孫呉 > 『建康実録』テキスト分析(孫呉の後半)

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赤烏元年~四年

赤烏元年

春正月,侍御史謝宏奏更鑄大錢,一當千,以廣貨,帝許之。

春正月、侍御史の謝宏が、改めて大銭を鋳造して、1枚で千の価値があり、貨幣を広めようとした。呉主伝に、「赤烏元年春、鑄当千大銭」とある。「正月」「侍御史の謝宏」という情報が、『建康実録』のほうが多い。

呉主伝 赤烏九年 注引『江表伝』:是歳、権詔曰「謝宏往日陳鑄大銭、云以広貨、故聴之。今聞民意不以為便、其省息之、鑄為器物、官勿復出也。私家有者、敕以輸蔵、計畀其直、勿有所枉也。」

この赤烏元年でなく、八年後の赤烏九年の裴松之注に、「謝宏」と「貨幣を広めよう」とある。年数がズレており、「正月」「侍御史」の情報がここにもない。『三国志集解』赤烏九年は、注釈がない。

『三国志集解』呉主伝 赤烏元年(当該箇所)より。杜佑によると、赤烏元年、1枚で千の価値がある大銭をつくり、直径は1寸4分、重さ16銖である。趙一清によると、『晋書』食貨志に、孫権が1千銭をつくり、呂蒙が荊州を定めたとき1億銭を賜った。貨幣の額面が高く(インフレし)人々は不便であった。東晋は、孫権の旧銭を使い、軽重の異なる貨幣が混ざって使われた。以下、『建康実録』と関係ないから省く。
『晋書』巻二十六 食貨志をみたが、「正月」「侍御史」はここに見えない。「正月」は検証不能として、謝宏が「侍御史」であったことは、出典が分からない。『晋書』巻七十九 謝安伝など見ても、書いてなかった。

二月,追拜夫人步氏為皇后。

二月、歩夫人に皇后を追謚した。
これは、呉主伝に見えない。しかし、『三国志』巻五十 歩夫人伝に、「及薨、臣下、縁権指、請追正名号。乃贈印綬、策命曰、惟、赤烏元年閏月戊子、皇帝曰、嗚呼皇后、惟后、佐命、共承天地」とある。『建康実録』は「二月」とするのに、歩夫人伝に載せる策命は「閏月戊子」とする。策命の引用のほうが、精度が高いと思われ、『建康実録』は退けるべきだろう。

呉主伝:於是改年。歩夫人卒、追贈皇后。初、権信任校事呂壹。

呉主伝は、赤烏改元→歩夫人の死去→呂壱の事件、という記述順序である。これは、文中で確認できる月日の順ではなく、筆の流れである。『建康実録』は、これを踏襲しているから、やはり呉主伝を主な出典にしていると確認できる。

歩夫人卒、追后諱練師,臨淮淮陰人也。隨母徙廬江,廬江為桓王所破,皆東渡。夫人以美麗得幸於帝,生二女:魯斑﹑魯育。性不嫉妬,多推進,故久見愛,寵冠後庭。及帝卽位,數次欲立為后,公卿意在太子母徐氏,帝不得已依違十餘年。薨,追思之,至是年追拜之後,合葬蔣陵。

歩夫人が「練師」であることは、ほかにない情報であることは、よく言われる。

歩夫人伝:呉主権歩夫人、臨淮淮陰人也、与丞相騭同族。漢末、其母攜将徙廬江。廬江為孫策所破、皆東渡江。以美麗得幸於権、寵冠後庭。生二女、長曰魯班字大虎、前配周瑜子循、後配全琮。少曰魯育字小虎、前配朱拠、後配劉纂〔一〕。夫人、性不妬忌、多所推進、故久見愛待。権為王及帝、意欲以為后、而羣臣議在徐氏。権、依違者十餘年。然、宮内皆称皇后、親戚上疏称中宮。及薨、臣下、縁権指、請追正名号。乃贈印綬、策命曰「惟、赤烏元年閏月戊子、皇帝曰、嗚呼皇后、……」葬於蒋陵。

歩夫人は、廬江が孫策に破られると、東渡した。「美麗」によって孫権に寵愛されて、魯班(大虎)・魯育(小虎)を産んだ。嫉妬せず、徐氏がいるから皇后にならなかった。蒋陵に葬られた。字の「練師」を除いて、歩夫人伝と情報が重複する。歩夫人伝を節略しながら、書いたことが分かる。

秋七月,典校事呂壹坐奸事,伏誅。帝深慚亂法,使中書郞袁禮以誅壹事謝四方諸大臣,兼手詔一一條件,而問時事損益,幷責不直言切諫。

呉主伝:初、権信任校事呂壹。壹、性苛慘、用法深刻。太子登、数諫、権不納。大臣由是莫敢言。後、壹姦罪発露伏誅。権、引咎責躬、乃使中書郎袁礼、告謝諸大将。因問、時事所当損益。礼還、復有詔、責数諸葛瑾、歩騭、朱然、呂岱等、曰「袁礼還云、与子瑜、子山、義封、定公相見。……

呂壱の事件は、呉主伝でだいたい分かるが、「七月」の情報だけが得られない。
参考までに見ると、『資治通鑑』は、九月の赤烏改元→歩夫人の死→十一月の魏の記事という順序なので、呉主伝に忠実である(呉主伝の記述順に従い、呉主伝にない月の情報を挿入しない)。

呉主伝:夏、呂岱討廬陵賊、畢、還陸口。秋八月武昌言、麒麟見。有司奏言、麒麟者太平之応、宜改年号。詔曰「間者、赤烏集於殿前、朕所親見。若、神霊以為嘉祥者、改年、宜以赤烏為元」羣臣奏曰「昔、武王伐紂、有赤烏之祥、君臣観之、遂有天下。聖人書策載述最詳者、以為、近事既嘉、親見又明也」於是改年。

夏、呂岱が廬陵の賊を破ると、陸口に還った。呉主伝に「夏、呂岱討廬陵賊、畢、還陸口」とある。八月、武昌が麒麟が現れたという。有志は、「麒麟は太平の応なので、改元しろ」という。詔して、「朕が赤烏を見たから、赤烏元年」と改元すると。群臣は、「孫権さまが見たのだから、周武王の伐殷と同じく、天下を領有できる」と祝福した。孫権が、周武王の伐殷に準えられた点がおもしろいが、これは『建康実録』ではなく、呉主伝のおもしろさである。
八月の麒麟について、趙一清によると、『宋書』符瑞志に「白麟が建業に現れた」とある。せっかく「建業」の出来事なのに、『建康実録』は特記しない。呉主伝を丸写しにして終わり、『宋書』符瑞志に目を配っていない。孫権の祖先である孫鍾の瑞祥は、『宋書』符瑞志が出典であった。網羅的・恒常的に『宋書』を見ているのではなく、作業にムラがあることが指摘できる。

八月,麒麟見武昌。

『建康実録』は、八月に武昌が麒麟が現れたという。上で見た、呉主伝と、「八月」まで対応する。呉主伝で、群臣は周武王=孫権と連想するが、『建康実録』はカットしている。

赤烏二年

二年春正月,魏明帝薨。夏五月,城沙羡。

赤烏二年、呉主伝には見えないが、魏明帝=曹叡が没した。この年代は、『三国志』に合っている。

二年春〔一〕三月遣使者羊衜、鄭冑、将軍孫怡、之遼東、撃魏守将張持、高慮等。虜得男女〔二〕。零陵言、甘露降。夏五月、城沙羡。冬十月将軍蒋秘、南討夷賊。秘所領都督廖式、殺臨賀太守厳綱等、自称平南将軍、与弟潜、共攻零陵、桂陽。及搖動交州、蒼梧、鬱林諸郡。衆数万人。遣将軍呂岱、唐咨、討之。歳餘、皆破。

呉主伝によると、三月、遼東に羊衜・鄭冑・孫怡らを派遣したが、省かれている。零陵の甘露も省かれている。瑞祥を網羅するつもりもないらしい。五月、沙羨に築城したことは、呉主伝から採る。かと思えば、十月に蒋秘が南夷を討伐したことや、その部下の廖式らが叛いたことは、省かれている。交州まで巻きこみ、年をまたぐ叛乱だったようだが、無視である。

赤烏三年

三年春,詔曰:「蓋君非民不立,民非穀不生。」下州郡勸治農桑,農桑時不得役事。夏四月,大赦。諸郡縣治城郭,起樓,穿壍發渠,以備非常。冬十一月,詔開倉賑給貧民。

春三月、農桑を勧め、繁忙期は役務を負担させなくした。四月に、大赦して、郡県の城郭を修復し、楼・渠をメンテナンスさせた。十一月、官庫をひらいて振給した。

呉主伝:三年春正月、詔曰「蓋、君非民不立、民非穀不生。頃者以来、民多征役、歳又水旱、年穀有損、而吏或不良、侵奪民時、以致饑困。自今以来、督軍郡守其謹察非法、当農桑時以役事擾民者、挙正以聞」夏四月大赦、詔諸郡県、治城郭、起譙楼、穿塹発渠、以備盜賊。冬十一月民饑、詔、開倉廩以賑貧窮。

呉主伝も、だいたい同じである。呉主伝によると、近年、軍役が多くて負担が重く、水旱の災害によって生産量が下がっていることが説明されている。

十二月,使左臺侍御史郗儉監鑿城西南,自秦淮北抵倉城,名運瀆。(案,建康宮城,卽吴苑城,城内有倉,名曰苑倉,故開此瀆,通轉運於倉所,時人亦呼為倉城。晉咸和中,修苑城為宮,惟倉不毀,故名太倉,在西華門內道北。)

十二月、左台侍御史の郗倹が、工事を監督して、「運瀆」という運河を設けた。『建康実録』の自注によると、建康の城内に繋がる運河だったようです。
この十二月の出来事は、『三国志』に全く見えない。
郗倹というのは、『後漢書』では、益州で天子を自称した同名異人しかヒットしない。「左台侍御史」という官職も、よく分からない。郗氏の系譜に、このような人がいるのだろうか。そして、赤烏三年十二月というのも、たいへんピンポイントである。これは、独自情報と見なさざるを得ないか。

赤烏四年

四年春正月,大雪,平地三尺,鳥獸死者太半。三月,右將軍孫韶卒。

赤烏四年春正月、大雪がつもって、鳥獣の大半が死んだ。呉主伝に、「四年春正月大雪、平地深三尺、鳥獣死者大半」とあるから、新しい情報なし。
三月、右将軍の孫韶が死んだという。

夏四月遣衛将軍全琮、略淮南、決芍陂、焼安城邸閣、収其人民。威北将軍諸葛恪、攻六安。琮、与魏将王淩、戦于芍陂。中郎将秦晃等、十餘人戦死。車騎将軍朱然、囲樊、大将軍諸葛瑾、取柤中〔一〕。五月、太子登卒。是月、魏太傅司馬宣王、救樊。六月、軍還。閏月、大将軍瑾卒。秋八月陸遜、城邾。

呉主伝によると、四月、全琮・諸葛恪・朱然が、魏に攻めこんでいる。五月、太子の孫登が死に、閏月に諸葛瑾が死んだ。これは、あとに『建康実録』にも出てくるから良いとして。確認したかったのは、孫韶の死が、呉主伝にないこと。
巻五十一 孫韶伝に、「赤烏四年卒」とある。死んだ年は、孫韶伝から判明するが、「三月」の情報がない。『資治通鑑』は、孫韶の死の記事自体が、赤烏四年=正始二年にない。あえて、許嵩が拾いあげた情報だと認識したい。そして、「三月」は、許嵩の独自情報である。

韶字公禮。父河,本姓兪氏,吴人。常隨桓王征伐,立功,賜姓孫。初,邊鴻與嬀覽等殺丹楊太守孫翊,河往宛陵詰鴻﹑覽﹑戴員。員等懼罪,又殺河。
韶年十七,收河衆歸,治京城樓櫓,以備禦。帝聞之,將還吴,引軍夜至城下,試攻之。韶皆乘城傳檄備警,讙聲動地,帝使人諭止。明日召見,深器之,拜為校尉,統河部曲,食曲阿﹑丹徒二縣,自置長吏。帝卽尊號,遷鎭北將軍。在邊十數年,善待士卒,得其死力。常以警疆埸遠兵候為務,故鮮有敗軍之事。帝在武昌,韶屯京,知靑﹑徐﹑汝﹑沛等軍事。及帝下都建業,朝見,帝問其土人物。韶答屯戍遠近,人馬衆寡,將帥姓名,盡識之。身長八尺,儀貌都雅。帝喜曰:「吾不見汝久,不圖進益乃爾。」拜右將軍。

孫韶のあざなと出身、辺洪・媯覧に父(『三国志』では伯父)の孫河を殺され、17歳で兵を嗣いだこと、京城に楼櫓を築いたことなど、孫韶伝に合致する。曲阿・丹徒を食邑とし、鎮北将軍となり、身長八尺であったことも、孫韶伝に等しい。
辺境にいた期間を、『建康実録』は「十数年」に作り、『三国志』は「数十年」に作る。まあ、軽微なミスである。
右将軍になったのは、本人でなく、子の孫越であり、『建康実録』の誤りであるが、これは校勘記も挙げることである。

夏四月,使衞將軍全琮征魏掠淮南,決芍陂﹑燒安城邸閣,收其人民。中郞將秦傀等與魏將王淩大戰芍陂中,斬獲千餘人。車騎將軍朱然圍樊,大將軍諸葛瑾取柤中地。

四月、衛将軍の全琮が淮南を攻めて、人狩りをした。中郎将の「秦傀」が、王淩と芍陂で戦ったとある。『建康実録』の版本によって、秦「隗」にも作るという。呉主伝では、中郎将の「秦晃」である。この中郎将の秦氏は、呉主伝では全琮の部下として戦ったことが明示されているが、『建康実録』では分からない(しかし記述が不親切なだけで、誤りとも言えない)。
朱然が樊城を囲み、諸葛瑾が柤中を取ったとあるが、呉主伝に依る。呉主伝によると、司馬懿が樊城を救援にくるのだが、『建康実録』は司馬懿の動きは書かない。司馬氏が重要となるのは、東晋からであり、曹魏・西晋の司馬氏は、ほかの魏臣と同程度に、冷淡に扱われる。

時零陵太守殷禮上書於帝曰:「今天棄曹氏,國內虎爭,幼童蒞事,取亂侮亡宜於今日。願陛下親自禦戎,舉荊﹑揚之衆,盡强弱之數,强者執戟,羸者轉運,西命益州軍於隴右,授諸葛瑾﹑朱然大衆,指事襄陽,陸遜﹑朱桓別征壽春,大駕方入淮泗,凌轢靑﹑徐。襄陽﹑壽春困於受敵,長安以西務對蜀軍,許﹑洛之師,勢必分散,犄角瓦解,民必內應,將相對向,或失便宜;一軍敗績,三軍離心,便當秣馬脂車,踐踏城邑,乘勝逐北,以定華夏。若不悉軍動衆,循前輕舉,則不足大用,易於屢退。民疲威竭,非出兵之策也。」帝善之,不能用。

零陵太守の殷礼が、孫権に上書した。これは、呉主伝の「諸葛瑾が柤中を取った」という本文のあとの裴松之注である。

呉主伝 注引『漢晋春秋』:零陵太守殷礼言於権曰「今天棄曹氏、喪誅累見、虎争之際而幼童蒞事。陛下身自御戎、取乱侮亡、宜滌荊、揚之地、挙彊羸之数、使彊者執戟、羸者転運、西命益州軍于隴右、授諸葛瑾、朱然大衆、指事襄陽、陸遜、朱桓別征寿春、大駕入淮陽、歴青、徐。襄陽、寿春困於受敵、長安以西務対蜀軍、許、洛之衆勢必分離。掎角瓦解、民必内応、将帥対向、或失便宜。一軍敗績、則三軍離心、便当秣馬脂車、陵蹈城邑、乗勝逐北、以定華夏。若不悉軍動衆、循前軽挙、則不足大用、易於屡退。民疲威消、時往力竭、非出兵之策也。」権弗能用之。

『漢晋春秋』が出典であることは、揺らがない。『漢晋春秋』では、孫権が「淮陽」に入るとするが、『建康実録』は「淮泗」に作る。などの差異はあるが、『漢晋春秋』から逸脱した情報は拾えない。

禮字德嗣,雲陽人。幼而聰穎過人。顧劭拔於微賤之中,累遷郞中,與輔義中郞將張溫使蜀,蜀諸葛亮見而歎曰:「江東菰蘆中生此奇才。」使還守郡,卒於官。

殷礼は、巻五十七 張温伝に「又、殷礼者、本占候召。而温、先後乞将到蜀、扇揚異国、為之譚論」と、張温とともに蜀に使者に行ったことが分かる。『漢晋春秋』で、呉蜀の共闘を説いたのは、こうしたキャリアに基づくものか。
巻五十二 顧邵伝に、殷礼の記事が見える。顧邵の事績として、「烏程呉粲、雲陽殷礼、起乎微賤」と、登用している。殷礼が「雲陽の人」という『建康実録』は、これに基づくか。離れた列伝から、的確に情報を拾っている。

顧邵伝 裴松之注:礼子基作通語曰、礼字徳嗣、弱不好弄、潜識過人。少為郡吏、年十九、守呉県丞。孫権為王、召除郎中。後与張温俱使蜀、諸葛亮甚称歎之。稍遷至零陵太守、卒官。文士伝曰、礼子基、無難督、以才学知名、著通語数十篇。有三子。

『建康実録』の「幼而聰穎過人」は、許嵩による解説であり、『通語』の「弱不好弄、潜識過人」をアレンジしたものと思われる。郎中になったことも、『通語』である。しかし、『通語』は、諸葛亮が「甚称歎之」したとあるのみで、具体的なコメントがない。『建康実録』は、「江東の菰蘆中に此の奇才を生ず」とあり、具体的なコメントがある。どこから持ってきたのか。不明とせざるを得ない。

しかし、「言った・言わない」でモメても仕方がないので、これをもって、『建康実録』の独自情報とするには、弱い。


五月,皇太子登薨,帝聞驚惋,哀不自勝。詔曰:「國喪明嫡,百姓何福?」下有司謚為宜明太子。

五月、孫登が薨じた。五月に薨じたことは、呉主伝に「五月、太子登卒。是月、魏太傅司馬宣王、救樊。六月、軍還」とあるから、疑問はない。しかし、「国は明嫡を喪ひ、百姓は何を福とせん」という孫権のコメントは、『三国志』に出典が見当たらない。「言った・言わない」の議論は、意味がないと言ったばかり。許嵩が、それっぽいセリフを書いてみたくなっただけでは。
孫登伝では「宣太子」に作るが、『建康実録』は「宣明太子」である。

◆孫登伝

太子字子高,帝長子。性謙讓好學,旣居儲位,以諸葛恪為左輔,張休為右弼,顧譚﹑張承為都尉,是為四友,謝景﹑范愼﹑刁玄﹑羊衜等為賓客,每侍講東宮,號為多士。登接師友,同布衣之禮,常與共帳同輿。
及鎭武昌,遊獵出入,不踐良田,頓息又擇空闊之地,而不煩民。曾乘馬出,有彈丸過其側,左右求之。見一人操彈佩丸,咸以為是,詞對不伏,從者欲捶之,登使求過丸,比之非類,乃釋之。

基本的に、孫登伝に基づく。「以恪為左輔。休右弼。譚為輔正。表為翼正都尉。是為四友、而謝景、范慎、刁玄、羊衜等、皆為賓客」とあり、人名とポジションは取材できる。校勘記によると、『建康実録』が張承を四友に含めるのは、誤りである。陳武伝によると、鎮撫の子の陳表が、翼正都尉となっており、こちらを四友に含めるべきである。
武昌に出陳したとき、孫登伝に「有弾丸過」したエピソードがあり、同じである。

所生母徐氏廢在吴,而日夕思戀,及立為太子,辭曰:「本立而道生,欲立太子,宜先立后。」帝曰:「卿母何在。」對曰:「在吴中。」帝默然。每有賜衣,皆沐浴以服之。立二十一年,年三十三,臨終上表:「進賢勸善,寬刑省賦。皇子和仁孝聰哲,德行淸茂,願早建置,以副民望。諸葛恪﹑張休﹑顧譚﹑謝景皆通敏有識斷,入宜腹心,出可爪牙;范愼﹑華融矯矯壯節,有國士之風;羊衜有專對之才;刁玄﹑裴欽﹑蔣修﹑虞翻志節外明。凡此諸臣,或宜廊廟,或堪將帥,明習法令,守信固義,有不可奪之志。此皆陛下日月所照,選置臣宮,備知情素,敢以陳聞。」帝覽之摧感。初葬句容,後三年移葬鍾山西蔣陵,置園邑奉守。次子英嗣,封吴侯。

母の徐氏が呉に虐げられているとき、孫登は辞退した。孫登伝に「本立而道生。欲立太子宜先立后」とあり、『建康実録』に対応する。「立凡二十一年、年三十三」で卒したのは、孫登伝に基づく。臨終の上表で、孫和・諸葛恪・張休・顧譚・謝景・范慎・華融・羊衜・刁玄・裴欽・蒋修・虞翻をほめる。孫登伝は、孫和・諸葛恪・張休・顧譚・謝景・范慎・華融・羊衜・刁玄・裴欽・蒋脩・虞翻をほめる。

見ながら入力したけど、人物の顔ぶれは同じだった。校勘記によると、後半の刁玄よりあとは、コメントが違うようだが、まあ軽微な差異でしょう。

句容に葬られ、三年で鍾山の蒋陵に移されたのは、孫登伝 注引『呉書』である。次子の孫英が嗣いで、呉侯となったのは、孫登伝の本文に基づく。

◆諸葛瑾伝

閏六月,大將軍豫州牧諸葛瑾薨。
瑾字子瑜,瑯琊陽都人也。性寬緩,容貌思度,於時伏其弘雅。少遊學博聞,有孝德。

呉主伝に、「六月、軍還。閏月、大将軍瑾卒。秋八月……」とある。閏六月か閏七月か判定できないが、諸葛瑾の死は呉主伝と矛盾しない。

漢末,避難渡江,弘咨薦於帝,帝善之。為人善譚論諫諭,未嘗切諤人主,粗陳指歸,有未合則言他事,物類相求,帝亦解悟。瑾兄弟三人,各事一方,每使往來,兄弟相見,言於公庭,曾無私語。帝卽尊位,進拜大將軍﹑豫州牧,封陽都侯。臨終違令素棺殮以時服。
長子恪自得侯,次子融襲封振威將軍,統部曲鎭方外。融多伎藝,好會賓客。在軍每休假,令吏卒不遠千里造焉。常訪問賓客,其言能者,隨其書史﹑樗蒲﹑弓彈﹑犬馬,分部別類,與之任性。融乃繼進甘果酒肉,自巡牀周流看省,終日不倦,吏士親附,疆無外事

『建康実録』は、孫権が皇帝になると、大将軍・豫州牧・陽都侯になったとする。校勘記によると、諸葛瑾伝によれば、関羽を討って宣城侯となり、のちに宛陵侯となったが、陽都侯になったことはない。諸葛恪が陽都侯に封じられたのを、誤って諸葛瑾の事績としたという。
『建康実録』は、「疆無外事」に作るが、諸葛瑾伝は「疆外無事」に作るという。

(案,江表傳:孫峻害諸葛恪,密使無難督施寬等上取融。融不之知,忽聞兵至,猶豫不決及。寬等圍城,遂飲毒死,三子見殺。先是,公安有靈鼉鳴,時謠曰:「白鼉鳴,龜背平,南郡城中可長生,守死不去義無成。」及此,融果刮金印龜,服之而死也。)

『建康実録』の自注にいう。(諸葛瑾伝 所引)『江表伝』によると、孫峻が諸葛恪を殺害すると、ひそかに無難督の施寛に、(諸葛瑾の弟の)諸葛融を捕らえさせようとした。諸葛融はこれを知らず、兵がくると聞いても、どうしてよいか分からない。施寛に城を囲まれると、服毒して三子は殺された。これより先、公安で霊鼉が鳴き、ときに歌われた謡に、諸葛融の服毒死が整合していた。

許嵩の態度としては、裴注の神秘的な話を、おもしろいと思った。しかし、本文に吸収することが憚られ、自注に記すに留めた。といった感じだろうか。


秋八月,陸遜城邾。冬十一月,詔鑿東渠,名靑溪,通城北壍潮溝。

八月、陸遜が邾県に築城したのは、まんま呉主伝。しかし、十一月に東渠を作ったのは、『三国志』に見えない情報。「靑溪」を「青渓」「靑渓」などに変えて検索したが、『水経注』でもヒットせず。
このあと、『建康実録』には膨大な自注がある。こういう地理がらみの情報で、『建康実録』に独自性があるのは、一見して明らかなので、あんまりここで熱弁することでもない。170629

