孫呉 > 『建康実録』テキスト分析

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建安十九年:孫呉の支配領域14郡?

十九年夏五月,權又征皖城,取之,獲太守朱光。魏軍盡退,克寧江表,而揚州所統丹楊﹑吴興﹑新都﹑東陽﹑臨海﹑建安﹑豫章﹑鄱陽﹑臨川﹑安城﹑廬陵﹑南郡等一十四郡合一百四十八縣。 是歲,劉備入蜀定益州,使關羽鎭襄陽。

『建康実録』は、五月に孫権が廬江太守の朱光を捕らえたとする。呉主伝は、五月に攻め、閏月に捕らえたとする。『建康実録』は、「閏月」を欠く。

呉主伝:十九年五月、権征皖城。閏月、克之、獲廬江太守朱光及參軍董和、男女数万口。是歳、劉備定蜀。権、以備已得益州、令諸葛瑾、従求荊州諸郡。

つづいて、孫権の領土が、揚州の統べる所の「14郡」とされる。しかし、列挙されているのは、12郡しかない。文脈からすると、順番に確認して消し込んでいきます。

◆建安五年からの異同
14年前の記事である、『建康実録』建安五年に、「是時吴始有會稽﹑吴郡﹑丹楊﹑豫章﹑廬陵等郡,深嶮之地猶未盡從……未有君臣之固」とある。会稽・呉郡・丹陽・豫章・廬陵の5郡のみ、孫権の領有とされる。呉主伝 建安五年に、「是時、惟有会稽、呉郡、丹楊、豫章、廬陵。然、深険之地猶未尽従」とある。『建康実録』は、これを丸写しにしたのだろうから、編者である許嵩の積極的な意思はなかろう。
『三国志集解』呉主伝に引く潘眉の説によると、廬江が抜けてる。同じく沈家本の説によると、孫策のとき廬江を得たが、ここに言及がないのは、廬江太守の李術が孫権に仕えるのを肯んじなかったからか。建安十九年、孫権が皖城を征して、廬江太守の朱光を捕らえた。孫権が李術を破っても、まだ獲得していなかったか。
盧弼によると、『資治通鑑』には「廬江」二字がある。このとき孫策の実力は、ただ会稽・呉郡・丹陽・豫章の4郡のみで、廬陵を分置した。淮南・廬江・江夏の3郡に至っては、呉末まで、魏・呉で分拠したから、陳寿は書かなかった。

建安五年から、孫呉が領有し続けており、建安十九年にも引き継がれているのは、丹楊・豫章・廬陵である。
建安五年にあるが、この十九年にないのは、会稽・呉郡である。しかし、この地域を孫呉が失った記事はないので(実際に失っていないし)、会稽・呉郡を『建康実録』に補うべきと考える。

◆後代に設置された郡
郡名について、『晋書』巻十五 地理志下で確認しておく。

『晋書』地理志下:後漢順帝分會稽立吳郡,揚州統會稽、丹楊、吳、豫章、九江、廬江六郡,省六安并廬江郡。獻帝興平中,孫策分豫章立廬陵郡。孫權又分豫章立鄱陽郡,分丹楊立新都郡。孫亮又分豫章立臨川郡,分會稽立臨海郡。孫休又分會稽立建安郡。孫晧分會稽立東陽郡,分吳立吳興郡,分豫章、廬陵、長沙立安成郡,分廬陵立廬陵南部都尉。

後漢の順帝が、会稽を分けて呉郡を置いた。揚州は、会稽・丹陽・呉郡・豫章・九江・廬江の6郡となった。献帝の興平期、孫策は豫章を分けて、廬陵を立てた。孫権は、豫章を分けて鄱陽郡を置き、丹陽を分けて新都郡とした。孫亮は、豫章を分けて臨川郡を立て、会稽を分けて臨海郡を立てた。孫休は、会稽を分けて建安郡を置いた。孫晧が会稽を分けて東陽郡を置き、呉郡を分けて呉興郡を立て、豫章・廬陵・長沙を分けて安成(安城)郡を置いたとある。

臨川・臨海・建安・東陽・呉興・安成(安城)は、建安十九年の時点で、存在しないことが分かった。つまり『建康実録』は、後代の行政区分に基づいて、その地域が、孫呉の支配下であることを説明している。決して、同時代に即した記述ではない。すなわち、この時点で「臨川太守」が任命されたのではない。豫章太守の統治範囲のなかに、後代において臨川郡となる地域が、含まれていただけ。

◆孫権の代に置かれた郡
一概に正誤が決まらず、注意したいのが、『晋書』で、孫権の時代に設置されたという、鄱陽郡・新都郡である。
呉主伝 建安十三年に、「分歙、爲始新、新定・犂陽・休陽縣、以六縣爲新都郡」とある。建安十九年の時点で、新都郡があるのは、正しい。『三国志集解』呉主伝によると、晋代に新都郡は、新安郡に改められた。
呉主伝に、「十五年,分豫章為鄱陽郡;分長沙為漢昌郡,以魯肅為太守,屯陸口」とある。

『建康実録』にも、「十五年,分豫章置鄱陽郡;分長沙置漢昌郡,以魯肅為太守,治於陸口」とある。やや字句に異同があるが、建安十五年、鄱陽郡・漢昌郡が置かれた。

建安十九年の時点で、鄱陽郡があるのは、正しい。
鄱陽は、呉主伝 建安八年に、「呂範が鄱陽・会稽を平定した」とある。『三国志集解』によると、『郡国志』に豫章郡の鄱陽とあり、(豫章から分割したとする)呉主伝に整合する。
沈家本の説によると、呂範が鄱陽を平定したのは、孫策が江夏を征伐したときであり、この呉主伝と異なる。胡三省の説によると、呂範伝は、ただ「鄱陽」とだけあり、会稽を平定したとは書かれず、地理的にも「会稽」は衍字である。盧弼によると、孫策がすでに会稽を平定しており、改めて呂範が平定する必要がない。
ともあれ、ここに鄱陽が見えるのは正しい。

巻五十二 歩隲伝に、「建安十五年,出領鄱陽太守。歲中,徙交州刺史、立武中郎將,領武射吏千人,便道南行」とある。郡が設置されたとき、歩隲が鄱陽太守となった。しかし、同年中に、交州刺史になった。


◆南郡のこと
最後に、南郡です。これは、「揚州の統ぶる所」ではない。荊州でしょう。南郡太守の周瑜は、建安十五年に死んだ。周瑜伝に、「權、拜瑜偏將軍、領南郡太守。以、下雋、漢昌、劉陽、州陵、爲奉邑屯據江陵。……瑜還江陵、爲行裝、而道於巴丘、病卒、時年三十六」とある。江陵(南郡)は、呉の領土でした。
周瑜が死ぬと、程普が南郡太守となった。

程普伝:周瑜卒、代領南郡太守。權分荊州與劉備、普復還領江夏、遷盪寇將軍、卒。
魯粛伝:卽拜肅、奮武校尉、代瑜領兵。瑜士衆四千餘人、奉邑四縣、皆屬焉。令程普、領南郡太守。肅、初住江陵、後下屯陸口。威恩大行、衆增萬餘人、拜漢昌太守、偏將軍。十九年、從權破皖城、轉橫江將軍。

周瑜の兵・奉邑は、魯粛が引き継いだ。魯粛は、はじめ(周瑜と同じ)江陵にいたが、のちに陸口に移って、漢昌太守となった。程普は、(周瑜・魯粛に続いて)江陵にいたが、孫権がこの地域を劉備に与えてしまったので、江夏まで東下した。
つまり、建安十四年に曹仁を追い出してから、周瑜がここを本拠地とし(対岸の公安に劉備を置き)、孫呉が南郡を支配した。やがて、周瑜が死ぬと、魯粛・程普がここにいた。関羽との単刀会によって、程普が関羽に明け渡すまで、孫呉の領土だった。ここに含めるのは、正しい。

ところで、孫呉の領土にカウントするなら、魯粛が太守を務める漢昌郡を含めるべきである。地理的には、後漢の荊州に属するが、ここに南郡を書いてあるなら、含めてよい。しかし、漢昌郡は、後代まで残らないから、ここに書いてない。どうやら『建康実録』は、同時代の正確な行政区分ではなく、後世の区分に沿っているようです。


ハッ!建安十九年の時点で、孫権の認識では、南郡は荊州でなく、揚州に属すると言いたいのか。呉主伝 建安十四年に、「劉備、表權行車騎將軍、領徐州牧。備、領荊州牧、屯公安」とある。つまり、孫権は、劉備を荊州牧と承認している。もしも南郡を荊州の一部とすれば、江陵(南郡)を劉備に差し出さねばならない。だから孫権は、南郡が揚州だと言い張ったのか。

長沙郡は、孫呉の認識では、揚州だったのか、荊州だったのか。廬江のように、魏と分割しているから、正式な領土としては、カウントできないルールなのだろうか。

これが、孫呉政権の公式声明に基づくのか、『建康実録』の編者がツジツマを合わせたのかは、検証が必要!!

まとめ

『建康実録』は、揚州の配下14郡として、丹楊﹑吴興﹑新都﹑東陽﹑臨海﹑建安﹑豫章﹑鄱陽﹑臨川﹑安城﹑廬陵﹑南郡をあげる。まず、ここに12郡しか見えないのは、呉郡と会稽を省いているからである(と好意的に解釈する)。
ここから、建安十九年の時点で、存在しない、呉興・東陽・臨海・建安・臨川・安城を除くべきである。

すると、孫策の時代から引き継がれた、会稽・呉郡・丹陽・豫章・廬陵が確定される。このたび朱光を捕らえて得た、廬江郡を加えてもよい。つぎに、孫権が設置した、新都・鄱陽を加えることができる。
揚州でなく荊州なのが、南郡である。しかし、ここが後漢代に属したからといって、孫呉もまた、荊州と認識していたとは限らない。孫権は、劉備を荊州牧に推戴した。南郡を劉備に割譲する意思がない限り、「南郡は荊州でなく、揚州」と強弁しなければならない。これが、孫呉の意思を持った(後漢からの)行政区分の変更なのか、『建康実録』の編者によるツジツマ合わせなのかは、判定できない。

『建康実録』は、なにかの画期のように、支配下の郡の数をまとめているが、数が合っていないし、揚州の範囲をまちがえているし、同時代的な記述になっていない。朱光を捕らえて、新たに得た廬江郡と、孫権が自ら設置した新都・鄱陽が増えたよ、というレベルの変化が、建安五年(孫権が孫策を継いだとき)から起きているだけ。この記述は、なんの目的で置かれたのか。南郡を劉備に割譲する前のマイルストーンとして、ここに置かれたと推測される(推測するしかない)。170617

ぼくはいう。孫権が劉備に、江陵(南郡)を譲ったのは、いつ? 周瑜の生前、劉備を公安に置いた。周瑜の死後(建安十五年~)、程普が南郡太守となった(魯粛伝・程普伝)。その後、程普を江夏太守にもどし、呉の南郡太守を空席にした。建安二十年の単刀会で、江陵は劉備の城。建安十五~二十年のどこで割譲した?
@hiraiwacn さんはいう。「江陵をいつ譲ったか」というのはずっと気になっておりました。三国志一のミステリーと思います。演義の世界では、周瑜が曹仁と戦っている時に孔明がかすめ取り、呉が怒るから「借りた」ことにしたとあります。しかし、史実では周瑜が負傷しながら曹仁を駆逐し、江陵を手に入れたはずです。でも、そこまでして手に入れた江陵を「譲る」ないし「貸す」ということがあるでしょうか。荊州制覇は孫堅以来三代にわたる悲願です。しかも交州寄りの南方ならまだしも、北魏や蜀にもつながる要地を渡すということはどう考えてもあり得ないことだと考えます。

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建安二十-二十一年:単刀会・張遼の追撃【新】

建安二十年

『建康実録』建安二十年は、記事が少ない。

二十年,權使諸葛瑾往詣備,求荊州,備不與。權征之,置南三郡守。使呂蒙討定其民,蜀將關羽盡逐出之,權大怒,自上鎭陸口,

建安二十年、孫権は諸葛瑾を劉備のもとに行かせ、荊州を求めた。劉備は与えず。孫権はこれを征して、南三郡の太守を置いた。
呉主伝と比べると、必要な情報は全てある。劉備が、「涼州を得てから返還する」という世迷い言は、呉主伝に見えるが、『建康実録』には載らない。

呉主伝:是歳、劉備定蜀。権以備已得益州、令諸葛瑾、従求荊州諸郡。備不許、曰「吾、方図涼州。涼州定、乃尽以荊州与呉耳」権曰「此、仮而不反。而欲以虚辞引歳」遂、置南三郡長吏。

呉主伝では、建安十九年に続けて、「是歳」劉備が蜀を平定したとする。しかし、先主伝によると、益州平定は建安十九年でよいが、「二十年、孫權以先主已得益州、使、使報、欲得荊州」とあり、孫権が荊州返還を要求したのは、建安二十年である。呉主伝の曖昧な紀年(建安十九年からシームレスに記述)よりも、『建康実録』のほうが(建安二十年と明記されており)正確である。これは珍しいことです。
三郡の太守を置いたことは、呉主伝に見える。呉主伝では、まず孫権が三郡の太守を派遣すると、関羽がこれを追い払い、呂蒙が鮮于旦・徐忠・孫規らを督して、長沙・零陵・桂陽を取る。つまり、孫権は、口頭で折衝して断られ、太守を派遣して逐われ、(孫権が陸口に進み)呂蒙軍を派遣して奪ったのである。

呉主伝:呉主伝:関羽、尽逐之。権大怒、乃遣呂蒙督鮮于丹、徐忠、孫規等、兵二万取長沙、零陵、桂陽三郡。使魯粛、以万人屯巴丘〔一〕、以禦関羽。権住陸口、為諸軍節度。蒙到、二郡皆服、惟零陵太守郝普、未下。

呂蒙が、長沙・桂陽をすぐに降したが、零陵太守の郝普だけが抵抗した。

使漢昌太守魯肅南討。時曹操又入漢中,備懼操逼,遂遣使與求和,乃分荊州長沙﹑江夏﹑桂陽四郡屬吴。冬,折衝將軍﹑升城督甘寧卒。

『建康実録』は、呂蒙をして、其の民を討たしむとある。呉主伝・呂蒙伝には、「民」字がこの文脈では見えない。

呉主伝:会備到公安、使関羽将三万兵至益陽。権乃召蒙等、使還助粛。蒙、使人誘普。普降、尽得三郡将守。因、引軍還、与孫皎潘璋并魯粛兵並進、拒羽於益陽。未戦、会曹公入漢中。備、懼失益州、使使求和。権、令諸葛瑾、報、更尋盟好。遂分荊州、長沙、江夏、桂陽以東属権。南郡、零陵、武陵以西属備。備帰、而曹公已還。

呉主伝によると、関羽が益陽にきたので、孫権は呂蒙を(零陵攻略を切り上げさせて)関羽に充てようとした。さらに魯粛を召して、呂蒙を助けようとさせた。『建康実録』では、関羽が来たことはとくに書いておらず、魯粛が(益陽に出てきた関羽でなく)呂蒙の南三郡の攻略を助けたように読める。呂蒙は、呂蒙伝によると、独力で策略をもちい、零陵を開城させる。その呂蒙のすごさが、『建康実録』では伝わらない。

『建康実録』は、「時に」曹操が漢中に入ったため、劉備が孫権に和睦を求めて、領土を分割する。呉主伝は「会」たまたま曹操が漢中に入る。
『通鑑考異』は、これに拘って「将」字を使い、「曹操が漢中に入ろうとすると」とする。『建康実録』は、呉主伝とあまり差がない。孫呉の動向しか、書かなくていいから、『資治通鑑』ほどの厳密さが求められない。

領土の帰属について。
『建康実録』校勘記によると、呉主伝・『資治通鑑』巻六十七は、どちらも「ついに荊州を分けて、長沙・江夏・桂陽を以て東のかた孫権に属せしめ、南郡・零陵・武陵を以て西のかた劉備に属せしむ」とある。
ぼくは思う。『建康実録』では、「長沙・江夏・桂陽四郡」とあるが、4つめはどこか。「西」と「四」が混同された可能性があるか。いや、孫権の場合は「東」なのだから、「西」とは混同されないか。呉主伝・『資治通鑑』に「四」の手掛かりはない。

つぎに、甘寧の死の記事が始まる。甘寧伝は、「建安二十年、従攻合肥」を最後の戦いとしているが、甘寧の没年までは伝えていない。呉主伝にもない。甘寧の死を、建安二十年と特定することができない。『資治通鑑』も、甘寧の死を伝えていない。170617

建安二十一年

呉主伝 建安二十一年は、「二十一年冬、曹公次于居巢、遂攻濡須。」しかない。しかし、呉主伝は、建安二十年の単刀会からシームレスに(年号を断らず)、合肥の戦いについて載せる。それが参考になるか。

二十一年,權自陸口引兵還合淝,營於津北,魏遣將軍張遼拒之,久不戰,權乃徹軍。

建安二十一年、孫権は(単刀会の牽制を終えて)合肥に還って、津北に軍営をしいた。これは、呉主伝にもとづく。

呉主伝:備帰、而曹公已還。権反自陸口、遂征合肥。合肥未下、徹軍還。兵皆就路、権与淩統甘寧等在津北、為魏将張遼所襲。統等以死扞権、権乗駿馬越津橋得去〔二〕。

『建康実録』は、張遼に防がれて、長期戦となり、孫権が撤退する。これは呉主伝に見えない。張遼伝によると、張遼は、楽進・李典とともに合肥を守っている。どうやら許嵩は、呉主伝を丸写しにせずに、知識に基づいて書いた。しかし、張遼の官職をチェックせず、「将軍」とのみした。張遼伝によれば、盪寇将軍である。

今回の功績により、張遼は、征東将軍にすすむ。


過津南,自留千人殿後,與軍將舉酒樂飲。

津南に渡って、1千人を留めて殿軍とし、軍将とともに酒を挙げて飲を楽しんだ。

巻五十六 朱然伝の赤烏期の記事に、「權時抑表不出。然既獻捷,羣臣上賀,權乃舉酒作樂」とある。文脈はまったく違うけど、酒と音楽が似ている。
巻二十三 趙儼伝に、「一日盡遣上道,因使所留千人 ,分布羅落之」と、千人を留めた記事がある。これも、文脈がまったく違う。

孫権が合肥攻めをあきらめ、長江を南渡して、酒と音楽をやったことは、どこに出典があるのか。『三国志集解』呉主伝・張遼伝などを参照したが、手掛かりがなかった。『建康実録』の独自記述と認定して良いのかも知れない。

前部渡將欲盡,遼知之,密使人斷橋,以輕騎來襲。權策馬至津橋,橋南已拆丈餘,給事谷利在後,令權持鞍緩控,利加鞭,助馬勢,遂得超渡。

前部が渡って、ほとんど人数がいなくなると、張遼がこれを知り、ひそかに橋を断たせ、軽騎で来襲した。張遼が「断橋」したことは、出典が分からない。『三国志集解』張遼伝を見ても、直接の出典はない。

検索をかけると、張飛伝に、「使飛將二十騎拒後。飛據水斷橋,瞋目橫矛曰:「身是張益德也,可來共決死……」という、長阪の記事がヒットするのみ。
つぎに引く呉主伝 注引『江表伝』に、橋の南がすでに撤去・解体されていたとある。孫権の退路を断つために、張遼が先回りして、橋を破壊したというのが、『建康実録』のストーリーである。渡ろうとしたら橋がない!わけで、『江表伝』と整合するから、退ける必要はないが、張遼の作為をどこから引いてきたのか、気になる。張遼伝では、「遼率諸軍追撃、幾復獲権」とあるだけで、いかにして追撃したかが書かれていない。

孫権は、馬にムチうって津橋に至ると、橋の南はすでに解体されており、給事の谷利が馬の後ろについて、、と、ここは呉主伝 注引『江表伝』が出典である。

呉主伝 注引『江表伝』に、「江表伝曰、権乗駿馬上津橋、橋南已見徹、丈餘無版。谷利在馬後、使権持鞍緩控、利於後著鞭、以助馬勢、遂得超度。権既得免、即拝利都亭侯」とあり、出典である。


魏人追逼之,利與別部司馬凌統以死苦戰,身被數瘡。

谷利と、別部司馬の凌統が奮闘し、凌統がキズを食らった。

巻五十五 凌統伝:反自益陽、従往合肥、為右部督。時権徹軍、前部已発、魏将張遼等、奄至津北。権使追還前兵、兵去已遠、勢不相及。統、率親近三百人陥囲、扶扞権出。敵已毀橋、橋之属者両版。権、策馬駆馳。統、復還戦、左右尽死、身亦被創、所殺数十人、度権已免、乃還。橋敗路絶、統被甲潜行。権、既御船、見之驚喜。統、痛親近無反者、悲不自勝。

凌統伝によると、「前部」がすでに出発していると、「魏将」張遼が津北に殺到した。敵がすでに橋を壊していたとある。さっき『建康実録』の独自記述とした、張遼が「ひそかに人に橋を壊させた」というのは、凌統伝に基づいて、許嵩が書いたものかも知れない。

賀齊等迴軍津南,列陣以待之。權既免,至大軍,垂泣嚙指出血,以為終身之戒。封谷利等為都亭侯。

賀斉が軍を津南に回したことは、賀斉伝 裴松之注に見える。

巻四十 賀斉伝:江表傳曰。權征合肥還、爲張遼所掩襲於津北、幾至危殆。齊時率三千兵在津南迎權。權既入大船、會諸將飲宴、齊下席涕泣而言曰「至尊人主、常當持重。今日之事、幾至禍敗、羣下震怖、若無天地、願以此爲終身誡。」權自前收其淚曰「大慚!謹以尅心、非但書諸紳也。」

賀斉は三千をひきいて、津南で孫権を迎えた。『江表伝』によると、孫権は、諸将とともに飲宴したとある。賀斉に救出された後だから、飲宴したのであるが、『建康実録』によると、これより先、まだ津北(敵地)にいた頃から、飲宴していた。
『建康実録』では、孫権は、指を噛んで出血し、終身の戒めとする。しかし、賀斉伝では、指を噛み切ったりはしない。「終身の誡」は、賀斉が言い出したこと。『建康実録』では、これを孫権のセリフとしている。
谷利を都亭侯としたことは、上に引いた『江表伝』が出典なのでヨシ。

張遼素不識權,權去後因得吴降人,問云:「向者紫髥將軍﹑長上短下者,是何人?」答曰:「孫將軍。」遼捥愕久之,舉軍歎恨。

張遼が孫権を知らなかったので、、というのは、許嵩による説明である。出典を探すべき、史実ではない。呉の降人に、孫権の容貌について聞いたことは、呉主伝 注引『献帝春秋』である。

献帝春秋曰、張遼問呉降人「向有紫髯将軍、長上短下、便馬善射、是誰。」降人答曰「是孫会稽。」遼及楽進相遇、言不早知之、急追自得、挙軍歎恨。


建安二十一年の『建康実録』は、合肥を攻撃し、撤退のとき張遼に追撃されたことしか、書かれていない。
一対一で、『三国志』で出典が特定できなかったのは、
・孫権が千人を殿軍に置き、まだ敵地なのに、津北で軍将と飲宴した
・橋を破壊したのは、張遼の隠密の軍事行動
・張遼の襲撃に懲りて、孫権は指を噛み千切って反省した
といったことです。筆が滑った、ストーリー・テリングの可能性もありますが、少なくとも出典が不明として、ここにメモっておきます。170618

