-後漢 > 『後漢書』皇后本紀を読む

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霊帝の母、献帝の祖母(養育者)、董皇后紀

諸侯の妻として

孝仁董皇后諱某,河閒人。為解犢亭侯萇夫人,
[一]萇,河閒孝王開孫淑之子也。
生靈帝。建寧元年,帝即位,追尊 萇為孝仁皇,陵曰慎陵,以后為慎園貴人。及竇氏誅,明年,帝使中常侍迎貴人,并徵貴人 兄寵到京師,上尊號曰孝仁皇后,居南宮嘉德殿、 [二]嘉德殿在九龍門內。
宮稱永樂。拜寵執金吾。後坐矯稱永 樂后屬請,下獄死。

孝仁董皇后は、河間のひと。解犢亭侯の劉萇の夫人である。

劉萇とは、河間孝王の劉開の孫である劉淑の子である。
ぼくは思う。まずしい傍流に嫁いだ、いなかの女性が、ひょんなことから子が天子となり、蓄財に励み、前半生の貧しさを取り返す物語。霊帝が金銭に貪欲なのは、母ゆずり、というか母の指示である。霊帝の売官が、母に使役されたものだと書いてある。
ひとが世間と関係を結ぶときに、おおきく分けて2つのトッカカリがある。爵位と金銭である。いずれも人との差異・等級をつけるものである。源泉は神秘に満ちている。爵位の源泉である「天」との交渉と、金銭の源泉である……どこだろう。マルクスのいうところの金鉱山を発掘するコスト(これは誤った仮説とされてる)とか、ビットコインが起点とするところの暗号作成・解読のコスト(これは正解なのか?)に、肉薄する、平凡なおばさんのストーリー。

董皇后は、霊帝を生む。

このド田舎に、劉宏を天子に迎えるための使者がくる。それに先立ち、目先のきく人々の訪問がある……、と想像すると楽しい。まさに、ゼロから霊帝の歴史が始まって、霊帝が死ぬころには、きっちり後漢が滅亡するスイッチがセットされている。「洛陽にむかう貧乏な劉宏」というモチーフは、とても心を躍らされる。

建寧元(168)年、霊帝が即位すると、劉萇を追尊して「孝仁皇」として、陵を「慎陵」といった。董皇后を「慎園貴人」とした。竇氏が誅されると、翌年、明年、霊帝は中常侍をやって董皇后を迎えた。あわせて貴人の兄の董寵をめして京師に召し、尊號をたてまつり「孝仁皇后」といい、南宮の嘉德殿に居らせた。

嘉德殿とは、九龍門の内にある。

董皇后の居した宮を「永楽宮」と称した。董寵に執金吾を拝せしむ。のちにいつわって永楽宮に属請した称して(永楽宮=董皇后から依頼を受けたといい)、獄に下されて死んだ。

何氏との闘争

及竇太后崩,始與朝政,使帝賣官求貨,自納金錢,盈滿堂室。中平五年,以后兄子衛 尉脩侯重
[一]脩,今德州縣也,故城在縣南。「脩」今作「蓨」,音條。
為票騎將軍,領兵千餘人。

竇太后が崩じると、はじめて朝政をあずかる。

皇太后の権力がウザいことを、董皇后が身をもって知っている。竇武が健在のうちは、外戚権力が2つの系統で並存するから、洛陽に入ることができなかった。竇武が死ぬに及んで、兄の董寵を伴うことができた。しかし董寵は、名門の竇武のように、政治をうまくやることはできず、私利私欲(たぶん)のために動いて、政治的に死んだ。
竇太后が死んだおかげでで、董皇后に出番が回ってきた。
これは、のちに何太后と衝突する伏線となる。外戚が2系統あり、勢力を衝突させていると、片方が殲滅されるまで終わることがない。

