孫呉 > 諸葛恪伝

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孫権期

▼巻六十四 諸葛恪伝 諸葛恪、字元遜、瑾長子也。少知名〔一〕。弱冠拝騎都尉、与顧譚張休等、侍太子登、講論道芸、並為賓友。従中庶子、転為左輔都尉。恪父瑾、面長似驢。孫権、大会羣臣、使人牽一驢入、長検其面、題曰、諸葛子瑜。恪跪曰「乞請、筆益両字」因聴与筆。恪続其下曰「之驢」挙坐歓笑、乃以驢賜恪。他日復見、権問恪曰「卿父与叔父、孰賢。」対曰「臣父為優」権問其故、対曰「臣父知所事、叔父不知。以是為優」権又大噱。命恪行酒、至張昭前、昭先有酒色、不肯飲、曰「此、非養老之礼也」権曰「卿、其能令張公辞屈、乃当飲之耳」恪難昭曰「昔、師尚父、九十、秉旄仗鉞、猶未告老也。今軍旅之事、将軍在後。酒食之事、将軍在先。何謂不養老也。」昭卒無辞、遂為尽爵。後、蜀使至、羣臣並会、権謂使曰「此、諸葛恪、雅好騎乗。還告丞相、為致好馬」恪因下謝、権曰「馬未至而謝何也。」恪対曰「夫、蜀者陛下之外廄、今有恩詔、馬必至也。安敢不謝。」恪之才捷、皆此類也〔二〕。権甚異之、欲試以事、令守節度。節度、掌軍糧穀、文書繁猥、非其好也〔三〕。 〔一〕江表伝曰、恪少有才名、発藻岐嶷、辯論応機、莫与為対。権見而奇之、謂瑾曰「藍田生玉、真不虚也。」呉録曰、恪長七尺六寸、少鬚眉、折頞広額、大口高声。 〔二〕恪別伝曰、権嘗饗蜀使費禕、先逆敕羣臣「使至、伏食勿起。」禕至、権為輟食、而羣下不起。禕啁之曰「鳳皇来翔、騏驎吐哺、驢騾無知、伏食如故。」恪答曰「爰植梧桐、以待鳳皇、有何燕雀、自称来翔。何不弾射、使還故郷。」禕停食餅、索筆作麦賦、恪亦請筆作磨賦、咸称善焉。権嘗問恪「頃何以自娯、而更肥沢。」恪対曰「臣聞富潤屋、徳潤身、臣非敢自娯、脩己而已。」又問「卿何如滕胤。」恪答曰「登階躡履、臣不如胤。迴籌転策、胤不如臣。」恪嘗献権馬、先𨪕其耳。范慎時在坐、嘲恪曰「馬雖大畜、稟気於天、今残其耳、豈不傷仁。」恪答曰「母之於女、恩愛至矣、穿耳附珠、何傷於仁。」太子嘗嘲恪「諸葛元遜可食馬矢。」恪曰「願太子食鷄卵。」権曰「人令卿食馬矢、卿使人食鷄卵何也。」恪曰「所出同耳。」権大笑。江表伝曰、曾有白頭鳥集殿前、権曰「此何鳥也。」恪曰「白頭翁也。」張昭自以坐中最老、疑恪以鳥戯之、因曰「恪欺陛下、未嘗聞鳥名白頭翁者、試使恪復求白頭母。」恪曰「鳥名鸚母、未必有対、試使輔呉復求鸚父。」昭不能答、坐中皆歓笑。 〔三〕江表伝曰、権為呉王、初置節度官、使典掌軍糧、非漢制也。初用侍中偏将軍徐詳、詳死、将用恪。諸葛亮聞恪代詳、書与陸遜曰「家兄年老、而恪性疎、今使典主糧穀、糧穀軍之要最、僕雖在遠、窃用不安。足下特為啓至尊転之。」遜以白権、即転恪領兵。 恪、以丹楊山険、民多果勁、雖前発兵、徒得外県平民而已、其餘深遠、莫能禽尽。屡自求、乞為官出之、三年可得甲士四万。衆議咸以「丹楊地勢険阻、与呉郡、会稽、新都、鄱陽、四郡鄰接、周旋数千里、山谷万重、其幽邃民人、未嘗入城邑、対長吏、皆仗兵野逸、白首於林莽、逋亡宿悪、咸共逃竄。山出銅鉄、自鑄甲兵。俗好武習戦、高尚気力、其升山赴険、抵突叢棘、若魚之走淵、猨狖之騰木也。時観間隙、出為寇盜、毎致兵征伐、尋其窟蔵。其戦則蠭至、敗則鳥竄、自前世以来、不能羈也」皆以為難。恪父瑾聞之、亦以事終不逮、歎曰「恪不大興吾家、将大赤吾族也」恪、盛陳其必捷。権、拝恪撫越将軍、領丹楊太守、授棨戟武騎三百。拝畢、命恪備威儀、作鼓吹、導引帰家。時年三十二。 恪到府、乃移書四郡属城長吏、令各保其疆界、明立部伍、其従化平民、悉令屯居。乃分内諸将、羅兵幽阻、但繕藩籬、不与交鋒、候其穀稼将熟、輒縦兵芟刈、使無遺種。旧穀既尽、新田不収、平民屯居、略無所入、於是、山民飢窮、漸出降首。恪乃復敕下曰「山民、去悪従化、皆当撫慰、徙出外県。不得嫌疑有所執拘」臼陽長胡伉、得降民周遺。遺、旧悪民、困迫暫出、内図叛逆。伉、縛送、言府。恪、以伉違教、遂斬以徇、以状表上。民聞、伉坐、執人被戮、知官惟欲出之而已。於是、老幼相攜而出。歳期、人数皆如本規。恪、自領万人、餘分給諸将。 権、嘉其功、遣尚書僕射薛綜、労軍。綜、先移恪等曰「山越恃阻、不賓歴世。緩則首鼠、急則狼顧。皇帝赫然、命将西征、神策内授、武師外震。兵不染鍔、甲不沾汗、元悪既梟、種党帰義。蕩滌山藪、献戎十万。野無遺寇、邑罔残姦。既埽兇慝、又充軍用。藜蓧稂莠、化為善草。魑魅魍魎、更成虎士。雖実国家威霊之所加、亦信元帥臨履之所致也。雖、詩美執訊、易嘉折首、周之方召、漢之衛霍、豈足以談。功軼古人、勲超前世。主上歓然、遥用歎息。感四牡之遺典、思飲至之旧章。故遣中台近官、迎致犒賜、以旌茂功、以慰劬労」拝恪威北将軍、封都郷侯。恪、乞率衆佃、廬江、皖口。因軽兵、襲舒、掩得其民而還。