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建安二十二~二十三年 曹操に詐降

『建康実録』のテキストを、『三国志』などと比較します。中華書局の中国史学基本典籍叢刊を底本にしたと言いたいところですが、テキストは、むじんさんのブログ http://d.hatena.ne.jp/mujin/ から頂き、それを中華書局と比べて直している、というのが実際です。むじんさんのテキストのままで、中華書局とは異なる、という見落としが、いくらでも出てくるかも知れません。
「校勘記曰く」と引いてくるのは、中華書局の校勘記です。『建康実録』は、『実録』と略す。『実録』の本文を緑色で引きながら、抄訳し、それを『三国志』などと比べて、同じところや、違うところを、ごちゃごちゃ分析します。巻数をとくに記さない場合は、『三国志』からの引用です。

建安二十二年

二十二年春,權令都尉徐祥詣曹操詐降,將謀息兵,操信之,使修好結婚。是歲,偏將軍﹑都亭侯凌統卒。

建安二十二(217)年春、孫権は、都尉の徐祥をつかわし、いつわって曹操に降った。謀略によって、兵を休めようとしたのである。曹操はこれを信じ、修好して結婚することにした。

校勘記によると、『陳志』呉主伝・胡綜伝は、「徐祥」を「徐詳」に作る。

呉主伝に、「二十二年春、権令都尉徐詳、詣曹公請降。公、報使脩好。誓重結婚」とあり、同じことを記す。『実録』は、この降伏が「詐り」であり、その目的が「兵を休ませる」ことにあって、まんまと曹操が信じた(だまされた)ことを、文脈で補う。呉主伝では、ここまでニュアンスが分からない。
校勘記にある、巻六十二 胡綜伝では、「権為車騎将軍、都京、召綜還、為書部。与是儀・徐詳、俱典軍国密事。劉備、下白帝、権以見兵少、使綜料諸県得六千人」と、孫権が劉備に荊州を貸した頃、是儀・徐詳が、軍国の機密を掌ったとあるだけ。つまり、徐詳の登場シーンではあるが、文脈とは関係ない。

この年(217)、凌統が死去したという。呉主伝に、この記述はない。
巻五十五 凌統伝によると、凌統は49歳で死んだ。『集解』凌統伝に引く陳景雲の説によると、建安八年、父の凌統が戦没し、そのとき凌統は15歳であった。もしも、没年が49歳であれば、呉の赤烏期である。凌統がそこまで生存していれば、20年間、ブランクが生じてしまう。巻五十七 駱統伝によると、凌統が死ぬと、駱統が凌統の兵を(継いで)領したが、これは陸遜が蜀を破る前である。凌統の没年は、29歳ではないかとする。

父と死別した建安八年に15歳なら、この建安二十二年には、29歳となる。つまり、『実録』によって、凌統の没年は29歳であって、『実録』の言うように、建安二十二年に死んだと、確証が得られる。

『実録』は、凌統を、偏将軍・都亭侯とする。凌統伝から、偏将軍は確認できるが、都亭侯は確認できない。どこが由来だろうか。

◆凌統の事蹟
『実録』は、凌統の死に絡めて、凌統の伝記を挿入。『陳志』凌統伝と比較する。

統字公績,吴郡餘杭人也。年十五,以父功舉為別部司馬,攝領父兵。嘗有宴會,部下將陳勤性剛勇,飲酒使氣,凌轢一座。統面折之,勤怒及其父母,統流涕不答,罷出,勤於道又凶悖辱統。統不能忍,引刀砍勤,數日乃死,時人多之。每隨權征伐,從陸口還合淝,率左右苦戰,免權淮北之難。而還,悲痛親近者皆沒無返者。權引袂拭面曰:「公績,亡者已矣,但使卿在,何患無人?」因留之,常使出入卧內。統為人性好接物,親賢愛士,輕財重義,有國士風。年二十九卒。權聞之驚起,哀不自勝,使張承作誄致祭。有二子烈﹑封,皆幼弱,權収養於宮中。年八九歲,令葛先授書,十日一教乘馬射,呼為「吾家虎子」。

凌統伝は、父の凌操から語り起こすが、『実録』は、凌統が15歳で、別部司馬になったときから。『実録』は、「父の功績により」とされ、『陳志』凌統伝は、「左右の者が凌統をほめ、また父の凌操が国事で死んだから」別部司馬になったとする。『実録』が節略している。『陳志』は、「行破賊都尉」も兼ねたとするが、『実録』にない。麻・保屯の戦功は、『実録』にない。宴席で揉めた相手を、『実録』は「部下将の陳勤」に作り、『陳志』は「督の陳勤」とする。陳勤を殺した罪を、凌統は麻・保屯で挽回するが、『実録』にない。『実録』にないことよりも、『実録』にあって、『陳志』と違うところを追いかけるのが、分析手法としては、有効みたい。
『実録』は、孫権の言葉を、「公績,亡者已矣,但使卿在,何患無人」に作るが、『陳志』は、「公績、亡者已矣。苟使卿在、何患無人」に作り、「但」と「苟」だけが違う。
凌統の子は、校勘記によると「列」に作っていたが、凌統伝に依って「烈」に改めたとする。ぎゃくに、凌統伝の誤りである、「年四十九卒」は、「年二十九卒」に改められている。校勘記によると、凌統の子に書を授けたのは、凌統伝では「葛光」で、『実録』では「葛先」であるが、字形が近いため、どちらが正しいか、決められないという。

建安二十三年

二十三年,權如吴,親乘馬射虎於庱亭。虎傷馬,長史張紘執轡諫曰:「足下繼父兄之業,不宜輕脫,逞英雄於猛獸,萬一不虞,則大事去矣。」權乃止。秋,橫江將軍﹑益陽侯魯肅卒。

建安二十三年、孫権は呉郡にゆき、みずから乗馬して、庱亭で虎を射た。これは、呉主伝に見える。呉主伝は、「権投以雙戟、虎却廃、常従張世、撃以戈、獲之」と、虎を撃退して終わっている。
『実録』によると、長史の張紘が諫めた。諫めたことが、呉主伝・張紘伝に見当たらない。張紘は、戦場で突進することを諫めているが、虎との格闘を禁じたことは、どこにあるのか。どこにでもありそうなだけに、ぎゃくに探すのが大変。というか、張紘は、建安十七年に死んでいると思われ、ここで孫権を諫めることは、あり得ない。

張昭伝に、類似した記事がある。

張昭伝:権、毎田猟、常乗馬射虎。虎常突前攀持馬鞍、昭変色而前曰「将軍、何有当爾。夫、為人君者謂、能駕御英雄、駆使羣賢。豈謂、馳逐於原野、校勇於猛獣者乎。如有一旦之患、奈天下笑何。」権謝昭曰「年少、慮事不遠。以此慚君」然、猶不能已、乃作射虎車。為方目、間不置蓋、一人為御、自於中射之。時有逸羣之獣輒復犯車、而権毎手撃、以為楽。昭雖諫争、常笑而不答。

虎が孫権の馬鞍に手をかけたことと、張昭がそれを諫めたことは、これが元ネタだろう。張昭伝において、時期は、劉備を車騎将軍にした時期(荊州を貸した頃)から、黄初二年(曹丕の呉王となる頃)までのあいだに、置かれている。建安二十三年のことと考えて、不整合は起きない。
つまり『実録』は、呉主伝から、孫権が虎にニアミスしたエピソードを見つけ、ふわっと、張昭が孫権を諫めたエピソードを思い出し、それを張紘の言葉だと誤認して、すでに張紘が故人であるにも拘わらず、ここに書いてしまった『実録』の張紘の言葉は、単語を切り出して、いろいろ検索したが、ヒットしない。『実録』が、いかにもありそうなセリフを、記憶に頼って書いたことが分かる。

『実録』は、魯粛の没年が、魯粛伝より1年遅い(建安二十三年)が、その直前、孫権が狩猟で虎と接近し、張紘に諫められた逸話を載せる。張紘はすでに5年以上前に死んでおり、虎との接近を諫めたのは、張昭の言葉。魯粛の死期について、『建康実録』の精度を考える以前の問題かと。

魯粛が、建安二十三年秋、死んだとする。校勘記によると、魯粛伝・『通鑑』は、建安二十二年に魯粛が死んだとする。魯粛伝には、明確に「二十二年」と書いてあり、複雑な編纂プロセスが求められる箇所でもない。張紘のことの精度からしても、魯粛伝を退けて、建安二十三年秋とする理由はない。
むしろ、魯粛伝にない、「秋」という季節情報が、どこから来たのか、気になる。呉主伝は、この前後に「秋」字はない。切り貼りの結果、うっかり残ったと考えるのも難しい。

『実録』は、魯粛の伝記を書くが、ここの『実録』の価値はなさそうなので、省く。

在荊州,甚得物情,衆至萬餘。肅為人方直嚴毅,寡於玩飾,內外節儉,治身整齊。在軍手不釋卷,善屬文,思略弘遠。

荊州の物情に精通しており、軍勢を1万余まで増やした。魯粛の人となりは、方直・厳毅で、玩飾を少なくし、内外は節倹で(経済的な威信を見せびらかさず)身を治めることは整斉としていた。軍中でも書物を手放さず、属文を善くし、思略は弘遠であった。
『陳志』魯粛伝と、キャラが変わっている。標準的な知識人の振るまいを、魯粛に当てはめただけという見方もできるが、そういう魯粛が、周瑜に大きなプレゼントをしたことの意味が、また変わってくる。170520

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建安二十四年 関羽の征伐

建安二十四年秋

二十四年秋,權表漢天子,自率陸遜﹑呂蒙等征西關羽。

建安二十四年秋、孫権は漢の天子に上表し、みずから陸遜・呂蒙を率い、西のかた関羽を征伐した。
これは、呉主伝の「権内憚羽、外欲以為己功。牋与曹公、乞以討羽自効」と、だいぶニュアンスが違う。呉主伝は、「孫権は、内では関羽をはばかり、外では(曹操に対する)功績を立てようとして、曹操に参戦を申し出た」と、かなりリアルな感じがする。『実録』は、観念的な美文という感じ。

しかも、八月、劉備が漢中王を自称するより前に、孫権は劉備の征伐を始めている。『実録』では、孫権は、曹操に降ったのも「詐り」であると、『陳志』にない明言をしていた(上記)。孫権は、まったく曹操に屈服するつもりがなく、顔色を窺うこともない。劉備が王を僭称するより前に、劉備の討伐を、(曹操の頭ごしに)漢の天子に上表している。孫権の主体性・自発性が高く表れ、主導権があるように見える。『三国志』が伝えるように、関羽が動くのを待ち、曹操と協調することを前提に、、という小細工をすることがない。

ちなみに、『通鑑』は、劉備の漢中王即位を、七月とする。このあたり、2017年秋に出る論文に書きましたが、先主伝は「秋」とのみ知るし、『後漢書』本紀九は「秋七月庚子」に作るが、『後漢書朔閏考』によると、この年の七月には庚子が存在せず、『後漢紀』は八月とする。どないやねん。


至大桑浦,拜呂範為建武將軍﹑領丹楊太守,封宛陵侯,使鎭建業。謂之曰:「前從卿言,無今日之勞也。今當取之,卿好為我居守也。」八月,劉備稱漢中王。

『実録』によると、孫権は、大桑浦に至ると、とある。大桑浦は、正史の検索で引っかからない。「桑」を「桒」にするとか、小技を使ってもダメ。つぎに引く呂範伝と整合させるなら、柴桑に鎮する、呂範の館が、このあたりにあったか。
『実録』において、孫権は、呂範を建武将軍とし、丹陽太守を領し、宛陵侯として、建業に鎮させた。孫権は、「まえに呂範の言うとおりにすれば(劉備を京城で飼い殺せば)今日の苦労はなかった。いま荊州を取るチャンスである。どうか私の留守を、守ってほしい」と言った。

さて、巻五十六 呂範伝に、似て非なる記述がある。

劉備詣京見権、範密請、留備。後遷平南将軍、屯柴桑。権討関羽、過範館、謂曰「昔早従卿言、無此労也。今当上取之、卿、為我守建業」権破羽還、都武昌。拝範建威将軍、封宛陵侯、領丹楊太守、治建業、督扶州以下至海。

孫権が関羽を討ちに行くとき、柴桑で呂範の館をよぎり、『実録』と同じセリフを言っている。『実録』では「我がために居守せよ」というが、呂範伝では、「建業を守れ」と、場所がより具体的である。
呂範伝によると、孫権が関羽を破り、武将に還ったあと、呂範を「建威将軍、封宛陵侯、領丹楊太守」としている。呂範の任命を、『実録』は討伐の前、呂範伝は討伐の後のこととし、『実録』は建武将軍とするが、呂範伝は建威将軍とする。
いちいち食い違うが、『実録』が呂範伝を、ザツに引用した結果なのか。それとも、呂範伝とは、別の史料を見ながら、書いたのか。建武将軍は、校勘記に触れられていないが、違うのではないか。『集解』呂範伝は、将軍号について、記述なし。

建安二十四年冬

冬十一月,大破關羽,定荊州,釋魏將于禁囚,歸之。羽退守當陽麥陵城,請降,

冬十一月、おおいに関羽を破り、荊州を平帝した。魏将の于禁を捕囚から解放して、これを帰した。
なにげない文に見えるが、いろいろ疑問がある。呉主伝に、「閏月、権征羽、先遣呂蒙襲公安、獲将軍士仁。蒙到南郡、南郡太守麋芳以城降」とある。『後漢書朔閏考』によれば、閏月は、閏十月である。閏十月、孫権が関羽を征伐し、呂蒙が南郡を制圧した。『実録』は、閏十月の月が飛んでいる。『通鑑』でも、閏十月は見落とされているので、『実録』のみを責められない。
巻五十八 陸遜伝に、「孫権乃潜軍而上、使遜与呂蒙為前部。至即克公安・南郡。……備宜都太守樊友委郡走、諸城長吏及蛮夷君長皆降。遜請金銀銅印、以仮授初附。是歳、建安二十四年十一月也」とあり、陸遜が宜都郡を制圧したのが、『陳志』では十一月である。『通鑑』は、この十一月に依って、月を表しているが、『実録』はそうでもなさそう。
『実録』では、于禁を解放して帰したとあるが、『陳志』で于禁が解放されて、魏に帰るには、2年後の黄初二年、孫権が魏の呉王に封建されるときである。『実録』は、于禁のタイムテーブルがザツである。于禁が、呉で虐待される逸話を、これでは載せることができない。

関羽は退いて当陽の麦城を守り、降伏を請うた。校勘記によると、もとは「麦陵城」であったが、明らかな誤りなので、「麦城」に改めたと。賛成できる。
呉主伝に、「関羽還当陽、西保麦城。権使誘之。羽偽降、立幡旗為象人於城上、因遁走」と、当陽の麦城は『実録』と一致するが、呉主伝では、関羽の降伏は「偽って」のものである。
『実録』は、関羽に降る気がないことを、既成事実として書かず、太史の呉範に聞いた。呉範伝に依る。『通鑑』は、こういう占い系のエピソードを、ことごとくカットする。編年体の『実録』で読めるのは、特色のひとつ。つぎのとおり。

權召太史吴範問之。範曰:「彼有走氣,言降詐耳。」密使潘璋等徑路邀之,令朱然納降。覘者還,曰:「關羽已遁去。」範曰:「雖去不免。」權曰:「何時得之。」答曰:「明日日中。」權立表下漏待之。及日中,不至。範曰:「尚未正中。」頃之,有風動帷,範拊手曰:「羽至矣。」須臾,外稱萬歲,傳言得羽。

巻六十三 呉範伝に、元ネタと思われる記事がある。

権与呂蒙、謀襲関羽、議之近臣、多曰不可。権以問範、範曰「得之」後、羽在麦城、使使請降。権問範曰「竟当降否。」範曰「彼有走気、言降詐耳」権使潘璋、邀其径路。覘候者還、白羽已去。範曰「雖去不免」問其期、曰「明日日中」権、立表下漏、以待之。及中不至、権問其故、範曰「時尚未正中也」頃之、有風動帷、範拊手曰「羽至矣」須臾、外称万歳、伝言得羽。

孫権と呂蒙は、関羽を襲おうと考えたが、近臣らはムリと言った。呉範は、占いによって「勝てる」と言った。案の定、勝てた。関羽が麦城で降伏を請うと、孫権は投降の有無を聞いた。「にげる気が出ている。降るとは、詐りである」と呉範は見抜いたから、潘璋に退路を断たせた。偵察者によると、やはり関羽は逃げたという。呉範は、「どうせ逃げれない。明日中に捕まえられる」と。孫権は時計を見ながら待った。呉範の予言どおり、関羽を捕まえることができた。

是日,潘璋部將馬忠擒羽及子平於章郷,還,誅之。(案,虞翻傳:關羽既敗,帝令翻筮之,得節之臨,翻曰:「不出三日,當斷其頭。」果如其言。帝謂翻曰:「卿不及伏羲,可與東方朔為比也。」案,蜀志:關羽字雲長,河東解人也。與張飛共事劉備,為禦侮者也。)漢天子以權為荊州牧﹑領車騎大將軍,封南昌侯。權遣梁禹入貢於漢,以觀曹操。

この日、潘璋の部将である馬忠は、関羽と関平を、章郷で捕まえて、還ってきてから誅した。馬忠・章郷という固有名詞は、呉主伝に見える。
ここで『実録』は、注釈が入る。虞翻伝によると、関羽が敗れると、虞翻は筮竹で占って、「節の臨」という結果を得た。虞翻は、「三日以内に、その頭を断つ」と言い、その通りになった。孫権は虞翻に、「きみは伏羲には及ばないが、東方朔と同じくらいすごい」と。すなわち、この注釈は、呉範だけでなく、虞翻も占いを当てた。『実録』の載せる占いの逸話には遺漏がある、と言いたいのであろう。
虞翻伝の当該記事とは、「関羽既敗、権使翻筮之。得兌下坎上節、五爻変之臨。翻曰「不出二日、必当断頭」果如翻言。権曰「卿不及伏羲、可与東方朔為比矣」とある。これも、『通鑑』では無視された記事でした。

漢の天子は、孫権を荊州牧・領車騎大将軍、南昌侯としたと。
呉主伝によると、曹操が上表して、孫権を驃騎将軍(車騎大将軍ではない)にしたとある。曹操の関与を、抹消したのは、『実録』の編纂方針だとして。官職が、『実録』では車騎大将軍、呉主伝では驃騎将軍である。劉備との互薦により、孫権は車騎将軍を(漢朝から見れば)自称した状態であった。いま曹操の斡旋でもらった将軍号は、別系統である。しかし『実録』は、車騎将軍から車騎大将軍に、同一線上で昇進したかのように見せる。史実の孫権が有する、複雑な権力獲得のプロセス(権威の根拠がころころ変わる)を抹消して、漢臣として、順調に昇進していくように見せたいようである。

孫権は、梁禹を漢朝に入朝させ、曹操に観した。
呉主伝では、使者は「梁寓」に作り、「禹」と「寓」が異なる。呉主伝 注引『魏略』によると、呉主伝と同じく「梁寓」に作り、曹操に「観望」したという。『実録』の「観」字は、ここから拾ったものと思われる。曹操は、あくまで、漢臣の同輩として、面会をしただけであると。『実録』は、呉主伝と同注引『魏略』を引きながら、使者の名を誤った。

魏略曰、梁寓字孔儒、呉人也。権遣寓観望曹公、曹公因以為掾、尋遣還南。

校勘記は、「梁禹」の問題については、スルーである。わりとザツい。

是歲,南昌太守孱陵侯呂蒙卒。蒙字子明,汝南富陂人也。……

この歳、呂蒙が死んだことから、呂蒙の事蹟がある。『実録』は、40歳で卒したとするが、呂蒙伝は、42歳とする。呂蒙の事蹟の差異については、ここでは検証をはぶく。
校勘記の指摘だけを、引いておく。呂蒙の姉の夫を、『実録』は「劉当」に作るが、呂蒙伝に依って「鄧当」に改めるという。孫権に来附した蜀将を、『実録』は「龐粛」に作るが、呂蒙伝と『通鑑』に依り「襲粛」に改めるという。孫権に兵を没収されそうになった2将を、『実録』は「徐碩・宋芝」に作るが、呂蒙伝は「成当・宋定・徐顧」に作るという。孫権が呂蒙らの事蹟にコメントしたのを、『実録』は「一決也」に作るが、呂蒙伝は「一快也」に作る。同じコメントのなかで、『実録』は「意出張陳遠矣」に作るが、呂蒙伝は「意出張蘇遠矣」に作る。『実録』は、「籌略奇正」に作るが、呂蒙伝は、「籌略奇至」に作る。など。

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建安二十五年~二十七年 呉王(1回目)

建安二十五年

二十五年春正月,魏王曹操薨,太子丕卽位,改漢建安為延康元年。秋,魏將梅敷使南陽長史張儉送欵,以南陽陰﹑酇﹑筑陽﹑山都﹑中廬五縣五千家歸附,權納之。明年冬十月,曹丕代漢稱魏,號黃初元年,而權江東猶稱建安。

建安二十五年正月、魏王の曹操が薨じて、太子の曹丕が即位し、延康と改元した。これは、『三国志』と矛盾がない。『実録』は、建安から延康への改元について、とくに孫権サイドの反応(無視るとか)を書いていない。
秋、魏将の梅敷が南陽長史の張倹を送欵し、南陽の陰・酇・筑陽・山都・中廬の5県5千家を、孫権に帰属させた。孫権はこれを受け入れた。

呉主伝に、「二十五年春正月、曹公薨。太子丕、代為丞相魏王、改年為延康。秋、魏将梅敷、使張倹求見撫納。南陽 陰・酇・筑陽・山都・中盧、五県民五千家来附」とある。魏の情勢を、いちじるしく省略し、いきなり秋の梅敷に飛ぶのは、呉主伝を踏まえている。ただし、張倹が「南陽長史」であることは、呉主伝にない。『実録』のほうが、情報が多くて優れている。
『集解』呉主伝によると、郡国志に、南陽郡の陰県・酇県・筑陽・山都と、南郡の中盧がある。同所引『一統志』によると、陰県・酇県・筑陽は、三国魏の南郷郡に属し、山都・中盧は、三国魏の襄陽郡に属したという。この地域の帰属は、しばらくモメるので、すぐに『一統志』が示した支配国・行政区分にはならない。

『実録』は、漢魏革命を「明年冬」とあるが、「同年冬」の誤り。しかも、編年体なのだから、建安二十五年の記事のなかに、「明年」を含めるのは、どう考えても、おかしいでしょう。意思が感じられるのは、「孫権は江東で、なおも建安と称した」である。呉主伝には見えない。建安を使い続けた木簡? 竹簡? が出土しているらしく、孫権が建安を使い続けたことは指摘されるが、『実録』に書いてあるじゃんと。

