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津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」より

津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』第84巻 第4号 2003)を読みました。タイトルから、三少帝紀の話かと思ったら、曹操・曹丕の時代から、すでに「衰亡」期として扱われていました。
結論が書かれた「おわりに」から抜粋を始めます。

おわりに

陳寿は、恣意的な史料操作をくわえた。「論文」である『魏志』に、都合のよい史料だけを、偏って採録した。『魏志』で曹魏の衰亡をあとづけた。その原因は、
・「後嗣争い」に端を発した、曹植ら至親諸王の抑圧
・皇帝の寵愛による「妾」の皇后冊立
・外戚の政治的重用

この教訓から、陳寿は、西晋に「至親輔翼体制」をもとめている。
『魏志』がつくられた太康初期の、斉王の司馬攸の帰藩・後嗣を左右しうる胡貴嬪の存在・外戚楊氏の台頭。これらの反面教師にするために、『魏志』を書いた。

つまり『魏志』に見える魏の短所は、顕在的・潜在的な西晋初期の短所である。サイエンスとしての歴史学で、魏の滅亡の原因を探るのは、陳寿の問題感心ではない。いま見える西晋の短所と同じ理由によって、魏は滅亡したんですよ、とこじつけたと。すると、魏の滅亡の原因は、『魏志』を見ても、うまく抽出できないことになり、ぼくにとって新しい問題がひろがる。


はじめに

『三国志』は、魏蜀正閏論(本田済・雷家キ)、司馬氏への配慮(趙翼『廿二史箚記』巻六)がいわれた。しかし西晋の政治との関わりは、あまり論じられなかった(白寿彝『中国史学史論集』)。

本田済は入手済。つぎやります。『廿二史箚記』は和刻本を見ながら訳したい。むじんさんの仕事と、あと少しがネットに上がってるみたいです。白寿彝は、いま注文しました。

前近代の史書とは、当代的な政治意識にもとづいた「論文」である。『史記』巻百三十 太史公序に、『春秋』をつくった孔子の言として、史書は政治意識の代弁だとある。
三国~西晋は、漢代の「母の原理」による外戚輔政から、不敬優先の親族観念による宗室輔翼に移行したときで(下倉渉「漢代の母と子」『東北大学東洋史論集』八 2001)、宗室封建制が議論されるとき。
曹丕・曹植の「後嗣争い」と、至親諸王の抑圧が、曹魏帝室を衰亡させたというのが、陳寿の叙述の特徴である。

曹丕・曹植の「後嗣争い」

◆曹丕は曹植を虐げていない
黄初二年、監国謁者の灌均によって曹植が弾劾された。『魏志』巻二十九 方技 周宣伝で、曹丕は曹植に殺意を持っていた。『魏志』巻二十 武文世王公伝の評に、曹丕は潜在的なライバルである至親諸王を弾圧したとある。
『魏志』巻十九 曹植伝で、曹植が太和五年(232) から翌年まで、上京して訴えた試用がなされず絶望し、徙封に鬱屈して死んだとする。曹植伝は、待遇改善を訴える上疏で締め括られ、藩国の弾圧を印象づける。
曹植の上疏に対する曹叡の「優詔」を、ほぼ陳寿が載せない。曹叡が諸王の通交を許した詔も、『魏志』巻二十の評に「禁防壅隔、同於囹圄」とあるから、実態がなかったように見える。
至親諸王を弾圧するから、司馬氏が台頭したように見える。

陳寿が採用しない史料は、兄弟関係が悪くない。
『魏志』巻十三 鍾繇伝にひく『魏略』には、曹丕が曹植のルートから、鍾繇に玉玦をねだる。
もしも敵意があるなら、曹丕は曹植に、楽陵王の曹茂と同じく、差別待遇を与えたはず。だが、弾劾しても翌黄初三年には諸弟なみに王にした。曹植の子である、曹苗を高陽郷公、曹志を穆郷公に封じた(『芸文類聚』巻五十一 親戚封の条 曹植「封二子為公謝恩章」)。
たしかに黄初三年、曹植は県王の県城王、ほかの諸弟は郡王。しかし黄初四年に(曹植を除けば唯一の同母弟である)曹彰が死ぬと、黄初五年、異母弟たちは県王になる。郡王は曹叡だけとなる。曹植だけが虐げられたのではない。