復遠遣斥候、観相径要、欲図寿春。権以為不可。 赤烏中、魏司馬宣王、謀欲攻恪。権方発兵応之、望気者以為不利、於是徙恪屯於柴桑。与丞相陸遜書曰「楊敬叔、伝述清論、以為、方今人物彫尽、守徳業者不能復幾。宜相左右更為輔車、上煕国事、下相珍惜。又疾、世俗好相謗毀、使已成之器中有損累、将進之徒意不歓笑。聞此、喟然、誠独撃節。愚以為、君子不求備於一人。自孔氏門徒大数三千、其見異者七十二人。至于、子張、子路、子貢等、七十之徒、亜聖之徳。然猶各有所短、師辟由喭、賜不受命。豈況下此而無所闕。且、仲尼、不以数子之不備、而引以為友、不以人所短棄其所長也。加、以当今取士、宜寛於往古。何者、時務従横而善人単少、国家職司常苦不充。苟令性不邪悪、志在陳力、便可奨就、騁其所任。若於小小宜適、私行不足、皆宜闊略、不足縷責。且、士誠不可纖論苛克。苛克則彼賢聖猶将不全、況其出入者邪。故曰、以道望人則難、以人望人則易、賢愚可知。自漢末以来、中国士大夫、如許子将輩、所以更相謗訕、或至於禍。原其本起、非為大讎、惟坐克己不能尽如礼、而責人専以正義。夫、己不如礼、則人不服。責人以正義、則人不堪。内不服其行、外不堪其責、則不得不相怨。相怨一生、則小人得容其間。得容其間、則三至之言、浸潤之譖、紛錯交至、雖使至明至親者処之、猶難以自定。況、己為隙、且未能明者乎。是故、張陳至於血刃、蕭朱不終其好、本由於此而已。夫、不舍小過、纖微相責、久乃至於家戸為怨、一国無復全行之士也」恪、知遜以此嫌己、故遂広其理而賛其旨也。会遜卒、恪遷大将軍、仮節、駐武昌、代遜領荊州事。久之、権不豫、而太子少。乃徴恪、以大将軍、領太子太傅。中書令孫弘、領少傅。権疾困、召恪、弘及太常滕胤、将軍呂拠、侍中孫峻、属以後事〔一〕。 〔一〕呉書曰、権寝疾、議所付託。時朝臣咸皆注意於恪、而孫峻表恪器任輔政、可付大事。権嫌恪剛很自用、峻以当今朝臣皆莫及、遂固保之、乃徴恪。後引恪等見臥内、受詔牀下、権詔曰「吾疾困矣、恐不復相見、諸事一以相委。」恪歔欷流涕曰「臣等皆受厚恩、当以死奉詔、願陛下安精神、損思慮、無以外事為念。」権詔有司諸事一統於恪、惟殺生大事然後以聞。為治第館、設陪衛。羣官百司拝揖之儀、各有品叙。諸法令有不便者、條列以聞、権輒聴之。中外翕然、人懐歓欣。 翌日、権薨。弘、素与恪不平、懼為恪所治、秘権死問、欲矯詔除恪。峻、以告恪。恪、請弘咨事、於坐中誅之、乃発喪制服。与弟公安督融、書曰「今月十六日乙未、大行皇帝、委棄万国、羣下大小、莫不傷悼。至吾父子兄弟、並受殊恩、非徒凡庸之隷、是以悲慟、肝心圮裂。皇太子、以丁酉、践尊号、哀喜交并、不知所措。吾、身受顧命、輔相幼主。窃自揆度、才非博陸而受姫公負図之託、懼忝丞相輔漢之効、恐損先帝委付之明。是以、憂慚惶惶、所慮万端。且、民悪其上、動見瞻観、何時易哉。今以、頑鈍之姿、処保傅之位、艱多智寡、任重謀浅、誰為脣歯。近漢之世、燕蓋交遘、有上官之変。以身値此、何敢怡豫邪。又弟所在、与賊犬牙相錯、当於今時、整頓軍具、率厲将士、警備過常。念出万死、無顧一生、以報朝廷、無忝爾先。又、諸将備守各有境界、猶恐賊虜聞諱、恣睢寇窃。辺邑諸曹、已別下約敕、所部督将、不得妄委所戍径来奔赴。雖懐愴怛不忍之心、公義奪私。伯禽服戎。若苟違戻、非徒小故。以親正疏、古人明戒也」恪、更拝太傅。於是、罷視聴、息校官、原逋責、除関税。事崇恩沢、衆莫不悦。恪毎出入、百姓延頸、思見其状。 初権、黄龍元年、遷都建業、二年築東興隄、遏湖水。後、征淮南、敗以内船、由是廃、不復脩。恪以、建興元年十月、会衆於東興、更作大隄、左右結山、侠築両城、各留千人。使全端、留略、守之、引軍而還。魏、以呉軍入其疆土、恥於受侮、命大将胡遵、諸葛誕等、率衆七万、欲攻囲両塢、図壊隄遏。恪、興軍四万、晨夜赴救。遵等、敕其諸軍、作浮橋度、陳於隄上、分兵攻両城。城在高峻、不可卒抜。恪、遣将軍、留賛、呂拠、唐咨、丁奉、為前部。時天寒雪、魏諸将会飲、見賛等兵少、而解置鎧甲、不持矛戟、但兜鍪刀楯、倮身縁遏、大笑之、不即厳兵。兵得上、便鼓譟乱斫。魏軍、驚擾散走、争渡浮橋、橋壊絶、自投於水、更相蹈藉、楽安太守桓嘉等同時并没、死者数万。故叛将韓綜、為魏前軍督、亦斬之。獲車乗牛馬驢騾各数千、資器山積、振旅而帰。進封恪陽都侯、加荊揚州牧、督中外諸軍事、賜金一百斤、馬二百匹、繒布各万匹。恪、遂有軽敵之心。以十二月戦克、明年春、復欲出軍〔一〕。諸大臣以為、数出罷労、同辞諫恪、恪不聴。中散大夫蒋延、或以固争、扶出。 〔一〕漢晋春秋曰、恪使司馬李衡往蜀説姜維、令同挙、曰「古人有言、聖人不能為時、時至亦不可失也。今敵政在私門、外内猜隔、兵挫於外、而民怨於内、自曹操以来、彼之亡形未有如今者也。若大挙伐之、使呉攻其東、漢入其西、彼救西則東虚、重東則西軽、以練実之軍、乗虚軽之敵、破之必矣。」維従之。