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赤烏五年~十年

上までは、『建康実録』本文は、むじん書院から頂いたものでした。ここからは、中国哲学書電子計画から頂き、中華書局本と照合したものを、本文として使います。

赤烏五年

五年春正月、立子和為皇太子、大赦、改禾興県為嘉興県。
二月、羣臣奏請立皇后及皇子為諸侯王。辞曰、「今天下未定、民物労瘁、有功未録、飢寒未恤。猥割土壌、以封子弟、崇爵位以寵妃妾、朕不取焉」。三月、海塩言黄龍見。

正月(前年の孫登の死を受けて)孫和を太子とし、大赦した。禾興県を嘉興県と改めた。呉主伝に、そのままある。
つぎに呉主伝は、「百官奏、立皇后及四王。詔曰……三月、海塩県……」とする。『建康実録』は、「二月」の情報が多く、「四王」の情報がない。つまり、呉主伝が正月の記事の後、三月の前に置いた群臣の上奏を、敢えて「二月」と特定する。許嵩が呉主伝だけに依拠したか、それ以外も参照したのか、特定できない。
このとき群臣が封建の対象としたのが、孫権のどれだけの子だったのか、呉主伝は「四王」とするが、『建康実録』はボカす。逆パターンだったら、「許嵩がいかにして四人と特定したか」という検証をすべきだが、今回はそうでない。ただの節略か。

呉主伝:詔曰「今天下未定、民物労瘁、且有功者或未録、饑寒者尚未恤。猥割土壤以豊子弟、崇爵位以寵妃妾、孤甚不取。其釈此議」

呉主伝が「詔して曰く」とするのを、『建康実録』は内容を踏まえて「辞して曰く」とする。天下平定してないのに、寵妃や息子たちに、土地を封建する気はないという詔。これは、『建康実録』と呉主伝の比較としては、あまり意味がないが、呉主伝の内容自体がおもしろい。

三月、海塩言黄龍見。夏四月、旱。詔禁献御、減太官膳。秋七月、有司又奏、立皇后・諸侯王。八月、立子霸為魯王。九月、遣将軍陸凱討定朱崖・澹耳郡。

三月、海塩県で黄龍が現れた。四月、孫権の食膳を減らした。
呉主伝によると、七月、将軍の聶友・校尉の陸凱が、珠崖・儋耳を討伐する。『建康実録』は、これを九月とする。単純に「七」と「九」を書き誤った(もしくは筆写のプロセスで誤った)とは、考えにくい。なぜなら、八月の孫覇封建との前後関係が狂うから。呉主伝は、七月の聶友派遣→八月の孫覇封建の順序である。『建康実録』は、八月の孫覇封建→九月の聶友派遣である。

呉主伝:三月海塩県言、黄龍見。夏四月、禁進献御、減太官膳。秋七月遣将軍聶友、校尉陸凱、以兵三万、討珠崖、儋耳。是歳大疫、有司又奏、立后及諸王。八月立子霸、為魯王。
校勘記も、これを指摘する。『資治通鑑』は呉主伝に従っている。


赤烏六年

六年春、騶虞見新都。

六年春、騶虞が新都に現れたという。しかし呉主伝は、六年春正月、白虎が現れた。『建康実録』は呉主伝に比べると、「正月」という情報が少なく、「白虎」が「騶虞」に化けている。

六年春正月、新都言白虎見。諸葛恪、征六安、破魏将謝順営、収其民人。冬十一月丞相顧雍、卒。十二月扶南王范旃、遣使献楽人及方物。是歳、司馬宣王、率軍入舒。諸葛恪、自皖、遷于柴桑。

『宋書』を検索しても、この騶虞はない。『晋書』も。

『宋書』巻二十八 符瑞志中ですら、「吳孫權赤烏六年正月,新都言白虎見」として、「正月」に「白虎」だから、呉主伝に同じ。同じ巻に、「晉安帝隆安五年十一月,襄陽言騶虞見於新野」と、騶虞が1例だけあるが、年代も月も場所も合わないから、これを誤認したとは、思いにくい。


冬十一月、丞相顧雍薨、時年七十六。是月、太子太傅都郷侯闞沢薨。

十一月、丞相の顧雍が卒したことは、呉主伝に対応する。同月、闞沢が薨じたことは、呉主伝に見えない。巻五十三 闞沢伝に、「六年冬卒」とあるから、年と季節は合っているが、「十一月……是月……薨」と、ピッタリ赤烏六年十一月に、闞沢が薨じたという説明がつかない。

◆闞沢伝

沢字徳潤、会稽山陰人。家世農夫、幼好学、居貧、常与人傭書。以供紙筆、所写既了、謂之亦過。究竟典籍、兼通暦数。察孝廉、累遷吏部尚書。時蜀使張奉来聘、帝命公卿宴、奉於座列沢姓名嘲謔、沢不能対。時、太子少傅薛綜、因行酒至奉、代沢答曰、「蜀者何也。有犬為独。無犬為蜀、横目荀身、蟲入其腹」。奉曰、「不当復列呉耶」。綜応声曰、「無口為天、有口為呉。君臨万国、天子之都」。衆座歓笑。奉無以対。
沢性謙恭、小吏対問、皆与抗礼。人有非短、口未嘗言。容貌似不足者、然所聞少窮。嘗以賈誼過秦論進帝、欲方便諷諭、以明治乱。

あざな・本貫地・生い立ちは闞沢伝に同じ。『建康実録』は、闞沢の官爵を吏部尚書とするが、巻五十三 闞沢伝は「及称尊号、以沢為尚書。嘉禾中、為中書令、加侍中」と、尚書からの、中書令、加侍中であり、一致しない。おそらく、『建康実録』が誤りである。
蜀使の張奉が、闞沢の姓名をバカにする話は、巻五十三 薛綜伝が出典。『建康実録』は、薛綜が太子少傅として、張奉との問答に参戦するが、薛綜伝では、このとき薛綜は謁者僕射である。
闞沢のキャラクターは、ふたたび闞沢伝に戻る。治乱を明らかにして、賈誼『過秦論』を説いたことは、闞沢伝に見える。

十二月、扶南国献楽人。是歳、諸葛恪大破六安、殺魏将謝景、収其民而還。魏司馬懿率軍入舒、恪遷於柴桑。

呉主伝と照合すると、

六年春正月、新都言白虎見。諸葛恪、征六安、破魏将謝順営、収其民人。冬十一月丞相顧雍、卒。十二月扶南王范旃、遣使献楽人及方物。是歳、司馬宣王、率軍入舒。諸葛恪、自皖、遷于柴桑。

呉主伝は、十二月に扶南王が楽人を献ずるが、『建康実録』は十一月とする。呉主伝は、扶南王の名を記すが、『建康実録』はこれを省いている。呉主伝を節略して引用するとき、月がズレたと考えるのが、もっとも保守的。呉主伝の直前に、十一月に顧雍伝が卒した記事があるから、まちがえにくいと思うのだが。許嵩が、あいだに闞沢小伝を挟んだため、月のカウントを間違えても、気づかなかったか。

「是の歳」のこととして、『建康実録』は、諸葛恪が六安を大破し、魏将の謝景を破ったという。この記事は、呉主伝では、正月の後、十一月(顧雍の死)の前に置かれている。

校勘記によると、呉主伝では、魏将を「謝順」に作る。謝景は、南陽のひとで、呉臣なので、魏将として登場するのはおかしいと。

この歳には違いないが、おそらく呉主伝は、諸葛恪の六安での勝利を、十一月より前と示したかった。許嵩は、これを台無しにしている。司馬懿が舒県に軍をひきいて入り、諸葛恪が柴桑に遷ったことは、呉主伝に同じ。本来、呉主伝は、この司馬懿の動きを、「是の歳」としている。使っている字は、同じでも、呉主伝のほうが、時系列の情報がおおい。

曹丕による第一次征呉のときも、同じだった。歳をまたいで、魏呉が戦うにも拘わらず、『建康実録』は、開戦の年内に、決着まで書いてしまった。このあたりは、繋年に慎重な『資治通鑑』と比べると、ひどく劣る。


赤烏七年

七年春二月、以大将軍陸遜為丞相。秋、嘉禾生宛陵。

赤烏七年二月、陸遜を丞相とした。呉主伝では、正月である。

七年春正月、以上大将軍陸遜、為丞相。秋、宛陵言嘉禾生。是歳、歩騭、朱然等、各上疏云、

もはや、意思を持って、呉主伝に変更を加えていると見なさざるを得ない。秋、宛陵に嘉禾が生えたのは、呉主伝に同じ。

八月、詔曰、「督将亡、殺其妻子。是使妻去夫、子奔父也。甚傷義教、自今勿殺之」。
車騎将軍朱然・驃騎将軍歩隲等各上疏言、「自蜀還者、言蜀欲背盟与魏交通、多作舟船、繕治城郭。又前蒋琬守漢中、聞司馬懿南向、不出兵乗虚以犄角之、反委漢中、還成都。事已彰露、的無所託。宜為之備」。帝良久曰、「不然。吾待蜀不薄、聘享盟誓、無以負之。何以致此。又司馬懿前来入舒、旬日便退。蜀在万里、何知緩急而便出軍。昔魏入漢川、此間始戒厳、亦未挙制。会魏還而止、蜀寧可復以此為疑也。且人治国、舟船・城郭、何得不護。今此間治軍、豈欲禦蜀。人言若不可信。朕為諸君破家保之」。果如帝言、而蜀竟無謀。

『建康実録』によると、八月、孫権が詔を発する。これは、呉主伝 赤烏七年の年末に、裴松之注『江表伝』で挿入されたもの。

江表伝載権詔曰「督将亡叛、而殺其妻子、是使妻去夫、子棄父、甚傷義教、自今勿殺也」。字句の異同はあるけれど、同じものを見て書いた(もしくは、裴松之注を見て許嵩が書いた)と言える。

裴松之注は、年月の情報を削り、いかにも「内容の関連性が高いから、注記しましたよ」という体裁である。裴松之が、「に載する権の詔に曰く」と、出張ってきているし。もとの『江表伝』に、「八月」の記載があったと推測できる。

つぎの、朱然・歩隲の上疏は、呉主伝に見える。『三国志』だと、陳寿の本文に朱然らの上疏があり、それに内容を関連づける形で、『江表伝』に載せる詔がある。しかし『建康実録』は、先に「八月」の月表記を持つと思われる『江表伝』の詔を先に載せ、あとに朱然らの上疏を載せる。

呉主伝:是歳、歩騭、朱然等、各上疏云「自蜀還者咸言、欲背盟与魏交通、多作舟船、繕治城郭。又、蒋琬守漢中、聞司馬懿南向、不出兵乗虚以掎角之、反委漢中、還近成都。事已彰灼、無所復疑。宜為之備」権、揆其不然、曰「吾待蜀不薄、聘享盟誓、無所負之。何以致此。又司馬懿前来入舒、旬日便退。蜀在万里、何知緩急而便出兵乎。昔、魏欲入漢川、此間始厳、亦未挙動、会聞魏還而止。蜀寧可復以此有疑邪。又、人家治国、舟船城郭、何得不護。今、此間治軍、寧復欲以禦蜀邪。人言、苦不可信。朕為諸君、破家保之」蜀竟自無謀、如権所籌。

下線部など、内容は照合できる。許嵩は、呉主伝を写したのだろう。
『江表伝』は、他国への逃亡者の家族の取扱に関する詔。呉主伝は、蜀から帰還した人の証言に基づき、呉が魏蜀同盟を疑った話。他国との往来という点は共通しているが、直接的な内容の繋がりはなかった。

赤烏八年

八年春二月、丞相江陵侯陸遜薨。

赤烏八年春二月、丞相の陸遜が薨じた。ここは、呉主伝と『建康実録』で、月がズレない。一貫してズレるなら、暦法の違いを反映した(許嵩が、陳寿の無理解を訂正した)と考えることができる。しかし、このように一致する記事もあるから、判断がむずかしい。

陰謀説めいたものを唱えると、許嵩が参照した『三国志』は、ぼくらの見ているものと比べて、月がズレまくっていた。許嵩が、月をまちがえまくったのでなく、許嵩の引き写す作業は、正確であった。『三国志』の異なる版本があった。とか(笑)


◆陸遜伝

遜字伯言、呉人也。本名議、世為江東大族。妻桓王女也。遜年二十、始仕幕府、歴東西曹令史、出為海昌屯田尉、領県事。海昌、今之塩官也。時旱、遜開倉賑窮、百姓懐之。及帝統事、而遜策定山賊、帝用為帳下都督。

校勘記が言うように、『三国志』陸遜伝は「二十一」のとき幕府に仕えるが、『建康実録』は「二十」とする。東西曹令史・海昌屯田都尉となる。『建康実録』は「海昌は、いまの塩官県である」と本文にあるが、これは陸遜伝 裴注「陸氏祠堂像賛曰、海昌、今塩官県也」を本文に吸収したもの。
『建康実録』は「帳下都督」とするが、陸遜伝は「帳下右部督」とする。許嵩が、官職をよく分からず、知っている官職に置換したと思われる。

時会稽太守淳于式表遜枉法、擾乱人民。遜入、乃薦式為佳吏、帝曰、「式表卿、卿何称善」。対曰、「式意欲養民、是以白臣。臣更毀之、是乱聖聴」。帝以為長者。

校勘記によると、『建康実録』で、陸遜は孫権に対して「」と自称するが、このとき孫権は一将軍に過ぎない。『三国志』陸遜伝は、「遜」と自称しており、そちらが正しいと。

校勘記:式意欲養民是以白臣臣更毀之是亂聖聽 陶札云:「《吳志·陸遜傳》:『式意欲養民,是以白遜。若遜複毀式以亂聖聽,不可長也。』案時孫權尚不過一將軍,遜不應稱臣,《実錄》為誤。」

校勘記は正しい。気になるのは、許嵩が、陸遜伝を書き換えて、早期から陸遜に「臣」と言わせたのか、それとも、韋昭『呉書』は、孫呉バンザイの史書なので、陸遜は「臣」と言っており、陳寿もしくはその筆写者が、どこかで陸遜のセリフを、その瞬間において適切であろう「遜」に書き換えたか。

後呂蒙臥疾、因上表、言〔遜〕意思深長、才堪負重、観其規慮、終可大任。帝納之。

呂蒙が上表して、陸遜を後任に推した。
校勘記によると、もとの『建康実録』には、〔遜〕の字が欠けており、呂蒙が何を訴えたのか、意味不明なので、補ったという。ありがとうございます。

累遷護軍・鎮西将軍、代呂蒙為右都督。征関羽、剋公安、定南郡、封華亭侯。持節・揚州牧、多所辟挙。

『建康実録』によると、護軍・鎮西将軍となり、呂蒙に代わって右都督になったという。校勘記によると、陸遜伝に「拝偏将車右部督、代蒙」とある。呂蒙はかつて、右部督となった(その後任が陸遜である)。また、陸遜が護軍・鎮西将軍となったのは、宜都太守を領したとき。

「鎮西将軍」陸遜の問題は、孫権の呉王即位に関連する。許嵩の誤った理解では、陸遜は、呂蒙を継いだとき、鎮西将軍になっていた。これは抑えておく。

『建康実録』によると、陸遜は揚州牧になっている。校勘記によると、陸遜伝 注引『呉書』に見える、揚州牧の呂範のことと、混同したとする。

陸遜伝 注引『呉書』:権嘉遜功徳、欲殊顕之、雖為上将軍列侯、猶欲令歴本州挙命、乃使揚州牧呂範就辟別駕従事、挙茂才。

官職の推移について、校勘記が優れているので、ぼくはいいや。

及帝定荊州、上表勧帝薦抜英異、以進南土人、深納其言。黄武初、大破劉備於馬鞍山、尋敗曹休於夾石、休発背死。遜還軍、振旅凱歌入武昌、帝授遜輔国将軍・郢州牧。改封江陵侯。勅左右以御蓋覆之、出入殿門、凡所賜与、皆御物上珍、羣臣莫比。

皇帝(孫権)が 黄武初、劉備を破り、(黄武七年)曹休を破ると、輔国将軍・郢州牧になったという。陸遜伝によると、劉備を破ったとき、「加拝遜輔国将軍、領荊州牧、即改封江陵侯」とある。輔国将軍になるのは曹休を破る前であり、郢州牧は荊州牧の誤り。
あまりに違うからか、校勘記はスルーしている。

嘉禾中、都護諸軍、与諸葛瑾等征襄陽、定安陸・石陽。及為丞相、詔領揚州牧、都督如故。 嘉禾期に諸軍を都護し、諸葛瑾とともに襄陽を攻め、安陸・石陽を定めた。
陸遜伝に、「嘉禾五年、権北征、使遜与諸葛瑾攻襄陽。……軍到白囲、託言住猟、潜遣将軍周峻、張梁等、撃江夏新市・安陸・石陽」とある。陸遜伝のどこを抜粋するかという問題はあるものの、誤りではない。
丞相になると、『建康実録』は「揚州牧を領し、都督はもとのまま」とする。校勘記は、陸遜伝に基づいて、「荊州牧を領し、都護はもとのまま」にすべきとする。
『建康実録』は、官職の精度がひくい(地理の精度が高いから、トレードオフの関係にある)。官職について、『建康実録』から一片の真理を取りだそうというのは、ムリな試みとなるだろう。

時帝寵魯王霸、欲廃太子和、遜上書諫曰、「太子正統、宜有盤石之固、以副至尊。不宜動揺、生悪人心」。表三四上、帝怒、以重臣未即加法、使人責之、遜不勝憤恙而薨。

二宮事件のときは、陸遜伝に「太子正統……」と見え、陸遜が孫権を諫めた内容は重複する。『建康実録』は「表三四上」に作り、陸遜伝は「書三四上」に作るが、同じ内容である。

性忠梗、出言無私、立朝粛如也。帝嘗以諸子委遜教誨。故建昌侯慮曾於堂前作鬬鴨欄、遜見責之、即令毀除。学士南陽謝景与劉廙之談讓、以先刑後礼、遜引大義、訶之曰、「礼長於刑久矣。何以細辯而詭先聖之教、若此之論、不須講也」。左右失色、為人素倹知足。時年六十三、死之曰、家無餘財。

陸遜の性は「忠梗」というが、この語彙は『三国志』にない。建昌侯の孫慮の話は、陸遜伝 黄龍元年に遡っている。陸遜伝では、時系列のなかに収められた逸話であったが、『建康実録』は人物像を象徴するエピソードして、末尾に切り出した。
『建康実録』は、南陽の謝景と(魏臣)劉廙が談義したとある。これも、陸遜伝 黄龍元年にあるエピソードを、人物小伝の末尾に移したもの。校勘記によると、魏臣の劉廙と話をするはずがない。陸遜伝に「南陽謝景、善劉廙先刑後礼之論」とあり、劉繇の著作について議論したのである。『建康実録』が、ザツに引用するから、魏臣と呉臣が、議論したような記述になってしまった。
陸遜が六十三歳で亡くなり、家に余財がなかったのは、陸遜伝にふつうに見える。

夏五月、震宮門及南津大橋。茶陵県洪水溢出、漂損二百餘家。

夏五月、宮門と南津大橋が震えた。呉主伝に、「夏、雷霆犯宮門柱、又撃南津大橋楹」とある。『建康実録』は「五月」の情報が多い。『建康実録』は「震」とだけ作るが、呉主伝によると、落雷であったことが分かる。
洪水については、呉主伝に「茶陵県、鴻水溢出、流漂居民二百餘家」とあるから、『建康実録』が節略している。

秋七月、帝遊後苑、観公卿射、征西将軍馬茂・符節朱真・牙門将朱志・無難都督虞欽等謀逆、欲劫公卿襲帝、事覚、夷三族。

七月、馬茂が孫権を殺そうとして、夷三族となった。呉主伝は、「秋七月、将軍馬茂等、図逆。夷三族」とだけある。『建康実録』は、同注引『呉歴』から、馬茂が孫権を狙ったのが「孫権が苑中に出たとき」であり、馬茂が征西将軍である(九江太守・外部督でもあった)ことを拾っている。
『建康実録』は、共犯者を「符節朱真」に作るが、『呉歴』では「兼符節令朱貞」とする。許嵩が、官職がよく分からず、かってに省略・置換したためであろう。

呉主伝 注引 呉歴曰、茂本淮南鍾離長、而為王淩所失、叛帰呉、呉以為征西将軍、九江太守、外部督、封侯、領千兵。権数出苑中、与公卿諸将射。茂与兼符節令朱貞、無難督虞欽、牙門将朱志等合計、伺権在苑中、公卿諸将在門未入、令貞持節称詔、悉収縛之。茂引兵入苑撃権、分拠宮中及石頭塢、遣人報魏。事覚、皆族之。


八月、大赦。使校尉陳勲作屯田、発屯兵三万鑿句容中道、至雲陽西城、以通呉・会船艦、号破崗瀆、上下一十四埭、遇会市、作邸閣。仍於方山南截淮立埭、号曰方山埭、今在県東南七十里。

八月、大赦した。校尉の陳勲に屯田させ、散漫で句容中道をうがち、雲陽西城に至るという。ここまでは、呉主伝と照合できる。

呉主伝:八月大赦。遣校尉陳勲、将屯田及作士三万人、鑿句容中道。自小其、至雲陽西城、通会巿、作邸閣。

『建康実録』は、「以通呉・会船艦、号『破崗瀆』、上下一十四埭、遇会市」を、呉主伝に挿入している。『三国志集解』呉主伝によると、破崗瀆は、『方輿紀要』巻二十五や『輿地志』に見えるらしい。地理の情報について、『建康実録』が優れている例(ただし、ぼくは検証不能)。
「仍於方山南截淮立埭、号曰方山埭、今在県東南七十里」も、呉主伝に追加された情報だが、その妥当性を、ぼくは検証不能なので、なんとも言えない。この運河の開設は、珍しく『三国志集解』が、『建康実録』のこの部分を引用していた。

赤烏九年

九年夏四月、甘露降武昌宮。
秋九月、以驃騎大将軍歩隲為丞相、車騎大将軍朱然為左大司馬、衛将軍全琮為右大司馬、鎮南将軍呂岱為上将軍、諸葛恪為大将軍。時用大銭、物貴、百姓不便。詔除大銭、卑物価、使収其銭、鎔為器。

呉主伝は、春二月、車騎将軍の朱然が、柤中で魏を征したとあるが、『建康実録』はスルー。戦い系は、わりに省略の傾向がある。
夏四月の甘露は、呉主伝にあるが、呉主伝は「武昌 言う」とし、郡で降った報告があったとするが、『建康実録』は「武昌宮に降った」と、場所が具体的である。
九月、歩隲を丞相とし、朱然を左大司馬にしたとある。呉主伝で、歩隲は「驃騎(将軍)」で、朱然は「車騎(将軍)」とする。しかし『建康実録』は、「大」字を足して、「驃騎大将軍」「車騎大将軍」とする。校勘記は「大」字を衍字とする。
衛将軍の全琮を右大司馬とし、鎮南将軍の呂岱を上大将軍とし、諸葛恪を大将軍としたのは、呉主伝と同じ。『建康実録』は、「全琮」を「全綜」に作ったが、校勘者が改めたという。ありがとうございます。

赤烏十年

呉主伝によると、「十年春正月、右大司馬全琮卒」とあり、『三国志集解』呉主伝によると、全琮伝は赤烏十二年に卒したといい、どちらが正しいか分からないという。『建康実録』は、赤烏十二年に「冬、右大司馬全琮卒」とあり、全琮伝に近い。しかし、巻六十 全琮伝は、「十二年卒、子懌嗣」としかなく、『建康実録』にある「冬」の情報が得られない。

文脈から季節が分かるのか、許嵩が全琮伝以外にも、何か手掛かりを持っていたのかは、赤烏十二年の当該記事で検討する。


十年春、適南宮、改為太初宮。詔移武昌材瓦、有司奏武昌宮、作已二十八年、恐不堪用、請別更置。帝曰、「大禹以卑官為美、今軍事未已、所在多賦、妨損農業。且建康宮乃朕従京来作府舎耳、材柱率細、年月久遠、嘗恐朽壊。今武昌材木自在、且用繕之」。 冬十月、大赦死罪。

『建康実録』は、春に「南宮にゆき、太初宮と改めた」とある。しかし、呉主伝に、「二月」に南宮にゆき、「三月」太初宮と改めたとある。『建康実録』が、月を省いて、季節で丸めた例である。
『建康実録』で、詔して、武昌の材瓦を転用するように命じたとあるが、これは呉主伝 注引『江表伝』である。大禹を見習って、軍事の負担が大きいため、農桑(『建康実録』では「農業」)を優先したというのも、『江表伝』から採れる。

江表伝載権詔曰「建業宮乃朕従京来所作将軍府寺耳、材柱率細、皆以腐朽、常恐損壊。今未復西、可徙武昌宮材瓦、更繕治之。」有司奏言曰「武昌宮已二十八歳、恐不堪用、宜下所在通更伐致。」権曰「大禹以卑宮為美、今軍事未已、所在多賦、若更通伐、妨損農桑。徙武昌材瓦、自可用也。」