曹植は、黄初二年に灌均に弾劾された。それまでの一万戸は別として、鄄城王(邑2500戸)→雍丘王(増戸500戸により3000戸)→浚儀王→雍丘王→東阿王→陳王(邑3500戸)となる。戸数は増えており、曹植伝「徙封を恨んで死んだ」と合わない。
曹植の不遇は、太和三年(229) ごろ書かれた曹植「遷都賦」(『太平御覧』巻百九十八 叙封建の条)にもとづいて書かれた可能性がたかい。
曹植『遷都賦』曰:余初封平原,轉出臨淄,中命鄄城,遂徙雍邱,改邑浚儀,而末將適於東阿。號則六易,居實三遷,連遇瘠土,衣食不継

◆諸王の待遇は改善されていた
国政に発言できなかった文帝期はともかく、
明帝の太和五年(231) に「上疏陳審挙之義」を上奏すると、明帝から同意を与えられ(『文館詞林』巻六百六十四)を得て、官職を得ないが、(辺境に関する)軍国について意見できる立場になった。
梁商鉅『三国志旁証』巻十四 曹植伝「帝輒優文答報」条が指摘するように、明帝「答東阿王論辺事詔」に見える「何乃謙卑、自同三監」という言葉は、曹植の「上疏陳審挙之義」に見える「三監之□、臣自当之」に対応する。曹植にこたえたもの。曹植は、翌太和六年ごろ「諌伐遼東表」(『芸文類聚』巻二十四 諌の条)を上表した。これらは、趙幼文校注『曹植集校注』(人民文学出版社 1984)に詳しい。
曹植は、封邑は増え、発言ができ、失意で死んだはずがない。

太和五年(231) 前後に、曹植が藩国の待遇改善を訴えると、翌年二月、県王から郡王に一斉に進む(明帝紀)。
正始四年(243) 曹冏「六代論」(『魏志』巻二十 末尾にひく『魏氏春秋』および『文選』巻五十二)によると、宗室の政治参加が主張される。しかし、抑圧は問題にされていない。
嘉平元年(249) 王淩が楚王の曹彪を擁立しようとした。このとき監国謁者は、曹彪が外部と連絡することを摘発せず、「事情を知ってたくせに、ちゃんと導かなかった」から誅された。監国謁者が名目的な存在だった。
陳寿は、諸王の抑圧を強調しすぎ。

裴松之が『魏志』巻二十の評に、『袁子』をひき、陳寿の「抑圧した」という印象を強める。しかし『群書治要』巻五十 『袁子正論』経国篇によれば、曹魏を通じた抑圧策のことを言ったのではない。「一城の田も無し」とあるから、太和六年二月(県王が郡王に上がる)以前に書かれたもの。つまり、曹植の訴えを曹叡が聞き届ける前のことを、『袁子』は言っただけ。これを「評曰」に注釈するから、曹魏を通じて、抑圧されたように見えるだけ。

◆曹操は後継者に悩んでいない
建安十六年(211) 曹丕の諸弟が封建されたが(武帝紀)曹丕は、丞相の副となる。『太平御覧』巻二百四十一 五官中郎将の条「魏武令」には、
『魏氏令』曰:告子文:汝等悉為侯,而子桓獨不封,而為五官郎將,此是太子可知矣。
とある。曹操は曹丕を「太子」にするから、封建しなかった。厳可均『全三国文』巻二や、『曹操集』(中華書局 1959)49頁には、この佚文を「立太子令」とする。『曹操集』は建安二十二年に繋年するが、6年前の五官中郎将のことを遡って説明するとは思えない。建安十六年に出されただろう。

