孫呉 > 『建康実録』テキスト分析(後主=孫晧期)

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『建康実録』孫晧_元興・甘露・宝鼎

後主諱「皓」、字元宗、大帝孫、廃太子和之長子、一名彭祖、字皓宗。景帝永安元年、封烏程侯。
後主諱皓 「皓」,《吳志》本傳作「晧」,盧弼《三國志集解》云:「宋本『晧』作『皓』。」

孫晧の名と生まれ。孫晧伝でカバー可能。『建康実録』では「孫皓」の表記。

孫晧伝:孫晧、字元宗、権孫、和子也。一名彭祖、字晧宗。孫休立、封晧為烏程侯、遣就国。


永安七年=元興元年

七年八月、景帝崩。時蜀新亡、而交阯数叛、国内震懼、議立長君。而左軍万彧昔為烏程令。
校勘記:七年八月景帝崩 陶札云:「《吳志》孫休卒於永安七年七月癸未,推是年八月無癸未,《實錄》誤。」校勘記:左軍萬或 「左軍」,《吳志·孫皓傳》作「左典軍」。陶札云:「《實錄》脫『典』字。」

永安七年八月、景帝孫休が崩御したという。『建康実録』では、孫休が崩じたのは八月とする。『三国志』および正朔に拠れば、七月に崩御したことは、ほぼ明らかであるが、いちおう『建康実録』の内部では一貫している。

蜀が滅びたばかりなので、年長の皇帝がほしい(孫湾ではダメ)なのは、孫晧伝にある。孫晧伝は「左典軍」万彧が、孫晧を推薦する。校勘記にあるとおり、『建康実録』は「左軍」万彧とするが、誤り。

孫晧伝:休薨、是時蜀初亡、而交阯攜叛、国内震懼。貪得長君。左典軍万彧、昔為烏程令、


与皓相善、称、「皓才識明断、是長沙桓王之儔。又加之好学」、屡言之於丞相濮陽興与張布、遂言於朱太后、欲以後主為嗣。后曰、「我寡婦人、安知社稷之慮、苟呉国無殞、宗廟有頼、則可矣」。遂定議迎後主。

万彧が孫晧を推薦した事情は、孫晧伝。

孫晧伝:与晧相善、称、晧才識明断、是長沙桓王之畴也、又加之好学、奉遵法度、屡言之於丞相濮陽興左将軍張布。興布説休妃太后朱、欲以晧為嗣。朱曰「我、寡婦人、安知社稷之慮。苟呉国無損宗廟有頼、可矣」

濮陽興・張布・朱太后が同意して、孫晧を迎えたことは、ママ。

庚寅、即皇帝位、改元興元年、以濮陽興為侍中・丞相・領青州牧、上大将軍施績為左大司馬、丁奉為右大司馬、張布為驃騎将軍・加侍中、諸各増班秩。

『建康実録』では、八月庚寅に孫晧が即位して、改元する。しかし、孫晧伝は、日付の記述がない。七月の孫休の崩御から繋げるのみ。

孫晧伝:於是、遂迎立晧、時年二十三。改元、大赦。是歳於魏、咸煕元年也。

孫休の崩御を八月とする『建康実録』は、恐らく誤りであるが、孫晧の即位日付は、信頼できるのであれば、価値を見出したい。
孫晧の即位にともなう群臣の官爵上昇は、孫晧伝による。

孫晧伝:元興元年八月。以上大将軍施績、大将軍丁奉、為左右大司馬。張布為驃騎将軍、加侍中。諸増位班賞、一皆如旧。

孫晧伝によると、この官爵上昇から、八月のできごと。つまり『三国志』は、七月に孫休崩御・孫晧即位があり、八月に新体制の整備が行われた。
官爵の上昇は、孫晧伝だけで、『建康実録』の文を完成させることが出来ない。
濮陽興は、侍中・丞相・領青州牧とあるが、濮陽興が丞相となったのは、永安五年(二年前)である。巻六十四 濮陽興伝に「晧既践阼、加興侍郎、領青州牧」とあり、侍郎・領青州牧はこの時期。侍郎であって、侍中ではない。
『建康実録』は、施績・丁奉が、左右の大司馬となったことは、孫晧伝から拾える。張布を驃騎将軍・加侍中としたことも、孫晧伝による。

秋九月、貶太后為景皇后、称安定宮。追謚父和為文皇帝、改葬明陵、置園邑二百家、祖母王氏為大懿皇后、母何氏為文皇后、立夫人滕氏為皇后。

九月、孫休の皇后を、太后から皇后に戻したこと、孫和を文皇帝としたことなど、孫晧伝による。

孫晧伝:九月、貶太后為景皇后、追諡父和曰文皇帝、尊母何為太后。

しかし、孫和を明陵に改葬したり、祖母・母を追尊したことは、孫晧伝に見えない。

孫和伝:休薨、晧即阼。其年、追諡父和、曰文皇帝、改葬明陵、置園邑二百家、令丞奉守。
王夫人伝:和子晧立、追尊夫人曰大懿皇后、封三弟皆列侯。
何姫伝:晧即位、尊和為昭献皇帝、何姫為昭献皇后、称升平宮。同注引『呉録」:晧初尊和為昭献皇帝、俄改曰文皇帝。
滕夫人伝:晧即位、立為皇后、封牧高密侯、拝衛将軍、録尚書事。

『三国志』の夫人たちの列伝から、許嵩が拾い集めている。

◆滕皇后伝

滕后諱芳蘭、太常滕胤族女。父牧、五官中郎将。帝為烏程侯時納為妃、及此拝后、封〔牧〕高密侯。後寵衰、何太后保護常供養昇平宮天紀四年、隨帝北遷、薨於洛陽。
封高密侯 《吳志·妃嬪傳》作「封牧高密侯」。陶札云:「《實錄》脫『牧』字。」

滕夫人の名が「芳蘭」であることは、『建康実録』の独自情報。滕胤の族女であり、烏程侯の孫晧に嫁いだ。校勘記にあるように、高密侯となったのは、父の滕牧であり、『建康実録』に脱字がある。

孫晧滕夫人、故太常胤之族女也。胤夷滅、夫人父牧、以疎遠徙辺郡。孫休即位、大赦、得還、以牧為五官中郎。晧、既封烏程侯、聘牧女為妃。晧即位、立為皇后、封牧高密侯、拝衛将軍、録尚書事。後、朝士以牧尊戚、頗推、令諫争。而夫人寵漸衰、晧滋不悦、晧母何、恒左右之。又太史言、於運暦、后不可易。晧、信巫覡、故得不廃。常供養升平宮。牧、見遣居蒼梧郡、雖爵位不奪、其実裔也、遂道路憂死。長秋官僚、備員而已、受朝賀表疏如故。而晧内諸寵姫、佩皇后璽紱者多矣。天紀四年、随晧遷于洛陽。

のちに寵愛が衰え、洛陽で薨じたことは、滕夫人伝どおり。

冬十月、封景帝子𩅦為豫章王、次子𩃙為汝南王、次子壾為梁王、次子[亠先攴]為陳王、以礼葬魯育公主。

孫晧伝:十月封休太子𩅦為豫章王、次子汝南王、次子梁王、次子陳王、立皇后滕氏。

十月、孫休の子たちを諸王にして、孫晧の地位を固めた。さっき『建康実録』は、滕皇后を立てたとあったが、孫晧伝では「十月」の語のあとに記事がある。
『建康実録』は、魯育公主を礼葬したというが、どこから来たのか。少なくとも、孫晧伝にはない。

Wikipedia 孫魯育に、「後に娘婿の孫休が帝位に就くと、孫魯育の名誉は回復された。元興元年(264年)、孫皓によって改葬された」とあり、出典を『建康実録』とする。逆にいうと、比較対象がなくて、検証不能ということか。宿題!


◆孫魯育伝

魯育公主字小虎、大帝次女、歩后所生、適朱拠。初、全主譖王夫人并廃太子和、欲立魯(粛)王霸為嗣。朱主不聴、全主恨之。及少帝即位、孫儀謀殺孫峻事覚、伏誅。全主因譖朱主、埋於石子崗
校勘記:魯肅王霸 周鈔本批注云:「『肅』字疑衍。」

孫魯育のことは、母の歩夫人伝に見える。全夫人伝にも。

全夫人伝 注引『捜神記』:神記曰、孫峻殺朱主、埋於石子岡。帰命即位、将欲改葬之。冢墓相亜、不可識別……。はぶく。下の「案」と同じ内容。


案、《搜神記》:後主欲改葬主、塚瘞相亞、不可識別、而宮人頗有識主亡時衣服、乃使兩巫各住一処以伺其霊、使察戦監之、不得相近。久之、二巫各見一女、年三十餘、上著青錦束頭、紫白夾裳、丹綈絲屨、従石子崗上半崗、而以手抑膝長息、小住須臾、進一塚上便止、徘徊、奄然不見。二巫不謀而言同、遂開棺、衣服与所言同爾。

許嵩の自注は、上に引いた全夫人伝 注引『捜神記』に基づく。『建康実録』本文にするほど、歴史の流れにとって重要ではないが、おもしろいと思ったから、裴松之注から孫引きしたのだろう。


孫魯育のことは終わって、孫晧の政治開始である。

後主初即位、倹素、発優詔恤民、開倉振窮乏、料出宮女以配無妻者。禽獣擾於苑者皆放之。当時翕然称為明主。及得志、遂麄暴驕恣、多忌諱、好酒、愛殺人、小大失望。丞相濮陽興・侍中張布等窃悔立之。尚書万彧聞之而構於帝、帝潜怒、使収興・布等下獄。
校勘記:料出宮女以配無妻者 「料」,《吳志·孫皓傳》《通鑒》七八皆作「科」。

孫晧のの豹変というか、劣化ぶりは、孫晧伝と同注引『江表伝』に基づく。しかし、「殺人を愛す」とまでは、出典に見えない。

孫晧伝:晧既得志、麤暴驕盈、多忌諱、好酒色、大小失望。興・布、窃悔之。或以譖晧、十一月誅興布。 同注引『江表伝』:晧初立、発優詔、恤士民、開倉稟、振貧乏、科出宮女以配無妻、禽獣擾於苑者皆放之。当時翕然称為明主。

濮陽興・張布が後悔したことは、孫晧伝。許嵩が、ふたりの官職を加筆している。これを万彧がチクったことも、孫晧伝による。

十一月、詔徙興交州、布広州、並追道殺之、夷三族。

濮陽興を交州、張布を広州に徙したことは、孫晧伝では分からない。濮陽侯伝「俄彧、譖興布、追悔前事。十一年朔入朝、晧因収興布。徙広州、道追殺之、夷三族」とあり、濮陽興・張布は、広州に徙されたという。『建康実録』では、濮陽興は交州に行った。『建康実録』のほうが精度が高いのか、細分化の勇み足なのか。
『三国志集解』濮陽興伝には、とくに注釈なし。

◆濮陽興伝

興字子元、陳留人。父逸、漢末避乱江東。興少有「名理」、太祖時、為上虞令、遷尚書左曹・五官中郎将。使蜀、還拝会稽太守。琅琊王之在郡、興深相結。及王即位、徵為太常・衛将軍、封外黄侯。時厳密建丹楊湖田、作浦里塘、公卿議不定、興以為便、就之。遷丞相、与中軍督張布為表裏。
校勘記:興少有名理 「名理」,《吳志·濮陽興傳》作「士名」。

巻六十四 濮陽興による。上虞令、尚書左曹、五官中郎将、会稽太守、太常・衛将軍など列伝のまま。都尉の厳密が丹陽の湖田を、、は、『建康実録』永安三年で既出なので、重複である。濮陽興伝に、「興遷為丞相。与休寵臣左将軍張布、共相表裏」とあるから、「表裏」の語も、列伝を出典とする。

布小女時為美人、及布誅後、帝従容問美人曰、「父何在」。美人答曰、「為賊所殺」。帝怒、又殺美人。後思之、問左右、左右答、「美人有姉適衛尉馮朝子純、即布長女也」。後主奪之、入宮拝為左夫人、極寵、廃朝事。

張布の娘のことは、何姫伝 注引『江表伝』が出典。

何姫伝 注引『江表伝』:晧以張布女為美人、有寵、晧問曰「汝父所在。」答曰「賊以殺之」晧大怒、棒殺之。後思其顔色、使巧工刻木作美人形象、恒置座側。問左右「布復有女否。」答曰「布大女適故衛尉馮朝子純。」即奪純妻入宮、大有寵、拝為左夫人、昼夜与夫人房宴、不聴朝政、使尚方以金作華燧、歩搖、仮髻以千数。……


十二月、司馬昭為魏相国、遣使徐紹齎書来、陳事勢利害。

十二月、孫休を定陵に葬ったことは、すでに『建康実録』孫休のところにあった。司馬昭の使者・徐紹が利害を説いたことは、孫晧伝に見える。

孫晧伝:十二月孫休、葬定陵。封后父滕牧、為高密侯〔二〕、舅何洪等三人皆列侯。是歳、魏置交阯太守之郡。晋文帝、為魏相国、遣昔呉寿春城降将徐紹、孫彧、銜命齎書、陳事勢利害、以申喻晧〔三〕。

孫晧伝 注引『漢晋春秋』には、司馬昭から孫晧への書翰が載るが、『建康実録』は引用しない。

元興二年=甘露元年

孫晧伝は「甘露元年」から始まるが、これは年内の改元のため。

元興二年春正月、分呉郡・丹楊等九県為呉興郡、治烏程。二月、使光禄大夫紀陟・五官中郎将弘璆隨紹報魏、書両頭言白、不著姓、司馬昭銜之。
五官中郎將弘璆隨紹報魏 「弘璆」,《通鑒》七九作「洪璆」。「隨紹」二字它本皆空缺,周鈔本作「奉書」,徐鈔本作「隨紹」,似皆為後人據文意增補,唯徐鈔本與《吳志·孫皓傳》合,今姑從之。

『建康実録』は正月に呉興郡を分立したとするが、孫晧伝だと、宝鼎元年である。『三国志集解』孫晧伝に、とくにコメントなし。『晋書』地理志は、呉興郡は孫晧が立てたとあるだけで、いつとは書いてない。『建康実録』が、宝鼎元年を甘露元年と誤ったか。
紀陟・弘璆(もしくは洪璆)が、司馬昭への返礼をしたのは、『建康実録』は二月で、孫晧伝は三月とする。孫晧伝では、孫晧が届けた文書に「今、遣光禄大夫紀陟・五官中郎将弘璆」とあるのを、許嵩が地の文に直したもの。
孫晧伝 注引『江表伝』に「晧書両頭言白、称名言而不著姓」とあり、出典である。

陟之奉使也、入境問諱、入国問俗。至魏、魏将王布示之馬射、而問陟曰、「呉之君子亦能此否。陟答曰、「此軍人騎卒之肄業也、非士君子之所宜為業」。布大慙。陟等既至、魏司馬昭問、「来時呉主如何」。対曰、「来時皇帝臨軒、百官陪位」。昭饗陟、百寮畢会。問陟曰、「彼戌備幾何」。答曰、「自西陵至江都、五千七百里」。昭曰、「道里甚遠、難為堅固」。答曰、「疆界雖遠、而其険悪必争之地、不過数四、猶人雖有八尺之体靡不受患、至於防護風寒亦数処耳」。昭善之、厚礼而還