冬に死罪を赦したのは、呉主伝に同じ。『建康実録』は「大赦」に作り、「大」字が加えられているが、筆の勢いだろう。

◆康僧会の入国

是歳、胡人康僧会入境、置経行所、朝夕礼念、有司以聞。帝曰、「昔漢明帝感夢金人、使往西方求之、得摩滕・笠法蘭来中国立経行教。今無乃是其遺類乎」。因引見僧会、其言仏教滅度已久、唯有舎利可以求請。遂於大内立壇、結静三七日得之。帝崇仏教、以江東初有仏法、遂於壇所立建初寺。

『高僧伝』が出典と思われるが、照合は別のときに。

◆葛玄伝

帝初好道術、有事仙者葛玄、嘗与遊処、或止石頭四望山所、或遊於列洲。時忽遇風、玄船傾溺、帝悲怨久之。俄見玄曳履従江上行来、衣不濡而有酒色。玄性好酒、嘗飲酔臥門前、陂水中竟日、醒乃止。帝重之、為方山立洞元観、後玄白日昇天。今方山猶有玄煮薬鐺及薬臼在。

校勘記によると、『三国志』巻六十三に引く『抱朴子』は、「葛玄」を「葛仙公」に作り、「列洲」を「洌州」に作る。このように、『抱朴子』が出典であるが、出典には「或止石頭四望山所」がない。

『三国志』巻六十三 裴松之注:抱朴子曰、時有葛仙公者、毎飲酒酔、常入人家門前陂水中臥、竟日乃出。曾従呉主別、到洌州、還遇大風、百官船多没、仙公船亦沉淪、呉主甚悵恨。明日使人鉤求公船、而登高以望焉。久之、見公歩従水上来、衣履不沾、而有酒色。既見而言曰「臣昨侍従而伍子胥見請、暫過設酒、忽忽不得、即委之。」

エピソードは『抱朴子』に基づくが、「為方山立洞元観、後玄白日昇天。今方山猶有玄煮薬鐺及薬臼在」という部分は、『建康実録』が他からもってきた地理情報である。『三国志』と照合できなかった。
『晋書』巻七十二 葛洪伝があり、従祖父として葛玄の事績が記されるが、あまり一致しない。『三国志』の裴松之注を出典とし、地理に関する情報を、許嵩が追記したと考えるべきだろう。170701

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赤烏十一年~十三年

建安十一年

十一年春正月、朱然城江陵。三月、太初宮成、周迴五百丈、正殿曰神龍、南面開五門。正中曰公車門、東門曰昇賢門、左掖門、西曰明揚門、右掖門。正東曰蒼龍門、正西曰白虎門、正北曰元武門。起臨海等殿。
校勘記:明揚門 宋本、庫本同,它本皆作「明陽門」。

呉主伝:十一年春正月、朱然、城江陵。二月、地仍震。

正月、朱然が江陵で築城したのは、呉主伝に同じ。二月の地震は、呉主伝にあるが『建康実録』にない。赤烏十一年三月、太初宮が完成したことは、『建康実録』に見えるが、『三国志』では照合できない。赤烏十年、呉主伝に「改めて太初宮を作る」とあり、『建康実録』は、それに対応する記事があった。単純に、許嵩が1年まちがえたとは考えられない。
ちょうど1年かけて、太初宮の建築工事が行われたのか。地理系の情報なので、照合させる相手が分からない。固有名詞「昇賢門」など、検索してみたが、正史ではヒットせず。

夏四月、雨雹、此有徳遭険、誅伐過深之応也。雲陽言黄龍見。五月、鄱陽言白虎仁。帝曰、「符瑞之応、表徳也。朕□臻於茲。書云、『雖休勿休』、公卿百司、勉修所職、以匡不逮、宜各勵精思朕過失」。
校勘記:朕□臻於茲 「朕」下缺一字,宋本、甘抄本、劉抄本同。《吳志·孫權傳》作「朕以不明,何以臻茲」,庫本、徐抄本即拠此將「朕□」補改為「何以」二字。周抄本又作「未易」二字。

夏四月、雹がふった。『建康実録』によると、これは「有徳遭険、誅伐過深之応也(有徳 険に遭ひ、誅伐 過深の応なり)」である。『三国志集解』呉主伝には、このような解釈について解説がない。許嵩による解釈と見るべきか。
雲陽に黄龍が現れたのは、呉主伝と『建康実録』で同じ。

呉主伝:夏四月雨雹。雲陽言黄龍見。五月鄱陽言、白虎仁〔二〕。詔曰「古者、聖王積行累善、脩身行道、以有天下。故、符瑞応之、所以表徳也。朕以不明、何以臻茲。書云、雖休勿休。公卿百司、其勉脩所職、以匡不逮。」
同注引:瑞応図曰、白虎仁者、王者不暴虐、則仁虎不害也。

五月、鄱陽が「白虎仁」といったと。呉主伝にも同文があるが、『三国志集解』呉主伝に引く梁商鉅は、「白虎見」に作るべきかとする。同じく梁商鉅の説によると、赤烏六年に新都で白虎が現れた記事のとき、裴松之がスルーしたが、ここで裴松之が初めて「白虎仁」に注釈しているから、「白虎仁」はそのままが正しいとする。
『建康実録』で、孫権が「符瑞の応」云々とあるのは、呉主伝のまま。

◆歩隲伝

秋、丞相・冀州牧・番禹侯歩隲薨。
騭字子山、臨淮人。性寛雅深沈、能降志辱身、研博道藝、靡不貫覧。漢末渡江、単身窮困、与広陵人衛旌種瓜自給、昼則耕斸、以勤四体、夜則端坐、読誦経書。帝初統事、召騰為主簿、与諸葛瑾・厳峻等並著英声於呉中、累遷使持節・征南中郎将・交州刺史、徵為驃騎将軍、領冀州牧。
校勘記:召騭為主簿 「主簿」,《吳志·步騭傳》作「主記」。

歩隲の死は、呉主伝には見えない。巻五十二 歩隲伝に「十一年卒、子協嗣」とあるから、赤烏十一年にこの記事があるのはいいが、「秋」がどうやって特定できたのかナゾ。校勘記によると、『建康実録』は「主簿」に作るが、歩隲伝は「主記」。

時皇太子登在武昌与騰書、問遠近士君子先後之宜。具條答於時建業人物在荊州界者、諸葛瑾・陸遜・朱然・程秉・潘濬・裴玄・夏侯承・衛旌・李粛・周條・石幹等一十人、甄別行状、因上疏獎勧、「臣聞人君不親小事、百官有司各任其職。是以舜命九賢、而天下治、斉桓用管仲、則国治。漢祖攬三傑、以興帝業。西楚失雄後、以喪成功。汲黯当朝、淮南謀寝、郅都守塞、匈奴竄遁。且賢人所在、折衝万里、信国家之利器、崇替之所由也。方今王化未被於漢北、河・洛有僭逆之醜、誠覧英抜俊任賢之時、願明太子重以経意、則天下幸甚」。

後継者問題について、歩隲伝に「條于時事業在荊州界者、諸葛瑾・陸遜・朱然・程普・潘濬・裴玄・夏侯承・衛旌・李粛〔一〕・周條・石幹、十一人。甄別行状」とある。顔ぶれは、『建康実録』も同じである。
『建康実録』に「方今、王化未被於漢北、河・洛有僭逆之醜」とあり、歩隲伝は「方今、王化未被於漢北、河・洛之浜尚有僭逆之醜」とある。文言が対応しており、問題ない。

尋代陸遜為丞相、封侯、督西陵事。在府舎、誨育門人、手不釈巻、被服居処有如儒生。喜怒不形於色、寛弘得衆、内外粛然、帝深重之。前後所薦達屈滞、救患難、書数十上、并條疏時事、帝並採用。

陸遜に代わって丞相になったのは、歩隲伝によると、赤烏九年。すでに『建康実録』赤烏九年で、呉主伝に基づいて書かれているから、ここで重複して書く必要はない。

赤烏十二年

十二年春三月、左大司馬朱然卒。

呉主伝に、「十二年春三月左大司馬朱然、卒」とあるから、照合できた。

◆朱然伝

然字義封、本姓施氏、丹陽人。安国将軍朱治姊子也。治初未有子、啓桓王養為嗣、時年十三、桓王許焉、命召以羊酒賀之。嘗〔権〕与同学結好。
校勘記:嘗與同學結好 《吳志·朱然傳》作「然嘗與權同學書,結恩愛」。拠此則《実錄》「與」下當脫「權」字。

巻五十六 朱然伝に基づく記述。校勘記が「権」字を補えという。そのとおり。

及帝統事、年十九、初為餘姚長。建安二十四年、従討関羽立功、遷昭武将軍・仮節、代呂蒙鎮江陵。与陸遜破劉備、断後道、拝征北将軍、封永安侯。魏将夏侯尚・曹真等囲江陵、内外県絶、真等鑿地道、立楼櫓、起土山、日夕臨城上、弓弩雨射、城中将士皆失色。然神用自若、意気方厲、率吏卒伺間出攻、破賊両屯。攻囲凡一百八十日而撒還、威振敵国、改封当陽侯、授左大司馬・右軍師。寝疾二年、帝日夜不安、医薬相望於道。卒、時年六十八。帝素服挙哀。子績嗣。

校勘記によると、子を「朱続」に作るが、朱然伝・宗室伝によると、朱績に作るべきである。『資治通鑑』巻七十五・陸機『弁亡論』も朱績に作るという。確定です。

夏四月、両烏銜鵲墜於東観。 校勘記:兩鳥銜鵲墜於東觀 「東觀」,《吳志·孫權傳》《晉書?五行志》中並作「東館」。丙寅、詔驃騎将軍朱拠領丞相、燎鵲以祭。此羽蟲之孽、又黒祥。視不明、聴不聡之罰也。東観・典校之府、実天意焉。

夏四月、2羽の烏が鵲をくわえて、東観にきた。呉主伝と『晋書』五行志では、「東館」に作る。建物の名前は、『建康実録』が得意な地理に属することだが、精度が低い。意思をもって「東館」と「東観」に書き換えたなら、自注を残して欲しかったが、サラッと書き換えている。四月丙寅、驃騎将軍の朱拠を丞相として、鵲を燎して祭った。これは、呉主伝に共通する。

呉主伝:丙寅、驃騎将軍朱拠領丞相、燎鵲以祭。

『建康実録』が本文に取りこんでいるが、黒祥とあるのは、『宋書』に引く劉歆の説である。

『宋書』巻三十二 五行三 羽蟲之孽:吳孫權赤烏十二年四月,有兩烏銜鵲墮東館。權使領丞相朱據燎鵲以祭。案劉歆說,此羽蟲之孽 ,又黑祥也。視不明,聽不聰之罰也。是時權意溢德衰,信讒好殺,二子將危,將相俱殆。覩妖不悟,加之以燎,昧道之甚者也。明年,太子和廢,魯王霸賜死,朱據左遷,陸議憂卒,是其應也。東館・典教之府,鵲墮東館,又天意乎。

『宋書』には、赤烏十二年四月に「東館」の怪異として記録されている。『宋書』に忠実であれば、「東観」になって、しなかっただろうに。同じように、『宋書』から「東館・典校之府」も『建康実録』に引かれているが、こちらも「東観」に改めている。

六月戊戌、宝鼎出臨平湖。秋八月癸丑、白鳩見於章安。

六月戊戌、宝鼎が出たこと、八月癸丑、白鳩が現れたことは、どちらも呉主伝と同じである。

◆全琮伝

冬、右大司馬全琮卒。

呉主伝に「十年春正月、右大司馬全琮卒」とあり、『三国志集解』呉主伝によると、全琮伝は赤烏十二年に卒したといい、どちらが正しいか分からないという。『建康実録』は、赤烏十二年に「冬、右大司馬全琮卒」とあり、全琮伝に近い。しかし、巻六十 全琮伝は、「十二年卒、子懌嗣」としかなく、『建康実録』にある「冬」の情報が得られない。(再録)

琮字子璜、呉郡銭塘人。父柔、挙孝廉、累遷尚書郎・桂陽太守。嘗使琮将米数千石往呉中、有所市易。属呉中飢荒、琮皆散用、空船還。柔大怒、琮頓首曰、「愚以所市非急、当今士大夫有倒懸之患。故便賑贍、不及啓報」。柔深奇之、自是北州人士避地、多南依琮、居者百数。琮傾家給済之、遂名顕遠近。

全琮の父が、孝廉に挙げられ、尚書郎「右丞」になったと、全琮伝に見える。「右丞」を省いてはダメでしょうに。桂陽太守も、少し離れたところにある。

全琮伝:全琮、字子璜、呉郡銭唐人也。父柔、漢霊帝時挙孝廉、補尚書郎右丞。董卓之乱、棄官帰、州辟別駕従事。詔書就拝、会稽東部都尉。孫策到呉、柔挙兵先附、策表柔為丹楊都尉。孫権為車騎将軍、以柔為長史、徙桂陽太守。「尚書郎右丞」と「桂陽太守」は、間があきすぎ。

全琮が、全柔に命じられてお米を買いに行き、その場で寄付してしまったことは、全琮伝に見える。こまかい語句の違いはあっても、エピソードは変わらない。

建安二十四年、劉備東出、琮上疏請討関羽。帝与呂蒙陰議征之、乃擒羽。会公安置酒、以琮為偏将軍、封当陽亭侯。尋与呂範破魏軍洞口、遷綏南将軍、改封銭塘侯。
校勘記:帝以吳地險於富春東安郡使琮為太守 《吳志·全琮傳》作「權分三郡險地為東安郡,琮領太守」。陶札云:「案《實錄》有脫文。」

全琮伝によると、山越から徴兵して、偏将軍となり、建安二十四年、関羽討伐について、呂蒙と同じ発想をした。『建康実録』は、関羽討伐が先で、その発想に報いて偏将軍にしたように見え、順序が逆である。綏南将軍・銭唐侯も全琮伝に同じ。

帝以呉地険、於富春東安郡使琮為太守。琮到官、明賞罰、招誘降附、得万餘人。

東安郡を設けて、特別に全琮に治安改善を任せたのも同じ。校勘記は、東安郡の設立の説明について、脱文があるとする。そのとおり。

許嵩の姿勢として、必要最低限の字数で、必要な事柄を伝えようとする。しかし、東安郡のように、原義が失われてしまっては、ダメである。全琮伝は、「是時、丹楊、呉、会、山民復為寇賊、攻没属県。権、分三郡険地、為東安郡、琮領太守」である。

東安太守としての成果は、全琮伝に同じ。

徵還、尚魯班公主、進衛将軍、領徐州牧・左護軍。自為将勇決、当敵臨難、奮不顧身。及作督、養威持重、御軍任計、不営小利。

全琮伝は、「黄龍元年、遷衛将軍、左護軍、徐州牧、尚公主」とある。『建康実録』は、先に孫魯班をめとり、つぎに衛将軍・徐州牧・左将軍とする。全琮伝と、順序が変わっている。つづく『建康実録』にある「勇決」「不営小利」は、ここの裴松之注の『呉書』の記述である。

初、帝欲使太子登出征、大臣不敢言、琮上疏諫之。為人恭順、善於承顔納規、言詞未嘗忤旨、毎進諫事輒納受。宗族当賜、家累千金、然尚謙虚接士、貌無驕色。臨終、上書諫帝不征朱崖・夷州、殊方異域、隔絶障海、水土気毒、兵多疾病、必無所獲万一之利。率、時年五十二、帝流涕。
校勘記:臨終上書諫帝不征朱崖夷州 陶札云:「《吳志》琮諫不征珠崖、夷州,非臨終時事,《實錄》誤。」

全琮が太子孫登の出征に反対したのは、上の裴注『呉書』に繋げて引かれる『江表伝』。「人となり恭順」「朱崖・夷洲」のことは、全琮伝に「為人恭順、善於承顔納規、言辞未嘗切迕。初、権将囲珠崖及夷州、皆先問琮」とあり、これが出典である。死んだとき52歳というのは、『建康実録』の独自情報であり、張忱石 点校(點校)説明に指摘があった。建安三(198)年に生まれたと判明する。

全琮伝と『建康実録』で、全琮の没年は同じである。呉主伝では異なる。『三国志』だけ見てると、全琮の没年は、全琮伝と呉主伝のどちらを信じていか、区別が付かない。本紀っぽい呉主伝のほうが、信じられるように思えてしまう。しかし、『建康実録』が、全琮の享年も含む何らかの記録を見たと考えれば、全琮伝を信じてよいと言える。「呉主伝が、いかにして誤ったか」という問題を立てることができる。


校勘記によると、珠崖(朱崖)の件は、全琮の「臨終」ではないと。全琮伝では、赤烏九年に右大司馬・左軍師になった記事の後、「初、権将囲珠崖及夷州」と遡って、全琮が反対した話を載せてから、「軍行経歳、士衆疾疫死者十有八九、権深悔之」と年数の経過を挟んで、孫権が失敗して、全琮の意見を却下したことを悔い、さらに「後言次及之」と後日談を載せる。この時間の幅が、許嵩の読解が、よく分からなくなった理由であろう。
『建康実録』の全琮伝の妥当性を検証することから、『建康実録』にどこまで信頼できる、『三国志』外部の情報があるか判定するヒントが得られそう。

赤烏十三年

十三年夏五月、日至、夜熒惑入南斗。秋七月、犯魁第二里而東。
八月、丹陽・句容及故郭・寧国諸山崩、洪水溢。説曰、山、陽、君也。陰、百姓也。
山・陽、君也、水・陰、百姓也 「水」字原缺,據庫本及《晋書?五行志下》《宋書?五行志五》補。

五月・七月の天体の異変は、呉主伝と同じ。八月の、丹陽・句容などで山が崩れ、洪水があった(呉主伝は、鴻水が溢れた)のも、呉主伝と共通。

呉主伝:十三年夏五月、日至、熒惑入南斗。秋七月、犯魁第二星而東。八月。丹楊、句容及故鄣、寧国諸山崩、鴻水溢。

「説に曰く」から始まる解釈は、校勘記によって、『晋書』五行志下・『宋書』五行志五に載せる劉向の説に基づくものと分かる。『建康実録』は、『晋書』・『宋書』の志を見ながら、ちょいちょい解説を本文に吸収させ、書いている。

詔、原逋責、給貸種食。廃太子和、処故鄣。魯王霸賜死。戒君道崩壊、百姓将失其所、亡胤嗣之応也。時宮掖不穆、魯王霸権傾太子、大将軍陸遜・太子太傅呉粲等極諫、帝不納。
吾粲 「吾」原誤作「吳」,今據《吳志》本傳及《孫權傳》《陸遜傳》改。

詔は、呉主伝 山崩と洪水の直後に、「詔、原逋責、給貸種食。廃太子和、処故鄣。魯王霸賜死」とあるのが出典。そのあとの、「君道は崩壊し」というのは、『宋書』五行志五に見える。

『宋書』五行志五:吳孫權赤烏十年三八月,丹楊、句容及故鄣、寧國諸山崩,鴻水溢。按劉向說,「山,陽,君也;水,陰,民也。天戒若曰,君道崩壞,百姓將失其所也」。與春秋梁山崩,漢齊、楚眾山發水同事也。「夫三代命祀,祭不越望,吉凶禍福,不是過也」。吳雖帝,其實列國,災發丹楊,其天意矣。國主山川,山崩川竭,亡之徵也。後二年而權薨,薨二十六年而吳亡。

八月の山崩・洪水について、『宋書』五行志五に載せる劉向の説に、「天戒若曰,君道崩壞,百姓將失其所也」とある。『宋書』では、山崩・洪水に関連づけ、孫権の薨去の予兆とする。しかし許嵩は、魯王孫覇の死と関連づけ、劉向説の指す範囲を、孫権の薨去ではなく、孫覇の死亡こそが、山崩・洪水に対応するとする。
大将軍の陸遜・太子太傅の呉粲が極諫したのに……というのは、呉主伝・孫覇伝に、そのまま見えるわけではない。許嵩なりに、歴史を説明している。

校勘記によると、「吾粲」を「呉粲」に修正したと。

呉粲は、まだ死んでいないが、ここで呉粲伝が始まる。巻五十七 呉粲伝によると、「遜、時駐武昌、連表諫争。由此、為霸竺等所譖害、下獄誅」とある。死亡した年は分からないが、孫覇の問題でこじれて獄死した。ここに置かざるを得ない。

◆呉粲伝(吾粲伝)

粲字孔休、呉郡烏程人也。生数歳、孤城嫗見之、謂其母曰、「此児卿相骨也」。少孤賎、為県小吏。県令孫河奇之。及河為将軍、表粲為曲阿丞、治有声。丞相孫劭知之、挙為主簿、累拝会稽太守、徴入為太傅。
粲性忠亮抗直、見魯王太盛、上表切諫嫡庶不分、非有国之宜。魯王怒、因譖於帝。帝怒、収禁下獄死。嗚呼、以正喪身、悲夫。

冒頭の「孤城の嫗」は、呉粲伝 注引『呉録』より。孫河とのからみは、呉粲伝にある。吾粲が丞相孫邵の主簿になったことは、吾粲伝に見えない。そのつぎの会稽太守になったことは、吾粲伝に見え、あいだを空けて、「入為屯騎校尉、少府、遷太子太傅」とある。『建康実録』が「太傅」に作るのは、正確には太子太傅である。
吾粲のキャラが「粲性忠亮直」であることは、許嵩による説明。吾粲伝には、そのままの表現はない。

吾粲伝:遭二宮之変、言執正、明嫡庶之分。欲使魯王霸、出駐夏口、遣楊竺、不得令在都邑。又、数以消息語陸遜、遜、時駐武昌、連表諫争。由此、為霸竺等所譖害、下獄誅。

嫡庶のことを明らかにしたのは、文が異なるが、『建康実録』が吾粲伝に基づいている。吾粲が孫覇を怒らせ、孫覇から孫権にちくられ、獄死したことは、吾粲伝とニュアンスがちがう。いちおう吾粲伝に「孫覇・楊竺らの譖害する所となる」とあり、結末は同じであるが、孫覇が孫権に讒言したことは、『建康実録』のみに見える。許嵩は、「嗚呼、正を以て身を喪ふ、悲しき夫」という。悲劇性を強調するために、エピソードを追加した疑いがある。

冬十月、全公主魯班与太子母王夫人有隙、数讒太子。帝乃幽閑和於省内。

『建康実録』によると、十月、孫魯班と王夫人が対立して、しばしば太子を讒言したので、孫権は孫和を閉じこめた。驃騎将軍・丞相の朱拠は、太子を擁護した。
まず呉主伝に、孫和が幽閉されたのが、赤烏十三年十月という情報がない。

孫和伝に、「是後、王夫人与全公主有隙。権嘗寝疾。和、祠祭於廟、和妃叔父張休、居近廟、邀和過所居。全公主、使人覘視、因言、太子不在廟中、専就妃家、計議。又言、王夫人、見上寝疾、有喜色。権、由是発怒。……後、遂幽閉和。於是、驃騎将軍朱拠、尚書僕射屈晃、率諸将吏、泥頭自縛、連日詣闕、請和」とある。王夫人と全公主が対立したことは分かり、孫和が幽閉されたことも分かるが、時期が分からない。これは、こだわってみる価値がありそう。

孫和の幽閉に、朱拠が反論する。

驃騎将軍・丞相朱拠進曰、「臣聞、太子国之本根、立性仁孝、天下帰心。今卒責之、将有一朝之患」。帝終不受諫、固執廃之。拠擁太子拒諫、万死不退。

朱拠の言葉は、朱拠伝 注引『通語』である。

朱拠伝:赤烏九年、遷驃騎将軍。遭二宮搆争。拠、擁護太子、言則懇至、義形于色、守之以死〔一〕。遂、左遷新都郡丞。未到、中書令孫弘、譖潤拠。因権寝疾、弘為詔書、追賜死、時年五十七。
〔一〕殷基通語載拠争曰「臣聞、太子国之本根、雅性仁孝、天下帰心、今卒責之、将有一朝之慮。昔晋献用驪姫而申生不存、漢武信江充而戻太子寃死。臣窃懼太子不堪其憂、雖立思子之宮、無所復及矣。」

『建康実録』の「万死不退」みたいなドラマチックな表現は、許嵩が、気持ちよくなって書いた文であろう。

大臣泥首再拝、而尚書屈晃復進諫曰、「太子仁明、顕聞四海。今三方鼎時、不宜揺動太子、以生衆心。願陛下少垂聖恩、老臣雖死之日、猶生之年」。因叩頭流血、詞気不撓

屈晃のことは、孫和伝本文に「後、遂幽閉和。於是、驃騎将軍朱拠、尚書僕射屈晃、率諸将吏、泥頭自縛、連日詣闕、請和」とあり、「泥首再拝」と「泥頭自縛」が通じると思われる。
『建康実録』が載せる彼らの言葉は、孫和伝 注引『呉歴』である。