霊帝に官職を売って貨幣を求めさせ、みずから金銭を納め、堂室に満たした。

金銭は、ひとの関係を分断するための道具である。ある関係をもった人間がいて、金銭を仲介させて交換を行う。その交換が行った直後、両者の関係は切れる(切れなくてもいいけど、続く必要はない)。つまり、誰からどういう理由でもらったものであろうと、カネはカネ。
爵位は、ひとを繋げるための道具である。天子という1人を起点として、天下の民の全てを結びつける。漢の民である限り、「天子にもらった爵位」の秩序のもとにおり、関係性は永続する。漢王朝が永続するから。爵位は、誰にもらったことが重要。
霊帝は、人間関係を媒介させる2つの道具、金銭・爵位の違いについて、根本的な考察を加えることなく、在位を終わりそう。そばで母親が「カネーカネー」と歌っているから、考えるひまはない。むしろ狭義の「仕事として」財政の再建に努めた、狭義の「名君」であろう。しかし、彼らの無理解が、後漢を修復不能なところにまで、破壊するのである。霊帝は、マザコンっぽいし(「孝」ともいう)

中平五(188)年、董皇后の兄子で脩侯の董重が、

脩県とは、いまの德州縣である。故城は県の南にある。ぼくは補う。県侯をもらっていた、霊帝のいとこである。

驃騎将軍となり、千余人を領した。

初,后自養皇子協,數勸帝立為太子,而何皇后恨 之,議未及定而帝崩。何太后臨朝,重與太后兄大將軍進權埶相害,后每欲參干政事,太后 輒相禁塞。后忿恚詈言曰:「汝今輈張,怙汝兄耶?
[二]輈張猶彊梁也。
當勑票騎斷何進頭來。」何太后聞, 以告進。進與三公及弟車騎將軍苗等奏:「孝仁皇后使故中常侍夏惲、永樂太僕封諝等交 通州郡,
[三]漢官儀曰:「永樂太僕,用中人為之。」
辜較在所珍寶貨賂,悉入西省。
[四]辜較,解見靈紀。西省,即謂永樂宮之司。

はじめ、董皇后は、みずから皇子の劉協を養い、しばしば霊帝に勧めて太子にしようとする。しかし何皇后はこれを恨んだ。議が定まる前に、霊帝は崩じた。
何太后が臨朝すると、董寵と、大将軍の何進はつぶしあった。董皇后はつねに政権をとりたいが、何太后に妨害された。董皇后は怒って罵った。「おまえが威張り散らすのは、兄を頼ってのことだな」と。

「輈張」とは「彊梁」のこと。威張り散らす。
ぼくは思う。董皇后の分析によれば、何氏は、皇太后権力そのものに依拠してではなく、兄に頼っている。つまり、何進がつながる袁紹らのランニング・フレンドを頼りにしている。おもしろい指摘。何太后だけでは、何進だけでは、宮廷政治をうまくやれなかったことが分かる。まあ董皇后も、大抵は素人ですが。味方には一族の董重くらいしかいない。
ぼくは思う。董承・董昭・董卓というのは、この時点では積極的な「董皇后政権」のメンバーではない。というか同姓だというのは、分かってます(董承は判定が微妙)。


驃騎将軍(董重)に勅し、何進の頭を断たせたる」と。
何太后はこれを聞き、何進に告げた。何進は、三公及び

少帝初の三公とは誰か。馬日磾・丁宮・劉弘、劉虞・袁隗、遅れて董卓らである。ぼくは、袁紹・袁隗が、何氏を指示している、おもな勢力だと思う。董卓さんは、何氏とは遠い。
史実でも、袁術は献帝を支持して、袁紹が献帝を支持しなかった。霊帝末~少帝初に、すでにこの態度がうっすら行動原理のなかに透けさせ、見てもいいだろう。

弟で車騎將軍の何苗らとともに奏した。「孝仁皇后は、もと中常侍の夏惲、永樂太僕の封諝らとともに州郡と交通して、珍宝・賄賂を集めた。西反(永楽宮の司;公庫)に入れよ」と。

蕃后故事不得留京師,
[五]蕃后謂平帝母衛姬。時王莽攝政,恐其專權,后不得留在京師,故云故事也。
輿服有章,膳羞有 品。請永樂后遷宮本國。」奏可。

(何進・三公ら・何苗が奏する続き)
蕃后の故事によれば、

蕃后とは、前漢の平帝の母の衛姫のこと。ときに王莽が摂政すると、その専権を畏れ、京師に留まれなかった。これを故事というのである。
ぼくは思う。何進は、自分を王莽に準えることに抵抗がないのか。何氏が、王莽のように朝廷を牛耳るから、董皇后は藩・諸侯の妻として、国許にひっこみなさいと。

