-後漢 > 『資治通鑑』漢紀を訓読する

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『資治通鑑』巻六十七 漢紀五十九

建安十九(二一四)年春

春、馬超 張魯に従ひて兵を求め、北のかた涼州を取り、魯 超をして還りて祁山を囲ましむ。姜叙ら急を夏侯淵に告げ、諸将 議して魏公操の節度を須たんと欲す。淵曰く、「公は鄴に在り、反覆すれば四千里なり。報ずる比〈ころほ〉ひ、叙ら必ず敗れ、急を救ふひ非ざるなり」と。
遂に行き、張郃をして步騎五千を督せしめ前軍と為す。超 敗走す。
韓遂 顕親に在り、

顕親県は、漢陽郡に属す。『班志』になく、けだし光武帝が置いて、竇友を封じた。

淵 襲ひ之を取らんと欲し、遂 走る。淵 追ひて略陽城に至り、遂を去ると三十余里なり。諸将 之を攻めんと欲し、或〈あるひと〉当に興国氐を攻むべしと言ふ。

『魏略』によると、建安中、興国氐王の阿貴・百頃氐王の千萬は、おのおの部落の万余をもち、馬超に従って乱をなした。馬超が敗れた後、阿貴は夏侯淵に滅ぼされ、千万は南のかた蜀に入った。

淵 以為へらく、「遂の兵は精なり、興国の城は固し。攻めて卒かに抜く可からず。長離の諸羌を襲ふに如ず。長離の諸羌 多く遂の軍に在り。

『水経注』によると、瓦亭水は、南のかた隴西の成紀県を逕し、東して長離川を歴し、これを長離水という。焼当らの羌族がここに居した。

必ず帰りて其の家を救はん。若し羌を捨てて独り守らば則ち孤たり。長離を救はば則ち官兵 与に野戦することを得て、必ず虜とす可きなり」と。淵 乃ち督将を留めて輜重を守らしめ、自ら軽兵を将ゐて長離に到り、焼羌の屯を攻む。遂 果して長離を救ふ。
諸将 遂の兵衆を見て、営を結び塹を作りて乃ち戦はんと欲す。淵曰く、「我 転闘すること千里、今 復た営塹を作らば、則ち士衆 罷敝し、復た用ふ可からず。賊 衆しと雖も、与すること易きのみ」と。乃ち之を鼓し、大いに遂の軍を破る。進みて興国を囲む。氐王の千萬 馬超に奔り、余衆 悉く降る。転じて高平・屠各を撃ち、皆 之を破る。

三月、詔して魏公操の位を諸侯王の上に在らしめ、改めて金璽・赤紱・遠遊冠を授く。

建安十九(二一四)年夏

夏、四月、旱す。五月、雨水あり。

初め、魏公操 廬江太守の朱光をして皖に屯し、大いに稲田を開かしむ。呂蒙 孫権に言ひて曰く、「皖の田 肥美なり。若し一たび孰を収めば、彼の衆 必ず増ゆ。

稲が成熟してこれを収穫したら、食糧があるため兵員を増やす。

宜しく早く之を除くべし」と。
閏月、権 親ら皖城を攻む。諸将 土山を作り、攻具を添へんと欲す。呂蒙曰く、「攻具及び土山を治めば、必ず日を歴て乃ち成る。城の備 既に修め、外よりの救 必ず至り、図る可からざるなり。且つ吾 雨水に乗じて以て入らん。若し留まりて日を経れば、水 必ず向尽し、還道は艱難とならん。蒙 窃かに之を危ぶむ。今 此の城を観るに、甚だ固むること能はず。三軍の鋭気を以て、四面に並びに攻むれば、時を移さずして抜く可し。水に及びて以て帰るは、全勝の道なり」と。権 之に従ふ。
甘寧を薦めて升城督と為す。寧 手に練を持ち、身は城に縁り、士卒の先と為る。蒙 精鋭を以て之に継ぎ、手に枹鼓を執りて、士卒 皆 騰踴す。侵晨に進攻し、食時に之を破り、朱光及び男女の数萬口を獲ふ。既にして張遼 夾石に至り、城 已に抜かるるを聞き、乃ち退く。権 呂蒙を拝して廬江太守と為し、還りて尋陽に屯せしむ。

諸葛亮 関羽を留めて荊州を守らしめ、張飛・趙雲と兵を将ゐて流を溯りて巴東に克つ。江州に至り、巴郡太守の厳顔を破り、生きながらに之を獲ふ。飛 顔を呵して曰く、「大軍 既に至るに、何ぞ以て降らず、敢て拒戦せるや」と。顔曰く、「卿ら無況にして、我が州を侵奪す。我が州 但だ断頭将軍有るのみ、降将軍無きなり」と。飛 怒り、左右をして牽去し頭を斫らしむ。顔の容止 変ぜず、曰く、「頭を斫らば便ち頭を斫れ。何ぞ怒を為すや」と。飛 壮として之を釈き、引きて賓客と為す。分けて趙雲を遣はして外水より江陽・犍為を定めしめ、飛 巴西・徳陽を定む。