呉歴曰、晃入、口諫曰「太子仁明、顕聞四海。今三方鼎跱、実不宜搖動太子、以生衆心。願陛下少垂聖慮、老臣雖死、猶生之年。」叩頭流血、辞気不撓。権不納晃言、斥還田里。


帝登白爵観、見其言切、悪之、敕晃等曰、「無事何忽忽」。遂斥還郷里。無難督陳正与五営督陳象等見帝廃太子、乃進諫云、「昔晋献公殺申生、立奚斉、晋国擾乱、三代不止」。

孫権が白爵観に登って…、というのは、さっきの孫和伝の直後に、「権登白爵観、見、甚悪之。敕拠晃等、無事忩忩。権、欲廃和立亮。無難督陳正、五営督陳象、上書称引、晋献公殺申生、立奚斉、晋国擾乱。又拠晃、固諫不止。権大怒、族誅正象。拠晃、牽入殿杖一百〔二〕。竟徙和、於故鄣。羣司坐諫誅放者、十数。衆咸寃之〔三〕」とある。
無難督の陳正・五営督の陳象も、孫和伝に見えている。晋献公のことを引くのも、孫和伝と同じだが、『建康実録』にある「晋国擾乱」のあとに、「三代不止」は許嵩のオリジナル。

帝大怒「蒙」等、乃左遷朱拠為「宜都丞」・中書令孫弘素悪拠耿直、潜以偽詔、賜死。竟廃太子和為庶人、遷於故鄣、賜「魯霸」死。大臣坐諫者十餘人。
校勘記: 「蒙」疑當作「象」,《吳志·孫和傳》《通鑒》卷七十五亦可証。
校勘記:「宜都丞」,《吳志·朱據傳》《通鑒》卷七十五並作「新都郡丞」。
魯霸 周抄本眉批云:「『魯霸』應作『魯王霸』,落一『王』字。」周說是,《吳志·孫權傳》《孫霸傳》可証。

孫権は、蒙(正しくは陳象)らに怒り、朱拠を宜都丞(正しくは新都郡丞)に左遷した。中書令の孫弘ににくまれ、朱拠が偽詔によって死んだのは、朱拠伝にある。

朱拠伝:中書令孫弘、譖潤拠。因権寝疾、弘為詔書、追賜死、時年五十七。

そんさが故鄣に移されたのは、孫和伝に見える。

孫和伝:権大怒、族誅正象。拠晃、牽入殿杖一百〔二〕。竟徙和、於故鄣。羣司坐諫誅放者、十数。衆咸寃之〔三〕。

孫権が怒った対象が、「蒙」でなく、「象」と疑われる理由は、この孫和伝の「権大怒」を、許嵩が節略したと思われるため。

◆朱拠伝

朱拠字子範、呉郡人。少有姿貌、膂力絶人、善論難、才兼文武、累至建義校尉。黄龍初、帝将都建業、召入尚主、拝駙馬都尉、遷左将軍、封雲陽侯、領丞相。年五十七、見殺。

朱拠が建義校尉になったのは、朱拠伝。朱拠伝によると、「黄龍元年権、遷都建業、徴拠、尚公主、拝左将軍、封雲陽侯」とあるが、駙馬都尉とはここに書いてない。黄龍元年(=黄龍初)、朱拠伝では、いっきに左将軍・雲陽侯となっている。駙馬都尉は、衍字ではなかろうか。宗室と婚姻したら、駙馬都尉になるよねという思い込み。
享年五十七というのは、朱拠伝に同じ。

十一月、立子亮為皇太子。是月、遣軍十万、作堂邑涂塘以淹北道。十二月、有神人授書、告改年、立后。帝大赦、改明年為太元元年。
校勘記:帝大赦改明年為太元元年 據《吳志·孫權傳》改元在次年五月。

十月、呉主伝には、魏将の文欽の話があるが、省かれる。

呉主伝:冬十月魏将文欽、偽叛以誘朱異。権、遣呂拠、就異、以迎欽。異等持重、欽不敢進。

十一月に孫亮を皇太子とし、十万で堂邑涂塘を作ったことは、呉主伝に同じ。
十二月、呉主伝には、魏将の王昶・王基との戦いがあるが、これも省かれる。魏軍との戦いは、とことん扱いが軽い。

十二月魏大将軍王昶、囲南郡、荊州刺史王基、攻西陵。遣将軍戴烈、陸凱、往拒之、皆引還〔四〕。


呉主伝によると、是歳、神人授書、告以改年、立后」と、月を限定せず、神人が出現する。これを『建康実録』は、十二月と特定する。またもや、月の情報が多いパターン。立后は、呉主伝と同じ。
他方、校勘記は、呉主伝によると、翌年五月に「太元」改元したとするという。『建康実録』では、十二月の神人・立后・改元を、まとめて十二月に置いてしまう。呉主伝の年末の「是歳、神人授書、告以改年、立后」に連ねて、関係ある記述を、まとめて置いたためだろう。

臨海羅陽県又有神、自称王表、周旋人間、言語飲食、与人無異、而不見其形。有一婢、名紡績、常随侍。帝聞之、使中書郎「李崇」齎輔国将軍羅陽王印綬、往迎之。神至建業、勅於蒼龍門外立第宅、所経山川之神、輒使与神相聞、言吉凶水旱、往往有験。帝之納邪拒諫近之矣。
校勘記:李崇 原作「季崇」。陶札云:「『季』乃『李』之訛。」陶說是,《吳志·程秉傳》作「徵崇」,下注引《吳錄》云:「崇字子和,治《易》《春秋左氏傳》,兼善內術。本姓李,遭亂更姓。」《孫琳傳》正作「李崇』,今據改。

臨海郡の羅陽県の「神」である王表は、呉主伝 太元元年に見える。しかし、太元元年のなかに「初」として挿入されるエピソードであるから、「太元元年五月よりも前」としか、分からない。『建康実録』のように、前年十二月に置く理由にはならない。

呉主伝:太元元年夏五月、立皇后潘氏、大赦、改年。初、臨海羅陽県有神、自称王表。周旋民間、語言飲食与人無異、然不見其形。又有一婢、名紡績。是月、遣中書郎李崇、齎輔国将軍羅陽王印綬、迎表。表、随崇俱出。与崇及所在郡守令長談論、崇等無以易。所歴山川、輒遣婢、与其神相聞。秋七月、崇与表至。権、於蒼龍門外為立第舍、数使近臣、齎酒食往。表、説水旱小事、往往有験〔二〕。

呉主伝 太元元年(『建康実録』の翌年)から、充分な情報を得ることができる。呉主伝の「初」の字に依拠して、許嵩が、前年に繋年したようである。ネタなし。170701

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太元元年~二年

太元元年

五月、立皇后潘氏。八月朔、大風、江海溢、平地水一丈。
校勘記:五月立皇后潘氏 「五月」原作「五年」,據周抄本、劉抄本及《吳志·孫權傳》《通鑒》卷七十五改。
校勘記:平地水一丈 「一丈」,《吳志·孫權傳》《晉書?五行志下》《宋書?五行志五》皆作「八尺」。

五月、潘皇后を立てたのは、呉主伝に同じ。もとは「五年」に作ったそうだが、校勘によって改めてもらった。ありがとうございます。
呉主伝は、秋七月、李崇・王表が孫権のもとに来るとあるが、これは『建康実録』は、前年に記事を消化してしまった。つぎに呉主伝は、「秋八月朔、大風、江海涌溢、平地深八尺」とある。『建康実録』は、大風の記事が対応するが、「八尺」を「一寸」に改める。校勘記によると、『宋書』五行志五も「八尺」に作るそうなので、許嵩が独自に書き換えたと思われる。

『宋書』巻三十四 五行志五:吳孫權太元元年八月朔,大風,江海涌溢,平地水深八尺,拔高陵樹二株,石碑磋動,吳城兩門飛落。按華覈對,役繁賦重,區瞀不叡之罰也。明年,權薨。
『晋書』巻二十九 五行志下:吳孫權太元元年八月朔,大風,江海涌溢,平地水深八尺,拔高陵樹二千株,石碑蹉動,吳城兩門 飛落。案華覈對,役繁賦重,區霿不容之罰也。明年,權薨。『晋書』校勘に、「吳志孫權傳「兩門」作「南門」。御覽八七六引本志「飛落」上有「瓦」字。」とある。


右将軍呂拠取大船以備官内、帝聞之喜。是月、風抜高樹三千餘株、石碑磋動「呉城両門」、瓦飛落。華覈以為役繁賦重、区務不容之効也。因條奏之、帝曾不省。
校勘記:吳城兩門瓦飛落 《晉書 五行志下》《宋書 五行志五》同。《吳志·孫權傳》「吳城兩門」作「郡城南門」。

『建康実録』は、右将軍の呂拠が、大船を取って官内に備えたとあるが、呉主伝に見えない。すぐ上に引いた『宋書』五行志五も、大風のあと、高陵の樹と、呉城の両門の話にすぐ繋がっている。つまり、呂拠の大船は、呉主伝・『宋書』五行志五・『晋書』五行志下に見えず、許嵩が独自に挿入したものである。

この月、風が高〔陵〕の樹を抜いて、石碑が動いた。『建康実録』は「陵」字がないが、補うべきであろう。
呉主伝によると、「郡城南門」の瓦が飛び落ちた。『建康実録』・『宋書』五行志五・『晋書』五行志下によると、「呉城南門」の瓦が飛び落ちた。つまり許嵩は、呉主伝の「郡城南門」を見つつも、『宋書』か『晋書』も同時に見て、『宋書』か『晋書』を採用したのである。ただし、『三国志集解』呉主伝は「郡城」とは呉郡城のことだと言っており、指す所は同じである。

呉主伝:呉高陵、松柏斯抜、郡城南門飛落。

この風に基づき、華覈が役賦が重すぎると言ったのは、呉主伝になく、『晋書』『宋書』である。『三国志集解』呉主伝は、これを華覈と結びつけていない。巻六十五 華覈伝は、エピソードが「蜀為魏所并」と、蜀の滅亡から始まっており、『三国志集解』呉主伝と同じく、このときの華覈の事績を伝えない。

冬十一月、幸曲阿、祭高陵、大赦。還、風疾、駅徵大将軍恪為太傅。詔省揺役。
校勘記:幸曲阿、祭高陵、大赦、還風疾、陶札云:「據《吳志》權祭南郊還,寢疾。未往曲阿,《實錄》恐誤。」

十一月、曲阿にゆき、高陵を祭り、大赦した。校勘記によると、『呉志』孫権伝に、孫権は南郊して還ったとあり、曲阿に行ったとする『建康実録』は誤りであろうと。

呉主伝:冬十一月大赦。権、祭南郊還、寝疾〔三〕。十二月駅徴大将軍恪、拝為太子太傅。詔、省徭役、減征賦、除民所患苦。

還ってきて風疾をわずらったのは、呉主伝と同じ。呉主伝は、十二月に諸葛恪を徴すが、『建康実録』は「十二月」がモレている。月を網羅的に記載し、呉主伝よりも情報が多いのが『建康実録』かと思いきや、呉主伝の月の記載を漏らすとは、ワケが分からない。
傜役を省いたのは、呉主伝に同じ。

太元二年

二年春正月、帝臥疾、悟和無罪、欲徵還、孫弘等固諫、事不再、乃止。封為南陽王、居長沙。子奮為斉王、居武昌、子休為琅邪王、居虎林。

太元二年正月、孫権が病に臥せ、孫和の無罪を悟った。孫権は、孫和を徴し還そうとし、孫弘らに諫められた。
孫和伝 注引『呉書』に、「呉書曰、権寝疾、意頗感寤、欲徴和還立之、全公主及孫峻、孫弘等固争之、乃止」とある。「無罪を悟った」は、許嵩による『呉書』のアレンジで、元ネタは「意頗感寤」あたり。孫弘のほかに、全公主・孫峻も諫めたという。
孫和を南陽王にしたのは、呉主伝 太元二年正月にある。つまり、「正月に孫権が孫和の無罪を悟った」のではなく、正月に南陽王にした記事の前段として、孫和伝 注引『呉書』が挿入されたのである。

呉主伝:二年春正月、立故太子和、為南陽王、居長沙。子奮、為斉王、居武昌。子休、為瑯邪王、居虎林。

南陽王・斉王・琅邪王が立てられたのは、呉主伝に同じ。

八月、大赦天下、改元神鳳、皇后潘氏、暴崩於内宮。
校勘記:八月大赦天下改元神鳳元年 陶札云:「案孫權卒於夏四月,何得於八月尚大赦改元。《吳志》改元神鳳在二月,是也。」

呉主伝は、二月に大赦・改元したとあるが、『建康実録』は八月とする。校勘記によると、孫権は四月に死んだから、八月というのは誤り。呉主伝のように、二月にすべきである。
皇后の潘氏がにわかに薨じたのは、呉主伝と、位置・出来事とも同じ。『建康実録』は、にわかに薨じた場所を「内宮」とし、これは呉主伝にない。

呉主伝:二月大赦。改元、為神鳳。皇后潘氏薨。

巻五十 潘夫人伝を見たが、「内宮」の表記はなかった。

◆潘皇后伝

后謹淑、会稽句章人。后自織室召入、得幸。常説夢有似龍頭授己者、己以蔽膝受之、遂生少帝。性陰妬、善容媚、自始及卒、譖害無已。既病、宮人侍疾、不堪労苦、伺其昏臥、共縊殺之、言中悪。尋而事泄、坐誅者六七人。
校勘記:既病宮人侍疾不堪勞苦伺其昏臥共縊殺之 《吳志·妃嬪傳》云:「權不豫,夫人使中書令孫弘呂后專制故事。侍疾疲勞,因以羸疾,諸宮人伺其昏臥,共縊殺之。」陶札云:「案《實錄》謂宮人侍疾,不堪勞苦,誤。蓋由誤解《吳志》之文。」

「后謹淑」は、潘夫人伝にない。織室に入ったこと、「性険、妬容媚」は、潘夫人伝と同じ。校勘記によると、「宮人侍疾、不堪労苦」に作るのは、、『建康実録』の誤り。中書令の孫弘に、前漢の呂后の故事を聞いて、、というのを、許嵩が誤解して要約したとする。独自整理がアダとなったパターン。
潘夫人伝に「後事泄、坐死者六七人」とあり、結末は同じ。

三月、帝疾甚、使有司伝詔、問神人王表請福、表云、「国之将興、聴之於人。国之将亡、聴之於神」。
校勘記:表云國之將興聽之於人國之將亡聽之於神 據《吳志·孫權傳》「國之將興」四句為孫盛語,《實錄》以此語屬王表,當誤。又「人」,《吳志》作「民」,蓋許嵩避唐諱改。

『建康実録』によると、三月に王表に詔で問うが、呉主伝にない。二月の記事のあとに、「諸将吏、数詣王表、請福。表、亡去」とあるだけ。

呉主伝:二月大赦。改元、為神鳳。皇后潘氏薨。諸将吏、数詣王表、請福。表、亡去。夏四月、権薨。
『建康実録』の年月は、矛盾がないように、なんとなく捻出しているのか。この場合、二月と四月の記事のあいだにあるから、「三月」と書いたのだろうか。

『建康実録』は、王表のセリフとして、「国のまさに興らんとするや」というが、校勘記の指摘するように、これは、裴松之注の孫盛の言葉である。王表のセリフとして繋ぐのは、誤りである。

呉主伝 裴松之注:孫盛曰、盛聞国将興、聴於民。国将亡、聴於神。権年老志衰、讒臣在側、廃適立庶、以妾為妻、可謂多涼徳矣。而偽設符命、求福妖邪、将亡之兆、不亦顕乎。


夏四月乙未、帝崩於内殿、遺詔太子太傅諸葛恪与太常滕胤・衛将軍孫峻等輔太于亮。秋七月、葬蒋陵、今県東北十五里、鍾山之陽。
校勘記:衛將軍孫峻 「孫峻」各本皆誤作「孫信」,今據《吳志·孫峻傳》及《通鑒》卷七十五改。

孫権が死んだのが「四月」までは、呉主伝と同じ。しかし、「乙未」までいうのは、『建康実録』だけ。『三国志』の外部から、なにか情報を得ていたと、思いたくなる。
諸葛恪・滕胤・孫峻(もとは孫信であったが、呉主伝によって改める)に孫亮の輔佐を命じた。孫亮伝 太元元年に、「冬、権寝疾、徴大将軍諸葛恪為太子太傅、会稽太守滕胤為太常、並受詔輔太子」とある。太元元年冬、諸葛恪を太傅、滕胤を太常にしたから、太元二年夏四月の時点で、その官職として登場させるのは正しい。
巻六十四 孫峻伝に「権臨薨、受遺輔政、領武衛将軍、故典宿衛、封都郷侯」とあるから、「孫信」を「孫峻」に改めるとする、校勘記の説は、だいたい正しかろう。ただし、「衛将軍」でなく「武衛将軍」だから、官名が一致しない。

七月、蒋陵に葬られたことは、呉主伝に同じ。場所が「今県東北十五里、鍾山之陽」とあるのは、許嵩のオリジナリティ。

◆孫権伝

案、帝四十即呉王位、七年、四十七即帝位、二十四年、年七十一崩。羣臣上謚為大皇帝、廟曰太祖。

孫権は、四十歳で呉王の位につき、七年後、四十七歳で皇帝の位につき、二十四年後、七十一歳で崩じた。この年数カウントは、許嵩による独自のまとめ。黄初二(221)年に、曹丕に封建されたときを、呉王即位と考えている。この部分では、呉主伝に合う。
しかし、孫権が皇帝になった黄龍元(229)年は、その八年後である。年数がズレている。『三国志集解』呉主伝は、黄龍元年を、「魏の太和三年、蜀の建興七年、孫権の年は四十八歳」とする。ズレていることだけを指摘しておきましょう。
孫亮伝 太平元年 注引『呉歴』に、「正月、為権立廟、称太祖廟」とある。太祖の廟号がつくのは、まだ先である。

屈身忍辱、任才尚計、有勾践之奇英。故剋跨江表、成鼎峙之業。然多嫌忌、果於殺戮。末年滋甚。信用讒説、竟廃嫡嗣。

孫権の人物評は、陳寿の「評」に基づく。

孫権、屈身忍辱、任才尚計、有句践之奇英、人之傑矣。故、能自擅江表成鼎峙之業。然、性多嫌忌、果於殺戮、暨臻末年、弥以滋甚。至于讒説殄行、胤嗣廃斃。豈所謂貽厥孫謀以燕翼子者哉。其後、葉陵遅、遂致覆国、未必不由此也。


初、桓王定江東、遺修貢於漢、漢使劉琬加錫命。琬至江東、見桓王諸兄弟、顧謂人曰、「孫氏諸子、皆俊傑。然寿並不長。惟中子孝廉権、当有大貴之相、骨体非人臣也。寿又最長、君試記之」。後果、成帝業。何見知之明也。

劉琬のエピソードは、呉主伝の冒頭が出典。

呉主伝:漢以策遠脩職貢、遣使者劉琬、加錫命。琬語人曰「吾観、孫氏兄弟、雖各才秀明達、然皆禄祚不終。惟中弟孝廉、形貌奇偉、骨体不恒、有大貴之表、年又最寿。爾、試識之。」

『建康実録』は、どうだ、劉琬の言うとおりになっただろう、という締めくくりをするが、これは、許嵩による言葉だろう。呉主伝に、そこまでは文がない。170702

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廃帝孫亮 建興元年~五鳳二年

建興元年

廃帝亮、字子明、大帝少子。母潘皇后。赤烏七年、生於内殿。十三年、年七歳。冬十一月、立為皇太子。

孫亮が赤烏七年に生まれたというのは、孫亮伝にない。16歳で廃位されたとあるのみ。逆算すると、赤烏六年に生まれたのが正しく、1年ズレる。つまり、もっぱら黄武・黄龍から、呉の年号をもっぱら使うようになった後、誤りが目立たなくなったが、ズレの問題は解消されていない。
『建康実録』は、赤烏十三年に七歳であったとするが、八歳が正しい。
呉主伝は、「赤烏十三年、和廃、権遂立亮為太子、以全氏為妃」としており、『建康実録』は「十一月」を足している。

神鳳元年、夏四月乙未、大帝崩。丁未、太子即皇帝位、以太傅諸葛恪輔政、太常滕胤副焉、進羣臣爵有差。
校勘記:丁酉太子郎皇帝位 「丁酉」原作「丁未」。四月庚午朔、無丁未、《呉志·諸葛恪傳》云「皇太子以丁酉踐尊號」、丁酉為四月二十八日、此「丁末」当是「丁酉」之称、今拠改。

孫権が死んだのを、『建康実録』は、一貫して「四月乙未」とする。諸葛恪伝に、「今月十六日乙未、大行皇帝、委棄万国、羣下大小、莫不傷悼」とあるが、これが四月乙未=十六日なのか、チェックが必要。
孫亮の皇帝即位を、『建康実録』は「丁未」に作る。『三国志』孫亮伝は、日付の記載がない。校勘記によると、この年の四月は庚午朔なので、丁未が月内にあるはずがないと。『三国志』諸葛恪伝に、「皇太子、以丁酉、践尊号」とあるから、四月丁未でなく、四月丁酉が正しく、改めるべきとする。

孫亮伝は、「閏月、以恪為帝太傅、胤為衛将軍領尚書事、上大将軍呂岱為大司馬。諸文武在位、皆進爵班賞、宂官加等」と、皇帝即位に伴う重臣の昇進があるが、『建康実録』はガン無視。

秋九月、桃李花開、此舒緩之応也。

孫亮即位に伴う高官の任命をはぶいても、『晋書』五行志から、桃李の花が咲いたことが引かれる。これは、孫権は賦役を重くしたが、諸葛恪が軽くしたためという。

『晋書』巻二十八 五行志中に、「吳孫亮建興元年九月,桃李華。孫權世政煩賦重,人彫於役。是時諸葛恪始輔政,息校官,原逋責,除關梁,崇寬厚,此舒緩之応也。一說 桃李 寒華為草妖,或屬華孼」とある。


初、大帝黄龍二年、築東興堤、以遏湖水。後征淮南、敗、由是廃至此。冬十月、諸葛恪率諸軍会於東興、作大堤、左右結山、挟築両城、各留千人、使全端・留略守之、引軍而帰。

『建康実録』は、「初」と遡るが、これは、『三国志』斉王芳紀 嘉平四年から取材している。つぎの諸葛恪の東興での戦いに先立ち、状況を説明している。

漢晋春秋曰、初、孫権築東興隄、以遏巣湖。後征淮南、壊不復修。是歳諸葛恪帥軍更于隄左右結山、挟築両城、使全端、留略守之、引軍而還。諸葛誕言於司馬景王曰「致人而不致於人者、此之謂也。今因其内侵、使文舒逼江陵、仲恭向武昌、以羈呉之上流、然後簡精卒攻両城、比救至、可大獲也。」景王従之。

孫亮伝に、「是歳、於魏嘉平四年也」とあるから、斉王芳紀と孫亮伝の同年の記事を、許嵩が見比べていることが分かる。そういうことはできるのか。
出典『漢晋春秋』で「壊れて復た修めず」とあるのは、「廃して此に至る」を言い換えたもの。しかし、『漢晋春秋』からだと、『建康実録』の「黄龍二年」という情報が出て来ない。呉主伝 黄龍二年には、そのような記述がない。正解は、諸葛恪伝のなかに、「黄龍元年、遷都建業、二年築東興隄、遏湖水」と言及がある。諸葛恪伝のなかの上表などを、地の文に置き直していくということも、やっている。

十月に諸葛恪が東興に向かったことは、孫亮伝に「冬十月太傅恪率軍、遏巣湖、城東興。使将軍全端守西城、都尉留略守東城」とある。全端・留略をここに置いたことは、孫亮伝から分かる。しかし、『建康実録』の「左右結城」というのは、上の斉王芳紀 注引『漢晋春秋』に取材している。

十二月丙申、大風雷雹。魏呉入境築城、乃遣大将胡遵・諸葛誕等率衆七万来攻、壊堤遏。恪挙衆四万往救之。遵等勅諸軍為浮橋渡、陣於堤上、分攻両城。城所在高峻、不可卒抜。恪遣将軍留賛・呂拠・唐資・丁奉等為前部、恪目継之。
校勘記:唐咨 原作「唐資」、今拠宋本、庫本、張本、徐鈔本、周鈔本、劉鈔本及《魏志》本傳、《通鑒》七五改正。

大風雷電の日付は、孫亮伝に一致する。魏が、呉が入境して築城したことに恥じ…、という状況説明は、孫亮伝に見えない。「恥」字は、諸葛恪伝が出典。

孫亮伝:十二月朔丙申、大風雷電、魏使将軍諸葛誕、胡遵等、歩騎七万、囲東興。将軍王昶攻南郡、毌丘倹向武昌。甲寅、恪以大兵、赴敵。戊午、兵及東興、交戦、大破魏軍、殺将軍韓綜、桓嘉等。