建安二十六年

二十六年,其年始置丹楊郡,自宛陵理於建業。

建安二十六年(黄初二年)、はじめて丹陽郡を置き、宛陵より建業を治めたという。……よく分からない。丹陽郡は、漢代から存在する。
呉主伝 黄初二年に、「権、自公安、都鄂、改名武昌。以武昌、下雉、尋陽、陽新、柴桑、沙羨、六県為武昌郡」とある。鄂県を武昌と改め、ここを孫権の居所に定めた。孫権の首都の移動らしきものが、ここに表れたか。いや、武昌のことは、すぐ下に見える。
呉主伝に、「十六年。権、徙治秣陵。明年、城石頭。改秣陵為建業」とある。ちょうど10年前の、建安十六年に、秣陵を建業に改めている。これが混入したのであろうか。さらに、すぐ下に、建安二十七年とあるが、本来は、これが建安二十六年(黄初二年)の記事である。すぐ上で指摘した、「明年冬」も誤りだった。漢魏革命によって、タイムテーブルが崩れたらしい。建安二十五年=延康元年=黄初元年という、1年に3つの年号があることを、『実録』は把握できなかった。

建安二十七年

二十七年夏四月,劉備稱帝號於蜀,卽黃初二年也。時權在公安,聞之,自公安下都鄂,改鄂為武昌。召問知星者,將定三分之計。五月,甘露降於建業。

建安 二十七年 二十六年、夏四月、劉備が蜀で帝号を称した。黄初二年のことである。ときに孫権は公安にいて、これを聞き、公安から(長江を)下って鄂県に都し、武昌と改めた。星を知る者に問い、三分の計を定めようとした。五月、建業に甘露が降った。
呉主伝に、「二年四月、劉備称帝於蜀。権自公安、都鄂、改名武昌。以武昌、下雉、尋陽、陽新、柴桑、沙羨、六県為武昌郡。五月建業言、甘露降」とある。公安から鄂県に移り、武昌と改称したことは、呉主伝に同じ。
同注引『魏略』に、出典がある。

『魏略』:権聞魏文帝受禅而劉備称帝、乃呼問知星者、己分野中星気何如、遂有僭意。而以位次尚少、無以威衆、又欲先卑而後踞之、為卑則可以仮寵、後踞則必致討、致討然後可以怒衆、衆怒然後可以自大、故深絶蜀而専事魏。

『実録』にある「知星者」は、『魏略』が出典である。『魏略』では「遂有僭意」とするが、ひと聞きが悪いので削除し、文をかなり節略・置換して、「まさに三分の計を定めんとす」と、『実録』がいじっている。五月に建業に甘露が降ったというのも、出典が呉主伝。

秋八月,城武昌,下令諸將出入從兵仗以自防。冬十一月,魏使邢貞至,册命權九錫,為吴王。貞入國門猶乘車,軍師張昭怒其無禮,責之曰:「君謂江東無寸刃,可為法耶?何輕慢之甚!」貞遽下車,拜謝羣臣。

八月、武昌に城きずき、「令を下して諸將をして出入して兵仗に従ひて以て自ら防がしむ」とある。これは、呉主伝を節略したもの。

呉主伝:下令諸将曰「夫存不忘亡、安必慮危、古之善教。昔、雋不疑、漢之名臣、於安平之世而刀剣不離於身。蓋、君子之於武備不可以已。況今、処身疆畔、豺狼交接、而可軽忽不思変難哉。頃聞、諸将出入、各尚謙約、不従人兵。甚非備慮愛身之謂。夫、保己遺名以安君親、孰与危辱。宜深警戒、務崇其大。副孤意焉。

呉主伝を要約しながら、地の文に変換している。

冬十一月、魏使の邢貞が来て、冊命もて孫権に九錫をさずけ、呉王とした。邢貞は国門に入っても馬車を降りないから、軍師の張昭が無礼を責めた。
呉主伝に、「十一月、策命権曰、蓋、聖王之法……」と、十一月に冊命が下ったことと、その文面が引かれる。これを『実録』は省く。呉主伝は、文面のなかに、「今、封君為呉王。使使持節太常高平侯貞、授君璽綬、策書」という、魏帝の言葉がある。使者が邢貞であることも分かる。
巻五十二 張昭伝に、出典がある。

張昭伝:魏、黄初二年、遣使者邢貞、拝権為呉王。貞、入門、不下車。昭謂貞曰「夫礼、無不敬故法無不行。而君敢自尊大。豈以江南寡弱、無方寸之刃故乎」貞即遽下車。

張昭が邢貞を馬車から降ろしたことは、張昭伝が出典。『実録』では、「江東に寸刃もないと思ってるのか」と脅すが、張昭伝では、「方寸之刃もないと思っているのか」と言う。『実録』のほうが、字数をケチっている。
邢貞は馬車を降りたところまでは、張昭伝に見えるが、『実録』に伝えるように、邢貞が「羣臣に拝謝した」ことは、張昭伝に見えない。同じ場面がある、巻五十五 徐盛伝にも、邢貞が「羣臣に拝謝」までしたという記録がなく、邢貞が呉国の脅威を、還って報告したとあるのみ。呉国の名誉を持たせた書き方をしてある。

見册命至,議以為宜稱漢上將軍・九州伯,不應受魏封。權曰:「九州伯於古未聞,昔沛公亦受項羽封為漢王,此蓋時宜爾,復何損也。」

冊命が至ると、呉臣は孫権に、「漢の上将軍・九州伯を称して、魏の封建を受けるな」と勧めた。孫権は、「九州伯は前例がないし、沛公は項羽から漢王に奉献されたが、時宜の対応であり、支障はない」と言ったと。
呉主伝 注引『江表伝』に、「江表伝曰、権羣臣議、以為宜称上将軍九州伯、不応受魏封。権曰「九州伯、於古未聞也。昔沛公亦受項羽拝為漢王、此蓋時宜耳、復何損邪。」遂受之」とある。『江表伝』では「上将軍」とのみあるが、『実録』は「漢の上将軍」と、あえて国号を付ける。九州伯は、『集解』呉主伝に引く胡三省の説によると、『礼記』王制に、1州は天子に県かり、八州に八伯がいるとする。すると、「漢」字が「九州伯」まで掛かるとすると、『実録』における孫権は、「漢の九州伯」を勧められたの? それって漢の天子と、なにが違うのだろう。この時点で、献帝は退位させられているから、孫権が代わりに付けばいいのか?
というか、『江表伝』にも見える「上将軍」は、いかなる立場か。

『漢書』巻一に、「秦三年……十一月,項羽殺宋義,并其兵渡河,自立為上將軍,諸將黥布等皆屬」とあり、項羽は、上将軍を自称している。『後漢書』列伝一 劉盆子伝に、「崇等議曰:「聞古天子將兵稱上將軍 。」乃書札為符曰「 上將軍」」と、琅邪の樊崇が、伝説を語って、祭祀に活用してる。

まじめに議論しても、あまり意味がなくて、意味のある文は、「魏の封を受くることに応ぜず」の手段として、てきとうな称号に代えようとしているだけか。

呉王を受けた孫権は、魏帝の返礼の使者を出した。呉主伝は、ちょっと記述順が違って、曹丕が呉王に封建した、劉備が荊州に侵入した、(劉備の侵入があるから)孫権は呉王を受けることにして、趙咨を返礼の使者とした、という順序である。しかし、『実録』は、孫権が主体的に呉王を受けたように見せるため、劉備の動きに触れず、まず趙咨のエピソードを消化する。

遂遣中大夫趙咨使魏。魏文帝問曰:「吴王何等主?」對曰:「聰明仁智,雄略之主。」問其狀,咨曰:「納魯肅於凡品,是其聰也;拔呂蒙於行軍,是其明也;獲于禁而不害,是其仁也;取荊州兵不血刃,是其智也;據三州虎視天下,是其雄也;屈身陛下,是其略也。」又問:「吴王頗知學乎?」答曰:「吴王浮江萬艘,帶甲百萬,任賢使能,志在經略,脫有餘暇,博覽史籍而採奇異,不効書生尋章摘句而已。」又曰:「吴可征乎?」咨曰:「大國有征伐之兵,小國有備禦之固。」又曰:「吴難魏乎?」咨曰:「帶甲百萬,江漢為池,何難之有?」又曰:「吴如大夫者幾人?」咨曰:「聰明特達者八九十人,如臣之輩,撥羣驅隊,不可勝數。」文帝善其對,厚禮之。咨還說權曰:「臣觀北方,終不能守盟,朝廷承漢四百之餘,應東南之運,宜改年號,正服色,以應天順人。」權納之。拜騎都尉。

呉から魏への使者は、趙咨。『実録』で、趙咨は中大夫であるが、呉主伝では都尉である。呉主伝 注引『呉書』によると、趙咨は、孫権が呉王になると、中大夫に抜擢されたとある。つまり『実録』は、呉主伝の不完全さを、同注引『呉書』で修正して、趙咨の官職を中大夫に直したのである。
曹丕と趙咨との問答は、呉主伝に、出典がある。

呉主伝:遣都尉趙咨、使魏。魏帝問曰「呉王、何等主也」咨対曰「聡明仁智、雄略之主也」帝問其状、咨曰「納魯粛於凡品、是其聡也。抜呂蒙於行陳、是其明也。獲于禁而不害、是其仁也。取荊州而兵不血刃、是其智也。拠三州虎視於天下、是其雄也。屈身於陛下、是其略也〔五〕」帝欲封権子登。権、以登年幼、上書辞封。重遣西曹掾沈珩、陳謝、并献方物〔六〕。立登、為王太子〔七〕。

「是其略也」までは、呉主伝が出典である。後半は、『実録』の「又問:吴王頗知学乎」以降、出典が呉主伝を終え、呉主伝注引『呉書』に移行する。

呉主伝 注引『呉書』:呉書曰、咨字徳度、南陽人、博聞多識、応対辯捷、権為呉王、擢中大夫、使魏。魏文帝善之、嘲咨曰「呉王頗知学乎。」答曰「呉王浮江万艘、帯甲百万、任賢使能、志存経略、雖有餘間、博覧書伝歴史、藉採奇異、不効諸生尋章摘句而已。」帝曰「呉可征不。」咨対曰「大国有征伐之兵、小国有備禦之固。」又曰「呉難魏不。」咨曰「帯甲百万、江、漢為池、何難之有。」又曰「呉如大夫者幾人。」咨曰「聡明特達者八九十人、如臣之比、車載斗量、不可勝数。」咨頻載使北、[魏]人敬異。権聞而嘉之、拝騎都尉。咨言曰「観北方終不能守盟、今日之計、朝廷承漢四百之際、応東南之運、宜改年号、正服色、以応天順民。」権納之。

趙咨が、私のような者は、車でまとめて軽量するほど居ります、呉国は人材が豊富でしょ!? と、曹丕を圧倒するストーリーまで同じ。『呉書』では、魏から帰った趙咨が騎都尉にしてもらい、孫権に年号・服飾を改めることを進言する。『実録』では、さきに年号・服飾のことを進言してから、孫権が(進言まで含めて)プラスの評価対象とし、騎都尉にしたとある。

◆劉備の荊州侵入

是年,劉備怨殺關羽,大舉兵自來伐。至巫山誘武陵五溪蠻夷反,權使大將軍陸遜拒之。

劉備が攻めてきた記事。とりあえず、呉主伝をチェック。

呉主伝:是歳、劉備帥軍来伐。至巫山、秭帰、使使誘導武陵蛮夷、仮与印伝、許之封賞。於是、諸県及五谿民皆反為蜀。権、以陸遜為督、督朱然潘璋等、以拒之。

『建康実録』は、劉備の出兵の動機を、「関羽を殺されたことを怨んで」と特定する。呉主伝に、巫山・秭帰に至るとあるが、『実録』は巫山のみで、秭帰を省く。武陵・五谿は、呉主伝を節略して書いている。

南郡太守諸葛瑾時駐公安,使人送牋,論是非以解於備。或有讒瑾別遣親人與備相聞,陸遜知之,表明瑾無此,宜散其意。權書報遜曰:「子瑜與孤從事積年,恩如骨肉,深相明究,其為人也,非道不行。玄德昔遣孔明至,孤語子瑜:『卿與亮同產,且弟隨兄,於義為順,何以不留?』子瑜答孤云:『孔明與人委質定分,義無二心。弟之不留,猶臣之不往也。』其言足貫神明,今豈有此乎?孤前得妄語文疏,卽封見子瑜,並手筆與之,得其報,論天下君臣大節一定之分。孤與子瑜,可謂神交,非外言可閒也。知卿意至,輒封來表,以示子瑜,使知孤意。」

南郡太守の諸葛瑾は、公安におり、劉備に文書を送った。諸葛瑾伝(下に引く)に、諸葛瑾から劉備への文面が載っているが、『実録』は省いている。
ある人が、諸葛瑾は劉備に通じているとチクッて、陸遜が諸葛瑾に弁明を求めた。これも、巻五十二 諸葛瑾伝に基づく。

諸葛瑾伝:後従討関羽、封宣城侯、以綏南将軍、代呂蒙、領南郡太守、住公安。劉備東伐呉、呉王求和。瑾与備牋曰「奄聞、旗鼓来至白帝。或恐議臣以呉王侵取此州、危害関羽、怨深禍大、不宜答和。此、用心於小、未留意於大者也。試為陛下、論其軽重及其大小。陛下若抑威損忿、蹔省瑾言者、計可立決、不復咨之於羣后也。陛下、以関羽之親、何如先帝。荊州大小、孰与海内。俱応仇疾、誰当先後。若審此数、易於反掌〔一〕」時或言、瑾別遣親人与備相聞、権曰「孤、与子瑜有死生不易之誓。子瑜之不負孤、猶孤之不負子瑜也」
諸葛瑾伝 注引『江表伝』:瑾之在南郡、人有密讒瑾者。此語頗流聞於外、陸遜表保明瑾無此、宜以散其意。権報曰「子瑜与孤従事積年、恩如骨肉、深相明究、其為人非道不行、非義不言。玄徳昔遣孔明至呉、孤嘗語子瑜曰『卿与孔明同産、且弟随兄、於義為順、何以不留孔明。孔明若留従卿者、孤当以書解玄徳、意自随人耳。』子瑜答孤言『弟亮以失身於人、委質定分、義無二心。弟之不留、猶瑾之不往也。』其言足貫神明。今豈当有此乎。孤前得妄語文疏、即封示子瑜、并手筆与子瑜、即得其報、論天下君臣大節、一定之分。孤与子瑜、可謂神交、非外言所間也。知卿意至、輒封来表、以示子瑜、使知卿意。」

諸葛瑾が讒言されたトラブルは、諸葛瑾伝 注引『江表伝』のほうが詳しい。孫権と諸葛瑾の恩が「骨肉」であり、同母弟の諸葛亮の劉備に対する忠について言及したことも、『江表伝』が元ネタである。
『実録』には関係ないですが、呂蒙の後任として、南郡太守(江陵)を務めたのは、諸葛瑾だったのですね。諸葛瑾は、劉備の荊州奪回の最前線を任されていた。果たして、諸葛亮との血縁がなくても、同じ役割を負わされただろうか。本題(テキスト比較)から逸れました。

呉主伝は、この歳のうちに、孫権が孫登を任子に出すのを渋るかわりに、孫登を王太子に立てている。孫権が、任子を出さずに、曹丕との約束を破ったことは、呉にとって不名誉だったのか、省かれてしまった。ついでに、王太子を立てるという、王国の大切なイベントまで、書き漏れている。170521

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建安二十八年=黄武元年 呉王(2回目)

建安二十八年春

『実録』は、建安二十八年とするが、正確には(建安を使い続けるとしても)建安二十七年。西暦では、おおむね222年。魏では黄初三年、蜀では章武二年にあたり、呉では黄武元年と改元された歳です。

『三国志』を元ネタにした、編年体の編纂物という点で、唐代の『建康実録』も、宋代の『資治通鑑』は同じ。しかし『建康実録』は、ちょっと見れば「なぜこう間違えたか」すら明白なミスが多い。『三国志集解』が『建康実録』を参考資料として引かないが、『資治通鑑』を引く理由が分かります。『建康実録』は、あんまり取るべき情報がない。『建康実録』のほうが、『資治通鑑』よりも古いのに。三国時代から見れば、唐代も宋代も、「同じくらい遠い時代」であり、編纂された時期の新旧は、あまり関係ないのかも。それよりも、編者(チーム)の力量によって、クオリティが決まる。


二十八年春正月,蜀軍前後連五十餘營,分據險地,進升馬鞍山。陸遜督諸將隨輕重應接,四面攻圍。閏正月,大破蜀軍於五屯,斬將搴旗,追奔逐北,盡敗諸營,投降者萬餘,盡得其糧食器物。備走,遜部將孫桓斬上兜道,截其徑路,要備。備踰山險僅得免,入於白帝城。

建安 二十八年 二十七年(黄初三年)、劉備は馬鞍山に登った。閏正月、おおいに蜀軍の五屯を破った。劉備がにげ、陸遜の部将である孫桓は、退路を断って、劉備を要撃した。劉備は、山険をこえて、白帝城に入った。
呉主伝をチェックする。

呉主伝:黄武元年春正月。陸遜、部将軍宋謙等、攻蜀五屯、皆破之、斬其将。三月鄱陽言、黄龍見。蜀軍、分拠険地、前後五十餘営。遜、随軽重、以兵応拒、自正月至閏月、大破之。臨陳所斬及投兵降首数万人。劉備奔走、僅以身免〔一〕。

まず、呉が独自に行った、黄武への改元をスルーしている。呉の独自の威信を強調するのでなく、漢との連続性を強調する方針であろう。黄武への改元までスルーするため、建安の年号が1年ズレていることを、引きずっている。

蜀の五屯を破ったのを、『実録』は閏正月とする。呉主伝は、正月に陸遜が蜀の五屯を破り、三月に鄱陽で黄龍が現れ、正月から閏月まで、陸遜が蜀軍を防いだとある。つまり、『三国志』のいう閏月は、三月より後である。しかし『建康実録』は、短絡的に、正月から閏月というから、2ヶ月間だろう(閏正月までだろう)と判断したらしい。陸遜が、長期間の耐久戦に勝ったことが、台無しにされている。すなわち、『実録』の「閏正月」は、どのようにして誤ったかも特定することができたため、検討に値しない。『三国志』の記述を改める材料に使えないことが分かった。

文帝紀に、「五月以荊揚江表八郡為荊州、孫権領牧故也。荊州江北諸郡為郢州。閏月、孫権破劉備于夷陵。秋七月……」とある。つまり、陸遜が勝ったのは、閏五月か閏六月であると、絞ることができる。
『集解』呉主伝に引く潘眉の説によると、閏六月である。

先主伝は、夏六月に劉備を破ったとあり、月が異なる。

先主伝:二年春正月、先主軍還秭歸。將軍吳班、陳式水軍屯夷陵、夾江東西岸。二月先主自秭歸、率諸將進軍、緣山截嶺、於夷道猇亭、駐營。自佷山通武陵、遣侍中馬良、安慰五谿蠻夷、咸相率響應。鎭北將軍黃權、督江北諸軍、與吳軍相拒於夷陵道。夏六月黃氣見自秭歸十餘里中、廣數十丈。後十餘日、陸議大破先主軍於猇亭、將軍馮習、張南等皆沒。

「斬將搴旗」は、巻五十五 丁奉伝に見えるものの(「每斬將搴旗,身被創夷」)、この戦いの記事として、先主伝・呉主伝・陸遜伝に見えない。

孫桓が、上兜道を斬って、劉備の退路を防いだことは、孫桓伝が出典。

巻五十一 孫桓伝:与陸遜共拒劉備。備軍衆甚盛、弥山盈谷、桓投刀奮命、与遜戮力、備遂敗走。桓斬上兜道、截其径要。備、踰山越険、僅乃得免、忿恚歎曰「吾昔初至京城、桓尚小児。而今迫孤乃至此也」桓以功、拝建武将軍、封丹徒侯と。劉備は、京城で、幼少の孫桓と会っていたのですね。

陸遜伝には、陸遜が孫桓を救わなかったことが見えるが、本件とは別である。

陸遜伝:初、孫桓、別討備前鋒、於夷道、爲備所圍、求救於遜。遜曰「未可」諸將曰「孫安東、公族、見圍已困。奈何不救」遜曰「安東、得士衆心。城牢糧足、無可憂也。待吾計展、欲不救安東、安東自解」及方略大施、備果奔潰。桓、後見遜曰「前、實怨不見救。定至今日、乃知調度、自有方耳。」


二月,權以破蜀事使報魏,魏遣侍中辛毗﹑尚書桓階來盟誓,幷徵任子,權辭不受。

二月に、孫権が魏に、蜀を破った報告をしたのは、出典がどこだろう。そもそも、蜀を破ったのは、閏六月であるから、二月が整合しない。
呉主伝 閏六月と九月の間に、「初、権外託事魏、而誠心不款。魏乃遣侍中辛毗・尚書桓階、往与盟誓、并徴任子。権、辞譲不受」とあり、ここの出典である。つまり『建康実録』は、呉主伝の「閏月」は、本来は「閏六月」であるが、それを「閏正月」と誤認し、その直後の記事だから、二月に違いないと推断し、「二月」二字を補ったのである。
出典が、呉主伝に収まっているのだから、この予想で、概ねいいだろう。

文帝紀に、「閏月、孫權破劉備于夷陵。初帝聞、備兵東下與權交戰、樹柵連營七百餘里、謂羣臣曰「備不曉兵、豈有七百里營可以拒敵者乎!『苞原隰險阻而爲軍者爲敵所禽』、此兵忌也。孫權上事今至矣。」後七日、破備書到。秋七月……」とある。曹丕が任子を催促したのは、閏六月とすべきである。辛毗・桓階のような大物を派遣して、呉を魏の属国として、上下関係を確定させるのが、この時期の曹丕の意図であった。


建安二十八年(本当は建安二十七年)夏の記事がないのは、ほんとうは夏とすべき、五月・六月・閏六月の記事を、『建康実録』が謝って「閏正月」に突っこんでしまったためである。つぎから、秋に飛躍する。

建安二十八年秋

秋九月,魏命曹休﹑張遼等諸軍大出,數道來逼。權令呂範﹑諸葛瑾等縁江守備,拜陸遜為輔國大將軍﹑郢州牧,封江陵侯﹑假黃鉞,渡江拒魏,以將軍朱桓為濡須督,封新城亭侯。

秋九月、曹休・張遼がせまる。孫権は、呂範・諸葛瑾に長江にそって守らせた。陸遜を、輔国大将軍・郢州牧、江陵侯としたと。
呉主伝では、夷陵で勝った陸遜を、「加拜遜輔国將軍、領荊州牧、即改封江陵侯」とする。共通点が多いから、明らかにこれが出典と思われる。『建康実録』は、陸遜伝の「荊州」を、ご丁寧に「郢州」に改めた。しかし郢州とは、曹丕が、孫権が支配している部分の荊州を譲渡し、残った曹氏が支配している荊州北部に、便宜的に付けた州名。陸遜伝が正しいのです。

ましてや、陸遜の昇進は、陸遜伝によると、夷陵の勝利に対する褒賞であって、魏を迎撃するための任命ではない。『建康実録』デタラメ。
輔国「大」将軍であることも、『三国志』と食い違う。孫権のときも、車騎「大」将軍という、『三国志』にない「大」字があった。『実録』は、権威づけたつもりか。

『建康実録』は、朱桓を濡須督・新城亭侯にしたとする。呉主伝に、「権、遣呂範等督五軍、以舟軍拒休等。諸葛瑾、潘璋、楊粲、救南郡。朱桓、以濡須督拒仁」とある。これだけを見ると、朱桓が今回のために任命されたように見えるが、朱桓伝を見ると、この年以前の任命であると分かる。「新城亭侯・濡須督の朱桓」に曹仁を迎撃させた、と肩書きを有した状態で、本文に登場させるべきであった。