劉備 雒城を囲むこと且に一年、龐統 流矢の中たる所と為り、卒す。法正 箋もて劉璋に与へ、為に形勢の強弱を陳べ、且つ曰く、「左将軍 挙兵してより以来、旧心は依依とし、実に薄意無し。愚 以為へらく変化を図りて、以て尊門を保つ可し」と。璋 答へず。
雒城 潰え、備 進みて成都を囲む。諸葛亮・張飛・趙雲 兵を引きて来りて会す。馬超 張魯の与に計事するに足らざるを知り、又 魯の将の楊昂ら数〻其の能を害せられ、超 内に邑を懐く。備 建寧の督郵の李恢をして往きて之を説かしめ、超 遂に武都より逃げて氐中に入り、密かに書もて備に降らんことを請ふ。人をして超を止めしめ、而して潜かに兵を以て之を資く。超 到り、軍を引きて城北に屯せしむるや、城中 震怖す。
備 城を囲ふこと数十日、従事中郎たる涿郡の簡雍をして入りて劉璋を説かしむ。時に城中 尚ほ精兵は三萬人有り、穀帛は一年を支へ、吏民 鹹 死戦せんと欲す。璋言はく、「父子 州に在ること二十余年、恩徳 以て百姓に加ふること無し。百姓 攻戦すること三年、肌膏 草野にあるは、以て璋の故なり。何なる心にて能く安んぜんや」と。遂に開城し、簡雍と同輿して出でて降り、群下 流涕せざる莫し。備 璋を公安に遷し、尽く其の財物を帰し、振威将軍の印綬を佩かしむ。

備 成都に入り、置酒し、士卒を大饗す。蜀の城中の金銀を取り、分けて将士に賜ひ、其の穀帛を還す。備 益州牧を領す。
軍師中郎将の諸葛亮を以て軍師将軍と為し、益州太守たる南郡の董和を掌軍中郎将と為し、並びに左将軍府事を置く。偏将軍の馬超を平西将軍と為し、軍議校尉の法正を蜀郡太守・揚武将軍と為し、裨将軍たる南陽の黄忠を討虜将軍と為し、従事中郎の麋竺を安漢将軍と為し、簡雍を昭徳将軍と為し、北海の孫乾を秉忠将軍と為し、広漢長の黄権を偏将軍と為し、汝南の許靖を左将軍長史と為し、龐羲を司馬と為し、李厳を犍為太守と為し、費観を巴郡太守と為し、山陽の伊籍を従事中郎と為し、零陵の劉巴を西曹掾と為し、広漢の彭羕を益州治中従事と為す。

初め、董和 郡に在りて、清倹にして公直なり。民夷の愛信する所と為る。蜀中 推して循吏と為し、故に備 挙げて之を用ふ。
備の新野より江南に奔るや、荊楚の群士 之に従ふこと雲の如し。而るに劉巴のみ独り北のかた魏公操に詣る。操 辟して掾と為し、遣はして長沙・零陵・桂陽を招納せしむ。会々備 略して三郡を有ち、巴の事 成らず。交州の道より京師に還らんと欲す。時に諸葛亮 臨蒸に在り、書を以て之を招くも、巴 従はず、備 深く以て恨と為す。巴 遂に交趾より蜀に入り劉璋に依る。璋 備を迎ふるに及び、巴 諌めて曰く、「備は雄人なり。入らば必ず害を為さん」と。既に入り、巴 復た諌めて曰く、「若し備をして張魯を討たしまば、是れ虎を山林に放つなり」と。璋 聴かず、巴 門を閉じて疾と称す。備 成都を攻め、軍中に令して曰く、「巴を害する者有らば、誅は三族に及ぶ」と。巴を得るに及び、甚だ喜ぶ。
是の時、益州の郡県 皆 風に望みて景附するに、独り黄権のみ城を閉して堅守し、璋の稽服を須ちて、乃ち降る。
是に於て董和・黄権・李厳ら、本は璋の授用する所なり。呉懿・費観ら、璋の婚親なり。彭羕、璋の擯棄する所なり。劉巴、宿昔に忌恨する所なり。備 皆 之を顕任に処し、其の器能を尽くせしむ。有志の士、競勧せざる無し。益州の民、是を以て大いに和す。

初め、劉璋 許靖を以て蜀郡太守と為す。成都 将に潰えんとするに、靖 謀りて城を逾えて備に降る。備 此を以て靖を薄とし、用ひざるなり。法正曰く、「天下に虚誉を獲て其の実無き者有り、許靖 是なり。然るに今、主公 大業を始創す。天下の人、戸ごとに説く可からず。宜しく敬重を加へ、以て遠近の望を慰めよ」と。備 乃ち礼して之を用ふ。

成都の囲むや、備 士衆と約し、「若し事 定まらば、府庫の百物、孤 預ること無し」とす。成都を抜くに及び、士衆 皆 干戈を捨てて諸蔵に赴き、競ひて宝物を取る。軍用 足らず、備 甚だ之を憂ふ。劉巴曰く、「此れ易きのみ。但だ当に直百銭を鋳し、諸々の物価を平し、吏をして官市を為らしむべし」と。備 之に従ふ。数月の間、府庫 充実す。
時に議者 成都の名田宅を以て諸将に分賜せんと欲す。趙雲曰く、「霍去病 匈奴の未だ滅びざるを以て、家が為に用ふること無し。今 国賊 但だ匈奴のみに非ず、未だ安を求む可からず。天下 都〈みな〉定むるを須ち、各々桑梓に反し、