魏軍七万であることは、孫亮伝から分かる。諸葛恪が四万であることは、諸葛恪伝。

諸葛恪伝:恪以、建興元年十月、会衆於東興、更作大隄、左右結山、侠築両城、各留千人。使全端、留略、守之、引軍而還。魏、以呉軍入其疆土、於受侮、命大将胡遵、諸葛誕等、率衆七万、欲攻囲両塢、図壊隄遏。恪、興軍四万、晨夜赴救。遵等、敕其諸軍、作浮橋度、陳於隄上、分兵攻両城。城在高峻、不可卒抜。恪、遣将軍、留賛、呂拠、唐咨、丁奉、為前部。

留賛・呂拠・唐咨・丁奉を前部としたことは、諸葛恪伝による。

時天寒、雪、魏軍会飲、見賛等兵少、猶不持戈戟、但兜鍪刀楯、倮身縁堤、大笑、不即厳兵。賛等得上、便鼓噪乱斬、魏軍擾乱散走、争渡浮橋、橋壊、自投於水、更相蹈籍、没死者数万。擒故叛将韓綜、斬之、走諸葛誕。獲車馬驢騾各数千、器械資糧山積、振旅而帰。加恪都督中外諸軍事、荊・揚二州牧・丞相、陽都侯。

戦いの経過も、諸葛恪伝による。

諸葛恪伝:時天寒雪、魏諸将会飲、見賛等兵少、而解置鎧甲、不持矛戟、但兜鍪刀楯、倮身縁遏、大笑之、不即厳兵。兵得上、便鼓譟乱斫。魏軍、驚擾散走、争渡浮橋、橋壊絶、自投於水、更相蹈藉、楽安太守桓嘉等同時并没、死者数万。故叛将韓綜、為魏前軍督、亦斬之。獲車乗牛馬驢騾各数千、資器山積、振旅而帰。進封恪陽都侯、加荊揚州牧、督中外諸軍事、賜金一百斤、馬二百匹、繒布各万匹。恪、遂有軽敵之心。以十二月戦克、明年春、復欲出軍〔一〕。諸大臣以為、数出罷労、同辞諫恪、恪不聴。中散大夫蒋延、或以固争、扶出。

諸葛恪が、都督中外諸軍事、荊・揚州牧、陽都侯となったことも、諸葛恪伝でカバーできる。『建康実録』は、諸葛恪を丞相とするが、正しくは太傅。さっき、孫亮伝の閏月の記事(諸葛恪を太傅とする)を飛ばすから、許嵩は誤るのである。

恪有遷都意、更起武昌宮。

戦勝した諸葛恪が、遷都の気持ちがあったとする。諸葛恪伝は、ここに繋げては記されない。こんどは孫亮伝の、この年の末尾に裴松之注に、「呉録云。諸葛恪有遷都意、更起武昌宮。今所災者恪所新作」とある。許嵩は、建康にまつわるエピソードだから、モレなく拾って、遷都のことを載せた。

是月、武昌端門災、改作端門。

孫亮伝に、「是月、雷雨天災武昌端門。改作端門、又災内殿」とあり、その節略である。
くり返すと、孫亮伝の建興元年の十二月に、「是月、雷雨天災武昌端門。改作端門、又災内殿」とあり、武昌瑞門が落雷で消失した。再建しても、焼けた。そこに裴松之注があり、かつて孫権が、赤烏十年に武昌の瓦材をうつして、建康宮を作った。同注引『呉録』によると、諸葛恪は(武昌に)遷都したいので、(建康に建材を持ち去られた)武昌を再建した。その武昌で、また焼けたと。

建興二年

建興元年春正月、大赦、改元、立皇后全尚女、太祖女魯斑所生。斑譖廃太子和、而勧太祖立亮、以女為妃。及即位、立為后。
校勘記:建興元年春正月大赦改元立皇后 陶札云:「案孫亮於神鳳元年夏四月即位,即改元建興,並未逾年,立皇后乃建興二年春正月事。《実録》誤。」陶説是,《呉志·孫亮傳》云:「二年春正月丙寅,立皇后全氏,大赦。」

『建康実録』は建興元年とするが、建興二年の誤り。校勘記の言うように、孫権崩御=孫亮即位は、神鳳元年=建康元年の年内のできごとであり、ここは建興二年に作るべきである。
大赦・立后は、孫亮伝では、建興二年正月丙寅。しかし『建康実録』は、日付がない。許嵩は、日付を充実させたいのか、こだわらないのか、不明である。
立后の経緯を許嵩が記すが、巻五十 全夫人伝に「及潘夫人母子有寵、全主自以与孫和母有隙、乃勧権為潘氏男亮納夫人。亮遂為嗣。夫人立為皇后」とあり、これのアレンジだろう。

◆全尚伝

全尚字子真、呉郡銭塘人。以后父故、累遷右衛将軍・録尚書事、封永平侯。時全氏為侯者五人、並典兵馬、其為侍郎・都尉、左右宿衛甚衆、自呉興已来、外戚之盛莫過也。
校勘記:吳郡錢塘人 「吳郡」原作「吳都」,拠徐鈔本及《吳志·全琮傳》改正。

『建康実録』は、全尚が「右衛将軍」になったとするが、全夫人伝では「太常・衛将軍」である。永平侯は正しい。全氏5名が侯となり、その他も侍郎・都尉になったとあるが、全夫人伝では「侍郎・騎都尉」である。官職がデタラメである。

本紀的な記事にもどり。孫亮伝に、建興二年正月の続きとして、「庚午、王昶等皆退。二月軍還自東興、大行封賞」とある。王昶の撤退と、諸葛恪軍の東興からの帰還があるが、『建康実録』は省いている。
つぎに孫亮伝は、「三月恪率軍伐魏。夏四月囲新城」とあり、諸葛恪の第二次北伐を記す。これは、『建康実録』が載せている。しかし、単純に事実を引くのでなく、『漢晋春秋』で肉付けしている。

三月、諸葛恪伐魏、使司馬李衡、往蜀説姜維、令同挙兵曰、「古人有言、聖人不能時、時至亦不可失。今敵国政在私門、上下猜隔、兵挫於外、民怨於内。今若大挙伐之、呉攻其東、入其西、彼救西則東虚、重東則西軽、以練実之軍、乗軽虚之敵、破之必矣」。維然之。
校勘記:聖人不能為時 「為」原作「違」。陶札云:「《吳志·諸葛恪傳》注《漢晋春秋》『違』作『為』,聖人不能為時,謂時機之來,雖聖人亦不能致也。《漢晋春秋》為是。」陶說是,今宋本、周鈔本、劉鈔本正作「為」,拠改。
校勘記:吳攻其東蜀入其西 陶札云:「《吳志·諸葛恪傳》注《漢晋春秋》『蜀』作『漢』,是也。」

三月、諸葛恪が伐魏した。司馬の李衡が、蜀にいって同時作戦を説く。

諸葛恪伝 注引『漢晋春秋』:漢晋春秋曰、恪使司馬李衡往蜀説姜維、令同挙、曰「古人有言、聖人不能為時、時至亦不可失也。今敵政在私門、外内猜隔、兵挫於外、而民怨於内、自曹操以来、彼之亡形未有如今者也。若大挙伐之、使呉攻其東、漢入其西、彼救西則東虚、重東則西軽、以練実之軍、乗虚軽之敵、破之必矣。」維従之。

諸葛恪伝に従うまでもなく、「聖人は時を違う」という成語? を、変更してはいけない。「蜀」と「漢」の国名は、記述者の立場によるので、気分次第ですね。

恪遂大挙郡邑二十万衆渡江、囲魏新城、久不抜、民疲、士卒多流亡、乃引軍還、住江浜、欲起屯潯陽。朝廷数詔徵還、使者相属。

孫亮伝の撤退の記事は、「大疫、兵卒死者大半。秋八月恪引軍還」なので、『建康実録』はこれよりも多い。
諸葛恪伝は、第二次北伐の必要性を、諸葛恪が大々的に説いたことや、丹陽太守の聶友の諫止が記される。『建康実録』は、それを省く。諸葛恪伝に、「於是、違衆出軍、大発州郡二十万衆。百姓騷動、始失人心」と「二十万」の出典が見える。諸葛恪が潯陽に屯田して、粘ろうとしたことも、諸葛恪伝の節略である。
『建康実録』は、朝廷がしばしば徴し還したとあるが、これは許嵩による要約。

もしくは、諸葛恪伝を出典とした下の記事で、諸葛恪が中書令の孫嘿に「卿等、何敢妄数作詔」と咎めることから、それに話を繋げるために書いたもの。


秋八月、恪至京師、陳兵入府、召中書令孫嘿、責之曰、「卿何敢妄数作詔」。嘿懼、因病還家。恪愈作威厳、多所罪責、小大吁怨。 九月、又治兵向青・徐、左右切諫軍旅不宜数動、恪不受諫。

八月に諸葛恪が建業に還り、中書令の孫嘿を召して責めたことは、諸葛恪伝に「八月」として書いてある。「九月」、またもや諸葛恪が、青州・徐州に北伐を試みたとする。諸葛恪伝は「九月」がなく、「又、改易宿衛、用其親近。復敕兵厳、欲向青徐」とあるだけ。
諸葛恪伝によると、孫峻は「諸葛恪を殺すしか、第三次北伐を止める手立てがない」と考えて、諸葛恪を殺した。時系列・記述順は合っているけど、これを「九月」と絞りこむ理由がない。次の十月の饗宴が、月初というなら、許嵩の推測が成り立つ。いや、推測ではなく、『三国志』以外のなにかを見たのか。

冬十月、大饗公卿、因会、乃殺恪於殿内、以葦席裹屍、篾束其腰、投于石子崗。時年五十一。先有童謡云、「諸葛恪、何弱弱。蘆単衣、篾鈎絡。何処求。城子閣」。城子閣、反語石子崗也。謡言果験。
校勘記:諸葛恪何弱弱蘆單衣篾鉤絡何處求城子閣 《吳志·諸葛恪傳》無「何弱弱」三字。「蘆」下有「葦」字,「絡」作「落」,「何處求」作「於何相求」,「城」作「成」。《晋書·五行志》中「諸葛恪,何弱弱」作「籲汝恪,何若若」,「蘆」下亦有「葦」字 ,「何處求」亦作「於何相求」,「城」作「常」。

まず、ドライに孫亮伝だけを見ると、「冬十月大饗。武衛将軍孫峻、伏兵殺恪於殿堂。大赦。以峻為丞相、封富春侯」とある。時系列は正しいが、『建康実録』の記述を作るには、もちろん情報不足。

諸葛恪伝:先是、童謡曰「諸葛恪、蘆葦単衣、篾鉤落、於何相求、成子閤」成子閤者、反語、石子岡也。建業南有長陵、名曰石子岡、葬者依焉。鉤落者、校飾革帯、世謂之鉤絡帯。恪、果以葦席裹其身而篾束其腰、投之於此岡〔一〕。
〔一〕呉録曰、恪時年五十一。

諸葛恪伝と同注引『呉録』で、やや情報があつまる。

校勘記のいうように、諸葛恪伝には「何弱弱」の字がないなど、差異がある。

『宋書』巻三十一 五行志二:吳孫亮初,童謠曰:「吁汝恪,何若若,蘆葦單衣篾鈎絡,於何相求成子閣。」成子閣者,反語石子堈也。鈎落,釣帶也。及諸葛恪死,果以葦席裹身,篾束其要,投之石子堈。後聽恪故吏收歛,求之此堈云。 『晋書』巻二十八 五行志中:吳孫亮初,童謠曰:「吁汝恪,何若若,蘆葦單衣篾鉤絡,於何相求常子閣。」「常子閣」者,反語石子堈也。鉤絡,鉤帶也。及諸葛恪死,果以葦席裹身,篾束其要,投之石子堈。後聽恪故吏收斂,求之此堈云。

『宋書』や『晋書』には「何若若」とある。許嵩は、諸葛恪伝だけでなく、『宋書』『晋書』のどちらかを見て、これを書いたことが分かる。ただし、校勘記が指摘するように、こまかな字の異同がある。忠実な引用者とは言いがたい。

◆諸葛恪伝

諸葛恪字元遜、瑾之長子。有才名、少鬚眉、折額、大口高声、発藻岐嶷、辯論機捷、応答無方、時人莫与為対。太祖奇之、謂瑾曰、「藍田出玉真不虚也」。自中庶子為太子賓友、左輔都尉。嘗従太祖会羣臣歓甚、以恪父面長似驢、取驢署曰諸葛瑾、示恪。恪借太祖筆、書「之驢」二字、太祖大笑、以驢賜恪。他日、又従容問曰、「卿父与叔父孰賢」。曰、「臣父為優」。帝問何故、曰、「臣父所事、叔父不知、是以為優」。
校勘記:臣父知所事 「知」下原衍「諛」字,今拠宋本、庫本、徐鈔本、周鈔本、劉鈔本及《吳志·諸葛恪傳》刪。

諸葛恪伝と、同注引『江表伝』に基づく。

初置節度典軍糧、特令恪代徐祥領之、尋為撫越将軍・丹楊太守。父瑾聞之、以丹楊山険、民多果勁、蜂至鳥竄、難以羈統、恪陳必安之計。時年三十二、拝武騎・威儀鼓吹、道引到府。移書丹楊・呉郡・会稽・新都・寿陽等四郡属城長吏、令各保疆、立部伍、其従化人、悉令屯居。而使諸将羅兵阻険、莫与交鋒、候禾稼熟、則縦兵芟刈、使無遺種。旧穀既尽、新田不収、在山之民饑困、自出者、輒不得執之。任其来往、慰撫之。山越大治、人皆安堵。累遷威北将軍、屯柴桑。
校勘記:吳郡會稽新都壽陽等四郡 「壽陽」:《吳志·諸葛恪傳》作「鄱陽」。

諸葛恪伝による。

初、与陸遜不和、嘗善誉遜、遜薨、代為大将軍・荊州牧・仮節、鎮武昌。太元末、受顧命。帝即位、独擅内外事、百官総己、以聴於恪。恪始為政、罷視聴、息校官、原逋債、除関税、崇恩沢、遠近歓悦、毎一出入、百姓延頸、思見其面。既而北伐、衆殆人労。侍中・武衛将軍孫峻等因人不堪、密与帝謀誅之。其夜、恪精爽不安。及明、盥嗽聞水及衣裳血腥。将升車、犬又頻頻引其衣、恪還坐曰、「犬不欲吾行乎」。少間又出、犬複銜衣牽之、恪乃逐犬登車。至宮門、散騎常侍張約・朱思等密書報恪。
校勘記:朱思 《吳志·諸葛恪傳》及注引《吳歷》並作「朱恩」,《通鑒》七六亦同《吳志》。

陸遜との不和は、諸葛恪伝に「恪知遜以此嫌己、故遂広其理而賛其旨也。会遜卒、恪遷大将軍、仮節、駐武昌、代遜領荊州事」とあり、許嵩が置換している。大将軍・仮節・荊州牧として武昌に駐したことも、諸葛恪伝に見える。

恪謂滕胤曰、「孫峻小子、何能為也」。遂入坐定、酒数行、峻起如廁、解長衣持刀出、曰、「有詔収諸葛恪」。恪驚起、抜剣未出而峻刀交下。張約従旁斫峻、傷左手、峻応手斫、断右臂。武衛皆抜刃欲上殿、峻告曰、「所殺唯恪一人、今已死」。悉令複刃、使収其家。家人不知、恪侍婢忽然、於中堂脚自離地、頂上柱屋梁作声云、「公為孫峻所殺」。内外驚擾、中子長水校尉竦与弟歩兵校尉建、車載母、建渡江、竦至白都。峻遣将軍劉永追斬竦、又逐建於江西数里、夷三族。大赦天下。以峻為丞相、大将軍、封富春侯。
初、恪出征南時、有孝子杖縗絰入閣中、侍者白恪、恪詰問之、孝子曰、「向不知所入。中外守備、亦不見之。及出行、後庁棟中折、自新城往来、白虹見其船、又遶其車、果是遇害。

諸葛恪伝はここまで。諸葛恪の最期の神秘的現象について、長々と引いている。
孫亮伝に「冬十月大饗。武衛将軍孫峻、伏兵殺恪於殿堂。大赦。以峻為丞相、封富春侯」とあり、勝利した孫峻が、丞相・富春侯となったことが分かる。『建康実録』は大将軍にもなったとするが、孫峻伝に「既誅諸葛恪、遷丞相大将軍、督中外諸軍事、仮節、進封富春侯」とあるのが反映されている。
孫亮伝だけに依拠せず、列伝からも、網羅的に官職に関する情報を求めるという姿勢は、見てとれる。おおくの場合、失敗・ミスに終わっているが。

十一月、有五大鳥、見於春申、改明年為五鳳元年。

孫亮伝に「十一月、有大鳥五、見于春申。明年改元」とある。同内容。

五鳳元年

春正月、以大将軍左司馬李衡為丹楊太守、自蕪湖又徙治宛陵。秋九月、魏相司馬師廃其主芳為斉王。

孫亮伝と比べると、正月の李衡の記事がまるまる多い。
李衡伝のようなものは、孫休伝 注引『襄陽記』に、「後常為諸葛恪司馬、幹恪府事。恪被誅、求為丹楊太守」とある。(大将軍)諸葛恪の司馬となり、諸葛恪が誅されると丹陽太守になったという。これだけだと、『建康実録』に見える、五鳳元年正月に丹陽太守になったこと、李衡が「左」司馬であったことが、情報として足りない。検索しても、見当たらず。

九月に曹芳が廃されたことは、同年にあたる斉王芳紀に「秋九月大将軍司馬景王、将謀廃帝、以聞皇太后」と確認できる。『呉志』だけでなく、『魏志』を横目に見ながら、編纂したことが分かる。

十二月、星孛於牛斗。交址稗草化為稲、此草妖也。昔三苗亡而五穀変。

五鳳元年、孫亮伝によると、夏に大水があり、秋に孫英が自殺したが、『建康実録』はスルーしている。孫亮伝は、十二月に星孛が「牛斗」にあったが、孫亮伝では十一月に星孛が「斗牛」にあったとある。

五鳳元年夏、大水。秋、呉侯英、謀殺峻、覚、英自殺。冬十一月、星茀于斗牛。同注引『江表伝』:是歳交阯稗草化為稲。

孫亮伝稲のことは、『江表伝』が出典に思われるが、あとの解説「昔三苗亡而五穀変」を見ると、『晋書』が出典と分かる。『宋書』にも同じ現象が記されるが、解説まであるのは『晋書』のほうである。

『晋書』巻二十八 五行志中:吳孫亮五鳳元年六月,交阯稗草化為稻。昔三苗將亡,五穀變種,此草妖也。其後亮廢。


五鳳二年

二年春正月、驃騎将軍呂拠襲寿春、魏将文欽降、淮南餘衆数万来奔。

五鳳二年正月、驃騎将軍の呂拠が寿春を襲い、文欽を降したとある。孫亮伝は、この戦いについて、もっと詳しい。

孫亮伝:二年春正月、魏鎮東大将軍毌丘倹、前将軍文欽、以淮南之衆、西入、戦于楽嘉。閏月壬辰、峻及驃騎将軍呂拠、左将軍留賛、率兵、襲寿春。軍及東興、聞欽等敗。壬寅、兵進于橐皋、欽詣峻降、淮南餘衆数万口来奔。魏諸葛誕、入寿春、峻引軍還。二月、及魏将軍曹珍遇于高亭、交戦、珍敗績。留賛、為誕別将蒋班、所敗于菰陂。賛及将軍孫楞、蒋脩等、皆遇害。三月使鎮南将軍朱異、襲安豊、不克。

孫亮伝は、呂拠だけでなく、孫峻・留賛らも参戦している。孫亮伝は、珍しく日付つきで戦闘を記録するが、『建康実録』は大幅に節略している。

秋七月、孫儀・林恂等謀殺大将軍峻、事覚、伏誅。陽羨黒山石自立、曰、「当有庶人為帝之祥」。案、京房《易傳》曰:石自立於山、則同姓、平地則異姓。干寶以為孫皓承廃得立、或云孫休見立之応。
黑山 《吳志·孫亮傳》《晋書·五行志》中《宋書·五行志》二皆作「離里山」。

七月、孫峻が殺されかけたことは、孫亮伝に収まる範囲の情報のみ。陽羨県で石が自立したことは、孫亮伝に見える。

孫亮伝:秋七月将軍孫儀、張怡、林恂等、謀殺峻、発覚、儀自殺、恂等伏辜。陽羨離里山大石、自立。

しかし、「庶人が帝となる」という解釈は、『宋書』五行志などを見なければならない。五行志を手許において、許嵩が編纂したことが分かる。

『宋書』五行志二:吳孫亮五鳳二年五月,陽羨縣離里山大石自立。按京房易傳曰:「庶士為天子之祥也。」其說曰:「石立於山,同姓。平地,異姓。」干寶以為孫晧承廢故之家得位,其應也。或曰孫休見立之祥也。

京房『易伝』の解釈を引くことも、『宋書』の引き写し。干宝の解釈などを引くのも、やはり『宋書』もしくは『晋書』。『晋書』にも、同等の情報あり。

『晋書』 五行志中:吳孫亮五鳳二年五月,陽羨縣離里山大石自立。案京房易傳曰「庶士為天子之祥也」,其說曰:「石立於山同姓,平地異姓。」干寶以為「孫晧承廢故之家得位,其應也」。或曰孫休見立之祥也。


大旱。使衛尉馮朝城広陵、以将軍呉穰為広陵太守。

大旱は、孫亮伝に「是の歳」のこととして見える。衛尉の馮朝に広陵で城きずかせ、将軍の呉穣を広陵太守にしたことは、孫亮伝に収まる。

孫亮伝:使衛尉馮朝、城広陵。拝将軍呉穰為広陵太守、留略為東海太守。是歳大旱。十二月作太廟。以馮朝、為監軍使者、督徐州諸軍事。民饑、軍士怨畔。

留略を東海太守にしたり、馮朝を督徐州諸軍事にしたり、こういう情報を省いているので、『建康実録』の採録方針は一貫性がない。170703

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廃帝孫亮 太平元年~太平三年

五鳳三年=太平元年

三年春正月、新作太廟、遷太祖神主、大赦、改太平元年。二月、用魏将文欽計、大挙兵伐魏。

五鳳三年=太平元年、『建康実録』は太廟を新作して、孫権の神主を移したという。孫亮伝では、前年十二月、「太廟を作る」とある。太廟を作り始めたのが十二月で、完成したのが翌正月なのか。もしくは、孫亮伝 注引『呉歴』に、正月に太祖廟を作ったとあるから、そのタイミングに記述を統合したか。

孫亮伝:太平元年春〔一〕、二月朔、建業火。峻、用征北大将軍文欽計、将征魏。/〔一〕呉歴曰、正月、為権立廟、称太祖廟。
『三国志集解』孫亮伝に引く何焯の説によると、『呉歴』は「孫鍾のために立廟した」とする。『宋書』によると、孫堅の父は孫鍾である。しかし北宋の諸本はみな「権」字につくる。盧弼によると、孫堅伝に引く『呉録』によると、孫堅を尊んで「始祖」といったと。すでに孫堅を「始祖」としたなら、孫鍾を「太祖」とすることはない。周寿昌によると、『宋書』礼志に、正月、宮東に孫権の廟を立てた。すでに宮南にあったのでないし、また昭穆の序でない。『呉歴』は立廟した時期を、この年=太平元年とするが、『宋書』は孫亮が即位した翌年とする。
『建康実録』は、『呉歴』に基づいて、この年としている。

『建康実録』は、正月に大赦・改元を置くが、孫亮伝はそれがない。しれっと、「太平元年」と書き始めている。改元のことは、孫亮伝で表現できているとして、大赦は、『建康実録』のほうが多い。
二月、文欽の計略を用いて伐魏したことは、孫亮伝に等しい。

八月、遣欽為先鋒、以呂拠・朱異・劉纂・唐咨等、自江都引衆軍入淮泗以継之。諸軍将発、孫峻餞於石頭、因入呂拠営、見軍御整斉、悪之、乃称心痛而帰、遂夢諸葛恪撃之、因病甚、表弟偏将軍綝輔政。九月丁亥、峻薨。

八月、文欽・呂拠・朱異・劉纂・唐咨を使わしたのは、孫亮伝に見える。孫亮伝のほうが、官職の表記があるから、より詳しい。

孫亮伝:八月、先遣欽及驃騎呂拠、車騎劉纂、鎮南朱異、前将軍唐咨、軍自江都、入淮泗

孫亮伝よりも、孫峻伝のほうが、一致度が高そう。

孫峻伝:其明年、文欽説峻征魏。峻、使欽与呂拠、車騎劉纂、鎮南朱異、前将軍唐咨、自江都、入淮泗、以図青徐。峻、与胤、至石頭、因餞之、領従者百許人、入拠営。拠御軍斉整、峻悪之、称心痛去。遂夢、為諸葛恪所撃、恐懼、発病死。時年三十八。以後事、付綝。