巻五十六 朱桓伝:後、丹楊、鄱陽、山賊蜂起、攻没城郭、殺略長吏、処処屯聚。桓、督領諸将、周旋赴討、応皆平定。稍遷裨将軍、封新城亭侯。後代周泰、為濡須督。黄武元年。魏、使大司馬曹仁、歩騎数万、向濡須。仁、欲以兵襲取州上、偽先揚声欲東攻羨溪。


魏密遣大司馬曹仁步騎數萬、向濡須,欲襲取桓,乃偽揚聲東攻羡溪,桓分兵將赴羡溪,既發,卒得仁進軍拒濡須七十里。桓遣追還羡溪兵,未到,而仁奄至城下。桓時兵吏在者五千人,因勅偃旗卧鼓,外示虛弱,以誘之。仁使子泰來攻,自將萬人留為後拒。桓分步兵當仁,身自拒破泰,泰燒營走,追斬數千級。仁退,諸軍乘勝破曹休﹑張遼等,魏引退。

曹仁が濡須に向かい、朱桓を襲おうとした。朱桓がこれを退けたのは、巻五十六 朱桓伝が出典。

朱桓伝:魏使大司馬曹仁、歩騎数万、向濡須。仁、欲以兵襲取州上、偽先揚声欲東攻羨溪。桓、分兵将、赴羨溪。既発、卒得仁進軍拒濡須七十里問。桓、遣使追還羨溪兵。兵未到而仁奄至。時、桓手下及所部兵在者五千人、諸将業業各有懼心。桓喻之曰、……桓因偃旗鼓、外示虚弱、以誘致仁。仁、果遣其子泰、攻濡須城、分遣将軍常雕、督諸葛虔、王雙等、乗油船、別襲中洲。中洲者、部曲妻子所在也。仁自将万人、留橐皋、復為泰等、後拒。桓部兵将攻取油船、或別撃雕等、桓等身自拒泰、焼営而退。遂梟雕、生虜雙、送武昌。臨陳斬溺、死者千餘。

曹仁が退くと、勝ちに乗じて、呉軍が曹休・張遼も破ったとあるが、『集解』呉主伝によると、呂範・諸葛瑾は敗れている。この戦役については、いろいろな列伝に散らかっている。
『通鑑』だと、魏軍の多方面の南征は、この黄初三年に始まるが、朱桓伝に見える、曹仁の撃破は、翌年の黄初四年に置く。曹仁の撤退は、年をまたぐのが恐らく正確であり、『実録』は、くちゃくちゃっと丸めてしまったのだ。戦役については、別に整理しますが、年をまたがることは指摘しておく。

建安二十八年冬

鎭西將軍陸遜等率諸將進表勸權卽王位。冬十一月,權就吴王位於武昌,大赦,改年號為黃武元年。初置丞相,以陽羡侯孫劭領之,立子登為王太子。

鎮西将軍の陸遜らが、孫権を王位に勧進したとする。陸遜の官位は、さっき輔国「大将軍」にしたと、『実録』が自ら(陸遜伝に逆らって)書いたばかりなのに、いつのまに遷ったのか。関羽を破った後、劉備を迎える前、陸遜伝に「權以遜為右護軍、鎮西將軍,進封婁侯」とある。輔国将軍になる前の官職が、鎮西将軍であった。誤って遡ったのである。
呉主伝によると、こたび魏の南下を受け、「揚越蛮夷多未平集、内難未弭。故、権卑辞上書、求自改厲」と、孫権は国内情勢が安定しないので、魏帝にへりくだっている。『実録』では、抹消された。
冬十一月、孫権は(陸遜らの勧進によって)呉王になったとするが、ウソである。文帝紀の黄初二年八月(当該記事の前年)、曹丕が孫権を呉王に封建している。『建康実録』にも、魏使の邢貞がきて、呉王に封建したが、その無礼を張昭が咎めたとあった。『建康実録』は、魏の南征を受けて、独立するに際して、再び呉王になり直して、改元し直したという認識である。呉主伝は、ついに改元して、長江で守ることになった、とあるだけである。

呉主伝:権遂改年、臨江拒守。冬十一月大風、範等兵溺死者数千、餘軍還江南。曹休、使臧霸以軽船五百敢死万人、襲攻徐陵、焼攻城車、殺略数千人。

曹休との戦役の最中に、孫権は「魏の呉王」から、独立した魏王になったというのが、『建康実録』の整理(歴史観)である。
『建康実録』は、陸遜の官職がズレていることから、この時期(夷陵のあと)に鎮西将軍の陸遜が、孫権を呉王に勧進したというは、明らかな誤記である。編纂の痕跡から考えるに、陸遜がほんとうに鎮西将軍だった頃(夷陵のまえ)に、陸遜が孫権を呉王に勧進したのかも知れない。すると、前年に魏に封建された呉王となる際、陸遜が孫権に、これを受諾するように勧進したというストーリーが成り立つ。つまり孫権は、2回、呉王になったのではないと。
冬十一月というのは、呉主伝で、大風が吹いたタイミングであって、改元は十一月より前(十月か)である。

『建康実録』は、このとき丞相を置いたとする。『三国志』呉主伝では、黄初二年に孫権が呉王となり、同注引 『呉録』に載せる孫邵伝に、「黃武初爲丞相、威遠將軍、封陽羨侯」とある。すなわち『呉録』でも、黄初三年(黄武元年)に、呉が改元するに至り、初めて丞相を置いた。曹丕から呉王に封じられたのと同時期に丞相がおらず、その翌年に改元して独立志向を強めたとき(『建康実録』では、翌年に呉王に即き直した時期)に、丞相を置くというのは、整合している。実態は、官制の整備が遅れたなどの理由ではなかろうか。

もっとも『建康実録』は、建安が1年ずれてる。魏の呉王となった年と、魏と敵対して改元した年は、1年違いである。という時間差の幅が同じなのです。

「孫邵」の名は、『建康実録』は、「孫劭」に作るが、校勘記に指摘されており、かつ、恐らく「孫邵」が正しいのだが、深入りはしない。
孫邵が陽羨侯に封じられたのは、丞相になったタイミングであり(呉主伝 注引『呉録』)、丞相になる前から陽羨侯であったように記す『建康実録』は、不審である。しかし、そこまで厳密性を『建康実録』に求めてはいけないことは、分かってきた。

孫登を太子に立てたのは、呉主伝では、魏の呉王になった、黄初二年である。しかし、『建康実録』は、その翌年に「呉王の即位しなおした」ことを重んずるため、ここに太子を立てた記事を置く。もはや、出典があるというより、「ぼくのかんがえたさいきょうの呉史」なので、立太子の時期を、『三国志』の認識から、ズラす必要はない。

十一月,蜀使致書於權,引躬自責,永修舊好。

十一月、蜀使がきて、孫権に「ごめんなさい」と謝って、長く修好したと。まず、編年体の基礎的な形式として、「十一月」が2回出てくる。同じミスは、『通鑑』でも、たまに見られる。
呉主伝に、「十二月権、使太中大夫鄭泉、聘劉備于白帝、始復通也」とある。十二月、孫権が鄭泉を送って、劉備と国交を回復した。このことは、次の段落に見える。ここから推測するに、呉主伝および実態は、曹丕に攻撃された孫権が窮地になり、十二月に、蜀に使者を出して、敵にならないように交渉した。しかし、『建康実録』は、孫権がそんな場当たり的&受動的であることが許せないので、十二月の前月に、先に蜀が謝ったことにした。十二月の前月とは、十一月です。いずれの出典にも依らず、案出した月なので、前の「十一月」と重複してしまった。

1回目の「十一月」は、孫権が独自に呉王になり直したタイミング。これも、『建康実録』が独自に案出した史実であり、魏呉の戦闘の経過を記した、呉主伝の「十一月」を、脈絡なくもらってきて、流用しただけのものであった。


十二月,遣大中大夫鄭泉聘劉備於白帝,始報通好焉。泉至蜀,蜀主問曰:「吴王何以不答朕書,將無以朕正名不宜乎?」泉曰:「曹操父子凌轢漢室,終奪其位。陛下託以宗室,有維城之重,不荷戈執殳為海內率先,而因是自名,未合天下之義,是以寡君未復書耳。」備甚慚。

太中大夫の鄭泉が、白帝の劉備を訪れた。劉備が鄭泉に、なぜ孫権は、私の文書に返事をしなかったか、と問い、鄭泉にやりこめられて劉備が恥じるのは、呉主伝 注引『呉書』が出典である。下線によって、対応させてある。

呉主伝 注引『呉書』:呉書曰、鄭泉字文淵、陳郡人。博学有奇志、而性嗜酒、其間居毎曰「願得美酒満五百斛船、以四時甘脆置両頭、反覆没飲之、憊即住而啖肴膳。酒有斗升減、随即益之、不亦快乎。」権以為郎中。嘗与之言「卿好於衆中面諫、或失礼敬、寧畏龍鱗乎。」対曰「臣聞君明臣直、今値朝廷上下無諱、実恃洪恩、不畏龍鱗。」後侍讌、権乃怖之、使提出付有司促治罪。泉臨出屡顧、権呼還、笑曰「卿言不畏龍鱗、何以臨出而顧乎。」対曰「実侍恩覆、知無死憂、至当出閤、感惟威霊、不能不顧耳。」使蜀、劉備問曰「呉王何以不答吾書、得無以吾正名不宜乎。」泉曰「曹操父子陵轢漢室、終奪其位。殿下既為宗室、有維城之責、不荷戈執殳為海内率先、而於是自名、未合天下之議、是以寡君未復書耳。」備甚慚恧。泉臨卒、謂同類曰「必葬我陶家之側、庶百歳之後化而成土、幸見取為酒壺、実獲我心矣。」


泉字文淵,陳郡人。博學有姿望,而性嗜酒,每閑居曰:「願得美酒滿五百斛船,以四時甘脆置兩頭,反復沒飲之,憊卽往而啖餚饌。酒有〓升減,隨而益之,不亦快乎!」臨卒,謂同類曰:「必葬我於陶家側,庶百歲後化成土,見取為酒壺。」

『建康実録』は、鄭泉のプロフィールを載せる。これも、呉主伝 注引『呉書』である。酒好きで、死んだら酒壺に生まれ変わりたいというのも、同じ『呉書』を出典とする。呉主伝とその注引によって、ここの『建康実録』は完結している。

建安二十八年中のこと

是歲,改夷陵為西陵。詔揚州置牧,以丹楊太守呂範為揚州牧,以東征將軍高瑞領丹楊太守,復自建業徙治蕪湖。(時揚州所統一十四郡,一百四十八縣,而丹楊領一十九縣。)

呉主伝は、黄武元年の末尾に、「是歳、改夷陵為西陵」とあり、『建康実録』と一致する。揚州牧を設置して、丹陽太守の呂範を任命したことは、呉主伝に見えない。他方、呂範伝に、曹休との戦い(実質的には呉の敗戦)の後、呂範が、揚州牧になったとある。

呂範伝:曹休、張遼、臧霸等、來伐。範、督徐盛、全琮、孫韶等、以舟師、拒休等、於洞口。遷前將軍、假節、改封南昌侯。時遭大風、船人覆溺、死者數千、還軍、拜揚州牧。

戦いの終結は、本当は翌年の黄初四年(黄武二年)であるが、『建康実録』は、黄武元年のうちに呉の勝利で収束し、この勝利を拠り所にして、孫権が自ら呉王に即位し直したという、なぞの単純化された歴史観を採用しているので、呂範の揚州牧は、『三国志』から1年さかのぼり、黄武元年とされる。

建安のカウントミスを除外しても、『建康実録』は、1年さかのぼっている。


東征将軍の高瑞が丹陽太守になったというのは、『三国志』に見えない。『新唐書』巻七十一下 宰相世系一下に、「晉陵高氏,本出吳丹楊太守高瑞。初居廣陵,四世孫悝,徙秣陵,十三世孫子長」とある。これに基づいているのか。
東征将軍というのは、正史でヒットしない。征東将軍ならば、多く見るのだが。

建業から蕪湖に治所を遷したというのは、丹陽太守のことか。『晋書』巻十五 地理志下 揚州 丹陽郡は、建業を丹陽の治所とする。蕪湖は、その配下の県に過ぎない。『晋書』地理志は、「丹楊郡漢置。統縣十一,戶五萬一千五百」とするから、『晋書』ですら丹陽郡は11県とされ、丹陽郡が19県とする『建康実録』の注釈と合わない。

『後漢書』郡国志四は、丹陽郡を「十六城」として、16県の意味だろう。蕪湖を治所とする記述は、劉昭注を含めて、見えなかった。

とりあえず、高瑞は『三国志』に見えないし、丹陽太守が、建業から蕪湖に治所を遷したというのも、正史類では未発見でした。

この歳は、黄武元年に改元された。次は「(黄武)二年」の段落である。改元を遡及させなければ、たしかにこの年は、建安二十八年(本当は二十七年)であった。しかし『通鑑』のように、年の途中で改元がある場合、冒頭から「(黄武)元年」とするのが、標準的な筆法に思える。けっきょく『建康実録』の年表記に、「(黄武)元年」は存在せず、つぎは唐突ながら、黄武二年です。170521

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黄武二年~三年 魏軍の撃退

黄武二年

『建康実録』は建安のカウントがズレていたが、黄武という改元に助けられ、そのズレがリセットされた。黄武二年は、おおむね西暦223年である。魏の黄初四年である。

二年春正月,城江夏武昌宮。改四分用乾象曆。自以土行代漢,建寅為歲首。三月,魏軍盡退,疆界寧息。

黄武二年正月、江夏の武昌宮を城きずいた。孫氏は土行であり、火徳の漢に代わるとして、建寅を歳首とした。三月、魏軍がすべて退き、境界は安寧となった。
出典のチェック。呉主伝に、「二年春正月、曹真、分軍拠江陵中州。是月、城江夏山。改四分、用乾象暦」とある。江夏山に城きずいたとあるが、武昌宮を築いたのは、いまではない。呉主伝によると、2年前の黄初二年、「五月建業言、甘露降。八月、城武昌」とある。武昌に城きずいたのは、2年前である。『建康実録』では、五月の甘露を採録したが、武昌の築城を拾い損ねていたから、ここで回収した。回収のキッカケは、「江夏山に城きずいた」という呉主伝の文であるが、意味に繋がりはないと思われ、コジツケである。

暦法の改定は、呉主伝に見えて、時期が合っている。
呉主伝 注引『江表伝』に、「権推五徳之運、以為土行用未祖辰臘」とあり、同注引『志林』に、「土行以辰臘、得其数矣。土盛於戌、而以未祖、其義非也。土生於未、故未為坤初。是以月令。建未之月、祀黄精於郊、祖用其盛。今祖用其始、豈応運乎」とある。ぼくが暦法の知識が乏しく、当否を判定できないが、建寅を歳首としたことは、呉主伝と同注引には、直接は書いてない。

『建康実録』では、三月、魏軍が全て引いたとある。
呉主伝に、「三月曹仁、遣將軍常彫等、以兵五千、乘油船、晨渡濡須中州。仁子泰、因引軍急攻朱桓。桓兵拒之、遣將軍嚴圭等、擊破彫等。是月、魏軍皆退」とある。三月、朱桓が曹仁の子の曹泰を防いで、魏軍を撃破し、この月に魏軍がすべて退いたという。『通鑑』が、この年にまたがって戦役を書くのは、呉主伝に適っている。
しかし『建康実録』は、前年秋、朱桓が曹泰を破ったことまで消化してしまい、ここに書くことが残っていない。関連する記事を、年月に拘らずにまとめて置いてしまうのが、『建康実録』の特徴である。『通鑑』に比べると、編年体としての完成度が低い。

夏四月,丞相孫劭﹑大將軍陸遜率羣臣上表,稱天命符瑞,勸王卽帝位,王再讓未許,謂羣臣曰:「漢家堙替,不能存救,亦何競焉?」(案,江表記:權謂諸將相曰:「往年寡人以玄德方向西鄙,故先命陸遜選衆以待之。聞北部分兵,欲以助寡人,寡人內嫌其狀,若不受其拜,是相折辱而趣其速發,便當與西俱至,二處受敵,於國為劇,故自抑就其封王。低屈之趣,諸君未盡,今故相解耳。」)

夏四月、丞相の孫邵(諱の字が違うことは、上で指摘した)・大将軍の陸遜が、天命・符瑞を称えて、孫権に皇帝即位を勧めたという。
呉主伝によると、「夏四月權羣臣、勸卽尊號、權不許」とあり、呉主伝 注引『江表伝』に、「羣臣稱天命・符瑞、固重以請」とある。「天命・符瑞」は、具体的な上表を、『建康実録』が節略したのではなく、『江表伝』による要約を、字だけ借りてきたと思われる。
『建康実録』で、孫邵・陸遜が勧進者とされるのは、ただ官位が高い者として、編者が把握していたからだろう。とくに出典があるとは考えにくい。そして陸遜の官位は、デタラメである。六年後の黄龍元年、陸遜伝に、「黃龍元年、拜上大將軍、右都護」とあることを、混同したのか。陸遜伝に従うなら、「輔国将軍・領荊州牧」とすべきだろう。呉主伝に、勧進の記事があったから、それっぽく、孫邵・陸遜の名を並べたが、官職をミスったので、台無しになった。

群臣と孫権の意見の対立は、呉主伝 注引『江表伝』に依る。

呉主伝 注引『江表伝』:権辞譲曰「漢家堙替、不能存救、亦何心而競乎。」羣臣称天命符瑞、固重以請。権未之許、而謂将相曰「往年孤以玄徳方向西鄙、故先命陸遜選衆以待之。聞北部分、欲以助孤、孤内嫌其有挟、若不受其拝、是相折辱而趣其速発、便当与西俱至、二処受敵、於孤為劇、故自抑按、就其封王。低屈之趣、諸君似未之尽、今故以此相解耳。」

下線で対応させた。『建康実録』の注釈で比較されているのは、やはり、同じ『江表伝』の続きである。

蜀主劉備薨於白帝,王使立信都尉馮煕弔于蜀。五月,甘露降曲阿。

呉主伝は、四月の続きとして、「劉備薨于白帝」として、同注引『呉書』に、立信都尉の馮煕が、蜀に弔問に言ったとある。

呉書曰、権遣立信都尉馮煕聘于蜀、弔備喪也。煕字子柔、潁川人、馮異之後也。権之為車騎、煕歴東曹掾、使蜀還、為中大夫。後使于魏、文帝問曰「呉王若欲脩宿好、宜当厲兵江関、県旍巴蜀、而聞復遣脩好、必有変故。」煕曰「臣聞西使直報問、且以観釁、非有謀也。」又曰「聞呉国比年災旱、人物彫損、以大夫之明、観之何如。」煕対曰「呉王体量聡明、善於任使、賦政施役、毎事必咨、教養賓旅、親賢愛士、賞不択怨仇、而罰必加有罪、臣下皆感恩懐徳、惟忠与義。帯甲百万、穀帛如山、稲田沃野、民無饑歳、所謂金城湯池、彊富之国也。以臣観之、軽重之分、未可量也。」帝不悦、以陳羣与煕同郡、使羣誘之、啗以重利。煕不為迴。送至摩陂、欲困苦之。後又召還、未至、煕懼見迫不従、必危身辱命、乃引刀自刺。御者覚之、不得死。権聞之、垂涕曰「此与蘇武何異。」竟死於魏。

『呉書』は、蜀に行った後に、馮煕が、魏に使者に行ったとある。むしろ『呉書』は、魏帝との会話のほうに、重点がある。魏に行ったまま、客死したようである。しかし、潁川の人だから、むしろ故郷に戻って死んだのか。

五月、甘露が曲阿に降ったことも、呉主伝に依る。

呉主伝:五月曲阿言、甘露降。先是、戯口守将晋宗、殺将王直、以衆叛如魏。魏以為蘄春太守、数犯辺境。六月権、令将軍賀斉、督糜芳劉邵等、襲蘄春。邵等、生虜宗。

晋宗が魏に離反したことは、『建康実録』が黙殺する。賀斉・麋芳が、魏の蘄春太守と戦って、離反者を生け捕りにしたことも、触れていない。『建康実録』は、呉の建国が、直線的なプロセスであった、という史像を提供したいようである。

冬十一月,蜀使鄧芝以馬二百疋﹑錦千端來聘。自是之後,聘使來往為常,各致方物,奬其厚意

冬十一月、蜀使の鄧芝が来て、これ以後、呉蜀は使者が往来するようになった。これも、呉主伝と同注引『呉歴』に依るもの。呉主伝とその裴松之注を使っている限り、『建康実録』の記述は安定する。

呉主伝:冬十一月蜀使中郎将鄧芝、来聘。同注引『呉歴』曰、蜀致馬二百匹、錦千端、及方物。自是之後、聘使往来以為常。呉亦致方土所出、以答其厚意焉。


黄武三年

黄武三年は、おおむね224年で、魏の黄初五年に相当する。
呉主伝は、黄武三年の記事に、「三年夏、遣輔義中郎将張温、聘于蜀。秋八月、赦死罪」と、呉の張温が蜀に行ったことを記すが、それを『建康実録』は省く。
呉から魏、呉から蜀の使者よりも、呉に来た使者のことを多く書いたり、捻出したりする。呉の威信を高めるための操作か。

三年秋九月,魏大軍來寇,曹丕自出廣陵,臨大江,兵十餘萬,旌旗數百里。王使諸將謀以拒守,安東將軍徐盛設計築圍,作薄落,圍上設假樓,江中浮船多張旗幟,於山險而又縛草為人,衣以甲冑,自武昌至於京口,烽烟相望。諸將以為無益,王然之。魏文帝臨江不敢渡,久之歎曰:「天固隔我吴魏,彼有人焉。」便退。吴將孫韶先屯於江北,聞魏軍退,遣將高壽率敢死士五百人夜於徑路要之。魏帝驚,敗遁,走壽春,獲輜車羽蓋而歸。

呉主伝に、同じ九月のこととして、「九月、魏文帝、出広陵、望大江、曰「彼有人焉。未可図也」乃還」とある。戦役は、これに対応する。
徐盛伝により、このとき徐盛が安東将軍であり、疑城を作ったことが分かる。

徐盛伝:遷安東将軍、封蕪湖侯。後魏文帝大出、有渡江之志。盛建計、従建業築囲、作薄落、囲上設仮楼、江中浮船。諸将以為無益、盛不聴、固立之。文帝到広陵、望囲愕然、弥漫数百里、而江水盛長、便引軍退。諸将乃伏

『建康実録』は、武昌から京口まで、防御の任があるように見せたとするが、呉主伝 注引『晋紀』によると、石頭から江乗までである。『通鑑』も、カラマデ表記は、『晋紀』に依っている。

『晋紀』:魏文帝之在広陵、呉人大駭、乃臨江為疑城、自石頭至于江乗、車以木楨、衣以葦席、加采飾焉、一夕而成。魏人自江西望、甚憚之、遂退軍。

曹丕が歎じたセリフは、呉主伝に「彼有人焉,未可圖也」とある。前半の「天固隔我吴魏」は、ほかで見たことがないから、『建康実録』のオリジナルだろうか。

文帝紀 注に、「魏書載帝於馬上爲詩曰「觀兵臨江水、水流何湯湯」など、曹丕が征呉の困難さを歎いたセリフがあるけれど。曹丕の歎きは、どこかで読んだ気がするので、思い出したら追記します。……と、出典を発見できない理由は、『建康実録』が、またしても1年、新たに年を間違えているからでした。曹丕は、複数回にわたって呉を攻めているが、それを『建康実録』は、かってに1回に結合している。


