蜀漢 > 『集解』巻39 董和伝・董允伝・陳震伝を読む

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諸葛亮の益州支配のお手本:董和伝

『三国志集解』巻39は、冒頭に注釈がある。
劉咸[火斤]はいう。董和は参署府事、馬良・董允・陳祗はみな侍中となる。劉巴・陳震・董允・陳祗・呂乂はみな尚書令となる。ゆえに『蜀志』9に、彼らの列伝をまとめる。

侍中・尚書令をまとめた列伝のようですが、この官職を蜀で経験したひとは、他にも居そうだけど。

『華陽国志』曰く、蜀の人々が四相・四英と言うときは、諸葛亮・蒋琬・費禕・董允を指した。蒋琬が死に、費禕が郭循に殺され、その後の蜀は「外の姜維と内の黄皓の疎遠」に単純化していってしまいそうになるが、それは早計というもの。董允を忘れてはいけないのです。
というわけで、董允について、その父の董和の列伝も含めて読みます。

劉璋期、益州の豪強を取り締まる

董和、字幼宰、南郡枝江人也、其先本巴郡江州人。漢末、和率宗族西遷、益州牧劉璋以爲牛鞞、江原長、成都令。

董和は、あざなを幼宰といい、南郡の枝江のひと。祖先は巴郡の江州のひと。
漢末、董和は宗族を率いて西遷し、益州牧の劉璋は牛鞞・江原の県長、成都の県令とした。

沈家本はいう。この文には脱誤があるか。もし巴郡から南郡に行くなら、東遷である。董和はすでに南郡にいって、どうして益州牧の劉璋に仕えられるか。
盧弼はいう。祖先が巴郡から南陽にゆき、董和は南郡から益州にいったと理解すれば、「西遷」でよい。
ぼくは思う。曹操が南下を開始したとき、逃げたのか。劉表の時期には、逃げる理由がなさそう。とくに劉表との不和だったという記述がないから。もしかしたら、劉備が曹操から逃れ、江陵を目指すのと同じタイミングかも。劉備は孫権を頼ったが、董和は劉璋を頼った。劉備とともに逃げた百姓のいくらかは、董和が蜀に連れて行ったと想像すると楽しい。


蜀土富實、時俗奢侈、貨殖之家、侯服玉食、婚姻葬送、傾家竭產。和、躬率以儉、惡衣蔬食、防遏踰僭、爲之軌制、所在皆移風變善、畏而不犯。然、縣界豪彊、憚和嚴法、說璋轉和爲巴東屬國都尉。吏民老弱相攜乞留和者數千人、璋聽留二年。還遷益州太守、其清約如前。與蠻夷從事、務推誠心、南土愛而信之。

蜀土は富実で、時俗は奢侈。貨殖の家は、侯服・玉食し、婚姻・葬送は、家を傾け産を竭く。

劉璋の時代の益州は、「ガラパゴス化」していたようだ。荊州では、百姓が戦火から逃げまどい、故郷から引きはがされ、曹操の領土などに連行された。しかし益州では、在地豪族が身分を越えたポトラッチを楽しむ余裕があった。
「貨殖」という言葉を見たら、『史記』貨殖列伝を思い出さなければいけないだろう。財産を殖やした、という一般的な意味だけではなく、『史記』に描かれているような生活をした人々と。あれは前漢の安定期の雰囲気を伝えている。益州はあたかも前漢のような平和があったのかも。

董和は、みづから『倹』を行い、悪衣・蔬食、踰僭を防遏し、これを軌制として、所在は移風・變善し、畏れて犯さず。

董和は、儒家が賞賛するような「過剰な倹約」を行ったというよりは、爵位に見合わないゼイタクを規制したというレベルだろう。益州だけは例外だが、中原では衣食住に不自由しているのを、董和は知っている。「益州もそのうち戦地になるかもよ」と備えたのだから、董和の政策は、先を見通したもの。

県界の豪強は、董和の厳法をはばかり、劉璋に「董和を巴東属国都尉にして」と説いた。

巴東属国は、後主伝の延熙11年の涪陵属国の注釈に見える。呉増僅はいう。建安六年、劉璋は巴郡を分けて巴東属国をおき、涪陵を治とした。建安末、先主は「涪陵郡」に改めた。
ぼくは思う。要するに辺境ないしは異民族と戦う地域に行かせて、成都周辺の豪強に影響力を行使できない場所に、左遷しようとした。
思うに、この豪強の訴えから、董和の政策の矛先が、豪強に向かったものだと分かる。また劉璋は、このように豪強の言い分を聞きながら、バランスを取っていたことが分かる。きっと劉璋は、豪強からたくさんの租税を巻き上げることをせず(できず)益州を治めたのだろう。兵力により、きっちり統治するのではなく、豪強たちのパワーゲームの結果、担がれていたに違いない。よくいえば自治。
こうして豪強が蓄えた富が、のちに劉備政権を支える原資となったのでした。劉璋の時代の20年間、課税せずに放置していた富を、遡って巻き上げたことで、劉備政権は、派手な外征ができた。