『初学記』巻十 皇太子「東閣」条の『魏文帝集』によれば、
『魏文帝集』曰:為太子時,北園及東閣講堂,並賦詩。命王粲、劉楨、阮瑀、應瑒等同作。とあるが、
阮瑀は建安十七年に没した。建安二十二年に立太子よりも前のこと。「為太子時」は、建安十六年の丞相の副のことだろう。易健賢訳注『魏文帝集全訳』では、「為太子時」をあとで追加されたと見て、おかしさを解消しようとする。

後嗣争いは、曹植伝で「丁儀・丁廙・楊脩らが羽翼となる」とあり、『魏志』巻十 賈詡伝に「党与あり」とあるから、長期にわたって争ったように見える。しかし、争いの史料で、曹丕は五官中郎将で、曹植は臨菑侯(建安十九年に封ず)と書かれるから、正式に立太子される建安二十二年まで、数年間のこと。

ほんとうにそうでしょうか?曹植が登場人物のとき、なりゆきで呼称を「臨菑侯」に統一しているのでは?

曹植伝にひく『魏略』によると、曹操の娘「公主」を丁儀に嫁がせることを、曹丕が妨害する。建安二十一年に曹操が魏王となり、娘を公主とするから、建安二十一年以降、立太子の建安二十二年までのこと。きわめて短期間。

なんか、ムリがあるような……

『魏志』巻二十一 王粲伝にひく『魏略』に、「時に世子いまだ立たず、太祖にわかに植に意あり」と、突然、後嗣問題が起きたように書かれる。曹丕が実質的な太子で決まりだったが、正式に立てられていなかっただけ。陳寿は、『魏志』巻十二 毛玠伝に「ときに太子いまだ立たず」と、最初から曹操が狐疑していたように描いた。
兄弟の不和は、私撰された魚豢『魏略』にみえるが、国史たる王沈『魏書』では、曹丕は寛大である。魚豢なりに取材して不和を見出した(津田資久「『魏略』の基礎的研究」(『史朋』第三十一号 1998)

名大図書館にあったのにコピってなかった。

陳寿は、底本とした国史『魏書』よりも、あえて異なる『魏略』を用いた。

『魏志』巻二十三 楊俊伝のように、諸官署に曹操が「密訪」して、密奏・密議として朝臣の意見をあつめた。しかし、曹植を推した丁儀は、立太子後すぐに処罰され(曹植伝にひく『魏略』)、曹植をおした邯鄲淳(巻二十一 王粲伝にひく『魏略』)は曹丕の不興をかい、同じく楊俊は恨まれた(巻二十三 楊俊伝)。密奏にもかかわらず、曹丕にツツヌケ。
『魏志』巻十 賈詡伝にひく『魏略』によると、曹丕は推してくれた賈詡を三公にした。
曹操と曹丕が共謀して「後嗣争い」を展開し、魏王朝の成立を視野にいれ、政権内の異分子排除をめざした。??
ゆえに「旧臣」でない賈詡は、新潮に曹丕を支持した。袁紹の故吏であり、曹植の「兄女婿」である崔琰は、ひとり露板して答えなければならなかった。

◆嫡庶の別による長子相続
陳寿が、事実とは乖離する後嗣争い・諸王の抑圧を描いたのは、なぜか。「嫡庶の別」による長子相続の必要性を明示するため。
『魏志』巻十 賈詡伝、巻十二 崔琰・毛玠・邢顒伝、巻二十二 桓階・衛臻伝でくりかえす。袁紹・劉表(巻六の評)・孫権(巻四十七の評)のもとの混乱を、「嫡庶の別」に求めた文章がおおく採用される。

『魏志』巻二 評の末尾で、曹丕を陰険・非寛容といい、反面教師的な帝王とする。巻十九 評では、曹植の軽率と、曹植を許せなかった曹丕の非寛容がいわれる。
曹植が「上疏陳審挙之義」で「周公之親」に輔政させよと訴えた。『魏志』巻二十五 高堂隆伝にある上疏、これにふす桟潜伝にある上疏でも、「異姓」の権臣を防ぐため、至親を信頼せよという。この議論を好んで採用するのが、陳寿の政治意識の反映。