『建康実録』によると、黄武三年、呉将の孫韶が、魏軍の撤退を聞いて、将の高寿の「敢死士」を率いて、曹丕を追撃して、輜重・羽蓋を奪ったという。しかし、これは『三国志』呉主伝では、黄武四年(当該記事の翌年)のことである。

呉主伝 注引『呉録』に、「是冬魏文帝至広陵、臨江観兵、兵有十餘万、旌旗弥数百里、有渡江之志。権厳設固守。時大寒冰、舟不得入江。帝見波濤洶涌、歎曰「嗟乎。固天所以隔南北也。」遂帰。孫韶又遣将高寿等率敢死之士五百人於径路夜要之、帝大驚、寿等獲副車羽蓋以還」とある。

曹丕は、『建康実録』で「天固隔我吴魏」というが、呉主伝注引に、「天所以隔南北也」とある。「南北」を「魏呉」に書き換えて、呉が独立勢力であることを強調している。むしろ曹丕にしてみれば、魏と呉は並列ではなく、ただの魏の内部の北部と南部である(べき)なので、このような書き方である。
『呉録』で曹丕は、副車・羽蓋を奪われているが、『建康実録』は、輜重・羽蓋を奪ったことになってる。曹丕の代理的な身体として、輜重よりも副車を奪われたほうが、魏の不名誉である。『実録』は、呉に華を持たせるはずが、ここでは、戦功の意義を小さくしている(気がする)。

冬十月晦日,有蝕之。

黄武三年の十月末日、日食があったと、『建康実録』はいう。
この日食は、呉主伝にない。文帝紀 黄武五年に、「十一月庚寅以冀州饑、遣使者開倉廩振之。戊申晦日有食之」とある。同年の記事だが、十一月なので、ズレている。『宋書』巻三十四 五行志五でも、「黄初五年十一月戊申晦,日有蝕之」とある。『晋書』巻十二 天文志中も、十一月晦日である。
魏呉で暦法を変えたといっても、「正月セイゲツ」が変わるだけで、十一月と十月がズレるわけではないはず。うーん。

つぎの、黄武四年(黄初六年)の冬、曹丕が広陵を攻め、水が凍結して撤退する。これが曹丕の死因? になるが、『建康実録』は、スルー。なぜなら、黄武三年に、誤って記事をまとめてしまったから。上で触れたとおりです。
『建康実録』を分析する観点は、①正史では知ることができない情報を探す、②正史をいかに許嵩(編者)が誤読して、こんな記事を書いてしまったか検証する。という①②ふたつの観点に、収束しそう。これまで、明らかに①と言えそうなのは、丹陽太守となった、東征将軍の高瑞ぐらいか。許嵩の人脈や時代背景は、調べられていないが、高瑞の子孫を称する人と、利害関係があって、高瑞の子孫さんを権威づけるために、『建康実録』に混ぜ込んだようです。
今のところ、高瑞のこと以外は、②ミスのプロセスの検証ばかり。②の潰しこみのなかから、①が出てくることを望みます。170521

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黄武四年~七年

黄武四年

四年夏五月,丞相孫劭薨,諡曰肅。
劭字長緒,北海人。身長八尺。初為北海相孔融功曹,融以為廊廟之才。漢末隨劉繇過江歸國,累拜車騎長史,為吴首相,封陽羡侯。初,劭之薨也,羣臣衆望舉婁侯張昭為丞相。王曰:「寡人豈為子布所惜,但丞相事煩,而此公性剛,所言不從,怨咎將興,非所益也。」

黄武四年(黄初六年)夏五月、丞相の孫邵が薨じた。呉主伝に、「四年夏五月丞相孫邵、卒」とあり、同じである。呉主伝は「卒」に作るが、『実録』は「薨」に作る。
孫邵の列伝は、呉主伝 注引『呉録』にある。

呉主伝 注引『呉録』:邵字長緒、北海人、長八尺。爲孔融功曹、融稱曰「廊廟才也」。從劉繇於江東。及權統事、數陳便宜、以爲應納貢聘、權卽從之。拜廬江太守、遷車騎長史。黃武初爲丞相、威遠將軍、封陽羨侯。張溫、暨豔奏其事、邵辭位請罪、權釋令復職、年六十三卒。

『呉録』は、孫邵が功曹となった孔融の官位を書かないが、『実録』は「北海相」とあり、親切である。『呉録』は「丞相」とするが、『実録』は「呉首相」とする。丞相は官名だから、『実録』は不正確である。
孫邵が死んだとき、群臣が張昭を丞相に推したのは、張昭伝にある。

張昭伝:初、権当置丞相、衆議帰昭。権曰「方今多事、職統者責重。非所以優之也」後、孫邵卒。百寮復挙昭、権曰「孤、豈為子布有愛乎。領丞相、事煩。而此公性剛、所言不従、怨咎将興。非所以益之也」乃用顧雍。

孫権のセリフで、「子布の為に之をヲしむこと有らんや」の「ヲしむ」を、張昭伝は「愛」に作り、『実録』は「惜」に作る。

六月,以太常顧雍為丞相,封醴陵侯。以尚書陳化為太常。
化字元耀,汝南人。少博覽衆書,氣幹剛毅,長七尺九寸,雅有威容。初,拜郞中使魏,魏文帝因酒酣,謔化曰:「吴﹑魏峙立,誰將平一海內?」化曰:「易稱帝出乎震,加聞先哲知命,舊說黃旗紫蓋,運在東南。」帝曰:「昔文王以西伯王天下,豈復在東乎?」化曰:「周之初基,泰伯在東,所以文王興於西。」帝笑,無以難,心奇其詞,厚禮送還。王以奉命光國,遷犍為太守。尋追入遷尚書,頃之,拜太常兼尚書。立朝正色,勅子弟廢田桑,絕治產業,仰官廩祿,不與百姓争利。妻早亡,以古事為鑒,不復娶。王聞而貴之,以其年壯,勅宗正以宗室女妻之,固辭不受。年七十,上疏乞骸骨,爰居章安,卒于家。子熾嗣。

六月、太常の顧雍を、丞相とした。呉主伝に、「六月以太常顧雍、爲丞相」とあり、同じである。玉突きで空席になった、太常の後任者を、呉主伝は書かないが、『実録』は陳化であると特定し、親切である。陳化のことは、呉主伝の当該箇所の注引『呉書』に見える。

呉主伝 注引『呉書』:以尚書令陳化為太常。化字元耀、汝南人、博覧衆書、気幹剛毅、長七尺九寸、雅有威容。為郎中令使魏、魏文帝因酒酣、嘲問曰「呉、魏峙立、誰将平一海内者乎。」化対曰「易称帝出乎震、加聞先哲知命、旧説紫蓋黄旗、運在東南。」帝曰「昔文王以西伯王天下、豈復在東乎。」化曰「周之初基、太伯在東、是以文王能興於西。」帝笑、無以難、心奇其辞。使畢当還、礼送甚厚。権以化奉命光国、拝犍為太守、置官属。頃之、遷太常、兼尚書令。正色立朝、敕子弟廃田業、絶治産、仰官廩禄、不与百姓争利。妻早亡、化以古事為鑒、乃不復娶。権聞而貴之、以其年壮、敕宗正妻以宗室女、化固辞以疾、権不違其志。年出七十、乃上疏乞骸骨、遂爰居章安、卒於家。長子熾、字公煕、少有志操、能計算。衛将軍全琮表称熾任大将軍、赴召、道卒。

『実録』の本文では、さきに顧雍の名が表れ、つぎに陳化が見えるのだから、人物小伝を挿入するなら、顧雍・陳化の順序にすべきである。しかし、きっと『呉書』に引きずられ、さきに陳化の人物小伝が書かれる。
『呉書』で陳化は、「郎中令」として魏に使者に行くが、『実録』は「郎中」とする。『呉書』で陳化は、曹丕に答えて「紫蓋・黄旗」と言うが、『実録』では、「黃旗・紫蓋」と順序を反転させる。
『呉書』では、魏から還ると、犍為太守となり(『実録』は省いたが「官属を置き」、ただし太守は官属を置くのは通常だから特記の必要はないが)、太常となり、尚書令を兼ねた。『実録』は、尚書令でなく、尚書とする。官職は、字を節略してはいけないはずだが(別の位になるため)ザツである。
陳化の小伝の差異は、このようである。

雍字元凱,吴人也。少從蔡伯喈學琴,慕其為人,因改名雍。初,以州郡表薦,累遷至尚書,封陽遂郷侯,拜侯還家,而家人不知。雍為人不飲酒,寡言語,朝廷憚之。自為丞相,其所選用,各隨能所任,心無適莫。訪人閒及政職所宜,密以言聞,見納則歸於主,上不用,終不泄言,以此見重。

顧雍の人物小伝が、陳化のつぎに置かれる。顧雍伝が元ネタ。

巻五十二 顧雍伝:顧雍、字元歎、呉郡呉人也〔一〕。蔡伯喈、従朔方還、嘗避怨於呉。雍、従学琴書〔二〕。州郡表薦、弱冠為合肥長、後転在婁、曲阿、上虞、皆有治迹。孫権領会稽太守、不之郡、以雍為丞、行太守事。討除寇賊、郡界寧静、吏民帰服。数年、入為左司馬。権為呉王、累遷大理奉常、領尚書令、封陽遂郷侯。拝侯、還寺、而家人不知、後聞乃驚。

顧雍のあざなを、顧雍伝は「元歎」とし、『実録』は「元凱」とする。校勘記によると、顧雍伝および『呉録』と、『世説人名譜』・『呉国呉郡顧氏譜』は、いずれも「元歎」とするため、『実録』の誤りとする。ちなみに、巻十六 杜恕伝 注引『杜氏新書』によると、「元凱」をあざなとするのは、杜預である。
蔡邕の師事して改名したという逸話があるが、蔡邕の諱である「邕」を文中に書かず、「雍」に改名した理由がいまいち分かりにくいのは、顧雍伝の欠陥を『実録』が引き継いでいる。顧雍伝は、「かさねて大理・奉常に遷り、尚書令を領す」とあるが、『実録』は「かさねて遷りて尚書に遷る」しかなく、不充分である。
酒を飲まずに憚られ、適任の人物を推薦した。意見が採用されると孫権の発案だとし、採用されねば口外しなかったから、孫権に尊重された。これも、顧雍伝の続きに依る。

顧雍伝:雍、為人、不飲酒、寡言語、挙動時当。権嘗歎曰「顧君不言、言必有中」至飲宴歓楽之際、左右恐、有酒失而雍必見之、是以不敢肆情。権亦曰「顧公在坐、使人不楽」其見憚如此。是歳、改為太常、進封醴陵侯、代孫邵為丞相、平尚書事。其所選用文武将吏、各随能所任、心無適莫。時、訪逮民間、及政職所宜、輒密以聞。若見納用則帰之於上、不用、終不宣泄。権、以此重之。

顧雍伝によると、「孫邵に代わって丞相となり、平尚書事」とあるが、これを『実録』は拾わない。官制にかんしては、『実録』は重視しないようである。

秋七月,皖口言木連理。又地連震。

七月に、皖口で、木が連理したという。ポイントは、呉主伝に、月の表記がないこと。『実録』は、どこから「七月」という情報を拾ったのか。

呉主伝:皖口言、木連理。冬十二月鄱陽賊彭綺、自稱將軍、攻沒諸縣、衆數萬人。是歲、地連震。

『宋書』巻二十九 符瑞志下に、「吳孫權黃武四年六月,皖口言有 木連理」とある。惜しい。六月じゃないか。『建康実録』は、年や月が1ヶ月ずれることが多い。呉主伝と並行して、なにか、1年や1ヶ月ずれた史料を見ながら、編纂したのだろうか。
地震については、呉主伝に「この歳」とあり、月が特定できない。『実録』は、「又」で繋ぎ、ザツである。

呉主伝を見れば、ふつうに裴松之注が飛びこんでくるのだが、呉主伝 注引『呉録』に、曹丕が攻めこんできた記事がある。

呉主伝 注引『呉録』:是冬魏文帝至広陵、臨江観兵、兵有十餘万、旌旗弥数百里、有渡江之志。権厳設固守。時大寒冰、舟不得入江。帝見波濤洶涌、歎曰「嗟乎。固天所以隔南北也。」遂帰。孫韶又遣将高寿等率敢死之士五百人於径路夜要之、帝大驚、寿等獲副車羽蓋以還。

誠意ある編纂者であれば、曹丕が南北(呉と魏)の隔絶を歎いた記事を、前年に置いたことの失敗に気づき、訂正しそうなものである。曹丕の南征が複数回にわたることは、文帝紀を見ても、容易に確認できる。もしかすると、裴松之注を含む『三国志』を節略した、中間生産物があって、『建康実録』はそれを見ながら作ったのだろうか。そうでなければ、この歳のズレは、あまりに不誠実というか、そんな簡単なミスを犯すとは考えにくい。

黄武五年

五年,大將軍陸遜奏所在無寇,令諸將廣農畝,王許之。稱善:「孤自率子弟親受田,車八牛為四耦,與衆等均其勞也。」夏五月,魏文帝崩。

黄武五年、大将軍の陸遜が上奏し、所在(領内)に寇害がないから(なければ?)、諸将に農地開墾させた。これは、呉主伝にある上奏を、『実録』が地の文に置き換えたもの。

呉主伝:五年春、令曰「軍興日久、民離農畔、父子夫婦、不聴相卹、孤甚愍之。今、北虜縮竄、方外無事。其、下州郡有以寛息」是時、陸遜以所在少穀、表、令諸将増広農畝。権報曰「甚善。今、孤父子親自受田、車中八牛以為四耦。雖未及古人、亦欲与衆均等其労也」

地の文に置き換えたと思ったが、そうではなく、「陸遜以所在少穀」を、『実録』が「陸遜奏所在無寇」に変えていた。呉主伝は、陸遜が「穀物が少ないから、農地を開墾させた」とある。よく分かる。『実録』のように、「兵寇がないから(なければ?)、そこに開墾せよ」と言えば、軍事的脅威がない地域を選んで、農地にせよという意味になり、ややよく分からなかった。『建康実録』のみの読者は、陸遜の意図を知り損ねる。
呉主伝では、孫権のセリフを、「孤父子親自受田」に作り、『実録』では、「孤自率子弟親受田」に作る。読解に自信がないですが、呉主伝では、耕作地を与える対象を、父なし(孤児)としたが、『実録』では、「孤」が孫権の一人称になっているような。誤読だったら、すみません。

五月に、魏文帝が崩じたことは、呉主伝では分からない。呉主伝には、「秋七月権聞、魏文帝崩、征江夏囲石陽、不克而還」と、文帝の崩御を受けて、七月、孫権がとった行動を記すのみ。申し訳程度には、文帝紀を参照していることが確認できる。

文帝紀:夏五月丙辰、帝疾篤、召中軍大將軍曹真鎭軍大將軍陳羣征東大將軍曹休撫軍大將軍司馬宣王、並受遺詔輔嗣主。遣後宮淑媛昭儀已下歸其家。丁巳、帝崩于嘉福殿、時年四十。

さっき、呉の丞相の孫邵を「薨」と書いたため、dieの字に気遣いがあると思いきや、魏文帝の曹丕のdieについては、「崩」字を使うのね。魏の正統性を認めないという立場が、貫かれているわけではない。「魏主、卒」でも良さそうなのに。
曹操のdieは、『実録』では、「薨」だった。漢の藩王として「薨」を使ったと思われ、この時点で漢臣であった孫権の立場から見ても、この字は異存がなかった。しかし、曹丕はもう敵国なんだから、貶めてもよかった。

秋七月,蒼梧鳳凰見。是月,置東安郡,治富春。

七月に、蒼梧に鳳皇が表れたという。鳳皇は呉主伝に基づくとして、呉主伝に見える、江夏攻撃の失敗を、『建康実録』は書かない。外征しても、結果が出ずに不名誉であれば、それを省くのか。そうすると、対魏の戦争は、書くことがなくなってしまうだろう。

呉主伝:秋七月権聞、魏文帝崩、征江夏囲石陽、不克而還。蒼梧言、鳳皇見。分三郡悪地十県、置東安郡〔一〕、以全琮為太守、平討山越。
〔一〕呉録曰、郡治富春也。

東安郡を設置したことは、呉主伝に基づく。治所が富春であることは、裴松之注に、ただちに見えるので、本文に取りこんでいる。

冬十一月,陸遜以便宜奏施德緩刑,寬賦息調,王答善之。乃令有司寫利害科條,使中郞褚逢齎就遜令與諸葛瑾同損益之。衞將軍﹑交趾太守﹑龍編侯士燮卒。

冬十一月、陸遜が、刑罰・賦調の軽減を求めて、孫権が受諾した。呉主伝に、「冬十月陸遜、陳便宜、勧以施徳緩刑寛賦息調」とある。まるで、規則に沿って変更するように、1ヶ月ズレる。呉主伝の月の表記を誤りと見なして、1ヶ月ずつ変更したのだろう。「二」と「三」とするとか、単発の差異ならば、筆写ミスでしょうが、ここまで来ると、『実録』は、わざと呉主伝を「訂正」している。
暦法を変更したとき、「正月セイゲツ」は変わるけれど、「N月」はズレないはず。十月が正月なら、九月、正月、十一月、十二月、、となると思ってたけど、違うんでしょうか。

呉主伝は、陸遜の上奏を引用した末、「於是、令有司尽寫科條。使郎中褚逢、齎以就遜及諸葛瑾、意所不安令損益之」と載せる。「有司尽寫科條」は字句に共通点がある。呉主伝は、「郎中の褚逢」に作り、『実録』は、「中郞の褚逢」に作る。『資治通鑑』は、呉主伝と同じく「郎中」である。『実録』は、うっかりミスったというより、官職に怨みのある(←?)人が、いちいち筆を滑らせたように思える。

士燮が死んだことは、呉主伝の「是歳、分交州置広州。俄、復旧」だけでは、分からない。『通鑑』は、「是歲,吳交趾太守士燮卒,吳王以燮子徽爲安遠將軍,領九眞太守,以校尉陳時代燮」とする。士燮の官職が、衛将軍であり、爵位が龍編侯であることは、士燮伝を見ないと分からない。これは、『通鑑』が拾っていない事実であり、めずらしく『実録』のほうが網羅性に優れている。

士燮伝に、「燮又誘導益州豪姓雍闓等、率郡人民使遥東附。権益嘉之、遷衛将軍、封龍編侯。弟壹、偏将軍、都郷侯。燮毎遣使詣権、致雑香細葛、輒以千数、明珠、大貝、流離、翡翠、瑇瑁、犀、象之珍、奇物異果、蕉、邪、龍眼之属、無歳不至。壹、時貢、馬凡数百匹。権、輒為書、厚加寵賜、以答慰之。燮、在郡四十餘歳、黄武五年、年九十卒」とある。
益州の雍闓を誘導した功績により、衛将軍・龍編侯を与えられていた。

このあと、士燮の人物小伝が見える。

燮字威彥,蒼梧廣信人也。少好學,漢察孝廉,補尚書郞,以公事免。尋舉茂才,除巫令,累遷交趾太守。漢末,交州刺史朱符為夷賊所殺,州郡擾亂。燮乃表弟司徒掾壹領合浦太守,次弟徐聞令鮪領九真太守,鮪弟武領南海太守。兄弟並在列郡,雄據一州,偏在萬里,威尊無上。出入鳴鐘磬,備鼓吹,車騎滿道,胡人夾轂焚香者常有數十人。妻妾乘輜輧,子弟從兵騎,當時貴重,震服百蠻。燮體氣寬和,謙虛下士,中國人物避難多往依之。每公事稍闋,躭習書傳,注解左氏春秋﹑尚書古文大義。時天下亂,四方隔絕,而燮不廢貢賦。及王使歩騭定南土,率兄弟奉承節度,每使貢雜香﹑細葛﹑明珠﹑大貝﹑琉璃﹑玳瑁﹑翡翠﹑犀﹑象,珍奇異果,無歲不至。在郡四十餘年。年九十卒。

士燮伝と比較すべきだが、はぶく。

王以交趾懸遠,乃分合浦已北為廣州,拜呂岱為刺史;交趾已南為交州,拜戴良為刺史。以陳時代燮為交趾太守,良與時至合浦,而燮子徽自署為交趾太守。發宗兵拒良,不許入。王勅呂岱與良等討平之,誅徽,傳首武昌。

孫権は、交趾が遠いため、合浦以北を広州とし、呂岱を広州刺史とした。交趾以南を交州とし、載良を交州刺史とした。陳時を交趾太守とした。載良と陳時は合浦に至ると、士燮の子の士徽が交趾太守を自ら署して、載良らが入るのを拒んだ。孫権は、呂岱と載良らに平定させ、士徽の首は武昌に送られた。
士徽伝の節略であり、新しい情報がなかった。

士燮伝:権以交阯県遠、乃分合浦以北為広州、呂岱為刺史。交阯以南為交州、戴良為刺史。又遣陳時、代燮、為交阯太守。岱、留南海。良与時、俱前行到合浦。而燮子徽、自署交阯太守、発宗兵、拒良。良、留合浦。交阯桓鄰、燮挙吏也、叩頭諫徽、使迎良。徽怒、笞殺鄰。鄰兄治、子発、又合宗兵撃徽。徽、閉門城守。治等、攻之数月不能下、乃約和親、各罷兵還。而呂岱、被詔誅徽、自広州、将兵、昼夜馳入、過合浦、与良俱前。壹子中郎将匡、与岱有旧。岱、署匡師友従事、先移書交阯、告喻禍福。又遣匡、見徽、説令服罪、雖失郡守、保無他憂。岱、尋匡後至、徽兄祗、弟幹、頌等、六人肉袒奉迎。岱、謝令復服、前至郡下。明旦早施帳幔、請徽兄弟以次入、賓客満坐。岱起、擁節読詔書、数徴罪過。左右因反縛以出、即皆伏誅、伝首詣武昌。


黄武六年

呉の黄武六年は、魏の太和元年(魏明帝による踰年改元)、蜀の建興五年であり、西暦では、おおむね227年にあたる。

六年春正月,韓當子綜以衆叛歸魏。

黄武六年の春正月、韓当の子の韓綜が、魏に叛いた。校勘記によると、『実録』は韓「琮」に作るが、『三国志』により、韓「綜」に改めるべきとする。賛成できる。
呉主伝の黄武六年の記事は、「六年春正月諸将、獲彭綺。閏月、韓当子綜、以其衆降魏」だけである。彭綺のことを省いたのは、マイナーだからか。呉主伝は、韓綜が叛いたのを「閏月」に作り、『実録』は「正月」とする。必ず月をズラしてくるのは、どうしてなのか。
ちなみに『通鑑』は、彭綺を捕らえた記事があるが、「正月」が抜けている。

黄武七年

七年,罷東安郡。夏五月,鄱陽太守周魴以詐誘魏將曹休,獻休事七條密表於王。八月,王自幸皖口,使大將軍陸遜督中軍,全琮﹑朱桓為左右,三邊俱進,大破魏軍於夾石亭,俘數萬計,盡収其騾馬輜重,曹休僅免。