輿服は章あり、膳羞に品有り。

乗り物・衣装・食事は、規定どおりに支給する。

永楽后(董皇后)は宮を本国に遷せ」と。奏は可とされた。

何進遂舉兵圍驃騎府,收重,〔重〕免官自殺。后憂怖,疾 病暴崩,在位二十二年。民閒歸咎何氏。喪還河閒,合葬慎陵。

ついに何進は兵をあげて驃騎府をかこみ、董重をとらえて、官を免じて自殺させた。董皇后は憂い怖れ、にわかに崩じた。在位すること22年。民間は、咎を何氏に帰した。死体は河間に還り、(夫の劉萇を葬る)慎陵に合奏された。150531

ぼくは補う。献帝は、董皇后に養育されたので「董侯」と呼ばれた。献帝の母は、王氏であって、董氏ではない。いわば献帝は「何氏に対抗するコマ」という、記号的な存在として扱われてきた。安全のために、「お前は董氏だよ」という方便すら、使われてきたかも知れない。
ぼくは、「献帝は、じつは劉氏でなく董氏だった」と、史料にないことを言うつもりはありません。話が面白くなくなる。曹芳のように史料に留保があるなら、まだしも。しかし、献帝の主観を勘ぐれば、母の記憶はきっとなく、「外戚・董氏の権力を維持するための道具」として扱われたので、母方が董氏のような気がしてきて……、むしろオレは誰だっけ、という眩暈なものを覚えてもいいと思う。
けっきょく、兄の劉弁が殺され、たまたま祖母と同姓の董卓によって天子に祭り挙げられ、董卓を父のように思い……という遍歴を思えば、献帝が、「オレは劉氏だ」というのを自己規定の筆頭に、つねに置き続けられたか、あやしいと思う。李傕・郭汜は、おかまいなし。関東の諸侯は「献帝なんて、正統じゃないぜ」と、一斉に蜂起して、無視をかます。
あげく、漢魏革命のとき、献帝が「董侯」と呼ばれたことを証拠にとって、献帝の正統性にケチをつける意見がある(文帝紀 注引『献帝伝』)
こうなりゃ、曹操の傀儡となった時期の献帝は、形式的には曹操の主君であるが、とっくに曹操の国に飼い殺されている、立場のないオッサンである。「オレは劉氏」という強い思いがあれば、まだ心に支えがありそうだが、それを懐疑している、少なくとも拠り所にできない、という時点で、相当につらい人生。
メモ:2年半前から配属されている部署は、居心地が悪い。人生観とか仕事観とかの内面的な話ではなく、邪悪な誰かの妨害があるでもなく、所与の立場・役割のために、とにかく居心地が悪い(年内終了の予定)。この居心地の悪さがリアルなうちに、消化して再構成して小説に活かすとしたら、献帝が主人公かな。

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霊帝の何皇后・王美人、弘農王の唐姫の本紀

何皇后のこと

靈思何皇后諱某,南陽宛人。家本屠者,以選入掖庭。長七尺一寸。生皇子辯,養 於史道人家,號曰史侯。拜后為貴人,甚有寵幸。性彊忌,後宮莫不震懾。

何皇后は、南陽の宛のひと。家はもとは屠者で、選をもって掖庭に入る。

『風俗通』はいう。漢は8月に、人を算(人口調査)する。何皇后の家は、金帛を主者(係のもの)に賄賂して、掖庭に入ることを求めた。

身長は七尺一寸(165センチ弱)。皇子の辯を生み、史道人の家で養い、「史侯」と号した。貴人となると、もっとも寵幸された。性は彊忌(ひどく嫉妬ぶかい)、後宮のひとは震懾(ちぢみ上がる)しないものはない。

光和三年,立為皇后。明年,追號后父真為車騎將軍、舞陽宣德侯,因封后母興為舞陽 君。時王美人任娠,畏后,乃服藥欲除之,而胎安不動,又數夢負日而行。四年,生皇子協,后遂酖殺美人。帝大怒,欲廢后,諸宦官固請得止。董太后自養協,號曰董侯。

光和三(180)年、皇后に立てられた。
翌年、父の何真に追号して、車騎將軍・舞陽宣德侯とする。母の興を舞陽君とする。ときに王美人が任娠すると、何皇后を畏れた。薬を飲んで、堕胎しようとした。

王美人がみずから毒薬を飲んだ(と書いてある)

