曹魏 > 『資治通鑑』魏の明帝の景初期を訓読する

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『資治通鑑』景初元年

景初元年春

春正月壬辰、山茌県 黄龍 見(あらは)ると言ふ。
高堂隆 以為へらく、「魏は土徳を得て、故に其の瑞として黄龍 見るなり。宜しく正朔を改め、服色を易へ、神を以て其の政を明らかにし、民の耳目を変ふべし」と。帝 其の議に従ふ。

景初元年夏

三月、詔を下して改元し、是の月を以て孟夏四月と為し、服色は黄を尚び、犧牲は白を用ひ、地正に従ふなり。名を更めて太和歴を景初歴と曰ふ。

五月己巳、帝 洛陽に還る。己丑、大赦す。
六月戊申、京都 地震あり。己亥、尚書令の陳矯を以て司徒と為し、左僕射の衛臻を司空と為す。

有司 奏すらく、武皇帝を以て魏太祖と為し、文皇帝を魏高祖と為し、帝を魏の烈祖と為す。三祖の廟、萬世 不毀とす。
孫盛 論じて曰く、「夫れ謚は表行を以てし、廟は存容を以てす。未だ年に当たること有らずして逆(さかのぼ)りて祖宗を制(さだ)め、未だ終らずして豫め自ら尊顕す。魏の群司 是に於てや正を失ふか」と。

景初元年秋

秋七月丁卯、東郷貞侯の陳矯 卒す。

◆毋丘倹の遼東討伐
公孫淵 数々国中の賓客に対ひて悪言を出す。帝 之を討たんと欲す。荊州刺史たる河東の毋丘倹を以て幽州刺史と為す。
倹 上疏して曰く、「陛下 即位して已来、未だ書す可きこと有らず。呉・蜀 険を恃み、未だ卒(には)かに平らぐ可からず。聊(いささ)か此の方の無用の士を以て、遼東を克定す可し」と。
光禄大夫の衛臻曰く、「倹の陳ぶる所 皆 戦国の細術にして、王者の事に非ざるなり。呉 頻りに歳ごとに兵を称へ、寇して辺境を乱す。而るに猶ほ甲を按じて士を養ひ、未だ果して討つに致らざるは、誠に百姓の疲労を以(おも)ふが故なり。淵は海表に生長し、相ひ承ぐこと三世、外に戎夷を撫し、内に戦射を脩む。而るに倹 偏軍を以て長駆し、朝に至りて夕に巻かんと欲す。其の妄たるを知れり」と。
帝 (衛臻の言を)聴かず。

倹をして諸軍及び鮮卑・烏桓を率ゐて、遼東の南界に屯し、璽書もて淵を征たしむ。淵 前(すす)みて兵を発して反き、倹を遼隧に於いて逆(むか)ふ。会(たまたま) 天は雨ふること十餘日、遼水は大いに漲り、倹 戦へども利あらず。軍を引きて右北平に還る。
淵 因りて自立して燕王と為り、紹漢と改元し、百官を置く。使を遣はして鮮卑に単于璽を仮し、辺民を封拝し、誘ひて鮮卑を呼びて以て北方を侵擾せしむ。

漢の張后 殂す。

九月、冀・兗・徐・豫(州)大水あり。

西平の郭夫人 帝に寵有り。毛后の愛 弛む。帝 後園に游び、曲宴して楽を極む。郭夫人 皇后を延(まね)かんことを請ふも、帝 許さず。因りて左右に禁じて宣(の)ぶことを得ざらしむ。后 之を知る。明日、帝に謂ひて曰く、「昨日 北園に游宴す。楽しきや」と。帝 左右の之を洩すを以て、殺す所 十餘人なり。
庚辰、后に死を賜ひ、然るに猶ほ謚を加へて悼と曰ふ。癸丑、愍陵に葬る。其の弟たる(毛)曾を遷して散騎常侍と為す。

景初元年冬

冬十月、帝 高堂隆の議を用ひ、洛陽の南の委粟山に営して円丘を為る。
詔して曰く、「昔 漢氏の初め、秦の学を滅すの後を承け、残缺を採摭し、以て郊祀を備ふも、四百餘年、廃れて禘礼無し。曹氏の世系 有虞自り出づ。今 皇皇帝天を円丘に祀り、始祖の虞舜を以て配す。皇皇后地を方丘に祭り、舜妃の伊氏(尭の女)を以て配す。皇天の神を南郊に祀り、武帝を以て配す。皇地の祇を北郊に祭り、武宣皇后(卞氏)を以て配す」と。

廬江の主薄たる呂習 密かに人をして兵を呉に請はしめ、門を開きて内応を為さんと欲す。呉主 衛将軍の全琮をして前将軍の朱桓らを督して之に赴かしむ。既に至るに、事 露し、呉軍 還る。

◆諸葛恪の丹陽平定
諸葛恪 丹楊に至るや、書を四部(「四郡」に作り、呉郡・会稽・新都・鄱陽を謂ふ。或いは、東西南北の都尉を謂ふ)の属城の長吏に移し、各々其の疆界を保ちて、部伍を明立せしむ。其に平民を従化し、悉く屯居せしむ。乃ち諸将を内(い)れ、兵を幽阻に羅し、但だ藩籬を繕はしむ。
与に鋒を交へず、其の穀稼 将に熟せんとするを俟(ま)ちて、輒ち兵を縦(ほしいまま)にして芟刈し、遺種無からしむ。旧穀 既に尽き、新穀 収めず。平民 屯居し、略ぼ入る所無し。是に於いて山民 饑窮し、漸く出でて降首す。
恪 乃ち復た下に敕して曰く、「山民 悪を去りて従化す。皆 当に撫慰すべし。徙して外県に出し、嫌疑するを得ざらしめば、拘執する所有らんや」と。

臼陽長の胡伉 降民たる周遺を得たり。(周)遺 旧(もと)は民を悪み、困迫して暫くして出づ。伉 縛りて言府(「諸府」に作るべきか)に送る。恪は(胡)伉の教へに違ふを以て、遂に斬りて以て徇ふ。民 伉の人を執ふことに坐して戮せらるを聞き、官は惟だ之を出さんと欲するのみと知る。是に於いて老幼 相ひ攜(たづさ)へて出づ。歳期の人数、皆 本規が如し。
恪 自ら萬人を領し、餘は分けて諸将に給す。呉主 其の功を嘉し、恪に威北将軍を拝し、都郷侯に封じ、徙して廬江の皖口に屯せしむ。