黄武七年、東安郡を罷めた。呉主伝によると、三月に、孫慮を建昌侯にした記事がある。蛮勇をふるって、東安郡の廃止を三月としても、誤りにならないと思われる(ただし陳寿が、「三月」を郡廃止まで掛けていたかは不明)。しかし『実録』は、月を記さない。
周魴が魏に叛いたふりをして、孫権が皖口に進んだのは、五月と八月で、呉主伝と『実録』に差がない。なにか信念をもって、呉主伝から、1ヶ月をズラしているわけでは、ないのか。一貫性に欠くため、謎が深まる。

呉主伝:七年春三月封子慮、為建昌侯。罷東安郡。夏五月鄱陽太守周魴、偽叛、誘魏将曹休。秋八月権、至皖口。使将軍陸遜、督諸将、大破休於石亭。

陸遜の官職を、黄武五年の上奏のときも、この黄武七年でも、大将軍とする。しかし、陸遜伝によると、輔国将軍・荊州牧とすべきである。このとき呉には大将軍がいないはずで、『建康実録』の思い込みである。
陸遜伝によると、このとき陸遜は黄鉞を与えられ、大都督となった。ぎゃくに、陸遜がこの権限を有したことを、『建康実録』は拾い損ねている。

曹休を攻めるとき、陸遜が中軍を督し、全琮・朱桓が左右となったのは、巻五十八 陸遜伝に依る。陸遜伝で、陸遜は「中部」となるが、『建康実録』では「中軍」を督している。陸遜伝は「三道 ともに進む」が、『実録』では「三辺 ともに進む」などの違いがある。陸遜伝は「斬獲」が万余で、『実録』では「俘数」が万を数える。

陸遜伝:七年。權、使鄱陽太守周魴、譎魏大司馬曹休。休、果舉衆入皖。乃召遜、假黃鉞、爲大都督、逆休。休既覺知、恥見欺誘、自恃兵馬精多、遂交戰。遜、自爲中部、令朱桓全琮爲左右翼、三道俱進。果衝休伏兵、因驅走之、追亡、逐北、徑至夾石。斬獲萬餘、牛馬騾驢車乘萬兩、軍資器械略盡。


冬十月,王下令軍中諸將有三罪,然後議之,以將軍翟丹有過,亡入魏故也。 是歲,改合浦為珠官郡。大司馬南昌侯呂範薨。

冬十月、孫権は軍中の諸将が三罪があった後に議す(二罪までセーフ)とした。呉主伝 注引『江表伝』では、翟丹が魏に逃げてしまったから、これを受けて、再発防止のために、二罪までをセーフとする。しかし『実録』では、なぜか『江表伝』から逆転させて、さきに二罪までをセーフとし、つぎに翟丹の逃亡を記す。これでは、翟丹が、二罪までセーフになった(処罰の基準が緩んだ)ことを受け、魏に逃亡したこととなり、因果関係が狂う。
孫権に主体性を持たせようとするためか、『建康実録』は、敵国や臣下の反応を後に書き、孫権の政策を先に書くために、史実の理解が難しくなることがある。

呉主伝:大司馬呂範、卒。是歳、改合浦為珠官郡〔一〕。
〔一〕江表伝曰、是歳将軍翟丹叛如魏。権恐諸将畏罪而亡、乃下令曰「自今諸将有重罪三、然後議。」


呉主伝によると、大司馬の呂範が卒し(『実録』は「薨」字に作る)、合浦の郡名をを珠官に改めた。『建康実録』が、珠官のことを先に書き、呂範のことを後にするのは、つぎの呂範の人物小伝に繋げるためであろう。そういう編纂意図があるなら、記述順の変更には、納得がいく。
呂範の死と、郡名の変更は、因果関係もなく、順序はどちらでも良いだろうし。陳寿が、意思をもって、この順番にしたとも思えない。

呂範の人物小伝がある。はぶく。

範字子衡,汝南細陽人。少為縣吏,有容儀姿貌,而家貧。縣有富人劉氏,女有美色,範求之,母不許。女曰:「豈有如呂子範長久貧耶?」遂與為婚。後避難住壽春,將客百餘人過江東。孫策異之,遣往江都迎太妃還。策待以親戚,共陞堂,飲於太妃前。求退,任為都督,整齊其衆,因進言於策曰:「捨本土而託將軍者,非為妻子,欲與將軍共濟世務。猶同舟涉海,事不成則俱受其敗。」乃授偏將軍,內外委任焉。王統事,深重之,嘗與嚴畯論衡方於吴漢。進領彭城太守,與周瑜同破曹操於赤壁,以功進平南將軍,屯大桑,尋入於建業。黃武元年,遷揚州牧。七年,拜大司馬,改封南昌侯,印綬始下而薨。王素服舉哀。黃龍元年,將下都建業,自過範墓,祭以太牢,執酒呼曰:「子衡隨我!」言及流涕,左右皆垂涙。範性耿介,有威儀,好奢靡。然勤公奉法,王深委之。(案,江表傳:權嘗謂嚴畯曰:「呂子衡忠篤亮直,性雖好奢,然以憂公為先,不足為損。避袁術自歸於兄,已作大將,別領部曲,故憂兄事,乞降為都督,辦護修整吾軍,加之勤恪,與吴漢相類,故方之。皆有趣,非孤私也。」)

今日は時間切れなので、機会があったら、また後日。

つぎは黄武八年で、いよいよ孫権が皇帝となる。つづく。170523

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黄武八年=黄龍元年、孫権の皇帝即位

『建康実録』は、上までが巻一 太祖上で、ここからが巻二 太祖下。孫権が皇帝になるところで、区切りを入れている。
黄武八年とあるが、同じ年が黄龍元年と改元される。黄武に改元されたときと同じで、実際の時間に沿った書き方がされる。すなわち、この年は、年が変わった時点では、黄武八年といったが、年内に黄龍と改元された。ゆえに、「黄武八年」のつぎに「黄龍二年」とあり、「黄龍元年」という表記がない。

黄龍元年は、魏の太和三年・蜀の建興七年、孫権が48歳のとき。胡綜伝によると、黄武八年夏、黄龍が夏口に現れ、孫権が尊号を称して改元した。


黄武八年春・夏

黃武八年春正月,公卿百司連上表,勸王正尊號,王猶謙讓再三。
夏四月,黃龍﹑鳳凰見,武昌﹑夏口並言之。甲午,公卿再請,王曰:「羣臣百辟,咸以寡人上副天心,寡人敢辭。」甲申,立壇於南郊,卽帝位,

黄武八年の春正月、公卿・百司は、つらねて上表に、呉王に尊号を正すことを勧めた。呉王はなお謙譲すること再三。
呉主伝に、「黄龍元年春、公卿百司皆勧権正尊号」とある。「公卿・百司」は、呉主伝から拾っている。「謙譲すること再三」は、呉主伝にない。むしろ、呉主伝の記述が物足らないと言うべきで、三譲の形式を、孫権も整えたでしょう。

夏四月、黄龍・鳳皇が現れたと、武昌・夏口が報告したという。呉主伝に、「夏四月、夏口・武昌並言、黄龍・鳳凰見」と、語順が違うが、内容は同じ。甲午の日付で、孫権が「群臣 百辟し、みな寡人を以へらく上は天心に副ふと。寡人 敢えて辞す」と辞退したという。これは、呉主伝に見えない。つぎに、甲申の日付で、皇帝に即位する。甲午から甲申まで、20日である。同じ月内に入らないことはない。
しかし、呉主伝は、皇帝即位を「丙申」とする。甲と丙は、字形がだいぶ異なる。筆写ミスというよりは、別系統の史料を参照したと言うべきか。甲申と丙申とでは、30日も差があって、干支では正反対である。
校勘記によると、長暦四月は、甲申朔である。(同じ四月中に)甲申は、甲午の後にはこない。呉主伝・『通鑑』は、どちらも「丙申」に作り、これは四月十三日である。(丙申が正しいと思われ)『実録』を疑うという。

甲申の10日後(もしくは50日前)が甲午である。


柴燎吿天,禮畢,法駕旋武昌宮,陞太極殿。大赦。改元黃龍元年。建黃龍大牙,常在中軍,令諸將進退向之。詔侍中胡綜為賦,其略曰「乃律天時,制為神軍,取象太乙,五將三門;疾則如電,遲則如雲,進止有度,約而不煩。四靈既布,黃龍中央,周列日月,實曰太常,傑然特立,六軍所望」云云。

『実録』によると、柴燎して吿天し、礼が終わると、法駕は武昌宮に旋し、太極殿に陞ったという。呉主伝 注引『呉録』に、孫権の告天文が載っているが、

『呉録』:呉録載権告天文曰「皇帝臣権敢用玄牡昭告于皇皇后帝。漢享国二十有四世、歴年四百三十有四、行気数終、禄祚運尽、普天弛絶、率土分崩。孽臣曹丕遂奪神器、丕子叡継世作慝、淫名乱制。権生於東南、遭値期運、承乾秉戎、志在平世、奉辞行罰、挙足為民。羣臣将相、州郡百城、執事之人、咸以為天意已去於漢、漢氏已絶祀於天、皇帝位虚、郊祀無主。休徴嘉瑞、前後雑沓、暦数在躬、不得不受。権畏天命、不敢不従、謹択元日、登壇燎祭、即皇帝位。惟爾有神饗之、左右有呉、永終天禄。」

これは平行線で、『実録』には採録されない。代わりに、孫権が柴燎したことは、呉主伝にない。これは、孫権が柴燎しなかったことを、恐らくは意味しない。曹丕の皇帝即位と同じように、柴燎したはずで、呉主伝に省略が疑われる。武昌宮・大極殿という、即位した後の動きは、呉主伝に見えない。

黄龍と改元したことは、呉主伝に同じ。
『実録』によると、黄龍大牙(の旗)を建て、つねに中軍にあり、諸将に(指揮の合図として)進退させ、向かうべき方角を示した。詔して侍中の胡綜に賦をつくらせ、その賦は、「乃律天時,制為神軍,取象太乙,五將三門;疾則如電,遲則如雲,進止有度,約而不煩。四靈既布,黃龍中央,周列日月,實曰太常,傑然特立,六軍所望」という内容であった。
黄龍大牙のことは、巻六十二 胡綜伝に見える。赤字が対応する。

黄武八年夏、黄龍見夏口。於是、権称尊号、因瑞改元。又作黄龍大牙、常在中軍、諸軍進退、視其所向。命綜作賦、曰、乾坤肇立、三才是生。狼弧垂象、実惟兵精。聖人観法、是効是営、始作器械、爰求厥成。黄農創代、拓定皇基、上順天心、下息民災。高辛誅共、舜征有苗、啓有甘師、湯有鳴條。周之牧野、漢之垓下、靡不由兵、克定厥緒。明明大呉、実天生徳、神武是経、惟皇之極。乃自在昔、黄虞是祖、越歴五代、継世在下。応期受命、発迹南土、将恢大繇、革我區夏。乃律天時、制為神軍、取象太一、五将三門。疾則如電、遅則如雲、進止有度、約而不煩。四霊既布、黄龍処中、周制日月、実曰太常、桀然特立、六軍所望。仙人在上、鑒観四方、神実使之、為国休祥。軍欲転向、黄龍先移、金鼓不鳴、寂然変施、闇謨若神、可謂秘奇。在昔周室、赤烏銜書、今也大呉、黄龍吐符。合契河洛、動与道俱、天賛人和、僉曰惟休。


『実録』は、胡綜の人物小伝を載せる。

綜字緯則,汝南固始人也。少孤,將母避亂江東。年十四,為孫策門下客,好學攻文。黃龍初,蜀使修好,帝令綜作盟文,文義宛美。自黃龍後,詔誥册命﹑鄰國答書,皆綜所為。與是儀﹑徐祥同典機密。

胡綜伝から比べると、かなり『実録』に省略がある。「黄龍初」以降は、胡綜伝と矛盾しないが、逐語的な出典があるわけではない。むしろぼくは、胡綜伝を読んで、『建康実録』がなにを念頭において、事蹟を要約・抽象化し、これを書いたのか、その内容を脳内補完する必要がある。
是儀・徐詳(『実録』では徐祥)とセットで活躍したことは、胡綜伝に、「与是儀、徐詳、俱典軍国密事」とあり、そのとおり。

丁酉,追尊父堅為武烈皇帝,廟號始祖,陵曰高陵。母吴氏為武烈皇后。兄策為長沙桓王。立子登為皇太子。內外文武百司皆卽位行賞,邊軍征防各賜勳五轉,鰥寡孤獨量給穀帛,百姓並免今年租賦,天下賜酺五日。

孫堅に追謚した日付を、丁酉とするが、呉主伝に見えない情報である。孫権の皇帝即位に関するカレンダーは、『建康実録』のほうが優れている。『三国志』を見ても得られない情報であり、明らかに別の出典があったはずである。

呉主伝:追尊父破虜将軍堅為武烈皇帝、母呉氏為武烈皇后、兄討逆将軍策為長沙桓王。呉王太子登為皇太子。将吏皆進爵加賞。

孫堅を武烈皇帝としたことは、呉主伝にあるが、廟号を「始祖」とし、陵墓を「高陵」としたことは、『建康実録』にしか見えない。……と思ったんですが、孫堅伝 注引『呉録』に、「尊堅廟曰始祖、墓曰高陵」とあった。しかし、日付が『三国志』に見えないというのは、孫堅伝も含め、やはりそうです。

『建康実録』が「内外・文武百官みな位に即くや賞を行い、辺軍・征防おのおの勲を賜ること五転、鰥寡・孤独 量りて穀帛を給ひ、百姓 並びに今年の租賦を免じ、天下に酺五日を賜る」とあるが、呉主伝に見えないこと。ただし、政策の内容は、曹丕が前漢の文帝をマネてやったことと、共通する。
可能性としては、①孫権の皇帝即位に関して、きちんと書いた史料があるが、陳寿が省きまくり、裴松之が拾わなかった。それを、『建康実録』は懲りずに拾って、今日のように伝わった。②皇帝即位というからには、いかにもありそうな出来事を、『建康実録』がでっちあげた。日付については、完全な創作なのか、日付ばかりは別の史料に基づいたか、検討が必要ですが。という感じか。
『三国志集解』呉主伝を見ても、日付に関する注記はない。『三国志集解』は、『建康実録』から引くことは少ないが、ぎゃくに『建康実録』以外からなら、アクセス可能な範囲で、かなり網羅的に拾ってくれる。つまり、『建康実録』以外で、日付を拾える史料は、盧弼の見る限り、存在しないということか。

初,漢末興平中童謠曰:「黃金車,斑蘭耳。開閶門,出天子。」閶門卽吴西郭門也,夫佐所造,帝卽吴人。

興平期に童謡があって、孫権の皇帝即位を予知した。門ガマエの字に異同があるが、『建康実録』は、要するに裴注を接続して、呉王夫差の門のことを指している。孫権が呉郡の人であることが、童謡に符合すると、『建康実録』は補う。

呉主伝:初、興平中、呉中童謡曰「黄金車、班蘭耳、闓昌門、出天子〔二〕」
〔二〕昌門、呉西郭門、夫差所作。


六月,蜀使衞尉卿陳震來慶踐位。帝乃立壇與蜀使盟約滅魏,中分天下,以幽﹑豫﹑靑﹑徐﹑兖﹑鄆﹑冀﹑并﹑涼屬蜀。其司州之土,以函谷關為界,有害於吴,蜀伐之;有害於蜀,吴伐之。凡百之約,皆如載書。有渝此盟,創禍先亂。

六月、蜀使の衛尉卿の陳震が、皇帝即位を慶賀にきた。陳震が来たことは、呉主伝に見える。しかし、『実録』にある「衛尉卿」という称号は、誤りである。

呉主伝:六月蜀遣衛尉陳震、慶権践位。権、乃參分天下、豫青徐幽属呉、兗冀并涼属蜀。其司州之土、以函谷関為界。

「滅魏」を盟約したというのは、呉主伝よりも、分かりやすい。呉主伝で、この続きに出てくる盟誓の文を、地の文に置き換えたのだろう。下に引く。
呉主伝では、呉は、豫州・青州・徐州・幽州を切り取ろうとしているが、『建康実録』は、幽州・豫州・青州を蜀にプレゼントするという。つぎに遼東公孫氏に介入するのに、幽州をプレゼントするとか、海沿いの青州もプレゼントするとか、内容が破綻している。鄆州とあるが、どこを指すのか分からない。おそらく『建康実録』は、呉主伝を見ながら、ザツに書き写した。地理(漢代の行政区分)もよく分からなかった。建康=建業に特化した地理書? なので、天下のことは、分からないのである。
『実録』の「有害於吴,蜀伐之;有害於蜀,吴伐之」は、呉主伝に載せる盟誓の文の、下の赤文字にしたところに対応する。

呉主伝:造為盟曰「天降喪乱、皇綱失叙、逆臣乗釁、劫奪国柄。始於董卓、終於曹操、窮凶極悪、以覆四海、至令九州幅裂、普天無統、民神痛怨、靡所戻止。及操子丕、桀逆遺醜、荐作姦回、偷取天位。而叡么麼、尋丕凶蹟、阻兵盜土、未伏厥誅。昔、共工乱象而高辛行師、三苗干度而虞舜征焉。今日滅叡、禽其徒党、非漢与呉、将復誰任。夫、討悪翦暴、必声其罪、宜先分製、奪其土地、使士民之心各知所帰。是以春秋、晋侯伐衛、先分其田以畀宋人、斯其義也。且、古建大事、必先盟誓。故、周礼有司盟之官、尚書有告誓之文。漢之与呉、雖信由中。然、分土裂境、宜有盟約。諸葛丞相、徳威遠著、翼戴本国、典戎在外、信感陰陽、誠動天地。重復結盟、広誠約誓、使東西士民咸共聞知。故、立壇殺牲、昭告神明、再歃加書、副之天府。天高聴下、霊威棐諶、司慎司盟、羣神羣祀、莫不臨之。自今日漢呉既盟之後、戮力一心、同討魏賊、救危恤患、分災共慶、好悪斉之、無或攜貳。若有害漢、則呉伐之。若有害呉、則漢伐之。各守分土、無相侵犯。伝之後葉、克終若始。凡百之約、皆如載書。信言不豔、実居于好。有渝此盟、創禍先乱、違貳不協、慆慢天命、明神上帝、是討是督、山川百神、是糾是殛、俾墜其師、無克祚国。于爾大神、其明鑒之」


黄龍元年秋・冬

時童謠云:「寧飲建業水,不食武昌魚。寧就建業死,不就武昌居。」秋九月,帝遷都於建業。(案:江表傳:漢建安中,劉備嘗宿於秣陵,觀江山之秀,勸帝居之。初,張紘謂帝曰:「秣陵,楚威王所置,名金陵,地勢崗阜連石頭。古老云,昔秦始皇東巡會稽經此縣,望氣者云,金陵地形有王者都邑之氣,因掘斷連岡,故名秣陵。今據所見存,地有其氣,象天之所會,今宜為都邑。」帝深善之。後聞劉備語曰:「智者意同。」故卽帝位聞謠言,而思張紘議,乃下都之。又案,吴録:劉備曾使諸葛亮至京,因觀秣陵山阜,曰:「鍾山龍盤,石頭虎踞,此乃帝王之宅也。」)以陸遜為上將軍,詔輔太子登,留守武昌。

巻六十一 陸凱伝に、「晧徙都武昌,揚土百姓泝流供給,以為患苦,又政事多謬,黎元窮匱。凱上疏曰」と、末代皇帝の孫晧が、建業から武昌に遷都しようとしたとき、陸凱が建業に残ることを説いた。そのなかで、「又武昌土地,實危險而塉确,非王都安國養民之處,船泊則沈漂,陵居則峻危,且童謠言:「寧飲建業水,不食武昌魚;寧還建業死,不止武昌居」臣聞翼星為變,熒惑作妖,童謠之言,生於天心,乃以安居而比死,足明天意,知民所苦也」とある。
陸凱は、後年に建業に残ることを勧めるため、この童謡を引いたが、『建康実録』の文脈だと、孫権が建業に遷都するモチベーションとして、この童謡を引く。『宋書』巻三十一 五行志二に、この童謡が「孫晧初」として引かれる。やはり、孫晧期に持ち出された童謡なのである。

秋九月、孫権は建業に遷都した。呉主伝に、「秋九月、権遷都建業。因故府不改館」とあるから、この時期に建業に遷都したことは、『三国志』と一致する。
巻五十三 張紘伝 裴松之注に、『建康実録』が「案ずるに」として引いた史料が見える。

江表伝曰、紘謂権曰「秣陵、楚武王所置、名為金陵。地勢岡阜連石頭、訪問故老、云昔秦始皇東巡会稽経此県、望気者云金陵地形有王者都邑之気、故掘断連岡、改名秣陵。今処所具存、地有其気、天之所命、宜為都邑。」権善其議、未能従也。後劉備之東、宿於秣陵、周観地形、亦勧権都之。権曰「智者意同。」遂都焉。
献帝春秋云。劉備至京、謂孫権曰「呉去此数百里、即有警急、赴救為難、将軍無意屯京乎。」権曰「秣陵有小江百餘里、可以安大船、吾方理水軍、当移拠之。」備曰「蕪湖近濡須、亦佳也。」権曰「吾欲図徐州、宜近下也。」臣松之以為秣陵之与蕪湖、道里所校無幾、於北侵利便、亦有何異。而云欲闚徐州、貪秣陵近下、非其理也。諸書皆云劉備勧都秣陵、而此独云権自欲都之、又為虚錯。

劉備が秣陵(のちの建業)をほめて、「江山の秀を観た」としたことは、張紘伝 注引『献帝春秋』に、字は一致ないが、見える。張紘が、秣陵はもとは金陵といい、、と助言したことは、張紘伝 注引『江表伝』にある。劉備も同じことを言い、孫権が、劉備・張紘の見解の一致に納得したことは、『江表伝』の続きにある。

『建康実録』が「又 案ず」として、劉備が諸葛亮を京にゆかせ、秣陵の山阜を見て、「鍾山龍盤,石頭虎踞,此乃帝王之宅也」と言ったことは、とりあえず、出典が『三国志』裴松之注『呉録』ではない。『実録』の編者である許嵩が、どこの『呉録』に基づいたのか、調査中です。

冬十月至,自武昌城建業太初宮居之。宮卽長沙桓王故府也,因以不改。今在縣東北三里,晉建康宮城西南,今運瀆東曲折內池,卽太初宮西門外。池吴宣明太子所創,為西苑。(案,其地今在惠日寺後,僧相傳呼為果師墩。)初,吴以建康宮地為苑,其建業都城周二十里一十九步。

呉主伝に、「秋九月、權遷都建業。因故府不改館」とあるだけで、この『建康実録』の段落に見えることは、すべて新しい情報である。このあたりが、『建康実録』の面目躍如であろう。出典は、また探す。少なくとも、『三国志』ではない。
建業にある宮が、孫策の故府であるというのは、呉主伝の「故府」を、孫策と結びつけた結果であろう。しかし、孫策が建業(秣陵)と、どういう関わりがあったかは、検証が必要。呉主伝およびその裴松之注では、情報が足りない。

十一月,右長史張紘卒,遺令戒子孫無為不善。

黄龍元年十一月、張紘が死んだとする。呉主伝は、この記事がない。おそらく、張紘伝に見える、「張紘が建業の立地を勧めたこと」と、皇帝孫権の遷都のタイミングとを、『建康実録』が誤って結びつけたことに依るだろう。それにしても、「十一月」という具体的な没年が、どこから出てきたのか。