吏民・老弱は、董和の留任を乞うものが数千人。劉璋は、あと2年、董和を成都令にとどめた。益州太守に遷っても、その清約は前のまま。

盧弼はいう。この益州太守とは、蛮夷との関わりの記述から分かるように、南中の益州郡であり、のちに建寧郡と改められた場所。

蠻夷とともに從事し、務は誠心を推したので、南土は愛・信した。

南方に左遷されましたねw 劉璋は、2年は董和を留めたけれど、ずっと留めることはせず(できず)定期異動のような感じで、豪強から距離をとらせた。
のちの劉備・諸葛亮の時代に、統治の課題となった、益州の豪族対策と、南中の異民族政策を、すでに董和は取り組んでいる。だから、劉璋政権が倒れても、すんなりと劉備のもとに転職することができた。「国」際社会でも通用するだけの、政治手腕があった。(「国」とは、郡国制の国のイメージ)
劉備政権は、益州閥(劉璋時代までに益州入りしたひと)と、荊州閥(劉備に従って益州入りしたひと)の2つの派閥があり、利害が対立することがあったと、費禕伝をやったときに書きました。
荊州出身の「益州閥」、外戚の費禕伝
董和を分類するなら、「先乗りした荊州閥」という感じがする。物理的に荊州から益州に移ったというだけじゃない。政治の仕方が、益州で自己完結すればヨシとする劉璋よりも、益州を天下の一部として認識する(国際的な)劉備のほうに近い。劉璋の下にも、こういう潜在的な「荊州閥」がいたのだなあ。


諸葛亮とともに益州を支配

先主定蜀、徵和爲掌軍中郎將、與軍師將軍諸葛亮、並署左將軍大司馬府事。獻可替否、共爲歡交。自和居官食祿、外牧殊域、內幹機衡、二十餘年、死之日、家無儋石之財。

先主が蜀を定めると、董和を徵して掌軍中郎將とし、軍師將軍の諸葛亮とともに、並せて左將軍・大司馬府事を署す。

軍師将軍である諸葛亮と、同じ役目をした。左将軍・大司馬とは、劉備のこと。劉備が開府した役所を、諸葛亮・董和のふたりが仕切ったように見える。「先乗りした荊州派」として、荊州派の筆頭である諸葛亮を助けた。めちゃめちゃ重要な役割だ。
胡三省はいう。「府事を署す」とは、軍府の仕事を総録することである。
何焯はいう。董和は李厳とともに府事を託され、蜀の士大夫の心を慰した。とくに董和は端良・正方で、邪を傾した。もし黄権が蜀から去らねば、劉備の明主ぶりを損なわなかった。
何焯を受けて、ぼくは思う。董和・李厳・黄権が、劉璋から引き継ぐべき、統治の重要人物。彼ら益州閥の3人が揃ったまま機能すれば、李厳が「荊州閥に兵糧なんか送れない」とボイコットする必要もなく、荊州閥とうまく折り合えたかも。李厳が兵糧をボイコットして、益州閥の利益を守るために「がんばりすぎた」のは、黄権が去ったからかも。黄権が夷陵の戦いのとき魏に投降したデメリットが、こんなところにも。

可を獻じ否に替へ、共に歡交をなす。董和が官に居り祿を食みてより、外は殊域を牧し、内は機衡を幹し、20余年、死んだとき家に儋石の財も無し。

諸葛亮の没したときと同じだ。諸葛亮は、董和から薫陶を受けて、政治家として成長するとき参考にしたと言えそう。少なくとも益州の統治(豪強・異民族の対策)においては、董和から学ぶところがおおい。


諸葛亮のコメント:董和と胡済が諌めてくれた

亮後爲丞相、教與羣下曰「夫參署者、集衆、思廣、忠益也。若遠小嫌、難相違覆、曠闕損矣。違覆而得中、猶棄弊蹻而獲珠玉。然、人心苦不能盡、惟徐元直、處茲不惑。又、董幼宰、參署七年、事有不至、至于十反、來相啓告。苟能慕元直之十一幼宰之殷勤、有忠於國、則亮可少過矣」又曰「昔初、交州平、屢聞得失。後、交元直、勤見啓誨。前、參事於幼宰、每言則盡。後、從事於偉度、數有諫止。雖姿性鄙暗不能悉納、然與此四子終始好合。亦足以明其不疑於直言也」其追思和、如此。