明帝の建設事業

是の歳、長安の鐘虡・橐佗・銅人・承露盤を洛陽に徙す。
盤は折れ、声は数十里に聞こゆ。銅人は重く、致す可からず、霸城に留む。大いに銅を発して銅人二を鋳し、号して翁仲と曰ひ、司馬門外に列坐せしむ。又 黄龍・鳳皇の各々一を鋳す。龍は高さ四丈、鳳は高さ三丈餘ありて、内殿の前に置く。土山を芳林園の西北の陬(すみ)に起こし、公卿・群僚をして皆 土を負ひ、松・竹・雑木・善草を其の上に樹えしめ、山禽・雑獣を捕えて其の中に致す。

◆董尋の上疏
司徒軍議掾の董尋 上疏して諫めて曰く、「臣 古の直士を聞くに、言を国に尽くし、死亡を避けず。故に周昌は高祖を桀・紂に比し、劉輔は趙后を人婢に譬(たと)ふ。天 忠直に生まれ、白刃・沸湯と雖も、往きて顧みざるは、誠に時主の為に天下を愛惜すればなり。
建安以来、野戦して死亡し、或いは門は殫(つ)きて戸は尽き、存する者有ると雖も、遺孤・老弱なり。若し今 宮室 狭小にして、当に之を広大とすべしとせば、猶ほ宜しく時に随ひ、農務を妨げざるべし。況んや乃ち無益の物を作るをや。
黄龍・鳳皇・九龍・承露盤、此れ皆 聖明の興さざる所なり。其の功は殿舎に三倍す。陛下 既に群臣を尊び、冠冕を以て顕らかにし、文繡を以て被ひ、華輿を以て載らしむは、小人と異にする所以なり。而るに方(あな)を穿ちて土を挙げしむ。面目は垢黒たり、沾体は塗足たり、衣冠は了鳥たり。国の光を毀ちて以て無益を崇ぶは、甚だ謂(い)はれ非ざるなり。
孔子曰く、『君 臣を使ふに礼を以てし、臣 君に事ふるに忠を以てす』と。忠無く礼無くんば、国 何を以てか立たんか。臣 言 出さば必ず死せんことを知る。而れども臣 自ら牛の一毛に比す。生くるとも既に益無し。死せども亦た何をか損はんや。筆を秉りて流涕し、心にて世に辞す。臣 八子有り。臣 死するの後、陛下を累(わづら)はさん」と。
将に奏せんとし、沐浴して以て命を待つ。帝曰く、「董尋 死を畏れざるか」と。主る者 尋を収めんことを奏せども、詔有りて問ふ勿かれとす。

◆高堂隆の上疏
高堂隆 上疏して曰く、「今の小人、秦・漢の奢靡を説くを好みて以て聖心を蕩(うご)かす。求めて亡国・不度の器を取り、労役・費損ありて以て徳政を傷つく。礼楽の和を興こし、神明の休を保つ所以に非ざるなり」と。帝 聴かず。

隆 又 上書して曰く、「昔 洪水 滔天すること二十二載なるとも、尭・舜の君臣 南面するのみ。今 若(か)の時の急無し。而るに公卿・大夫をして並びに廝徒と共に事役に供せしむ。之を四夷に聞くに、嘉声に非ざるなり。之を竹帛に垂るるに、令名に非ざるなり。
今 呉・蜀の二賊、徒だ白地の小虜、聚邑の寇なるのみに非ず。乃ち僭号して称帝し、与に中国に衡を争はんと欲す。
今 若(も)し人 来りて、『権・禅 並びに徳政を脩め、租賦を軽省し、耆賢を動咨し、礼度を事遵す』と告ぐる有らば、陛下 之を聞き、豈に惕(てき)然とせず、其の此の如きを悪みて、以て卒かに討滅し難しと為し、国の憂ひと為すか。
若(も)し使ひして告ぐる者、『彼の二賊 並びに無道を為し、侈を崇びて度無く、其の士民を役し、其の賦斂を重くし、下は命に堪へず、吁嗟は日々甚だし』と曰はば、陛下 之を聞き、豈に彼の疲敝を幸ひとせず、而して之を取ること難からずとせざるか。
苟も此の如くんば、則ち心を易へて度す可し。事義の数 亦た遠からずや。
亡国の主 自ら亡びずと謂ひ、然る後、亡ぶに至る。賢聖の君 自ら亡ぶと謂ひ、然る後、亡びざるに至る。
今 天下は彫敝し、民は儋石の儲無く、国は終年の蓄無し。外に強敵有り、六軍は辺に暴(さら)され、内に土功を興し、州郡 騒動す。若し寇警有らば、則ち臣 懼るは、版築の士は能く命を虜庭に投ぜざることを。
又、将吏の奉禄、稍く折減せられ、之を昔と方(くら)ぶるに、五分して居一なり。諸々の休を受くる者も又 稟賜を絶たる。輸に応ぜざる者すら今 皆 半を出す。此れ官の入るは兼せて旧より多く、其の出す所は参して昔より少なしと為す。而るに度支・経用は、更に毎に不足し、牛肉の小賦、前後 相ひ継ぐ。
反りて之を推すに、凡そ此の諸費、必ず所在有り。
且つ夫れ禄賜・穀帛は、人主 吏民を恵養して、之が為に命を司る所以なり。若し今 廃すること有れば、是れ其の命を奪ふなり。既に之を得て、又 之を失はば、此れ怨を生むの府とならん」と。
帝 之を覧じ、中書監に謂ひ、令して曰く、「隆が此の奏を観るに、朕をして懼れしむや」と。

