり。尋陽は今の江州なり。武陵は今の鼎州なり。宜都は今の峡州なり。宜都県の場屋上は沮水上に在り。『水経注』に、沮水はまた麦城の西を巡るとす。『荊州記』云はく、麦城の東に驢城有り。西に磨城有り。伍子胥 此の二城を造る。麦城を攻むること、俗諺に曰く、「東驢・西磨、麦は自ら破る」と。章郷は漳水上に在り。『水経注』に、漳水は臨沮県の東の荊山より出づ。又た東のかた章郷の南を過ぐと。『荊州記』云はく、即ち楚交城は、古老 相ひ伝ふるに、楚昭王の築く所なりと。並びに今の荊門軍の当陽県に在り。

蜀 漢中の三郡を失ふ

蜀漢の章武元年、孟達 上庸を以て魏に降る。
将軍の孟達 上庸に屯し、劉封と協はず。封 之を侵凌す。達 部曲四千餘家を率ゐて魏主の丕に降る。房陵・上庸・西城の三郡を合わせて新城と為し、達を以て新城太守を領せしめ、西南の任を以て委ぬ。行軍長史の劉曄曰く、「達 荀得の心有りて、才を恃み術を好む。新城は、劉・孫と接連す。若し変態有らば、国の為に患を生ず」と。達 夏侯尚らと共に劉封を襲ふ。上庸太守の申耽 封に叛して魏に降る。封 破れて走れて成都に還る。丞相の亮 昭烈に之を除かんことを勧む。遂に封に死を賜ふ。達、後に城に入りて、白塞に登りて嘆じて曰く、「劉封・申耽 金城千里に拠りて之を失ふや」と。
上庸・西城は、今の荊州県なり。房陵は今の房州なり。

昭烈 荊州を攻むるも利あらず

章武元年、昭烈 自ら諸郡を率ゐて孫権を撃つ。張飛 閬中より江州に会せんとす。飛の将たる張達・范彊、飛を殺して以て孫権に奔る。
章武三年、昭烈 秭歸に至りて、黄権を遣はして江北の諸軍を督せしむ。昭烈 夷道の猇亭に屯す。

昭烈 秭歸より将に進みて呉を撃たんとす。黄権 諌めて曰く、「呉人は悍戦にして、水軍は流れに沿ふ。進むこと易く、退くこと難し。請ふ、先駆と為(し)て以て敵に当たらんことを」と。昭烈 従はず。権を以て鎮北将軍と為し、自ら諸将を率ゐる。江南より山に縁りて嶺を截ちて、夷道の猇亭に軍す。呉将 皆な之を迎撃せんと欲す。陸遜曰く、「蜀軍 山に縁りて行軍す。勢は展することを得ず。自ら当に木石の間に罷むべし。徐に其の敝を制せ」と。漢人 佷山より武陵に通じ、馬良をして金銀を以て五渓の諸〻の蛮夷に賜ひて、官爵を以て授く。
猇亭は今の峡州の夷陵県に在り。蹤跡は夷滅し、已に考ふ可からず。佷山は今の峡州の長揚県なり。武陵は今の常徳府なり。

昭烈 猇亭に敗績す。
漢人 巫峡・建平より営を連ねて夷陵の界に至り、数十屯を立つ。馮習を以て大督と為し、張南を前部督と為す。正月より呉と相ひ拒み、六月に至るも決せず。陸遜 孫権に上疏して曰く、「夷陵は要害にして、国の関限なり。得ること易しと為すと雖も、亦た復た失ふこと易し。之を失はば、徒だ一郡の地を失ふに非ず。荊州 憂ふ可し。今、敵師 船を捨て歩に就く。処処に営を結ぶ。其の布置を察するに、必ず他変為し」と。諸将、先に進みて一営を攻めしも利あらず。遜曰く、「吾 已に之を破るの術を暁る」と。乃ち勅して各〻一把の茅を持ちて、火攻を以て之を抜く。通じて諸軍を率ゐて同時に倶に攻め、張南・馮習らの首を斬る。其の四十餘営を破る。昭烈 馬鞍山に升りて、兵を陳べて自ら繞(かこ)ふ。遜 諸郡に督促して四靣より之に蹙る。死せる者は万を数ふ。昭烈、夜に遁れ、駅人 自ら担ぎ、鐃(どら)・鎧を焼きて後を絶つ。僅かに白帝城に入るを得たり。傅彤 後殿と為りて之に死す。馬良も亦た五渓に於いて死す。黄権 江北に在りて其の衆を率ゐて魏に降る。
建平は今の帰州に在り。馬鞍山は猇亭に在り。『夷陵志』云はく、夷陵は要害なり。南に石鼻・猇亭有り。『寰宇記』云はく、今の帰州の巴東県なり。石門山有り。山に石径有りて深く、重門の若し。劉主 陸遜の破る所と為り、鎧を焼きて道を断つ。然る後、免るを得たり。論に曰く、「関雲長は万人の敵なるを以て、臥して荊州を護る。昭烈の君臣は長城を為(つく)るを以て呂蒙の詭計に墜つ。昭烈の勇、一決に於いて荊州を争ふ。君臣 是に於いて倶に之を失ふ。或ひと謂はく、是れ役なりと。昭烈 自ら将ゐざるが、而れども孔明 長嘯して以て荊州を下せば則ち何如」と。曰く、「孔明の志に非ず。孔明 固より謂ふ、『孫権 与にして援と為す可きにして、図る可からず』と。又た謂ふ、『国賊は曹操にして孫権に非ず』と。又た謂ふ、『法孝直 在りせば、必ず能く上の此の行ひを諌めん。孔明 蓋し亦た之に難し』と。曰く、「然らば則ち荊州 遂に之を度外に置く可きや」と。曰く、「向使(もし)、雲長をして江陵より襄陽に出でしめ、而(しか)れども益徳・黄権 一人でも有りて、居りて守らしむるの計を為さば、則ち固より中原を震撼せしむ可し、後顧の憂ひも無し。雲長 既に死せば、孔明と雖も亦た末は之をいかんせんや」と。

巴西太守の閻芝 馬忠を遣はして五千人を将ゐて永安に至る。
章武四年、諸葛亮 永安に至る。昭烈 永安に於いて崩ず。

永安は今の夔州の奉節県なり。

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