諸葛亮がのちに丞相となり、群下に教えた。「夫れ署に參すれば(官職としての務めを担当するなら)衆思を集め(世を吸いあげ)忠益を廣くせよ。若し小嫌を遠ざけ、相ひ違覆するものを難ずれば、闕損を曠くす。違覆するとも中を得れば、猶ほ弊蹻を棄てて珠玉を獲るがごとし。

きらいなひとを遠ざけ、意見の違うものを批判するだけなら、政治はうまくいかない。意見の違っても耳を傾けるのは、破れた草履(自分の意見)を棄てて、珠玉(他人の意見)を得るようなものだと。つまり諸葛亮の政治課題として、益州の豪強・異民族は、荊州閥・蜀漢とは異なる意見を持つひとが多いが、彼らとの対話を欠かしてはならないと。董和のように、きっちり対話しなければならないと。劉璋のように、ダラダラと妥協したり、反対に弾圧したりしてはダメだと。

しかし人間は、これがうまくできない。ただ徐元直は、これを処して惑はず。

驚いた!徐庶がもしも劉備政権に残ったら、董和のように、益州豪族・異民族との利害調整をうまくやれただろうと。きっと諸葛亮は、董和のように、粘り強く対話をするのが苦手で、理想に燃えて前進するタイプである。しかし徐庶は、後方を固めるタイプだと(諸葛亮は思っていた)ようである。
もしも黄権・徐庶がいれば、益州の統治は完璧となった。というのを、黄権は何焯が、徐庶は諸葛亮自身が、イフ設定を唱えている。

また董和は、参署すること7年、

劉備が成都を得たのは、215年である。ここから長めに見て7年務めてもらうなら、222年まで生きていたことになる。劉備が大軍をひきいて夷陵で戦うとき、董和は留守番をして、益州のなかで利害調整をした。きっと大軍を興すために、大量の人員・物資を必要としたが、董和が諸葛亮とともに後方を守った。

至らないことがあれば、10回でも検討しなおし(意見が違うものと)相談・説得をした。

10たび話す相手が、意見が違うものであるというのは、胡三省の解釈による。

もし徐庶の10分の1だけでも(他人の意見に耳を傾け)幼宰のように殷勤となれば、国に忠であることができ、私の過失は少なくなるだろう」

これは徐庶ファンが読むべき台詞だな。諸葛亮伝の注釈ばかり、見ていては気づくことができない。そして、徐庶は「撃剣」のイメージや、『演義』で陣形をやぶるイメージが強いが、豪強・異民族に対して謙虚に振る舞えるという人格だと、親友の諸葛亮から認識されていたというのは、極めて重要なデータだ。

また諸葛亮はいう。「むかし崔州平と交わり、しばしば得失を聞いた(欠点を指摘された)。のちに徐庶と交わり、勤めて啓誨を見た(教示を受けた)。さきに董和に参事すると、つねに全てを(包み隠さず諸葛亮の為政に対する意見を)言ってくれた。のちに胡済と従事したら、しばしば諌止された。

諸葛亮の人格形成に関わった人物として、就職する前は崔州平・徐庶。就職して後は董和・胡済。

わが姿性は鄙暗なので、すべてを受け入れられなかったが、この4人とは、終始にわたり好合した。直言することを疑わぬ姿勢は、聡明なひととするに足る」と。董和を追思するのは、このようであった。

益州に乗りこんできた軍師将軍の諸葛亮サマが、董和にいろいろ諌止され、葛藤しながら政治家として成長していくとか、考えると楽しい。
あるひと(盧弼)はいう。董和伝の末尾には、「子の董和には、自ら列伝あり」と書かないのはなぜか。ぼくは思う。もとは董和・董允伝はつながっていが、活躍した時期に沿って、事績が似た(と陳寿が思う)ひとを挿入した結果、離れてしまったのだろう。間に入るのは、劉巴・馬良・陳震である。


付_胡済伝

偉度者、姓胡、名濟、義陽人。爲亮主簿、有忠藎之效、故見褒述。亮卒、爲中典軍、統諸軍、封成陽亭侯、遷中監軍前將軍、督漢中、假節領兗州刺史、至右驃騎將軍。濟弟博、歷長水校尉尚書。

(諸葛亮の台詞に出てきた)胡済は、あざなを偉度といい、義陽のひと。諸葛亮の主簿となり、忠藎の效があり、ゆえに褒述された。諸葛亮が卒すると、中典軍となり、諸軍を統べ、成陽亭侯に封ぜらる。

趙一清はいう。この裴注は書名が欠落する。義陽は、明帝紀の景初元年。
ぼくは思う。諸葛亮の主簿(部下)であり、かつ諸葛亮の死後にも官歴が続くことから、諸葛亮よりも若そうだと分かる。それなのに諸葛亮を諌めたのだから、わりとスゴイ。