孫峻が、石頭で餞し、呂拠の軍営が整然としているので、悪んだとあるのは、孫峻伝である。夢で諸葛恪に殴られて、発病したのも、孫峻伝である。
孫峻の死は、孫亮伝に「九月丁亥、峻卒」とあり、こちらが出典。孫亮伝・孫峻伝を見比べながら、要領を得ているほうの記述を、拾っていく感じ。

◆孫峻伝

孫峻字子遠、武烈皇帝弟静之曾孫。
校勘記:武烈皇帝弟靜之曾孫 「弟」字原缺,「靜」原作「靖」。武烈皇帝,孫堅也,靜乃堅弟,見《吳志·孫靜、孫峻傳》。周鈔本正有「弟」字,據補改。下同。

孫峻の血筋は、校勘記が指摘するとおり。

父恭、位散騎常侍。峻少便弓馬、精果胆決。累遷侍中・武衛将軍、受遺与諸葛恪輔少帝。既誅恪、督中外諸軍事。滕胤以恪子竦妻父辞位、峻曰、「鯀禹、罪不相及、滕侯何為」。封胤為高密侯。
峻性驕矜、多所刑殺、奸乱宮室。与公主魯斑私通、而因孫儀事、用讒、害魯育公主。薨、時年三十八。

孫峻の父の孫恭は、散騎常侍。孫峻伝によると、孫権末に武衛都尉・侍中となり、遺命により武衛将軍に昇格する。諸葛恪が死ぬと、孫峻伝に、「既誅諸葛恪、遷丞相大将軍、督中外諸軍事、仮節、進封富春侯」となる。「鯀禹、罪不相及。滕侯何為」も、まんま孫峻伝。滕胤が高密侯となるのも同じ。

戊子、以孫綝為侍中、輔政。壬辰、太白犯南斗。

戊子に孫綝が侍中になったのは、孫亮伝にない。

孫亮伝:九月丁亥、峻卒。以従弟偏将軍綝、為侍中、武衛将軍、領中外諸軍事。召還拠等。聞綝代峻、大怒。己丑、大司馬呂岱卒。壬辰、太白犯南斗。
孫亮伝は、丁亥に孫峻が死に(『建康実録』で上にあり)、日付なく孫綝が侍中となり、己丑に、大司馬の呂岱が卒し、壬辰に、太白が南斗を犯す。日付が細かく並んでいるのに、孫綝が侍中になり、実質的な権力を握った日がない。
孫綝伝は「綝始為偏将軍、及峻死、為侍中武衛将軍、領中外諸軍事、代知朝政」として、やはり、孫峻が死ぬと、孫綝が継承したことが分かるが、「戊子」の日付はない。

つぎの壬辰の太白は、孫亮伝に見える。

呂拠等至江北、聞綝代峻、大怒、乃表薦衛将軍滕胤為丞相、綝不聴。癸卯、以胤為大司馬、拠又密使使与滕胤謀、自広陵引軍還討孫綝、与胤会蒼龍門。是夜、急、拠不至、綝使華容勒兵攻胤、殺之。
校勘記:華容 《吳志·孫登傳》《孫峻傳》及注引《文士傳》《通鑒》七七皆作「華融」。

「呂拠らは江北にあり」は、孫亮伝に見えないため、許嵩が補ったものか。呂拠が「大いに怒った」のは、孫亮伝である。呂拠らが衛将軍の滕胤を丞相に推したことと、滕胤が大司馬になったのが癸卯であることは、孫亮伝による。

孫亮伝:召還拠等。聞綝代峻、大怒。己丑、大司馬呂岱卒。壬辰、太白犯南斗。拠欽咨等、表薦衛将軍滕胤為丞相。綝、不聴。癸卯、更以胤為大司馬、代呂岱駐武昌。拠、引兵還、欲討綝。綝、遣使以詔書告喻欽咨等、使取拠。

『建康実録』にある、「呂拠はひそかに滕胤と謀って」、「広陵から軍をもどして孫綝を討つ」までは、孫亮伝にない。孫綝伝にも、かすったような記述がある。滕胤伝には、この計略に関する記述はない。

孫綝伝:呂拠、聞之大恐、与諸督将連名、共表薦、滕胤為丞相。綝、更以胤為大司馬、代呂岱駐武昌。拠、引兵還、使人報胤、欲共廃綝。

「蒼龍門」がヒットして、関連がありそうなのは、孫綝伝である。

孫綝伝:胤顔色不変、談笑若常。或勧胤、引兵至蒼龍門、将士見公出、必皆委綝、就公。時夜已半、胤、恃与拠期、又難挙兵向宮。乃約令部典、説、呂侯以在近道。故、皆為胤尽死、無離散者。時、大、比暁、拠不至。綝、兵大会、遂殺胤及将士数十人、夷胤三族。

単純な引き写しではないため、出典がズバッと特定できないた、情報は『三国志』で充分に補える。複数がかかわる事件で、ひとつの列伝では全体像を描けないから、許嵩なりにまとめたのであろう。

校勘記によると、孫登伝・孫峻伝と同注引『文士伝』では、「華融」に作る。

孫綝伝:遣侍中左将軍華融、中書丞丁晏、告胤取拠、并喻胤宜速去意。
このように、いろんな列伝に情報が散っているため、許嵩がまとめたのだ。華融は、孫綝に使役されて、滕胤をつかまえにきた。


◆滕胤伝

滕胤字承嗣。父胄、能属文、太祖待以賓礼、軍国書疏、常令損益潤色之、早録其功、封胤為都亭侯。 胤為人厲行、有威儀、容止可観。毎正朔朝会、大臣見之、皆歎重之。年三十、起家中郎、累遷丹楊太守、尋転会稽太守。毎断獄訟、察言観色、務尽人情理。有窮厄悲苦之言、対之流涕。太元末、与諸葛恪受遺輔少主、恪毎出征、胤常居守、統留後事。胤白日接客、夜省文書、連夜不臥。孫峻輔政、封高密侯、至是遇害。

巻六十四 滕胤伝に、滕胤の父である「権待以賓礼、軍国書疏、常令損益潤色之」とあり、都亭侯も同じ。滕胤が「年三十で起家」するのは、滕胤伝に同じ。滕胤が中郎になったことは、滕胤伝に見えず、丹陽太守になったことは見える。滕胤伝は、呉郡太守・会稽太守に転じるが、『建康実録』は呉郡太守をはぶく。
『建康実録』は、諸葛恪が出征するたび、つねに滕胤が留守したというが、滕胤伝にそこまでのコンビネーションのニュアンスはなく、「以胤為都下督、掌統留事」とあるだけ。「白日接客、夜省文書、連夜不臥」のようなパーソナリティは、滕胤伝にほぼママで見える。
孫峻の輔政期、滕胤が高密侯となったのは、孫峻伝「峻胤、雖内不沾洽、而外相包容。進胤爵高密侯、共事如前」が出典。

己酉、遣将軍施寛、「劉承」等将兵逆呂拠、左右皆勧拠入魏、拠曰、「恥為叛臣」。遂殺於新州、夷三族。呂拠字世議、大司馬範次子。
校勘記:劉承 《吳志·孫亮傳》《孫綝傳》皆作「劉丞」,《通鑒》七七作「承」或作「丞」,殊不統一,胡注云:「劉承,即劉丞。」

「己酉」の日付は、『建康実録』では、施寛・劉承(もしくは劉丞)が、呂拠をむかえて、魏に行くように進めた日。しかし孫亮伝では、十月丁未に、孫憲・丁奉・施寛が、江都で呂拠をむかえ、将軍の劉丞が、滕胤を攻めている。「己酉」は、呂拠を夷滅してから、大赦・改元した日である。
まず『建康実録』は、孫憲・丁奉の関与が見えない。つぎに、施寛・劉丞は、『建康実録』では滕胤に魏への逃亡を説くが、孫亮伝では滕胤を攻撃しただけ。

「叛臣となることを恥じる」は、呂範伝 附呂拠伝にある。

呂拠伝:拠、大怒、引軍還、欲廃綝。綝聞之、使中書奉詔。詔、文欽、劉纂、唐咨等、使取拠。又遣従兄慮、以都下兵、逆拠於江都。左右勧拠、降魏。拠曰「恥為叛臣」遂自殺。夷三族。

呂拠に、魏に降るように勧めたのは「左右」である。文欽・劉纂・唐咨らは、孫綝に使役されて、呂拠を捕らえに来ただけ。これは、許嵩による不当な圧縮であり、史実が歪んだと思われる。

冬十一月、綝為大将軍、封永寧侯。十二月、帝使五宮中郎将刁玄告乱於蜀。

十一月に孫綝が大将軍になったこと、十二月に五官中郎将の刁玄を蜀に行かせたことは、孫亮伝に依る。

孫亮伝:十一月以綝為大将軍、仮節、封永康侯。孫憲、与将軍王惇、謀殺綝。事覚、綝殺惇、迫憲令自殺。十二月、使五官中郎将刁玄、告乱于蜀。


太平二年

二年春正月乙卯、詔分長沙東部為湘東郡、西部為衡陽郡、会稽東部為臨海郡、豫章東部為臨川郡。
校勘記:二年春正月乙卯 正月壬申朔,無乙卯。《吳志·孫亮傳》作「二月乙卯」,二月壬寅朔,十四日乙卯。疑此「正月」當為「二月」之偽。

正月「乙卯」という記述のおかしさは、校勘記にあるとおり。二月乙卯に作るのが正しい。太平二年の冒頭の記事を、許嵩が省きまくったため、歪んだと思われる。

孫亮伝:二年春二月甲寅、大雨、震電。乙卯、雪、大寒。以長沙東部為湘東郡、西部為衡陽郡、会稽東部為臨海郡、豫章東部為臨川郡。

郡の編成をいじったことは、孫亮伝に基づく。

夏四月、帝始臨正殿、大赦境内、親政事。時孫綝有所表奏、皆難問之。又選子弟十八已下、十五已上、得三千人、以大将軍子弟有勇者為之将帥。詔曰、「朕立此軍、欲与之倶長」。日於苑中習焉。

四月、孫亮が正殿に臨んだことは、孫亮伝。孫綝の上奏を、孫亮が「難じて問ふ」という、独立心を見せたことも、孫亮伝。少年兵を編成したこと、「いっしょに成長する」と宣言したのも同じ。

孫亮伝:夏四月、亮臨正殿、大赦、始親政事。綝所表奏、多見難問。又科兵子弟、年十八已下十五已上、得三千餘人。選大将子弟、年少有勇力者、為之将帥。亮曰「吾立此軍、欲与之俱長」日於苑中習焉。


自後常出中書省視先帝故事、詰問左右曰、「先帝数有特詔、今大将軍関事、但令我書可耶」。左右懼、無以答。

『建康実録』は、孫亮が、中書「省」に出て、孫権の故事を調べたとする。出典は孫亮伝に引く『呉歴』であるが、そこでは「省」字がない。

孫亮伝 注引『呉歴』:亮数出中書視孫権旧事、問左右侍臣「先帝数有特制、今大将軍問事、但令我書可邪。」
この『呉歴』は、続いて、黄門が蜜につけた梅を持ってくると、ネズミの糞が入っており、、という逸話を載せる。『建康実録』では、この逸話はあとに載せられる。

『建康実録』は「左右は懼れ、以て答ふる無し」とするが、これは許嵩なりの描写である。孫亮が、孫綝に逆らおうとしたから、左右は懼れたに違いない、というステレオタイプで、それっぽく書いただけか。

五月、魏征東大将軍諸葛誕挙兵保寿春叛魏、使将軍朱成詣闕上表称臣、兼子靚与長史呉綱及諸牙門子弟為質、請援。

五月、諸葛誕が寿春で魏に叛乱した。将軍の朱成を遣わして、呉に称臣し、諸葛靚と呉綱や、諸の牙門の子弟を質としたと。孫亮伝とほぼ一致。

孫亮伝:五月、魏征東大将軍諸葛誕、以淮南之衆、保寿春城。遣将軍朱成、称臣上疏、又遣子靚、長史呉綱、諸牙門子弟、為質。六月使文欽、唐咨、全端等、歩騎三万、救誕。朱異、自虎林、率衆、襲夏口。夏口督孫壹、奔魏。

孫亮伝は、六月に、文欽・唐咨・全端ら3万で、諸葛誕を救い、朱異は虎林から夏口を襲った。夏口督の孫壱は、魏に奔ったという。『建康実録』は、六月の記事がない!戦いの経過を、細かく書く意思が、許嵩にはなさそうである。

秋七月、詔使大都督朱異・将軍唐咨・丁奉・全端等精甲五万、拠寿春、大将軍孫綝自率衆継之、為魏将司馬昭所破、将軍全端・銭塘侯全沢等与諸葛宗親十餘人、皆降於魏。

『建康実録』は、七月に大都督の朱異・将軍の唐咨・丁奉・全端が、五万で寿春に拠った。孫綝はみずから寿春に行こうとしたが、司馬昭に破られ、将軍の全端・銭塘侯の全沢らと諸葛の宗親(諸葛誕の一族)は、みな魏に奔ったという。
孫亮伝によると、七月は、孫綝が寿春を救いにいった時期とされる。孫亮伝の六月、文欽・唐咨・全端・朱異が諸葛誕を援護したが、それを許嵩が丸めたのだろう。孫綝が総指揮官で、唐咨・朱異らは先遣隊と捉えれば、『建康実録』の記述はウソにはならない。しかし、情報を減らしており、史料価値を喪失している。

孫亮伝:秋七月綝、率衆救寿春、次于鑊里、朱異至自夏口。綝、使異為前部督、与丁奉等、将介士五万、解囲。八月会稽南部反、殺都尉。鄱陽、新都、民為乱。廷尉丁密、歩兵校尉鄭冑、将軍鍾離牧、率軍討之。朱異、以軍士乏食、引還。

孫亮伝は、八月の会稽南部の叛乱や、鄱陽・新都の民の叛乱があるが、『建康実録』は省いている。内乱は、わりと省く傾向がある。

司馬昭に破られて、全端・全沢らが魏に降伏したとあるが、全端・全懌の誤りではなかろうか。校勘記がノータッチですが、諱の偏を誤ったと思われる。孫亮伝に、「十一月全緒子禕、儀、以其母奔魏。十二月全端、懌等、自寿春城、詣司馬文王」とあり、全端・全懌の降伏がある。
十一月・十二月という月の刻みを、『建康実録』は省いている。もう諸葛誕の戦いに興味がないから、結末まで、シレッと繋げてしまったのだろう。

九月、綝自淮南帰、還軍。甲申、赦、淮南戦死者、加爵賞、為挙哀。

九月に孫綝が還ってきたというのは、許嵩によるザックリまとめ。九月甲申に大赦があったのは、孫亮伝に基づく。

孫亮伝:朱異、以軍士乏食、引還。綝大怒、九月朔己巳、殺異於鑊里。辛未、綝自鑊里還建業。甲申、大赦。

戦死者に爵賞を加えたのは、少なくとも孫亮伝・孫綝伝には見えなかった。ありがちなこととして、許嵩がサラサラっと書いてしまったのだろうか。孫亮伝・孫綝伝では、孫綝が戦果を出せなかったから、支持を失ったという筆致である。

太平三年

孫亮伝は、この年のこととして、「三年春正月、諸葛誕殺文欽。三月司馬文王、克寿春。誕及左右戦死、将吏已下皆降」とあるが、許嵩はまるまる省略。諸葛誕との共闘は、ザツである。

三年秋七月、封斉王奮為章安侯。詔州郡伐宮材。自八月沈陰不雨四十餘日。

七月、孫奮を章安侯としたこと、州郡に宮殿の建材を集めさせたこと、雨が降らなかったことは、孫亮伝に同じ。

孫亮伝:秋七月封故斉王奮、為章安侯。詔州郡、伐宮材。自八月、沈陰不雨四十餘日。


帝以綝專恣、自固嫌忌之。九月、詔黄門侍郎全紀密令与父太常全尚・将軍劉承謀誅綝、全紀母、公主従姊也、其夜知謀、以告綝、綝懼。戊午夜、以兵襲宮、取全尚、遣弟恩殺劉承於蒼龍門。綝将廃帝、乃召公卿・大臣会官門議曰、「少帝長病昏乱、不可以当大任」。使光禄勲孟宗告宗廟廃之、以状赴近遠。尚書桓彞正色不肯署名、綝怒、殺彞。

孫亮伝は、簡素に過ぎる。

孫亮伝:亮以綝専恣、与太常全尚将軍劉丞、謀誅綝。九月戊午。綝以兵取尚、遣弟恩攻殺丞於蒼龍門外、召大臣会宮門、黜亮為会稽王、時年十六。

孫亮が孫綝に怒り、九月戊午に事件が起きたことは、孫亮伝から拾うことができる。残りは、孫綝伝と、同注引『江表伝』から拾えよう。「少帝長病昏乱、不可以当大任」は、孫綝伝の「少帝荒病昏乱、不可以処大位」に基づく。
孟宗が廟に廃帝を告げることと、桓彞が抵抗したことも、孫綝伝に見える。

◆桓彞伝

桓彞字公長、臨湘人也。魏尚書令階之弟也。累遷尚書、以正直見殺。
案、《呉志》:晋平呉、薛瑩入晋、晋武帝問呉之名臣、答曰:「桓彞有忠貞之節。」

桓彞のことは、孫綝伝 注引『漢晋春秋』・『呉録』にある。

庚申、使中郎李崇奪帝璽綬、為会稽王。帝九歳即位、立七年、遣将軍孫躭送帝之国、徙全尚家於零陵、遷公主魯斑於豫章。

中郎将の李崇が、孫亮の璽綬を奪ったことは、孫亮伝に見える。しかし、それが庚申であることは、『三国志』に見えない。

孫亮伝:九月戊午。綝以兵取尚、遣弟恩攻殺丞於蒼龍門外、召大臣会宮門、黜亮為会稽王、時年十六。
戊午の日付(『建康実録』では上にあり)しか、孫亮伝では分からない。

『建康実録』によると、孫亮は九歳で皇帝即位して、立つこと七年である。『三国志集解』孫亮伝によると、孫亮は在位すること七年(許嵩に一致)、即位したとき僅かに十歳であった(許嵩と1年のズレ)。

後始末は、孫綝伝に「綝、遣将軍孫耽、送亮之国、徙尚於零陵、遷公主於豫章」とあり、孫耽(孫躭)が、孫亮を会稽王の封地まで送ったことが分かる。孫綝伝の「公主」に、許嵩は「公主魯班」と補って、親切である。

巻五十 全夫人伝に「会孫綝廃亮為会稽王後又黜為候官侯、夫人随之国、居候官。尚、将家属、徙零陵、追見殺」とある。全尚が零陵に遷されたことは、ここにある。


◆孫亮伝
『三国志集解』孫亮伝によると、孫亮は会稽王になって二年で、廃されて侯官侯となり、自殺した。十八歳だった。

帝年十六、永安二年見殺、崩於候官道上。晋太康中、呉故少府卿丹楊戴顕上表、迎屍帰葬賴郷。
永安二年見殺崩於候官道上 本書下文及《吳志·孫亮傳》皆系廢帝孫亮見殺於候官道上在永安三年,此云二年誤。

『建康実録』によると、孫亮は十六歳で、永安二年に殺された。校勘記によると、孫亮の死は永安三年であり、「永安二年」に作るのは誤りである。たしかに、孫休伝 永安三年に、孫亮が道中で殺された記事がある。
なぜ許嵩が、マンマで孫休伝に永安三年のこととして書かれている、孫亮の死没を、永安二年と誤ったのか。むしろ、こちらに興味がある。
晋の太康期、改葬されたことは、孫休伝 永安三年に引く『呉録』に「或云休鴆殺之。至晋太康中、呉故少府丹楊戴顒迎亮喪、葬之頼郷」とあり、そのまま。

帝幼而聡悟、有成人之鑒。年七歳、為皇太子。見傅相具師資之礼、大臣重之。及即位、政雖非己出、而口不戯言。諸葛恪之誅也、衛将軍孫峻収恪、帝大言曰、「非我所為」。及孫綝秉政、有奏多所問難、綝懼、称疾不朝

七歳で皇太子になったというのは、『建康実録』の孫亮期の冒頭に見えたが、八歳が正しい。諸葛恪が誅されたとき、「私がやったのではない(孫峻が独断でやった)と行ったのは、諸葛恪伝の裴注。

諸葛恪伝 注引『呉録』:峻提刀称詔収恪、亮起立曰「非我所為。非我所為。」乳母引亮還内。

前後の人柄の描写は、許嵩なりにまとめたもののようで、一字ずつの出典特定は難しそう。孫綝が孫亮をはばかって入朝しなくなったのは、孫綝伝に「綝以孫亮始親政事、多所難問、甚懼。還建業、称疾不朝」とあり、対応する。

又曾暑月游西苑、方食青梅、使黄門至中蔵取蜜、黄門先恨蔵吏、乃取鼠糞投蜜中、言蔵吏不謹。帝即持吏、吏持蜜瓶入、帝問曰、「既蓋之、且有掩覆、無縁有此、黄門非有恨於爾耶」。吏叩頭曰、「彼嘗従臣求官席、席有数、臣不与」。帝曰、「必此也」。黄門不伏、侍中刁玄・張邠請収黄門与蔵吏付獄、帝曰、「易知耳」。令破鼠糞、糞中猶燥。帝大笑、謂玄・邠曰、「若先在蜜中、中外倶湿、今乃燥、是黄門所為也」。黄門懼、即自首伏法、左右莫不驚竦矣。

これが「暑月」のエピソードであったことは、原典になく、許嵩の独自解釈と思われる。まあ、青梅が食べたくなるのは、暑いときなのかな。
孫亮伝 注引『呉録』に「亮後出西苑、方食生梅、使黄門至中蔵取蜜漬梅、蜜中有鼠矢、召問蔵吏、蔵吏叩頭……」とあり、黄門の事件を解決し、洞察力を示したことは、ふつうに出典を確認できる。「侍中刁玄・張邠」も、『呉歴』にそのまま見える。170704

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景帝孫休 永安元年~永安七年

太平三年=永安元年

景皇帝孫休、字子烈。母王夫人。年十七、太元二年、封為琅琊王、居虎林。
校勘記:年十七太元二年封琅琊王 《吳志·孫休傳》云休卒於永安七年,時年三十。據此推算,休當生於嘉禾四年,則太元二年,時年十八。 廃帝即位、大将軍諸葛恪不欲令諸王処江浜兵馬之地、徙帝於丹楊郡。郡守李衡数以事侵帝、帝上書求他郡、詔徒於会稽。曾夢乗龍上天、顧不見後、心異之。

『建康実録』は、太元二年に十七歳で琅邪王になったとあるが、校勘記によると、十八歳の誤りである。またも1年ズレている。
諸葛恪は、諸王を江浜・兵馬の地に置きたくたいから、丹陽に遷された。太守の李衡と対立した。尾のない龍の夢を見た。いずれも、孫休伝に見える。

孫休伝:諸葛恪秉政。不欲諸王在浜江兵馬之地、徙休於丹楊郡。太守李衡、数以事侵休。休、上書乞徙他郡、詔徙会稽。居数歳、夢、乗龍上天、顧不見尾、覚而異之。


太平三年九月戊午、孫綝廃少帝、而遣宗正孫楷・中書郎董朝往会稽迎帝。帝初不信、楷答具啓本意、帝遂行。未至、而孫綝悔、欲入宮将図不軌、召百官会議於相府、皆惶懼失色。常侍虞汜進曰、「明公為国伊・周、処将相之位、擅廃立之権、上安宗廟、下恵兆民、小大踊躍、以為伊・霍複見。迎王未至、而欲入宮。如是、則羣下揺動、衆聴疑惑、非所以永終忠孝、揚名後世也」。綝不悦。

『建康実録』によると、九月戊午、孫亮が廃された。これは、孫亮伝に見える。既述のように、中郎将の李崇が、孫亮の璽綬を奪ったのが、庚申であることは、『三国志』に見えず、『建康実録』は改めては触れていない。
孫休伝によると、孫綝は「己未」に、孫楷・董朝を派遣して、孫休を迎えに行かせる。『建康実録』は「己未」の日付を失って、既述の「戊午」の日付しか持たない。
孫休が警戒したので、孫楷・董朝が説明をしたのは、孫休伝にある。

孫休伝:孫亮廃、己未、孫綝、使宗正孫楷与中書郎董朝、迎休。休、初聞問、意疑、楷朝具述、綝等所以奉迎本意。留一日二夜、遂発。

しかし、孫休が至る前に、孫綝が(孫休を迎えたことを)悔いたことは、孫休伝に見えない。虞翻伝 注引『会稽典録』が出典である。虞汜の活躍シーンと、一連の描写である。孫綝の「悔」は許嵩のアレンジなので、検索してもムダである。

孫綝廃幼主、迎立琅邪王休。休未至、綝欲入宮、図為不軌、召百官会議、皆惶怖失色、徒唯唯而已。汜対曰「明公為国伊・周、処将相之位、擅廃立之威、将上安宗廟、下恵百姓、大小踴躍、自以伊霍復見。今迎王未至、而欲入宮、如是、羣下搖蕩、衆聴疑惑、非所以永終忠孝、揚名後世也」綝不懌、竟立休。


冬十月、帝至曲阿、有老翁干帝曰、「事久変生、天下喁喁、願大王速行」。帝善之、即日進布塞亭。武衛将軍孫恩行丞相事、率百官以乗輿・法駕迎於永昌亭、立行宮、以武帳為便殿、設御座。己卯、帝至、望便殿止、羣臣三請再拝、陞殿、謙不即座。戸曹尚書前即階下讃奏、丞相奉璽綬、帝三譲、羣臣三請、帝曰:「諸侯将相、咸推寡人、寡人敢不承命、乃受璽綬。」即帝位。百官以次奉引、帝就乗輿、羣臣陪位、孫綝迎於土山之半野、拝於道左、帝下車答拝。即日、入宮御正殿、大赦、改元為永安元年。

孫休伝は、十月「戊寅」に曲阿に来たとするが、『建康実録』は「戊寅」を省く。武衛将軍の孫恩が、行丞相事であるのも、孫休伝。「己卯」の日付、「戸曹尚書」も出典と同じ。
『建康実録』で孫綝は「土山の半野」にいるが、孫休伝では「半野」のみ。永安と改元するところは、孫休伝と同じ。

孫休伝:十月戊寅、行至曲阿、有老公、干休叩頭、曰「事久変生、天下喁喁。願、陛下速行」休、善之、是日進及布塞亭。武衛将軍恩行丞相事、率百僚、以乗輿法駕、迎於永昌亭。築宮、以武帳、為便殿、設御座。己卯、休至、望便殿止住、使孫楷先見恩。楷還、休乗輦進、羣臣再拝称臣。休升便殿、謙不即御坐、止東廂。戸曹尚書、前、即階下讚奏。丞相、奉璽符。休、三譲、羣臣三請。休曰「将相諸侯、咸推寡人。寡人敢不承受璽符」羣臣、以次、奉引。休、就乗輿、百官陪位。綝、以兵千人迎於半野、拝于道側。休、下車答拝。即日、御正殿、大赦、改元。是歳於魏、甘露三年也。


冬十月壬午、詔以綝為丞相・大将軍・荊州牧、食五県。以弟恩為御史大夫、弟幹・弟闓皆封侯、餘功臣行賞有差。綝乃詣闕上書、乞上印綬・節鉞、退還田里、帝不許。

十月が重複する。「十月壬午」は、孫休伝に由来する。孫綝を、丞相・大将軍・荊州牧とするのは、孫休伝の詔。孫休伝は「増食五県」とあるが、『建康実録』は「食五県」とする。五県を増やしたなら、許嵩の要約は誤りではないか?