桑梓は、故郷で祖先が植えた樹木。故郷のこと。

帰りて本土を耕さば、乃ち其れ宜しきのみ。益州の人民、初めて兵革に罹れば、田宅 皆 帰還し、安居して復業せしむ可し。然る後に役調して、其の歓心を得可し。宜しく之を奪ひて以て私に愛しむ所とすべからず」と。備 之に従ふ。

備の劉璋を襲ふや、中郎将たる南郡の霍峻を留めて葭萌城を守らしむ。張魯 楊昂を遣はして峻を誘ひて共に城を守らんことを求む。峻曰く、「小人の頭 得可し。城 得可からず」と。昂 乃ち退く。後に璋の将たる扶禁・向存ら万余人を帥ゐて、閬水の上より峻を攻囲し、且に一年なり。峻 城中の兵 才かに数百人、其の怠隙を伺ひ、精鋭を選びて出撃し、大いに之を破り、存を斬る。備 既に蜀を定め、乃ち広漢を分けて梓潼郡と為し、峻を以て梓潼太守と為す。

法正 外に都畿を統べ、内に謀主と為り、一餐の徳・睚眥の怨あらば、報復せざる無し。擅ままに殺毀して傷己する者は数人なり。或ひと諸葛亮に謂ひて曰く、「法正 太だ縦横たり、将軍 宜しく主公に啓き、其の威福を抑へよ」と。亮曰く、「主公の公安に在るや、北は曹操の強を畏れ、東は孫権の逼に憚る。近くは則ち孫夫人の肘腋より変を生ずるを懼る。法孝直 之の輔翼と為り、翻然と翱翔せしむ。復た制す可からず。如何にして孝直を禁止し、少しく其の意を行ふを得ざらしめんや」と。

諸葛亮 備を佐けて蜀を治むるに、頗る厳峻を尚び、人 多く怨歎す。法正 亮に謂ひて曰く、「昔 高祖 関に入り、法三章を約し、秦の民 徳を知る。今 君 威力を假借し、一州に跨拠す。初めて其の国を有ち、未だ恵撫を垂れず。且つ客主の義、宜しく相ひ降下すべし。刑を緩め禁を弛めて以て其の望を慰めんことを願ふ」と。亮曰く、「君 其の一を知りて、未だ其の二を知らず。秦 無道を以て、政は苛にして民は怨む。匹夫 大呼せば、天下 土崩す。高祖 之に因り、弘済を以てす可し。劉璋 闇弱なり。焉より已来、累世の累有り。文法に羈縻し、互相に承奉す。徳政 挙げず、威刑 肅せず。蜀土の人土、権を専らにして自ら恣ままにし、君臣の道、漸く以て陵替す。之を寵するに位を以てせば、位 極むれば則ち賎なり。之に順ふに恩を以てせば、恩 竭かば則ち慢なり。致敝する所以は、実に此に由るなり。吾 今 之を威するに法を以てし、法 行はば則ち恩を知る。之を限るに爵を以てし、爵 加ふれば則ち栄を知る。栄・恩 並せて済さば、上下 節有り。為治の要、斯に著なり」と。

劉備 零陵の蔣琬を以て広都長と為す。備 嘗て因りて遊観し、奄に広都に至り、琬の衆事は治めず、時に又 沈酔するを見る。備 大怒し、将に罪戮を加へんとす。諸葛亮 請ひて曰く、「蔣琬は社稷の器にして、百里の才に非ざるなり。其の為政は以て民を安んずるを本と為し、以て修飾を先と為さず。願はくは主公、重く之に察を加へよ」と。備 雅〈はなは〉だ亮を敬へば、乃ち罪を加へず、倉卒に但だ免官するのみ。

建安十九(二一四)年秋

秋七月、魏公操 孫権を撃ち、少子の臨菑侯の植を留めて鄴を守らしむ。
操 諸子の為に官属を高選し、刑顒を以て植の家丞と為す。顒 防閑するに礼を以てし、屈撓する所無く、是に由り合せず。庶子の劉楨 文辞と美とし、植 之を親愛す。楨 書を以て植を諌めて曰く、「君侯 庶子の春華を采り、家丞の秋実を忘る。上の為に謗を招き、其の罪 小さからず。愚 実に懼る」と。

魏の尚書令の荀攸 卒す。攸 深密にして智防有り、自ら魏公操に従ひて攻討し、常に帷幄に謀謨し、時人及び子弟 其の言ふ所を知るもの莫し。操 嘗て称し、「荀文若の善を進むるは、進めずんば休めず。荀公達の悪を去るは、去らずんば止めず」とす。又 称し、「二荀令の人を論ずるは、久しく信を益し、吾 世に没するとも忘れず」とす。

建安十九(二一四)年冬

初め、枹罕の宋建 涼州に因りて乱し、自ら河首平漢王を号す。改元し、百官を置くこと、三十余年なり。冬十月、魏公操 夏侯淵をして興国より建を討たしむ。枹罕を囲み、之を抜き、建を斬る。淵 別に張郃らを遣はして渡河し、小湟中に入らしむ。河西の諸羌 皆 降り、隴右 平らぐ。