しばしば夢で、太陽を背負って歩いた。
光和四(181)年、皇子の協を生んだ。何皇后は、ついに王美人を酖殺した。霊帝は大怒して、何皇后を廃そうとしたが、宦官らが固く止めた。董太后は、みずから劉協をやしない、「董侯」と号した。

王美人のこと

王美人,趙國人也。祖父苞,五官中郎將。美人豐姿色,聰敏有才明,能書會計,以 良家子應法相選入掖庭。帝愍協早失母,又思美人,作追德賦、令儀頌。

王美人は、趙國のひと。祖父の王苞は、五官中郎將である。王美人は、姿色が豊かで、聰敏で才明があり、書・會計(計算)を能くした。良家の子であり、法相(容姿がいい)ので、選により掖庭に入った。霊帝は、劉協が早くに母をなくしたことを憐れみ、また王美人を思って、「追德賦」「令儀頌」をつくった。

せっかくだからテキストが残っていたら面白かったのに。霊帝もまた、感情にまかせて文章を書くひとだったのね。建安文学のさきがけ……という指摘をするには、やはりテキストがないと、なんともならん。


霊帝の死後のこと

中平六年,帝崩,皇子辯即位,尊后為皇太后。太后臨朝。后兄大將軍進欲誅宦官,反 為所害;舞陽君亦為亂兵所殺。并州牧董卓被徵,將兵入洛陽,陵虐朝庭,遂廢少帝為弘 農王而立協,是為獻帝。扶弘農王下殿,北面稱臣。太后鯁涕,羣臣含悲,莫敢言。

中平六(189)年、霊帝が崩じて、皇子の劉辯が即位すると、何皇后を皇太后とした。何太后は臨朝した。
大將軍の何進は、宦官を誅したいが、かえって宦官に害された。舞陽君(何太后の母)もまた、乱兵に殺された。并州牧の董卓が徵され、兵をひきいて洛陽に入ると、朝庭を陵虐して、ついに少帝を廃して弘農王として、劉協を立てた。これが献帝である。弘農王を扶(かか)えて殿より下し、北面して稱臣させる。太后は鯁涕し(涙にむせび)、羣臣は悲しみを含むが、敢えて言うものはない。

董卓又 議太后踧迫永樂宮,至令憂死,逆婦姑之禮,乃遷於永安宮,因進酖,弒而崩。在位十年。 董卓令帝出奉常亭舉哀,公卿皆白衣會,不成喪也。合葬文昭陵。

董卓はまた議すには、何太后が永樂宮(霊帝の母たる董皇后)を踧迫(追いつめ)憂死させたことは、婦姑の禮に逆らうことだから、永安宮に遷して、酖毒を勧め、何太后を死なせた。在位すること10年。董卓は献帝に、奉常亭で

『洛陽記』によると、奉常亭は洛陽城内にあり。

哀を挙げさせ、公卿はみな白衣の会をして、喪を成さない。

『左伝』隠公11年によると、「葬」と書かないのは、喪を成さないからである。

文昭陵(霊帝の墓域)に合葬した。

初,太后新立,當謁二祖廟,欲齋,輒有變故,如此者數,竟不克。時有識之士心獨怪 之,後遂因何氏傾沒漢祚焉。

あらたに何太后が立ったとき、二祖の廟に謁すべきである。

高帝廟と光武帝廟に謁すべき。

齋(ものいみ)しようとしたら、たちまち変事があった。こういう(儀礼にまつわる)事件は、しばしば起こり、何太后はろくな最期でなかった。ときに有識の士は、心のなかで怪しんだが、のちに何氏によって漢祚が傾沒させられた。

ぼくは思う。范曄のナマの声、歴史観がここに表れている。こういう、史料中でだれが言ったか分からない記事は、編著者が仮託したものに違いない。


董卓が劉弁を殺す

明年,山東義兵大起,討董卓之亂。卓乃置弘農王於閣上,使郎中令李儒進酖,曰:「服此藥,可以辟惡。」王曰:「我無疾,是欲殺我耳!」不肯飲。強飲之,不得已,乃與妻唐姬及 宮人飲讌別。酒行,王悲歌曰:「天道易兮我何艱!棄萬乘兮退守蕃。逆臣見迫兮命不延, 逝將去汝兮適幽玄!」