◆衛覬の上疏
尚書の衛覬 上疏して曰く、「今 議者は多く耳を悦ばすことを好む。其の政治を言へば、則ち陛下を尭・舜に比す。其の征伐を言へば、則ち二虜を狸鼠に比す。
臣 以為へらく、然らず。四海の内、分けて三と為り、群士 力を陳べ、各々其の主と為る。是 六国の分治と以て異と為すこと無きなり。
当今 千里に煙無く、遺民 困苦す。陛下 意を留むることを善くせず、将 遂に凋敝し、復た振るふ可きこと難し。
武皇帝の時、後宮の食は一肉に過ぎず、衣は錦繡を用ひず、茵蓐は縁飾せず、器物は丹漆無く、用て能く天下を平定し、福を子孫に遺す。此 皆 陛下の覧る所なり。当今の務めは、宜しく君臣の上下、府庫を計校し、入を量りて出を為すとも、猶ほ及ばざるを恐るべし。而るに工役 輟(や)めず、侈靡 日に崇(たか)くば、帑藏 日に竭(つ)きん。
昔 漢武 神仙の道を信じ、当に雲表の露を得て以に玉屑を餐ずべしと謂ひ、故に仙掌を立てて以て高露を承く。陛下 能明たれば、毎に非(ひ)として笑ふ所なり。漢武 露を求むること有りて猶ほ尚ほ非(ひ)とせらる。陛下 露を求むること無くして空(むな)しく之を設く。好に益せずして功夫を糜費(びひ)す。誠に皆 聖慮 宜しく裁制すべき所なり」と。

◆張茂の上書
時に詔有りて士の女の前に已に嫁ぎて吏民の妻と為る者を録奪し、還して以て士に配(めあは)すとも、生口を以て自ら贖(あがな)ふを聴(ゆる)し、又 其の姿首有る者を簡選して之を掖庭に内(い)る。

太子舎人たる沛国の張茂 上書して諫めて曰く、「陛下は、天の子なり。百姓吏民は、亦た陛下の子なり。今 彼を奪ひて以て此に与ふは、亦た以て兄の妻を奪ひて弟の妻とするに異なること無きなり。父母の恩に於いて偏る。又 詔書して生口の年紀・顔色の妻に相当する者を以て自ら代ふるを得(う)と聴す。
故に富める者は、則ち家を傾けて産を尽す。貧める者は、仮を挙げて貰を貸り、貴く生口を買いて、以て其の妻を贖ふ。県官 士に配(めあは)すを以て名と為すも、実は之を掖庭に内れ、其の醜悪なれば乃ち出だして士に与ふ。婦を得る者は未だ必ずしも喜ばず、而るに妻を失ふ者は必ず憂ひ有り。或いは窮し或いは愁ひ、皆 志を得ず。
夫れ君の天下を有ちて萬姓の歓心を得ざる者は、危殆せざるもの鮮(すく)なし。且つ軍師 外に在るもの十萬人を数へ、一日の費 徒だ千金に非ず。天下の賦を挙げて以て此の役を奉ずとも、猶ほ将に給せざらんとす。況んや復た宮庭に非員・無録の女有るをや。椒房の母后の家、賞賜 横(ほしいまま)に与へられ、内外に交引し、其の費 軍に半(なか)ばす。
昔 漢の武帝 地を掘りて海を為り、土を封じて山を為る。是の時 天下 一為るに頼り、敢へて争ふ者莫きのみ。衰乱して自(よ)り以来、四五十載。馬は鞍を捨てず、士は甲を釈かず。強寇 疆に在り、魏室を危ふくせんと図る。
陛下 戦戦業業として、節約を念崇せず。而るに乃ち奢靡 是れ務む。中尚方 玩弄の物を作り、後園に承露の盤を建つ。斯れ誠に耳目の観に快きも、然るに亦た以て寇讎の心を騁せしむに足れり。惜しきかな、尭・舜の節倹を捨て、漢の武帝の侈事を為すは。臣 窃かに陛下の為に取らざるなり」と。帝 聴かず。

『三国志』明帝紀では、張茂の上書は、この景初期でなく、ひとつ前の青龍期の裴松之注に載録されている。


高堂隆の疾 篤く、口占もて上疏して曰く、「曾子に言有りて曰く、『人の将に死せんとするや、其の言や善し』と。臣 寝疾して、増して損ず無き有り。常に奄忽とし、忠款 昭らかならざるを恐る。臣の丹誠、願はくは陛下 少しく省覧を垂れよ。
臣 三代の天下を有(たも)つ観るに、聖賢は相承し、歴数は百載なり。尺土も其の有に非ざる莫く、一民も其の臣に非ざる莫し。
然るに癸・辛の徒、心を縦(ほしいまま)にして欲を極む。皇天 震怒し、宗国 墟と為る。紂 白旗に梟せられ、桀 鳴條に放たる。天子の尊は、湯・武 之を有つ。豈に伊 人に異なるや。皆 明王の冑なり。
黄初の際、天は其の戒を兆す。異類の鳥、燕の巣に育長し、口・爪・胸は赤し。此れ魏室の大異なり。宜しく鷹揚の臣を蕭牆の内に防ぐべし。諸王を選び、国に君とし、兵を典ぜしむ可し。往往に棋跱し、皇畿を鎮撫し、帝室を翼亮せしめよ。
夫れ、皇天に親無くば、惟だ徳のみ是れ輔く。民は徳政を詠はば、則ち期を延ばし暦を過ぐ。下に怨歎有らば、則ち録を輟(や)めて能に授く。此に由りて之を観るに、天下は乃ち天下の天下なり、独り陛下の天下に非ざるなり」と。
帝 手づから詔して深く之を慰労す。未だ幾ばくもせずして卒す。

陳寿の評に曰く、「高堂隆 学業は明を脩め、志は君を匡すに存す。変に因りて戒を陳ぶるは、懇誠より発す。忠なるかな。必ず正朔を改めんとするに至るに及び、魏をして虞(舜)を祖とせしむ。意は其の通ずるを過ぎたると謂ふ所か。

人事考課の改革

帝 深く浮華の士を疾み、吏部尚書の盧毓に詔して曰く、「選び挙ぐるに名有るを取ること莫かれ。名は地に画きて餅を作るが如し。啖(くら)ふ可からざるなり」と。
毓 対へて曰く、「名は、異人を致すを以ては足らず、而れども以て常士を得可し。常士は教を畏れ善を慕ひ、然る後に名有り。当に疾むべき所に非ず。愚臣 既に異人を識るを以て足らず。又 主る者は正に名に循(したが)ひて常を案ずるを以て職と為す。但だ当に其の後を験(ため)すを以て有るべし。古者に、敷奏は言を以てし、明試は功を以てす(尭・舜の治)。今 考績の法 廃れ、而るに毀誉を以て相ひ進退す。故に真偽は渾雑とし、虚実は相蒙とす」と。
帝 其の言を納る。