中監軍・前將軍に遷り、漢中を督し、假節・領兗州刺史となる。右驃騎將軍に至る。

盧弼はいう。この胡済と、姜維伝に出てくる鎮西大将軍の胡済とは、あるいは別人であろうか。ぼくは思う。256年の戦いに、姜維とともに参加するが、「漢中を督し」とか、この官職の高さを見ると、老将?として参加したと見たほうが楽しいかも。

胡済の弟の胡博は、長水校尉・尚書を歴す。

◆胡済に関する他の記述
後主伝:十九年春,進姜維位為大將軍,督戎馬,與鎮西將軍胡濟期會上邽,濟失誓不至。秋八 月,維為魏大將軍鄧艾所破于上邽。維退軍還成都。
董允伝:允嘗與尚書令費禕、中典軍胡濟等共期游宴,嚴駕已辦,而郎中襄陽董恢詣允脩敬。(すぐ下でやります)
李厳伝注引 亮公文上尚書曰:…… 行中參軍昭武中郎將臣胡濟……
姜維伝:十九年春,就遷維為大將軍。更整勒戎馬,與鎮西大將軍胡濟期會上邽,濟失誓不至,故維為魏大將鄧艾所破於段谷,星散流離,死者甚眾。眾庶由是怨讟,而隴已西亦騷動不 寧,維謝過引負,求自貶削。為後將軍,行大將軍事。
姜維伝:於是令督漢中胡濟卻住漢壽,監軍王 含守樂城,護軍蔣斌守漢城,又於西安、建威、武衞、石門、武城、建昌、臨遠皆立圍守。

李厳伝・姜維伝をやろうと、目途がつきました。

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劉禅を善導し、董恢をもてなした董允伝

費禕・郭攸之とともに出師の表が指名

董允、字休昭、掌軍中郎將和之子也。先主立太子、允以選爲舍人、徙洗馬。後主、襲位、遷黃門侍郎。丞相亮、將北征住漢中。慮後主富於春秋朱紫難別、以允秉心公亮、欲任以宮省之事。上疏曰「侍中郭攸之、費禕、侍郎董允等、先帝簡拔以遺陛下。至於斟酌規益、進盡忠言、則其任也。愚以爲、宮中之事、事無大小、悉以咨之。必能裨補闕漏、有所廣益。若無興德之言、則戮允等以彰其慢」

董允は、あざなを休昭という。掌軍中郎將の董和の子である。先主が太子を立てると、董允を選び舍人とし、洗馬に徙す。

太子舎人は、明帝紀の青龍三年。太子洗馬は倉慈伝。

後主が位を襲うと、遷って黄門侍郎となる。丞相の亮が北征するとき、出師の上疏をした。「侍中の郭攸之・費禕、侍郎の董允らは、先帝が簡抜して陛下に遺した。宮中の事は彼らの意見を聞け。彼らが興德の言をしなければ、董允らを戮してその慢を彰しなさい」

亮尋請禕、爲參軍。允遷爲侍中、領虎賁中郎將、統宿衞親兵。攸之、性素和順、備員而已。

楚國先賢傳曰。攸之、南陽人、以器業知名於時。

諸葛亮は、費禕を参軍にした。董允を遷して侍中とし、虎賁中郎将を領して宿衞の親兵を統せしむ。郭攸之は、性は和順で、官員の頭数を揃えるだけ。

何焯はいう。孔明は、おそらく周公の「立政」の言を用いて内(劉禅の周囲・内朝)を治めた。ときに来敏が中郎将となり、丞相は漢中に駐屯した。(諸葛亮が?)軍祭酒(軍事のトップ)となることを請い、ゆえに董允に虎賁中郎将を兼領させた。和順と公亮なものは、左右に並べると、君徳が養われ、睽否の憂(君臣・臣同士が、そむき否定しあう憂い)がなくなる。
ぼくは思う。諸葛亮の出師の表は、既成事実を述べたのではない。現実を変成する力を持っている。人材については、すでに有能な人を列挙するのではなく、これから期待する役割を既定した。激励であり、水準に達せねば罰するという脅迫でもある。また人数を大量にあげることで、経書に見えるような重厚な官僚組織を、蜀漢が備えて、劉禅を取り囲んでいることをアピールしている。経書にかなうためには、郭攸之のような、役立たずに見える人物だって、頭数のために必要である。ひとを見る目がある劉備が抜擢した。きっと荊州からずっと従っている。