後宮秩序と外戚輔政

『魏志』巻五には、唯一の伝序がある。『漢書』巻七十二 貢禹伝・『後漢書』巻六十一 周挙伝に拠りながら、後宮の秩序をいう。皇太后の臨朝がなかった曹魏を、陳寿はほめる。

陳寿は、陳羣・桟潜の議論を「百王之規典」という。
陳羣は、婦人の実家には、列侯・官職を与えるなという。注引『魏略』では、卞氏が弟の卞秉の昇進を求めたが、曹操が応じなかった。陳羣は曹丕に、同じようにせよと求めた。曹丕は賛同して、文帝紀 黄初三年九月、皇太后の臨朝称制・外戚の輔政と封建を禁ずる。
黄初三年の立后問題は、下倉渉「散騎省の成立―曹魏・西晋における外戚について―」(『歴史』86 1996)に詳しい。
しかし曹叡が太和元年(227) 毛皇后を冊立して、父を列侯にする。太和五年、「母后摂政」を想定する。曹操・曹丕の方針は破られる。『魏志』本紀は、太后の臨朝称制によって、曹魏が衰亡するというテーマが、陳寿にありそう。

桟潜は、文徳郭皇后伝で、曹丕が郭氏を皇后にすることに反対した。「私愛」により、貴嬪の郭氏を皇后にすべきでないと。同じく曹叡も、「賎」なる毛皇后・郭皇后を立てる。陳寿は、廃された曹叡の正妻・虞氏に「曹氏は賎を立てるのが好き」と語らせた。「私愛」の皇后えらびが、「亡国」に直結する。
『魏志』巻二十五 桟潜伝にも、皇后えらびへの反対を復習する。まるで、桟潜が朝議を代弁するように見える。
しかし、陳寿が黙殺した史料から、逆の輿論がみえる。 『芸文類聚』巻十五 后妃の条「魏傅嘏請立貴嬪為皇后表」によると、あらかじめ符瑞が用意され、「群僚百辟」が要請して、文徳郭皇后が冊立された。桟潜は少数意見であった。『魏志』巻二十一に傅嘏伝があるが、この上表は触れられない。

『芸文類聚』のテキストを真に受けすぎているような気が……。陳寿の記述方針の偏向は、たしかに言うことができるでしょうが。


陳寿が后妃伝の評で、陳羣・桟潜を強調した理由なにか。
①文徳郭皇后が、「後嗣争い」で曹植を追い落とす策謀にくわわったことを、批判するため。
②つぎの明元郭皇后の一族が台頭することの暗示。この郭皇后は、明帝の臨終直前に「賎人にわかに貴し」として、曹芳を後見するために皇后となる。景初二年(238) 十二月辛巳、曹宇の大将軍就任と同時に、皇后となった。
明元郭皇后伝によれば、郭太后と、宿衛を掌握する郭氏とが、姻戚関係にある司馬氏にとりこまれた。郭氏と血縁のない曹芳は孤立した。
斉王紀にひく『魏略』によれば、曹芳は、司馬師の意を受けた郭芝が太后にせまったことで廃された。高貴郷公紀にある司馬昭の上言から、曹髦は、宿衛に期待できないから(郭氏に握られているから)やむなく供回りをひきいて挙兵した。

郭氏が司馬氏に取りこまれたことは、『魏志』では触れられない。文昭甄后伝にひく『晋諸公賛』を参照。陳寿が、魏晋交替における郭氏の役割を暗示するのとどめたのは、司馬氏への配慮と、西晋でも外戚だった郭氏をかばうため。

『晉諸公贊』はいう。郭徳=甄徳は、司馬師の娘をめとる。娘が死ぬと、司馬昭がまた娘を甄徳にめとらせる。司馬昭の娘とは、京兆長公主である。京兆長公主の母は、王元姫である。司馬師と司馬昭は、郭皇后と結びたくて、かさねて郭徳=甄徳に娘を送りこんだ。……『魏書』巻5・后妃伝