散騎常侍の劉邵に詔して考課法を作らしむ。卲 都官考課法の七十二條を作り、又 説略の一篇を作る。詔して百官の議に下す。

司隸校尉の崔林曰く、「周官の考課を案ずるに、其の文 備れり。康王自(よ)り以下、遂に以て陵夷す。此れ即ち、考課の法は其の人に存すればなり。漢の季に及び、其の失はるは、豈に佐吏の職 密なざらるに在るや。方今、軍旅 或いは猥(みだ)りに或いは卒(には)かに、増減すること常無く、固(もと)より一とし難し。且つ萬目 張らざれば、其の綱を挙げ、衆毛 整はざれば、其の領を振ふ。
皋陶 虞に仕へ、伊尹 殷に臣たりて、不仁なる者 遠し(『論語』子夏)。若し大臣 能く其の職を任じ、是れ百辟に式(のっと)らば(『詩経』大雅 烝民)、則ち孰ぞ敢へて粛(つつし)まざる。烏(いづく)んぞ考課に在らんか」と。

黄門侍郎の杜恕曰く、「明試は功を以てし、三載にて黜陟す(『尚書』舜典)は、誠に帝王の盛制なり。然るに六代を歴(へ)て考績の法 著れず、七聖を関(つう)じて課試の文 垂れず。臣 誠に以為へらく、其の法は粗く依る可し。其の詳は備挙し難き故なり。語に曰く、『世に乱人有るとも乱法無し』と。若し法をして専ら任ず可からしめば、則ち唐・虞は稷・契の佐を須つ可からず、殷・周は伊・呂の輔を貴ぶこと無し。
今 功を奏考する者は、周・漢の云為を陳べ、京房の本旨を綴る。考課の要を明らかにすと謂ふ可し。揖譲の風を崇ぶを以て、済済の治を興すに於いて、臣 以為へらく未だ善を尽さざるなり。
其れ州郡をして士を考せしめんと欲さば、必ず四科に由り、皆 事効有らば、然る後に察挙し、試みに公府に辟し、親民の長吏と為せ。功次を以て転じて郡守に補し、或いは就いて秩を増し爵を賜ふは、此れ最(すべ)て考課の急務なり。臣 以為へらく便ち当に其の身を顕とし、其の言を用ふべし。
具さに州郡に課するの法を為り、法 具はれば施行し、必信の賞を立て、必行の罰を施せしむべし。
公卿及び内職の大臣に至れば、亦た当に倶に其の職を以て之を考課すべし。古の三公、坐して道を論ず。内職の大臣、言を納れて闕を補ひ、善は紀(しる)さざること無く、過は挙げざること無し。
且つ天下は至大なり、萬機は至衆なり。誠に一明もて能く遍く照らす所に非ず。故に君は元首と為り、臣は股肱と作(な)り、其の一体として相ひ須(ま)ちて成ることは明らかなり。
是を以て古人 廊廟の材と称すは、一木の枝に非ず。帝王の業は、一士の略に非ず。是に由りて之を言はば、焉ぞ大臣有りて職を守り課を辦ずとも、以て雍熙を致す可きや。
誠に使(も)し身を容れて位を保つとも、放退の辜無く、而るに節を尽くして公に在るとも、見疑の勢を抱へれば、公義 脩めずして私議 俗と成る。仲尼 課を為すと雖も、猶ほ能く一才を尽さず。又 況んや世俗の人をや」と。

司空掾たる北地の傅嘏曰く、「夫れ官を建てて職を均しくするは、清く民物を理め、本を立つる所以なり。名に循(したが)ひて実を責め、勵を糾して規を成すは、末を治むる所以なり。本綱 未だ挙げずして末程を造制し、国略 崇(たか)からざるに考課 是れ先とすれば、以て賢愚の分を料り、幽明の理を精(くわ)しくするに足らざるを懼るなり」と。
議 之を久しくするとも決せず、事 竟に行はれず。

臣(司馬)光 曰く……。(省く)

初め、右僕射の衛臻 選挙を典る。中護軍の蒋済 臻に書を遺りて曰く、「漢祖 亡虜(韓信)に遇ひて上将と為し、周武 漁父(呂望)を抜きて太師と為す。布衣の廝養たるとも、王公に登る可し。何ぞ必ず文を守り、試みて後に用ひんか」と。
臻曰く、「然らず。子 牧野を成・康と同じとし、断蛇を文・景に喩へんと欲す。不経の挙を好み、抜奇の津を開く。将た天下をして馳騁して起たしめんとするや」と。

盧毓 人を論じ選挙に及ぶに、皆 性行を先として言才を後とす。黄門郎たる馮翊の李豊 嘗て以て毓に問ふ。
毓曰く、「才は善を為す所以なり。故に大才は大善を成す。小才は小善を成す。今 之を称するに才有りて能く善を為さざるは、是れ才 器とするに中(あた)らざるなり」と。豊 其の言に服す。

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『資治通鑑』景初二年

景初二年春

春正月、帝 司馬懿を長安より召し、兵四萬を将ゐて遼東を討たしむ。
議臣 或いは以為へらく、四萬の兵は多く、役費 供し難しと。
帝曰く、「四千里 征伐す。奇を用ふと云ふと雖も、亦た当に力に任すべし。当に稍く役費を計ふべからず」と。
帝 懿に謂ひて曰く、「公孫淵 何なる計を将(もっ)て以て君を待つや」と。対へて曰く、「淵 城を棄てて豫め走るは、上計なり。遼東に拠りて大軍を拒(ふせ)ぐは、其の次なり。坐して襄平を守るは、此れ禽と成るのみ」と。
帝曰く、「然らば則ち、三者 何れか出でん」と。対へて曰く、「唯だ明智にして能く彼我を審らかに量れば、乃ち豫め割棄する所有らん。此れ既に淵の及ぶ所に非ず。又 今 孤遠に往かば(孤軍もて遠征せば)、支へて久しきこと能はずと謂ひ、必ず先に遼水を拒ぎ、後に襄平を守るなり」と。
帝曰く、「還往 幾日ぞ」と。対へて曰く、「往きて百日、攻めて百日、還りて百日、六十日を以て休息と為す。此の如くんば、一年にて足れり」と。