『楚国先賢伝』はいう。郭攸之は南陽のひと。器・業を以て時に名を知らる。

ぼくは思う。Wikipediaは郭攸之のあざなを「演長」とする。廖立伝を「中郎郭演長、從人者耳、不足與經大事」と読んだ結果。上海古籍版『三国志集解』は趙一清をひき、廖立伝を「中郎郭演、長從人者耳、不足與經大事」と区切って、攸之をあざな、名を演とする。二字名が珍しい時期なので趙一清に惹かれる。
ぼくは思う。郭攸之と、なぜかあざなで出師の表に書かれてしまった、郭演。使えない郭演。頭数を稼ぐための郭演。諸葛亮が政治体制を立派に見せるために、とりあえず官職に座らせた郭演。諸葛亮が天子に見せる上疏で、ルールを破って名指しを憚るほど、異様な存在感の郭演。彼を座らせておくと、朝廷がソレらしくなる郭演。きっと年長者の郭演。廖立から「役立たず」と言われる郭演。さすが孔明、人材を見る目がない……かと思いきや、彼がいないと仕事が回らないほど、カゲで重要な役割を果たしていた郭演。という妄想がひろがる。
廖立伝、読みましょう。


劉禅を諌め、黄皓の昇進を防ぐ

獻納之任、允皆專之矣。允、處事爲防制、甚盡匡救之理。後主常欲、采擇以充後宮。允以爲、古者天子后妃之數不過十二、今嬪嬙已具、不宜增益、終執不聽。後主、益嚴憚之。

獻納の任は、董允がすべて専らにした。

出師の表どおりに、劉禅を諌める役割は、費禕・郭攸之がきちんと機能しないので、董允が行ったと。なぜか諸葛亮が末尾で、「期待の仕事をしない場合は、董允を戮せ」と、なぜか董允の名が代表させてある。ギクッとして、董允ががんばらざるを得なかったとか。劉禅にアドバイスするふりをして、臣下たちを叱咤する。諸葛亮は厳しい上司である。ぼくは諸葛亮の下で働きたくない。

董允は、事を處すに防制をなし、甚だ匡救の理を尽す。後主はつねに後宮を増員したかったが、董允が「古は天子の后妃の数は12を過ぎず、もう後主には12人いるから増やすな」と諌めた。劉禅は董允を憚った。

これが、諸葛亮から期待された、劉禅に正しいアドバイスをする役割。劉禅は、後宮を充実させるぐらいしか、楽しみがない。しかし一事が万事。後宮の増員そのものがマズいのではなく、ここから奢侈に流れることを戒めた……と。董允は、諸葛亮の生前は、彼の代理として成都に留まっているという意識を持たざるを得ず、この諌言が董允のキャラを表すとは考えにくい。


尚書令蔣琬、領益州刺史、上疏以讓費禕及允。又表「允、內侍歷年、翼贊王室、宜賜爵土以褒勳勞」允固辭不受。

尚書令の蔣琬が、益州刺史を領すと、上疏して費禕および董允に譲った。

董允は、父の董和が劉璋に仕えたから、「二世」である。父は「荊州閥の先駆け」のような位置づけだったが、二世となれば「益州閥」である。父が益州の豪強との利害調整をがんばったから、勢力の基盤は益州にあると見るべきだろう。少なくとも荊州閥の蒋琬から見れば、「益州閥の費禕もしくは董允に、就職を任せたい」である。奇しくも、費禕・董允とも、列伝に書かれた本籍が荊州なので荊州閥に見えるが、劉璋政権と関係を結んだ時点で、ぼくの分類では益州閥。つまり劉備から見たら、先行する土着勢力。折りあうべき対象。

また蒋琬は表した。「董允は、内侍すること歴年、王室を翼贊す。宜しく爵土を賜ひ以て勳勞を褒せ」と。董允は辞退した。

蒋琬が、とりあえず持ちあげておかないと面倒くさい/持ちあげておけば間違いがない人物として、董允が認識されていたことが分かる。蜀漢では、なかなか二世官僚が育たない(育っても出てくるのは再末期)が、董和・董允は二代にわたって蜀漢で、高い地位を得ている。人脈において、わりと隠然たる影響力があったのかも。


後主漸長大、愛宦人黃皓。皓、便辟佞慧、欲自容入。允常上則正色匡主、下則數責於皓。皓畏允、不敢爲非。終允之世、皓位不過黃門丞。

後主が年長になると、宦人の黃皓を愛した。皓はへつらう。董允は黄皓を責めたので、黄皓は董允を畏れて、あえて非行をやらない。董允のいるうちは、黄皓の官位は黃門丞を過ぎず。