紀陟が、魏の司馬昭への使者となったことは、孫晧伝 注引『晋紀』。入境すると、諱を問い、呉の防備について答えて、司馬昭に屈しなかった。

孫晧伝 注引『晋紀』:陟・璆奉使如魏、入境而問諱、入国而問俗。寿春将王布示之馬射、既而問之曰「呉之君子亦能斯乎。」陟曰「此軍人騎士肄業所及、士大夫君子未有為之者矣。」布大慚。既至、魏帝見之、使儐問曰「来時呉王何如。」陟対曰「来時皇帝臨軒、百寮陪位、御膳無恙。」晋文王饗之、百寮畢会、使儐者告曰「某者安楽公也、某者匈奴単于也。」陟曰「西主失土、為君王所礼、位同三代、莫不感義、匈奴辺塞難羈之国、君王懐之、親在坐席、此誠威恩遠著。」又問「呉之戍備幾何。」対曰「自西陵以至江都、五千七百里」又問曰「道里甚遠、難為堅固。」対曰「疆界雖遠、而其険要必争之地、不過数四、猶人雖有八尺之躯靡不受患、其護風寒亦数処耳。」文王善之、厚為之礼


夏四月、甘露降蒋陵。五月、大赦、改甘露元年。
秋七月、逼殺景皇后朱氏於苑中小屋、治喪、内外知其非疾、皆痛之。又遷其四子於呉、道追殺𩅦・𩃙二人。后、太祖女魯育公主生、父拠、赤烏末、太祖納為琅琊妃。

四月に蒋陵に甘露が降った。改元したのが翌五月であることは、『建康実録』のほうが孫晧伝より詳しい。
七月、景皇后の朱氏を殺し、孫休の四子を追放し、年長の二子を殺したことは、孫晧伝から分かる。『建康実録』は、孫休の子の名を補うという、親切さを発揮する。

孫晧伝:夏四月蒋陵言、甘露降。於是、改年大赦。秋七月晧逼殺景后朱氏。亡不在正殿、於苑中小屋治喪、衆知其非疾病、莫不痛切。又、送休四子於呉小城、尋復追殺大者二人。

殺された朱氏が、孫魯育と朱拠の子で、赤烏末に琅邪王妃となったとあるが、これは許嵩が、孫休朱夫人伝に基づいて、解説をつけたもの。

朱夫人伝:孫休朱夫人、朱拠女、休姊公主所生也。赤烏末。権為休納、以為妃。


案、《呉書》:初、孫峻既用全主讒殺朱主、後隨王在郡、王懼、遣後還建業、執手泣別。及至、峻遣後就王。太平中、少帝知朱主為全主譖害、鞫問朱主死意。全主懼、答:「皆拠二子熊、損所白。」帝遂殺熊、損。損妻、峻妹也。孫綝益忌、遂謀廃帝、立琅琊王。王即位、永安五年、立為皇后。七年、景帝崩、羣臣上尊号為皇太后。後主即位、貶為景帝後。是年見殺、合葬定陵。

許嵩の自注で『呉書』にあるように、と断っているが、これは『三国志』孫休朱夫人伝に基づく。

九月、西陵督歩闡上表、請徙都武昌、後主納之。鎮西将軍陸凱見揚土百姓泝流供給為患、又時政多謬、黎元窮匱、乃進表諫帝、言、「武昌土地、危険磽埆、非王都安国養民。故先帝嫌之、遷都於此、且黄龍初有謡云、『寧帰建業死、不就武昌居』。今陛下動、不遵先王之法、而復苦【原闕】

九月、歩闡が武昌への遷都を上表したのは、孫晧伝による。

孫晧伝:九月、従西陵督歩闡表、徙都武昌。御史大夫丁固、右将軍諸葛靚、鎮建業。

陸凱伝によると、「孫晧立、遷鎮西大将軍、都督巴丘、領荊州牧、進封嘉興侯。……宝鼎元年、遷左丞相。晧性不好人視己、羣臣侍見、皆莫敢迕」とある。陸凱は、孫晧が即位すると鎮西大将軍となり、宝鼎元年、左丞相となる。
『建康実録』の現在は甘露元(265)年で、陸凱伝の記事は、宝鼎元(266)年よりも後にある。
陸凱伝は、宝鼎元年より後の記事として、「晧、徙都武昌。揚土百姓、泝流供給、以為患苦。又政事多謬、黎元窮匱。凱、上疏曰……」とある。許嵩の順番が逆転していると思いきや、孫晧の遷都は、甘露元(265)年なので(孫晧伝)、陸凱伝の記述順がおかしいのでは、という気もしている。

もしも遷都(の検討)が、複数回あるなら、許嵩の勇み足。孫晧による、1回目の遷都=甘露元(265)年に、陸凱の意見を安易にくっつけてはいけない。

『建康実録』は、この甘露元(265)年の陸凱の官職を「鎮西将軍」と補っており、陸凱伝にある、「宝鼎元(266)年に左丞相になった」と整合する。

甘露元(265)年の時点では、左丞相になる前なので、鎮西大将軍なのだから。「大」字に異同はありますが。


つづく陸凱伝に「又、武昌土地、実危険而塉确、非王都安国養民之処。船泊、則沈漂。陵居、則峻危。且、童謡言「寧飲建業水、不食武昌魚。寧還建業死、不止武昌居」とあり、『建康実録』の出典となっている。

即日、大駕将発、留御史大夫丁固・右将軍諸葛靚守建業。
校勘記:丁固右將軍諸葛靚守建業 「建業」以上九字,各本皆缺,今據徐鈔本及《通鑒》七九補。《吳志·孫皓傳》同,唯「守」作「鎮」。

歩闡が遷都を提案して、「即日」孫晧が出発したというのが、『建康実録』の書き方。孫晧伝は、即日とまでは分からないが、ともあれ遷都した。丁固が建業を守ったことは『建康実録』にあり、諸葛靚も建業を守ったことは、校勘記が復元している。妥当であろう。

孫晧伝:九月、従西陵督歩闡表、徙都武昌。御史大夫丁固、右将軍諸葛靚、鎮建業。


冬十月、使大鴻臚張儼・五官中郎将丁忠於魏弔祭司馬文王。後主謂儼曰、「今南北通好、以卿有出境之才、故相屈行」。儼対曰、「皇皇者華、臣蒙其栄、懼無古人延誉之美、謹厲鋒鍔、思不辱命」。既至、晋賈充・裴秀皆不能屈、羊祜等与結縞帯之好。

甘露元年十月、張𠑊・丁忠が司馬昭を弔祭させたある。しかし、孫晧伝は、翌年の宝鼎元年正月、晋文帝を弔祭したとする。二ヵ月、前倒しされている。というか、『建康実録』の誤りである。
孫晧から張𠑊に話し掛けているが、これは、孫晧伝 宝鼎元年 注引『呉録』。

孫晧伝 注引『呉録』:使於晋、晧謂儼曰「今南北通好、以君為有出境之才、故相屈行。」対曰「皇皇者華、蒙其栄耀、無古人延誉之美、磨厲鋒鍔、思不辱命。」既至、車騎将軍賈充・尚書令裴秀、侍中荀勖等欲慠以所不知而不能屈。尚書僕射羊祜、尚書何楨並結縞帯之好。

そうか!なるほど。
孫晧伝 宝鼎元年によると、張𠑊は晋に行って、帰り道に死んでいる。つまり孫晧は、復命した張𠑊と話すことができない。張𠑊と孫晧の会話を、晋に出発する前に置いたのは、許嵩なりに時系列を工夫したのかも知れない。
ここで十月に「司馬昭を弔祭」とあるが、十月は呉を出発した時期であり、実際に弔祭をおこなったのは、魏に到達した翌年正月のことである。これで決着か。
賈充・裴秀・羊祜は、『呉録』に見える。『呉録』では、晋臣たちの官職を記すが、ここでは『建康実録』がそれを省いている。呉臣の官職は(誤ってることが多いが)原典に加算し、晋臣の官爵は減算するという姿勢が見られる。

十一月、後主至武昌、大赦。分零陵南部為始安郡、分桂陽南部為始興郡。 十二月、晋受魏禅。

十一月、孫晧が武昌に到着して、大赦した。始安郡・始興郡を作った。十二月、魏晋革命。いずれも、孫晧伝に沿っている。

孫晧伝:陟璆至洛、遇晋文帝崩、十一月乃遣還。晧、至武昌、又大赦。以零陵南部、為始安郡。桂陽南部、為始興郡。十二月晋受禅。


甘露二年=宝鼎元年

甘露二年春正月、張儼・丁忠等使晋還、儼道遇病卒、而忠独帰、言北方無戦備、且弋陽可襲而取。

正月、張𠑊・丁忠が晋から還り、張𠑊が道中で死んだことは、孫晧伝のまま。丁忠が、弋陽を取れると言ったのは、孫晧伝のまま。

孫晧伝:忠説晧曰「北方守戦之具不設。弋陽可襲而取」


後主大悦、信之、因置酒会公卿大飲、令左右相嘲為楽。常侍王蕃嘲尚書万彧曰、「魚潜於「泉」、出水吹沫、何則。物有本性、不可横処非分。彧出自溪口、羊質虎皮」。彧答曰、「唐虞之朝、無謬挙之才、造父之側無駑蹇之乗」。
校勘記:魚潛於泉 「泉」,《吳志·王蕃傳》注引《吳錄》作「淵」,蓋許嵩避唐諱改。

弋陽のチャンスを信じて孫晧が置酒したのは、孫晧伝にない。巻六十五 王蕃伝 注引『呉録』に、関連する記事がある。しかし、この甘露二年の出来事であることは分からない。「晧毎於会、因酒酣」という、時期不定の酒宴である。

王蕃伝 注引『呉録』:呉録曰、晧毎於会、因酒酣、輒令侍臣嘲謔公卿、以為笑楽。万彧既為左丞相、蕃嘲彧曰「魚潜於淵、出水煦沫。何則。物有本性、不可横処非分也。彧出自谿谷、羊質虎皮、虚受光赫之寵、跨越三九之位、犬馬猶能識養、将何以報厚施乎。」彧曰「唐虞之朝無謬挙之才、造父之門無駑蹇之質、蕃上誣明選、下訕楨幹、何傷於日月、適多見其不知量耳。」
臣松之按本伝云丁忠使晋還、晧為大会、於会中殺蕃、検忠従北還在此年之春、彧時尚未為丞相、至秋乃為相耳。呉録所言為乖互不同。

王蕃が、万彧を嘲る。『建康実録』では、「尚書万彧」を嘲るが、『呉録』では「万彧はすでに左丞相で」とあり、万彧の官職が異なる。しかし、万彧がつくのは右丞相なので、『呉録』の誤りが疑われる。『呉録』の「左丞相」を、許嵩が「尚書」に改めていることをもって、許嵩を誤りとすることはできない。
裴松之によると、この年の秋に万彧が丞相になるので、時系列が合わないとする。つまり、晋から丁忠が帰国したあとの置酒が、いつ行われたかは、裴松之も困った問題。万彧の官職を書き換えることで、許嵩なりに解決を試みたのである。「許嵩は、作業がザツすぎて、史家として信頼できない」とは、言えないはず。

王蕃の起こしたトラブル、続きがある。

由是銜之、蕃既沈酔、後主輿出、因請還。蕃為人有威儀、行動自若、後主不悦。時万彧・陳声等承顔争毀之、後主大怒、叱左右収殿下斬之。太常滕「牧」・征西「留」平等苦請、不得。
校勘記:膝牧 原誤作「滕收」,徐鈔本、周鈔本、《吳志·孫皓傳》《妃嬪傳》及《通鑒》七九及本巻下文皆作「滕牧」,今據改。 留平 原作「劉平」,留平為吳臣留贊子,當姓留。今據《吳志·孫皓傳》《王蕃傳》《鐘離牧傳》注引《會稽典錄》及《通鑒》七九改。

上で、王蕃伝 注引『呉録』から入ったが、これは王蕃伝の本文を出典とする。

王蕃伝:孫晧初、復入為常侍、与万彧同官。彧与晧有旧、俗士挟侵、謂蕃自軽。又中書丞陳声、晧之嬖臣、数譖毀蕃。蕃、体気高亮、不能承顔順指、時或迕意、積以見責。甘露二年。丁忠、使晋還、晧大会羣臣。蕃、沈酔頓伏、晧疑而不悦、轝蕃出外。頃之、請還、酒亦不解。蕃、性有威厳、行止自若。晧大怒、呵左右於殿下斬之。衛将軍滕牧、征西将軍留平、請不能得

さっき「時期不定」と言ってしまったが、王蕃伝によれば、『建康実録』の当該する甘露二年、丁忠が晋から還って、群臣と大会したとある。これが出典でした。
王蕃伝では、「衛将軍の滕牧」「征西将軍の留平」が出てくる。校勘記は、姓名を修正しているが、それでもなお、変更されており、『建康実録』では「太僕の滕牧」である(留平の将軍号「征西」は一致)。

◆王蕃伝

王蕃字永元、廬江人。博学多聞、自尚書郎去官、帰読書。景帝即位、与賀邵入為常侍。性切直、処朝謇諤、陸凱重之。時年三十九。
案、《江表傳》:後主将徙武昌、問蕃「射不主皮」、蕃不時答、後主怒之、即於殿上斬蕃。出登来山、令親近将跳蕃頭、作虎狼争咋、頭皆碎、以示威、使無敢犯者。与《呉録》不同。

巻六十五 王蕃伝が出典。「始為尚書郎、去官」と列伝にあるのみ。「読書」したのは、許嵩が書き加えたか。賀斉とともに常侍になったとあるが、王蕃伝では「孫休即位、与賀邵、薛瑩、虞汜、俱為散騎中常侍、皆加駙馬都尉」とあり、大幅な節略がある。享年三十九は、王蕃伝どおり。
許嵩の自注で「案」じられている『江表伝』は、王蕃伝 注引である。


丁忠から晋から帰還した酒宴から派生して、王蕃の記事が長かったが、ふたたび編年に戻る。

二月、後主既得丁忠定議、欲北伐。右司馬丁奉言忠不可信、師出必無功。後主大怒、不納。大将軍陸凱等固諫不可、乃止。於是自絶於晋。

孫晧が北伐を考えたことは、孫晧伝に「忠説晧曰、北方守戦之具不設。弋陽可襲而取」とあり、許嵩が地の文にしたのは分かる。しかし、これが二月であることは、孫晧伝で決まらない。
右司馬の丁奉が「丁忠は信じられない」と反対したとあるが、出典をまだ見つけていない。陸凱が反対したことは、とりあえず孫晧伝に見える。陸凱の言い分は、許嵩が地の文に置き換えている。

孫晧伝:鎮西大将軍陸凱曰「夫、兵不得已而用之耳。且、三国鼎立已来、更相侵伐、無歳寧居。今、彊敵新并巴蜀、有兼土之実、而遣使求親、欲息兵役。不可謂、其求援於我。今敵形勢方彊、而欲徼幸求勝。未見其利也」


秋八月、因得大鼎、改元為宝鼎元年、大赦。以鎮西将軍陸凱為大丞相、常侍万彧為右丞相。
校勘記:以鎮西將軍陸凱為大丞相 「大丞相」,《吳志·陸凱傳》作「左丞相」。陶札云:「『大丞相』」乃『左丞相』之訛。」陶說是,本巻下文亦作「左丞相」。

八月、大鼎が見つかり、改元したこと。陸凱・万彧を左右丞相にしたことは、孫晧伝のまま。校勘記の言うように、陸凱は「大丞相」ではない。課題なし。

孫晧伝:八月所在言、得大鼎。於是、改年、大赦。以陸凱為左丞相、常侍万彧為右丞相。


冬十月、以永安山賊施但等反、劫後主弟永安侯謙為主、出烏程、取故太子和陵上鼓吹曲蓋、北入建業、衆万餘人。丁固・諸葛靚等逆討於九里汀之牛屯、獲謙、酖殺之。

十月、施但がそむき、孫謙を担いだ。丁固・諸葛靚が、迎え撃ったことは、孫晧伝のまま。『建康実録』は孫謙を捕らえて、酖殺したとあり、これは孫和伝 注引『呉録』も基づいた考察。下に引用した。

孫晧伝:冬十月永安山賊施但等、聚衆数千人、劫晧庶弟永安侯謙、出烏程、取孫和陵上鼓吹曲蓋。比至建業、衆万餘人。丁固、諸葛靚、逆之於牛屯、大戦。但等敗走、獲謙。謙自殺。