公孫淵 之を聞き、復た使を遣はして称臣し、救ひを呉に求む。
呉人 其の使を戮せん(張弥・許晏の忿に報いん)と欲す。
羊衜曰く、「不可なり。是に匹夫の怒を肆にすれば、霸王の計を捐つなり。因りて之を厚し、奇兵を遣りて潛かに往きて以て其の成を要すに如かず。若し魏 伐ちて克たざれば、我が軍 遠く赴きて、是に恩 遐夷に結び、義 萬里に形(あらは)る。若し兵 連ねて解かず、首尾 離隔すれば、則ち我 其の傍郡を虜とし、駆略して帰るべし。亦た以て天の罰を致し、曩事を報雪するに足る」と。呉主曰く、「善し」と。
乃ち(呉主は)大いに兵を勒して淵の使に謂ひて曰く、「後問を俟たんことを請ふ。当に簡書に従ふべし。必ず弟と同に休戚せん」と。又 曰く、「司馬懿 向かふ所前無く、深く弟の為に之を憂ふ」と。

帝 護軍将軍の蒋済に問ひて曰く、「孫権 其れ遼東を救ふか」と。
済曰く、「彼 官 備はりて已に固く、利 得可からざるを知る。深く入らば則ち力の及ぶ所に非ず、浅く入らば則ち労ありて獲るもの無し。権 子弟に危に在ると雖も、猶ほ将た動かざる。況んや異域の人の、兼ねて往者の辱あるを以てをや。今 外に此の声を揚ぐる所以は、其の行人を譎き、之を我に疑はしめ、我の克たざれば、其の節を折りて己に事ふるを冀ふのみ。然るに沓渚の間、淵を去ること尚ほ遠し。若し大軍 相ひ守り、事 速やかに決せざれば、則ち権の浅規、或いは得て軽兵もて掩襲す。未だ測る可からざるなり」と。

帝 吏部尚書の盧毓に、「誰をか司徒に為す可きか」と問ふ。毓 処士の管寧を薦む。帝 能く用ひず、更めて其の次を問ふ。対へて曰く、「敦篤至行なるは、則ち太中大夫の韓暨なり。亮直清方なるは、則ち司隸校尉の崔林なり。貞固純粋なるは、則ち太常の常林なり」と。
二月癸卯、韓暨を以て司徒と為す。

◆蜀の立后、太子の教育
漢主 皇后の張氏を立つ。前后の妹なり。王貴人の子たる璿を立てて皇太子と為し、瑤を安定王と為す。

大司農たる河南の孟光 太子の読書及び情性・好尚を秘書郎の郤正に問ふ。
正曰く、「親を奉じて虔恭たりて、夙夜に懈(おこた)ること匪ず。古の世子の風有り。群僚を接待するに、挙動は仁恕より出づ」と。
光曰く、「如し君の道ふ所なれば、皆 家戸 有つ所のみ。吾 今 問ふ所は、其の権略・智調の何如を知らんと欲すなり」と。
正曰く、「世子の道は、志を承ぎ歓を竭(つく)すに在り。既に妄りに施為すること有るを得ず。智調は胸に懐きて蔵し、権略は時に応じて発す。此の有無、焉ぞ豫め知る可きや」と。
光 正を知り宜を慎み、放談を為さず、乃ち曰く、「吾 直言を好み、迴避する所無し。今 天下 未だ定らず。智意 先と為し、智意 自ら然り。力(つと)め強いて致す可からざるなり。儲君の読書、寧ろ当に吾らに効(なら)ひて力めて博識に竭(つく)して、以て訪問を待つべし。博士が如く、探して講試を策して、以て爵位を求めんや。当に其の急に務むべきなり」と。
正 深く光の言を然り為りと謂ふ。正は、倹の孫なり。

呉人 当千の大銭を鋳す。

景初二年夏

夏四月庚子、南郷恭侯の韓暨 卒す。庚戌、大赦す。

六月、司馬懿の軍 遼東に至る。公孫淵 大将軍の卑衍・楊祚をして歩騎数萬を将ゐて遼隧に屯せしめ、塹を囲むこと二十餘里なり。諸将 之を撃たんと欲す。
懿曰く、「賊 壁を堅くする所以は、吾が兵を老(つか)れめんと欲すればなり。今 之を攻むれば、正に其の計に堕つ。且つ賊の大衆 此に在り、其の巣窟 空虚なり。直く襄平を指せば、之を破ること必なり」と。
乃ち多く旗幟を張り、其の南に出でんと欲す。衍ら 鋭を尽くして之に趣く。懿 潜かに水を済り、其の北に出で、直く襄平に趣く。衍ら恐れ、兵を引きて夜に走る。諸軍 進みて首山に至る。淵 復た衍らをして逆へて戦はしむ。懿 撃ち、大いに之を破る。遂に進みて襄平を囲む。

景初二年秋

秋七月、大いに霖雨あり。遼水 暴漲す。船を運びて遼口自り徑ちに城下に至る。雨は月餘 止まず、地を平らぎ水は数尺なり。三軍 恐れ、営を移さんと欲す。懿 軍中に令し、「敢て徙すと言ふ者有れば斬る」と。
都督令史の張静 令を犯し、之を斬る。軍中 乃ち定まる。

賊は水を恃み、樵牧して自若たり。諸将 之を取らんと欲す。懿 皆 聴さず。
司馬の陳珪曰く、「昔 上庸を攻むるに、八部 倶に進み、昼夜 息まず、故に能く一旬の半に、堅城を抜き、孟達を斬る。今者 遠来するも更めて安緩たり。愚 窃かに焉に惑ふ」と。
懿曰く、「孟達の衆は少なく、食は一年を支ふ。将士 達に四倍して糧は月を淹(とど)めず。一月を以て一年を図る。安んぞ速からざる可きや。四を以て一を撃たば、正に半を失はしめば克つ。猶ほ当に之を為すべし。是を以て死傷を計らず、糧を競(あらそ)ふなり。
今 賊は衆く我は寡(すく)なし。賊は饑えて我は飽く。水雨 乃ち爾(かく)たり。功力 設けず、当に之を促すべきと雖も、亦た何ぞ為す所や。
京師を発して自り、賊の攻むるを憂はず、但だ賊の走るを恐るのみ。今 賊の糧 尽くるに垂(なんなん)とするとも囲落 未だ合せず。其の牛馬を掠め、其の樵采を抄る。此れ故に之を駆りて走るなり。
夫れ兵者は詭道なり、善く事変に因る。賊 衆きに憑り雨に恃み、故に饑困すと雖も、未だ束手することを肯ず。当に無能を示して以て之を安んずべし。小利を取りて以て之を驚かすは、非計なり」と。