康発祥はいう。陳祗が董允に代わって侍中になると、黄皓とたがいに表裏となり、畏福をもてあそんだ。陳祗のせいで国が滅びた。董允は偉いのになあ。
@Jominian さんはいう。董允伝について、個人的には、もともと董和伝に付していた董允伝を、陳寿が地元益州での董允の名声に憚って、後から無理矢理分けたんじゃないかと思う。そしてそれが本意でないと分かるように、董和伝をぶつ切りのような状態のままにしたのだろう
@HAMLABI3594 さんはいう。そういえば諸葛亮伝の董厥伝に有る樊建も本文扱いだけど侍中が被ることから、あとから挿入したものだろうと。そもそも諸葛亮伝に董厥伝があること自体おかしいので、これもあとから挿入したものだろうけど。段階があるみたいだね。
@Jominian さんはいう。董允伝独立の背景には、黄皓を抑えこんだことによる、董允の後世の名声が関係していると思うが、陳寿が編纂した時点で独立していたのか、裴松之の時代までに変わったのかは分からない。しかし、編纂後に変わったなら、オリジナルが残っていてもおかしくないが、裴松之もそれに言及していない。
@Jominian さんはいう。華陽国志は諸葛亮、蒋琬、費禕、董允を四相として称えている。だが、諸葛亮以外の三人は諸葛亮に比肩できるような人ではない。董允に至っては蒋琬や費禕と比べても一段落ちる。史書における董允の役回りは、費禕の引き立て役か宦官抑止くらいだ。過剰な黄皓disが、相対的に董允をageただけでは?
@Jominian さんはいう。董允は黄皓に恨まれていたので、子が蜀漢で出世できず、蜀漢の公式記録にも載らなかった。しかし、王朝が滅び、黄皓や劉禅ら支配層が消えると、黄皓を恨んでいた益州人から支持を受けるようになったのだろう。それが四相の称号に繋がった。仮に董栄が董允の子なら、大出世であろう。


付_董恢伝

允嘗與尚書令費禕、中典軍胡濟等、共期游宴。嚴駕已辦、而郎中襄陽董恢、詣允脩敬。恢、年少官微、見允停出、逡巡求去。允不許、曰「本所以出者、欲與同好游談也。今君已自屈、方展闊積。舍此之談、就彼之宴、非所謂也」乃命解驂、禕等罷駕不行。其守正下士、凡此類也。

かつて董允は、尚書令の費禕・中典軍の胡済らと、遊宴の約束をした。

胡済は、上の董和伝に見える。諸葛亮の主簿となり、諸葛亮の死後は漢中にいて、姜維とともに鄧艾と戦うひと。諸葛亮を諌めた人物として、諸葛亮が名をあげる。

馬車が出発の準備をしたら、郎中である襄陽の董恢がきて、董允に脩敬した。董恢は年は少く官は微い。董允が出かけようとするのを見て、逡巡して去ろうとした。董允は許さず、「出かける目的は、同好とともに游談すること。いま君が自らわざわざ訪問してくれたから、君と話そう。あっちの会は行かなくていいや」と。
馬車の馬を解いて、費禕の遊宴には行かず。正を守り、士に下るのは、このようであった。

どんな身分の低い相手でも、せっかく訪問してくれたら、きちんと持てなす。「士に下る」は、袁紹の性格でもあったが、董允も同じである。劉禅を諌めたり、黄皓を防いだり、士に遜ったり……人格の正しさを体現したようなひと。
費禕伝で、董允が費禕のマネをして、賓客をもてなしながら仕事をしたら、とても片付かなかった、という凡人エピソードが書かれている。これは『禕別伝』の創作だろうが、その背景には、董允は堅苦しい凡人という、この董允伝があたえる印象があるのだろう。逆にいえば、董允伝で彼が凡人だと知れるから、『禕別伝』の元ネタがここにある;後世の創作に過ぎないと特定できる。


襄陽記曰。董恢字休緒、襄陽人。入蜀、以宣信中郎副費禕使吳。孫權嘗大醉問禕曰「楊儀、魏延、牧豎小人也。雖嘗有鳴吠之益於時務、然既已任之、勢不得輕、若一朝無諸葛亮、必爲禍亂矣。諸君憒憒、曾不知防慮於此、豈所謂貽厥孫謀乎?」禕愕然四顧視、不能卽答。恢目禕曰「可速言儀、延之不協起於私忿耳、而無黥、韓難御之心也。今方掃除彊賊、混一區夏、功以才成、業由才廣、若捨此不任、防其後患、是猶備有風波而逆廢舟楫、非長計也。」權大笑樂。諸葛亮聞之、以爲知言。還未滿三日、辟爲丞相府屬、遷巴郡太守。
臣松之案。漢晉春秋亦載此語、不云董恢所教、辭亦小異、此二書俱出習氏而不同若此。本傳云「恢年少官微」、若已爲丞相府屬、出作巴郡、則官不微矣。以此疑習氏之言爲不審的也。