許に都してより以来、位を守るのみ。左右の侍衛 曹氏の人に非ざる莫し。議郎の趙彦 嘗て帝の為に時策を陳言す。魏公操 悪みて之を殺す。操 後に事を以て入りて殿中に見え、帝 其の懼に任ぜず、因りて曰く、「君 若し相輔する能はば、則ち厚せよ。爾らずんば、垂恩を幸として相ひ捨てよ」操 色を失ひ、俛仰して出でんことを求む。
旧儀に、三公 兵を領して朝見するに、虎賁をして刃を執りて之を挾ましむ。操 出で、左右を顧み、汗は流れて背に浹〈あまね〉し。自後、復た朝請せず。

董承の女 貴人と為り、操 承を誅するや、貴人 之を殺すことを求む。帝 貴人の妊有るを以て、累ねて請を為すも、得ること能はず。伏皇后 是に由りて懼を懐き、乃ち父の完に書を与へ、曹操の残逼の況を言ひ、密かに之を図らしめんとす。完 敢て発せず。是に至り、事 乃ち洩れ、操 大怒す。
十一月、御史大夫の郗慮をして持節して策して皇后の璽綬を収め、尚書令の華歆を以て副と為し、兵を勒して宮に入り、后を収めしむ。后 戸を閉ざし、壁中に蔵る。歆 戸を壊はして壁を発し、就ち后を牽き出す。
時に帝 外殿に在り、慮を坐に引く。后 被髪・徒跣にて行泣し、過訣して曰く、「復た相ひ活くること能はざるや」と。帝曰く、「我も亦 命の何時に在るやを知らず」と。慮を顧みて謂ひて曰く、「郗公、天下 寧んぞ是有らんや」と。遂に后を将て暴室に下し、以て幽死す。生む所の二皇子、皆 之を鴆殺し、兄弟及び宗族の死する者 百余人なり。

十二月、魏公操 孟津に至る。
尚書郎の高柔を以て理曹掾と為す。旧法に、軍征の士 亡〈に〉ぐれば、其の妻子を考竟す。而るに亡ぐる者 猶ほ息〈や〉まず。操 更めて其の刑を重くし、並せて父母・兄弟に及ぼさんと欲す。柔 啓して曰く、「士卒 軍を亡ぐるは、誠に疾とす可きに在り。然るに窃かに聞く、其の中に時に悔ゆる者有りと。愚 謂へらく乃ち宜しく其の妻子を貸し、一たび其の還心を誘はしめよ。正に如〈も〉し前に科さば、固より已に其の意望を絶つ。而るに猥りに復た之を重くせば、柔 恐るらく、自今 在軍の士、一人 亡逃するを見れば、誅 将に己に及ばんとし、亦 且つ相ひ随ひて走り、復た殺すを得可からざるなり。此れ刑を重くして以て亡ぐるを止むる所に非ず。乃ち以て走るを益す所なるのみ」と。操曰く、「善し」と。即ち止めて殺さず。161113

建安二十(二一五)年春

春正月甲子、貴人の曹氏を立てて皇后と為す。魏公操の女なり。
三月、魏公操 自ら将に張魯を撃たんとし、将に武都より氐に入るや、氐人 道を塞ぐ。張郃・朱霊らを遣はして之を攻破す。

建安二十(二一五)年夏

夏四月、操 陳倉より散関を出て河池に至る。氐王の竇茂 衆万余人にて険を恃みて服せず。五月、攻めて之を屠る。西平・金城の諸将たる麴演・蒋石ら共に韓遂の首を斬りて送る。

初め、劉備 荊州に在り、周瑜・甘寧ら数々孫権に蜀を取ることを勧む。権 使を遣はして備に謂ひて曰く、「劉璋 武ならず、能く自守せず。若使〈もし〉曹操 蜀を得れば、則ち荊州 危し。今 先に攻めて璋を取り、次に張魯を取らんと欲す。南方を一統せば、十操有ると雖も、憂ふ所無し」と。
備 報いて曰く、「益州 民は富み地は険し。劉璋 弱しと雖も、以て自守するに足る。今 師を於蜀・漢に暴し、万里を転運し、戦克して攻取せしめんと欲せば、挙げて利を失はず。此れ孫・呉の難とする所なり。議者 見るらく曹操 利を赤壁に失ひ、其の力は屈し、復た遠念無しと謂ふ。

ここで逆接の接続詞がほしい。

今 操 天下を三分して已に其の二を有ち、将に馬を滄海に飲し、兵を呉会に観んと欲す。何ぞ此の坐を守りて老を須つことを肯ぜんや。而るに同盟するとも故無く自ら相ひ攻伐せば、枢を操に借すなり。敵をして其の隙に乗ぜしむは、長計に非ざるなり。且つ備と璋とは宗室たることに託し、威霊に憑きて以て漢朝を匡けんことを冀ふ。今 璋 罪を左右に得て、備 独り悚懼し、敢て聞く所に非ず。寛貸を加へんことを願ふ」と。
権 聴かず、孫瑜を遣はして水軍を率ゐて夏口に往かしむ。備 軍の過ぐるを聴さず、瑜に謂ひて曰く、「汝 蜀を取らんと欲さば、吾 当に被髪して入山すべし。信を天下に失はざるなり」と。関羽をして江陵に屯せしめ、張飛を秭帰に屯せしむ。諸葛亮 南郡に拠り、備 自ら孱陵に住む。権 已むを得ずして瑜を召して還す。
備 西のかた劉璋を攻むるに及び、権曰く、「猾虜。乃ち敢て詐を挟むこと此の如きか」と。備 関羽を留めて江陵を守らしめ、魯粛と羽と界を鄰す。羽 数々疑弐を生ずるとも、粛 常に歓好を以て之を撫す。