翌年、山東の義兵が起ち、董卓を討つ。

山東のねらいは、史料では遡って抽象化されているが、よりリアルタイムで直接的には「劉弁を復位せよ」だったと思う。董卓に敵対するならば、これしかない。廃立はハイリスクだし。

董卓は弘農王を閣上に置き、郎中令の李儒に酖を進めさせた。李儒「この薬を服せば、惡を辟けられる」と。弘農王「私に疾(やまい)なし。私を殺そうとするのだな」
李儒は強引に飲ませる。弘農王は、やむをえず妻の唐姫および宮人と酒宴をして別れた。酒がめぐると、王は悲歌した。
「天道は易きも我は何ぞ艱(くる)しき。萬乘を棄てて退きて蕃を守る。逆臣に迫られて命は延びず。逝くゆく將に汝を去って幽玄に適(ゆ)かんとす」

因令唐姬起舞,姬抗袖而歌曰:「皇天崩兮后土穨,身為帝兮 命夭摧。死生路異兮從此乖,柰我煢獨兮心中哀!」因泣下嗚咽,坐者皆歔欷。王謂姬曰: 「卿王者妃,埶不復為吏民妻。自愛,從此長辭!」遂飲藥而死。時年十八。

唐姫に起ちて舞わせた。唐姫は袖を抗(あ)げて歌う。
「皇天は崩れ后土は穨(くず)れ、身は帝と為るも命は夭(くだ)け摧(くじ)かる。死と生とは路 異なって此より乖(たが)ふ。奈(いかん)せん我は煢獨(孤独)にして心中 哀しきを」
泣下・嗚咽した。坐者はみな歔欷した。弘農王が唐姫にいう。「卿は王者の妃である。勢いとして復た吏民の妻と為らじ。自愛せよ。此より長(とわ)に辞せん」
ついに薬を飲んで死んだ周。18歳だった。

弘農王の妻・唐姫が、李傕に言い寄られる

唐姬,潁川人也。王薨,歸鄉里。父會稽太守瑁欲嫁之,姬誓不許。及李傕破長安,遣 兵鈔關東,略得姬。傕因欲妻之,固不聽,而終不自名。尚書賈詡知之,以狀白獻 帝。帝聞感愴,乃下詔迎姬,置園中,使侍中持節拜為弘農王妃。
初平元年二月,葬弘農王於故中常侍趙忠成壙中,謚曰懷王。

唐姬は、潁川のひと。弘農王が薨ずると、郷里に帰る。父の會稽太守の唐瑁は、再婚させたいが、唐姫は誓って許さず。
李傕が長安を破ると、関東に兵をやり(頴川で)唐姫を奪ってきた。李傕は唐姫を妻にしたいが、唐姫はさいごまで(弘農王の妻だったと)名乗らなかった。尚書の賈詡がこれを知ると、献帝に伝えた。

賈詡と献帝の接点が、史料に出てきた。超レア!

献帝は感愴し(痛ましい気分になり)、詔を下して唐姫を迎え、園中に置いた(園陵に配属した)。侍中に持節させ、唐姫を「弘農王妃」とした。
初平元年2月、弘農王をもと中常侍の趙忠の成壙(予め築造していた墓室)のなかに葬って、懷王と諡した。

趙忠は、よほど贅沢だったらしく、非常時の皇帝が使っても遜色がないほどの設備を残した。墓室を「提供」するし、東遷した献帝に邸宅を「提供」する。


献帝の母系の外戚、王斌

帝求母王美人兄斌,斌將妻子詣長安,賜第宅田業,拜奉車都尉。

献帝は、母の王美人の兄の王斌を求めた。王斌は妻子をつれて長安に至り、第宅・田業(邸宅と田地)を賜って、奉車都尉(天子の乗り物を掌る)となる。

興平元年,帝加元服。有司奏立長秋宮。詔曰:「朕稟受不弘,遭值禍亂,未能紹先,以光 故典。皇母前薨,未卜宅兆,禮章有闕,中心如結。三歲之慼,蓋不言吉,且須其後。」於 是有司乃奏追尊王美人為靈懷皇后,改葬文昭陵,儀比敬、恭二陵,使光祿大夫持節行 司空事奉璽綬,斌與河南尹駱業復土。