外戚が主体的に朝政を壟断しなくても、魏が滅んだのは、后妃を恣意的に冊立したため。これを陳寿は、陳羣・桟潜をもちあげて戒めとした。
『魏志』巻二十五 楊阜伝によると、「時初治宮室、發美女以充後庭、數出入弋獵」とあり、陳寿は、明帝による宮殿造営が、采女の収集を目的としたように位置づけた。?? ここから、郭氏が出てくる。好色にちなむ采女を、私愛により皇后に立てたせいで、魏は滅びたと陳寿はいいたかった。!!
渡辺信一郎「宮闕と園林」(『考古学研究』47 2000)によると、曹叡は、天人相応の関係を取り入れ、天象の紫微宮を模して、地上に大極殿タイプの宮城をつくった。こういった政治空間の創出という観点を、陳寿は意図的に、全く評価しない。??

ぼくは思う。郭氏というよりは、郭氏を取りこんだ司馬氏の立ち回りのほうに、重点を置くべきだと思う。この魏晋交替の理解は、ちょっと疑問。あ、そうか。司馬氏の立ち回りを「見えない化」して、郭氏のせいに見せるのが、陳寿の手口だと、津田氏は述べておられるのか。だから、「郭氏のせい」という陳寿の歴史像に違和感があるほうが、陳寿の恣意性に気づいているということになり、津田氏の議論に近づける。

安田二郎「西晋武帝好色考」によると、曹叡の大規模な采女は、太和元年に行われたが、それ以後は確認されない。

『魏志』撰述時期と西晋政界

『魏志』が成立した太康初期 (280年代前半) 西晋の状況は。
太康三年に決着する斉王司馬攸の帰藩問題。咸寧二年(276) に冊立された楊皇后と、外戚の楊俊たちの台頭。皇太子の司馬衷(恵帝)の立場をゆらす司馬炎の寵妃問題(胡貴嬪)。
『晋書』巻九十三 外戚 羊琇伝によると、司馬昭が、司馬攸を後嗣にしようとする。司馬攸を当て馬にして、司馬炎への継承体制を強化するためであっても、司馬昭はマジで迷っているように見せかけ、景元元年(260) 司馬炎を中撫軍にする前から、迷っていた。
甘露三年(258) 五月に司馬昭は晋公に封じられた。司馬昭は、曹操と同じように、異分子を排除するために、後嗣問題を利用した。だが、翌月の五月、司馬昭の一党が曹髦を殺したため、魏晋交替の運動がやりなおしになる。このやりなおしにより、後嗣問題が長期化した。

ぎゃくに、司馬昭・司馬炎がこのように後嗣問題をネタにして、異分子を排除したことから、津田氏は、「曹操・曹丕も、後嗣問題をネタにした」と考えたのでしょう。曹操に関する史料「だけ」を熟読して出てくる仮説だけではない。

司馬炎にとっては、親臣が長子相続をくり返していたとしても、(次男の系統である司馬炎が)後嗣を勝ち取らねばならないと、親臣たちに認識されていた。
その結果、『晋書』巻三十八 司馬攸伝に、死にかけた司馬昭が、司馬炎に、漢淮南王・魏陳思王(曹植)の孤児をひきあいに出して、司馬攸のことを頼んだ。
漢淮南王とは、漢文帝の弟。不法行為により護送されたとき自殺した。漢淮南王と並記されるということは、曹植の故事とは、驕慢によって弾劾され、封地を徙し削られたことを言うのだろう。後嗣争いについてではない。司馬昭は「性急」な司馬攸に過失があっても、きびしく罰するなと伝えたかった。