諸葛恪が再北伐を説く

恪乃著論、諭衆意曰「夫、天無二日、土無二王。王者、不務兼并天下而欲垂祚後世、古今未之有也。昔、戦国之時、諸侯、自恃兵彊地広、互有救援、謂、此足以伝世、人莫能危。恣情従懐、憚於労苦、使秦漸得自大、遂以并之。此既然矣。近者、劉景升、在荊州、有衆十万、財穀如山。不及曹操尚微与之力競、坐観、其彊大呑滅諸袁。北方都定之後、操率三十万、衆来向荊州。当時、雖有智者不能復為画計。於是、景升児子、交臂請降、遂為囚虜。凡敵国欲相呑、即仇讎欲相除也。有讎而長之、禍不在己則在後人、不可不為遠慮也。昔伍子胥曰『越、十年生聚、十年教訓、二十年之外、呉其為沼乎』夫差、自恃彊大、聞此邈然、是以誅子胥、而無備越之心。至於臨敗、悔之。豈有及乎。越小於呉、尚為呉禍。況、其彊大者邪。昔秦、但得関西耳、尚以并呑六国。 今賊、皆得秦趙韓魏燕斉九州之地。地悉、戎馬之郷、士林之藪。今以魏、比古之秦、土地数倍。以呉与蜀、比古六国、不能半之。然、今所以能敵之、但以操時兵衆於今適尽而後生者未悉長大。正是、賊衰少未盛之時。加、司馬懿、先誅王淩、続自隕斃。其子幼弱而専彼大任、雖有智計之士、未得施用。当今伐之、是其厄会。聖人急於趨時、誠謂今日。若順衆人之情、懐偷安之計、以為、長江之険可以伝世、不論魏之終始、而以今日遂軽其後。此、吾所以長歎息者也。自本以来、務在産育。今者、賊民歳月繁滋、但以尚小、未可得用耳。若復十数年後、其衆必倍於今。而国家、勁兵之地、皆已空尽、唯有此、見衆可以定事。若不早用之端坐使老、復十数年略当損半、而見子弟数不足言。若賊衆一倍而我兵損半、雖復使伊管図之、未可如何。今不達遠慮者、必以此言為迂。夫、禍難未至而豫憂慮、此固衆人之所迂也。及於難至、然後頓顙、雖有智者又不能図。此乃古今所病、非独一時。昔呉、始以伍員為迂、故難至而不可救。劉景升、不能慮十年之後、故無以詒其子孫。今恪、無具臣之才、而受大呉蕭霍之任。智与衆同、思不経遠。若不及今日為国斥境、俛仰年老而讎敵更彊、欲刎頸謝責、寧有補邪。今聞、衆人或以百姓尚貧、欲務間息、此不知慮其大危、而愛其小勤者也。昔漢祖、幸已自有三秦之地、何不、閉関守険以自娯楽。空出攻楚、身被創痍、介冑生蟣蝨、将士厭困苦、豈甘鋒刃而忘安寧哉。慮於長久、不得両存者耳。毎覧、荊邯説公孫述以進取之図、近見、家叔父表陳与賊争競之計、未嘗不喟然歎息也。夙夜反側、所慮如此。故、聊疏愚言、以達二三君子之末。若一朝隕歿、志画不立、貴、令来世知我所憂可思於後」衆皆、以恪此論、欲必為之辞。然、莫敢復難。