◆孫謙伝

謙字公遜、太祖孫、故太子和次子、景帝封永安侯。
永安、今在湖州武康県。案、《呉録》:施但等見後主上武昌、遂謀反、劫謙、至秣陵、欲立為帝。擇日使召留後丁固、諸葛靚。靚乃与丁固等拒破之。

永安侯の孫謙のことは、孫和伝などに見えるが、あざなは「公遜」であったことは、出典が分からない。少なくとも、『三国志』ではヒットしない。
許嵩が「案」じた『呉録』は、孫和伝 注引『呉録』。

『呉録』:晧在武昌、呉興施但因民之不堪命、聚万餘人、劫謙、将至秣陵、欲立之。未至三十里住、択吉日、但遣使以謙命詔丁固、諸葛靚。靚即斬其使。但遂前到九里、固、靚出撃、大破之。但兵裸身無鎧甲、臨陳皆披散。謙独坐車中、遂生獲之。固不敢殺、以状告晧、晧之、母子皆死。


初、望気者云、荊州有天子気、破揚州而建業宮不利、故後主上武昌、仍使掘破荊州界大臣各塚断其山崗。而但等果反、後主自以為得計、聞但平、後乃使百餘精甲鼓噪入建業、殺謙妻子、号曰、「天子使荊州兵来、破揚州賊」、以厭其気。

望気者が、荊州に天子の気があるといい、孫晧が武昌に遷都した。云々。出典は『漢晋春秋』のみで完結する。

孫晧伝 注引『漢晋春秋』:初望気者云荊州有王気破揚州而建業宮不利、故晧徙武昌、遣使者発民掘荊州界大臣名家冢与山岡連者以厭之。既聞但反、自以為徙土得計也。使数百人鼓譟入建業、殺但妻子、云天子使荊州兵来、破揚州賊、以厭前気。


分会稽為東陽郡、分呉・丹楊為呉興郡、以零陵北部為邵陵郡。

孫晧伝は、孫謙の事件のあと、「十一月」より前に、つまり十月のうちに、「分会稽為東陽郡。分呉、丹楊、為呉興郡。以零陵北部、為邵陵郡」とする。許嵩はそのまま引く。

十一月、将欲還建業、左丞相・大将軍陸凱諫曰:臣聞有道之君、以楽楽民。無道之君、以楽楽身。楽民者、其楽弥長。楽身者、不久而亡。夫民、国之根也、誠宜重其食、愛其命。民安則君安、民楽則君楽。自頃年已来、君威傷於桀・紂、君明暗於奸雄、君恵閉於羣孽。無災而民命尽、無為而国財空、辜無罪、賞無功、使君有謬誤之愆、天為作妖。公卿媚上以求愛、困民以求饒、導君於不義、敗政「滛」俗、臣窃為痛心。今鄰国交好、四辺無事、当務息役養士、実其廩庫、以待天時。而更遷徙傾動、搔擾百姓、民吏不安、大小呼嗟、此非保国養民之術也。
校勘記:敗政滛俗 「滛」原作「傜」。今據徐鈔本、甘鈔本、周鈔本及《吳志·陸凱傳》改。

『建康実録』によると、十一月、建業に遷都しなおそうとして、左丞相・大将軍の陸凱が、諫止する。孫晧伝では、十二月に建業に遷都しなおしたという結末しかない。陸凱の言い分は、巻六十一 陸凱伝にある。

陸凱伝:宝鼎元年、遷左丞相。晧性不好人視己、羣臣侍見、皆莫敢迕。……晧、徙都武昌。揚土百姓、泝流供給、以為患苦。又政事多謬、黎元窮匱。凱、上疏曰、臣聞、有道之君、以楽楽民。無道之君、以楽楽身。……此、非保国養民之術也。

ここでは、陸凱伝の引用はしない。出典の特定は完了したから。

宝鼎元年は続いていますが、陸凱が、建業→武昌→建業という、往復の遷都に諫言したところで、長文の諫言が引かれている。
すでに引用があった、陸凱の言う「童謡言、寧飲建業水、不食武昌魚。寧還建業死、不止武昌居」というのは、陸凱伝では、ここに出てくる。

後主大怒、発凱前後諫表、使近臣趙欽以口詔報凱、曰、「卿往表言朕不遵先帝、有何不平。君諫非也。但建業宮不利、故避之、而西宮衰耗、可不得徙乎。凱因重上疏、言後主不遵先帝二十事、曰:

後主=孫晧が、趙欽を遣わして、陸凱を咎めたことは、陸凱伝。

陸凱伝:晧遣親近趙欽、口詔報凱前表、曰「孤、動必遵先帝、有何不平。君所諫、非也。又建業宮不利、故避之。而西宮室宇摧朽、須謀移都。何以不可徙乎」凱、上疏曰、


◆陸凱の諫言二十条

○臣窃見陛下親政已来、陰陽不調、五星失晷、職司不忠、奸党相扶、是陛下不遵先帝之所致。夫王者之興、受之於天、修之由徳、豈在宮乎。而陛下盛意駆馳、六軍流弊、縦陛下一身安、奈百姓愁苦何。此不遵先帝一也。 ○臣聞有国以賢為本、夏殺龍逢、殷獲伊摯、斯前代之明効、今日之師表也。常侍王蕃黄中通理、処朝忠謇、斯社稷之重鎮、大呉之龍逢、而陛下忿其苦詞、悪其直対、梟之殿堂、屍骸暴棄。邦内傷心、有職悲悼、咸以呉国夫差復存。以先帝親賢、陛下反棄之、是不遵先帝二也。 ○臣聞宰相国之柱也、不可不強、是故漢有蕭・曹之佐、先帝有顧・歩之相。而万彧瑣才凡庸之質、昔従家隸、超歩紫闥、於彧已豊、於器已溢、陛下愛其細介、不訪大趣、栄以尊輔、 榮以尊輔 「榮」原作「策」,今據庫本、徐鈔本、周鈔本及《吳志·陸凱傳》改。 越尚旧臣。賢良憤慨、智士赫吒、是不遵先帝三也。 ○先帝愛民過於嬰孩、民無妻者以女妻之、 民無妻者以女妻之 「女」,《吳志·陸凱傳》作「妾」,當是。 見単衣者以帛給之、枯骨不収取而埋之。陛下反之、是不遵先帝四也。 ○昔桀・紂滅由妖婦、幽・厲乱由嬖妾、先帝鑒之、以為身戒、故左右不置淫邪之色、後房無曠積之女。今中官万数、不備嬪嬙、外多寡夫、 外多寡夫 陶札云:「《吳志·陸凱傳》作『外多鰥夫』,是也。」 女吟於内。風雨逆度、正由此起、是不遵先帝五也。 ○先帝憂労万機、猶懼有失。陛下臨祚已来、游戯後宮、眩惑婦女、乃今庶事多曠、下吏容奸、是不遵先帝六也。 乃今庶事多曠 陶札云:「《吳志·陸凱傳》『今』作「令』,是也。」 ○先帝篤尚樸素、服不純麗、宮無高台、物無雕飾、故国富民充、奸盜不作。而陛下徵調州郡、竭其財力、土被玄黄、宮有朱紫、是不遵先帝七也。 ○先帝外仗顧・陸・歩・張、 外仗顧陸步張 「步」,《吳志·陸凱傳》作「朱」。 内近胡綜・薛綜・是以庶績雍煕、邦内清粛。今者外非其任、内非其人、陳声・曹輔、斗筲小吏、先帝所棄、陛下幸之、是不遵先帝八也。 ○先帝毎晏羣臣、抑損醇醴、臣下終日無失慢之色、百寮庶尹、並展所陳。而陛下拘以瞻視之敬、懼以不尽之酒。夫酒以成礼、過則敗徳、此無異商辛長夜之飲、是不遵先帝九也。 ○昔漢桓・霊、親近宦豎、大失民心。今高通・詹廉・羊度、黄門小人、而陛下賞以重爵、権以戦兵。若江渚有難、烽燧卒起、則度等之武不能禦侮明矣、是不遵先帝十也。 ○今宮女曠積、而黄門復走州郡、條牒民女、有銭則捨、無銭則取、怨吁道路、母子死訣、是不遵先帝十一也。 ○先帝時養諸王太子、若取乳母、其夫復役、賜与銭財、給其資糧、時遣帰来、視其弱息。今則夫婦生離、夫故作役、児従後死、家唯空戸、是不遵先帝十二也。 ○先帝嘆曰、「国以民為本、民以食為天。 國以民為本民以食為天 「本」下「民」字原缺,今據甘鈔本、徐鈔本及《吳志·陸凱傳》補。 衣其次之、三者、朕存之於心」。今則農桑並廃、是不遵先帝十三也。 ○先帝簡士、不拘卑賎、任之郷閭、効之於事、挙者不虚、受者不妄。今則浮華者登、朋党者進、是不遵先帝十四也。 ○先帝戦士、不給他役、使春惟知農、秋惟収稲、江渚有事、責其死効。今之戦士、供給衆役、廩賜不贍、是不遵先帝十五也。 ○夫賞以勧功、罰以禁邪、賞罰不明、則士民散。今江辺将士、死不見哀、労不見賞、是不遵先帝十六也。 ○今所在監司、已為煩猥、兼有内使、擾乱其中、一民十吏、何以堪命。昔景帝時、交阯之乱、実由茲起、是為遵景帝之闕、不遵先帝十七也。 ○夫校事之吏、民之仇讎、先帝末年、雖有呂壱・銭欽、尋皆誅夷、以謝百姓。今復張立校曹、縦吏言事、是不遵先帝十八也。 ○先帝時、居官者咸久於位、然後考績黜陟。今蒞政無幾、便即徵召遷転、迎新送故、紛紜道路、傷財害民、於是為甚、是不遵先帝十九也。 ○先帝毎察竟解之奏、常留心推按、是以獄無冤囚、死者吞声。今則違之、是不遵先帝二十也。 若臣言可録、蔵之盟府、如其虚妄、治臣之罪。願陛下留意焉。後主大怒、為其重臣、難以法縄、忍之。

陸凱伝が出典であることは分かるので、分析は後回し。

十二月、還自武昌、留衛将軍滕牧鎮武昌。

孫晧伝に「十二月晧、還都建業。衛将軍滕牧、留鎮武昌」とある。陸凱の諫止を顧みず、けっきょく武昌から建業に、また戻ってきた。『建康実録』は、建業が主体の本だから、孫晧伝みたいに「建業に都す」とせず、「武昌より還る」とだけ作る。

宝鼎二年

孫晧伝の「二年春、大赦。右丞相万彧、上鎮巴丘」はスルー。

二年夏六月、起新宮於太初之東、制度尤広、二千石已下皆自入山督摂伐木。又攘諸営地、大開苑囿、起土山作楼観、加飾珠玉、制以奇石、左彎崎、右臨硎。又開城北渠、引後湖水激流入宮内、巡繞堂殿、窮極伎巧、功費万倍。

宝鼎二年六月、新宮を太初の東に建てたことは、孫晧伝に関連すると思しき記述がある。

夏六月起顕明宮〔一〕。
同注引:太康三年地記曰、呉有太初宮、方三百丈、権所起也。昭明宮方五百丈、晧所作也。避晋諱、故曰顕明。
同注引:呉歴云。顕明在太初之東
江表伝曰、晧営新宮、二千石以下皆自入山督摂伐木。又破壊諸営、大開園囿、起土山楼観窮極伎巧、功役之費以億万計。陸凱固諫、不従。

『建康実録』にある「加飾珠玉、制以奇石、左彎崎、右臨硎。又開城北渠、引後湖水激流入宮内、巡繞堂殿」は、孫晧伝 裴松之注に対応巣る表現がなく、浮いてしまう。

案、《輿地志》:太祖鑿城北溝、北接玄武湖、後主所引湖内水、並解在前巻。晋左太衝作《呉都賦》曰:「東西膠葛、南北崢嶸。房櫳対榥、連閣相経。閽闥詭譎、異出奇名。左称彎崎、右号臨硎。雕欒鏤楶、青鎖丹楹。図以雲気、畫以仙霊。」又曰:「高門有閌、洞門方軌。朱闕雙立、馳道如砥。樹以青槐、亙以淥水。玄陰耽耽、清流亹亹。列寺七里、夾棟陽路。屯営櫛比、廨署棋布。横塘查下、邑屋隆誇。長千延属、飛甍舛互。」案、《宮城記》:呉時自宮門南出、夾苑路至朱雀門七八里、府寺相属。横塘、今在淮水南、近陶家渚、俗謂回軍毋洑。古来縁江築長堤、謂之横塘。淮在北、接柵塘、在今秦淮逕口。呉時夾淮立柵、自石頭南上十里至查浦、查浦南上十里至新亭、新亭南上二十里至孫林、孫林南上二十里至板橋、板橋上三十里至烈洲。洲有小河、可止商旅以避烈風、故名烈洲。又洲上有小山、形如慄、亦謂之慄洲。呉時烈洲長封洲一百二十歩。長干已注、解在前巻。

許嵩の自注に、地理のことがあるから、比較不能なので、また今度。

時大将軍陸凱・徐陵亭侯華覈上書諫曰、「敵国強大、西蜀傾覆、深可為憂。臣以為安撫修徳在急、而功作無益於時」。後主不納。

『建康実録』は、陸凱・華覈の上書を載せる。しかし、巻六十 鍾離牧伝に似る。

鍾離牧伝:牧、問朝吏曰「西蜀傾覆、辺境見侵。何以禦之」皆対曰「今二県山険、諸夷阻兵。不可以軍驚擾、驚擾則諸夷盤結。宜以漸安、可遣恩信吏、宣教慰労」牧曰「不然。外境内侵、誑誘人民。当及其根柢未深而撲取之。此、救火貴速之勢也」敕外趣厳。掾史沮議者、便行軍法。撫夷将軍高尚、説牧曰「昔、潘太常、督兵五万。然後、以討五谿夷耳。是時、劉氏連和、諸夷率化。今、既無往日之援、而郭純已拠遷陵。而明府、以三千兵深入、尚未見其利也

「時に益なし」は、「なおいまだその利を見ず」に似る。許嵩のアレンジ。

覈為兼東観令、領右国史。累陳譲表、後主使人謂曰、「東観儒林之府、非名学碩儒、無以任其職。以卿研精墳典、与班・張・楊・蔡為儔故授、何乃謙光而自菲薄」。

巻六十五 華覈伝にが出典である。

書奏、晧不納。後、遷東観令、領右国史。覈、上疏辞譲、晧答曰「得表。以東観、儒林之府。当講校文芸、処定疑難。漢時、皆名学碩儒乃任其職。乞更選英賢。聞之、以卿研精墳典、博覧多聞、可謂、悦礼楽敦詩書者也。当飛翰騁藻、光賛時事、以越、楊、班、張、蔡之畴。怪乃謙光、厚自菲薄、宜勉脩所職、以邁先賢。勿復紛紛。」

出典が華覈伝であることは確かだが、これが何年のことなのか、華覈伝だけでは、判定できない。孫晧伝に、リンクを貼られているような史実も見つからない。

秋七月、使大匠卿薛珝営寝室、号曰清廟。

孫和伝に「宝鼎二年七月使守大匠薛珝、営立寝堂、号曰清廟」とあり、出典である。よく見つけてきたな、という印象。孫晧の事績を整理するとき、父の孫和伝は、本紀に準じるものとして、チェックが必須なのかも知れない。

ここに引いた孫和伝に、連続して本紀のような記述がある。

冬十月、遣守丞相孟仁・太常姚信等備官寮、中軍歩騎二千人以霊輿法駕、東迎神於明陵、引見仁等、親拝送於庭。
十二月、仁奉霊輿法駕至、後主遣中使日夜相継、奉問神霊起居動止。巫言見文帝被服顔色如平生、後主悲泣、悉詔公卿詣闕、賜各有差。使丞相陸凱奉三牲祭於近郊、後主於金城門外露宿、明日望拝於東閣。翌日、拝廟薦祭、欷歔悲感、比至七日三祭、倡伎昼夜娯楽。有司奏、「夫祭不欲数、数則瀆、宜以礼断情」、乃止。