孫休伝:永安元年冬十月壬午、詔曰「夫、褒徳賞功、古今通義。其以大将軍綝、為丞相、荊州牧、増食五県。

孫綝の一族が校尉に昇ったのは、孫綝伝による。
孫綝伝に、このときのこととして、「又下詔曰……「其、以大将軍、為丞相、荊州牧、食五県」恩、為御史大夫、衛将軍。拠、右将軍。皆県侯。幹、雑号将軍、亭侯。闓、亦封亭侯。綝一門五侯、皆典禁兵、権傾人主。自呉国朝臣、未嘗有也」とある。さっき、孫休伝の「増食五県」を根拠に、許嵩を誤りといったが、孫綝伝を出典とすれば、許嵩が正しい。
この孫綝伝に、孫恩が御史大夫となり、兄弟の孫幹・孫闓が「亭侯」に封じられたとある。許嵩は「封侯」に作るから、誤りではないが、「亭」の情報が減っている。これでは、県侯かも知れないし、郡侯かも知れないじゃん。

孫綝伝は、これより少し前に「休既即位、称草莽臣、詣闕上書曰、……「臣、雖自展竭、無益庶政、謹上印綬節鉞、退還田里、以避賢路」休、引見慰喻」と、孫綝が引退を願い出た文がある。記述順は逆転しているが、孫綝伝から出た情報であることは確認できた。

孫休伝は、つづいて孫綝以外の任官を記し、李衡に言及する。

孫休伝:武衛将軍恩、為御史大夫、衛将軍、中軍督、封県侯。威遠将軍、授為右将軍、県侯。偏将軍幹、雑号将軍、亭侯。長水校尉張布、輔導勤労、以布為、輔義将軍、封永康侯。董朝、親迎、封為郷侯」又詔曰「丹陽太守李衡、以往事之嫌、自拘有司。夫、射鉤斬袪、在君為君。遣衡、還郡、勿令自疑」


丹楊太守李衡以前嫌、自拘有司、表列罪失。帝曰、「夫射鈎、斬袪、在君為君」。乃使還郡、封威遠将軍、領丹楊太守。

丹陽太守の李衡が、管仲になぞらえて孫休から赦されたことは、孫休伝に見える。しかし、『建康実録』にある、李衡が自らの過失を上表したことや、威遠将軍・丹陽太守となったことは、孫休伝にない。孫休伝に引く『襄陽記』が出典である。
つぎの李衡の人物小伝に持ち込まれる。

◆李衡伝

李衡字叔平、襄陽兵家子。漢末入呉為武昌渡長。
校勘記:漢末入吳為武昌渡長 《吳志·孫休傳》注引《襄陽記》,謂李衡漢末入吳為武昌庶民。

校勘記の言うように、孫休伝に引く『襄陽記』は、李衡を「本襄陽卒家子也、漢末入呉為武昌庶民」と、もとは襄陽の兵卒の家の子で、漢末に呉に入り、武昌の庶民になったとする。『建康実録』は、「襄陽の兵家の子」と、格が上がっている。ザツに節略したら、たまたまカッコが付いたのだろう。

聞羊衜有知人之鑒、往干之、衜曰、「多事之世、尚書郎才也」。時校事郎呂壱操弄権柄、大臣畏之、莫有敢言者、衜曰、「此非李衡無以困壱」。遂共薦為郎。太祖引見喜之、衡乃口陳呂壱奸短数千言、太祖有媿色。後数月、壱事発、坐誅、衡大見顕用。累遷諸葛恪司馬、幹恪府事。恪誅、守丹楊太守。
校勘記:守丹楊太守 《吳志·孫休傳》注引《襄陽記》作「求為丹楊太守」。《實錄》恐誤。

羊衜から評価されたこと、呂壱を批判したこと、諸葛恪の司馬となったこと(後常為諸葛恪司馬、幹恪府事)は、『襄陽記』から取れる。諸葛恪が死ぬと、丹陽太守となった。
校勘記によると、『建康実録』は「丹陽太守になることを求めた」とするが、『襄陽記』に「求」字がなく、衍字という。「求」めたか否か、意思の問題だから、客観的な証拠が残らず、論じても仕方がない。

時帝為琅琊王在郡、人家淫放、衡数以法縄之。妻習氏常諫不可、衡不従。尋而帝立、衡憂懼、謂妻曰、「不用卿言至此。今奔魏何如」。妻曰、「不可。君本庶人、先帝賞抜過量、既作無礼、而復逆自猜嫌、逃叛求活、北帰、複何面目見士大夫乎。且琅琊王素好善慕名、方欲自顕於天下、終不以私嫌殺君明矣。君可自囚詣獄、表陳前失、請罪。如此、必当逆見優饒、非但直活而已」。衡従其言。

孫休が琅邪王のとき、李衡が厳しい取り締まりをしたから、李衡の妻の常氏が諫言した。孫休が皇帝になると、李衡は憂懼して魏への逃亡を考えた。このあたりは、『襄陽記』に収まる。李衡の官職の高さとのバランスで考えると、許嵩は李衡に多くの字数を割いている。

衡欲為子孫儲業、妻輒不聴、曰、「財聚則禍生」。衡遂不言、後密使人於江陵龍陽洲上作宅、種甘橘千樹、臨死、敕児曰、「汝母毎悪吾治家、故窮如此。然吾州里有千頭木奴、不責汝衣食、歳上絹壱匹、当足用耳」。衡亡後、児以白母、母曰、「此当是種甘橘也、汝父毎欲積財、吾常以為患、不許。七八年来、失十戸客、不言所之、当是汝父有此故也。恒見汝父称太史公言、『江陵千樹橘、亦可比封侯』。吾答云、『人患無徳、不患不富貴、若貴而能貧、方好耳、用此何為』。今無、乃是耶」。子訪得之。
案、《呉志》:呉末、李衡橘園成、歳得絹千匹、家道殷足。至晋咸康中、宅上猶有故枯橘樹存焉。

李衡が木を植えて産業に努めた。『襄陽記』は「武陵龍陽汜洲上」で果樹園をやったが、『建康実録』では「江陵龍陽洲上」とあり、武陵と江陵の違いがある。呉末にも収穫があり、西晋の咸康期にも健在であったことは、『襄陽記』の文なのか、裴松之の説明なのか。ともあれ、許嵩の侍中に「呉志を案ずるに」とあるが、陳寿の本文ではない。

許嵩が「呉志」といっても、陳寿の本文でないことは、前例がある。



孫休伝は、李衡の記事に続いて、「己丑、封孫晧、為烏程侯。晧弟徳、銭唐侯。謙永安侯」とあり、『建康実録』の出典にそのままなっている。記述順・ネタが踏襲されている。

己丑、封故太子和子皓為烏程侯、弟徳為銭塘侯、弟謙為永安侯。庚寅、羣臣奏請立後及太子、帝譲不受。

孫皓・孫徳・孫謙の血筋が、許嵩によって説明され、孫休伝に追加されている。
孫休伝は、孫謙を永安侯にしたところに、裴松之注『江表伝』が付いている。

『江表伝』:羣臣奏立皇后、太子、詔曰「朕以寡徳、奉承洪業、蒞事日浅、恩沢未敷、后妃之号、嗣子之位、非所急也。」有司又固請、休謙虚不許。

『三国志集解』はこの『江表伝』について、『資治通鑑』に「加」字がないことを指摘するのみ。すると、『建康実録』に載せる「庚寅」の日付が、出典が不明。

十一月甲午、有風四転五復、蒙霧連日。時孫綝既擅廃立、権傾人主、一門五侯、並典禁兵、有所陳述、帝敬而不違、自呉朝未之有也。壬子、詔吏家為役有三人五人者、並免父兄一人。永昌亭陪位者、加爵一級。

十一月甲午の大風は、孫休伝。孫綝の一門から五侯がでて、権勢が皇帝を越えたことは、孫休伝にある。孫綝伝に行かなくても拾える。孫休伝は、丙戌・戊戌・壬子に詔があるが、『建康実録』は壬子のみ拾う。

孫休伝:十一月甲午、風四転五復、蒙霧連日。綝、一門五侯皆典禁兵、権傾人主。有所陳述、敬而不違、於是益恣。休、恐其有変、数加賞賜。丙申、詔曰……。戊戌、詔曰、……。壬子、詔曰、「諸吏家、有五人三人、兼重為役。父兄在都、子弟給郡県吏。既出限米、軍出又従、至於家事、無経護者。朕、甚愍之。其、有五人三人為役、聴其父兄所欲留、為留一人除其米限軍出不従」又曰「諸将吏、奉迎陪位在永昌亭者、皆加位一級」。
『建康実録』が節略した、丙申・戊戌の詔は、ここでも省いた。

いまだかつて、呉朝でここまで栄えた一族がいないとあるが、これは、孫綝伝の「自呉国朝臣、未嘗有也」を踏まえたもの。「呉国」が「呉朝」に置換されているが、許嵩の独自説明ではない。

十二月、綝日益横、遂持牛酒進奉於帝、帝不受、斉詣左将軍張布、酒酣、怨言曰、「初廃少主、人多勧吾自取之、吾以帝賢、故迎之。帝非吾不立、今上礼見拒、是与凡臣無異、当須改図耳」。布以言聞於帝、帝銜之、恐即有変、優詔加賞賜

十二月、孫綝が、皇帝孫休に牛酒を進めたことは、孫休伝に見えない。孫綝伝に、牛酒のことが見える。つまり、十二月は、孫休が孫綝を殺す月。孫綝伝には、牛酒の時期が記されないが、きっと十二月以内に違いないという推測に基づいて、ここに孫綝伝を挿入したのである。

孫綝伝:綝奉牛酒、詣休。休不受。齎詣左将軍張布。酒酣、出怨、言曰「初、廃少主時、多勧吾、自為之者。吾、以陛下賢明、故迎之。帝、非我不立。今、上礼見拒、是与凡臣無異。当復改図耳」布、以言聞休。休、銜之、恐其有変、数加賞賜


有告綝反者、帝付綝、綝殺之、而心愈懼。因孟宗求出武昌、帝許之、詔給武庫精甲万人。右軍将軍魏邈言於帝曰、「綝不可使居外、居外必生変」。帝不答。

孫綝の謀反を、孫休にチクる者がいると、孫休はそれを孫綝に引き渡した。孟宗が武昌に出たがった。このあたりも、孫綝伝の続きから採られている。不明点はない。

孫綝伝:又、復加恩、侍中、与綝分省文書。或有告、綝懐怨侮上欲図反者。休執以付綝、綝殺之。由是愈懼、因孟宗求出屯武昌。休、許焉。尽敕、所督中営精兵万餘人、皆令裝載、所取武庫兵器、咸令給与。将軍魏邈、説休曰「綝居外、必有変」武衛士施朔、又告「綝欲反、有徴」休、密問張布。布、与丁奉、謀於会殺綝。

将軍の魏邈なる人物が、孫休に「孫綝を外に出すな」と警戒を促す。孫綝伝の言葉を、許嵩が字数を増やして分かりやすくしている。

丙寅、武衛将軍施朔等密表云、「綝反状已露」。帝省表、与左将軍張布・郗郷侯丁奉密謀、
校勘記:武衛將軍施朔 據《吳志·孫綝傳》《通鑒》七七施朔為武衛士,《實錄》稱朔為武衛將軍,恐誤。

孫綝伝に「武衛士施朔、又告「綝欲反、有徴」休、密問張布。布、与丁奉、謀於会殺綝」とある。「反状すでに露なり」は、許嵩による改変と思われ、もとは「綝の反せんと欲すること、徴あり」である。
校勘記の言うように、施朔は、孫綝伝で「武衛士」とあるが、『建康実録』は「武衛将軍」とする。なぞの昇格をしているが、これは許嵩の誤りだろう。施朔が動いたとき、「丙寅」の日付があるが、出典が不明。

孫綝伝に見える日付は、「永安元年十二月丁卯。建業中謡言、明会有変。綝聞之、不悦。夜大風発木揚沙、綝益恐。戊辰、腊会、綝称疾」と、十二月丁卯・戊辰である。

孫休が、左将軍の張布・郗郷侯の丁奉と密謀したことは、上に引いた孫休伝に「休、密問張布。布、与丁奉、謀於会殺綝」とあるものに、許嵩が官職を補ったのであろう。

因戊辰臘会、使公卿執綝。将入、疑内有変、表称疾、帝使強起之、綝不得已、令外整兵於府、待吾入後起火、因是可得速出。及赴会、百僚陞殿、而府中火起、綝遽求出看火、帝止之、曰、「外兵自多、何労丞相」。綝起離席、帝目丁奉・張布等、命左右縛綝。綝叩頭求徙交州、帝怒曰、「何不徙滕胤・呂拠」。叱送斬之。其同謀者皆赦、放杖者五千人。追殺綝弟幹・闓於中江、発孫峻塚而剖其棺、斵其屍、収其印綬。大赦天下、一切亡官遷徙皆放還。

戊辰の臘会にて、孫綝が殺害されたことは、孫綝伝・孫休伝に見える。

孫綝伝:永安元年十二月丁卯。建業中謡言、明会有変。綝聞之、不悦。夜大風発木揚沙、綝益恐。戊辰、腊会、綝称疾。休、彊起之、使者十餘輩。綝、不得已、将入、衆止焉。

許嵩は「将入、疑内有変」と節略するが、孫綝伝は、十二月丁卯の謠言が、伏線として存在する。やむを得ず入っていくのも、孫綝伝にあること。兵を府外に整列させ、放火の準備をしたことは、孫綝伝では、孫綝の語中にあるが、許嵩は地の文に置き換える。孫休は孫綝伝で「外兵自多、不足煩丞相也」とあり、許嵩が「外兵自多、何労丞相」と節略する。孫休は孫綝伝で「卿、何以不徙滕胤呂拠」というが、許嵩が「何不徙滕胤・呂拠」と節略する。放杖する者が五千人も孫綝伝。 『建康実録』の「大赦天下、一切亡官遷徙皆放還」は、下に引く孫綝伝に「見遠徙者、一切召還」とあるのを、地の文に置き換えたもの。孫休vs孫綝について、『建康実録』は意欲的に、史実を再構築している。つまり、地の文を書いている。

詔諸葛恪・滕胤・呂拠等並無罪見害、並宜改葬、追贈其家、復其田宅。羣臣有乞為恪立碑、以銘勲徳、博士盛冲以為不合。帝曰、「盛夏出軍、士卒傷損、無尺寸之功、不可謂能。受託孤之任、死於豎子之手、不可謂智。冲議是矣」。遂寝之。帝恥与綝等同族、敕除属籍、曰、「故峻・故綝」云。

諸葛恪・滕胤・呂拠の名誉回復は、孫綝伝に載せる詔に、「休又下詔曰「諸葛恪、滕胤、呂拠、蓋以無罪為峻、綝兄弟所見残害。可為痛心。促皆改葬、各為祭奠。其、罹恪等事、見遠徙者、一切召還」とあるのを、地の文に置き換えたもの。 家を追贈して、田宅を復したのは、出典を探し中。
博士の盛沖に諸葛恪の碑を書かせようとしたが、断られた。というのは、諸葛恪伝に引く『江表伝』に基づく。

諸葛恪伝 注引『江表伝』:朝臣有乞為恪立碑以銘其勲績者、博士盛沖以為不応。孫休曰「盛夏出軍、士卒傷損、無尺寸之功、不可謂能。受託孤之任、死於豎子之手、不可謂智。沖議為是。」遂寝。

孫休が、孫綝から孫姓を剥奪したことも、孫休伝。

◆孫綝伝

孫綝字子通、与峻同祖、即武烈帝弟静之玄孫、暠之後也。暠生二子、恭・綽。恭生峻、綽生綝。綝輔少主、奏請多見推詰、懼不自安。及救諸葛誕帰、便称疾不朝、築室朱雀橋南、分遣諸弟入宿衛、欲樹諸党、専朝自固。少主嫌之、因推孫峻殺朱主事、将欲誅綝。綝乃廃少主迎帝、遂乃肆意、侮慢人神、焼大航及伍胥廟、毀壊浮図塔寺、斬道人。

孫綝の血筋は、もちろん孫綝伝に基づく。「築室朱雀橋南」も、孫綝伝に「築室于朱雀橋南、使弟威遠将軍拠、入蒼龍宿衛」と見える。孫綝伝に「綝意弥溢、侮慢民神、遂焼大橋頭伍子胥廟、又壊浮屠祠、斬道人」とあり、伍子胥の廟を壊し、仏教の塔を破壊したことも、言葉を変えて許嵩が引いている。

是月、詔初置五経博士一人、助教三人。

この月=孫綝を殺した十二月、五経博士を置いた。たしかに孫綝伝に、五経博士を設置する詔がある。許嵩は、節略してこれを地の文とした。

孫休伝:十二月戊辰、臘、百僚朝賀、公卿升殿。詔、武士縛綝、即日伏誅。己巳、詔、以左将軍張布討姦臣、加布為中軍督、封布弟惇為都亭侯、給兵三百人、惇弟恂為校尉。詔曰「古者建国、教学為先、所以道世治性、為時養器也。自建興以来、時事多故、吏民頗以目前趨務、去本就末、不循古道。夫、所尚不惇、則傷化敗俗。其、案古置学官、立五経博士、核取応選、加其寵禄。科見吏之中及将吏子弟有志好者、各令就業。一歳課試、差其品第、加以位賞。使見之者楽其栄、聞之者羨其誉。以敦王化、以隆風俗。」

しかし、『建康実録』が伝える「博士一人、助教三人」というのは、『三国志集解』孫休伝を見ても、分からない。「助教」で検索しても、『三国志』では必要なところがヒットしない。『通典』を検索すると、「助教」はたくさんヒットする。許嵩が、彼自身の官職の知識で、書いてしまったか。

永安二年

二年春正月、諸葛恪故吏臨淮臧均上表、論諸葛恪三世有大功、請収其屍改葬、帝許之。
校勘記:二年春正月至 請收其尸改葬帝許之 陶札云:「據《吳志·諸葛恪傳》,臧均乞收葬恪在孫亮時,《實錄》誤。」

永安二年正月、諸葛恪の故吏である臧均が、諸葛恪の改葬を願って、許可されたという。しかし、諸葛恪伝によると、臧均の提案は、孫亮の時期であるから、『建康実録』は誤りであるという。
諸葛恪伝は「初、竦数諫恪、恪不従。常憂懼禍。及亡、臨淮臧均、表乞収葬恪」と、「初」字があるから、時期が簡単には決まらない。臧均の上表のあと、「於是、亮・峻聴恪故吏斂葬。遂求之於石子岡」とあることが、校勘記が定めた、時期の論拠である。『三国志集解』諸葛恪伝に、とくに時期について指摘はない。校勘記が正しいのだろう。
この臧均の上表に、既出の「博士の盛沖に、諸葛恪の碑を書かせよう」という話が、注釈されている。盛沖は、孫休の学問の先生なので、盛沖のことは、孫休期、つまり孫綝を討伐したときだろう。

まとめると、孫亮のとき、諸葛恪が孫峻に殺され、ザツに埋葬された、故吏の臧均が諸葛恪の改葬を申し出ると、孫亮・孫峻はそれを赦した。孫峻から孫綝にバトンタッチし、孫亮が孫休に代わった。孫休が孫綝を打倒すると、(すでに改葬は済んでいるが)諸葛恪のために碑を立てようという話になり、盛沖に作文を断られたと。
許嵩は、諸葛恪の名誉回復は、すべて孫綝の死後に違いないと思ったから、誤ってここに置いたようである。なぜ誤ったか。孫休伝 永安二年の冒頭は、「二年春正月、震電」である。臧均の上表は、「臣聞、震雷電激」から始まる。「震」「電」字が重複するため、癒着したのではなかろうか。

二月、備九卿官、下詔勧広農事、進用忠賢。以紀亮為尚書令、亮子陟為中書令。毎朝列坐、帝以雲母屏風隔之。

『建康実録』は二月とするが、孫休伝は三月に、九卿を整備した。孫休が農桑を進め、忠賢を用いようという詔は、許嵩がものすごく圧縮して、地の文とした。
紀亮が尚書令となり、紀陟が中書令となって、親子で屏風で隔てたことは、孫休伝に見えない。『三国志』孫晧伝 甘露元年に引く『呉録』が、有力候補である。

『呉録』:陟字子上,丹楊人。初為中書郎,孫峻使詰南陽王和,令其引分。陟密使令正辭自理,峻怒。陟懼,閉門不出。孫休時,父亮為尚書令,而陟為中書令,每朝會,詔以屏風隔其座。出為豫章太守。

しかし、屏風が雲母でったことは、これでは分からない。また、紀陟の父の紀亮が尚書令となったことは、『呉録』から分かるが、「孫休時」とあるだけで、このタイミングかは分からない。忠賢を用いよという詔が、紀亮・紀陟の任用と同時であるという確証を、許嵩は得たのだろうか。孫休伝に載せる詔に、「諸卿尚書、可共咨度、務取便佳」とあるが、決め手に欠く。

永安三年

三年春、使五官中郎将薛珝聘蜀求馬、還、帝問蜀政得失、珝対曰、「蜀主暗而不知其過、臣下容身以求免罪、入朝不聞正言、経野民皆菜色。臣聞燕雀処堂、母子相楽、自以為安也、窟決棟焚、而燕雀恬然不知禍之将至、是其謂乎」。帝聞之慄然。

三年春、五官中郎将の薛珝を蜀に派遣したというが、孫休伝にない。薛綜伝 附薛珝伝に引く『漢晋春秋』が出典である。

漢晋春秋曰、孫休時、珝為五宮中郎将、遣至蜀求馬。及還、休問蜀政得失、対曰「主闇而不知其過、臣下容身以求免罪、入其朝不聞正言、経其野民皆菜色。臣聞燕雀処堂、子母相楽、自以為安也、突決棟焚、而燕雀怡然不知禍之将及、其是之謂乎。」

『漢晋春秋』は「孫休時」とするだけで、「永安三年春」がどこから出てきたのか分からない。薛珝の官職と、薛珝が報告した蜀の(絶望的な)状況は、『漢晋春秋』に収まる。時期だけが不明である。裴松之が省略した、『漢晋春秋』の持つ紀年を、許嵩が見ていたことは、ないだろうか.