再び北伐し、世論を失う

丹楊太守聶友、素与恪善、書諫恪曰「大行皇帝、本有遏東関之計、計未施行。今公、輔賛大業、成先帝之志。寇遠自送、将士憑頼威徳、出身用命。一旦有非常之功、豈非宗廟神霊社稷之福邪。宜且案兵養鋭、観釁而動。今乗此勢欲復大出、天時未可。而、苟任盛意、私心以為不安」恪題論後、為書答友曰「足下、雖有自然之理、然未見大数。熟省此論、可以開悟矣」於是、違衆出軍、大発州郡二十万衆。百姓騷動、始失人心。

丹楊太守の聶友は、諸葛恪と仲が良く、諫めた。「大行皇帝は、もとは東関で遏する(魏軍を押し止める)戦略があったが、実現しなかった。

聶友は、孫権伝 赤烏五年に見える。この頁の下にもある。
胡三省によると、まだ孫権が崩じて踰年しておらず、ゆえに「大行皇帝」という。

いまあなたは、先帝の志を成した。寇兵(魏軍)は遠くから自ら兵を(呉軍の用意した死地に)送り、将軍に打ち負かされた。特別な功績は、宗廟・神霊・社稷のおかげに違いない。兵を休め、スキを見て動くべきです。勢いに乗って再び出ても、天の時ではない」と。

胡三省によると、聶友の言は、諸葛恪の盛んな気を抑えるもので、婉曲しているが妥当であり、いにしえの朋友の切偲の義があるといえる。

諸葛恪は持論(本伝で上述)を記してから、聶友に返書した。「あなたの言は自然の理であるが、いまだ(勝負・損耗の)大数を見ていない。わが論を熟読すれば(再北伐の正しさを)分かってくれるはず」と。ここにおいて、世論に反して軍を出し、おおいに州郡の20万の兵を発した。百姓は騒動し、はじめて人心を失った。

胡三省によると、諸葛恪による旧友の扱いは、このように倨傲である。孫権が警戒した「剛狼にして自ら用ふ」という諸葛恪の性質が、このように表れたのである。


恪意欲曜威淮南、駆略民人。而、諸将或難之曰「今引軍深入、疆埸之民、必相率遠遁、恐兵労而功少。不如、止囲新城。新城困、救必至。至而図之、乃可大獲」恪従其計、迴軍還囲新城。攻守連月、城不抜。士卒疲労、因暑飲水、泄下流腫、病者大半、死傷塗地。諸営吏日白病者多、恪以為詐、欲斬之。自是莫敢言。恪、内惟失計、而恥城不下、忿形於色。

恪意欲曜威淮南、駆略民人。而、諸将或難之曰「今引軍深入、疆埸之民、必相率遠遁、恐兵労而功少。不如、止囲新城。新城困、救必至。至而図之、乃可大獲」恪従其計、迴軍還囲新城。攻守連月、城不抜。士卒疲労、因暑飲水、泄下流腫、病者大半、死傷塗地。諸営吏日白病者多、恪以為詐、欲斬之。自是莫敢言。恪、内惟失計、而恥城不下、忿形於色。

将軍朱異、有所是非。恪、怒立、奪其兵。都尉蔡林、数陳軍計、恪不能用、策馬奔魏。魏、知戦士罷病、乃進救兵。恪、引軍而去。士卒傷病、流曳道路、或頓仆坑壑、或見略獲。存亡忿痛、大小呼嗟。而、恪晏然自若。出、住江渚一月、図起田於潯陽。詔召相銜、徐乃旋師。由此、衆庶失望、而怨黷興矣。

将軍の朱異は、是非を論じた。恪は怒って、その兵を奪った。

巻五十六 朱異伝 注引『呉書』に見える。『呉書』:異又随諸葛恪囲新城、城既不抜、異等皆言宜速還豫章、襲石頭城、不過数日可抜。恪以書暁異、異投書於地曰「不用我計、而用傒子言。」恪大怒、立奪其兵、遂廃還建業。
朱異は、合肥新城をあきらめ、豫章に還り、石頭城を襲えば、数日で抜ける、といった。合肥新城の執着する諸葛恪によって、兵を奪われ、建業に送還された。