「初め」が、ここまで掛かる。以後、当年(二一五年)の話。


備 已に益州を得るに及び、権 中司馬の諸葛瑾をして備より荊州の諸郡を求めしむ。備 許さず、曰く、「吾 方に涼州を図る。涼州 定めば、乃ち尽く荊州を以て相ひ与へん」と。権曰く、「此れ仮りて反さず。乃ち虚辞を以て歳を引かんと欲するなり」と。遂に長沙・零陵・桂陽の三郡の長吏を置く。関羽 尽く之を逐ふ。
権 大怒し、呂蒙を遣はして兵二万を督して以て三郡を取らしむ。蒙 書を長沙・桂陽に移すや、皆 望風して帰服し、惟だ零陵太守の郝普のみ城守して降らず。
劉備 之を聞き、蜀より親ら公安に至り、関羽を遣はして三郡を争はしむ。孫権 進みて陸口に住まり、諸軍の節度を為す。魯粛をして万人を将ゐて益陽に屯し以て羽を拒む。飛書もて呂蒙を召し、零陵を捨てて急ぎ還りて粛を助けしむ。

蒙 書を得るや、之を秘す。夜、諸将を召して以て方略を授く。晨、零陵を攻むるに当たり、顧みて郝普の故人たる南陽の鄧玄之に謂ひて曰く、
「郝子太 世間に忠義の事有るを聞き、亦 之を為さんと欲す。而るに時を知らざるなり。今 左将軍 漢中に在りて夏侯淵の囲む所と為る。関羽 南郡に在り、至尊 身づから自ら之に臨む。彼方の首尾は倒懸し、死を救ひて給せず。豈に余力有りて復た此に営するや。今 吾 力を計りて慮を度りて以て此を攻むれば、曾に日を移さずして城 必ず破らん。城 破るるの後、身は死するは、何ぞ事に益するや。而して百歳の老母をして戴白にて誅を受けしむるは、豈に痛ましからざるや。此の家〈郝普〉外に問ふを得ざることを度し、援 恃む可しと謂ひ、故に此に至るのみ。君 之と見る可し。為に禍福を陳べよ」と。
玄之 普に見え、具さに蒙の意を宣ぶ。普 懼れて出でて降る。蒙 迎へ、其の手を執りて俱に船に下る。語 畢はり、書を出して之を示し、因りて手を拊ちて大笑す。普 書を見て、備 公安に在りて羽 益陽に在るを知り、慚恨 地に入る。蒙 孫河を留め、以て後事を委ね、即日、軍を引きて益陽に赴く。

魯粛 関羽と会語せんと欲す。諸将 疑ひて変有るを恐れ、往く可からずと議す。粛曰く、「今日の事、宜しく相ひ開譬すべし。劉備 国を負かせ、是非 未だ決せず。羽も亦た何ぞ敢て重ねて命を干さんと欲するや」と。乃ち羽に邀ひて相ひ見え、各々兵馬を百歩の上に駐む。但だ諸々に軍を将ゐて単刀もて俱に会す。
粛 因りて数々羽の三郡を返さざるを以て責む。羽曰く、「烏林の役、左将軍 身は行間に在り、力を戮して敵を破る。豈に徒労を得て、一塊土も無きや。而るに足下 来りて地を収めんと欲するや」と。
粛曰く、「然らず。始め豫州と長阪に覲し、豫州の衆 一校にも当らず、計は窮まりて慮は極まれり。志勢は摧弱にして、図りて遠竄せんと欲す。望 此に及ばず。主上 豫州の身 処す所有る無きを矜愍し、土地・士民の力を愛せず、庇廕して以て其の患を済ふ所を有たしむ。而るに豫州 私かに独り情を飾り、徳を愆し好を墮つ。今 已に西州を藉手し、又 荊州の土を翦並せんと欲するは、斯れ蓋し凡夫の行ふに忍びざる所なり。況んや人物を整領するの主をや」と。羽 以て答ふる無し。

会々魏公操 将に漢中を攻めんとするを聞き、劉備 益州を失ふことを懼れ、使をして和を権に求めしむ。権 諸葛瑾をして命を報ぜしめ、更めて尋いで盟好す。遂に荊州を分かち、湘水を以て界と為す。長沙・江夏・桂陽より以東は権に属す。南郡・零陵・武陵より以西は備に属す。
諸葛瑾 毎に使を奉じて蜀に至る。其の弟の亮 但だ公会に相ひ見るのみ、退きて私に面すること無し。