朝廷 師の雨に遇ふを聞き、咸 兵を罷めんと欲す。帝曰く、「司馬懿 危に臨みて変を制す。淵を禽とすること日を計へて待つ可きなり」と。

雨 霽(は)るるや、懿 乃ち囲を合はせ、土山・地道を作り、櫓を楯(をか)して衝を鉤し、昼夜 之を攻め、矢石 雨の如し。
淵 急を窘(きは)め、糧 尽き、人 相ひ食み、死者 甚だ多し。其の将たる楊祚ら降る。

◆公孫淵の和平交渉
八月、淵 相国の王建・御史大夫の柳甫を使はして、囲を解きて兵を却し、当に君臣 面縛すべしと請ふ。
懿 命じて之を斬り、檄もて淵に告げて曰く、「楚・鄭 国を列するも、而るに鄭伯 猶ほ肉袒して羊を牽きて之を迎ふ。孤は天子の上公なり。而るに建ら、孤の囲みを解きて舎を退けんことを欲す。豈に礼を得たるや。二人 老耄し、言を伝へて指を失ひ、已に相ひ為に之を斬る。若し意 未だ已まざるに有らば、更めて年少にして明決有る者を遣はして来たる可し」と。
淵 復た侍中の衛演を遣はして日を克りて任を送らんことを乞ふ。
懿 演に謂ひて曰く、「軍事の大要は、五有り。能く戦はば当に戦ふべし。能く戦はざれば当に守るべし。能く守らざれば当に走るべし。餘の二事は、但だ降と死有るのみ。汝 面縛を肯ぜず、此に決を為して死に就くなり。任を送るを須たず」と。

壬午、襄平 潰す。淵と子の脩 数百騎を将ひて囲を突いて東南に走り、大兵 之を急撃す。淵の父子を梁水の上に斬る。懿 既に城に入り、其の公卿以下及び兵民七千餘人を誅し、築きて京観を為る。
遼東・帯方・楽浪・玄菟の四郡 皆 平らぐ。

淵の将に反せんとするや、将軍の綸直・賈范ら苦諫し、淵 皆 之を殺す。懿 乃ち直らの墓を封じ、其の遺嗣を顕とす。
淵の叔父たる恭の囚を釈く。中国の人 旧郷に還らんと欲す者は、恣に之を聴す。遂に師を班す。

◆公孫淵の兄の始末
初め、淵の兄たる晃 恭の任子と為りて洛陽に在り。先に淵 未だ反せざる時、数々其の変を陳べ、国家をして淵を討たしめんと欲す。淵 逆を謀るに及び、帝 市斬するに忍びず、獄に就けて之を殺さんと欲す。
廷尉の高柔 上疏して曰く、「臣 窃かに晃の先に数々自ら(魏に)帰し、淵の禍萌を陳ぶるを聞くに、凶族と為ると雖も、心に恕(ゆる)す可きと原(ねが)ふ。
夫れ仲尼 司馬牛の憂を亮らかにし、祁奚 叔向の過を明らかにするは、昔の美義に在り。臣 以為へらく晃は信ありて言有り、宜しく其の死を貸(ゆる)すべし。苟(いやしく)も自ら言無くば、便ち当に市斬すべし。今 進みて其の命を赦さざれば、退きて其の罪を彰らかにせず、囹圄を閉著し、自ら引分せしめ、四方 国を観て、或いは此の挙を疑ふなり」と。
帝 聴さず、竟に使を遣はして金屑を齎(もたら)して晃及び其の妻子に飲ましむ。棺衣を以て賜はり、殯を宅に斂む。

呂壱事件

九月、呉 赤烏と改元す。

呉の歩夫人 卒す。
初め、呉主 討虜将軍と為るとき、呉に在り、呉郡の徐氏を娶る。太子の登 生む所 庶賎なれば、呉主 徐氏をして母として之を養はしむ。徐氏 妒み、故に寵無し。呉主 西のかた徙るに及び、徐氏 留めて呉に処らしむ。而して臨淮の歩夫人 寵は後庭に冠たり。呉主 立てて皇后と為さんと欲す。而れども群臣 徐氏在るを議す。呉主 違に依ること十餘年なり。会 歩氏 卒し、群臣 皇后の印綬を追贈せんことを奏す。徐氏 竟に廃せられ、呉に卒す。

◆呉の呂壱事件
呉主 中書郎の呂壱をして諸々の官府及び州郡の文書を典校せしむ。壱 此に因りて漸く威福を作し、文を深くし詆を巧みにし、無辜を排陥し、大臣を毀短し、纖介なるとも必ず聞こゆ。太子の登 数々諫むとも、呉主 聴かず。群臣 敢えて復た言ふもの莫く、皆 之を畏れて側目す。

壱 誣して、「故の江夏太守の刁嘉 国政を謗訕す」と白す。呉主 怒り、嘉を収め、獄に系ぎて験問す。時に同坐する人 皆 壱を怖畏し、並びに之(謗訕)を聞くと言ふ。
侍中たる北海の是儀 独り聞くこと無しと云ひ、遂に窮詰せらること累日なり。詔旨は転(うた)た厲しく、群臣 之の為に屏息す。
儀曰く、「今 刀鋸 已に臣の頸に在り。臣 何ぞ敢て嘉の為に隠諱し、自ら夷滅を取り、不忠の鬼と為らん。顧みるに聞知を以て、当に本末有るべし」と。
実に拠りて答問す。辞は傾移せず、呉主 遂に之を舎(す)つ。嘉 亦た免るを得。

上大将軍の陸遜・太常の潘濬 壱の国を乱すを憂ひ、毎に之を言ひ、輒ち流涕す。壱 丞相の顧雍の過失を白す。呉主 怒り、雍を詰責す。
黄門侍郎の謝宏 語次して壱に問ひ、「顧公の事 何如」と。壹曰く、「能く佳とせず」と。宏 又 問ふ、「若し此の公 免退せば、誰ぞ当に之に代はるべきか」と。壱 未だ答へず。宏曰く、「得て潘太常、之を得ること無きか」と。壱 良久(しばらく)して曰く、「君の語 之に近きなり」と。宏曰く、「潘太常 常に君に切歯す。但だ道 因る無きのみ。今日 顧公に代はらば、恐らく明日に便ち君を撃たん」と。
壹 大いに懼れ、遂に解きて雍の事を散ず。