都尉の蔡林は、しばしば軍計を述べたが、採用されない。蔡林は、馬にムチ打ち、魏に奔った。魏は(蔡林から)呉の戦士が罹患していると知り、兵を進めて(合肥新城を)救った。諸葛恪は、兵を引いて去った。

『魏志』斉王紀はいう。嘉平五年夏五月、呉の太傅である諸葛恪が合肥新城を囲んだ。詔して、太尉の司馬孚に防がせ、秋七月に諸葛恪が撤退したと。『呉志』孫亮伝はいう。建興二年三月、諸葛恪は伐魏した。四月、合肥新城を囲み、おおいに病み、士卒の大半が死んだ。八月、諸葛恪は軍を還した。『魏志』は『呉志』よりも、1ヶ月ずつ逆にズレてる。『魏志』では五月に囲み、『呉志』では四月に囲む。『魏志』では七月に引き、『呉志』では八月に兵を引いた。

士卒は傷病し、道路に流曳し、穴や溝に落ちて死んだり、略奪・捕獲されたりした。生き残りも忿痛し、みな嗟歎した。しかし諸葛恪は晏然自若としていた。出て、長江の渚(中洲)に留まること1ヶ月、屯田を潯陽に起こそうと図った。

尋陽は、孫策伝に引く『江表伝』、孫権伝 黄初二年に見える。胡三省によると、漢の尋陽の故県の地である。大江の北である。『尋陽記』によると、尋陽は、春秋呉の西境であり、楚の東境である。もとは大江の北にある。

詔して相次いで召還を命じたため、おもむろに軍を還した。これにより、衆庶は失望し、怨黷(痛怨)が興った。

盧弼によると、鄧艾が諸葛恪を論じたことが、極めて妥当である。巻二十八 鄧艾伝に見えると。
鄧艾伝:諸葛恪囲合肥新城、不克、退帰。艾言景王曰「孫権已没、大臣未附。呉名宗大族、皆有部曲、阻兵仗勢、足以建命。恪、新秉国政、而内無其主、不念撫恤上下以立根基、競於外事、虐用其民。悉国之衆、頓於堅城、死者万数、載禍而帰。此恪獲罪之日也。昔、子胥、呉起、商鞅、楽毅、皆見任時君、主没而敗。況恪才非四賢、而不慮大患、其亡可待也」恪帰、果見誅。孫権が亡くなり、国家の構成員を撫恤することなく、外事を競って、その民を虐待したという。
ぼくは思う。諸葛亮が、劉備の死後、しばらく北伐をしなかった。諸葛恪は、これができず、短期間で焦り過ぎたようである。

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諸葛恪の死

皇帝孫亮が、孫峻とともに暗殺を計画

秋八月軍還、陳兵導従、帰入府館。即召中書令孫嘿、厲声謂曰「卿等、何敢妄数作詔。」嘿、惶懼辞出、因病還家。恪征行之後、曹所奏署令長職司、一罷更選。愈治威厳、多所罪責、当進見者、無不竦息。又、改易宿衛、用其親近。復敕兵厳、欲向青徐。

秋八月、軍が還り、兵を陳して導き従え、帰って府館(府舎)に入った。すぐに中書令の孫嘿を召し、声をはげまして、「卿らは、なぜみだりに多数の詔を偽作したのか」と叱った。孫嘿は、惶懼して辞出し、病として家に還った。諸葛恪は遠征した後、選曹(人事係)が奏した署令長の職司を、すべて辞めさせて選び直した。政治はいよいよ威厳をくわえ、罪によって責められる者が多く、昇進して用いられる者は、息をすくめた。

諸葛恪の裁可を経ない限り、役職に就くことができない。ゆえに、諸葛恪が不在のとき、任命されたものは、すべて無効。もしくは、変更がない場合でも、諸葛恪が任命し直したという形にした。諸葛恪に認められ、採用・昇進された人も、厳格な「暴君」諸葛恪が恐い。成果が出なければ、たちまち解任されることが、目に見えているから。
諸葛恪の人事が、適切か否か(才覚に見合った官職を与えたか)は、当面は問題にされていない。しかし、任免のプロセスで、諸葛恪が「無双」を発動したから、呉朝はビクビクになったと思われる。やってることは、諸葛亮と同じなんですけどね。蜀の人物評価は、すべて諸葛亮が決めていたから。

さらに、宿衛を改易し、親近する者を用いた。ふたたび兵に(装備を厳しくして)出撃準備を命じ、青州・徐州に向かおうとした。

胡三省によると、これらはすべて、諸葛恪の死を早めることとなった。ぼくは思う。皇帝孫亮が、諸葛恪の殺害に賛成したのは、人事権と軍事行動をすべて掌握して、皇帝権力と衝突したためだろう。
諸葛亮は、劉備の意向をふりかざし、劉禅との関係性をつくってから、同じことをした。いや、劉禅の性質のおかげで、諸葛亮が全権を震えたことが、より際立つ。劉禅が、人なみに(孫亮レベルで)皇帝権力の証明を求めたら、諸葛恪のように殺された。孫亮は、やはり皇帝権力を諦められず、孫峻・孫綝とも衝突する。凡人め。