建安二十(二一五)年秋

秋七月、魏公操 陽平に至る。張魯 漢中を挙げて降らんと欲す。其の弟の衛 肯ぜず、衆数万人を率ゐて関を拒して堅守し、山を横して築城すること十余里なり。
初め、操 涼州従事及び武都の降人の辞を承け、「張魯 攻め易し。陽平の城下 南北の山 相ひ遠く、守る可からざるなり」と説く。信じて以て然りと為す。往きて臨履するに及び、聞く所の如くあらず、乃ち歎じて曰く、「他人の商度、少しく人意が如し」と。
陽平山上の諸屯を攻むるに、山は峻にして登り難し。既に時に抜かず、士卒の傷夷する者多く、軍食 且に尽く。操の意は沮にして、便ち軍を抜き山を截りて還らんと欲し、大将軍の夏侯惇・将軍の許褚を遣はして山上の兵を呼びて還る。会々前軍 夜に迷ひ惑ひ、誤りて張衛の別営に入る。営中 大いに驚きて退散す。侍中の辛毗・主簿の劉曄ら兵の後ろに在り、惇・褚に語りて言はく、「官兵 已に拠りて賊の要屯を得て、賊 已に散走す」と。猶ほ之を信ぜず。惇 前みて自ら見て、乃ち還りて操に白す。兵を進めて衛を攻め、衛ら夜に遁ぐ。
張魯 陽平の已に陥つると聞き、降らんと欲す。閻圃曰く、「今 迫らるを以て往かば、功 必ず軽し。如かず、杜濩に依り樸胡に赴き、与に相ひ拒むに。然る後、委質せば、功 必ず多し」と。乃ち南山に奔りて巴中に入る。左右 悉く宝貨・倉庫を焼かんと欲す。魯曰く、「本に国家に帰命せんと欲し、而るに意 未だ達することを得ず。今の走りて鋭鋒を避くるは、悪意有るに非ず。宝貨・倉庫、国家の有なり」と。遂に蔵を封じて去る。操 南鄭に入り、甚だ之を嘉す。又 魯の本に善意有るを以て、人を遣はして之を慰喩す。

丞相主簿の司馬懿 操に言ひて曰く、「劉備 詐力を以て劉璋を虜とす。蜀人 未だ附せず。而るに遠く江陵に争ふ。此の機 失す可からず。今 漢中に克ち、益州 震動す。兵を進めて之に臨まば、勢 必ず瓦解す。聖人 時に違ふ能はず。亦た時を失す可からず」と。操曰く、「人 足ること無きに苦しむ。既に隴を得て、復た蜀を望まんや」と。
劉曄曰く、「劉備は人傑なり。度有りて遅る。蜀を得て日は浅く、蜀人 未だ恃まず。今 漢中を破り、蜀人 震恐し、其の勢 自ら傾く。公の神明を以て、其の傾きて之に壓くるに因らば、克たざる無し。若し少しく之を緩ぶらば、諸葛亮明 治国にて相と為り、関羽・張飛 勇は三軍に冠たりて将と為る。蜀の民 既に定まり、険に拠りて要を守らば、則ち犯す可からず。今 取らずんば、必ず後憂と為らん」と。操 従はず。居ること七日、蜀の降者 説くらく、「蜀中 一日に数十たび驚く。守将 之を斬ると雖も不く安んぜず」と。操 曄に問ひて曰く、「今 尚ほ撃つ可きや不〈いな〉や」と。曄曰く、「今 已に小しく定む。未だ撃つ可からず」と。乃ち還る。
夏侯淵を以て都護将軍と為し、張郃・徐晃らを督して漢中を守らしむ。丞相長史の杜襲を以て駙馬都尉と為し、留めて漢中事を督せしむ。襲 綏懐して開導し、百姓 自ら楽しみて出でて洛・鄴に徙る者は、八万余口なり。

八月、孫権 衆十万を率ゐて合肥を囲む。時に張遼・李典・楽進 七千余人を将ゐて合肥に屯す。
魏公操の張魯を征するや、教を為りて合肥護軍の薛悌に与へ、函邊に署して曰く、「賊 至らば、乃ち発せ」と。権 至るに及び、教を発す。教に曰く、「若し孫権 至らば、張・李将軍 出でて戦ひ、楽将軍 守れ。護軍 得て与に戦ふ勿かれ」と。諸将 衆寡 敵せずを以て、之を疑ふ。
張遼曰く、「公 遠征して外に在り、救ひ至る比〈ころ〉、彼 我を破ること必なり。是を以て教指すらく、其の未だ合せざるに及びて之を逆撃せよと。其の盛勢を折り、以て衆心を安んじ、然る後、守る可きなり」と。進ら対ふること莫し。遼 怒りて曰く、「成敗の機、此の一戦に在り。諸君 若し疑はば、遼 将に独り之を決せん」と。李典 素より遼と睦からず、慨然と曰く、「此れ国家の大事なり。君の計を顧るに、何如や。吾 私憾を以て公義を忘る可きか。君に従ひて出でんことを請ふ」と。