『建康実録』は十月に、孟仁・姚信のことが記されるが、孫和伝では十二月である。単純に「二」字が脱落したのか。

孫和伝:十二月遣守丞相孟仁、太常姚信等、備官僚中軍歩騎二千人、以霊輿法駕、東迎神於明陵。晧、引見仁、親拝送於庭〔一〕。霊輿当至、使丞相陸凱、奉三牲祭於近郊。晧、於金城外、露宿。明日、望拝於東門之外。其翌日、拝廟薦祭、歔欷悲感。比七日三祭、倡技昼夜娯楽。有司奏言「祭不欲数、数則黷、宜以礼断情」然後止。

と思ったら、『建康実録』は十二月のことも記す。

孫和伝 注引『呉書』:比仁還、中使手詔、日夜相継、奉問神霊起居動止。巫覡言見和被服、顔色如平(生)日、晧悲喜涕淚、悉召公卿尚書詣闕門下受賜。

すなわち、孫和伝では、すべて十二月の記事であるが、『建康実録』は、十月に着手して、十二月に祭祀が完了したように、「十月」という情報を足して、儀式の期間を長くしている。
丞相陸凱の行いは、再び孫和伝にもどる。出典は明らかであり、孫和伝と同注引『呉書』を、解体・再構築しているのは分かる。……ように見えるのは、ぼくが今日の『三国志』しか見ていないからで、
陳寿が節略し、裴松之が節略部分をくっつけた、韋昭『呉書』のオリジナルは、許嵩が引くようなものだったのかも知れない。知らない。

十二月、新宮成、周五百丈、署曰昭明宮。開臨硎、彎碕之門、正殷曰赤烏殿、後主移居之。是歳、分豫章・廬陵・長沙為安成郡。

昭明宮は、この宝鼎二年の冒頭で、建築を始めた宮殿。それが「十二月」に完成したことは、孫晧伝に「冬十二月晧、移居之」とあるから分かる。この段落の、宮殿の描写は、出典が分からない。
なお、安成郡を設けたことは、孫晧伝に「是歳、分豫章、廬陵、長沙、為安成郡」とあり、ママである。孫晧伝は「是の歳」とするが、『建康実録』はこれを省くので、十二月に郡ができたように見えてしまう。

宝鼎三年

三年春二月、以左右御史大夫丁固・孟仁為司徒・司空。
初、固嘗昼夢松生其腹上、謂人曰、「松十八公也、後十八歳、吾其為公乎」。卒如夢焉。

二月、丁固・孟仁が、司空・司徒になった。丁固の予知夢は、同注引『呉書』に。

孫晧伝:三年春二月以左右御史大夫丁固、孟仁、為司徒、司空。
同注引『呉書』:呉書曰、初、固為尚書、夢松樹生其腹上、謂人曰「松字十八公也、後十八歳、吾其為公乎。」卒如夢焉。


秋九月、皓出東関、丁奉至合肥。是歳、遣交州刺吏劉俊・前部督修則等入撃交阯、為晋将毛炅所破、皆死、兵散還合浦。

九月、孫晧が東関に出て、丁奉が合肥にいく。この年、交阯で戦い。

孫晧伝:秋九月晧出東関、丁奉至合肥。是歳、遣交州刺史劉俊、前部督脩則等、入撃交阯。為晋将毛炅等、所破、皆死。兵散、還合浦。

宝鼎三年は、孫晧伝どおりで、とくに負荷情報がない。170706

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『建康実録』孫晧_建衡・鳳皇

建衡元年

建衡元年春正月、立子瑾為太子、及淮南・東平王。
校勘記:及淮南東平王 「淮南」,《吳志·孫皓傳》作「淮陽」。孫皓子未有封淮南王者,當從《吳志》為是。

建衡元年正月、孫瑾を太子とし、淮南・東平王を立てた。校勘記によると、「淮南」は、孫晧伝に従って「淮陽」に改めるべきである。

孫晧伝:建衡元年春正月、立子瑾為太子、及淮陽、東平王。


冬十月、改年、大赦。十一月、左丞相陸凱卒。遣監軍虞汜・威南将軍薛珝・蒼梧太守陶璜由荊州、監軍李勖・督軍徐存従建安海道、皆就合浦撃交阯。

十月、建衡と改元した。十一月、左丞相の陸凱が卒した。虞汜・薛珝・陶璜らが、交阯を攻撃した。孫晧伝のまま。人名・官名にもアレンジがない。許嵩は、交阯に興味がなかったようである。

孫晧伝:冬十月改年、大赦。十一月左丞相陸凱卒。遣監軍虞汜、威南将軍薛珝、蒼梧太守陶璜、由荊州、監軍李勖、督軍徐存、従建安海道。皆就合浦、撃交阯。


建衡二年

二年春、万彧還建業。李勗以建安道不通利、殺導将馮斐、引軍還。三月、天火焼万餘家、死者七百人。

春二月・三月のことは、孫晧伝と同じ。

孫晧伝:二年春、万彧還建業。李勖、以建安道不通利、殺導将馮斐、引軍還。三月天火焼万餘家、死者七百人。


夏四月、左大司馬施績卒。殿中列将何定曰、「少府枉殺馮斐、擅撤軍還」。勗及徐存家属皆伏誅。秋九月、何定将兵五千人上夏口猟。都督孫秀奔晋。是歳、大赦。【原闕】是歳、左夫人張氏薨、
校勘記:是歲分豫章廬陵長沙為安成郡至是歲左夫人張氏薨 各本自「為」字至「是歲」前皆闕。酈校云,丁固夢松事見本巻下文,不應複出,疑甘鈔本出後人臆補。

四月、施績が卒した。殿中列将の何禎が、孫晧伝では「少府の李勖は、馮斐を枉殺した」というが、『建康実録』は「少府が馮斐を枉殺した」と節略する。九月、何定が夏口に遡り、猟をした。都督の孫秀が、晋に奔った。大赦した。

孫晧伝:夏四月左大司馬施績卒。殿中列将何定曰「少府李勖、枉殺馮斐、擅徹軍退還」勖及徐存家属、皆伏誅。秋九月何定、将兵五千人、上夏口、猟。都督孫秀、奔晋。是歳大赦。

孫晧伝から、字数を削っているだけだった。と思ったら、宝鼎三年、安成郡を作ったところから、ここまで、原書が欠けており、校勘者が補ったという。そりゃ、孫晧伝のママになりますね。

この歳、左夫人の張氏が薨じたという。孫奮伝に、この建衡二年、左夫人の王氏が薨じたとある。『三国志集解』孫奮伝によると、妃嬪伝 注引『江表伝』に、左夫人は張布の娘であり、衛尉馮朝の子の馮純の妻となったが、孫晧に奪われたとある。孫奮伝には「王氏」とあるから、姓が一致しない。

後主哀念過甚、留葬苑内、臨哭、数月不出聴事。民間訛言後主已死、章安侯奮当立。時奮母仲姫墓在豫章、豫章太守張俊疑其或然、掃除墳塋。後主聞之、車裂俊、夷三族、誅章安侯及其五子。

孫晧が哀しみすぎて姿を見せず、みなが「孫奮が皇帝になる」と言ったため、孫奮は国を除かれた。

孫奮伝:建衡二年、孫晧左夫人、王氏卒。晧哀念過甚、朝夕哭臨、数月不出。由是、民間或謂、晧死。訛言、奮与上虞侯奉、当有立者。奮母仲姫墓在豫章。豫章太守張俊、疑其或然、掃除墳塋。晧、聞之、車裂俊、夷三族。誅奮及其五子、国除。

孫奮伝の、年表記を採用しつつ、「張布の娘」という妃嬪伝 注引『江表伝』と整合させるため、左夫人の姓が「張」に変更されている。優れた処理と言えよう。

◆孫奮伝

孫奮字「子陽」。魯王霸母弟。太元二年、封斉王、居武昌。少帝即位、大将軍諸葛恪執政、不欲令諸王処江浜兵馬地、徒於豫章。奮不従命、恪為書与奮。奮懼奔南昌、逸游無度。恪誅後、徑下至蕪湖、欲入建業観変。殺傅相、坐廃為庶人、徙章安。太平中、又封章安侯。至是以訛言見殺。
奮字子陽 「子陽」,《吳志·孫奮傳》作「子揚」。

孫奮の字は、校勘記にあるように「子揚」に作るべき。斉王となり、豫章、南昌に徙され、章安に移された。など、巻五十九 孫奮伝のまま。

建衡三年

三年春、後主大挙将家西上。

孫晧が大軍を動かしたことは、孫晧伝の「正月晦」を許嵩が省き、代わりに「西上」を許嵩が補っている。

孫晧伝:三年春正月晦。晧、挙大衆、出華里。晧母及妃妾、皆行。東観令華覈等、固争、乃還。


初、廃帝太平元年冬、刁玄使蜀、還得司馬徽与劉廙論運命暦数事、遂詐増其文以誑国人、曰、「黄旗紫蓋見於東南、終有天下者、荊揚之君乎」。又得魏人、言寿春下童謡曰、「呉天子当西上」。是年、後主聞之、大喜曰、「此天命也」。遂載太后已下六宮嬪妾千餘人、済自牛渚、陸道西上、呼云青蓋入洛陽、以従天命。行至華里、遇大雪、途壊、兵士皆被甲持仗、百人共引一車、寒凍欲死、妃后菜色、兵人不堪、曰、「若遇敵当便倒戈耳」。

孫晧伝 注引『江表伝』によると、「初」に刁玄が蜀に使者となり、司馬徽・劉廙が論じた歴数のことを手に入れてきた。許嵩は、この「初」に、「廃帝の太平元年冬」を補って、『江表伝』に基づいて、神秘を真に受けた孫晧の行動を記す。

孫晧伝 注引『江表伝』:初丹楊刁玄使蜀、得司馬徽与劉廙論運命暦数事。玄詐増其文以誑国人曰「黄旗紫蓋見於東南、終有天下者、荊、揚之君乎。」又得中国降人、言寿春下有童謡曰「呉天子当上」。晧聞之、喜曰「此天命也。」即載其母妻子及後宮数千人、従牛渚陸道西上、云青蓋入洛陽、以順天命。行遇大雪、道塗陥壊、兵士被甲持仗、百人共引一車、寒凍殆死。兵人不堪、皆曰「若遇敵便当倒戈耳」。晧聞之、乃還。

地の文に「西上」を補うのは構わないが、童謡「呉天子当上」を「呉天子当西上」に改めるのは、許嵩の勇み足である。童謡は、その文自体に価値があるのに。

左右進諫、皆不納、東観令華覆固争。後主乃遂追前出軍伐晋無功事、大司馬丁奉斬之。

『江表伝』に寄り道したが、再び孫晧伝が出典。

孫晧伝:晧母及妃妾、皆行。東観令華覈等、固争、乃還。

孫晧は、晋を討伐したいのだが、成果が出ないから、孫晧が丁奉を斬ったという。

丁奉伝:建衡元年、奉復帥衆、治徐塘、因攻晋穀陽。穀陽民知之、引去、奉無所獲。晧怒、斬奉導軍。三年卒。奉、貴而有功、漸以驕矜。或有毀之者、晧追以前出軍事、徙奉家於臨川。

丁奉伝によると、丁奉は戦果がなかったから、建衡元年、丁奉の導軍を斬った。建衡三年の丁奉の死は、孫晧による処刑と読むことはできない。

◆丁奉伝

丁奉字承淵、廬江安豊人。少驍勇、常従征伐、斬将搴旗、曾不退敵。累以功遷冠軍将軍、封都亭侯。廃帝即位、隨諸葛恪拒魏軍於東興、為前鋒、将三千鋭卒先拠要害、便令兵人解甲着胄、魏軍大笑之、不為備。奉乃縦兵撃之、大破魏軍、進滅寇将軍、改封都郷侯。/校勘記:改封都郷侯 丁奉前已封都亭侯,此當云進封,非改封,《吳志·丁奉傳》不誤。

丁奉伝に「孫亮即位、為冠軍将軍、封都亭侯」とあり、官歴はここから書かれる。「会拠等至、魏軍遂潰。遷滅寇将軍、進封都亭侯」とある。校勘記によれうと、『建康実録』は「改めて都郷侯に封ず」とあるが、丁奉伝には「進めて都亭侯に封ず」とあるから、異なる。

又従孫峻征淮南、跨馬提戈、突入其陣、取文欽而帰。景帝立、謀与張布等因臘会殺孫綝、遷大将軍、領徐州牧。後主立、進右大司馬。至是見讒追過、斬之、徙家於臨川。/校勘記:至是見讒追過斬之 陶札云:「案丁奉未嘗見殺,《實錄》蓋誤解《吳志》斬奉導軍之文。」

「共迎立孫晧、遷右大司馬左軍師」とあり、右大司馬が見える。上で触れたように、丁奉は孫晧に殺されたのではない。丁奉伝の「晧怒、斬奉導軍」と、導軍が処罰されたのを、許嵩が誤読したのである。「晧追以前出軍事、徙奉家於臨川」という結末も、丁奉伝。


丁奉伝は終了して、ふたたび編年体の記事。

冬十月、蒼梧太守陶璜与監軍虞汜大破晋交阯太守楊稷、稷降。因定日南・九真、大赦、分交阯為新昌郡、破扶厳、置武平郡。

陶璜・虞汜が、晋の交阯太守である楊稷を降した。『建康実録』は十月とするが、孫晧伝は月なし。

孫晧伝:是歳、汜、璜、破交阯。禽殺晋所置守将。九真、日南、皆還属〔二〕。大赦。分交阯、為新昌郡。諸将、破扶厳、置武平郡。以武昌督范慎、為太尉。右大司馬丁奉、司空孟仁、卒〔三〕。西苑言、鳳凰集。改明年元。

月の情報を探すと、『晋書』武帝紀 泰始七年にあたる。泰始七年=建衡三年=271年であるから、歳は一致している。しかし、『晋書』だと、楊稷が呉に降るのは、七月である。

『晋書』武帝紀:秋七月癸酉,以車騎將軍賈充為都督秦、涼二州諸軍事。吳將陶璜等圍交趾,太守楊稷與鬱林太守毛炅及日南等三郡降於吳。八月丙戌,……

七月は、賈充が秦・涼州に任命された時期と思われるが、記述順に拠れば、七月と八月のあいだにある。少なくとも『晋書』は、呉への降伏が七月と考えていた。楊稷の降伏により(という因果関係を許嵩が補って)交州の諸郡が呉に帰属し、再編成された。

十一月、鳳皇集西苑、大赦、改明年為鳳皇元年。

孫晧伝は、月を記さずに、鳳皇が集ったという。しかし『建康実録』は「十一月」という情報が多い。

鳳皇元年

秋八月、左丞相万彧以泄禁中語、因会飲毒、不死、自殺。是月、西陵督歩闡反、降晋。

『建康実録』によると、八月、万彧が服毒・自殺した。孫晧伝は、万彧の死を「是歳」とするが、『建康実録』は「八月」と特定する。どこからか、月の情報を得ていた証拠である。

孫晧伝:鳳皇元年秋八月、徴西陵督歩闡。闡、不応、拠城降晋。遣楽郷都督陸抗、囲取闡、闡衆悉降。闡及同計数十人、皆夷三族。大赦。是歳、右丞相万彧、被譴、憂死。徙其子弟、於廬陵〔一〕。何定、姦穢発聞、伏誅。晧、以其悪似張布、追改定名、為布〔二〕。

孫晧伝 注引『江表伝』には、孫晧が華里にいったとき、丁奉・留平と密謀したが、バレたので服毒した。死ねないから自殺したという。孫晧が華里にいった月が分かれば、時期が固まりそうだが、孫晧伝にない。