孫峻因民之多怨、衆之所嫌、搆恪欲為変、与亮謀、置酒請恪。恪、将見之夜、精爽擾動、通夕不寐。明将盥漱、聞水腥臭、侍者授衣、衣服亦臭。恪、怪其故、易衣易水、其臭如初、意惆悵不悦。厳畢趨出、犬銜引其衣、恪曰「犬、不欲我行乎」還坐。頃刻乃復起、犬又銜其衣、恪令従者逐犬、遂升車。

孫峻は民の怨みが多く、兵士から嫌われているので、諸葛恪へのクーデターを企み、孫亮と共謀し、置酒して諸葛恪を招いた。

孫峻が、政治の表舞台にでるキッカケ。どうやら、皇帝孫亮とともに、百姓・兵士の生活を守るため、孫峻は諸葛恪の殺害を考えた。孫峻は、皇帝の近衛であるから、密談ができたのだろう。この時点で孫峻は、まだ「公」に基づいた、忠臣に見える。後漢皇帝が、しばしば宦官と密謀して、外戚を倒す。宦官・外戚という属性は、どちらも違うけれど、「権力を持ちすぎて、正規ルートでは、皇帝でも手に負えない権臣」「皇帝に近侍するから、クーデターを持ちかけられる者」という構図は同じである。こういう場合、権臣は、たいてい民の弊害になっているから、この逆クーデターは正義っぽくなる。
後漢の場合、宦官が強くなり過ぎて、手に負えなくなる。桓帝の五侯とか。孫峻・孫綝も、同じ結末である。

諸葛恪は、引見する夜、精神が擾動し、夜通し眠れなかった。翌日に盥で口すすぐと、水が生臭く、侍者が衣をわたすと、衣服も臭い。水と衣を、交換しても臭い。犬にひっぱられ、馬車に乗るのを妨害された。

初、恪将征淮南、有孝子著縗衣、入其閤中。従者白之、令外詰問、孝子曰「不自覚入」時、中外守備、亦悉不見、衆皆異之。出行之後、所坐庁事屋、棟中折。自新城、出住東興、有白虹見其船。還拝蒋陵、白虹復繞其車。及将見、駐車宮門。峻、已伏兵於帷中、恐恪不時入事泄、自出見恪曰「使君、若尊体不安、自可須後。峻、当具白主上」欲以嘗知恪。恪答曰「当自力入」散騎常侍張約、朱恩等、密書与恪曰「今日張設非常、疑有他故」恪、省書而去。未出路門、逢太常滕胤。恪曰「卒腹痛、不任入」胤、不知峻陰計、謂恪曰「君、自行旋未見。今上、置酒請君。君已至門、宜当力進」

恪、躊躇而還、剣履上殿、謝亮、還坐。設酒、恪疑、未飲、峻因曰「使君、病未善平、当有常服薬酒。自可取之」恪、意乃安、別飲所齎酒〔一〕。酒数行、亮還内。峻、起如廁。解長衣、著短服、出曰「有詔、収諸葛恪〔二〕。」恪驚起、抜剣未得而峻刀交下。張約、従旁斫峻、裁傷左手。峻、応手斫約、断右臂。武衛之士、皆趨上殿、峻云「所取者恪也、今已死」悉令復刃。乃除地、更飲〔三〕。 〔一〕呉歴曰、張約、朱恩密疏告恪、恪以示滕胤、胤勧恪還、恪曰「峻小子何能為邪。但恐因酒食中人耳。」乃以薬酒入。孫盛評曰、恪与胤親厚、約等疏、非常大事、勢応示胤、共謀安危。然恪性強梁、加素侮峻、自不信、故入、豈胤微勧、便為之冒禍乎。呉歴為長。 〔二〕呉録曰、峻提刀称詔収恪、亮起立曰「非我所為。非我所為。」乳母引亮還内。呉歴云。峻先引亮入、然後出称詔。与本伝同。臣松之以為峻欲称詔、宜如本伝及呉歴、不得如呉録所言。 〔三〕捜神記曰、恪入、已被殺、其妻在室、[語]使婢(語)曰「汝何故血臭。」婢曰「不也。」有頃愈劇、又問婢曰「汝眼目視瞻、何以不常。」婢蹷然起躍、頭至于棟、攘臂切歯而言曰「諸葛公乃為孫峻所殺。」於是大小知恪死矣、而吏兵尋至。志林曰、初権病篤、召恪輔政。臨去、大司馬呂岱戒之曰「世方多難、子毎事必十思。」恪答曰「昔季文子三思而後行、夫子曰『再思可矣』、今君令恪十思、明恪之劣也。」岱無以答、当時咸謂之失言。虞喜曰、夫託以天下至重也、以人臣行主威至難也、兼二至而管万機、能勝之者鮮矣。自非採納羣謀、詢于芻蕘、虚己受人、恒若不足、則功名不成、勲績莫著。況呂侯国之先耆、智度経遠、而甫以十思戒之、而便以示劣見拒、此元遜之疎、乃機神不俱者也。若因十思之義、広諮当世之務、聞善速於雷動、従諫急於風移、豈得隕首殿堂、死凶豎之刃。世人奇其英辯、造次可観、而哂呂侯無対為陋、不思安危終始之慮、是楽春藻之繁華、而忘秋実之甘口也。昔魏人伐蜀、蜀人禦之、精厳垂発、六軍雲擾、士馬擐甲、羽檄交馳、費禕時為元帥、荷国任重、而与来敏囲碁、意無厭倦。敏臨別謂禕「君必能辦賊者也。」言其明略内定、貌無憂色、況長寧以為君子臨事而懼、好謀而成者。且蜀為蕞爾之国、而方向大敵、所規所図、唯守与戦、何可矜己有餘、晏然無戚。斯乃性之寛簡、不防細微、卒為降人郭脩所害、豈非兆見於彼而禍成於此哉。往聞長寧之甄文偉、今覩元遜之逆呂侯、二事体同、故並而載之、可以鏡誡于後、永為世鑒。