潘濬 朝せんことを求め、建業に詣り、辞を尽して極諫せんと欲す。至るや、太子の登 已に数々之を言ひて従はれざるを聞く。濬 乃ち大いに百寮に請ひ、会に因りて手づから刃もて壹を殺し、身を以て之に当り、国の為に患を除かんことを欲す。
壹 密かに聞知し、疾と称して行かず。

西陵督の歩騭 上疏して曰く、「顧雍・陸遜・潘濬、志は誠を竭(つく)すに在り、寝食するとも寧(やす)まず、念じて国を安じて民を利し、久長の計を建てんと欲す。心膂・股肱の社稷の臣と謂ふ可し。宜しく各々委任し、他官をして其の司る所を監せしめず、其の殿最を課せ。此の三臣の思慮 則ち已むに到らざるとも、豈に敢て欺き負(そむ)きて、天(君)となる所か」と。

左将軍の朱拠の部曲 応へて三萬緡を受け、工の王遂 詐りて之を受く。壱 拠の実に取るを疑ひ、主る者(朱拠の郡吏)を考問し、杖下に死せしむ。
拠 其の無辜を哀しみ、棺を厚くして之を斂む。壱 又 拠の吏 拠に為りて隠し、故に其の殯を厚くすと表す。
呉主 数々拠を責問す。拠 以て自明する無く、藉草して罪を待つ。数日して、典軍吏の劉助 覚り、王遂の取る所なりと言ふ。呉主 大いに感悟して曰く、「朱拠すら枉(ま)げらる。況んや吏民をや」と。
乃ち窮めて壱の罪を治め、(劉)助に百萬を賞す。

丞相の雍 廷尉に至りて断獄せられ、壱 囚を以て見る。雍 顔色を和して其の辞状を問ふ。出るに臨み、又 壱に謂ひて曰く、「君の意 得て道(い)ふ所有らんと欲すること無きや」と。壱 叩頭して言ふ無し。
時に尚書郎の懐叙 面詈して壱を辱しむ。雍 叙を責めて曰く、「官に正法有り。何ぞ此に至るか」と。有司 壱の大辟を奏し、或いは以為へらく、「宜しく焚裂を加へ、用て元悪を彰らかにすべし」と。
呉主 以て中書令たる会稽の闞沢を訪ぬ。沢曰く、「盛明の世に、宜しく復た此の刑有るべからず」と。呉主 之に従ふ。

壹 既に誅に伏す。呉主 中書郎の袁礼をして告げて諸々の大将に謝り、因りて時事の当に損益すべき所を問はしむ。
礼 還るや、復た詔有りて諸葛瑾・歩騭・朱然・呂岱らを責めて曰く、「袁礼 還りて云はく、『子瑜・子山・義封・定公(諸葛瑾・歩隲・朱然・呂岱)と相ひ見え、並びに時事の当に先後すべき所有るを以て咨るに、各自 民事を掌らざるを以て、便ち陳ぶる所有るを肯んぜず。悉く之に伯言・承明(陸遜・潘濬)を推す。伯言・承明 (袁)礼を見るや、泣涕して懇惻し、辞旨 辛苦たり。乃ち危怖を懐執し、自安せざるの心有るに至る』と。
之を聞きて悵然とし、深く自ら刻怪す。何となれば、夫れ惟だ聖人のみ能く過行無く、明なる者のみ能く自ら見るのみ。人の挙厝、何ぞ能く悉く中るか。独り当に己に有るべしとして以て衆意を傷拒し、忽ち自覚せず。故に諸君 嫌難有るのみ。爾(しか)らずんば、何に縁りて乃ち此に至るか。
諸君と従事し、少き自り長ずるに至り、髪に二色有り。以謂(おも)へらく、表裡 以て明露たるに足り、公私の分 計りて用て相ひ保つに足る。義は君臣と雖も、恩は猶ほ骨肉がごとし。栄福喜戚、相ひ之を共にす。忠なるは情を匿さず、智あるは計を遺すこと無かれ。事統の是非あり。諸君 豈に得て従容として已むや。同船にて水を済るに、将た誰か与に易はるか。
斉桓 善有れば、管子 未だ嘗て歎かざるなく、過有れば未だ嘗て諫めざるなし。諫めて得ざれば、終に諫めて止めず。今 孤 自省するに桓公の徳無し。而るに諸君の諫諍 未だ口より出でず。仍りて嫌難を執る。此を以て之を言ふに、孤 斉桓より良優たり。未だ諸君 管子より何如たるを知らず」と。

景初二年冬

冬十一月壬午、司空の衛臻を以て司徒と為し、司隸校尉の崔林を司空と為す。
十二月、漢の蒋琬 出でて漢中に屯す。

乙丑、帝 不豫たり。辛巳、郭夫人を立てて皇后と為す。

◆劉放・孫資の台頭
初め、太祖 魏公と為るや、贊令の劉放・参軍事の孫資を以て皆 秘書郎と為す。
文帝 即位するや、更めて命じて秘書を中書と曰ひ、放を以て(秘書)監と為し、資を(秘書)令と為し、遂に機密を掌らしむ。
帝 即位するや、尤も寵任せられ、皆 侍中・光禄大夫を加へ、本県の侯に封ず。是の時、帝は親ら萬機を覧じ、数々軍旅を興す。腹心の任、皆 二人 之を管す。毎(つね)に大事有らば、朝臣 会して議し、常に其の是非を決し、択びて之を行はしむ。