張紘の没年は、建安十七年、すなわち西暦212年であろう。黄武八年=黄龍元年は、西暦229年だから、17年前のことである。

張紘は、張昭とともに「長史」となり、孫権の「左右腹心」になったとするから、官職を「右長史」とされる。まったく新しい官位の創出法であり、正しい官名は「長史」だろう。さらに言えば、「左右腹心」とは、下にある張紘小伝にある『建康実録』なりの言葉であり、「左右」の字は、『三国志』張紘伝にない。
せめて関係がありそうなのは、張昭伝 注引『呉書』に、「自此希復將帥,常在左右 ,為謀謨臣」とあり、張昭が常に左右にあったという箇所。ただし、張紘とのペアを語った部分ではない。
『三国志』張紘伝 注引『江表伝』に、「初、権於羣臣多呼其字、惟呼張昭曰張公、紘曰東部、所以重二人也。」とあるから、張昭・張紘がペアで認識されたことは正しい。このことから、『建康実録』が「左右腹心」と案出したのかも知れない。

また、張紘のような中核の人物の官位が、「長史」に留まるということは、張紘の死が、漢末(曹操の執政期)であることを示す。孫権が皇帝になった段階まで生きていたら、張紘が「長史」に留まっていたとは、考えられない。
凌統の享年が、29歳(『建康実録』)か49歳(『三国志』凌統伝)かという議論があり、『三国志集解』に引く説に、もし49歳であれば、最後の20年間、なんの事蹟もないことになり、不自然であるという指摘があった。同じことが、張紘にも言える。もしも張紘が、孫権の皇帝即位まで存命なら、最後の20年ほど、ほとんど功績がない。張紘ともあろう人が、そんなことは(凌統の場合よりも)考えにくい。

張紘の人物小伝がある。張紘伝との比較は、また後日。

紘字子綱,廣陵人。少遊學京師,還本郡,舉茂才,公府辟,皆不就。漢末,避亂江東。桓王初起,委質於紘。紘為謀主,每出入諫王持重,不宜輕脫。建安四年,奉使許昌宮。時曹操為司空,辟為掾,兼侍御史。紘心戀昔恩,思還返命,未果。桓王薨而帝統事,操欲紘輔帝內附,拜紘為會稽東部尉。帝不以紘北任介意,至因為長史,與張昭二人為左右腹心,一人從征,一人居守。及帝都秣陵,辭還東迎家,道病卒,年六十一。留牋勸帝修德納善,帝省書,流涕久之。子玄,清介高行,官至南郡太守。

校勘記によると、『建康実録』は六十一歳で死んだとするが、張紘伝は六十歳とすると。170524

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黄龍二年・三年:夷洲・亶洲の探索【新】

呉主伝によると、この歳の最初の記事は、「正月、魏が合肥新城を築いた」である。『建康実録』には載せていない。明帝紀 青龍二年・満寵伝に見える。この歳、呉が東興隄をつくった(諸葛恪伝)

『三国志集解』呉主伝に引く林国賛の説によると、魏が合肥新城を築いたことが、呉主伝にあるのに、明帝紀にはない。これは史法でない。呉の黄龍二年は、魏の太和四年であるが、満寵伝によると、合肥新城を築いたのは、青龍元年であり、しかし明帝紀 青龍元年にも合肥新城の記事がない。


黄龍二年

二年春正月,詔立國學,置都講祭酒。

正月、詔して国学を立て、都講祭酒を置いた。呉主伝には、「国学」の字がないが、「都講祭酒」の字は見える。呉主伝が省略した詔に、「国学」の字があったか、もしくは許嵩が文意から捻り出したか。

呉主伝:二年春正月、魏作合肥新城。詔、立都講祭酒、以教学諸子。


二月,使將軍衞溫﹑諸葛直下海求亶﹑夷二洲,得夷洲數千人而還。(案,二洲皆在海中。長老傳云,秦皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,遂遇風皆止此洲不還,世世相承有數萬家。時有會稽東郷人行海遇風至夷洲,其亶洲絕遠不可得到,故溫只得夷洲人還也。)

衛温らの派遣は、『建康実録』が二月とし、呉主伝は正月に繋げる。『建康実録』のほうが、月の刻みが細かい。呉主伝以外の史料を見ないと、これを作ることができない。
派遣されたのが、「将軍」衛温・諸葛直であったことは、同じ。夷洲・亶洲を目指したのも同じ。夷洲から数千人だけ連れてきたのも、呉主伝と差はない。『建康実録』のみから得られる情報はない。

呉主伝:遣将軍衛温諸葛直、将甲士万人、浮海、求夷洲及亶洲。亶洲、在海中、長老伝言秦始皇帝遣方士徐福将童男童女数千人入海、求蓬萊神山及仙薬、止此洲、不還。世相承有数万家、其上人民時有至会稽貨布。会稽東県人海行、亦有遭風流移至亶洲者。所在絶遠、卒不可得至。但得夷洲数千人還。

『建康実録』の自注? に、『長老伝』という本から、始皇帝が徐福を、、亶洲には到達できず、、といった情報が挿入されている。しかし、呉主伝の本文を見れば分かることばかり。

『長老伝』の成立年代は知りませんが、むしろ呉主伝を見て『長老伝』が作られたか。陳寿が、ピンポイントに『長老伝』に典拠を求めたとは、考えにくい。韋昭『呉書』丸写し疑惑があるので。


呉主伝によると、衛温・諸葛直が帰還して、功績不足により罰せられるのは、翌年春である。しかし『建康実録』は、帰還・処罰のことを記さない。

黄龍三年

三年夏五月,建業有野蠶為蠒,大如鳥卵。由拳生野稻,詔改由拳為禾興縣。

夏五月、建業で野蠶(野蚕)が蠒(まゆ)を作った。
『建康実録』は、これが「五月」であり、「建業」であるという情報が多い。呉主伝は、ただ夏とあり、場所は記載がない。スゴイネ!!
由拳で、野稲が生えたので、禾興県としたことは、呉主伝に同じ。

呉主伝:三年春二月遣太常潘濬、率衆五万、討武陵蛮夷。衛温、諸葛直、皆以違詔無功、下獄、誅。夏、有野蚕、成繭大如卵。由拳、野稲自生、改為禾興県。


冬十月,始平言嘉禾生。十二月丁卯,大赦,改明年為嘉禾元年。

呉主伝によると、二月に太常の潘濬が武陵蛮夷を討った(上に引用)。十月、中郎将の孫布が、阜陵に王淩を招いてハメようとした。『建康実録』は、どちらも記載がない。国内外の小競り合い? は、『建康実録』が省略する傾向がある。

呉主伝:呉主伝:中郎将孫布、詐降以誘魏将王淩、淩以軍迎布。冬十月権、以大兵潜伏於阜陵俟之、淩覚而走。

『建康実録』は、冬十月に始平で嘉禾が生じたという。呉主伝は、孫布vs王淩を記すから、やや字に間隔があるけれども、冬十月のことと読めるから、整合している。十二月の大赦は、呉主伝に一致する。170619

呉主伝:会稽南始平言、嘉禾生。十二月丁卯、大赦。改明年元也。

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嘉禾元・二年 遼東・句麗との外交

嘉禾元年

春,丞相顧雍奏宜修郊廟社稷,以承天意。詔答未許。

春、丞相の顧雍が、郊廟・社稷を修め、天意を承けよといったが、孫権は詔して許さず。これは呉主伝に見えない。
呉主伝 注引『江表伝』によると、嘉禾元年の冬、「丞相顧雍」ならぬ「羣臣」が、「郊廟・社稷」ならぬ「郊祀」を脩めよと言ったとある。まず季節が、『建康実録』だと春、『江表伝』だと冬であり、異なる。嘉禾元年を通じて、祭祀をやる・やらないの押し問答があったと理解してよいのだろうか。『建康実録』は、押し問答の発端である、丞相の発議を載せ、『江表伝』は押し問答の決着する冬を記載した。……というのは、推測に過ぎようか。

『江表伝』:是冬、羣臣以権未郊祀、奏議曰「頃者嘉瑞屡臻、遠国慕義、天意人事、前後備集、宜脩郊祀、以承天意。」権曰「郊祀当於土中、今非其所、於何施此。」重奏曰「普天之下、莫非王土。王者以天下為家。昔周文、武郊於酆、鎬、非必土中。」権曰「武王伐紂、即阼於鎬京、而郊其所也。文王未為天子、立郊於酆、見何経典。」復書曰「伏見漢書郊祀志、匡衡奏徙甘泉河東、郊於長安、言文王郊於酆。」権曰「文王性謙譲、処諸侯之位、明未郊也。経伝無明文、匡衡俗儒意説、非典籍正義、不可用也。」


二月,皇子建昌侯慮薨。

嘉禾元年二月、孫慮が薨じた。呉主伝によると、「正月」に「卒」している。一ヶ月、ズレている。字が異なるのは、編纂態度の違いなので、問題ではない。

呉主伝:嘉禾元年春正月、建昌侯慮卒。三月遣将軍周賀、校尉裴潜、乗海之遼東。

脱線すると、呉主伝は、三月に将軍の周賀・校尉の裴潜が遼東に行くとするが、『建康実録』はここに記載しない。

『建康実録』は、孫慮伝が展開される。

慮字子智,太祖次子。性聰敏,才兼文武。黃龍初,大臣等奏宜進爵為王,使出鎭任,以光大業。帝許之。假節﹑開府﹑鎭軍大將軍,臨事遵奉法度,敬納師友,深見寵愛。薨,時年二十。帝為之降損。

「黄龍初」、大臣らが王爵に勧めた。これは孫慮伝で、「黄武七年……後二年」とされる時点のこと。黄武八年が黄龍元年になるから、「黄龍初」は、時期が一致する。『建康実録』が地の文で、「性は聡敏、才は文武を兼ぬ」とするが、これは孫慮を王爵に勧める、尚書僕射の言葉を置き換えたもの。

『三国志集解』孫慮伝によると、尚書僕射の存の姓が分からない。銭大昭によると、建衡元年、督軍の徐存がいる。これが該当するのか、分からないという。

『建康実録』では、「出でて鎮任せしめよ」とするが、孫慮伝は「授けて偏方に任ぜよ」とする。あとに「以光大業」の文節があるから、『建康実録』が書き換えたものだろう。孫慮伝では、方鎮として「半州に治す」とあるが、『建康実録』はそこまでフォローしておらず、中途半端。

巻五十九 孫慮伝:孫慮、字子智、登弟也。少敏恵有才芸、権器愛之。黄武七年、封建昌侯。後二年、丞相雍等奏、慮性聡体達、所尚日新、比方近漢、宜進爵称王。権未許。久之、尚書僕射存、上疏曰「帝王之興、莫不褒崇至親、以光羣后。故、魯衛於周寵冠諸侯、高帝五王封列于漢。所以藩屏本朝、為国鎮衛。建昌侯慮、稟性聡敏、才兼文武、於古典制、宜正名号。陛下謙光、未肯如旧、羣寮大小、咸用於邑。方今、姦寇恣睢、金鼓未弭、腹心爪牙、惟親与賢。輒与丞相雍等議、咸以、慮宜為鎮軍大将軍、授任偏方、以光大業」権乃許之。於是、仮節開府、治半州。慮、以皇子之尊、富於春秋。遠近嫌、其不能留意。及至臨事、遵奉法度、敬納師友、過於衆望。年二十、嘉禾元年、卒。無子、国除。

わずか二十歳で、嘉禾元年に卒したことは、孫慮伝に一致する。

『三国志集解』孫慮伝によると、建安十八年に生まれ、孫登よりも4歳下。孫登よりも、10年早く死んだ。


夏六月,皇太子登歸自武昌,留省侍。以太子少傅﹑都郷侯是儀為侍中。

六月、孫登が武昌から帰り、省侍を留めた。太子少府・都郷侯の是儀を侍中とした。呉主伝は、六月の記事がそもそもない。

呉主伝:秋九月魏将田豫、要撃、斬賀于成山。冬十月魏遼東太守公孫淵、遣校尉宿舒、閬中令孫綜、称藩於権、并献貂馬。権大悦、加淵爵位。

是儀伝によると、孫権が東遷すると、孫登を武昌に留めて、是儀に孫登を輔佐させた。(時期は分からないが)その後、是儀が都郷侯に進んだ。(さらに時期が分からないが)孫登が建業に還ると、侍中となった。

巻六十二 是儀伝:大駕東遷、太子登留鎮武昌、使儀輔太子。太子敬之、事先諮詢、然後施行。進封都郷侯。後、従太子還建業、復拝侍中、中執法、平諸官事、領辞訟如旧。

孫登伝を見ることで、孫登の動きが分かるはずなので、追跡する。孫登が、武昌から建業に移ったタイミングで、是儀が侍中になっている。

孫登伝:権、遷都建業、徴上大将軍陸遜、輔登、鎮武昌、領宮府留事。……後、弟慮、卒。権、為之降損。登、昼夜兼行、到頼郷、自聞、即時召見。見権悲泣、因諫曰「慮、寝疾不起、此乃命也。方今、朔土未一、四海喁喁、天戴陛下。而、以下流之念、減損大官殽饌、過於礼制。臣窃憂惶」権、納其言、為之加膳。住十餘日、欲遣西還、深自陳乞、以久離定省、子道有闕。又陳、陸遜忠勤、無所顧憂。権、遂留焉。

孫登伝によると、孫慮が死ぬと、孫権はガッカリした。孫登が孫権を励ましにきて、そのまま孫権のもとに留まったと。孫慮の死の記事の直後に、孫登の移動(武昌→建業)を繋げたのは、『建康実録』の卓見である。しかし、どうして嘉禾元年「六月」とまで特定できるのか。まだパズルのピースが足りない。『三国志集解』孫登伝を見たが、年月を特定する情報は、増えなかった。『三国志』以外に出典を有するか。

派生して、是儀伝が展開される。

儀字子羽,北海營陵人。本姓氏,少仕郡,郡相孔融謂曰:「氏字民無上,可改為是。」乃從焉。後避地隨劉繇過江。太祖統事,徵用之,專典機要。性謇諤,帝以為趙之周舍,累官至侍中,遷少傅,輔皇太子鎭武昌。隨還,復拜侍中,轉僕射。

是儀の本貫・あざな、孔融との会話は、是儀伝に見える。『建康実録』によると、是儀は孫権に「趙之周舍」と言われるが、是儀伝に「孤雖非趙簡子、卿安得不自屈為周舍邪」とある。否定とか反語とかで捻られているが、『建康実録』のほうがスッキリしている。
侍中になったことは、是儀伝に見えるが、「少傅」に遷ったことは、『建康実録』にしか見えない。ぱっと『三国志』を検索したが、(太子)少傅の是儀を、見つけることができなかった。

是儀、字子羽、北海営陵人也。本姓、氏。初為県吏、後仕郡。郡相孔融、嘲儀言「氏字、民無上。可改為是」乃遂改焉。後、依劉繇、避乱江東。繇軍敗、儀徙会稽。孫権承摂大業、優文、徴儀。到見親任、専典機密、拝騎都尉。呂蒙図襲関羽、権以問儀。儀、善其計、勧権聴之。従討羽、拝忠義校尉。儀陳謝、権令曰「孤、雖非趙簡子、卿安得不自屈為周舍邪。」既定荊州、都武昌、拝裨将軍、後封都亭侯、守侍中。欲復授兵。儀、自以非材、固辞不受。黄武中、遣儀之皖、就将軍劉邵、欲誘致曹休。休到、大破之、遷偏将軍、入闕省尚書事、外総平諸官、兼領辞訟。又令教諸公子、書学。大駕東遷、太子登留鎮武昌、使儀輔太子。太子敬之、事先諮詢、然後施行。進封都郷侯。後、従太子還建業、復拝侍中、中執法、平諸官事、領辞訟如旧。

是儀伝は、呂壱事件・二宮事件について記すが、『建康実録』は、すっとばす。

為人謙讓,不治產業,又愛惠施。宅在西明門外,甚卑陋,雖處尊官,弊衣單食。帝聞之,幸其宅,求視蔬飰,親嘗之,對而歎息。有所增益,皆讓而不受。時或進達,未嘗言人之短。卒,時年八十一。

人となりが「謙譲」というのは、是儀伝の「事上勤、与人恭」のアレンジか。産業を治めず、施恵を受けないのは、是儀伝のまま。しかし、「西明門外」に自宅があったのは、『建康実録』のみに見える。建業の地理に特化した、『建康実録』の特徴だろうか。まずしい飲食について、孫権が刺殺にきたのは、是儀伝に見える。「人の短」所を言わないのも、是儀伝と同じ。享年も同じ。

是儀伝:事上勤、与人恭。不治産業、不受施恵、為屋舍財足自容。鄰家、有起大宅者、権出望見、問起大室者誰、左右対曰「似是儀家也」権曰「儀倹、必非也」問、果他家。其見知信、如此。服不精細、食不重膳、拯贍貧困、家無儲畜。権聞之、幸儀舍、求視蔬飯、親嘗之。対之歎息、即増俸賜、益田宅。儀、累辞譲、以恩為戚。時時有所進達、未嘗言人之短。権常責儀、以不言事、無所是非。儀対曰「聖主在上、臣下守職、懼於不称。実不敢以、愚管之言、上干天聴。」事国数十年、未嘗有過。呂壹、歴白将相大臣。或、一人以罪聞者数四。独無以白儀。権歎曰「使人尽如是儀、当安用科法為。」及寝疾、遺令、素棺、斂以時服、務従省約、年八十一卒。


冬十月,魏遼東太守公孫淵叛魏,使校尉宿舒﹑閬中令孫綜來,奉表稱藩請援,並獻方物。帝進公卿議,輔吴將軍張昭及丞相顧雍等率大臣切諫淵反覆難信,兼嶮路遙遠,願勿納之。帝不信,遣太常張彌﹑執金吾許晏﹑將軍周賀賀達﹑校尉裴潛將兵一萬,浮海應接,并齎珍寶九錫備物,封淵為燕王,領幽﹑靑二州十七郡諸軍事。

十月、遼東太守の公孫淵が魏に叛いた。公孫淵が、宿舒・孫綜を使わしてきたことは、呉主伝に見える。彼らの官位も、『建康実録』と呉主伝で等しい。

呉主伝:冬十月魏遼東太守公孫淵、遣校尉宿舒、閬中令孫綜、称藩於権、并献貂馬。権大悦、加淵爵位。

『建康実録』によると、張昭・顧雍が反対して、張弥・許晏・周賀らを派遣する。『建康実録』には、周賀・賀達という2人? の人名に分解できるが、呉主伝では、賀達のみである。彼らが派遣されたのは、呉主伝では、翌年(嘉禾二年)のこと。「燕王、幽・青二州十七郡諸軍事」の権限を付与するのは、呉主伝 注引『江表伝』の文中に見える。

呉主伝 嘉禾二年:三月、遣舒綜、還。使太常張弥、執金吾許晏、将軍賀達等、将兵万人、金宝珍貨、九錫備物、乗海授淵。挙朝大臣、自丞相雍已下皆、諫、以為、淵未可信而寵待太厚、但可遣吏兵数百護送舒綜。権、終不聴。
呉主伝 注引『江表伝』:今以幽、青二州十七郡[百]七十県、封君為燕王、使持節守太常張弥授君璽綬策書……

『建康実録』校勘記によると、張弥の派遣は、呉主伝では嘉禾二年(翌年)である(←ぼくが指摘済)。『資治通鑑』は、青龍元年にこの記事を置いており、青龍元年=嘉禾二年である。周賀は、すでに田豫に斬られているから、ここに名を連ねるのは誤りであると。

『建康実録』では、周賀が田豫に斬られたのは、嘉禾二年に記される。『建康実録』のなかでは、整合している。すなわち、「死んだはずの周賀が、再登場する」という矛盾は、内部で起きていない。しかし、『三国志』が正しいとすれば、周賀は嘉禾元年に斬られるから、ここに名前を載せてはいけない。

遼東に関して、『建康実録』には『三国志』との多くの違いがある。『建康実録』が、どういう歴史像を懐いたか。往々にして、直線的なプロセスに単純化しがち。しかし実際は、公孫淵も反復極まりない。『建康実録』が、それを捕らえ切れていない可能性がある。

嘉禾二年

二年三月,漢獻帝崩,率公卿舉哀三日。

『建康実録』によると、嘉禾二年三月、献帝が崩じたという。ほかの史料と整合をとると、献帝が崩じたのは、翌年の嘉禾三(二三四)年である。かなり大切な情報なのに、また1年ズレている。
しかし、献帝の崩御を記さない呉主伝に比べると、『建康実録』は、呉を主軸とした歴史書を作ろうという、意気込みだけは見える。孫権が「公卿をひきいて哀を挙ぐること三日」であったことは、『建康実録』だけに見えること。呉と漢の繋がりを強調しようという歴史観の産物である(実際に孫権が、哀を挙げたとは言ってません)。

公孫淵果反,為魏,魏將田豫要擊,破周賀﹑裴潛等於成山,而淵殺張彌﹑許晏﹑賀達三人,分其部伍,秦旦﹑杜德等走於玄兔。

『建康実録』によると、嘉禾二年三月、魏将の田豫が要撃し、周賀・裴潜が成山で破られた。公孫淵は、張弥・許晏・賀達を破って、秦旦・杜徳らは、玄菟に逃げたという。
なんと、デタラメなのだ。呉主伝によると、田豫が要撃して、周賀・裴潜を成山で斬ったのは、前年の嘉禾元年である。1年ズレている。

呉主伝:三月遣将軍周賀、校尉裴潜、乗海之遼東。秋九月魏将田豫、要撃、斬賀于成山。
『建康実録』校勘記によると、田豫が周賀を要撃したのは、前年の嘉禾元年九月のこと。『資治通鑑』も太和六年=嘉禾元年に繋ぐ。『建康実録』では、「田預」に作るが、『三国志』のとおり「田豫」に作るべきである。

張弥・許晏・賀達・秦旦・杜徳らが、公孫淵に攻められたのは、嘉禾二年の裴松之注『呉書』である。

呉書曰、初、張弥、許晏等俱到襄平、官属従者四百許人。淵欲図弥、晏、先分其人衆、置遼東諸県、以中使秦旦、張羣、杜徳、黄疆等及吏兵六十人、置玄菟郡。玄菟郡在遼東北、相去二百里、太守王賛領戸二百、兼重可三四百人。

田豫に呉からの使者が攻撃をされたのと、公孫淵が呉からの使者を迫害したのは、別々のできごと。どうやら『建康実録』は、魏・遼東の敵対行動を、まとめて置いてしまったらしい。『建康実録』は「分其部伍」に作るが、『呉書』では「分其人衆」とあり、微妙に痕跡がある。
人名にも異同がある。さっき『建康実録』は、周賀・賀達を登場させたが、ここでは「賀達」に一本化されている。『呉書』では、秦旦・張羣・杜徳・黄疆が玄菟郡に逃げるが、『建康実録』は、秦旦・杜徳らとまとめている。

八月,旦等自玄兔走句麗。句麗王見旦﹑德等甚敬之,曰:「此天子邊人也。」乃發皂衣使二十五人送歸,兼表獻方物豹皮千枚,鶡雞皮十具。

嘉禾二年、秦旦らは玄菟から句麗にいった。出典『呉書』に「八月十九日」の表記がある。「天子辺人」は、出典がどこか。『宋書』巻七十六 朱脩之伝がヒットしたが、明らかに違う。句麗王が秦旦らに言った台詞として『建康実録』に記される。『呉書』では、「命使人随旦還迎羣・徳」がこれに該当するだろうが、直接話法は見られない。許嵩による、創作セリフであろうか。
衣服とか皮革製品については、『呉書』に見えることができる。『建康実録』は、「豹皮」に作るが、『呉書』は「貂皮」に作り、ケモノの種類が違う。