先是、童謡曰「諸葛恪、蘆葦単衣、篾鉤落、於何相求、成子閤」成子閤者、反語、石子岡也。建業南有長陵、名曰石子岡、葬者依焉。鉤落者、校飾革帯、世謂之鉤絡帯。恪、果以葦席裹其身而篾束其腰、投之於此岡〔一〕。
〔一〕呉録曰、恪時年五十一。

これより先、童謡があり、「諸葛恪、蘆葦単衣、篾鉤落、於何相求、成子閤」成子閤者、反語、石子岡也。建業南有長陵、名曰石子岡、葬者依焉。鉤落者、校飾革帯、世謂之鉤絡帯。恪、果以葦席裹其身而篾束其腰、投之於此岡〔一〕。
『呉録』によると、諸葛恪の享年は五十一。

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附 諸葛綽・諸葛竦伝

恪長子綽、騎都尉。以交関魯王事、権遣付恪、令更教誨。恪、鴆殺之。中子竦、長水校尉。少子建、歩兵校尉。聞恪誅、車載其母而走。峻、遣騎督劉承、追斬竦於白都。建、得渡江、欲北走魏。行数十里、為追兵所逮。恪外甥都郷侯張震、及常侍朱恩等、皆夷三族。 初、竦数諫恪、恪不従。常憂懼禍。及亡、臨淮臧均、表乞収葬恪、曰「臣聞、震雷電激、不崇一朝、大風衝発、希有極日、然猶、継以雲雨、因以潤物。是則天地之威、不可経日浹辰。帝王之怒、不宜訖情尽意。臣以狂愚、不知忌諱、敢冒破滅之罪、以邀風雨之会。伏念、故太傅諸葛恪、得承祖考風流之烈、伯叔諸父、遭漢祚尽、九州鼎立、分託三方、並履忠勤、煕隆世業。爰及於恪、生長王国、陶育聖化、致名英偉、服事累紀、禍心未萌。先帝、委以伊周之任、属以万機之事。恪、素性剛愎、矜己陵人、不能敬守神器、穆静邦内、興功暴師、未期三出、虚耗士民、空竭府蔵、専擅国憲、廃易由意、仮刑劫衆、大小屏息。侍中武衛将軍都郷侯、俱受先帝囑寄之詔、見其奸虐、日月滋甚、将恐蕩搖宇宙、傾危社稷、奮其威怒、精貫昊天、計慮先於神明、智勇百於荊聶、躬持白刃、梟恪殿堂。勲超朱虚、功越東牟。国之元害、一朝大除、馳首徇示、六軍喜踊、日月増光、風塵不動、斯実宗廟之神霊、天人之同験也。今、恪父子三首、県市積日、観者数万、詈声成風。国之大刑、無所不震、長老孩幼、無不畢見。人情之於品物、楽極則哀生。見恪貴盛、世莫与貳、身処台輔、中間歴年。今之誅夷、無異禽獣、観訖情反、能不憯然。且、已死之人、与土壤同域、鑿掘斫刺、無所復加。願、聖朝稽則乾坤、怒不極旬、使其郷邑若故吏民、収以士伍之服、恵以三寸之棺。昔、項籍受殯葬之地、韓信獲収斂之恩、斯則漢高発神明之誉也。惟陛下、敦三皇之仁、垂哀矜之心、使国沢加於辜戮之骸、復受不已之恩。於以揚声遐方、沮勧天下、豈不弘哉。昔、欒布矯命彭越、臣窃恨之。不先請主上、而専名以肆情、其得不誅、実為幸耳。今臣、不敢章宣愚情以露天恩、謹伏手書、冒昧陳聞。乞聖朝哀察」於是、亮峻聴恪故吏斂葬。遂求之於石子岡〔一〕。 〔一〕江表伝曰、朝臣有乞為恪立碑以銘其勲績者、博士盛沖以為不応。孫休曰「盛夏出軍、士卒傷損、無尺寸之功、不可謂能。受託孤之任、死於豎子之手、不可謂智。沖議為是。」遂寝。

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附 聶友伝

始、恪退軍還。聶友、知其将敗、書与滕胤曰「当人彊盛、河山可抜。一朝羸縮、人情万端。言之悲歎」恪誅後、孫峻忌友、欲以為鬱林太守。友、発病憂死。友、字文悌、豫章人也〔一〕。