皇太子の司馬衷が不慧だといわれると、司馬攸が警戒された。
このとき撰述されたのが『魏志』である。ありもしない曹丕・曹植の後嗣争い、遺恨による曹丕から諸王への冷遇。司馬炎・司馬攸の関係が、曹丕・曹植に投影されている。陳寿は、非寛容な曹丕とちがい、「寛仁」な司馬炎に期待して、司馬攸の帰藩を不可とした。
長子相続を強調して、「私愛」を否定するから、司馬衷を擁護した。
当時、司馬攸を主張するのは、衛瓘。ただし当時は、『晋書』巻三十六 張華伝にあるように、司馬衷の即位を前提として、司馬攸の輔政を訴えた。

帝室を孤立させるという外戚を、陳寿は批判する。『晋書』巻四十 楊駿伝によると、楊氏が台頭して、宿衛をも掌握した。このとき楊駿は、宿衛の一隊を指揮する、前将軍である。
楊珧は、司馬攸を排斥した。陳寿は『魏志』をつかって、宿衛をにぎり、諸王を追放する外戚楊氏を、明元郭皇后に投影して、重用するなと述べた
采女で選抜された「賎」なる「妾」を私愛で皇后にするな、と陳寿がいうのは、司馬炎のときの胡貴嬪を警戒してのこと。ぶじに2人目の「楊皇后」を迎えて、動揺を防いだ。160531

津田論文を読んで思ったこと

ここからは、このサイトの作成者(佐藤)の意見です。
「陳寿が政治的主張を『三国志』に反映した」を証明するのは至難です。歴史とは、複層的なものだからです。
①ナマ史実が起き、②一次史料から③二次史料が生成し(王沈『魏書』・魚豢『魏略』)、陳寿が②や③を読むことを通じて④歴史像を獲得した上で、陳寿じしんの歴史像④と異なることを、わざと⑤『三国志』で改変して表現してることを証明しなければならない。

さらに複雑なのは、「陳寿」ですら、ぼくらから見れば歴史上の人物なので、その扱いに注意を要するということ。
ぼくらは⑥ナマ陳寿と知人ではないので、西晋に生まれた一次史料から、王隠『晋書』などを経て、房玄齢『晋書』によって陳寿を知り、⑦陳寿像を獲得した上で、その⑦陳寿像ならば、いかにも抱きそうな歴史像⑧(「⑥ナマ陳寿がもつ歴史像④」の模造品である、「ぼくらが想像した陳寿⑦がもちそうな歴史像」)と異なった形で、⑤『三国志』を書きそうだ、という議論を、整合的に組み立てる必要がある。

注意したいのは、ぼくらが⑤『三国志』・④裴松之注(陳寿も見たであろう二次史料の断片)を通じて独自に形成したところの、⑨ぼくらなりの三国時代の歴史像(近年の歴史学などの研究論文の蓄積を含む)を基準にして、もしも⑨が、⑤『三国志』と食い違った場合、そこに陳寿の偏向=政治声明が含まれていると唱えるのは、原理的に誤りだということ。
あくまで、④との差(ぼくらが捉えられる範囲なら、⑧との差)が、⑤『三国志』が政治声明・偏向である部分。

悲劇的なのは、この一連の思想的営為によって、一歩も三国時代の①ナマ史実に接近することができないこと。というか、この営為のなかで、「①ナマ史実はこうである」という新たな知見(新しい⑨)を発表できたなら、論理の飛躍です。設定された問題と、違う種類の答えを出してます。算数のテストで、前の時間の漢字テストの答えを思い出して、書いてしまったような。
とはいっても、陳寿についてグルグル考えていたら、副産物的に、⑨ぼくらなりの三国時代の歴史像が、バージョンアップすることがあり得て、いかにも①ナマ史実に近づいたぞ!と思ったり、たまに⑥ナマ陳寿が降霊したぞ!と錯覚でき、それが喜びに繋がります。救いはあるんです(ありますよね)

津田論文の内容とは、あまり関係ないことを書きました。津田論文のこの部分が、丸数字のこれに充当できる、などと検証したいのではないです。陳寿と三国志にまつわる「困難性」をおもしろいと思い、これを書きました。160531

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