呉主伝 嘉禾二年 注引『呉書』:旦等皆舍於民家、仰其飲食。積四十許日、旦与疆等議曰「吾人遠辱国命、自棄於此、与死亡何異。今観此郡、形勢甚弱。若一旦同心、焚焼城郭、殺其長吏、為国報恥、然後伏死、足以無恨。孰与偷生苟活長為囚虜乎。」疆等然之。於是陰相約結、当用八月十九日夜発。其日中時、為部中張松所告、賛便会士衆閉城門。旦、羣、徳、疆等皆踰城得走。時羣病疽創著膝、不及輩旅、徳常扶接与俱、崎嶇山谷。行六七百里、創益困、不復能前、臥草中、相守悲泣。羣曰「吾不幸創甚、死亡無日、卿諸人宜速進道、冀有所達。空相守、俱死於窮谷之中、何益也。」徳曰「万里流離、死生共之、不忍相委。」於是推旦、疆使前、徳独留守羣、捕菜果食之。旦、疆別数日、得達句驪(王宮)、因宣詔於句驪王宮及其主簿、詔言有賜為遼東所攻奪。宮等大喜、即受詔、命使人随旦還迎羣、徳。其年、宮遣皂衣二十五人送旦等還、奉表称臣、貢貂皮千枚、鶡雞皮十具。旦等見権、悲喜不能自勝。権義之、皆拝校尉。間一年、遣使者謝宏、……(続きは下で引用する)


帝喜句麗,大怒公孫淵,將自征遼東,尚書薛綜等率大臣切諫,帝猶怒。

孫権は、朝貢してきた句麗を喜び、公孫淵にキレて、遼東を征伐しようとした。尚書の薛綜らが切諫したが、孫権は遼東をブチのめしたい。

呉主伝 嘉禾二年:挙朝大臣、自丞相雍已下皆、諫、以為、淵未可信而寵待太厚、但可遣吏兵数百護送舒綜。権、終不聴。淵果斬弥等、送其首于魏、没其兵資。権、大怒、欲自征淵〔三〕。尚書僕射薛綜等、切諫、乃止。

『建康実録』では前後するが、薛綜が遼東への出兵を諫めたことは、呉主伝に見える。呉主伝で、薛綜は「尚書僕射」であるが、『建康実録』では「尚書」である。

選曹尚書陸瑁上疏曰:「古來荒服,慌忽無常,不可保也。夫兵革者,前代所以誅暴亂,滅四夷,然皆姦雄已除,天下無事,從容廟堂之上以議之。至於中夏鼎沸,九域盤牙之時,深根固本,愛力惜費,務自將養,以待鄰敵之闕,未有遠征於此時也。捨近馳遠,疲於軍力,願陛下少思之。」帝乃止。

選曹尚書の陸瑁が、上疏して、遼東親征を諫止した。陸瑁伝では、嘉禾元年の年号までしかないが、「孫権が公孫淵に忿って」とあるから、嘉禾二年のことと見てよいでしょう。「古來荒服,慌忽無常,不可保也」とあるが、出典では、「古者制地、謂荒服。言、慌惚無常不可保也」である。圧縮しながら、引いている。

巻五十七 陸瑁伝:嘉禾元年、公車徴瑁、拝議郎、選曹尚書。孫権、忿公孫淵之巧詐反覆、欲親征之、瑁上疏諫曰「臣聞、聖王之御遠夷、羈縻而已、不常保有。故、之古者制地、謂荒服。言、慌惚無常不可保也。今淵、東夷小醜、屏在海隅。雖託人面、与禽獣無異。国家所為不愛貨宝遠以加之者、非嘉其徳義也、誠欲誘納愚弄以規其馬耳。淵之驕黠恃遠負命、此乃荒貊常態、豈足深怪。昔漢諸帝、亦嘗鋭意以事外夷、馳使散貨、充満西域。雖時有恭従、然其使人見害、財貨并没、不可勝数。今陛下、不忍悁悁之忿、欲越巨海、身践其土、羣臣愚議、窃謂不安。何者、北寇与国壤地連接、苟有間隙応機而至。夫、所以越海求馬、曲意於淵者、為赴目前之急、除腹心之疾也。而更棄本追末、捐近治遠、忿以改規、激以動衆。斯乃、猾虜所願聞、非大呉之至計也。又、兵家之術、以功役相疲、労逸相待、得失之間所覚輒多。且沓渚、去淵道里尚遠、今到其岸、兵勢三分、使彊者進取、次当守船、又次運糧。行人雖多、難得悉用。加、以単歩負糧、経遠深入、賊地多馬、邀截無常。若淵狙詐与北未絶、動衆之日、脣歯相済。若実孑然無所憑頼、其畏怖遠迸、或難卒滅。使天誅稽於朔野、山虜承間而起、恐非万安之長慮也」権未許。瑁重上疏曰「夫兵革者、固前代所以誅暴乱、威四夷也。然、其役皆在姦雄已除天下無事、従容廟堂之上、以餘議議之耳。至于中夏鼎沸九域槃互之時、率須深根固本、愛力惜費、務自休養、以待鄰敵之闕。未有正於此時、舍近治遠、以疲軍旅者也。昔、尉佗叛逆、僭号称帝、于時天下乂安、百姓殷阜、帯甲之数、糧食之積、可謂多矣。然漢文、猶以遠征不易、重興師旅、告喻而已。今凶桀未殄、疆埸猶警、雖蚩尤鬼方之乱、故当以緩急差之、未宜以淵為先。願陛下、抑威任計、暫寧六師、潜神嘿規、以為後図、天下幸甚」権再覧瑁書、嘉其詞理端切、遂不行。

つぎに、「夫兵革者,前代所以誅暴亂,滅四夷」とあるが、これは『建康実録』が出典を飛ばしまくっており、念押しの2回目の上疏から拾っている。『建康実録』校勘記は、2回の上疏を、1つに合体させていると指摘する。
とりあえず、陸瑁伝を節略していることが分かった(陸瑁伝をはみ出す史実が、『建康実録』から拾えない)ので、次にいきます。

冬十月,詔使中書郞陳恂﹑謝宏往拜句麗王宮為單于,并賜衣服。恂至,句驪已受魏幽州牧諷旨,不受詔賜,遂郊止吴使,令主簿笮資﹑帶固往與恂﹑宏相見。恂等怒,乃縛資﹑固為質,使讓句驪。句驪王謝罪,獻馬百匹,乃釋資等,令奉詔賜物而將馬還。

『建康実録』は、「十月」に、中書郎の陳恂・謝宏が使者となり、句麗王の宮を単于とする。
これは、嘉禾二年 注引『呉書』が出典。さっき、秦旦らが虐げられて、句麗に逃亡した史料の続きである。ただし、「十月」という情報は見えず、『建康実録』のほうが詳しい。『呉書』は、「間一年」とあるが、これによって割り振ったわけでも、ないはず。『呉書』では、使者の謝宏・中書の陳恂に作っており、官位も異なる。

呉主伝 注引『呉書』:旦等見権、悲喜不能自勝。権義之、皆拝校尉。間一年、遣使者謝宏、中書陳恂拝宮為単于、加賜衣物珍宝。恂等到安平口、先遣校尉陳奉前見宮、而宮受魏幽州刺史諷旨、令以呉使自効。奉聞之、倒還。宮遣主簿笮咨、帯固等出安平、与宏相見。宏即縛得三十餘人質之、宮於是謝罪、上馬数百匹。宏乃遣咨、固奉詔書賜物与宮。是時宏船小、載馬八十匹而還。

句麗の宮が魏の幽州刺史と交渉を持っていて、、というのも、『呉書』と一致する。主簿笮咨・帯固という固有名詞も、『呉書』に一致する。『建康実録』は馬百匹、『呉書』では馬数百匹を、句麗が孫呉に詫びて差し出す。
やはり、『呉書』が出典と思われるが、自信たっぷり? に、「十月」という情報を増やしているのが気になる。裴松之が採録しなかった『呉書』の記述が、『建康実録』の出典なのだろうか。170620

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嘉禾三~五年 呂壱事件と瑞祥たち

嘉禾三年

呉主伝は、嘉禾三年に民政に関する詔があるが、『建康実録』にない。

呉主伝:三年春正月、詔曰「兵久不輟、民困於役、歳或不登。其寛諸逋、勿復督課」


三年夏六月,帝率六軍親征合淝,別使大將軍陸遜﹑諸葛瑾等屯江夏﹑沔口,張承﹑孫韶等將兵往廣陵﹑淮陽。魏明帝自東出拒之,帝還軍。

『建康実録』によると、六月、孫権は合肥を攻め、「大将軍」陸遜・諸葛瑾が江夏・沔口に屯し、張承・孫韶らは広陵・淮陽にゆく。
呉主伝によると、五月とする。一ヶ月ズレる。陸遜・諸葛瑾が江夏・沔口に屯するのは、『建康実録』に同じ。孫韶・張承が、広陵・淮陽に行ったのも同じ。『建康実録』は、孫権がただ「合肥」を攻めるが、呉主伝は「合肥新城」と詳しい。

呉主伝:夏五月権、遣陸遜諸葛瑾等屯江夏沔口、孫韶張承等向広陵淮陽。権率大衆、囲合肥新城。是時、蜀相諸葛亮出武功、権謂魏明帝不能遠出。而帝遣兵助司馬宣王拒亮、自率水軍東征。未至寿春、権退還、孫韶亦罷。

この戦いは、諸葛亮の最期の北伐(五丈原の戦い)に呼応したもの。しかし『建康実録』は、それを伝えない。孫呉の単独行動のようである。これでは、献帝の崩御を1年前倒ししてしまった『建康実録』が、献帝と同年に薨じた諸葛亮の没年を、正しく認識していたか、判定できない。

呉主伝は、八月に、諸葛恪を丹陽太守としたとあるが、『建康実録』はスルー。

呉主伝:秋八月、以諸葛恪為丹楊太守、討山越。


九月朔旦,隕霜傷穀,誅不由君上之應也。時典校事呂壹專威福,帝任之,羣臣無敢言。 是歲,復曲阿為雲陽,丹徒為武進。

九月に「隕霜傷穀」したことは、呉主伝に等しいが、それが「旦」であることは、『建康実録』のほうが情報が多い。まあ、霜が降るのは、朝方が多いので、筆の勢いで書けることかも知れない。

呉主伝:九月朔、隕霜傷穀。

『宋書』巻三十三 五行志四 水 恒寒に、関連する記述がある。

『宋書』巻三十三:吳孫權嘉禾三年九月朔,隕霜傷穀。按劉向說,「誅罰不由君出,在臣下之象也」。是時校事呂壹專作威福,與漢元帝時石顯用事隕霜同應。班固書九月二日,陳壽言朔,皆明未可以傷穀也。壹後亦伏誅。京房易傳曰:「興兵妄誅,茲謂亡法。厥災霜,夏殺五穀,冬殺麥。誅不原情,茲謂不仁。其霜夏先大雷風,冬先雨,乃隕霜,有芒角。賢聖遭害,其霜附木不下地。佞人依刑,茲謂私賊。其霜在草根土隙間。不教而誅,茲謂虐。其霜反在草下。

嘉禾三年九月、霜が降った。『建康実録』に見える「誅不由君上之応也」という解釈は、『宋書』に引く劉向の説である。劉向の説は、前漢の元帝の石顕と、孫呉の呂壱を対応させたもの。『漢書』では九月二日、『三国志』では九月一日なので日付は一致しないという。
『建康実録』によると、孫権は呂壱にやらせ放題(帝任之,羣臣無敢言)とあるが、これは呉主伝・『宋書』五行志の文ではない。許嵩が、状況説明したものか。

呉主伝は同年十一月、太常の潘濬が武陵蛮夷を平定するが、『建康実録』は触れない。曲阿を雲陽に、丹徒を武進としたのは、呉主伝に同じ。廬陵の賊の叛乱は、『建康実録』が省いている。

呉主伝:冬十一月太常潘濬、平武陵蛮夷、事畢、還武昌。詔、復曲阿為雲陽、丹徒為武進。廬陵賊李桓、羅厲等、為乱。


嘉禾四年

四年秋七月,魏使以馬二百匹求易珠璣﹑翡翠,帝曰:「此朕不用之物,乃與交易。」 八月,雨雹,又隕霜。雹者,陰之脅陽,佞臣小人專任之應。

嘉禾四年七月、魏使が交易に来た。呉主伝の節略であろう。

呉主伝:四年夏、遣呂岱討桓等。秋七月有雹。魏使、以馬求易、珠璣、翡翠、瑇瑁。権曰「此皆孤所不用、而可得馬。何苦而不聴其交易。」

八月、雹・霜が降ったという。その解釈として、「雹は、陰が陽を脅したものである。佞人・小人が、専任していることへの感応である」とある。この解説は、『宋書』巻三十三 五行志四に拠る。

『宋書』巻三十三:嘉禾四年七月,雨雹,又隕霜。案劉向說,「雹者陰脅陽」。是時呂壹作威用事,詆毀重臣,排陷無辜。自太子登以下,咸患毒之,而壹反獲封侯寵異。與春秋公子遂專任,雨雹同應也。漢安帝信讒,多殺無辜,亦雨雹。董仲舒曰「凡雹皆為有所脅,行專壹之政」故也。

やはり呂壱のことを指している。『建康実録』は、呉主伝から、出来事を節略する一方で、『宋書』五行志によって自然の異変の意味を解説してゆく。ただし、孫権の皇帝即位について、瑞祥の解説はなかった。呂壱の弊害に、特別の関心があるのかも知れない。

嘉禾五年

五年春,議鑄大錢,一當五百。詔吏民輸銅畀直。設盜鑄之科。三月,武昌甘露降於禮賓殿。

春、大銭を鋳造し、「一は五百に当たる」というレートは、呉主伝のまま。盗鋳を取り締まるルールを作ったのも同じ。

呉主伝:五年春、鑄大銭、一当五百。詔、使吏民輸銅計銅畀直。設、盜鑄之科。二月武昌言、甘露降於礼賓殿。輔呉将軍張昭、卒。中郎将吾粲、獲李桓。将軍唐咨、獲羅厲等。自十月不雨至於夏。

『建康実録』では、三月に武昌で甘露が降るが、呉主伝は二月である。『建康実録』校勘記によると、呉主伝・『宋書』では、「武昌」の下に「言」字がある。つまり、武昌郡から報告がありました(本当に降ったのか、史家は保証しかねるが、報告があったのは事実)という、一歩ひいた記載である。『建康実録』は、直接的に「降った」と、史家が保証している。

夏,旱,自去冬不雨至於五月。

雨が降らなかった。呉主伝によると、(嘉禾四年)十月から(嘉禾五年)夏まで、雨が降らない。『建康実録』では、夏に旱となり、去冬(嘉禾四年)から(嘉禾五年)五月まで、雨が降らない。起点は呉主伝のほうが詳しく、終点は『建康実録』のほうが詳しい。つまり、呉主伝に依拠してこれを書いたとは、考えにくい。

いろいろ区切りを変えて検索したが、『宋書』や『晋書』で、天候以上を見つけられなかった。


秋七月,輔吴將軍﹑婁侯張昭薨。遺令幅巾素棺,斂以時服。帝素服臨弔,祭以太牢,諡文成侯。

『建康実録』によると、七月に張昭が薨じた。呉主伝は、とくに日付を断らず、二月の甘露に続けて記す。『建康実録』のほうが、「月」の情報が多い例である。
張昭の違令どおりに、素棺・時服で葬られ、孫権が「素服臨弔」したことは、張昭伝と一致する。しかし、孫権が「太牢」を祭り、「文成侯」と謚したのは、張昭伝に見えないこと。張昭伝では「文侯」である。二字諡号と一字諡号の重みについて、検討が必要か。

巻五十二 張昭伝:遺令、幅巾素棺斂以時服。権、素服臨弔、諡曰文侯。


『建康実録』は、張昭伝が始まる。長いから、細かく検討しない。

『建康実録』:昭字子布,彭城人。好學,善談論,能隸書。從白侯子安受春秋衆書,與趙昱﹑王朗俱發名友善。與朗共論舊君諱事,處士陳琳善之。舉茂才,不應,徐州刺史陶謙以為輕己,將拘之,趙昱救免。乃避難江南,及桓王創業,為府長史,一事已上並委之,陞堂拜母,如舊好焉。桓王臨薨,以後事託昭輔帝。
帝卽位,以昭為軍師將軍,每以直諫整齊德行。帝嘗於武昌宮臨釣臺飲酒,大醉,使人以水灑羣臣曰:「今日酣飲,惟醉墮臺中為止耳。」昭正色不言,出外坐車中。帝使人呼還,謂曰:「作樂,公何為怒?」昭對曰:「昔紂為糟丘酒池長夜之飲,當時亦以為樂,不以為惡也。」帝慚而止。 黃龍初,與孫劭﹑滕躭﹑鄭禮等採周﹑漢故事,定朝儀。帝卽尊號,拜輔吴將軍,封婁侯,食邑萬戸。在宅無事,嘗著春秋左氏傳解及論語﹑孝經註。每有鄰國使,命昭輒折之。時帝遣張彌﹑許晏應接公孫淵,昭諫曰:「淵背魏懼討,遠來求援,非本意也。若淵改圖,欲自明於魏,兩使不返,取笑天下。」帝不納,昭切諫止之,帝橫刀於膝上,大怒曰:「吴之士大夫入則拜朕,出則拜卿,朕之敬卿,亦為至矣。而數於衆中折朕,失計何也。」昭熟視帝面,良久進曰:「誠知言不見用,每竭愚衷者,誠以太后臨崩,呼老臣於牀下,遺詔顧命之耳。」因卽涕泣橫流。帝投刀於地,與昭對泣。然竟遣彌﹑晏,昭忿言不見用,杜門稱疾不朝,帝數召起,昭稱疾篤。帝恨,塞其門,昭於內又自以土封之。帝後悔過,親至門呼昭,昭猶稱病。帝燒其門以恐之,昭更閉戸。帝使人滅火,自責良久,昭諸子共扶昭起,載而還宮。昭進謝,帝跪止之,坐定,仰而言曰:「昔太后﹑桓王不以老臣屬陛下,而以陛下屬老臣,是以思盡臣節。以報厚恩,使泯沒之後,有可稱述,而意慮愚淺,違逆盛旨,自分幽淪,長棄溝壑,不圖復蒙引見,得奉帷幄。然臣愚事國志忠,畢命而已。若乃變心易慮,偸榮取容,此臣所不能也。」帝謝之
昭為人容貌矜嚴,有威風,帝嘗曰:「孤與張公言,不敢妄發。」舉邦憚之。初,建安中,吴太后臨崩,以江外多虞,召昭與張紘受遺託孤,深委寄之,而命帝以師父事昭,故昭盡忠輔成王業。薨,時年八十一。 長子承,少以才學知名。為人壯毅忠謹,甄識人物,拔蔡款﹑謝景於寒微,並為國士封侯。其妻諸葛恪妹也,見恪歎曰:「敗諸葛氏者,元遜也。」性勤於進賢,篤於物類,庶幾之流,無不造門焉。

『建康実録』校勘記によると、『建康実録』には、黄龍初に孫邵・滕躭らと、周漢の故事に基づいて朝議を定めたとあるが、孫邵は黄武四年に卒しており(黄龍初には故人であり)、「黄武初」に作るべきとする。
滕胤伝によると、伯父の滕躭は早くに卒しており、張昭伝 注引『呉録』によると、張昭・孫紹・滕胤らが周漢の故事を検討しているから、「滕躭」は「滕胤」に作るべきとする。
もう一つの下線分、張昭が進んで謝り、孫権が跪いてこれを止め、謝したという。『建康実録』校勘記によると、呉主伝はこれを、孫権が張弥・許晏を派遣する前のこととする。仲直りのタイミングが違う。

冬十月,彗星見於東方。

十月に東方に彗星が現れたことは、呉主伝と同じ。しかし前後にある戦役は、『建康実録』が省いている。

呉主伝:輔呉将軍張昭、卒。中郎将吾粲、獲李桓。将軍唐咨、獲羅厲等。自十月不雨至於夏。冬十月彗星見于東方。鄱陽賊彭旦等、為乱。


嘉禾六年

六年春正月,詔曰:「郞吏者,宿衞之臣,古之命士。閒者所用頗非其人。自今選三署皆依四科,不得虛詞相飾。」

嘉禾六年正月の詔が載るが、『建康実録』校勘記によると、呉主伝 赤烏二年(この二年後)の裴注『江表伝』に、同じ詔が見える。『建康実録』は、嘉禾六年にこの詔を繋いだが、誤りである。

江表伝載権正月詔曰「郎吏者、宿衛之臣、古之命士也。間者所用頗非其人。自今選三署皆依四科、不得以虚辞相飾。」

呉主伝にも、嘉禾六年正月の詔はあり、「夫、三年之喪、天下之達制、人情之極痛也」と、別の内容である。喪礼に関する議論は、『建康実録』では、なぜか同年夏に変更されている。

夏,用左執法胡綜﹑左節度顧譚議定法長吏不許奔喪。詔曰:「遭喪不奔,法非古也,蓋隨時之宜,以義斷恩。自今已後,長吏不得奔喪廢職。有犯者,大辟行治。」

呉主伝では、嘉禾六年正月のこととして、顧譚・胡綜が、服喪と職務のかねあいを議論する。『建康実録』は、これを夏にズラしている。
呉主伝では、胡綜・顧譚の官職を書かずに登場させるが、『建康実録』では、「左執法の胡綜」「左節度の顧譚」と官職を記す。『建康実録』に見える詔は、出典を呉主伝に持ち、呉主伝に「遭喪不奔、非古也、蓋随時之宜、以義断恩也」と、字句が対応する。一方、続きの『建康実録』の「長吏不得奔喪廢職。有犯者,大辟行治」は、呉主伝のなかで、胡綜・顧譚と応酬するディベートを節略したもの。
呉主伝は、この後、呉令の孟宗が、服喪と職務のどちらを優先にするか、孫権とモメて、陸遜が孟宗を弁護する。『建康実録』は、そこまではフォローしない。

呉主伝に、陸遜・全琮・諸葛恪の戦いがあるが、『建康実録』は省く。

呉主伝:二月陸遜、討彭旦等、其年皆破之。冬十月遣衛将軍全琮、襲六安、不克。諸葛恪、平山越、事畢、北屯廬江。」


冬十二月,赤烏羣集前殿。大赦。改明年為赤烏元年。

『建康実録』によると、十二月に赤烏が前殿に群集する。しかし呉主伝に、その直接の記述はない。翌年の詔に、「間者、赤烏集於殿前、朕所親見。若、神霊以為嘉祥者、改年、宜以赤烏為元」と、言葉のなかで触れられるだけ。
『宋書』巻二十九 符瑞志下には、「吳孫權 赤烏 元年,有 赤烏 集於殿前」とある。つまり赤烏は、改元前の嘉禾六年ではなく、嘉禾七年に入ってから現れて、その歳を赤烏元年と改めたことになる。すると、『建康実録』が、改元前の嘉禾六年の十二月に現れたとするのは、誤りとなる。
どこから「十二月」という月の情報を仕入れたのか、疑わしい。170620

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