孫晧伝 注引『江表伝』:初晧游華里、彧与丁奉、留平密謀曰「此行不急、若至華里不帰、社稷事重、不得不自還。」此語頗泄。晧聞知、以彧等旧臣、且以計忍而陰銜之。後因会、以毒酒飲彧、伝酒人私減之。又飲留平、平覚之、服他薬以解、得不死。彧自殺。平憂懣、月餘亦死。


八月、『建康実録』は歩闡が反したという。この「八月」は、孫晧伝にある情報。むしろ孫晧伝は、八月に歩闡の反乱を書き、あとで「是歳」のこととして万彧の死を書く。許嵩は意思をもって、歩闡と万彧の記述順を反転させたと考えられる。

◆歩闡伝

闡字仲思、丞相騭次子。以功封西陵亭侯、継業督西陵。至是、後主徴入為繞帳督。闡以累世在西陵、卒見徵命、自以為失職、懼讒、乃不応召、拠城降晋、使兄子璇往洛陽為質。後主遣大将軍陸抗討擒之、夷三族。

『建康実録』は、歩闡を歩隲の次子とする。歩隲伝によると、歩隲の子である歩協の弟として書かれる(つまり「次子」で正しい)。

歩隲伝:子協嗣、統騭所領、加撫軍将軍。協卒、子璣、嗣侯。協弟闡、継業為西陵督、加昭武将軍、封西亭侯。鳳皇元年、召為繞帳督。闡、累世在西陵、卒被徴命、自以失職、又懼有讒禍、於是拠城降晋。遣璣与弟璿、詣洛陽、為任。晋、以闡為都督西陵諸軍事、衛将軍、儀同三司、加侍中、仮節領交州牧、封宜都公。璣、監江陵諸軍事、左将軍、加散騎常侍、領廬陵太守、改封江陵侯。璿、給事中、宣威将軍、封都郷侯。命車騎将軍羊祜、荊州刺史楊肇、往赴救闡。孫晧、使陸抗西行、祜等遁退。抗、陥城、斬闡等。歩氏泯滅。惟璿、紹祀。


鳳皇二年

二年春、宮人賊市百姓物、司市中郎陳声収宮人、縄以法。後主聞之、忿以他事焼鋸断声頭、棄其尸於四望山下。

春に孫晧の愛妾が、市場で百姓の財物を奪い、司市中郎将の陳声が取り締まった。『建康実録』は「賊市」という動詞? で要約する。陳声は、孫晧に殺された。

孫晧伝:二年春三月以陸抗為、大司馬。司徒丁固卒。秋九月、改封淮陽為魯、東平為斉。又、封陳留、章陵等、九王。凡十一王、王給三千兵。大赦。晧愛妾或使人至市、劫奪百姓財物。司市中郎将陳声、素晧幸臣也、恃晧寵遇、繩之以法。妾以愬晧、晧大怒、仮他事焼鋸断声頭、投其身於四望之下。是歳、太尉范慎卒。


陳声のことは分かったけど(笑)孫晧伝は、この歳に、陸抗が大司馬となり、丁固が卒し、封王の改変と給兵、大赦があった。これを、『建康実録』は省いている。
丁固の死を、『建康実録』は翌年三月に置く。『三国志集解』孫晧伝を見たが、とくに丁固の死期についてコメントなし。『建康実録』のほうが、死期が遅く、しかし月の情報が詳しいという点で、魯粛と同じである。

鳳皇三年

三年春、臨海太守奚煕以疑挙兵、断海路、為其部曲所殺、伝首建業、夷三族。

鳳皇三年、臨海太守の奚煕が、孫奮を天子にしようとした。失敗して、夷三族された。孫晧伝の伝える事件を、許嵩が節略している。その一方で、『建康実録』のほうが「春」という情報がおおい。

孫晧伝:三年、会稽妖言、章安侯奮、当為天子。臨海太守奚煕、与会稽太守郭誕書、非論国政。誕、但白煕書、不白妖言、送付建安、作船〔一〕。遣三郡督何植、収煕。煕、発兵自衛、断絶海道。煕部曲殺煕、送首建業、夷三族。

孫晧伝のこの年の記事の冒頭にあるから、とくに考えずに「春」字を追加したのか。

案:《江表傳》:後主左夫人死、思念之、於苑中作大塚葬之、使工刻桐人於塚内、以為兵衛、多送珍玩之物、不可勝計。葬後、治喪於内、半年不出。国人見墓大奢、皆謂主已崩、而今立者何氏子也。時後主舅子何都貌似後主、是以百姓有此言、或云章安侯奮当立。故奚煕信訛言、欲還建業。至是年、乃挙兵反。

許嵩の自注が引く『江表伝』は、何姫伝の裴注。孫晧は「使工匠刻柏作木人、内冢中以為兵衛、以金銀珍玩之物送葬、不可称計。已葬之後、晧治喪於内、半年不出」と執着して、孫晧は半年の喪に服した。この孫晧の不在期間に、孫奮が立つと噂され、ゆえに奚煕が孫奮を担いだのであると。
出典の明記があるように、『江表伝』のままである。

◆丁固伝

三月、司徒丁固卒。丁固字子賎、会稽山陰人。幼孤、在襁褓中、闞沢見而異之。少居貧、色養、与宗族、同寒暖、虞翻深敬異之。累著位廷尉。景帝時、為右御史大夫。曾夢松生腹上、懼、問左右、或占之曰、「松字十八公、後十八年、当為公」。至是果然。

丁固のことは、巻五十七 虞翻伝 注引『会稽典録』にある。「固在襁褓中、闞沢見而異之」と、字句が一致する。松の夢とその字謎は、孫晧伝 宝鼎三年 注引『呉書』である。宝鼎三年九月、丁固が司徒になったとき、付随するエピソードとして、掲載されている。

ふたたび、編年体の記事にもどる。『建康実録』は、九月に韋昭が下獄されたとあるが、孫晧伝に見えない。

秋九月、尚書僕射高陵侯韋昭以嫌収下獄、獄中因吏上書、陳所著洞紀、自庖犧已下至秦、漢為三巻。又作官訓一巻、辯釈名一巻、冀以此求免。後主覧書、怪其垢汗、大怒、昭懼、因叩頭五百下、両手自縛。右国史華覆率公卿連上表救之、流涕進言曰、「昭学業幽邃、国之良臣、年過七十、乞一介餘年、以成大呉之備典」。後主益怒、曰、「欲書朕過耶」。竟誅之、徙家於零陵

韋曜伝によると、鳳皇二年、韋曜は下獄された。『建康実録』では、鳳皇三年九月と妙に具体的な年月が記されている。

韋曜伝:晧以為、不承用詔命、意不忠尽、遂積前後嫌忿、収曜付獄。是歳鳳皇二年也。曜、因獄吏上辞曰「囚、荷恩見哀、無与為比、曾無芒氂有以上報、孤辱恩寵、自陥極罪。念当灰滅、長棄黄泉、愚情慺慺、窃有所懐、貪令上聞。囚、昔見世間有古暦注、其所紀載既多虚無、在書籍者亦復錯謬。囚、尋按伝記、考合異同、采摭耳目所及、以作洞紀。起自庖犧、至于秦漢、凡為三巻。当起黄武以来、別作一巻、事尚未成。……謹追辞叩頭五百下、両手自搏……曜年已七十、餘数無幾。乞赦其一等之罪、為終身徒、使成書業、永足伝示、垂之百世。謹通進表、叩頭百下」晧不許、遂誅曜。徙其家零陵

ともあれ、許嵩は、韋曜伝を節略し、上疏などを地の文に置き換えるなどして、韋昭の末路を記した。

◆韋昭伝

昭字弘嗣、呉郡雲陽人。少好学、善属文「挙孝廉」、累遷尚書郎、太子中庶子。侍太子和講在東宮、時賓客蔡穎好博弈、太子以為無益、命昭著論言得失、言詞清妙、当世重之。及和廃、転黄門侍郎。少帝立、為太史、修撰呉書、与華覈・薛瑩等参同其事。景帝立、進中書侍郎、領国子祭酒。帝好学、詔令依劉向故事、校定衆書、延入侍講。
校勘記:舉孝廉 據《吳志·韋昭傳》,昭未嘗舉孝廉。

校勘記によると、韋曜伝に見えない孝廉の記事があったり、

後主立、封高陵亭侯、遷尚書僕射、兼中常侍、領左国史。
校勘記:遷尚書僕射兼中常侍領左國史 《吳志·韋昭傳》作「遷中書僕射,職省,為侍中,常領左國史」。陶札云:「案中書僕射蓋吳新置,尋省,許氏以中書僕射之官不經見,遂臆改為尚書僕射。為侍中句絕,許氏誤以常字屬上句,遂臆改為中常侍。」

中書僕射、侍中を、許嵩が圧縮して「中常侍」にしたりと、不備が多い。

時有屡言瑞応、後主問昭、昭曰、「此人家筐篋中物耳」。後主銜之。及欲為父和作本紀、昭執不登帝位、宜為伝、後主怨、猶是漸見嫌責。昭恐、上表自陳衰老、去職、以成所造之書、後主不聴。昭懼成疾、因侍宴、後主竟坐率人以酒七勝為限、若不入口、澆灌取尽。昭素飲不過三勝、時或茶茗代之。及是衰老、見逼憂恐、且酒後又令侍臣折難公卿、嘲弄私短為歓。昭以為外相毀傷、内長尤恨、故但示難問経義言論。後主以為不承用詔命、又嫌前答筐篋之言、積前後事、遂収下獄。死、時年七十三。

瑞応が現れても、韋昭が「此人家筐篋中物耳」と否定的な発言をして、孫晧を不愉快にさせたことは、韋昭伝にある。しかし、享年が七十三歳であったことは、韋昭伝に見えない。

編年体に戻るかと思いきや、使者の派遣を記したのち、すぐに陸抗の死亡記事があるので、列伝のような体裁はつづく。

秋七月、遣使者二十五人、分至州郡、料出亡叛戸口。大司馬・荊州牧陸抗薨。

七月に使者25人を巡検させ、陸抗が卒したのは、孫晧伝どおり。

孫晧伝:秋七月遣使者二十五人、分至州郡、科出亡叛。大司馬陸抗、卒。


◆陸抗伝

抗字幼節、丞相遜嗣子、桓王外孫。年二十、襲封江陵侯、累遷立節中郎将。赤烏中、自完城与諸葛恪換屯、屯柴桑。抗臨去皆更繕完城囲、葺其牆屋、桑果不得妄伐。恪入屯、儼然若新。而恪柴桑故屯、頗有毀壊、深以為慚。
後屡以征伐、功拝領軍大将軍・益州牧、尋遷西陵・楽郷・公安等諸軍事。因陳時宜於後主一十七條、而切言何定弄権、閹宦専政之事。鳳皇初、歩闡以西陵降晋、抗率諸将大破晋軍而梟闡首。修理城囲、東還楽郷、貌無矜色、故得将士歓心。 時晋以羊祜為荊州刺史、与抗鄰境。抗・祜推僑・札之好。抗嘗遣祜酒、飲之不疑。「抗」有疾、祜饋之薬、抗亦推誠服之。於時以為華元・子反復見於今矣。尋加都督大司馬・荊州牧。鳳皇二年、就拝之。明年夏、病、上表勧益兵西陵、「西陵国之西蕃、若有不守、非但失一郡、則荊州非呉有也。如其有虞、当傾国争之」。至秋、遂薨、時年五十一。晏嗣。
校勘記:抗有疾 「抗」原作「拒」,今據甘鈔本、徐鈔本、周鈔本、劉鈔本及《吳志·陸抗傳》注引《晉陽秋》改正。

『建康実録』によると、鳳皇二年、都督大司馬・荊州牧を加えられ、鳳皇二年に拝した。翌年(鳳皇三年)夏、病となって西陵の増兵を唱え、同年秋に51歳で薨じたという。
陸抗伝に、「二年春、就拝大司馬、荊州牧。三年夏、疾病」とあるから、鳳皇二年「春」に大司馬・荊州牧となった。陸抗伝のほうが季節の情報がおおい。翌年夏(鳳皇三年)夏、病気になって、西陵の増兵を唱え、秋に51歳で薨じたのは、『建康実録』と同じ。

案《呉志》:抗生四子:長晏、次景、次機、次云。校勘記:抗生四子長晏次景次機次云 《吳志陸抗傳》及《通鑒》八○皆雲抗五子,為晏、景、玄、機、雲。《實錄》脫抗子玄。

許嵩は、陸抗の子を並べるが、陸玄がモレている。わざわざ補足して、モレてしまうとか、何がしたいのか分からない。

十二月、詔分鬱林為桂林郡。十一月、侍中・太尉範慎薨。
校勘記:十二月詔分鬱林為桂林郡十一月侍中太尉範慎薨 此處文字有誤。據《吳志·孫皓傳》,詔分鬱林為桂林郡在鳳皇三年,範慎卒於二年。即使兩事在一年,亦不得十二月列於十一月之前。

孫晧伝は、年末に「桂林郡を作った」とある。年末にあるから、許嵩は「十二月」と、勝手に判断したと思われる。『資治通鑑』の検討などを通じて理解しましたが、「是歳」とか、年の末尾に置いてある記事は、べつに十二月の出来事として置かれているのではない。

孫晧伝:自改年及是歳、連大疫。分鬱林、為桂林郡。天冊元年呉郡言、掘地得銀、長一尺、広三分、刻上有年月字。於是大赦、改年。

校勘記が言うように、十二月(正確には月が不詳か)桂林郡を置いたという記事のあと、十一月に范慎が死んだとする。月の順序が逆転している。孫晧伝では、鳳皇二年に「是歳、太尉范慎卒」と、范慎の死は、前年である。「是歳」という、月の表記がない文が、迷子になって混入したか。

◆范慎伝

慎字孝敬、広陵人。性多純直、竭忠知己之君、纏綿三益之友、時人貴之。自侍中出為武昌左都督、治軍整斉。後主将遷都、甚憚之、拝太尉。慎恨久為将、老耄請還、軍士恋之、隕涕而別。
案、《範氏家傳》:慎著書二十篇、号曰《矯非》。

范慎伝は、巻五十九 孫登伝 注引『呉録』に見える。出典には「後為侍中、出補武昌左部督、治軍整頓」とあり、「整頓」と「整斉」が異なる。太尉となったのは一致。許嵩が自注にひく『范氏家伝』は、裴松之に見えない。

是歳、大疫。

『建康実録』は、鳳皇三年に大疫があったとする。孫晧伝に「自改年及是歳、連大疫」とあるから、鳳皇元年~三年まで、大疫が続いたのが正解である。許嵩による引用の仕方がザツである。170708

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『建康実録』孫晧_天冊・天璽・天紀

孫晧の年号:元興264(咸煕元),二265(泰始元)、甘露265,二266、宝鼎266,二267,三268,四269,建衡269,二270,三271,四272、鳳皇272,二273,三274,四275、天冊275(咸寧元),二276、天璽276、天紀277,二278,三279,四280。

鳳皇四年=天冊元年

四年春、呉郡上言掘地得銀、長一赤、広二分、上有年月字、因赦、改元天冊元年。

鳳皇四年=天冊元年、呉郡で出土したもは、「広さ」が異なるけど、検証不能。まあ、どちらでもいいのです。

孫晧伝:天冊元年呉郡言、掘地得銀、長一尺、広三分、刻上有年月字。於是大赦、改年。


天璽元年

『建康実録』は、ここから、孫晧伝 天璽元年の記事に対応する。『建康実録』は、上に天冊への改元記事があり、そのまま記述が続く。しかし、天冊二年=天璽元年≒276年なので、年またぎの命じが必要。
許嵩が、天冊と天璽の改元を、混同したと思われる。