是に於て遼 夜に敢従の士を募り、八百人を得たり。牛を椎して犒饗す。明旦、遼 甲を被て戟を持ち、先登して陥陣し、数十人を殺し、二大将を斬る。自名を大呼し、塁を衝き入りて権の麾下に至る。権 大いに驚き、為す所を知らず。走りて高塚に登り、長戟を以て自守す。遼 権に下りて戦へと叱るも、権 敢て動かず。望見するに遼の将ゐる所の衆は少なし。乃ち聚りて遼を囲ふこと数重。遼 急ぎ囲を撃ちて開き、麾下の数十人を将ゐて出るを得たり。余衆 号呼して曰く、「将軍 我を棄つるや」と。遼 復た還りて囲を突き、抜きて余衆を出す。権の人馬 皆 披靡し、敢て当たる者無し。旦より戦ひて日中に至り、呉人 気を奪はる。乃ち還りて守備を修め、衆心 遂に安ず。
権 合肥を守ること十余日。城 抜く可からず。軍を徹して還る。
兵 皆 路に就き、権と諸将 逍遙津の北に在り。張遼 覘望して之を知る。即ち歩騎を将ゐて奄かに至る。甘寧と呂蒙ら力戦して敵を扞ぐ。凌統 親近を率ゐて権を扶けて囲より出し、復た還りて遼と戦ふ。左右 尽く死し、身に亦た創を被く。権 已に免かるを度し、乃ち還る。権 駿馬に乗り津橋を上る。橋の面 已に徹せられ、丈余 版無し。親近監の谷利 馬後に在り、権をして鞍を持し控を緩めしむ。利 後ろにて鞭を著きて以て馬勢を助け、遂に超度するを得たり。
賀斉 三千人を率ゐて津の南に在りて権を迎ふ。権 是に由り免かるを得たり。権 大船に入りて宴飲し、賀斉 席を下りて涕泣して曰く、「至尊は人主なり。常に当に持重すべし。今日の事、幾〈あや〉ふく禍敗に致る。群下 震怖し、天地無きが若し。願はくは此を以て終身の誡と為せ」と。権 自ら前みて其の涙を収めて曰く、「大いに慚じて謹みて已に心に刻む。但だ書紳のみに非ず」と。

九月、巴・賨の夷帥たる樸胡・杜濩・任約、各 其の衆を挙げて来附す。是に於て巴郡を分く。胡を以て巴東太守と為し、濩を巴西太守と為し、約を巴郡太守と為し、皆 列侯に封ず。

建安二十(二一五)年冬

冬、十月、始めて名号侯を置き、以て軍功を賞す。
十一月、張魯 家属を将ゐて出降す。魏公操 逆へて魯を鎮南将軍に拝し、客礼を以て待し、閬中侯に封じ、邑は万戸なり。魯の五子及び閻圃らを封じて皆 列侯と為す。

習鑿歯 論に曰く、「閻圃 魯を王たる勿かれと諌め、而して曹公 追ひて之を封ず。将来の人、孰れか思順せざる。其の本源を塞がば、末流 自ら止む。其れ此の謂ひか。若し乃ち此に明るからず、而して焦爛の功を重ぬれば、爵を豊かにし賞を厚するは死戦の士に止まり、則ち民は有乱に利し、俗に殺伐を競ひ、兵を阻みて力に杖り、干戈 戢まず。曹公の此の封、賞罰の本を知ると謂ふ可きなり。

程銀・侯選・龐徳 皆 魯に随ひて降る。魏公操 銀・選の官爵を復す。徳を拝して立義将軍とす。

張魯の巴中に走るや、黄権 劉備に言ひて曰く、「若し漢中を失はば、則ち三巴 振はず。此れ蜀の股臂を割くと為るなり」と。備 乃ち権を以て護軍と為し、諸将を率ゐて魯を迎へしむ。魯 已に降り、権 遂に樸胡・杜濩・任約を撃ちて、之を破る。魏公操 張郃をして諸軍を督して三巴を徇へしむ。其の民を漢中に徙さんと欲し、軍を宕渠に進む。劉備 巴西太守の張飛をして郃と相ひ拒せしむ。五十余日、飛 郃を襲撃し、大いに之を破る。郃 走りて南鄭に還り、備も亦た成都に還る。

操 徙して故の韓遂・馬超らの兵 五千余人を出し、平難将軍の殷署らをして督領せしめ、扶風太守の趙儼を以て関中護軍と為す。操 儼をして千二百の兵を発して漢中の守禦を助けしむ。殷署 督して之を送る。行く者 楽しまず。儼 護送して斜谷口に至り、還る。未だ営に至らざるに、署の軍 叛乱す。儼 自ら歩騎百五十人を随ふるに、皆 叛者の親党なり。
之を聞き、各々驚き、甲を被て兵を持し、復た自ら安ぜず。儼 徐ろに成敗を以て諭し、慰勵すること懇切たり。皆 慷慨として曰く、「死生 当に護軍に随ぶべし。敢て二有らざらん」と。前みて諸営に到る。各々料簡を召す。
諸奸 結叛する者は八百余人、散りて原野に在り。儼 令を下して惟だ其の謀を造りて魁率せしものを取りて之を治め、余は一も問はず。郡県 収送する所は皆 放遣す。乃ち即ち相ひ率ゐて還降す。儼 密かに白す、「宜しく将を遣はして大営に詣らしめ、旧兵もて関中を鎮守せんことを請へ」と。

魏公操 将軍の劉柱を遣はして二千人を将ゐて往かしめ、当に到るを須ちて乃ち発遣すべしとす。俄かにして事 露はれ、諸営 大いに駭き、安諭す可からず。儼 遂に宣言し、「当に新兵の温厚なる者千人を差留し、関中を鎮守せしめ、其の余 悉く東〈の魏公の営〉に遣はすべし」と。
便ち見る、〈兵籍を〉主〈つかさど〉る者 諸営の兵の名籍を内〈をさ〉め、立ちて人を差別す。留まる者 意は定まり、儼と心を同じうす。其の当に去るべき者 亦た敢て動ぜず。儼 一日に尽く上道を遣はし、因りて留まる所の千人をして分布して之を落に羅せしむ。