興平元(194)年、献帝は元服を加えた。有司は長秋宮を立てよと奏す。
詔した。「朕は稟受(生来の運命)が弘くなく、禍亂にあった。まだ祖先を嗣いで、故典(古来の典章制度)を輝かすことができない。わが母は前に薨じて、未だ宅兆を卜せず(墓地の場所が決まらない)、禮章が欠けており、気がかりである。三歲之慼(三年の喪中は)、吉事を言わないものだ。後にしろ」と。
有司は王美人を追尊して、靈懷皇后として、文昭陵に改葬して、儀は敬・恭の二陵に比し、

章帝陵と安帝陵

光祿大夫に持節して司空の事を行(か)ねて璽綬を奉じさせた。王斌は河南尹の駱業とともに復土した。

駱業ってだれ? 検索しても他がヒットせず。


斌還,遷執金吾,封都亭侯,食邑五百戶。病卒,贈前將軍印綬,謁者監護喪事。長 子端襲爵。

王斌が還ると、執金吾に遷り、都亭侯に封じた。病卒すると、前將軍の印綬を贈り、謁者は喪事を監護した。長子の王端が爵を襲(つ)ぐ。

この王端というのが、献帝から見ると、母の兄の子だから、母系のいとこである。血の繋がった近親者として、活躍してほしい。
王斌だって、世が世なら、皇帝の母の親族=外戚である。梁冀とか竇武のように、権力を握ってもおかしくなかった。王美人が先に死んだから、活躍しにくいが、充分に官位が高い。やはり外戚の特典である。

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献帝の伏皇后・曹皇后の本紀

伏皇后のこと

獻帝伏皇后諱壽,琅邪東武人,大司徒湛之八世孫也。父完,沈深有大度,襲爵不其侯,尚桓帝女陽安公主,為侍中。

獻帝の伏皇后は、諱を壽といい、琅邪の東武のひと。

メモ:献帝が「董侯」と言われているころ、市井のなかで生活することができる。そのとき、琅邪からきた大官人(高級官僚)である伏湛が、あいさつに訪れ、献帝と知りあっておいた(ツバを付けておいた)という話があったらおもしろい。後漢でこれ以前、伏氏から出た皇后なんてない。いきなり伏氏から皇后を輩出するには、伏線がほしい。伏氏だけに。献帝と伏皇后が、幼少のころ会っているというロマンチック。
ついでに脱線して、伏完が連れている、琅邪の下級官僚の家柄の聡明な子供がいて、、それが献帝と同い年のしょk……なんでもないです。

大司徒の伏湛の八世孫(列伝十六)である。父の伏完は、沈深にして(落ち着きがあり)大度あり。爵の不其侯をつぎ、桓帝の娘の陽安公主をめとり、侍中となる。

桓帝と霊帝は、ちょっと血筋が離れてる。献帝が、桓帝の娘の娘と結婚しても、それほど近くはない。


初平元年,從大駕西遷長安,后時入掖庭為貴人。興平二年,立為皇后,完遷執金吾。 帝尋而東歸,李傕、郭汜等追敗乘輿於曹陽,帝乃潛夜度河走,六宮皆步行出營。后 手持縑數匹,董承使符節令孫徽以刃脅奪之,殺傍侍者,血濺后衣。既至安邑,御服穿 敝,唯以棗栗為糧。建安元年,拜完輔國將軍,儀比三司。完以政在曹操,自嫌尊戚,乃上 印綬,拜中散大夫,尋遷屯騎校尉。十四年卒,子典嗣。

初平元年、献帝にしたがい長安にゆく。伏皇后は掖庭に入って貴人となる。

献帝が、「三年の喪があけるまで、長秋宮を作らない」と言ったのが、興平元(194)年である。次の年、伏氏が皇后となる。整合性がとれる。

興平二(195)年、伏氏が皇后となり、伏完は執金吾に遷る。
献帝は東帰したい。李傕・郭汜らに追われ、曹陽で敗れる。献帝はひそかに夜に黄河(陝州陜県の北)を渡り、六宮(夫人より以下)は歩いて軍営(キャンプ)を出る。伏皇后は、手に縑(きぬ)數匹を持つ。

持ち運びがしやすく、価値が高いから持ち出したのだろう。それ以外の財宝は、きっと投げ捨てた。

董承は、符節令の孫徽に、刃をつかって伏皇后を脅して(きぬを)奪わせ、傍らの侍者を殺す。血は后の衣に濺(そそ)ぐ。既に安邑に至り、御服は穿(あなあ)き敝(やぶ)れ、ただ棗・栗だけを(食べて)糧とした。