はじめ諸葛恪の軍が退き還ると、聶友は(諸葛恪が)失脚しそうなことを悟り、書を滕胤に与えた。「人が強盛なときは、山河をも抜けますが、いちど敗北すると、人心は離れていく。これを悲歎といいます」と。諸葛恪が誅されると、孫峻は聶友を忌み、鬱林太守にしたい(鬱林は、呉主伝 赤烏二年に見ゆ)聶友は、発病して憂死した。聶友は、あざなを文悌といい、豫章のひと。

趙一清の引く『捜神記』によると、聶友は、新淦のひと。射猟をこのみ、白鹿を見つけた。これを射て、血の跡を追うと、とちゅうで消えた。疲れたので木の下に座ると、射た鹿が、枝に現れている。これを怪しみ、子弟に斧を持ってこさせ、木を切った。木は出血した。2枚の板をその木から作り、水中に保管した。いつもは沈むが、ときどき浮かび上がる。聶友は賓客をまねき、その(水に浮かべた)板に乗った。あるとき、流れのなかに落ちそうになり、賓客がおおいに恐れたが、聶友が呵する(どなる)と、ふたたび浮上した。願いどおりに仕官して、丹陽太守となった。その板は(聶友の赴任地に)追ってきて石頭に現れた。聶友は驚き、板の到来には意味があると思い、退職して家に還った。それ以後、板が出現すると、凶禍がおきた。いまも、新淦の北20里にある封谿には、聶友が木を切って板を作ったところがある。
『太平御覧』巻百五十七に引く『豫章記』によると、封谿には聶友が木を切ったところがあり、あとで生えてきた木がまだある。あっそう。


〔一〕呉録曰、友有脣吻、少為県吏。虞翻徙交州、県令使友送之、翻与語而奇焉、為書与豫章太守謝斐、令以為功曹。郡時見有功曹、斐見之、問曰「県吏聶友、可堪何職。」対曰「此人県間小吏耳、猶可堪曹佐。」斐曰「論者以為宜作功曹、君其避之。」乃用為功曹。

『呉録』によると、聶友は脣吻(弁舌)があり、少くして県吏となった。虞翻が交州に徙ると、県令は聶友を見送りにいかせた。虞翻は言葉を交わして、聶友を奇とした。虞翻は、豫章太守の謝斐のために、

趙一清によると、『晋書』謝沈伝に、謝沈は、字を行思といい、会稽の山陰のひと。曽祖父の謝斐は、呉の豫章太守となった。父の謝秀は、呉の翼正都尉となったと。

文書(推薦状)を書いて、聶友を功曹にさせた。豫章郡ではそのとき(現任の)功曹がいたので、謝斐は推薦状を見て、聶友に「県吏の聶友よ、功曹の職が務まるのか」と聞いた。聶友「わたしは県間の小吏に過ぎません。曹佐なら務まると思いますが」と。

何焯の校本によると、「佐」字の上に、『太平御覧』は「吏」がある。つまり、「曹吏佐」に作ると。功曹という吏の輔佐ならやれるということか。

謝斐「論者(虞翻)は、きみを功曹にせよと言ったが、それを避けるのか」と。こうして聶友を功曹とした。

使至都、諸葛恪友之。時論謂顧子嘿、子直、其間無所復容、恪欲以友居其間、由是知名。後為将、討儋耳、還拝丹楊太守、年三十三卒。

使者として(豫章の郡府から)都にゆき、諸葛恪と友となった。時論では、顧子嘿・顧子直(顧譚・顧承)は、あいだに入る者がない(3位を引き離した、1位と2位)とされていたが、諸葛恪が聶友を間に入れた(2位とした)から、これによって聶友は名を知られた。

顧譚・顧承が、どれほどの名士なのか確認しないと、凄さが分からない。

のちに将となり、儋耳を討伐し、

儋耳の討伐は、孫権伝 赤烏五(242)年に見える。

もどって丹楊太守となった。聶友は、33歳 55歳で卒した。

虞翻が交州に徙されたのは、黄初二年である。虞翻伝 注引『虞翻別伝』によると、黄武元年の前年である。このとき、聶友はすでに県吏であり、年はおよそ20。呉の建興二年は、53歳である。33歳でなく、53歳で死んだのではないか。もし33歳であれば、黄武元年の前年は、まだ子供であり、県吏にはなれない。


◆まとめ
聶友の伝記は短いが、名士との関わりが、凝縮されている。ただ見送りにいっただけで、虞翻に見初められ、県の功曹になった。 諸葛恪によって、顧譚・顧承のあいだに序列された。新参の人材がいたとき、だれと等しいとか、だれに勝るとか、そうやってランクを付けるのは、諸葛亮が得意としたところで、姜維を迎えるときに、コメントしている。諸葛恪も同じことをしている。
死に方があまりに違うので、諸葛亮と諸葛恪は、同格では捉えられない。諸葛亮は、志なかばで陣没。諸葛恪は、宮殿で暗殺された。しかし、暗殺の原因は、諸葛亮と同じ、北伐の志であった。
「諸葛亮が、諸葛恪の担当する職務を心配した」という逸話のせいで、歴然とした上下関係がある。でもそれは、諸葛亮が世代が上だから、上から目線なだけで。建国者から託孤された重臣として、諸葛亮と諸葛恪を比べる(なにが同じで、なにが違うかを評価する)のは、意味があることだと思う。170720

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