呉郡臨平湖自漢末草穢壅塞、長老相伝云、「此湖塞、天下乱。此湖開、天下静」。至是湖忽開通、或云当太平、青蓋入洛

天璽元年、臨平湖で、太平の兆しがあった。『建康実録』に「青蓋入洛」とあるが、ずばりは孫晧伝と一致しない。
孫晧伝 建衡三年 注引『江表伝』に、「即載其母妻子及後宮数千人、従牛渚陸道西上、云青蓋入洛陽、以順天命。行遇大雪、道塗陥壊」とあるが、既出であるし、この話とはちがう。呉帝による天下平定が、この表現で言われていたと確認できるだけ。
孫晧伝の末尾 注引 干宝『晋紀』に、「陸抗之克歩闡、晧意張大、乃使尚広筮并天下、遇同人之頤、対曰「吉。庚子歳、青蓋当入洛陽」故晧不脩其政、而恒有窺上国之志。是歳也実在庚子」とある。ここから文を借りたのか。文中にある「庚子歳」とあるが、呉の降伏の歳であった。

後主以問奉禁都尉陳訓。訓曰、「臣能望気、不能達湖之開塞」。退而謂人曰、「青蓋入洛、将有輿櫬銜璧之事、非吉祥也」。
案、《呉録》:其文東観華核作、其字大篆、未知誰書、或傳是皇象、恐非。在今県南四十里龍山下、其石折為三段、時人呼為段石岡也。

上で青蓋のことの出典が分からなかったが、『晋書』陳訓伝に「青蓋」があった。

『晋書』巻九十五 芸術 陳訓伝:陳訓字道元,歷陽人。少好祕學,天文、算曆、陰陽、占候無不畢綜,尤善風角。孫晧以為奉禁都尉,使其占候。晧政嚴酷,訓知其必敗而不敢言。時錢唐湖開,或言天下當太平,青蓋入洛陽。晧以問訓,訓曰:「臣止能望氣,不能達湖之開塞。」退而告其友曰:「青蓋入洛,將有輿櫬銜璧之事,非吉祥也」尋而吳亡。訓隨例內徙,拜諫議大夫。俄而去職還鄉。

『晋書』と『建康実録』の先後関係というか、参照の関係を抑えねば。

『三国志集解』孫晧伝をみたら、趙一清の説が、『晋書』陳訓伝を引いていた。『続漢書』輿服志によると、青蓋者は皇太子の乗物であり、皇帝のものではない。孫呉が西晋に降伏する兆しであろうかと。ちゃうわい。


又於湖辺得石函、函中有小石、青白色、長四寸、広二寸、刻上作皇帝字、於是又改元為天璽元年。立石刻於巌山、紀呉功徳。

『晋書』陳訓伝をはさんで、しれっと、孫晧伝 天璽元年にもどる。

孫晧伝:天璽元年、呉郡言。臨平湖、自漢末草穢壅塞、今更開通。長老相伝此湖塞、天下乱、此湖開、天下平。又、於湖辺得石函、中有小石、青白色、長四寸、広二寸餘、刻上作皇帝字。於是改年、大赦。

『建康実録』にある「立石刻於巌山」とあるが、出典が不明。国山碑は、孫晧伝に基づき、『建康実録』であとに記述がある。巌山・巖山など、地名としてはヒットするのだが。

秋、旱。会稽太守車浚以民飢、表出倉賑貸、後主怒、以浚樹恩私、遣人就斬之。時東湖太守張詠以不出算緡、亦遣就斬之、同梟首以徇諸郡。

秋に旱があり、会稽太守の車浚が、独断で公庫から振給を行った。孫晧伝では「秋八月」より前なので、夏のこととして記されたと思われる。しかし、旱で民が飢えるのは、期待の収穫が得られない秋なのか? という、許嵩の独自考察と思われる。

孫晧伝:会稽太守車浚湘東太守張詠、不出算緡。就、在所斬之、徇首諸郡〔一〕。秋八月京下督孫楷、降晋。
同注引〔一〕江表伝曰、浚在公清忠、値郡荒、民無資糧、表求振貸。晧謂浚欲樹私恩、遣人梟首。又尚書熊睦見晧酷虐、微有所諫、晧使人以刀環撞殺之、身無完肌。

孫晧伝 注引『江表伝』と、合わせ技の記述である。

中書令の賀邵の死は、孫晧伝に見えない。孫晧伝は、秋八月、孫楷が降伏した記事があり、それは『建康実録』でも下に出てくる。だから『建康実録』としては、秋の七月のこととして扱ったことになる。

◆賀邵伝

中書令賀邵見後主凶暴驕矜、信惑羣邪、政事日弊、乃上表極言而諫、後主深恨、以為謗毀国政嫌之。既而邵忽中悪風、口不能言、求去職。後主疑其託疾、収付酒蔵、考掠千所、邵無一言、後主大怒、焼鋸以截其頭、家属徙於臨海。
邵字興伯、会稽山陰人。以奉公貞正、親近所憚、乃共譖悪於後主、而与楼玄同見殺、時年四十九。

賀邵は、孫晧に批判的であった。病気になって退職した。孫晧は、賀邵の首をノコギリで切ったと。

巻六十五 賀邵伝:晧深恨之。邵、奉公貞正、親近所憚。乃共譖、邵与楼玄謗毀国事、俱被詰責。玄、見送南州。邵、原復職。後、邵中悪風、口不能言、去職。数月、晧疑其託疾、収付酒蔵、掠考千所。邵、卒無一語、竟見殺害。家属、徙臨海。并下詔、誅玄子孫。是歳、天冊元年也。

賀邵伝に、「天冊元年」に殺されたとある。いま『建康実録』は、孫晧伝 天冊二年=天璽元年に基づいて、記事が作られている。1年ズレている。
秋七月と思しき箇所に置かれており、月の情報が多いかと思いきや、そもそも年がズレているから、深読みは無意味か。このように、任意の位置に、ポツンと記事を挿入してしまう、悪いクセを認識しましょう。

八月、京下督孫楷降晋。

孫晧伝 天璽元年に「秋八月京下督孫楷、降晋」とあり、出典。
つぎの符瑞は、孫晧伝でも連続した記述である。

時、鄱陽歴陽県有石山臨水、高一百丈、其上四十丈、有穿輧羅、穿中色黄赤、不与本体相似、俗謂之石印。相伝云、石印封発、天下当太平。下有祠堂、巫言石印神有三郎

孫晧伝 注引『江表伝』:歴陽県有石山臨水、高百丈、其三十丈所、有穿駢羅、穿中色黄赤、不与本体相似、俗相伝謂之石印。又云、石印封発、天下当太平。下有祠屋、巫祝言石印神有三郎
孫晧伝の「鄱陽言、歴陽山石、文理成字」ではなく、孫晧伝 注引『江表伝』のほうから、文の引用が始まる。高さが四十丈と三十丈で違ったり、「土」と「七」が違ったりする。

『三国志集解』孫晧伝によると、宋本は「土」に作る。『建康実録』に同じ。


歴陽県長表言石印文発、後主遣使以太牢祭歴山。巫言、石印三郎言、「天下方太平」。使者作高梯、上省其印文、詐以朱書二十字、云、「楚九州渚、呉九州郡。揚州士、作天子、四世治、太平始」。遂還以奏。後主大喜曰、「吾当為九州都渚乎。従大皇逮朕、四世太平主、非朕復誰」。遣使、以印綬拝石印三郎為王、又刻石銘、襃詠霊徳、以答休祥。

「歴陽」があるので、孫晧伝の「鄱陽言、歴陽山石、文理成字」からの引用が始まったかと思いきや、まだ『江表伝』からの引用が続いている。

孫晧伝 注引『江表伝』つづき:時歴陽長表上言石印発、晧遣使以太牢祭歴山。巫言、石印三郎説「天下方太平」。使者作高梯、上看印文、詐以朱書石作二十字、還以啓晧。晧大喜曰「呉当為九州作都、渚乎。従大皇帝逮孤四世矣、太平之主、非孤復誰。」重遣使、以印綬拝三郎為王、又刻石立銘、褒賛霊徳、以答休祥。

二十字を偽作したが、その二十字は、孫晧伝に見える。

鄱陽言歴陽山石、文理成字、凡二十、云「楚九州渚、呉九州都。揚州士作天子、四世治太平始

それを踏まえて、孫晧が喜ぶ言葉は、『江表伝』に戻る。三郎を王とし、、という対処も、『江表伝』に基づく。

又呉興陽羨山有石室、長十餘丈、在所表為大瑞。後主乃遣兼司空董朝・太常周処等往陽羨県、封禅国山。大赦。改元天紀元年、以協石文。

出典は、孫晧伝の続きである。

孫晧伝:又呉興陽羨山、有空石、長十餘丈、名曰石室、在所表為大瑞。乃遣兼司徒董朝、兼太常周処、至陽羨県、封襌国山。明年改元、大赦、以協石文。

董朝・周処を派遣したことは、孫晧伝。つまり、孫晧伝と『江表伝』をシャッフルして、許嵩なりに整理したのが、この部分であった。『江表伝』と孫晧伝は、もともと矛盾する内容でないこともあってか、等価値に扱われている。片方を採りあげ、片方を省く・変えることは、行われていない。


孫晧伝 天紀元(277)年の「天紀元年夏。夏口督孫慎、出江夏、汝南、焼略居民。初、騶子張俶、多所譖白、累遷為司直中郎将、封侯、甚見寵愛、是歳姦情発聞、伏誅」は、『建康実録』に拾ってもらえず、省かれてしまった。

時期を間違えて、復活するパターンかも知れない。


天紀二年

◆華覈伝

二年夏五月、右国史徐陵亭侯華覈卒。覈字永光、呉郡武進人。起家為上虞尉、以文学召入秘府。数以便宜利害事、進諫愛民省役、後主不納。累遷東観令・領右国史。卒、時年六十。

孫晧伝には、華覈の式の記述がない。華覈伝に「天冊元年、以微譴免、数歳卒」とあるのみ。天冊元年は275年で、『建康実録』の当該年は、天紀二年で277年。華覈の死期は、『三国志』と矛盾はしないが、どこからの情報なのか不明。
『建康実録』はあざなを永光とするが、『三国志』は永先とする。官職は、省略が著しいため、検証しない。華覈の享年が六十というのは、『建康実録』の独自情報。この独自情報を、どのように理解したら良いのか。ただテキストの差異を言うだけでは、研究とは言えない。

秋七月、立成紀・宣威等十一王、王給兵三千人。

孫晧伝は、天紀二年に、「二年秋七月、立成紀、宣威等十一王。王給三千兵、大赦」とある。

孫晧伝 鳳皇二(273)年に「又、封陳留、章陵等、九王。凡十一王、王給三千兵。大赦」とある。給兵は同じだが、似た政策を別の時期に行ったものであろう。許嵩のミスではない。


天紀三年

三年夏四月、合浦部曲将郭馬反、殺広州刺史、自称交・広二州刺史・安南将軍。初有讖云、「呉之敗、兵起南裔、亡呉者公孫也」。後主聞之、自文武職位有姓公孫者、皆徙広州、不令停江浜。
案、後主、大帝孫、亡国之応也。聞馬反、大懼、此天亡也。

夏に郭馬が反した。『建康実録』は「四月」とするが、孫晧伝には季節がない。これも、「夏の最初の記事だから、四月に違いない」という、許嵩の怪しげな憶測が疑われる。

孫晧伝:三年夏、郭馬反。馬、本合浦太守脩允部曲督。馬、自号都督交広二州諸軍事、安南将軍。興、広州刺史。述、南海太守。典、攻蒼梧。族、攻始興。
同注引『漢晋春秋』:先是、呉有説讖著曰「呉之敗、兵起南裔、亡呉者公孫也。」晧聞之、文武職位至于卒伍有姓公孫者、皆徙於広州、不令停江辺。及聞馬反、大懼曰「此天亡也。」


秋七月、以張悌為丞相、領軍師将軍、率牛渚督何禎・滕脩等総戎、自東道縁海向広州、以修為鎮南将軍・仮節・領広州牧、又使徐陵督陶濬等将兵七千会陶璜、自西道向広州、東西倶進、共討郭馬。
校勘記:滕修 「修」原作「循」,滕修見《吳志·孫皓傳》《呂岱傳》注引王隠《交廣記》及《晉書》。「循」與「修」字形相近,易訛耳,今據改。又據《吳志》《通鑒》八○滕修時官執金吾,《實錄》脫。

七月、張悌が丞相となり、郭馬の討伐に向かったとある。

孫晧伝:八月以軍師張悌、為丞相。牛渚都督何植、為司徒。執金吾滕循、為司空、未拝、転鎮南将軍、仮節領広州牧、率万人、従東道、討馬。与族遇于始興、未得前。馬、殺南海太守劉略、逐広州刺史徐旗。晧、又遣徐陵督陶濬、将七千人、従西道。命交州牧陶璜、部伍所領及合浦、鬱林諸郡兵、当与東西軍、共撃馬。

『建康実録』は七月とするが、孫晧伝は八月。うっかりミスとは思えず、違う史料を見ていたとしか思えない。

案、《呉志》:馬本合浦太守修允部曲督、允死後、部曲兵馬当分給。馬等累世旧軍、不楽別離、遂与何興、王族、呉述、殷興等謀反、以拠広州。興攻蒼梧、族破始興也。

郭馬は、もとは合浦太守の脩允の部曲督で、脩允の死後、部曲の兵馬を分給すべきだった。しかし郭馬は長く親しんだ兵馬を返却したくないので、広州に拠って謀反したのである。云々。あ、そう。

八月、建業有鬼目草生工人黄㺃家、依縁棗樹、長丈餘、莖広四寸、厚三分。又有買菜生工人呉平家、高四赤、厚三分、如枇杷形、上円径一赤八寸、下莖広五寸、両辺生葉緑色。東観案図、名鬼目草為芝草、買菜為平慮草、遂以為瑞、封㺃為侍芝郎、平為平慮郎、皆銀印青綬。
校勘記:黃犬苟 《晉書·五行志》中、《宋書·五行志》三作「黃狗」, 犬苟、狗同。然《吳志·孫皓傳》《通鑒》八○作「黃耈」。

『建康実録』は、七月に張悌が広州討伐に向かい、八月に瑞草があったとする。しかし孫晧伝は、いずれも八月の記事とするため、張悌のつぎに、瑞草が連続して置かれる。

孫晧伝:有鬼目菜、生工人黄耈家、依縁棗樹、長丈餘、莖広四寸、厚三分。又有買菜、生工人呉平家、高四尺、厚三分、如枇杷形、上広尺八寸、下莖広五寸、両辺生葉綠色。東観、案図。名鬼目、作芝草。買菜、作平慮草。遂、以耈為侍芝郎、平為平慮郎、皆銀印青綬。


案、《干宝傳》:黄犬苟者呉之土運、承漢後、故初有黄龍之瑞。及其末年、而有鬼目之妖、托黄㺃之家、黄称不改、而貴賎懸殊、即其天道精微之応也。

許嵩が『干宝伝』とやらに基づいて考察を加えている。これは、『宋書』巻三十二 五行三 草妖に基づく。

吳孫晧天紀三年八月,建業有鬼目菜生工黃狗家,依緣棗樹,長丈餘,莖廣四寸,厚三分。又有蕒菜生工吳平家,高四尺,如枇杷形,上圓徑一尺八寸,下莖廣五寸,兩邊生葉緣色。東觀案圖,名鬼目作芝草,蕒菜作平慮。遂以狗為侍芝郎,平為平慮郎,皆銀印青綬。干寶曰:「明年晉平吳,王濬止船,正得平渚,姓名顯然,指事之徵也。黃狗者,吳以土運承漢,故初有黃龍之瑞,及其季年,而有鬼目之妖,託黃狗之家,黃稱不改,而貴賤大殊。天道精微之應也。」