二月、西陵言赤烏見。
校勘記:二月西陵言赤烏見 「二月」,《吳志·孫休傳》《宋書·符瑞志》下皆作「三月」。

孫休伝は、この西陵の赤烏から始まる。しかし、校勘記が言うように、『建康実録』は「二月」に作るが、孫休伝は「三月」に作る。

孫休伝:三年春三月西陵言、赤烏見。


秋、使都尉厳密作浦里塘、開丹楊湖田、衛将軍濮陽興率兵会成之。

秋、都尉の厳密が「浦里塘」を作ったのは、孫休伝のママ。月表記がないこともママ。しかし、丹陽の湖田を開いたことは、孫休伝に見えない。

孫休伝:孫休伝:秋、用都尉厳密議、作浦里塘。

巻六十四 濮陽興伝に「及休即位、徴興為太常衛将軍、平軍国事、封外黄侯。永安三年、都尉厳密、建丹楊湖田、作浦里塘」とある。「浦里塘」をキーワードにすれば、「永安三年」と「丹陽湖田」を、引くことができる。
濮陽興は、孫休が即位すると衛将軍になっており、『建康実録』は正しい。濮陽興伝は、続いて、濮陽興だけがこの開拓をできるとう。許嵩は、これを地の文に直して、「率兵会成之」と節略している。うまい。

詔、百官会議、咸以為、用功多而田不保成。唯興以為、可成。遂、会諸兵民就作。功傭之費、不可勝数、士卒死亡、或自賊殺、百姓大怨之。

しかし、濮陽興伝によると、この開拓は失敗したようである。失敗という結果は、『建康実録』が収録していない。むしろ、成功したかのように記し、正確でない。

時会稽謡言王亮当還為天子、而宮人告亮使巫祷祠、有司以聞。帝詔黜亮為候官侯、使之国、道上令鴆殺之。分会稽南部為建安郡。

孫亮が天子に戻るという話は、孫休伝でカバーできる。「鴆殺」という毒の種類だけ、『建康実録』のほうが多く、これは孫休伝に引く『呉録』で「或ひと云はく」と引かれている説である。

孫休伝:会稽郡謡言、王亮当還為天子。而亮宮人告、亮使巫禱祠有悪言。有司以聞、黜為候官侯、遣之国。道自殺、衛送者伏罪〔一〕。以会稽南部、為建安郡。分宜都、置建平郡〔二〕。

孫休伝は、建安郡・建平郡の設置が記されるが、『建康実録』は建安郡だけである。差を付けた理由が分からない。

是年、得大鼎於建徳県、告太廟、作宝鼎歌。

孫休伝のこの年の末尾の裴注に、「呉歴曰、是歳得大鼎於建徳県」とある。建徳県で大鼎が見つかったことは、『呉歴』によって分かる。しかし、太廟に告げて、宝鼎歌が作られたことは、『三国志』で分からない。 『三国志集解』孫休伝は、建徳県そのものに注釈するのみで、宝鼎のことはスルー。宝鼎の歌のこともスルー。
宝鼎歌のことは、課題とすべきでしょう。

永安四年

四年夏五月、大雨、水泉溢満。是月、魏相国司馬昭殺其君髦。

五月の大雨は、孫休伝にママある。この月、司馬昭が曹髦を殺したとあるが、本当は永安三年である。また1年ズレている。こういうズレがあるから、『建康実録』は信用ならないが、こうしてズレを露呈してくれるのは、分析に材料を与えてくれる。「五月」は合っているから、年だけ1年のズレ。

八月、使周奕・石偉行風俗、宣慰将吏、問民労苦、為黜陟之詔。九月、白龍見布山。呉人陳焦死、埋六日更生、穿土而出。

八月に、周奕・石偉が巡行したのは、孫休伝にある。九月、白龍が布山に現れたことは、孫休伝に同じ。

孫休伝:秋八月遣光禄大夫周奕、石偉、巡行風俗、察将吏清濁、民所疾苦。為黜陟之詔〔三〕。九月布山言、白龍見。是歳、安呉民陳焦死、埋之、六日更生、穿土中出。

裴注『楚国先賢伝』があり、石偉の列伝があるが、『建康実録』は載せない。

孫休伝は、わざわざ「是歳」とことわり、『建康実録』は九月の記事に連ねて書いているが、呉人(李世「民」の忌避により、「人」に改めている)の陳焦が、埋めて六日で、土から這いだした。

永安五年

五年春二月、白虎門北楼災。秋七月、黄龍見始興。
校勘記:黃龍見始興 「始興」,《吳志·孫休傳》《宋書·符瑞志》中皆作「始新」。

二月、白虎門の北楼が燃えたのは、孫休伝に同じ。七月に黄龍が現れたのは、孫休伝が「始新」に作り、『建康実録』が「始興」に作るが、『建康実録』の誤りであろう。

孫休伝:五年春二月、白虎門北楼災。秋七月始新言、黄龍見。


八月壬午、大風震雷。甲午、有司奏請立皇后、帝乃尊所生王夫人、謚為敬懐皇后、改葬敬陵。乙酉、立皇后朱氏。戊子、立子𩅦為皇太子、大赦。詔自立四子𩅦・𩃙・壾・[亠先攴]等名字、欲令後世易避。

八月壬午の風雷は、孫休伝に同じ。『建康実録』によると、甲午、有司が皇后を立てよといい、孫休は母の王夫人を「敬懐皇后」として「敬陵」に葬ったという。孫休伝は、この甲午の記事がない。

孫休伝:八月壬午、大雨震電、水泉涌溢。乙酉、立皇后朱氏。戊子、立子𩅦為太子、大赦。

巻五十 王夫人伝に「休即位、遣使追尊曰敬懐皇后、改葬敬陵」としかなく、諡号と陵名はあるが、「甲午」だとは分からない。許嵩が、べつの史料から日付を得ていた証拠か。

その月の朔を調べ、整合性を取るのは、またあとで。


乙酉に朱皇后を立て、戊子に皇太子を立てたことは、孫休伝に見える。四子の名が変わっていたことは、孫休伝 注引『呉録』に、孫休の詔が載っている。許嵩が、地の文に置換し、圧縮したことが分かる。

冬十月、以衛将軍濮陽興為丞相、丁密・孟宗為左右御史大夫。

冬十月、濮陽興を丞相に、丁密・孟宗を、左右御史大夫としたことは、孫休伝のままである。

孫休伝:冬十月以衛将軍濮陽興、為丞相。廷尉丁密、光禄勲孟宗、為左右御史大夫。

ここで『建康実録』は、孟宗の人物小伝に突入する。

◆孟宗伝

宗字子恭、江夏人。性至孝、幼従南陽李粛学。其母為作厚褥大被、人間其故、母曰、「小児無徳致客、客多貧、故為広被、庶可得気類相接」。宗読書、夙夜不懈、粛奇之曰、「卿将相器也」。故長為驃騎朱拠軍吏、将母在営。既不得志、遇夜雨屋漏、因泣以謝母、母曰、「但当勉之、何当泣也」。拠後稍知之、除塩池司馬。能自結網、捕魚作鮓寄母、母使送還曰、「汝為魚官、而以鮓寄母、非避嫌也」。尋遷呉県令。

孟宗のことは、孫晧伝 注引『呉録』に見える。つまり、裴松之が、つぎの孫晧期に関連づけて紹介する孟宗の伝記を、『建康実録』は、先走ってここに挿入したのである。人物小伝は、該当者が死んだときに置かれることが多いのに、めずらしい。許嵩が、どこまでテキストの順序を解体・シャッフルしていたか、気になる。
『呉録』では、孟宗の字は「恭武」とされ、検索してもヒットしないわけだ。南陽の李粛に学んだのは同じ。母が人脈構築に協力してくれ、驃騎将軍の朱拠の軍吏になるのも、『呉録』に見えること。呉令も『呉録』。

時不得将家之官、宗在官毎得新物、未寄母、不先食之。又母亡、時禁長吏不得奔喪、宗犯禁奔喪、既而詣武昌請拘。大将軍陸遜表陳孝行、請於帝、帝降罪。母性耆笋、冬節将至、宗乃入竹林泣、笋為之生、得以供祭。後累遷位、至光禄勲、御史大夫。後主即位、宗避後主諱、改名仁。

支給された「新物」を母に与えたのは、やはり『呉録』の続き。母が死んだとき、陸遜から孝行と言ってもらったのは、孫晧伝 裴松之注に「語は孫権伝にあり」とある。

呉主伝の本文に「其後呉令孟宗、喪母奔赴、已而自拘於武昌、以聴刑。陸遜、陳其素行、因為之請。権、乃減宗一等、後不得以為比」とあり、孟宗が母の喪のために、職務を投げ出したことを、陸遜にかばってもらった。

孟宗の母が笋をたしなんだエピソードは、孫晧伝 注引『楚国先賢伝』より。

孫休伝に基づく、本紀みたいな記述にもどる。

以張布為中軍督、委万機於布、委軍国於濮陽興。

『建康実録』によると、張布を中軍督とし、万機を張布に委ね、軍国のことは濮陽興に委ねたという。

孫休伝 永安元年十二月に、「己巳、詔、以左将軍張布討姦臣、加布為中軍督、封布弟惇為都亭侯、給兵三百人、惇弟恂為校尉」と、張布に中軍督を加えたとある。この永安十二月の記事(既出)を、『建康実録』はスルーしていた。五経博士の設置だけを、許嵩が拾うに留まっていた。なぜ、ここで拾い直したのか。

孫休伝で、この永安五年十月に、「休、以丞相興及左将軍張布、有旧恩、委之以事。布、典宮省。興、関軍国」とある。「張布は宮省をつかさどり、濮陽興は軍国に関わる」とある。これを、許嵩が書き換えたか。

詔中書郎、領博士韋昭依劉向故事、校定衆書。而帝悦意典籍、唯春夏二時出射雉、暫廃耳。

韋昭のことは、孫休伝では、下の「是年」よりさらに後に、韋昭・盛沖が、孫休に侍講したと見える。『建康実録』は、それを採りあげる前に、韋昭伝の「孫休践阼」に続く文を、ここに置いている。

巻六十五 韋曜伝:孫休践阼、為中書郎、博士祭酒。命曜、依劉向故事、校定衆書。又欲、延曜侍講。而、左将軍張布、近習寵幸、事行多玷、憚曜侍講儒士。又性精确、懼以古今警戒休意、固争不可。休、深恨布、語在休伝。然、曜竟止、不入。


是年、遣察戦往交阯、調孔雀・大豬。
案、《呉録》:察戦是呉時官號、旧陽都有察戦巷、在今県城南二里、禅衆寺前。或云晋庾亮拒蘇峻、七戦於此巷、亦名七戦巷也。

孫休伝に「是歳使察戦、到交阯、調孔爵、大豬」とぱり、ほぼママ。
許嵩の自注によると、「察戦巷」の地名に関する考察がある。

詔召祭酒韋昭・博士盛冲二人入侍講論、時張布既典宮省、知二人切直、恐発陰失、諫不許。帝譲之、布等叩頭謝、而昭竟不入。

韋昭・盛沖と、孫休のお付き合いは、孫休伝 永安五年末にある。孫休の詔を、許嵩がおおはばに圧縮して、地の文に置換している。よくあるパターン。

孫休伝:休、欲与博士祭酒韋曜、博士盛沖、講論道芸。曜沖、素皆切直。布恐、入侍発其陰失。令己不得専。因、妄飾説以拒遏之。……布、拝表叩頭。……休、雖解此旨、心不能悦。更恐、其疑懼、竟如布意、廃其講業、不復使沖等入。

講義を辞めてしまったのは、孫休伝でも分かるが、上に引いた韋昭伝の「然、曜竟止、不入」のほうが、『建康実録』の直接の出典である。韋昭伝に「休、深恨布、語在休伝」と、周到にリンクが貼られているから、許嵩は見落とすまい。

永安六年

六年春、長沙言青龍見。慈湖言白鷰見。豫章言赤雀見。

永安六年春、長沙で青龍、慈湖で白鷰、豫章で赤雀が現れたという。『宋書』符瑞志を検索したが、青龍は該当がなく、同年では「永安六年四月,泉陵言黃龍見」のみ(これは孫休伝に一致)。赤雀は該当なし。 白鷰(白燕)も該当なし。『晋書』符瑞志も、すべて全滅。

動物の怪異現象について、『晋書』『宋書』をまとめてから、結論を出しましょう。

孫休伝 注引『呉歴』に「呉歴曰、是歳青龍見於長沙、白燕見於慈胡、赤雀見於豫章」とあった。動物と場所は、これが出典であるが、「春」がどこから出てきたのか不明。『呉歴』には「是歳」しかないのに。

孫休伝に、「六年夏四月泉陵言、黄龍見。五月交阯郡吏呂興等反、殺太守孫諝。諝、先是、科郡上手工千餘人送建業。而察戦至、恐復見取、故興等因此扇動兵民、招誘諸夷也」とあるが、『建康実録』はいずれも無視。

秋七月、魏使鄧艾・鐘会伐蜀。九月、蜀以魏見伐、来告、詔大将軍丁奉督征西将軍留平・将軍丁封・施績等諸軍分向寿陽・南郡・沔中救蜀。

鄧艾・鍾会が伐蜀をしたのは、永安六年=景元四(263)年なので、一致している。しかし『三国志』本紀は、景元四年、夏五月の詔で鎮西将軍に伐蜀を命じ、十一月の大赦の記事のあと、「自鄧艾鍾會率衆伐蜀、所至輒克。是月、蜀主劉禪詣艾降、巴蜀皆平」とある。『建康実録』のいう七月は、陳留王奐紀と異なる。

孫休伝:冬十月蜀以魏見伐、来告。癸未、建業石頭小城火、焼西南百八十丈。甲申、使大将軍丁奉、督諸軍、向魏寿春。将軍留平、別詣施績於南郡。議兵所向、将軍丁封、孫異、如沔中、皆救蜀。蜀主劉禅降魏、問至、然後罷。

孫休伝によると、十月に蜀が「魏に討伐された」と連絡がくる。しかし『建康実録』は、これを九月とする。1ヶ月ズレている。
孫休伝は、十月「甲申」の日付をもち、丁奉・留平・丁封・施績が、蜀を救うために軍事行動を開始させる(使役の「使」にて派遣する)。『建康実録』は「使」を「詔」に置き換え、同じように軍事行動を開始させる。

帝召羣臣於前殿議曰、「司馬氏得政已来、大難屡作、智力雖豊、而百姓未服。竭其資力、遠征巴蜀、兵労民疲、而不知恤、敗於不暇、何以能済。昔夫差伐斉、非不剋勝、所以危亡者、不憂其本、況彼之事地乎。

群臣が、蜀滅亡の有無を議論する。これは、孫晧伝 注引『襄陽記』に引く、張悌伝が出典である。裴松之注が付されたのは、孫晧伝のなかで張悌が死ぬ所だが、時系列としては、『建康実録』のいうように孫休末期が正しい。

孫晧伝 注引『襄陽記』:魏伐蜀、呉人問悌曰「司馬氏得政以来、大難屡作、智力雖豊、而百姓未服也。今又竭其資力、遠征巴蜀、兵労民疲而不知恤、敗於不暇、何以能済。昔夫差伐斉、非不克勝、所以危亡、不憂其本也、況彼之争地乎。」悌曰「不然。……下へ。

群臣のコメントは、『襄陽記』が出典。これに張悌が反論して、司馬氏を賛美するターンが始まる。

軍師将軍張悌対曰、「以臣愚料則不然。曹操雖功蓋天下、威震四海、崇詐仗術、征伐無已、民畏其威、不懐其徳。丕・叡承之、継以躁虐、内興官室、外拒雄豪、東西馳騁、無歳獲安、彼之失[人]、為日且久。司馬懿父子、自握其柄、累有大功、除其煩苛而示平恵、為之謀主以救其疾、民帰之亦已久矣。故淮南三叛、而腹心不擾。曹髦之死、而四方不動、摧堅敵如折枯、蕩異[国]如反掌、任賢使能、各尽其心、非智勇兼人、孰能如此。威武張矣、本根固矣、羣臣伏矣、奸計立矣。今蜀閹宦専朝、国無政令、而玩戎黷武、[民労本弊]。競於外利、不修守備。彼強弱不同、智算亦勝、因危而伐、殆其必剋乎。若不剋、不過無功、終無奔北之憂、覆軍之慮也、何為不可哉。昔楚剣利而秦昭懼、孟明用而晋人憂、彼之得志、我之大患也」。左右皆嗤之而未信。
校勘記:彼之失人 「人」,《吳志·孫皓傳》作「民」,蓋許嵩避唐諱改。
校勘記:蕩異國如反掌 陶札云:「《吳志》注《襄陽記》『國』作『同』,是也。」
校勘記:民勞本弊 《吳志·孫皓傳》注引《襄陽記》作「民勞卒弊」。

校勘記の指摘は正しいが、内容に影響しない。校勘記が指摘した字を[]で囲って位置を示し、段落の最後に校勘記をまとめておいてみました。
曹操・曹丕・曹叡は悪政をやり、司馬氏は徳政をしたから、淮南三叛があっても揺るがない。蜀は、宦官のせいで亡国して当然。そういう分析をした。だれにも信じてもらえなかったが、果たして的中したという話。

上の『襄陽記』続き:悌曰「不然。曹操雖功蓋中夏、威震四海、崇詐杖術、征伐無已、民畏其威、而不懐其徳也。丕、叡承之、係以慘虐、内興宮室、外懼雄豪、東西馳駆、無歳獲安、彼之失民、為日久矣。司馬懿父子、自握其柄、累有大功、除其煩苛而布其平恵、為之謀主而救其疾、民心帰之、亦已久矣。故淮南三叛而腹心不擾、曹髦之死、四方不動、摧堅敵如折枯、蕩異同如反掌、任賢使能、各尽其心、非智勇兼人、孰能如之。其威武張矣、本根固矣、羣情服矣、姦計立矣。今蜀閹宦専朝、国無政令、而玩戎黷武、民労卒弊、競於外利、不脩守備。彼彊弱不同、智算亦勝、因危而伐、殆其克乎。若其不克、不過無功、終無退北之憂、覆軍之慮也、何為不可哉。昔楚剣利而秦昭懼、孟明用而晋人憂、彼之得志、故我之大患也。」呉人笑其言、而蜀果降于魏。

出典の特定という意味では、孫晧伝 注引『襄陽記』と指摘したら充分。テキストの内容は、張悌の意見なので、なにかと比べることもできないから、これで充分。

冬十月、大将軍陸抗上表言成都不守、蜀主劉禅降。帝聞、深憶張悌之言、不楽。詔丁奉等還軍。

孫休伝は、劉禅の降伏は記されるが、冬十月に陸抗が上表したことはない。『三国志』後主伝(劉禅伝)は、「冬」に鄧艾が緜竹を突破したとあるのみで、月の記載がない。孫休伝の「来告」の時期を、転用したのか。

孫休伝:冬十月蜀以魏見伐、来告。……蜀主劉禅降魏、問至、然後罷。

巻六十五 華覈伝に、陸抗が上表したとある。上表の本文は載らず、華覈が言及するのみ。孫休伝の「冬十月」の「来告」と、華覈伝に見える陸抗の上表を、接続したと思われる。

華覈伝:蜀為魏所并、覈詣宮門、発表曰「間聞、賊衆蟻聚、向西境。西境艱険、謂、当無虞。定聞陸抗表至、成都不守、臣主播越、社稷傾覆。昔、衛為翟所滅、而桓公存之。今、道里長遠、不可救振、失委附之土、棄貢献之国。臣以草芥、窃懐不寧。陛下聖仁、恩沢遠撫、卒聞如此、必垂哀悼。臣、不勝忡悵之情、謹拝表以聞。」孫晧即位、……


張悌は、孫晧伝 注引『襄陽記』で、司馬氏が蜀を破ることを見通したが、みんなにバカにされた。蜀が降伏を聞くと、『建康実録』によると、孫休は「深憶張悌之言、不楽」と反応したというが、出典は不明。『建康実録』は、詔して丁奉らを(蜀への援軍から)還させたというが、これは孫休伝の「蜀主劉禅降魏、問至、然後罷」を、許嵩が地の文に直したものか。

癸未、災石頭小城西南一百八十丈。是月、詔分武陵為天門郡。

十月癸未に、建業の石頭小城が燃えたことは、孫休伝にそのままある。

孫休伝:冬十月蜀以魏見伐、来告。癸未、建業石頭小城火、焼西南百八十丈。

天門郡を分立させたことは、孫休伝に続き。

孫休伝:呂興、既殺孫諝、使使如魏、請太守及兵。丞相興、建取屯田万人以為兵。分武陵、為天門郡。

孫休伝は、呂興・孫諝・濮陽興などの動向が書かれているが、『建康実録』はスルーして、天門郡のことだけ拾っている。

永安七年

孫休伝に、春・夏の記事があるが、『建康実録』は省く。

孫休伝:七年春正月、大赦。二月鎮軍陸抗、撫軍歩協、征西将軍留平、建平太守盛曼、率衆、囲蜀巴東守将羅憲。夏四月魏将新附督王稚、浮海、入句章、略長吏賞林及男女二百餘口。将軍孫越、徼、得一船、獲三十人。


七年秋七月、海賊破海塩、殺司塩校尉駱秀、使中書郎劉川発「廬江」兵討之。復分交州置広州。
校勘記:使中書郎劉川發廬江兵討之 「廬江」,《吳志·孫皓傳》作「廬陵」。陶札云:「『廬江』乃『廬陵』之誤。」

七月に、司塩校尉の駱秀が殺され、中諸郎の劉川が廬陵から兵を発したことは、そのまま孫休伝。校勘記の言うように、「廬江」ではなく「廬陵」に作るべき。

孫休伝:秋七月海賊破海塩、殺司塩校尉駱秀。使中書郎劉川、発兵廬陵。豫章民張節等、為乱、衆万餘人。魏、使将軍胡烈、歩騎二万、侵西陵、以救羅憲。陸抗等、引軍退。復分交州、置広州。壬午、大赦。

豫章の叛乱、魏将の胡烈との戦いは、『建康実録』が省く。交州を分けて広州を置いたことは、孫休伝に基づく。壬午の大赦は、省かれる。採録の方針に、一貫性がない。

八月「癸未」、帝遇疾、口不能言、手書呼丞相濮陽興入、令太子𩅦出拝丞相、帝把興臂指𩅦託之。丙戌、帝崩於内殿。
校勘記:八月癸未 八月戊子朔,無癸未。《吳志·孫休傳》《通鑒》七八皆作「七月癸未」。
校勘記:丙戌帝崩於內殿 《吳志·孫休傳》《通鑒》七八皆云休崩於七月癸未。七月己未朔,癸未、丙戊皆在七月,未知孰是。

『建康実録』は「八月癸未」に、孫休に言語障害が生じたというが、校勘記にあるように、正朔および孫休伝に従い、七月癸未とすべきである。濮陽興が呼ばれ、太子の孫湾を託されたことは、孫休伝 注引『江表伝』。

孫休伝:癸未、休薨。
同注引『江表伝』:江表伝曰、休寝疾、口不能言、乃手書呼丞相濮陽興入、令子𩅦出拝之。休把興臂、而指𩅦以託之。

『建康実録』は、孫休の崩御を「丙戌」に作る。しかし、孫休伝・孫晧伝に、丙戌の記載がない。校勘記によると、正朔に照らせば、丙戌も七月である。つまり『建康実録』は、「八月丙戌」に孫休が崩御したというが、孫休伝・正朔によれば「八月」は明らかな誤りであるが、「丙戌」という情報が多くて卓越している。優れているのか、劣っているのか、分からない。

十二月、葬定陵。年二十四即位、在位七年、年三十、謚曰景皇帝。
校勘記:年三十 「三十」原作「三十一」。《吳志·孫休傳》《通鑒》七八胡注皆云休卒時,年三十。徐鈔本正作「三十」,今據改。

永安七年=元興元年、十二月、定陵に葬られた。これは、孫休伝・孫晧伝で分かる。

孫休伝:時年三十、諡曰景皇帝。
孫晧伝 元興元年:十二月孫休、葬定陵。

即位したとき24歳とするのは正解で、235年生まれ、258年に即位(258-235+1=24)。在位すること七年とするが、これは、258年~264年であり「七年」というカウントは正解。享年は、(264-235+1=30)となるので、孫休伝にあるように30歳とするべき。もともと孫休伝に「年三十」とあるのに、『建康実録』がわざわざ変えたということは、許嵩のなかに、「孫休伝の誤りを正してやろう」というモチベーションがあったと思われる。そうでないと、わざわざ変えて(そのせいで誤った)ことの説明がつかない。170706

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