董承は、なんのために伏皇后から、きぬを奪ったか。身軽になって逃げやすくするためか(献帝の味方)、ただカネが欲しくて奪ったか(李傕の味方)。のちの展開からすると、献帝の味方という解釈でいいのか。しかし、皇后に刃を突きつけるって。

建安元年、伏完を輔國將軍として、儀は三司に比(なぞら)ふ。

輔国将軍とは、新たに設けられた雑号将軍。

伏完は曹操が執政すると、自ら尊戚(外戚として高貴な官職にあること)を嫌い、印綬を返上して、中散大夫となる。屯騎校尉に遷る。建安十四(209)年に卒した。子の伏典が嗣ぐ。

自帝都許,守位而已,宿衞兵侍,莫非曹氏黨舊姻戚。議郎趙彥嘗為帝陳言時策,曹操 惡而殺之。其餘內外,多見誅戮。操後以事入見殿中,帝不任其憤,因曰:「君若能相輔,則 厚;不爾,幸垂恩相捨。」操失色,俛仰求出。舊儀,三公領兵朝見,令虎賁執刃挾之。操 出,顧左右,汗流浹背,自後不敢復朝請。

献帝が許に都すると、位を守るだけ。宿衞の兵侍は、曹氏の黨舊・姻戚でないものがない。

ぼくは思う。「党旧・姻戚」っておもしろい。しかし曹氏は、袁氏ではないから、どれだけの「党旧」がいるのか。曹操の代になってから、圧倒的に官職をバラまいたことで、人脈が広がったか。そして姻戚って、曹操の近親者は、あまり史料に残っていない。「宿衛の兵侍」はたくさんいるのに、夏侯氏を含めたところで、どれだけまかなえたか。

議郎の趙彦が、かつて献帝のために時策を教えると、曹操は趙彦を殺した。それ以外にも、内外でおおくが誅戮された。
のちに曹操が用事があって殿中に入って献帝に会った。献帝はその憤りに任(た)えず、「きみがもし相輔するなら、大切にしてくれ。そうでないなら、どうか恩を垂れて、私を見限ってくれ」と。

名台詞、出ました!
君 若し能く相ひ輔けんとならば則ち厚くせよ。爾(しか)らざれば、幸(ねが)はくは恩を垂れて相ひ捨てよ。

曹操は色を失ない、俛仰(うつむいたり、あおむいたり)して退出を求めた。舊儀では、三公が兵を領して朝見するとき、虎賁に刃を執らせて之を挾(たばさ)ませた。

虎賁が武器を持っている前で、献帝が曹操に向かって、あんな名台詞を吐いた。答え方によっては、曹操は虎賁に切り刻まれて、肉泥になることができる。

曹操が出るとき、左右を顧みて、汗は流れて背に浹(とお)り、これ以降、もう朝請しなくなった。

記述の順序からみても、これは官渡の戦いの前である。楽しい。曹操が、再び李傕となるのか、ならないのか。曹操自身も、袁紹を破るまでは、献帝を厚遇するにも、勢力が安定しておらず、不便を掛けなければならない。


伏皇后が曹操の暗殺をねがう

董承女為貴人,操誅承而求貴人殺之。帝以 貴人有任女,累為請,不能得。后自是懷懼,乃與父完書,言曹操殘逼之狀,令密圖之。完 不敢發。至十九年,事乃露泄。操追大怒,遂逼帝廢后,假為策曰:「皇后壽,得由卑賤,登顯 尊極,自處椒房,二紀于茲。既無任、姒徽音之美,又乏謹身養己之福,而陰懷妒害,苞藏禍心,弗可以承天命,奉祖宗。今使御史大夫郗慮持節策詔,其上皇后璽綬,退 避中宮,遷于它館。嗚呼傷哉!自壽取之,未致于理,為幸多焉。」

董承の娘が貴人となると、曹操は董承を誅して、董貴人も殺した。献帝は、董貴人が妊娠していることから、なんども助命を請うたが、それでも董貴人は殺された。
伏皇后は懼れを懐き、父の伏完に手紙を書いて、曹操が殘逼する(残虐に人をおどす)状況を伝え、ひそかに曹操を殺そうとした。