『襄陽記』はいう。董恢は、あざなを休緒、襄陽のひと。劉備が入蜀するとき、宣信中郎となり、費禕の副使として呉にゆく。孫権が酔って、費禕に「楊儀・魏延は対立する。もし諸葛亮がいなくなれば、禍乱を起こす」とからむ。費禕は愕然として四方を顧視し、即答できない。董恢は費禕に目配せして、「魏延らは私的に対立するだけで、鯨布・韓信のような御しがたい野心を持たない。いまいる人材を有効活用すべきだ。風があるとき、船の楫を捨てるのが長計でないように」と。
諸葛亮はこれを聞き、還って3日もせずに丞相府の属官として、巴郡太守に遷す。
裴松之が考えるに、『漢晋春秋』もこの話を載せが、董恢の台詞がない。辞も少し違う。『漢晋春秋』と『襄陽記』は、どちらも習鑿歯が書いたのに一致しない。董允伝で「董恢は年少・官微」とするが、もしすでに丞相府属となり、巴郡太守となっていれば、官は微でない。習鑿歯の史料は怪しい。

ぼくは思う。確かに厳密に見れば怪しいが。習鑿歯が、いかにもありそうな話を、彼なりの調査ないしは創作によって、つかみ取っていたと考えたい。「費禕・董恢がセットで孫権に会い」「孫権が魏延・楊儀のことをいい」「費禕もしくは董恢が言い返した」だろう。董允は「(少なくとも費禕よりは)官位がひくい董允との会食を優先した」という出来事があって、周囲を驚かせた、さすが董允さんは節義をわきまえているなあ!という話があった。それでいいじゃん。


董允の後任者は陳祗

延熙六年、加輔國將軍。七年、以侍中守尚書令、爲大將軍費禕副貳。九年、卒。陳祗、代允、爲侍中。與黃皓互相表裏、皓始預政事。

延熙六年、董允は輔国将軍を加えられた。七年、侍中を以て尚書令を守す。大将軍の費禕の副弐となる。九年、卒した。

ぼくから見ると、父の董和は、益州の統治に実績が多くて、諸葛亮の手本になったようなので、おもしろい。しかし子の董允は、諸葛亮のもつ堅苦しい部分だけを切り出した人物に見えて、あまりおもしろくない。彼のような人物がいれば、劉禅がひきしまるから、国家にとって重要な人物であろうが……、逆に君主が劉禅でなければ、活躍の場が少ない。「また紋切り型の堅苦しい諌言ですね。はいはい」と受け流されそうだ。
劉禅が、何色にも染まる糸だからこそ、色を遠ざけるという、マイナスを打ち消すような属性のひとが活躍する。陳祗・黄皓との対比で、すぐれた宰相として(蜀滅亡という結果を受けて、遡及的に)認識された。

陳祗が董允に代わって侍中となり、黄皓とつるんだ。

つぎは陳祗伝が続くのだが、また後日。


華陽國志曰。時蜀人以諸葛亮、蔣琬、費禕及允爲四相、一號四英也。

『華陽国志』はいう。ときの蜀のひとは、諸葛亮・蒋琬・費禕および董允を「四相」として「四英」とよんだ。150825

デスノートで、エルの後継者として、ニア・メロがライバルとなり、エルの要素を分解して2人のキャラとした。2人はライバルであり間接的な協力者でもあった。
諸葛亮の後継者として、蒋琬・費禕・董允がいる。諸葛亮の要素を分解して、3人のキャラとしたように見える。天下統一に執念を燃やしてムリをする役は蒋琬が、益州の内政をしつつ益州閥と荊州閥の融和に務める役は費禕が、劉禅の父代わりとして指導する役は董允が受け持った。

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李厳の扱いづらさを警告した陳震伝

陳震伝は、董和伝と董允伝のあいだにある。

孫権に天下二分を説く

陳震、字孝起、南陽人也。先主領荊州牧、辟爲從事、部諸郡、隨先主入蜀。蜀既定、爲蜀郡北部都尉。因易郡名、爲汶山太守、轉在犍爲。建興三年入拜尚書、遷尚書令。奉命、使吳。七年孫權稱尊號、以震爲衞尉、賀權踐阼。諸葛亮、與兄瑾書曰「孝起、忠純之性、老而益篤。及其贊述東西歡樂和合、有可貴者」

陳震は、あざなを孝起といい、南陽のひと。先主が荊州牧を領すと、辟して從事とする。諸郡を部し、先主に隨ひ入蜀す。蜀は既に定まるや、蜀郡北部都尉となる。郡名を易へ、汶山太守とする、転じて犍爲にあり。

汶山郡は、後主の延熙十年にある。
銭大昕はいう。『後漢書』西南夷伝によると、汶山郡はすでに後漢の霊帝期に立てられている。漢末に統合されたのを、劉備がまた郡として分けたか。
犍為郡は、劉焉伝にみえる。
ぼくは思う。劉備の部下として蜀地に乗りこみ、異民族もいるあたりで地方官をした。劉備の抱える手駒のひとつ。優れているけれどキャラが立たず……というのが、ここまでの展開。