行く者のあいだに分布させ、羅列させて、落下しそうな場所で遮らせた。

東兵〈劉柱の将ゐる所の兵〉 尋いで至り、乃ち復た脅諭す。并せて千人を徙し、相ひ及び共に東せしむ。凡そ全うする所 二万余口に致る。

建安二十一(二一六)年 春・夏

春二月、魏公操 鄴に還る。
夏五月、魏公操の爵を進めて王と為す。

初め、中尉の崔琰 鉅鹿の楊訓を操に薦め、操 礼もて之を辟す。操 爵を進むるに及び、訓 発表して功徳を称頌す。或ひと訓の希世の浮偽を笑ひ、琰 挙ぐる所を失すと為すと謂ふ。琰 訓より表草を取りて之を視る。訓に書を与へて曰く、「表を省るに、事 佳のみ。時や、時や。会々当に変時を有すべし」と。琰の本意 譏論する者 譴呵を好みて情理を尋ねざるなり。
時に琰に不平を宿する者有り、琰を白して「傲世の怨謗、意 不遜を指す」と。操 怒り、琰を収めて獄に付す。髡して徒隸と為す。前に琰に白す者 復た之を白して云く、「琰 徒と為り、賓客に対ひて虯鬚にて直視し、瞋する所有るが若し」と。遂に 琰に死を賜はる。

尚書僕射の毛玠 琰の無辜なるを傷み、心は悦ばず。人 復た玠の怨謗を白し、操 玠を収めて獄に付す。
侍中の桓階・和洽 皆 之が為に理を陳ぶるも、操 聴かず。階 其の事を案実せんことを求む。王曰く、「言事する者は白す、玠 但だ吾を謗るのみにあらず。乃ち復た崔琰の為に觖望すと。此れ君臣の恩義を捐て、妄りに死せる友の為に怨歎するなり。殆ど忍ぶ可からず」と。
洽曰く、「言事する者の言ふが如くんば、玠の罪過は深重なり。天地の覆載する所に非ず。臣 敢て理を曲げ、玠 以て大倫を枉ぐること非ず。玠 歴年に寵を荷ふを以て、剛直にして公に忠たり。衆の憚る所と為り、宜しく此有るべからず。然るに人情 保ち難し。要して宜しく玠を考し、両に其の実を験ずべし。今 聖恩 之を理に致すに忍びず。更めて曲直の分不明をせしむべし」と。

原文は、「更使曲直之分不明」。よくわからず。

操曰く、「考せざる所以は、両に玠及び言事する者を全うせしめんと欲せざるのみ」と。洽 対へて曰く、「玠の信 謗主の言に有り。当に之を市朝に肆すべし。若し玠 此の言無くば、言事する者 誣を大臣に加へて以て主聴を誤らしむ。検覈を加へざれば、臣 窃かに安ぜず」と。
操 卒かに窮治せず、玠 遂に免黜せられ、家に終はる。

是の時、西曹掾たる沛国の丁儀 用事す。玠の罪を獲るや、儀 力を有す。群下 之を畏れて目を側す。
尚書僕射の何夔及び東曹属たる東莞の徐弈 独り儀に事へず。儀 弈を譖り、出でて魏郡太守と為らる。桓階の左右 免かるを得んことに頼む。

原文「頼桓階左右之得免」。

尚書の傅選 何夔に謂ひて曰く、「儀 已に毛玠を害す。子 宜しく少しく之に下れ」と。夔曰く、「不義を為し、適に其の身を害するに足る。焉〈いづくん〉ぞ能く人を害せんや。且つ奸佞の心を懐き、明朝に立たば、其れ久しきを得んや」と。
崔琰の従弟の林は、嘗て陳羣と共に冀州人士を論じ、琰を称へて首と為す。羣 智を以て身を存せざれば、之を貶しむ。林曰く、「大丈夫 邂逅有ると為すのみ。即ち卿が如き諸人、良に貴ぶに足るや」と。
五月己亥朔、日の之を食する有り。

代郡の烏桓 三大人 皆 単于を称す。力に恃みて驕恣たり。太守 能く治めず。魏王操 丞相倉曹属の裴潜を以て太守と為し、精兵を以て授けんと欲す。潜曰く、「単于 自ら放横を知りて日は久し。今 多き将兵 往かば、必ず懼れて境を拒む。少なき将ならば則ち憚られず。宜しく計謀を以て之を図れ」と。遂に単車にて郡に之〈ゆ〉く。単于 驚き喜ぶ。潜 恩威を以て撫し、単于 讋服す。

建安二十一(二一六)年 秋・冬

初め、南匈奴 久しく塞内に居し、編戸と大同して貢賦を輸せず。議者 恐るらく、其の戸口 滋く蔓し、浸して禁制し難きを。宜しく為の防を豫すべし。
秋七月、南単于の呼廚泉 魏に入朝す。魏王操 因りて之を鄴に留め、右賢王の去卑をして其の国を監せしむ。単于 歳ごとに綿・絹・銭・穀を給すること列侯の如し。子孫 其の号を伝襲す。其の衆を分けて五部と為す。各々其の貴人を立てて帥と為す。漢人を選びて司馬と為し、以て之を監督す。

八月、魏 大理の鍾繇を以て相国と為す。
冬十月、魏王操 兵を治め孫権を撃つ。十一月、譙に至る。161114

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