伏皇后に積極的な理由があったのではなく、董承・董貴人が殺されたことがトリガーである。そして、董承が積極的に政治に関わって敗れたことと対照的に、伏完は隠棲したようなもの。伏皇后から見ると、少しも頼りにならない。だから伏皇后は手紙を書いて、たすけを求めたのだ。屈節のない、自然なリアクション。

しかし伏完は、あえて行動しない。
建安十九(214)年、このことが露見した。操は追って大怒し、献帝に「伏皇后を廃せ」という。曹操が、いつわって(献帝を主語として)策を作った。
「皇后の壽は、卑賤から尊極にのぼり、皇后になって、24年である。しかし任(周文王の母)・姒(周武王の母)のような美徳がなく、悪事をたくらんだ。天命を承け、祖宗を奉じられる人物ではない。御史大夫の郗慮に持節して策詔させる。皇后の璽綬を没収して、中宮に退き、他館に遷れ。ああ傷しいかな。伏皇后は自らこの事態をつくったのである。まだ法で裁かないから、それを幸いとせよ」と。

又以尚書令華歆為郗慮 副,勒兵入宮收后。閉戶藏壁中,歆就牽后出。時帝在外殿,引慮於坐。后被髮徒跣行 泣過訣曰:「不能復相活邪?」帝曰:「我亦不知命在何時!」顧謂慮曰:「郗公,天下寧有是 邪?」遂將后下暴室,以幽崩。所生二皇子,皆酖殺之。后在位二十年,兄弟及宗族死者百 餘人,母盈等十九人徙涿郡。

尚書令の華歆は、郗慮の副官となり、兵を勒して宮に入りて后を收む。戸を閉じ壁中に藏(かく)るるも、歆 就きて后を牽き出す。ときに献帝は外殿にいて、郗慮を座に引(まね)く。伏皇后は、被髮・徒跣(髪を乱して裸足のまま)、行くゆく泣して過(よぎ)りて訣(わか)れをいう。
「復た相ひ活かすこと能はざるか」

名言、いただきました。ありがとうございました。

献帝「我も亦た命の何時に在るかを知らず」
献帝は、郗慮を顧みた。「郗公、天下に寧(なん)ぞ是れ有るか」
ついに(華歆は)伏皇后をつれて暴室に下し、幽を以て(幽閉されたまま)崩じた。伏皇后が生んだ2名の皇子は、どちらも酖殺(鴆殺)された。在位すること20年、兄弟 及び宗族で死した者は、百余人である。母の盈ら19人は、涿郡に徙された。

曹皇后のこと

獻穆曹皇后諱節,魏公曹操之中女也。建安十八年,操進三女憲、節、華為夫人,聘 以束帛玄纁五萬匹,小者待年於國。十九年,並拜為貴人。及伏皇后被弒,明年,立節為 皇后。

曹皇后は、いみなを節といい、曹操の中女である。建安十八(213)年、曹操は三女を進めて夫人とした。憲・節・華である。聘するに束帛玄纁(黒い布帛)五萬匹を以てし、幼いものは国で待った。十九(214)年、3人とも貴人となる。伏皇后が弑されると、翌年に曹節を皇后に立てた。

魏受禪,遣使求璽綬,后怒不與。如此數輩,后乃呼使者入,親數讓之,以璽抵軒 下,因涕泣橫流曰:「天不祚爾!」左右皆莫能仰視。后在位七年。魏氏既立,以后為山 陽公夫人。自後四十一年,魏景(初)〔元〕元年薨,合葬禪陵,車服禮儀皆依漢制。

魏が受禪すると、使者に璽綬を求めさせた。曹皇后は怒って与えず。これが何度もくりかえされた。曹皇后は使者を呼び、なんども自ら責め咎めた。璽を軒下に抵(なげう)ち、涕泣・横流して、「天は爾(なんじ)に祚(さいわい)せず」という。

吉川氏曰く、印璽に向かって話しかけたのである。

左右は、仰視できるものがない。
在位七年。魏氏が立つと、山陽公夫人となる。これより41年後、魏の景初元年、薨じて禪陵に合葬された。車服・禮儀は、すべて漢制に依った。150603

曹皇后は、『演義』の版本による取り扱いが異なり、そこでキャラが立って重要人物となる。漢魏革命にあたって、献帝を叱るのか、曹丕を叱るのか。『後漢書』では、曹丕を叱るほうのスタンスだった。

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