中護軍の蒋済 上疏して曰く、「臣 聞くに、大臣 太(はなは)だ重ければ国は危ふく、左右 太だ親しければ身は蔽(おほ)はるは、古の至戒なり。往者(文帝の時)大臣 事を秉れば、外内に扇動あり。陛下は卓然と自ら萬機を覧ずれば、祗粛せざる莫し。
夫れ、大臣は不忠に非ず。然るに威権 下に在れば、則ち衆心 上を慢(あなど)るは、勢の常なり。
陛下 既に已に之を大臣に察(み)しむ。願はくは之を左右に忘るること無かれ。左右の忠正・遠慮、未だ必ずしも大臣より賢ならざるとも、便辟して取合するに至れば、或いは能く之を工(たくみ)にす。
今 外に言ふ所は、輒ち『中書』を云ふ。恭慎にして、敢て外に交らざらしむと雖も、但だ此の名有れば、猶ほ世俗を惑す。況んや実に事要を握り、日々に目前に在るをや。
儻(も)し疲倦の間に因り、割制する所有れば、衆臣 其の能く事を推移するを見て、即ち亦た時に因りて之に向く。一たび此の端有れば、私かに朋援を招く。臧否と毀誉、必ず興る所有り。功負と賞罰、必ず易(あなど)る所有り。道を直(ただ)して上る者は或いは壅(ふさ)がれ、左右に曲附する者は反りて達す。微に因りて入り、形に縁りて出づれば、意の狎信する所にして、復た猜覚せず。此れ宜しく聖智の当に早く聞く所たるべし。外に以て意を経れば、則ち形際 自ら見る。或いは、朝臣 言の合はずして左右の怨を受くるを畏れ、以て聞に適(ゆ)くこと莫きを恐る。
臣 窃かに陛下の潜神黙思し、公聴並観するを亮らかにす。若し事の未だ理を尽さざり有りて、物の未だ用に周ならざる有らば、将に曲を改めて調を易へ、遠くは黄・唐に功を角(あ)て、近くは武・文の績を昭らかにせよ。豈に近習を牽くのみや。
然して人君 悉く天下の事を任す可からず。必ず当に付くる所有るべし。若し之を一臣に委ぬれば、自ら周公旦の忠・管夷吾の公非ざれば、則ち弄機敗官の敝有らん。当今 柱石の士 少なしと雖も、行は一州を称へ、智は一官を効し、忠信にして命を竭し、各々其の職に奉ずに至る。並せて策(むちう)ちて駆り、聖明の朝をして専吏の名有らしめざる可きなり」と。帝 聴さず。

◆明帝の危篤
寝疾するに及び、深く後事を念じ、乃ち武帝の子たる燕王の宇を以て大将軍と為し、領軍将軍の夏侯献・武衛将軍の曹爽・屯騎校尉の曹肇・驍騎将軍の秦朗らと与に輔政に対せしむ。爽は、真の子なり。肇は、休の子なり。帝 少きとき燕王の宇と善し。故に後事を以て之に属(しょく)す。 劉放・孫資 久しく機任を典じ、献・肇 心内は平らかならず。殿中に鶏有りて樹に棲む。二人 相ひ謂ひて曰く、「此れ亦た久し、其れ能く復た幾ばくぞ」と。放・資 後害有るを懼れ、陰かに之を間(へだ)てんと図る。
燕王の性は恭良たり、誠を陳べて固辞す。帝 放・資を引きて臥内に入れ、問ひて曰く、「燕王 正に爾れ為るや」と。対へて曰く、「燕王 実は自ら大任に堪へざると知るが故なり」と。帝曰く、「誰をか任ず可き」と。時に惟だ曹爽のみ独り帝の側に在り。放・資 因りて爽を薦め、且つ言はく、「宜しく司馬懿を召して与に相ひ参ずべし」と。帝曰:「爽 其の事に堪ふるや不や」と。爽 汗を流して対ふ能はず。放 其の足を躡み、之に耳(語)して曰く、「臣 死を以て社稷に奉ぜん」と。帝 放・資に従ひて言く、「爽・懿を用ひんと欲す」と。
既にして変ふるに中たり、敕して前命を停む。
放・資 復た入りて見えて帝に説き、帝 又 之に従ふ。放曰く、「宜しく手もて詔を為れ」と。帝曰く、「我 困篤す、能はず」と。放 即ち床に上り、帝の手を執りて強いて之を作り、遂に継いで出で、大言して曰く、「詔有りて燕王の宇らの官を免ず。省中に停まるを得ず」と。皆 流涕して出づ。
甲申、曹爽を以て大将軍と為す。帝 爽の才 弱きを嫌ひ、復た尚書の孫礼を拝して大将軍長史と為し以て之を佐(たす)けしむ。

是の時、司馬懿 汲に在り、帝 給使の辟邪をして手詔を継ぎて之を召さしむ。是より先、燕王 帝の為に計を画し、以為へらく関中の事 重ければ、宜しく懿を遣はして便ち道に軹関自り西のかた長安に還らしめんとし、事 已に施行す。懿 斯須に二詔を得て、前後 相ひ違へば、京師に変有るを疑ひ、乃ち疾駆して入朝す。

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『資治通鑑』景初三年

景初三年春

春正月、懿 至り、入りて見ゆ。
帝 其の手を執りて曰く、「吾 後事を以て君に属(しょく)す。君 曹爽と与に少子を輔(たす)けよ。死は乃ち忍ぶ可し。吾 死を忍びて君を待つ。相ひ見るを得て、復た恨む所無し」と。
乃ち斉・秦二王を召して以て懿に示す。別に斉王の芳を指して懿に謂ひて曰く、「此に是なり。君 諦(つまび)らかに之を視て、誤る勿れ」と。又 斉王をして前(すす)みて懿の頸を抱へしむ。懿 頓首して流涕す。
是の日、斉王を立てて皇太子と為す。帝 尋(つ)いで殂す。

帝 沈毅にして明敏、心に任せて行ひ、功能を料簡し、浮偽を屏絶す。師を行ひて衆を動かさば、論じて大事を決し、謀臣・将相、咸(みな) 帝の大略に服す。性は特に強識にして、左右の小臣と雖も、官簿と性行、名跡の履む所、其の父兄・子弟に及ぶまで、一たび耳目を経れば、終に遺忘せず。

孫盛 論じて曰く「之を長老に聞くに、魏の明帝は天姿 秀出たり。立てば髪は地に垂れ、口は吃にして言は少なく、而れども沈毅にして好く断ず。初め、諸公(文帝の)遺を受けて輔導するも、帝 皆 方任を以て之を処し、政は自ら己より出す。大臣を優礼し、善直を開容し、顔を犯して極諫すと雖も、摧戮する所無し。其の人に君たるの量 此の如きの偉なり。然れども徳を建て風を垂るることを思はず、維城の基を固くせず。大権をして偏拠せしむに至り、社稷は衛無きなり。悲しきかな」と。

景初三年は、この後も記事があるが、明帝紀の崩御後のため、別に行う。180225

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