建興三年、入りて尚書を拜し、尚書令に遷る。命を奉じ、吳に使ひす。七年、孫權 尊號を稱し、震を以て衞尉と爲し、權の踐阼を賀せしむ。諸葛亮、兄の瑾に書を與へて曰く、「孝起(陳震)は忠純の性、老ひて益々篤し。その贊述 東西を歡樂し和合せしむるに及ぶ。貴ぶ可き者あり」

ぼくは思う。諸葛亮がわざわざ、「陳震が行くから、よろしく」と、兄に断っている。諸葛の兄弟は、公務において疎遠な感じがするのに、意外なことである。なぜか。孫権の尊号は、ふつうに考えると、諸葛亮が突っぱねそうである。なぜなら、蜀漢の国是にそむくことだから。
しかし諸葛亮は、国是にそむいて妥協してでも、孫権との同盟を維持することにした。その(非現実的にも見える)決断を真実めかすため、兄の力を借りようとした。
当然、このときの使者に選ばれた陳震は、役割がおおきい。普段の使者みたいに、孫権をからかって、トンチ遊びをしたら充分、というわけにはいかない。諸葛亮が激怒しながら、むりに笑顔をつくって「おめでと」と言う。この歪んだ祝賀の使者を任せたのが、はじめて呉にいく陳震だった。


孫権のところに使者にゆく

震、入吳界、移關候曰「東之與西驛使往來、冠蓋相望。申盟初好、日新其事。東尊、應保聖祚、告燎受符、剖判土宇、天下響應、各有所歸。於此時也、以同心討賊、則何寇不滅哉。西朝君臣、引領欣賴。震以不才、得充下使、奉聘敍好、踐界踊躍、入則如歸。獻子適魯、犯其山諱、春秋譏之。望必啓告、使行人睦焉。卽日張旍誥衆、各自約誓。順流漂疾、國典異制、懼或有違。幸必斟誨、示其所宜」震到武昌、孫權與震、升壇歃盟、交分天下。以徐豫幽青屬吳、幷涼冀兗屬蜀。其司州之土、以函谷關爲界。

陳震は呉の国境に入ると、「東西の国は仲良くやりたいと思ってます(とクドクドと背景を説明してから)獻子が魯にゆき、魯国の山の名を口に出して、『春秋』に譏られました。

上海古籍2606頁。

呉で口に出してはいけない言葉を教えて下さい。仲良くなれるように」といった。
武昌にいたり、孫権と陳震は血をすすって誓い、天下を分けた。徐豫幽青を呉に属させ、幷涼冀兗を蜀に属させる。司州の土は、函谷關を境界とする。

孫権伝の黄龍元年にある。これの初めのほう。
『呉書』巻2・呉主伝の後半;皇帝としての孫権


李厳を警戒せよと、諸葛亮に注意喚起

震還、封城陽亭侯。九年都護李平、坐誣罔、廢。諸葛亮、與長史蔣琬、侍中董允書曰「孝起、前臨至吳、爲吾說『正方、腹中有鱗甲、鄉黨以爲不可近』吾以爲、鱗甲者但不當犯之耳。不圖、復有蘇張之事出於不意。可使孝起知之」十三年、震卒。子濟嗣。

陳震が還ると、城陽亭侯に封ぜらる。建興九年、都護の李平(李厳)が誣罔に坐して(不当な発言により)廃された。諸葛亮は、長史の蔣琬・侍中の董允とともに書した。

この顔ぶれ。あと費禕を加えたら、蜀の「四英」である。この顔ぶれが見たいから、陳震伝を読んだ。

「陳震は、前に呉にゆくとき、私に『正方(李厳)は、腹中に鱗甲あり、郷党 以為らく近づく可からず』と。吾が思うに、鱗甲とは但だ犯すに當らざるのみ。図らず、復た(諸侯を反復させるような)蘇秦・張儀のような発言を不意に出づ。孝起(陳震に)に知らせよう」と。

ちくま訳から膨らますと、李厳は腹のなかにトゲがあって、郷党も近づけないという。トゲがあっても触らなければいいと思ったが、李厳のほうがトゲを出して(攻撃して)きたと。
陳震は、李厳の悪口を言ったのか。その解釈が当然なのだが、ちょっと考えると、「李厳は扱い方が難しいよ」という注意喚起だったのではないか。しかし諸葛亮は、李厳の使い方をまちがえた(北伐の兵站を任せて、撤退に追いこまれた)。「四英」がこぞって「李厳にはコリゴリ」と言っているのだから、陳震の眼力の正しさよりも、いかに李厳が警戒されていたかのほうが強調される話。せまい国内なのに/だからこそ、いがみあう。

十三年、陳震は卒した。子濟嗣。150825

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