あえて許嵩が、瑞草を「八月」と特定できた理由は、『宋書』五行志と判明した。この『宋書』の本文のなかに、干宝によるコメントが付けられており、それを許嵩が「干宝伝」と引いていると分かる。

冬十月、晋軍来伐、大将軍司馬伷侵涂中、安東将軍王渾・揚州刺史周浚逼牛渚、建威将軍王戎入武昌、平南将軍胡奮入夏口、鎮南将軍杜預過江陵、龍驤将軍・益州刺史王濬、広武将軍唐彬等浮江東下。陶濬等討郭馬、至武昌、聞北軍大挙、止而不進。

冬十月、ついに西晋軍がくる。「十月」は、許嵩が孫晧伝に補っているが、どうせ冬の最初の記事、という程度の根拠であろう。
司馬迪・王渾・周浚・王充・胡奮玄威・杜預・王濬・唐彬らの名前は、孫晧伝からすべて拾える。陶濬らが、郭馬の平定を後回しにしたことも、孫晧伝から。

孫晧伝:冬、晋命鎮東大将軍司馬伷、向涂中。安東将軍王渾、揚州刺史周浚、向牛渚。建威将軍王戎、向武昌。平南将軍胡奮、向夏口。鎮南将軍杜預、向江陵。龍驤将軍王濬、広武将軍唐彬、浮江東下。太尉賈充、為大都督、量宜処要、尽軍勢之中。陶濬、至武昌、聞北軍大出、停駐、不前。


時後主不専政事、躭荒無度、上流征鎮告変、曾未為心、日集公卿、内外淫宴、皆令沈酔。使黄門郎十人、不預酒侍立、為司過之吏。客罷、各奏「其失」、酒後之愆、罔有不挙、並加威刑。采宮女少有不合意者、輙剉殺之。又料取大臣将吏子女十五六者、具名揀閲、揀閲不中、乃許出嫁。
校勘記:客罷各奏其失 《吳志·孫耈傳》《通鑒》八○皆作「宴罷之後,各奏其闕失」。

孫晧の張悌の末期状態は、孫晧伝による。

孫晧伝:初、晧毎宴会羣臣、無不咸令沈酔。置黄門郎十人、特不与酒、侍立終日、為司過之吏。宴罷之後、各奏其闕失、迕視之咎、謬言之愆、罔有不挙。大者即加威刑、小者輒以為罪。後宮数千、而採択無已。又、激水入宮、宮人有不合意者、輒殺流之。

「又料取大臣将吏子女十五六者、具名揀閲、揀閲不中、乃許出嫁」は孫晧伝なく、滕夫人伝 注引『江表伝』に、「晧又使黄門備行州郡、科取将吏家女。其二千石大臣子女、皆当歳歳言名、年十五六一簡閱、簡閱不中、乃得出嫁。後宮千数、而採択無已」とあるのに基づく。

或生剥人面皮、鑿人之目。性酷虐多猜忌、而任幸岑昏憸諛、屠害無日。尚書郎熊睦因諷旨、微有所諫、便使人以刀環撞殺之、身無完肌。

『江表伝』から、ふたたび孫晧伝の続きにもどる。岑昏も、孫晧伝が出典である。

孫晧伝:或剝人之面、或鑿人之眼。岑昬、険諛貴幸、致位九列、好興功役衆所患苦。是以、上下離心、莫為晧尽力。蓋積悪已極、不復堪命故也〔一〕。

孫晧が重用した尚書郎の熊睦は、少し離れた、孫晧伝 天璽元年(当該記事の三年前)注引『江表伝』に「尚書の熊睦」として見える。尚書令ではない。

『江表伝』:浚在公清忠、値郡荒旱、民無資糧、表求振貸。晧謂浚欲樹私恩、遣人梟首。又尚書熊睦見晧酷虐、微有所諫、晧使人以刀環撞殺之、身無完肌。


侍中張友、俊才辯捷、以応答高致、悪其有能、以他事誅之。左右側目、衆情所苦、上下離散。晋軍已至、無不土崩瓦解者。

侍中の張友は、どこから来たのか。探し中。「土崩瓦解」は、孫晧伝 天紀四年に「濬、彬所至、則土崩瓦解、靡有禦者」とある。許嵩なりの要約である。

天紀四年

孫晧伝は、「四年春。立中山、代等、十一王。大赦」とあるが、亡国の政策に興味がないのか、許嵩は省く。

四年春正月、杜預等破荊州、晋軍並進。殿中親近数百人皆一叩頭請曰、「今賊将至、兵不起刃、衆並離心、願坐岑昏以謝天下」。

杜預が荊州を破ったのを「正月」とするが、やはり出典が不明。
殿中の親近する数百人が叩頭したのは、孫晧伝に「三月丙寅。殿中親近数百人、叩頭請晧、殺岑昬。晧、惶憒従之」とあるのが出典。叩頭した人たちのセリフは、同注引 『晋紀』より。出典では、西晋を「北軍」というが、『建康実録』は「賊将」にしている。干宝が晋軍を悪く言うはずがない、と許嵩が考え、直接話法を再現したのだろう。

干宝晋紀曰、晧殿中親近数百人叩頭請晧曰「北軍日近、而兵不挙刃、陛下将如之何。」晧曰「何故。」対曰「坐岑昬。」晧独言「若爾、当以奴謝百姓。」衆因曰「唯。」遂並起収昬。晧駱駅追止、已屠之也。

孫晧伝は、この叩頭を三月丙寅とする。しかし『建康実録』は、この格好の日付ネタを、なぜか省いてしまう。それによる不具合が、次の段で発生する。

後主始惶懼、許之、左右遂争起収昏、殺之。尋遣追、已不及。「戊辰」、陶濬自武昌奔帰、見後主陳、「晋上蜀船小、今得二万精甲、乗大艦拒之、自足破賊」。皓授節鉞。其夜、衆逃散、不能禁。
校勘記:戊辰 天紀四年正月己丑朔,無戊辰日。《吳志·孫皓傳》系於三月,然三月戊子朔,亦無戊辰。《三國志集解》云戊辰是戊戌,為三月十一日。

群臣が岑昏の殺害を願い、孫晧が従ったのは、孫晧伝。

孫晧伝:三月丙寅。殿中親近数百人、叩頭請晧、殺岑昬。晧、惶憒従之〔二〕。戊辰。陶濬、従武昌還、即引見。問水軍消息、対曰「蜀船皆小。今得二万兵、乗大船戦、自足撃之」於是、合衆、授濬節鉞。明日当発、其夜衆悉逃走。

『建康実録』は、つぎに「戊辰」、陶濬が武昌から還ってくる。これは孫晧伝の「戊辰」の日付を踏まえたもの。しかし、『建康実録』は、孫晧伝から「三月」を引用せず、月の区切りがないから、記事のなかでは、まだ正月という扱いになっている。

あとに、同年「二月」の記事があるから、許嵩は、平呉の戦いを、正月と認識していたのだろう。ただのミスなのか。『晋書』などと比べると、なにか言えるのか。

校勘記はこれを批判し、三月戊辰=十一日と特定する。
陶濬が、西晋の水軍を迎撃しようとしたが、兵たちが逃げ去ってしまって失敗したのは、孫晧伝と同じ結末。

是月、晋王渾・周浚攻陥江西屯戍、後主使丞相・軍師将軍張悌、右将軍・副軍師諸葛靚等督丹楊太守沈瑩・護軍将軍孫震帥衆三万渡江、逆之至牛渚。沈瑩謂悌曰、「晋治水軍於蜀久矣、今傾国大挙、万里斉力、如悉益州之衆沿江而下、我上流諸軍、無有戎備。名将皆死、幼騃当任、恐辺江諸城、尽莫能禦。晋之水軍、必至於此。宜蓄衆力、待来一戦。若勝之日、江西自清、上方雖壊、可還取也。今渡江逆戦、勝不可保、若或摧喪、則大事去矣」。

『建康実録』は「この月」というが、文中では正月の扱いになっており、誤りが繰り越されている。本来は、三月に作るべきである。
張悌・諸葛靚らに沈瑩・孫震を督させて、牛渚で迎撃したというのは、孫晧伝 注引『晋紀』・『襄陽記』から拾うことができる。孫晧伝の本文と裴注に目配りをして、許嵩が独自の記述を作ろうとしている。「晋治水軍於蜀久矣……則大事去矣」というセリフは、『襄陽記』が出典である。

悌曰、「呉之将亡、賢愚所知、非今日也。吾恐蜀兵来此、衆心駭懼、不能復整。今宜及可用、決戦力争。若其敗喪、同死社稷、無所復恨。若其剋勝、則此敵奔走、兵勢万倍、便当乗威南上、逆之中道、不憂不破也。若如子計、恐行散尽、相与坐待敵到、君臣倶降、無復一人死難者、不亦辱乎」。

これも、孫晧伝 注引『襄陽記』である。

遂渡江戦、呉軍大敗。諸葛靚与五六百人追走、使過迎悌、悌不肯去、靚自往牽之、謂曰、「夫天下存亡有大数、豈卿一人所知、如何故自取死為」。悌垂「涕」曰、「仲思、今日是我死日也。且我作児童時、便為卿家丞相所抜、常恐不得其死、負名賢知顧。今以身徇社稷、復何遁耶。莫牽曳之如是」。靚流涕放之、去百餘歩、已見為晋軍所殺。
『呉録』曰:「悌少知名、及処大任、希合時趣、将護左右、清論譏之。」【原厥】出也。
校勘記:悌垂涕曰 原作「涕垂悌曰」,今據《吳志·孫皓傳》注引《襄陽記》及《通鑒》八一乙正。校勘記:『呉録』曰 酈校云:「案《吳錄》曰以下當是注文,誤作大字。」

張悌の死にザマは、『襄陽記』のつづき。

二月、王渾・周浚等進屯横江。後主聞悌軍没、甚懼、自選羽林精甲以配沈瑩・孫震等、屯於板橋。

二月、王渾・周浚が横江に屯し、沈瑩・孫震は板橋に屯したという。「二月」というのは怪しいが、出典は、孫晧伝 注引 干宝『晋紀』と思われる。許嵩が、孫晧伝と整合しない「二月」という情報を、どこから拾っていたのか、気になる。
『晋紀』では、板橋を「版橋」に作っていると思われる。

干宝晋紀曰、呉丞相軍師張悌、護軍孫震、丹楊太守沈瑩帥衆三万済江、囲成陽都尉張喬於楊荷橋、衆才七千、閉柵自守、挙白接告降。呉副軍師諸葛靚欲屠之、悌曰「彊敵在前、不宜先事其小。且殺降不祥。」靚曰「此等以救兵未至而力少、故且偽降以緩我、非来伏也。因其無戦心而尽阬之、可以成三軍之気。若舍之而前、必為後患。」悌不従、撫之而進。与討呉護軍張翰、揚州刺史周浚成陳相対。沈瑩領丹楊鋭卒刀楯五千、号曰青巾兵、前後屡陥堅陳、於是以馳淮南軍、三衝不動。退引乱、薛勝、蒋班因其乱而乗之、呉軍以次土崩、将帥不能止、張喬又出其後、大敗呉軍于版橋、獲悌、震、瑩等。


「乙未」、乃自為書与舅何禎責己、曰、「昔大帝以神武之略、奮三千士卒、割拠江南、席巻交・広、開拓洪基、欲祚之万「代」。至朕末徳、嗣守成緒、不能懐安黎元、多為咎□、以遺天命。災暗之変、謂之禎「祥」、
校勘記:乙未 二月戊午朔,無乙未日。三月戊子朔,乙未為初八日。校勘記:欲祚之萬代 「代」,《吳志·孫皓傳》注引《江表傳》作「世」,蓋許嵩避唐諱改。校勘記:謂之禎祥 《實錄》宋本避高宗諱,遇「構」字注以「今上御名」,又避仁宗諱,遇「禎」字注以「御名」,後之翻宋本常以四小圈或雙圈代之。「謂之禎祥」,徐鈔本據《吳志·孫皓傳》注引《江表傳》改作「反謂之祥」。庫本誤補「禎」為「構」。酈校云:「案所避當是『禎』字。」酈說是,今據補。

『建康実録』によると、二月乙未、孫晧が何禎に文書を送る。校勘記によると、三月乙未=八日ではないかと。しかし校勘記は、すでに三月戊辰=十一日の記事があるとしていた。遡ったと考えるしかないのか。ともあれ、「乙未」という日付は、『建康実録』のみに見られるもので、(暦法では二月には収まらないが)、孫晧伝と同裴注には見えない独自情報である。
孫晧が何禎に送った文面は、孫晧伝 注引『江表伝』である。

孫晧伝 裴松之注:江表伝載晧将敗与舅何植書曰「昔大皇帝以神武之略、奮三千之卒……、


致使南蛮逆乱、征討未剋。聞晋大衆、遠来臨江、庶其労瘁、比晨摧退。而張悌不返、喪師過半、朕甚惆悵、於今無聊。得陶濬表云、武昌以西、並復不守。不守者、非糧不足、非城不固、乃兵将背戦耳。兵之背戦、豈怨兵耶。朕之罪也。天文「玄」変於上、万民憤嘆於下、観此事勢、危同累卵、呉祚終訖、何其局哉。天匪亡呉、朕所招也。瞑目黄壤、当復何顔見四帝乎。公其勗勉奇謀、飛筆以聞」。
校勘記:天文玄變於上 「玄」,甘鈔本、徐鈔本及《吳志·孫皓傳》注引《江表傳》作「縣」。

これも、上の段で指摘した、孫晧伝 注引『江表伝』である。そのまま、「当復何顔見四帝乎」という表現が見える。

◆何禎伝

何禎一名植、丹楊句容人、文皇太后弟也。后幼為太子和妃、生後主。及和賜死、嫡妃張氏亦自殺。后曰、「若皆従死、誰当養孤」。遂撫後主及三弟。後主即位、尊為昭献皇后、尋改為文皇太后、称昇平宮。

巻五十 何姫伝にある。

己未、晋龍驤将軍王濬、総蜀兵沿流直指建業、琅琊王司馬伷帥六軍済自三山、遣周浚・張喬等破呉軍於板橋、瑩等皆遇害。後主聞軍相次而敗、惶迫、乃用光禄勲薛瑩・中書令胡冲等計、使太常張夔奉箋並進璽綬於伷、曰、「昔漢氏失統、九州分裂、先人因時際会、略有江南、遂分阻山川、与晋乖隔。今大晋龍興、徳覆四海、闇劣偷安、未喻天命。至於今者、猥煩六軍、衡蓋道路、遠臨江渚、挙国震惶、仮息漏刻、敢縁天朝、含弘光大。謹遣張夔奉所佩印璽委質請命、惟垂信納、恵済元元」。

「己未」の妥当性は、比べる相手が分からないので、検証不能。
晋将の動きは、別に検討が必要。またもや「板橋」が登場する。「昔漢氏失統」のセリフは、孫晧伝にある。

孫晧伝:而王濬、順流将至。司馬伷、王渾、皆臨近境。晧、用光禄勲薛瑩、中書令胡沖等計、分遣使奉書於濬、伷、渾曰「昔、漢室失統、九州皆分裂。先人因時、略有江南、遂分阻山川、与魏乖隔。今、大晋龍興、徳覆四海。闇劣偷安、未喻天命。至于今者、猥煩六軍、衡蓋路次、遠臨江渚。挙国震惶、仮息漏刻。敢縁天朝含夕光大、謹遣私署太常張夔等、奉所佩印綬、委質請命。惟垂信納、以済元元」


『晋書』王濬伝に、「於是順流鼓棹,徑造三山」と「三山」がある。

三月「辛未」、後主遣羣臣書曰、「朕以不徳、忝継先軌。処位積年、政教凶勃、遂令百姓久困塗炭、至使一朝社稷傾覆、宗廟無主、没有餘罪。孤負諸君、事已難図、覆水不可収也」。
校勘記:三月辛未 三月戊子朔,無辛未。疑「辛未」為「辛丑」之誤。

『建康実録』では、三月「辛未」に、孫晧が群臣に文書を出す。校勘記によると、この年の三月には辛未がないから、辛丑ではないかと言う。やはり、比較対象がないので、検証不能。文面は、孫晧伝 注引『江表伝』である。

「壬寅」、王濬舟師先至石頭、後主以草縛、銜璧舁櫬、見浚於軍門。浚解縛焚櫬、以礼相見。
校勘記:壬寅王浚舟師先至石頭 「壬寅」,各本皆作「壬申」。《吳志·孫皓傳》《晉書·武帝紀》亦誤作「壬申」。三月戊子朔,無壬申日。丁國鈞《晉書校文》云:「《晉書·王浚傳》載浚入石頭後上書有『以十五日至秣陵』語,十五日為壬寅,則『申』當為『寅』字之誤。」丁說甚是,《通鑒》八一正作「壬寅」,今據改。

三月壬寅、王濬が石頭に至ったという。校勘記によると、ここは『建康実録』の壬寅が正しい。

『建康実録』が、校勘記に指示されることがあるのか。許嵩が、孫晧伝・『晋書』武帝紀以外を見ていたのか、独自研究(日数カウント)で、整合性を獲得したのか。

孫晧伝・『晋書』武帝紀は、誤って壬辰に作るという。丁国釣『晋書校文』によると、『晋書』王浚伝に、王浚が石頭に入ってから上書して、「十五日で秣陵に至る」とある。十五日たてば「壬寅」となるから、壬寅が正しいと。

孫晧伝:壬申。王濬、最先到。於是、受晧之降、解縛焚櫬、延請相見。

『建康実録』は、正月・二月の配分を誤っていたが、ここで、孫晧伝・『建康実録』は、いずれも文中が三月となり、認識が追いついてきたようである。

「癸亥」、晋琅琊王伷会諸軍入自都城、屯太初宮、収其図籍府庫、総領州郡、戸口人吏、兵糧舟檝、音楽采妓。乙亥、置酒大会、安東将軍王渾酒酣謂呉人曰、「諸君亡国之餘、得無戚乎」。無難督周処曰、「漢末分崩、三国鼎峙。魏滅於前、呉亡於後、亡国之戚、豈惟一人」。渾有慚色。
校勘記:癸亥 三月無癸亥,四月丁巳朔,癸亥為初七日。下文乙亥亦在四月,為十九日。

癸亥、司馬伷が、都城に入って、太初宮に屯した。月の断りがないから、『建康実録』の文中では三月のはずである。しかし、癸亥は、四月七日に当たり、あとに出てくる四月乙亥=十九日とも、日程感が合うようである。校勘記に従うなら、「癸亥」の前に「四月」を補うべきである。
乙亥(四月十九日)、置酒大会して、王渾が呉人をからかったら、周処にやり替えされた。『晋書』巻五十八 周処伝に見える話。しかし、日付は出典が不明。周処伝には、日付の表示がない。

『晋書』周処伝:及吳平,王渾登建鄴宮釃酒,既酣,謂吳人曰:「諸君亡國之餘,得無慼乎?」處對曰:「漢末分崩,三國鼎立,魏滅於前,吳亡於後,亡國之慼,豈惟一人!」渾有慚色。


◆周処伝

周処字子隠、義興陽羨人。父魴、鄱陽太守。処少孤、未弱冠、膂力絶人、好馳騎田猟、不修細行、縦情肆欲、州里患焉。処聞之、慨然有改勵之志、謂父老曰、「今時和歳豊、何苦不楽」。父老曰、「三害未除、何以為楽」。処問之、答曰、「南山白額獣、長橋下蛟、並子為三害」。処曰、「若此吾能除之」。乃入山射殺猛獣、又投水搏蛟、蛟或浮或沈、行数十里、処与之倶、三日三夜、人謂已死、相賀。処殺蛟而返、聞郷相慶、始知人患己甚、乃入呉尋二陸学問。時機不在、見雲具以情告、「欲自修改而年已蹉□、恐将無及」。雲日、「古人貴朝聞夕改、君前途尚遠耳。且患志之不立、何憂名之不彰」。遂勵志。有文思、心存義烈、言必忠信尅己。朞年、州府交辟、仕為東観令。累遷太常、出督無難。

『晋書』周処伝による。校勘記(ここでは引用せず)は、周処が二陸の学問を受けたのを、年代が合わないとする。そうですね。『晋書』周処伝で、すでに誤っており、許嵩がそれを踏襲したことが、指摘されている。

案、《晋書》:呉平後、処入洛、遷広陵太守。〔45〕郡多滯訟、有経三十年不決者、処一朝決遣之。転楚内史、俄拝散騎常侍。処曰:「古人辞大不辞小。」乃先之楚。而郡新経喪乱、新旧雜居、風俗未一、乃敦以教義、又斂骸骨無主者収葬之、然後就徵、遠近称嘆。遷御史中丞、副梁王肜徵斉万年於関西。〔46〕戦没死。撰《默語》三十篇及《風土記》、集《呉書》未成。卒。三子:王巳、靖、札、皆事東晋也。〔47〕
〔45〕廣陵太守 「廣陵」,徐鈔本作「廣平」,《晉書·周處傳》作「廣漢」。〔46〕梁王肜 「肜」,各本皆誤作「彤」,今據《晉書》本傳及《通鑒》八二改正。〔47〕三子王已靖札皆事東晉也 「札」原誤作「礼」,今據《晉書》本傳及《通鑒》九二、九三改正。又勞格《晉書校勘記》云:「碑云四子:靖、王已、札、碩,傳失載,碩名又,以靖為王已弟,皆非也。案《法苑珠林·觀佛部》云,東晉周王已,平西將軍處之第二子,是本傳以王已為長子者誤。」

周処伝について。興味がないので、検討しない。


是歳、建平太守吾彦聞皓不守、以郡降晋。
校勘記:吾彦 原作「呉彦」,今據徐鈔本及《吳志·孫皓傳》注引干寶《晉紀》及《晉書》本傳改正。

建平太守の吾彦(呉彦)は、郡ごと西晋に降った。『晋書』巻五十七 吾彦伝に「及師臨境,緣江諸城皆望風降附,或見攻而拔,唯彥堅守,大眾攻之不能克,乃退舍禮之。吳亡,彥始歸降」とある。西晋の軍が来たら、堅守したけど、呉が滅びたら、やむなく降伏したという。

◆吾彦伝

吾彦字士則、呉郡人。出自寒微、有文才。身長八尺、手格猛獣、膂力絶羣。初為通江吏。時平南将軍薛珝仗節南征、軍容甚盛、彦観之、慨然而嘆。有善相者劉礼謂之曰、「以君相貌、後当至此、不足慕」。少起家為小将、大司馬陸抗奇其勇略、抜用之、患衆情不允、乃会諸将、密使狂人挟刀跳躍而来、坐上諸将懼而奔走、唯彦不動、挙几禦之、衆服其勇、累遷建平太守。
案、《呉録》:王浚将抜呉、造船於蜀、彦覚之、表請増兵為備、皓不従。彦乃析為鐵鎖、断江路。及晋師臨壤、沿江諸城、望風降附、或見攻抜、彦堅守、攻之不下、晋軍退舍礼之。及皓亡始降、武帝拝為金城太守。帝常従容問薛瑩孫皓所亡、瑩曰:「皓為君、暱近小人、刑罰妄加、大臣大将無所親信、人人憂恐、各不自安。敗凶之釁、由此而作。」帝複問彦答曰:「呉王英俊、宰輔賢明。」帝笑曰:「何為亡?」彦曰:「天禄永終、歴数有属、所以為陛下擒、此蓋天時、豈人事也!」張華在坐、謂彦曰:「始為名将、積有歳年、蔑爾無聞、窃所惑矣。」彦曰:「陛下知我、而卿不聞。」帝甚嘉之。位至長秋卿、卒於官。

『晋書』巻五十七 吾彦伝が出典です。

孫呉の滅亡後

平呉のタイムスケジュールは、『晋書』武帝紀との照合も必要。

夏四月、遣使送後主於洛陽、挙家西遷、以武帝太康元年五月丁亥、集於洛陽。甲午、晋帝使詔慰労、封為帰命侯。給衣服車乗、田三十頃、歳給粟五千斛、銭五十万、絹五百匹、綿五百斤。拝太子為中郎将、諸子為王者、並拝郎中。

前段から続いて、四月中に孫晧を洛陽に送り、五月丁亥に洛陽(京邑)に迎えた。孫晧伝は、四月甲申に晋武帝が詔を出すが、『建康実録』は「甲午」に作っている。

孫晧伝:伷以晧致印綬於己、遣使送晧。晧、挙家西遷、以太康元年五月丁亥、集于京邑。四月甲申、詔曰「孫晧、窮迫帰降。前詔、待之以不死。今晧垂至、意猶愍之。其、賜号為帰命侯、進給衣服車乗、田三十頃、歳給穀五千斛、銭五十万、絹五百匹、緜五百斤」晧太子瑾、拝中郎。諸子為王者、拝郎中。

孫晧の太子である孫瑾は、孫晧伝では中郎となり、『建康実録』では中郎将とされる。官職を、許嵩が適当にいじってしまうのは、よくあること。

毎朝会、召後主預之、常指殿謂曰、「朕為此殿以待公久矣」。皓曰、「臣於江南亦作此座相待」。
案、《三十国春秋》:晋王済嘗与武帝棋、時済伸脚在局下、因問皓曰:「聞君生剥人面皮何也?」皓曰:「人臣無礼於其君者、則剥之。」武子大慚、遽縮脚。或侍宴武帝、曰:「聞君善歌、令唱汝歌。」皓応声曰:「昔与汝為鄰、今為汝作臣。勧汝一杯酒、願汝寿千春。」

晋武帝と孫晧の牽制しあったやりとり。

後五年、薨於洛陽、葬河南芒山。滕后自為哀策、文甚酸楚。

孫晧の最後は、孫晧伝にある。

孫晧伝:五年、晧死于洛陽。
同注引 呉録曰、晧以四年十二月死、時年四十二、葬河南県界。

滕夫人(滕皇后)による哀策は、出典どこだろ。少なくとも、巻五十 滕夫人伝には見えなかった。

案、後主年二十二即位、十六年、年三十八為晋所滅、入晋為侯、五年薨、年四十二。子孫相承、三代四帝、起壬寅終於庚子、凡五十九年。七年在武昌、五十二年都建業太初宮。

孫晧は、二十二歳で即位して、十六年後、三十八歳のときに西晋に滅ぼされ、西晋の侯となって五年後、四十二歳で薨じた。年数あってるか、検証が必要。
孫氏は、三代に四帝を輩出した。壬寅の年にはじまり、庚子の年におわり、五十九年間の政権であった。七年間は、武昌を都とし、のこり五十二年間は、建業の太初宮を都とした。

初、大帝黄武年中、魏軍大挙、文帝自至広陵、臨江。朝廷危懼、乃召術人趙達筮之。達布算曰、「呉衰在庚子、今賊無能為」。帝問庚子遠近、曰、「後五十八年」。帝笑曰、「朕憂当身、不及子孫也」。

呉主伝 黄武三年 注引 干宝『晋紀』のエピソード。

干宝晋紀曰、魏文帝之在広陵、呉人大駭、乃臨江為疑城、自石頭至于江乗、車以木楨、衣以葦席、加采飾焉、一夕而成。魏人自江西望、甚憚之、遂退軍。権令趙達算之、曰「曹丕走矣、雖然、呉衰庚子歳。」権曰「幾何。」達屈指而計之、曰「五十八年。」権曰「今日之憂、不暇及遠、此子孫事也。」


案、《呉志》:達、河南人。少好異、用意精密、知東南有王気、可以避難、遂脫身渡江。治九宮一算之術、究其微旨、是以応機立成、対問若神、計飛蝗、射隠伏、無不中効。謂太史丞公孫滕曰:「吾先人得此術、欲図為帝王師、至予三世、不過太史郎。」滕求其法。達曰:「今已亡。」及太祖即位、令達算在位幾年?達曰:「漢高建元十二年、陛下倍之。」帝大喜、後果如其言。

『三国志』巻六十三 趙達伝に基づく。「治九宮一算之術」など、ママである。「高祖建元十二年、陛下倍之」のセリフは、趙達伝 注引『呉書』による。

常謂知星者曰:「我不出戸牖、以知天道。足下昼夜暴露望気、不亦労乎!」帝毎問其法、終不言。及死、聞有書、発棺求之、竟無所得。是時、呉有皇象字休明、〔49〕善書、中国不及。厳武子字子卿、〔50〕善囲棋、時莫与対。宋寿能占夢、十不失一。曹不興善畫、妙動神明、与太祖畫屏風、誤落筆點、因以為蠅、帝以生蠅、挙手彈之。孤城鄭嫗能相人、知吉凶。呉範占風気。劉淳明天官太乙。此八人、世謂之八絶也。
〔49〕皇象 原作「黃象」,庫本、徐鈔本及《吳志·趙達傳》注引《吳錄》皆作「皇象」。皇象為吳善書者,宋王僧虔《能書人名錄》云:「吳人皇象能草書。」梁袁昂《書評》亦云:「皇象書如歌聲繞梁,琴人舍徽。」當作「皇象」為是,今據改。〔50〕嚴武子 《吳志·趙達傳》注引《吳錄》作「嚴武」。

同じく趙達伝に基づく。「皇象字休明」は、趙達伝 注引『呉録』によるカットインであるが、そのままである。「曹不興善画、権使画屏風」とか、「八絶」なども、『呉録』が出典である。

皓在位、天紀末、有窺上国之心、使太卜尚広筮並天下、得同人之頤、対曰、「吉。庚子歳、青蓋入洛」。故皓以克平西北為事、不備其亡、時歳実庚子也。

孫晧伝の末尾 注引 干宝『晋紀』が出典である。

『晋紀』:干宝晋紀曰、王濬治船於蜀、吾彦取其流柹以呈孫晧、曰「晋必有攻呉之計、宜増建平兵。建平不下、終不敢渡江。」晧弗従。陸抗之克歩闡、晧意張大、乃使尚広筮并天下、遇同人之頤、対曰「吉。庚子歳、青蓋当入洛陽。」故晧不脩其政、而恒有窺上国之志。是歳也実在庚子。


永安二年三月、有異童子、年可六七歳、着青衣、来従羣児戯、諸児畏問之、答曰、「我熒惑星、将有告爾曰、『三公鉏、司馬如』」。言訖昇天去、漸遠、若疋練。自後五年蜀亡、六年晋興、至是呉為司馬如滅之。

孫晧伝の末尾 注引『捜神記』が出典である。

捜神記曰、呉以草創之国、信不堅固、辺屯守将、皆質其妻子、名曰保質。童子少年、以類相与嬉遊者、日有十数。永安二年三月、有一異児、長四尺餘、年可六七歳、衣青衣、来従羣児戯、諸児莫之識也。皆問曰「爾誰家小児、今日忽来。」答曰「見爾羣戯楽、故来耳。」詳而視之、眼有光芒、爚爚外射。諸児畏之、重問其故。児乃答曰「爾悪我乎。我非人也、乃熒惑星也。将有以告爾。三公鉏、司馬如。」諸児大驚、或走告大人、大人馳往観之。児曰「舍爾去乎。」竦身而躍、即以化矣。仰面視之、若引一匹練以登天。大人来者、猶及見焉、飄飄漸高、有頃而没。時呉政峻急、莫敢宣也。後五年而蜀亡、六年而晋興、至是而呉滅、司馬如矣。


案呉大帝即王位、黄武元年壬寅至唐至徳元年丙申、合五百三十五年矣。

呉の大帝が王に即位した黄武元年壬寅(222年)から、唐の至徳元年丙申(756年)まで、535年である。なんと、756-222+1=535で、計算が合うのです。終わりよければ、全てよし。いやいや、そんなはずない。170709

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